【行商バス】
僕の旅は出発前からトマス・クック時刻表などで入念に移動計画を練る。充てもなくぶらりと旅するのも一考だが、FIX航空券のため帰国便は変更不可であるし、またサッカーのタイムテーブルに合わせて移動しなくてはならない。そのような制約を抱えていても、事前情報が正確な限りこれといったトラブルもなく大陸を移動できるものだ。ただし視点を変えれば、予定通りというほど退屈なものは無い。そんな中でも「国境越え」は移動中で最大のハイライトと言えよう。民族、文化、通貨、言語….あらゆるものが変化をきたす瞬間だ。シェンゲン協定で移動が自由になったEU圏内は別にして、東欧諸国の国境越えでは常に"何か"が起こる。いや予定通りの旅の中では"何か"が起きることを楽しみにしているのだ。その"何か"が何か解るまで時間を要した「国境越え」、それがルーマニア−ハンガリー間の「国境越え」であった。
4月6日17時過ぎ、マラムレッシュ地方を旅した僕はルーマニア最終の地となるサツ・マーレのバスターミナルに到着した。ここサツ・マーレからハンガリーのデブレツェン行きの列車は1時52分発。トマス・クック時刻表にも掲載されているこの国際列車に乗るつもりでバスターミナル向いのサツ・マーレ駅構内に入り、「Satu
Mare 1:52 → Debrecen 4:52」と書いたメモ用紙片手にインフォメーションで値段を聞きに行く。普通なら切符売場に直接行くのだが、ルーマニア通貨「レイ」が残り少ないことから事前に聞いた方が賢明と判断したからだ。だがここでは「国境駅のValea
lui Mihaiまでしか切符は買えない」と言われた。国際列車なのにそのようなケースがあるのかとうろたえていると、横から男性が「ハンガリーに行くならバスを使うと良い。23時に発車するよ。」とアドバイスをくれる。彼はバスまで案内しようとしたが、計画を遂行したいという思いと彼の半ば強引とも言える勧めに疑念を抱き、敢えて列車で行くことに決めて切符売場の長い行列に並ぶ。いざ僕の番となり、メモ用紙を見せて切符を買おうとするとそこではインフォメーション以上に信じられない言葉が発せられた。「その列車の切符は夜の0時から発売開始よ」−そんな、アホな….。まだ発売開始まで6時間もあることから、荷物を駅構内に預けて駅周辺をぶらつくことにした。駅を出て右手には何台ものバスが停車しており、行先を見ると「ニイレジハザ(Nyiregyhaza)」とある。これがハンガリー行きのバスかと判断、地図を見るとニイレジハザは東ハンガリー訪問の最初の目的地「トカイ」により近い。バスの中にいる男性に何時発かと聞くと「18時」だと言う。今の時刻は17時55分。ならばこのバスに乗ってしまおう。僕はすぐに荷物を取りに行き、1リットルのペットボトル"スプライト"を購入してバスに乗り込んだ。
颯爽とバスに乗り込んだものの18時を過ぎても一向は出発する気配がなく、もう一度バスの出発時刻を聞き直すと「22時発」が本当だそうだ。もうこのバスで国境を越える腹づもりで居座っていると、バスの中にいる青年3人とその友人であるロマ(多分)の女の子が僕に興味を示す。彼らは殆ど英語が喋れないことから意思はさほど通じないので、つい日本語がポロッと口に出ると女の子はその言葉の真似をして「ギャハハ」と笑い返す。余りに高いテンションの彼女は、終いに股間を指差し「セックスする?」なんて仕草までしたため「それは遣り過ぎだ!!」と青年に小突かれた。相手にするのに疲れたところで駅構内で夕食を摂り、再びバスに戻ると女の子は既におらず、代わりに迫力あるオバサンが運転席に座っていた。オバサンは乗客としてやってくる男性と矢継ぎ早に口喧嘩を始める。人々が素朴で温厚だというマラムレッシュ地方ですら何度も口喧嘩を目にしていただけに「ルーマニア国民は口喧嘩好き」というイメージを抱き始めていたが、オバサンの喧嘩腰の口調は尋常ではない。青年3人組に運転席のオバサンは誰か聞くと「僕達のボスだ」と答える。ボス? なんで乗客と喧嘩する必要があるのだ? またよく見ると駅前に停まっている7台のバス全てがニイレジハザ行きとなっており出発時刻も全てが同じらしい。また、切符の件を聞いても今は払う必要は無いと言う。何から何まで不思議だ。外では美人の闇両替商がバスを渡り歩いており、彼女にドイツマルクとハンガリーの通貨「フォリント」の交換が可能かと聞くとOKというので、それほど悪くないレートで交換して貰う。とにかくハンガリー行きの準備は整った。残るはバス発の22時まで待つのみで、僕は喧騒の車内でウトウトと眠り始めた….。
僕の腕時計は22時を差しているが、一向にバスが発車せず、相も変わらずボスが乗客を罵っている。気付くと車内は老若男女の乗客が埋まっていた。「早く出発しろよ〜」−ボヤキ始めて30分、ようやくバスは動き出した。運転手はボスではなく、話し相手となった青年だ。未だに運賃を払う雰囲気は無し。30分程でバスは国境に到着すると、オジサンが国境係員を指差し「マフィア」と僕に耳打する。また前の席に座るオバアサンはペットボトルのジュース2本を慌てて椅子の下に隠し始めた。係員がバスに乗り込み、ルーマニアの出国手続き。念入りにパスポートチェックが行われる中、僕のパスポートだけは一時預かりで持っていかれたものの直ぐに戻ってきた。続いてハンガリー入国の手続き。乗客全員がバスを降ろされて車内のチェックを受けている最中、英語が話せる若い女性に「なぜ1日7台ものバスがサツ・マーレからハンガリーに行くのか?」と聞いてみた。オバアサンがジュースを隠した行動に「もしや?」と気付き始めたが、バス車内は間違いなく係員にチェックされている。若い女性は言葉を濁した。すると先程「マフィア」と耳打した男性が英語で「このあと歩いて国境で犬のチェックを受けるのさ」と言うので、同様の質問を投げかけた。−「business」−これで全ての謎が解けた。僕は乗客全員が闇行商というバスに乗り込んでいたのだ!! だから出発前の車内は常に喧喧囂囂(けんけんごうごう)であり、ニイレジハザ行きのバス7台が同時刻に発車し、日本人の僕がいることが珍しいのだ。彼に「何を売っているのか?」と聞くと「ペン、ニンジン、キャベツ、ジュース…」と生活に密着した品物が次々と出てくる。それでもルーマニアとハンガリーの物価の差を考えると利益を生むに違いない。しかし、車内のどこにモノを隠しているのだ? このあと一人一人入国チェックを受ける際、僕だけがハネられてしまった。入国係員は僕のパスポートだけを持ってバスから離れていくので、不安に感じた僕は係員を追い駆ける。心配したのかボスも僕の横に付いて来た。係員は指を擦る仕草をしたので、賄賂を請求しているものと判断した僕は「日本人はノービザで入国出来るし、二週間前にもハンガリーに入国しているんだぞ!!」と英語で怒鳴りつけた。だが、この係員には英語すら通じない。ボスが心配した顔で、何処の国の通貨を持っているのかという意味(多分)で「ドル? マルク?」と聞き、またハンガリー通貨は幾ら持っているのかという意味(多分)で「フォリント?」と聞いた。当の係員はこのイレギュラーな国境通過者をどう扱っていいか判らねぇやという感じで、スタンプ無しでパスポートを返してくれた。ボスに宥められてバスに戻ると、闇行商人達は心配した様子で「何も無かったか?」と聞き、「No
problem.」と答えると「それは良かった」という顔で出迎えてくれた。彼らとは運命共同体のような気分だ。全員がバスに揃ったところでようやくバス運賃を徴収。様々な通貨で支払い可能なようで、僕は10万レイ(約850円)を支払った。掻き集めた運賃を手にしたボスがそのうち幾らかを賄賂として国境係員に渡しに行くために降り、バスはボス抜きで出発。ハンガリーに入国して直ぐの町のカフェにストップした。僕は愛すべき乗客達の身分を理解し、晴れ晴れした気分で彼らと接する。特にボスの忠実な部下である青年達と目が会うと、ついこちらの頬も緩んでしまうのだ。部下の一人にトイレの場所を聞くと「コーヒー一杯奢ってくれるかい?」とフッ掛けられるが、こちらも快くOKすると部下は従業員用のトイレの鍵を持ってきてくれた。コーヒーを飲みつつ、綺麗な店員さんに「彼らはハンガリーで何を売っているの?」と質問すると、彼女はこう答えた。−「よく解らないわ。」
深夜の間、バスは運転と停車を繰り返し、朝日がまだ明けぬ朝6時頃に広場に到着した。サツ・マーレ駅前と同様に「Nyiregyhaza」行のバスが並んで駐車される。どうもここがニイレジハザの市場のようだ。バスの中に隠されていた商品が次から次へと運び出される。バッグを背にしてバスを去る僕に対し、カフェで合流していたボスが初めて笑顔を見せ「元気でね」と送り出した。そして部下の青年達はニイレジハザ駅の方向を指差して教えてくれる。彼らは日本人の一旅行者を無事にハンガリーへと送り出した。