現地発、クロアチア・サッカー報告(26)
ボスニア・ヘルツェゴビナ新王者〜NKシロキ・ブリイェグ
2004/4/18 BiH プレミエル・リーガ第23節
「シロキ・ブリイェグvs.レオタール・トレビニェ」
2004/5/12 BiH プレミエル・リーガ第27節
「シロキ・ブリイェグvs.サラエヴォ」
【写真:サポーター達と優勝を喜び合う選手達】
試合後、スタジアム前の道路を占拠したサポーター達が叫ぶ。
「シロキ・イェ・シャンピオン、オ・オ・オ・オ! シロキ・イェ・シャンピオン、オ・オ・オ・オ!」
5月12日、2位FKサラエヴォを直接対決で下したNKシロキ・ブリイェグはボスニア・ヘルツェゴビナの新王者(シャンピオン)となった。シーズン途中から完全独走し、残り3節を残してのぶっちぎりの優勝だ。
ボスニア・ヘルツェゴビナの南にある町、シロキ・ブリイェグ。この地と縁が出来てもう一年近く経つ。去年の春、クロアチア人のジェリコ・パブリチェヴィッチ氏がバスケットボール日本男子代表監督に就任したことで、私は通訳として三ヶ月間働いた。一ヶ月に渡る6月の海外合宿の際にはパブリチェヴィッチ監督の母親の出身地でもあるここシロキ・ブリイェグに日本代表チームは二週間ほどキャンプを張った。バスケットボール・クラブ「シロキ・ブリイェグ」は、2001/02シーズンから始まったボスニア・ヘルツェゴビナ連邦統一リーグで三連覇を果たした新興の強豪クラブ。2000年に完成した収容5000人、イタリア製の電光掲示板を兼ね備えた近代的なバスケット専用アリーナを無償で練習場として提供して貰い、シロキを始めとする近郊クラブと練習試合を何試合もこなした。滞在先のホテル・ロイヤルはホスピタリティに溢れ、美味しい食事を満喫。とはいえ、既に通訳の仕事を離れることが決まっていた私がこの片田舎に再び訪れることはもう無いだろうと思っていた。とある日、昼食を終えて何気なくホテルのレストランに置いてあった新聞のスポーツ欄を広げると、記事に自分の眼を疑った。「シロキ・ブリイェグと3年契約を結んだばかりのドマゴイ・アブラモヴィッチが合宿に参加している」−あぁ、これも何かの縁なのだろう。長きに渡り応援しているアブラモヴィッチがこの町でプレーする。彼がディナモを離れざる得ない現実に淋しさも感じたが、彼ならばここシロキ・ブリイェグでサッカーに集中し、活躍出来るはずだと信じていた。
【写真:市庁舎前のトゥジマン像】
「広い山」という意味を持つシロキ・ブリイェグは周囲を山岳に囲まれ、中央にはリシュティツァ川が流れるヘルツェゴビナ地方の町だ。人口は約7000人、周囲の町を含めたシロキ・ブリイェグ県でも人口は約27,000人にしかし満たない。しかし、クロアチア人が人口の殆どを占めるこの地はクロアチア愛国主義がとりわけ強いところだ。その愛国心ぶりは紛れもなくクロアチア本国に住むクロアチア人以上。死後は何かと批判を集めている故フラニョ・トゥジマン初代クロアチア大統領の銅像が昨年、本国に先立ってここシロキ・ブリイェグに立てられた。そのトゥジマンの右腕で与党HDZ(クロアチア民主同盟)の実質ナンバー2だった防衛大臣ゴイコ・シュシャクがシロキ・ブリイェグの出身。シュシャクは1961年にカナダに移住し、1990年にクロアチアへ帰国。出生地を書く際に「シロキ・ブリイェグ、クロアチア」と書き、物議を醸したことがある。そのシュシャクがあらゆる手段で故郷に資本を集め、町は発展を続けた。例えばクラブ・スポンサーの一つ「フェアル」は同国を代表するアルミニウム企業だが、戦前からアルミニウム産業で有名だったダルマチアの町シベニクから人材を引っ張って成長した新興企業だ。シュシャクは1998年に亡くなったが、毎年2月には彼の名前を冠したサッカー大会「ゴイコ・シュシャク・トーナメント」が開催されている。
シュシャク亡き後もシロキ・ブリイェグはスポーツを起爆剤にして町起こしに成功している。バスケットボール専用アリーナ以外に300人の生徒が学ぶテニスセンター、国際大会が行える射撃場などの施設が新しく整えられ、市内には計18のスポーツクラブがある。地元の有力者や市の財政援助でインフラを整備し、選手を補強・育成しながらクラブを強化。また、大会参加者やアウェーチームが来ることを見込み、現在は市内唯一のホテル・ロイヤルに加えて新たなホテルを建設中である。
【写真:将来を背負うユースの子供達】
1948年に「ボラク」という名前で創立したサッカークラブはボクシト、リシュティツァ、ムラドスト・ドゥビントという名前を経て現在のNKシロキ・ブリイェグとなった。NKシロキ・ブリイェグの生き字引といえるズラトコ・クヴェシッチ秘書はこう語る。
「旧ユーゴスラビア時代の最高成績といっても70年代前半、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の一部リーグに在籍していた程度だった。それがボスニア・ヘルツェゴビナ独立後、地元の熱狂者達が腕まくりしてクラブ強化を図ったんだよ。」
1993年にヘルツェゴビナのクロアチア人地域で「ヘルツェグボスナ・リーガ」がスタートするとシロキ・ブリイェグは5連覇を達成した。のちにムスリム人とクロアチア人のリーグが併合されて2001/02シーズンは2位に。UEFAカップに出場権を得た2002年は一回戦でVTJコバ・セネク(スロバキア)を下し、二回戦まで駒を進めたがスパルタ・プラハに敗北。三民族が統一して初めてのシーズンとなった昨季は4位、二度目の欧州カップ戦出場権にあと一歩だった。
「かつては行政主導のところもあったが、連邦が統一したあとは行政は逆に税金を徴収することばかりだ。しかし、今はチーム財政の90%はスポンサーと選手売却で賄う健全経営をしている。」
例えば昨季はガンバ大阪で戦力外となり4万ドルでパスを買い取ったMFミルコ・フルゴヴィッチが大活躍。シロキは今季開幕前に200万ドル以上の値をつけてヴォルフスブルグへ売却した。またクロアチア代表経験もあるFWスタンコ・ブバロ(現カルンテルン)やFWマリオ・バジーナ(現AKグラーツァ)もかつてはシロキ・ブリイェグでプレーし、国外へと羽ばたいていった。今季はアブラモヴィッチをはじめ、クロアチアリーグでプレー経験のある3選手を補強。クロアチアでは当たり前となっている給料遅配もこのクラブにおいては全くない。しかしながらサッカー選手の平均基本給は250ユーロ/月ほど。ボスニアで最高クラスの給与を貰っているアブラモヴィッチですら基本給は500ユーロで、これに勝利給がプラスされる。
【写真:イエリッチ会長本人が獲得に動いたアブラモヴィッチ(中央)】
フルゴヴィッチに続けと、新たなステップアップを目指す選手には最高の環境を持ったクラブである。町に娯楽がないのも事実であるが(それこそスポーツ観戦が最大の娯楽)、その代りにバスケット専用アリーナの地下には最新設備のスポーツジムがあり、選手は自由にジムを使用出来る。アリーナの横には収容6000人の本拠地「スタディオン・ペツァーラ」がある。4面のサブグラウンドを併せ持つこのサッカースタジアムには、来季開幕までにバックスタンドと電光掲示板が建設される予定だ。UEFAが新たに設けた厳しいライセンスを唯一ボスニア・ヘルツェゴビナ国内で得たスタジアム(クラブ)である。またクラブ内の政治的駆け引きもなく、純粋に地元クラブを愛し、強くしようと人達が集まっている。クロアチア軍の元将軍であるズラタン・ミヨ・イエリッチ会長以下、フロント全員がシロキ・ブリイェグの出身。昨年夏、そのイエリッチ会長がチームにタイトルをもたらす若いフォワードの獲得を考えた際、クロアチアから推薦されたのがアブラモヴィッチだった。イエリッチ会長はアブラモヴィッチを見てきた監督や一緒にプレーしてきた選手達に彼のクオリティと性格を聞きまわり、最終的に獲得を決めた。イェリッチ会長は語る。
「誰も私を騙さなかった。現在、ドマゴイはリーグ最高のフォワードだ。そして彼はクロアチアの最高のフォワードの一人だと確信している。それはドイツで行われるU-21世界選手権で証明されることになると信じている。彼を売る気はない。彼と共にチャンピオンズリーグ予備戦を突破したいからだ。」
そのアブラモヴィッチは今季16ゴール10アシストと文句のない成績を残し、初のリーグ優勝に貢献した。イエリッチ会長の願望に反して、西側諸国のクラブが彼を獲得するのは時間も問題だ。(アブラモヴィッチへのインタビューはこちら)
少し前後したが、複雑なボスニア・ヘルツェゴビナ・リーグの歴史にも触れる必要があるだろう。ボスニア・ヘルツェゴビナは主に三つの民族(ムスリム人、セルビア人、クロアチア人)で構成されており、ユーゴスラビア崩壊後は同国内で民族間紛争が勃発した。1992年から95年まで戦争はほぼ全土に渡り、人口の半分以上となる270万人が難民、20万人以上が亡くなった。1995年のデイトン和平後でも三民族それぞれの独自のサッカー協会、そしてサッカーリーグが存在。ボスニア・ヘルツェゴビナ・リーガ(ムスリム人)、スルプスカ・リーガ(セルビア人)、ヘルツェグボスナ・リーガ(クロアチア人)の三つのリーグがそれぞれ王者を決めるという歪な現象が起きた。和平プロセスと同様にリーグ統一も困難な道を極めた。2000/01シーズンからボスニア・ヘルツェゴビナ・リーガとヘルツェグボスナ・リーガの統一リーグが誕生。さらに2002/03シーズンからは、欧州から締め出されていたスルプスカ・リーガのクラブも加わり、三民族統一の「プレミエル・リーガ」が誕生した。ちなみに「プレミエル・リーガ」の名称はムスリム人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・リーガが1998/99シーズンから採用した名称("プレミア・リーグ"の意)。現在16クラブで構成され、2回戦総当りで計30節。昨シーズンはヘルツェゴビナにあるセルビア系クラブ、レオタール・トレビニェが古豪ジェリェズニチャールを制して統一リーグ初代王者となっている。
【写真:シロキを支える外国人バイアーノ(右)とタビ(左)】
2003/04シーズンのシロキ・ブリイェグは開幕戦のルダールに引き分け、第3節には同じクロアチア系クラブのジェプチェに敗れてスタートにはつまづいたものの、第6節に昨季2位のジェリェズニチャールをホームで2-0と完勝。この試合ではアブラモヴィッチが1得点1アシストの活躍でマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。アブラモヴィッチは第6節まで5ゴールと快調なペースで得点を決めていた。一方でジェリェズニチャールはこの後も不振が続き、第8節終了の時点でアマル・オシム監督が解任されている(市原監督のイヴィツァ・オシムの息子で現市原ユースのコーチ)。シロキは第8節に昨季王者のレオタールにアウェーで0-2と敗北。その後は3連勝で単独首位に立つと、今度は第12節に古豪FKサラエヴォにアウェーで1-4と完敗してレオタールに首位を奪われる。しかし再び3連勝を果たし、ウィンターブレークを前にしてシロキ・ブリイェグは勝点32で単独首位。レオタールとは勝点差1で折り返した。
ウィンターブレーク後の最初の試合は第16節、対ルダール戦。雪でぬかるんだピッチでアブラモヴィッチはまずPKを決めたのち、ドゥイモヴィッチの左クロスからボレーシュートを決めて2点目。マリッチのシュートが弾かれたところをアブラモヴィッチが詰めてハットトリックを決めると、彼は更に前半に4点目も沈めて得点王レースのトップに立つ。以降、第21節にジェリェズニチャールに敗れるまでシロキは8連勝で首位を固める。第23節の対戦相手は2位レオタール。マッチレースの相手となるはずのレオタールはリーグ再開以降アウェーで全敗し、ミラン・ヨヴィン監督は不振の責任をとって辞任。既にシロキとの勝点差は7も開いている。ベオグラード出身でレオタール中盤の要であるボスニア代表ドゥシャン・ケルケズは「誰も目から見ても首位のチャンスは我々から去っていった。シロキは現時点で最強だ。とはいえ白旗を挙げるつもりはない。シロキから勝点を取るためにはコレクティブなプレーで挑む必要がある」と試合前にコメントした。
【写真:ボスニアのパスポートを持たないアブラモヴィッチも
外国人扱いとなる。一試合に3人までが起用可能】
プレミエルリーグ第23節、シロキ・ブリイェグvs.レオタールがスタディオン・ペツァーラで行われた。アブラモヴィッチの誘いもあり、スプリトからバスでシロキ・ブリイェグへと向ったが、このヘルツェゴビナ・ダービーを観戦しようとする地元民の車で市内は渋滞。試合開始時刻も迫っていたので、途中でバスを降り、小雨の中をスタジアムまで小走りで向った。市内の地理は一年前の滞在で覚えていた。試合開始に間に合い、カメラマン用のビブスを着てピッチに入るとアブラモヴィッチに笑顔で出迎えを受けた。観客は満員に行かないまでも6割は埋まっている。18時にキックオフ。シロキ・ブリイェグは4-4-2、レオタールは3-4-2-1のシステムを敷く。シロキのツートップは点取り屋のアブラモヴィッチに、小柄でスピードが取り得のプレドラグ・エルチェグ。トップ下の元ザグレブのプレドラグ・シミッチだが、実質3トップのように彼が最前線へと上がる。ブラジル人MFのリカルド・サントス・ラーゴ・"バイアーノ"はチームの顔の一人。シーズン途中から調子を落としたが、ブラジル仕込みのテクニックと強烈なミドルシュートが特徴。ボスニア国籍も取得し、ボスニア代表としてプレーする日も近い。彼にカメルーン人ウィリアム・タビ、キャプテンでボスニア代表のダニエル・バイクシャの三人は中盤で頻繁にポジションチェンジを繰り返す。左SBダリヴォール・シリッチ、右SBダリヴォール・コジュルが交互にオーバーラップし、残った一人がセンターバックのサーシャ・ジュルリッチ、スティペ・レジッチと安定したライン守備をみせる。GKイゴール・メルヘルも代表歴のあるGKだ。24分、エルチェグがペナルティエリアの左25mの位置でファウルを得ると、彼はそのままFKを直接決めてシロキが先制する。54分にはバイアーノがドリブルで選手をかわしてからミドルシュートを一閃し、これが決まって2-0。アブラモヴィッチにはなかなか決定機が回ってこなかったのだが、66分にシミッチが右サイドを突破してグラウンダーでのアーリクロス。合わせにいったアブラモヴィッチのシュートはGKボジョヴィッチの正面。跳ね返ったボールを押し込もうとするも今度はポストに阻まれてしまった。アブラモヴィッチにとっては不満の試合ではあったものの、2-0でシロキ・ブリイェグが勝利して昨季王者レオタールに引導を渡した。
【写真:シロキのサポーター、シュクリパリ】
試合後翌日、サポーターグループ「シュクリパリ」のリーダー、マリン・パヴロヴィッチ氏に話を聞いた。第二次大戦後、共産主義政権に抵抗したクロアチア民族主義グループ(ウスタシャ)の残党から名前を取った「シュクリパリ」は創立8年とまだ若いサポータークラブ。規模は違うもののBBB(ディナモ・サポーター)やトルツィダ(ハイドゥク・サポーター)に負けるとも劣らない熱心さを持ち、選手に対しては常にポジティブな応援を続ける。しかしマリンは国民のリーグへの関心の低さと、"健全な意味合い"で対抗するサポーターがいないことに不満を持っている。
「それこそクロアチア人だけのヘルツェグボスナ・リーガの方が盛り上がった。町と町の対抗意識で市民の関心も高く、どの試合でも満員になったからね。クロアチアに散らばるシロキ・ブリイェグ出身者も試合にやってきたものだった。盛り上がったのも2シーズン前のプレミエル・リーガ(ムスリム人とクロアチア人)までだね。我々はセルビア人よりもムスリム人のクラブへのライバル心は強いから。しかしリーグが統一されてから相手サポーターのアウェーの行き来はなくなった。恐れもあるだろうけど、アウェーに出向くほどのサポーター組織が各クラブもないのが現実だ。俺達も30人〜50人ほどのグループでアウェーの試合に出向くことはあるけど、かつてのようにクラブの援助などはないからね。」
クロアチアのようにサポーター同士が憎しみあい、殴り合いの喧嘩をすることなどはサラエヴォ・ダービーを除けば稀だ。シロキ・ブリイェグから東に20km、同国第二の都市モスタルにはヴェレズ(ムスリム系)とズリンスキ(クロアチア系)のとりわけ熱いライバル関係があるが、ヴェレズが二部落ちしてしまったことでカードも消滅してしまった。今年2月のゴイコ・シュシャク・トーナメントではディナモ・ザグレブとハイドゥク・スプリトの両チームが招待され、最後はその両チームで決勝戦となったわけだが、BBBとトルツィダが乱闘を繰り返して試合も中断。マリンをはじめとするシュクリパリはスタジアムの外で暴れる両サポーターを鎮めようと努力したほどだった。
【写真:本拠地スタディオン・ペツァーラ。
来季はチャンピオンズ・リーグ予備戦がここで行われる。
背後の建物はバスケットボール専用アリーナ。】
5月12日、シロキ・ブリイェグは2位サラエヴォ(ムスリム系)をスタディオン・ペツァーラに迎えた。マリンは「今日はサラエヴォのサポーターがやって来るかもしれない」と言っていたが、スタジアムはシロキ・ブリイェグの市民とサポーター約5000人で埋まり、サラエヴォのサポーターはわずかに二人のみだった。残り4節で勝点差7、サラエヴォの逆転優勝は絶望的だから仕方ない。シロキはこの試合で優勝が決まるということで、シュクリパリのメンバーは一週間かけて発煙筒、煙幕、人文字などの演出準備をし、試合3時間前からはスタジアム前のカフェでアルコールを入れて気勢を上げていた。試合前に会ったアブラモヴィッチは「調子はいいから今日は得点を決めて優勝を祝いたいね」と語る。試合は全試合17時にキックオフ。レオタール戦では自分の結婚式のため欠場した元ディナモのミロスラフ・ドゥイモヴィッチがシミッチの代りにトップ下に入り、シロキはベストメンバーで挑んだ。一方、サラエヴォ(4-4-1-1)はU-23ボスニア代表の司令塔アレン・ペラック(元セレッソ大阪)が欠場。ワントップとなるアレン・シュコーロ(U-23ボスニア代表)はアブラモヴィッチとリーグ得点王を争う長身・長髪の危険なストライカーだが、彼一人で状況を打開することは出来ない。20分、左CKにアブラモヴィッチがヘディングしたボールがファーサイドへと流れ、最後にはDFレジッチが押し込んでシロキが先制すると、スタジアムのあらゆる場所で発煙筒が炊かれ、応援は更にヒートアップした。後半にも50本以上の発煙筒が炊かれてスタート。しかし52分にDFジュリチッチが背後からのタックルで二枚目のイエローで退場。シロキは守備的布陣を敷くためにアブラモヴィッチもここで交替となる。勝点差8で追う3位のレオタールが0-3で負けているという情報が入り、この試合の勝利で優勝は決まる。シュクリパリの熱い応援に支えられ、シロキは一人少ない状況でも五分の戦いを見せた。そしてセルビア人主審ヴラド・ヤゴディッチによる試合終了のホイッスル。「スタディオン・ペツァーラでは負けない」という神話は守られた(14戦全勝、リーグ再開後はホーム無失点)。スタジアム全体がトランス状態となり、選手達、そしてチームスタッフは世界王者となったクロアチア・ハンドボール代表と同様、イエリッチ会長を先頭にピッチで"ムカデ行進"をした。そしてシュクリパリのいる東側のゴール裏スタンドで何度も万歳を繰り返したのだった。
選手から胴上げされたイヴォ・イシュトゥク監督は試合後、シーズンを振り返りながらこう語った。
「我々の優勝に汚点をつけることは誰も出来ないはずだ。大きな危機もなくシーズンを通して良いプレーをしてきた。ホームでもアウェーでも勝ち続けたからね。このタイトルはクラブを運営してきた人々による長年の努力の賜物だ。はじめにズラタン・ミヨ・イエリッチ会長、そしてスポーツ・ディレクターのダミール・クトゥラ、また他の幹部も含めたクラブの人達は家族のようであり、結果は訪れるべきして訪れたものだ。チームにはスター選手はいないが、実力のある選手達、また個性を持った若者達の中から大きな選択が出来た。メンバーをいじることは少なかったが、もし誰かが外れたとしてもベンチには同じ実力の選手がいた。それが成功の理由の一つであり、我々の力といえよう。」
不当な扱いを受けたクロアチア・リーグ時代とは違い、ようやく本来の実力を発揮したアブラモヴィッチはこう語る。
「私にとってはマクシミール(ディナモ)での二度のカップ優勝、一度のリーグ優勝に継ぐトロフィーとなる。本当に幸せだよ。夏にシロキ・ブリイェグに移籍したときは全てがこのようになるとは信じていなかった。これは本当のサッカーのおとぎ話だよ。」
試合を終え、私はシュクリパリの宴に混じることなく、21時半のザグレブ行きの夜行バスまで時間を潰していた。すると車で私を探していたアブラモヴィッチが交差点で手招きした。
「今日は選手達やサポーター達と夜明けまで騒ぐつもりだよ。君がシロキに残らないのは残念だけどね。どれぐらい飲むことになるんだろう? 明日は二日酔いで寝込んでいるかもね(笑)」
彼は助手席に座る私に笑顔で語った。アブラモヴィッチはシロキ・ブリイェグで生活していることもあり、市民の殆どが知り合いだ。しかしチーム内の選手の殆どは別の町に住んでおり、選手間の交流が少ないことを残念がっていた。とはいえ今夜はフェスタ(お祭り)。「皆で楽しんで! またザグレブで、そしてドイツ(U-21欧州選手権)で会おう!」−バスの切符購入を手伝ってくれ、その後も発車まで見送ろうと心遣いをしてくれたアブラモヴィッチに感謝し、"心配はないから"と彼を送り出した。フェスタには主役が必要だから。バスが動き出し、フェスタの会場となるディスコの横を通り過ぎる。
「シロキ・イェ・シャンピオン、オ・オ・オ・オ! シロキ・イェ・シャンピオン、オ・オ・オ・オ!」
頭の中でシュクリパリのコールがリフレインする。次にシロキ・ブリイェグと出会うのはチャンピオンズリーグ予備戦だろうか。
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