現地発、クロアチア・サッカー報告(33)
助っ人魂 〜
アルミール・トゥルコヴィッチ インタビュー
今季クロアチア・リーグの優勝候補の筆頭、ハイドゥク・スプリトにおいて最年長の一人がアルミール・トゥルコヴィッチだ。34歳の彼は6ヶ国でプレーし、その国の数はクロアチア・リーグの選手でぶっち切りの最多である。彼にとって、その国の一つが日本であった。2002年、J1復帰を目指すセレッソ大阪の「助っ人」としてやってきたトゥルコヴィッチは大久保嘉人とのコンビでチームを牽引してきた。2003年にハイドゥクに加入した彼は、そのサッカーの知識と経験をチームに授けている。「人格者」との噂通り、温かいムードを常に醸し出しながら、日本時代の想い出などを語ってくれた。
【写真:アルミール・トゥルコヴィッチ】
−貴方のこれまでのキャリアについて聞きたい。
「7歳の時に故郷サラエヴォのジェリェズニチャールのユースに入団した。それから18歳の時にFKサラエヴォに移籍し、それからスロベニアのHITゴリツァ、続いてスロベニアの国境に近いオーストリアの小さな町のクラブ、シュタエールでプレーした。それからメキシコに渡ったよ。」
−なぜメキシコへ?
「興味がある国だったし、そこで経験を積みたかったから。美しい国だったし、リーグも良いサッカーをしていた。7ヶ月間、オリンピアというクラブでプレーしたのだが、1995年にボスニア紛争が終結したことで両親のためにもサラエヴォに戻ったよ。そして1シーズン、古巣のサラエヴォでプレーした。それからザダール、オシエクでそれぞれ
2シーズンずつプレーしたのさ」
−それから貴方は日本へと渡った。その経緯は?
「当時、セレッソ大阪が急遽、フォワードの選手を探していた。ある日本人選手がディスコかどこかで殴られて怪我したという理由でね。そうそう、真中選手だよ。それで大倉ディレクター(当時)が選手を探すためにクロアチアにやってきた。当時、私はオシエクでプレーしていたのだが、7日間に渡って彼はオシエクで毎日トレーニングと試合をチェックしたのさ。そして私の獲得を決めた。」
−オファーを聞いた際はどう思ったのか?
「まずは自分にとって良い経験が得られると思った。日本の生活がどのようなものか見たかったし、、文化をはじめとする日本のあらゆるものが世界の他の国とは違っていて興味があった。そして日本のサッカーはクオリティがある。そこで私がどれだけやれるものかチャレンジしてみたかった。」
−直ぐに決断したのか?
「随分と考え悩んだよ。ちょうどその時に娘のタイラが産まれたばかり。まだ彼女は生後2ヶ月の赤ちゃんだった。妻と娘を置いて、一人で日本に行かなければならなくなるからね。」
【写真:2003/04シーズンの
リーグ優勝トロフィーとともに】
−そして日本にやってきた。
「二人が日本に来るまでの5、6ヶ月の間は一人で生活したのだが、それは本当に辛かった。だから日本ではサッカーだけに自分を捧げたんだ。ディスコなどで夜遊びすることなどは決してなく、ただ私はサッカーだけを考えた。関心はそれだけで、日本で自分がやれるということを見せたかったのさ。」
−Jリーグとクロアチア・リーグの違いは?
「それはそれは巨大な差があったよ。日本では何事も非常に組織されており、きちんと時間通りに行われるからね。その正確性は私にとって喜ばしいことだった。日本でも多くの人達がサッカーを好んでいるし、サポーターはサッカーを本当に愛している。クロアチアのサポーターは知っての通り、いつも問題を起こしているからね。まったく別の世界だったよ。」
−プレーに関しての違いは?
「それはあった。私が思うに、クロアチアでは経験のある選手が多く、落ち着いてゆっくりと結果を導こうとする。しかしセレッソでプレーした時はまず何よりも目先の結果が重要視された。とりわけ私がいた時のセレッソはJ2だったため、J1に復帰する目標があった。チームとしてのプレー内容が良かろうが悪かろうが、目の前の勝ち点3が一部昇格へと近づけるわけだから。一歩一歩階段を上がっていくように、まず目の前の試合、そして次の試合と勝ち続けることが最重要であった。クロアチアの多くのチームも似たような目標を抱えているが、こういった戦いも経験がものをいうところがあるよ。
プレースタイルそのものに関していえば、テンポは日本の方がかなり速いだろう。俊足の選手もたくさんいるしね。しかしクロアチアには勝利へと導く熟練した選手が多い。日本のチームの方が速く美しいサッカーをするが、もしかしたらクロアチアのチームが勝つことかもしれない。例えばセレッソとハイドゥクが対戦したとしたら、セレッソの方が速くて美しいプレーをするだろうが、経験面の差でハイドゥクが勝つことだろう。もしハイドゥクが先制点を取ったら、あとはゆっくりゆっくりと試合を終わらせていく。つまり、狡猾さというものがこちらにはある。イタリアのサッカーでも0-0でゆっくりと試合を終わらせるケースがあるようにね。日本ではとにかく"ガンバッテ! ガンバッテ!"(日本語)だから。それが違いなのかもしれない。」
−チームメートについてはどう感じた?
「私はラッキーだったよ。ヨシト(大久保嘉人)、アキ(西澤明訓)、モリシ(森島寛晃)といった日本代表の選手達と同じチームでプレーできたんだから。それは私にとって最高だった。彼らは素晴らしい選手だったし、人としても本当に良かったからね。真のスポーツ選手達だった。」
−どのようにチームメートとコミュニケーションを図ったのか?
「最初は難しかった。通訳のタケ(大谷武文)は当初いなかったからね。私一人でのコミュニケーションは大変だったが、ヨシトは直ぐに最高の友達となった。彼はまだ若くて経験の浅い選手だったので、自分の経験や狡猾さをもってして彼をサポートすることを望んだ。ヨシトは本当に最高の選手だ。だから彼がマジョルカに移籍したことはとても嬉しいよ。これからキャリアをどんどん発展することが出来るだろう。彼には多くの幸運を願っているし、レベルの高いリーガ・エスパニョーラでもやれることを見せつけて欲しい。」
【写真:今季はクラニチャールともチームメイト】
−日本での環境は?
「私にとっては本当に素晴らしいものだった。トレーニングも全て私にとってはやり易かった。ただ辛かったのは家族を置いて一人だったことだ。私はボスニアのサラエヴォから来たわけだが、ブラジル人ならば日本にもたくさん住んでいる。彼らは仲間もいれば、自国のレストランもあれば、ブラジルのテレビや雑誌もあるわけだから随分と楽だよ。私は一人だったから本当に辛かった。」
−ゴチェ・セドロスキ(ベガルタ仙台)やイヴァン・ラデリッチ(セレッソ)のように最近は"日本の環境に慣れるのが辛い"といって帰国するケースがあるが。
「外国人選手は日本において多くのものを要求される。また週にある2試合のために、毎週毎週5日間がキャンプとなった。それは誰でも大きなストレスとなるだろう。もし小さな子供や赤ちゃんがいたとしたら辛いはずだ。自分一人だけ、家族がいる、子供がいるなどによってそれぞれ状況が変わってくるよ。」
−日本にいた時は家族とは?
「電話代は相当使ったよね。本当に高くついたよ。私が日本に来て5,6ヶ月してから妻と娘がやってきた。それから私の母親が1ヶ月ほど日本に滞在して、彼女は旅行好きだから京都や神戸などあちこち観光して行ったよ。外国人は日本で台風や地震を恐れるものだけど、私の滞在時には特になかったね。」
−セレッソがJ1に昇格を決めた時はどのように感じた?
「J1昇格という目標があった以上、家族がそばにいなくて辛くとも、とにかくその目標達成を私は望んでいた。私はセレッソをJ1へと上げる助っ人としてやってきたし、全選手と一緒にチームが昇格することを願っていた。だから昇格を達成した時は本当に嬉しかった(彼の2ゴールで試合に勝利し、昇格の喜びで涙を見せた)。セレッソは大きなクラブであり、大きなスタジアムもあるから、常にJ1でやっていくべきチームだ。他のJ2のクラブよりもずっと大きなクラブなのだから。」
−戦力外通告を聞いた時は?
「とても残念だった。なぜなら自分を犠牲にしてでも多くのものをセレッソに与えてきたし、その後もセレッソでプレーしたいと願っていたからだ。悪いプレーをしたとは思っていない。出来る限りのことはやったし、努力もしてきた。そして試合とトレーニングだけに捧げてきた。セレッソの前進あるのみと考えてきた。私がチームを去ると知ったヨシトは、私のところへとやって来て、私のために泣いてくれた。彼は本当に素晴らしい若者だ。一方で、西村監督(当時)は大きな間違いをしたと思う。J1になって新たな選手を連れてきたわけだが、彼らはチームの力とならなかった。私は彼ら以上の力を出したはずだ。」
−貴方を切ってまで獲得したアルヴィン・ぺラックは失敗したわけだが。
「ペラックはまだ若いために、自分が助っ人であることをよく理解してなかったのだろう。もし今、私が日本に行ったとしても、周囲の日本人選手以上にチームへ全力を注ごうと考えるだろう。自分が犠牲になってでもね。日本にも多くの良い選手がいるが、外国人は誰もがチームの助っ人とならなければならない。ペラックにはその認識がなく、意味ないプレーをすることしか考えなかったのだろう。そこには経験の差というのもあるのかもしれない。」
【写真:昨季はブーレ(上)とも
ハイドゥクでプレーした】

−日本での生活について、チームメートのニーノ・ブーレ(元ガンバ、昨年までハイドゥクに在籍)やクルノスラフ・ロヴレク(昨年セレッソに在籍)らと話し合ったりするのか?
「ああ、もちろん。ブーレのいたガンバ大阪はもっと財政が豊かで、優秀な選手もいたようだね。日本には本当にレベルの高いリーグがあると思う。全てにおいて素晴らしい。誰もがどの試合においてでも勝てるという面も好きだ。だからこそJリーグは興味深い。クロアチアでは少し状況が違う。いつもディナモとハイドゥクが勝利するからね。」
−ハイドゥクのチームメイトのロヴレクに関しては?
「ほんとは彼は優秀な選手だ。しかし怪我のままセレッソに行ったことが問題だった。しかし彼はペラックやラデリッチよりもずっと良い選手だ。」
−貴方は日本で飛行機恐怖症となったそうだが、どうして?
「あれは非常に悪天候の日だった。大阪から試合のある東京へ移動した際の旅客機が大揺れしたんだ。その経験のせいで、私は飛行機恐怖症になってしまった。それから飛行機移動の際にはテレビの天気予報ばかり気にすることになった。晴れていたらまだマシだけど、天候の悪い時は常に恐怖を覚えた。帰国が決まり、大阪〜フランクフルト〜ザグレブの便に搭乗してからは2年間一切、飛行機に乗ってないよ。」
−そのせいで去年、今年とハイドゥクのトルコ合宿をキャンセルしてしまったわけだが...
「この件では医者とも話し合った。医者は私の症状を理解してくれた。またスリシュコヴィッチ(ハイドゥク)監督も理解してくれた。なぜなら監督も飛行機が嫌いだからね。彼の場合、飛行機に乗る時はウイスキーをかなり飲むそうだ。私にもウイスキーを飲むよう勧めたが、それは出来なかった。この件で怒っているシュティマッツ・ディレクターとは今後について話し合わなくてはならない。」
−ハイドゥクからは給料遅延があると聞くが。
「ああ、随分と遅れているよ。6、7ヶ月は給料を貰っていない。ザダールからオファーはあるが、その前にハイドゥクがこの問題を解決しなくてはならない。ハイドゥクが私を戦力外とするのならば、これまでの未払給料を支払う必要がある。でも監督は経験のある私が残って欲しいと願っている。監督がそう思ってくれていることが重要なんだよ。しかしシュティマッツは私のことを好ましく思ってないようだ。こういうことも含めて全てが、ここクロアチアではスポーツというものなんだけどね。」
【写真:愛娘タイラとのツーショット】
−今年のハイドゥク・スプリトは貴方の眼から見てどう?
「このオフにハイドゥクは二人の代表選手を獲得した。ディナモから高額な移籍金でニコ・クラニチャールを連れてきて、マラガからはイヴァン・レコがやってきた。彼も素晴らしい選手だ。これまではディナモがいつも本命だったが、この二人を獲得したハイドゥクが今回は本命として優勝しなくてはならない。これから全ての試合に勝たなくてはならないというプレッシャーがあるから大変かもしれないけどね。」
−今年6月にはハイドゥクとの契約が切れるが、そのあとの考えは?
「まだ判らないし、考えてもいない。それより6月にはまた妻が出産するから。出産後に先を考えるよ。」
−現役を引退したあとは?
「将来的には子供向けのサッカーコーチをやりたいよ。子供達はよどんでなくて清らかな存在だからね。思うに私は自らの経験から子供達に多くのものを授けられるだろう。」
−祖国ボスニアは戦争で荒廃したわけだが。
「あの戦争では本当に酷いことばかりが起こった。戦争は国家において最悪なものであり、破滅へと追いやるものだ。多くの人々が戦争によって人間的にも壊れてしまった。だから私は子供達のためにサッカーを教えたいんだ。年を重ねた人達は汚れてしまっているが、子供達の心はまだ透き通っているから。」
−貴方においてサッカーとは?
「サッカーは私にとって大きな意味のあるものだ。少年時代から常にサッカーと共に生活してきた。人生における楽しみとしてサッカーは自分のため、そして応援してくれるサポーターのためにやってきた。サポーターが喜ぶよう頑張ろうといつも努めてきたよ。しかし、世の中はサッカーがビジネスになっている。昔はまずサポーターありきだった。残念ながら今は金にまつわる話ばかりであり、その点では昔の方がまだ良かったよ。」
−サポーターへのメッセージは?
「心からご挨拶したい。飛行機恐怖症さえ解決すれば、サポーターとしてセレッソを訪れたいよ。セレッソのサポーターは最高だ。そして彼らが毎年サラエヴォの子供達にボールを贈ってくれるのは本当に大きなことだよ(活動の詳しくはクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナを考える会にて)。現地の新聞でも記事となっており、サラエヴォの人達もこの援助を知っている。彼らがボスニア・ヘルツェゴビナを援助してくれることで、現地の人々は日本を愛し、友情を感じている。義務ではなく自発的にサラエヴォの子供達に援助をしてくれているセレッソのサポーター達の心は本当に素晴らしい。我々ボスニア人が逆に日本人を助けることはなかなか出来ないんだけど、いつか私が育てた子供達がセレッソのサッカー選手として恩返し出来たとしたら最高だね。」
| アルミール・トゥルコヴィッチ Almir Turkovic 1970年11月3日、ボスニア・ヘルツェゴビナ(当時はユーゴスラビア連邦)の首都サラエヴォ生まれ。 身長182cm、体重82kg。愛称はトゥーレ、ゼッコ("兎"の意)。 ポジションはフォワード、セカンドトップ。点取り屋というよりは、チャンスメーカーとして黒子に徹することのできるアタッカー。ボール扱いに優れ、彼のプレーに関する知識はハイドゥクのチームメートも一目置いている。 サラエヴォの名門ジェリェズニチャールで7歳からキャリアを始め、18歳の時にライバルチームのFKサラエヴォに移籍して実績を積み始める。ボスニア紛争のためにサラエヴォを離れ、スロベニアのHITゴリツァ、オーストリアのシュタエール、メキシコのオリンピアとチームを転々とした。 1995年に故郷サラエヴォに戻ったのち、1997年にクロアチア・リーグのザダールに移籍して2年間プレー。その後はオシエクが彼を獲得。サラエヴォにレンタルされた時期もあったが、2000/01シーズンはオシエクで23試合8得点を決め、一時は優勝争いに貢献するほどの活躍をみせた。普段はクロアチア代表選手や世界のスター選手が表紙となるクロアチアのサッカー誌「NOGOMET」の2000年11月号では彼が表紙となった。 2002年3月にJ2のセレッソ大阪へレンタル移籍が決定。当初は3ヶ月の契約だったが、のちに延長。計10ヶ月間の所属で38試合11得点を挙げてセレッソのJ1昇格に貢献した。 しかし翌シーズンは構想外となり、移籍金5万ユーロ、年俸5万ユーロ、契約期間2年半でハイドゥク・スプリトに移籍した。移籍してから直ぐに7試合7得点を挙げる活躍をみせ、翌2003/04シーズンではハイドゥクのリーグ優勝にも貢献した。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表としても20試合以上に出場している。 家族は妻アルマ、娘タイラ。6月に第二子が誕生予定。現在、スプリト在住。 |
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