2000/01シーズン、クロアチア・サッカー観戦記
"Hajduk Zivi Vjecno!" (3) 
〜ハイドゥク・スプリト優勝&トルツィダ変貌への軌跡〜

2001/4/14 クロアチア・リーグ第25節 
「ハイドゥク・スプリトvs.ディナモ・ザグレブ」観戦 (その1)


 宿を出てから、まず最初にSportske Novosti紙を買いに行く。紙面のトップには、両クラブのエースストライカー、ズボニミール・デラニャ(21)とズボニミール・バラバン(22)の写真が飾られていた。前U-21代表においてバラバンはあくまでデラニャの控えであった。それが今ではバラバンの方がA代表にピックアップされて大活躍。けれども長い怪我から脱し、復調を果たしたデラニャを是非A代表に、と彼を推す声はスプリトを中心に拡大している。二人とも3日前のクロアチア・カップでは温存。ハイドゥクvs.ディナモの対決はデラニャvs.バラバンのエース対決の様相も呈しているようだ。マクドナルドで朝食を頬張りながら、辞書片手に記事を読みふけた。

【写真:頂いたお宝、ハイドゥクのグラス】

 朝食後、ふらっと町を歩くと、朝9時というのにハイドゥクのマフラーをした若者がちらほら。僕もディオクレティアヌス宮殿の西にある市場で60クーナのマフラーを購入。10時には、トルツィダの友人達との待ち合わせ場所へ。ユライとはトレンチン(スロバキア)以来1年ぶりの再会だ。ユライのスキンヘッドは昨年と同じだが、メールの遣り取りだけで今回初めて会う兄マリヤンも帽子を取るとスキンヘッド。彼等曰く「これはスキンヘッドではなく、トルツィダ・スタイルなのだ」と言い張るのだが。今日のチケットは3万枚がソールドアウトしたそうだ。本来は4万人収容なのだが、屋根の老朽化で3万人が限度らしい。嬉しいことに僕のチケットは彼等が事前に押えておいてくれた。移動しよう、ということで駐車場へ僕を連れて行く。ユライの愛車は旧ユーゴ時代の国民車、その名も「YUGO」。だが後部のYUGOのロゴは剥がされ、別のステッカーが張ってある。その車でユライの婚約者の家へ。婚約者の家族がイースターのお菓子とコーヒーで温かく持て成してくれた。僕もお土産でもってきたグランパス・グッズを配る。婚約者のお父さん(56歳)に挨拶代わりに「あなたもかつてはトルツィダの一員だったのですか?」と話を向けると、「ああ、もちろん。旧ユーゴリーグ時代の時はハイドゥクの応援のためにマケドニアまで駆け付けたものだ。1970年代のハイドゥクは本当に強かったよ。サラエボではジェーリョ(ジェリェズニチャール)のサポーターと乱闘騒ぎになった時にも加わったもんさ」と語り出す。軽いジョークのつもりで聞いたのに、まさか生粋のトルツィダだったとは。お父さんは棚から一つのグラスを取り出した。70年代の名選手の一人イヴァン・ブリャン(Ivan Buljan。代表36cap。ハイドゥク→ハンブルガーSV→NYコスモス)からハイドゥクの優勝記念で複数個貰ったというグラスには、トミスラフ・イビッチ監督以下、当時のイレブンの顔写真が描かれていた。何と何と、このグラスの一つをお父さんは僕にプレゼントしてくれたのだった。そして快くグラスに描かれてる選手についても、記憶を辿りながら一人一人名前を教えてくれた(資料と照らし合わせたところ、国内リーグ制覇の74/75シーズンのものと思われる)。ちなみに今はスプリトを離れているが婚約者の兄もトルツィダの一員で、部屋を見せて貰うとハイドゥクとトルツィダの写真がドア一面に貼り付けてある。案外、これがスプリトの一般家庭だったりして.......

[グラスに描かれてる選手]
Tomislav IVIC(監督)
Rizah MESKOVIC
Dragan HORCER
Vilson DZONI
Ivica MATKOVIC
Ivan BULJAN
Drazen MUZINIC
Branko OBLAK
Iviva SURJAK
Slavisa ZUNGAL
Vedran ROZIC
Ivica MIJAC

【写真:ビールを飲みまくる気さくなトルツィダ達】

 お昼頃までここに滞在、親切にして頂いた家族はテレビ観戦するということで、マリヤンとユライと3人でバスに乗る。「試合の日は切符無しでもOKさ」ということで、タダ乗りして中心街へ。スーパーマーケットに面したスクエアではトルツィダの酒盛りが始まっていた。ここでスロバキア以来の再会となるミロスラフが加わった。当時は長髪で女を口説いていた彼が、バッサリと髪を切って帰国後はドックで働いているそうだ。ペンと紙を手にして僕を驚かそうと何か書き始める。紙に書かれたのは「注意事項」の文字。ここスプリトは造船業が盛んで、日本船を扱うことから、船内に書かれていた漢字を覚えてしまったとのこと。マリヤンも航海士を目指す学生、ユライは海軍の兵役中なのだが、その後は冷凍船の乗組員になるという。それだけでもクロアチアは海と密接したお国柄であることをうかがい知れる。スーパーマーケットでワインと炭酸水をボトルで購入、これを半々で割って「ジビエリ!(乾杯)」。まだ僕はこの時点で"お客様"であったが、意を決してデラニャの名前が書かれた代表ユニフォームを着込み、トルツィダのマフラーを首に巻くことする。足掛け5年間、ディナモ・ザグレブを愛し続けてきた僕には、簡単に寝返ることに抵抗があった。けれどもBBBとトルツィダの温度差を考えれば、ここがディナモとの別れ際であろう。えいやっ! 多少ディナモに未練はあれど、装いはトルツィダになった。するとあちこちのグループからお呼びが掛かることになる。「おーい、こっちに来てビールを飲めよ!」−お呼ばれしてプシュッと缶ビールのタブを開けて乾杯してから自己紹介。何処の都市から来たという質問は定番で、「名古屋です。日本で4番目に大きい都市です。東京、横浜、大阪、そして名古屋」。これだけではピンと来ないトルツィダのために「実はドラガン・ストイコビッチがプレーしている町でして...」と小声で言うと、彼等も察したようで「おう、ピクシーがいるところかい」と苦笑い。しかし、彼等はセルビア人よりも天敵であるディナモとBBB批判に熱くなった。すっかりアルコールが入ってご機嫌になった僕は、ザグレブでBBBに受けた仕打ちとズボニミール・デラニャの賛美を語り始める。そして挙げ句の果てには、腹の底から大嫌いなアメリカの悪口をまくし立てた。独立戦争以来、クロアチアはアメリカ寄りかと思われたが、「俺たちゃもアメリカが大嫌いさ」と誰もが同調。これはトルツィダに限らず、若い世代でに質問するとアメリカ嫌いの率は高いと感じる。あのアホ大国は、"人道"の大義名分のもと、旧ユーゴ諸国で理不尽な行動を重ねてきたから当たり前か。僕はかつて異常なまでの「アメリカ横断ウルトラクイズ」キ○ガイで、アメリカという国に心酔していた。中高の時には暇さえあれば机や紙に完璧なアメリカ地図とウルトラクイズの各回のルートを書いていたほどだ。それが今や「当時は福留功男に騙された」と信じて疑わない、アンチ・アメリカに転向してしまった。今回のディナモからハイドゥクへの180度転向も同じかもしれない。可愛さ余って憎さ百倍。コペルニクス的転回。時間の経過とアルコールの量と共に、トルツィダ度も比例していった。

 

【写真】すっかりアルコールが入って、トルツィダ・ソング日本語版で盛り上がる。トルツィダのマフラーには「TORCIDA SPLIT」と「HAJDUK ZIVI VJECNO」の文字が書かれてる。

【写真】ユライとその友人。左の友人のTシャツにはダルマチア犬がBBBのマスコットであるブルドックをファックしているイラストが。(逆にザグレブにはブルドックに噛み殺されるダルマチア犬のイラストTシャツがある)

 マリヤンやユライ、そしてその仲間達もすっかりアルコールが入っており、トルツィダの応援を日本語版でやってみようという。まずは「Idemo Bijeli!」。Bijeli("白"の複数形)はハイドゥク・カラーである。冴えない訳だけど「白、行こうぜ!」か。すると「シロ・イコウゼ・アレー」というフレーズを重ねたソングが出来てしまった。僕を取り囲んで仲間達全員大声で歌いだす。新たなバージョンとして「ヤッてやるぜ、ディナモ!(Jevi se Dinamo!)」「踏みつけろ、ディナモ!(Gazi Dinamo!)」「ハイドゥクが好きだぜ!(Ja te volim, Hajduce!)」と次々と日本語ソングが生まれる。その中の一つが今回のタイトルにある「ハイドゥクは永遠に!(Hajduk zivi vjecno!)」であった。クロアチア国営放送もこの場に来ていて、絶好の取材対象である僕にマイクが向けられる。質問はクロアチア語で「ディナモ、ハイドゥクのどっちを応援している?」なんて感じのものだったかと思う。「最初はディナモだったけど、BBBにツバをかけられたこともあって、今はハイドゥクなんです」と答えようとするが、そこまでの語学力が無くシドロモドロしてると、仲間達から何度も"ハイドゥク!""ハイドゥク!"と横槍を入れられ、結局一言「ハイドゥク」だけを口にした。「もしこの映像が放送され、アブラモビッチやディナモ・ユースの子供達が見たら.....」と4時間も続いた酒盛りで一瞬、頭がフリーズし掛けたが、それも「ハイドゥク・ハ・エイエンニー!」といった応援歌を歌い続けることで忘れていくのであった。

【写真:試合直前、トルツィダが構えるゴール裏席。
この写真の中央上辺りで観戦
 撮影:Sport-Net
 試合開始は17時30分だ。仲間達はなかなか動く気配が無く、16時を周ると「そろそろ行こうよー」と僕の方が落ち着かなくなる。試合開始1時間前、彼等の重い腰も動いて出陣。スタジアムまでは徒歩で20分ほどの距離なのだが、その途中もずーっと缶ビール片手にトルツィダ応援歌日本語版を歌い続ける。聞き慣れない言葉を大声で発する一団に誰もが目をやり、更に僕は担がれたり、塀に登らされたりして好奇の目を晒されることになる。でもスプリト市民は僕に向ってウィンクや手を挙げてくれ、好意的に迎えてくれた。応援に来る観客層は年齢的にも幅広く、また女性の率も高い。ディナモとは違って、町全体がハイドゥク・スプリトを愛しているようだ。スタジアムから100mほど前で、警官隊に手にもった缶ビールを空けさせられる。それでも移動はスローペースで、試合開始20分前にようやくポリュウド・スタジアムに到着。この時点でミロスラフがチケットを持ってないことが判明。ダフ屋からチケットが買えるよう全員でカンパする。トルツィダが集まるゴール裏のスタンドに到着したのは17時15分。ユライに手を引かれて奥へ奥へと入り込む。その間も常にトルツィダの歓迎を受けるのであった。決戦を目前にスタジアムのボルテージは最高潮。そのクライマックスとして、マクシミール・スタジアムならばロック調の「Dinamo ja Volim!」が流れるのだが、ここマクシミールでは「Dalmatinac sam」というカントリー調の歌が流れて、ゴール裏のみならずスタジアム全体で大合唱するのであった。

Dalmatinac sam, tu sam roden ja.
Plavo more zna da ga volim ja Splitskog Hajduka!
Dalmatinac sam, Ovo je moj dom.
Tu su moji didovi, davno sidro bacili, mene vezali!

「私はダルマチア人です。ここで私は生まれました。私がハイドゥク・スプリトを愛していることを青い海は知ってます。私はダルマチア人です。これは私の故郷です。古くから住む祖先達がイカリを投げて、私をここへと縛り付けてます」

 ユライは昨年、スロバキアでこう語ってくれたことを思い出した。「私達はクロアチア人である以上にダルマチア人なんだよ。だから我々はハイドゥク・スプリトを愛しており、政治的にも財政的にも恵まれたディナモ・ザグレブを憎しんでいるんだ。」 かつてのハイドゥクのGKトンチ・ガブリッチはこんなことを語っている。「人々が神を信じるようにファンはハイドゥクを信じている。スプリトで生まれた子供が一番初めに覚える言葉がハイドゥクだ。スプリトの人々にとってハイドゥクは宗教、切っても切り離せない存在、それ以上のものなのだ」と。故トゥジマン大統領の庇護を受けていたディナモ・ザグレブが一部の人物にしか支持されないクラブへと成り下がったのに対し、ハイドゥク・スプリトは常にダルマチアの精神として生き続けてきた。この日、BBBは朝6時ザグレブ発の特別列車でスプリトへとやってきて、隔離状態のままスタジアムの一角に押し込まれた。トルツィダは警官隊にぐるっと囲まれたBBBに対して「Jebi se! (ファック・ユー!)」を浴びせまくる。両チームがピッチに登場。17時30分、大歓声と怒号の中、クロアチア・リーグの覇権を占う第25節「ハイドゥク・スプリトvs.ディナモ・ザグレブ」がキックオフされたのだった。


【写真:試合前に整列する両チーム・イレブン 撮影:Sport-Net


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