現地発、クロアチア・サッカー報告(36)
打たれたピリオド
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アンドレイ・パナディッチ インタビュー
「今年になってまだ海は見てないよ。しかし、キャリアを終えた後は充分に時間があるだろう。」
2002年夏、翌日にJデビューを控えたパナディッチは名古屋グランパスの練習場「トヨタ・スポーツセンター」でこう語ってくれた。あれから3年、キャリアを終えたはずの彼は自らの名前を冠したスポーツセンター「パナディッチ・スポルト」の完全オープンに向けて大忙しだ。
「今年も忙しくて海に行くことはないなあ。家族は私をほっておいて今週からアドリア海に行っちゃうんだけどね。3年前も私だけ先に日本に来て、家族はアドリア海で夏休みだったよ。」
3年前のインタビューで「ここ名古屋に、そして日本に私の印象を残していくつもりだ」と公言したとおり、彼は名古屋のサポーターに愛され、名声に偽りのない実力を見せてくれた。崩壊前の強豪ひしめくユーゴスラビア・リーグ、ユーゴスラビア代表としてのイタリア・ワールドカップ、独立後の寂れたクロアチア・リーグ、古豪ハンブルガーSVでのブンデス・リーガ、そしてJリーグ。彼の歩んできたサッカー人生はとりわけ興味深いものだ。隠蔽されていた名古屋退団の真相も率直に語ってくれた。
彼へのインタビューは完成直前のスポーツセンター内のカフェで行われた。カフェ内に飾られるのは名古屋グランパス、ハンブルガーSVでのパネル写真、友人であるコヴァチ兄弟のユニフォーム。テラスでは愛妻エステラさんと娘モナちゃん、またパナディッチを慕う地元の友人達らがまったりとしながら、いつものハイテンションでインタビューは楽しく進んでいった。
【写真:アンドレイ・パナディッチ】
−今はどんな生活をしている?
「スポーツセンターをオープンさせ、長男のマテオも所属するラドニク(ベリカ・ゴリツァのクラブ)のユースの子供達にサッカーを教えているよ。今はそれだけだね。最近まで監督アカデミーに通い、Bライセンスに合格したばかりだ。これから急がずに更に上のレベルのライセンスを取得するつもりだ。」
−どこかチームを率いてみたいか?
「ああ、もちろん。もし奥さんがOKを出してくれるならね(笑) 現時点ではここで働いているけど、いずれどうなるかはまだ判らないよ。」
−キャリアの始まりを聞かせて欲しい。
「8歳の時にラドニクのユースに入団した。周囲のどの子供達もサッカーが好きで、私もその一人だった。毎日練習したよ。バスケットを含めた全てのスポーツが好きだったけど、サッカーがナンバーワンだった。」
−それからは?
「17歳となってディナモ・ザグレブに引き抜かれた。ヨシップ・スコブラール(現マルセイユ・ディレクター、3度に渡りフランスリーグ得点王となった名FW)が当時のディナモを率いててね。私がプレーする試合をスコブラールが見に来て、気に入ってくれた。そして契約書にサインするように言って来たんだ。ディナモでは直ぐにトップチームに加入し、そしてレギュラーを獲得した。」
−そして早くにユーゴスラビア代表にも選出された。
「デビュー戦はギリシャ戦(1989年9/20、3-0、ノヴィサド)だった。ブラジル戦も含めて計3試合に出場したよ。当時の私はディナモで良いプレーをしていたからね。若かったけど将来性も買われていた。まだ髪の毛もいっぱいあったしね(笑)
('90W杯のユーゴ代表の写真付きメンバー表を差し出すと)おーっ、よく見つけたね。
(自分の写真を見て爆笑したのち)パンチェフ、ボクシッチ、シューケル、シャバナジョヴィッチ、ハジベギッチ、レコヴィッチ、イヴコヴィッチ、ヴリッチ、ピクシー...。(本人の写真を娘のモナちゃんに指差して)これは誰だい?」
(モナちゃん)「アンドレイ・パナディッチ!」
【ユーゴ代表当時のパナディッチ】

「なんて髪型してたんだろうね(苦笑) 当時はここにジェルなんてなかったから。今の髪型(スキンヘッド)になったのは4年前からかな。日本にいる間はずっとこれで通したし、暑い日本にはぴったりだったよ。」
−イタリア・ワールドカップは?
「私にとっては最高の想い出だった。ピクシーをはじめとする素晴らしいサッカー選手達と一緒だったわけだからね。大きな経験だったよ。誰にとってもワールドカップに出場することはキャリアの頂点だ。自分もそれを成し遂げたわけだが、現役生活はそれからも続いていった。大会後はU-21ユーゴスラビア代表の一員として、フランスやロシアと同組のU-21欧州選手権予選を戦った。」
−クロアチア代表とは縁がなかったようだが。
「いや、1993年にクロアチア代表の一員としてイタリアへと遠征した鹿島アントラーズとも対戦したよ。結果は8-1で勝利した。鹿島ではジーコがプレーしていたね。これはクロアチアが国際大会予選に出る前のことだ。しかし、クロアチア代表の公式戦には一試合も出ていない。当時は誰もがあらゆるコネなどを使って代表に入ろうと試みたわけだが、私は良いプレーをしながらもそういった縁がなくメンバーから漏れてしまった。でもいいさ。私にとって重要なのは代表ではなく家族なのだから。」
−1999年にはメディアが論陣を張って貴方をクロアチア代表へと推したわけだが....。
「メディアはノンストップで私を支持していたにもかかわらず、チーロ・ブラジェヴィッチ(代表監督)が受け入れなかった。どういった理由かは解らない。ハンブルガーにいた私は、2年連続してキッカー紙の最優秀イレブンに選出されていた。それでも彼にとっては充分ではなかったわけさ。残念だけど自分には自分の人生があるわけだし、キャリアには満足している。代表でプレーしていたのなら、もっと良かったかもしれないけどね。」
−1990年10月17日、クロアチア代表が初めて召集され、ザグレブでアメリカと対戦したわけだが(結果は2-1で勝利)、試合後に当時のドラジェン・イェルコヴィッチ監督はこう言っていた。"もしボバン、シューケル、ヤルニ、パナディッチを戦力として勘定できるのならば、この代表はもっと良くなるはずだ"、と。(同日、彼らはU-21ユーゴ代表のメンバーとしてモスクワ遠征していた)
「でも、チーロにとっては違ったんだよ。関係は悪くなかったんだけど、チーロは金が好きだからね(笑) まあ、いいさ。チーロはチーロ、そういう人間なんだから。」
【写真:今年5月、ディナモの記念試合に出場した。
彼は90年5月13日の事件の経験者だ】
−ユーゴスラビア連邦内は戦争へと突入していくわけだが、貴方のサッカー人生は?
「1991年のユーゴスビア・リーグの試合中、左足首にタックルを受けて骨折してしまい、手術後6ヶ月間はピッチに立つことが出来なかった。その怪我で全てが狂ってしまった。また同年に戦争も始まり、ユーゴも崩壊してしまった。」
−クロアチアの独立と共に、1992年からはクロアチア・リーグも始まった。ユーゴスラビア・リーグとクロアチア・リーグを比較すると?
「比較なんてできないよ。ユーゴスラビア・リーグの方がずっとずっと強かった。ユーゴスラビア・リーグでの想い出も素晴らしいものだ。いつもレベルの高い試合ばかりで、クロアチア・リーグでプレーしたどの試合とも比較対象にはならないね。パルチザン・ベオグラード、ツルヴェナ・ズベズタ、ラドニチュキ・ニシュ、ヴォイヴォディナ・ノヴィサド、ヴァルダル・スコピエ、プリシュティナ....あと当時のハイドゥクも強かった。」
−ユーゴスラビア・リーグで一番印象に残る試合は?
「ズベズタ、パルチザン、ハイドゥクとのダービーだね。ディナモ在籍時はほとんどの試合に出場した。2試合は私の得点で勝利を決めたのさ。パルチザン戦(1989年3月19日:結果2-0)とハイドゥク戦(同年4月2日:結果1-0)。それはいつも記憶に残っている。最優秀選手として表彰も受けたんだ。当時のディナモはボバンやシュケルもプレーしていたよ。」
−ならば、クロアチア・リーグでの想い出は?
「弱いリーグではあったけど、クロアチアにとって初めてということは常に何か特別なものだ。その点でクロアチア・リーグは私にとっても良い想い出だった。カップ(1994年)とリーグ(1993年)を一度ずつ制覇したよ。ディナモにとっては大きな成功だった。」
−1994年、貴方はディナモを離れてドイツへと移った。その経緯は?
「当時は大変だった。クロアチアで生活することは楽じゃなかったから。ブンデス二部のクラブ(ケムニッツ)へと移籍したわけだが、食っていくためにも行かねばならかった。ディナモの財政状況も厳しく、給与も貰えなかった。移籍金は発生したけど、私には一銭も入らなかったよ。私はディナモを離れたかったし、また離れなければいけなかった。もう耐えることは出来なかったんだ。」
−ブンデス二部のの感想は?
「非常に良かったね。二部とはいえ強いリーグだったし、観客もいっぱいだったから。ケムニッツ、ユルティンゲンとブンデス二部で3年半もプレーしたわけだけど、ようやく私が本物のサッカー選手だと理解してくれ、一部リーグのハンブルガーSVが獲得したんだ。」
−その頃、ヨシップ・クジェが率いるガンバ大阪からオファーがあったと聞いているが。
「ケムニッツに在籍していた時だ。オファーは存在したが金銭面で合意しなかったようで、直ぐに話は立ち消えしてしまったよ。」
【カフェに飾られたHSV時代の写真。
右はチームメイトのバルバレス】

−そしてハンブルガーSVに移籍、貴方はリーグ最優秀DFの一人となった。
「ハンブルガー在籍時が私のキャリアの最頂点だ。4年間、ハンブルガーの一員としてレベルの高いリーグを戦った。誰にとってもブンデスでプレーするのは大変なことだからね。プレッシャーも大きいし、ストレスもあった。だから髪の毛が無くなったんだよ(笑) この頃から髪の毛が落ちていったんだ。」
−今のハンブルガーには日本人がプレーしているが。
「高原だね。彼がジュビロにいた時に対戦したよ。彼は良い選手だ。」
−ブンデス時代で記憶に残る試合は?
「たくさんあるよ。その中でもチャンピオンズリーグ(2000/01シーズン)での対ユベントス戦が挙げられるね。ハンブルグでは4-4と引分けたけど、トリノでは3-1と我々が勝ったのさ。トリノでは私もゴールを決めた。ファン・デルサール相手にね。しかしリーグでは3位に留まり、UEFAカップに回ってローマと対戦した。トッティ、モンテーロ、デルベッキオのトリオと相対したよ。」
−DFとして貴方が今まで相対した中で、誰が一番難しい選手だった?
「名前を挙げるのは難しいね...。私がもっとも評価するのはアレン・ボクシッチだ。いつも私にとって彼は恐ろしい選手だった。あとジョバンニ・エウベルもそうだ。バイエルン在籍時に相対したが、彼は素晴らしい選手だ。」
−誰がチームで親友だった?
「ニコ・コヴァチだね。私はチームメート全員と仲良かったよ。」
−2002年、シュトゥルム・グラーツへと移籍した。その経緯は?
「イヴィツァ・オシムが私を呼んだんだ。ハンブルガーでは私の代理人とチームマネージャーが対立したため、チームにもう残ることは出来なかった。離れた方が良いと判断したんだよ。」
−貴方にとってオシムとはどんな監督?
「最高の監督だ。彼のことは本当に評価しており、キャリアにおける重要人物だ。私のプレースタイルを気に入ってくれ、ユーゴスラビア代表に選出してワールドカップへと連れていった。当時の自分は若かったとはいえ、決して恐れることは無かったしね。そんな縁もあって彼は私をグラーツへ呼び寄せた。そして日本でも彼と再会した。スコブラールやクジェも私にとっては最高の監督だが、オシムとは常に同じ道を辿っているよ。いつもワーッと怒鳴ってばかりだけどね(笑)」
【写真:ヴァスティッチとは来日直前まで
一緒に移籍とは知らなかった】
−そして2002年6月、名古屋グランパスへと移籍した。
「なぜならば名古屋から具体的なオファーが届いたからだ。移籍金は名古屋にとっては大きくなかっただろう。ブラジル人のそれと比べればね。私への提示額に関していえば本当に素晴らしいものだった。5段階評価の5だよ。オファーを聞いて即決した。何か新しいことを望んでいたから。シュトゥルムのカートニング会長も移籍に関して了承してくれたし、オシムも"行け!"と言ってくれたよ。名古屋行きを選んで正解だったね。」
−イヴィツァ・ヴァスティッチとはオファーに関して話し合ったのか?
「いや、彼は名古屋に私も行くことを知らなかったよ(笑) お互いの契約合意の後に我々二人が会ってその事実を知り、なら一緒に行こうと。我々が加入してから名古屋がリーグ3位になったというのは大きな成功だろう。」
−日本にやってきて、まずどんな印象を抱いた?
「最高だよ。ただ暑さだけが合わなかった。(日本語で)"アツイ"。あとは湿気の高さだ。高気温に高湿気はきつかった。気候だけは最後まで慣れることが出来なかったね。しかし日本人とはまったく問題はなかったよ。日本人は私のことを好んでくれたし、私も日本人のことが好きだった。正確だし、誠実な国民だからね。だから私は自分の全てを出したし、自分が日本人の友人になれるよう努力した。また、日本人はそのことを評価してくれた。いつか監督として日本、そして名古屋に戻りたいよ。だから今は監督アカデミーに通っているんだ。」
−名古屋はまだリーグ優勝のタイトルがないわけだけど...
「チャンスは厳しいかも。ブラジル人が占めている間はね。ネルシーニョは良い監督だよ。彼とは問題はなかった。」
−ならばズデンコ・ベルデニックは?
「素晴らしい監督だし、素晴らしい人間だった。」
−名古屋に来る前にベルデニックとの接点はあったのか?
「いや、名古屋に来てからだよ。ベルデニックが私の試合のビデオを見て獲得をフロントに勧めた。コムリェノヴィッチ、ニキフォロフなど5人の選手が候補に挙がっていた中で、ベルデニックが私を選び、フロントが獲得に動いた。今もベルデニックとは友人関係で、電話でやり取りしているよ。」
−ヴァスティッチとは?
「彼ともいつも連絡を取り合っているよ。」
−ヴァスティッチは典型的なダルマチア人(クロアチア南部でおっとり系)である一方で、貴方は典型的なプルゲル(ザグレブ人でちゃきちゃき系)なわけだけど。
「私はプルゲルじゃないよ。ここの田舎気質も入っている(笑) 私はザグレブ生まれだけど、父親はダルマチアのショルタ島出身だ。魚嫌いのダルマチア人なんだけどね(苦笑) まったく魚を食べないなんてダルマチア人じゃないよ。とかいう私も寿司や刺身は合わなかったな。
(奥さんが"オニギリ"と言うと)オニギリは良かったね。あと飛騨牛、トンカツ、天ぷら。どれも好きにはなったけど、ヨーロッパ人にとって最初の日本食は慣れないものだよ。モナは日本で何が好きだった?」
(モナちゃん)「スパゲティ」(一同笑)
−名古屋という街は?
(妻エステラさん)「デパートが最高だったわ。松坂屋、三越、高島屋....」
「私にとっても名古屋という街は凄く気に入った。残念なのは、より長くいることが出来なかったことだ。私はもっといたかったんだけどね。」
【写真:グランパスの当時の
メンバーも散り散りに】
−日本人のチームメイトとの関係は?
「素晴らしかった。とりわけ楢崎、大森、古賀、藤本、海本....言ってしまえば全員と仲が良かったよ。私もさほど上手く英語を話せないんだけね。このインタビューを通して彼らに宜しく伝えたい。また日本の皆さんとのコンタクトのために私のe-mailを掲載してもらっても構わない(e-mailアドレスは下に掲載)。私がチームを離れる際、フロントにe-mailをクラブHPに掲載するようお願いしたんだけどね。上層部の人に対する恐れでもあったんだろう。日本の組織におけるヒエラルキーは顕著だからね。ある者がより多くの知識があったとしても、地位の上の者を恐れて服従しなくてはならない。ある意味、共産主義よりも酷いだろう。けれども全員の規律は整っていたね。」
−日本人選手の長所・短所は?
「個人能力はいずれも高い。しかし、いざ責任を取るシチュエーションが来た時に、自ら勇気を持って責任を背負うとする選手は少ない。とはいえ、より実力のある選手が次から次へと出てきているよ。」
−困難だった相手FWは?
「どの相手に対しても特別な問題があったわけじゃないから、敢えて名前を挙げるのは難しいよ。」
−ならば大森選手、古賀選手との守備連携に関しては?
「いやー、最高だったよ。我々三人は理解しあった真の守備チームだった。少し覚えた日本語と英語を交え、時には手を使いながらコミュニケーションを図った。いつも一緒に話し合い、取り決めもした。最も必要なことをピッチ上で表現できれば良いわけだからね。それで我々はいつも固いディフェンスを築くことができた。またプライベートでも二人とは仲が良かったよ。夕食にも出掛けた。」
−名古屋グランパスのサポーターは?
「世界で最高のサポーターだ。まるで自分はスターであるかのように感じたよ。そのような気分になったのは名古屋が初めてだ。スタジアムでは私にちなんだ横断幕や旗が並んでいたよね。」
−Jリーグで記憶に残る試合は?
「ジュビロ磐田との試合はどれも記憶に残っている。とにかく名古屋は引分けが多かった。」
−日本の審判に関しては?
「良くないね。審判というのは経験が必要なものだ。日本人審判は経験に欠けている。プレー感覚も欠けている。ルールばかりに縛られてアドバンテージも取れないし、何に対しても笛を吹いてしまう。観客がサッカーの試合を観戦していることを理解する必要があるだろう。ヴァスティッチはもっとも穏やかな選手だし、これまでは決してレッドカードを受けることなんてなかったのにね。」
−ヴァスティッチとヴェルデニックが貴方より先に去ってしまったことは?
「残念だ。名古屋にとっても大きな損失だった。体制が変わらなければ翌シーズンはもっと良い順位にいけたと思っている。二人が去ったことでちょっぴり孤独感を感じたけど、周囲の日本人選手達がサポートしてくれたから寂しさという点では問題はなかったよ。」
【写真:パナディッチ・スポルトの
完全オープンはまもなく】
−そして貴方も2004年6月にチームを去ることになった。
「怪我(右足の甲)が直接の原因ではなかった。怪我というものはどのスポーツでも付き物であり、再びプレーするには完治を待たねばならない。怪我を治すために私はヨーロッパへと戻り、完治して名古屋に戻る準備が出来ていた。すると名古屋から連絡があり、上田滋夢ディレクターが私のいるクロアチアのパグ島までやってきて契約解消を告げた。そして"名古屋でこれ以上プレーをしない"という書類にサインを求めた。酷いとは思った。しかし、それがスポーツの世界だと私は理解している。喧嘩はなかった。彼らは自分の義務を果たさなくてはならないし、私も自分の義務を果たさなくてはならないのだからね。そういうものだよ。それから荷物整理のため3日間だけ妻と日本へ戻った。私が去る最後の夕食は全選手が来てくれ、ある選手は泣いてくれたよ。サポーターも空港へ見送りに来てくれた。35歳という年齢もあってかフロントは私を望まず、新たなことを望んだようだが....。」
−フロントの冷たい対応にサポーターは怒っていたのだが。
「そう。誰もが私に連絡をしたり、理由を聞いてきた。また退団の発表も遅かった。早くメディアに退団を報じるようフロントに要求したにもかかわらずだ。そのことは問題ではないし、私も怒ってはない。それがクラブの態度と割り切ればね。彼らがそういう遣り方を望むのならば仕方ないことさ。スポーツ界においては全くもって有り得ることだ。契約を切ったら終わり。それから私が何を主張できるんだね。解ってくれるだろう?」
−私は名古屋出身で名古屋グランパスを応援している。名古屋は資金力があるにもかかわらず、フロントが失敗を繰り返していることに我々ファンは不満を感じている。
「我々の意見を聞く必要があったのだろう。我々の意見を聞いたのならば、また変わっていたはずだ。」
−率直に言って名古屋グランパスが抱える問題は何だと考えている?
「サッカーを理解している人材をクラブに置かねばならない。サッカーを理解しない人物がクラブを率いることは出来ない。別に名古屋だけに対して言っている話ではない。例えば、バイエルン・ミュンヘンはフロントの中枢を偉大なサッカー選手達が務めている。もし名古屋も偉大な選手達が率いるようになったならば、クラブは頂点に立つことが出来るだろう。」
−上田滋夢ディレクターに関しては?
「特に。解雇したという点はネガティブだけど、私は誰かを批判するという人間ではないし。解雇決定も彼らの仕事の一つだし、彼らがそれがより良いことだと考えてのことだからね。彼とのコミュニケーションもわずかなものだったよ。」
−名古屋といえばピクシーだが、彼に関しては?
「全てにおいて最高の人物だ。選手として、また人としてもね。連絡は取り合っているし、彼が来た時はいつでも一緒に夕食へと出掛け、話をするよ。」
【写真:妻エステラさん、娘モナちゃんと
共にサッカー場のゴールにて】

−名古屋を退団したのちの現役生活は?
「半年間は休憩しながら、スポーツセンターの準備をした。そして今年1月に一つだけテストを受けた。オーストリア二部のケルンテンだ。健康な状態で行ったのだが、テスト中に左膝を痛めてしまった。名古屋で痛めたところとは全く別のところだった。これを機に私は現役引退を決意した。」
−引退してからサッカーの試合に足を運ぶことは?
「全くないね。でもマテオの試合はいつも見に行ってるよ。今は子供達のコーチだからね。」
−名古屋グランパスの結果は追っている?
「少しだけ。サッカーはどこのリーグにしろ、ほとんど追っていない。でもこれからは追っていくつもりだよ。いつかは監督として戻る時期があるかもしれないからね。」
−日本での経験は今の貴方にどのような影響を与えている?
「もちろん大きいよ。ただ残念なのは、日本人が私の経験をもっと利用しようとしなかったことだ。もっと私の話を聞く必要があったら良かったかもしれないね。」
−では最後に、ファンにメッセージを。
「日本の皆さん、名古屋、そして日本の全てを心から愛している。クロアチアから私たち家族全員が、日本の皆さんへご挨拶したい。日本人は最高だった。アリガトウゴザイマス。日本に滞在できたことは光栄だし、いつか日本を再び訪れた時には私を受け入れてくれることを希望している。そして、いずれは監督としてね。」
| アンドレイ・パナディッチ Andrej
Panadic 1969年3月9日、クロアチア(当時はユーゴスラビア連邦)の首都ザグレブ生まれ。 身長188cm、体重84kg。愛称はパナ。 屈強な肉体を持ち、精神力と安定性に秀でたストッパー。セットプレーからのヘディングシュートも強く、名古屋ではスクランブルとして終了間際になると前線にも配置された。 ザグレブに生まれながら、8歳からザグレブ郊外のベリカ・ゴリツァにあるクラブ「ラドニク」のユースに入団。のどかな環境を好んで毎日ザグレブからベリカ・ゴリツァに通っていたのだが、17歳の時にディナモ監督のヨシップ・スコブラールの目に留まり、名門ディナモ・ザグレブへと引き抜かれた。トップチームへと加入した彼は厳しい競争の中、88年にレギュラーを獲得。以後、競争の激しいユーゴスラビア・リーグで揉まれながらも早くに開花したパナディッチを、当時ユーゴスラビア代表監督であったイヴィツァ・オシムが見出してA代表に抜擢。20歳ながら1989年9月20日のギリシャ戦で代表デビューを果たした。その後も親善試合2試合に出場し、1990年のワールドカップではユーゴスラビア代表の一員として参加。大会での出場はなかったものの、ユーゴスラビアは大会ベスト8まで勝ち残った。 家族は妻エステラ、息子マテオ(10歳)、娘モナ(6歳)。人工芝フットサル場、テニスコート2面、カフェを備えたスポーツセンター「パナディッチ・スポルト」をベリカ・ゴリツァにオープンし、ラドニクのユースを教えながら今後はA級、プロ級の監督ライセンスを取得予定。現在はベリカ・ゴリツァ在住。 |
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