現地発、クロアチア・サッカー報告(31)

ニコ・クラニチャールのハイドゥク移籍劇


【写真:ハイドゥクのユニフォームを着たクラニチャール
右が姉のラナ、左が彼女のシモーナ

(提供:Sport-net)

「Ponosan sam kaj sam Purger. (僕はザグレブっ子であることを誇りとしている」

 ディナモ・ザグレブのユニフォームの下に彼はこう記したシャツをいつも着込んでいた。「彼」とはニコ・クラニチャール。ザグレブに生まれ、父ズラトコがプレーするウィーンで幼少期を過ごしたあとはザグレブに戻り、ディナモで育った。16歳でトップデビューすると、18歳でディナモの主将に。クロアチア代表でも司令塔を任されるディナモのアイドルが2005年から別のユニフォームを着る。それも国内のライバルであるハイドゥク・スプリトのユニフォーム。誰がこんな展開を予想できただろうか?

 ニコにとって2004年は災難の年だった。1月のオフに父が監督を務めるクロアチア選抜メンバーの一員としてドイツのフットサル大会に出場、それが事前連絡なしだっためクラブ側から罰金を受けたのがケチのつき始め。2月のドイツとの親善試合に代表召集されたものの鼠頸部の怪我で見送り。その後も無理して国内リーグに出場したため鼠頸部の症状は悪化し、代表でテストされる機会も逃してしまう。ハイドゥク・スプリトとのマッチレースとなった国内リーグでは優勝を手中に収めながら、第31節のザダールとの引き分けが響き、ハイドゥクの後塵を拝して2位に。フィジカルが優れないまま出場したU-21欧州選手権では本来の力を発揮できずにグループリーグ敗退すると、席が確定しているといわれたユーロ2004のメンバーからも最終的に落選してしまった。移籍金500万ユーロ以上の価値があるとされていた彼の評価も下がり、オフでの国外移籍は実現しないまま2004/05シーズンも再びディナモのユニフォームに袖を通した。敬愛する父ズラトコがクロアチア代表監督の就任したとはいえ、ディナモでの彼にはイバラの道が待ち構えていた。

【写真:ディナモのユニを着た最後の試合・対ハイドゥク戦
    2005年は相手チームのユニフォームを着る

 ディナモの低迷には前レポート(「低迷するディナモ・ザグレブ」)にも書いた通り。ディナモは大型補強をしながらも、事前キャンプでのフィジカル準備失敗と新加入選手が適応出来なかったことで、スーパーカップでのハイドゥク戦惨敗以来、不甲斐ない戦いを続けた。開幕して間も無く、不振の責任を選手に押し付けたニコラ・ユルチェヴィッチ監督と主将のニコが衝突、ニコは公にユルチェヴィッチを批判した。ユルチェヴィッチはニコに出場停止処分を与えたものの、ニコが味方とする世論に押し潰された形で辞任を発表。ユルチェヴィッチに全幅の信頼を与えていたディナモの"天皇"ことズラドヴコ・マミッチ副会長の怒りは、次第にニコに向けられることとなった。マミッチは副会長の肩書きながら代理人会社を経営し、多くの契約選手をディナモに抱えているものの、ニコはマミッチの会社とは契約せず、ダヴォール・シュケルと代理人契約を結んでいる。マミッチにとってニコは面白くない存在だ。その後もニコ自身はコンデションが上がることなく、主将の役目も務められないチームも空中分解。ディナモは監督交替を繰り返し、4人目のイリヤ・ロンチャレヴィッチ監督のもとではレギュラーから外されてしまっていた。
 12月2日、UEFAカップのグループリーグ突破が掛かったホームでのへーレンフェーン戦。勝利が義務だったディナモは勝ち試合を最後の最後でフイにしてしまったのだが(2-0から残り10分で2-2に)、ニコはベンチに縛り付けられたままゲームを終えた。12月5日、ディナモは首位ハイドゥク・スプリトの敵地に乗り込み、ウィンターブレーク前の最終決戦に挑む。ハイドゥクとは勝点差5を離されたディナモにとって負けられない試合であったが、再びニコはベンチに座らされた。70分にようやく交替出場するも見せ場はなく0-1の敗北。UEFAカップのリーグ最終節シュトゥットガルト戦は背中の怪我のため出場することなく、ニコの2004年は終わる。ディナモの念願だった34年ぶりのヨーロッパカップ戦の「冬越え」も夢と消え、国内リーグでは首位ハイドゥクと勝点差8の7位。怒りのマミッチ副会長がぶちまけたのは「全選手20%給与削減」「反対する選手は戦力外」という通告だった。

【写真:クラニチャールと対立したマミッチ副会長】

 マミッチ副会長が中東のドバイに休暇へ出かける中、スポーツ・ディレクターも兼ねるロンチャレヴィッチ監督と選手一人一人の間で給与20%削減合意による交渉が続けられた。渋々サインをする者、チームを去る者と分かれていく中、主将のニコの動向に注目が集まった。12月23日、最初の話し合いでニコは20%削減のサインを拒否。「給与削減に承諾することは、選手達だけが失敗の罪をかぶることになる。フロント側も責任を果たすべき」だと会見後にマスコミに発言した。27日、ドバイから戻ったマミッチ副会長は即刻、ニコを移籍リストに載せることを発表した。

 「クロアチアのメディアと世論、サポーターがニコ・クラニチャールをチームの"イコン"として祭り上げただけだ。クラニチャールがディナモに何を与えたっていうのだ? みっともないプレーを振り返るつもりはない。あのガキは我々を破滅させてきた。完璧なプレーをし、得点を決めることを妨げる人物はいないんだぞ。奴はクラブ、フロント、監督.......あらゆる全てを軽視してきた。オットー・バリッチとロンチャレヴィッチを侮辱し、ユルチェヴィッチがミーティングで話している最中に机の下でチームメイトに向けて中指を立てていた。バリシッチ会長夫妻のことを"耄碌(もうろく)した老人"とまで呼びやがって。奴のどこが、よく教育された子供ってんだ?」

 
マミッチ副会長はマスコミに向かってニコへの怒りをとマスコミにぶちまけると、ニコはその同日に悲しみと共にマスコミに向けて反論する。
「これは人生において最も辛い瞬間だ。自分の感情をなんて表現していいか判らない。いつもディナモは紳士のクラブであり、プロのマナーをわきまえたクラブだと思っていたが、ロクに話し合いもせずに選手を抹消するクラブっていったい何だ? マミッチが言ったことは全て嘘だ。彼は僕を叩くチャンスを見計らって勝手なことを言ったのだ。僕を知っている人間ならば、そんなことを言うはずはないと知っている。マミッチが言ったことなど信じないでくれ。いつでもディナモに残りたい。マミッチ以上のディナモ人なんだから!」

 二人の関係は修復することなく、ディナモを去ることは決定的となった。まず最初にニコにオファーを送ったのはウクライナの雄ディナモ・キエフ。ディナモ・ザグレブはニコは2003年1月にこのような契約を結んでいる。
「移籍金300万ユーロ以上ならば無条件に放出する。その際の移籍金のディナモとニコの割分は50:50である。」 
 つまりクラニチャールが移籍金の取り分を放棄してでも、ディナモの口座に150万ユーロ入る取引である限り移籍は可能。ディナモ・キエフのオファーは「移籍金200万ユーロ+次の移籍の際の移籍金30%」を譲渡というもの。スルキス会長は直ぐにでも出迎えの飛行機を送り出す準備をしていた。しかしディナモ・ザグレブ残留を第一希望とするニコは即答せず。続いてリエカのイェジッチ会長がニコ獲得を希望したものの、プレーコンセプトの見直しをしなくてはならないことから現場側が反対。シュケルと共同作業で代理人を務めているディノ・ポクロヴァッツは逐一、ニコの移籍状況をリークすることでマスコミの寵児となった。イタリアに太いパイプを持つ代理人マルコ・ナレテリッチ氏(ボバンやヤルニらの代理人)も動き、レッジーナやパルマ、ミラン獲得→即レンタルという話などが出るが、ポクロヴァッツ氏らと対立。大金が飛び交うビジネスだけに縄張り争いにも敏感となっていた。ディナモ側は既にニコ抜きのチーム作りをはじめ、インテル・ザプレシッチにレンタルさせていたU-21クロアチア代表司令塔ルカ・モドリッチを引き戻すことを決定。ロンチャレヴィッチ監督も「クラニチャール抜きの方が強い」とまでコメントを残した。

【写真:評価を上げたイゴール・シュティマッツ】
 
 1月6日、ハイドゥク・スプリトのスポーツ・ディレクター、イゴール・シュティマッツがポクロヴァッツとザグレブで接触。ハイドゥクがニコの獲得レースに参戦することが知れ渡る。誰もが冷やかしか冗談だと思っていたのだが、シュティマッツは語る。
「自分の個人的な資金をニコ・クラニチャールに投入するつもりだ。私、そしてハイドゥクからのオファーは妥当で最高のものである。既にテーブルの上にオファーを出したのだから、あとはニコと彼のキャリアを世話している全員が決めてくれればいい。もしOKなら全ては明らか。クラニチャールがハイドゥクでプレーするということだ。」

 シュテマッツとマミッチは犬猿の仲として知られている。マミッチはハイドゥクのニコ獲得を単なる挑発と取り、のちに「ハイドゥクを買収する考えがある」との挑発を返した。そして「ニコが欲しけりゃ、どうぞ。150万ユーロ払ってくれるのならね」という財政難のハイドゥクの足元を見据えた態度をとったのだが、シュティマッツは本気だった。彼はまず先にシュケルとポクロヴァッツにコンタクトを取って、「これは真剣なビジネス」だとして説得を図った。そして書面にて最初のオファーを出し、50万ユーロの価値がある別荘も準備したのだ。

 続いてニコを新たに狙うクラブとして登場したのはポーツマス。セルビア人ビジネスマンのマンダリッチ会長とポクロヴァッツが12日に話し合いをするも、それ以上の進展はなし。獲得後にレンタルへ出す考えにニコ側が合意できず、またディナモのスター選手だったポーツマスのザイエッツ監督もザグレブへと足を運んで説得することもなかった。続いてCSKAモスクワが移籍金250万ユーロ、4年契約総額700万ユーロという好条件を提示。移籍金300万ユーロというオファーを出したスパルタク・モスクワとの話し合いも含めてポクロヴァッツはモスクワへと飛ぶ。活発な動きの中、あくまでニコはマスコミに沈黙を通した。トップチームの練習に加わることが許されない彼は、ディナモのコンディショニング・コーチと共に通い慣れたマクシミールで練習を繰り返す。好物のケーキとコーラをやめ、太りすぎと指摘された体重も3kg落としていた。

【写真:ニコの代理人ディノ・ポクロヴァッツ氏
(提供:Sport-net)

 1月20日、シュティマッツはブランコ・グルギッチ会長とディレクターのフレディ・フィオレンティーニを引き連れてディナモの本丸へ乗り込む。彼らは書面によるディナモ向けの正式なオファーを携えていた。シュティマッツは資金調達に成功したのだ。ディナモのミルコ・バシリッチ会長、マミッチ副会長らとの話し合いはわずか18分間で合意に至り、両クラブ間において移籍はGOサインが出た。その日の会見でディナモのバリシッチ会長は紳士らしくニコにエールを送る。
「我々はオファーに合意した。この移籍はルール通りに行われており、あとはニコがオファーを受けるか決めるだけだ。クラブ間の仕事は終わったが、クラニチャールも代理人を通して全て合意に至ったという情報を得ている。我々とニコの間では離別が最高の解決だと思っている。それは人生のどこでも起こることだ。ニコには新しいクラブで成長し、最高クラスの選手であることを証明するのを期待している。」

 
代理人のシュケルとディノ・ポクロヴァッツは「今ここで東側のクラブに行くよりも、ハイドゥクを経てから西側の高額オファーを待つ方がいい」と判断。また父のズラトコも
「ハイドゥクは伝統ある大きなクラブだし、昔から名声があり、野心もある。全てがニコに合っている。スプリトでも活躍するものだと信じているし、代表監督の私にとっても彼がプレーすることが最重要だ。」
とハイドゥク移籍を支持した。あとはニコの決断を待つのみとなった。

 「ユダ」となってディナモを捨てることが可能なのか?

 この時点でもまだ、ニコがハイドゥクに移籍するなどを信じられる話ではなかった。悩んだニコは「最終決定は四日後の24日に伝える」とポクロヴァッツに返答する。しかし、ディナモの"ある"行動が彼を決断へと駆り立てた。ディナモのロンチャレヴィッチ監督は両チームの合意の翌日になって、
「ハイドゥクのオファーは真剣なものではなく、全てを取りやめさせる必要がある。クラニチャールを望むならば、今日の16時までに全てを解決しなくてはならない。そうでないなら無効である。」
と最終通告を与えたのだ。この裏ではもちろんマミッチ副会長が糸を引いていた。最終通告を聞いたニコはハイドゥクへの移籍を決断。15時にシュティマッツ、ポクロヴァッツと共にディナモ事務所に向かうも、門番が簡単にドアを開けない。いらついたシュティマッツは中にいるダミール・ヴルバノヴィッチ・ディレクターを携帯で呼びつけ、ようやく突破。シュティマッツは昨日初めてディナモ側から知らされた「移籍金の間接税33万ユーロ」も払う準備を整えていた。更にディナモ側はニコに対して「ハイドゥクへの移籍は彼自身の希望である」との声明文にサインを求めたものの、これには激しく拒否。ニコを追い出したのはあくまでディナモだからだ。
 ディナモとニコの契約解除を取り付けたシュティマッツは
「全てが終わった。全ての書類にサインが済み、書類は我々の手にある。誇りをもってして日曜日にニコ・クラニチャールをスプリトの皆さんに紹介することが出来る」
と語った。ハイドゥク会長のブランコ・グルギッチも
「ニコのサインをもってして、彼へのオファーは我々が単なるメディアへの表向きや宣伝にすぎないと思っていた全ての人々を沈黙させることができた。とりわけ満足感を得ているし、最も必要なポジジョンの選手を得ることができた。少なくとも彼が加わることで30%は良くなるものと信じている。そしてニコ・クラニチャールと共に将来を築いていく我々ハイドゥクの多くの選手達も成長していくものと信じている。」
 ニコのハイドゥク・スプリト移籍決定の衝撃のニュースはたちまち国内を走り抜けた。ザグレブは嘆き悲しみ、スプリトは歓喜に沸いた。

【写真:お別れ会見でのやつれたニコ
    (提供:Sport-net)

 翌22日、ニコはディナモ事務所にてお別れ記者会見を行った。常に下を向き、沈痛な面持ちでマイクの前に座った。
「この一ヶ月間は僕の人生にとって最も苦しい時期であった。ディナモで長い年月を過ごしてきたのにもかかわらず、ディナモ側が僕を必要でないと決め付け、チームを去らねばならぬことは大きすぎるショックだった。
 もっともっと長くディナモでプレーをしたかった。しかし無理にでも別の行き先を探さなくてはならず、不安の中で一ヶ月を過ごした。時々は悪い夢を見ているかのように感じた。これは残念ながら苦しい出来事であった。
 この一番苦しい時に手を差し伸べてくれたハイドゥクには感謝している。素晴らしく僕を受け入れてくれたトルツィダ
(ハイドゥクのサポーター)にもお礼を言いたい。彼らが送ってくれたメッセージの多くは心がこもったものだった。
 ハイドゥクでの重圧は大きいだろうが、それ以上に僕に課される責任も大きい。もしかしたら一番困難な道を選んだかもしれないが、それが最も正しい道であったと信じている。人生において、自分を知り、困難と戦う必要がある。そう無理をしてでも成功することを僕は願っている。国内に残ることが自分のキャリアにおいて最良だと考えたわけだが、ザグレブの人々にとっては僕がスプリトで活動することは許されないものだろう。その他のオファーが名声的にも金銭的にも良かったとはいえ、それでも最良の選択をしたものと思っている。
 またこの場所でジャーナリストに向けての記者会見を可能にしてくれたディナモにも感謝している。そしてディナモでの忘れられない年月をあらゆる形で支えてくれた全ての人々に感謝している。クラブへもたらす150万ユーロの移籍金が、クラブの人々がより良い生活を可能にするのならば誇りに思う。

 またトルツィダも、ザグレブの街と子供の時からプレーしていたディナモにまだ感情があることを理解して欲しい。このような別れは楽ではないとはいえ、感情を押しつぶして、新たなクラブで新たな仕事に身を捧げるつもりだ。」

 既にニコのもとには脅迫状が何通も届き、BBB(ディナモ・サポーター)は抗議運動の一つとしてザグレブの彼の自宅に弔い用の蝋燭200本を立てて去った。マスコミへの沈黙宣言をしていたマミッチ副会長はこの日、ディナモのマフラーをしてテレビのニュース番組に生出演し、
「我々は彼を追い出していない。ただ移籍リストに名前を載せただけで、彼は自分でハイドゥクを選んだのだ。」
と強調した。意地となって移籍願望のあったハイドゥクの代表DFマト・ネレトリャクを奪いにいったものの、ネレトリャクは悩んだ末に残留を決意。ニュースを報じるテレビには「2−0」とスコアが並んだ。シュティマッツはニコの移籍に関してこう語る。
「我々が成し遂げた大きな仕事に誇りを感じている。これはハイドゥクのフロントにとっても大きなプラスだ。将来の私にこのような仕事を成し遂げるチャンスが再びあるとは信じられない。また、クラニチャールはハイドゥクで長くプレーするものと考えている。夏に彼の売却で利益を得るために獲得したわけではないからね。ディナモがあっさりと首位を諦めてくれるものとは思ってないが、クラニチャール移籍とネレトリャク残留で心理的にもディナモに優位に立った。これはハイドゥクの大きな二つの勝利といえるね。」

【写真:ニコを歓迎するハイドゥク・サポーター
(提供:Sport-net)

 23日、ニコはザグレブの自宅を離れて空港へと向かった。見送りにも父ズラトコの姿はなかった。「息子よ、自分の道を進むんだ」と語り、自宅で別れたという。14時55分、ザグレブを飛び立った飛行機は30分ばかりでスプリト空港に到着。姉と彼女を連れたニコを待ち構えていたのは1500人以上のサポーターだった。「ニコ! ニコ!」と大きな声援が飛ぶ中、ようやく顔に笑みがこぼれたニコ。
「歓迎はあるとは知っていたが、このような光景は想像もしてなかった。これまでの人生で経験したことのない歓迎だ。」
 出迎えたイゴール・シュティマッツが
「貴方達の前にいるのがニコ・クラニチャール、新たなハイドゥクの選手だ!」
と紹介すると大拍手が起き、「イゴール! イゴール!」との声援が飛ぶ。シュティマッツの車で出発するにも群集に囲まれてしまい、何とか警察の助けで空港を出るものの、ポリュウド・スタジアムには膨れ上がった8000人近いトルツィダがニコを待ち構えていた。ニコがサポーターの前に紹介されると、発炎筒が炊かれて大歓声。あらゆるゲストが集まったサロンで3年半の契約にサインを済ませ、背番号10番の新たなユニフォームが手渡された。それをまとってハイドゥクの帽子を被って再びサポーターの前に現れると、再び大歓声。車のクラクションから船の汽笛まで鳴り響き、満面の笑顔のクラニチャールをシュティマッツが抱きしめたのだった。

【写真:背番号10の新ユニフォームを持つニコ
左がグルギッチ会長、右がシュティマッツ、
右から二番目がフィオレンティーニ
(提供:Sport-net)
 その盛大な歓迎の中、ザグレブ方言の横断幕がニコの心を捕らえた。

「Ponosni smo kaj si Purger! (君がザグレブっ子であることを我々は誇りとしている!)」

 記者会見にてニコは語る。
「これほどの歓迎は夢にも思わなかった。スプリト到着で起こった全てのことが、これからの僕のキャリアにとって大きな刺激となるだろう。そしてピッチで良いプレーをすることで、皆さんに恩返ししたい。支持をしてくれたサポーター達、そしてスプリト、そしてダルマチアの全ての人々に対して大きな責任を感じている。本当にこれほどの大きな支持を得られるとは考えてもいなかったんだ。
 あと、空港に到着してハイドゥクのマフラーとユニフォームを身に着けた小さな子供達を見たとき、大きな満足感を感じた。その瞬間、僕のハイドゥク移籍が全ての人々にとってどれだけ意味があるか理解したんだ。人生の新たなページをめくったんだとね。今はなるべく早くチームに加わり、練習を始め、ハイドゥクでサッカーとプレーだけに完全集中したい。」

 この日に用意されたニコ・クラニチャールの背番号10のユニフォーム180枚は即完売。更に1000枚のユニフォームをハイドゥクは発注した。ニコは新たなハイドゥクのアイドル、スプリトそしてダルマチア地方のアイドルとなったのだ。

 ザグレブを中心とすると「北」と、スプリトを中心とする「南」の対立感情は非常に強い。その南北対立を象徴するのが「ディナモvs.ハイドゥク」である。ザグレブのシンボルを熱狂的に出迎えることは、傲慢な「北」に対する最大の一撃となった。旧ユーゴ時代にはディナモの首脳陣と対立したズボニミール・ボバンのハイドゥク移籍が画策されたことがあるが(政治の介入で止められている)、「南」出身のボバンがハイドゥクに移籍したとしてもこのようなフィーバーとならなかっただろう。ザグレブに生まれ、ディナモで育ったスター選手を迎え入れたことに価値があるのだ。あとは、ニコ自身がこの置かれた状況の中で成長していくかだ。今季のハイドゥクにはゲームメイカー、ラストパスを送れる選手がいなかった。ハイドゥクのブラズ・スリシュコヴィッチ監督はファンタジスタとして80年代のハイドゥクで熱烈な支持を得た選手である。ニコがハイドゥクで活躍できる環境は充分にある。

【写真:ニコとプロシネツキ】

 1987年にディナモ・ザグレブを追われ、ツルヴェナ・ズベズダ(レッドスター・ベオグラード)に移籍したロベルト・プロシネツキはこう語る。
「ハイドゥクにこれだけ歓迎されて移籍することは彼にとって大きなプラスだ。チャンスを掴む全ての必要条件は揃っている。あとはディナモで起こった全てを忘れ、誰もが彼に期待している偉大な選手になることだ。ハイドゥクのリーダーであり、代表のリーダーとしてね。クラニチャールの移籍計画はシュティマッツから事前に聞かされていた。シュティマッツはしっかりと考えていて、既にスプリト全体がクラニチャール到来を祝うことも考慮に入れていた。もしハイドゥクが優勝したならば、クラニチャールはヨーロッパのサッカーシーンに登場するだろう。ニコは代表選手であるし、代表監督である彼の父もこの移籍を支持している。最後には誰もが満足するものと思う。なぜならニコは偉大な選手となる素質があるわけだからね。」

 ニコがスプリトで出迎えた翌日、国営放送でニコの移籍に関する討論番組が組まれた。その中で「クラニチャールの移籍によって南北間の対立感情は和らぐか?」との電話アンケートが行われ、YESがわずか19%、NOが圧倒的な81%を占めた。一部のディナモの過激派BBBは「裏切り者」への復讐を企てるだろう。しかし彼はフィーゴのように金を理由に移籍したわけではない。ザグレブとディナモが彼を追い出したのだ。これからもニコはザグレブへの愛情を忘れず、「Ponosan sam kaj sam Purger」のシャツを着るという。「南」はそんなニコに嫌悪感を抱くのではなく、寛容さを見せつけることで「北」の人間を見返すことになるだろう。

「もし1%でも僕がこの緊張状態を和らげるとしたら、本当に嬉しく思う。しかし過激に走る者はいつでもいることだろう。ザグレブには少なからずともそのような人間がいるのだから。しかし友人達は僕を支持してくれているし、多くのディナモ・ファンは僕の側に立ってくれている。もっと楽な道を選べただろうし、ウクライナに行って不快さを感じることなく生きることも出来ただろう。しかし、ハイドゥクが僕の選択なんだ。これがキャリアのターニングポイントになることを願っている。期待されていたような選手に僕がなれるか決まるシチュエーションがやって来たのだ。僕の意地が更なる道へと推し進めることものと確信している。しかし、その意地が別の誰かに自分を証明しようというものに変わるのではなく、ただ自分に対して自己を証明したいんだ。かつてのクラブで起こった一ヶ月間の出来事に言葉を費やすつもりはない。それはもう過去のもので、現在のディナモの中心人物とは決して同じ方向性を見つけることはないだろう。あのクラブの会長と副会長について話すことはないし、彼らの名前が僕の口から出ることはもうない。それが僕の決定的な態度なんだ。」

 20歳の若者には大きな試練であり、決断であった。しかし本物の選手となるためにの厳しい試練はこれからだ。それを乗り越えた時に彼はクロアチアの北と南を結びつけ、西側のビッグクラブへと渡ってスター選手となれることだろう。


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