現地発、クロアチア・サッカー報告(35)
炎のストッパー
〜 ゴツェ・セドロスキ インタビュー
ディナモ・ザグレブにはJリーグを経験した二人の選手がいる。二人ともディナモの中心選手として名を高めてからJリーグのクラブへと移籍。退団したあとはディナモへと戻ってきて、再び若手選手を引っ張る存在となっている。似た経歴の二人に続けて、それも限りなく似た内容でインタビューしようというのが今回の企画である。ジェフ市原に在籍したエディン・ムイチンに続くインタビュー相手は、2004年にベガルタ仙台に在籍したゴツェ・セドロスキである。
マケドニア代表のキャプテンでもあるゴツェ・セドロスキ(31)は、かつてはハイドゥク・スプリトに在籍。イングランドのシェフィールド・ウェンディを経て1999年にディナモ・ザグレブに移籍したわけだが、燃え上がるまでの闘争心でたちまちBBB(ディナモ・サポーター)のアイドルとなった。ニコ・クラニチャールのケースとは違い、ハイドゥク→ディナモの移籍は歓迎されるものではなく、またBBBは外国人選手に幾分と冷たいサポーターであるのだが、常に100%の力を出すセドロスキはBBBにおいても特別な存在となった。そのBBBの愛着ぶりは、選手からモノを強奪する輩達であるにもかかわらず、彼が日本に移籍する際にはサポーターシャツと写真をプレゼントしたというエピソードが物語る。ベガルタではJ1昇格を実現できず、また帰国を決意した際の報道では日本生活に慣れなかったことを地元メディアにこぼしていたが、インタビューでは一切ネガティブなことは語らず、日本の想い出を美しく語ってくれた。これも"男"ゴツェの魅力の一つであろう。
【写真:セドロスキ(右)とムイチン(左)】
−まずは、ベガルタ仙台からオファーを受けた経緯は?
「東京にいる代理人から、ベガルタが私に関心を持っていると連絡があった。田中GMが二度に渡って試合をクロアチアで視察した上、私の獲得を決定したんだ。」
−オファー後から移籍を決断するまでは?
「決断にはそんなに時間は掛からなかった。オファーを聞いて興奮し、直ぐにベガルタへと行くことに決めたよ。」
−あなたは当時、BBB(ディナモ・サポーター)のアイドルであったわけだが。
「多くのサポーターが私を送別してくれた。写真やプレゼントも渡してくれてね。ディナモの選手がこれほどの送別を受けることは過去に無かっただろう。ディナモのサポーターには感謝しているよ。でもベガルタのサポーター達も"ゴツェ、ゴツェ!"といつも応援してくれたし、この機会に多くのお礼を言いたい。ベガルタでもクロアチアと同じように応援してくれたことに私は熱狂したよ。」
−チームメイトのムイチンから助言はあったの?
「契約の前に日本はどうか彼に質問した。最初の1ヶ月は大変かもしれないが、その後はすべてOKだったと答えてくれた。」
−日本へとやって来た当初の印象は?
「第一印象は非常に大変というものだった。初日は空港に着いて直ぐにクラブの医療診断に向かい、そしてホテルに泊った。最初の1,2週間は特に辛く、1ヶ月は一人で生活した。それから妻と二人の娘が訪れ、一緒に生活を始めた。言葉を知っている人が全くいないということは大変だったけど、それも慣れたよ。英語の通用度も低いとはいえ、隣人はいつも私達を助けてくれたし、皆さんには本当に感謝している。」
−Jリーグとクロアチア・リーグの違いは?
「クロアチア・リーグはより攻撃的で充分なスペースがあるけど、Jリーグはいつも堅めに守備的に戦っていた。違いはあるとはいえ、日本は良いサッカーをしているのには間違いない。ブラジルやヨーロッパをはじめとした外国人もたくさんいたし。もう一度、ベガルタのサポーター全員にお礼を言いたい。私に本当に良くしてくれたし、クラブのJ1昇格を心から願っている。」
−あなたはディナモでも頻繁に攻撃参加するが、ベガルタでは?
「私はストッパーというポジションながら必要ならば前線へと出るタイプで、移籍する前シーズンでは21得点を決めた。ベガルタでも3得点を決めたわけだが、ベルデニック監督も"必要な時には攻撃参加する"よう私に言っていた。もちろん試合中は私の判断で攻撃参加したし、監督が指令を出すならば最後までそれに徹したよ。」
−日本人選手の長所と欠点を挙げると?
「日本人は身長が低いと思われがちだが、選手達の身長は充分に高かった。日本人FWの動きは捉えづらいし、サイドへも流れるからね。良い選手はたくさんいたよ。もし欠点を挙げるとしたら、首位の座を巡って戦う際には全ての試合にきちんと勝たねばならないのだが、そのためのキャラクターがないことかもしれない。最下位相手でも首位相手でも同じサッカーをしなくてはならない。でも既に言ったように日本は充分に良いサッカーはしているし、スタジアムも満員になるのは美点だよ。」
【写真:セットプレーの強さは彼の特徴の一つ】

−チーム内でのコミュニケーションは?
「仲が良かったのは千葉、シルビーニョ、財前、根引、村上といった選手かな。全員が私を快く受け入れてくれた。彼らにはこの場で挨拶をしたいし、J1昇格して欲しいと願っている。」
−ベルデニック監督はどんな人物だった?
「素晴らしい監督だった。何が原因でクラブと彼が別れることになったかは知らないけど、ピッチ上でもトレーニングでも多くの仕事を果たしていた。戦術も細かく出していたしね。本当に優秀な監督だよ。」
−主将としてマケドニア代表の義務もあったわけだが?
「問題は大きかった。マケドニア・サッカー協会はいつも私を召集したが、ベガルタは離脱が長くなることから拒否したこともあった(例えば昨年9月のW杯予選・対ルーマニアはベガルタが拒否したため出場できず)。フライトは日本からウィーンまで12時間掛かり、そこで一泊してからマケドニアへと戻るわけだからね。実際に代表試合のための移動は大変であった。ディナモのサポーターが私の復帰を願ったこともあるけど、マケドニア代表の義務もディナモ復帰の理由の一つとなった。」
−なぜあなたはベガルタを離れることになったのか?
「どれぐらいの額を払ったのかは知らないけど、ディナモからのオファーがあったからだ。ディナモ復帰に関心があったから私は戻ったわけだが、もしチャンスがあればもう一度日本に戻ってプレーしたいね。代理人曰く、ベガルタを離れる際にはJリーグの他のクラブからもオファーはあったようだけど、私はそれに引っ張られることはなかったよ。」
−クロアチア・リーグからの選手が日本に慣れないケースが最近多いが、それに関してはどう考えるか?
「慣れない最初は大変だよ。私もヨーロッパの食事をいつも求めていたしね。私の場合は最初の一ヶ月は大変だったけど、食事の問題も解決した。生活に慣れてしまえば、あとは私も楽だった。人々も誠実だったから。」
−仙台は色々と美味しいものがあるよね。例えば牛タンとか。
「ああ、牛タンも食べたね。あらゆるものを試したよ。合宿や遠征になったら選ぶことなく、他の選手達と同じものを食べた。マケドニアの食事となったらパプリカを大量に使うけどね(笑)」
−ベガルタ以外では、どのチームのサポーターの応援が良かった?
「(他を比較することなく)何といってもベガルタが最も力強いサポーターだった。クラブが置かれている順位は彼らの存在を考えれば嘆かわしいことだろう。」
−クロアチアのサポーターと日本のサポーターを比較すると?
「どのクラブでプレーしても私はファンから愛されるから、サポーターを比較することは出来ないね。ハイドゥク・スプリトでもサポーターは私を愛してくれたし、イングランド(シェフィールド・ウェンズディ)でもディナモでも、そしてベガルタでもサポーターは私を支持してくれた。」
−サッカーに対する日本のメディアに関しては?
「日本ではメディアからのプレッシャーというものはなかったが、勝っても負けてもプレッシャーが加わらないということは我々にとって問題だったかもしれない。こちらでは負けると直ぐにプレッシャーが掛けられるからね。」
【写真:ゴツェはチームからの信望も厚い】
−オフには、どこか国内旅行をした?
「二度、代理人と東京に行ったきりかな。家族とはどこへも行けなかった。娘のテアとアンドレアを連れて東京ディズニーランドに行けなかったのは残念だ。仙台では緑の多い泉公園に家族とよく訪れて散歩したよ。」
−今季のディナモ・ザグレブで起こった不振に関してはどう分析する?
「私が戻った時からディナモは危機的で困難な状況に陥っていた。新たにやってきた選手達は勝ち続けることに慣れてないために、クラブもこのような危機へと突入してしまった。ディナモには若い選手が多く、彼らはこれまでリーグ残留を争うクラブでプレーしていたわけだから。常に一位でなければならないというプレッシャーに慣れることが出来なかった。来シーズンになれば全てが良くなることを願っているよ。」
−あなたの祖国マケドニアの代表チーム、そして国内リーグに関しては?
「来年にマケドニア代表は新たなチーム作りへと入る。私は現在31歳だし、次の予選(ユーロ2008)が私にとって最後になると思っている。何かを残したいと願っているよ。マケドニア・リーグはかなり悪い部類だ。金もなければ何もない。ただ悪いだけだ....。」
−周辺国との地域リーグ結成のアイデアに関しては?
「現時点では早すぎる話だ。結成するのは難しいと思う。」
−今後のキャリア、そして引退後は?
「もう5,6年は現役でプレーする。もしオファーがあるならば移籍するかもしれないが、今はディナモに残るつもりだ。引退後について語るのはまだ早すぎるね。コーチか何かでサッカーに関わりたい。クロアチアかマケドニアかはまだ判らない。ザグレブに持ち家があるから、ここに住み続けるかもしれないし、マケドニアに戻るかもしれない。」
−日本での経験は現在のあなたにどのような影響を与えている?
「日本ではJリーグがどんなものか見ることが出来たし、そこでの経験は私のこれからのサッカー人生に本当に価値あるものとなるだろう。」
−サポーターにメッセージを。
「日本のサポーターに宜しくお伝えしたい。ベガルタ仙台はJ1昇格に値するチームである。サポーター達はいつでも我々と一緒だったし、彼らは何処へでも我々と遠征してくれた。J1昇格のために全てが上手くいくことを本当に心から願っているよ。」
| ゴツェ・セドロスキ Goce Sedloski 1974年4月10日、マケドニア(当時はユーゴスラビア連邦)、プリレプ生まれ。 身長188cm、体重83kg。愛称はゴツェ。 妥協を決して許さないディフェンダーであり、その熱い闘争心には誰もが畏敬の念を感じる選手である。攻撃参加を得意とし、高い打点のヘディングシュートからゴール前の混戦での嗅覚も強い。右ストッパーが本職であるが、スクランブルとなればFWとして前線で張り付くことも多い。 マケドニアのポベダ・プリレプでキャリアを始めた彼は、1996年にハイドゥク・スプリトのスカウトであるハリ・ウイカノヴィッチ氏の眼に留まる。それまで全く無名だった彼はハイドゥクに移籍するや否や頭角を現し、マケドニア代表にも選出。1998年にはイングランドのシェフィールド・ウェンズディに移籍。1年半在籍したものの首脳陣から満足する扱いを受けなかった彼は、ハイドゥクのライバルであるディナモ・ザグレブのオファーを受け入れて1999年にクロアチアリーグへと戻ってきた。その後は不動の右ストッパーとしてチームの精神的支柱となった。2003/04シーズンはリーグ優勝は逃したものの、彼にとっては最高のシーズンとなり、欧州カップ・国内カップ戦も含めれば21得点とチーム得点王となった。 2004年7月にJ2のベガルタ仙台のオファーを受けて移籍。シーズン終了まで21試合に出場、3得点を決めた。シーズン終了後にはベルデニック監督が更迭、不振に喘ぐディナモがセドロスキに復帰を願ったこともあり、ベガルタとの契約が残りながらも移籍を決意。当時の副会長マミッチは「セドロスキを行かせたことは失敗だった。もしディナモに戻ってきたならば、5倍の金を積まれても放出することはしないだろう。セドロスキはディナモの魂であった」と口にした。セドロスキでさえも今季のディナモの不振は救えなかったが、若い選手が多いディナモにおいて主将として現在はチームを引っ張っている。 またマケドニア代表でも現在キャプテンを務めている。60試合出場はマケドニア代表歴代2位。また5得点も代表歴代5位である。 家族は妻ダニエラ、長女テア、次女アンドレア。 |
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