現地発、クロアチア・サッカー報告 (番外編)
バルト三国・サッカー探訪の旅 (5)
エストニア (後編)
〜
バルトの鎖、バルティック・リーグ 〜
2008/7/26 メイストリリーガ「FC
フローラ・タリン vs. パルヌ・JK・ヴァプルス」
メイストリリーガ「FCレヴァディア・タリン
vs. FCナルヴァ・トランス」
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【バルト三国のマフラーと並ぶ、バルティック・リーグの |
バルティック・リーグのCEO(最高経営責任者)、クリスティアン・ハッペル氏は巨体にスキンヘッドと、迫力ある風貌だが、笑顔とコミュニケーションを絶やすことのない紳士である。いきなりの客人に対しても実に優しく接してくれた。まずはア・ル・コック・アレーナ内にあるバルティック・リーグの本部へと通してくれた。打ちつけのコンクリートの部屋はまだ改修中らしく、至るところに配線が飛び出ている。
「ここに拠点を置いてから間もないし、あちこち飛び回っているからね」
彼がCEOに就任したのは4ヶ月前。つまり、一年目を何とか終えたバルティック・リーグが新たな進化を果たすすべく、ドイツから招請したのがハッペル氏だった。年齢は31歳(当時)と若いが、リヴァプール大学のサッカービジネス専門のMBAを取得し、その後はミュンヘンのエージェントでサッカーに関するプロジェクトやコンサルティングを数多くこなしてきた。バルティック・リーグは歴史が浅く、スタッフも多くないだけにCEOの役割はとてつもなく大きい。管理、運営、マーケティング、広報、折衝…。三ヶ国のサッカー協会、参加クラブとの連絡を密にし、スカイプで会議を行うこともあれば(※ちなみにスカイプの開発地はエストニアである)、頻繁にCEOがミーティングのために足を運ぶ。重要な仕事の一つは、新たなパートナーとスポンサーを探すことだ。そのため、ハッペル氏はバルト三国の経済事情にアンテナを張り、常に最新の情報を取得している。2008年、バルティック・リーグはブックメーカーのトリオベット社とメインスポンサーの契約を結び、大会の正式名も「トリオベット・バルティック・リーグ」となった。
北欧の夏としては珍しく、この日のタリンはとても暑かった。ハッペル氏から飲物はどうかと勧められ、言葉に甘えてビールをお願いすると、恐縮にも部屋の外から運んできてくれた。ビールの銘柄はスタジアム名にもある「ア・ル・コック」。本部の部屋はメインスタンドと繋がり、ピッチを広く見渡せる。ちょうど「フローラvs.パルヌ」の試合が始まったところだったが、スタンドはガラガラだ。
「観客は100人ぐらいじゃないだろうか。今日は暑いだけにいつもより少ないね」
ハッペル氏の言葉を信じて数えてみたところ、まるで冗談のような話だが、本当に観客は100人だった。ゴール裏に構えるフローラのサポーターも15人ほどしかいない。そんな長閑な雰囲気の中でインタビューを始めることにした。しかし、イギリス仕込みの彼の英語力に対して、私の英語力は極めて拙い。ハッペル氏は私が英語をひねり出しているのに察知し、「ならば質問はここでもらって、後でメールで返答しよう」と機転を利かしてくれた。それならば、私もフローラの試合も観戦できる。後日、ハッペル氏からきっちりと返答が送られてきた。これを参考に2009年初めのfootballista誌で、日本で初紹介となるバルティック・リーグの記事を掲載させて頂いたが、ここではCEOが自ら語るバルティック・リーグの話をもれなく訳してみた。
−まずは貴方のサッカーにおけるバッググラウンドをお聞かせ下さい。 「物心がついた時から国内外のサッカーを追うようになってましたね。ここ20年近くは熱狂的なリヴァプールのサポーターでして。子供の時からずっとサッカーをやってましたよ。でも実際のところは、優れたバスケットプレーヤーにいつでもなれると自認してますけどね(笑) けれども、サッカーは私にとって常にナンバーワンのスポーツです。 私は人口1200人足らずのBurkhardsfelden村の出身で、そこの地元チームを応援してました。一時はドイツの4部リーグまで昇格し、彼らをサポートしながらドイツのあちらこちらを旅したものです。あの頃から私はずっと熱狂的なサポーターであり、芝生の上で行われるサッカーという競技に大きな関心を抱いているんですよ。 続いて学歴・職歴について触れましょう。私はドイツとイングランドで社会科学とビジネス学を学んだのち、2005年にリヴァプール大学フットボール・インダストリーズのMBAを取得しました。このMBAは、世界で急速に注目が拡がるサッカーのプロフェショナリゼーション、ビジネス、マーケティングに特化した世界初の資格なんです。 MBA取得後、私はミュンヘンのエージェントに入社し、2年半に渡って幾つかのプロジェクトを携わってきました。例えば、サッカー関連企業をコンサルティングしたり、約20人のジャーナリストグループのプロジェクトマネージャーを務めたり、ドイツの新聞やポータルサイトにティッカーやモバイルニュースのようなサッカー・アプリケーションを提供したりなどしてました。」 −これまでどこかのサッカークラブでプレーしたことや、働いたことはあるのでしょうか? 「7歳の時にユースチームでサッカーを始めました。同時にバスケットボールをプレーしていたんですよ。ちなみに私の父は熱心なバスケットプレーヤーで、審判のAライセンスも取得しています。その頃のサッカーコーチは子供達に合わせたあらゆるトレーニングを準備したのに対し、バスケットコーチは全く反対の立場で、最初からチーム対抗のバスケットボールばかりをさせました。すると、バスケットの練習には次第に行かなくなってしまったんですよ。私達は学校でも常にサッカーをやってましたし、道端でも原っぱでもサッカーで遊んだものです。22歳の時、私は村で二番目に強いチームに入団し、再びサッカーを始めたのですが、大成功とはいきませんでしたね(苦笑) その後、リヴァプール大学に入学してからは、学部単位のチームでもプレーしましたよ。フィールド上での能力は伸びないと直ぐに自覚したわけですが、サッカー界で働きたいという夢と願望は常に持っていました。それだけにイングランドに渡って、そこでMBAを取得しようと駆り立てられたのです。 その後、ミュンヘンのエージェントでの仕事を通して経験を培いました。こうして今はバルティック・リーグで働けるチャンスを得られてとても嬉しいです。バルトにおけるサッカー事情を変えられる、との希望を抱いていますよ。」 −バルト三国でも貴方がここエストニアにいるのはなぜですか? 「バルティック・リーグの拠点はエストニアの首都タリンだからでして、ここア・ル・コック・アレーナの施設も素晴らしいのが理由です。ここには殆どのインフラが揃っていますよ。(ラトビアの首都)リガは地理的な観点で最も拠点にふさわしいでしょうから、最初はリガにしようとの考えもありました。しかし、最終的に私はタリンを拠点にすることに決めたのです。 それでもストレスは感じますよ。一ヶ国ばかりに留まってはいられませんし、バルティック・リーグに参加する三ヶ国に対して均等に責任を持たねばなりませんからね。私は頻繁にリガや(リトアニアの首都)ビリニュスにも足を運び、そこで会議を行ったり、クラブのオフィシャルとも会ったりしています。」 −バルティック・リーグに対する貴方のポジティブな考えはどんなところでしょうか? 「例えば、コップに水が半分入っているとします。私はコップの半分が空と考えるのではなく、半分は満たされているんだ、と考えるようにしています。これは私が非現実的主義者なわけではありません。2007年にバルティック・リーグを立ち上げてからというもの、リーグは多くの挑戦に立ち向かい、バルトにおけるサッカー界を変えられる大きなチャンスを迎えていると私は自覚しています。それに関しては疑いを持っていません。バルティック・リーグという構想そのものが素晴らしいものですし、大会としてのポテンシャルも大きいと考えているのです。 バルト三国全てにおいてサッカーの実力は成長しています。そして、一般的に見ても巨大なほどのポテンシャルを持っています。例えば、エストニアは若い人々の間でサッカーが一番人気のスポーツとなっています。昨年夏にエストニア・サッカー協会主催のサマーキャンプが行われ、そこには多くの子供が参加し、大成功を収めました。サッカーはトラディション(伝統)とエモーション(感情)を持たばならないスポーツです。たった一晩で人為的にこれを成し遂げるのは不可能であり、育んでいかねばならぬものです。。バルティック・リーグが観る者にとって面白いものに、魅力的なものになるならば、リーグの存在自体がこの地域にサッカーを広めることに非常に役立つと私は考えています。 同様に、参加チームにとってバルティック・リーグはビッグな大会になるでしょうし、ここで国際経験を培っていくことで、UEFA主催の欧州カップ戦に向けた準備にもなるでしょう。 最初の年は、大会インフラを整備した一年でした。誰もが素晴らしい仕事をしましたよ。土台が築かれたのですから。今の我々は、その土台の上に更に上を行く大会を作り上げねばなりません。改善するためのポテンシャルやスペースが、この分野には充分なほど存在しているんですよ。 来季の大会(2009/10シーズン)に向けて、我々は幾つかの抜本的な変革を行います。なぜかって? 観る者にとっても、クラブにとっても、誰にとっても更に魅力的な大会にさせたいからです。そして、潜在的なスポンサーやパートナーを発掘したいのです。 パートナーを得ることは、バルティック・リーグのレベル向上、認知度を広めるためにも重要なことです。多くの改革が施された来季の大会を迎えること、そして将来に向けての発展を目にすることに私は至ってポジティブですよ。」 −バルティック・リーグのプロジェクトにおける問題点は何でしょうか? 「我々が取り組まねばならない問題は幾つかあります。まずはメディアの認識、そして一般における認知度です。メディアに囲まれる形でサッカーファンとクラブがあらねばなりません。そのためにも来季からは大会フォーマットを変更し、テレビでの生中継を保証、インターネットでもストリーミング中継させます。公式ホームページも完全にリニューアルする予定ですよ。 大会フォーマットに関しては、これまでのリーグ形式を改め、最初からノットアウト形式へと変更します。これでつまらない試合は減ってくるでしょうし、クラブもベストイレブンで挑んでくるでしょう。これまで大会は条件の悪い春先の3月に始まり、同じく完全な条件とは言えない秋の終わりの11月に決勝を終えてました。このような春秋制の日程で大会そのものを発展させるのは、全くもって困難だったのですよ。ですので、来季は思い切って秋春制へと日程を変更しました。 我々はこれらの問題に取り組みながら、バルティック・リーグが将来に向けて正しい方向に発展していくよう、全ての関係者にとってリーグが更に魅力的になるよう土台作りをしています。運営においてはパートナーやスポンサーも非常に重要です。しかし、第一に適切な土台がなければ、マーケティングやスポンサー集めについて語ることなどできません。我々は今、その土台作りを行っているものだと確信していますし、来季に向けた大きな変革に対して希望を抱いているところです。」 −将来的に人々がバルティック・リーグに訪れることを本当に信じていますか? どうやって観客をスタジアムにもたらす考えですか? 「人々はサッカーを観戦しようとスタジアムへやってくると私は信じていますよ。繰り返しますが、人為的なやり方でそれを実現させるのは不可能です。サッカーは良い"商品"だからといって、スーパーマーケットで購入できるものではありませんからね。エモーション、トラディション、ムード、そしてライバル意識。ここではほんの幾つしか要素を挙げませんでしたが、そういった要素を抱えながらサッカーは行われるものです。これらは一晩で得られるものではありません。今はメイストリリーガ(エストニア一部リーグ)の試合で100人の観客しかいないのに、バルティック・リーグの試合には3000人の観客がやって来るなんて期待は直ぐにできないものです。もちろん、リーグのレベルが前提にあります。しかし、私は自分自身に繰り返してこう言っています。バルティック・リーグ自体の認識と認知度を劇的に向上させるべきだと。人々をバルティック・リーグと"接触"させるべきなのです。チャンピオンズ・リーグの試合を観ようとバーに入る人がいるならば、"バルトでも行われる大会があるよ"と何らかの形で伝える必要があります。もしサッカーが大好きで100ユーロ出してシューズを買う子がいるならば、なぜバルティック・リーグの存在を彼に知らせ、試合に連れて行こうとさせないのですか? バルトに進出している外国の会社はたくさんあり、その会社にもサッカー好きの従業員がいます。なぜ彼らにアプローチせず、試合に招待しようと試みないのですか? これらの例は、人為的にスタジアムを満員にさせようというものではありません。どうやって人々にアプローチし、彼らにバルティック・リーグという"商品"の存在を伝えるか、という話なのです。もちろん、この場合の"商品"とはプロフェッショナリズムの観点から良質であるべきものです。 理想の世界は、バルティック・リーグの存在が人々に伝わり、試合に訪れるようになることです。もちろん、ヨーロッパの大きなリーグとは比較することはできませんし、バルトでの状況は異なります。大会のクオリティが本当に高いのならば、気にしなくとも人々は試合に来ることでしょうがね。私は大会の価値を信じ、マーケティングやプロモーションを進めています。その手法も正しい方向性でなければなりません。」 −バルティック・リーグを一つの大会として考えた時、誰もが参加したいような大会となるでしょうか? 「できるだけ早く、バルティック・リーグがそんな大会になることを願っていますよ! しかし、人々が奇跡を予想できないように、大会の将来を予想することは難しいものです。ならば、人々は我々に何を期待しているのか? それは常に最善となるプロフェッショナルの手法を選び、大会を継続的に改善することに全力を尽くすことです。流行の進め方と同じように、お金を利用する手もあるでしょう。もし我々が優勝クラブに50万ユーロを賞金を払えるのならば、どのクラブも真剣に賞金を狙ってくるのは間違いないでしょうね(笑) もちろん、自国のリーグとカップ戦がクラブにとって"パンとバター"の関係にあることは、水晶のようにクリアなことです。自国の大会がクラブにとってはメインですし、UEFAの大会の出場権を得るのもそれらの結果を通してです。しかし、我々がバルティック・リーグに望んでいるのは、日程が各国のサッカー・カレンダー内に設けられ、自国やUEFAの大会を補いながらも、それらと同様にポジティブな大会として見られることなんですよ。これらが特に重要視している点ですね。 一歩ずつ進んでいきましょう。来季は既に多くの変革がなされます。我々が正しい方向に大会を導いていること、そして人々がポジティブな効果を早くに認めてくれることに自信を持っていますよ。」 |
2008年度のバルティック・リーグは3月に開幕したこともあり、レギュレーションで手を加えられたのは決勝をホーム&アウェーから一発勝負に変更したのみ。決勝はラトビアの名門「スコント・リガ」とリトアニアの名門「カウナス」。一年前と違ってスコント・スタディオンには7000人もの観客が集まり、カウナスが敵地ながら2-1で勝利した。優勝の歓喜に湧くカウナスの選手達とサポーターの映像を見ると、2シーズン目でバルティック・リーグのステータスが上がったのは間違いない。
ハッペル氏は、バルティック・リーグを発展させるポイントとしてメディアの重要性をアピールした。その証拠にバルティック・リーグの公式ホームページはコンテンツがとても充実している。例えば、トップページの右真ん中辺りにある「E-magazin」を開いてもらえるだろうか。まるで雑誌を読むかのように、英語で大量のバルティック・リーグの情報が得られるのだ。ダイジェストやゴールシーンも右上の画面でチェック可能。エストニアは世界一を争うインターネット普及率を誇り、欧州きってのIT大国として知られるが、その技術力をフルに活かし、バルティック・リーグの認知度を高めようとアプローチを図っている。
【フローラのゴール裏。中央はスタジアム名となる
ビール会社、ア・レ・コック社の看板】
3シーズン目となる2009/10シーズンのバルティック・リーグは、新たな改革が次々と断行された。まずは春秋制から秋春制への以降だ。冬の訪れが早く、また春の訪れが遅いバルトにとっては懸命な判断といえる。そしてリーグラウンドを廃止し、16クラブ参加によるノックアウト方式のトーナメント制を採用した。2009年の9月と10月に一回戦、2010年4月に準々決勝、5月・6月に準決勝、そして7月に一発勝負の決勝が行われる。
また、ハッペル氏が念願としていたテレビ放映にもこぎつけた。2009年に北欧のテレビネットワーク「ヴィアサット社」がバルティック・リーグと6年契約を結んだのだ。全29試合のうち13試合を生放送。一試合の撮影には8台のカメラを駆使し、実況は3ヶ国語から選択が可能。現在のサッカー界で放映権がいかに重要なものかを説明する必要はないだろう。デンマーク、スウェーデン、ノルウェーのクラブが参加し、地域リーグとしては先輩格だった「ロイヤル・リーグ」が、2007年に放映権の買い手がつかずに3年で幕を閉じた過去もある。ひとまず6年間は安泰とはいえ、フレキシブルさを売りにするバルティック・リーグはパートナーやスポンサー、そして注目を集めるために次々と新手を打ってくるはずだろう。
(2010年2月19〜21日に幕張メッセで開催されるはずだった国際サッカービジネス展示会「FOOTBAL-1」にバルティック・リーグが出展し、ハッペル氏が来日することになっていたが、二日前になって中止になったことが残念でならない。日本のサッカー関係者が彼から得るものはあったはずだ。ハッペル氏へのインタビューを含めたエストニアのレポートを改めて私が書くことに決めたのも、それが動機である)
しかし、全てが全て明るいわけではない。経営や方針の未熟さゆえに、クラブや国内リーグそのものに問題を抱えている。
例えば、10年間でリトアニア・リーグを8度制し、2008シーズンのバルティック・リーグ王者となったカウナスは、シーズン開幕前の2009年3月20日、いきなり三部に降格することが決まった。主役となるのは、リトアニアのレポートでその暗躍ぶりを詳しく記したウラジミール・ロマノフである。リトアニア初の民間銀行「ウーキオ・バンカス」の筆頭株主であり、コングロマリットを形成する富豪の彼は、カウナスだけに限らず、スコットランドの古豪ハーツの事実上のオーナーとなった人物だ。そのロマノフは、リトアニア・サッカー協会にウーキオ・バンカスの最高責任者リウタウラス・ヴァラナヴィチウスを会長として送り込むことによって、リトアニア・サッカー界を裏から操ってきた。しかし、ビジネス上でロマノフと反りが合わなくなったヴァラナヴィチウスは、「銀行業とサッカーの両者を選択する中で、私はサッカーを選ぶ」と語り、ウーキオ・バンカスの最高責任者を辞任。ロマノフとの対立姿勢を明らかにした。カウナスが前シーズンをリーグ2位で終えたのはレフェリーが原因だとし、ロマノフはクラブ同士で結成したリーグ連盟で審判人選を行おうと画策。しかし、それに待ったをかけたのが、ヴァラナヴィチウス会長だった。ロマノフは「ならばカウナスは二部でプレーする」と揺さぶりをかけるも、リトアニア・サッカー協会のヴァラナヴィチウス会長はカウナスを三部にまで落とすことに決めた。
【それぞれの言語で国名が記されたマフラー】
同じくロマノフが所有するアタランタス・クライペーダ(前年5位)も三部に降格。古豪ジャルギリウス・ビリニュス(前年6位)に至っては、オーナーが破産に追い込まれ、財政問題から一部リーグ参加のライセンスが降りずに二部落ちが決まった。リトアニア一部リーグ「Aリーガ」は8クラブで構成されるが、2009シーズン開幕に半月を控えて3クラブが離脱するという緊急事態に陥ったのだ。2009/10シーズンのバルティック・リーグではリトアニアが6枠を得ていたもの、数合わせのために一部昇格したばかりの2クラブも急遽参加することに決まった。
混乱はリトアニアだけに収まらない。2009年にラトビアのディナブルグが、八百長賭博に絡んでいたことが発覚。2009年10月5日、ラトビア・サッカー協会は全会一致で一部リーグからディナブルグを追放し、オレグ・ガブリロフ会長とタマズ・ペルティヤ監督を永久追放することに決めた。10月28日にディナブルグはバルティック・リーグ一回戦2ndレグのヴァトラ戦を控えていたが、その試合を行うことなくバルティック・リーグからも追放された。ちなみにディナブルグはバルティック・リーグの第一回大会(2007年)でもリーグ戦で意図的に敗れ、追放されたことがある。2009年の八百長事件を契機にディナブルグはクラブ存続が不可能となり、同じ街のダウガフピルスと合併することになった。
また、2008シーズンを6位で終えたFKリガは、バルティックリーグの出場権を得ながらもクラブが破産。さらにエストニアにおいても、2008シーズンを勝点で3位終えたはずのTVMKタリンが財政難のため、最下位扱いを受けたまま解散に追い込まれてしまっている。つまり、2009/2010バルティック・リーグの参加資格があった16クラブのうち、それぞれの事情で6クラブまでもが離脱したことになる。これを異常事態と言わずして何と言おうか。世界不況があちらこちらのクラブに猛威を振るっているが、バルトの小国も不況下にさらされている。そして審判買収や八百長といった問題も抱えている。そんな逆境の中、バルティック・リーグはバルト全体のサッカーレベルが地盤沈下しないよう、エストニア、ラトビア、リトアニアを繋ぐ「鎖」となるべき存在だ。その鎖をより強固なものにするべく、ハッペル氏の挑戦はこれからも続いていく。
ピッチに眼をやると、さすがは首位のフローラ、最下位パルヌに苦戦するようなチームではないようだ。4-1-3-2システムで二列目右に入る20歳(当時)のMFセルゲイ・モスニコフが抜群のキレを見せた。16分に縦のワンツーから抜け出して先制点を決めると、その3分後にはゴール前でこぼれてきたボールに食らいつき、2点目のゴール。後半55分にもペナルティエリアでワンツーでもらい返し、滑り込みながら右足でシュートを流し込んでハットトリックを達成した。彼はエストニア国籍だが、名前から分かるようにロシア人だ。この日は出場しなかったが、得点王のFWヴヤトシェスラフ・ザホヴァイコ(現レイリャ所属/ポルトガル)もまたロシア人。エストニア代表もフローラも、1990年代のようなロシア人排斥の時代は過去のものとなっている。
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| 【比較的若い人の多いフローラのサポーター。 ユニフォームを着た女性も混じっている】 |
【ハットトリックとなるシュートを放つ |
既に勝負が決まった試合をラストまで見届けることなく、ア・ル・コック・アレーナを跡にした。なぜならば、19時半から「FCレバディア・タリン vs.FCナルヴァ・トランス」を取材するからだ。旧市街を横切る3番のトラムに乗り、一番近い停留所で降りると、早足でレバディア・タリン(以下、レヴァディア)の本拠地カドリオル・スタディオンへと向かう。エストニアの国内リーグを一日でハシゴ観戦、それも一、二を争うクラブを観られる機会はそうそうない。入口係員に取材申請済みであることを告げて、スタジアムの敷地に入ると、ささやかだが、テーブルを広げてレヴァディアのグッズが売られていた。エストニア語のものもあれば、ロシア語のものも販売されていた。私は65クローン(約1000円)で、レヴァディアのエンブレム入りのTシャツを購入。胸にはエストニア語で「私のお気に入りはFCレヴァディア・タリンです」と丁寧に書かれていた。
【テーブルで売られるレヴァディアのグッズ】
レヴァディアは1998年、エストニア最大の金属製品製造業「レヴァディア社」が、タリン郊外マールドゥにある二部チーム、オルンプ・マールドゥを買収したことで歴史が始まる。1991年設立当社、レヴァディア社はスチールパイプの製造・販売を行う小さな会社だったが、社長のヴィクトール・レヴァダは瞬く間に事業を成功させ、今ではグループ企業を率いる富豪になった。ウクライナ人の彼は、ロシアをはじめ、あらゆる東欧諸国とのビジネスのパイプを築いたのだ。そしてサッカークラブの買収し、自分の名前に冠した会社と同じ「FCレヴァディア
(・マールドゥ)」と名づけた。
最初の1998シーズンで一部のメイストリリーガに昇格を果たすと、メイストリリーガ2位のJKタリン・サダムを合併。翌1999シーズンには2位に勝点差20をつける圧倒的な優勝を達成するだけでなく、エストニア・カップ、リーグ・カップ、エストニア・スーパー・カップの四冠を達成した。2000シーズンもメイストリリーガを含む三冠を達成。それまで最強のクラブだったフローラは、誕生から間もない新興クラブの後塵を拝することになったのだ。
ロシア系にこだわらぬクラブを作ってきたことを証明するように、初年度の監督はエストニア国籍のロシア人セルゲイ・ラトニコフだった。そして、本拠地のあるマールドゥもロシア人が60%を超える鉄鋼の町である。しかし、2000/2001シーズンのチャンピオンズ・リーグ予備戦二回戦で、シャフタール・ドネツクにトータルスコア2-9で敗れたことにラヴァダ会長は自尊心が傷つけられた。敗戦直後にラトニコフ監督を解雇。翌2001シーズンはロシア本国からヴァレリー・ボンダレンコを監督として連れて来るも、わずかスーパーカップ優勝の一冠に終わる。そう、この2001年からオランダ人のピーペルス監督率いるフローラがメイストリリーガ二連覇を果たすことになった。
2003年、レヴァディアはインテルのユースコーチを務めるイタリア人、フランコ・パンチェッリを監督に迎えるも不振を極め、シーズン途中に解任。ヒーペルス以前にフローラとエストニア代表監督を兼任した、エストニア人のタルモ・ルートリ(現エストニア代表監督)を呼び寄せた。レヴァディアは2003シーズンを3位でフィニッシュすると、タリンに本拠地を移した翌2004シーズンにはメイストリリーガを制覇。潤沢な資金にモノを言わせ、フローラに取って変わる黄金時代を築き始めた。その証拠に、2006/07シーズンのUEFAカップではオランダのトウェンテ相手に金星を挙げ、ニューキャッスル相手にも1-2、0-1と善戦している。
【数少ないが、声を張り上げるレヴァディアのサポーター】
そのレヴァディアとフローラの両ライバルが激しくタイトルを争ったのが、2008シーズンだった。メイストリリーガは、10クラブが総当り4回戦で36節を戦う。私が取材した試合でフローラは勝利を収め、2試合消化の少ないラヴァディアとの勝点差を4まで広げた。この日にレヴァディアが迎えたのは、4位のFCナルヴァ・トランス。前年11月のエストニア・スーパーカップでは1-2で敗れた相手だ。
サッカー専用のア・ル・コック・アレーナ完成以前は、陸上競技場も兼ねたカドリオル・スタディオンが代表マッチを行う会場となっていた。キャパシティは4750人。内部には昔の代表戦の写真が飾られ、ここでプレーしたポルトガル代表のフィーゴ、スウェーデン代表のダーリンの写真も見受けられる。また、イングランドやオランダ、イタリアといったサッカー協会のペナントと並び、日本サッカー協会のペナントも飾ってあり、何かしらのカテゴリーの日本代表もこのカドリオル・スタディオンでプレーしたようだ。しかしながら、レヴァディアvs.トランス戦の観客は驚くながれ、フローラvs.ヴァプルス戦よりも少ない70人ほど。それでもスタンドには、視察へと訪れたハッペル氏の姿があった。
資料を見てみると、メイストリリーガの観客が二桁となるのは稀ではないようだ。エストニアは決してスポーツが不得手な国ではなく、むしろ得手と言える。例えば、1991年の独立以降、夏冬あわせたオリンピックでは金7個を含めたメダル17個を獲得。人口は134万人の少なさを考えれば、これは驚異的な数字だ。ただし、これらメダルは全て個人競技に限られるのも大きな特徴である(相撲の把瑠都もエストニア国籍なのは言うまでもない)。バスケットボールやアイスホッケーの人気も高いとはいえ、団体競技には幾らか不向きな国民であり、関心も低い国民なのだろう。
この試合はレヴァディアの攻撃を撮影するため、トランスのゴール裏に周る。カメラマンは数名しかいないので、好きなポジションを選び放題だ。しかし、準備最中の開始2分、いきなり反対サイドでトランスが先制点を挙げていた。もちろん、どんなゴールシーンだったかも分からない。分かるのは左MFのレピクが決めた、という記録のみだ。いきなり劣勢に立たされたレヴァディアだが、39分、トランスのGKウソルテセフがレヴァディアのFWゼリンスキと小競り合いとなり、ウソルテセフがゼリンスキを蹴り飛ばしたために一発退場。去り際、レヴァディア・サポーターの挑発に切れるウソルテセフ。彼の退場で流れが一気にレヴァディアに傾いた。前半終了間際、レヴァディアはMFナフクの左FKをGKが弾いたところをMFマロフが押し込み、試合をイーブンに戻した。
【ハットトリックを決めたエストニア代表MFキンク(右)】
この試合で活きの良い動きを見せたのが、エストニア代表の左MFタルモ・キンク(当時22歳)だった。ドリブルのスピードに加え、左足から放たれるFKやクロスボールも質も極めて高い。それもそのはず、2003年には17歳でスパルタク・モスクワに5年契約で移籍し、18歳でトップデビューを果たしたほどの逸材だった。しかし、トップチームに定着するほどの眼は出ず、2006年に帰国してレヴァディアに加入した。そのキンクが後半開始からわずか2分、利き足とは逆の右足で左からミドルシュートを叩き込み、勝ち越しに成功。68分には中央からミドルシュートを決め、86分にも左から20mの距離でミドルシュートを突き刺した。最終スコアは取りも取ったり「7-2」。レヴァディアはフローラとの勝点差を再び1に縮めたのだ。
試合が終わったのは21時20分。北欧の夏は長く、ようやく夕暮れを迎えていた。車で来ていたハッペル氏が旧市街近くまで乗せていってくれると言う。私は彼の言葉に甘えることにした。「キンクは優れた選手ですね」−そんな私の意見に対し、ハッペル氏は「まだまだ」と幾分か否定的だった。それはそうだろう、ブンデスリーガやプレミアリーガのプレーに日頃から触れてきた人物なのだから。とはいえ、こうしてバルトのサッカーを語らえることに私は幸せを感じていた。
「今度はバルティック・リーグを観に来て下さいね」
「イエス」
別れ際に交わした約束を果たせるのは、いつになるだろうか。バルトのサッカーに親近感を抱いた今、約束が実現する日はそう遠くはないような気がする。
| 【付記】 2008シーズン、未消化試合で勝利を収めたレヴァディアがフローラを勝点で上回り、それ以降は一度もトップの座を譲ることなく、最終的には2位フローラと勝点差2でレヴァディアがメイストリリーガ三連覇を達成した。続く2009シーズンはレヴァディアが勝点97、得失点差98という成績で他を圧倒し、四連覇を果たしている。エストニアのクラブレベルが上がっている証拠に、過去二年はバルティック・リーグのベスト8に1度しか入れなかったエストニアのクラブが、2009/10シーズンにおいてはレヴァディアとフローラの2クラブがベスト8に残っている。 私が気に入ったレヴァディアのMFタルモ・キンクは、観戦した試合の3日後、オランダのデ・フラースハップのトライアルを受けたが、最初のトレーニングで直ぐに膝を故障。再びレヴァディアに戻り、連続6試合ゴールを含む33試合16得点で2008シーズンを終えた。2009年1月にハンガリー一部のジョールに移籍金10万ユーロで加入し、40試合15得点の活躍。2010年7月にはミドルズブラに移籍金100万ユーロで加入し、3年契約を結んでいる。(彼のレヴァディア時代の動画@ 動画A) |
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