現地発、クロアチア・サッカー報告(13)

アイモ・シュー!! 〜クロアチア・リーガー間瀬秀一


 とりわけ外国人選手の少ないクロアチア・リーグにおいて足掛け3年プレーする俊足の攻撃的MFがいる。間瀬秀一(ませ・しゅういち)さん、28歳。今季は2部リーグ(西・南地区)のトルニェに所属。98/99シーズンに三浦知良(ディナモ)、松原良香、財前宣之(リエカ)がJリーグから流れてきたものの、誰一人とも活躍するどころかゴールすら決められず失意のもと帰国した。間瀬さんはJリーグの経験は無く、海外だけでプロ人生を叩き上げて来た異色中の異色の日本人だ。

【写真:間瀬秀一さん】
 三重県四日市出身の間瀬さんは小学校3年生の時にサッカーを始めた。小学生の時は四日市代表、中学生の時には三重県北部代表にもピックアップされ、高校は地元の進学校・暁高校へと入るが、当時のサッカー部は11人足らずの部員のため公式戦に出たところでも試合にならなかった。その代りにボールと戯れることでは技術を磨き、大学は日体大を選択。1軍から5軍まで300人以上の部員を抱えるサッカー部において最終的には1軍まで上り詰めたものの、公式戦には出場することはなかった。
「当時までは生粋のFWだったんですよ。足は速い、ゴールへの嗅覚はある、ドリブルもまずまず。しかし周りが見えない、戦術にフィットしない、パスも上手くない選手でした。その苦手部分を克服するために以降はトップ下のポジションにこだわり続けたんです。」
日体大のオランダ遠征の時に現地の指導者からエースとしての評価を得て自らのプレーに自信を持ち、大学卒業後の96年5月、プロ選手を目指して母親の知人が住むロサンゼルスへ旅立った。アメリカを選択した第一の理由は「日本人にはサッカー未開の土地であった」ことだった。

 ロサンゼルスで2ヶ月間語学学校に通いながら、メキシコ人アマチュアチームや日系人チームなどでプレーしてプロとしての道を模索。労働ビザ取得の為に帰国し、9月に再渡米。英語を駆使してMLS(メジャー・リーグ・サッカー)のロサンゼルス・ギャクラシーに自らを売り込んだ。外国人枠の関係で断れるが、下部組織の「ゴールデン・イーグルス」を紹介され、ロシアのチームとの親善試合で2得点を挙げてテストに合格。そのままチームで練習しながら、97年3月、同クラブで一年間のプロ契約を結んだ。これはアメリカでは日本人初のプロ契約である。結果は12試合に出場して2ゴール、4アシスト。しかし監督の人格問題のために次々と主力が退団し、間瀬さんもチームメートのメキシコ人の誘いもあって退団することになる。

【写真:間瀬さんのことを伝える新聞】

 97年7月、チームメートを通じてメキシコへと渡り、テストを受けまくった。合格はするものの金銭面や外国人枠の問題で契約が折り合わず、この頃が間瀬さんにとって一番苦しい時代であった。CM出演やモデルをしたり、またメキシコ国会議事堂前で大道芸人よろしくリフティングの妙義を披露して日銭を稼いだこともある。「1時間で300人ほど集まり、一週間分の食費はゆうに稼げました。のちに同じ場所でドロンズ("進ぬ!電波少年"にて)が漫才をしましたけど僕の方が稼いでましたね。」−間瀬さんは当時をこう振り返る。またこの時期に親身になってくれた日本人の訓えもあって創価学会に入信。仏法が間瀬さんの精神的支柱となった。11月にメキシコ2部リーグのクラブと契約が決まったが、足を骨折してしまったこともあり98年3月に帰国。6月に再びメキシコへと戻り、12月までフットサルのプロクラブを3チーム掛け持ちでプレーする。99年1月、メキシコの名門クラブ、ネカクサのテストを受けた時に知り合ったプロモーターの誘いもあり、新たな地としてグァテマラを選んだ。
 グァテマラでは2部のアマティトランでプレー。直ぐにトップ下で活躍し、4倍の800ドルの月給提示でミトランへと引き抜かれる。そしてデビュー戦で昨季の優勝クラブ相手に1得点3アシスト。そのニュースは「化け物がやってきた」とグァテマラ国中に映像と共に報道されたという。だが不運なことに間も無く足を骨折してしまい、金銭的にも恵まれたグァテマラ時代は1999年いっぱいで終える。怪我も癒え、2000年1月からはエルサバドル2部のサンルイス・タルパへと移籍し、3ヶ月間プレー。「北中米時代は最後にはいつもクラブでエースになったんですよ」−間瀬さんは語る。

【写真:スピードが彼の最大の特長だ】
  2000年夏、メキシコ以来一緒にプレーしている小林孝基さん(現3部ロコモティーバ所属、オフェンシブハーフ、21歳)と共に、活躍の場を欧州へと移すことを決断した。「戦術的にもレベルの高い、サッカーの本場でプレーしたい」ことが理由だ。知人であるオランダの日本人実業家からブランコ・チィカティッチ(K-1初代優勝者)を通してクロアチアのマネージャーを紹介され、7月12日、クロアチアへと到着。直ぐに1部リーグのフルヴァツキ・ドラゴヴォリャッツのテストを受け、練習試合で7試合5得点を決めて合格の判断を得たが、待遇面で折り合わなかった。しかし間瀬さんはここで手応えを充分に感じ、クロアチアでも自分のプレーが通用することを知る。その後、ザグレブにある3部リーグのシュパンスコで4試合ほどプレーするも給与未払いのために退団。10月にはスラボンスキ・ブロードにある3部リーグのスラボナッツへと移るが、チームは下位から2番目、間瀬さん自身も7試合出場・ゴール1と奮わず。クロアチアでのスタートは決して明るいものでは無かった。クロアチアでのプレーを続けていくことに一時は疑問を感じたが、間瀬さんはポジティブに考えることにした。
「毎日、常に成功を祈ることで自分のサッカー人生を切り開いて来ました。また同時にクロアチアの平和も祈ってます。この国を平和をこれほど願っている人物はそうそう居ないはず。ならば何部リーグであってもプレーしようと思いました。」
 2001年1月、マネージャーの計らいもあり、アドリア海のパグ島にある3部リーグのクラブ、ノヴァリャへと移籍。ここで間瀬さんは実力を発揮した。トップ下のポジションで17試合にプレーし10得点・3アシストをマーク。チームを2位へと導き、入替戦へと進出する。対戦相手は2部のヤドラン。ホームで勝利したのち、続くアウェー戦では小林さんのセンタリングからヘディングにて2点目を決め、チームは2-1の勝利。1994年創立とまだ歴史の浅いノヴァリャを2部昇格へと導いた。また行政地区内で行われたカップ戦の決勝戦でも2ゴールを決めて、チーム初のトロフィーをもたらす。これを機に間瀬さんはドイツのクラブのテストを受ける準備をしていた。しかしノヴァリャのオーナーの慰留でチームに残ることを決める。しかし一週間後にはオーナーは新たにブラジル人を獲得したため、外国人枠の関係でチームを去ることになったのだ。

【写真:モソール戦にて。このシュートの
角度を変えて得点を決めた】

 その後、シベニクのテストを受け、監督からは欲しいと言わせたものの契約段階で折り合わず。続いて2部のサモボルではテスト合格するが今度は提示額が余りに少なくて合意に至らない。結局は3部のオミシュで2試合ほどプレーしたのち、韓国をはじめ他国のリーグのコンタクトのために2000年9月に帰国した。
「色々と当ってみましたがどれもコンタクトの時点で潰れてしまい、最後に残ったのがクロアチアでした。自分の人生を賭けた時、必ず自分の使命がある所に行くことになる。それがクロアチアだったのでしょう。」
 間瀬さんは2001年1月、再びクロアチアの地を踏む。ザグレブにある2部のクラブ、トルニェへ売り込みを図り、紅白戦でのテストでゴール。直後に膝の怪我をしてしまうが、当時の監督が"怪我をしてでも取りたい"との意向で2月に契約を結ぶ。しかし怪我から復帰後に監督が交替、新たにやってきたズデンコ・ユリチュキ監督から使えないとの厳しい第一印象を言われた。それで奮起した間瀬さんは練習試合で結果を残し、監督は謝罪。それ以後は先発出場を勝ち取ったのだ。
 「トルニェはディナモやNKザグレブのユース出身の選手が多く、ベテランから若い選手まで良い選手が揃っています。しかしチーム自体は運が無いですね。34歳のエース、オドリャンは完全にゴールに嫌われていて、"呪われている"とさえ言われているんです。」
 4月13日、2部リーグ第25節のトルニェ対モソール戦を観戦した。整備不足と朝からの雨でピッチコンデションは悪かったのだが、右オフェンシブハーフで先発した間瀬さんは優れたワンタッチ・コントロールからパス&ゴーを繰り返し、ドリブルしがちの選手が多いチームの中でアクセントとなった。16分のトリッチの先制ゴール後、左へとポジションチェンジし、29分、ペナルティエリア内でのホドルシッチのシュートに間瀬さんが反応し、太股でボールの方向を変えてゴール。これは間瀬さんにとってもリーグ戦で3試合連続の得点だ。しかしチームに運が無いというのは本当だった。前半終了前に右サイドバックのペライッチがペナルティエリアで相手選手を背後から倒してPKの判定。これを決められ2-1。後半に入り65分、今度はトルニェがPKを得るも、呪われたオドリャンがこれを失敗。その1分後にモソールの右FKからヘディングで合わされて2-2。このあと間瀬さんは交代となり、チームは引き分けに終る。チームは勝点22で16チーム中15位。とはいえ、間瀬さんは翌日のSportske Novosti紙での評価は両チームでも最高の「7」を得ていた。

【写真:1924年創立のトルニェのスタジアム入口にて】

  クロアチア・リーグは当りの厳しいサッカーであるのだが、身長170cmと決して大柄ではない間瀬さんはこの状況下でも自らの個性を活かしている。
「空手をやっていたこともあって、こう見えても当りには強いんですよ。最初の段階で自分のサイドのDFにぶつかっておくと相手はビビッてしまい、以降はこちらが優勢に立ちます。また僕みたいにスピードがある選手は重宝がられますね。」
 身体能力派のプレイヤーだと自己分析するが、クロアチアで揉まれたこともあってテクニックも兼ね備える。ドリブルや切り返しなどではトリッキーな動きも見せる。
「僕は苦手を克服することで作られてきた選手です。昔は速さとゴール感覚、ガッツだけが特徴でした。しかし海外で自分を磨きながら、サッカー選手として必要なあらゆるものを身に付けました。」
 プレーレベルだけでなく、選手としての重要要素の一つ"経験"を加味すれば、1部リーグに活躍の場を移したところでも何の不自由無くプレー出来るだろう。
「クロアチアはスピード、フィジカル、スタミナのいずれもが、これまでプレーした中で一番水準が高いです。オフェンシブハーフのポジションはどのチームでもプロシネツキのようなテクニシャンのプレーメーカーを据え、またそういった選手が育つ土壌がありますが、僕はアシストもゴールも決めるオフェンシブハーフです。中南米のチームは戦術が未熟でしたが、クロアチアは監督の戦術に沿ったサッカーをします。しかし僕としては意外性とタイミングを持ってして、その戦術を破る必要性があると思っています。例えば、左サイドから右サイドのスペースへと走り込むことで相手DFを撹乱してゴールチャンスを作ります。しかし試合を通してやってしまっては監督の意思に背くので、ここぞという時だけに自分の経験から来る勘で動き出します。ゴールを奪えば監督も怒りませんからね。」
 トルニェのユリチュキ監督は間瀬さんのプレーをこう分析した。
「多少、戦術面に問題はあるが、アグレッシブさ、フィジカル、機敏さ、ドリブル、跳躍力に特長を持つ。とりわけスピードは素晴らしい。彼は本当に良い選手だよ。」
 "レベルが上がるほど選手や監督は情熱家が多い"と語る間瀬さんはクロアチア人の特徴をこうも捉える。
「彼らは普段の生活と試合の時の切り替えがきちっとしています。例えば、フルヴァツキ・ドラゴヴォリャッツでテスト生だった時、プロシネツキがAチームのゲームメーカー、僕がBチームのゲームメーカーをしたのですが、タバコと酒で冒されているプロシネツキは試合になると全く違うんですね。ボールを奪うどころか、身体さえ触れることが出来ない。ランニング練習はサボっているのに。あの切り替えは凄いと思いました。」
 ちなみに間瀬さんはタバコは吸わず、酒も付き合い程度で健全な生活を送っている。

 トルニェは3部降格が決まっているが、"ザグレブ・サッカー協会カップ"では順調に勝ち進み、5月1日の準決勝・対ディナモ(オドランスキ・オブレズ)戦では59分から途中出場。1ゴール1アシストで、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。5月7日にはクロアチア・セスベッテとの決勝戦が行われ、後半頭からFWで出場。チャンスメーカー的な役割として全てのパスを通し、また幾度もファウルを誘うが、終了間際のディフェンスのミスで失点。0-1で準優勝に終る。

【写真:試合前に記念品を手渡される】
 間瀬さんにとってトルニェでの最後のプレーは5月11日の2部リーグ最終節。対戦相手は因縁にも彼が昨季に2部昇格へと導いたノヴァリャであった。ノヴァリャは2部リーグ最初のシーズンながら3位との好成績を残し、ホームではまだ無敗。一方、トルニェはサスペンションやレンタル選手の返却などで7人のレギュラーが欠けていた。休憩を挟み、ザグレブから7時間掛けてバスはノヴァリャへ。到着するや否や、ノヴァリャの関係者は熱い抱擁で間瀬さんを迎えた。観客席からも「マセ!」と温かい声援が飛ぶ。背番号10のユニフォームを身にまとった間瀬さんには、ユリチュキ監督の粋な計らいでキャプテンマークが与えられた。クロアチアリーグにおいて、日本人初の公式戦ゴールを決めたのが彼ならば、日本人初のキャプテンとなったのも彼であろう。整列後、トルニェのヴラド・クラジッチ局長からチームの歴史が綴られた本とペナントが彼の手へとプレゼントされた。この日のポジションは左オフェンシブハーフ。劣勢が予想されたトルニェであったが、ユースから連れて来たGKドイモヴィッチが大当たり。また幾度とトルニェもチャンスを作る。間瀬さんも左サイドで効果的な繋ぎから前線への飛び込みを見せた。25分、左からのパスを貰ってペナルティエリアへと切れ込み右フリーの選手へとラストパスを送るが、タイミング合わずに打ち切れず。39分にはエンドライン近くでDFを緩急で交わしてセンタリングを挙げる。後半は終始ノヴァリャのペースであったが、攻撃を凌ぎ切ってトルニェは価値ある引き分けを手にした。試合終了後、間瀬さんは元チームメイトのカルロスと肩を抱き合いながらピッチを離れる。顔には90分間走り回った疲れは無く、丸2年間に渡るクロアチアでのキャリアにおいて一つの集大成となったこの日の満足さが表情にと出ていた。

  
【試合前に整列するイレブン。
主将の間瀬さんは前列中央】

  【当りの強いクロアチアにおいても、
フィジカルとスピードで切り抜ける】

 間瀬さんにとってクロアチアでの悩みは「給与の少なさと遅配」であった。ノヴァリャ時代は月2万円ほどの給与はきちっと払われ、また宿もあてがわれ、食事に関してもレストランのオーナーなどが引っ切り無しに呼んでくれたことから生活に困るまでは至らなかった。しかしトルニェではノヴァリャ同様の給与とほぼ同額のアパートに住みながらの自炊生活をしてきたため、中南米や帰国中にバイトで稼いだ貯蓄を切り崩していたという。
「これまでプレーしてきた中で今が一番レベルが高いリーグなのですが、クロアチアは"サッカーで食っていけない"国です。今後は"サッカーで食っていける"国でプレーを考えてます。」
 今、間瀬さんが新たなプレーの場としてコンタクトを取っているのはシンガポール・リーグのクラブだ。トルニェのチームメイトであるDFボヤン・ホダックが5年間同国でプレーしたこともあり、彼からシンガポールのサッカー事情を仕入れていた。
「レベルの高いクロアチアでやってきたことは、自分のサッカースタイルの仕上げになりました。シンガポールに限らず、クロアチア一部リーグや他国でもやっていける自信はあります。もちろんJリーグでもね。」
 英語・スペイン語・クロアチア語を操る間瀬さんには海外駐在員として働かないかとの話もある。しかしサッカーへの情熱は薄れることなく、34歳ぐらいまでは現役を続けていくつもりだ。
「人として最大に自分を磨けるのが、海外のサッカー生活を送ることだと思っています。プレーや語学力は言うまでもなく、一番大事なことは人格が磨れていくことです。また外国人選手として海外でプレーすることには誇りも感じています。Jリーグでプレーするならば? その場合だけは国内選手という扱いになりますね(笑)」

「アイモ、シュー!!」(行こうぜ、シュー!!)
"シュー・マセ"の冒険はこれからも続く。

【後記】
一時はシンガポールでのプレーを考えていた間瀬さんだが、帰国後に現役引退してJリーグ通訳への転身を決意。夏の間はアルバイトで資金を作り、2002年9月に再渡航。クロアチア語完全習得のためザグレブ大学に通う(僕と間瀬さんはアパートで共同生活)。2003年1月、ジェフユナイテッド市原で通訳をすることが決まり帰国。現在はイヴィツァ・オシム監督の専属通訳を務めている。

 

間瀬秀一さんのデータ

生年月日 1973年10月22日
身長・体重 170cm, 70kg
ポジション オフェンシブハーフ、フォワード、サイドハーフ

主なプロ経歴

クラブ 成績
1997年 アメリカ Golden Eagles (2nd division) 12試合 2得点 4アシスト
1998年 メキシコ Side kicks , Aguilas Mexico
(indoor soccer 1st division)
  −
1999年 グァテマラ Amatitlan (2nd division) 11試合 2得点 7アシスト
    Mictlan (2nd division) 5試合 2得点 6アシスト
2000年 エルサルバドル San Luis Talpa (2ng division) 4試合 3得点 1アシスト
  クロアチア Spansko (3rd division) 11試合 8得点 3アシスト(練習試合含む)
    Novalja (3rd division) 17試合 10得点 3アシスト
2001年   Trnje (2rd division) 12試合 4得点 1アシスト

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