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2000年10月29日


豪華絢爛、八木敬之のバンド遍歴
− 学生時代篇 −



  • 老後の自慢のタネとして、まだ記憶が定かなうちになにやら残しておこうと思い書き始めてみました。随時更新予定(きっとしないだろうが)。

  • フォーマット的には、T工大関係者のH多氏のパクリです。

  • 自分の都合のいいように美化している部分もかなり存在すると思われるので、3割引くらいで読んでください。

  • 「これ忘れてるぞ」あるいは「これはあまりにも事実と異なっているぞ」、という情報をお持ちの方は、お伝えください。

  • 本人の意図にかかわらず名前を載せられてしまったミュージシャンの方、皆様がビッグになればなるほどこのリストの価値があがりますので、是非精進ください。

時期バンド名メンバー、気付事項他
小学生の頃
(1970〜
  1975)
ブラスバンド部
 小学校4年生のとき、兄がやっているという理由で参加する。
はじめは、トランペットを希望していた。入部して数日後、新任の顧問の先生が以前自分で使っていたという古いニッカンのアルトサックスを持ってきて、「誰かやりませんか」ということになったのだが、隣にいたトランペットの6年生が「八木がやりたいと言っています」などと叫んだ結果サックスを始める。

5年生になって学校で新しいサックス(テナーとアルト)を買ったのだが、「背が高いから」というベタな理由でテナーになる。

年末の「ブラスバンド年末お楽しみ会」みたいなもので、「太陽にほえろ」をやってみたり、コンサートと称して、自分でアレンジしたカーペンターズの曲をやったり(途中でサックスソロのあるやつ)、当時からクラシックから離れようとしていた模様。

このころのバンド仲間に天野 丘(g,当時はアルトサックス)がいる。
中学生の頃
(1976〜
  1978)
吹奏楽部
 中学校のクラブに入ってみたらサックスが無かったのだが、母親が何故か近所の知り合いから「セルマーの中古品」というテナーを見つけてきて、父親に泣いて頼んで買ってもらう。この楽器は1989年に現在使っている楽器を買うまで使いつづけていた(いまだに持っている)。
卒業の頃、フォークやロックをやっている連中に混じってコンサートに出してもらい、「カリフォルニアシャワー」をやった覚えがある。しかし、中学生の分際でどうやったらそんなものが出来るのかいまや定かではない。悲惨だったんだろうなあ。あとは「天国への階段」のリコーダー(メロトロンの代わり)もやった(笑)。
高校の頃
(1979〜
  1981)
ウインドアンサンブル
 もう小中学校のときに前兆はあったのだが、ブラバンにおけるサックスの必要性に疑問を感じ、ジャズに興味を持ち始める。初めてブレッカーを聴いたのは多分、石神井図書館で借りた深町純のレコードだったと思う。当時フラジオなんてものは存在も知らなくて、テナーでやっているのすら信じられなかったが、とにかく「これだ」とか思う。
その後、雑誌やらなにやらで多少情報を仕入れ、これも定説ではあるが、「ヘビーメタルビバップ」に行き当たる。すっかりはまる。この人たち実は兄弟で楽器をやっていて兄がトランペット、弟がテナーという事実を知り、自分の置かれた状況との類似性を見出して有頂天になる。新譜でステップスのライブが出て、やたら感動する。もしかすると「スリーカルテッツ」もこの頃かな。高校の近くのレコード屋で予約して買ったような気がする。

この頃から本格的にジャズを聞き始めるが、コルトレーンを聞いたきっかけは、雑誌に「マイケルブレッカーが尊敬するアーティスト」とか書いてあったから。

ブラバンではなにやってたかなあ麻雀はよくやったが。
高校の頃
(1979〜
  1981)
大友義雄サックス教室  確か高校の2年生くらいのときだったが、やっぱり人に習ったほうがいいだろうと思い、渋谷のヤマハに通ってみる。毎週道玄坂を通ってヤマハに行っていたのだが、あのころの渋谷は今のように高校生がうろうろするような場所ではなかった。なんか大人の世界だったなあ。
 大友師匠には何か吹くたびに「お前ロイシ〜なんだよ」とありがたいご指導を受ける。演奏技術はともかく、バンドマンの心構えおよび酒の飲み方など教わる。当時ブレッカー(要はメカニカルなフレージング)に心酔していた私に「唄」の重要性を教えてくれたのは大友さんだった(といってもそれに気付くのは相当後になってからだが)。

大友さんに「お前、マウスピースがロイシ〜なんだよ(当時はセルマーのもろクラシック用モデルを使っていた)」とご指導を受け、ジャズライフの売りたし欄を利用してオットーリンク(メタル)の中古マウスピースを5000円か何かで購入。それ以来現在も現役で使用中。
高校の頃
(1979〜
  1981)
Zenith
 確か高校三年生の春だったと思うが、ブレッカーブラザーズ来日という事で、厚生年金会館に見に行く。メンバーはランディ(tp)、マイケル(ts)、マーカス(b)、マークグレイ(key)、渡辺香津美(g)、リッチーモラレス(ds)。純粋無垢な高校生の私は、コンサート終了後に楽屋出口でマイケルを待ち受け、サックスのソフトケースにサインを貰う。やたら背が高くて驚いた覚えがある。
ちょうどこの頃佐藤達哉氏による「マイケルブレッカー完全コピー本」などというものが出て、喜んで購入。高校の練習場などで練習してみるが、ちっとも吹けん。さらに、大学に入った兄貴が音川英二氏(ts)とバンドを組んでブレッカーブラザーズの曲などやり始める。羨ましく思う。

というわけで、3年生の秋の学園祭で、同じ学年のロック野郎を集め、ブレッカーブラザーズをコピーするという無謀なバンドを作って演奏する(これがZenithというバンド)。未だにテープが残っているのだが、物凄く恥ずかしい演奏ではある。曲は「スポンジ」および「サムスカンクファンク(!)」。あとはネイティブサンとかイズントシーラブリーとかやったな。高校生でそんな事をやるやつはやはり少ないためか、希少価値のみで学園祭バンドコンテスト優勝(ていうか、審査員を知的に恐喝したんだけどね)。この学園祭のステージを、学芸大付属高校でやはりサックスを吹いていた岡淳(ts)が見にきていたという伝説もあるが、きっとガセだろう。
大学一年
(1982)
C1バンド  大学ではモダンジャズ研究会(通称ダンモ研)に入部。
ダンモ研にはいっても、しばらく一年生はバンドで演奏する機会がなく、とにかく個人練習をさせられる。夏合宿の初日にオーディションなるイベントがあり、レギュラーをバックにブルースかなにか演奏させられて、その出来によりバンドをあてがわれることになる。

そのオーディションに際して、満を持して4小節くらいブレッカーのフレーズ(STEPSのParadoxに入っている"Take a walk"のコピー譜がジャズライフに載っていた)を吹いたりしたところ、ある3年生から「おめえ、そのままやったろ」とか嘲笑含みの鋭い指摘を受ける。実は同期にやはり達哉氏の弟子でブレッカークリソツを目指している人がいたり、3年生の内山正博さんの物凄い演奏を聞いてやはり私には出来ないと思っていたりしたところに、この指摘があり、「金輪際ブレッカーの真似は諦めよう」と思う。というわけで、若干屈折気味にその後ブレッカーから離れる事になる(少なくともダンモ研内部では)。で、はまったのがリーブマン/グロスマンなので、身も蓋も無いといえばそのとおりだが。

で、結局あてがわれたバンドには南博(p)、原大力(ds)がいた。他のメンバーは伊佐津(vib)、新間(g)、広瀬(b)、小嶋(ts)。このバンドで一回ライブハウスにでたような覚えがある。
大学一年
(1982)
スカイサウンズジャズオーケストラ
 音川さん(ts)がリードしていた学習院のビッグバンドであるが、「プロになるため」というわかるような分からないような理由で突然止めてしまい、そのトラとして急遽兄貴に呼ばれて一年生の夏頃参加。正式に在籍したのは2年間であるが、ある意味人生を決める出来事だったともいえる。
ダンモ研の練習場所がひどかった事もあり、個人練習も学習院でやることが多かったのだが、ビッグバンドは辞めても回りで練習は続けていた音川さんにいろいろと教えてもらった。音川さんはもちろん、兄貴や正清泉氏(ds)ともセッションを重ねる。
大学一年
(1982)
スワンセッション
 今は新所沢にあるジャズ喫茶「スワン」であるが、もともと所沢の駅前に存在して、兄貴が時給300円でバイトをしていた。それが、大学一年の終わり頃駅前再開発の名目で一時閉店することになり、それを記念(?)してのセッション。兄貴(tp)、音川さん(ts)、南(p)、スカイの小林さん(b)、正清氏(ds)。ジャズのバンドでギャラを貰ったのはこれが最初か?
大学二年
(1983)?
Hi-Fi Sax
 大友門下生で構成されるサックス5本のユニット。コンセプトは日本版スーパーサックス。たぶん大学二年生の頃入れてもらう。メンバーは皆年上の人ばかりで、浅野さん(as)、相川さん(as)、塩川光二さん(as)あと、テナーの「奇才」といわれていた人(名前忘れた)。
基本的にアンサンブルが中心なので、結構練習したなあ。何回か渋谷のヤマハでコンサートのようなものをやったのだが、リズム隊はそのたびに変わっていた。羽仁トモハルさん(p)や、当時日本のエディゴメスといわれていた杉山さん(b)も何回かやってもらったかもしれない。曲は、スーパーサックスバージョンの「チュニジアの夜」とか、オリジナルアレンジの「Tel me a bedtime story」とか。
大学二年
(1983)
D1バンド  ダンモ研二年生のバンド。やはりメンバーは上からあてがわれるのだが、南博(p)結城和弘(ds)、鈴川真樹(g)、山崎(b)という顔ぶれ。このころはリーブマンとかにはまっていて、顰蹙を買いつつもその手の曲をよくやってたなあ。あと、夏合宿ではロリンズの「ストロード・ロード」をやって結構受けた。いいバンドだった。
秋に、電通大かなにかの学園祭に呼ばれて演奏したりしたが、その際他のバンドで演奏していた岡淳(ts)を見て、世の中には上手いやつがいるもんだと感心する。
大学二年
(1983)
小林目白音楽祭バンド
 スカイサウンズのベーシスト小林さんをリーダーとして、ジャコパスビッグバンドの曲をやるために結成されたバンド。五月ごろ行われる学習院の「目白音楽祭」というイベントで演奏。小林さんのほかは、音川さん(ts)、兄貴(tp)、正清さん(ds)、あと、スカイのホーンセクション殆ど。なぜかチューバもいた。
曲は、Invitation、Chicken、Elegant Peopleなど。今から考えると信じられないが、私もElegant PeopleとInvitationを耳コピしてアレンジ。フルバンの曲だけじゃ時間が持たないというので、ブレッカーのJack Knife (だっけ?)やInside outなども演奏。音川さんが炸裂していた。

このとき観客に当時新入生だった矢堀孝一氏(g)がいて感動し、その後ジャズを志したという伝説もあるが、きっとガセだろう。
大学二年
(1983)
新井ビッグバンド
 ダンモ研の先輩だった新井 治氏(tp)が中心となっていたビッグバンド。なんか佐藤達哉氏(ts)が「ビッグバンドもやってみたくて」とかいう理由で横に座っていた居たような気がするが、他のバンドと取り違えてるかも。上智大の学園祭でMad Hatter Rhapsodyなどをやった覚えがある。
大学二年
(1983)頃
八木兄弟バンド
 別にパーマネントなバンドがあったというわけではないが、兄貴と私のフロントに適当なリズムセクションで、学園祭などで演奏。兄貴との演奏は色々な意味でしっくり来てなかなか楽しいものだった。
大学二年
(1983)頃
岩崎ビッグバンド
 

 これも正確にはいつだったか定かではないが、トロンボーン奏者の岩崎敏弘(?)さんのリハーサルバンドに一時的に加入した覚えがある。このひとグレンミラーキチガイで、一連の曲をやって結構楽しかった。一回山梨かどこかに仕事に行ったような気がする。
大学二年の頃は、「楽譜がそこそこによめて、アドリブも多少出来るが、若いのでギャラ等の心配をしないでいいやつ」というステータスでいろいろなバンドにお呼ばれしていた。一日4つのバンドのリハなんてこともたまにあったと思う。他にもいくつかフルバンもどきのようなことをやったような気がするが、もう記憶のはるかかなただ。
大学二年
(1983)
小島のり子バンド
 ダンモ研の先輩だった小島のり子さん(fl、当時はテナーも吹いていた)がダンモ研リサイタルに向けて私をサブメンバーに入れてくれた。ショーターのマニアックな曲など演奏。
大学三年
(1984)
ダンモ研レギュラーバンド
 3年生になるにあたり、レギュラーに任命される。伝統あるダンモ研のレギュラーなどというのは当時の私にとっては相当大事であり、結構プレッシャーなど感じる。同時に慣例としてクラブの幹事長にもなる。
メンバーは、南博(p)、結城和弘(ds)、鈴川真樹(g)、4年生の勝股さん(b)。現在南はジャズピアニストとして日本ではそれなりにユニークな位置に居る。結城はその後ウチコミストとなり、DTM関係の雑誌で記事を書いたりしているらしい。鈴川はレギュラーをやっている最中にEPOのバックバンドに抜擢され、その後チューリップのサポートなどを経て、なんとかというユニットでリーダ作を出したりしていたのだが(スティーブフェローンがドラム!)、その後どうしたのかなあ。勝股さんは、いまやCBSソニーの敏腕プロデューサーという噂。なんだ、堅気になったのはオレだけか。

このバンドに関しては様々な出来事を含め、いろいろ思い入れがある。当初、一応リーダーとしての責任感もあり、私がバンドをある一定の方向にまとめようとして無理やりコントロールしようとした。それはそれで一応成果があったのだが、最後のリサイタルで、他のメンバー個人の個性が私のコントロールを越えてしまったのだった。口で言うのはなかなか難しいのだが、自分の無力を実感すると同時に、心の片隅では期待していた結果でもあり、それなりに満足している。個人的な演奏としては初期の頃のほうがよかったと思うが、バンドとしての「まとまりの無さ具合」が最後になって物凄くいい形で出たと思う。いろいろあったが、いいバンドだった。

大学三年のときは、このバンドおよび個人練習に集中しており、あまり他のバンドでの演奏機会は無かったような気がする。
大学三年
(1984)
南−八木デュオ+1
 といいつつ、そういえばこんなことやったのは確かこの年だった。
南の通っていた東京音大の学園祭でデュオをやったのだ。パイプオルガンのある立派なホールで音大生を前に演奏。ネイマとかやったかな。バレリーナで歌をうたうという女の子がいて、フリーで踊りとの競演、その子の唄で「ラウンドミッドナイト」などをやった覚えがある。ラウンドミッドナイトはその女の子が勝手に日本語の歌詞をつけていて「眼球が〜溶け〜て〜流れるほど〜」などというインパクトのあるものだった。

もしかすると学習院の学園祭でもやったかもしれない。
大学三年
(1984)
筑波博バンド
 レギュラー終了後、ダンモ研唯一のフュージョンバンドを母体として急遽結成されたバンドで筑波博に出演。メンバーは、結城(ds)、松田(kb)、中村修二(g)、そして学生バンド界伝説のベーシスト鈴木逸平。逸平とはこのときが初競演。筑波博は学生バンドの楽園とも言われており、なにかしらイベントのたびに結構なギャラで学生バンドが呼ばれていたのだった。
その後マイルスも演奏したメイン会場で演奏。ステージ後ろの大スクリーンに演奏シーンが映し出されたのだが、逸平および私の顔がスクリーンからはみ出していたという噂もある。

演奏終了後、逸平氏のたっての希望により柏に寄り、ホワイト餃子を食べる。まさか数年後に自分がこの街に住むとは、あるいは、一年後に逸平氏と同じ会社に就職するとは想像もせず、「ここは関東か」とかさんざん悪態をつきつつ柏で餃子をほおばる私だった。
大学三年
(1984)
スーパービッグバンド(適当)  これも、レギュラーが終ってからだと思うのだが、なにやら期するところあり、兄貴と結託して学生バンド界のスター選手をそろえたビッグバンドを結成しようと画策する。
ドラムは原大力氏(当時はアースキンのようだった)、ラッパに新井氏(その後バークリーに行ってしまう)、川越のメイナードファーガソンといわれた門脇氏、そして兄貴。サックスに塩川氏、内山氏(ブレッカークリソツのダンモ研先輩)、トロンボーンに村田陽一などをそろえ、結構まじめにリハなど行って、高田馬場のビッグボックスでコンサートを決行。

これも今から考えると信じがたいが、私はメンバーへのお願いを含め、マネージャーのような役回りを担当。演奏は好評、不評二分されたのだが、私としては面白かった。
大学四年
(1985)
広江 靖(ds)セッション
 レギュラーの刑期を終えた私は、すっかりリラックスして個人練習も殆どしなくなったのだったが、その当時ベーシストの本間範夫さんの紹介で広江さんと出会い、ほぼ毎週分倍河原にあったバベルセカンドという店で練習をすることになる。大抵トリオでスタンダード中心。たまに本間さんが現れないときもあり、その場合はデュオ(!)。南や兄貴を加えて何回かスワンにも出演した。
今考えるとこのときのセッションはその後の私のスタイルに相当影響を及ぼしているような気がする。広江さんはまさに「タイム」の権化みたいな人で、やんわりとしごかれ、酒を呑んでのさりげない会話を通じて色々と影響を受ける。いまだに私が最も信頼し、愛するジャズドラマーではある。
大学四年
(1985)
矢堀バンド  既に学習院の「ラテ研」でスター的存在であった矢堀氏が、本格的にジャズ/フュージョン方面へ進出する第一歩として結成したバンド(笑)。例によって目白音楽祭で演奏。売り物は、正清さんと白田氏のツインドラム。あとはベースの若いやつとキーボードの女の子(名前忘れた)。WRのVolcano For Hire (?)のイントロおよび本編のビート感は強力だった。このときに矢堀氏が経験したツインドラム強力ビートトラウマが後の菅沼孝三氏とのバンド結成に繋がっているというのは考えすぎか?
あとは、香津美さんの「ユニコーン」とか、矢堀オリジナルの「ここもアイランド(笑)」とか。ウェインショーターの真似をやったのはこのときが生まれて初めてだったかもしれない。
大学四年
(1985)
えぞぎくバンド
 T工大の西尾さん(ds)が卒業を間近に控えて、自分が考える学生ジャズ界ベストメンバーという名目でピックアップしたバンド、青学の高木さん(p)、東大の小野さんおよび私が光栄にも選出されたのだった。当初、T工大ジャズ研リサイタル(六Pでやった)だけのためのVSOPプロジェクトだったはずなのだが、なんだか好評だったためいろいろな機会をみつけて演奏する事となる。十八番は、「モーメントノーティス」。なんかまとまっているようで実はばらばらなところが面白かった。
大学四年
(1985)
八木トリオ
 学習院の学園祭で時間を貰って、その場にいたスカイサウンズのベーシスト中村さんおよび白田久弥氏(ds)のトリオ演奏をやった。確か、竹野正邦(ts)がやはり自分のバンドで来ていて、我々の前に演奏してすごかったんだよね。スタンダードを中心にやったのだが、自分の中では生涯ベスト5い入るいい演奏だったような気がしているが、気のせいだろう。もしかすると三年生のときかもしれない(記憶が極めて曖昧なのだ。思い出を美化しているだけかもしれない)。
大学四年
(1985)
スリーテナーズ  当時、学生ジャズ界ではそれなりに有名になっていた私だったが、同じ歳で、岡淳ならびに竹野正邦というトンでもないテナープレイヤーがいることも事実であり、折角だから3人並んで演奏して彼らをプロデュースしようという野望の元に結成されたバンド。たしか私が言い出しっぺだ。但し、なんのことはない、結成と前後して、彼らのほうが有名になってしまったのだった。
並んで演奏してみると、岡=50年代、八木=60年代、竹野=それ以降という役割分担がなんとなく出来たりしてなかなか興味深かった。3人が好きなだけソロをとるので一曲の長さが平気で20分になったりする恐ろしいバンドだった。何回か演奏の機会があったが、最も印象に残っているのは、津田塾大学(女子大)の学園祭のゲストとして演奏した事。日本酒同好会なる男らしいサークルが主宰したジャズコンサートだったのだが、演奏後、岡淳が樽の中に10センチほど残った酒をイッキし呑みようとして、頭から酒をかぶってたりしていた。


 「社会人篇 その1 茨城県北時代」へ続く
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