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ニューヨークテロ事件(1)

高橋昭彦

 以下は,高橋昭彦医師からのニューヨークテロ事件に関する寄稿です.高橋さんが私信として発行されている「びわモウ通信」から,転載許可していただきました.


高橋昭彦@滋賀です。

2001年9月上旬に、私はアメリカのホスピスについて学ぶツアーに参加しまして、ニューヨークで、ワールドトレードセンターから3kmの地点でテロ事件に遭遇しました。現地でのホスピス研修は途中で中止、一時、ホテルからも緊急避難という事態となりました。
空港閉鎖の関係で帰りの飛行機も遅れましたが、18日、4日間の遅れで無事成田につきました。

私はそこで人生が変わるほどの貴重な経験をしました。
ホスピスマインド、日本人の危機管理意識、アメリカという国のことなど多くのことを学びました。生きて日本に帰れるのなら、これはお伝えするのが私の役割だと考えるに至りました。
今回は、その記憶と感覚が残っているうちに、皆様にお伝えしたいと思い、通常のバージョンとは違いますがびわモウ通信6をお届けします。

ご心配をいただいた皆様、留守中ご迷惑をおかけした皆様にはこの場をお借りして、お礼とお詫びを申し上げます。
ありがとうございました。今日から仕事します。

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私が参加していたのは、上智大学のアルフォンスデーケン教授のホスピス研修ツアーで、日本を9月4日に出発し、ワシントンのホスピスと、ニューヨークのホスピスなどを見学し、14日に帰国するのが当初の予定でした。デーケン教授は日本で早くから死生学の教育に取り組む大変アクティブな方です。このツアーには日本各地から28人のメンバー(医療・教育・報道関係者)が参加していました。

2001年9月11日、私達は生涯忘れることの出来ない、悲惨で許しがたいテロ事件に遭遇しました。
ニューヨークのテロ事件現場であったワールドトレードセンタービル(WTC)からわずか3kmの地点にあるセントビンセント病院のホスピスが、当日の研修施設だったことから、私達はその日の朝、滞在先のホテルからバスに乗ってダウンタウンに向っていました。

向う途中で超高層ビルから立ち上る煙を目撃し、何台もの消防車や救急車、パトカーが私達のバスを追い越して行きました。まだ1機目の旅客機の突入直後であり、ビルが崩れるなど思いも寄らないことでした。後で知ることになるのですが、その緊急車両に乗っていた消防士や警察官らは救助のために、あの高層ビルを階段で必死で登り、そして帰らぬ人となったのでした。

バスの窓から見ると、道行く人々が立ち止まり、WTCの方向を指差したり心配げに何か話をしていました。
ただならぬことが起こっているのを感じ、シャッターを押しましたが、まだ火事の原因はわかりませんでした。
渋滞の中、バスは迂回しながら研修先のセントビンセント病院近くに到着しました。本来なら、この緊急事態に、見学目的で私達のような不慣れな外国人がこの極めて危険なエリアに近づくことは決してしてはならないことでしたし、事件現場から一番近い、そしてニューヨーク市マンハッタン島で最もよく整備された救急病院でもあるセントビンセント病院に迷惑をかけないためにも、そのままバスを降りずに研修をキャンセルして帰るのが最も適切なことでした。しかし、私達はまだテロが起きていることも知らずにバスを降りてしまいました。バスは去り、その後このエリアは一般車両や一般人が立ち入ることのできないように封鎖されました。

私達が降り立ったセントビンセント病院は、マンハッタンのダウンタウン7Ave.11th St.(7番街11通り)にありました。WTCからわずか3kmのところです。あたりは大勢の人で騒然としていました。そこではじめて、私達は周囲の人々からの断片的な情報を得て、この火災がテロによる仕業だとわかったのです。その中で目を見張ったのは、7番街に面した同病院の救急部門の迅速な対応でした。
まだ、1機目の旅客機が突入して間もないにも関わらず、多くの医師、看護婦達が寝台などとともに救急患者は今か今かとスタンバイしていたのです。おそらくトリアージ(重症度別に救急患者を割り振るやり方)の準備もされていたに違いありません。
その真剣なスタッフ達の目前を、不安げな日本人の集団が横切ったわけですから、私達はすぐに立ち去るように怒鳴られました。その会話も、一部の英語が堪能な人にしか聞き取れません。
邪魔をしているなとわかっても、悲しいことに私達は、次にどうすればいいかを指示してもらわないと動けない「日本人団体旅行者」でした。この時ほど英語が堪能であったらと思った時はありません。また、バスで知らない土地の病院に連れてこられてこれからどこへ行けばいいのか、地理的な把握も多くの人にはできなかったのです。

私達は救急部の前を離れ、案内役の誘導で病院の玄関に待機しました。病院の研修担当の女性から「こんな状況なので資料だけお渡ししますからお帰りください。申し訳ないですが私もすぐに持ち場につかねばなりません。」と告げられました。
当然のことです。私達がレクチャーを受けるはずだった講義室は被害者の家族のための待機部屋になるとのことでした。私達はマンハッタンのミッドタウンにある滞在先のホテルに帰ることになりましたが、電話でバスを呼んでもなかなか電話が繋がらないし、バスも封鎖地域に入れるはずもありませんでした。バスとのやり取りを待つ間に、ワールドトレードセンタービルが崩れました。泣き叫びながら病院に入る人々、点滴や消毒液を持って走るスタッフ。私達のような集団が周囲をうろうろしているだけで邪魔になるのは明らかでした。またいつテロが起こるかもしれません。ここアメリカでは、テロが一度あったら、次もあるという認識の元に行動を起こすこと命を守ることに繋がります。地下鉄を使うという案は、ニューヨークで勤務経験がある看護婦さん(研修メンバー)から地下鉄が途中で止ったら危険で逃げ場がなくなるとの助言があり、私達は歩いてホテルに帰ることになりました。その帰り道も、安全そうな道を彼女の誘導で歩きました。このような時、土地鑑のある彼女は本当に心強い存在でした。

私達は、皆で歩きました。私達は現地の人に比べると背の低い集団でしたから、お互いの顔の確認がなかなかできません。お互い手を上げて確認しながら、この集団から1人もはぐれないようにと歩きました。あたりは騒然となっていて、多くのサイレンが鳴り響き、すでに軍隊も出ていました。私達の一行を見た現地の人が、「sightseeing(観光客)」と言う言葉を何度も投げます。1時間近く歩いたでしょうか。ようやく、私達はホテルの近くにたどり着き、ほっと安心しかけた時でした。
ホテルの前に通りがありますが、その向こうから大勢の人々が何か叫びながらこちらに向って走ってくるのです。暴動?銃撃?
何かに追い立てられるように彼らはどっと走ってきます。
思わず戦慄が体を走りました。冷静なメンバーの誘導で、私達はその流れに乗ることなく、壁際に寄ってその流れをやり過ごしました。どうも爆弾か何かのデマだったようですが、これは映画の一シーンのような出来事でした。このような時、訳もわからず一緒に走ってしまっては怪我をしたり命を落とします。特に体の弱い人、お年寄り、車椅子の人などにとっては危険です。

騒動がおさまってから、私達は疲労を感じながらホテルに入りました。そしてテレビを見て、改めて事の重大さを思い知ったのです。乗客の乗った旅客機が4機もハイジャックされて、うち2機がWTCに突っ込んだこと、ペンタゴンにも1機、そしてもう1機がピッツバーグ郊外に墜落したこと、WTCが崩落する時、まだ中に多くの働き盛りのビジネスマン達がいたこと、そして救助に向った多くの消防士や警察官が犠牲になっただろうこと。
そして、多くのアメリカの人々が悲しみと怒りの只中にいること。

私達が滞在していたグランドハイアットホテルは、グランドセントラル駅というアメリカの象徴的な駅の隣にあります。
この駅は普段は人も多く集まるため、テロの次のターゲットになってもおかしくないのです。次はエンパイアステートビルかグランドセントラル駅か、という感じなのだそうです。実際その日からマンハッタン島には立ち入りが禁止され、出ることはできても入ることができない危険地域になりました。事件当日と翌日は、ホテルより南のダウンタウンへは車の乗り入れも禁止されました。いたるところに警官やパトカーが配置されていました。私達もマンハッタン島を出る努力はしましたが、滞在先のホテルが見つからなかったことと、現在ほとんど人通りのないグランドセントラル駅は、「大量の虐殺」を目的とするテロの対象にはなりにくいかも知れないという判断から、このホテルに滞在を続けることになりました。

ここで認識しておかねばならないのは、現地でテレビを見ていると別のところで起きた事件のように見てしまいますが、実際には、私達のすぐ目の前で起こったということ。飛行機の操縦訓練を受けたテロリストが、少し操縦を誤ったり、あるいは何らかのアクシデントで旅客機が墜落したら、わずか3kmというのは時速数百キロで飛ぶ飛行機にとっては、「誤差範囲」だったはずです。私達はたまたま無事だっただけなのです。
それだけに、私達の無事は手放しで喜ぶことはできません。旅客機の中で、乗客たちには自分達が確実に本来の目的地にいかないだろうこと、そしてやがてビルに激突することがわかった時、彼らが一瞬とはいえない恐怖の時間、一体どんな気持ちで過ごしたかと思うと、言葉がありません。あっという間に瓦礫の下敷きになってしまった人、炎に包まれた人、死のダイブをした人、そしてヘトヘトになりながら救助のために非常階段を数十階も上がって行った消防士(firefighter)や警察官たちの無念さを思うと心が痛みます。犠牲になった多くの方にはそれぞれ愛する家族や友人がいるはずです。その時、「誤差」が生じれば、私達は彼らであり、私達の家族や友人は、彼らの家族や友人と同じ立場になったのです。
私達は、彼らの嘆きと悲しみはとてつもなく深く大きいことを忘れてはならないのです。そしてこの、自分がその立場に置かれたら、と考えて真摯に共感することは、私達が学んだ大切な、極めて大切なホスピスマインドだと思うのです。

<続く>
 後半は
避難命令と危機管理意識
何かできることはないか
街の悲しみ
 などについて追ってご報告します。

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<びわモウ通信の由来・・・って程でもないが>
  びわモウ通信のびわはびわ湖のびわであり私が現在働いている介護老人保健施設の名前でもあります。
 「モウ」は、私が大学時代に子ども相手のボランティアをしていたときのネームです。ウシのように良く食べることからつけられました。

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笑顔の介護をめざして
高橋昭彦  〒526-0111
滋賀県東浅井郡びわ町川道2694
老人保健施設琵琶
電話0749-72-8080 
FAX0749-72-8082
akihiko@lancenet.or.jp
在宅支援・草の根ネットワーク
http://www.as.lancenet.or.jp/kusanone/


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