現地発、クロアチア・サッカー報告(34)
ディナモのお爺さん
〜 エディン・ムイチン インタビュー
ディナモ・ザグレブにはJリーグを経験した二人の選手がいる。二人ともディナモの中心選手として名を高めてからJリーグのクラブへと移籍。退団したあとはディナモへと戻ってきて、再び若手選手を引っ張る存在となっている。似た経歴の二人に続けて、それも限りなく似た内容でインタビューしようというのが今回の企画である。
ディナモ・ザグレブにやってきて10年。チーム最年長のエディン・ムイチン(35)は、若いチームメイトから「デド」(お爺さん)という愛称で親しまれている。ディナモがチャンピオンズ・リーグに二年連続出場した時代を知る唯一の彼にとって、今季のディナモの不振は悲しみ以外の何物でない。しかし今回のインタビューでは、この10年間でディナモ以外に在籍したたった一つのチーム「ジェフユナイテッド市原(現:市原・千葉)」時代の想い出を中心に語ってもらった。豊かな表情とアクションで日本の一年余りの生活を語るムイチンの姿は、まるで孫に昔話を語るかのようだった。
【写真:ムイチン(左)とセドロスキ(右)】
−まずは、ジェフ市原からオファーを受けた経緯は?
「MFが一人必要だということで、当時の監督であるズデンコ・ベルデニックから直接にコンタクトがあった。チームにはミリノヴィッチもいて、どの選手をジェフに呼ぼうか話し合った際に私の名前が挙がったそうだ。嬉しい話だよ。」
−オファー後から移籍を決断するまでは?
「わずか一日だった。国外でプレーする必要があるという意識は何年間もあったので、オファーを聞いたその日のうちに決断をしたのさ。」
−日本、そしてJリーグへとやって来た当初の印象は?
「日本に到着して直ぐに、市原と名古屋との試合を観戦した。まだピクシー(ストイコヴィッチ)が名古屋でプレーしていたよ。Jリーグのクオリティは非常に高いと感じたし、ブラジル人をはじめとした外国人選手もたくさんいた。運営面、スタジアム、観客などあらゆる点が最高水準だったね。ワールドカップ開催が近づいていたので、日本人はJリーグでも良い準備を心がけていた。ヨーロッパの審判が試合の笛を吹いたこともあった。もしかしたら私は最も良い時期にプレーしたのかもしれない。ワールドカップを最高の形で運営しようというのがリーグにも反映されていたからね。」
−時間が経つにつれ、日本での生活は?
「日本はこちらの生活スタイルと違うから、少し非日常的ではあったけどね。一人で生活を始めた頃は辛かったけど、二週間もしたら妻と子供達がやってきて一緒に生活を始めた。家族が一緒ということは本当に楽だね。」
−家族も日本の生活に慣れた?
「もちろん。私の子供も幼稚園に行き、日本語も覚えていたよ。家で子供が喧嘩をはじめたら日本語も少し使うので、私にとっては驚きだったけど(笑) 妻も日本料理を気に入ってね。日本食は重くないし健康的だから女性は好むはずだよ。妻は近所の日本のおばあさんと知り合いとなり、日本料理のレシピを妻に渡してくれてね。妻は逆にクロアチア料理やボスニア料理のレシピを彼女に渡していた。日本人は誰もが良心的で、色々と助けてくれたよ。」
−あなた自身は?
「ああ、私はどんな環境でも早く慣れるタイプだからね。物価はこちらと比べると高かったのは確かだけど、それでも直ぐに日本社会に適応してしまったよ。」
−Jリーグとクロアチア・リーグの違いは?
「クロアチアも決して悪いリーグではないし、弱小リーグと断定することは出来ないよ。もしかしたらJリーグよりもここでプレーすることが難しいだろう。クロアチアにも優秀な選手が集まっているし。しかしJリーグには高いクオリティがあった。なぜなら外国人選手が多くいて、外国人監督がチームを率い、多くのお金が投資されているからだ。そういう点からクロアチア・リーグよりもJリーグの方がずっと質が上だと言うことが出来るだろう。」
−日本人選手の長所・短所を挙げると?
「長所としては懸命に働き、学ぼうという姿勢が挙げられる。ヨーロッパにならって彼らは多くを学び、そして進歩してきた。そして日本はワールドカップにおいて、どんな相手とでも互角に渡り合えることを見せつけた。一方で、ある時になると責任を自分に背負いたがらないところが日本人の短所かもしれない。ピンチが訪れると外国人選手が全て解決することとなる。とはいえ、日本人選手は本当に多くの進歩を成し遂げ、それを世界に証明しているよ。」
−チーム内でのコミュニケーションは?
「ベルデニックやミリノヴィッチとは楽に話ができた。私は英語がそれほど堪能ではないけど、チームメートの日本人もそうなので、お互い知っているレベルの英語でやり取りをしたよ。それから挨拶をはじめとした日本語も少し覚えた。もっともコミュニケーションはボディランゲージが多かったけどね。」
−ベルデニック監督はどんな人物だった?
「"偉大な労働者"、"真のプロフェショッナル"と言える人物だった。市原で彼は大きな成功をもたらし、総合3位(1st.ステージ…2位、2nd.ステージ…5位)という成績でリーグを終えた。その一年前は何とか残留したチームだったわけだからね。彼は名古屋に引き抜かれ、その後は仙台で指揮したわけだけど、朝から暗闇になるまで練習場に残っているような"働き者ぶり"を見せていた。いつもプログラムを綿密に作る辺りは日本人のようだね(笑) 日本では一ヶ月前からプログラムが決められ、どれも時間通りにやらなければならなかった。例えば昼食が12時となっていて、12時15分にしないかと言ったら"なんで15分も?"と返されたよ(笑) 日本は何でも時間通りだから。」
−後任のベングロシュ監督はどんな人物?
「"偉大な専門家"だったね。サッカーを本当に良く知っていたよ。彼も多くの功績を残したと思う。」
【写真:彼の左足の技術はリーグ随一だ】
−なぜあなたはジェフを離れることになったのか?
「一年契約で入団し、それから半年間の契約延長をした。しかしながら、新たな監督がチームにやってきて、その監督が自分の教え子を連れてきてしまい...というケースはよくあることだ。私の場合はベングロシュがモラフチクを連れて来た。結局、37歳のモラフチクは怪我で使い物にならなかったわけだけど...。こういった問題はどんな選手においても起こってしまうものだ。私が監督だったとしても、良く知っている自分好みの選手を連れてくるだろうからね。私は市原で良いプレーをし、チームとしても良い結果を残したと思っている。本当は市原にまだ残りたかった。半年間の契約延長をしたところでモラフチクが来てしまったために話が変わってしまった。ちょうどJリーグにも日本の生活にも慣れていた頃だったのにね。」
−ここ最近はクロアチア・リーグからの選手が日本に慣れないまま失敗するケースがあるが、それに関してはどう考えるか?
「生活における日本のメンタリティに慣れるのは難しいよ。君もここにいるなら、大きなメンタリティの差があることが解っているだろう。ここでは全く働かない人間が良い生活を送っているのだから(笑) 日本人は全員が朝から夜まで働いているからね。我々は人生というものをずっと楽しんでいるかもしれないね。」
−ジェフを除けば、どのチームのサポーターの応援が良かった?
「思うに浦和レッズが最高のサポーターを持っているだろう。どんな相手でもスタジアムは満員だった。良い結果であれ、悪い結果であれ、いつもサポーターで埋め尽くされていた。小野選手がフェイエノールトに移籍する際のお別れ試合は記憶に残っているよ。彼らがもっとも"炎のような"サポーターだろうね。」
−クロアチアのサポーターと日本のサポーターを比較すると?
「こちらはずっと過激だよ(苦笑) 日本のサポーターは普通に応援してくれるからね。私が信じられなかったのは、試合後にサポーター達が選手バスの近くに整然と集まって見送ってくれることだった。"えっ、これは何?"と声を挙げてしまったよ。もしクロアチアだったら力ずくでサポーターが選手からユニフォームを奪っていくんだから。その点、日本のサポーターはずっとノーマルで教養があるよ。選手達にも挨拶してくれるし。私が彼らに挨拶すると"ムイチン!"と叫んでくれたよ。ここと比べると選手を見る目が全く違うね。」
−どこのスタジアムが印象に残っている?
「鹿島スタジアムかな。私の頃はワールドカップ開催に向けてスタンド拡張が終わる前だったけど。あとは国立競技場が挙げられるね。」
−サッカーに対する日本のメディアに関しては?
「何が書いてあるか理解できるわけではなかったし、ジャーナリストとのコミュニケーションもなかった。ヨーロッパのように悪意を持って書かれているのかどうかは判らなかったよ。ここは悪意のあるジャーナリストばかりだからね(笑) もしかしたら日本にもそういうジャーナリストがいるのかもしれないが、私は全く判らなかった。だからメディアとの間に全く問題は無かったよ。」
−現在のジェフについては?
「私が在籍していた2001年からジェフ市原はリーグの上位に食い込むようになったきたよね。今は安定したチームが出来たのだろう。動向はノンストップで追っているよ。先日の試合(4/28、ガンバ大阪戦)に勝ったことは嬉しいね。今は名前が千葉に替わったのかい? こちらのサッカーくじ屋などでは"JEF UNITED CHIBA"と表記されることもあるんだけど...。(広域化を説明すると)それは知らなかったね。」
−オフには、どこか国内旅行をした?
「東京ディズニーランドと東京ディズニーシーには家族を連れてひっきりなしに訪れたよ。あと水族館や東京ドイツ村も行ったね。スタジアムとホテルの往復が多くて、日本のどこが一番良かったか絞るのは難しいよ。敢えて挙げるとしたら東京かな。二度ほど訪れて東京の生活というのを見たけど、もっとも興味深い場所だった。」
【写真:キャリアの終わりは近づいているが
チームにおける彼への信頼は厚い】
−今季のディナモ・ザグレブで起こった不振に関してはどう分析する?
「これはディナモの歴史において最悪のシーズンだ。ディナモは大きなクラブだ。リーグを追っている君も今が最悪だとは判っているだろう。しかし私もなぜこれほどまでの大失敗に陥ってしまったのか解らない。誰もが原因を尋ねてくるけど、説明するのは本当に難しい。私はディナモに来て10年の最古参な選手なわけだけれど、これほど酷いことはこれまでに無かった。」
−今の若い世代の選手達において、才能やメンタリティに変化があるのか?
「それは間違いなくあるだろう。かつては選手にクオリティがあったが、今はそれがどんどん悪くなっている。また現在は少しでも成功した若い選手、また価値があると見られた若い選手は直ぐに国外へと売却されてしまう。25歳になるまで選手の国外売却を禁止するといったルールを適用する必要があるのかもしれないね。しかしながらクロアチアのクラブは資金がないので、価値ある選手は直ぐに売却してしまう。お金が最大の問題だよ。」
−あなたの祖国ボスニア・ヘルツェゴビナの代表チーム、そして国内リーグに関しては?
「代表にはいつも優秀な選手達がいる。これまで大きな結果は残してないけど、多くの選手が欧州の名のあるクラブでプレーしている。国内リーグとなるとは話は少し別だ。クロアチア・リーグよりもクオリティが落ちる。クロアチアのクラブの方がまだ投資額が多いからね。結局はお金に繋がってしまう。資金がないクラブはクオリティもない。ボスニアにはお金がないからね....」
−周辺国との地域リーグ結成のアイデアに関しては?
「各国から2,3チームの強豪が集まってリーグを結成するならば、クオリティという点では素晴らしいだろう。しかしながらサポーターの行動を考えるとトラブルが発生してしまう。この地域の民族間は少し複雑なので、地域リーグ結成は良くないのかもしれない。」
−今後のキャリア、そして引退後は?
「自分のためにも小さなクラブでもう一年ほどプレーを考えている。もしかしたらディナモに残るかもしれない。来季の新監督(ヨシップ・クジェが内定)の構想に入るのならばね。あとボスニア・ヘルツェゴビナでコーチ・アカデミーに登録しており、将来的にはコーチになるつもりだよ。」
−日本での経験は現在のあなたにどのような影響を与えている?
「日本における全てのことが最高の経験、そして最高の記念として自分の中に刻まれている。日本では違う世界、違う文化を見ることができた。お金を払えば誰でも日本にも行けるだろうが、私はサッカーを通して日本と接する可能性を持てた。本当に最高の経験だった。」
−日本のサポーターにメッセージを。
「私を支えてくれた市原の皆さんにまずご挨拶をしたい。また私のことを覚えている日本の皆さんにも宜しく伝えたい。日本での滞在は本当に本当に最高だった。今後も同じように応援を続けていって下さい。私における皆さんの評価は“5”だから。」
| エディン・ムイチン Edin Mujcin 1970年1月14日、ボスニア・ヘルツェゴビナ(当時はユーゴスラビア連邦)のボサンスキ・ブロード生まれ。 身長174cm、体重72kg。愛称はエド、デド。 左足の正確な技術と明晰な状況判断からゲームをコントロールするセントラルMF。攻撃的なポジションを得意とするが、ボランチや左アウトサイドもこなせる。 クロアチアとの国境に近いボサンスキ・ブロードで生まれたムイチンは、故郷ボスニアのポレット・ボサンスキ・ブロードでキャリアをスタート。その後、対岸のクロアチアのクラブ、マルソニア・スラヴォンスキ・ブロードに4年間在籍。そこでプレーしていたところを、ディナモ・ザグレブのスポーツ・ディレクターであるヴェリミール・ザイェッツ(現ポーツマス・ディレクター)の見出され、1995年末にディナモ(当時はクロアチア・ザグレブ)へ移籍した。並み居るタレントを揃えた黄金時代のディナモにおいて、ロベルト・プロシネツキと中盤のダブル司令塔をこなし、プロシネツキが去った後も中盤のリーダーとしてディナモで活躍した。2000年にはクロアチアリーグの最優秀選手に選ばれている。 プレミアリーグのレスターシティが関心を示していた中、2001年春にジェフユナイテッド市原に一年契約で移籍。移籍金110万ドル(推定)とされ、ムイチンにも半分の移籍金を受け取る権利があったにもかかわらず、彼は未払い給与40万ドルとともに受け取りを放棄して経営難のディナモに譲ったという経緯がある。ジェフのムイチンは攻撃的MFとして活躍し、年間総合3位という好結果に貢献した。2002年に半年間の契約延長をするものの、ヨゼフ・ベングロシュ新監督が教え子のルボミール・モラフチクを連れてきたために契約切れと共に退団した。Jリーグ通算33試合出場3得点。ナビスコカップ8試合出場、天皇杯1試合1得点。その後ムイチンはディナモ・ザグレブに復帰。2002/03シーズンはチーロ・ブラジェヴィッチ監督率いるディナモで優勝を果たしている。 若い選手の多いディナモ・ザグレブにおいて模範となる彼は「デド("お爺さん"の意)」という愛称で呼ばれている。双子の兄弟のゼミールもかつてはプロ選手で、ディナモに移籍するまで一緒のクラブでプレーしていた。 ボスニア・ヘルツェゴビナ代表として1997年6月のデンマーク戦で初キャップ。当時はクロアチア代表入りの打診もあったが、当時のタレントの多さからレギュラーとしてプレー出来るボスニア・ヘルツェゴビナ代表を選択している。ボスニア代表では23試合出場3得点。 |
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