現地発、クロアチア・サッカー報告(25)
遠回りした才能 〜
ドマゴイ・アブラモヴィッチ インタビュー
【写真: ドマゴイ・アブラモヴィッチ。市内のカフェにて】
一人の若者を追って、もう5年になる。ドマゴイ・アブラモヴィッチ、23歳。1999年8月、当時18歳の彼はディナモ・ザグレブ・ユースのエースストライカーとして来日、静岡で開催されたSBSカップで印象的な2ゴールを叩き込んだ。ディナモの応援に行った僕は彼のプレーに惚れ込み、手紙と写真を送る。それに彼は、SBSカップの模様を伝えたディナモの機関紙を送ってきてくれた。以降、僕とドマゴイとの交流が始まった。
ディナモの各ユースカテゴリーでゴールを量産し、17歳でトップ契約、そしてチャンピオンズリーグで公式戦デビュー。国内リーグのデビュー戦ではわずか17分で2ゴール。ディナモで順風満帆なキャリアを築くものと思われたが、チーム内のヒエラルキーと政治的力により活躍の場を奪われた。チバリア・ヴィンコブチへレンタル移籍したものの、不運は重なった。常にレギュラーだったクロアチア・ユース代表からも名前が消え、一人の逸材が埋もれていく現実に僕は悲しんだ。
しかし、ドマゴイは復活した。今季からボスニア・ヘルツェゴビナのプレミエル・リーガ、NKシロキ・ブリイェグへと移籍。水を得た魚のようにプレーを楽しみ、そして結果を残している。シロキ・ブリイェグは優勝をほぼ手中に収め、そして彼自身もリーグ得点王・アシスト王のタイトルに向っているところだ。クロアチアU-23代表にも復帰、3月のボスニア・ヘルツェゴビナ戦ではノヴォセラッツ監督の信頼を勝ち取る決勝点を決めている。
4月18日、シロキ・ブリイェグは昨季の優勝チーム、レオタールとホームで対決、2-0の勝利を収めた。ドマゴイは得点こそ決められなかったものの、90分間溌剌としたプレーをみせてくれた。試合後は一友人として彼の家で世話になり、彼の家族や彼女を交えて多くを語りあった。誠実な人柄は5年前と全く変わりない。
今回のインタビューは試合翌日の4月19日に行ったものである。シロキ・ブリイェグでの今、クロアチアU-23代表への意欲、そしてこれまでのキャリアを語って貰った。遠回りはしたけれども、彼のサッカーへの情熱と才能は今こうして戻って来たのだ。
−NKシロキ・ブリイェグではどうやって適応したかい? クロアチア・リーグ時代と比べると役割的な変化はあるの?
上手く適応できたし、まったく問題が無かったと思うよ。クラブの人達や選手達が快く受け入れてくれたからね。役割は全く同じ。クロアチア・リーグと力的にほとんど差はないけど、敢えて言うならこちらのリーグの方がよりしっかりとプレーしているね。
【写真:レオタール戦でDFと競うアブラモヴィッチ。
アンリを目標とする彼はスピードと得点能力が特徴だ。】
−今はクラブで常にレギュラーとしてプレーしているけど、ここで進歩を感じているかい?
もちろん感じているよ。継続的に試合に出ていれば安定性を得るし、プレーすればするほど調子も保たれるからね。もし出場機会が無かったり、15分や20分しか出てなかったとしたら安定性も調子も失ってしまうもの。まずは練習、そして試合でプレーすることが必要だよ。
−まだリーグは7節残っているけど(4月22日現在)、ボスニア・ヘルツェゴビナのチャンピオンは殆ど確定している。他のクラブと比べて何が良かったの?
チームのクオリティといえるものとして、同じレベルの18人の選手が揃っている。11人だけではなく、ベンチにも良い選手がいるからね。それが我々のストロングポイントだろう。現在は2位のサラエヴォと勝点9の差があり、ホームでそのサラエヴォとの直接対決が残っている。それも大きな優位性だ。99%の確率でチャンピオンとなるだろう。
−君はリーグの得点王(現在14得点、リーグ2位)、またアシスト王(9アシスト、リーグ1位)のタイトルの可能性も大きく残している。それらタイトルへの意欲はある?
もちろん得点王になりたいが、チームの勝利が最重要だ。乱用するつもりはないよ。得点王が結果として伴ったのなら、もっと良いってところだね。
【写真:昨年10月のブルガリア戦でU-23代表に復帰。
これまで常に彼はこのカテゴリーでエースだった。】
−現在の君はクロアチアU-23代表選手で、まもなく欧州選手権(カテゴリー名はU-21)がある。それに関しては?
競争は激しいとはいえ、私の野心はドイツでのU-21欧州選手権に行くことだ。競争相手となる6、7人のフォワードは誰もが良い選手だ。リストに名前が載るよう努力するつもりだよ。
−1年間、代表でプレーしてなかったことはマイナスとなるのか?
ディナモ・ザグレブ、チバリア・ヴィンコヴチ所属の時には問題を抱えており、代表でプレーしてない時期があった。しかし欧州選手権まで代表に残るつもりだよ。これが最後のユースカテゴリーの大会だし、この大会後はいつの日かA代表に入れることを願っているよ。
−エドゥアルド・ダ・シルバ(ディナモ)はクロアチア国籍を取得したし、ダリオ・ザホラ(同じくディナモ)は先のリエカ戦で4ゴールを決めた。セレクションには大きな競争が待ち構えているが、他の選手になくて自分にあるものは何だと思う?
監督がどのようなフォワードを必要とするか次第だよ。それぞれスタイルが違うし、全員が同じタイプのFWではないから。しかし僕は本大会に行けるものと考えている。良いプレーをしているし、多くのゴールを決めているからね。またボスニア・ヘルツェゴビナとの親善試合(3月30日、彼のゴールで1-0の勝利)でも得点を決めたんだ。親善試合を通して誰が本大会へ行けるか、それぞれの調子を見ていくことだろう。マケドニア戦(4月28日)ではプレーする機会があれば得点を取れるよう頑張るつもりだ。
−来年はチャンピオンズリーグ挑戦という機会が控えている。どんな意欲を持っている? もしかしたら今季いっぱいで国外のクラブに移籍するなんてことも?
それについては今は何も言えないよ。シロキとは3年契約を結んでいるからね。もしチームと私を満足させるようなオファーが届いたならば、それに向けて話合いをするだろう。クラブも選手を売ることで生き延びるものと思うからね。もし全く良いオファーが無ければ、チャンピオンズリーグでプレーすることは大きなモチベーションとなるよ。
【写真:17歳の時、オリンピアコス戦で公式戦デビュー】

−ディナモでのキャリアを振り返ると?
私は7歳の時からディナモでプレーを始め、ディナモのユース学校で育った。本当に良い想い出だし、ユース大会では多くのトロフィーを制したものだよ。
−君が17歳の時、トップチームと契約。そしてチャンピオンズリーグのオリンピアコス戦で公式戦デビューを果たしたよね(1998年12月9日)。そのデビューはどう感じた?
10分間プレーしたわけだけど、本当に最高だった。ファンタスティックな気分だったね。クロアチア・ザグレブ(当時のディナモ・ザグレブの名称)は最高のチームだったし、全員が偉大な選手だった。そこで10分という機会を得たことは幸せだよ。もう既にチャンピオンズリーグに出場しているというわけだね!
−1999年夏にはディナモ・ユースの一員として日本でのSBSカップに出場した。日本にはどんな印象を抱いている?
素晴らしかった、本当に我々にとって最高だったよ! 7、8日間ほど日本に滞在し、大会で参加した。新しくて美しいい経験だったよ。ホテルの夕食に出た「甘いシュニッツェル」以外は全てOKだった。その時はホテルで食べずに選手全員でマクドナルドへ逃げたものだよ。米は美味しく、果物も美味しかった。でも「甘いシュニッツェル」はちょっとね...。
非常に暑く、気温37度、湿度90パーセントの状況でプレーしたことを覚えているよ。20分ごとに給水で5分休憩を挟みながら試合を続けたよね。
−2000/2001シーズン、君は開幕試合のチバリア戦で2ゴールを決めた。それなのにチャンスは得られなかった....。
そう、最後の17分間の途中交替出場で2ゴールを決めた。しかしその後は2、3試合で5、6分のプレー機会しか与えられなかった。その時はバラバン、ツビタノヴィッチ、ショコタらもいたから難しかったよ。チームは彼らを国外に売りたくて、出来る限り起用させていたからね。誰かが累積警告欠場だったり、怪我した時しかチャンスは貰えなかったよ。
【写真:国内リーグのデビューとなったチバリア戦でのゴール。
ゴールを決めてもディナモでは不遇な扱いを受けた。】
−そして君はクロアチア・セスベッテへとレンタルで移った。
二部リーグのセスベッテはディナモのユース選手がレンタルで行くチームだった。そこで半年間在籍し、素晴らしいプレーをしたよ。16得点も決めたんだからね。我々は一部昇格を決めたわけだけど、セスベッテは財政的に一部でチーム運営することが出来ずに昇格を諦めたんだ。
−その時にはヘルタ・ベルリンからオファーがあったよね。しかし君はディナモに残ることを決めた。
その時は国外に出るにはまだ早いと思ったんだ。ディナモに残って自分を証明し、名声を挙げることを選んだ。しかし、それからは色んな出来事があって....。今思うと、あの時にヘルタに行っておけば良かったね!
−2001/2002シーズン、ベテランらが去り、ロンチャレヴィッチ(ユース時代の監督)がディナモ監督となった。しかし彼はFWに年下のザホラとクラニチャールを起用した。
ロンチャレヴィッチは僕を右ウィンガーに起用したのさ。僕はそのポジションに馴染めなかった。僕は本来フォワードの選手であるし、右ウィンガーでプレーしたくないと彼に言った。そうしたら我々二人は喧嘩になって、「彼が監督であるチームではプレー出来ない」って言っちゃったんだよ。
−その後はチバリア・ヴィンコヴチにレンタルされたよね。
チバリアが僕を呼んでくれ、最初の半年は素晴らしかったよ。一部残留も果たしたし、プレー機会もあったからね。そしてレンタルからディナモに帰ってきたら、チーロ(ミロスラフ・ブラジェヴィッチ)が監督としてやってきた。最初はキャンプに召集されると言われていたのに、最後には僕の名前がリストに名前が無かった。(※
副会長ズドラヴコ・マミッチが自分の代理人会社の支配下にある選手を優先したため。アブラモヴィッチはマミッチとの代理人契約を拒否。その後もマミッチの圧力は様々な形でアブラモヴィッチに降り掛かっている)
その時にチバリアが引き続きレンタルでチームに残るよう呼んでくれたけど、既にチバリアはキャンプを終わらせていて、チームも出来上がってしまってね。僕は開幕10日前にチームに合流したため、コンデションも出来上がらなかった。辛かったし、1年間のプレー機会も減ったよ。最初の5試合はベンチにも座れず、特別プログラムをこなしていた。その後は良くなり、決勝リーグの最初の4試合では3得点という活躍を見せた。しかし、また問題が起こってしまったんだ。そのシーズンにディナモとの正式契約が流れることから、チバリアのフロントが僕と来季以降の正式契約を結ばないかと打診されたんだけど、僕はそれを断った。そうしたらクラブ幹部が監督に「来季もチバリアに残る選手しか起用してはならない」と働きかけたのさ。そのため僕は最後の5,6試合はベンチすら入れなかった。
−そして今季、君はシロキ・ブリイェグに来て、とうとう活躍したわけだね!
ディナモとの契約が流れ、シロキ・ブリイェグのズラタン・ミヨ・イェリッチ会長と話し合いをした。彼に2日ほど考えさせてくれといったけど、直ぐに行くことに決めたよ。会長は僕に「野心のあるクラブだし、優勝するつもりだ」と言ってくれたしね。良い機会だと判断したよ。
−プライベートな話題に移そうか。試合やトレーニングのない時は普段、何をしているの?
ラップトップを購入してからは、いつもインターネットをしているよ。スポーツのニュースサイトをよく見ているね。あとはお茶にも行くよ。またバスケットボールが好きだから、よく試合を見に行くね。(バスケットのシロキ・ブリイェグはサッカー同様に新興の強豪チーム)
−ザグレブへのノスタルジーはないの?
余りないよ。ヴィンコヴチに移った最初の頃は苦しかったけどね。そこで学んだよ。もうザグレブを離れて2年になるからね。
【写真:クラブハウスの前にて。】
−ならば、ディナモへの愛やノスタルジーは?
もちろん、ディナモを応援している。しかし今はほとんど考えないね。ディナモのサポーターであるけど、それ以上のものではないよ。
−サッカー選手では誰と連絡を取り合っている?
マルコ・バビッチ(レバークーゼン)とはよく連絡しているよ。最高の友達の間柄だ。13歳の時に代表を通して知り合い、それ以降は常に連絡を取り合っているよ。あとは自分の友人であるディナモのムラデン・バルトロヴィッチ、チバリアのマリオ・ルチッチと連絡を取り合っている。
−今は彼女と暮らしているよね。
彼女とはヴィンコヴチの時から一緒に暮らしている。人生において、頼りになる人が常に横にいる方がより素晴らしいし、より楽だからね。精神面でも大きな支えとなっていると思うよ。
−この先の最大の目標は何?
まずはシロキ・ブリイェグ、そして将来はどこかに売られて国外移籍すること。それが現時点の目標かな。
−日本のサポーターにメッセージはある?
日本には行くつもりだよ! もしオファーがあるならば、喜んで日本に行くつもりだ。もう日本はどんな国か解っているし、気に入っているからね!
ドマゴイ・アブラモヴィッチの応援ページ、「頑張れ、アブラ!」はこちらから。
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