現地発、クロアチア・サッカー報告(23)

長髪の白鳥〜ダド・プルショ


【代表デビューとなるベルギー戦。
国歌演奏においてのプルショ】

 「Bajka」(おとぎ話)

 ダド・プルショの人生を語る際には、アンデルセン童話「みにくいアヒルの子」に例えられて、決まってこのフレーズがよく使われる。2003年、彼は白鳥としてクロアチア代表へと舞い降り、一時は困難とされた欧州選手権予選突破へ導いた。高さと強さ、優れたキープ力とドリブルを併せ持ち、周囲を活かす術を知りえたフォワード。そしてここぞの決定力。プレーもさることながら、紆余曲折の末に成功を掴んだ彼に共感を持つ者も少なくない。「シンデレラ」では無かったプルショのおとぎ話を開いてみよう。

 プルショは1974年11月5日、タクシー運転手の父ラデと母ナーダの息子としてアドリア海岸の町ザダールに生まれた。勉強は全く駄目だったが、友人が海に行こうとも一人でボールと戯れるサッカー少年だったという。NKザダールでキャリアを始め、13歳の時にハイドゥクのスカウトの目に止まり、親元離れハイドゥク・ユースへ入団した。朝2時までハイドゥクの体育館の電灯が点いていることを知ると、ユースで同じだったミラン・ラパイッチ、ヨシップ・ブティッチ(現リエカ)らとその時間までサッカーに明け暮れた。当時の彼はディフェンシブ・ミッドフィルダーだったが、不整脈が見つかったことを理由にハイドゥクから追われてしまう。1992/93シーズン、イストラ半島にあるクロアチア1部リーグのクラブ、パジンカへと入団し、名将の一人ルカ・ボナチッチのもとで前線へとコンバートされて頭角を現した。
「どのクラブでプレーするかは重要ではなかった。プレーすることが私にとっては大事だったのだから。誰でも人生において最高と思う決定をもたらすものだ。パジンカに移ったことは良かったと思っている。待つことは嫌だったし、ハイドゥクでチャンスを得られるかなんて誰が解るものか。パジンカのリーグ残留を確実にしてからフランスへと去る機会を得たんだ。」

 パジンカは彼をディナモ・ザグレブ(当時HASKグラジャンスキー)に移籍させようとしたが、ディナモは応じなかったという。パジンカでの150マルク(約1万円)という僅かな月給に満足しなかった彼は1993年8月、海外でのチャンスを掴むためにフランスへ単身渡った。2部リーグのローエンのテストに合格したプルショにチームの会長は「同国人とつるむな。フランス語を勉強して、サッカーに専念しろ」とだけ注意した。初出場初得点という最高の滑り出しだったが、監督の信用を得られず、チームの雰囲気も優れなかったことから次第に彼はディスコ通いやギャンブルに溺れてしまう。
 そんなプルショを救ったのはディスコで一目惚れしたフランス女性キャロルだった。プルショには別のガールフレンドがいたのだが、翌日からキャロルとデートを重ね、二人は恋に落ちる。コート・ダ・ジュールのサン・ラファエルへと共に移り住み、プルショは同町の4部リーグのクラブ(サン・ラファエル)でサッカーに再び打ち込んだ。しかしサッカーだけでは生活出来ないため、自動車機械工として働きながらのプレーだった。
 このサン・ラファエルはモナコに程近く、ASモナコは同クラブとしばしば練習試合を行う関係からプルショの存在を知ることとなる。「なぜこのような選手が4部のクラブでさまよっているのだ?」−1996年、モナコは彼にオファーを出した。「モナコからのオファーが私の人生を完全に変えた」−プルショはこう振り返る。このようにして表舞台から消えかかっていた一人のクロアチア人FWが発掘されたのだった。

 当時のモナコはティエリ・アンリ、ダビッド・トレゼゲ、ソニー・アンデルソン、ヴィクトール・イクペバらを擁した厚いFW層を抱えていた。最初のシーズンはモナコに留まったが、1997/98シーズンに三部リーグのアジャイオへとレンタル移籍される。一年目は三部リーグ優勝に貢献、二年目も二部リーグで13ゴールを挙げる活躍(アジャイオの2シーズンで53試合21得点20アシスト)を見せ、1999/2000シーズンにモナコへと戻って来た。同シーズン、プルショはスーパーサブとして起用される。優勝が掛かった31節の対ナンシー戦では、ロスタイムに同点ゴールを決めてリーグ優勝の祝杯をもたらした。
 2000/2001シーズンはトレセゲ、マルコ・シモーネの陰に隠れ、2001/2002シーズンはプルショは以前より痛めている左膝の怪我に苦しむ。当時のモナコにはビエルホフしかFWが残っておらず、膝に爆弾を抱えながらの無理が症状を更に悪化させた。ついには左膝にメスを入れることになる。
「麻酔から目が覚め、膝から飛び出す留め金を見た時には、子供とのバスケットのプレーすら信じることが出来なかった。しかし一度も希望は捨てなかったよ。」

 8ヶ月に渡るリハビリののち、プルショは2002年秋に復帰を果たす。膝をかばうため出場時間は限られたものの、ディディエ・デシャン監督の信用を得ていた彼はシャバニ・ノンダとの強力コンビでゴールにアシストと完全ブレイクしていた。時を同じくしてクロアチア代表は極度の決定力不足に嘆いていた。欧州選手権の出だしとなるエストニア戦、ブルガリア戦を1分1敗、得点0。クロアチア・メディアはフランスリーグで活躍を見せているプルショ待望論を掲げたのだ。
 メディアの一方的な待望論から始まったが、ボクシッチが引退を表明し、頼れるFWがいなくなったオットー・バリッチ監督は、就任当初は名前すら知らなかったプルショへ関心を示すようになった。気の早いメディアは「バリッチが貴方を代表に召集したとしたら?」とプルショに質問を投げかけた。「クロアチア代表は私の人生の夢である。しかし私は召集に値しないよ。バリッチが私を呼ぶほど、今は何も良いプレーをしてないしね」と謙遜した。ヴラトコ・マルコヴィッチ協会長に続いて、バリッチ監督がリール戦を視察し、そこでプルショは2アシストの活躍を見せた。
 この試合ののちバリッチと面会をしたプルショはこう語る。
「偉大な世代はサッカーシーンから降りてしまったが、新たな時代、新たな選手達が登場している。私もそこに食い込めることを望んでいるし、プレーすることを望んでいる。オリッチはワールドカップとポーランド戦でのプレーを見たし、モルナルはハイドゥク当時から知っている。ボクシッチは我々全てのアイドルであるし
(注:まだ当時は復帰説が流れていた)、バラバンはプレミアリーグでプレーしてた選手だ。そんな厳しい競争の間に入ることを誇りに感じないとは言えないよ。バリッチ監督はまだ"君を考慮に入れている"と言っただけで、公式な召集を出したわけではない。とはいえ、山の頂上に登り切ったような感じだ。その上には何もない。代表選手になるということは、スポーツ選手が可能な最高の事柄だからね。」
 3月18日、ベルギー戦に向けてのクロアチア代表発表の記者会見で彼の名前が告げられた。プルショの代りにバラバンが落選。「バリッチ監督はバラバンを信用していないようだが、彼はこれまで何度もそのクオリティを証明してきた。バリッチはプルショのクオリティ全てを知っているように振る舞っているが、バリッチはまだ一試合しか見てないじゃないか。プルショから我々が全く得たものはないし、この1ヶ月間はモナコでゴールを決めていない。バラバンは我々を日韓ワールドカップへと連れて行ったというのに。」(ヴェチェルニ・リスト紙)と、プルショを持ち上げたメディアは都合良くバリッチに矛先を向けた。しかし"シンデレラストーリーに溺れた"バラバンから、"人生の苦汁を知り尽くした"プルショを選択した英断はバリッチだけでなく、クロアチア代表をも救うことになるのだった。

【ベルギー戦では華々しいデビュー】

 3月29日、ベルギーとのザグレブ決戦。プルショはアグレッシブかつ、周囲とのコンビネーションに配慮したプレーを見せ、10分のヘディングシュートはポストに阻まれるものの、53分、ラパイッチの左FKからのボールに腰をかがめながらピタリとヘディングで合わせ、貴重な追加点を奪った。初デビュー初得点の喜びに、彼はメインスタンドで観戦する妹の方へと駆け出した。スタンドからはプルショの名前が何度もコールされ、交替の際にはスタンディングオベーションが起きた。
 試合後、プルショは「どんな気分かって? 尋常ではないよ。ゴールの瞬間を言葉で表現することは出来ないね。全人生が頭の中でわずか1秒の間に走馬灯のように巡った。泣きたかったが、それは出来なかった。プレーに完全集中していたから。このゴールは妹に捧げるゴールだ。」
 この一戦でプルショは一躍クロアチアで有名な存在となる。ようやくクロアチア代表にシュケルとボクシッチに取って代われるフォワードの軸が生まれたのだ。
「普通に考えて、28歳の選手が代表デビューすることは通常ではありえない。多くが批判的だったことも、バリッチが私以上に多くのリスクを負ったことも知っている。なぜなら私が代表で悪いプレーをしたとしてもモナコにおける私のステータスは変わらないが、バリッチにとっては損害を被る可能性があったからね。あらゆる努力はするつもりだ。バリッチのことは好きだし、彼のためなら血を分けても良いとさえ思っている。」

【ブルガリア戦でも力強いプレーを見せた】
 2002/03シーズンのモナコでは20試合の出場で12得点。アシストを加えれば70%のチームの得点に関わり、モナコを2位へと押し上げてチャンピオンズリーグ出場権を得たのだが、翌シーズンの準備期間にアキレス腱の炎症で苦しむことになる。9月のアンドラ戦、ベルギー戦にはギリギリ間に合ったものの、それぞれ45分間で見せたプレーは本来と程遠いものだった。勝利しかユーロ出場の道が許されなかった10月のブルガリア戦には先発出場。48分、右サイドのハーフウェーライン近くでボールを受けたプルショは、巧みなドリブルでペトロフをはじめ次々とブルガリア選手を振り切っていく。そしてペナルティエリアへと侵入し、パジンの股下を通したボールの先には、途中交替で入ったオリッチがいた。オリッチのシュートはDFクルステフに当たってからネットへと収まる。8割方はプルショによって生まれた得点といって過言ではない。この一点を守り切り、クロアチアはプレーオフへとコマを進める。対戦相手はスロヴェニアだ。プルショはこうコメントを残した。
「スロヴェニアには敬意を払っているし、今回の戦いでは何でも有り得るだろう。人生を通して私が言えるのは"勝利に飢えている者が勝利する"ってことだよ。」

 2003年のプルショを語るには忘れてならない試合がある。11月5日、チャンピオンズリーグ第4節、モナコvs.デポルティーボ・ラコルーニャ戦。クロアチアでも生放送されたこの一戦は予想外の展開となった。この日に29歳の誕生日を迎えたプルショは欧州サッカー界に自らの名前を轟かせる。2-0とリードした26分にロテンのCKからヘディングで最初の得点を奪うと、その4分後にはジヴェのヘディングで繋いだボールをファーサイドで程良く反応して2点目。前半終了間際にカウンターからジュリーのパスを受けてハットトリック。そして49分には上手いコース取りからシュートを沈めた。マルコ・ファン・バステン、シモーネ・インザーギと並ぶ個人一試合最多の4得点だ(プルショは75分にアデバヨールと交替。結果は8-3。一試合11得点はチャンピオンズリーグ史上最多一試合得点)。
「シーズン最初は本当にアンラッキーだった。アキレス腱の負傷が私をピッチから遠ざけてしまい、モリエンテス、アデバヨールの新加入選手でFW競争を激しくしてしまった(ノンダは怪我)。しかしデシャンは私にこう確約してくれたのさ。"心配する必要はない。君が準備出来た時にはチャンスを与えるから"ってね。デシャンは試合の5日前にもこう言ってくれたんだよ。"ダド、君のために最高の誕生日プレゼントを準備しているよ。デポルティーボ戦の先発出場というプレゼントをね"。試合前にはアルベルト皇太子が私に寄り添って、こう勇気づけてくれたんだ。"ダド、君は好調だから恐れるな。確実に得点を決められるから"。それが起こったというわけさ。」


【トップ下もソツなくこなしたが、やはりFWが似合う】
 その10日後、欧州選手権プレーオフ、スロヴェニアとの第一戦がザグレブのマクシミール・スタジアムで行われた。バリッチはプルショのコンビネーション能力を買ってトップ下へと起用する。開始5分、ニコ・コヴァチの右FKをファーサイドのモルナルがヘディングで中央へと折り返すと、そこにはフリーのプルショがいた。プルショは右足で押し込んでクロアチアに先制点をもたらす。しかし22分にアチモヴィッチのペナルティエリア右からのFKにシリャクがヘディングシュートを沈めて追いつかれてしまう。単調な攻撃でスロヴェニアの堅守を破ることは出来ず、プルショも持ち味が消されてしまっていた。後半頭からは鼠頚部を痛めて先発を外れたラパイッチを投入し、プルショも本来のFWのポジションに入ったが、クロアチアの工夫のない攻撃で、組織されたスロヴェニア守備陣を打ち破ることは不可能だった。1-1と負けに等しいドロー。
「怒っている。我々が良いプレーをしなかったことにね。相手のペナルティエリアにクロスを放り込んでばかりだったが、全員が190cm以上の身長を持つストッパー達にとってはプレゼントを待っているようなものだった。アリバイを探そうという気は全くないが、私にとってはゴールにより近いポジションが良いのは確実だ。私はセンターフォワードであり、そのポジションで長くプレーしているんだから。私はワールドカップも欧州選手権も出場したことがない。サッカーの最大の舞台に立ったことがないんだよ。だからポルトガル大会には本当に本当に出場したいんだ。」−勝利に飢えたプルショは不甲斐無さに怒りをぶつけた。

【値千金の得点を奪い、右手を突き上げるプルショ】

 リュブリャナでの第2戦は4日後に行われた。オリッチが出場停止となったことで、ベンフィカFWのトミスラフ・ショコタを急遽召集。初戦から6人ものメンバーを入れ替え、プルショはショコタとのツートップを組んだ。貝のように閉じこもるスロヴェニア相手にクロアチアは序盤から激しく攻撃を仕掛けた。キープ力のあるショコタを前線に置きつつ、ドリブルに優れたプルショがショコタに絡み、またスルナの右サイドの縦突破を利用した展開を見せた。6分、ペナルティエリアへと入ったプルショが後ろから飛び込んできたコヴァチ兄へパス、コヴァチ兄のミドルシュートはスロヴェニアDFに触れて方向が変わり右ポストを叩く。37分にはプルショが左サイドを突破してペナルティエリアに侵入するが、DF3人に囲まれて正確なシュートが撃てず。その直後にはラパイッチのCKにシムニッチが近距離でヘディングシュート。GKダバノヴィッチに弾かれたこぼれ球をロッソがボレーするが、枠の上に大きく外してしまった。クロアチアの8本のシュートに対して、スロヴェニアのシュートはゼロ。スコアレスドローでも勝ち抜けられるスロヴェニアの術中にはめられていた。
 後半に入ってスロヴェニアはルドニャに代えて守備的MFカピッチを投入、クロアチアは後半53分に左サイドのシムニッチに代えてバビッチを投入してサイドからの攻撃を強化。しかし59分、トゥドールがピッチ中央をドリブルで抜けようとしたカーリッチを背後から軽率に削ってしまい2枚目のイエローで退場してしまう。もうクロアチアのユーロへの入口は閉ざされた。閉塞感が漂う中、まだ闘う男がいた。プルショは選手を集めてこう叫んだのだ。
「お前ら、諦めるな! 俺たちはこの試合をモノにしなくてはならない。負けることは許されないんだ。さあ、得点を取りに行こう!」
その2分後に奇跡が起こる。いや、これはプルショにとっては必然性のある奇跡だった。左サイドのバビッチからショコタへ縦パスが通り、スロヴェニアDF陣がショコタに寄せているところで浮き球を使って、DFの裏へと入り込んだプルショへとパス。プルショは3人のDFにプレッシャーを受けながら、GKダバロヴィッチの左脇にボールを流し込んだ。起死回生のゴールに誰もがプルショを抱き締めに走る。一転して奈落の底に突き落とされたスロヴェニアに攻めきる力は無かった。プルショが真のヒーローになった日だった。
「これは私のキャリア人生で一番の試合であるし、キャリアで一番のゴールであった。大きなプレッシャーのもとでスロヴェニアに勝利出来た。我々は本当に素晴らしくプレーしたし、闘争心と勇敢さ、そしてこれまでの人生で味わったことがないほど勝利への執着心を持っていた。口から言葉を発することが難しいほど、今の私は幸せだよ。」−プルショは喜びを噛みしめた。

 2003年、第32回ヴェチェルニ・リスト紙選出の最優秀選手を史上初の満票で受賞する。
「この賞は自分のサッカーにおける夢を満たすものだ。2003年は決して忘れない年になった。もし来年が少し悪くなったとしても、それでも幸せすぎるほどだ。もちろん栄光は私から何かを持ち去っている。メディアの露出が増えるようになるや、今では家族に捧げる時間が以前のように持てなくなっている。家族は私の人生の中心だしね。家族や友人達にとっては、全く以前と変わりない私だよ。人生で変わった唯一のことは、ダド・プルショが世間に知られることになったことかな。今では人々が私を良いサッカー選手だと見てくれる。」

 クロアチアのユーロ出場が決まった時、ベオグラードのメディアはこう見出しを載せた。
「セルビア人ミラディン・プルショがクロアチアをユーロへと導く」
"バリッチがクロアチアのパスポートを与え、彼はかつてセルビア名のミラディンからダドへと名前を変えた"と書きたてた。プルショは幼少期の頃を多く語りたがらないが、クロアチアの報道でも、彼が育ったザダールの一地区「メラダ」にはセルビア人が居住し、プルショもセルビア人家庭に生まれたという証言がある。ハイドゥクを去る理由となった不整脈にしても、スイスでの検査では異常なしの診断を得ていた。そしてハイドゥクを追われて戦時下のザダールに戻った彼には一年近く所属するチームが無かったという。ザダールのサッカー関係者は「それについて語るのは難しい。誰かが彼をここから追い出そうとしたとは思わないし、それがもし起こったとしても私は解らない。とにかく当時は酷い時代だったからね」と語り、また地元のある者は「プルショがイストラ(パジンカ)でも自分の居所を探すのは困難な時代だった。それから自分の"亡命先"となるフランスへと渡ったんだよ」と述べる。ベオグラードの報道を受けて、プルショ自身は「私はクロアチア人だ。クロアチアの国章がついたユニフォームを着るチャンスが得られ、クロアチアに少しでも貢献できて幸せだ」と反論した。たとえ彼がセルビア人で、それが理由で独立戦争下のクロアチアでのキャリアを摘んでしまったとしても、誰が今のプルショを貶め、そしてプルショも当時のクロアチアを恨むというのか。2003年、彼はクロアチア人におけるヒーローとなったのは紛れもない事実なのだから。

 プルショは自分の成功についてこう振り返る。
「努力が私をこのように導いた。努力することが必要だし、信じることも必要だ。なぜなら人生には偶然ということはないからだ。ヤニツァ・コステリッチやイヴィツァ・コステリッチ(共にアルペンスキーの第一人者である兄妹)、ミルコ・フィリポヴィッチ(クロコップ)に聞いてみるがいい。いつかは代表からシュケルとボクシッチが去り、小さくともチャンスへの道が開かれる日が私にも来ると常に信じていた。代表入りした時には、最後にはクロアチアが欧州選手権の出場権を獲得するものと信じていた。全ての報いが私のもとへと返って来たんだよ。」

 2004年を終えて彼のサクセスストーリーを再び語る時、「おとぎ話」ではなく「伝説」へとフレーズが変わっている、そう信じたい。

 

ダド・プルショ(Dado Prso) プロフィール

生年月日:1974年11月5日
出身地:ザダール
身長:190cm
体重:86kg
クラブ:ザダール、ハイドゥク、パジンカ(1992/93)、ローエン(1993/95)、サン・ラファエル(1995/96)、アジャイオ(1997/99)、モナコ(1996/97、1999/2004)
家族構成:妻キャロル、娘ニコリーナ(4歳)、息子ロレンツォ(2歳)。
好きな歌手:セリーヌ・ディオン
映画:アクションを好む。好きな俳優はメル・ギブソン、ショーン・コネリー

トレードマークの"長髪"について:
「別に自惚れているからではない。事実、長髪の時の方が常に良い感覚を持つんだよ。モナコが2000年にリーグ優勝した際につい切ってしまったが、そのあとに膝の怪我をしてしまった。以来、髪にはもう触れないようにしているんだ。私の髪が私の幸運だからね。現役の間に切るつもりは毛頭ないよ。」

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