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2000年11月15日


豪華絢爛、八木敬之のバンド遍歴
− 社会人篇 その1 茨城県北時代−



  • 老後の自慢のタネとして、まだ記憶が定かなうちになにやら残しておこうと思い書き始めてみました。学生時代篇は見知らぬ方も含め何人かに読んでいただいたようで、さらに調子にのって書きます。

  • フォーマット的には、T工大関係者のH多氏のパクリです。

  • 自分の都合のいいように美化している部分もかなり存在すると思われるので、3割引くらいで読んでください。

  • 「これ忘れてるぞ」あるいは「これはあまりにも事実と異なっているぞ」、という情報をお持ちの方は、お伝えください。

  • 本人の意図にかかわらず名前を載せられてしまったミュージシャンの方、皆様がビッグになればなるほどこのリストの価値があがりますので、是非精進ください。

時期バンド名メンバー、気付事項他
1986年金田バンド
 さて、間違って某会社に就職したところ、入社2週間目にして、茨城県日立市勤務となる(バレバレだな(笑))。これでもうバンド活動ともおさらばだななどと思ったのは思いっきり甘かった。
日立市には、学生時代篇に登場した鈴木逸平が一年前から住んでおり、すでにバンド仲間を開拓していたのだった。場所は今は無き「キーウェスト」というサーファー喫茶。毎週土曜日の9時頃から夜中まで好きなだけ演奏するという恵まれた環境。メンバーは金田龍一(g)星さん(p)逸平(b)と荒木さん(ds)だったかな。スタンダードやらファンクやらとにかく好き放題やらせてもらう。

このキーウェストセッションは店が無くなる最近まで途絶えずに続けられていた。日立界隈の外人連中の溜まり場だったり、あやしい女の子が次々と登場したり思い出は尽きない。矢堀や布川さん、南あたりも来たんじゃないかな。「大人のジャズ研」というのは布川さんがこの店を称して言ったフレーズだが、言いえて妙。
1986年富永バンド
 キーウェストで好き放題やっている新入社員がいるという噂を聞きつけてわざわざ水戸からやってきたのが富永さん(p)。次の週には水戸の「ペニーレイン」というライブハウスに連れて行かれてセッションをやっていた。この店にはその後何回か出演。メンバーは、富永さん(p)、飛田さん(b)、海野さん(ds)かな。マッコイの曲とか、ヒノテルの曲とか極めて真面目にやっていたような覚えがある。一年後の状況に比べると、このころは地味ではあった。
1986年 青木先生
バンド

 日立にはもう1軒「ダル」という正統派ジャズ喫茶があったのだが、そこでもピアノ弾きの青木先生(大学教授か何かで先生と呼ばれていた)のバンドでたまに出演する。メンバーは長嶋さん(b)、荒木さん(ds)だったか。1987年にマスダ米笑(その当時はまだそういう名前ではなかった)と初めて出会ったのもこの店だったと思う。ドラムを叩いてもらってセッションしたんだよね、確か。ドラムを聞いてなかなかやるなとは思ったが、実は恐るべき才能をその温和な顔の後ろに隠しているとは夢にも思わなかった。
1986年秘話
 確か入社した年の暮れだと思ったが、ジャズライフか何かで見かけて、バークリー音楽大学の奨学金募集に応募してみる。確かスワンで広江さんが三好三吉(g)さんや西村和彦さん(p)とやったセッションに飛び入りしたときにウォークマンでとったテープを勝手に使ったと思う。まさかと思ったが、2〜3ヶ月あとに、バークリーから返事が来て、2500ドルの奨学金をやるとのこと。うだうだ考えたのだが、いきなり会社をやめる勇気も無く(だったら応募するな)、うやむやなまま立ち消えてしまう。あのときアメリカに行っていたらどうなったんだろうか、などと結局住む事になっってしまったアメリカで考える私だ。
1987年?矢堀孝一氏との再会
 布川俊樹(g)さんが勝田の「サムシング」なる辺鄙な店にやってくるというので、バンド関係者に強力に宣伝して皆でこぞって出掛けたところ、なにやら急病でトラが来ているとのこと。もしやと思ったらやっぱり矢堀氏だった。
布川さんのトラで矢堀というのもいまとなっては物凄く強力だが、当時は矢堀氏は布川さんの弟子で、「4ビートできるんだっけ」という状況だったので、それなりに驚きつつ、再会を喜んだりする。実際2年くらい会ってなかったんじゃないかな。

で、一緒にバンドをやらないかという話になり、松戸あたりでやる分には近いからいいかなどと気楽に引き受け、その後の長い付き合いが始まったのであった。
1987年?布川巨匠来日
 さて、北茨城地方でそれなりにバンド活動を活発化させていた私であったが、ただ地元の人とセッションをしているだけというのもなんなので、学生時代のコネを使って、日立に「まだ知られていないが素晴らしいミュージシャン」を呼ぼうと企てる。地方のジャズ喫茶とかだと、それなりのギャラも出たりするので、呼びやすかったのだ。
というわけで、音川さんがバークリーから帰ってきたことを聞きつけ、早速連絡。是非布川さん入りのバンドで来てくれと依頼して、音川布川バンドが実現した。このときのベースはやはりアメリカから帰ったばかりでまだあまり仕事が無かった納浩一氏、ドラムは河合洋さんだったと思う。

 急造バンドであったにもかかわらず、このライブは、私が今まで見たライブのなかでもベスト5に入るとも思われるすさまじいものであった。特に布川巨匠のプレイは圧巻。北茨城バンド関係者、始めは声も無く、ソロの途中ではフレーズのあまりの息の長さ+意表をついた終り方に観ているほうも息も出来ずに窒息しそうになり、最後には全員でよだれを流しながら笑っているという惨状であった。多分このバンド観戦と前後して、下に書くAZTが結成されたのだと思う。この後日立バンド業界に布川さんブームが巻き起こる(笑)。
1987年AZT
 鈴木逸平が神奈川に移ってしまって、私は相変わらず日立と水戸のライブハウスでスタンダードのセッションみたいな事をやっていたのだが、なにやらもうすこしバンドっぽいことをやりたいと思い、水戸−日立の精鋭(笑)を集めた混合バンドを作ろうと企てて出来たのがこのバンド。コンセプトは、北茨城最高のメンバーで、エレクトリック含み(笑)のジャズをやるということだったのだが、まさかこれほど人格および呑み会面で最低の人々が集まったとは思わなかった。栄光のメンバーは、富永潤一(key)、金田龍一(g)、長嶋昇蔵(b)、岸本治之(ds)に私。
皆さん私より多少年長の社会人であって懐も暖かかったのか、バンド設立にあたっていきなりエレクトリック投資を実行(バブル前夜だったしね)。富永さんはD-50およびコルグのエレピを、岸本さんはエレドラを、長嶋さんは謎のデジタルエフェクターを相次いで購入し、私ものせられてAKAIのEWIを購入(笑)。

 それなりにリハーサルなど行い、結構いろいろな曲をやる。ショーターの美女と野獣、ステップスのベイルートあたりかな。日本で一番早くブレッカーの「ナッシングパーソネル」をやったのはきっとこのバンドだと思う。なにせ、初リーダー作発売前に来日したブレッカーバンドを東京までわざわざバンド全員で見に行き、そこでやっていたのをすかさずコピーして5日後には水戸でやったのだ。ブレッカーといえば、「私事時ー」いや、「シジジー」もやったなあ。この曲も日本国内でやった素人バンドはAZT以外ないんじゃないか。なんせ茨城なので、恥ずかしげも無くどんなことでもできるのだった。
活動場所であるが、当初は水戸のアニバーサリーというカフェバーが根城、その後、1989年頃に日立に開店したアシャンティなど、結構いろいろなところで演奏。
演奏も楽しかったが、とにかく物凄かったのは呑み会。1987年〜88年にかけての、ライブが終った後の呑み会、あるいはライブと無関係な宴会の状況は筆舌に尽くしがたい。多分88年の暮れだと思うが、「これは絶対に死人が出る」という思いが頭を掠めるほど、呑み会がらみのの事件が毎週のようにエスカレートしていた。いや、本当に毎週毎週「宴会盛り上がり+やばい事件自己新記録更新」状態であったのだった。死にかけた人も何人か居るが、いまだに全員元気なのは奇跡としか言い様がない。
現在は某サックス吹きが国外追放になっているためライブ活動休止(笑)中であって、解散はしていないと信じる。日本に帰ったらまたやりたいなあ。当然呑み会付きで。
1987年頃〜 矢堀バンド
 前述した再会の後、新松戸にあったなんとかという店で何回かライブを行う。当時のメンバーは、矢堀(g)、安田英二(b)、白田久弥(ds)がメインで、多少入れ替わりがあったかもしれない。当時は矢堀のオリジナルの他に、マイクスターンの曲などやっていた。小松秀行(b)が現れるのはもう少し後かな?
その後、確か結婚してからなので1989年だったと思うが、矢堀リーダーで六本木ピットインに出演。メンバーは矢堀(g)、安田英二(b)、青山成吾(key)、白田久弥(ds)、フロントに音川さんと私。確かこのときはEWI吹いたりしたんだよなあ。ああ恥ずかしい。

 そのときは六ピに出られるというだけで有頂天になったりしたが、後に準レギュラーになるとは夢にも思わなかった。
1987-90年 八木兄弟バンド
上記の矢堀バンドとほぼ似たメンバーであるが、兄貴とのバンドも断続的にやっていた。演奏場所は新所沢のスワンや学際など。確か1988年?の暮れに、八木兄弟バンド年末2NIGHTSというのをやった様な気がするなあ。30日は矢堀バンドをバックにエレクトリックバンド、大晦日は正清氏(ds)小田島伸樹(g)などとアコースティックバンドだった。
1988年〜89年 マスダ米笑と埼玉八木ブラザース
 日立に移住してきてからたまにバンド界隈に顔を出すもののあまり目立った活動をしていなかった某氏が急にマスダ米笑などと名乗ったのはいつのことだったのだろうか。なにやら自ら打ち込んだテープをバックにひとりで歌謡漫談をやり始めたという話であって、ついにはライブを行うという。というわけで、その謎のライブに参加を要請され、開店間もないアシャンティに出演したのだった。
ある意味これも障害の、いや生涯の記憶に残るライブの一つともいえよう。メンバーは、八木(Ts)仮想八木兄(Perc)、星(key)あと誰かベースの人。

ライブでは「マスダ米笑の歌謡ヒットパレード」、「マスダ米笑のテーマ」、「素麺」、「ナニーちゃん」など珠玉の名作が、次から次へと披露され、数少ない、しかし幸運な観客を爆笑の渦に巻き込んだのであった。私はサックスを吹き、歌を歌い、そしてラジオ体操をした。このライブを嘉門タツオが見ていて、コンセプトをパクったという噂もあるがガセだろう。しかし、間違いなく嘉門タツオの一歩先を行ったライブだった。
1989年 八木敬之
リサイタル(笑)

 何故か結婚などすることになり、結婚式の二次会という名目で我が侭放題やってしまえと企てる。
場所は、今は亡き新宿のカーニバル。集まったのはバンド関係者が殆どで、カミサンの友人も来ていたが基本的には呆れていた。

当日のメニューは

<加賀屋ホッピーズ・フィーチャリング八木敬之>
 学習院スカイサウンズのOB+現役から構成されたビッグバンド。カウントベイシーの「ウインドマシン」かなにかやったと思う。

<八木ブラザーズバンド>
 メンバーは八木兄(tp)、私(sax)、矢堀孝一(g)、いまや古内東子のプロデューサーと大出世した小松秀之(b)、白田久弥(ds)。 ブレッカーブラザーズのStraphangin'などフュージョン関係を演奏。

<マスダ米笑と埼玉八木ブラザーズ>
 上記八木ブラザーズバンドに八木弟(tb)、田中さん(tp)、そしてマスダ米笑(VO)がが加わって、「素麺」など演奏。当然「マスダ米笑の歌謡ヒットパレード(八木敬之結婚スペシャルバージョン)」も披露。当然ながら大受け。


<八木夫婦デュオ>
 一応結婚式の二次会らしいことをしないと不味いかと思い、カミサンにピアノを弾いてもらってウェインショーターの「ディアナ?」を演奏

<八木カルテット>
 高木さん(P)、小野さん(B)、広江さん(DS)のトリオをバックにスタンダードを演奏。

 司会進行はマスダ米笑氏。当日は村田陽一(tb)氏も来ていたが、某主役が我が侭で演奏機会が無いままに終る。ああ勿体無い。

この二次会に先立って行われた披露宴ではBGMを四日市のハービーハンコックと言われたT工大関係者の中丸さん、荻原氏(b)、西尾さん(ds)のトリオにお願い。このトリオは比較的静かな披露宴が進行する中、All Bluesなどまさにハンコックトリオと表現可能な熱いインタープレーを繰り広げ、私の兄弟達は式の進行そっちのけで「すげ−なあ」などといいながら観ていたのだった。

ついでに。

 その後の新婚旅行で、NYに行き、カミサンのクレジットカードを使って(笑)アメセルのテナーを購入。現在使っているのがそれだ。折角買ったのだからなどといって、ブルーノートの深夜ジャムセッションに参加したりした。
1990年
6月
初リーダー作
録音(笑)

 マスダ米笑氏の全面プロデュースにより、8曲くらいを録音して一つの作品に仕立てる。その名も「茨城県北の八木敬之」。といっても私のやったことは米笑さんの作ってきたカラオケを聞き、適当にテーマとアドリブを吹くだけ。録音などというものはあまりやったことがなく、なかなか楽しかったし。その後の本格的レコーディングに向けいい経験になった。曲は、ボブミンツァー風あり、歌謡フュージョン風あり、4ビートあり、お囃子調あり、バラードありとバラエティにとんだ内容であった(ちなみにすべてマスダ米笑氏作曲)。米笑さんのお力添えで、デイブウェックル(ds)、ジョンパティツゥッティ(b)も数曲に参加(笑)。
確か1枚だけCDが制作され、現在所沢の自宅で保存されているはず。
1990年 矢堀デモテープ
 マスダ米笑さんと矢堀と3人でデモテープを制作。確か「ジャグラー」、「もっとお母さんみたいに言ってくれ(笑)」、「霧島」の3曲。例によって私は適当にテーマを吹き、ソロをやって終わり。
「霧島」は仮オケの状況でソロだけ録音してドイツに行ってしまったのだが、その後アンソニージャクソンと若い頃のスティーブガッドがガンガンインタープレイをしている様な伴奏と、私のソロの5度上にシンクロするシンセが米笑氏によって打ち込まれた。ドイツで送られてきたテープを聞いたときには相当驚いたものだ。出し損ねたフラジオまでコピーして5度上に重ねてるんだもん(笑)

 この頃、矢堀バンドということで、何回か日立のアシャンティその他で演奏。「霧島」「双羽黒」「寺尾」の相撲三部作が披露された「ライブ双羽黒」もこの頃かな?池頼広(b)氏も矢堀に連れられて数回日立に来たような気がする。
1990年 布川トリオ
 ということは、布川さんが再度日立にやってきたのもこの時期だ。アシャンティでのトリオ演奏をやるということだったのだが、当日、いきなり私のアパートにやってきて「お前今日やれ」ということになる。
メンバーは水谷浩章氏(b)、とドラムは・・・忘れた。2部から参加させてもらい、レゲエ風SolarやRound Midnight、布川さんのオリジナル「無彩色」など演奏。Round Midnightはソロで突然三倍テンになるバージョンで(そういう展開だとはソロが回ってくるまで知らなかった)驚いたりした。
1990〜1991年 ドイツ
 会社の関係で何故かドイツのランツフートという小さな街に一年間滞在。コンサートはやたら見たが、自らのバンド関係は無し。ミュンヘンのジャズクラブに数回ジャムセッションに出掛けたくらいかな。
1992年? 吉田正弘
セッション

 帰国してすぐだったと思うが、日立市の「ダル」に吉田正弘さん(ds)がジェリーベモーラとジェフヒットマンという二人のNYテナー吹きを連れてやってきた。あとは納浩一(b)さん。私もどさくさに紛れて二部から参加させてもらう。
この二人、要は「スティーブグロスマン信者」であって、ジェリーのほうが「コルトレーン系グロスマン」、ジェフのほうが「ロリンズ系グロスマン」(笑)。かくいう私も「お前グロスマンに似ているな」とかいわれると「え、そうかなあ、でへへへへ」とか言って喜んでしまう人であって、ライブでは三人並んでほぼ同じ音で、同じようなフレーズを吹き、同じような構成のソロをとる、「グロスマン三兄弟」状態。当然1曲20分。ウォークマンで録音したテープを聞き返してみると、どこでソリストが変わったかすら分からない。納さんつらかったろうなあ。

 ジェフとは、実は私が卒業旅行と称して1986年アメリカのキーウェストに行った時に会っていたのだった。夜街を歩いていたらある店からジャズが聞こえてきて、すかさず中に入ってみたらなにやら白人がテナーを吹いているのだが、フレーズが85%程度グロスマン。私はキメのグロスマンフレーズが出るたびに客席で大笑いして、休み時間に会いに行ったらこちらから言う前に「お前スティーブ(グロスマン)好きだろ」と言われてしまったという思い出があるのだ。

 ダルでは他にも結構有名な人とセッションをさせてもらった覚えがあるのだが誰だか思い出せない。ううう。

 
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