現地発、クロアチア・サッカー報告(2)
"ミウラ"の亡霊に悩まされたディナモ・ザグレブ
ザグレブの東、マクシミール地区。ディナモ・ザグレブの本拠地となるスタディオンがあるのだか、トップチームの練習を見に来る者は片手で足りるだろう。むしろ、ユースを見届ける父親達のほどがずっと多い。そんな平穏なマクシミールに1998年秋、一隻の黒船がやってきた。日本からの「ミウラ」という黒船が。ワールドカップ開幕直前に代表から外され、ヴェルディも解雇。そんな彼が三度目となる海外移籍に選んだクラブは、当時はまだ「クロアチア・ザグレブ」と呼ばれていた欧州の一クラブだった。契約は2年。ミウラ番として極東からの報道陣が大挙して押し寄せ、練習後、監督に対しては口を揃えて「ミウラを起用しないのか」の質問ばかり。様々な圧力で起用されたにもかかわらず、公式戦では一本のシュートも決められないミウラに顔をゆがめるサポーターは少なくなかった。シーズン後半にユースのイリヤ・ロンチャレヴィッチが監督に就任してからというものミウラの起用は少なくなったのだが、スカイパーフェクTVでクロアチア・リーグの解説を任せられた風間や都並は、何一つディナモの他選手を理解してない癖して「ショコタやシミッチといった若手を起用するより、経験のあるミウラを使え」と、オウムのように唱える。僕は1999年3月にザグレブを訪れ、異常なまでの「ミウラ狂騒曲」に腹立たしさばかりが残った(詳しくは「Ja ne volim Miura, Ja volim Mikic.」を参照)。結局、ミウラは一本のシュートを決められないまま1998-1999年シーズンを終えた。とはいえ、ディナモはインチキ優勝でチャンピオンズ・リーグ出場を手にする。ミウラはチームで完全に浮いた存在となっていたが、次なる野望を「日本人初のチャンピオンズ・リーグ出場」に定めた。しかしアルディレス監督が就任して直ぐに彼に対して戦力外通告したのだ。ディナモに肩入れしたトゥジマン大統領が1999年12月に死去、3ヶ月後にはクラブの名前もディナモ・ザグレブへと復活する。HZD(クロアチア民主同盟)党員であり、ミウラ獲得を指示したズラトコ・ツァニュガも会長の座から追われた。ようやくマクシミールにかつての平穏が訪れていた。
あれから2年、ザグレブにミウラが亡霊となって再び騒ぎ始めた。ミウラは契約期間の50万ドルの給与未払いをUEFAに訴え、6月頭にはディナモは処分を受けるという話題がメディアを賑わせ始めた。UEFAに続いてFIFAも動き出し、7月20日までにミウラにお金を払わないと今後移籍に関して一切の交渉を凍結するという処分を通告された。ディナモはこの期限を守れず、移籍凍結の制裁を受けるはめとなり、7月28日にクロアチア・リーグが開幕しても新加入の選手を使えない状況に置かれた。バラバン、ショコタ、ボスナーといった選手を売却することでようやく資金を確保。8月22日の制裁解除まで実に3ヶ月を要したのだった。
このミウラ騒動に加えて、ディナモは99年末にヴァルテクスから獲得したMFミリエンコ・ムムレクの問題も持ちあがる。鳴り物入りで入団したのに、大怪我を負って2シーズンを棒にふる。ようやく今季は使える目処が立ったのに、結局のところ彼も移籍金と給与未払いのためにディナモを去ることになった。毎月発刊されるディナモ・ザグレブの機関紙第47号(2001年9月)にはこの二人を巡った騒動を、それぞれの頭文字を取って「Fenomeni
M-M」(M-M現象)と題して異例の記事が掲載されていたので紹介しよう。
「M-M現象」
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結局のところ、紐付き移籍だったミウラ。クロアチアリーグは直前に試合開始時刻が変更されるのはザラなので、スカイパーフェクTV側が苦情を訴えていたのは聞いていたが、ディナモ・ザグレブは契約不履行と途中解雇までは計算に無かったようだ。ミウラ獲得は高い代償となったが、彼を圧力のままフォワードの一角に使ったのならば、トミスラフ・ショコタ、ヨシップ・シミッチ、ミハエル・ミキッチといった若手の成長、リエカからのボシュコ・バラバンの獲得、ドマゴイ・アブラモビッチ、ダリオ・ザホーラ、ニコ・クラニチャールらユース世代の夢は失われていたわけであって、今となっては全てがOKといったところだろうか。ちなみに現在、ムムレクはヴァルテクスのキャプテン、司令塔として活躍している。
コラム「ヒデトシ・ナカタ」
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