現地発、クロアチア・サッカー報告 (番外編)


キプロス・サッカーの秘密を探る (中編)

〜 孤立する北キプロス


【レドラ通りの先に国境検問所がある。その手前にPEACEのプレートが】

「世界で最後の分断された首都」

キプロスの首都ニコシアはそんな悲しい響きの肩書きを持つ街だ。

 ギリシャ人が多く住むキプロス島を、オスマン・トルコが占領したのが16世紀。イギリスが支配した近代においてもギリシャ系住民とトルコ系住民が激しく対立した。多数派のギリシャ系住民の間にはギリシャ本国との併合を主張する意見が強い中、宗主国イギリスの思惑も絡んで1960年、両民族共存という表向きでキプロスが独立。しかし、両民族の足並みは乱れて内戦状態に陥る。1974年、ギリシャ軍事政権を後ろ盾にギリシャ併合を支持する強硬派がクーデターを起こすと、トルコ系住民を保護すべくトルコ本国が軍隊をキプロスに送り込んだ。その結果、キプロスは南北に分断。島の北部にはトルコ系住民による新国家「北キプロス・トルコ共和国」が誕生。我々が一般に「キプロス」と呼ぶ国はギリシャ系住民が住む南側だが、国際的な承認を伴わない北キプロスもまた首都をニコシアに置いた。一般的に通じる「ニコシア」はあくまで英語名であり、ギリシャ語でもトルコ語でも「レフコシャ」と呼ぶ。だが、名称が一緒なところでも、分断という事実に変わりはない。

 分断の街をさらに「分断」するものがある。サッカーだ。そんなキプロス最大のダービーマッチを求めて、私はレンタカーを走らせて海岸のリマソールから内陸のニコシアに向かった。小一時間ほどでニコシアの市街地に近づくと、市街地向こうの山岳に描かれた巨大な国旗が見えてくる。南のギリシャ系住民の眼が届くよう、山岳の斜面には横何kmにも渡ってトルコの国旗、その赤白が逆転した北キプロスの国旗が並んでいるのだ。トルコ側の挑発っぷりに異様さを感じずにはいられない。旧市街に近づくと新たな異様さに気付く。人気(ひとけ)のない日曜朝に、数人で連れ添って歩く東南アジアや中国人の女性をやたらと目にするのだ。地元の人に聞いたところ、彼女達は出稼ぎ労働者として家政婦やルームメイドとして働き、週末となればニコシアでつるむという。中には臨時収入として売春を営む者も少なくない。旧市街の入口近辺では地元の男性達が集まり、通り過ぎる彼女らを物色する。近年のキプロス経済の好調で労働者不足を出稼ぎ労働者で賄ってきたわけだが、その歪みがこんな形で現れている。

 

【山岳に描かれた北キプロスとトルコの国旗】

【ニコシアには出稼ぎ労働者向けに
 格安国際電話をかけられる店がある】

【グリーンラインに設けたバリケード。
ギリシャ国旗が掲げられた所もあった】



 ニコシア市内の政治的緊張はかつてより薄くなっている。「グリーンライン」(停戦ライン)で分断された南北ニコシアを結ぶ検問所は幾つかあるが、2008年4月、旧市街の中央を南北に貫く繁華街レドラ通りにも新たな検問所が開設された。キプロス島を北から入った旅行者は南への越境が拒否されるものの(※正確に言えば、EUパスポートを持つ者は拒否されない)、南から北への越境は咎められない。つまり、南→北→南の越境は可能なわけだ。北キプロスにとっては(南)キプロスを訪れた観光客を迎え入れ、外貨を落としてもらおうという思惑も見え隠れする。その一方で、北側半分を武力行使で奪われたギリシャ系自由民の怒りは失われるものてなく、トルコ軍侵入で行方不明になった住民の顔写真を並べたパネルが展示されていた。ただし、検問所近くには「ベルリン NO.2」と名乗るカフェがあるように、ギリシャ系だって分断の事実を観光資源化してもいる。

 当初は恐れていた北キプロス入国だが、その出入りは比較的スムーズだった。(南)キプロスの国境警備員にパスポート・チェックを受ければ、廃墟となった建物が並ぶ緩衝地帯を抜けて北キプロスの入国手続となる。パスポートに北キプロスのスタンプを押されると不法入国扱いとなって南に戻れなくなるが、それは杞憂に終わった。入国ビザとなる別紙が用意されており、それに名前と出身国、パスポートナンバーを書き込み、スタンプを貰えば晴れて入国だ。北キプロスも観光事業に力を入れており、ギルネをはじめ、カジノで有名な海岸リゾート地が幾つもある(※トルコや南キプロスにカジノはない)。入国するや、北側だけを扱ったニコシアの観光マップを無料で手渡してくれた。市街には安価なトルコ製の衣服を売る店、トルコ・ビールのエフェスを置くレストランが並ぶ。公式通貨はトルコ・リラだが、支払いはユーロでOK。観光名所となるハイダルパシャ・モスクは元々はキリスト教会だったように、占領した1974年以降、ここは徹底的なトルコ化が推し進められた。しかしながら、経済制裁を長年受け、トルコに依存せざるえない国だけに、南と違って貧しいことは横道に逸れれば直ぐに分かる。損傷の激しい家も多く、子供達は木片を棒で打つ原始的な遊びをしていた。打った木片がバリケードの鉄扉にガツンとぶつかる。その鉄扉には通過禁止の印として、銃を持った兵士のプレートが張られている。

 大人の表情は概して暗かったが、旧市街を東に出た城壁の外で賑やかな声が聞こえてきた。グラウンドでサッカーに興じる男達だ。トルコの強豪フェネルバフチェのユニフォームを着た者もいる。その賑やかさに誘われてグラウンドに近づけば、ボールが金網を越えて私のところに転がってきた。拾って投げ返したのを機にグラウンドに足を踏み入れると、休憩中の若者数人が近づいてきた。
「君達はアマチュアクラブなのかい?」
「いや、兵士さ。ここのグリーンラインを警備している」
よく見ると、彼のシャツは迷彩服で、その胸には軍隊の紋章が張られていた。人数にして30人ほど。兵士達は時間を見つけては頻繁にサッカーを楽しんでいるらしい。男同士ならではの猥談でしばし盛り上がると、私はサッカーに話題を切り替えた。贔屓のクラブを尋ねたところ、出てくるのはトルコのクラブ。フェネルバフチェ、ガラタサライ、ベシクタシュ、トラブゾンシュポール…。ここではトルコ・リーグの試合が地上派で中継されることもあり、関心は至ってトルコ・リーグとなる。

 実は北キプロスにもサッカー協会があり、独自の代表、独自のリーグが存在するが、国家が国際的に承認されない以上はワールドカップにもチャンピオンズ・リーグにも出場チャンスがない。それでもFIFA未加盟の代表チームで競われる大会に出場すれば、北キプロスは常に優勝だ。2006年に行われた"FIFI"ワールドカップではザンジバルを、同年開催のELFカップではクリミアを決勝で倒して王者に輝いた。国内の一部リーグは「ビリンチ・リーグ」と呼ばれ、14クラブで形成。戦前のキプロス・リーグ創設時に唯一のトルコ系クラブとして参加し、1951/52シーズンにはリーグ優勝を果たした「チェティンカヤ・トゥルク」たる名門がニコシアに存在する。兵士に「贔屓の北キプロスのクラブはどこか?」と尋ねたと、お前はそんなことに興味あるのか?と苦笑いながら一つだけ口にしてくれたものの、私の耳には残らなかった。今思い出せば、「チェティンカヤ・トゥルク」だったのだろう。

 トルコ人はさほど英語は得意じゃないが(とかいう私も大の不得手だが)、彼らの一人は移民としてドイツに生まれ育ったこともあり、流暢な英語を操る。親の祖国、北キプロスのために覚悟を決めて兵士になることを志願した。そんな彼が、腰掛け感覚で訪れた旅行者の私にこう尋ねる
「ここ北キプロスは気に入ったかい?」
「いい所だろうけど、グリーク・サイド(※南側。彼らはこう呼ぶ)から入国して一時間しか滞在していないんだ。これから戻ってアポエルとオモニアのニコシア・ダービーを観戦するつもりだ」
私の返答に彼らのテンションは一気に低くなった。それはそうだろう、敵対する国を話題に出してしまったのだから。
「昔と違って今は随分と平和になりましたよね」
失言を挽回しようと試みたが、墓穴を掘ってしまったようだ。
「いや、しかし…。ほら、あそこを見てくれないか」
指さす先には見張り台から銃を携え、グリーンラインを監視する同僚がいた。彼らの戦争はまだ終わっていない。


「君達の写真を一枚撮らせてくれないか?」
「ちょっと待ってくれ。ボスに訊かなくては」
若い兵士はグラウンド上の上官に伺いを立てた。"オレの彼女は日本人女性だったぜ。マリコというんだ"、初対面で私にそう打ち明けた男性が実は上官だった。
「一枚だけならOKだ。ただし、あの見張り台は入れないでくれ」
間もなくしてサッカーも終了。上官の指示の下、兵士全員がグラウンド外に出て整列する。やはり兵隊だな、と感じさせる瞬間だった。

 城壁の縁沿いを歩き、再び旧市街に戻る。午前の太陽は高く昇り、子供達の遊びが盛んになっていた。フェネルバフチェの背番号14、元スペイン代表FWグイサのユニフォームを着た少年が歩く。サッカーボールを持った少年ともすれ違い、「メルハバ」とトルコ語で挨拶すると笑顔を振りまいてくれた。ここ北キプロスにもサッカー文化は根付いている。しかし、あの少年が青年になった時、憧れのプロサッカー選手としてグリーンのピッチに立つことはなく、一兵士としてグリーンラインの向こうを眺めるのだろう。それが分断された未承認国家の運命だ。そう思うと少しやるせなくなった。

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(後編に続く)


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