【うののさらら】 645〜702(在位;690〜697).<高天原広野姫尊、大倭根子天之広野日女、 菟野・沙羅羅> 父:天智天皇 母:蘇我 遠智娘(右大臣 蘇我倉山田石川麻呂の女)
649(5才) 外祖父・蘇我倉山田石川麻呂、謀反の疑いにより山田寺にて自殺 651(7才) 同母弟・建王誕生 657(13才) 大海人皇子と結婚 658(14才) 同母弟・建王(8才)没 661(17才) 新羅遠征が出立、筑紫に同行する(1月)、祖母・斉明天皇没(7月) 662(18才) 筑紫の娜の大津宮にて、草壁皇子誕生 667(23才) この頃、同母姉・大田皇女没 668(24才) 父・天智天皇(43才)即位(この頃近江大津宮) 671(27才) 大海人皇子出家、ともに吉野に赴く(10月)、父・天智天皇(46才)没(12月) 672(28才) 壬申の乱(6月) 673(29才) 天武天皇即位、皇后に冊立される、飛鳥浄御原宮に移る 680(36才) 皇后の病の為、天武天皇薬師寺を建立、孫・日高皇女(元正天皇)誕生 681(37才) 草壁皇子(20才)立太子(2月) 683(39才) 孫・軽皇子(文武天皇)誕生 686(42才) 天武天皇没(9月)、大津皇子の乱(10月) 689(45才) 皇太子・草壁皇子(28才)没、飛鳥浄御原令の施行 690(46才) 即位(1月)、高市皇子を太政大臣、丹比嶋を右大臣とする(7月) ....... 庚寅年籍の作成を開始(9月) 694(50才) 藤原京遷都(12月) 696(52才) 太政大臣高市皇子没 697(53才) 孫・軽皇子(文武天皇・15才)立太子(2月) ....... 文武天皇に譲位、太上天皇となる(8月) 701(57才) 大宝律令完成(8月)、曾孫・首皇子(聖武天皇)誕生(12月) 702(58才) 崩御〔12月22日〕 (檜隈大内陵に天武天皇と合葬される)
和風諡号は大倭根子天之広野日女(おおやまとねこあまのひろのひめ)、または高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)天皇。藤原宮御宇天皇とも称す。 誕生の年、大化の改新が起こり、蘇我宗家打倒に功あった父・中大兄皇子は皇太子に、祖父・蘇我倉山田石川麻呂は右大臣に就任しました。4年後、石川麻呂は謀反の疑いにより一門とともに自殺。母の遠智娘も、それから程なくして没したようです。 斉明三年(657)、13才のとき、叔父の大海人皇子(天武天皇)と婚礼。同母姉・大田皇女もこの以前に大海人皇子に嫁し、のちに異母妹の大江皇女・新田部皇女も皇子の妃となりました。百済復興の派兵のため宮廷が九州へ移動していた天智元年(662)、筑紫の娜の大津宮にて草壁皇子を生みました。 姉大田皇女の没後は大海人皇子の正妃となり、天智十年(671)、大海人皇子が出家を装って吉野に隠棲した時は草壁皇子とともにこれに同行。程なく天智天皇が崩ずると、翌年大海人皇子は妃・皇子らを従えて東国に走り挙兵(壬申の乱)。天智天皇の長子・大友皇子を討って皇位を獲得しました。 そして翌天武二年(673)、天武天皇が飛鳥浄御原宮にて即位するとともに皇后に立ちました。天武天皇は律令体制を整えて中央集権を推進しましたが、皇后もまた優れた才幹をもってよくこれを助け、功績が大きかったといいます。 天武天皇崩後、しばらく称制(天皇の職務を代行すること)し、皇太子草壁皇子の地位の確保に努めましたが、持統三年(689)の草壁皇子の死没により、翌年自ら即位しました。 即位後の政策も天武天皇時代の路線を踏襲し、中央集権国家の基盤固めに尽力。高市皇子を太政大臣、丹比嶋を右大臣とし、飛鳥浄御原令の施行、庚寅年籍の作成、兵制の整備、藤原京への遷都など、意欲的な政治を行いました。 持統十一年(697)、53才のとき、孫の文武天皇に譲位。初めて太上天皇の称号を用い、文武天皇とともに政治をとりました。 大宝律令の完成と曾孫・首皇子の誕生を見たのち、大宝二年(701)12月、58才で崩御。遺骸は火葬され、天武天皇の檜隈大内陵に追合葬されました。 万葉歌人としても著名。歌風はおおらかで悠然としています。また天皇は旅行を好み、ことに吉野へは三十回以上行幸し、随行した王族諸臣や柿本人麻呂ら宮廷歌人の秀歌を生む機縁を作りました。 |
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