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額田部【ぬかたべ】 554〜628(在位;592〜628) <豊御食炊屋姫尊> 父:欽明天皇 母:蘇我 堅塩媛(大臣 蘇我稲目の女) (同母兄)用明天皇・(異母兄弟)敏達天皇・崇峻天皇
570(17才) 祖父・蘇我稲目没(3月) 571(18才) 父欽明天皇没、この年異母兄・敏達天皇(34才)の妃となるか? 572(19才) 敏達天皇即位(4月) 575(22才) 広姫皇后となる(4月)、皇后広姫没(11月) 576(23才) 皇后に冊立される(3月10日)(18才とあるが年齢が合わない) 585(32才) 敏達天皇(48才)没(8月) ....... 同母兄・用明天皇即位(9月) ... ....殯宮に穴穂部皇子が侵入、三輪逆に助けられる(5月)、三輪逆、殺害される 587(34才) 同母兄・用明天皇(48才)没(4月) ... ....蘇我馬子、炊屋姫尊を奉じ、穴穂部皇子らを討つ(6月) ... ....蘇我・物部の戦い(7月)、物部氏滅亡 ... ....炊屋姫尊と群臣の進めにより、崇峻天皇即位(8月) 592(39才) 崇峻天皇暗殺される(11月)、豊浦宮において即位(12月8日) 593(40才) 甥・厩戸皇子(聖徳太子・20才)立太子、摂政となる 603(50才) 小墾田宮に移る(10月)、冠位十二階を制定(12月) 604(51才) 聖徳太子、憲法十七条を作成(4月) 607(54才) 小野妹子を隋に派遣する(7月) 608(55才) 小野妹子、返礼使裴世清を伴い帰国(4月) ... ....小野妹子を再び派遣、学生・僧を同行(9月) 612(59才) 母・堅塩媛を欽明天皇の檜隈陵に改葬する 614(61才) 犬上御田鍬らを隋に派遣する 620(67才) 聖徳太子と蘇我馬子、天皇記・国記を編纂する 622(69才) 聖徳太子(49才)薨去(2月) 626(73才) 大臣蘇我馬子没(5月) 628(75才) 小墾田宮において崩御〔3月7日〕 (磯長山田陵に葬られる)
幼名を額田部皇女という。また和風諡号を豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇といい、炊屋姫尊とも記される。 18才で敏達天皇の妃となり、先后・広姫の死を受けて、23才で皇后となりました。二男五女を生む。32才で寡婦となりました。 蘇我氏と物部氏の戦いの後には、皇太后として詔を発し、崇峻天皇の即位を後押ししました。が、その崇峻天皇が蘇我氏との対立によって暗殺されるという政局不安定に至り、彼女自身が事態収拾のため即位しました。 推古元年(593)、甥・聖徳太子を皇太子とし、摂政に任じた事は有名。聖徳太子と叔父・蘇我大臣馬子を近臣とし、様々な改革を行いました。 主要な業績は、もともと蘇我氏の私的信仰の形であった仏教を公的な国家仏教に押し上げ発展させたこと、外交面では遣隋使を派遣して倭国を国家として承認させたこと、またそのために国内諸制度の整備に尽くし、官人の心構えである憲法十七条、個人を対象とした位階制である冠位十二階を定めるなど、先進文化諸国に並び得る体制を目指したことなどです。 天皇の宮ははじめ豊浦(とゆら)宮でしたが、10年ほどで小墾田(おはりだ)宮に移りました。主要な改革は、この小墾田宮にて行われています。 晩年、政権を担った聖徳太子、ついで蘇我馬子が没しました。皇位継承候補者として、敏達天皇の前皇后広姫の孫・田村王子と、聖徳太子の子山背大兄王が取りざたされましたが、正式に決定せぬまま崩御。 その遺言で、既に先立たれていた長男・竹田皇子の眠る大野岡上に葬られ、のちに磯長山田陵に改葬されました。 容姿端麗であったといわれています。 |
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