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宝【たから】 594〜661 (在位;642〜645、655〜661) <天豊財重日足姫尊> 父:茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子) 母:吉備姫王(桜井皇子の女か?) (同母弟)孝徳天皇
622(30才) 聖徳太子没 625(32才) この頃、叔父・田村王(舒明天皇・33才)と再婚するか? 626(33才) 中大兄皇子を生む、蘇我馬子没 628(35才) 推古天皇没(3月) 629(36才) 舒明天皇(37才)即位(1月) 630(37才) 皇后に冊立される(1月12日) 641(48才) 舒明天皇(49才)没(10月) 642(49才) 即位する(1月15日) ....... 飛鳥南淵の河上で雨乞をする(8月)、小墾田宮に移る(12月) 643(50才) 飛鳥板蓋宮に移る(4月)、母・吉備姫王没(9月) ....... 聖徳太子の子・山背大兄王、子弟・妃妾とともに斑鳩寺で自殺(11月) 645(52才) 大化の改新(蘇我入鹿殺害事件)、退位、弟・孝徳天皇(50才)即位 ....... 長男・中大兄皇子(20才)立太子(6月)、娘・間人皇女、皇后に冊立(7月) 653(60才) 皇太子中大兄皇子・皇后間人皇女・大海人皇子と飛鳥河辺の行宮に移る 654(61才) 同母弟・孝徳天皇(59才)没(10月) 655(62才) 飛鳥板蓋宮にて再び即位する〔重祚〕(1月3日) ....... 板蓋宮火災により、飛鳥川原宮に移る 656(63才) 香久山・石上山間に石垣(狂心の渠)を造る、後飛鳥岡本宮を造る ....... 両槻宮・吉野宮を造る 658(65才) 中大兄皇子らとともに牟婁温湯に行幸(10月)、有間皇子の乱(11月) 659(66才) 牟婁温湯より帰京(1月)、吉野・近江比良に行幸(3月) ....... 将軍阿部比羅夫、蝦夷を討つ 660(67才) 阿部比羅夫、粛慎を討つ(3月)、百済の使者、百済滅亡を報せる(9月) ....... 難波宮に移り、準備を整える(12月) 661(68才) 百済復興のため難波を出発(1月) ....... 朝倉橘広庭宮において崩御〔7月24日〕 (娘間人皇女とともに小市岡上陵に葬られる)
諱は宝(たから)。和風諡号を天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇。また明日香川原宮御宇天皇、後岡本宮御宇天皇とも呼ばれます。 初め用明天皇の孫・高向王に嫁ぎ漢皇子生みましたが、のちに田村王(舒明天皇)に嫁し、夫の即位に伴い、舒明天皇二年(630)皇后となりました。天智・天武両天皇と間人皇女を生む。 舒明天皇の崩御後、後を継いで即位。即位理由は蘇我氏の政権への反発を避けるためでしょうか。 この期間では、皇極元年(642)、蘇我大臣の勧めで飛鳥南淵の河上にて雨乞を行い、大雨を降らせて百姓を喜ばせ、「至徳(いきおいまします)天皇」と仰がれたという巫女的な事跡があります。 在位四年、大化の改新の発端である蘇我入鹿殺害事件の直後に退位し、弟・軽皇子(孝徳天皇)に位を譲りました。「皇祖母尊(すめみおやのみこと)」と称される。 しかし10年後、孝徳天皇の崩御を受け、再び即位しました。退位・重祚の初例。 重祚後の業績として、皇宮・板蓋宮炎上後川原宮に移り、さらに岡本宮を復興したほか、別邸である両槻宮・吉野宮の造営など大規模な土木工事を行い、とりわけ香具山の西から石上山に至る溝渠は「狂心の渠(たわぶれごころのみぞ)」と謗られました。また旅行を好み紀温湯・吉野・近江比良に行幸するなど、民心の不満を買うような挙を敢えて行いました。 政治面では皇太子・中大兄皇子と行動を共にして孝徳天皇より政権を奪ったこと、有馬皇子を討って中大兄皇子の地位を固めたこと、外交面では朝鮮半島の三国時代の終焉へと向かう難局にあたって唐・新羅に積極的に対処した点が挙げられます。また、文化面では額田王が宮廷に仕え、天皇の代作歌を多く詠みました。 斉明七年(661)、百済救済のため筑紫に赴き、筑紫の朝倉橘広庭宮において崩御。 天智六年(667)二月、間人皇女とともに小市岡上陵に葬られました。 |
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