ねじまげ世界の冒険(13421 byte)
 自信とは、自分を信じる力である。……たぶん


第一部 おまもりさま

 章前 二〇二〇年 梅雨

        一

 また、あの夢だ。
 彼女は布団の重みを感じ、かっと目を見開いた。
 暗闇のなかで、目をしばたく。汗をびっしょりかいている。悪夢のために体がこわばる、息を詰めてさえいたが、そこが自宅の寝室だとわかると、やっと呼吸をつくことができた。
 女はやせこけて、おもやつれがしている。暗闇で、目が、ランランと光っている。うすいピンクのパジャマを着ているが、その明るい色合いは、女の深刻な心境をかんがみるに、なんとも不釣り合いな感じがした。
 布団のなかで、曲がった膝をのばすと、こわばった背筋がきしんで痛かった。彼女は眉をひそめながら、目を覚ますたびに浮かぶあの言葉を、忌々しい思いで受け止める。
 世界はねじ曲げられている……という言葉。
「またあの夢か……」
 泣きたい気分で一人ごちると、額に手をやり、大粒の汗をぬぐった。辺りは暗く、部屋はしんとしている。時計の音が、ほとほと鳴るばかりで、あとは夫の寝息がするだけだった。
 彼女は37才の主婦で、名前は高村利菜といった。高村秀男とは結婚して十二年がたち、小五の娘を一人もうけている。昨年絵本を出版したこと以外は、ごくふつうの主婦だと自分では思っていた。
 不眠症、不眠症という言葉が浮かぶ。昨晩は何時に眠ったのかと、焦燥にかられる。最後に時計の針を確認したときは、夜中の二時を指していた。いまは三時半である。その間、熟睡の感覚は一度もなかった。睡眠時間が減り始めたのは、昨年の十二月からだ。今では一時間も眠ればいい方だった。
 最初の一ヶ月は、寝付きが悪いていどだった。二ヶ月目にはいると、明瞭な悪夢をみはじめた。そうして睡眠が、本格的に遠ざかっていったのである。
 身を起こそうとすると、関節が軋んで痛かった。体が、オーバーヒート寸前のエンジンみたいだ。不眠症と、悪夢が始まって五ヶ月がたち、自分が限界に来ていることを知った。
 ベッドのうえで身をよじらし、夫を起こさないよう、注意をしてふとんをどかす。鏡を見ると、頬のこけた女がいて、その女の光る瞳が見え、泣いていたんだな、と彼女は思って、鼻をすすり、夫に背を向けた。泣くほど怖がっていたのに、夢の内容は、さっぱり思い出せない。
 床に足をおろし、冷たい板間の感触に吐息をつく。動悸がおさまるのを待った。ゆっくりと立ち上がる。体がふらついた。体勢を立て直すと、すっくと身を立て、胃袋の中身がさかのぼるのをこらえる。
 時計とにらめっこをするうちに、吐き気は遠ざかった。部屋を歩くと、足下もしっかりした。額と腰に手を当てる、おなじみのポーズで、なじみの不眠症問題にとりくんだ。
 はじめのうちは、体を使っていないのが原因かと思った。ジョギングもしたし、水泳もやった。つまらない本を読んだり、コーヒーを断ったり、蜂蜜を食べたり、呼吸を深くしてみたり、あらゆる努力をおこなったが、効果はなかった。自立訓練法を試みたこともある。ヨガもやってみた。かかりつけの医者に相談もしたが、無駄だった。だいいち睡眠とは、努力をするようなことなのだろうか? 眠るのは、自然なことではないのか?
 眠いときに眠るのは天国だと思う。要求と行為が合致する。
 眠れる健常人は、神経の問題だと彼女に言うが、それならば彼女はこのところずっとトゲトゲしていた。朝がきても疲れが抜けないのだから当然だし、じわじわとだが自分が鈍くなっていくのがわかる。
 精神を満たしているのは、不安と強迫観念だ。
 頭が回らない、気が利かなくなる、注意力は散漫で、神経過敏になっている。娘に手を挙げたこともある。それに対し、反省もしている。
 彼女は右のこめかみをもみながら――実のところ頭痛もしていたのである――部屋を歩き回った。
「こんなことをしたってどうせ名案なんか浮かばないわよっ」
 壁を殴りつけたくなる。疲れをとるために眠るのに、眠るために疲れ果てるとはどういうことだ?
 とほうにくれた。不眠症がすべてを鈍らせていた。判断力も、思考力も、記憶力も、生きる気力も削りとった。今では感情を抑えることも難しい。人に比べれば寛大な方だったのに、神経過敏で、ヒステリーの兆候が常にある。最悪なのは、娘に手をあげたことだ。
(口答えをしたからなに?)
 口の中でつぶやく。あの子の顔を張り飛ばしたのに、正当な理由などなかった。八つ当たりをしたのである。
 いまでは鉢植えにさえ腹が立つ。体調はつねに崩れて貧血気味だし、それに幻覚をよく見るのである。声を聞くし、誰もいないのに、人の気配を感じたりする。脳腫瘍でもあるんだろうか?
 医者には、ストレスをためないこと、などと言われたが、そのことにもまたぞろ腹が立ってきた。
「ストレスがたまってなにが悪いの? ストレスをためるな? 助言をどうも、役に立つわよっ。ついでにストレスをためない方法も教えろってんだっ。眠れないからストレスがたまるんだ! 人の百倍高給とるくせに、旦那とおなじことしか言えないのかっ。不眠症はたいしたことじゃない? 夜中に死にたいぐらいイラつくのがたいしたことじゃない? たいしたことじゃないんならっ、今すぐ治せ!」
「利菜?」
 声をかけられ、利菜は自分が一人ごとをつぶやいていたことに気がついた(つぶやくというより怒鳴っていたが)。
 彼女はばつの悪い気持ちで振り向いた。秀男が、ベッドの上で、体を起こした。
 秀男とは、講文社の職場で知り合った。利菜は大学の頃から原稿の持ちこみをしており、そのまま出版社に就職をしたのである。秀男は三つ年上で、彼女の上司だった。気の強い彼女は、仕事の上ではなんどもぶつかりあったが、一年後には結婚し、その一年後には子どもがうまれたので仕事をやめた。
 その後、秀男は編集長になり、雑誌をいくつもかかえている。利菜に絵本の仕事をもちかけたのも、この秀男である。
 絵は中学生のころから描いていたものの、たんなる趣味のつもりでいた。ライターの仕事は、家にはいってもつづけていたが(腕のいいライターは仕事にあぶれない。秀男論)、自分に絵本が書けるとは思えなかったし、秀男は面白がって言っているだけだと思った。
 夫がしつこくこの話を持ちかけたとき、彼女はこう言った。
「書いたことないじゃない。書き方も知らないのよ? 花や風景を写実すんのと、頭のなかにある空想を紙にうつすのはぜんぜん別なわけ。無理よ無理無理あんたが何言おうとだめなもんはだめ。おだてんのもすかすのも金輪際やめてちょうだい」
 と彼女は言ったのだが、秀男の返事は、
「じゃあ、今から覚えればいいじゃないか」
 であって、彼女の、主婦は忙しいあたしは忙しいそもそも気が乗らないんだけど、といった論理にはまったく応じてくれなかった。応じたのは彼女のほうで、仕事のときからずっとそうだが、彼は彼女をのせるのが、職人のようにうまいのである。
 それに秀男は、他人の才能を見抜く目をもっていた。しばらく打ちこんでみると、自分には絵本の本質を見抜く天賦があるらしい、ということが、利菜にもわかってきた。他人の絵本を読んでいると、どこをどのように書いているかがわかるし、そうした評論的な視点だけでなく、自分ならこう書くという、独自の視点ももっていた。
 彼女はその筋にそって仕事を進めた。できあがったものは娘にみせた。ライターのときと同じく、やはり純子が審査員だった。
 娘の評価は、これいけてるよ、の一言だったが、彼女はそのとき娘の視線にやどった、驚嘆や賛美ともとれるなにかを喜んだ。
 いきおいにのって仕事をすすめ、半年で絵本を完成させると、その年の十月には出版にこぎつけた。
 あれを書いていたころは、不眠症の症状はなく、健康そのものだった。今では仕事に戻ろうにも、構想すらわかない始末だ。
 結局不眠症は、睡眠だけでなく、彼女の才能もかすめとったわけである。
「眠れないのか?」
 秀男はベッドの上から体をのばしナイトテーブルの明かりをつけた。部屋がすこし明るくなった。
 彼女は鼻で笑いとばした。
「おもしろい質問するじゃない。眠ってるように見えるんなら、そう言って」
「また八つ当たりか」
 秀男はグラスを手にとった。錠剤入りのびんをもう片方の腕にもち、今年いくどめかになる質問を繰り返した。
「薬は飲んでるか?」
「飲んでない……」彼女は爪をかみはじめ、秀男はその手元を見ている。
「飲んだ方がいい」
 彼はペットボトルを手にとり、ミネラルウォーターをコップについだ。薬瓶のふたを回すと、錠剤を手に落とした。ベッドを降り、近づいてきた。
「欲しくない……」涙声で言った。
「そんなに苦いのか?」秀男は鼻を錠剤に近づける。「においは悪くないぞ。飲め」
 利菜は強情に腕を組んだ。「いやよ」
「飲めよ」
 秀男がなおも手をつきだしてくると、彼女は薬を奪いとった。
「いらないわよ!」
 と壁に叩きつける。錠剤の一粒は、粉々になり床に落ちた。他の粒は周囲に散った。
 彼女はあとじさった。
「欲しくない……欲しくないのよっ……飲んでも効かないんだもん」
「はじめは効いたじゃないか」
 秀男の落ち着きぶりに、利菜はまた腹を立てた。
「それは最初だけよ!」怒りでふるえながら秀男をにらむ。「それはね、確かに眠れたわよ。でもあのときだってすぐに目が覚めたのよっ。あんたには言わなかったけど……」
「そうなのか?」
「そうよ。間抜け面しないで。すぐに眠れたけど、すぐに目が覚めたのよ。もう薬なんて飲まないわ。眠れなくたってけっこうよっ」
「そうやってやけをおこすのはやめろよ」秀男は我慢強く腰に手を当てた。「眠らなくて平気なのか? まいってるのはわかるだろう?」
「当然よ。あたしがいつも通りに見えるの? あんたこんな女に惚れたわけ?」彼女は両腕を広げて、首を左右に振りたてる。「まいって何が悪いわけ? ろくに眠れなくてごめんなさいねっ」
「その早口と身振りは変わってないぞ」彼は彼女の真似をした。「オーバーアクション」
「あんたも、あたしを怒らすのはあいかわらずね」利菜は腕を組んだ。秀男が肩をすくめた。彼女の物真似をまだやめない。「あんたはいっしょに働いてるころからいっつもそうよ。あたしがいらついてるのが見えない?」
「感情は見えないし、おまえは怒ると頭が回る」
「今はあんたにキレてんのよ」と吐き捨てる。「八つ当たりだけどね」
「それも変わってない」秀男は含み笑いを漏らす。
「そうね。絵本を書き出してまたぞろ上司と部下に戻ったわけだし。礼でも言おうか?」
「ごほびに薬を飲めよ」
「いやよ」
「効くかもしれないだろう」
 彼女は本気で腹を立て、きつく言った。「薬を飲むともっと自分がだめになるのよっ。にぶくなんの。わかったっ?」
 秀男は彼女の語気に口ごもった。ふざけるのをやめて本腰になったが、方途がなかった。利菜はもともと不眠症になるような性格をしていない。
 絵本の仕事が終わって、燃え尽き症候群でも出たのか、ライターズブロックかと思ったが、そんなありきたりなもののせいにするには、彼女の症状は重かった。毎日小一時間と眠れていないし、日頃の挙動もおかしいのである。認めたくはなかったが、精神的な病に見えた。
 不眠症がここまできた以上、薬を試してみるのは良策だと思えたが、当の妻兼部下が拒否している。秀男は腕をくんだまま弱り果てた。
「どうしてやったらいいんだ。眠れない理由がわからないし……ストレスが……」
「ストレスのせいじゃないって言ってるでしょ!」
 利菜の大声が、切り裂くように部屋を満たした。秀男は表情を硬くした。
「おい、大声を出すな。純子が起きるだろう」
 二人は黙った。ややあって、彼女は言った。
「起きたからなんなの。あの子はいつでも眠れるじゃない」
 秀男は傷ついた表情を見せたが、顔は伏せなかった。
「そんなふうに言うなよ。そこはおまえらしくないね」
 利菜は黙った。不眠症がすすむと、ばかな言葉が出るもんだ、と唇をかみしめた。
 秀男は黙ってポケットに手を突っこんだ。今度は小さく肩をすくめた。「仕事はすすんでるか?」と訊いた。
 秀男は、利菜の気晴らしになるかと思い、ライターの仕事をいくつか持ちかけていた。
「ぜんぜん。あんたが編集長じゃなきゃ、とっくにお払い箱かもね」
「心配ないよ」秀男は言った。「おまえは才能あるから」
 利菜は鼻で笑ったが、べつに嫌みな笑いではなかった。
「あたしを乗せんのも相変わらず上手よね」
「ああ」秀男は一瞬とまどうように顔をふせたが、まっすぐにみつめ、「おまえが不眠症でも幻覚を見ても。夜中に起きておれに当たっても、関係は変わらないよ。いまでも惚れてるからな」
 と秀男は言った。彼の目は強く、おかげで彼女は彼の言葉を信じた。ときどき率直なことを言って喜ばすのもかわらないな、と彼女は思った。このところ、二人の関係はうまくいっていなかったが、彼女だって今でも彼が好きだった。
 秀男は、
「俺もストレスが原因とは思ってない。おまえここんとこ、ほんとにおかしいもんな」
 率直なご意見どうも、と利菜は思った。
 二人は思い思いの行動をとった。利菜はポケットに手をつっこむと、ぷらぷらと歩き回り、秀男は同じ場所で、踵を浮かせてはおろすのをくりかえし、腕を組んで考えている。
 秀男はやがてぽつりと、
「実家に戻るか?」
 利菜は立ち止まり、険のある表情を見せた。「なによそれ」
「純子も春休みだろう。寛ちゃんとこでも泊まって、のんびりしてきたらどうだ?」
「女二人追い出して、浮気相手でも連れこむ気?」と意地の悪い笑顔を見せた。
「浮気相手はいない」秀男はにやけた。「もてるけど」
 二人は互いにうつむいて、にやりと笑った。
 彼らはまた部屋をぶらつきはじめた。ときおり互いに目をやった。
「あんた何考えてんの?」
「明日の仕事のこと」
「また雑誌を立ち上げるんだって?」とあきれたように言う。
「そう」秀男は思いついたように付け足す。「ああ、心配すんなよな。おまえの助けはいらないから」
「そんなこと言って。仕事がつまったら原稿を回すじゃない。いつもいつもいっつも」
「腕が落ちてなきゃ、こんども回してやる」
「もちろん落ちてるわよ……」
 彼女が落ちこんだ声で言うと、秀男はそっと近づく。「できることがあったら、なんでもするよ」と彼女を抱き寄せる。
「不眠症は治せないけど?」
 秀男は少し体を離して、彼女の額にキスをした。
「不眠症は治せないし、文も書けない。絵もだめだし。だから原稿はおまえに任す」
「頼りにしてるわよ、編集長」
「おれもおまえを頼りにしてる」と彼は言った。「わかるよなあ。お互いさまだってことぐらい」
「もちろん」と彼女は言う。「あたしだってあんたを頼りにしてる」
 秀男は利菜の髪をなでおろす。利菜はほっと吐息をつく。秀ちゃんはまだ私が好きだな、とのんびり思った。いいかげん愛想を尽かされるかと思っていた。このところ、八つ当たりばかりしていたからだ。でも、八つ当たりをするところは秀男にだってある。秀男の言うとおり、確かにおたがいさまで、まだ互いが必要だった。
「こんな女と離婚したら?」と心にもないことを言った。
「よせよ」と彼が言う。「おれにほれてるくせに」
「ほれてるのはあんたの方でしょ」利菜は秀男の肩をそっと噛む。「一目ぼれだったくせに」
「先に告白したのはそっちだ」
「最初のデートでせまってきたの誰?」
「それはおれじゃない」と秀男は笑った。「別の相手」
 秀男は彼女の背をなではじめた。二人はいつもの言い合いを続けた。そのうち、彼は体をぴたりとくっつけ、軽く体をゆすりだした。
 彼女の右手をとった。
「なにしてんの?」
 とさも愉快げに声をたてた。
「おどってる」
 二人はわりと長い間踊った。やがて二人でベッドについた。行為を終えたあと、利菜は秀男の隣で天井をみつめた。
 不安は消えてはいなかったが、今は安心感も生まれている。彼は彼女と手をつないでる。互いを信じる気持ちは、消えていない。
 二人が仕事上の上司と部下でしかなかったとき、秀男はよくこう言った。「問題が見つかってよかった」そういって、肩をすくめてみせるのである。「直せばもっとよくなる」
 彼女は眠れなかったが、起きる前より前向きだった。ただ、彼女はこうも思った。悪夢や幻覚の遠因は、このなぜとは知らない不安感にあるのだと。彼女は不安だ。医者のいうストレスなど関係なかった。強い不安を感じていた。
 強迫観念が、空気のように彼女をとりまいている。それでも利菜は、秀男のことを思い、一人娘を思い、あきらめないことを決めた。不眠症だって、いつかは解決するに違いない。
 ところが、彼女の心中には、あの言葉が浮かんでもいた……世界はねじ曲がっている――という言葉。
 彼女は言った。
「世界はねじ曲がってなんかないよ。曲がってんのはあたしの性根の方」
 結局彼女は彼女の夫を信じ、彼女自身を信じたのである。問題を抱えるのもお互いさまだが、今まで前向きに解決してきたのだ。
 だめだったことはあるが、だめにしたことは一度もない。
 利菜は隣で眠る秀男に、そっとつぶやいた。
「不眠症には一番効果があるわよ」

        二

 事態が動き始めたのは、数日後のことだった。その日は前日からの雨がつづいた。家には彼女だけがいた。夫は仕事に行き、娘は学校だった。午前十時すぎ、クロネコヤマトの宅配が、彼女に荷物を届けてきた。
 高村利菜の郷里は千葉県多賀郡の|神保《じんぼ》町だが、いまは東京の一戸建てに暮らしている。荷物を送ってきたのは、その郷里にすむ竹村佳代子で、利菜とは幼稚園のころからつづく、幼なじみの親友である。佳代子は、これも小学校からの腐れ縁だった寛太と結婚し、十九年がたった今では、二人で自然農園をやっている。
 利菜は中学の卒業とともに、県外の女子校に通い始め、大学も就職も東京だった。神保町とはずっと疎遠だったのだが、佳代子と数人の仲間とだけは、ずっと交友がつづいている。
 利菜は段ボールを居間まで運んだ。佳代子がホームセンターからもらってきた段ボールには、薄く土がついている。いつものように野菜を送ってきたらしく、重かった。箱を開くと、新聞紙でくるまれた野菜がある。
 佳代子が野菜を届けてくるのは毎月のことで、宅配など珍しくなかったが、今回は新聞の上に封筒がある。茶色の便箋がのっていた。
 佳代子が手紙を? と彼女はいぶかしんだ。用があるのなら電話をかけてくればいいと思った。佳代子は筆まめな方ではなかったからだ。
 そういえば……と彼女は気がつく。この数ヶ月は電話のやりとりすらしていない。以前は三日と開けずに連絡を取り合っていたのに? 彼女がかけなかったのではなく、向こうからもかかってはこなかった。
 封筒を裏返した。これといって署名はない。胸騒ぎがした。封筒を机に置き直す。佳代子にも何かあったのではないか、という直観がした。不眠症では半年も悩んでいたのに、佳代子に相談する気にならなかったこと自体が不思議だ。友達は大勢いるが、格別思い入れのある親友といえば、佳代子をおいて他にない。出版された絵本を、まず見せたのは佳代子だし、結婚の報告をまっさきにしたのも佳代子だった。誰にも打ち明けきれない悩みも、佳代子になら相談できた。ともに初潮を経験した友人とは、そういうものではないのか?
 幼なじみといえば、自然と恥ずかしいところも知ってしまうものだし、なんといっても、佳代子は利菜に関するいろんな秘密をにぎっていたのである。
 彼女は表に面したガラス戸に目を向けた。そのとき、六人の子どもたちが小雨の中に立っているように見えたが、気のせいだったようだ。彼女は大きく息をついて、封筒に視線を戻した。
 不眠症がはじまったのが昨年の十二月……三月の半ばからは、夢遊病がはじまった。ロフトに隠れていたこともあるし、庭に出ていたこともある。二日前は風呂場に隠れていた。目を覚ますと、バスタブにうずくまっていた。
 シャワーからは小雨のように水が落ち、彼女はずぶぬれになって、泣きながら膝をかかえていた。部屋は真っ暗闇だったが、突如として明かりがついた。自分がどこにいるかを悟った。
 バスタブのカーテンはしまっていたが、そこに人影がうつっていた。
「誰……」
 と彼女はつぶやいた。夫のはずはない。輪郭でそれを察した。
 立ち上がって、カーテンを開けた。
 そこにはずぶ濡れの女が、着物と長い髪を垂らして立っていた。彼女は溺死女だと思い、悲鳴を上げ尻餅をついた。激痛に顔をしかめそれでも急いで顔を上げたが、そこではカーテンが微かに揺れているだけで何もいなかった。誰も。
 彼女はシャワーを止めた。ずぶぬれの体を見下ろした。いつもの幻覚にしてはできすぎだな、と暗い笑みをもらし、服を着替え、台所の椅子にすわり、なにが起こったのかを考えた。包丁をもち、なにごとかを考えながら、ほうれんそうを切った。
 みそしるをつくり、目玉焼きをつくり、食卓に並べていると、家族が起きてきた。たまたま早く起きたのよ、と説明した。たまたま不眠症になったし、たまたま幻覚を見るようになったのよ、と考えた。二日前のことである。
 彼女自身は、そうした幻覚などの症状には、すべてなにかしらの遠因があるのだと考えていた。無作為に起こっているのではなく、ある一定のまとまりがあったからだ。無意識のうちに行動しているときは、何かから逃げようとしていることが多かったし、例の悪夢も、同じ内容のものをくりかえし見ているようだった。
 佳代子の文面は次のようなものだった。
『まいどっ。ゲンキでやってるか? お久しぶりです、竹村佳代子でございます。梅雨もちかごろ盛りがついて、こっちじゃあざんざんぶりがつづいてる。ここんとこあんたともご無沙汰だったんで、手紙を書こうかと思う。こっちじゃあ近所の小学生を十人ばかり引き受けて、農園を手伝ってもらった。収穫があったんであんたに送る。そっちはどう? あんたは元気か?』
 佳代子は簡単にご無沙汰だったと書いているが、彼女たちはメールのやりとりすらしていない。不眠症がはじまってからは、ふっつりと連絡が途絶えていたのではないかと思って、彼女は眉をしかめた。半年もご無沙汰がつづけば、身の上を心配しだしてもおかしくはない。
 佳代子の手紙はこう続いた。
『最近電話もしてなかったけど、あんたのことは気にはしてる。あんただってあたしのことを気にかけてくれているとは思うけど』
「ほんというと、あんたのことはかけらも思い出さなかったよ……」
 利菜は茶をいれた。手がふるえていたので、彼女はますます落ちこんだ。体の病気ならまだ対処のしようがあるよ、と彼女は思って、熱い玄米茶を一口飲んだ。
『最近こっちは物騒でね、ちっぽけな町のくせに犯罪はよくあるし、こどもが連れ去られる事件が頻発して、うちの坊主も集団下校なんてやってる。東京より不安全なぐらいよ。こんな田舎で、割に合わないと思わない? うちの農園も、ちょっかいを出されて参ってる。警察にとどけたりはしてないけどね。いやがらせをされる覚えはないんだけどね……。できのいいスイカはぜんぶ踏み潰されてるし、温室のビニールを引っぺがされたこともある。そんなわけで、あんたには聴いてほしい愚痴がいっぱいあるのよ。電話をしたかったけど、それだとうまく伝えられるか自信がない。根暗な話になりそうだしね……』
「だからなにがあったのよ」
 手紙に話しかけながら、無意識のうちにポットを撫でた。猫がいればいいのだが、二ヶ月前に家出をして、それきり戻ってきていない。
 一枚目の紙をめくったとき、彼女が目にしたのは、不眠症という文字だった。
『こういう子どもじみたいたずらもたまらないけれど、いちばんまいってるのは眠れないことなのよ。去年の暮れあたりから寝付きが悪くなってるのに気づいたけど、それがよくならないまま今もつづいてる。今じゃあ一時間と眠れない。悪い夢ばかりみるし。あんたにだけは打ち明けるけど、幻覚までみるようになった』
 佳代子の文字は急速に殴り書きになり、読むのも難しいぐらいの字面が続いた。利菜は、苦労しながらも必死に読んだ。夢中になってペンを走らす姿が、容易に想像できた。理不尽だが、同じ悩みをもつ人間をみつけて、どっと安心したのである。
『寛太のやつも同じだった。眠れないし、幻覚をみてるらしい。別に夜の営みに精を出してるわけじゃないんだけど。つまり夫婦そろって不眠症にかかったというわけ。あたしたちはそのうち好転するものと思いこみ、互いにその話しをしなかったけど、症状はだんだん重くなってくるし、黙っているなんて不可能だった。二ヶ月前、あたしたちは悩みをうち明け合った』
「それはうらやましい限りね」
 といらだちをにじませる。彼女は同じ症状で苦しむ相手がそばにいない。秀男も不眠症にかかればいいのに。
 佳代子は本当に思いつくままに、一人思索にふけりながら筆を走らせたらしい。手紙はだんだんと自己独白めいてくる。
『あたしたちは話すうちに、子どものころ似たような体験があったことを思い出した。たしか小学四年か五年の頃だ。あたしたちは不眠症にかかり、集団で幻覚をみるようになった。子どもの頃そんなことがあったなんて、思い出しても信じることができなかった。不眠症が伝染するなんてあたしは聞いたことがないし、そんな強烈な体験を、うっかり忘れたりするものだろうか?
 寛太とあたしは、新ちゃんと達郎ちゃんにもこのことを話した。すると、二人も不眠症で悩んでいることがわかった』
 新治と達郎というのは、郷里に住む尾上兄弟だ。今も交友がつづく幼なじみたちである。
『症状が出始めたのはみんな同じ時期で、悪夢をみるという点でも、共通している。
 あたしたちはあの夏、同じような経験をした仲間のことを思いだした。あたしたち四人をのぞけば、後はあんたと紗英がいる。二人も、不眠症にかかっているんじゃないだろうか?
 あたしたちはよくよく話し合ったが、あの夏に関するあたしたちの記憶は、ほとんど抜け落ちていた。あたしにはあんたが覚えているかどうか確証がない。だけど、あんたは、あたしたちとちがう体験をしている。
 四人で集まって話をするうちに、新ちゃんが、とつぜん思い出したように立ち上がってわめいた。稲光にあったみたいな顔だった。あの夏に、利菜が両神山で遭難した、と。あんたは二十五年前、あの山で一人遭難した。ちょうどみんなで幻覚をみていた時期だった。二十年以上もわすれていたけれど、でもあたしは思い出すことができた、あたしたちは。あんたはどうなの?』
「覚えてないわよ!」
 利菜は手紙を投げ捨てた。しかし覚えていたのである。佳代子の手紙は彼女の記憶も呼び戻した。朝礼台にのぼる、自分の姿が浮かんでくる。
 あれは無事帰ったことを、みんなに知らせる集会だと彼女は悟り、佳代子たちと自転車を走らす姿や、あの子たちと笑い合う姿を思い出す。あのころ――佳代子、紗英、新治、達郎、寛太の五人はいちばんの親友だった。今にいたっても交友がつづくほど、親密な友達だった。だけど、二十五年前に自分たちが抱えた悩みのことは、すっかり忘れていたのである。
 大人になって、昔のことを話し合うのは、幼なじみの特権だ。しかし、これまでに不眠症の話が出たことは一度もなかった。遭難のことも。幻覚を見たことも。
 彼女は再び外に目をやった。すると、二十五年前の子どもたちが、ずぶ濡れの庭に立っていた。六人の子どもたちが、雨に濡れながら。
 彼女は手紙を取り落とした。
「あんたたち、あんたたちも苦しんでたんだ……」
 と彼女は言った。彼女はこわごわしながら、ちらばった手紙をかきあつめる。外では雨が吹きしぶいている。しまい忘れたタオルが、風になびいている。子どもたちは一様に暗い表情をして彼女をみつめる。あの子たちが寄って来はしないかと、彼女は不安になる。
 二十五年前の佳代子が、子ども時代の自分のとなりに立っていた。おさげを編んで、そばかすを散らした顔の佳代子。二十五年もたつのに、ここにいる佳代子はあの頃とおなじ格好をしている。デニムのつなぎを着て、両手をポケットに突っこんでいる。何でも入れられるから、でかいポケットのついたのが好きで、寛太を殴るのが趣味だった。同じ県営マンションに住んでいた佳代子。兄弟が多くていつもめんどうを押しつけられるんだと、腹立ち紛れに愚痴をこぼした佳代子が、どんよりと濁った目をして立っている。
 あの頃、県営マンションにはあと二人の親友がいて、それが達郎と新治の兄弟だった。達郎は一つ年上で、リトルリーグのヒーローだった。高校のとき肩を壊して職人の道に進んだが、当時はプロを嘱望された逸材でもあった。そこにいる一同の中では、いちばん背が高い。ほお骨がぐりぐりと突き出て、佳代子にはホームベースとあだ名された。
 達郎のとなりに立つ、ちっちゃなネズミ男が新治である。二人の兄弟は同じTシャツを着ている。本が好きで、利菜が絵本を書くことを、いちばんに喜んだのが新治だった。のび太がかけるみたいな、まん丸めがねに水滴がつき、彼の目玉は見えなくなっている(あの奥には目玉なんてないんだと思って利菜はぞっとする)。
 列のはじっこで、すねたように口をとがらせている丸坊主の小僧が、寛太だ。小学生当時の寛太は、じいさんにいつも丸刈りにされて、それで坊主頭だったのである。彼の顔を流れる雨の筋は、子どもたちのなかでもいちばん多く太い。喧嘩っぱやくて、神保小では問題児扱い。今では立派に仕事をこなして、トライヤルウィークの生徒の受け入れだってやっている。
 反対端にいるのは、紗英だ。中学に入学すると同時に、急速に背をのばし、男の子たちにからかわれた背い高のっぽの紗英も、このころは利菜たちと頭を並べている。肩までの髪からしずくが垂れている。黒いフリルのついたお上品なワンピースを着てる。彼女たちがママゴンと呼んだ母親が、いつもそんな服を着せるのである。
「あんたもなの?」
 と彼女は言った。この中で町を離れているのは、自分と紗英だけだった。紗英は今ではスチューワデスになり、世界中を飛び回っている。結局ママゴンは、この子に足かせをつけるなんてできなかったのだ。線の細かった紗英も、人一倍の粘りをみせ、文字通りにあの町を巣立っていったのである。
 新治と達郎は、今では二人で木工房を開いている。木に関するものならなんでもつくってしまう、手作り工場を立ち上げたのだ。利菜がデザインを手伝うこともある。二人とも絵の趣味を知っていたし、彼女の腕をかってもいた。
 だけど、そこにいる子どもたちにとっては、まだ遠い未来の話だった。あのころは、大人になるなんて夢にも思わなかった。小学校生活のおしまいなんて、まだまだ考えられなかった。
 一同の真ん中にいるのが、利菜だった。小学五年生の彼女は、長く髪を伸ばしている。やせっぽちの脚にジーンズがぺったりとはりつく。まつげを通して雨が目にはいるのか、まぶたをしばたいている。
「あんたたちみんな……」と彼女は言葉を失う。「でも……なんでよ、なんでわたしたちはそんな目にあったの? どうやって解決したのよっ」
 気がつくと、彼女はいつにない行動に出ていた、幻覚に話しかけ、あまつさえ幻覚に近づこうとしたのである。あれは幻覚じゃないと、なぜとはしらない確信をもった。今まで見てきたものも、全部幻覚などではなかったのだ。
 あの子たちの足は、ぬかるみにめりこんでいる、影まであった。溺死女は髪を落としていった。自分のものだとごまかしたが、ちがう。彼女の髪はストレートなのにあの髪は縮れていた。旦那が他の女でも入れたんでしょ、と、彼女はあのとき笑ってごまかそうとしたが、そんなはずはなかったのだ。
 戸口のすぐそばまで来て、急に恐ろしくなり、利菜はサッシをあけるかわりに、カーテンを閉めた。ガラスに背をくっつけた。心臓が激しく鳴った。佳代子は記憶がないと言った。記憶が抜け落ちている、と、書いていた。利菜もまた、遭難の日々と、その後の記憶がない。思い出せないのではなく、その部分の記憶が、すっぽりと抜け落ちている感じだった。佳代子たちはなにかを思い出した様子だが、彼女には戻ってこないのだ……。
 そのとき、背中で声がした。ガラスに子どもの利菜が口をつけ、そっとささやいてくる。「両神山に戻るのよ……」
「帰りなさいよっ。あんたはあたしじゃないっ、あたしの友達なんかじゃない。あんたたちみんな……」
 みんな? みんな、何だというのだ? 幻覚なのか?
 彼女にはとても幻覚だとは思えなかった。だから、「偽物じゃない……」とそれだけを言った。ひどく正確な表現に思えた。
 鼻をすすりながら机に戻った。手紙をおいて、気が落ち着くのを待った。秀男が戻ってくれば、そんなばかなと一笑にふしてくれるにちがいない。幻覚に話しかけるなんて、馬鹿だなと言ってくれるに違いないと彼女は思ったのだが、読みかけの手紙はまだ目の前にあり、記憶は確かに戻ってきていた。
 利菜は紗英の心配もした。不眠症と幻覚があのころの仲間に起こっているのなら、あの子もおなじ体験をしていて不思議はない。
 利菜は佳代子の手紙に目をやり、「まいった。頭がいかれたのがあたしだけじゃないなんて」と額を抱えた。「頼りのあんたまでいかれてるとはね」
 佳代子の手紙を、読まずに畳んで物思いにふけった。そういえば、あのころはみんなが問題を抱えていた。佳代子には片親しかなくて、なのにその母親は娘も知らない男の子どもを産んだ。だから、当時は佳代子も白い目で見られていた。
 佳代子の母親は、情緒不安定なところがあった。機嫌がよいときはいいが、かっとなると娘に暴力をふるうのである。佳代子はいつも妹や弟をかばっていた。だから、母親の暴力はもっとも佳代子に向けられた。頬を張らしたり、体に傷をつくっていることがよくあった。そんなときは利菜も佳代子の母親に、憎しみを覚えたものである。彼女は考える。あの子はどうなんだろうか? あの子も母親を憎んでいたんだろうか?
 ガラス戸を、ドン! とはたかれた。子どもの頃の声で佳代子が叫んだ。「もちろん憎んでたわよ! あいつが嫌いだったんだ! 殺してやろうと思ってたんだ!」
「消えなさいよ! 佳代子はそんなこと思いやしないわ! あんたは佳代子じゃない!」
 利菜は、そちらを見もせずに言ったのだが、「ひどいよ……」と佳代子の傷ついた声が聞こえたときは、さすがに表に目を向けた。カーテンには人影すら映っていなかった。
 佳代子だけではない、新治と達郎の兄弟だって大問題だった。佳代子も利菜も、当時は自分たちよりあの兄弟に関心をもっていた。他人の問題に目を向けることで、自分たちの問題から、顔を背けていたのかもしれないが。
 尾上兄弟が、小学二年と三年だったころ、二人の両親が離婚した。母親が子どもたちをひきとったのだが、その二年後には再婚してしまった。新しい父親はとてもいい人だったのだが、達郎は大きくなっていたせいか、まるでなつこうとしなかった。ボロアパートに住む本物の父親を、しょっちゅう訪ねていた。泊まることもあるみたいよ、と、当時からゴシップ好きだった佳代子が話してくれたこともある。
 一方で新治は新しい父親になつくようになった。家族がうまくいくよう、新治なりに心を配っていたようで、そのせいか彼は他人の顔色をひどく気にする子供になっていた。兄弟は今でこそ同じ仕事についているが、あのころはうまくいっていなかったのだ。話もせず顔を合わせることもなく、互いにさけているようだった。別にどっちになつこうがかまわないと思うのだが、二人は子どもだったから、お互いにどう接していいかわからなかったようだ。その後、どうやってか知らないが、あの兄弟なりに折り合いをつけたわけだ。
 紗英はカナダからの帰国子女だったが、やはり両親がうまくいっていなかった。カナダにいたころは仲良くやっていたそうだが、工場が倒産し、家族が日本に戻ってからは、父親は家に寄りつかなくなっていった。あの子の母親は、娘にすべての関心をそそぐようになった。そうしないと、娘も離れていくというかのように。紗英を規則と塾で縛りづけにし、友達にすら口を出した。暴力こそふるわなかったが、ヒステリーで、言葉で紗英を傷つけた。
 両親が離婚したのは、寛太のところも同じである。寛太は鷹揚で男っぽいところのあるやつだったが、なにかのひょうしにひどくひねくれた面を見せることがあった。学校でけんかをしては、じいちゃんが呼び出されていた。利菜たちが彼の家に泊まりに行くようになってからは乱暴も少しは収まったが、あいかわらずのじいちゃん子で、母親にあまりかまっていないようだった。こどもが母親にかまうとは、おかしな言い方だが。
「あんたはどうなのよ……」
 子供の利菜の声が、すぐ近くでした。
「そうね、わたしも問題はあった……」
 彼女は悲しい気持ちで思う。子どもの頃はひどい貧乏で、あの町で住む最底辺のぼろアパートで暮らしていた。県営マンションにうつる前のことだ。中野区の克美荘というところにいた。父親はあまり働かず、職を転々とした。母親はいつも苦労していた。妊娠もしていた。
 彼女はいまでもあのアパートを思い出す。割れたガラスをテープで止めた窓、軋む床、暗い階段、そこに住む零細な、人、人、人。トイレは共同で風呂はなく、洗濯機は表にあり二階建てで、瓦屋根で、廊下は窓に接していて明るいがすきま風に底冷えがした。春よりも冬の木枯らしが似合い、日中の日差しよりも夜の暗がりが似合う。貧乏な学生が騒ぎ、おばさんたちは母親をいじめた。
「片桐さん……片桐さんにいじめられてた」
 片桐さんには、髪をきってもらった思い出がある。彼女が三つの時である。ざんばらの髪にされたのか、虎刈りにされたのか(まさかそこまでひどくないだろう)、今となっては思い出せない。けれど、母親が頭を撫でながら、泣いていたのを覚えている。学生たちが怒ったが、片桐には文句すらいえなかった。あのアパートでは、主のような存在だった。片桐の亭主はいい人ではあったが、嫁には文句も言えずに小さくなっていた。母親はあそこで流産をした。
 そのうち父親が県営マンションのくじをひきあて、暮らし向きは好転した。父親は仕事についた。二人は今も問題を抱えながら、あの県営マンションに暮らしている。
 だけど、あの年に佳代子の母親が子どもを産んだ。利菜の母親が信子という名前をつけた。生まれるはずだった、子供のために考えていた名前だった。そのせいか、夫婦の仲は再び冷めはじめた。利菜はまた克美荘にもどるのではないかと、恐々としたものである。
 彼女はまた思いだした。あの頃、母親は新興宗教にはまっていたのだ。何という名の宗教だったか?
 当時、彼女たちはそれぞれの問題を抱え、そのために結束を強くした。だれか問題を抱えた仲間をそばにおくことで、安心していたのかもしれない。あの子たちだけは本当の仲間だったが、集団で不眠症や幻覚にかかるなど、今の彼女には考えられなかった。手紙に目を落とし、佳代子が両神山と不眠症を結びつけたように書いているのを不思議に思った。
 手紙をひらく。ごくりと唾を飲みながら、続きを読み始める。
『当時の事件を覚えていたのは寛太だった。あたしたちは、少しずつ記憶を取り戻していった。あたしたちはまわりの状況も、二十五年前と似通っていることに気がついた。あのころも、神保町とまわりの町では、犯罪が多発していた。行方不明や、傷害事件がかなりあったし、それに両神山では殺人事件があった。あんたが遭難したときは、殺人犯にさらわれたと噂がたったほどだ。あの山で死体が発見されたのは、遭難の直前だったんじゃないかと、慎ちゃんは言っていたけど。
 ねえ、あたしたちこの話題を二十年以上も口にしなかった。子どものころのことは会えば必ず口にするのに、このことは話題にすらのぼらなかった。だって思い出すことすらなかったんだから!
 寛太が遭難事件を思い出したのは、今回もあの山で殺人事件が起こったからだった。亡くなったのは六十代の男性で、林の中で絞殺されていた。テレビでもちらっとやったし、新聞にも小さく載った。狭い町でのことだから自然に知ってはいたのに、あたしたちは四人で集まるまで、あの頃のことを思い出すことができなかった。
 それで、あの日、寛太のやつが言い出したのだ。両神山に、今から行こうと』
 手紙を持つ手がふるえた。彼女は指の震えにすら気づかなかった。佳代子たちは両神山に出かけたのだ。
 子どもの頃は、あの山にたびたびピクニックに出かけた。中腹には草原があり、そこへ家族ぐるみででかけた。草原にはアスレチックがあり、確か山道にはハイキングコースもあった。
 吐息を乱し、額の汗をぬぐう。
 さきほどカーテンをひいたので、部屋は薄暗くなっている。立ち上がって電気をつけると、部屋の戸口に誰かがいて彼女は悲鳴を上げたが、次の瞬間には人影は消えて、彼女は今見えたのは、野球帽をかぶった子どもの水死体だったのかと、推測をめぐらすばかりだった。
 すわりなおした彼女が目にしたものは、畳の上にできた水たまりだった。
 佳代子はあの夏に殺人事件が頻発したと書いてる……この幻覚もあの夏と関係があるのではないか。水死体を見たことがあるんだろうか?
 利菜は呼吸を整えた。冷や汗がひくと、また手紙に目を落とし、佳代子の打ち明け話にもどっていった。
『両神山には二十年間出かけてない。あんたの事件があってからは、一度も。子どもを行かせたこともない。あの山のことはずっと忘れてたのよ……。
 両神山につくと草原はすっかり様変わりして、ロッジがいくつも建ちならんで、いつの間にかキャンプ場になっていた。信じられる?
 ロッジはかなりでかく、小中学の林間学校のチラシが貼られている。記憶にあった場所とずいぶんちがうんでめんくらった。小川だけが、昔と同じとこを流れてた。流れに沿って石がそえられていたし、アスレチックも新しくなっていた。駐車場の脇には、でっかい管理施設も建っていた。子供のころはジュースも買えないって不満をもらしたものだけど、今では販売機もあるし、ジュースどころかビールもたばこも買える。食堂もできてたわ。
 平日のせいか管理所はしまっていて、話を聞くことはできなかった。あたしたちは草原をみてまわった。子どものころはだだっぴろく感じたけど、大人になってきてみると、狭くなった感じだ(本当は杉を切り倒して、丘を広げてしまったらしい)。
 新ちゃんはこう言ったわ。キャンプ場のパンフレットは前に見たことがあるって。だけど、両神山のことだとは気づかなかったし、行こうとも思わなかった。彼、アスレチックには興味あるじゃない? 達兄とくんで、神保小の校庭に寄付もしたよね。だから、見にいきもしなかったのは、不思議だって言っていた。あたしたちはロッジの間をぬけて斜面をのぼった。あたしはおまもりさまの蔓壁がなくなってるのに気がついた』
「おまもりさま……」
 彼女は肘をついて両手で顔をおおった。草原の上にある杉林いったいを、地元の人はおまもりさまと呼んでいた。
 林と草原の境界には網がはられていた。そこに低木と杉の木から垂れた蔓草が何重にもからみつき、分厚いカーテンのように、林の縁を覆っていた。彼女たちは見たままの印象から、「蔓壁」と名付けたのである。
 大人は子どもたちがおまもりさまに近づくのをいやがった。蔓壁は子どもたちを林から遠ざけるのに、格好の役目を果たしていた。あそこに近づくと、大人たちが大慌てで飛んできた。休日に人があふれかえるようになっても、林の縁にござを広げる人はいなかったし、林を切り倒して草原を広げようなどという、環境破壊団体もいなかった。奥には沼地があるという話だったし、まむしも出たからである。蔓草を刈りこもうとしないのは不思議だったが、子ども目にも、薄気味が悪かったのを覚えてる。
 佳代子はおまもりさまのことをひとしきりつづっていた。
『こどものころは草原がかっこうの遊び場だったけど、大人になって来てみると、あたしたちは怖くて仕方なかった。山にいるのはあたしたちだけだった。草原は静かだった。鳥の声がいやによく聞こえた。蔓壁がなくなったせいか、あたしにはおまもりさまが口をあけて待ちかまえているクジラに見えた。あんたには馬鹿代子と笑い飛ばして欲しい。誰が蔓を切ったのか聞いてみたかったけど、手近には人がいなかった。管理所にも人をおいてない。閉鎖されたわけでもあるまいに……。
 あたしたちは林に入ってみるか話あったけど、無人のロッジはなんとも不気味で、尻こみをするままに帰ってしまった。
 不眠症とあの山が関係あるのか、あたしにはなんともいえない。だけど、二十五年前のあんたの遭難と集団幻覚は、ときをおなじくして起こってる。
 寛太はあんたがあの事件のことは覚えてないんじゃないかと言ってる。手紙を書くのも反対してた。あんたまで不眠症にかかってるなんて、ばかげた話だと寛太は言った。あの人らしくはないけれど、そんなふうには考えたくもない様子だった。だけど、今まで音信不通だったこと自体、あたしにとっては不安だった。
 あんたの身になにも起こっていないのならいい。だけど、もしあんたの身にあたしたちとおなじことが起こっているんなら気をつけて欲しい。あんたの身に起こってるのは単なる不眠症ではないし、幻覚にもよくよく注意すること!
 どうにもならなくなったら電話しておいで。あたしたちはあんたの味方だし、なにが起こっているか理解もできる。もしかしたら、あたしの方があんたを必要としているのかもしれないけど。
 まわりがたとえ頼りにできなくとも、あたしだけは頼りにして欲しい。以上』
 読み終わると、最初のページを上にした。彼女は手紙をにらみつけながら、これは容易ならないなと考えた。佳代子は長々と書いているが、なんのことはない、これは警告の文面なのである。
 あんたはなにを思い出したの? と利菜は佳代子に問いかけた。事件のことを思い出すために山にいったはずなのに、手紙は核心にはふれないままにおわっている。
 何も思い出さなかったとは考えられない。佳代子は手紙の文面をこんな形で終えていたからである。
『最後に一つだけ。ひまわりは咲いてなかったわ』
 ひまわり? 草原にひまわりなんて咲いていただろうか?
 手紙を読み返しながら、彼女はこうつぶやいた。
「あの山でなにがあったのよ」
 佳代子の心配のほどが理解できた。電話をかけてこなかったのは、慎重に慎重を重ねたかったからだろう。そうでなければ手紙をよこすはずはない。
 利菜はこう考えた。佳代子のやつ、あたしも山に行くなんて言い出すのを怖がったんじゃないだろうか?
 利菜は殺人事件のことを確かめるために、置きためた新聞を取りに行きたかったが、なかなか。腰を上げるには勇気がいった。手紙を読む間も、見られている気配を、ずっと感じていたからだ。
 表にはぜったいに顔を向けないと決めていたが、居間の畳には、子どもたちの人型が、長く影を落としていた。電話が必要になるのはまもなくらしい。
 そうして、娘がもどってくるのを心待ちにしながら、彼女は立ち上がろうともせず、佳代子の手紙を何度も何度も読み返していった。
 そこに、隠されたメッセージがあるというかのように。
 今夜は、ますます、眠れそうになかった。

第一章 両神山にて

        三

  一九九五年 八月十三日〜十四日

 全てのはじまりは、一九九五年、八月十四日に帰着する。
 この時点で、すでに二人の子供が殺されていた。一人は斉藤秀幸という、神保北小学校の生徒で、もう一人はさくら幼稚園に通う、小野田美由紀という五歳の女の子である。
 学校では臨時集会が開かれた。子供の遊びは制限された。地区外への外出(おかしな言い方だが)の禁止、子供のみによる川遊びの禁止(前からだが)。
 この他、ジャスコなどへの立ち入りは、親同伴が義務づけられた。夜間の外出は厳禁で、見つかった場合、親が厳重に注意された。自治会による夜回りも始まった。
 殺人事件以外にも行方不明が二件あり(家出人の届け出を加えると、もう少し多くなる)、自殺が四件あった。外に出れば葬式に行き当たったし、町中を走るパトカーが、いつだって目を引いたころでもある。
 神保警察の人員はふだんの三倍にふくれあがったが、今年にはいって起こった殺人事件のうち、四件までは解決できていなかった。
 六件の殺人は、ここ十年、神保町で起こった殺人事件の総計よりも多く、また事件はこれで終わったわけではなかった。表面化されなかった事件もふくめて、神保町は誰にも気づかないうちに、東日本でもっとも事件の集中する犯罪スポットになりつつあった。

 あれはたしか八月十三日。終業式の日に、佳代子が「またウルトラな休みがやってきたね」と言ってから、三週ばかりが過ぎていた。
 その夏、彼女たちは、寛太の家で寝泊まりすることが多かった。そこでは寛太郎という風変わりな老人が、趣味で農園をやっていた。寛太郎は周囲の畑を全て買い取り、米や野菜をつくっている。
 彼の家は古い農家で、今は瓦屋根だが昔は藁葺きだった。作りは純日本風で、戸を開け放せば広々した一個の居間が出現し、雨戸を開け放せば、すずとした風が通り抜けるといった次第である。昔は牛を入れていたという、広い土間がいまだにあった。
 まわりには民家がなく、田園のなかに、ぽつんと家がある感じだ。
 神保町はそのころ、人口四万人ほどの小さな町だった。ジャスコはあったが、移転して大きくなるのは十年も先の話。あとはホームセンターが一軒、スーパーが二軒。商店街がまだまだ活発だったころの話である。
 その日、利菜は縁下にすわって、スイカの種を庭に飛ばすのに忙しかった。寛太の家は庭が広く、にわとりが放し飼いにされている。
 目前には畑があり、スイカかぼちゃに人参とうもろこし、ピーマンキャベツにイチゴに白菜と、闇鍋の勢いで植えてある。畑の向こうには一車線の道路があったが、通る車はまばらである。
 利菜たちは、町がいま断頭台の刃みたいに危険なことに気づいていなかった(なんとなく不気味な気配は感じていたが)。大人たちは町で起こった事件について、子供の前では話したがらなかった。むごたらしい悲惨な話が多かったし、こどもが殺されているというのが、大人たちが話題にあげることすら自粛する理由の一つだ。
 ともあれ、その夏子どもたちは暇をもてあましていたのである。
 今年は祭りも自粛ムードで、PTAは、保護者がいない場所での子供たちの遊びを(禁じきれるものではなかったけれど)禁じていた。小学五年生の利菜としては、寛太の家から種を飛ばして、鶏がつつくのを眺めているしかなかったのである。
 寛太の家は、町中からは離れた場所にあり、殺人事件などうそみたいにほのぼのしている。そのとき集まっていたのは、佳代子、利菜、紗英、新治の四人だった。
 寛太郎じいさんは耕耘機に乗ってどこかへ出かけ、母親はパートに出ていた。家の中では祖母の歌が豆の皮をむいている。古い着物を着て頭にはほっかむりをし、草花については一過言をもつ人だ。話好きの聞き上手だったから、こどもたちはみな、なついていた。
 その日、みんなは両神山について話し合っていた。寛太だけは、あの山に行ったことがない。
「あんた両神山にいったことがないなんて遅れてるね」
 種とばしが下手な佳代子は、真下に種をはき出しながら言った。佳代子は三月生まれの遅いきで、新治のつぎに体が小さかったが、クラスでは女子の先頭に立って、男子とやりあう質だ。どのクラスでも、女の子というのはいくつものグループにわかれるものだが、佳代子は誰にでも好かれる方だった。目下、幸田頼子がいちばんのライバルである。
「そんなもん、行かなくたっていいんだ」
 寛太は種とばしもせず、ひまつぶしに鶏を捕まえては、物干し竿に乗っけている。将来佳代子の旦那になり、この辺り一帯に自然農園を開いてやりくりする寛太も、このときはただのいがくり坊主である。ガキ大将というより、一匹オオカミタイプの少年だったが、女子が佳代子をかつぎだしたときは、寛太が担ぎ出されるのが常だった。佳代子は女の子のくせに、拳で寛太をぶん殴る(利菜は、母親とのうっぷんをはらしてるな、と思ったことがある。もちろん佳代子は寛太以外を殴ったりしないけど)。
 利菜が縁下に寝転がりながら、
「あの山はなかなかおもしろいんだよ。でっかい滑り台もあるし。ソリ滑りもできるしさ」
 といった。二十五年後には不眠症に悩まされるこの娘もこのときは発症しておらず、目の下にはくまもなく、若さと長髪をもてあまし、佳代子のあとについて回った。二人は幼稚園のころからのつきあいで、小学生ながら悩みをうち明けあい、息も合ってなかなかいいコンビである。
 彼女が言うソリ滑りとは、ふくろを重ねて丘の上から滑り降りる遊びなのだが、そのスピードと尾骨を岩で打つこともあって、なかなかスリルがある。両神山の草原にはキャンプ場こそできていなかったが、アスレチック施設はすでにととのっていた。滑り台は木製だが、滑走部にはステンレスを使用している。学校にあるちゃちな滑り台ではなく、三人ならんですべれるぐらい大きなものだ。幅だけでなく長さもあり、滑り終わるのに、とろい子なら五分はかかるしろものである。
 このように、両神山のアスレチックはなかなかの規模だった。子供たちが行きたがるのも無理のないことだったのだ。
 最近行ってないよね、紗英が物惜しそうに言った。彼女は四年のときの転校生だ。将来スッチーになるだけあって、なかなかの美人顔で男子に人気がある。転校したてのときは、幸田頼子にねたまれいじめをうけた。そこに顔をだしたのが、なんにでも首をつっこむ杉浦佳代子で、この野次馬は二十五年後もかわらない。佳代子と利菜は、幸田頼子の向こうをはった。頼子とはもともと仲がよくなかったが、このときの大げんかで、決定的に仲違いをしてしまった。
 三人の女の子はそれ以来の親友で、紗英が塾でがんじがらめの時はやっぱり首をだし、おばさんに叱られて泣いているときは、やっぱり口を出したりした。
 紗英を寛太の家まで引っ張ってきたのもこの二人で、紗英が他人の家に泊まると言い出したとき、ママゴンは火を噴いて(とは佳代子の表現である)許さなかったのだが、そのときは寛太郎が、得意の弁舌で説得した。
 紗英はカナダ時代は活発な娘だったが、環境の変化ですっかり大人しい娘に変わっている。しかし、寛太郎の家にいるときだけはのびのびとしているようだ。
 紗英のそばで黙りこくっているのが眼鏡ネズミの新治で、彼は両親が離婚しただけでもショックなのに、母親が今年再婚してしまい、二重にふさぎこんでいた。
 勉強もあまりできず、不器用で、そのうえ運動音痴でもあった。三拍子が、悪い方に揃っていたのである。先年までは達郎のあとをついて回っていたのに、その兄とも今ではうまくいかず悩める夏を過ごしている。この夏は、寛太郎のひらく朗読会が、彼の楽しみである。
 そして、一同のなかではなんでも言い出しっぺの佳代子が、やっぱりこのときも口火を切った。
「じゃあ、ひさびさに行こうよ。行きたくてしょうがなくなっちゃった。利菜のせいよっ。うんとこさ山の上から滑り降りたいよね。最近おもしろいことないしさ。ジャスコの屋上には入れなくなっちゃうし(屋上にはちょっとしたゲーム施設があるが、斉藤秀幸という少年の死体が見つかったのでは閉鎖も仕方がない)、行きたいなあ」
「行きたいよねえ」
「行こうよ、みんなでさあ」佳代子は流し目で、冷たい視線を寛太に送った。「寛太はばかだけど、じいちゃんには世話になってるし。連れてってやらなくもないよ」
「えらそうに言うない馬鹿代子」
「あんた、ほんとににくたらしいね」
 とはいえ、寛太家のお泊まりはとてもすてきなことである。みんなは農作業に手を貸すかわりに、寝泊まりをさせてもらっていたが、寛太郎がいるとなんでも遊びに早変わりしたし、農作業自体もなかなかに味があることだった。
 寛太郎は子どもだからといって手加減はしなかった、本格的な農業をしこんでくれた。寛太が母親に冷たくするのは困りものだが、じいちゃんとばあちゃんが間にいるし、自然農法でできた野菜をふんだんにつかった朝昼夕食は、なかなかうまかったのである。
 佳代子はその家での暮らしが好きだった。彼女の自宅は狭く、人口密度の高い都会みたいだ。寛太の家は、ど田舎みたいに懐が深い。五右衛門風呂なんて、入れる機会はめったにないし、薪で風呂をたくなんてすてきだ(屋根には朝日ソーラーがついているが、寛太郎は子どもたちのためにかまどを使ってくれる)。寛太郎が乗せてくれる耕耘機も、味なもんだ。
 利菜が、暑そうにうつぶせになり、脚を縁下に突きだしてぶらぶらさせた。一段下の踏み石に座る紗英が、そのつま先をつまんで遊びだす。
「行くのは賛成だけど、日曜まで待たなきゃね。父さんたちは夏休みないもん」と利菜が言った。
「なんで待たなきゃいけないんだよ」と寛太が利菜に訊いた。
「だって、車もないしさあ。親がついてないと遠くにいっちゃだめなんでしょ。終業式で言われたじゃん」
 と佳代子は言ったが、本当は両親が連れて行ってくれるか自信がなかった。今年はディズニーランドにも行けなくなった。というより、夏休みになってからというもの、みんなには出かけた記憶がとんとなかった。町に縛り付けられているような気がして、気味が悪かった。一同が両神山に行きたがったのは、そのうっぷんを晴らすためでもあったのだ。
 しかし、寛太は、
「両神山ぐらい自転車で行けらあ」
 みんなはしばらく話し合った。自転車で行くのなら大人は抜きだ。寛太の家に泊まると言ってあるから、山に出かけてもばれる心配がない。
 町で起こっている殺人事件のことを思うと、さすがにちょっと不安がったが、達郎に付いてきてもらうと言うことで一決した。達郎は小学六年生で、大人では全然無いのだが、利菜たちの感覚では準大人のようなものだった。理屈では誰も納得しない話だが、こどもは感覚で生きているから、親に黙っていくという罪悪感にはけりがついた。
 佳代子は母親にいつもひどい目に合わされていたから、黙っていくのには賛成だった。母親をだますことに、ちょっとした快感すら覚えた。
 利菜の方はこの夏、母親が宗教にはまりこんでいて、まだまだ家には帰りたくなかった。理解できないことを熱心に話されることぐらい苦痛なことはない。だいいち彼女は他の子供と同じで、聞くより話す方が好きだったのだ(佳代子が人気者なのは、みんなの話をよく聴くからだ)。
 両神山は自転車で行くには少し遠いが、サイクリングもたまになら悪くないな、とみんなが思った。紗英だけはこの秘密が母親に漏れはしないか不安がったが(たしかにあのおばさんの目玉は、どこにでも届きそうだとみんなは思った)、あのおばさんの心配をしていたら、指一本動かすのにも気を使わなきゃいけなくなる。
 新治は兄ちゃんが行くと聞いて、暗い顔を見せた。そのころ新治と達郎の仲は最悪で、なんとなく互いを避けるようになっていた。利菜と佳代子は、二人を仲直りさせるいい機会だと考えた。
 達郎はその日野球場にいた。一同はリトルの練習場まで達郎を誘いに行った。球場にきて、達郎を呼び出すと彼は野球場のはじからすでに飛び抜けてでかくなった体を、ゆったりゆたりと運んできた。
 佳代子は、あたしたちだけじゃ不安だし、達さん達郎兄ちゃんよ、あんたあたしたちだけに行かせて心配じゃないわけ? でも、父さんたちにはだまっといてよね、行くの行かないのと得意の弁舌で達郎を説得した。
 彼はしぶったが(規則をやぶるなんて大反対だった)、けっきょく最後には同意した。達郎だって本心では弟と仲直りがしたかったのである。
 後年になり思い返すと、一同が町に殺人が吹き荒れているこの時期に、自分たちだけで両神山に出かけることにしたこと自体が不思議なことだった。その意味では、おさそいは山に着く前からはじまっていたともいえるのだった。

 子供たちは翌日の早朝には町を出た。車通りは少なく、アスファルトは濡れていた。快晴で、国道には木陰とともに木漏れ日が落ちている。
 八時頃には山へとつづく上り坂についた。道の途中にあるT字路を右折すれば、草原までは上り坂がつづく。
 T字路のわきにはドライブイン愛宕がある。あたごの対岸には駐車スペースと休息所があり、利菜たちはジュースを買いこむと、道を渡ってベンチに腰をおろした。山道にはいるまえにいったん休憩だ。
 脇を流れる揖保川では、釣りや網掛けをしているおじさんたちがいる。男の子たちは河原に下り、石をほうってふざけはじめ、大人に向こうでやれと怒鳴られると、にやにやしながらまたふざける。
 佳代子はそれを眺めながら、三矢サイダーを片手に言った。
「疲れたよ。やっぱり車でくりゃよかった」
 佳代子がベンチにもたれかかる。机に脚をのせると、紗英にそのすねをたたかれた。
 利菜は、「しんどいんなら引き返せばいいじゃん。こっからは上り坂しかないよ」
「しょうわる女め」
「誰が性悪だよ、この馬鹿代子」
 利菜が言い返すと、紗英がケタケタと声をあげる。寛太たちが見上げたから、三人はあいそよく手をふった。
「やめてよね、寛太がいよいよ真似すんじゃん。あんただから我慢してるけどさ、あいつがそれ言ったら、あたしゃ絞め殺すよ」
「それ見てみたい」
 それから女の子たちは、男の子の様子を観察した。新治と達郎は互いに距離を置いているようだが、寛太が気を利かせて、二人にさかんに話しかけている。彼は前日、佳代子から二人の仲を取り持つよう、言い聞かせられていた。二十五年たっても、佳代子の尻に敷かれつづけることになる。
「今日は人が少ないね」
 紗英は駐車場をみた。休憩所のまわりにも人がいなかった。両神山には二宮町の方が近く、その町からは自転車で来る子たちが多い。今日はその姿もなかった。
 両神山のある方角を見た紗英は、ぞくりと身を震わせる。理屈ではない怖気を感じた。草原にねっころがって、風に吹かれるのは気分爽快だが、今日はそんな気分にはなれない気がした。
「そりゃ平日だからね」
 佳代子はすまして気にも止めなかった。大人たちの注意を思い出すと、不安が胸にきざしたが、考えないことにした。少なくとも、そのときは。

        四

 ふざけながら自転車を押し押し、山をのぼると意外に時間をくうもので、草原の駐車場に自転車を止めたときには、時刻は十時近かった。
 車は二台あった。親子連れなのか、小さな子どもたちの歓声が聞こえた。
 青葉はすでに陽に焼けていたが、風が渡って涼やかだ。
 草原のアスレチックは国村という老人が、ボランティアで作り上げたものである。
 三年前、国村が奇妙な情熱をもってこの事業にとりくみだすと、周囲はきちがい扱いをした。ところが、国村は大工だったらしく、草原に椅子やテーブルを置くと、かなり立派な吊り橋や滑り台をつくってしまった。草原の下の溜池には、昔からブラックバスをねらって釣り人が集まっていた。彼らはアスレチックがととのいだすと家族を連れてくるようになった。
 草原までのじゃり道がアスファルトにかわってからは、休日の人出は相当な数にのぼりはじめた。日曜大工の片手間にアスレチックづくりを手伝う男親も多くなった。国村は、この一年前に二宮町から表彰されたのだが、そのときにはキャンプ場の計画が進められていたのである。二十五年後には丘はさらに広げられ、アスレチックは解体移動され、ロッジが景観をしめるようになるのだが、この当時のアスレチックもかなり充実したものだった。
 その日、夏休みにしては、草原には人影が少なかった。利菜たちは事件の影響だと考えた。隣町の二宮町でも、同様の事件は起こっていたからである。
 彼らは草原の小道をのぼっていった。山草が道を彩り、吹き上げる風が、疲れた体に心地よかった。
 吊り橋の下にシートをひろげ、自分たちで用意したお菓子と、寛太の母親が用意した弁当を食べた。ちなみに寛太は母親に誰にも言うなよとおどしをかけ、佳代子に頭をはりとばされた。母親は子どもたちだけで行くのを心配をしたが、このところ息子は気むずかしくて(たぶん寛太は、寛太郎を尊敬するほどには、母親を尊敬できなかったのだと思う)、話をするのも難しくなっていた。それに、なんでも禁止する学校側のやり方には、反対でもあったのだ。
 昼飯まえなのに、寛太はがつがつ食い始め、佳代子がみとがめた。
「少しは残しなよ。帰りだっておなかは減んじゃん」
 寛太はポケットの小銭を叩いて気にもしない。
「あたごで、うどん食うからいい。金はあるもんな」寛太はサンドイッチを食べながら、丘の林に目を向けた。「ほんとにへんな蔦が生えてるな」
寛太の目は、丘の上に向けられている。
 草原の先は杉林が山頂までつづいている。林の縁には防獣ネットをわたして入れないようにしてあった。蔓と低木が網にからみつき、人の進入を阻止している。
 蔓草のネットを利菜たちは蔓壁と呼んでいる。その一帯は雑草も茂り放題だ。ネットにからみついた蔓草がじゃまをして、ここからでは林の奥はよく見えない。奥には沼地があるそうで、まむしも出るという話だった。大人は、子どもたちが蔓壁の網を超えるのをいやがったようで、立ち入り禁止の看板を立て、草むらの周囲に杭を打ちこんだ。
 ロープまで渡してある。
「秘密基地みたいだな」と寛太は言った。
「蔓壁だよ」利菜がサンドイッチに手を伸ばす。
「おまもりさまだよ」佳代子が、剣呑な目つきでコーラをのみほす。「あんた、あそこには近づいちゃだめよ。探検すんのもなしっ。まむしもいるしさ」
「お化けも出るって?」寛太はお茶を飲む手を止める。「あほくさ」
 彼はコップの残りを雑草に与えはじめる。
「あんたもったいないことやめてよね」と佳代子が言う。「のどが乾いてもあんたにはなんにもやんない」
「いらねえよ。ぶさいくのお茶なんか」
 水筒をしめ、口元をシャツでぬぐった。食事は終わりのようだった。
「風があってよかったな」
 達郎が言った。この面子の中では、引率者のようなものだ。久々にリラックスしているらしく、額のしわをほどいている。
「たっちゃん、あの林まで行ってみようぜ」
 寛太が言った。達郎の野球の腕をみこんでいるので、この六年生の言うことはなかなか聞いた。
「いくわけないじゃん。一人で行けば」
 佳代子は枝を手にすると、地面にはえたおおばこを、乱暴にはらいとばした。
「今日は国村さんいないのかな」
 新治が言った。国村はソリ滑りをするこどものために、米ぶくろを貸し出していたから、今日は当てがはずれてしまった。
 その夏、国村は両神山自体にいないようで、姿を見る機会があまりなかった。佳代子は国村さんがいないなんておかしいと思った。両神山にきて国村の姿を見ないことは、まずないと言ってよかった。
 国村以前に、今日の山は人出がなかった。しばらくこないうちにアスレチックは数をふやしていたが、下の溜池でブラックバスを狙う大人たちの姿もなければ、平らなところでベースボールをやっている子どもたちの姿もない。
 みんなは、親にも言わずに自分たちだけできたのは、本当はまずかったんじゃないかと思い始めた。
 佳代子はそのことも気にして、
「国村さんがいたら、ぜったい止めるよ。あの林はほんとにあぶないんだから。誰も手入れしてないって言ってたし、まむしもいるもん」
 そういえば、おまもりさまの幽霊話も、たいはんは国村から仕入れたものだった。
 国村は怪談の名人で、話は細部まで真にせまっていた。
 佳代子はその手の話が大嫌いだった。寛太の冒険心に蓋がしたくて、大人たちから聞かされた怪談のたぐいを話して聞かせた。それは子どもたちをおまもりさまから遠ざけるための、ちょっとした作り話ではあったが、林の不気味さが話の裏付けに一役買っていた。
 子どもたちは食事も忘れて、お化けの話に夢中になった。
 利菜は蔓草に食べられた子どもの話を。佳代子は人食い鬼の話をした。達郎は迷って死んだ子どもの話をしたし、紗英は底なし沼で巨大な手にぺしゃんこにされてしまうという話をした(国村が話すと内臓の飛び出すさまがなかなかリアルだったが、この子はそのたぐいの話を大幅にはぶいていた)。新治のは大男に魂を抜かれる話(ネズミ男の新治がぐるぐる眼鏡の向こうで目を見開いて語るとなかなか真に迫っていた)。
 子どもたちの大半がこんな話を信じていなかったし、だから、おまもりさまに探検に行く男の子たちもときおりはいたのである。
 彼らはおっかない目にかなりあったし、怪我もした。林の中は誰も手をつけず、荒れ地のようになっていたからだ。それに帰ってこなかった子もいた。達郎が切り出した、迷って死んだ子どもの話は、つまりほんとうにおこったことなのである。
 寛太はその手の話が大好きだった。肝試しに墓の卒塔婆をひっこぬくようなやつだ。その卒塔婆で、佳代子の背中をつっつくようなやつだ(あのとき、佳代子はちびったんじゃないか、と利菜はおもっている)。
 こどもたちは国村のような雰囲気もだせず、声色もつかうことができなかった。
 寛太は、女の子と新治が本気で不安がったので満足だった。
「そんなのいるわけねえな」勝ち誇ると自慢げに鼻をこすった。「そんなお化けがいたら、こんなとこでピクニックなんかするもんか。あっほくさ、おまもりさまだって? ぜんぜん怖くないね、そんな名前」
「わたしがつけた名前じゃないよ」佳代子は枝を投げ捨てた。「怪談がどうこういうんじゃないよ。あの林ってほんとに危ないもん。あたしたちだけで来てるのにさ、けがしたらどうすんの? 寛太、うちらのかあさんになんていうつもり?」(佳代子は紗英のおばさんになんていうつもりと思ったが、それは口にしなかった)
 寛太は怒ったように言った。「なにいってんだ。おまえはほんとに馬鹿だよな。おまもりさまが怖いんならそう言えよ」
「怖いよ、悪い」と佳代子はむきになって寛太をにらむ。「でも、お化けの話が怖いんじゃない。あの林じたいが嫌いなのよっ」
利菜と紗英はうなずいた。佳代子の言うとおり、おまもりさまは不気味な林だった。
 林自体は大きくないのに(山自体がさほど高くない)、鬱蒼としたジャングルを思わせる。近づくとじめじめとしけっているし、沼があるというのも本当かもしれない(国村の話の通りなら、底なし沼のはずだ)。
 みんなは、なんとなく黙りこんで、おまもりさまと呼ばれる林をみつめる。
 みんながそんなふうにおまもりさまを特別視するのは、大人たちが本気で心配していたからだった。林に近づくと親が飛んできて連れ戻したし、なによりも大人たち自体があの林のことを気味悪がっていた。
 利菜がこう切り出した。「はじめちゃんって知ってる? 三年生の子よ」
「知ってる。鼻水垂れでしょ」佳代子は自分のおさげで鼻をこすっている。
 利菜はうなずいた。「鼻水は垂れてるね。でもあの子は馬鹿じゃない」と彼女は言った。「あの子たち、四月に林に入ったんだ。はじめちゃん、足首をつかまれてさ、転んだんだって。手につかまれたって言ってた。他の子も怪我したんだ」
「モグラがほった穴にはまったんだ」寛太が言った。「どんくさいよな。おっかながるのがいけないんだ。足首をつかんだのだってさ、どうせ木の枝かなんかだよ。それがへんなもんにみえたんだ。そいつは洟垂れじゃなくて、ヘタレだね――いいか、俺、いい話し教えてやるよ。これじいちゃんに訊いた話だから、全部ほんとだ。いっとくけどじいちゃんはヘタレじゃねえぞ」と寛太は断った。「じいちゃん戦争でビルマにいっただろ。前線ってとこで(寛太は前線を地名だと思っている)逃げ回ってたんだ。前線を下げてたんだって(この意味はいまだによくわからない)。じいちゃんは度胸があるけどさ、お化けもなんもこわがんねえもんな。おれ、子供んとき(彼はいまでも子供だが)幽霊屋敷でさ、こんにゃくになでられたときはさすがにびっくりしたけど、じいちゃん笑いながらこんにゃくつかんでるもんな。まいったよ。でも、そういうじいちゃんなのにさ、ビルマじゃただの木が敵にみえたっていうんだ。じいちゃんはそいつを撃とうとしたんだ」
「撃ったのかもしれないな」
 達郎がおごそかに言った。寛太が祖父のことを熱心に話すので(寛太郎は彼にとってのヒーローであり、寛太が度胸があるところを見せよう見せようとするのは、寛太郎にあこがれてのことだった)おもしろがってもいたが、寛太郎に対しては、みんながそれぞれに畏敬の念を抱いていた。
 寛太郎はどこか人と違っていた。おもしろい、いい人なのだが、なんとなく迫力のある人だった。寛太郎の世代なら、あの人は人間の出来が違うな、とでも言ったかもしれない。
 寛太郎はどんなときでも人を和ませるのが得意だったが、同時に誇り高い人間でもあった。彼には統率力があったし、いつもごく自然なかたちで人を従わせてしまうのだった。寛太郎はその人生で学んだ、独特の哲学で子どもたちを教育した。人見知りする紗英でさえ、寛太郎にはなついていた。紗英の母親ですら、寛太郎が出ていくと、いつものヒステリーを起こせなかった。寛太郎はいつも道理をもって話したから、ママゴンもそうやすやすと反駁はできないのだ。
 寛太郎は算数は苦手だ。でも、どう振る舞えばいいか、どう振る舞えば立派なのかを教えてくれる。こどもたちはふだんから彼に接してその影響を受けていたし、なにより寛太郎のことはみんなが好きだった。寛太郎は子どもの目から見ても信頼のできるリーダーだった。
「撃ったかもな」達郎に向かって、寛太はうなずいた。「でも、ほんとに運の悪いやつらは、仲間同士で撃ちあったって言ってた」
「そういうこともあるかもね」佳代子は気がなさそうだ。ちょっと泣き出しそうなぐらいしょげている。
「うそじゃないぞ。じいちゃんの肩、鉄砲の穴があいてるだろ」
「知ってる。まだ弾が入ったままだって言ってた」と利菜が言った。
「うそに決まってるよ。弾がはいってたらあんな器用に手は動かせない」
 佳代子が言うと、寛太は、
「ほんとなんだ。じいちゃんの手ときどきしびれるもんな。これ、おれが言ったっていうなよ。ほんとここだけの話だ。じいちゃんはさ。ほんとは左利きだったのに、今は右利きになってるもんな」寛太は秘密をもらすときの顔をして、「あれは味方に撃たれたんだよ」
「ひえ」新治が肩をすくめた。
「すげえな」と達郎が言った。
 寛太はキラキラした目で、「じいちゃんはいろいろ体験してるんだ。味方の手榴弾がさ、近くで破裂して吹っ飛ばされたって言ってた。これ、すごいだろ?」
 佳代子は眉をしかめた。「すごいけどさ、それっておまもりさまと関係ないじゃん」
「だからさ、ビルマの山奥ってすごいジャングルなんだぞ。それにくらべたら、あんな林たいしたことないんだよな」と寛太は自分がジャングルに行ったみたいに言った。「じいちゃんはな、血まみれで三日も森んなかでうめいてたらしいんだ」
「ふっとばされたときにか?」
 達郎が訊いた。
 寛太はうなずいた。「手榴弾でやられたときだ」
 達郎は感心した。彼はリトルでキャプテンをつとめるような少年だったから、みんなより大人びていたし、お化けの話など全く信じていなかった(だけど、あそこに行くと漆にかぶれれるのはほんとだ)。寛太郎のことは素直にすごいと思ったのである。
「よく助かったなあ。オオカミや熊にやられたかもしれないぜ。ビルマなら虎もいたかもな」
 と達郎は言った。
 みんなは去年学校でみた、『ビルマの竪琴』という映画を思い出した。子供にとっては難しい内容だったし、細かなことは忘れてしまったが、切々と心に響く、いい映画であったことは覚えている。映画の登場人物と、若いころの寛太郎を重ねてみたりもした。
「そうだろ? だから、おれ、おまもりさまのお化けはほんとかって訊いたんだよな。そんな不気味なとこならさ、おまもりさまより不気味だとおれは思うんだよ。じゃあ、おまもりさまにお化けが出るぐらいなら、ビルマにはぜったいいるよなって思ったもんな」
「じいちゃん、なんて言った?」利菜が訊いた。ちょっと興味をそそられたのだ。
「たぶん、うそだろうなって言ったよ」
 寛太は言ったが、じいちゃんの言葉にはつづきがあった。あそこには近づくんじゃないぞ、と寛太郎は言ったのだ、おかしなことが起こる場所はほんとにあるからな。でも、寛太はそのことを意図的に黙っておいた(寛太は自分でも気づかなかったが、心の中にしのびこんだ誰かが、その言葉を封じたみたいな感じがした。今まで味わったことのない奇妙な感じだったので、彼は顔をしかめて黙りこんだ)。
 佳代子が、「たぶんじゃん。じいちゃん、たぶんって言ったんじゃん。ぜったいなんて言ってない」と言うと、利菜はふくれた。「そんなのぜったいとおんなじだよ。でも寛太が言うことなんか信用できないね」
「おれはうそなんか言ってない」
 佳代子と寛太の間で、言った言わない戦争が勃発する。
「やめろって」達郎が口をはさんだ。「おまもりさまになんか誰も近づかない。今日は大人が少ないからな。国村さんもいないみたいだし」
「それってほんとにあぶないことがあるみたいな言い方だよ」
 利菜は言った。国村さんがいないのがいちばん不安だよ、と佳代子は思った。
 国村はひょうひょうとした老人で、どこかしら寛太郎に似ていた。寛太郎にくらべると人間に重みが足りなかったが、行動的で、山を行楽地に変えることに、凡人ばなれした情熱を傾けていた。小さなアスレチックは独力でつくったし、巨大な物になると、町役場までおしかけて人出を集めてくる。怪談話を思い起こすだけでも、なかなかのアイディアマンだった。
 達郎は二人を見た。「そうだよ。お化けなんかいなくたって危ないことはあるんだ。だから、おまもりさまの話はもうなしだ。いいな」

        五

 それからみんなは氷鬼ごっこをして遊んだ。それは鬼ごっこに特別ルールをくわえたもので、鬼がみんなを追いかけるという点では同じだが、逃げ役が「氷」というと、鬼はさわれなくなってしまう(氷になるときは胸の前で腕をくむ)。
 氷になると、誰かがタッチしてくれるまで、その場から動けなくなる。氷になった友達を救出しなければならないが、鬼も身を隠したりして交代のチャンスをねらっており、なかなかスリルのある遊びだった。足が遅くても参加しやすく、小学校では人気があった。
 アスレチックのまわりで、鬼の寛太が足の遅い新治をおいつめたが、あと一歩のところで新治は氷になった。寛太はちくしょうと悔しがり、新治のまわりをくるくる廻りながら、みんながどこにいるか観察した。
氷になりそうな仲間がいると、救出にむけて配置につくのが常である。
 草原にはでっかい岩がいくつかそのまま残されているが、利菜はその裏に隠れていた。水っぽい草地のかげから、佳代子に合図を送った。鬼は「氷」のそばをあまり離れたがらないから、救出には誰かがおとりになる作戦が多かった。
 新治が氷になったのは、滑り台のすぐそば。みんなが隠れて近づくのには絶好の場所だ。彼なりに必死になってそこまで逃げたのだ。
 達郎が滑り台の上から顔を出した。
「降りてこいよ、降りろよばか達」
 と寛太が挑発したので、達郎は大笑いした。紗英が坂の下からこそこそと近づいたが(この子は素直すぎておとりがあまりうまくなかった)、寛太はすぐにそれと気づいた。達郎が滑り台の上に行ったのはまったくうまかった。飛び降りればタッチはすぐだから、寛太は目が離せないのだ。
 利菜は岩の後ろを飛び出し、息を弾ませながら柱の蔭にとびこんだ。新治が近くなり、寛太からは死角になる。このように鬼にさとられないよう行動するのも、氷鬼の醍醐味のひとつだ。
 利菜は手振りと目振りで佳代子と連絡を取り合った。二人は二方向から新治に近づいていった。佳代子が草をかき分ける音でおとりになった。寛太が気をとられたすきに、利菜が走り寄り、新治にあざやかにタッチをした。
 利菜たちが氷鬼に興じているあいだ、草原からは最後に残った家族がせきたてられるように帰っていった。
 父親は遊園地行きをさけるために、こどもたちを山につれてきたのだが(飲み会がたたって小遣いはほとんど残っていなかった)、今ではそのことを後悔していた。大人しく妻に謝って、遊園地に行けばよかった、と思った。
 彼は、いわゆる霊感の強いタイプで、金縛りにはたびたび合う。山の雰囲気は、金縛りにあうときの感覚に、とてもよく似ていた。彼はもともと両神山が好きではなかったが、今日の山はいっそう不気味だ。国村が来てからは、かっこうの行楽地になったが、子どものころは神隠しや行方不明の話など、聞こえの悪いうわさでいっぱいだった。
 家族を車に乗せるとき、草原にいる子どもたちに気がついた。が、その姿はすぐにアスレチックの蔭にかくれてしまった。車は他に停まっていないし(そのことが彼に帰宅を決意させたのだが)、みまちがいだろうと彼は思った。
 確認もしなければ、声をかけようとも思わなかったし、注意しようとも思わなかった。そんな考えすら、抜け落ちていた。
 彼は最後まで駐車場に止まった自転車に気づかなかった。
 車のなかでは子どもたちが泣いていたし、妻は文句を言い通しだ。
 ――みろ、みんな逃げかえっちまって、残っているのはおれたちだけだ。
 そんな考え自体が、いっそう不気味で、急いでバンに乗りこんだ。
 早くおまもりさまから離れたかった。一刻も早く。
 そして、草原では、子どもたちの姿が草場に消えた。

        六

 子どもたちは、最初のうちは大人しくアスレチックのまわりで遊んでいた。氷鬼はだたっぴろい場所でやるよりも、入り組んだ場所の方がおもしろい。寛太は滑り台の頂上に陣取ると、腰にさしたペットボトルの水を口から吹いて虹を作った。利菜と紗英は隠れているすきに花輪をつくっていたが、そのすきに鬼にタッチされてしまう始末だった。
 彼らはビニールボールをぶつけ合ったりしてふざけていたが、自分たちが、少しずつ丘の上を目指していることには、気づいていなかった。
 当時、アスレチックからおまもりさまの林までは、二十メートルばかり空間があった。国村はその空間を草刈り機で手入れしたうえ、草場のふちに杭をうちこみ、念入りにロープを渡していた。ロープの向こうは草むらになっている。その奥にあるのが、例の蔓壁だ(蔓壁があり、草むらがあり、杭とロープがあり、そして草刈りで手入れされた空間が、アスレチックまでつづいている)。
 草むらの中央には看板が立っている。書かれている文字は、「この先立ち入るべからず」。
 利菜が、林の杭がみんな引き抜かれていることに気がついたのは、自分たちがいつのまにか走り回るのをやめて、「蔓壁」の前に並んでいたからだった。
 利菜は驚いて、となりに立つ佳代子の肩をゆすった。佳代子も驚いてまわりを見回す、居眠りでもしていたようなそぶりだった。佳代子は紗英をゆりおこし、利菜は右隣の達郎を、達郎は寛太を、寛太は新治をゆりおこした。
 みんなはおまもりさまの杉木立を呆然とみつめる。これほど蔓壁の近くに来たことはなかった。蔓壁はもっと分厚いものだと思っていた。おまもりさまが覗けるとは知らなかった。蔓と網の隙間からは、林の奥がほんのり見えた。
 蔓壁との間には、うっそりとした草むらしかない。
「いつのまにのぼったんだ?」
 達郎が誰にともなく訊いた。誰も答えなかった。
 利菜は考えた。おまもりさまに入った子どもたちのうち(無事にもどってきた賢明な子どもたちのうち)一人はこんなことを言っていなかっただろうか――あの林に引き寄せられたって。いつのまにか入っていた……って。そんな話を、一度だが、聞いた気がする。
 となると、入る前に目を覚ましたのは幸運だったわけだ。
 杭のあった場所には、すすきが長くのびていた。草原から風が吹き上げ、そのすすきをゆらしている。子どもたちは顔を見合わせた。国村が立てた看板は、ひん曲がり、ススキのかげに隠れている。この間までは(そんなに昔じゃない)ニスをぬられて光っていたのに、いまでは朽ち果て、虫食いだらけになっている。そこだけ時間がたって、風化してしまったみたいだった。看板だけが年をとったみたいに。
 国村が書いた文字は見えない。
 利菜には別の言葉が書いてあるように思えた。
 みろよ……達郎が地面を指さす。ススキの一角に日本手ぬぐいが引っかかっている。国村さんのだ、と言って佳代子が手を伸ばし、利菜がとめた。
「なんでわかんのよ。誰のかなんてわかんないじゃん」
「あんなの持ってんの、あの人ぐらいしかいないよっ」
「そんなのわかるもんかっ」
 と利菜は言ったのだが、国村さんのものだとは彼女にも思えた。佳代子にはあの手ぬぐいに手をふれてほしくないと思った。茶色のシミができていたからだ。
 血だろうか?
 あんなのただの手ぬぐいだ、達郎は思った。彼はみんなを寛太郎の家まで送り届ける義務があった。この面子のリーダーだし、寛太郎には今朝、みんなを頼むぞと肩をたたかれたばかりだ。
 達郎が言いつけを破ってまで両神山行きを決意したのは、寛太郎が反対しなかったからだ。達郎にとって親や先生が本部長なら、寛太郎は警視総監ぐらいにえらかった。本部長より警視総監の言いつけを優先するのは、大人も子供もかわらない。じっちゃんの期待は裏切れない。達郎はみんなに下まで降りようと言おうとした。もう昼前だ。お菓子を食べに降りてもいいし、もう帰ってもいい……っ。
 蔓の向こうから声がしたのは、そのときだった。「佳代ちゃんかい?」
「国村さんの声だ……」
 佳代子は呆然と言った。
 利菜は国村がおまもりさまにいるのはおかしいと思った。大人はおまもりさまに行かない。行くのは馬鹿でむこうみずな子どもだけだから。
 利菜は佳代子に向かって言った。なんとなく網の向こうには声をかけられなかった。国村は姿を見せないし、声の調子もいつもとちがった。暗い、重苦しい声だった。
「うそだよ、なんでおまもりさまにいんの? 網の向こうにいんのっ?」
「きっと入っていいんだよ」佳代子の目は輝いて、頬は赤く染まっている。
「そんなのおかしいよっ」
 達郎が利菜の肘をとった、新治には左手を、紗英には腰を押された。みんな、いつのまにか彼女のそばに回りこんでいた。利菜はやめてよと声をかけようとしたが、誰も自分と目を合わせないので声をつまらせる。
 彼女は恐ろしくなり、達郎の肩にかみついた。肉に歯が食いこむと、達郎が悲鳴を上げ、新治と紗英がぱっと離れた。
「なにしてんのよっ」
 佳代子が言った、利菜は言い返した。
「そんなのこっちのせりふだよっ。悪ふざけのつもりならこっぴどい目に遭わせてやる!」
 紗英は泣き声を出した。「ねえ、わたしたちなにしてんの? いま、利菜のこと、おまもりさまに連れてこうとした?」
 みんなは黙りこんで林を見返した。林の奥を見ようとしたが、その光景はビデオの写りが悪い時みたいにちかちかしている。じっと見ていると、頭がおかしくなりそうだった。
 みんなは殺人事件のことを思い出し、駐車場にパトカーがサイレンを鳴らして集まってくるのを想像した。神保町では、その年、そんな光景をよく目にしていたから、みんなが連想したのも当然だが、それが未来の――それも近い未来の光景だとは、誰も気づいていなかった。
「もう帰ろう……」
 新治がこわごわ言って身を返すと、急に突風が吹きつけてきた。彼は動きを止めた。
 草原には人がいなかった。アスレチックは無人だった。駐車場から、大急ぎで車が出ていくのが見えた。達郎が、震え声で、
「ここにいるのはおれたちだけだ」
「変な言い方やめてよっ」
 佳代子が小声で言い返した。利菜も帰りたかったがそうもいかなくなる、国村がこう話かけてきたからだ。
「ちょっと助けてくれないかっ」
 佳代子は、みんながびっくりするぐらいの速さで林に向きなおった。
「どうしたのっ?」佳代子は半べそをかいている。「国村さん、おまもりさまに近づくなって言ったじゃん。あたしたち下に降りるよ」
「待ってくれないかっ。助けてくれっ」
 彼女たちは顔を見合わせとまどった。助けてくれとは自分たちに言っているのか? 国村はいつも助ける側だ、それに助けるには林に入らなくてはならない。
「だから、なにがあったのよっ」
 佳代子が訊いた。
「国村さん、怪我したの?」
 利菜も訊いた。風はいよいよ子どもたちにむかっておしよせ、ススキを吹き流し、網にからまる蔓をはらいとばした。うずくまる人影が見えた。国村は座りこんでいるようだ。返事はなかったが、みんなは怪我をしたんだと思いこんだ。
「どうしたらいい?」
 佳代子が言うと、みんなは年長者の達郎を見た。達郎は、草原に人がいないだけじゃなく、ここには大人がいないんだということに気がついた。もちろん国村をのぞいての話だが。その国村は怪我をしてる。達郎は、その場の責任が、石みたいにのしかかってくるのを感じた。
 彼は額に手をあて、うろたえを隠そうとした。
「けがをしてるんなら、人を呼ばないと」達郎は独り言のように言うと、林にむかって怒鳴り声を上げた。「国村さん、大人が誰もいないんだよ! おれたち親と来てないからっ。寛太、下まで降りて人を呼んできてくれないか」
「待ってよ。国村さんほんとに怪我したの? 大けがなの?」
 利菜が訊くと、達郎は「わからないよっ」と叫んで答えた。
 風がうなりを上げて、草や木立をゆさぶった。達郎が大声を出したのは、不安なのはもちろんだが、風がすごい勢いで渦を巻いていたからでもあった。
 紗英が、「国村さん、歩けないのかな?」と訊くと、佳代子が手ぬぐいを指さした。「見てよ……」
 手ぬぐいは、先ほどと同じくススキにかかったままだった。ススキとともに、右に左に揺れていた。だけど、今では鮮血がしたたり落ちている。さっきは茶色の染みに見えたのに、今は真っ赤になっている。血が新しくなったみたいに。
 利菜も佳代子も、さっきは乾いていたと思った。佳代子はさわろうとまでしたから、みまちがいとは思わなかった。だけど、二人は、血を見たショックで、深くは考えなかった。きっとみまちがいだと、遠かったからみまちがえたんだと利菜は思った。
 ススキの壁を越して、国村が言った。「ここから出してくれないかっ」
「じゃあ、自分で出られないのねっ」
 佳代子が訊いた。つかまっとるんだ、と国村は言った。みんながその意味を深く考えないうちに、草場からは血が流れ落ちてくる。
 達郎は思った。うわあ、こいつはびっくりするぐらいの大けがだ。達郎は、そばの枝を素早く拾って、ススキをばしばしと叩き始めた。寛太も同じことをはじめた。
 寛太は今日はじめておまもりさまの蔓壁をみた。あのときはススキなんて生えていなかったのだが、誰かが大けがをしているときに、そんな疑問をはさむゆとりなんてあるだろうか?
 二人は一心にススキを叩き続ける。達郎が首を伸ばして、ススキの中を覗いた。
「なにしてんのよ」佳代子がこわごわ訊いた。
「マムシを追っ払ってるんだ」達郎は答えた。
 利菜が、「国村さんとちがうんじゃない……」と言った。国村も年寄りだが、声の主はもっとずっと年寄りに聞こえた。声は……単に古びて聞こえた。遠くからか、あるいはとんでもない大昔から響いてくるみたいに。
 達郎は怖かった。だけど、どうしてもおまもりさまに近づかなくては気がすまなくなっていた。こんなの変だと心の片隅では思ったが。だけど、町で殺人犯が野放しになっているのはほんとだし、リトルのコーチたちが連続殺人の可能性について話しているのも知っていた。国村さんがそいつにやられたんじゃないかと思うと、気が気ではなかったのだ。
 達郎は枝を伸ばしてススキをかき分けると、まむしがはいずっていないことを確かめた。振り向くと仲間の確認を待った。
 寛太がうなずき、新治がうなずいてめがねを上げた。女子たちは、手をつなぎ合っている。
 寛太と達郎が、ススキ林に踏みいった。血を踏まないよう、おっかなびっくり。
 達郎が腕をのばして、枝のさきに手ぬぐいをひっかけた。手ぬぐいの先端からは血が幾筋もしたたり落ちる。傷口がそこにあるみたいに。寛太は、こいつは血の蛇口だあと思い、達郎が振り向いた。
「やばいぞ、信じらんないぐらいの大けがだ」
 辺りには生臭い血の臭いがただよっている。紗英が吐きそうな顔であえいでいる。利菜がその手を引いた。四人は達郎と寛太の後につづいた。
 こんなに血が出たら、生きてるわけないよ、と利菜は思い、血をかわして足をふみおろす。国村の血液は地面に染みこまずに流れてくるが、子どもたちは誰もそのことに気づかない。
「包帯かなにかないのかっ」
 と達郎は女の子たちに怒っていったが、そんなものをもってくるはずがない。達郎はパニックをかみ殺すみたいに唇を噛んだ。なんで今に限って大人がいないんだと困惑した。
「みんないなくなっちまったのかっ?」
 国村の声がする。なんだか怒っているみたいな声だった。ここにいるわよっ、と佳代子は答えた。達郎は枝ごと手ぬぐいを捨てた。
 利菜は、手ぬぐいが真っ赤に染まっているのを見た。白い部分はほとんどなくなっている。まるで手ぬぐいが血を流したみたいだと思う。達郎が振り向いた。
「たんかがいるっ。新治、棒をみつけてこい。男はシャツをぬぐんだぞっ」
「棒なんてないよ」
「はやくしてくれっ」
 国村の声が言った。子どもたちはさらに林に近づいた。蔓網まではまさに一歩の距離だった。利菜が、
「ねえ、なにか変じゃない」
 とみんなに言った。彼女はさっき友だちに林に連れこまれそうになった。そのせいだか知らないが、人一倍冷静で慎重だった。少しいやな言い方だが、国村の身の安全より、自分の身の心配をしていたのだ。
 みんなの目は、そんなのわかってるよ、と言っていた。だけど、黙ってツルアミを見返しただけだ。網にも蔓にも血がついている。さっきはついてなかった、と、利菜は心中で悲鳴を上げた。
「ここはいいぞ」
 国村が言う。六人は顔を見合わせる。
「なにがいいの」佳代子が訊いた。「けがをしてるんでしょ?」
 国村は答えなかった。かわりに想像力が働きだす。子供たちの頭は、おまもりさまの力が想像力をかきたてたみたいに、フル回転をしはじめる。
 利菜は蔓で首を吊って死んだ女の姿を頭に描いた、彼女は女の垂らす鼻水を感じ、首に食いこむ蔓の感触をまざまざと肌に感ずる。佳代子は網をくぐろうとして、頭を引きちぎられた女の子を、新治は野良犬にかまれて狂犬病になった男の子を、紗英はテントに寝ていて、熊に襲われた男性の話を(とはいえ、彼女がこの話を聞いたのは、両神山でなくカナダでのことだったが。彼女は腸をくわれる男の姿を想像した)、寛太は山中で腐っていく兵隊の話を頭に描いた。その中でも、達郎の記憶だけはもっとも現実に近かった。彼が思いだしたのは、網の近くで脛の骨を折った男の子で、じっさいに運び出されるところを、間近に見ていたからだ。
 おかしいよ、こんなのぜったいおかしい……
 利菜はささやくようにつぶやき、呆然と足を見下ろす――と、血が靴をとりまいていた。
 彼女を中心に血だまりがあった。
 ちくしょう、中に染みこんだりしたら、気を失うに決まってるよ。だけど、硬直して足を引き抜くことができない。
 佳代に手を伸ばし袖をひいた。佳代子は利菜が指さす方を見た。
「やっぱり大人を呼んできた方がいいよ……」
 と言って利菜は咳きこんだ。空気にまで血液が噴霧のようにまじってる。
 利菜がつばを吐くと、血だまりに落ちた。佳代子はそれをじっと見た。
「でも、手遅れになったらどうするのよ」佳代子は震え声で言い返す。「おっかないなんて言ってらんないよ」
 国村さんじゃないかもしんないじゃんと利菜は思った。このとき考えたのは、四年のとき先生からキャンプ場できかされた怪談のことだった。
 こんなことを考えるなんて恥ずかしい。友だちにばれたら、ヘタレ呼ばわりされるかもしれない。だけど、ここにいるのはみんな親友だったから、彼女はその考えを口にすることができた。
「なめ太郎っておぼえてる?」利菜は言った。「紗英ちゃんだって知ってるでしょ? 四年のときの話しだもん。いたっしょ? トイレに付いてきてもらったもん」
 紗英も同じ考えに達したようだ。
「知ってる、そいつ人の声を真似すんのよ」紗英はみんなにも聞こえないような小声で言った。国村には聞かれたくなかったのだ。「血をなめるお化けの話でしょ。男の子も聞いたって言ってた」
 達郎は振り向いた。「その話ならオレも知ってる。話したのは片山っちだろ」
 片山っちという言い方は耳慣れなかったから、年下の子たちは頭のなかで、片山先生のことだなと翻訳した。
 達郎はこう続けた。
「キャンプに連れてくときは必ずその話をするんだ。作り話だ。でたらめだよ。朝になるとかならずいうんだ。あれは作り話だって。夜中怖がらすんだ」
 達郎は言ったが、みんなは不安げに顔を見合わせるばかりだ。
「今は国村さんを助けないと、みんなばかな話しないで協力……」
 達郎は黙った。達郎はみんなの方を向いていたから、林を見ていなかった。蔓の隙間から、痩せて(すごく痩せて)、薄汚れた手が出てきたことに気づかなかった。その手は指がうんと長く、爪もうんとのびている。十センチはある。その爪はまっすぐで、鋭利だ。
 その手が、達郎の手首を、そっとつかんだ。
「助けならいらないよ」と、手の主は言った。
 達郎が振り向くと、蔓をかきわけるようにして顔があった。髪がぼさぼさに伸びて、その髪がくっつきあっているのはヘアトニックのせいじゃなく、垢と泥と血のせいだった。達郎は先生の話をあまり覚えていなかったが――なにせ二年前の話だ――その瞬間、記憶のなかにある映像と、現実の像が一致した。
 目玉は病的に黄色い。鼻からふーふー息を吸ってる。そのせいで鼻の穴がいっぱいにふくらむ。なめ太郎は目を見開いたまま笑う。歯は黄色く、尖ってギザギザで、血糊がいっぱい残っていた。
「うわあ……」と達郎は言った。
「よう!」
 なめ太郎が手を引いたので、達郎はよろめき屈んだ。なめ太郎の顔が近くなり、そいつが舌をのばして耳をなめた。二メートルはありそうな長い舌だった、達郎はその悪臭と舌先の感触に身を凍らせる。
「うそだ、うそだ、ありえない!」
 利菜が叫んだ。脳が干上がって、神経が切れてしまいそうだ。彼女はなめ太郎をはっきり見た、あいつの顔を。なめ太郎の舌はヘビみたいに二つに割れてる。その声は、甲高いのとしわがれたのが重なったような、二重音声だ。
 ひゃあ、先生の言ったとおりだ。
 佳代子はあいつが見えるのはあたしだけかな、と考えた。紗英は思考が停止して、何も考えられなくなった(脳パンクだ、と彼女はその言葉を繰り返し考えた)。
「捕まえた」
 となめ太郎は言った。新治が「兄ちゃんがつかまった」と金切り声で叫んだとき、蔓の中からもう一本の手がのびて、彼の細い足首をつかむ。新治はススキの中に倒れこみ、血の混じった土を跳ね上げる。彼は、地面に頬をうちつけぼんやりする。眼鏡がずれ、顔にはねばねばした血が、べったりつく。
 唾を垂らしながら、ぼんやりと顔をあげたとき、なめ太郎が蔓から身を乗り出した。
「捕まえたあ! 捕まえたあ! こっちに来い小僧ども!」
 なめ太郎が思い切りよく腕を引くと、新治の靴が脱げ、その手が足首を離れた。なめ太郎はバランスを失い後ろに倒れかかる、達郎は手を捕まれたままだったから、なめ太郎に引かれるまま横様にころんだ。
 二人は草むらに倒れこみ、血まみれになった。
「ちくしょう!」
 となめ太郎が雄叫びを上げた。
 寛太はあまりのことに呆然としていたが、その、ちくしょう、を聞いてしゃんとなった。彼はじいちゃんから、骨と皮だけになった人間のことはさんざん聞き出していた。その瞬間、彼は、こいつはなめ太郎なんかじゃなくて、そのたぐいのこじきなんだと考えたのだ。
 なめ太郎が本物だったら、こんなに間抜けじゃない。
 寛太はすばやく身をかがめると、石を拾おうとした。だけど、地面はススキまみれで、土も見えない。
 彼は草をかき分けた。土と草の臭い以上に血の臭いは強烈で、地面は血の海と化している。彼は怖じ気づいたが、そのとき、寛太郎に、しっかりしろ、と腰をたたかれた気がした。腹を据えろと自分に発破をかけると、えいえいとうなり声を上げながら、草をかきわけた、石があった。
 そのとき、なめ太郎によく似たこじきは新治をあきらめ、達郎の腕を握っていた手を、両手にもちかえた。なめ太郎は細腕のくせに、すごい力だ。
「ちくしょう、こいつにひっぱられるっ」達郎はふんばろうとしたが、地面は血でできた汚泥にかわり、彼の足を滑らせる。
 一方寛太は立ち上がって、石をぶつけようとした。だがなめ太郎はすごく近くにいて、あいつの顔を見ていると腕が萎えて、手元が狂いそうだった。彼はなめ太郎よりも、達郎や新治に当ててしまうことの方が怖かった。
 寛太は一歩踏み出した、また一歩、なめ太郎が彼の目玉で大きくなった。達郎を見ていたなめ太郎が、こちらを向いた。
 寛太が拾ったのは、てのひらほどの割合大きな石で、ずっしりと重い。彼はこんな重さの石を投げたことはない。だから、近づいてよかったと思った。投げたりしたら、とてもこいつをひるませるほどの威力は出せなかったろう。
 なめ太郎ににらまれたとき、彼は脳髄を一撃されるような感触を受けたが、体は無意識のうちに動きだしていた。寛太はわめき声を上げると、なめ太郎のあごに石をたたきつけた。骨と肉の砕けるぐしゃりとした鈍い感覚が、腕に伝わった。
「やった」と達郎は言った。なめ太郎の手が腕から離れた。なめ太郎のあごから飛沫があがり、服にかかったが、達郎は気づかない。
「やったぞ、寛太っ」
 寛太は怖気をかんじたが、達郎の腕は自由になった。二人は後ろにはいずって逃げた。そして、転がっていた新治につまづき、ふらついた。
「わ、悪ふざけをした、おまえが悪いんだ!」
 寛太が叫ぶのと、なめ太郎が腕をふるうのは同時だった。すごい勢いだったが、寛太はしゃがもうとしたし、達郎が彼の腰に組み付いて転ばせたから、二人は鋭くとがった爪の餌食にならずにすんだ。二人は新治のうえに倒れこみ、達郎は弟とすすきを踏み潰す格好となった。
 なめ太郎は、首のかわりに寛太の帽子を握りしめていた。ぐしゃぐしゃにつぶれるほどに強くつかんだ。
 女の子たちはそれまで息を詰まらせていたが、それをきっかけに悲鳴を上げた。
「きゃああああああああああああ!」
「寛ちゃん、逃げてぇ!」
 利菜がいち早く金切り声を上げた。三人は四つんばいのまま逃げようとしていて、後ろを見ていない。なめ太郎の手が寛太の首にむかってのびる。
 達郎は恐怖の罵声を上げながら、立ち上がると、寛太を突き飛ばした。なめ太郎の手がまた空をかいた。
「あいつ、あいつ首をしめようとしたっ」
 佳代子が非難の叫びを上げる。
 達郎が振り向くと、なめ太郎の血まみれの顔の奥で、目玉だけが憎しみの情念に燃えていた。
 うわあ、こいつはおれたちを憎んでる。達郎は思った。逆恨みだけど。恐怖の底になぜか喜びもあった。なめ太郎が苦しんでいるのを知ったからだ。
 達郎は声を限りに号令する。
「みんな逃げろ!」
 リトルで鍛えた彼のかけ声はすごかった。みんなは半分ばかり金縛りにかかっていたが、そのひと声で一斉に動き出した。
 なめ太郎は伸ばした腕を(なんと三メートルばかりにのびている)、新治に向けた。
 利菜は及び腰が幸いして、一同のいちばん後ろにいた。彼女は一部始終を目撃した。友達の惨憺たるありさまに、怒りがわいて、またたくまに恐怖を塗りつぶした。
 彼女は手にしたゴムボールを振りかぶると、渾身の力で投げつけた。いつもの手投げではなく、松坂みたいな腕の振りで。ピンクのボールは、風を切り裂くと一直線にすっとんでいき、滑稽にもなめ太郎は避け損なって額に受けた。新治はなめ太郎の腕から逃れた。
 お腹がよじれるぐらい恐ろしかったが、彼女も夢中だった。
「ざまあみろ! おまえなんか死ねばいいんだ!」
 利菜が怒鳴ると、なめ太郎は大口を開けてうなった。唾と血が重なりあい滝のように糸を引く。なめ太郎は蔓壁をひきさきにかかった。
 一同はパニックになった。達郎が寛太を引きずって蔓壁から離れた。佳代子と紗英が新治を左右から抱えた。二人とも「誰か、誰か助けて」と助けを呼んでいる、新治は口を動かすばかりで声もだせない。
 達郎は寛太を、女の子たちは新治を抱えてススキの中から転げ出た。みんなは血まみれになりながら、夢中で草原を駆け下りた。
 足に地がつかず誰もが転んだが、なめ太郎に捕まるのではないかと思うと、転びながらでも走って逃げた。利菜はなめ太郎の食事のじゃまをしたから(なめ太郎は死体の血を舐めるからだ)、きっと復讐されると思った。怒りなんて消し飛んで、いまはひたすらおっかない。寛太郎が言ったみたいに、おっかな虫が腹の底に貼りついている。
 寛太はさきほどの英雄気分はどこへやら、あいつに捕まって殺されるんだとおもいこんでいたし、佳代子と紗英もなめ太郎をみたショックから、まるで立ち直れなかった。新治は片方の靴が脱げて靴下がむきだしだ。彼の靴下は血でずぶぬれだし、ほっぺたにも血がべっとりついてる。新治はいますぐ死にたいと思った。みんながまわりにいなけりゃ、きっとつかまっていたことだろう。
 達郎だけはみんなを追い立てるのに忙しく、おっかながっているひますらなかった。
 ときおり、ざざざっざざざっと草をかき分けるような音がした。呼び止められる声を聞いた気がしたし、国村の声を聞いた気がした。
 利菜が途中で振り向いたとき、おまもりさまからはゴムボールが帰ってきた。力任せに投げつけられたんじゃない、友だちとキャッチボールをやるときみたいな、スローボールが帰ってきた。
 だから、彼女は、無意識のうちに、そのボールをつかんでいたのだった。

        七

 オオバコをふんだ。スニーカーが草場を蹴った。彼らは走りに走った。アスレチックの間をかけぬけ、駐車場まで下りると、自転車は横倒しになっている。
 互いを励まし引き起こしていると、新治が勢いあまって自転車ごと倒れこむ。彼は膝をすりむいたうえ、胸を痛打し咳きこんだ。
 新治がふりむくと、おまもりさまは遠く離れていたが、それでも誰かがおいでおいでをしているようだ。達郎が、弟を助け起こしてこう言った。
「坂を下りろっ、下まで突っ走れっ」
 寛太がペダルを踏むと、力が強すぎてチェーンがはずれた。達郎が女の子たちに手を振った。
「さきに行けっ」
 男の子たちは乗るのをあきらめ、自転車を押して走りはじめた。女の子たちはあとを気にしながら、カーブを曲がって坂道を下った。駐車場からの長い坂道をおり、直角のカーブを横切ると、車止めのスペースがあった。彼女たちはそこで自転車をとめて、三人を待った。
 男の子たちは坂道に入ったところで自転車に乗ったが、寛太のチェーンははずれたままだ。達郎と新治はペダルをこがずに走った。寛太はなぐさめみたいにペダルをこいだ。達郎は何度も後ろを向いた。
 女の子たちは、なめ太郎が長い手足を飛ばして追ってくるのではないかと気が気ではなかったが、草原から舞い降りてくる人影はない。それでも、早く早くと男子をせかした。なめ太郎が蔓から出したのは、手と肩と胸がすこしで、全身は見えなかった。なのに、利菜はあいつの全身をまざまざと思い描くことができた。片山はその話をなんども繰り返し話してきたようで、なめ太郎の描写は細部にわたってこまやかだった。
――なめ太郎はすごいがに股で、エリマキトカゲみたいに股を回して追ってくる。ガリガリの餓鬼みたいに痩せたやつ、なのに腹だけはカエルみたいにふくれたやつ。裸のあいつ。
 利菜は右手にビニールボールを持ったままでいた。佳代子が気づいてもぎとった。彼女はそれを、林にではなく、池にむかって放り投げた。それは水面に当たって波紋をつくった。ビニールボールは、ぷかぷか浮いた。
 三人が約束をかわした子どものように手をつないで男の子を待ち、それぞれの空想を振り払っているあいだ、達郎は気が狂いそうで、濡れたTシャツの下で身をこわばらせた。国村の声こそなめ太郎の真似っこだったが、流れてきた血は本物だった。達郎のシャツは左半分が真っ赤になっていたし、新治も背中全体が赤くなっている、寛太の灰色の短パンは真っ黒にかわっていた(あとで寛太は達郎だけに、しょんべんをもらしたわけじゃないからな、とことわった)。
 それに、手首。彼の手首にはなめ太郎の指の痕がべったりとのこっている。あいつの手にあった、ぬめりと血が。長くのびた爪にひっかかれて、擦り傷もある。
 こんなひっかき傷があったら、病気になるんじゃないか……と達郎は思う。擦り傷からウイルスがはいって、エイズとかエボラウイルスとか、もっと新種のやつとかにかかるんじゃないか? 年下の女の子たちがおんなじ目に遭わなかったのはさいわいだが、彼女たちの服にもあちこち血が飛び跳ねていた。大人にはなにがあったのかと、しつこく訊かれるだろう。
 どう答えればいいんだ?
 彼の頭はあれは連続殺人の犯人だと信じたがっていたが、心はあれはなめ太郎だと信じていた。頭と心が分裂するようで、達郎は吐き気がした。
 だが、女の子に追いついて、チェーンを嵌めるのを手伝っていたあいだも、そのことは口にしなかった。
 達郎も年下の子たちも、だまりこくって坂道を降りた。飛ばさなかったけど。
 結局、ドライブウェイあたごにいたるまで、口を開いた者はいなかったのである。


第二章 寛太家にて

        八

 達郎がみんなを止めたのは、林の途切れ目からあたごが見える地点だった(登るときはあれほど時間がかかったのに、降りるときは五分とかからなかった)。彼は自転車を降りると、土手を登って、林の上からドライブウェイを見下ろした。
 ここからカーブを曲がれば、国道に出るまで直線の道だ。なだらかな坂がのび、ドライブウェイあたごまでつづいている。彼は大人に会うまでに、ごちゃごちゃになった頭を整理しておきたかった。
 振り向くと、年下の子たちを見下ろした。
 五人は自転車のキックスタンドをおろし、達郎のあとにつづいた。林の中は、樹液の臭いが濃く漂っていた。風はもうやんでいた。
 木々の隙間から、木漏れ日が落ち、達郎の顔に、日色のまだら模様を作っていた。年下の子たちはどうしたのかと、達郎の顔をうかがった。はやく人のいるところに行きたかった。
「兄ちゃん、はやく行こうっ。着替えたいし、もう家に帰りたいっ」
「だけど新治、おまえ、なんて話すつもりだ? この血はどうしてついたのかって、訊かれるに決まってる」
「そうだよ。なめ太郎におそわれたなんて言えない」
 利菜が言った。
「なめ太郎なんているわけない。あれは……」
 寛太が言うのを、利菜が、「あんな人間いるわけないじゃないっ」とさえぎった。
 達郎はその言葉にぎっくりした。
「ねえ、あたし、とにかく手を洗いたいよ。みんなもさ。みんなも洗った方がいい。なめ太郎のことなんて今どうでもいいよっ。血の匂いがずっとしてんのよっ?」
 佳代子は両手をつきだした。彼女は転ばなかったが、新治にさわったから、彼についた血をもらっていた。男の子たちは自分のシャツをみおろし、互いを見比べた。今必要なのは、誰かにどう話すなんてことより、替えのシャツだとは達郎も思った。
「じゃあ、正直にいうのか?」彼は訊いた。
「こう言えばいいのよ。お守り様に誰かいて、そいつにやられたって。あいつがなんだったかなんて、達郎ちゃんにわかんの?」
 佳代子は杉の脇に立って、みんなを見下ろした。佳代子は半泣きになっていたし、紗英はほんとに泣いていた。利菜も泣きたい気分だった。
 紗英の手をにぎっていると彼女の震えが伝わってきたし、さきほどの怒りは消えて、今はただただ怖く混乱していた。寛太があんなのただのこじきだよ、と小声で言った。それはいつになく弱気な声だったから、みんなを元気づける力はまるでなかった。
 六人のかぶった血は、水とはちがってヌメリ気がある、ねっとりしてる。佳代子の言うとおり、血の臭いがずっとしていた。あれがもし乞食だったとしても、血をかぶったのは本当だ。
 利菜は、
「わたしもさ、スニーカーのなかまでぐしょぐしょだよ。中がどうなってるかなんて、考えたくもないけど……」
 でも、靴下まで真っ赤だろうな、とは思っていた。
 達郎は黙ったままみんなを見返した。それから、
「あれはきっと連続殺人犯だよ。なめ太郎のはずない、あれは……っ」
「あれがなんなのかなんて、もうどうでもいいよ!」
 佳代子が涙目で叫んだ。達郎は自分をしっかりさせようという思いと、早く大人のいるところに(自分より年上の人間がいるところに)行きたいという思いでぐらぐらした。あれがなめ太郎なのか、連続殺人犯なのかなんて、どうでもよくなってきた。どっちにしろ最悪なやつだったのは本当だ。
 自分は六年生だという思いと、みんなをなんとかしなきゃという責任感が彼を支えていたが、こんなところにいたらそんな気丈夫もつづかないにちがいない。
「わかった。下まで降りよう。店の人に電話を貸してもらうからな。親に連絡して、着替えをもってきてもらう。それでいいか?」
 五人は納得したようにうなずいた。

 坂を下ってあたごの駐車場にはいると、車は三台停まっていた。みんなは誰にも見られたくないという思いと、もっと大勢人がいればいいのにという思いで、みじめな気分を味わった。
 彼らは大騒ぎにならないか心配していた。いつ声をかけられることか……。
 達郎はすぐさま近くの男性に助けを求めたかったが、その感情をこらえにこらえた。どう話していいかわからなかったのが理由の一つ。自分や弟を襲ったものがなんだったのか、達郎にはわからなかった。自分が見たものが人間だとは、本心からは思えなかったのだ。
 でも、おまもりさまでなめ太郎に会った、なんて、いくらなんでもそんなことを言うのはまずい。みんなをあたごまで連れて行きながら、彼の心は迷いに迷っていた。
 あれが人間で、本物の殺人犯だったのなら簡単だ。でも、そんなふうにうそはつけない。自分にはつけても、周りにつくわけにはいかない。もし、ここで殺人犯におそわれたなんて切り出したら、とんでもない騒ぎになることは、彼にもわかっていたからである。
 地図の看板前に自転車をとめると、ハンドルやサドルに血がついていた。達郎はみんなに物にさわらないよう気をつけさせた。トイレを行き来する人がいくらかあった。自販機からジュースをとっていた人が、ふと顔を上げた。
 足早に店に向かうと、一行はさすがに人目をひいた。髪はざんばらで、服も乱れていたし、様子も尋常ではなかった。
 達郎が店に踏みこむと、カウンターのおばさんが顔を上げた。ネームプレートには片桐とあった。
 あたらしく入ったパートのようで、子どもたちは誰も見覚えがなかった。
 達郎はすぐさま質問攻めに合うと予想していたのだが、片桐はなにも言わない。仲間の目が自分に集中するのがわかる。頭に血が上ったが、なんとか唾を飲みこんだ。
「あの……」
 達郎はみんなを見て、それから片桐に目をもどす。
「Tシャツとタオルを貸してもらえませんか?」
「タオルは売ってあるけど、Tシャツはないわよ」
「達郎ちゃん、お金がないよ」
 佳代子が小声で袖をひく。片桐は彼女に目をむけた。
「タオルぐらい貸してあげるけどねえ、自転車でおりてきたの? ひどい髪になってるわよ。なんでそんな顔してんの?」片桐は一拍子おいて、「なにかあったの?」
 片桐幸代子は早口で質問するくせがあった。佳代子とおなじぐらいの年の子もいたから、つい娘にするような口調になった。子供たちの様子には、本気でドキリとしたのだ。
 坂道はきついから競争する男の子たちが大勢いる。でも、子どものうち三人は女の子だし、一人はひどく大人しそうな子に見えた。競争してきたにしても、服装の乱れはずいぶんひどかった。
 片桐は二宮町の人間だ、最近この辺りでちかんや変質者が多いことも知っている。殺人事件についても耳にしていた。その疑念は影みたいに忍び寄り、彼女は身を乗り出した。
「あんたたち山から下りてきたの? 何があったの? 誰かになにかされたんじゃないでしょうね?」
 達郎は面食らった、口がわなないた。想像していたのとは、ずいぶんちがった。すぐさま大騒ぎになって、学校まで話が行くと考えていた。みんなの親にも、山にきたことがばれてしまうだろう。そんなの最悪だ。もしかしたら、リトルに参加させてもらえなくなるかもしれない。
 彼は覚悟をかためていた。達郎は、どの質問にどう答えるかということで、頭が一杯だった。でも、片桐はびしょぬれになったシャツについてふれない。
 この人には、血が見えないんだろうか?
 どうしていいかわからない。頭は高速で回転したが、あいつのことをなんと言うかでいちばん迷った。殺人犯なのか? なめ太郎なのか?
 でも、片桐は答えを待っている。だから、
「上で変なやつにあったんです」
 と咄嗟に答えた。言ってから心の中で胸をなでおろした。変なやつというのはほんとのことだし、これなら精神病院にぶちこまれることもない。
 片桐は緊張したようだった。
「おかしな人って? 変質者かね。大人に言った? 国村さんはいなかったの?」
 達郎は口をつぐんだ。国村はいたようでいなかったからだ。少なくとも、姿は誰も見なかった。片桐は、最近あの人は見かけないからね、とひとりごちた。
 片桐は表に目を走らせながら、「タオルはなんにつかうの?」
「だって、みんな血まみれですよ」
 達郎はリトルでしつけられてるだけあって、受け答えもしっかりしていた。しかし、片桐はおかしそうに笑っただけだった。
「おおげさなこと言って。どれ、手を見せてごらん」
 片桐がレジによりかかり身を乗り出した。新治が手をつきだした。彼の右手には、倒れこんだときにできた擦り傷がいくらかあった。草場の血も、手のひらにべったりついたままだった。拭きようがなかったし、さわりたくもなかったのだ。
 だけど、片桐はあつくぬったどうらんのような血も気にならないようで、新治の手首をやさしくつかんだ。
「転んだんだね。おかしな人ってどんなやつ? 怒ってるんじゃないよ。あんたたちにおかしなまねをしたんなら、警察にも言わなきゃいけないからね。最近町で悪い奴がうろちょろしてるのは知ってるよね。まだ捕まってないんだから……神保町じゃ殺人事件も起こってるんだよ。どうなの? おばさん警察を呼ぼうと思うんだけど……というのはここにも警察がきて、怪しい奴がいたら通報してくれって言われてるからだけど。といっても、今までそんなやつはいなかったけどね。警察をよぶほど大事だと思う? いたずらだったら、あんたたちを叱らなきゃいけないけどね……そんなふうには見えないし」
 と新治の手に食いこんだ小石を、爪で器用にはぎ落とす。
 利菜は達郎の真後ろにいたから、彼の広い背中がよく見えた。血が乾きかけている。白いシャツの半分方が真っ赤になっているのに、片桐はそのことにふれなかった。落ち着きはらっていた。外にいた大人も、興味はしめしたが、駆け寄ってきたりはしなかった。子供が血まみれになってるのに。心配して当然なのに?
 新治の傷は深くはなかったが、泥がついていたし、消毒はしといた方がいいな、と片桐はつぶやいた。その瞬間、利菜はぴんと来た。
 この人には、血が見えてないんだ。
 それは映画や漫画ではよくあることだから、直観でも何でもなく、自然にそう思った、そう感じた。佳代子と目をみかわす。彼女も同じことを考えているようだった。血まみれのこどもを見て、平気な大人なんているはずない。
「ちょっと待ってなさいよ」と片桐は言った。「ふみちゃん、ちょっとレジについてよっ」奥に呼びかけ、
「消毒ぐらいはした方がいいからね。おかしな人って男の人?」
 片桐は新治よりも、おかしな人の方に興味があるようだ(それは達郎も同じだった)。
 若い女の人が、エプロンをしめながら奥から来、片桐が変わって姿を消した。新治はその女のネームプレートを読んだ。
 赤川文絵はエプロンをしめながら、片桐とおなじことを訊いた。
「みんなひどいかっこうね。大急ぎで降りてきたの?」
 利菜と佳代子の疑惑は、確信に変わった。利菜は、達郎をドアの近くまで連れて行き、ささやいた。「見えてないよ」
「なんだって?」
「見えてないよ、血は見えてないっ」
「そんなばかなことあるわけない」紗英が言った。「あの人、ひどいかっこうって言ったじゃん。外の人もじろじろ見てたっ」
「みんな自分の頭見てみろよ」
 達郎が頬をひきつらせる、紗英と佳代子は長髪がみだれてぼさぼさだった。寛太は顔に草をつけたままだし、新治のめがねはずれたままだ(めがねにも血がついている、それに彼のスニーカーは片足だけだ)。
 利菜はアイスボックスのガラスにうつった自分の姿をのぞいた。まったく起き抜けの頭よりひどかったし、顔の肉もこわばっている。
 利菜はクーラーボックスに手をついたまま振り向いた。
「こんなかっこうしてたら、注目あびて当然だよ」
 片桐という人は、奥でおばさん仲間と、おかしな人の話しをつづけているみたいだ。
 紗英が言った。
「出ようよ。あたし、ゆっくり話したい。外の人が、どんなふうにあたしを見るか見たい」
「だめだ」達郎は震えながら首を振る。「そんなことしたら、よけい変に思われる」
「どうするつもりよ」
 佳代子が訊くと、達郎は、
「おれが話すから、みんなは黙ってろ」
 ドアのそばで固まっていると、赤川が、
「あんたたち、なにがあったの? おかしな人ってなによ?」とレジから身を乗り出した。「その人、厚いコートでも着てなかった?」
 彼女がにやにや笑うと、片桐が奥から顔を出した。
「ふみちゃん、こどもからかうんじゃないよ」
「だってさあ、みんなぶったまげの顔してんじゃん」
 利菜が冷凍庫を離れると、達郎は彼女が手をついたところをあわててふいた。ガラスに血がうつったのだ。
 片桐は消毒液とタオルを持って姿を現した。追い立てるように、子供たちの背に腕をまわした。
「みんな、外のベンチ行く? おばさんが、アイスおごったげる」
 達郎が冷凍庫から顔を上げ、
「ぼくら、大丈夫です。おっかなくて逃げただけだし……」
 片桐はとりあわなかった。はいはいとうなずきながら、新治の手をひき外にいった。利菜たちはあとを追いかけた。片桐は店のとなりにある休息所まで子どもたちを連れて行った。片桐は新治に手を洗わせ、傷にはマキロンをふりかけた。新治の手についた血は、水を受けて薄まり、排水溝に落ちていった。
 小谷というやせっぽちのおばさんが、アイスを持ってきてくれた。みんなはアイスを渡されたものの、食べる気がしなかったので手に持ったままでいた。片桐が顔をしかめた。片桐は新治にちかづきすぎたらしく、エプロンのすそに血がのびている。一同はがまんをして、アイスのカップをはずした。
 達郎はなるべくうそをつかないことにした。もともとうそは苦手だ。彼はなるべく事実に近いことを話した。
「なにかされたわけじゃないんです」達郎はまごまご言った。「でも、浮浪者みたいなかんじの人で……」
「服は着てた?」
「ふみちゃん、レジッ」
「――服もぼろぼろだったし、しつこく話しかけてきたから」
「そんだけ? ほんとに?」
「ええ」
「あたしたちが怖がって逃げたから、その人追いかけてきたんだと思う」
 と佳代子が付け足したから、達郎は顔をしかめた。
「そう?」片桐はちょっと身を起こして気を抜いた。「あんたたちも知ってるとおもうけど、さいきんへんな事件が多いからね。ねえ、行方不明の子みつかったっけ」
 と片桐は小谷に話しかけた。
「まだだねえ。もう三日もたつんだけど……その子もこのへんでいなくなったのよ」
「そんな具合だからね。おばさんたちも心配なのよ。その人がふつうの人ならいいけど……汚くてもふつうの人はいるし、まあいろんな人がいるからね……」
「ふつうです」達郎はすこし口ごもり、「でも、ひげも髪ものばしっぱなしで、すごい汚い人だったし……新治がころんだから、みんなあわてたんです」
 片桐は達郎の目をのぞきこむ。ちょっとうたがっているな、と達郎は思う。今の説明じゃまずかったかな?
「みんな、これからどっちに帰るの? 神保町の方?」
「神保町です。自転車できたんですけど」達郎はその自転車をさがすみたいに、駐車場に目を向けた。「これから親に迎えに来てもらおうと思います」
「ああ、親御さんがここにくるのね」片桐はほっとした顔をみせた。「そんな汚い身なりの人、この辺で見かけたことはないけどね。山でなにしてたのかしらね」
「おばさん」利菜は片桐の前に手をさしだした。血がついた方の手だ。「わたしも転んで手をついちゃったんだけど、なんともなってない?」
 片桐はどれどれと利菜の手をもった。「なんともなってないけどね。心配なら、マキロンぬっとく?」
「うん。消毒しときたい」
「あたしも」
「わたしも」
 佳代子と紗英も言った。おばさんがまた三人をじっと見た。佳代子は言った。
「その人の服にさわっちゃったから。紗英は手、にぎられたから。その人、殺人犯だと思う?」
 期待するみたいに片桐を見た。まるで、殺人犯であって欲しいみたいな言い方だ。
「まさかねえ」片桐は慌てたように打ち消した。「……まさかとは思うんだけど。いやね、みんながみんな、誰彼かまわず疑ったり、心配したりするのはよくないと思ってさ。警察にも通報がたくさん入ってるって言うのよねえ……いたずらもふくめて」
「ぼくらのはいたずらじゃありませんっ」
「わかってるわかってる」
 佳代子は噴水式の水道のところにいって、手を洗い出した。利菜と紗英が後ろについた。佳代子がちょっとうつむいて、肩を落としたから、こりゃ泣いてるな、と利菜は思った。自分も泣きたくなった。
 佳代子は右手をつぶすほど力を入れて、掌をこすっている。血はなかなか落ちなかった。
 利菜は佳代子をなぐさめ、泣くのをやめさせなきゃと思ったが、小谷という人は佳代子の涙を変な意味にとらなかった。
「泣かなくてもいいのよ。怖かったわねえ」
 佳代子が泣いたのは同情をひくのによかったようで、二人のおばさんは急に警戒をといて、みんなをいたわりだした。
 服をひっぱられたので振り向くと、紗英がシャツをにぎって泣いていた。
 泣いてる場合じゃないよ。利菜は妙に冷えた頭で考えた。血がみえないこと自体、おかしいんだから。
 佳代子は片桐たちの見ている前で、家に電話をした。おばさんはひどくどなっているようだった。
 片桐は新治のためにサンダルをもってきてくれた。新治が履こうとしないので、おばさんたちはふしぎそうに顔を見合わせた。新治はソックスに血がついたままだったし、そんな足のまま履き替えるのはいやだったのだ。達郎が肩を揺するが、新治はがんこだった。真っ赤なソックスをむきだしにして、つっ立ったままでいた。
「わたしはじいちゃんに来て欲しい」
 ふだん大人しい紗英が意見を言った。みんなおなじ気持ちだったが、寛太郎は免許をもっていない。
「トラクターでくんのか?」
 達郎が訊いた。みんなは暗い顔をしてだまりこんだ。利菜が、「そんなの陽がくれちゃうよ」とぼそりと言うと、佳代子はぱっと顔を上げ、目をまんまるにみひらいた。利菜はときどき佳代子の笑いのつぼをついた。彼女は寛太郎が耕耘機をごとごと言わせながら、夕陽にむかって走るさまを想像したのだ。
 佳代子のおかしみはみんなに伝染したようで、友だちは笑い声こそ上げなかったが、笑顔をかわすことはできた。
 利菜は言ってよかったな、と思った。なんでも、言ってみるもんだ。
「中に入って待ってる? お茶でも入れるわよ」
 と片桐が訊いたが、達郎は断った。断るなんて変だけど、六人だけで話をしたかった。だから、「河原に降りたい」と言った。「あまり迷惑になるといけませんから」
 へんな言い訳だけど、こどもたちは他にうまい言い訳を思いつかなかった。

        九

 おばさんたちについたうそのなかで、これだけは本当だった。子どもたちは道を渡って河原に降りたからだ。
 鮎掛けのおじさんはまだ川にいたが、子どもたちからは遠く離れていた。この河原で遊んでいた明朝が、うそみたいに利菜には思えた。
 新治は草原を走っておりたとき、足の裏をけがしたようで、びっこをひいていた。寛太と達郎が手をかした。手すりをつかみながら階段をおりると、ステンレスの棒には赤い筋が残った。
 河原には丸石がころがり、高い葦が生えていた。川岸には、菱形のコンクリートブロックがみっしりと積み上げられている。子どもたちは砂浜までいった。
 達郎は血まみれのシャツを慎重に脱いだ。佳代子が「あっ」と声を上げた。達郎の背中が、絵の具を塗ったみたいに赤くなっていたからだ。達郎の顔はますます重く沈んだ。体についたなんて、ショックだった。
 達郎たちが手を離すと、新治は力つきたように尻をついた。達郎はTシャツを浜に落とし、新治の靴下を脱がせにかかった。寛太もシャツを脱いだ。達郎は新治のそばにかがみこんだまま、顔も上げずにシャツを指さし、
「みんなには見えてるか?」
 と訊いた。五人は首を縦にふった。
「おばさんがきたら、見えるかどうか訊かないとね」
 利菜はぶっきらぼうに答えた。彼女は自分の母親に来て欲しかったが、三津子は免許をもっていない。いっしょにきてと頼めばよかった。「おばさんなら見えるかもしんないよ」
 佳代子が訊いた。「なんて訊くのよ。みんなには見えないみたいだけど、母さんには、わたしの服についた血が見えるって? そんなこと訊けないよ」
「こう言えばいいのよ。新ちゃんの傷口にさわっちゃったんだけど、服に血がついてないかって。そんなのつけて帰ったら、母さんに絞め殺されるからね」
 利菜が言うと、みんなはまた黙った。空気も黙った。子どもたちは、達郎が首を絞められかけたことを思い出していた。利菜が達郎を見ると、首の辺りを恐ろしげに撫でていた。寛太は帽子をとられたから、坊主頭をむき出しにしている。
 佳代子が言った。「そんなの変だよ。自分で見ればわかるもん」
「訊かないよりましだよ。佳代ちゃんは黙ってていいよ、あたしが訊くから。あとでおばさんに、あれこれうだうだ訊かれても困るしね」
 嘘がばれてぶたれても困るしね、と利菜は思ったが、それは口にしない。
「あんただったら、ふだんからおかしなこと言ってるしね」
 佳代子はにやっと笑った。達郎もにやっと笑い、紗英もにんまりした。寛太と利菜もにやりと笑みをもらしたが、新治は笑わなかった。彼は急に残った片方の靴をぬぐと、川にむかって放り投げた。靴は川面にぷかりと浮いて、みんなが見ているなかを流れていった。
「いいの?」と佳代子がためらいがちに訊いた。
「いいんだ」と新治は答えた。「もういらない。片足しかないし、もう履きたくない」
「後で怒られるんじゃない?」
「いいんだ」
「あたしもこの靴捨てたい」
 利菜は座りこんだ。靴のかたっぽを脱いだ。靴底には赤い染みができている。布製だったから、まわりから染みこむのは仕方ないにしても、厚いゴム底を通してどうやって染みこんだのかがわからなかった。利菜は赤くなった靴下にも目をとめた。
 彼女はうんざりして靴を落とした。
「もう履かないにしてもさ、下駄箱にあるってだけで気になるもん。でも、靴が減ったら、母さん怒るだろうな」
「わたしもそんなことしたら怒られると思う」
 紗英がまた涙目になった。
「二人ともお小遣いは?」佳代子が訊いた。みんなは佳代を見た。「バザーで、安い靴を買おうよ。そんで、みんなで交換したって言うの。どうかな?」
「サイズはどうすんの?」そういえばみんな違っている。
「いっしょだったってことにすればいいじゃん」
「どのみち怒られるよ」
 利菜は情けなさそうに言ったが、このときはそれがいちばん現実的な方法に思えた。もう考えるのも億劫だった。
 達郎が新治に顔を向けた。面と向かって話し合うのは久しぶりだ。
「新治、足出せ。おまえ、靴下だけで走ったから、傷がいっぱいできてる」
「そういえばさ」佳代子が思いついたように言った。「おばさんたち、新ちゃんの靴のことは、どうしたのかって訊かなかったね」
「見落としたんだよ。気づかないときだってある。靴の心配なんかすんな」
 達郎は、新治の足首をもった。達郎はハンカチをぬらして、足の裏をそっと拭いた。
 新治はぽろぽろと涙をこぼした。
 達郎が訊いた。
「痛むか?」
「痛まないっ」
 と新治は言った。
 寛太は靴をぬぐと、ズボンの裾をたくしあげた。川に入り、いきおいよくシャツを洗いはじめた。
 川の水が赤くなった。佳代子が同じように川岸で達郎のシャツを洗った。利菜と紗英は、新治のシャツを脱がした。新治の傷は意外に深く、足は赤く腫れている。
 達郎がその足にハンカチをまきつけた。利菜と紗英は自分たちのハンカチもさしだした。
 みんなは作業の間、口もきかずに黙りこみ、むっつりと考えこんでいた。寛太はシャツを洗ったが、血糊は落ちなかった。半ズボンにまでしみこんでいたから、寛太は風呂につかるみたいに川のなかであぐらをかいた。
 佳代子はみんなの方をみる、川面から光が照りかえる、髪は水で濡れていた、佳代子はいつもより美人に見えた。みんなが考えていることを、率先して口にした。
「みんなはどう思ってんのよ。あたしたちがおかしいんだと思う? あいつは確かにいたしさ、新ちゃんは靴をとられたし、寛ちゃんは帽子をやられたじゃん。でも、今でも信じらんないよ。血は見えるけど……」
 佳代子は腰に手をあてて、傲然と立ちながら、鼻をすすった。
「わたしも、あんなのうそみたいに思ってる」利菜が言った。
「でも、この血はうそじゃないよ」
 紗英は新治の体を拭きながら言った。達郎はもらったタオルで体の血を落としはじめた。彼は、
「なめ太郎は先生の作り話だ」とぽつりと言った。
「わかんないよ、そんなの」利菜は靴を水につけ洗い出す。「わたしたちがあとで訊きに行ったら、あの話しうそでしょって言ったら、先生否定してくんなかった」
「でも、朝になったら、ばかばかしいって思ってたよ」紗英が言った。「あんな話信じるなんて、どうかしてたと思ったもん」
「俺はあいつのことこじきだと思うよ」と寛太。
「だとしたら、とんでもないこじきだね」と佳代子は言った。
 正直言って、こうしていつもの河原に降りてみると(しかも、こうもさんさんと陽の光のふりそぞく川面に立ってみると)、あんな体験が信じられなくなってきた。うそみたいに、ばかばかしく思えたのだ。体についた血さえなければ、子供たちはうまい言い訳を思いついたにちがいない。
「この話も、明日になったら、うそみたいに思えるといいのに」
 佳代子は水音をならして川から上がった。寛太も腰を上げた。
「思うにきまってるよ」利菜が言った。彼女は大きな丸い石の上に腰をおろした。「靴も服も捨ててさ。それでこのことはもうなし。両神山には、わたし行かないから。行きたくなってもさそわないでよね」
 佳代子は利菜の正面に立ってほおをふくらませた。「行きたいなんて思わないよ。わたしは帰って休みたい」
「みんな、家に帰るつもり?」紗英が不安げに言った。「わたし、一人部屋でしょ。家には母さんしかいないし。それにあの家……」
「空き部屋が多いよね」と佳代子があとをついだ。
「うん、こんなこと言うと、ばかにされるかもしんないけど……」
「するわけないよ」佳代子はぶっきらぼうに言った。「あんな目にあったあとなんだよ」
「うん」紗英は素直にうなずいた。「昼間はがまんできるだろうけど、夜はだめだと思うんだよね。ぜったい眠れないし、音がするだけでも、怖いと思う」
 紗英は黙った。利菜が口をきいた。
「寛ちゃん泊めてくんない」
 利菜が挑発するみたいな目で見たから、寛太はどぎまぎした。
「うん? いいけど」
「みんなも泊めてもらおうよ」利菜は立ち上がると、みんなに訴えた。「わたしはじいちゃんがいるだけでも安心する」
「じいちゃんは妖怪に詳しいからな」
 達郎が力なく答えた。いままで張りつめ通しだったから、急に気が抜けたみたいだった。
「でも、訊ける? あのこと話すの?」と利菜。
「じいちゃんなら、きいてくれるよ」
 達郎は投げやりだ。寛太郎がなんとかしてくれると思うと、ようやく肩の荷が下りた。
「おれ、リトルがあるしさ。大会だって近いから、いつまでも気にしたくないんだ」
「気にしたくないってなにっ?」佳代子はきっと言った。「気にしなきゃすむのっ? あれはなんて言おうと、なめ太郎だったっ」
「そんなことあると思うか? そんなもんいると思うか?」
 達郎は佳代子の目をのぞきこんだ。おまえ正気か? と訊きたがっているような視線だった。でも、達郎はリトルのキャプテンだったし、みんなの兄貴分だ。そんなことをいうほど意地悪ではなかった。
「でなかったら、あたしたちみんな頭がおかしいってことだよ」と佳代子は言った。「なめ太郎がいないんなら、こどもにだけ見える血もあるわけない」佳代子は達郎にシャツをむけた。「このシャツも捨てないとね。母さんが来たら、濡れてるいいわけもしないといけない。自転車だって洗わないと」
「大忙しだね」
 利菜は川をみながら、ぼんやり言った。こんどはだれも笑わなかった。寛太が川から上がってきた。
「山まで大人についてきてもらうか?」達郎が挙手を求めるように、わざとらしく手を挙げた。「たしかめにもどるか?」
「ぜったいいやよっ。あんなとこ、もう行きたくないっ」
 紗英がアゴを膝につけた。すねたみたいにふくれっつらになった。
 寛太が、「でも、国村って人の声したろ? ほんとに怪我してたら、どうする?」
「それはなめ太郎が真似したんだよ」利菜が答えた。
「なめ太郎なんていないって言ってるだろ!」
 達郎が大声をだした。寛太は誰かに訊かれなかったかと周囲を見回した。紗英は顔を伏せたまま泣き出した。佳代子は紗英の肩をだき、非難するように達郎をにらんだ。
「おまもりさまに近づいた子がいってたこと、あれうそじゃなかったんだよ」と利菜は言った。「気がつかないうちになかに入ってたって言ってたもん。大人にはいいわけすんなって怒られたらしいけど……」
「もういいよ」
 新治が言った。小声だったが、静かな落ちついた口調だった。みんなは黙った。
 達郎はがまんをしてシャツをきた。「自転車を洗おう。新治、シャツを着ろ」
「いやだよ」
「いやでも着ろ。シャツは兄ちゃんが新しいの買ってやる」
 達郎はシャツを丸めると、新治の頭にかぶせた。背中をさしだすと、新治はおとなしくかぶさった。寛太もだまってシャツを着た。 
 六人は達郎を先頭に階段をのぼった。階段の上に、なにかが待ち受けているような、それは慎重な足取りだったのである。

        十

 登美子は娘の電話を自宅で受けた。今年生まれた伸子と、アパートの一室で蒸し暑さに呻吟しながら、寝息をかいていたところだった。彼女はホステスをやめていたが、出産のせいでパートもやめ、生活は苦しくなっていた。結局夜の仕事を、再びはじめた。
 五人の子供を抱えていたが、伸子以外は遊びに出ていない。寝ぼけ眼でいらいらしながら電話に出てみると、かけてきたのは佳代子で、両神山まで迎えに来て欲しいという。
「冗談じゃないわよ! 両神山に行くなんて聴いてないじゃない! あんたなんでそんなとこにいるの!」
 がなりたてたときには、伸子は悲鳴のような泣き声を上げていた。
「聴きなさいよ! 聞いてるの! 伸子が泣いてるじゃない! あんたのせいよ!」
 佳代子はごめんなさいと言った。娘はもう半泣き声だ。
「あんたはなにもわかってないわよ。母さんがどれだけ苦労してると思ってるの。今日だって夜から仕事なのよ。眠らないで、母さん平気だと思ってるの」
 登美子の声も、怒りで震えた。娘は、ごめんなさい、だけど、おまもりさまで男の人にさわられて、と言った時点で泣き始めていた。
 泣いたらどうにかなるの、登美子は思った。腹はかんかんに立っていたが、娘の言う、男の人、というのは気になった。最近町で殺人犯が横行しているのは、彼女も知っていたからだ。
「他の子はどうなのよ? あんた一人でいったんじゃないわよね」
「寛ちゃんたちもいる」
「その子たちの親はどうしてるのよ」
 さぞ立派な親がいるんでしょうよ、あたしなんかじゃなくてね、その親に迎えにきてもらえばいいんだ、という言葉が熱い怒りとともに胸をかけめぐって、頭にまできた。
「寛ちゃんの親は、パートに出てるし、利菜の母さんは車に乗れないもん」
 寛太の父親はすでに死んでいた。紗英の親は不仲だった。母親の耳には入れたくないはずだ。そのことを思うと、登美子も少しだけ溜飲が降りた。娘の思い通りに動かなければならないのは屈辱だったが、運が悪いのは、自分だけではないのだ。
「わかったわよ。行けばいいのね」
 娘はみんなとあたごにいると言った。それは幸い。と彼女は返事もせずに電話を切った。佳代子のやつ、あたしを呼んだことを後悔するといい。痛い目をみせて、たっぷり恥もかかせてやる。

 登美子はトラックにのりこむと、ドライブイン愛宕を目指した。伸子は利菜の母親、三津子に預けてきた。
 三津子は同じ県営マンションに住んでいる。乳こそ出せないが、伸子が馴れていることと、人一人育てた経験を買った。
 伸子を産むと、マンションの女たちはあちこちで彼女の噂をするようになった。噂をしていなかろうと、登美子はそう感じた。風みたいに吹き回っているわよ、と三津子にこぼしたこともある。
 伸子というのが、流産した三津子の赤ん坊の名前だとは知っていた。だが、三津子は臆病な小心者で、伸子という名前を付けると言い出したときも、ろくに反論できなかったのである。最近は宗教にはまっているようだが、どうしようもないばかだと登美子は思っていた。
 もっとも、怒り出すと金切り声でわめきちらし、どんなに相手がわびようと死ぬまで許すものかという気質の登美子には、誰もかなうはずがない。宗教をはじめてから、二度ほど反抗のきざしも見せたが、登美子のマグマみたいな烈気と早口にやり返されてからは、とんと大人しくなった。
 赤ん坊に伸子という名前をつけてからというもの、三津子と旦那の仲がうまくいっていないことを聞いて、登美子はうれしかった。あの女だってきつく言わないとだめなのだ。佳代子なら、なおのことだ。
 登美子はラジオを切った。娘のことを考えた。佳代子は夏休みに入ってから、少し野放図になっているようだ。寛太家に出入りしだしてからは、ますます目の遠くに行った感じだ。
 近づくなと言ったのに、おまもりさまには近づくなって言ったのに。
 勝手ばかりしているくせに、泣きついたところで知ったことではないと思った。妹の面倒もみないで、遊びほうけていることにも腹が立ってきた。結局佳代子なんて、ぶったたかないとわからないのだ。
 けれど、不安も感じていた。あの子の電話、あの子の声、あの子の調子……。そりゃあ佳代子は恐がりだけど。伸子が生まれてからは甘えたな部分が出てきたけれど(もちろん弟たちがいるときは見せなかったけど)、それでもあの声の調子は尋常ではなかった。
 佳代子と話していたとき、男の声がわりこんだのを聞いたから、よりいっそう不安は高まった。心臓を毛ずねで一撫でするような声。混線なのか、聞き違いなのか、ひょっとすると新治か達郎がなにか話していたのかもしれないが、その声は登美子の胸をかき乱した。山で会ったという男と、まだ一緒にいるのではないかとすら思った。
 娘の後ろにべったりと張りつく、奇怪な男の姿が浮かんでは消えた。
 同時に、登美子は自分に対しても不安を感じていた。頭に血が上ると、何をしでかすかわからなかった。赤ん坊の佳代子の腕を、血がにじむほどひねりつづけたこともある。ほんの小さな頃から、佳代子はいらだちのはけ口だった。佳代子は抵抗しなかったし、なにをしても、最後には許してくれたのである。
 登美子は――基本的には――あの子が好きだった。佳代子だって、母親を愛していた。憎しみの目を向けてくることはあるが、根っこにあるのは愛情だ。それに登美子はこう思っていた。はたくのは、みんなが言うような悪いことじゃない。教育のためだ。あの子をしゃんとさせるため、(彼女の祖父の言葉を借りるなら)やいとを据えるにすぎない。
 だけど、頭に血が上りすぎると、自分が大人で、あの子がこどもであることを忘れて、力を入れすぎてしまう。何度も何度もたたいてしまう。あの子が口から血を流したりすると、さすがに彼女もはっとなる。やいとを据えるのはいい、だけど据えすぎてやけどを負わすのは考えものだ。
 そんなことになったら、隠すしかないではないか。
 ドライブインに行くことになったとき、利菜の母親は同行を申し出たが、登美子は断った。やいとを据えるのはいい。だけど人に見せるのはかんがえものだ。弱味はみせるべきじゃない。
 そんなわけで、早朝に佳代子が自転車でとおった道をトラックでたどる間も、登美子は目がくらむほどに怒っていた。やいとを幾度となく見つめてきた利菜ならば(登美子はちっちゃな子供になら、やいとを見せることも気にとめなかった。どうせなにもできやしないのだ)、おばさんの顔から火が出てる、といったことだろう。
 車はあたごに続く、峠の道にさしかかった。両際に山が迫った。なんだか伸びがないわね、と思っていると、ギヤが四速のままだった。
 登美子は、落ち着け、と自分に言いきかせる。クラッチを踏み、ギヤを五速に入れる。車は佳代子の言う「このケートラ限界速度」に達した。
 登美子はどうやって佳代子にやいとを据えるかで頭はいっぱいだった。やいとのすえかたなら山ほど知っている。佳代子のやつめ、身をもって知るがいい。
「両神山で、おかしな人だって? そんなの聞いたこともない……」
 登美子は頭に血を上らせていたから、直前になるまで、鹿が道の真ん中に飛び出していることに気づかなかった。ブレーキを踏んでハンドルを切る。車はななめにかしぎながら、ズルズルと滑った。タイヤのすれる感触があったかと思うと、登美子の体は宙に浮いた。こめかみを、体ごとガラスにうちつける。足がブレーキペダルを離れ、車が制御できなくなる。
 登美子は恐怖を感じた。
 車はとまった。エンジンが切れ、焼けたゴムの臭いが、どっと彼女を取り巻いた。登美子はシートにうずくまり、額に手をやる。視界がかすみ、情況はぼやけている。
 確かにはねたと思ったが、鹿は道の中央にいた。逃げもせずに。
 視界がはっきりしてくると、登美子はドアを開け、足をおろした。ぴちぴちのジーンズにおおわれた膝ががくりと折れ曲がり、彼女はドアによりかかる。ハンカチを取り出し、こめかみにあてがったが、血は流れていなかった。鹿と目が合うと、なぜか佳代子の顔がちらついた。
 登美子は猛然と怒りがわいた。
 鹿は二本の角を生やし、堂々とした体格ですっくと四つ足をついている。登美子は車にもどって撥ね殺してやろうかと思ったが、牡鹿の目に射すくめられて動くことができなかった。それにその牡鹿は彼女の背丈ほどもあった。
 鹿はひづめをならしながら、さらに寄ってきた。
「何、おまえ……」
 登美子は、苦痛を声に滲ませる。声には熱い怒りもあったが、同時に恐れも感じていた。
「向こうにいけ」
 と、かすれ声を発し、手をふる。路端をみると、林には別の鹿が姿を見せていた。メスもいた。一頭、二頭……林の奥まで無数に姿を見せている。ふいに佳代子の声が――「こいつあびっくり仰天玉手箱」――と頭にひびいた。佳代子は寛太郎から付け足し言葉をいろいろ教わっていたから、最近よく口にする。登美子はいつも、またばかなことを言っているわね、と思っていたが、このときはへんてこな付け足し言葉が、妙におかしく感じた。
 たしかにびっくり仰天だわね。
 空はすでに曇り、風には雨の臭いがまじる。登美子はショートヘアを額に張りつかせながら、向かいあう。樹脂の臭いがぴりぴりとただよい、神経が針のようにささくれ立つ。
 鹿は足踏みをしている。その目が、カッと赤く光ったようだった。
 登美子は佳代子の腕に、たばこの火をそっと押しつけたことを思い出す。彼女はやいとを据えるのが好きだ。怒りにまかせて痛めつけると、なにかを支配している気になる。誇らしい気分になった。佳代子の顔を、風呂の水に押しつけたこともある。突き飛ばして壁にぶつける、はりとばすのはしょっちゅうだ。拳で殴ったりはしないが、てのひらの骨を(手根骨というのだ)確実にあてるすべは心得ている。一度など佳代子のあごをとらえて、脳しんとうを起こさせたものだ。だけど、自分がやいとを据えられている気になるのは、久しぶりのことだった。
「どいてよっ、娘に会いに行かなきゃなんないんだから!」
 だが、ぴくりともしなかった。鹿の目からは本能以外の意思のようなものが感じられた。登美子はその目の奥に、鹿とはよべない巨大な何かを感じた。登美子はそれを恐れ、車内に手を伸ばすと、助手席の週刊誌をとってなげた。女性セブンは、紙の音をならして、鹿の手前に落ちた。
 そいつはみじろぎもせず、彼女を睨みつづけた。登美子はそんなばかなとつぶやき、自らの心に浮かんだ、考えとも感情とも感覚ともつかないようなものを否定して、あとずさりをする。
 踵がなにかを踏んだ、やわらかな物体が靴底でねじれるのを感じ、登美子はきーきーという耳障りな悲鳴を聞く――ネズミだった。
 道の両脇には鹿だけでなく、ありとあらゆる山の動物たちが姿を見せている。
「なんなのよ……」
 鹿に目をもどすと、黒々とした大きな目が津々と腹に迫る。もうがまんできなかった。
 登美子は車内に戻ると、勢いをつけてドアをしめた。
「どけっ」
 クラクションをならす。
「どいてよ!」
 鹿は像のごとく動かなかった。
 脇の動物たちが出てこようとして、登美子の全身から血の気が引いた。身に迫るような、冷や汗が出た。
「かってにしろっ」彼女はギヤをニュートラルにし、エンジンをかけた。「轢かれて死ぬまで、そこにいればいいんだっ」
 車体が震え出すと、少し勇気が出た。車をバックさせ、反対車線にはいると、牡鹿を迂回していった。
 登美子は脇を通りぬけるとき、その鹿をじっと見つめた。
 鹿はまったく動かず、こちらを見向きもしなかった。
「ばかやろうっ……あぶない、うんとあぶないよ」
 登美子は肩越しに振り向いた。鹿は背を向けて立っている。
 誰か別のやつに轢かれりゃいいのに、と彼女は願う。帰り道でも立っているような、そんな気さえした。佳代子にやいとを据える気分は、なくなっていた。
 ケートラをがたつかせ、ギアをトップにあげる。道を急いだ。「このケートラ限界速度」には、もうおかまいなしだった。

        十一

 あたごからはすっかり人気がひいていた。雲がでて、いやな天気になった。日差しがひいた。風は冷たかった。
 男の子たちは鳥肌をたてている。シャツはすっかり濡れそぼっている。彼らは近くの小川で自転車を洗ったが――草の汁をつかったり、たわしを借りてこすったりしたが。乾いた血を落とすのは簡単ではなかった。
 その血糊は山での出来事が、嘘じゃないよと告げているかのようでもある。
 子供たちはしきりに山の方を気にしたが、林からのぞく人影は見えなかったし、誰かの呼び声は聞こえなかった。
 母親をよびたがったのは佳代子なのだが、彼女は時間がたつほどに不安を覚えるようになった。母親は夜の仕事を再開していたが(ホステスよ、と佳代子は利菜にだけ打ち明けたことがある)、その仕事が好きではなかった。登美子は派手好きだが、社交的な性格ではなかったからだ。そのせいで、このところはずっといらいらしていた。
 母さんのことは好きだった。でも、佳代子は母親が怖かったし、他人には見られるのも恥ずかしいようなことがたびたびあった。
 母親のことを思うとときどき不安になる。みんなの前でひっぱたかれることを思うと、身が締めつけられるような気持ちになる。利菜と紗英には、そんな姿を何度か見られたことがある。
 母さんにたたかれるのは慣れている。でも、友達に同情されるのには、いつまでたっても慣れることができない。自分がかわいそうな奴、惨めな奴なんだと思えてくる。なによりも母親のことを憎む気持ち……そんな感情をもっていることを、友達に知られることが怖かった。
 佳代子はときどき、自分が悪いのか母さんが悪いのか、わからなくなる。登美子は感情的だから、他人を納得させるような論理的な言葉で話すのは苦手だったが(言っていることが、ろくすっぽわけがわからず、矛盾もしていた)、佳代子は子供だったし、勢いと不屈の闘志でへし折るやり方がよく利いた。
 それに母さんだって、怒らないでいるときは、普通にできる。普通の人みたいに見える。だから、自分が悪いのかな、と佳代子は思うのだ。母さんを怒らせてる、あたしが悪いんじゃないのかと。
 登美子のことを不安に思ったのは、利菜と紗英も御同様だ。今ではなめ太郎よりも、おばさんの方が怖いぐらいだ。だから、店の食堂に座って迎えを心待ちにしながらも、駐車場に入ってくるケートラの姿を見かけたときは、女の子たちはいっせいに緊迫したのだった。
 店の外では片桐が待ちかまえていた。登美子がトラックを降り、片桐と話しはじめた。赤川と小谷も出ていった。
 利菜たちはその様子をガラス越しに眺めた。達郎が振り返り、みんなのシャツをまじまじとみた。一生懸命洗ったつもりだが、血糊はうすく残っている。
 彼が出ようか、という意味をこめてうなずくと、みんなもうなずいた。一同は連れだって自動ドアをくぐった。
 子供たちが表に出ていくと、登美子がさっと顔を上げた。いくぶん青ざめた顔だった。利菜は、引きつった赤ら顔を想像していたから、面食らった。怒りくるっているというよりは、泣き出しそうな顔に見えた。
 登美子は娘と目を合わせたが、すぐに片桐に視線を戻した。怒っているときは、相手の話なんて聞かずにまくしたてるのに、今は真剣な表情でうなずいているだけである。不気味だったが(あのおばさんが考えていることがわかる人なんているのだろうか?)、おばさんが自分たちを無視したことで、利菜はすっかり気落ちした。電話の応対でおばさんが怒っているのはわかっていた。でも、登美子は、自分たちのシャツに、少しも注意を払わなかった。
「見たでしょ」
 と利菜は顔をゆがめて達郎を見た。「おばさんこっちに来もしなかった」
 達郎は無言だった。少し引きつった顔で登美子を見ている。
「血が見えてたらさ……」
 利菜の言葉をさえぎって、紗英が振り向いた。
「でも、薄くなってる。みんなよく洗ったから……」
「みなよ、これっ」
 利菜が寛太のシャツの肩口を、むなぐらを掴むみたいにして持った。
「ぜんぜん落ちてないよっ。液体ハイターだって利くもんかっ。おばさん、こっちに来なかった、ぜんぜんあわてなかった。見えてないんだよ」
 みんなは口ごもった。紗英はまた半泣きになったが、利菜は気にしなかった。
「訊かないの?」
 佳代子が口を利いた。彼女はぼそりと言ったから、利菜にはよく聞こえなかった。
「えっ?」
 訊き返すと、佳代子はぐっと唇をひきむすんでみんなを睨んだ。
「訊かないのって言ったのよ。訊かないつもりなわけ? あんた言ったじゃんかっ、母さんに血が見えるかどうか訊くつもりだって。新ちゃんの傷にさわっちゃったけど、シャツに血がついてないかって、そう訊くんでしょ?」
「訊くよ」
 と利菜は言ったが、訊く気がないみたいなぶっきらぼうな言い方だ。
「訊かなくていいよ」
 紗英はうつむきシャツの裾をにじくっている。
 利菜はむきになった。「なんで? 訊かなくて平気なの? わたしにはちゃんと見えてるのに、他の人には見えないって、そんなことって……」
 彼女は黙った。金魚の食事みたいに、口がぱくぱく動いてる。
 佳代子が渋い顔で、「なに?」と訊くと、利菜はようやく言葉のえさにありついた。
「ふしぎじゃん」
 すると、みんなは笑いだした。利菜がまた突拍子もないことを言い出すと思っていたのに、返ってきたのは普通の答えだったからだ。
 利菜は、なによ、という顔でみんなを見回したが、やがて一緒に笑い出した。大人たちが注目をした。
 おばさんたちは警察には電話しないことに決めたようだった(きっと大事にしたくないのだろう)。そんなふうな話が聞こえた。
「みんな黙れよ」達郎はまだ笑いながら言う。「ひょっとしたら、おばさん、血だと思ってないのかもな」
「ほんとに?」と佳代子。
「ああ。おれたちが大けがして血まみれだったら、まわりはひどい騒ぎになってるだろ? ただ汚れてるだけだと思ってるんじゃないのかな?」
「そうだね。おばさんただの汚れだって思いこんでるのかも」
 利菜はまるで信じていない調子で追従した。
 登美子がこっちに歩いてきた。
「おかあさん……」
 佳代子は抱きつきたそうにしたが、みんなの前だし、足踏みをして我慢をしている。
「みんな……」
 登美子は一同に視線をむけ、それから平手打ちの代わりに娘の肩に手を置いた。あの鹿の目を思い出すと、なんとなく娘に手を上げる気はなくなっていた。
「佳代子なにがあったの? 誰になにされたの?」
 佳代子は鼻をすすって答えた。
「なにもされてない。ちょっとさわられただけ」
「どこを?」
 登美子は言った。真剣な目で、みんなはなんだか怖くなる。
 達郎が答えた。「ほんとになにもされてないよ。そのおじさんが、新治におどかすようなこと言ったから……」
「どんなことを?」
「おれはジフテリアだって」
 と利菜が言った。彼女はジフテリアがどんな病気か知らなかったが、言葉だけは知っていた。利菜はこの手の作り話は一番うまい。達郎は一人で筋書きを考えていたから、苦い顔で目を閉じた。
「ジフテリアだから、さわるとうつるんだぞって言ってた。その人すごい汚かったから、みんなそのとき信じちゃってさ」
 赤川が、
「ジフテリアだって? そんなもんにかかってるやつが、のこのこ歩いたりしてないよ」
 口をはさんだが、みんなに(特に達郎に)睨まれ引きこんだ。達郎がぐるっと振り向き、ぎょろぎょろ目玉で「おまえら黙れ」の合図をした。しかし、みんなの口はとまらなかった。
「新治は転んで靴が脱げたんだ」と寛太が言う。
「ぼく、もうあの靴いらないと思って捨てちゃった」新治が言った。
「あたしたち、あの人押しのけようとしてさわっちゃって」佳代子が言うと、
「寛ちゃんたち服まで洗ってんの」
 利菜がせせらわらうと、佳代子が振り向き目配せをした。目玉をぐいぐいと、二度ほど利菜の方に送るまねをした。あの話、あの話、とその目は言っている。
 利菜はあらかじめ用意した言葉を、嘘臭く聞こえないよう注意してしゃべり始めた。
「新ちゃんが転んだとき怪我してさ。あたしそこにさわっちゃったから……」
 利菜は血のついたところを探した。彼女はそこを洗わなかったから(おばさんに見せるためにがまんをした。そのがまんは涙ぐましかった)血液は分厚くのこっていた。
「おばさん、ここに血ついてない? 汚したのばれたら叱られる。みっちゃんに」
 みっちゃん、と言うのは利菜の母親のことだ。みんなから、そう呼ばれている。
「わがままぶっこいて、買ってもらったやつだもんね」
 佳代子は期待するみたいに母親を見つめた。ここにあらずの声だった。登美子は服に目をこらしていたから、娘の視線に気づかない。
「なにもついてないわよ。ついてたって、みっちゃん怒ったりしないわよ」
「ほんとに、ほんとについてない?」
「ついてないわよ」登美子はぶっきらぼうに言うと、佳代子を脇に立たせ頭を下げさせた。「ほら、みんなお礼を言って。どうもありがとうございました」
 みんなは内心の動揺を隠して、ありがとうございました、と言った。利菜は達郎が手を貸すまで、頭を下げたままだった。紗英と新治は利菜の服を――血の付いたところを――じっと見つめた。寛太は両神山の方を見張るみたいに目をこらしてる。
 血は付いてる……利菜は服を見下ろし確かめた。訳がわからなかった。みんなでふざけているのかと思った(そんなはずはないけど)。
 ついてるもん、見えないはずあるもんか。
 彼女はむきになった。紗英を見ると、みんなは不安げに顔をしかめている。見えないはずがあるもんかっ、と彼女は思った。
「悪いことをしたわけじゃありませんから」
 片桐が答えるのが耳に入った。
「とんでもないお仕事のおじゃまをしまして」
 登美子が佳代子といっしょにまた頭を下げた。利菜は意を決して、寛太からタオルを奪い取ると、登美子の服をひっぱった。「おばさん、これ」
「なに、利菜ちゃん? 後にしてよ」
「このタオル、この店でもらったの」利菜はよく見えるように、登美子の目の高さに持ち上げた。「汚れちゃって返せないから、お金を払おうと思ったんだけど、うけとってくれなくて」
 おばさんは、利菜の頭をなでた。「あたしからお礼しとくから。みんな自転車はどうする?」
 利菜はタオルを手にとってしげしげと眺めた。洗ったからじっとりとしけっているけれど、血の痕はちゃんとある。佳代子と視線を合わせて、タオルについた痕を確認した。佳代ちゃんには見えてるのに、なんでおばさんは見えないんだろ?
「あとで取りに来るよ」達郎が言った。「おばさん、悪いんだけど、寛太の家まで送ってくんないかな」
 彼は一刻も早く寛太郎に会いたそうだった。みんなも賛成だ。寛太郎なら筋道をつけて、この出来事にも答えをくれそうな気がしたからだ。
「寛ちゃんの家に? また泊まるの?」登美子は娘を見た。「今日泊まるの?」
「紗英も新治も怖がってるから」達郎が一同の顔を順に見た。「みんなで寝たいって言ってる」
「母さん、後で達郎ちゃんとさ。自転車とりにきてくんないかな」
 佳代子が控えめに言った。登美子は額に手をあて、
「もうっ」とうなった。「みんな、そんな目に合ったときは、家に帰る方がいいと思うよっ」
 自転車を取りに来るというのには、登美子はいい顔をしなかった。佳代子がにらまれたが、みんなの表情は切実だった。登美子は六人の子どもたちにじっと見られて根負けをした。彼女は大きく吐息をついた。
「わかった。わかったわよ。でも、達ちゃんは、あたしとまた取りに戻るのよっ」
「わかった」
 達郎がうけあうと、寛太が口をはさんだ。
「じいちゃんに野菜もらって、持ってきたらいいよ」
 それって名案だあ。利菜は内臓が岩になったような気分で考える。店のおばさんたちだって、お金は受けとらなくても、新鮮野菜は歓迎するにちがいない。

        十二

 佳代子はおびえて、助手席にのりたがった。説教をされるとわかっていてもそうしたかった。夏休みの後では大きく事情が変わるのだが、このときは友達よりも、まだ母親の方を信頼していたのである。
 他の子たちは荷台に乗った。寛太は服が濡れて寒そうだ。達郎は荷台の後ろによっかかり、道の後ろばかり見つめている。新治の足にまかれたハンカチには、血がにじんでいる。利菜と紗英はくっつきあって、寒くないように、おっかなくないようにとがんばっていた。紗英ちゃんが寛ちゃん家に泊まりたいって言ったのは、ほんとに名案だったな、と思った。一人で家に戻るなんて最悪だ。
 登美子はもうこのケートラ限界速度をだす必要はなかった。人に会って安心したのは、彼女もおなじだったのだ。
 両神山を離れ、景色がいつもの見慣れた町に戻ったとき、子供たちはようやく安心をした。あのできごとから、ようやく遠ざかることが出来たと思えたのだ。だが、数日のうちに、まったく逃れられていなかったことを知ることになる。
 結局、林の道でも、その後も、鹿は出なかった。

 家についた。寛太郎は外出していた。
 寛太が畑に入り、籠いっぱいに野菜をもいだ。自転車を取りに行くついでに、野菜もわたしておこうと考えたのだ。借りはすぐさま返す、というのが登美子の信条だった。
 登美子が達郎を連れて出かけていった。そのころには黒々した雲が、ばけつからぶちまけられたみたいに空をおおった。
 利菜は言った。「じいちゃんが、雨で帰ってこれなくなったとしたらどうする?」
「そしたら、母さんに迎えに行ってもらう」
 佳代子は意固地になったときの、なにがなんでも口調だった。
 女の子たちは浴衣にきがえていた。三人が先をゆずったから、風呂には寛太と新治が入っていた。かれらがぬいだ服は、一まとめにして固めてあった。竹のかごに入れて、土間の階段下に置いてある。それを自分たちの服と合わせて、納屋にしまうつもりだった。
 三人は縁下にすわって外をながめていた。うたは客間にすわって、とりこんだ洗濯物をたたんでいる。雨が降るのはまちがいないな、とみんなは思った。寛太の祖母は、直観型の天気予報みたいなものだった。
「あの服はさ」
 佳代子は畑を見つめている。今に雨が落ちて、キャベツを濡らすだろうと彼女は思う。彼女はきっぱりした口調で言う。利菜と紗英は耳をすます。
「捨てるにしても、どこに捨てるかが問題だと思うんだ」
 利菜はポリ袋に入れて捨てるところを想像していたから驚いた。
「じゃあ、どうすんのよ?」
「わたしは埋めるべきだと思う」紗英が言った。
「穴を掘んの?」
「穴がないと埋めらんないよ」と佳代子は言った。「ときどきあんたの脳みそこそ、穴ぼこだらけじゃないかと思うね」
 三人はにやりと笑った。
「大森神社がいいと思う。神社なら安全だと思わない?」
 佳代子はなにに対して安全なのかは言わなかったが、利菜も紗英も納得をした。佳代子の言う通りだった。人の血がついた服を、粗末に扱っていいはずがない。
「でも神主さんが許可してくれるかな?」と利菜は言った。
「許可はとらないよ」
「でも、前も穴掘って叱られたじゃん」
「あのときは秘密基地なんてつくろうとしたからだよ。穴にビニールシートもかぶせてあったしね」
「もうしませんって約束したじゃん」と利菜。
「穴を掘るけど、ちゃんと埋める」と佳代子。「でも、うんと深く掘る」と言った。「犬が掘り起こしたらどうする?」
 利菜と紗英はその光景を想像した。二人は顔を見合わせたが、怖がるかわりに笑みをかわした。固い笑みだった。
「川に流すっていうのはどうかな」利菜が言った。
「いいねえ。このことも、ついでに水に流したいよね」佳代子はちゃかす。
「わたしは反対」紗英が言った。「どっかにひっかかったら困るよ」
「紗英ちゃんの服って高いんでしょ? 捨てたりして怒られない」
「たくさんあるから。それに、母さんなくなっても、気づいたりしないよ」
 紗英はぶっきらぼうに言った。会話はしばらく中断した。
 利菜はこのとき、初めて風が出てきたことに気が付いた。嵐にでもなるんだろうか?
「たしかに、川に流したらさ」佳代子が言った。「それはそれで行く先が気になるよね。居場所がわかんないのは不安だよ」
「海まで流れて消えればいいのに」利菜が言った。
「それでも、わたしは安心しないと思う」
 佳代子は膝を抱えた。顔はまっすぐ前を向き、背筋は伸びていた。佳代子らしい強がりだが、利菜はそんな彼女を見直した。それに、佳代子は正直だった。
「わたしも、あの服がどこにあるか、わかってた方がいい」と彼女は言った。
「神社ってのはいいと思うな」紗英もみとめた。「霊は鎮めるもんだって、じいちゃん言ってたもんね」
「それ、肝試しのときの話だよね」
 佳代子は右の脇腹をさすった。ちょうど肝臓がある辺りを。度胸を決めるときは、ここが肝腎だぞ、と言った寛太郎の言葉を、よく覚えていたのだ(あとで漢字も教えてくれた)。その部分を叩きながら教えてくれたから、みんなの印象はかなり強かった。そこは夜の墓場で、街灯がじいさんの顔を照らしていた。だからよけい記憶に残ったのだ。
「お寺の本堂にさ……寛太のばかがひっこぬいたっ」と佳代子は風呂場によく聞こえるように言った。「卒塔婆を返したら、あたしはあれで安心したな」
「じゃあ、お寺に持っていったらどうかな? 祀ってもらおうよ」利菜が名案だというふうに佳代子をゆすった。
「説明すんのがめんどうだよ。他人の耳に入るし。なめ太郎なんて、名前も出したくない」
「じいちゃんならわかってくれるよ」
「どうかな」佳代子は疑った。「あたしはさ、この話もう誰にもすんのいやなんだよね。あたしたちの胸にしまっときたい。そんではやく忘れたいわけよ。わかる?」
 二人にはわかる気がした。
「じいちゃんにだけは、なめ太郎の話はしようと思う。でもだよ。じいちゃんにも見えなかったら、どうする?」
 それは重大なことのような気がした。
「それっておしまいだと思うな」と佳代子は会話を締めくくった。
 子どもたちは、タオルを服とわけ、仏間にしまっておいた。寛太郎に見せるためだ。
 利菜は、
「国村さんのことはどうすんのよ?」
 と言った。とつぜんだったから、紗英と佳代子にはなんのことだかわからなかった。
「なに?」
「国村さんのことはどう話すの? ひょっとしたらさ……」
 利菜は国村が怪我をしているところを想像したが、佳代子が、「いま、ひょっとしたらは聞きたくないよ」と遮った。
「でも、連絡はとってもらった方がいいよ」紗英が言った。「電話してもらってさ。あの人が元気でいるってわかったら、わたしは安心するもん」
 佳代子はうなずいた。「同感だね。でも国村さんって、どこに住んでんの?」
「二宮町の方じゃない」
 利菜がいうと、佳代子もうなずいた。「この町ではないと思うな」
 そのとき、風呂の戸ががしゃんと開く音がして、寛太と新治があがってきた。
「上がったぞお、ばっちゃんっ」
 寛太がいつもの大声で言ったから、三人は顔を見合わせて笑った。佳代子が言った。「ふりちんだったら、笑えるのにね」
「佳代ちゃんたち、入りなあ」と歌が声をよこす。
「ばあちゃんには?」
 立ち上がった佳代子に、利菜はすばやくささやいた。
「言えないよ。心配するから」
 と佳代子は答えた。
 女の子たちが風呂に入ると、とたんに雨が落ちてきた。最初はばらばらと。やがて烈しく大地をうちだす。寛太の家は風呂場が出張っていて、そこだけはトタン屋根だった。トタンを叩く烈しい雨音を聞いていると、三人は機関銃で撃たれているような気がした。なめ太郎が屋根の上で騒いでいるような気もして、三人は風呂のなかで肩をつぼめた。
 結局、寛太郎は雨に濡れて帰ってきた。途中で降られたらしかった。彼が耕耘機を庭にいれ風呂に入っているうちに、子どもたちは話を合わせた。服のことでは男の子たちも同感だった。
「もうあの服はおれんじゃない」
 と寛太は言った。利菜もその意見に同感だった。今日着ていったのは、お気に入りの一着だったが。さんざん駄々をこねて買ってもらったのに。母さんはその日は一日不機嫌で、翌朝利菜がごきげんとりに抱きつくまで怒ったままだった。彼女はそれでも服が惜しいとは思わなかった。
 雨は烈しく、軒下には滝があった。利菜は家のなかに閉じこめられたように感じたし、紗英も佳代子も安心感が減ってしまった。いつまでも風呂にはいるなっ、と、寛太はじいちゃんに怒ったし、新治は帰りの車を探して、ずっと縁下にいる。
 利菜は納屋の中にいる服のことを考えた。ある、のではなく、いる、と考えた。あの服は、証拠みたいなものだった。あのときあったことの。でも、この雨では埋めになんていけない。じきに陽がくれて夜になる。そしたら大森さん(大森神社のことだ)に行くのは、明日ということになる。
 子どもたちは今日のうちに片をつけたかったが、嵐だけはどうにもできなかった。
 そのうち、家の私道にはいるトラックがあって、登美子と達郎が戻ってきた。家の東側は土間になっている。登美子はそこに車をいれた。みんなは自転車をおろすのを手伝った。
 登美子は寛太の祖母に礼を言って、佳代子たちには、「おとなしくするのよ」といつものせりふを捨て、そそくさと帰っていった。寛太郎が大の苦手なのだ。
 風呂場からは寛太郎の歌声がひびいてきた。さびれたいい声で唄っている。この人は、詩吟もやれば謡曲もやる。昔は教師だったそうで、子どもたちに朗読もやらせた。
 彼が長風呂をしているのは、寛太が早くあがれといったからで、その寛太は風呂の釜戸に陣取って、火吹き竹で、もうもうと火事を起こした。
 寛太郎はゆでだこになりながらも、涼しい顔であがってきた。いつもの安っぽいグンゼに、パッチをはいて、白髪頭に湯気を立てている。
 雨のせいでいつもより煙が外に逃げないから、家の中は煙たかった。
「坊主、朝日ソーラーがあるのに、なんでわざわざ薪を焚いた」
 と寛太郎が寛太をなぐった。彼は男の子の頭をよくこずいたから、知らない人が見るとびっくりする。
 じいちゃんが寛太の頭を殴ったとき、雨はやや小ぶりになっていた。
 寛太郎は白髪をタオルでかき上げながら、ぺたりと腰を落ち着けた。子供たちは神妙な顔でじいさんを見ていたから、すぐにみんなの様子に気が付いた。
「坊主、山は楽しかったか」
 寛太は首をひねった。
「いや」
「そうか」
 二人は黙った。雨の音がぽつぽつとした。
 寛太郎は年はもう七十を越えていたが、座っても背筋はしゃんとしている、人柄ほどにはくだけていない。子どもでも筋の曲がったやつは許さないという人であったから、寛太以外は正座をしていた。だから、寛太郎はますます山でなにかあったな、と勘ぐった。ばっちゃんは大事な話があっても、じいちゃんの耳にはあまり入れない。
 子どもたちは畳んだタオルを、テーブルにおいていた。みんなはそのタオルを見つめる。
 達郎はどう切り出していいかわからなかった。じいちゃんなら、どんな話をしてもばかにしないのはわかってる。だけど、この気持ちを――なめ太郎につかまれたときの感触を、わかってくれるかどうかは疑問だ。なめ太郎なんていないと達郎は言った。でも、それはほんとの気持ちじゃない。
 あのとき、達郎と新治の兄弟だけは、なめ太郎につかまれた。二人が感じたのは、純然たる恐怖だった。悪寒の熱波のようなものが、体を突き抜ける感触すらあった。思い起こすだけでも、得たいのしれないおぞましいものが、犬の舌のように魂をなでまわすのだ。あんな感じをおぼえていたら、きっと気が狂うと達郎は思った。
 それに血まみれになったなんてっ。血まみれになって、その血が他の人には見えなかったなんてっ。
 このことはもう考えたくなかった。あの服も処分して、さっさと忘れてしまいたいと達郎は考えた。彼は年下の子どもたちに対して、いつもあるていどの責任を押しつけられていたけれど、でも、こんなときに正しいもくそもあるんかな?
 みんなはそれぞれ不安を抱えていたが、いつまでも引きずりたくないという思いはいっしょだった。寛太郎に話すかどうかも迷った。できれば、話したくなかった。両神山では変な人にあっただけだと、うそをつきつづけたかったのだが、それができなくなったのは(つまり正直に話すしかなくなったのは)新治が泣きはじめたからだった。
 彼は膝のうえで拳をにぎりしめていたが、その手の上にぼたりぼたりと涙が落ちた。
 女の子のまえで男が泣くなんて最悪だ。だけど、達郎は新治の気持ちがよくわかったから、彼の肩をさするばかりで、別になんとも言わなかった。寛太はあぐらを組んだ足を両手でもち、所在なさげに顔を伏せた。佳代子はそっぽを向いた。紗英は泣き出した。
 利菜も涙が出た。今日一日の苦労ですっかりくたびれきっていた。納屋の奥の服を思い、なめ太郎のことを考えた、おまもりさまのことも考えた。
「じいちゃん、あの話、うそなんだ」と彼女は言った。鼻水が垂れた。そいつを吸いこみ、
「男の人なんて、ほんとはいなかった。わたしたち、おまもりさまのそばまで行った。行ったらいけないって言われてたけど、でも、気が付いたらそばまで行ってて、そしたら、国村さんの声がした」
 利菜は本格的に泣きはじめた。会話がとぎれた。紗英は肩をふるわせ泣いている。達郎も涙はにじんだ。寛太はぐっとこらえたが、もっと下を向いて涙を隠そうとした。
 佳代子が後をついだ。「国村さん、ほんとはいなかったのよ。けがしてるから、助けてくれって言われて、わたしたち助けようとしたけど、ほんとは国村さんなんていなかった」
 佳代子は泣いた。みんな泣いていた。寛太郎は腕を組んで黙った。みんなのヒステリーが、おさまるのを待った。
「おまえたち、腹はすいとらんか」と訊いた。そういえば、昼飯もまだで、子どもたちは腹ぺこだった。
「空いてる」
 利菜が小声で言うと、寛太郎は台所のばあさんに「おおい飯の支度を頼むぞ」と声をかけた。
「それでなにがいた?」
「血が流れてた」と達郎は言った。彼は年長だが、泣けるものはしかたなかった。「そんであいつがいた。おれたちそいつにつかまったんだ。うそじゃない」
 達郎はうそじゃない、というとき、顔をあげてぐっとにらんだ。なめ太郎のことはおっかなくって、あいつとしか言えなかった。
 寛太郎はぐっとうなずいた。
「でもちがうぞ」
 と寛太が言った。じいちゃんはなにがちがうんだ、と声に出さずに顔で訊いた。
「じいちゃん、ビルマでおっかながった仲間に撃たれたって言ったろ。敵と間違えられたんだろ? でも、あれはみまちがいなんかじゃぜったいないっ。みまちがいなら、いっしゅんだとおれは思うけど、おれたちはずっとあいつを見てた」
 みんなは寛太の言うとおりだと思った。みんなは見間違いだと思いたがった。でも違ったのだ。あいつは新治や達郎にさわった。寛太の帽子をとった。枝や蔓草だったら、そんないたずらしっこない。こどもたちはみんな、心の奥底では気がついていたのだけれど、気づかない振りをしていた。それを、寛太は、感情を吐き出すのといっしょに、言葉にしたのだ。
「あいつってなめ太郎なんだ。おれたちおまもりさまでなめ太郎を見たんだ。なめ太郎って先生から聞いた妖怪だ。じいちゃん知ってるか?」
「いや」
 寛太郎は首をふった。寛太郎がなめ太郎のことを知らないと知って、みんなは不安げな顔をしたが、寛太郎がうそをつかなかったのは、うそをついても見抜かれるとわかっていたからだ。寛太郎は年寄りだが、ばかではないし、彼なりに子どもを理解していた。
 利菜が言葉を選びながら、慎重に言った。「妖怪ならさ……ほんとはいないはずなのに……でも、先生の言ったとおりだよ。腹がぼっこり出てて、舌がうんと長くて……」
「汚かった」と新治が言葉を継いだ。そして、熱っぽくまくし立てた。「なめ太郎は垢と泥と血で汚れてるって。先生が言ってたこと、ぜんぶほんとだった」
 新治の顔に涙と鼻水がたれた。熱い熱い液体みたいなものが胸をふさいだ。彼は胸が詰まってつづきを話すのに苦労した。「おれ、臭いもかいだ。くさかった。あいつの口――牙がはえてた。あんなの、人間じゃない」
 新治の言うことはもっともだった。彼はなめ太郎に引きずり倒されて、下からあいつをじっと見た。血の臭いで、むせかえる喉をこらえ、達郎と寛太を捕まえようとするなめ太郎のことを、誰よりも間近で長く見ることができた。彼の話は詳しく、子供たちの頭に両神山での記憶をよびおこした。
 利菜は寛太郎の顔を注意深く見た。涙の浮いた目で眉間にしわをよせて。それは子供の目というより、もっと成熟した観察者の視線だったが、その目から見て、寛太郎はいまの話に納得しているなと思った。
 利菜は少し安心してなめ太郎を思い出した。「髪はざんばら髪で、目玉は黄色かった。腰には布を巻いてたと思う」
「それはおかしいよ。あいつは蔓草のあいだから顔だけ出してたもん、体は見えんもん」と佳代子が涙を拭いた。「でも、ほんとはなめ太郎なんかより、わたしは血が怖かった。新ちゃんたち転んだから、地面に流れてた血で血まみれになった。ちょっとだけついたんじゃなくて、池に落ちたみたいになったもん」
 達郎が静かに言った。「ひどかったよ。あの血暖かくて……」
 紗英がとめた。「やめてよ、そんな話ききたくないよ」
 達郎はおとなしくなった。
 寛太郎が訊いた。「ほんとかい?」
「疑うんだ」利菜が言った。「わたしたち正直にうちあけたのに、疑うんだ」
「疑っちゃおらん。だがねえ……」
「その血、他の人には見えなかった」また涙がでた。まぶたの裏に水をだす紐があって、誰かが定期的にひっぱっているみたいだ。
「おばさんたちにも、佳代子の母さんにも見えんかったもん。でも、わたしにはずっと見えてたし、証拠ももってる」利菜はタオルをひろげた。地図みたいに血の染みがあった。「ここに血の痕がある。わたしたち、これで自転車についた血、ぬぐった。ピンクになってるけど、あるでしょ?」
 だが、寛太郎は黙ったままだった。子どもたちのあいだに失望がひろがった、失望の空気が。それはあまりになまなましかったから、手でつかめるんじゃないかと思ったほどだ。
「見えない?」佳代子が訊く。
「見えんな」寛太郎は腕をくんだままうなりを上げる。ついでにおならをした。
 寛太が言った。「やめろよな、じいちゃん」
 佳代子はやけっぱちになって言った。「じゃあ、わたしたち頭がおかしくなったんだよ。なめ太郎も見えるし、見えない血もみえてる、すごいよねっ?」
「服にも血がついたまんまだよ。見たい?」
 利菜が言うと、寛太郎はうなずいた。みんなは土間に降り、外にでて、それから納屋の前に立った。雨はまだ降っていて、風は雨より強かった。雨風はぶわぶわとふきよせて、みんなの体にぶつかっている、土の地面と畑の草を叩いている。なすやトウモロコシが風に揺れ、まるで生きているみたいだ。
 寛太郎は痩せた体をすっくと立て、ガタガタしゃべるシャッターとにらみ合った。みんなは沈黙してその様子を見守った。
 やがて長い長い空白の時間が過ぎると、寛太郎は振り向いてみんなをにらんだ。
「えい!」
 と寛太郎は腹の底からわき起こるような胴間声で、子どもたちに気合いをかけた。「どいつも顔が死んどる。おっかながるな!」
「無理なこというなっ」と寛太が怒った。
「達郎、新治、シャッターをもて、女は後ろにまわれ、寛太は控えろ」
 寛太郎がてきぱきと指示をだすと、固まっていた子どもたちはいっせいに動いた。やたら手慣れているが、畑仕事ではいつも寛太郎が指示をだすからだ。
 達郎と新治が振り向いた。開けろっ、と寛太郎は言った。二人はがらがらと力をあわせてシャッターをおしあげた。寛太郎は大股で中にふみこんだ。
「寛太、電気をつけろ。みんな付いてこい」
 寛太がシャッターの脇にあるスイッチを押した。裸電球が橙色の光を振りまいた。
 みんなは固まりあって、寛太郎にひっついた。
「それだよ」
 佳代子が指さした。納屋の一角は、透明のトタンが窓がわりになっていた。そこから明かりがあった。服はその明かりの下、カゴに入れて置いてある。靴もいっしょに。みんなはサンダルばきだ。
「こんなところに置くな」
 寛太郎は子供たちを見下ろしどなった。
「部屋におきたくねえもんっ」と寛太は言った。
「ちがう」寛太郎は怒鳴った。「こんなとこに置くから妙なもんに思うんだ。いいか、これはただの服だ。こんなものは、踏みつぶすぐらいの気合をもてっ。わかったかっ」と言って、寛太を殴った。「こんなものは、外につるしてしまえっ」
「でも、見たくもないよ。わたしらには血が見えるもん」利菜は言った。「じいちゃんは見えないから平気なんだ」
「それはちがう。おまえらより度胸があるから平気なんだ」寛太郎は腰に手を当て、腹をつきだした。
 みんなは考えた。顔を見合わせて、お互いの意見を確認した。寛太郎に度胸があるのがほんとなら、隠してあるとよけい気になるのもほんとだ。それも納屋なんて薄暗い、あまり人の行かないところにあるとなおさらだった。
「でも、わたしたち、そいつ、神社の境内に埋めたい。それはいい?」と佳代子は訊いた。
 寛太郎はうなずいた。「いいだろう」と言った。
「みんな、自分の服をもて」
 みんなは籠に群がり、言われた通りにした。血は八割方落ちていたが、まだしけっている。みんなが服を持つと、達郎が靴下や小物の入った籠をぶら下げた。
「外にでろ、竹竿にひっかけろ」
 納屋の横には紐で竹竿がつるしてある。洗濯ばさみがかかっていた。そこにぱちぱちと服をとめた。靴は下に並べて置いた。
「こんな服もう着ない。私、靴も捨てる」
 紗英が言った。新治は半べそをかいていた。雨交じりの風が、こおっと吹いて、子どもたちと服を払った。
「わしには血は見えん。だが、おまえらの見たものは信じる」と寛太郎は言った。
 みんなは神妙な顔で聴く。この夏、寛太郎の説法はさんざん耳にしていたから、なにか伝えたがっているのはわかっていた。
「こわがっとるのもわかっとる。わしだって血が流れるのを見たときはおっかなかったもんだ。だがな、そんなときでもおっかながるだけじゃだめだ。肚腰を定めてこらえるんだ……そこが肝腎だぞ。いいかっ、腹があがりかけたら、横隔膜をぐっと下げろ。息を強く深く吸いこむんだ」
 みんなは言われたとおり深呼吸した。
「おっかなくたって、筋を曲げるな。怖いのをやっつけるぐらいの気合いが大事だ。弱い気持ちをやっつけるんだ。それさえできれば、怖いのだって大丈夫だ」
 寛太郎の言っていることは、いつもながらへんてこに聞こえた。怖いのが平気だったら、怖がったりしない。使っている言葉も古めかしくて、子供たちにはちょっと難しかった。
 だけど、わからないながらも、こどもたちには率直な意見が耳を通った。寛太郎の言葉を借りるなら、頭ではわからなくても肚で(つまり心で)納得したのである。
 それに寛太郎は、そんなことはありえないとは言わなかった。どうすればいいかという話をした。この老人が大丈夫だとうけおうと、みんなはほんとに大丈夫なような気になった。寛太郎はいつも言っているが、言葉よりも気持ちが大事だった。
「さあ、飯にしよう。満腹になればもっと落ちつくぞ」
 とみんなを追い立てた。
「なめ太郎のことは? 血のことは?」
 達郎が訊いた。
「わからんことはいつまでたってもわからん。わかるときにはわかるんだ。無理をして考えこんではいかんぞ」
 みんなこれには納得しなかったが、納得したふりをした。
 一同は雨の降る玄関から、じとりと湿気の漂う土間に行った。寛太郎は、まだ燃えている竈にいくと、鉄の蓋に杭を引っかけて、開けた。みんながあっと思う間もなく、タオルをほうりこんでしまった。
 みんなの見ている前で、タオルはじゅーじゅーと蒸気を放ち、やがて黒くなったかと思うと火がついた。
 あっけにとられている子どもたちに、寛太郎が言った。
「なめ太郎がなんだ、血がなんだっ。そんなもんを怖がるしみったれにはなるなっ。達郎、おまえはどうだ?」
「平気だ」達郎が答えた。
「おれ、なめ太郎の顔なぐった」寛太が言った。「つぎも殴るぞ」
 男の子たちのうち、新治だけはだまったままだった。
 寛太郎が肩に手を置くと、彼はぎゅっとくちびるをかみしめた。
「いまだけだ。痛いのだって、こわいのだって、みいんな薄れて消えちまう。今、ちゃんとしときゃあ、後になっても大丈夫。今がこらえどきだぞ」
 新治はうずいて涙をぬぐった。子どもたちは、その午後ではじめて息をつくことができた。
 居間にあがると、みそ汁と目玉焼きができていた。みんなは熱いのをすすりながら、今後の方針を話し合った。服は明日、神社に埋めに行くことで一決した。
 早めに布団をひいて、蚊帳もつって、疲れたからだを休めることにした。
 寝間着の上に布団を乗せると、ようやく体があたたまり人心地がついた。
「今日は大変だったなあ」
 達郎が言った。
 夕暮れ時が近づき、雨もあがった。山の稜線には靄がかかった。夕日がその靄をオレンジに染め抜いた。
 佳代子と寛太は、寝場所の陣取りで叩き合っている。そのうち、紗英が朗読をやりはじめたから、みんなもそれに追唱した。
 寛太郎と歌も蚊帳の中に入ってきた。古い家に、みんなの声が朗々と響いた。


第二部 おさそい

 章前 二〇二〇年 ――後日

        一

 佳代子はいつでも電話をかけてこいと書いていたが、高村利菜は数日がたっても、受話器をとる気にはなれなかった。携帯電話を片手に、アドレスを呼び出すところまではいったのだが、電話をかけるには至らなかった。正直、これほど佳代子を必要としたことは今までなかったと思うが、結局は連絡をとらないまま、漫然と日を過ごしていたのである。
 彼女がついに佳代子に電話をかける決意を固めたのは、五日後、ふたたび悪夢から目を覚ました朝のことだった。
 窓からは朝の光がカーテンを越してさしかけていた。彼女はその光の筋を眺めながら、無秩序にも思える幻覚にも、法則があることに気がついた。幻覚は、彼女が不安や恐怖にさらされたとき、あらわれる確率が高かった。まるで負の感情が、表に形をとってあらわれてくるかのように。
 不思議なことに、佳代子からの手紙を受けてからというもの、幻覚や不眠症などの症状は下降線の一途をたどった。睡眠時間が増えはじめ、幻覚はほとんど見なくなった。利菜はこれを、手紙の効果なのだと考えた。子供のころと同じで、佳代子は自分を救ってくれたのだ。
 佳代子は両神山で殺人事件があったと書いていた。記事の載った新聞を探してみたが、古い新聞は捨てており、見つからずじまいに終わった。出版社につとめている秀男に訊けば、なにごとかわかるはずだが、手紙のことじたい話せずじまいで、故郷で起こった殺人事件のことも伝えていなかった。言えばどうにかなったろうか?
 あの夏の記憶は、少しずつだがよみがえってきた。手紙が記憶の引き出しを探り当てたかのようだ。だが、その引き出しは混沌としていて、のぞき見るのも容易ではない。なにせ、彼女自身がおっかなびっくり、その記憶にふたをしようとしているのだ。
 思い出すことが怖かった。佳代子たちはかなりの部分を思い出したようだが、利菜ときたら、ふとしたことで浮かぶ記憶にも、一驚していたのである。佳代子たちに会いたかった。会って相談がしたかったし、ことの真相が知りたかったのである。なによりも心配だった。佳代子はいやがらせを受けていると書いていた。誰に? 殺人事件があり、犯罪が多発しはじめた町で、誰にいやがらせを受けているのか?
 友人の身に起こったこと、起こりうることを考えると、彼女は心配でたまらない……。
 なによりも怖いのは、自分の中の変化だった。
 この一年間は、佳代子はおろか、神保町のことすら思い出さなかった。あの町に関する思考がすべて欠落していた感じなのである。なのに、いまでは故郷に帰らなくてはという感情が、強迫観念にまで高まっている。あの町に。あの山に。じつのところ、独りぼっちで取り残されているような、そんな錯覚すら味わっていたのである。
 いや取り残されているのはわたしだけじゃない、紗英もだ。あの子も神保町にはいない。
 だが、その事実は、少しも気休めにはならなかった。
 彼女はなるべく論理立てて考えようとしたが、理屈では割り切れないことが多かった。第一に記憶喪失、第二に幻覚のことである。幻覚や記憶喪失に、集団でかかるとは考えにくかった。部分的に記憶をなくすということはあるだろうが、集団で失うなどありえない。それも六人が六人とも、同じ時期の記憶をなくしている。
 集団で幻覚を見るということはあるだろう。だが、今回は、集団といっても互いに遠く離れた場所で起こっている……。
 子供のころも、同じ体験をしていると佳代子は書いていた。あのころ不眠症や夢遊病にさいなまれていたのなら、親が気づくはずではないのか? 少なくとも、紗英の母親が(と利菜は皮肉めいた気持ちで考えた)。
 佳代子にかつがれているのなら話は別だ。あの手紙自体が、たんなるいたずらだったのならそれでいい。だけど、それはありそうにないと、利菜は思った。
 旦那と娘が出かけるのを待った。十時が来た。受話器とにらめっこをくりかえした。彼女はこう考えた。いっそ向こうからかけてくればいいのに。それなら肚を固めて受話器に指をかけては、くじける苦労もなくなるのに。
 だけど、佳代子にたいする心配の情は強くなる一方だ。利菜はあの子たちがいなくなったら、もう自分の今の情況を理解してくれる人物は一人もいなくなることに気がついた。不眠症や幻覚にさいなまれる自分をわかってくれる人は、彼らをおいてほかにない。
 ひょっとして、向こうからはかけられない事情があったとしたら……。佳代子は書いていたではないか、神保町には戻ってくるなと。ここで電話をかけないということは、あの子を見捨てることと同じじゃないかと、彼女は自分に問いかける。
 利菜は佳代子のことを思い、自分と同じ目に合っているはずなのに、まだ自分を思ってくれる佳代子の気遣いに涙した。電話をかけたのは、その気遣いに応えるためでもあった。ことに対する好奇心もある。もちろん。だけど、相手をコールする電話の無機質な電子音をきいていたとき、彼女はこの一件をなんとか解決したいという一心だった。不眠症も、神保町での犯罪事件も、解決できるのは自分たちだけではないか……そんな錯覚すら覚えるのだった。
 そして、コール音の陰では、こんな声が、かすかにささやくのを感ずる。世界はねじ曲げられている……
 受話器の向こうから佳代子の声が聞こえたとき、なつかしさと安堵で胸が暖まった。自分が思った以上に参っていることを知った。
「佳代子? あたしよ、上原利菜」
 しばらく沈黙があった。佳代子はこう言った。「いまは高村利菜でしょう……」
 利菜は、佳代子が歓迎しない口振りながらも、おなじように懐かしさを感じていることを知った。
「荷物は届いたわよ。手紙も読んだ」鼻をすする。「ありがとう。お仲間がいるって知って、ほっとしてたとこよ」
「お仲間……? そう……じゃあ、あんたも不眠症で苦しんでるってわけね」
「そうよ」
「あの手紙を読んで、あたしがいかれたとは、あんたは思わなかったわけだ……」
「元気がないじゃない」鼻をすすった。なんでこんなに涙が出るのか、胸が熱くなるのか、自分でもわからなかった。ひとつには安堵のためと思う。胸にためこんでいた不安が、あふれ出ていくようでもある。「あたしは、あたしはほっとしてる。自分がおかしくなったのかって疑ってたときに、病気で、だめになったかもしれないって思ってた。でも、あたしと……あたしのことを理解してくれるやつがいるんだって思ったら……」
「どっと安心したわけだ」と佳代子は言葉をついだ。「あたしはねえ、あんたが電話をかけてこなければよかったって思ってた。でも、いずれこうなることは、わかってたように思うよ」
「紗英には連絡をとったの?」
「とれてない。手紙は送ったんだけどね。忙しい子だから……読んだかどうか」佳代子がせきばらいをした。涙ぐんでいることは、容易に想像できた。「子供のころもさ、あんたはいちばんあたしのことわかってくれたから、だから、電話もかけれなかったのは、きつかったよ」
「こっちもおんなじよ。ねえ、しばらく会わなかったなんてうそみたいだよねえ」
 二人は電話越しに笑い声を通わせた。
 利菜は言った。
「あたしはちょっとずつ眠れるようになってね。幻覚も見る回数がへったわ。悪夢はみてるけど、でも、前ほどひどくはないと思う。今日、電話をかけたのは」ぐっと声をつまらせる、唾を飲み下す。「あんたのことが心配だったからよ」
 利菜は黙りこみ、相手の反応を待った。佳代子はなにも答えない。
「両神山に行ったんでしょう?」
 と利菜は言ったが、電話は無言が続いた。
「なにを見たの?」
「なにも見てないわ」
「なにを思い出したの?」
「あんたはどうなの……。どこまで覚えてるの?」
「詳しいことは思い出せない。山で迷ったときの記憶も出てこないのよ。でも、こんなことってありうるのかな? だって、みんながいっせいに記憶をなくしたり、幻覚をみたり、不眠症にかかったり……それに、子供時代にも同じことがあったなんて、そんなこと信じられない……」
「そう、あんたは思い出してないのね。おさそいのことも、なにも」
 おさそい? おさそいと言ったのか?
 佳代子の声にいらだちがまじったようだった。利菜はとまどいを感じ、受話器をわずかに耳から離した。
「あんたの身になにもおこってないんなら、黙ったままでいようと思ってた。あんたはもう町を離れてるし、両神山のちかくにはいない。子どももいるしね」と佳代子はつづけた。「あたしたちは夢を見てただけじゃない。真っ昼間にだって、幻覚を見てたわ。二十五年も前のことだし、わたしもあれが現実だったのか確信がもてなかったけど、寛太は覚えてたし、新ちゃんや、達さんもね。いま思うと、大人になってからの幻覚は、全部子供のころに関することだった。あの二人に話すかどうかは、そりゃ迷ったわよ。新ちゃんはなんども捕まったし、いちばんおっかない目にあってたから」
「あんた、捕まったって言った?」
「そういったわ」佳代子は言った。「おまもりさまにね。あたしたちはおまもりさまにおさそいをうけてた。いったいどこまで覚えてるの?」
 おぼえていた。心の奥深くではすべてを直覚していたが、見えない壁がせきとめるかのように、意識の表面にはのぼってこない。
「詳しいことはなにも」
「無理ないかもね。あんたはほんとうにつかまったわけだし」
「なにによっ」
「おまもりさまによ」
「……いいかげんにして。電話をきるわよっ」
 利菜はほんとに切断ボタンを押そうと思った。受話器を耳から離し、指をボタンに持っていった。だけど、そのとき、受話器の向こうから声がし、それは佳代子の声ではなく、低いにじみだすような男の声で、「切るな」とそう言った。
 利菜は受話器を耳にもどし、ゆっくりと顔をなでた。
「後ろに寛太がいるの」
「いないわ。聞こえたのね」
 佳代子の答えは聞く前からわかっていた。
「電話の混線かしらね」
「ありえないよ」
「寛太がいるんでしょ……」
「泣かないで」佳代子は昔とかわらぬやさしい声音だ。そばにいたら髪をなでてくれたことだろう。必要なのはそれだった。寛容と、理解と。「あんたもまいってるのね。肚をたてたりして悪かったよ。寛太はいないわ。あんたに連絡をとるの、反対してたから」
「どうして……?」
「わかってるでしょ」
「わたしがつかまったからね」利菜は言った。佳代子が言ったように泣いてはいなかった。でも、口元を抑えて、涙をこらえる必要はあった。「思い出せないけど……なにかあったことはわかってる。また危ない目にあうっていうの?」
 電話の向こうで佳代子はなんどかうなずいた。「あぶないかもしれない。あのときのおさそいは、だんだんひどくなったから。また始まったのよ」と佳代子は言った。「いまのあんたになにが起こってるか、あたしは知らない。あたしたちは逃げられたんだと思ってた。でもちがった……あたしたち、つかまったままだったのよ」
「わたしは半年前からいやな夢を見てるわ。幻覚も見てるし。それに夜中にかってに歩きまわってるみたいなのよ」
 涙はこらえられなかった。かってにあふれだしてきた。
「……わかってる」
「わかってる? なにが?」鼻がつまり(それはたんなる鼻水とはおもえないほどに熱かった)、利菜は言葉につまる。「なにがわかるの? 目が覚めたらバスタブのなかにいたこと? バスタブの向こうに女が立ってたこと?」
「溺死女……」
「なんだってっ?」
「なんでもないよ……。でも夢遊病がおこってるのは、二十五年前と同じよ。やっぱり、あんたもあたしもおさそいをうけてるのよ」
「でも、あんたは、あんたは覚えてくれてる。わかってくれるのね?」
「わかってるわ。あたしたちは同じ目にあってたんだから」佳代子は間をおき、「今もって」
「寛太は? どうなの?」
「おなじよ。おさそいを受けてる」
「あんたには? あんたにはなにが起こってるの?」急に記憶があふれだし、彼女は一瞬言葉をうしなう。「思い出したよ。無意識に行動してたこともあった。わたしはあんたを見捨てようとしたこともあったわ」
「それはあんたのせいじゃないよ」
「だからこわいのよ。ますます、自分が……どうにかなったら? 娘になにかしたら?」
 佳代はなにも言わない。
「否定してくれないのね」
「あのころのおさそいとはちがうのよ。ちがうというか……ちがうと思う。大人になったからそう思うのかもしれない……だけど」
「山でなにがあったの?」
「言えないよ。あたし、あんたに戻ってきてとも言いたくない。そんな無責任なことは言えない。でも、どうしていいかわからなくて……」
「つかまってるのはわたしもおんなじよ」
「こんどのはちがうのよ」
「なにが」
「みんながよ。こんどのおさそいは町中がつかまってる、そんな感じ」
 こんど泣いたのは佳代だった。
「……泣かないでっていうのは気休めになりそうね」
「そうね」
「でもわたしがついてるわ。あんたがわたしについてるみたいに」
「そう。マンション仲間の絆は消えてないってわけだ」
「あのころの絆はね」
 佳代子はため息をついた。「あと問題なのは……紗英ね」
「あの子も危険だって言いたいの」
「わからない。彼女と連絡とってる?」
「最近はごぶさたなのよ。フライトでとびまわってるみたいだし」
「でも、両神山にいないかぎりは安全かもしれないね」佳代子はつぶやくように言った。しばらくだまり、やがて「ねえ、おぼえてる。こどものころの噂話。両神山でまよった子どもの話とか」
 かすかに笑った。「おぼえてるよ。とうさんたち、こどもが林にはいるのをおっかながってたから。ずいぶんおどかされたわ」
「そうね」佳代子は言った。「でも、おじさんたちが怖がったのもむりなかったのよ。あれをしらべてみた。両神山の噂。知ってることも知らないことも。ネットや図書館で記事をあさってね。警察にだって足を運んで、話をきいたわ」喉を鳴らす音がした。「あれはほんとだった。あの森で、何人もこどもが死んでる。死体が見つからなかったものもふくめて」
 利菜は何も言わなかった。何も言えなかった。舌は石膏になった。佳代子は話した。
「さいきんうちのまわりもぶっそうでね。犯罪がよくあるのよ。ひったくりとか、殺人事件とか。こんなちいさな町でよ?」
 と佳代子は言う。
「ここ最近の犯罪記録をしらべたのよ。それを地図にかきこんでいった。たんなる丸を書いただけだけど。そうしたら、事件が多発してるのは、両神山周辺の町だけだとわかった。あの山を中心に、円を描くみたいにね」と佳代子は言った。「それにあの山で、また殺人事件がおこってる」
「うそでしょ……」と利菜はつぶやいた。
「これがうそならつきたくもない。おまもりさまで死体が見つかったのよ」
 二人は沈黙した。利菜の沈黙は単純な恐怖からだったが、佳代子はべつの意味でとったようだ。
「誤解しないで。こんどみつけたのはあたしじゃないわ」
「こんど? なに? 佳代子、何を言ってるの?」
「みつけたじゃない……二十五年前、あたしたち国村さんの死体をみつけたのよ」
 利菜は言った。「うそよ……」
「ねえ、事件のことはなにも知らないの? 新聞にだって載ったのよ」
「そんな話読んだおぼえは……」
 そのとき、冷蔵庫の扉が目についた。なにかが貼ってある。その紙を目にとめ、「ちくしょう……」と彼女はうめいた。
「なに?」
「切り抜きよっ」
「なんだって?」
 利菜は立ち上がって、冷蔵庫の前に行った。扉に手をついて、内容を確かめた。それは古い紙で、薄汚れていて、ゴミ箱から拾い出してきたかのようだった。紙にはガムの切れ端がついていた。五月五日の日付だ。すでに処分に出したものだ。
「新聞の切り抜きがここに……あんたの言ってる事件の記事よ」
「……あんたが貼ったんじゃないのね」
「あたりまえよっ。旦那だって娘だって、こんなもん貼ったりしないっ」
 利菜ははぎ取ろうとした指をとめた。新聞は、冷凍庫の扉にはりつけてある。マグネットはつかっていない。最初は糊で貼ってあるのだと思ったが、そうではなかった。新聞紙の紙は、赤くにじんでいた。
「やれやれだわ」と彼女は言った。
「あのときのことを覚えてなくても、あんたにはおさそいがかかってる――みんなに」
 そう、佳代子は言った。切り抜きのことは、否定すらしなかった。
「わたしたちどうすればいいの?」利菜は訊いた。
「わからないよ。頼りはあんたなのよ。あのとき、あんたがもどってきて、事件がおわったんだから」
「なにが起こってるのよ」と利菜は訊いた。
「おそさいよ」と佳代子は言った。「またおさそいがはじまったのよ」


第三章 石川紗英、抱きつかれる

 二〇二〇年 ヨーロッパ上空

        二

 あの年、寛太や利菜といった、幼なじみの面々と恐怖の夏を過ごした石川紗英も、中学を卒業とともにイギリスへ留学をし、スチューワデス――フライトアテンダントの職に就いた。
 スチューワデスになりたい(フライトアテンダントなんて言葉、小学五年生の紗英には縁がなかった。スチューワデスが差別用語だったなんて。世の中……ああっ。とはいえ、フライトアテンダントとなった今では、紗英もスチューワデスなる呼び名の使用には反対だった)、そのために外国に留学するのだという考えは、小学生のころから頭をついて離れなかった。母親とは口論が絶えなかったし、始終束縛されるのはがまんならなかった。
 紗英はことあるごとに母親に反抗するようになった。彼女の背丈はあの夏を過ぎてから急速にのびはじめ、六年生のはじめには母親を追い越していた。彼女の反抗は、母親が期待したような「まわりの友達」のせいではなく、伸びすぎた骨格のせいなのだと彼女は信じている。
 紗英はもともと帰国子女で、英語はあのころから話すことができた。日本を離れたのは、一九八九年のこと。彼女が幼稚園の年長組だったときである。それから小学四年に日本に戻るまで、都合五年ばかりをカナダで過ごした。
 石川家が引っ越したのは、父親の会社がカナダに新しく工場を建てることになり、その工場長に任命されたからだ。両親が思いきったのは、紗英がまだ小さかったから、二人が若かったからでもある。
 会社は一戸建ての家を用意した。三人は新しい家がすぐに気に入った。部屋数よりも、間取りを大きくとってある。場所は郊外で庭地は広々している。紗英は小さくて、なにがあったのかよくわかっていなかったにしろ、新しい環境にはすぐになじんだ。
 日本人だけの学校もあったのに、母親は父を説得してふつうの学校に通わせた。紗英は両親よりずっと早くに英語を身に付け、二人を喜ばせた。そのころは父親も家にいることが多く、家でパーティを開き、田舎に出かけたりした。友達をつれてキャンプ場に泊まることもあった。そのころの母親には、始終笑っている印象しかない。会社の業績が悪化し、父が工場長から降格されるまでは。
 両親は皮肉を言い合うようになり、会話がへり、やがてはぷつりとなくなった。最後の一年間は、喧嘩のし通しだった。紗英は家にいるのが苦痛だった。両親は、喧嘩ばかりして、笑顔も見せずむっつりしている。
 結局、カナダの工場は閉鎖された。石川紗英は、生まれ故郷の神保町にもどることになった。
 日本に戻っても、事態は好転しなかった。
 亭主が家に寄りつかなくなると、母親はすっかり変わってしまった。紗英のやることなすことに、見張りをつけるようになった。ほうっておくと、悪いことがどんどん起こるのだと思いこんでいるかのようだ。あのころは、母親の監視の目がいつも光っているような気がした。塾でがんじがらめにされていた。娘なのか、奴隷なのか、わからなくなる。
 かあさんは、友達にまで口を出すようになった。そうしないと、娘も帰ってこなくなるみたいに。
 とはいえ、紗英が母親を憎んでいるかといったら、そんなことはない。そんなことを他人に言われたら、彼女は目を丸くして驚くだろう。たしかに中学の一時期は喧嘩三昧で、四六時中腹を立てていたようなこともあったが、彼女は生来淡泊だったし、根に持ち続けるには性格が前向きでありすぎた。それにイギリスでの生活は、彼女から怒りをぬぐい落としてくれた。寛太郎の言ったとおり、怖いのも楽しいのも、みいんな薄れて消えてしまうものらしい……。
 母さんのことをかわいそうだと思ったことはある、心配もしていた。母さんのことは今でも好きだ。彼女はカナダでの母親がとくに好きだった。あのころの母さんは、精神的にも肉体的にもバランスがとれていたように思う。
 だけど、カナダの工場が閉鎖になり、日本に戻ってからは父が家によりつかなくなった。両親の喧嘩と、だんだんまいっていく母親を目にするのはつらいことだった。やがて両親が離婚をすると、紗英は母親と二人きりになった。二人は高台のあの家で、少しずつバランスを狂わせながらいがみあうようになった。紗英は自分の道に進むことでその狂いを修正し、母親にはそれができなかった。それだけのことだ。
 とはいえ日本の家で、一人寂しく老後を過ごす母を思うと、紗英はいつも心苦しくなる。なるべく電話をかけるようにしてはいるのだが、その電話越しですら、寂寞とした一人暮らしが覗けるようでつらかった。
 紗英が母親のことを見捨てたように思ってしまうのは、そんな電話の後である。
 だけど、どうしろというのだろう? 電話の後、彼女はこう思い直す。母さんはあたしに自分の思うような人生を歩ませたがったけど、母さんは母さんの人生を歩むべきだったんだ。
 結局自分の人生は自分で作るしかないのだから、他人の生活をどうにかしてやろうなんて、おこがましい考えだと、彼女はいつも思い直すことにしている。

 結局、幼なじみがママゴンと呼んだ母親の手を逃れ、イギリスに渡ることができたのも、あの夏の出来事が遠因だと思うようになるのだが、彼女がそのような考えを持つに至ったのはずっと後のこと。
 午後十一時四十五分。雷鳴と稲光がみたすフライトの中、石川紗英の乗るブリテュッシュエアウェズ41便は、進路を東京に向けて、大空のスラロームをくり返している。その日のフライトは多忙を極めた。コールボタンは雷鳴さながらにひらめいた。客室乗務員たちは、そのたびに通路を走り回っている。
 気流は荒れ続け、41便は空飛ぶ酔っぱらいさながらだ。旅客機酔い袋は飛ぶようになくなった。乗客たちは生きた心地もしていない……。
 石川紗英はチーフアテンダントのナンシーにつぐ古株だった。その日も他のアテンダントたちと走り回っていた。彼女にとっては、なんども経験したフライトのひとつにすぎない。
 だが、離陸から三時間がたち、ドイツ上空にさしかかるころになると、情況は一変した。
 紗英は機内食を戻しつづけるふとっちょの世話を焼きながら、機内に視線を走らせる。すると座席のいたるところに濡れそぼった髪の女がいた。その連中が、上目遣いで紗英に視線を注いでいた。
 女は血走った眼をしている。場違いな着物まで着こんで、水滴をしたたらせている。溺死女だ。最近いつも見かけるあの女だった。
 紗英はこらえきれずに悲鳴を上げるが、その声は偶然起こった乗客たちの驚声にまぎれる。
 飛行機が傾き、乗客たちの悲鳴がまた上がる。シートベルトのサインはつきっぱなしだ。紗英の顔色は真っ青だった。このところ何度フライトアテンダントの仕事を辞めようと思ったことか。仲間の乗務員は、彼女が精神失調にかかり、カウンセラーについていることも知っている。幻覚になやむ頭のいかれた人間がつづけられるほど、この仕事はやさしくない。旅はつねに快適ではないし、不測の事態もつきまとう。
 紗英はカウンセラーと話し合った結果、飛行機を降りる覚悟を固めるまでにいたったのだが、そんな彼女を支えたのは他でもない、ともに働くクルーたちだった。どんな客が相手でも落ち着いて対処する紗英は――彼女ももう36才。トウのたったベテランだ――他のアテンダントのみでなく、操縦士たちからも頼りにされている。仲間は紗英の退職に猛反対した。
 悪条件ならそろっている。不眠症、幻覚、幻聴、夢遊病――だが、仲間たちも彼女自身も、症状はいつか好転するものと思いこんでいた。この日も、その予測ははずれたわけだ。
 窓の外では黒い雲が機体を取り巻いている。ときおりひらめく雷光が、その雲母を照らし出す。
 紗英はその光とともに、太った紳士に目を戻す。彼女は夢中でその背をなでる。紳士の背中が、なでればあの女を消してくれる魔法のランプだというかのように。
 分厚いスーツごしでもじっとりとした汗を感じるが、彼女は気にならない。他のことに気をとられていたからである。
「ありがとう君、もういいよ」
 紳士は袋から青白い顔をあげた。紗英がなんとか微笑をとりつくろい顔を上げると、窓の外では溺死女が分厚いガラスに手を貼りつかせていた。目を見開き、大口を開けて絶叫しているらしい女は、亡霊そのものだった。
 うろたえて、通路を後ずさると、腕をつかまれた。
 紗英は、息をのんで身をこわばらせる。
「大丈夫なの、気分が悪いのなら、ギャレーにもどって」
 ナンシーの声が耳元でささやく。様子をみかねて駆けつけてきたらしい。
「おい君、大丈夫なのか?」
 太っちょが尋ねてくる。紗英は考える、チーフアテンダント万歳、このふとっちょが、反吐のことも忘れるぐらい、わたしは顔色が悪いらしい……。
 客をさらに不安に陥れるだなんて、フライトアテンダント失格だ。
 ナンシーが紳士と言葉を交わしながら、嘔吐物の入ったふくろを受け取った。紗英はせかされるようにして、ファーストクラスのギャレーに戻った。溺死女は複数に分裂したらしく、あちこちの座席から顔をのぞかせ、眼だけで彼女を追い続ける。
 紗英は腰を滑らすようにして通路を進む。追い立てられるようにして、ギャレーに駆けこんだ。神さま、乗客がわたしたちの様子に気づきませんように。
 ナンシーが追いかけてきた。ギャレーには他のアテンダントがいなかった。紗英は安堵の吐息をつきながら、
「わたしなら本当に大丈夫だから」
「大丈夫? そんなふうには見えないわね」ナンシーは袋を片づけ、きつい目線を上げた。「またあの女を見たんでしょう?」
 紗英はうなずいた。仕事仲間には自分の情況を包み隠さず話している。41便のクルーとは、公私にわたるつきあいがあったからだ。紗英のイギリスでの生活を支えたのは、まちがいなく彼らの存在だ。だから、幻覚という、フライトアテンダントとしては進退にかかわる話も、臆せず打ち明けることができた。仕事を辞めずにすんだのは、彼らのおかげだ。
 紗英は症状の軽かった時期から、ジョン・テイムズというカウンセラーにかかっている。退職の覚悟も早くから固めていた。紗英が仕事をやめるには、ナンシーたちを説得するほかなかった。
 仲間の出した条件は、あと一ヶ月様子をみること。それでもだめなようなら休職届けを出すことだった。
 ナンシーたちのフォローもあり、いまのところ紗英は休職届けを出さずにすんでいる。だが、それももう限界だ。
 ナンシーの言うあの女とは、テムズ川を着物姿のまま泳いだような(しかもそのまま溺死したような)女のことで、見た目は日本人だが、紗英には見覚えがなかった。だから、紗英は名前など付けずに、たんに溺死女と呼んでいる(だいいち彼女以外には見えないのだから。名前なんてくそくらえだっ)。
 溺死女はこの数ヶ月、繰り返し紗枝の前に現れた。大通りを歩いていると、女は通りがかりに肩をつかんできたりする。恋人のジェームズと橋でキスをしていたときは、欄干からよじ登ってきたものである。洗面台で歯を磨いていると、肩越しに女の顔がガラスにうつる。日本の幽霊なら、かえりみると消えていなくなるのが定石だが、この女は突っ立ったまま襲いかかってくるのである。
 紗英は何事にもイギリス仕こみのユーモアをもって対処してきたが、女も一流のユーモアを備えているようだ。トイレで用を足していると、鍵のかかったドアを急に開けてそのまま閉めたり、無意味な行動も多かった(ドアが開いたこと自体、幻覚のはずなのだが)。
 問題は女が悪意をもっていることだ。ジョンは潜在意識に眠る抑圧された精神があらわれているのではないかと言ったが、紗英に思いつくのは母親との関係ぐらいなものだった。
 わたしは正常だわたしは正常だわたしは正常だ。
 紗英はシートに腰を下ろし、頭痛のする額を手でおさえる。ナンシーはそばを離れない。指のすきまからは、ストッキングをはいたか細い足が見える。ふと、新治たちがこのナンシーを見たらなんというだろうな、とここ何年と会っていない幼なじみのことを考える。こんな美人を目の前にしたら、どぎまぎして、なにもしゃべれないんじゃないか。
 ナンシーは顔に似合わない熱い気質を持った人間で、義理堅く、友情には厚い女である。情熱とガッツに満ちた、旅館のおかみのような存在だ。
 ナンシーはかがみこむと、紗英の手の上から額に手をあて、熱をはかるようなそぶりを見せる。
「今日はとくにひどいみたいね」
「もうだめ。休職をとるって決めたわ。この忙しいのに、役にたてないのよ」
 ナンシーはまたかと吐息をついた。「その話は後で聴くわ。わたしもみんなも、ベテランのあんたに抜けられたらきついのよ。なんどもいわせないでちょうだい」
「そんなこといって……、いまじゃ新人の半分も働けないじゃない。気持ちはうれしいけど、やっぱり幻覚をみないなんて無理だったのよ。ジョンのいうとおりにやってみたけど、コントロールなんてできなかった」
 ジョン・テイムズには、幻覚は君の頭が見せているんだから意志の力でコントロールできる、ということを教わった。
 彼の言うとおり、紗英は幻覚を、あるていどはコントロールしてみせた。テイムズに女を連れてきてくれと言われたときは、実際に呼び出すことができたし(そのためには相当の集中力が必要だったが。呼び出した後はいつもくたくたに疲れてしまった)、頭の中で念じると女はその通りに姿を変えた。女に体操服を着せ、笑い転げたあげくに追い払ったこともある(もちろんテイムズには見えていないが)。
 だけど、もう疲れ果てて、そんな力は残っていなかった。だいいち、コントロールはできたが、幻覚が消えて無くなることはなかったのだ。不意をついてはあらわれるのくりかえし。不眠症も、ひどくなる一方だ。
 紗英はふさぎこんで首を垂れる。ナンシーはそんな彼女を包むように覆い被さる。髪越しにやさしいキスをした。
「そんなことない。今日は激務なんだから……しかたないじゃない。あんたはふだんはうまくやってた。事態を良くしようと努力したのは、あたしが一番よく知ってる」コールが立て続けに鳴る。ナンシーは身を起こす。「しばらく休んで気を落ち着けることね」紗英の膝にたばこを置いた。「東京につくころには、きっとおさまってるわよ」
 頭をなでると、長い足をとばして行ってしまう。紗英は仲間が走り回っているときに煙草を吸うのは申し訳ない気がして、タバコを脇に押しやる。
 数人の子供たちが通路を駆け抜けて行く。紗英はあわてて立ち上がったが、シートベルトの着用サインは消えていない。乗客は誰も席を立てないはずだ。
「見なさいよ。幻覚と現実の区別もつかなくなった」
 紗英は自嘲気味の笑いを浮かべ、もう仕事に戻ろうかと通路に目をやった。ファーストクラスとギャレーを仕切るカーテンの裏に、人陰があった。紗英は凍り付いた。
 またあいつだ……。
 カーテンの裾からは裸の足が覗いている。着物から水滴がしたたり、通路の絨毯をまたたくまにぬらしていく。頭の中でジョンの声が鳴り響く。幻覚に同調するな、あれは君が生み出しものだ、君自身で消し去るんだっ。
 紗英は大きく息を吸い、目を閉じると、消えろ消えろとなんども念じた。口の端からうめきが漏れ、紗英はおそるおそる目を開く。
 女は目の前に立っており、充血した眼が彼女をのぞきこんでいる。女の背丈は見るたびにちがうのだが、今日は百七十五センチある紗英と変わらない。例の上目遣いの目で紗英を睨みつけ、腕を伸ばしてくる。
 紗英は思わず手を出して、女の肩をつきのけた。すり抜けると思った手が、骨にぶつかり、女はあっけない弱さで体をふらつかせる。
 濡れたてのひらを見つめて悲鳴を上げる。溺死女が非難の目を向けてきた。
 驚愕と怒りのいりまじった顔で、シートに置かれた雑誌を拾い上げた。幻覚にさわったのは初めてだった。幻覚は君に本当に触れることなんかできやしないとジョンは言ったが、彼女は反撃を本気でおそれた。あわてて雑誌を丸めると、頭上に振りかざし、
「さわれるんなら、こうしてやるっ」
 女の頭を打ち据えると、濡れた髪がびちゃりと鳴った。あまりの現実感にむかつきを覚える。彼女は怒れる調教師のように、女を追いかけては打ち据えた。びしゃりびしゃり。
 溺死女が通路を横切り、トイレに駆けこむ。
 紗英は荒い息を吐きながら、揺れる機内に立ちつくした。
「幻覚にさわれるとはね……」
 垂れた腕から雑誌が落ちる。すると、それを見越したかのように扉の向こうからは、ひどいよ……という子供の声がした。紗英はその声に聞き覚えがあり、眉をしかめる。大急ぎで脳内をさぐると、大昔の親友が見つかった。
「利菜?」
 扉にむかって呼びかける。紗英は誰も様子を見に戻ってこないことにほっとしながら、さきほど打ち据えた女が仲間のアテンダントでないことを祈り(あの女は幻覚のくせに、扉をあけてトイレに駆けこんだのだから、その可能性は大いにある)、扉にそっと指をそわす。彼女は今にも消え去りそうな笑みを浮かべる。
「ばかばかしい、あたしの頭が作り出した声じゃない。幻覚に話しかけるなんて……」
 それは、あまりに弱々しい声で、彼女は自分さえコントロールできていないことをぼんやりと知った。休職をするどころではない。そのうち自殺をするのではないのかと、そんな不安が脳裏をよぎる。そしてこんな疑問が――
 利菜と最後に会ったのはいつだったろうか?
 扉はじっとしている。紗英は無意識のうちに手を伸ばし、ノブを回す……すると、内側から誰かが押さえたように、途中で動かなくなる。
 そのとき機内の照明がまたたいたかと思うと、41便は急激な気流に乗り、激しく機体を旋回させた。紗英は手を開き体を支えようとするが、立っていられず身を投げ出す。通路が体を叩いたかと思うと、あごを強打し、彼女は意識を昏倒させる。
「うっ……」
 顔を上げると、口の端を血がしたたり落ちた。紗英は床に手をついて身を起こそうとするが、視界がくらんでうまくいかない。
 彼女の職業意識は、乗客の様子を見に行くんだという責任感を訴えたが、神経がどこかで切断をおこし、立とうとする意識は、手足から滑り落ちていく。
 もう一度顔を上げると、今度は溺死女が直前に立っている。紗英は、その女を子供のころに見たのだということを、自分が最初に見たのだということを思い出す。
 溺死女は一瞬で立ち消えた。紗英は、前方に見える光景に唖然となった。
「なにあれは……」
 そこでは、外からは決して開くことのないコクピットルームのドアが開き(ドアは内側からしか開けられない)、機長のラルフと副操縦士のエングルが叫んでいた。
 41便の前方は、オーロラのような激しい光で満たされていた、だけではない。その光は風防ガラスを通って流れこみ、コクピットの中でうねりをあげていたのである。
 光はギャレーまで届いている。照明が再度瞬いた。乗客の悲鳴が聞こえるが、それは何億光年も遠方から届いてきたかのようだ。
 紗英は四つ足のままはいすすんだ。ストッキングが大きくさけ、むきだしの肌が絨毯をこする。
 コクピットの直前まではいすすむと、壁に手をついて立ち上がる。光は生き物のように漏れてくる。金色のようでもあり、七色でもあり。いや、すべての色だと彼女は思う。
 コクピットとギャレーには段差がもうけてある。転ばないようにまた近づく。光が頬をなでる。液体のようになめらかで、確かな感触があった。揺れる機内で手をかざした紗英は、光にふれた指がかすむのを見る。身動きをとめ、光の中へと手をつきこんでいく。腕は透明になり、大きくゆがんで伸びもした。
 旅客機は轍を通る車のように振動している。紗英は光に導かれるようにして、コクピットに踏みこんだ。

 コクピットに踏みこむと、紗英の体は光で満たされた。
 光は生きていた。暖色は熱く、寒色は冷たかった。盲目のようにゆっくりとすすみ、ラルフの操縦席に手をかけた。彼は操縦桿を引いて減速を試みていたが(この現象がはじまってすぐに自動操縦は切っていた)、隣にいる紗英を見てぎょっとなった。
「どうやって入った……っ」
 紗英はちらりとラルフに目をやり、その顔がX線を浴びたように組織をむき出しにし、チーズのようにやわらかくゆがむのを見た。
 どうやら自分の顔も同じのようだ。ねじまげられたラルフの顔が驚愕に変わり、ふたたび前方にむきなおる。
「この光はなんなの?」
「わからんっ、どんどん入りこんでくる。無線も通じないっ。ジェットエンジンも止まりかけてるぞ!」
 エングルが悲鳴のような怒鳴り声を上げる。紗英は驚いて――乗客に聞かれては大変だ――ドアをかえりみた。
 コクピットから通路に目を向けた紗英は、ファースト・クラスには声が届いていないことを知った。機内サービス準備室の通路は、百メートルばかりの延長工事をたったいま終えたらしい。紗英は今見たものを閉め出すかのように力一杯ドアをしめた。
 ラルフが席越しに怒鳴る。
「なぜ、入れたんだっ」
「ドアが開いてたからよっ」
「くそっ、お互いの声も聞き取りにくくなってるぞっ」エングルが無線に八つ当たりをしながら言った。「ラルフ、進路を変えろおっ」
 エングルに言われるまでもなく、ラルフは操縦桿にむかって全体重をかけている。光の中ではすべてがゆがんでみえるらしく、かれが身動きするたびに残像がうまれる。ラルフの顔は、なすびのようにカーブをえがく。
「操縦がきかない」ラルフが食いしばった歯の隙間から声を出す。41便がまた上下に跳ね飛んだ。
 エングルが紗英に言う。「席について、シートベルトを締めるんだっ」
 しかし、彼女は言うことを利かない。上官の言葉を無視して、さらに身を乗り出した。光を、その先にあるものを。
「なんなの、あれはっ?」
「わからない!」エングルが計器パネルを叩いた。「管制塔、応答たのむ! トラブル発生! ただちに応答頼む! こちらブリテュッシュエアウェズ41便! 操縦がきかない! 回線が混雑してる! 聞こえないのか!? 近くの空港まで誘導してくれ!」
 41便の視界は、光で覆われて何も見ることが出来ない。旅客機はその光を押し分け進んでいく……というより、ある方向に引き寄せられていた。その意味では、ジェット機は今、川を進む船に似ていた。
 その禍々しい光は、遙か前方から41便を引き寄せている。先端では、光は消失している。その空間には星も雲もない。紗英はその場所のことを、ただ深いと感じた。あそこは深すぎるから、光も何も見えないのだと。
 彼女はその虚無を、どこかで見た気がする。
 世界はねじ曲げられている……彼女はつぶやく。自分がつぶやいていることにも気づいていない。そのときコクピットを満たす光の中は、あらゆる音に満たされていたからだ。
 機長のラルフは43才、副操縦士のエングルは37才だ。二人とも経験は十分、息のあったベテランパイロットである。麻薬密売疑惑の男がトイレにかけこもったときも、酔っぱらった男が空港に引き返せとコクピットにせまったときも、落ち着いて処理をしてきたが、今はとりみだし処置のしようもない。
 エングルは計器を操作して管制塔との交信をこころみるが、高性能のスピーカーからは、陽気なロックや日本の歌謡曲が流れてくるばかりで、いっかな用を果たさない。絶叫がする。誰かの金切り声、おっそろしく古い歌や聞いたこともないような歌。はては宴会のばか騒ぎのような声まで流れてくる。そして、ふいに静寂になり、とぎれ、とぎれてはまた聞こえだす。
 紗英はその光のうちに、子供時代の光景を見る。草原いっぱいにひまわりが咲き乱れ、自分たちはひまわりをかき分け怖々歩いている。
 彼女は恐怖よりも、興奮を感じはじめる。
 ラルフは光の川を脱しようと、操縦桿ととっくみあいを演じている。彼の右腕は筋も千切れんばかりにふくれあがり、生き物みたいに脈打っているが、このやっかいな代物は万力で挟まれているかのようにぴくりともしなかった。かれらがこの奇態なオーロラを見つけてから五分とたっていない。それ以前には、オートパイロットが操縦桿に軽快なワルツを踊らせていたのである。
 ラルフは速度計の針をみるために頭を下げた(視界は光にふさがれていたから、通常の位置からでは計器板が読めなかった)。巡航速度を保っているが、しれたもんじゃない。電磁波だかなんだか知らないが、忌々しい光のせいで、最新のはずの電子機器がこぞって反乱を起こしたのだ。
 ラルフは緩慢な動きで体を起こす。光に重さがあるとは驚きだが、こいつは海水のごとくだ。
 彼は操縦桿を倒そうとする努力を放擲して、前方を見つめる。
 彼はゆがんだ顔に涙を浮かべ紗英を見た。数秒間見つめ合った後、ラルフはこう言った。
「君の言ったとおりだ……世界はねじ曲げられている……」
 彼らは前方に顔を向ける。光は手招きするように三人をなで回す。紗英は東京に戻ることだけを願った(心の片隅では、神保町にもどることを願っていたのだが)。
 41便は光の深部へと突き進んでいった。光の消失する空間へ。紗英は操縦席のシートにしがみついた。腕をまきつけ、ちいさな胸をおしつぶし、けれどコクピットからは出ようとしない。彼女の胸は恐怖よりも興奮でわきたっていた。大量のエネルギーが――宇宙からかどこからなのかわからないが、注ぎこまれているかのようだ。五感も六感もまんべんなく高まりきった感じ。この感じは子供のころになんども味わった気がする。
「ヒッピ……ペック?」
 その瞬間、彼女はあの夏に起こったことを見たもののことを思い出した。なぜこのようなことが起こったのか、そのわけすら、おぼろげながらも理解した。
 彼女は機長の肩を揺り動かした。
「ラルフ! しっかりしてよ! わたしたちは東京に行くのよ! 落ち着いて東京のことを考えて!」
「くそっ、メイン・キャビンの方はどうなってるんだ!」副長のエングルが紗英に向かって怒鳴る。「君はなんでそんなところにしがみついてる! キャビンの確認をしてこい!」
「うるさい、このくそったれえ!」
 エングルは目を丸くした。紗枝は鬼のような形相で怒鳴る。
「わたしたちは東京に行くのよ! おたおたしている暇があったら、東京のことでも念じなさい!」
「しかし……っ」
 穴が近づいてくる。
 ラルフがシートアームに置かれたエングルの腕に手をのせ、「エングル」と呼びかける、彼が平静を求めている。エングルに、紗英に、自分自身に。
「くぐるぞ……」
 ブリテュッシュエアウェズ41便は、虚無に吸いこまれていった。紗英は東京のことを、向こうに残した友達のことを考えつづけた。その友達とは一年以上も連絡を取っていないのに、彼らが大変な危機にさらされていることを知る。41便の機器はこぞっていかれたというのに、紗英の頭にあるレーダーは、極限まで性能を高めたかのようだ。
 コクピットの視界からは、光がとりはらわれてゆく。虚無が身をのりだす。
「あの向こうにあるのは、東京よ……」と彼女は確信をこめた力強い声で言った。「信じて……」
 そして、真っ暗になった。

 次に意識をとりもどしたとき、紗英は床にたおれ、副操縦士のエングルに身を揺すぶられていた。
 紗英が顔を上げると、エングルは驚愕の表情を浮かべて彼女を見下ろしていた。その顔には汗がしたたり落ち、憔悴のあとが濃い。
 ラルフがキャビンにむけて室内放送をする声が聞こえる。ブリテュッシュエアウェズ41便、ラルフ・クライン機長です。当機ははげしい乱気流に見舞われましたが、無事東京上空に達しました。
「どうなったの……」
 彼女は身を起こす。機内が明るくなっていることを知った。
 コクピットの外は暗闇どころか、青空に変わっていた。
「君の言ったとおりだ」ラルフが言った。「東京上空だ。……正確には八丈島のうえだ。時刻は午前五時四十一分」
「そんな」紗英は立ち上がる。「さっきは午後の十一時だったのよ。そんなに気を失ってたの?」
「われわれは意識を取り戻して、すぐに君を起こした」とエングルは言った。
 機体は安定している。光の残滓はかけらもない。
「じゃあ、あなたたちも六時間近く、意識をなくしてたってわけね」
 エングルは首をふり、操縦桿を指さした。
「ありえない、オートパイロットは切ってある」
 紗英とエングルはコクピットに立ちつくす。アームレストの脇についたサービスコンソールに置かれたコーヒーが、まだ湯気を放っている。
「つまり君の言った通りだったわけだ。われわれは東京を念じた。そして、東京についた」
「そうらしいわね」
「もっと重要なのは、我々がロンドン東京間を二時間以上も短縮したということだ」とラルフが言った。
「君はなんで東京につくことがわかったんだ」エングルが紗英の肩をつかんだ。「あのとき言ったろう。東京でも念じろ、あの向こうにあるのは東京だっ。そう言ったぞ」
「そのようね」
 エングルはいぶかしむように眉をひそめる。「なぜ落ち着いていられるんだ?」
「今日かぎりでこの仕事から開放されるからよ」
「なにっ? 何を言ってるんだっ?」
「エングルよせ、なにが起こったかはわからないが、彼女のせいではないだろう」
 とラルフは言ったが、エングルはそうは思えないと言いたげに顔をしかめている。ラルフは言った。
「ジェットエンジンは正常に復した。無線もつながっている。我々の役目はこいつをふたたび地上につなげることだ」
「乗客がさわがないか」
「さわいだとしても、なにが起こったか説明のつけられるものはいやしない。それはわれわれもふくめてだ」
 コクピットのドアがノックされた。三人は驚いて顔を見合わせた。紗英が開くと、ナンシーが外に立っていた。紗英がコクピットにいるのをみてぎょっとしたようだ。紗英はこう直覚した。わたしが幻覚をみて、騒いだとおもってるわね。
 ナンシーはさきほどの機の動揺はそれが原因だと考えたのだ。しかし、それでは説明のつかないことがいくつかあることに、同時に気がついたものらしい。
「機長、説明してもらえませんか。乱気流に飲まれたかと思うと、乗客は――わたしもふくめてですが――全員失神しました。気がつくと、窓の外の景色がちがう。朝になっているじゃありませんか」
「待て、乗客もみんな気を失っていたのか?」ラルフが訊いた。
「そうです」
 ラルフはシートに身を預けた。沈黙の中でジェットエンジンの音だけが響いた。
 ややあって彼は言った。「そういうことなら機内放送で情況を伝えよう。加減抵抗器の誤作動で……つまり客室与圧の異常で、乗客は意識を失った。その間に東京についた……」
「本当にそうなんですか? 東京の上空なんですか?」ナンシーは言った。「たった4時間で東京についたんですか?」
 ラルフは振り向いて笑った。「なにをいってるんだ、たしかに記録的な速さだが……」
 しかし、ナンシーは毅然と言った。「機長、いまは何時だと」
 ラルフは計器に目をやった。
「いまは午前五時四十三分だ」計器のデジタル時計をみながらエングルが言った。
「わたしの時計ではそうではありません」
「なんだと?」
「あなが見たのは、パネルの時計でしょう? わたしのアナログは十一時五十五分のままです」
 ナンシーは腕をかかげながら言った。紗英も年代物のロレックスをみた。ラルフも。エングルは鼻で笑って二人の客室乗務員に言った「つまりこういうっことか。コントロールパネルのものは電波時計だ。勝手に時刻を修正してる。正確な時刻はあれから五分とたっていないっ」
「なんとでも言うがいいさ」ラルフは疲れたように言った。「こっちだって説明のつけようがないんだ。さあ、みんなプロに戻ってくれ。ブリテュッシュ航空がわれわれに高い給料を払っているのは、パニクるためじゃない」と言って、副長に、「エングルっ?」と訊いた。
「わかってる」エングルは投げやりに言ってこめかみをもむ。目を閉じる。じわりとした疲れが、脳に染みこむ。「オーケーだ」
「君たちはキャビンに戻って乗客のめんどうをみてくれ」とラルフは二人に言った。「これから忙しくなるぞ……」
 ラルフはマイクを取り上げ、乗客に説明をはじめた。ナンシーは、紗英の手を取り上げ、コクピットから連れ出した。
「あなたはなんでコクピットにいたの? ギャレーに戻ったときは、あなたの姿が見えないんでぎょっとしたわ」と彼女は言った。「なにがあったの?」
「わからない。言っても信じてくれるかどうか……」
「言ってっ」
「わかってるわ。飛行機が地に足をつけて、乗客が大人しく機を降りたら、みんな話す」
「そうしてくれるとありがたいわね」
 ナンシーはファースト・クラスに戻りはじめる。機内にはラルフ・クラインの声がひびき、乗客たちがざわめいている。
 ナンシーの後を追おうとした紗英は、背後に気配のようなものを感じ振り向いた。すると、トイレのドアが開いており、びしょぬれの利菜が、子供の利菜が涙をながしながら扉によりかかっているのが見えた。紗英は言葉をなくして、眉をひそめる。おさそい……と彼女は考える。わたしたちはおさそいがかかってる。
 はて、おさそいってなんだ? と彼女は自らに問い返す。わからない。だけど、あの町にもどれば、なにかがわかるかもしれない。
 利菜はノブにしがみついている。その彼女にトイレの中から溺死女の手が伸びる。
「あせらなくたって、すぐに戻るわよ……」
 振り向くとナンシーが怪訝な顔で待っていた。トイレに目を戻すと、扉は開いていたが、利菜の姿はなかった。紗英はそれでも心の中で、声をかける。
 安心なさいよ。わたしはあんたがおぼれるのをほっといたりしない。
 あんたたちがおぼれるのを、だまってみてたりしない……。

        三

 一九九五年 八月十五日――火曜日

 紗英は神社への服埋めには参加しなかった。翌日には母親が塾に行かせるために、迎えに来たからだ。紗英は帰りたくなかったが、事情を説明しようにも、山へ行ったことじたいが内緒だった。
 塾が終わると、母親は愛用のクラウンで待ちかまえていた。家に帰ると、コードレスの受話器は隠してあるという始末。これじゃあ、電話もかけられないっ。
 紗英は勇気を出して、寛ちゃん家に遊びに行きたい、と言った。
 母さんは何も言わなかった。無言でその場を立ち去ったのだった。
 紗英は母親には相談できなかったし、あの服がどうなったのかは気になった。だから、友達が来ることを期待して外ばかり気にしていたのだが、その日佳代子たちの姿を見かけることはなかった(本当は来ていたのだけど、折悪しく紗英の目に止まることはなかった)。
 紗英は一日調子が悪かった。お腹が痛かったし、便もゆるいようだった。頭も重かったが、最悪なのは悪いことが、次々に重なったことだった。こんなふうに考えるのは、もちろん母さんにたいしていけないことなのだと思っていたけれど、朝一番に母さんが迎えに来たことが第一(近頃、母さんを見かけると――母さんのけわしい姿をみかけると――胃袋がきゅっと縮まる)、ピアノの稽古では、ピアノ線が切れた。二度ばかり転んだ。トイレに入っているとき、何度もノックされた(返事をしても叩きつづけた。外にでると、誰もいなかった)。部屋にいるとベッドの下で物音がしたし、屋根裏をなにかが駆け抜けた。こんなこと、今までなかったことだ。
 紗英の記憶には、おまもりさまでの出来事がきつく残っている。一人でいると、流れてきた血のことを考える。達郎や新治が捕まえられかけたことや、なめ太郎のぎらぎらした目のことを、思い出してしまう……。あいつの臭いも。あの山での風のことも……。
 紗英は母親が出かけることを懇願したが、母さんは夕食が間近になるまでねばりつづけた。夕食の買い出しのために、やっとこ家を出たときは六時に近かった。紗英は母親のクラウンが立ち去って、音が聞こえなくなるまで待った。聞こえなくなった後も、しばらくじっとしていた。
 ばかばかしいとは思ったが、部屋を出るときは懐中電灯を用意していった。母さんに内緒で出かける、いない間に出かける、こっそり出かける。それって紗英にとっては命がけのことだ。自分が叱られるのはいい。だけど、喧嘩の原因を作るのは最悪だ。だって、二人の怒鳴り声は紗英の部屋にまで聞こえたし、きくまいとしても紗英の耳は、一字一句も聞き逃さずに記憶してしまう(もっとも、こうした無意識の記憶力は、フライトアテンダントの職についてからは、ずいぶんと役に立った)。
 両親の会話の内容は、ふだん思い出さないようつとめる分、夢や何気ない不安に立ち替わるのが常だった。
 けれど、紗英は二人の喧嘩より、なめ太郎の方が怖かった。そりゃあ両親の不仲は彼女の精神を追いつめはしたけれど、命の危険までは感じさせない。母さんと父さんは、どっちが好き? という母さんの質問は怖い。質問が、というか、母さんの目つきや態度が。その目は真剣で、彼女よりも、ずっと追いつめられた雰囲気をかもしているから。
 でも、それですぐに死んだりはしない。殺されたりなんて、しっこない。
 友達に電話をして迎えにきてもらってもよかったのだが、そこまで頭が回らなかった。母親がなにか気を変えて引き返してくるんじゃないかと思うと、一刻も早く自転車に飛び乗って出かけてしまいたかった。娘の逃げ出すところに母さんが鉢合わせしたらどうなるか、彼女は想像するだに恐ろしい。
 駆け足で階段を下りると、廊下を走って、細い足に靴をつっこみ始めた。玄関の鍵が、ぴたりとしまったのは、その格闘の真っ最中である。
 紗英が気配を感じて顔を上げると、ノブについたボタンがゆっくりと押しこまれていった。彼女はだめだめと言った。靴は片方であきらめて、玄関に走った。ボタンを押した。返ってこなかった。
「母さん、ごめんなさい……」
 紗英は扉の外に何か超自然的な物を感じていたにもかかわらず、母親に謝った。そのとき電話のベルが鳴った。

 電話のベルは、静かな家の中ではやかましかった。紗英は飛び上がった。ふりむきざま足を滑らせ尻餅をついた。
 父さんからかもしれない、と思った。父さんは家に帰ってくることが減ったけど、紗英のことをうるさく言わなかったし、塾にしばる母さんのやり方を苦々しく思っていた。父さんは日本に戻ってからも紗英の味方で(対して母親は、母親に味方するときのみ紗英の味方になってくれる、ギブ・アンド・テイクの存在である)、だから、紗英はその期待にしがみついた。
 紗英は片足に靴を履いたまま、廊下に飛び上がると受話器をとった。石川です。と彼女は言った。相手は無言だった。
「お父さん?」
 と紗英は訊いたが、電話は母親からだった。部屋に戻ってなさい。と母親の声が言った。
 かあさん……母さんじゃないでしょ? 紗英は言った。相手は沈黙した。なんでわたしが部屋にいないってわかるの? どこにいるの?
 家の前にいるわよ。母さんは言った。
 どうやって電話をかけてるの? 母さん携帯なんかもってないじゃない……。
 もってなくたってかけれるわよ! と母さんは怒鳴った。それは母さんがヒステリーを起こしたときにそっくりな声なので、紗英は母親のそんなときの表情まで、とっくりと目に見える気がする。
 ごめんなさい。家を出ようなんてしてない。
 靴を脱ぎなさいよ……っ。
 怒りに震えた声だった。紗英はあわてて靴を脱いだ。脱ぎました、廊下もちゃんと拭いておくから……。
 そのさきを言おうとして、紗英は言葉を飲みこむ。家の中に入ってこないで……なんて、そんなこと母さんに言えない。
 そう、わかったのならいいわ。と母さんは言った。あんた母さんの娘よね。娘は母親の言うことをなんでもきくものよね。期待に応えるのが、当然とは思わないの?
 思ってる、わかってる。
 じゃあ……そうしなさいよ。
 紗英はそうした。受話器を置くと、靴を並べ直し、タオルで床を磨き、玄関マットもはたいておいた。
 居間に入るとテレビをつけた。そのまま、本物の母さんが帰ってくるまで、じっとしていた。

        四

 紗英の一九九五年八月十五日の一日はそうして過ぎていった。それなりに楽しかった夏休みに、大きなかげりがさしてきた。
 母親は大きな買い物袋を三つも下げて帰り、荷物をおろすのを手伝って、と言った。母親が紗英のご機嫌をとろうと、ごちそうをふるまうつもりなのがわかった(つまり母さんも自分でしていることを間違いだと思っているふしがあって、そうでなかったら反省はしないんじゃないだろうか? そうしたことも紗英にとっては不安の種なのだった。間違いだとわかって、なお間違いをおかすのは、大人のやることだろうか?)。
 母さんはいつも通りで、紗英は電話の母さんは聞き違いじゃないかと思った。どうやったらあんなふうに聞き違うのかまでは頭が回らなかった。回したくもない。彼女は小学五年生のこどもで、柔軟性なら大人よりもごまんとある。理屈をつけなくたってへいちゃらだ。
 母さんは荷物を抱えてご機嫌のようだった。今日はすき焼きよお、いっしょに作る? と訊いた。紗英はうなずいた。そんなときの母さんは好きだ。自分のことを思ってくれていると、わかるから。
 ご飯を食べおわると、母親は紗英が十時まで起きていることを許可した。本当は九時に寝なくてはいけないのに。これも彼女なりの、ギブ・アンド・テイクである。
 その間に、紗英は対策を重ねた。まず部屋に懐中電灯を二つ持ちこみ、大好きな音楽をいつでもきけるように、MDコンポをセットした。念のため、ヘッドフォンも。両親の喧嘩が聞こえないように買ったものなのだが、そんなものを使えば使うほど、彼女の聴覚はとぎすまされる。
 しかし寛太郎から教わった腹式呼吸とやらは、幾分彼女の役に立った。呼吸に集中していると声が遠ざかるからである。
 紗英はおかしも用意した。眠れない夜は、時間をしのぐ対策が必要だ。紗英はこんなことが(つまりはおさそいが)始まる以前から、不眠症のなんたるかを知っていた。問題は電気を消さなくてはいけないことである。窓から灯りが漏れるから、起きてることがわかってしまう。
 そんな対策もあって、彼女は自分用に大きな懐中電灯を(利菜たちはそれをデンチ、デンチというので、彼女もいつしかそう呼ぶようになっていた)お小遣いで買っていた。対策には出費がかかる。これも彼女なりに学んだギブ・アンド・テイクの一つだった。紗英はいつも思うのだが、母親が教えなくたって、子供は学んでいるものなのだ。
 利菜たちから電話はあった。電話はその日(あのときをのぞけば)一度だけ鳴ったのである。紗英は出たかったが、母さんの方が早かった。母さんは電話に向かって、いえ、おりません。そして早急に切ってしまった。
 母さんは、父さんに電話よ、と自分から言った。たぶん、うそだと紗英は思った。父さんへの電話なら、母さんはもっとていねいに話すし、自分からそんなふうに言うことじたい不自然だった。紗英は腹をたてかけたけど、これから夜を過ごすのに、平常心をかくのはまずい。よけい眠れなくなってしまう。
 そんなわけで夜が深まったときも、紗英は覚悟だけはしておいた。今日の夜は、格別長いに違いない。
 漫画も用意したし(あまり持つことを許してもらえなかったから、大半は利菜と佳代子から借りたものである。ふだんはベッドの下に隠している。お菓子を隠すこともある)、ポテトチップも布団の中に持ちこんだ。眠気が全くやってこないとわかると、紗英は布団の中でそれらを楽しみはじめた。
 紗英は小説もよく読んだが、最近では想像力をかきたてられて、おっかない目にあうことがたびたびあった。マンガのほうが安全だ。読まずにとっておくのも骨だった。新鮮なものほど、眠れない夜にはきくものだ。よけい眠くなくなってしまうのは問題だが、不安を振り払ってくれるのなら、これって効果的なのではないか?
 とはいえ、目が悪くなってしまうのは不安だったが。
 コンポは使う必要がなく、静かな時間がすぎていった。利菜から借りた漫画はおもしろかった。姫ちゃんのリボン、とかいう少女まんがだ。懐中電灯のあかりのなかではあったが、紗英は夢中でむさぼり読んだ。
 紗英は時間を気にする必要がないよう、ベッドに時計は持ちこまない。だから、それが何時だかはわからないが、部屋のドアがふいに開いた。紗英はどきりとした。彼女の母親は急に入ってきて、寝ているかどうか確かめることがある。そんなときは黙って出ていくか、布団をめくるかのどちらかだ。
 紗英はお菓子と漫画を、見つからないよう体の下に押しやった。
 正座の姿勢で丸まっていたから(その方が足を伸ばすよりも腰が楽なことを発見した。)、布団が盛り上がっているのはまずいな、と思いながらデンチを消した。デンチを消すタイミングは、早かったとも遅かったともいえない。
 微妙な線だ。
 ドアを閉じる音はしなかった。かわりに、ずるっ、ずるっ、と床をはいずるような音がした。変だな、と思った。母親はスリッパを履くし、歩く音にしては不自然だ。
 両神山でのできことが呼び起こされる。紗英はそっと息をのむ。音が近づく。紗英は丸まったまま、
 かあさん……?
 と声をかけた。体になにかがのしかかってきた。
 母さんっ? と彼女はもう一度言った。そのときには、それが母親でないことに気づいていた。何者かがタオルケット越しに抱きつき、彼女を押さえこんでいる。紗英はふりほどこうとしたが、正座をした姿勢だから、容易に立ち上がれない。
 やめて、やめて。声にださずに言った。声に出すゆとりがなかった。布団がじっとりと濡れてくる。それにものすごく重たい。苦しくて、息が吸えなかった。このままだと押しつぶされるっ。紗英は切迫した気持ちとともに考える。
「どいて……どいてよ!」
 紗英は立ち上がろうとした。腕を必死に突っ張った。布団の隙間からは、誰かの手がベッドの縁をつかんでいるのが見える。真っ白な痩せた手だった。それが濡れて光っている。
 相手が動かない気だとわかると、紗英のパニックはひどくなった。
 おかあさん。おかあさん。彼女は叫んだ。視界に髪がぱらぱらと落ちてくる。紗英は頭に顔を押しつけられるのを感じた。そいつはその姿勢のまま、荒い息を吐きはじめた。湿った息だった。腐った水の臭いがした。
 紗英は腹が立った。彼女は意見を表に出さない代わりに、自分の領域を大事にする人間である。母親が勝手に部屋に入ることにだって腹が立つ。彼女は、出ていけっ、と念じた。火みたいな怒りだった。ここはわたしの部屋で、あんたなんかが入っていい場所じゃないんだっ。
 紗英は腕をつっぱると、折り畳んでいた足をなんとか引きあげ、足の裏をベッドにつけた。そのまま脚力をつかっていきおいよく腰を跳ね上げる。布団がずり落ち、上に乗っていた何者かが床に転がる音がした。
 紗英は勝利の表情を浮かべて、布団をのける。部屋の外を、女が走って逃げていく。着物と長いウェーブのかかった髪が見える。白くふやけた足の裏が、目に焼き付く。
 溺死女だっ。と紗英は思った。
 紗英は布団の上のデンチを拾い上げると、スイッチを入れてベッドを降りた。べしゃりという音ともに、足の裏に冷たい感覚が走った。フローリングは女からしたたった水で、ところどころ濡れていた。紗英はその水たまりをデンチで照らしながら、女の後を追い始めた。
 廊下に出ると、女の足跡は左に曲がっている。
 テンポの速い吐息が、廊下にいくつもはきだされる。温度が、下がっている。吐息が白くそまっている。女の姿を見失うと、紗英の怒りはかき消えた。追いつめて正体を確かめてやろうという気も、こらしめてやろうという気もなくなった。
 恐ろしくなってきた。
 両親の寝室は向かい側にあった。紗英はその扉をデンチで照らした。ドアは沈黙して冷たく見えた。非常事態ではあったが、こんな夜遅くに起こしたら、母さんはまた怒るんじゃないかと考えた。デンチを振る。廊下の奥にある物置のドアが開いていた、女の肩がのぞいている。デンチの明かりが、ぶつんと消えた。ひっ、と息をのんだ。
 廊下が暗くなる。そっと、一歩、母親の寝室に向かって足を踏み出すと、物置の腕が上がり、おいでおいでをし始めた。着物の袖がゆらゆらした。
 紗英が寝室に駆け寄ると、物置から女が飛び出してくる、すごい形相で向かってくる。紗英は悲鳴を上げて、寝室の扉を開く。真っ暗だ。
 紗英が振り向くと、女が追いついた。大きな目玉をぎょろりと剥いて、仁王立ちをする。
「どうしたの?」
 ベッドで母親が身を起こした。枕元のライトをつけた。
 紗英は溺死女を無視して振り向いた。母さんが薄明かりの中に浮かび上がっている。
「母さん……」
 紗英は助けを求めようとしたが、首に溺死女の息がかかり、声を詰まらせる。溺死女が、頭を紗英の後頭部にぴったりとつけた。母さんは、夢でも見たの、もう二時よ、と言っている。紗英はおまもりさまの血がみんなに見えなかったことを思い出し、この女も母さんには見えないんだ、と考えた。
 紗英はガタガタ震えている。恐怖もあったが、それ以上に身を凍えさす寒気っ。紗英は、これは死体の冷たさなんだと考える。もう母さんのベッドに逃げこむことしか考えなくなった。紗英がベッドの方に歩いていくと、女がついてきた。背中にぴったりはりついている。紗英の歩く速さにあわせ、ときどき体がぶつかった。
 女の息が頭にかかる。口にドライアイスを詰めこんでいるみたいな、冷たい息だった。
「母さん、女の人の夢見た。死んでる女の人の夢……」
 紗英が泣き始めると、母さんはびっくりしたようだ。彼女が布団を持ち上げると、紗英は矢も楯もたまらず、母親の膝に倒れこんでいった。
 母さんは、一緒に寝てあげるから泣かないのよ、と言った。
 抱き寄せられると、紗英は母親にしがみついた。母さんは娘の体をだきながら、小さなこどもにするみたいにあやしだす。こんなふうに抱かれて眠るなんて久しぶりだから、溺死女のことさえなければ、紗英はうんとうれしかったろう。そして、自分が母さんのことを、どんなに好きかと言うことを思い出し、母さんを憎んだことを――ときどきだけど。それでも。恥ずかしく思った。紗英は母さんのあったかさにほっと安堵し、その胸に顔を埋める。彼女の服が濡れていることに、母親は気づかなかった。
 紗英はその日くたびれきっていたから、溺死女のこともいつしか意識を離れていき、深い眠りについたのだった。
 溺死女は、その間もずっと枕元に立ちつづけたが、母さんは何も言わなかった。

        五

 紗英はみんなに話した。溺死女のことを伝えるためには昨晩の出来事を、詳細に思い出す必要があった。あいつの体の重さとか、息のかかった感触を。紗英はときおり震えた。それにこんなホラー映画みたいな話を、人に言ってしまうのは勇気がいった。ふつうはばかにされるんじゃないだろうか。
 どもったし、のどを湿らすために何度も唾を飲まねばならなかった。しかし、みんなにはうまく伝わったようだ。紗英が話し終わると、彼らは青い顔で、不安げに互いの顔を見交わしたからである。
 それは翌日の早朝のことだ。一同は大森神社の境内に集まっていた。そこは、紗英をのぞいた一同が、服を埋めた場所でもある。
 服は神社の裏にある林に埋めた。
 大森神社は本殿の他にも四つばかり建物をもっている。本殿の隣には事務所(と利菜たちは勝手に思っている)があり、境内には稲荷をまつった小さな社もあった。神社と林の向こうには古い農村の回り舞台もあって、昔はそこで演劇を催していたらしい。神保町ではもっとも大きな神社だった。
 子供たちは賽銭箱の置かれた階段に座っていた。その日は雲と青空が半々くらいのおだやかな天気だった。日は陰ったり照ったりした。木漏れ日が、境内の土と、子どもたちの肌をちりちりと焼く。
 そんな陽気のわりには、うそ寒い話だった。
 境内は蝉の声で満たされている。利菜は青空を見上げながら、あんなことがあったなんてうそみたいだな、と思った。じっさい、服も靴もなくなって、証拠がぬぐい落とされると、おまもりさまでの出来事が遠い昔のように思えた。そのぐらい現実感のない出来事だったのだ。昨日は家にもどって親子どんぶりを食べたし、ドラマをみて笑ったりした。紗英の話を聞くまでは、このまま何とか乗り切れるんじゃないか、と思ったほどだ。
 達郎はリトルの練習でいなかった。そのこともみんなの不安を大きくした。達郎も子供だけど、大人みたいにしっかりしている。責任感がある。それに自分の考えで、指示を出すこともできた。寛太郎ほどは頼りにならないけれど、でもみんなは何かあるごとに自然に頼りにしていた。
 みんなは紗英の話を疑いはしなかった。でも、とまどっているようだった。
「溺死女って、それって発電所で死んだ人のこといってるの?」
 佳代子が訊いた。みんなは水力発電所に出るという幽霊のことを、自然と連想したらしかった。
「夢じゃないの?」利菜が言った。肯定して欲しげにみんなを見回す。「なめ太郎もけっきょく見なくなったじゃん」
 佳代子がさえぎった。
「埋める直前まで服についた血が見えてたってのにっ? 神主さんにも見えなかったんだよ」
 激しい語調だった。利菜は黙りこんだ。気まずい沈黙が、空気に落ちた。
「紗英はどう思うんだよ」寛太が訊いた。
「今朝起きてから、部屋に戻ったんだよね……タオルケットは乾いてたけど、床の水はそのままだったよ。残ってた……」紗英は地面に向けていた目を上げる。一人一人に視線をあてがう。「気にしない方がいいのかな?」
「水はどうしたの?」と利菜が訊いた。
「拭いたよ。母さんが、廊下の水たまり、ふんだんだけど……」
「気づかなかったの?」
「うん」
 紗英は涙がこぼれるのをこらえるみたいに、震える唇で唾を飲んだ。
「スリッパはいてたけど、ふつう気づくよ。音もしたもん」と彼女は言った。「バチャって」
 紗英は母親に気づかれないようその水を拭いた。ぞうきんを手にして廊下に広がった水たまりの前にたったとき、その水が、さわった瞬間に消えてしまうことを願った。でも、水は消えなかった。雑巾に、じっとりとしみこんだ。
 その雑巾を、洗面台でしぼったのだが、なんだかみじめな気がして泣けてきたのを覚えている。誰にも見えない、自分でも幻覚だと思いこもうとしている水を絞っている。ばかげた話だと思ったのだ。
 だけど、友達には、そんなこまかな話まではしなかった。
 境内は静かで、秘密の話をするにはもってこいだ。紗英たち以外に話をしているのは、鳥ぐらいなものだった。
「またお祓いするか」
 寛太は、蟻の行列に砂をかけながら言った。
 紗英は知らなかったが、寛太郎は服を林に埋めることになったとき、神主に頼んで土や服を清めてもらったのだ。
 佳代子が眉をしかめた。
「家の中で? おばさんになんて言うのよ。それに神主さん、あんときも乗り気じゃなかったもん。こんどはじいちゃんが頼んでも、やってくんないに決まってる」
「じいちゃんに話す?」利菜が訊くと、
「話さない」紗英は頑固に言った。「怖がってたから、あんな目にあったんだと思う」
 紗英はあれは見間違いだったんじゃないか、そうでなかったら、幻覚みたいなもんなんじゃないかと思いたかった。妖怪なんていっこないし、幽霊だってもちろんいない。でも、この手であの水を拭いたのは事実だ。
 利菜たちは、穴の中の服に土をかける瞬間も、血の痕が見えたと主張した。寛太の言ったとおりだ。そんなに長く幻覚をみつづけるのはおかしいんじゃないだろうか? 寛太郎に話すのはみんな気が進まないようだった。じいちゃんは、おっかながっちゃだめだと言った。神社に服まで埋めてもらったのに、そんな話をしたら、寛太郎はがっかりするんじゃないかと、みんなは思った。
 それからみんなの話題は自然と水力発電所にうつっていった。その発電所は川そばの急斜面にあった。紗英の住む高台の東にあたり、大森神社とは真反対に位置している。急斜面にどでかい鉄パイプを二本のばし、小高い山上から水をおろしていた。パイプの真下に施設があって、水の力を利用して、発電を行っているそうだった。
 紗英が溺死女の話を聞いたのは、神保小学校の写生大会のときだった。四年生のときだ。紗英は転校してきたばかりで、すでに佳代子たちとは仲良くなっていた。
 溺死女は(そのときは溺死していなかったが)、牛と一緒にそのパイプに流しこまれてしまったという。水が流れこむさまを横手にみながら話を聞いたから、その記憶はなまなましく体に残り続けた。山上には小さなほこらもあって、子供たちは女の霊を慰めているんだと勝手に思っていた。
「紗英ちゃんが見たのがあすこの幽霊だったら、やっぱりお祓いするのは正解じゃないかな」
 新治が言った。ひかえめで消え入りそうな、今自分が口にしたことを恥じているみたいな声だった。
「どういうこと?」
 佳代子がやさしく訊いた(そんなふうにきかないと新治は話さない。引っこみ思案な奴だから)。
 新治は話した。もし、こういう、お化けだとか妖怪だとかがほんとにあるもんだとして、そうだとしても、おまもりさまとその人は関係がないから、化けて出てくるのは変だということ。その女は紗英が写生大会のときにしたことで怒っているのかもしれない。そうなると謝っておいた方がいいんじゃないかということを。
 新治はしゃべるのが得意じゃない。上がり症気味だし、横から話をはさまれると、口ごもったり小さな声になったりして、黙りこんだり話をはぐらかしたりすることがよくあった。はっきり自分の意見を言わないのである。だから、みんなは茶々をいれずに真剣に聴いた。今も新治の顔は真っ赤だった。紗英は先生に当てられたときみたいだな、と思ったが、何も言わなかった。新治は話すのは得意じゃないが、馬鹿ではなかったからだ。
 新治はみんなの注目を浴びながら必死にしゃべった。今日は暑かったが、それ以上の大汗をかいて話した。まったく頭に血が上ると、考えをまとめるのにも一苦労する。だけど、友達は自分のことをよく知っているし、女の子は男の子とはちがう。真っ赤になったってからかいはしない。新治は男の子といるより、女の子といる方が楽だし、性に合っていた。佳代子と利菜という幼なじみの親友もいたから仕方がない。男の子たちには、そのことでからかわれた。
 寛太は五年D組ではガキ大将といってもよかったけど、新治をからかうことはぜったいなかった。(理由はわからなかったが)それとない形で助けてくれることが多かったのだ。
 みんな新治が話し出すとばかにしてろくに聴いてくれないが、寛太はいつだって耳を傾けてくれた。寛太がいつでも相手の話を聴こうとするのは、いつだって真剣なやつだからである(そこが問題でもあったけど)。言葉に裏がなくって、思ったことをずけずけ言う。
 それに寛太は女の子とちがって、同情で物を言わなかった。新治は寛太のことが、苦手だけど好きだった(変な言い方だけど)。
「つまり自分たちでお祓いをするってこと? どうかなあ、むずかしいよ。あたしは神主じゃないもん」
 と佳代子は言った。利菜も言った。
「心霊写真のお祓いってさ、方法を間違うと、もっとのろわれちゃうんだって。テレビでやってた」
「やめてよね」と紗英が言った。「みんなどう思ってるかしんないけど、わたしは真剣に怖いんだよ。あいつに抱きつかれて痕もあるもん」
「ほんとかよ?」
 寛太が言った。うん、と紗英はうなずいた。あいつの指の痕はお腹にあった。しかし、男の子の前で服をめくるのが恥ずかしかったから、あまり詳しくは話さなかった。彼女が寄ってこないで光線を発射すると、寛太は黙った。新治が言った。
「あすこの祠にお供えするって言うのはどうかな?」
「まんじゅうをか?」
「でも、ちょうどお盆ではあるよね」と利菜が話をしめくくった。
 みんなは、写生大会があったのは去年で、いまごろ溺死女が出てくるのはおかしいということ、紗英はパイプのそばには近づかなかったから、女を怒らすようなことはしていないこと、あの祠は女のお墓とは思えないということを話し合ったが、結局祠にはお参りをすることになった。

        六

 くだんの水力発電所までは、山の裏手の道を自転車で漕ぎ漕ぎ、十分ばかりかかった。子供たちが水力発電所行きを決めたのは、他に紗英を安心させるような方法を思いつかなかったからである。それに寛太郎と歌は信心深かったし、お供えをするというのも彼らの性に合っていた。
 発電所のある川のそばの道は細かった。対岸には広い二車線道路があり、吊り橋でつながっている。学校では危ないから近づかないよう注意がしてあった。
 発電所のパイプは、山の上から施設まで、百メートル近くある。真っ黒なパイプが二本、ずでんと丘を走っている。山上まではコンクリートの階段がついていた。金網で囲ってあり、ふだんは鍵がしてあって、入れないようになっている。施設は可動しているらしく、水の流れるごおごおという音と、独特の機械音がした。
 子供たちは寛太の家で、ろうそくと線香を調達してきた。しかし、実際に発電所の近くにくると、誰もがおじけづいてしまった。黒光りするパイプはなんだかまがまがしかった。発電所の辺りは、あまり日も差さずじめじめしていた。発電所の中がどうなっているか、わからないのも不安だった。
 子供たちは、女が流れてきたときは、どんな騒ぎがあったのかと想像をたくましくした。
「上までずいぶんあるよね」
 と佳代子が自転車のキックスタンドもおろさずに言った。佳代坊主は幽霊話が大嫌いだったから、まったく気が乗らないようだった。ここまで来たのは紗英のためで、なめ太郎も溺死女も今ではばかげた話だと思っていると言いたげな、ふてくされた顔だった。
 佳代子はいつだって場の雰囲気を明るくする子だったが、その彼女がふてだすとその気分はみんなに伝染しはじめた。肝腎の紗英まで、縮こまってため息をつく始末だった。いちばん弱虫の新治が「い、行こうよ」とどもりながらも言わなければ、みんなは吊り橋を渡って帰っていたに違いない。
 一行はろうそくと花をもって、階段に向かった。
「上の水路ってさ……」
 利菜の言葉を、佳代子がひきつぎ、
「金網もはってないよね。落ちたら、水に流されて」と言った。「後はパイプまで直行よ」
 佳代子の言い方は生々しかった。みんなは自分が水路に流されるさまを想像して気分が悪くなった。
「祠におそなえするだけだよ。水路には近づかないもん」と紗英。
「ここはおまもりさまじゃないしな」
 寛太は浮かない顔で、扉を開ける。簡単に開いた。ふだんは厳重に鍵がかけられているのだが、子どもたちはそのことを知らなかった。扉の鍵は近くの草むらに転がっていた。
「大人が見かけたら、止められるに決まってるよ」と彼は言った。
 しかし、階段をのぼりはじめても、施設から顔を出す大人はなく、辺りは静かなものだった。山は杉並木でおおわれている。みんなはおもまりさまのことを思い出す。紗英が溺死女を見たことを、そんな話を自分たちにしたことをひそかに恨みはじめた。
 階段の脇にあるパイプからは、水の流れる音がする。先頭を行く寛太がふと立ち止まり、そのパイプに手を伸ばした。ごごごごごっ、と地響きのような振動が手のひらに伝わってくる。
「おい、すごいぞ。ここまでがたがたするっ」
 寛太がふざけてのどもとを指でさした。佳代子が怒って言った。
「馬鹿な真似するんじゃないよ。あたしはさっさとお参りして帰りたいんだから。紗英ちゃん、今日はおっかさんに頼んでさ、またみんなで寛ちゃん家に泊まればいいじゃん。あんなところにのぼるより、そっちの方がずっと安全に決まって……」
 ドン! となにかを叩く音がして、佳代子は利菜に飛びつき、紗英と新治は恋人みたいに手をつなぎあい(顔つきはちっとも恋人らしくなかったけど)、寛太はその場で尻餅をついて、尾てい骨をしたたか打った。寛太がしこたま驚いたのは、その音が、パイプの内側からしたからである。ちょうどてのひらがあった真下から。
 みんなは寛太が転がっているから、逃げるわけにも行かずに彼のまわりに集まった。寛太はすっかり泡を食いながらも、なんとか身を立てなおして手をついた。寛太はその音と、パイプ越しとはいえ直接ふれあった。内側からなにかがパイプを叩いた。ものすごく邪悪なものを感じた。殺意にも似た、わるいものを。
 パイプは内側からどんどんどんと大きな音をたてつづけた。まるで、中から拳で叩いているみたいだった。一同は顔を見合わすと、慌てて階段を下り始めた。
 寛太が振り向くと、山上では着物を着た女が、こちらを見下ろし立っていた。
 逃げろ逃げろと口々にわめき、転げるように駆け下りる。自転車に飛び乗ると、吊り橋をゴトゴトゆらしながらわたった。二車線道路の日だまりの下まできた。ようやく自転車をとめた。
 新治は山上に黒々とした穴が開いていて、そこから女が姿をあらわすのを確かに見たとおもった。彼は発電所に目をやった。川を挟んで吊り橋でつながっている。ここからだと大海の孤島みたいに見える。彼の目には、水力発電所はすごく離れて見えた。その方がよかった。
 佳代子ははあはあと吐息をついて、ハンドルの間に突っ伏した。
「こ、腰が抜けた……」
 寛太が大笑いした。佳代子が怒鳴った。
「本気だよ、ばか!」
 寛太はまだ笑いながら手をふった。
「あ、あんな音、パイプになにか詰まったか、木の枝が流れこんだに決まってるよ」
「詰まったって、なにが詰まったの?」
 利菜が真顔で訊いた。寛太は真顔で言い返した。
「やめろよな、ばか」
 彼が自転車を押し出すと、新治が呼び止めた。
「ねえ、これはどうすんのさ?」
 寛太は新治が手にしている花と、線香を包んだ新聞紙をみた。彼はため息をついて引き返してきた。子供たちはしかたなく、入り口のガードレールに、花とまんじゅうをそなえた。みんなこんなことが効果があるなんて思っていなかった。さっきのが幽霊の仕業だとしたら、おっそろしく悪意を持った強烈なやつだ。
 子どもたちはろうそくに火をつけ、線香を燃やした。ちょっとお祈りをしてから、帰り道についた。
 その日は畑に出たり、水をぶっかけあってふざけ、いつものように一日を終えた。女の子たちは約束どおり寛太の家に泊まり、新治は帰った。誰も発電所の話はしなかった。
 いつもと同じようにふるまっていると、おまもりさまでのことや、溺死女のことなど忘れることはたやすかった。彼らは子供で、心も体も柔軟だった。だけど、それからもおさそいはつぎつぎと起こったし、世界はねじまがりつつあった。二十五年後には、彼らははっきりと自覚してこのことに立ち向かうのだけど、このときは自分たちの身に起こりつつあることについて、何もわかっていなかった。
 世界がねじまがっていることに彼らが気づいたのはずっと後のことで、なめ太郎や溺死女が妖怪や幽霊なんて単純なものではないことを理解したときには、かなりのことが手遅れになっていた。彼女たちはしだいに寝付きが悪くなり、やがては眠りながら出歩くようになる。
 結局、溺死女のできごとは、その夏つづいたおさそいの、手始めにすぎなかったのだ。


第四章 尾上新治、マジシャンに会う

 二〇二〇年 ――神保町

        七

 新治は山の中腹にある自宅から、神保町の夕景色を見下ろしていた。その自宅は彼が手ずから建てたログハウスだ。むきだしの丸太に影が落ちている。新治は輪切りにした樫の椅子に座り、右手の金槌をもてあそんでいる。山裾からは風が吹き上げ、洗いざらしのカッターを、わずかにはためかせている……。
 尾上新治は、高校を卒業すると、地元の建築家のもとで大工の基礎を学び始めた。眼鏡ネズミも得意なものを見つけたのである。もともと中学のころから工作には熱中していた。高校生になると、寛太郎が伝喜代という老人を紹介してくれた。
 伝喜代は小柄で痩せていたが、腕のいい職人気質の男だった。新治は休みを利用して、その老人のところでバイトに精を出すようになった。伝喜代は子供みたいな背格好なのに、腕はすこぶる立った。伝統工芸にも精通していた。
 一方新治は自分の体格には劣等感をもっていたから、はじめて会ったときから伝喜代と工芸にひきこまれていった。伝喜代は広く名を知られたわけじゃないけれど、きっと隠れた名人なのだとおもった。
 新治は自分がこの手の物作りに才能があることに気がついた。自分が作るのは椅子のようで椅子じゃない。言葉を正しくいうなら、きっと芸術なんだと彼は思った。
 兄の達郎が、そんな新治の工芸熱にひきこまれるようになったのは、大学で肩をこわしてからである。達郎は野球ができなくなった。彼は打ちこめるものをなくし、自堕落な生活に身を落としていた。地元にもどった達郎は、伝喜代のところに寄宿していた、新治のもとを訪ねた。達郎は工芸家になろうとしたわけではなく、からかい半分遊び半分の気持ちで、金槌を手にしただけである。
 彼の肉体はもう球を投げれない。だけど心はまだ野球に向いていたし、彼の精神は、球を投げ、球をとり、球を打つことを欲していた。彼が引きこまれたのは、伝喜代と新治であって、二人の打ちこむ姿にだった。彼はふたたび打ちこめるものを求めていた。
 達郎は野球はできなくなったが、工芸はできた。その世界は真剣にむきあってみると、野球に負けないぐらいおもしろく、複雑で長い通路が広がっていた。野球道があるのなら、そこには工芸道とも呼べる何かがあった。
 達郎は新治と伝喜代を通して、ふたたび打ちこめる自分を見いだした。伝喜代通いはひんぱんになり、やがて大学にいることの方がすくなくなった。彼は伝喜代の家に寄宿するようになった。大学は単位を落とし、留年をし、やがて放校になったが頓着しなかった。兄弟は工芸に熱中した。伝喜代が死ぬまで、その生活を続けただけのことである。
 伝喜代は死んだが、二人のところには仕事がひっきりなしにやってきた。伝喜代と暮らした八年間で、二人はじつに多くのことをあの小柄な老人にたたきこまれた。新治たちは、伝喜代の後を継ぐ形で工務店をはじめた。工務店の名は、伝喜代、といった。
 二人は自分の仕事を金儲けというより芸術のように思っていたから(そんなふうに話し合ったことも、口にしたこともないが。そのような感情は常にあった)、多くの同業者が真似のできない、いい仕事ができた。新治が伝喜代のもとを訪ねてから十八年がたち、二人はりっぱな職人になっていた。
 新治の家から少し離れたところに、達郎の家がある。江戸時代に建てられた古民家を買い取り、解体したものをこの山腹に運んで建て直したのである。家も気に入ったのだが、その作業は二人にとっては勉強代わりでもあった。かれらは飽きるほど物を作ってきたが、工芸に対する情熱はまったくおとろえることがなかった。
「おいちゃん!」
 達郎の家の小道から、裕太がかけてきた。兄は五年前に結婚している。裕太はその息子で、新治にとっては甥にあたる。彼自身は三七才になって、いまだに独身だ。
 三歳になる甥っ子が、新治の膝もとに身を投げ出す。物思いにふけっていた新治は、裕太の向ける明るい笑顔に、ふと救われたような気になる。
 神保小の四年生、奥村民雄がいなくなったのは二日前のことだ。五日前は中野区のアパートで殺人事件があった。
 新治は裕太の頭をなでた。
「裕太、もう飯時だろう。じきに暗くなっちまうぞ。家に戻った方がいいんじゃないか」
「かえらなあい」
 裕太は新治の腕で、ぶらさがり遊びをしはじめた。
「おいちゃんとこに泊まるのか。でもいいにおいがするなあ」
 新治は匂いをかぐ仕草をした。裕太もかいでいる。夕闇に達郎宅から、肉じゃがとおぼしき匂いがただよってきた。
「おいちゃんといると食いのがすぞ」
「おいちゃんがうちにきたらいいのに」
「おいちゃんは仕事があるからなあ」新治は残念そうに言った。「裕太、危ないから、暗くなる前に帰れ」
「あぶなくないよ」
「あぶないよ。夜は外に出るなよ」
 新治は本気で心配していた。いまの神保町は危ない、と彼は思う。裕太はしばらくこの町から離れたほうがいいんじゃないか、とさえ考えていた。不眠症は収まりかけていたが、幻覚は今もってつづき、仕事も手に付かなくなっていた。怖れていた幻覚の実体化もはじまりだした。
 おさそい、と佳代子は口にした。四人で両神山を訪ねたときのことである。おさそいはみんなを追いつめていた。兄の達郎もすっかり調子を崩し、二人は仕事を断るか、先延ばしをするを得ない情況に追いこまれていた。
 もっとも、このぐらいでは、工務店伝喜代の屋台骨はぐらついたりはしないが。
 ぐらついてるのはおれたちだな。新治はため息をつきながら、甥っ子の頭をほとほと叩いた。やれやれだ。
 二日前、奥村民雄の行方不明を知ったときには、達郎さえ、おまえ、うちに泊まりこんだ方がいいんじゃないのか、と切り出した。新治は冗談かと思い笑い飛ばそうとしたが、兄は本気だった。二人とも記憶がもどるにつれ、身の危険を感じるようになっていたからだ。
 そんなわけだから、今兄の家に行く気はしなかった。この危機をのりきるのは、いつだって腹腰を定めることなのだと、彼は信じていた。あの夏を五体満足で乗り切れたのは、みんなが不安や恐怖といったものを腹を据えて乗り切ったからだ。不安を追い払うのはいつだって信じる心なのだ。最初にそれを教えてくれたのは寛太郎だ。その後は伝喜代が、彼ら兄弟を鍛えてくれた。
「うちにもどれよ。そのかわり、明日はおいちゃんがたっぷり遊んでやる」
「やだなあ、明日なんて」
 といいながらも、裕太はとことこと来た道を引き返し始めた。新治は裕太の尻のポケットに、ビニールボールがねじこまれているのを見てぎょっとした。
「ゆ、裕太あ」裕太が振り向く。彼は夕日の中で輝く裕太の顔に、かつての友達を、子供たちをのぞきみる。「そのボール誰にもらったんだ」
「外人のおっちゃん」
 新治が声もなく呆然としていると、裕太は続けてこう言った。「手品みせてくれた」
 裕太が家に向かって走り出す。新治は、知らない人には近づくんじゃないぞ、と声をかけた。小道を遠ざかる裕太の背中を視界におさめながら、新治は、マジシャンだ……、とつぶやいた。あの夏に見たマジシャンのことを思いだした。
 マジシャンは金髪で、長身の優男、おまけにとてつもないいじめっこだった。大人で外人のいじめっこだ。その姿を、面影を頭に描き、新治は震えた。じっとしていると、すべての記憶がよみがえってきそうで、彼はそっと小道に背を向ける。
 おれたちのマジシャン……。それとも利菜の、佳代子のマジシャンだったんだろうか? ともかく、あの夏はマジシャンのやつにしてやられた。とことんおっかない目にあわされたのだ。
 新治は裕太にビニールボールを渡したのが、マジシャンであると疑わなかった。兄貴はあのボールに、気がついているんだろうか?
 新治は、よろめくようにしてテーブルに近づいていく。あのボールについた細かな傷まで思い起こせるようだった。あのボールは、マジシャンとともに彼らにつきまとったのだから。そのマジシャンが二十五年目にして戻ってきた。しかも、ビニールボールを甥っ子に手渡す念の入れようだ。恐怖のマジシャン――あのマジシャンは夏中彼らを追い回したのではなかったか? 溺死女も。なめ太郎も。
 あいつらはいったい何だったのか?
 彼らがあの夏に、おまもりさまのおさそいが、少なくともお化けや幽霊のたぐいではないことに気がついたのは、結局はマジシャンの存在だった。あいつは実在した人間だったからだ。
 今は専門店が多く入り、咲ランドというこじゃれた名前も付いているが、一九九五年のジャスコは五階建てのさびれたビルだった。当時は最上階に服やアクセサリーが置かれ、屋上には子供用のアトラクションと望遠鏡があった。あの夏の前年、マジシャンはジャスコの屋上でショーを行うために、アメリカから来日していたはずだ。新治たちもトランプを華麗にあつかう男の姿を何度か見たことがある。
 その男はおそらく二十代前半の若者だったのだろうが、新治の記憶では子供に性的ないたずらをするという事件をおかしたはずだ。逮捕されたあげくに、本国に強制送還されたのではなかったろうか?
 佳代子たちはあいつの生き霊だとか言っていたが、そうではない。おまもりさまから出てきたもの――あるいは、今も彼をとりまくものが。なんであるにしろ。――そいつはみんなの恐怖や記憶を食い物にしている。わるいもの(そう、あの頃はこの現象をそんなふうに呼んでいた)は心を映す鏡のようなもので、彼らの悪い心を具現化している。だが、それ以上のものでもある。溺死女もマジシャンも、じっさいに現れたときは、思い描くよりもはるかに邪悪になっていたからだ。
 新治は神経質に髪をかき上げる。
 新治は金槌をテーブルにおいた。手になじんだ道具ではあったが、人に向けてみたいという衝動が心から離れない。彼はこう考えた。あの夏におれたちは、最終的に答えを見つけだしたんじゃなかったのか? だから、おさそいは終わりを告げたんじゃないのか? 記憶がなくなった原因はその辺りにあるんじゃないのか?
 明日はあのボールを捨てるように言っておかないとな、と新治は思う。裕太は強情だから、なかなか骨の折れる作業だろう。
 なに、それだっておまりさまのおさそいに比べたらたいしたことはない。
 へみたいなもんだ。
 新治は庭の端により、神保町の家並みを目に納める。彼らはあの夏休みのことをかなりの部分で思い出していたが、なぜあのおさそいが終わりを告げたのかは、今もってわからなかった。そのことを確かめるために戻った両神山からは、ほうほうの体で逃げ出す始末。
 佳代子も寛太も憔悴して、おまけに頼りにすべき寛太郎(伝喜代、伝喜代を忘れてはいけない)はいないときている。事態は25年前よりはるかに悪くなっている。
 彼らはもう子供ではなく、柔軟でなければタフでもない。
 新治は、なにかを信じるには、自分は年をとりすぎたのではないかと考える。信じる力は、薄れてしまった。それをなくすというのは、可能性をなくすということじゃないのか? 力を薄れさせたのは、見栄や体面なのかもしれないが。
 新治は25年の月日を思い、しばし呆然となる。物事を色眼鏡で見るようになったし、悪い経験も重なっている。真っ直ぐ生きたとはとても言えない。彼も彼の仲間も、おさそいに、わるいものに立ち向かうには、トウが立ちすぎたという感じだった。
 なにより、事態は悪くなる一方なのに、彼の仲間はまだ全部そろっては、いなかったのである。

        八

 再び、一九九五年 八月十七日――木曜日

 一九九五年の尾上新治は眼鏡ねずみと呼ばれていた。あの頃の友人たちに新治はどんなやつかと尋ねたら、大人しいやつ、目立たないやつ、後は眼鏡と出っ歯で、同級生ときたら他に特徴を上げられなかった。それって取り柄といえるもんじゃあない。
 利菜や佳代子といった幼なじみの面々なら――本好き、器用、気の利くやつ、やさしいやつなど――もう少し具体的なことをいったかもしれない。本当の新治は物事を深く考えるやつなのだが、だけど、その分きまじめで神経質な面がある。なにかをやるには慎重すぎるし、よけいなことにまで気を回すのが癖だった。
 だから、寛太の家に泊まりこんでいたときでも、こんなに長く帰らなかったら、母さんや新しい父さんが気にするんじゃないかと考えた。両親は自分たちの結婚のせいで、家に寄りつかなくなったのではないのかと考えるかもしれない。
 それに自分がいないと、達郎が二人の間で二倍は気を使うことになる。と思う。新治は新しい父親をそんなには嫌ってはいなかった。いい人だ。でも、父親とは思えない。彼の父親はまだ生きていたし、会おうと思えばいつでも会える。現に達郎はいつでも会ってる。
 新治にとって新しい父親は、気のいいおじさんに過ぎなかった。彼の心は父さんが二人いるなんて、それこそ変だと叫んでいた。でも、彼の母親にとっては大事な人だ。新治は新治なりに、新しい両親にたいして折り合いをつけはじめた。彼があの夏に急に大人び始めていたのは、こうした家庭の事情が重なっていたからだ。
 溺死女の一件は子供たちに衝撃を与えはしたものの、それが徹底的なダメージとなることはなかった。彼らはこどもで、出来事を受け入れるだけの下地はまだあった。結局は幻覚や聞き違いの一種なんだと思いこむことにしたのだ。ノックアウトはまだ早かった。
 軽いジャブを二三発。強烈なストレートを、まともに食らったわけじゃない。
 新治は一件の後、二日ばかり寛太の家に泊まりこんでいた。女の子たちも一緒だった。新治は自分が殺されたり、何かに追いかけられたりする嫌な夢を何度も見た。そんなとき、目が覚めて隣に友達の姿があったりすると、ほっと安心するのである。その友達が同じように悪夢にうなされていたとしてもだ。
 だけど、いつまでも泊まってはいられない。それは他の友達もおんなじだ。
 佳代子は母親のもとに帰ることを怖がっていたが、妹たちを放ってはおけなかった。家を空けるのはいいが、しっぺ返しのお仕置きが怖い。その夏佳代子はふらふら出歩いていることを理由に、こっぴどくぶたれることが何度かあったのである(とはいえ、彼女の母親は、娘の夢遊病についてまでは気がつかなかったようだが。新治の目から見ても、佳代子の母親が気づかないことは、かなりたくさんあるように思う)。
 それに比べたら利菜の方はまだましだ。利菜の両親は彼女に対して甘かった。ただ彼女の母親は、新興宗教にどっぷりとはまりこんでいた。夫や娘におかしな様子を見せていた。利菜だって悪夢や一人で寝ることへの不安はあったが、家に帰ることには賛成した。母さんが心配だったから。
 紗英に関しては、もはやくどくど述べる必要はないと思う。
 一九九五年の夏、友達と別れた尾上新治は、一人図書館へと向かっていた。こんなときになんだが、本を手に入れるつもりだった。できれば子供向けの(魔女の宅急便とか)童話がいいだろう。
 そりゃあ家には兄がいるし、両親も(ちぐはぐながら)そろっているが、眠れない夜を過ごすのはいつだって一人きりだ。
 新治にとって本は時間を忘れさせてくれるかっこうの道具だし、ときとして現実だって忘れさせてくれる力があった。
 尾上新治としては、その両方の効果を期待して、図書館までの坂道をえっちらおっちら、自転車をおしおし登っていったわけだった。友達をさそってもよかったのだが、寛太は本なんて読まないやつだし、佳代子や利菜をさそったら、目的が見透かされそうでいやだった。眼鏡ねずみだって、女の子には見栄をはる。
 その図書館は青葉図書館といった。佳代子はだっさい名前と鼻で笑っていたが、新治はあの図書館の開放感が好きだった。外壁は一枚ガラスで仕切り、光がふんだんに入ってくる。外には芝生敷きの庭が、丘状に広がって眼に優しい。明るい色の床板も好きだ。階段も本棚も、よく磨きこまれて黒光りしている。
 一階の半分は読書スペースになっていて、ソファー、大机、一人用に間仕切りにされた机、パソコン、テレビが用意され、好きなようにくつろぐことができる。インターネットも使い放題で、雑誌や新聞も常備されていた。二階はロフト状に作られていて、読書スペースは全体が吹き抜けになっている。おかげで内側では、天井が外観よりも高く見えた。
 ここの開放感はまったくすばらしい。新治は机に座っていても、一、二階の本棚を両方見渡すことができるし、人の流れを観察できた。一杯50円のコーヒーカップをすすりながら、大学生やサラリーマンが静かに読書をしている。そんな中にまじっていると、新治は自分が大人になったような気がしてくる。
 彼はその夏(無意図的ではあるが)大人になることを求められていた。だから、あの図書館に行くと、ほっと安心するのである。
 正面玄関に回りこみ、自転車置き場に愛用のマウンテンバイクを置いた。彼は周りを見回して、変なものが見えないことを確認する。
 何もいないことがわかると、中に入った。
 図書館は照明を落としていたが、外から入る採光のおかげで十分に明るい。席に着いている人は五人いる。奥の棚でも人がちらほらしている。新治はほっとした。ここは大人の居場所だ。ここにいれば幻覚なんて見ないんじゃないか、と気を強くする。
 新治はここ数日みてきたものを否定しようとした。あんなの幻覚だ、幻覚。
 寛太の家に寝泊りしていたときも、人影や軒下に見える目玉に悩まされていたし、幻聴も何度か聞いた。子供たちはそうした現象をわるいもの≠ニ呼んでいた。それは「わるいもの聞こえた」とか、「わるいもの見えた」といったふうに使われた。新治はおまもりさまに近づいてからというもの、繰り返しわるいものに出くわした。
 とはいえ、寛太郎の言ったことはほんとうだ。腹を作って――寛太郎はよくこんな言葉を使う。新治には正確な言葉の意味はわからなかったけど、そういう言葉を使っていると落ち着くのはほんとだ。子供にとっていっとうだいじなのは、くだらないへ理屈よりも、事実や直観なんじゃないか?――あんなのうそだ、見間違いだとがんばれば、わるいものは見えなくなった。
 子供たちは、どうやら悪い気持ちや考えがわるいものをおびきよせているのだということに、おぼろげながら気づき始めた。困るのは幻覚がしつこく現れることだ。友達はもうなめ太郎もなにもへっちゃらになって、わるいものは見ていないんじゃないかと思うと、新治は不安だった。
 新治は受付の脇を通って、子供用の本が並んでいる通路に向かった。軽い本を数冊と、重い本を一冊借りるつもりだった(新治の言う軽い重いというのは、重量のことじゃなく内容のことだ)。軽い本は彼を楽しませてくれるし、重い本は眠らせてくれる。
 顔見知りとなっていた受付のおばさんに、こんにちはといった。彼が通り過ぎようとしたとき、こんな声がかかった。
「新治」
 新治は振り向いた。後ろから呼ばれた気がしたが、こっちを向いている人はいない。新治は呼びかけてきたのが兄ちゃんだったらよかったのに、と思った。だけど達郎は、こんなときでもリトルリトルだ。
 新治はこの数ヶ月ばかり、自分が宙ぶらりんになったような感じがした。頼れるところがなく、彼の立場は不安定だった。家にいる父親はおじさんでしかない。なのに、ほんとの父さんとは長いこと会っていなかった。会ったとしても少し話をするぐらいで、すっかり疎遠になっていたのである。
 母さん?
 母さんはいるが、今ではおじさんにとられたかっこうだ。二人は兄弟にあれこれと気をつかっていたが、新治は距離を置くようにしていた。小学五年生の彼には、どう接していいものかわからなかった。自分が邪魔者になったような気さえした。一方、ほんとの父さんには達郎がべったりだった。新治は本物の父さんにも、遠慮して会わなくなった。達郎は新治が父親と仲良くしたからって腹を立てるような兄貴じゃないが、なにかあるとすぐ気が引けてしまうのは、新治の性格なんだから仕方ない。今、新治が頼りにできるのは、友達だけだった。
「新治」
 新治は思わず、誰? と返事をしてしまった。受付のおばさんが顔を上げて、不審な顔で彼を見た。
 幻聴ってやつだ、またうそんこの声を聞いたんだ。
 新治はごくりと唾をのみこむと、意を決して通路を進んだ。図書館でゆっくりしよう、家じゃあのんびりできないから、と思っていたが(部屋にこもって本を読んだりしたら、おじさんや母さんがへんに気を回す。新治は人一倍気を使う一方、人に気を使われるのがいやなたちだ)、今ではここを出たくて仕方なかった。
 ゆっくり本を選ぶなんてやめてしまおう。魔女の宅急便でも借りて、重い本は適当に選ぼう……。
 ここにきて、新治は友達をさそわなかったことを後悔しはじめた。彼は急ぎ足で一階の中央を進んだ。ときどきふりむいた。図書館の静寂が好きだったのに、今はこの静けさが不安で仕方ない。みんな自分に気づいてないんじゃないかとすら思った。さっきの声に、気づいていなかったみたいに。
 なにも聞こえやしなかった。聞き違いだ、空耳だ、気をしっかり持て、と寛太郎がそばにいるみたいな気持ちになって、必死で自分を保とうとしたが、
「やめとけよ」
 声をかけられる。
 蛇がはうような悪寒が背中に走り、新治は、後ろに誰かいる、と信じた。誰かが立っている気配がした。ぴくりとも動けなかった。自分の影に、もうひとつの影がかさなりあう。せいたかのっぽな影だ。
 新治は恐怖をふりはらい、ぐっと顔を上げる。三歩歩く。影はついてくる。それに足音がした。でっかい革靴が立てるような、しっかりした音が、床をこづいている。
 新治は、怖がっちゃだめだ、と自分に言い聞かせる。わるいものは、新治たちが恐怖を感じるほどに強く具現化してくる。ちょうど紗英が溺死女に抱きつかれたときのように。気を強くもっているときは、やつらはおぼろげな影でしかない。でも今は……。
 新治はここには誰もいないんだと思いこもうとしたが、背後の男は新治の肩に手を置いた。
「もうよせよ。強がるのは」
 足が震えて、尿道におしっこがながれこむ。もれそうになる。新治はこみあげる吐き気を必死にのみ、
「あんたが幻覚じゃなくて、本物だって言うんなら、ぼくは人を呼ぶ」
 新治はできるだけ気丈に答えようとしたが、声の震えは彼の期待を裏切っている。くすりと笑う声がする。後頭部に誰かの顔が近づく。
「やってみせろよ」
 新治は思わず振り向いた。青い眼とかちあった。高い鼻、長い金髪の髪。細い顔をしている。シルクハットをかぶってる。燕尾服を着こんでいた。男は身をかがめて、それで眼鏡ネズミの新治とも、同じ顔の位置になっている。でも、すごく背が高い。
 頬には赤いひっかき傷があった。
「マジシャンだ」
 と新治はつぶやいた。足から力が抜け、くずおれそうになる。
 マジシャンが手を打ち合わせて腕を広げた。すると空中にトランプが出現し、床にちらばった。彼は新治の肩に手をかけた。
「本なんて読むのはやめろ。マジックを見たくはないか」
 新治は首を横に振った。振ったのに――
「見せてやるよ。うんと怖いのを。質問に答えてくれたら、うんとすごいのを見せてやる。松井の息子がどうなったと思う?」
 新治はそんなの見たくないよ、と言おうとしたが、マジシャンの殺意のこもった目玉が答えさせてくれない。松井の息子は死んだ、と新治は繰り返しそのことを考えた。松井の息子は父ちゃんに殺されたのだ。義理の父親に。松井の息子はまだ四つだった。
 マジシャンはそのでっかい熱っぽい手で(なのに冷たい)、新治の顔をつかみ上げた。
「町で子供がいなくなるのは、なあんでだ? 松井の親父が息子をいじめたのは、なあんでだ? おまえの親父がおまえに見向きもしなくて兄貴にばかりかまってるのは、なあんでだ?」
 新治は震えて答えることが出きない。内臓が縮み上がり、呼吸も止まってる。
「母親だって、おまえに見向きもしない? みんなおまえが大事じゃないんだ」
 マジシャンは新治の顔をはさみ上げた。喉がのびて、息がますます苦しくなる。マジシャンがカッと口を開けると、オオカミみたいに凶暴な牙がのぞいた。
「そんなのうそだ」
 新治は言ったが、声は震えていた。
「答えは外れだ。できそこないの眼鏡ネズミめっ」
「ぼくはできそこないじゃない。手を離せっ」
 新治がわめくと、通路の奥から若い男が顔をのぞかせる。新治のおびえた泣き顔と目が合う。でも、その大学生は変な顔をしてひっこんでしまう。マジシャンは肩をすくめて言う。「助けなんてないさ」
「おまえは……」
 新治は言い返そうとしたが、喉が詰まってできなかった。かわりにマジシャンの手を振り払って、その場から逃げだした。涙を流し、はあはあ息を切らし、通路を駆け抜ける。スニーカーの足音が二階にまでひびきわたるが、かまってなどいられない。
 両神山では、なめ太郎に足首をつかまれて引きずり倒された。そのときの恐怖が、まざまざとよみがえる。
 新治はトイレのドアを開くと、中に駆けこみ扉をしめた。ドアには鍵がなかった。新治は扉に頭を押しつける。
「助けて、助けてじいちゃん……」
「寛太郎なんていないだろうが」
 マジシャンは世界一性悪ないじめっこそのものだった。新治が振り向くと、マジシャンは先回りをして用を足していた。燕尾服を着こんで、シルクハットをかぶってはいるが、振り向いたその顔は義理の父親のものだった。
「おじさん……」
「お父さんと呼べよ」おじさんはしょんべんを終えたのか、ジッパーを上げながら振り向く。「おれはおまえの母ちゃんと結婚した。だから、おまえの父ちゃんだ。ちがうか?」
 三田のおじさんは、ひねくれて唇をむいてしゃべっている。新治はそんな姿をはじめて見る。そんなふうに豹変されるのが怖くもあった。こころのどこかでは、いつかこんなふうに、ひどい目にあわされるんじゃないかとおびえていたから。
 あれはおじさんじゃない、マジシャンだっ。
 新治は後ろをむいた。ドアノブに手を伸ばして……ノブがなかった――
「そんな……っ」
 新治はドアに手をかける。「誰か……」
 震える手でドアを叩く。弱々しく……だけど、マジシャンが近づいてくるのがわかると、きつくたたき出した。
「誰か! 助けて! ドアを開けて、開けてよ!」
 新治は肩をつかまれたかと思うと、後ろにふっとばされた。そのときにはマジシャンは変身を終えていて、お気に入りの(おじさんがだ)スーツに着替えている。
「おまえとは仲良くやりたんだ」
「やってるよ。いつも仲良くしてるよっ」
「してないじゃないかっ」
 おじさんは新治の胸をついた、何度も、何度も、何度も。「おまえは心を開いてないっ。いつもいつもおれの顔色をうかがってるじゃないかっ。おれのことを怖がってる、何を考えてるかさぐりを入れてるっ。それで家族といえるかっ?」
 びっくりしたことにおじさんは眼に涙をにじませている。いつもは大人しい人なのに。子供たちに対しては声を荒げることもなかった。
「おまえはひどい子供だ。すこしもいい奴じゃない。おれはやさしい、いい子供だと言ってやったのにっ」
 おじさんは確かに言った。ずっと前のことだが。母親が三田とろくに話をしない息子を見て、なじるように大人しい子でねえ、と言うと、おじさんはそんなことはない、やさしいいい子だと言ってくれた。新治が本当の父親のところに行かなくなったのはそれからだ。ささいなことだけど。本当だ。このおじさんがなんであれ、そんなことまで知っていることには驚いた。
「そんな、そんなつもりないんだ。ぼく、おじさんのことよく知らないし……」
「知らないんじゃない、おまえは知ろうともしなかったっ。おれからは一生懸命歩み寄ったというのにだぞっ。そんなことは、ひどいじゃないか……」
 三田は首を垂れてしょげはじめる、持っていたスーツケースがトイレの床に落ちた。三田自身は偽物でも、傷ついたこころは本物だった。新治はその傷みを感じ、苦しくなる。三田に対する恨みみたいな気持ち、それとは正反対の罪悪感は、以前からあった。三田がいなければ、父さんと母さんは元に戻れたかもしれないと思っていたからだ。この三田が何であれ、言っていることはよくわかった。
 新治は目の前の三田が、本物にしか見えなくなった。その瞬間、偽物の三田を受け入れかけたのだが、彼はやっとのことで言った。
「おじさんは……おじさんは本物じゃない……」
「本物の父さんじゃないと言いたいんだなっ。おまえはまだあのボロアパートに住むろくでなしを父親と思っているのかっ。おまえは達郎とおんなじだっ」
「ちがうよっ、おじさんは……」
「父さんと呼べと言ってるだろう!」
「うそだっ」後ずさる。壁に当たる。「前はなんて呼んでもいいって言った。母さんが、ぼくらがおじさんて呼んでるのを怒ったら……」
「そんなもの、本心のはずがあるか!」
 三田は駆け寄ると新治の襟首をつかんだ。新治はつかみ上げられて、個室のトイレに押しこまれた。
 新治は暴力をおそれ、頭を抱えて丸まる。
「じゃまなんだ、おまえらは! おれは百合子と結婚したんだぞ! おまけみたいについてきやがって!」三田は平手で新治の両腕をはたきはじめた。「くそがきども! くそがきども! くそがきども!」
 新治は叩かれたことに呆然となる。父親に暴力をふるわれたのはこれがはじめてだった。
「おまえらはおれを迎え入れようという気が最初からない! 最初からじゃまものあつかいしている! おれはよそ者なのか! 転校生か! おれは悪くないじゃないか! 百合子のことをせいいっぱい愛してる! おまえたちを愛す努力もしてきた! なのに、おまえはなんだ! 家族ってのは互いの歩み寄りが大切なんだぞ!」
 三田の怒りの激しさは新治を圧倒した。それに間違ったことは言っていなかった。新治はその場にへたりこんだ。
 三田はつぶやくように言った。
「それができないなら出ていけよ。家を出て、両神山にでも行っちまえ……おまもりさまに行くんだ」
 新治は震えながら顔を上げた、三田の顔は涙でにじんでいる。だけど、憎しみに満ちた表情で見下ろしているのはわかる。
「なんでそんなことを言うの……?」
「家を出ろって行ってるんだよ。一足早い自立みたいなもんだ。そうすりゃおれは百合子と二人で暮らせる。母さんだってそれを望んでる」
 三田はつぶやく。「あそこだって悪くない。そう悪いところじゃない……」三田は言った。「自分が必要とされてると思っているなら大間違いだぞ。必要でない奴、邪魔者な奴はごまんといるんだっ」三田は言った。
「すべてを丸く収めたいんなら、そうしろ。山に行け」
「あんたはやっぱりマジシャンだ……」新治は涙でむせびながら非難した。「佳代子の言ってる、わるいものじゃないか」
「そんなことが関係あるのか? わるいのはおまえじゃないのか?」三田は声を荒げ出す。「おまえは心根の醜いずるい子供だっ。お仕置きをされて、いなくなって当然だろうが! おまえたちは悪い子供だ。いけない奴らだっ。佳代子がほんとの母親にぶたれるのはなんでだと思う? 大人がおまえたちを叱るのはなんでなんだっ?」と言った。「間違ってるからじゃないのか?」
 とおじさんは言った。
「自分の方が正しいなんて、よく言えたもんだ」
 おじさんはトイレの扉を閉めた。新治は個室に閉じこめられた。彼は便器の足下にうずくまり、荒い息を吐いた。おじさんが出ていくまでじっとしていようと思った。じっとしてあのわるいものが出ていくまで隠れていようと思った。
 新治はもうなにも考えたくなかったが、そのあいだ、ずっとおじさんの言った言葉をかみしめた。
 おじさんの出ていく足音はしなかった。まったく。新治はうずくまって顔を伏せると、むせび泣いたのだった。

 それから新治が個室を出たときには、トイレは静まりかえっていた。ドアを見ると、ノブは元に戻っている。窓からはあかね色の光が落ちている。
 新治はまた三田のやつが、あの扉を開けて入ってくるんじゃないか、外で待ちかまえているんじゃないかと思ったが、戸を開けたとき、そこに人の姿はなかった。三田も、マジシャンも。図書館からはひそりとも音がしない。時計の針は午後六時半をさしている。もう二時間もたったなんて信じられなかった。トイレにうずくまっていたのは十分ほどだと思っていたからだ。
 新治は重い足をひきずり読書スペースの脇を通る。閉館をしたわけでもあるまいに、誰もいない。受付のおばさんは顔を上げもしなかった。
 新治は外に飛び出し、自転車のキックスタンドを上げた。彼はサドルに乗ると、ペダルをこぎはじめる。夕日に向かって、歩道を走っていく。振り返らずに、家路を急いだ。

        九

 一九九五年の夏、尾上達郎はリトルリーグで汗を流していた。
 神保町のリトルには、小学三年から、六年までの児童が参加している。仲間たちのほとんどは神保中学の同じ野球部に入る。
 だけど、達郎にとってのリーグは今年で最後だった。練習がないときだって、達郎は父ちゃんと(本物の父ちゃんと)キャッチボールで汗をながすのがつねだった。彼に野球を教えたのは父ちゃんで、達郎はヒットを打ってベースにいるときに、父ちゃんに手を振るのがなにより好きな少年だった。
 そのために母ちゃんに試合を見に来るな、というのはつらかった。でも、達郎に野球を教えてくれたのは父ちゃんだし、それに父ちゃんは今では独りぼっちだ。比べて、母ちゃんには今ではおじさんがいる。父ちゃんにはおれと新治だけなんだよな、と思うと、どうしても彼の心は、中野区のボロアパートに住む父親よりになってしまう。
 当時、神保町では連続殺人が噂されていたから、親はリトルにさえ子供を出したがらず、練習に参加する児童は三分の一ばかりにへっていた。送り迎えのできないときは、監督がかわりをひきうけるという条件で、親たちはリトルへの参加を許可している。達郎たちは大会が中止になるんじゃないかと心配した。今年のチームはかなりの成績を残しそうだったのだ。
 達郎にとって今年はリトルにおける最後のリーグ戦だった。リーグ優勝、そして県大会出場にむけて胸を燃やしていたのだが、そんな情熱がつづいたのも八月の十四日までのことだ。おさそいがはじまって以来、達郎はめっきり調子を落としていた。やる気はあるのだが、集中力をつねに欠くようになり、得意のしなやかなキャッチングも影をひそめはじめた。達郎はピッチャーもこなせる――本来のポジションはサードだ――チームの主砲だったから、コーチや監督の心配は一様ではなかった。
 調子を落としたことも苦しかったが、なによりつらいのは、そうなった事情をみんなに説明できないことだ。おまもりさまでなめ太郎を見ていらい調子がとち狂っているなんて、そんなことは話せない。話したらあほだと思われるだろう。そいつは最悪だ。
 達郎はチームの面子からも頼りにされていた、ときとして父親からも。達郎は、自分がしっかりしているから(あるいはそのような素振りを見せているから)、父親は安心してボロアパートに暮らせているのだと、子供ながらに気づいていた。言葉として理解していなくとも、なんとなく。
 とはいえ、両神山で見たものまで理解したわけじゃない。
 達郎はわるいものだなんて子供っぽい言い方がどうしても好きになれず、自分たちが見て、聞いたものについては、たんにあいつ≠ニかあれ≠ニ呼んでいた。自分でも幻覚と思っている(思おうとしている)ものにたいして、名前を付けたがるなんておかしな話だが、寛太郎が言っていたように、人はなんにでも言葉をつけて整理したがるところがあるらしい。そうしないとケツの据わりが悪くって、落ち着かないのだ。
 だから、達郎は野球はすっかりだめになったけど、それ以外はすべて大丈夫といった振りをしていた。目の下にできたクマと憔悴した表情はそうした努力を裏切っていたけれど。しっかりしているといっても、まだ小学六年生だ。達郎が他のメンバーとちがって懸命に自分を保たせていたのは、リトルの試合があったから、というきわめて平凡な事情にすぎない。希望や夢は、ときに人をしゃんとさせる。しゃんと。
 だけど、達郎のリトルに対する情熱も、一九九五年八月十七日には切れかかっていた。かれはサードのポジションを、他の子に奪われかけている。若い情熱の炎は、焦燥感となって彼の心を焦がしている。決定打となったのは、八月十七日午後四時十一分コーチの放った一撃だった。そのとき弟の尾上新治は、図書館でマジシャンこと三田秋吉と対決しており、わるいものはこの日、尾上兄弟に猛威をふるったことになる。
 達郎たちのチームはよその地区と同じように、ひまをみつけたOBが子供たちに指導をしている。この日は、藤尾という大学生が町民グラウンドに姿を見せていた。きっかけは、やっぱり、あいつ≠フせいだった。

 コーチの様子が変わったことに気づいたのはなにも達郎ばかりではない。他の子たちも気づいていた。ノックが達郎に集中しはじめ、子供に打つにしてはかなりきつくなってきた。打球もコースも。
 達郎は何度か取り損ねた。
 みんなは最初の内、達郎はほんとに下手になったのかな、と心配をした。そのうち、そんなにきつく打って大丈夫なのかな、とおもいはじめた。怪我をしないのかな?
 それにコーチは達郎がボールを後ろに逃がすと、気が狂ったみたいにわめき散らした。達郎はコーチの目が赤く光っているような気すらした。達郎は監督やOBにとってはお気に入りの選手だった。そんなふうにどやされるのにはなれていない。コーチの発する怒声の一つ一つに、彼の心は縮み上がった。
 この位置でもボールが取れていないというのに、コーチはそれでも前に出ろといった。達郎が進み出ると、まだ前だ、まだ前だ、ノックの手も休めずに要求する。達郎は本能的に、これ以上コーチに近寄ったから、打球で頭を砕かれる、と思った。達郎は定位置から三メートルばかりコーチにちかよったところで粘った。ここ数日来本気でボールに集中しはじめたが、体がこわばって、動きにはいつもの鋭さがない。
 正面にきたボールは何度かグローブにおさめた。右に左にふられると、追いつけなくなった。体勢を崩したところに、コーチの連続したノックをくらって、どてっぱらにボールがくいこんだ。
 ボールがとりにくくなっていたのは、藤尾の目のせいもある。藤尾は強烈なノックを続けているのに、まったくボールをみなかった。達郎に、憎悪と殺意のこもった目線を、ひたとすえていたのである。彼の筋肉は猛烈に動いているのに、首は微動すらしていない。
 藤尾はこのときのノックのせいで二日後には立ち上がれないほど体が痛むことになるのだが、いっぽう達郎は、藤尾の目とわめき散らされる罵詈にじゃまされてノックの方向が予測できなかった。ボールの上がり方やバットの振りには、集中ができなかった。
「達郎、むりすんなっ」
 チームメイトの槙野が(彼は達郎と三遊間を守っており、もっとも仲がよかった)声をかけてきた。彼の顔は青かった。コーチが達郎を殺すんじゃないかと心配したのだ。
 藤尾は教え方がうまくて子供たちから好かれていたが、このときばかりはまったくの別人になり変わっていた。達郎が倒れて痛みをこらえかねても、彼はまったく気にしなかった。いつもは量をこなすより、いい動きをすることを考えろと子供たちには教えていた。藤尾自身は本気で野球にはうちこまず、たいした技術はなかったが、それでもいい動きがなんであるかは知っていた。無意味な根性ノックは嫌いだった。
 だけど、このときばかりは熱情が脳内をかけめぐって、自らの野球論も達郎を心配する心情も消し飛んでいたのである。彼の様子は怒気天をつくばかりで、髪はさかだち、歯を剥いていた。年かさのいかない下級生の中には泣き出す子もいた。藤尾の牙がオオカミみたいに見えたことを、何日も夢に見た子がいたほどだった。
「うずくまるな! 立って前に出ろ! このへたくそ!」藤尾はボールの詰まったかごにバットをたたきつけた。
「親が離婚した! 母ちゃんが他の男と寝た!」
 ちがうっ。と達郎は友達の様子を気にして仲間をみわたした。藤尾は一言一言に渾身の力をこめたボールをはたき返してくる。いつもなら、コーチたちは気を使って家のことは口に出したりしない。それどころかっ。藤尾は達郎の相談にだって乗ってくれたのだ。
 あいつはわるいものだ、と達郎は思った。わるいものがコーチの頭をのっとったんだ。
「父ちゃんは追い出される! おまえの親父はくずだ! おやじみたいになりたくなかったら、前に出ろ! 体ばっかりでかくなりやがって! 野球がなきゃおまえなんてうすらとんかちのとうへんぼくだ! このうど野郎!」
 もっと前に出ろ!
 達郎は棒立ちになった――追い出されたのか? 父ちゃんは追い出されたのか?
 達郎の心で疑問がうねりを上げた。達郎はその瞬間コーチの言葉が真実に思えた。離婚してそんなに経っていないのに、母ちゃんは三田のおじさんとつきあい始めたじゃないか。
 打球が右に抜けるかと思ったその瞬間、イレギュラーを起こし顔めがけて飛んでくる。彼の目はそれを見ていたが、心は何も感じなかった、心が動かなかった。達郎は右耳にボールを食らって、その場に崩れ落ちた。耳がわんわん鳴って、視界が回りだす。
 右手で耳を触った。目元に上げた指が、血に濡れている。彼はもんどり打ったまま動けなかった。チームメイトたちが慌てた様子で駆け寄ってくる。驚いたことにコーチもだ。
 藤尾は我に返ったように(あいつに解放されたんだ、達郎はちらりとそんな考えをうかべる)、バットを投げだしてすっ飛んでくる。
「達郎!」コーチは達郎の名前を連呼した。「たいへんだ、耳から血が出てるぞ! みんな達郎にさわっちゃだめだ! おまえも動くんじゃないぞ、頭を打ったからな。ああ、なんでこんなことに、なんでこんなことに……」
 みんなは唖然とコーチを眺めた。藤尾はあわてふためいて、さわるかさわるまいか手を伸ばしたり引っこめたりしている。子供たちはコーチこそ頭を打ったんじゃないかと疑った。ひどいノックで怪我をさせたのは、コーチなのに。
 達郎はぼんやりとした視界のなかで、奥歯をかみしめていた。不思議と藤尾を恨む気持ちはわかなかった。達郎はグラウンドの隅でともに座って、自分の話に耳を傾けてくれるコーチのことを覚えていた。あの時のコーチの態度を、彼は忘れることが出来ない。達郎は少年だが、義理堅い男だった。コーチの打撃は頭を直撃したけど、彼の脳みそは澄み切っていた。
 藤尾は子供たちにタンカをもってくるよう命じる。それから、監督に連絡しないと、親御さんにも連絡しないと、達郎しっかりしろ、俺がわるかった、どうかしてたんだ、まったくおれは頭がおかしくなったんじゃないかと、うわごとのようにつぶやきながら、こんな事態を悔やんでる。達郎はそんなコーチの様子を傍観者のごとく眺めながら、ひたと心に誓っていた。肚にちかってこう思ったのである。
 もう幻覚だなんて思わないぞ、こんなことをした奴がいるんなら、コーチや俺をこんな目に合わせたやつがいるんなら、おれはぜったいにゆるさないっ。
 達郎の決意はこっけいなようでいて、そうではなかった。
 ああ、なんでこんなことに、なんでこんなことに。
 藤尾はそうつぶやいたが、そのようなつぶやきは、その夏神保町のあちこちでささやかれたはずだからである。

        十

 二十五年後の尾上新治は、あのとき見た三田はなんだったのかと考える。だけど、あれがなんであったにしろ、三田の本心を(少なくとも新治の感じた三田の本心を)、あるていど正確についていたものであったことは言える。あれほど強い思いではなかったにしろ、マジシャンは三田の本心をあるていど代弁していたんじゃないかと思うのだ。
 あれは、心の奥に眠る一人一人のわるいものを増幅する。恐怖や、いけない考えを。あいつらは人の弱味につけこむのだ。
 あのあと、尾上新治は家に帰る気がしなかった。マンションのほど近くで兄貴を捕まえようと待ちかまえた。だが、達郎はいつまでまってもこなかった。彼の兄はコーチの車で病院に連れて行かれ、その足で自宅に届けられていたからだ。
 新治は家に帰り、布団に寝かされた痛々しい兄の姿――達郎は耳にどでかいガーゼをあてがわれ、それを包帯でぐるぐる巻きにされていた――無敵のはずの兄の姿をみてショックをうけた。そのときにはコーチの藤尾は家にはいなかったし(新治の方が、ずっと帰宅が遅かったのだ)、だから新治は、にいちゃんは怒り狂ったおじさんにやられたのだ、と信じたのである。
 達郎は新治に、リトルで怪我をした、おまえは? と訊いた。新治は図書館でマジシャンを見たことを小声で話した。別室では母親が聞き耳を立てていた。
 話し終わると新治は、六年生にしてはでっかかった達郎にとりすがって泣いた。ユニフォームの汗と太陽の匂いと、その下で脈打っていた心臓のことを、今でも思い出すことができる。あのとき、自分たちは若く、たとえ強い恐怖におびえていたとしても、可能性はひめていたのだと、大人になった新治はそう考える。
 新治は達郎の、コーチがわるいものに乗っ取られた、それでむちゃなノックを受けたんだ、という話を信じた。あやうく兄の頭が割られかけたことも。今でも達郎の耳には傷跡が残っている。新治は今までそんなことは思い出さなかったし、達郎の耳の傷については気にもとめてこなかった。
 だけど、一九九五年の夏、自宅で達郎から話を聞かされたときは、金玉がのどもとに迷いこむほど縮み上がった。わるいものが善良な――少なくとも達郎に恨みを抱くとは思えない――コーチを操ったというのなら……おじさんはどうなっちゃうんだろう? そう思ったのである。
「ばかげているけど、本当だ」
 新治は竹林をふるわすほどの大声で笑い声を上げた。あの当時、殺人事件は本当によく起こった。あの小さな町で――行方不明や傷害まであわせると、いったいいかほどの犯罪件数にのぼるのか。だけど、それもおまもりさまの力が関係していることを思うと、彼には理解ができた。そいつは人々の影響をうけて変化する。だが、ときとして人を支配しかえしもするのである。
 夕景色は闇にかわりつつあった。下からのぼる町の灯が、丘の斜面をてらしていた。空は藍色になり星が瞬き始めている。天地の隙間は埋まりつつあった、もうじき全部が真っ暗になる。
 体が冷えてきた。新治は金槌を拾い上げると、家へと引き返した。
 コテージの窓からは、明かりが落ちていた。戸口に三田が立っていた。
 脇の下を冷たい汗が流れ落ちる、口の中が一挙に乾いた。
「あんたのはずがない……」と言う。「なんで今更つきまとうんだ……?」
「山に戻れよ新治」
 三田はスーツ姿にコートを着ている。高い鼻が目に付き、おじさんは意外に男前だったんだなあ、と新治は考える。思えば、自分も、この三田と変わらぬ年になったわけだ。
 三田は家を省みて言った。「いい暮らしをしてるじゃないか」
「裕太に近づいたのか」新治は足を踏み出す。右手の金槌が彼に勇気を与えた。三田は答えない。「近づいたんだろ。あいつは関係ないぞっ」
「おいおい、ふざけるなよ。誰だってなにかに関わりを持ってる。生まれ落ちたこの世に関わりを持って当然じゃないか。無責任なことを言うな」
「あの子に近づくな。血のつながった甥っ子だぞ!」
 三田は肩をすくめた。「おやおや、おれのことは赤の他人だと言いたげだな」
 まわりの林からはケタケタという笑い声が聞こえた。風がでて、杉や竹林をゆらしている。新治はそこかしこに影をみる。影は木にしがみついている。彼はそれを猿か何かだと思おうとした。
 見上げると、空はいつのまにか曇っている。
「あんたは死んだ」新治は肩を落としていった。「死人じゃないか……おまえはおまもりさまの化け物だ。おまえがおじさんを操ったんだ。悪い人じゃ、なかったのに……」
「だが、弱い人間だった」
「ちくしょお、そんな姿をするなっ」新治は金槌を振り上げる。「ほんとの姿を見せろっ」
 三田はポケットに手をつっこんだままわめきだした。
「おまえは何もわかってないっ。なにも思い出してないっ。ちんけながきのまんまだっ。キンキンわめくしか能がない! けりをつけたきゃな、おまもりさまに戻ってこいよ! 俺を殺したくせに、なにもかも中途半端に終わらせたっ。おまけに二十五年をむだにすごしたっ。自分の姿を見たらどうだ! 独り身で寂しい限りだろうがっ。なぐさめときたら、あにきの甥っ子だけときてる? おまえは眼鏡ネズミのまんまだっ、いや、あのころよりずっと悪くなってる!」
「帰れよ」と新治は言った。「消えてくれ」
 おじさんはそうした。顔を上げると、三田はいなくなっていた。新治はしばらくその場に立ちつくしたまま、三田の言ったことを反芻する。二十五年を無駄に過ごしたといえば、しかり。椅子や小物を器用に作る程度では、わるいものには対抗できるはずもない。
 新治はゆっくりと足を動かす。家に入り、自分がやり残したことを考えた。

第五章 杉浦佳代子、話に乗る

 二〇二〇年 自然農園にて

        十一

 そのとき佳代子はキャベツについた虫の点検をしていたのだが、ふとした拍子にいやな気配を感じ、腰をかがめてうつむいた。今にも襲われるんじゃないかと思い、じいっとした。地面に這うようにして、身を沈める。息をひそめながら、そうっと振り向く。
 そこは、ビニールハウスの合間にある、キャベツ畑である。
 寛太と婆ちゃんは、トラクターに乗って行商に出ている。昼頃までは、戻ってこない。農園にいるのは、自分だけのはずである。
 中腰になると、油断なくあたりを見渡す。ベルトにはよくといだ鎌をさしてある。低い姿勢のまま、その鎌を探った。ゆったりした長袖のシャツを、肘もとまでまくりあげている。お気に入りのジーパンには泥がこびりついていた。青ざめてはいるが、37才の年には見えない。肌つやのいい女性だ。
 坊主が帰ってきたのかな、と思ったが、学校が終わるには早い時刻だ。佳代子は舌打ちをすると、ゆっくりと足をふみかえ、視線を左に移していった。また幻覚が始まったんだろうか?
 幻覚ならまだいい。本当に人がいたんならたいへんなことだ――
 神保町ではふたたび連続殺人がはじまっている。彼女たちはあいつ≠ェ、誰かをそそのかして、自分たちを殺そうとするかもしれないと考えていたからだ。 あいつ>
おまもりさまにいたわるいやつ。
 ハウスの内側に、人影が見える。
「誰?」
 と佳代子はつぶやく。ぐっと唾を飲む。しばらく、その影を見つめる。人だと思ったのは、見間違いだったようだ。
 しゃがみこむと、首を垂れ、大きく息をつく。
 利菜と言葉を交わしてから二日がたっていた。その間、彼女はいっそう混乱していた。利菜は戻ってくるのか、紗英はどうする気なのかと、そのことばかりを心配していた。二人が姿を見せたら、一体どうすればいいのか?
 利菜たちが戻ってくるのは、いいとも悪いとも言えない。それによって、事態が動き出すのが怖かった。
 神保町では、ひったくりから殺人事件にいたるまで、あらゆる犯罪が頻発している。
 三月十四日、引原ダムの湖で、子供の水死体がみつかった。行方不明となっていた井上久司という少年で、遺体からは肋骨の一部がはぎとられていた。第一発見者の話では、傷口は熊に食いちぎられたように見えたという。
 四月には吉川浩二少年がいなくなり、遺体は竹葉屋神社の境内で発見された。軒下に押しこまれており、濡れ縁からは足が覗いていた。やはり動物に食われた痕跡があり、警察は野犬の仕業ではないかと感想を発表している。神保町にそんな野犬はいないというのが、おおかたの町民の意見だった。
 父兄は子供たちの外出を禁止するようになり、登下校の付き添いも始めた。小学校はバスを用意し、送迎のできない親のために備えている。
 そんな中、森隆信君が行方しれずとなった。
 警察は一連の事件に、関連があるのか、同一犯の犯行なのかは断言できないと発表しているが、佳代子はこれをやったのが誰であれ、なんであるにしろ、すべてに同じものが関わっていることを知っている。そいつは彼女自身と、仲間たちにも、関わってきていたからである。
 佳代子は、利菜も不眠症にかかり、幻覚を見ていたことを、暗い気持ちで考えた。その事実は、町を離れればおさそいからも逃げられるのではないかという、淡い期待を裏切っていた。またその事実は、石川紗英の身にも、危険が迫っていることを知らせる予兆でもあった。
 あのときの友達、あのときの面子に、召集がかかっていることを考えると怖ろしかった。
 またおさそいがはじまっている……おまもりさまからの? それとももっと別のものなんだろうか?
 安全な場所はないんだ、と思うと、さすがに佳代子はつらかった。子供だけでも、親戚のところにやろうとおもっていたのだが。
 彼女は、今見た影は、利菜ではないかと、辺りを見返す。だが、それとおぼしき人影もなければ、声もない。
 舌打ちをし、両手を叩きあわせて、泥を払った。おびえているのがいやになり、勢いをつけて立ち上がる。
 そんなふうにおびえ隠れていると、佳代子はいつも、母親を恐れて息をひそめた、少女時代を思い出す。
 立ち上がり腰を伸ばすと、空を見上げる。彼女は母親のことを考える。
 杉浦登美子は八年前に失そうしている。伸子が高校三年生のときだった。それ以来妹の面倒は、佳代子が一手にひきうけてきた。
 母親からは一度電話があったが、そこでも喧嘩別れをして、以来連絡は一度もない。
 あの電話を思い出し、口中に苦い汁がわいて顔をしかめる。母さんは自分のことしか頭にないんだ。
 手にした鎌をぎゅっとにぎった。あのときの電話だって金の催促だった。佳代子が口答えをしはじめると、登美子は一方的にきってしまった。
 佳代子はため息をついた。
 母親との力関係が変わったのは、高校生のときだった。
 子供のころは、力でも口先でも、母親に抑えられていたのだが、長じて佳代子が理屈でさとすようになると、登美子はぶったたくか耳を貸さないかのどちらかだった。
 佳代子がはじめて母親に手を挙げたのは、高校二年生のときだ。喧嘩の原因は、たぶん伸子のことだったのだろうが(佳代子が手に負えなくなると、伸子を攻撃するようになっていた)、よく覚えていない。記憶にあるのは、登美子の平手がものすごい勢いでぶっ飛んできたこと、はり倒されて、畳みに倒れ伏したことだ。
 佳代子はそのときの母親を今でも思い出すことができる。娘に馬乗りになり手をふりあげる形相までも。
 佳代子は母親の腹に右足を押し当てると、思い切り蹴飛ばした。その勢いで立ち上がると、逆に馬乗りになって、横っ面をおもいきり張り飛ばしてやったのだ。怒鳴りながら、なんどもなんども母さんを打った。頭が熱くなって、母親をぶつという罪悪感はまるでわかなかった、そのときは。母親をぶちながら、どんな言葉をいったのだか……。
 佳代子はそのときの言葉を反芻しはじめる。あのあと、なんどもその場面を思い出し、利菜や寛太に打ち明けたのだから、覚えているのだが……
 今度あたしに手を挙げたら、この程度じゃすまさないよ、と佳代子は言ったのだ。あたしの見てるとこで伸子をいびるのだって許さない。弟だって、もう母さんよかずっとずっと腕力だって強いんだ。いつまでも子供のままでいる訳じゃないんだよ、知恵だってついてるっ。自分がどんなに見られてるか考えてごらんよっ。どんなふうに思われてるか……
「べつにこのとおり言ったわけじゃないけどね……十年と昔の話だし……」
 だが、これに近いことは言ったのだろう。佳代子はその後、母親から暴力を受けた記憶がない。いつも手を挙げようとはするのだが、こどもの眼光におびえて、捨てぜりふを吐くのがせいぜいだった。
 あのとき、紗英はもう留学してそばにはいなかった。佳代子は電話で利菜を呼び出し、夜の公園でいつまでもいつまでも話をした。部活で遅くなった達郎が、二人を見つけてそばにきた。新治と寛太も呼び出された。そう考えると、彼らおさそい仲間は、ずっと関係を保ってきたといえて、佳代子はおかしかった。
 佳代子は登美子のことを気ちがいだと信じていたから、母親をおびえさせても悪いとは思わなかった。あんなふうに振る舞ったのは、ただ自分の身を守るため、そして伸子を守るためだった。母親のことをそんなふうに考えるのは悲しいことだが、本当だから仕方がない。
 ただ、自分の母親があんなふうで、いがみあうような関係しか築けなかったことに関しては、情けなく思った。いつかまともになるんじゃないかと心のどこかで願っていたが、あのとき母親の顔を張り飛ばすことで、そんな思いを断ち切ったのかもしれない。
 鎌をもった手で、こみあげてくる涙と鼻をぬぐった。その行為がよけい涙をさそったのか、せきあげるように悲しみがこみ上げ、ときおり嗚咽をもらし、泣きはじめる。
 母親が失踪しても、佳代子は一度として探さなかった。寛太郎が心配して、口添えをしてくることもあったが(それは佳代子のためというよりは伸子のためであったらしいが。あの人はあの人で、誰より彼女を理解してくれた)、佳代子は頑としてきかなかった。それが、今になって、自分が悪い娘だったんだろうかと、伸子のためにも探せばよかったのかと、今更ながらの罪悪感を我が心に植え付けるのである。そんなときは、なぜだか知らないが、母親に会いたくなり、もう一度やりなおしたいんだろうかと、佳代子は自分に問いかけるようになる。
 顔を上げて涙をぬぐうと、蒼天がまなこに染みていたかった。
 杉浦家は五人兄弟だが、末の妹だけは父親がちがう。ほんとうの父親は、死んだ、とも、女と逃げた、ともきいている。母親の答えは訊くたびにちがったし、答えが暴力にかわることも手伝って、正確なことは誰も知らなかった。
 佳代子は鼻をすすりながら、ぶらぶらと畑を歩き出す。
 長男の駿夫は、トラックの運転手となった、次男の義典は地元の工務店に勤めている。三男の達治は測量技師になって、隣町に住み、近々結婚する予定だ。佳代子がいちばん心配しているのは、末の伸子のことである。
 伸子は高校を立派に卒業して、地元のJAに就職した。窓口に行けばあの子に会えるし、今でもあのマンションに――佳代子が母親といがみ合いつづけたマンションに――住んでいる。恋人がいるともいないとも聞くのだが、あの子なりに、母親の失踪にショックを受けたことは確かだ。
 あの子のために探せばよかったと思うと、なおさら涙がこみ上げてきた。
 登美子がいなくなってからは、人生の半分ばかりを伸子のために生きてきた。伸子は伸子で、一生懸命つくしてくれた。勉強だって懸命にやって、首席で卒業したし、卒業式には答辞だって読んだのだ。卒業式の晴れ姿を、寛太や弟たちと眼にした佳代子は誇らしくて泣けたのだった。あのときは、こんなに立派に娘を育てくせに、なんでこの場にいないのかと、そう思うと、また情けなくて泣けたのだった。
 彼女らの母親は、悪いだめな女ではあったが、それでも立派な反面教師ではあったわけだ。
 あぜ道をあがり、道路をわたった。脇に畑を従えながら、私道を通って、家に戻った。
 近辺の畑はすべて寛太郎が買い占めたもので、千坪ほどの土地にビニールハウスや畑が広がっている。
 自然農園を手伝い始めたのは十八のときだった。高校を卒業してからは、親戚のつてで地元の農業組合に就職したのだが、そんなところに寛太がとつぜんあらわれて、仕事を手伝え、と言ってきた。
 寛太郎と寛太は、竹村自然農園を立ち上げ、農薬抜きの自然農法で、よりよい品種をうみだす研究をはじめていた。二人は畑を出来るだけ自然の状態に近づけようと奮闘していた。
 最初は虫にやられたり、冷夏にやられたりしていたが、二年の苦闘の末、大きくて旨みのある品種が育ち始めた。自然農園は料亭に野菜を卸すまでに成長し、ちゃくちゃくと耕作地を広げていった。
 寛太と結婚したのは二十歳のころだ。二十五才には子供も生まれた。自然農園が軌道にのりはじめた時期に生まれたのは、まことに都合がよかった。寛太郎が亡くなったのは、その二年後のことだ。
 寛太郎は寝室で眠ったまま亡くなり、誰も彼が死んだのには気づかなかった。前日まで畑に出ていたことを考えると、まったく彼らしい亡くなり方だと佳代子は思った。願わくば、ばあちゃんにも寛太にもそんな亡くなり方をして欲しいし、自分もそうありたいと思う。佳代子はなにかに影響されて、自分を見失うなのはいやだった。寛太郎は耳も遠くなっていたし、物忘れなんかしょっちゅうだったが、それでも寛太郎は、最後まで寛太郎らしかった。
 そのころには、農園を開いて十年がたっていた。ちょうどテレビ局から取材の申しこみがあったときで、それも寛太郎の死去で取りやめになってしまった。
 寛太郎が死ぬと、受注は一気に落ちこんだが、二人のがんばりで最近は盛り返しつつある。竹村農園が品質を落としていないことがわかると、顧客は少しずつ戻ってきた。
 ばあちゃんは今年九十八になるが、いまだに野菜をせおって近所に売り歩いている。大森神社の鳥居のわきには無人の販売所もだしていた。竹村のばあちゃんといえば、地元でも有名人だ。昔は寛太郎が毎日トラクターを駆り出していたものだが、いまでは寛太が週に二度ばかり、その役を買って出ている。
 変わらないのは家だけだった。この家だけが、二十五年の月日にも負けずに建っている。佳代子は庭に立ち、我が家を見上げる。
 庭の一角に、大きな鶏小屋がある。最盛期には十羽ばかりの雌鳥が毎朝卵を提供しつづけたその小屋も、今では一羽いるだけだ。先月何者かに首を刈りとられた。犬のジョンはそのとき大けがを負って、今も寝たきりの状態だ。
 ひどい話だが、神保町全体に目を向ければ、もっとむごたらしいことはいくらでもあった。佳代子は鶏から目を離すと、縁下におかれた踏み石に腰をつけ、物思いにふけりはじめた。
 二十五年前、自分たちがなぜ山に戻ったのかというのが最大の疑問だった。彼女の思考は、現在から、過去へとさかのぼり出す。答えは、今ではなく、小学五年生の自分にある気がした。
 二十五年前も犯罪が多発していたはずだ……。
 あの夏、町では自殺他殺をふくめて、葬式が多かった。親たちは隠していても、子供たちはそのことを知っていた。葬式に参列する人々を、いくつも目にしていたし、パトカーが、赤い回転灯をつけて通り過ぎるのを、なんども見ている。
 いつだろう、いつ山に戻ったんだろう? なめ太郎を見て、さんざんおっかない目にあっていたというのに?
 両神山に向かうことは最終の選択だったはずだ。なめ太郎に出くわして、数日の間に、そこまで追いつめられていたというのか。
 佳代子は、学校の校庭に集まったことを思い出した。紗英が溺死女に、新治がマジシャンに会い、それぞれに恐ろしい体験をしていたころだ。
 おまもりさまへの最初の訪問が、八月十四日のことだ。あのとき、なめ太郎をはじめて見た。紗英が溺死女を見たのは、翌日のことだ。十八日には達郎がリトルで怪我をした。彼は大学生コーチの打球を耳にうけ、大きなガーゼを右耳にはっていた。
 達郎がその夜に電話をかけてみんなに召集をかけたのは、神保小学校の五年生に行方不明者(行方不明になったのはその子だけではないのだが)が出たからである。
 被害者は瀬田英二。佳代子たちとは顔見知りだった。達郎も知っていた。瀬田英二は先日から帰ってこなくなっていた。捜索願いが出たのは当日のことだ。子供たちの耳に入ったのがその翌日で、達郎はすぐさまみんなをかきあつめたのだった。
 瀬田英二は川に行くといって、遊びに出たまま帰らなくなった。彼は友達と待ち合わせをしていたが、その場には現れなかった。自転車と水泳バックだけが発見された。水力発電の門近くにとめられていたのだ。
 発電所の地域にも、民家は数件ある。住民に目撃情報はなかった。該当の時間帯に通りがかった車も警察の捜査対象となったが、瀬田英二本人を見かけたものはいなかった。佳代子らは、そうしたことも、すべておまもりさまと関係があると考えていた。
 いつだったか、新治に聞いたのだが、家を建てるとき、鬼門ではかならずわるいことが起こると言う。その場所では、板の間尺をまちがえるといった失敗をくり返したり、誰かが怪我をしたりするそうだ。伝喜代は皆に口をすっぱくして注意をするのだが、それでも最後までしくじりをする場所があるのだという。
 あの山が、それと同じ場所だとしたら?
 もっとも、鬼門にしてもうそみたいな強力版だ。佳代子が調べた範囲だけでも、一桁を越える死者と行方不明者を出している。つまり悪いスポットみたいなものが、あそこにあるとしたら……。
「じゃあ、なんで山に近づいたんだろ……?」
 利菜が救助されたのは、八月二十七日。捜索には七日かかったはずだ。山に戻ったのは八月二十日あたりだろう。十月には、神保町は、完全に平常に復している……。二ヶ月ばかりの間に、なにかが起こったのだ。
 佳代子はそうした想念にふけっていたから、軒下から腕が伸びでてきたときには、びっくり仰天するあまり、踏み石からずり落ちかけた。出てきたのは白い細い腕で、指には蜘蛛の巣がついていた。その指が、かっと地面に突き立ったかと思うと、軒下からは、真っ黒な頭と白い肩が見えた。
 利菜だった。
「あんた……」
 佳代子が言葉をなくしているうちに、紗英や寛太がはい出てくる。新治に、子供のころの自分まで。
 佳代子は立ち上がると、無意識に鎌をベルトから抜きとった。子供たちがみんな口をゆがめて、邪悪に笑っていたからだ。
 最後に出てきた達郎が、
「あんたは自分たちがまずいことをしたと思ってる」
 と彼女を指さし言った。
 子供たちはいびつに笑いながら、家の中に駆けこんだ。
「ま、まて」
 佳代子は一歩足を踏み出す、それで呪縛がとかれたかのように駆け出す。
「待ちなさい!」
 家に入ると、二階の渡し木から首つり死体が下がっていて、こんどは本当に腰を抜かした。佳代子は土間に手をつき、死体を見上げる。その下で、笑っているこどもたちが見える。
「じいちゃん……」
 つり下がっているのは寛太郎だった。佳代子は怒鳴った。
「あんたたちなにやってるのよお! じいちゃんをおろしなさいよ! 早くしなさい!」
 佳代子に怒鳴られると、子供たちは例の魚の腐ったような笑顔のまま、右往左往し始めた。佳代子はこれは幻覚であることを、心の隅っこで意識しながら、子どもたちをかき分け、寛太郎の足にとりついた。
「じいちゃん! じいちゃあん!」
 佳代子は足を持って上げようとするが、寛太郎の身体はずしりと重い。糞尿を垂れ漏らし、手足からは血が流れ落ちてくる。佳代子はロープを切ろうと鎌を振り上げた。
 ロープがなかった。
 寛太郎は宙に浮いていて、佳代子は眼を疑う。
「こんな……っ」と言う。「こんなのひどいよ! おろして! じいちゃんをおろしてよ!」
 佳代子は鎌を振り上げ、子供たちに打ちかかった。子供のころの友達が、きゃらきゃらと笑い声を上げながら、するりするりと鎌を逃れて逃げはじめる。
「こんな、こんな幻覚にまいるもんか! 子供のあたしたちにやっつけられたくせに! いまさら出てきたって遅いんだ! 何度でだって追い払ってやる! そうともっ」
 寛太郎の足にしがみつく。
 そのとき、死体の背後に隠れていた人影がにゅっと出て、佳代子の肩をつきとばす。彼女は土間に転げて、背骨をしたたかに打つ。子供の寛太が鎌をさらって逃げていった。
 佳代子はすりむいた肘に顔をしかめながら顔を上げ、自分を突き飛ばしたのがなめ太郎であることを確認する。子供ぐらいの背丈で、お腹を妊婦みたいに突きだし、猿みたいな腕を土間に垂らしている。しかとたしかめてみると、髪の毛がほとんどなかった。こいつも年をとったんだろうか?
 なめ太郎の顔は今ではスターウォーズのヨーダに近く、思慮深くなっている。少なくとも、佳代子の想像の中では、成長していたわけだった。
「おろしてよ。じいちゃんを……」
「じじいは死んだ」
 なめ太郎は言った。甲高い声と野太くひび割れた声が同時に響いた。
「うちのじいちゃんを侮辱すると承知しない」
「泣けよ、佳代子」なめ太郎は傲然と見下ろす。「悲しいだろう。母親がいなくて。自分がこんなふうで。その証拠におまえは自分がしてきたことを後悔してる。おさそいがまた始まってるのに、おまえたちはなんの準備もしてこなかった。おまえと寛太は、畑を耕していただけだ。くたびれた大人なんて怖くも何ともないっ。それでおれにかなうのかっ? 二十五年前に比べて何が変わった? どこがどう変わったんだ? 大人になったから有利だと――年をとっただけだ。おまえらはだめになった」
「ちがう……」
「強がってもむだなのにな……」
「強がってなんかいない、いないわよっ」
 佳代子は肘をついて後ずさる。なめ太郎の声は悲しげですらあった。
「でも、おまえはこう思ってる。あたしたちはもうわるいものにはかなわないんじゃないか? おまえの不安が手にとるようにわかるぞ。おまえは自分が弱くなったことも知ってる。子供はある面で、とても強いってことも」
 なめ太郎は、子供と言った。佳代子は殺された少年のことを思いだした。
「あんたが殺したんでしょ……」
「ちがう……」
「じゃあ、誰よ。誰が子供の体を食ったりするってのよ!」
 絶叫は泣き声のようだ。
 なめ太郎は、心だよ……という。佳代子は、誰のよ、と尋ねる。なめ太郎が近づいてくる。佳代子はさらに後ろにはいずろうとして、倒れこむ。
 なめ太郎は、がに股で傲然と突っ立つ。そして、言った。
「おまえはわかってる。事態はますます悪くなってる。なのに、結束は弱くなってる。その証拠に、おまえは二人が戻ってきても、どうにもならないと思ってる。こうも思ってるな。記憶が戻ってこないのは、思い出したあげくに絶望するのが怖いせいなんじゃないかと。おまえは信じる心をなくしてる。想像力はしぼんだし、頭でっかちになったしな。いろんなことがおまえをしばってる。子供もいるし……」
「手を出さないで……」
 なめ太郎の手が、長い指が首にのび、じわじわと締めつける。佳代子はその腕を叩き、うちの子に、春助に手を出すな、と言うが、視界は暗くなり、舌からは力が抜け、内臓が重だるくなっていく――佳代子の手が、力無く垂れ落ちた。彼女の頭が、土間を叩く。
 薄れゆく意識の中で、佳代子は耳をそばだてる。わるいものが話している。ここに子供の死体を持ちこんで、おまえらをひどい目にあわせることもできるんだよ、と。
 だから、佳代子の心は友達を求める。利菜を、紗英を……あの夏、そばにいてくれた友達のことを。二十五年前は彼らがいたから乗り切れた。彼女はいまはっきりと気が付く。おまもりさまに捕まった子どもたちと、自分たちとのちがい。それは仲間がいたことなのだと。
 泥酔した母親にこっぴどく痛めつけられたときも、そばにいてくれたのは利菜だった。利菜がいためつけられたときも、自分はそばにいたとも言える。だからこそ、互いを信頼した。
 あの夏、彼女たちの互いを信じる気持ちは高まり、決定的なものとなった。そのつながりは、いまも互いを縛っている。危険だというのに、あの子は戻ってこようとしてる。
 だから、彼女は心の中で、いまいちど、戻ってこないでと呼びかける。二人が必ず戻ってくると、信じていたから。

        十二

 一九九五年 八月十七日――木曜日

 夕暮れ近いマンションまでつづく県道を、二人は短い影をのばし、歩道の砂利を拾うように、とぼとぼと歩いている。自転車を押し、すごく疲れた様子だ。
 利菜は真っ白なTシャツに紺のジーンズ、佳代子はピンクのTシャツに、カーゴパンツをはいている。二人の女の子はやせっぽちで、決して細くはないジーンズがぶかぶかに見える。
 利菜のシャツには、血糊の手形がついていた。佳代子のほっぺにも。昨日泥酔した母親に殴られたせいで(拳で殴られたのはたぶん初めてだと思う)かなり濃い青あざができていたが、そのうえに重なるように血の筋が伸びていた。
 利菜は涙目でうつむいている。そのうち彼女が立ち止まったので、佳代子も立ち止まった。
 佳代子は所在なげに体をゆらしながら、利菜が動き出すのを待っていたが、利菜は唇をふるわすばかりで、ものも言おうとしない。
「お母さんいなかったね」
 と佳代子は言う。利菜は無言でうなずいた。その瞬間、彼女の顔から鼻水が垂れ、涙がぽとりとおちて、歩道の白いタイルに染みこんだ。利菜はいっそう深く顔を伏せたから、佳代子からは顔が見えなくなる。
 彼女はなんといっていいかわからず、もじもじして自分がいっとう泣きたくなった。そのうち、利菜が、
「おかあさん、どこいっちゃったんだろ……」
 喉がひび割れたみたいなしゃがれ声で言ったから、佳代子は子供ながらに胸をつかれて、
「おばさん、戻ってるかもしんないじゃん」
 と涙声で言った。
 佳代子は利菜の肩に手をかけようと腕をあげたが、けっきょくふれられずに胸へと引き戻す。利菜が嗚咽をもらすと、がまんできずに二人は抱き合う。
 二人の子供がそんなふうに深く傷つき、なぐさめあうかのごとく、熱い抱擁をかわすことになったそのわけは、目黒区にある一戸建てを訪ねたことが原因だった。二人は利菜の母親を捜しに出かけたのだが、肝腎の母親には会えず、危うくわるいものに捕まりかけたのだ。
 利菜は以前にも――それはおさそいがはじまるよりずっと前のことだったが――その家に連れて行かれたことがあったから、そこがどんなところでどんな人がいるのかもわかっていた。そうでなければ、佳代子をさそうはずがない。
 だけど、わるいものが佳代子の思うとおり、みんなの心に忍びこんでくるのだとしたら、利菜だってあいつの思うとおりに行動させられたということになる。
 利菜の母親は、おまもりさまから戻ったその日にいなくなったのだが、父親に訊いてもあいまいな答えがもどるばかりで(彼女の父は炭酸のぬけたコーラみたいになっていた)、所在を知ることはできなかった。
 彼女の母親、三津子は、釈栄会という仏教系の宗派に二年前から所属していた。娘をこっそり連れて行ったのはその宗派に入信させるためで、こっそり連れ出したのは父親が反対していたからだった。
 その家は、どこにでもあるふつうの民家だ。会長先生という人も、ふつうのおじさんにしか見えなかった。ただ、こどもながらにその人たちの言っていることはへんてこに聞こえた。あの世がどうとか、霊界がどうとか、もんりしんしょうがどうとか(正確には文理真証と書くそうだ)、そんな言葉をきいても、脳みそのなかでぐるぐるまわって、どこにもひっかからずに抜けでる始末。目をまわすぐらいがせいぜいだ。
 利菜はこどもだったから、そのときの心象を言葉であらわすなら、迷惑、の一言でことがたりてしまう。玄関先で頭に塩をかけられるのも迷惑だし、知らない大人に囲まれるのも迷惑だった(本当はちょっと怖かった)、知らない子供に会わされて仲良くするように命じられるのも迷惑なら、正座をさせられるのも、たすきをかけられるのも、お経本を読まされるのもかなりの迷惑。
 それに宗教のことを悪く言おうものなら、ふだんは大人しい母さんが気が変わった(本当は狂ったという方が正しいけれど。自分の母さんに対して、そんな言葉は使いたくない)みたいに怒り出すので、ほんとうにとまどってしまう。
 母さんが言うには、利菜はもうその宗教に入信していて(それも迷惑だ)、このことは父さんには言ってはいけないということだった。母さんはそのとき真剣な――利菜の頭に穴を開けるみたいな目つきで、じっと見つめて、あの人にもそのうちなにが正しいかがわかるはずだから、と言い切った。でも、正しいことなのに父さんに隠し立てをするのは、それこそ変じゃないかと彼女は感じた。利菜は父親のことも信頼していたから、黙っていること自体がつらかった。
 利菜は積極的にそのことを忘れて、母さんが宗教を話題にしようとしても他人とそのことを話していても、なるべく関わらずに聞かないように、疑問やいやな気持ちにはふたをするようつとめてきた。母さんがおかしいんじゃなくて、宗教が母さんをおかしくしたんだと思った。そして、心のどこかではあの家を憎むようになった。ホラーハウスみたいに邪悪なものを感じるようになったのだ。
 母さんがいなくなって、まっさきに頭に浮かんだのがあの家だった。あの家に入りこんで(捕まって)、それで帰ってこないんだと、そう考えたのだ。
 おまもりさまに入りこんで四日がたっていたが、母さんはまだ戻ってこなかった。父親が仕事に行くと、利菜は友達と遊びに出かけた。母さんがいなくなったことは、誰にも話していなかった。こんなときに、(幻覚やおかしな声をきいて夜も眠れなくなっているときに)母親がいないなんて最悪だが、父親すらいなくて家にいる母親にはぶっ飛ばされている佳代子よりはましだと思った(そんなふうに自分をなぐさめるのは、佳代子にたいして悪いと思ったけど)。
 だけど、新治と別れ、佳代子と二人帰ることになったあのとき、急に何もかもががまんできなくなった。家に帰るのが、いやになったのだ。
 利菜は母親がいなくなったのは、おまもりさまのせいだと考えた。幻覚や眠れないことにもがまんならなくなった。ストレスなんて言葉は、小学五年生にはぴんとこなかったけど。子供は大人より柔軟かもしれないが、なんでも許容できるわけじゃない。そのピークがあるとするなら、今だった。
 心のなかにへどろみたいに不快な何かがたまりにたまって、それはこれまで必死にこらえてきたけれど、風呂場にためすぎた水みたいにあふれてきた。
「佳代子、あたしがついてきてって頼んだら、来てくれる」
 と彼女は言った。その言葉はいきなりで形相もすさまじかったから、さすがに佳代子も言葉につまった。
 来るのこないのっ、と彼女は切り口上に言った。佳代子は思わずいくよ、と答えた。言ってから、しまったと考えた。
「かあさんが帰ってこなくなったんだよね」
 利菜は急に肩をおとしてそうつぶやいた。佳代子はおばさんの宗教のことも(あの家に始終出入りしてれば自然に知ることになるのだが)、かなり詳しく知っていたから、すぐにどこに行けばいいのか事情はのみこめた。そうしたことを理解するのは、鼻づまりを吸いこむより簡単だったけど、鼻水をのみこむよりはずっと不快な経験だった。
「じゃあ、おばさんはその家にいるんだ」
「他に行くとこなんかないよ」と利菜は憎々しげに言った。「佳代子ついてきてくれる? あたし、母さんに戻ってきて欲しいんだ。父さんはなんにも言ってくんないしさ、洗いもんとか洗濯もんとかたまるばっかだしさ、うちがなんか悪い場所みたいで、ちがっちゃったみたいで、やなんだよね……」
 ほんとは父親もすっかり変わってしまった、母親がいなくなったのは他の行方不明事件と(殺人事件と)同じなのかもしれないと考えていた。そうしたことは、口に出すのも怖かった。
「ここんとこ、夜眠れないし……」
 佳代子は驚いた。「あたしもだよっ。あたしも眠れない……」
「だからさ。母さんが戻ってきたからって眠れるとは思えないけど……幻覚もみるんだろうけど、でも、今よりずっとましだよっ。あたし一人でも行こうと思ったもん」
 それはうそだった。
「でも、佳代子がついてきてくれるんなら安心する」
 そんなふうに頼られて、悪い気はしなかった。
 佳代子は、話を聞いたとき、半分がた肚は定まっていた。利菜だけは、いつだって彼女の味方だったのだ。
 母親のお腹が大きくなって、噂が学校中に広まったとき、佳代子はずいぶんいやな思いをした。女の子たちは陰に回って、うわさ話をしたからだ。佳代子は思わず口論になることもあったが、たいていは黙りこくっていた。
 佳代子はずいぶんがまんした。面と向かって言われるのなら言い返すこともできる。でも、みんな聞こえよがしにしか言わない。いちばん陰険だったのは、幸田頼子だった。佳代子が振り向くと、素知らぬ顔で目もあわせなくなる。佳代子がぐっとこらえてそっぽを向くと、また噂話が再開する。
 そんなことが積み重なって、佳代子はある日、しつこくうわさ話をしていた頼子のグループに、つかつかと歩み寄った。そして、抗弁する一同に、平然と言い返した。
「そうよ、赤ちゃんが生まれるんよ。それっていいことでしょ。悪い?」
 そして、頼子をひっぱたいたのだ。
 すぐさま教室中が騒ぎになった。関係ないのも騒いだし、関係あるのはおおいにあわてふためいた。すぐさま先生が飛んできた。掃除の時間中で、利菜はゴミ捨てに行っていた。帰ってきたときは、佳代子と頼子の二人が、職員室に連れて行かれるところだった。
 先生はそうなった理由を二人に訊こうとしたが、佳代子はがんとなって言わなかった。
 そのうちに事情がわかって、先生も佳代子がしたことを理解してくれた。佳代子に同情的だったのだが、さて、お互いに謝ろうという段になったとき、どんなにすすめられても佳代子は頭を下げなかった。
「子供が生まれるんは、すばらしいことだってじいちゃんが言った。だからあたしは悪くない」と言ったのだ。
 ともあれ、佳代子のやったのは暴力だったし、頼子の母親は、小学校の役員会ときくと、すぐに顔を出す人でもある。先生は一生懸命説得した。それでも佳代子が頑固をはるものだから、双方の母親が呼ばれることになった。
 登美子は職員室に入るとすぐさまヒステリーを起こし、先生も頼子の母も、佳代子のことも口汚く罵った。その間、佳代子は真っ赤な顔をしながらも、必死に泣くのだけはこらえていた。
 結局、登美子のおかげで、佳代子は無罪放免になったのだが、家に帰ると妊娠した母親から、暴行を受けた。
 夕方になり、佳代子は利菜に電話をかけた。利菜は自宅でずっと佳代子の心配をしていた。二人の自宅は、同じ県営マンションの隣の棟だから、すぐ近くである。
 佳代子が利菜の家に現れるまでは、ちょっとばかり時間がかかった。
 利菜は佳代子の様子をみて驚いた。泣いたせいなのか、あんまりひどく叩かれすぎたせいなのか、彼女の顔は腫れぼったかった。びっこをひいていたし、大事な顔に、切り傷がいくつもあった。三津子が、厳重に抗議すると息巻いたが、二人はさほど期待しなかった。
 部屋に入り座った。利菜は椅子に、佳代子は床に。佳代子はそれまで、学校でも家でも泣かなかったのだが、そのときはじめて腫れ上がった頬に、ぼろぼろと涙をこぼしたのだった。
 そういうことがあったから、竹村佳代子は利菜にたいして恩義があった。自分のいちばん惨めな部分を受け止めてくれるのは、両親ではなく、利菜だった。
 しばらく佳代子は、小刻みに首を縦に振った。やがて自分でも納得がいったのか、大きく一つうなずいた。
「じゃあ、あたしたち気をつけて行かなきゃいけない。おさそいのこともあるし。おうむ教とか、おっかない宗教だってあるもんね。寛太か達郎ちゃんを誘ってもいいけど、二人で行く?」
「行く」と利菜は言った。「あたし、今日連れ戻したいのよ。いますぐに。母さんに戻ってきて欲しいの」
 佳代子はうなずいた。
 その日は、八月十七日。図書館では四時に別れた尾上新治がマジシャンに捕まっており、達郎はノックをうけて家で寝こみ、紗英は塾につかまっていた。だから、その坪井という宗教家の家には、利菜と佳代子だけで出かけた。
 結局、二人は自宅に向かっていた足の行き先を変えたことで、その後の人生までをも変えてしまったことになる。
 その家は閑静な住宅街の一角にあって、不気味な雰囲気を放っていた。家自体はいたって普通だ。門はありふれたアルミ製だし、どこのホームセンターにも売ってあるような、四角いポストがついている。表札には坪井とある。
 佳代子は宗教というと、お寺を想像したから、こんなところに教祖とか会長がいるのは、ちょっと想像しにくかった。
 二人は少し離れた電柱の影から、緊張した面もちで家を眺めたが、ブロック塀の向こうは静まりかえっている。佳代子は、静か、という言葉だけでは足りないような気がした。この辺り一帯では、空気すら沈黙してしまったみたいだ(本当はあらゆる音がひどく遠のいた感じだったのだが、彼女たちはそのことに気づかなかった)。
 佳代子はすっかり気後れがしたが、利菜の手前引き返すわけにはいかなかった。その家がどんなふうだったかは、利菜から聞いてある程度は知っていた。
 ここに来るまでは、玄関に近づいたら知らない大人に塩をぶっかけられるんじゃないかと心配していたのだが、今はもっと危険な目に合うような気がした。
 怖がったらだめだ、と佳代子は自分に言い聞かせた。利菜は本気で母親を取り戻したがっていたから、引き返したら、一人でも行くかもしれない。
「火曜と木曜が集会なんだ」
 と利菜は言った。今日は、ちょうどその木曜だった。利菜の話だと、集会の日は二、三十人からがこの家に集まるという。
 それにしては家はひっそりしすぎているようだった(夜集まるのかもしれないが)。
 佳代子は急に、近所の人が私たちのことを見てたらいいのに、子供があの家にはいっていくのを、ちゃんと気づいてたらいいのにと思ったが、通りには人っ子一人、近所の窓影にも人の姿は見あたらない。それもこの地区に人がいないというのではなく、いるのに息を潜めているといったふうだった。みんないるのに……。知らない集団と、かくれんぼをしているようだ。
「行こう」
 利菜が門に手をかける、かすかにきしみながら、内側に開いていった。わずかなすきまに、身をくねらせるようにして入っていく。佳代子もつづいた。庭では洗濯物がひらめいていた、心配した番犬もいない。小さな庭なのに、池があって、錦鯉がはなされている。佳代子はわるいものがいやしないか、おさそいが今になって始まりやしないかと心配したが、わるいものはその家そのものだったし、おさそいはとっくの昔にはじまっていた。ブザーを押して、家にはいるまで、そのことに気づいていなかったのだ。
 利菜はブザーに手を伸ばし、あわてて――熱いお湯に触れたみたいに、引っこめた。
「静電気だよ」
 と彼女は苦笑いをして言った。
 ブザーは二回むなしく響いた。利菜はもう一度押した。もう一度。――返事がない。
「誰もいないんじゃない?」
「いないかもしんないけど……」
 利菜はみいられたようにノブをみつめ、やがてそれに手を伸ばした。
 彼女はびっくりしたみたいに振り向いた。「開いてる」
 ゆっくりと戸を開いていった。中は暗く、空気は何世紀も放逐された家のようによどんでいる。戸をしめきっていた。そのせいで、外よりも蒸し暑い。
 汗がふきだしてきた。
 玄関から入ってすぐに階段がある。そのわきに、廊下がまっすぐのびている。廊下と階段は家の中央にあり、左右の部屋をしきっていた。以前来たときと、見た目は全く変わらないのに、利菜はものすごく違和感を感じた。圧迫感を。
「ごめんください」
 震えた声が、暗い玄関に吸いこまれていく。それにつれて、二人は一歩二歩と家のなかに入っていった。利菜の背中には佳代子が貼りついている。その肌の暖かさが、彼女をほっと安心させる。
「誰もいないのかな?」
 佳代子が言う。
「隠れてるのかもしれない」
「かってに入るのはまずいんじゃない?」
「あたしはこの宗教の一員だもん」
 だから、入ってもいいはずだと思った。
「あたしが怖いって言ったら、あんたどう思う?」佳代子が言う。
「その気持ちわかるって言うよ」前を向いた。「あたしだって怖いもん」
 廊下にあがった。
 右側の扉を開けるとリビングだった。ワイドテレビと大きな机が目についた。利菜は右手にあるじゃばら式の戸を開けた。台所だ。南側の窓から明かりが落ちている。前きたときは大勢のおばさんたちが料理をつくっていたけど、いまはその姿もない。
 奥には勝手口があるが、利菜は鍵が閉まっていると思った。そこだけではなく、家中の鍵が。
 そんな嫌な予感におそわれて振り向くと、玄関の扉が閉まっていた。
「閉めたの?」
 佳代子が首をふる。二人は凍り付いた視線をかわした。どちらからともなく手を握りあう。
 佳代子の手は冷たい。部屋の温度が、どっと下がった感じだ。家中が冷気を放出しているように。汗でぬれたTシャツも冷たく感じだす。しめきった部屋のなかで、足下にだけ風を感じた。
「利菜……」
 と声がした。母親の声だった。
「二階からだ……」
 利菜は言った。佳代子の手を引いてリビングを出た。廊下はさらに暗くなっている。がたがたとなにかが閉まる音がする。
「雨戸をしめる音だよっ」と佳代子がせっぱ詰まった声で言う。「おさそいがはじまったんだっ。やばいよ、利菜っ。はやく出ないと……」
 ――でも、母さんが……と利菜は言いかけ、その言葉を飲みこんでしまう。上から母親の声がしたのに、ひさしぶりに声をきいたのに、彼女はすごく怖かった。
 母さんのあの声。名前を呼ぶ声……なんだか邪悪な気配がまじる声でもある。ここ数日、幻覚をみて、幻聴だって聞いてるのに、なんでこんなところにいるんだろうと思いはじめる。ここにきたのはまちがいでとんでもないまちがいをおかしているような……だってかあさんの声はかあさんがいっているんじゃないかもしれないし、佳代子の言うようにおさそいなのかもわなにはまったのかもしんない。だっておさそいをうけてるのはわたしたちだけじゃないかもしれないし、ゆくえふめいとかじことかれんぞくさつじんとかさいきんやたらおおい……
 でも、足は階段を一歩登りはじめたので彼女はすこし驚く。まだ佳代子の手を引いている、友達を道連れにするみたいに。
 しかし、階段を一歩、また一歩とのぼるたびに、さきほどまで頭にうかんでいた疑問はかききえ、佳代子に対する心配の情もきえてしまう。頭の中の耳に、栓をされたみたいに。
 彼女たちは、なにかにみちびかれるように、階段をのぼりだす。いまは夏で、まだ日も高いというのに、家の中がどんどん暗くなっていくことに気が付く。わずか数分で曇ったんだろうか? さっき外で見上げたときは、雲なんてなかったのに。
 でもここでは時間がどんどん過ぎるのかもしれない。そんなことを頭の片隅で考える。
 前頭部は霞がかかったようなのに、脳みその中心はフルスピードで回転している感じだ。アドレナリンやらホルモンやらが、バルブ全開であふれ出している感じ。
 二人は階段の手すりに手をかける。最後の数段を残し、利菜は立ち止まる。そこから見える廊下の壁に、亀裂が入っていることに気づいたからだ。その亀裂からは、煙が出ているようにも見えた。
 利菜はあれが見えるかどうか、佳代子に訊こうかとおもった。出力全開の脳みそが、佳代子にも見えていると教えてくれる。彼女は佳代子との、強い結びつきを感じる。
 どんな周波数もひろえる高性能の受信機みたいに、彼女の脳はふだんは見えないものを、見てはいけないものまで見せてくれる。亀裂からあふれでるものは、煙よりもどす黒く、黒ずんだ光みたいに見えた。
 やばい……
 利菜は心臓のあたりを右手で探った。彼女は振り向いていないが、佳代子も同じように心臓に手を当てているのを見た。肉眼では見ていないが、彼女の脳みそは、肉眼の限界を超えたらしい。
 そして、亀裂がさらに大きくさけ、どす黒い光があふれ出してきたかと思うと、その光ともに指が幾本も突き出て、亀裂の壁を、がっとつかんだ。

 利菜はそこから、紗英が見たという溺死女が出てくるんだと思った。じっさい頭が見えたときは濡れた海草みたいな縮れ髪で、その髪の隙間から血走った眼が覗いていたのだが、佳代子が、――母さん? とつぶやいた瞬間に、その女は杉浦登美子にかわっていた。
 佳代子が叫び始めた。
「母さんだ! 母さんだ! 母さんだ!」
 佳代子の母親はスカートをまくりあげ、亀裂の中から大きく足を踏み出す。登美子の来ているワンピースに、亀裂からあふれるどす黒い光がまとわりついた。
 登美子は腕を左右に押し広げる、亀裂がめきめきと大きくなった。
 中からは風と光が猛烈に吹き出し、利菜と佳代子は思わずバランスを崩しそうになる。あやうく階段を踏み外すところだったが、利菜が手すりをつかんだので(手すりはサラダ油が塗られたみたいに急にぬるぬると滑りだし、利菜は手すりの留め具に指を引っかけることで、どうにか二人分の体重を支えることが出来た、そして佳代子と体がふれたその瞬間、佳代子があんな母親を見るぐらいなら、ここから落ちて死にたがっていることを知った、そんな親友の思いに、利菜は身を引き裂かれるみたいな悲しみを感じた)、なんとかその難だけは逃れた。
 彼女は我に返って言った。
「佳代子、しっかりしてよ! おばさんがこんなところにいるわけない!」
 振り向くと、階段は三十度ばかり勾配を急にしたみたいだ。利菜は佳代子のことを腕一本で支えている。二人は崖から落ちかけたロッククライマーみたいになっている。
「あれはわるいものだ、これはおさそいだ、あんなのおばさんじゃないっ」
 佳代子が言った。「母さんがあたしを殺すんだ!」
「殺したりするもんか! はっ倒すよこの野郎!」
「だって母さんが……」
 佳代子は言葉に詰まったが、利菜はその言葉の続き、もしくは佳代子の気持ちみたいなものを全部理解してしまった。佳代子の母親が、酔っぱらって二人で死のうかとすすめたことも、今すぐ殺してやろうか、とか、あんたなんか生まなきゃよかったと言ったこと、それはドラマからしたら月並みな言葉ばかりかもしれないけれど、佳代子がうけたショックは月並みなんかじゃなく深かった。佳代子は思い出せないけれど、幼いころから、ろくにしゃべれもしないころからそんな言葉を浴びつづけていたし、それは彼女が思い出さなくても潜在意識のなかで、厚くぶっとく根をはっている。利菜は佳代子と精神がつながるのを感じた。佳代子のうけた傷跡を、痛みを、その身で再現しながらのぞき見た。
 利菜は悲しみよりもずっと強い憤りのなかでこう言った。
「ちくしょう、あんたのかあさんがあんたにどういったって、あたしはあんたといたいのよ。死にたいなんて、死んだほうがいいなんて、心のかたすみでだって思わないでよっ。こんなところ出るんだ。あたしもあんたも、あんな方になんかいかない」
 と利菜は上を見る。
「さあ、気持ちを強く持ってよ。じいちゃんに言われたみたいにっ」
「じいちゃん……」
 佳代子が言葉が飲みこめないみたいに呆然とする。
「そう、じいちゃんっ。階段はこんな急じゃない。手すりもすべったりしない!」
 利菜が手すりをぶったたいた。その瞬間、勾配が元に戻って二人は階段にたたきつけられた。利菜は階段の角に肋と骨盤を打ち当て、痛みにうめきながら階上を見上げる。
 佳代子の母親は階段の上がり口に傲然と立ち、さあ、こっちに来るんだよ、と言った。男みたいに野太い声だった。その声を聞いた瞬間利菜は、こいつにはかなわない、こんな奴にはかなわない、数秒でも一秒でも長く一緒にいたら、説得されて心をへし折られて、きっと絶対に引きこまれる、と思った。手でも口でも。こんな手強い奴にはかないっこない、と。
 利菜はあわててわるいもの登美子から目を離すと、佳代子をせきたてた。
「さあ、下に降りて。玄関開けて逃げるんだよっ」
 二人は音をたてて階段を駆け下りはじめたが、後ろからはそれをはるかに越えるおおきな足音が響いて、利菜は頭の真後ろに、わるいものがぴったりはりつくのを感じ、あいつがはき出す死の息が髪の毛を吹き払い、わあたいへんだ佳代子のかあちゃんがぴったり後ろに食いついてる、と思った。
 三人が階段を文字通り波打たせながら駆けきった瞬間、リビングから登美子が出てきた。一瞬で階下にワープして、二人の行く手をぴたりとふせいだ。
「母さん……」
 佳代子がうめいている。登美子は腕をふりあげ、娘のほおを手痛く張り飛ばした。
「やめて!」
 利菜は悲鳴を上げた。登美子が名状しがたいような顔つきで見下ろす。
 佳代子に殺すと言ったとき、おばさんはこんな顔をしていたんだろうか?
「人の母さんに化けるなんて最低だよ……」
 震え声でつぶやく、登美子がまた手を振り上げたときには利菜はそのわるいものをつきとばしていた。未知のエネルギーが、脳みそだけじゃなく体中を駆けめぐっていた。
「佳代子をぶったたくと許さないよ!」
 そのとき、リビングとは反対側の、仏間の戸が開いた。釈栄会の会長にして、この家の主人、坪井善三が頭をかきながら、
「うるさいぞ! なにを騒いでるんだ!」
 お経でも上げていたらしく、肩には文字の入ったたすきを掛け、手には数珠を持っている。彼は三人を(正確には倒れている三人目の人物を)見て、あんぐりと口を開けた。利菜は思った。この人には見えてる。
 こんど有無を言わさずに手を引っ張ったのは佳代子だった。彼女は家宅侵入を見つかったことで、全く度肝を抜かれて必死になっていた。
「行こう!」
 佳代子は玄関のドアをあけた。その瞬間、表の真夏の外気が家の中の冷え切った空気と対立しあい、空間がぐわんとしなるのを二人は感じた。感じるどころか、空間のねじ曲がる音まで聞いたのである。
 それでも二人は手で水を切るようにして、空間の境をかきわけ(境目は泥みたいに二人のこどもをとりまいた)、なんとか表に身を乗り出した。利菜の肺に八月の正常な空気と熱気がながれはいり、肌と全内臓はその急激な温度変化にきゅっと縮み上がる。
 表に数歩かけだしたところで、二人は振り向いた。家の中では登美子から姿を変えた何かが、坪井に覆い被さるところだった。
 二人が坪井を助けようか何か声をかけようかと迷っているうちに、玄関の戸がばたんと閉まった。アニメのコマが、停止したみたいに静かになった。悲鳴もなにもきこえない。二人は顔を見合わせる、次の瞬間には自転車に駆けだし、サドルにとびのると一目散にペダルをこぎはじめた。
 もう肝も勇気も消し飛んで、後ろを振り返るゆとりすらない。
 坪井家から遠ざかるその一時、辺りは確かに静まりかえっていたけれど、二人の心だけが悲鳴をきいていた。空間がねじ曲がってしまった家からは、すべての音が漏れなくなっていたけれど、フル回転の頭脳が、そんな悲鳴を聞かせてくれたのである。

        十三

 二人が家までつづく帰り道で肩を寄せ抱き合い泣いたのは右のような事情があったからで、二人が無事坪井家から出られたのは、彼女たちが一人ではなく二人でおさそいにひっかかってしまったという、ただそれだけの理由にすぎない。佳代子の頬と利菜の背中についた血の痕は、わるいものがつけた手形のようなものだった(その痕を二人はずっと気にしていたのだけど、道行く人で気づいた人はいなかった)。
 二つの自転車は全速力でかっとんだ。悲鳴が聞こえなくなるまで。あの音がなくなるまで。脳みそが元に戻るまでペダルをこいだ。そうしていれば、脳みそに回ったオイルを足が使い果たしてくれるみたいにペダルをこいだ。
 自宅のマンションがある方角とは道が違っていたのだけれど、約一〇分間の全力疾走は、肉食動物が獲物を平らげるときの、バリバリびちゃびちゃいう音を遠ざけてくれた。
 どちらからともなくスピードをゆるめ、そのうち利菜はブレーキレバーを握りしめた。佳代子も止まった。
 自転車は止まったが、心臓は全力疾走を続けていた。血液は体中をかけめぐり、血管はふくらみっぱなしだ。二人はハンドルにつっぷした姿勢のまま目をみかわす。
 利菜は辺りを見回して、自分たちが矢追坂の途中まで登ってきたことに気が付いた。そこは町の西側で、彼女たちの自宅はもっと南の方にある。
 二人はもういちど、互いの顔をのぞく。
 利菜は見た? と顔で訊いた。佳代子は見た、と顔でうなずいた。
 二人は自転車で坂を下りた。後は歩いて家までの道を辿りはじめた。
 佳代子は利菜に心の中を覗かれたような気がして、とくに母親との関係については誰にも知られたくないことが多かったから、気まずい思いをしていた。利菜もそれがわかっていたから、登美子については触れずじまいでここまで来た。ただ、今日受けたおさそいは今までにない強烈なものだったし、おまもりさまへのおさそいというよりは、あの世へのおさそいみたいだったな、と彼女は感じ、それですっかり怖じ気づいて泣いたのだった。今日ばかりはただのおどしやすかしじゃなく、本物の命の危険を感じた。なのに母親はいなくて、父親も様子がおかしく、相談すべき大人はもう誰も周りにいなかった。
 母さんはあんなふうに悪い者に捕まって、何処かに連れて行かれたのかもしれないと彼女は考え、絶望した。
 最悪なのは、寛太郎がこのことをまったく信じていないことだった。子供たちの様子がおかしいのには気づいている。でも、なにが起こっているのか、ほんとのところは知らないのだ。
 二人は今日の出来事で、おさそいは頭がつくった幻覚なんかじゃないということを身に染みるほどに理解した。そうして、自分たちがすっかり追いつめられていることを、子供ながらに感じたのだった。
 利菜は他のメンバーがどう思っているのか知りたかったが、家に帰りつくと、ほどなくして達郎から電話があった。あまりうれしい電話ではなかった。彼は自分が怪我をしたことと、瀬田英二がいなくなったことを伝えてきたからだ。
 達郎は明日、校庭にみんなで集まろうと、それまでに自分は寛太と英二のことを調べに行くつもりだと言った。彼はみんなで集まって、話をした方がいいと言った。それから、新治が帰ってこないんだけど、一緒じゃなかったのか、と訊いた。
 利菜は新治とはついさっきまで一緒だったのだということと、自分たちは新治と別れた後にひどい目にあったのだということを一挙にまくしたてたかったのだが、そうはせずに明日は必ず行くから、と言って、慌てて電話を切ってしまった。
 そのあと佳代子から電話があった。佳代子はさっき達郎から電話があったことを告げた後、明日必ず行くよね、と変に真剣な声で念を押してきた。佳代子がそんなことを訊くこと自体、利菜は恐ろしかった。
 電話の音がなくなると、部屋は黙りこんでしまった。居間には自分と父親が脱いだ服がとっちらかっている。
 台所に行くと、カップラーメンの開けたのや、使ったままの皿やコップが、テーブルや洗面台に散乱している。ここ数日のゴミで目一杯ふくらんだゴミ箱、入るだけ詰めこまれたまま結ばれてもいないゴミ袋が二つある。
 西日がさしこむ台所は、すっぱい匂いがした。ゴミ袋に近づくと、ナイロンにはレタスの腐った茶色いヘドロみたいのがこびりついていた。虫もいた。
 夏場に誰も窓を開けることもなくクーラーをかけることもなかった部屋は、蒸し暑い空気がこもっており、かさこそとゴキブリの走る音がした。
「こんなんあたしの家じゃない……」
 口に出すと泣けてきて、利菜は腐ったゴミの匂いのなかで、しゃくり上げながら鼻水を垂らした。あの家に行けば、母さんに会えると思ったのに、それだからこそ危険を犯してまで佳代子に付いてきてもらったのに、結果は違ったのだ。
 ひとしきり泣くと気が落ち着き、利菜は少しだけ気持ちが前向きになった。こんなふうに泣いてちゃいけない。泣いてもいいけど、その後はきっぱり元気をださなきゃだめだ、と寛太郎に言われたとおり、臭い部屋で胸一杯に空気をすった。
 利菜は部屋を歩き回って、あちらこちらの窓を開けた。クーラーも全開でかけてやった。ほんとはそんなことをしたら、かあさんに、電気代がかかるでしょ、と怒られるけど、今日ばかりはその心配もない。
「いない方が悪いんだよ」というと、清々とした気分になった。
 母親は几帳面な人で、部屋を散らかすのは厳禁主義で、掃除機を一日一度はかけ、窓ガラスも週に一度は拭く人だった。その反動で利菜はまったく家のことをやらなくなっていたが(ちょっと潔癖性気味にはなっていたが)、生まれて初めて家事をやろうという気になった。
 利菜は父親のタンスから軍手を見つけた。花粉症用のマスクもつけた。ゴミ袋の口を三つともしめてまわり、下のゴミ回収場までもっておりた。
 その後、彼女はたまったゴミを集めてまわり、たまった汚れ物を洗い、たまった服を洗濯機におしこみ、見よう見まねで回してみた。粉を入れ忘れたが、後で追加した。風呂を洗うと、お湯をためだし、それから部屋という部屋に掃除機をかけた。
 六時になると、父親がローソンの弁当をもって帰ってきた。片づいた部屋を見て、父親はしばらく無言だったが、ややあって頭に手を置いた。
 父さんがまともな反応を返したのはそのときだけで、後はずっと上の空だった。まるで頭の中の考えに熱中して、まわりのことには何も気が付かない様子だった。
 利菜は湯船に浸かり、なるべくリラックスしようとつとめながら、父さんはだんだんひどくなってくな、と考えた。風呂に顔をつけて、涙をお湯に垂れ流す。父親が食事をしながら口からご飯をとりこぼす様子や、痴呆患者みたいに、テレビをつけているのにまるで見ていない様子を思い出した。
 利菜は、まるで父さんじゃない、誰か他人と暮らしているみたいだな、と考えた。そうすると怖くなって、怖がったり不安がったりするとよく幻覚をみるから、お湯をジャバジャバと顔にぶっかけて気を紛らした。
 こうして上原利菜の精神は、日一日と追いこまれていったのだが、おまもりさまに戻る決心をしたのは、風呂から上がり髪を拭きながら部屋に戻り、机の上に置かれた、ある物を見つけたからだった。
 ビニールボールがあった。
 彼女はしばらく戸口に立ちつくし、それからゆっくりとした足取りで机に近づき、震える指で手にとった。ひっかき傷がいくつもあった。色はピンクだ。茶色い染みのような物がこびりついていた。山で捨てたボールだった。なめ太郎が投げ返してきたやつだ。
 利菜はビニールボールをテーブルに落とした。
 そのとき、後ろで戸が開いて、利菜はなめ太郎が入ってきたと思ったのだが、戸を勢いよく開けたのは父親で、彼は爛々とした目で、「ビニールボールは見つかっただろっ!」と一声叫ぶと、本棚が揺れるほど、きつく戸を閉め出ていった。
 利菜は息を乱しながら、しばらくその場で立ちつくした。捨てたのに……と彼女はつぶやいた。捨てたのにどうやって戻ってきたんだろう? 父さんがここに置いたのかな?
 ビニールボールに手を伸ばす、彼女は指先で触れようとする。ボールは自然に転がった。ボールについた茶色の染み。それはあのときついた血の痕なのだけど、その血痕はボールに幾重にもくっついて、笑った顔のようにも見える。
 あれは父さんなんかじゃない、と考えると震えが起きた。部屋を出て、わき目もふらずに居間を横切り、玄関を開けると、外に出た。家を出ていった。


第六章 竹村寛太、おさそいを受ける

 二〇二〇年 移動農園にて

        十四

 佳代子が自宅の土間で意識をなくすころ、竹村寛太は荷台付きのトラクターを転がし、大森神社の鳥居の影を、ゆっくりとしたスピードでふみこえた。寛太郎ゆらいのトラクターは、どんなに急いでも十五キロと出ることはない。
 寛太のとなりにはばっちゃんがいて、こくりこくりと首をこゆらし、居眠りをしているみたいだった。
 寛太郎が死んで、もう十年がたつ。その間自然農園は浮き沈みが激しかった。新しい方法を試みて、失敗をしたこともある。借金を抱えたこともある。失った信用を取り戻すのもたいへんだった。
 それまで自然農園の仕事の八割は、寛太郎の才腕によるものだった。だけど、農園は回復しつつある。収入が劇的にふえることはなかったが、いい作物が実るようになってきた。
 寛太はよいと思われるものはなんでも取り入れた。永田農法はその一つだ。昔ながらの方法で肥やしもつくった。金にはならないが、仕事自体は充実していた。ばあちゃんの行商は、その、金にはならないがおもしろい仕事、の代表みたいなもんだ。
 本日は上天気。木漏れ日の下を通りがかる車はなく、トラクターを走らすのはじつにいい気分だ。風は頃合いに吹き、寛太はここ数日――ときとすれば数ヶ月――なかったほどに、気が晴れ晴れとしてくるのを感じた。しかし、失踪し、あるいは亡くなった少年たちに思いがおよぶと、心の痛みはいつでもぶり返してくるのだった。
 連続殺人の被害者について、昔と変わらないことがある。彼らは六人と関係のある子ばかりだ。
 最近の被害者……井上久司少年は、達郎がコーチをしているリトルリーグに所属していた。古川浩二は、自然農園に呼んで面倒をみた子供たちの一人だった。寛太には、あの子たちが、自分のせいで死んだように思えてならない。子供たち。いなくなった子どもたち。かれらはみんな死んだ、もしくは死体が見つからなかった。
 彼はそんな死体の一つ一つに、おまもりさまが関係しているのではないかと疑っている。おまもりさまに関わって、助かったのは自分たちだけだ。彼ら六人だけが助かった。
 なぜ助かったのかとあれこれ考えを巡らせるが、肝腎の記憶がどうしても戻ってこない。
 記憶が戻らないのは、利菜と紗英がこの町にいないせいかもしれない。新治もそう考えているようだ。だけど、二人に戻ってきてくれと言えるだろうか? 紗英とは十年以上も会っていない。きっと、おまもりさまのことなんて忘れているだろう。だけど、利菜は……?
 彼女はときおり郷里に顔を出す。その意味ではおまもりさまとの関係を絶ってはいない。
 昔の仲間にはみんなおさそいがはじまっている。二十五年前にも見られた症状が、すべてあらわれている。あいつだけ例外なんてことがあるんだろうか? それとも山の力は、町を離れれば薄まってしまうものなのか?
 あいつが連絡をとってこないのは、理由があるのではないか?
「寛太!」
 声に驚いて顔を上げると、軽トラが脇を併走していた。乗っているのは尾上達郎だった。
 寛太は明るい笑顔をわざとつくり、
「よう達さん! どこ行くんだよっ」
 達郎はトラクターのエンジン音に負けない大声で言った。
「おまえに話があってなっ。ちょっといいかっ」
 寛太がうなずくと、達郎はトラクターを追い越して、空き地に車を停めた。
 達郎は車を降りて、トラクターの脇にきた。紺の作業服、首にタオルを巻いている。四十に近く、佳代子には、おっさん呼ばわりされている。
 寛太はためらいがちに視線をそらした。達郎が、あのときと同じように、召集をかけるつもりなのだとわかったからだ。
「なんだよ、話って」
「隆信の死体が見つかったらしい」
 寛太は意表をつかれて言葉に詰まった。「隆信の? 本当か?」
 達郎がうなずいた。森隆信は最近の行方不明者の一人で、リトルではライトのレギュラーだった。
 達郎は憔悴した表情をうつむかせる。
「川で見つかったらしい。松の木の、いちばん深いところに沈んでるのを、子供が発見したんだ」
「子供がか?」
 ショックだった。水底にしずんだ死体をみつけたときの子供の様子は、容易に想像できた。あるいはその遺体とは、友人だったのかもしれない。
「ひどいことになったなあ」
「ああ」
 二人はしばらく黙った。やがて、達郎が、
「最近眠れるか?」
「前とかわんねえよ。こんなときに眠るのはむりだろう?」
「おれもだよ。まったくなあ、ひどいもんだ」達郎はタオルをはずして顔を拭き始めた。「さっきは、なにぼうっとしてたんだ?」
 訊かれたが寛太は答えなかった。
「……子供のことか?」
 と達郎は言い当てた。葬式には二人とも出ていたから、気持ちは同じようなものだった。
 寛太は耳をこすった。葬式の最後になって、突然泣き崩れた母親の悲鳴じみた泣き声が、いつまでもはりついている。達郎は母親を慰めていたから、思いはなおのことだった。無精髭の目立つあごをなで、
「なあ、寛太。おれたち、もう一度おまもりさまに戻るべきだと思わないか」
 寛太は達郎をじっと見た。「本気か?」
「ああ」達郎はたばこをとりだしたが、火はつけなかった。「なんども考えたよ。おまえだって考えてたんじゃないのか? 戻るべきだと思うんだよ。昔だってそうしたんだ。おれと新治とおまえとだ。佳代子を誘うわけには行かないだろう? 利菜と紗英はもともといないんだし、おれがさそえるやつは、新治とおまえしかいないんだよ」
 おまもりさまに戻ることは、寛太も考えていた。子供の葬式ほどひどいものはないと思う。悲鳴じみた泣き声――あの声を思うと、寛太はじっとしていられなくなる。とくに悲鳴を聞いて、飛びおきる夜には。
 そんなとき、寛太はすぐさま身支度をして、山に向かおうかと、そんなふうに考えるのだ。
 彼らが両神山のキャンプ場に出かけたのは四月の末に当たる。寛太はそのときのことを思い出し、身震いをした。あのときは山ほど死体を見せられて、逃げ出したのである。彼らはその後山に戻ることはなかった。
 だが、二ヶ月近くがたったいまも、事態は悪くなる一方で、まるで好転していない。惜しむべきは、連続殺人の原因が、あの山にあると考えているのが、彼らだけだということだ。
「あんたが声をかけたときから、そんなことを言い出すんじゃないのかとは思ったよ」と言う。「新ちゃんは行くっていってんのか?」
「まだ言ってない」
「四月に行ったときは、さんざんだった」
「まったくだ」
「世の中ホラー映画じみてきたよな」
「でも、子供が死んでるのは現実だ。それも、おれたちのよく知ってる子ばかりが死んでる」
「おれたちのせいだってのか?」
「なんともいえん」
「あの山になにがあるってんだ」
「さっぱりわからん」
 吐き捨てるような口調だ。寛太は思わず苦笑した。
「じゃあ行ってどうするんだよ」
 寛太が訊くと、達郎は怒りに燃えた目で彼を見た。
「おまえはどう思ってるんだよ。久司やほかのみんなを殺したのは、ただの殺人犯なのか? こんな小さな町で犯罪がやまほど起こってるんだぞっ。昔から治安が悪かったわけじゃないっ。たった一年で、何もかも変わったんだっ」
 寛太は言葉がでなかった。久司は達郎のチームで、三遊間を守っていた。行方不明になった少年の中には、小学生のころクラスメイトだった、友達の息子もふくまれている。
 寛太は達郎を見下ろし、
「ほんとにおまもりさまに原因があるとして、できることってなんなんだ? おれたちの考えてるとおり、おまもりさまにあるなにかが人の悪い感情を増幅するんだとするよな。あいつら悪い考えばかりふきこみやがるっ……だけど、そんなもんにどうやって対処したらいいんだ? こどものとき、いったいなにがあったんだよ」と言った。「あんたはなにか思い出したのか?」
 達郎は黙ってポケットからライターを取り出した、手は震えていた。くわえ煙草に火をつけようとしたのだが、結局あきらめてたばこをしまった。
「新治はな、利菜と紗英を呼ぶべきじゃないかと言ってる」
 寛太はうなずいた。「利菜は山で遭難したからな」
「そうだ。おれたちはがきのころ、確かにおまもりさまに入ったんだ。国村のじいさんの死体もみつけた。これをおぼえてるか?」
 達郎が胸元から取り出したボールを見て、寛太の目は二倍ぐらいに大きくなった。彼は喉をしゃくり上げると、そのボールに手を伸ばした。二十五年前になくした、ビニールボール。「どこにあったんだよ……」
「息子が持ってた」達郎は奇妙に抑揚をかいた声音で言った。「これもおさそいだよ。おれたちはどっちみち山に戻るしかないんだ。そうするしか、方法がないんだ」
 寛太は日焼けした腕にひたいを押し当てた。「このままふつうに……ふつうにというか、いままでと同じように暮らしていいのかとは、俺も考えるよ。だって、つぎに犠牲になるのは、おれたちの子供かもしれないもんな。葬式で泣いてる親のこと、あれ見たか?」
 達郎はうなずく。
「おれはあんな目にあいたくないし、誰もあんな目にあうべきじゃないと思ってる」寛太はむっつりと黙りこむ。やがて、「……他にこのことを知ってるやつは、いると思うか?」
「おまもりさまに原因があるってことをか?」
「そうだ」
「寛太、もし、人殺しが現実にいたとしても、たとえそいつが捕まっても、つぎの殺人犯が出てくるかもしれないだろ? コーチがおれをノックで痛めつけたみたいに、あの場所は人間の悪い心を増幅しちまうんだ。おれたちはガキのころ、かなり正確にそのことがわかってた。おまもりさまに何かがあるのを突き止めてたんじゃないのか?」
 達郎は、「誰かが知ってるとは――おれは思えない。いるかもしれない、だけど、いたからどうすりゃいい。疑ってる奴が他にもいたとして、それで何かが変わるのか?」
 寛太はトラクターのハンドルにおおいかぶさるようにして顔を伏せた。
「おれたちでなにかしなきゃいけないっていいたいんだな」
「そうだ」と達郎は答えた。「そう思うよ」
 達郎はトラクターの座席によりかかる。やがて彼は煙草に火をつける。寛太にも差し出した。空を見上げ、煙草をふかしだす。
 五月の風のなか、二人のはき出す煙は、雲に吸いこまれていくようだ。雨になるなあ、と寛太は思う。正確に天気を読む力も、この仕事について身につけた特技の一つだ。
 だけど、あれからの二十五年間でしてきたことが、はたしておまもりさまの力に対抗しうるものなのかどうか、寛太にはわからなかった。神保町には、今まさに人殺しという嵐が吹き荒れている。それに対抗するすべは、彼らのうち、誰も身につけていなかったのである。
 寛太は寒気を感じ、首に巻いたタオルをはずした。達郎も感じているようだ。
 二人がかえりみると、大森神社の石の階段には、死んだ子供たちが居並んでいた。久司、浩二、隆信……それだけではない。二十五年前に死んだ子供たちも、見知らぬ亡霊までもがひしめくように立っている。なんてこった……と寛太はつぶやく。こいつらみんなおまもりさまにやられたんだ。
「おまえらの敵はとってやるぞっ、隆信!」
 と達郎がわめいた。とすると、彼にも見えているらしい。
 達郎は亡霊に向かって近づきはじめた。寛太はトラクターを飛び降りた。
「二十五年前、おれたちはけりをつけるために山に行った。それでもやり残しがあるっていうんなら、もう一度だって行ってやる。だからおまえらは亡霊みたいにして出てくることはないんだ!」
 寛太は亡霊に駆け寄ろうとする、達郎の体にしがみつく。
「誓っておまもりさまに戻ってやる。だから、息子には手を出すな、他の誰にもだっ。ちくしょう、これ以上、人を殺すなっ、殺すなよ……っ」
 達郎は子供たちというより、わるいものそのものに話しかけていた。
 亡霊たちの姿がゆがんだ。寛太の腕のなかで、達郎が泣いている。亡霊たちは無言のままで、だから寛太には、承諾か否かがわからない。
 達郎が身を震わせるうちに、二人が感じていた悪寒はかき消え、そして、彼らの姿もかき消えた。
 後には大人になった、二人の少年だけが残されていた。

        十五

 一九九五年 八月十七日〜十八日

 八月十七日の夜、家を出た上原利菜は、杉浦佳代子を呼びだした。公園脇にある公衆電話から連絡をとった。彼女たちが住むのは県営のマンションで、佳代子が住むのは隣の棟だ。
 コールをならすと、佳代子はすぐに出た。佳代子の母親は仕事に出ていない。佳代子は弟たちを風呂に入らせ、ご飯を食べ終えたところだった。
 中野区でわるいものを見たその日のことだ。部屋にビニールボールがあったこと、父親に怒鳴られたことを話すと、佳代子はすぐに駆け下りてきた。利菜の髪はろくすっぽ乾いていなかったから、公園で佳代子を待つ間に、身体はすっかり冷えていた。
 二人は利菜の部屋にもどり、そのビニールボールが山で捨てたものなのかどうかを確認した。本物なのかどうかはわからなかった。そこにあること自体が問題だった。父親が持ちこんだにしても、両神山に行ったこと自体、話していない。
 佳代子は泊まっていくことにした。母親は怒るだろうが(登美子にとって、一日の三分の二は怒りの時間だ――このところは以前よりいっそう怒りやすくなっていたとはいえ。それだけ怒っていれば、気がおかしくなって当然と思われる)、こっぴどく痛めつけられるかもしれないが、佳代子はなににもまして会いたくない気分だった。帰ってきてもひどく酔っぱらっているから、娘がいなくなっていることに気づかないかもしれない。後は昼までバタンキューだ。佳代子はわずかに悩んだあと、泊まることを申し出た。ぶん殴られても利菜といてやろうと思ったのだ。
 翌朝、一人早く起きた利菜が、父親を捜して家の中を歩き回っていた。父親の姿はなかった。もう十時をすぎていたから当然だ。
 台所のテーブルには千円札が置かれていた。折れ曲がった千円札が、ポツンと。
 顔を洗い歯を磨くと、部屋に戻った。
「佳代子、お父さんもういないみたい。パンもないしさ、ご飯はコンビニでも行って……」
 佳代子はすでに起きていた。くだんのボールを、じっと見つめていた。脇の窓からは朝日がさし、ピンクのビニールボールをじっと照らしている。茶色の染みを、日差しがジリジリと熱している。
 佳代子は物も言わずに見つめている。
「佳代子……」
 利菜が近づくと、佳代子は振り向いた。
「……やっぱりこのボール本物だよ。おさそいが幻覚ならさ……ボールがここにあるのはおかしいんじゃないかな」
 佳代子はボールに手を伸ばす。
「ほら、さわれるもん。だったらさ、このボールは現実ってことでしょ? それともこれも頭がつくってるだけなのかな?」
「みんなに見えない血みたいに?」
「みんなに見えないから、それがうそだなんてかぎんないよ。このボール、たしかに池に捨てたんだから」
 二人は黙ってボールを見つめた。佳代子はうまく説明できなかったが、そのボールは雄弁にしゃべっているみたいだ。このおさそいは現実だぞ、と。二人は昨日登美子に(登美子の姿をした何かに)つかまりかかった。佳代子はあいつに頬をはられた。ほっぺたはまだ赤く腫れている。
 ――あいつはあたしにさわることができた。幻覚なのに? さわることができるんなら、もっとひどいこともできるんじゃないだろうか? 佳代子の疑念はつきない。
「そのボールどうするの?」と利菜は訊いた。
「達郎ちゃんたちにも見せる。昨日のことも全部はなそう。向こうも言いたいことがあるみたいだし」
 二人は着替えを始めた。佳代子は家に帰る気がしなかった。母さんには会う気がしない。服は利菜のを貸りることにした。背丈が同じでこれまでもよく貸し借りっこをしていた。
 佳代子は注意をして服を選んだ。利菜が気に入ってそうな服は借りないことにした。おさそいがはじまったらどんな目にあうかわからない。いつ汚して捨てることになるかわからない。
 佳代子は時計を見て驚いた。
「もう十時まわってるっ。新ちゃんたち下で待ってるよ」
 二人は急いで身支度をすませると、バタバタと部屋を出ていった。利菜は鍵をかけるのを忘れなかった。郵便受けの隙間に扉の鍵を押しこんだ。
 佳代子と一緒にエレベーターに飛びこんだ。
 結局、彼女は山でふたたび発見されるまで、この家には戻らなかったことになる。
 新治はすでに駐車場に来ていた。自転車の荷台に腰をかけ、片足をぶらぶらさせている。
 彼は降りてきた二人を浮かない顔で出迎えた。朝日の下でそんな浮かない顔をしていると、新治は本物のネズミ男みたいに見えた。
 利菜が訊いた。「達郎ちゃんは?」
「寛ちゃんと出かけた。さきに阿曽商店で待っててくれって」
 達郎は寛太と水力発電所まで出かけたという。そこで瀬田英二の自転車が発見されたのだ。
 瀬田英二は友達との待ち合わせ場所にも姿を見せず、家にも帰ってこなかった。ちょうど連続殺人の話で、町はもちきりだったから、親はすぐさま警察に通報をした。
 友達との待ち合わせ場所とさほど遠くない発電所の入り口で、英二の乗り捨てられた自転車が発見された。
 佳代子と利菜はともに親と会わないか、会ってもろくに話さないでいたから、そのあたりの詳しい話は初耳だった。新治は昨日両親から聞いた話を(三田のおじさんと話すのはつらかったが)二人に話して聞かせた。
 英二の荷物は自転車にくくりつけられたままだった、ということ。警察が目下金熊川を捜索中だ、ということ。
 早くみつかるといいな、と三田のおじさんは言った。それから新治たちに、一人で川に近づくんじゃないぞ、と心配顔で言った。そんなおじさんをみていると、新治は図書館での出来事が、ますます恥ずかしくなったのだった。

        十六

 校門前の駄菓子屋には、すでに紗英がきていた。阿曽商店は、勘定場が畳みの縁台になっていて、そこに腰かけ、くつろげるようになっている。
 利菜は二人にもビニールボールを見せた。新治と紗英は無言だった。みんなひどく無口になった。ときおり駄菓子を買っては食べたが、妙に味がわからなかった。阿曽商店の婆ちゃんが、ごそごそと茶を入れては静かに飲んだ。
 十分ほどすると、寛太たちがきた。彼女たちが駄菓子屋を出ると、学校の門は封鎖され、運動場には子供たちの姿がない。その方が好都合だった。
 みんなは買いこんだお菓子をもって、裏門にまわった。門のそばに、自転車を固めて置いた。達郎を先頭に、門をこえて中に入った。
 リトルでの怪我の話をせびりながら運動場にまわると、テラスの階段に腰を落ち着けた。そのときには雨はやみ、赤いタイルも乾いていた。六人は黙々とお菓子を広げ、黙りこくって校庭や雲を眺めた。
 口火を切ったのは佳代子だった。達郎に、
「敷地には入れたの?」
「入れなかった」
 警察がいたからだと彼が言ったので、みんなはちょっと緊張した。達郎は寛太と連れだって、発電所の様子を見に行った。行こうと言い出したのは寛太で、彼は今も青い顔をしている。
 佳代子は、様子が変だな、と思ったが、それは彼女の精神状態が影響していたのかもしれない。佳代子は頬にできたあざをさすりながら、物思いに沈んだ。坪井の家で腕を振りかぶる母親の姿を思い描き、身震いをする。
 松井という子が父親に殺されて、それからというもの佳代子は母親が怖かった。親が子供を殺すなんてことがあるのなら、あたしも母さんに殺されるんじゃないかと疑った。だから、あの家ではわるいものが登美子に変わったのかもしれない。
 ちかごろの母親は始終酔っぱらって、自分で自分のことが、どうにもできない様子だった。
 誰から話す。達郎が言った。佳代子はみんなの顔を見た。自分のことを相談したかったが、一番に話すのはいやだった。
 昨日のことを話すとしたら、母さんについても話す必要が出てくるだろう。母親がそんなふうだなんて――酒乱だなんて――友達にも話すのは恥ずかしかった。それに母さんが悪いのか、自分が悪いのか、佳代子はその辺りにも確信が持てないでいた。
 登美子は娘がうんと幼いころから、こんな惨めな生活をするのはみんなおまえのせいだと言い聞かせてきた。もちろん利菜や紗英が、そんなことはないと言ってくれる。でも、弟たちの世話をいやがったり反論しようものなら、こっぴどくやいとを据えられた。弟たちの面倒をみるのは当然なのだとしつけられた。利菜の入れ知恵も、やいとの前には効果が薄れた。
 佳代子はそっとそっぽを向いて、にじんだ涙をこっそりぬぐった。誰にも気づかれずに泣くすべも、この十二年で佳代子が身につけた生活技術のようなものだった。
 利菜は瀬田英二とは、四年のときのクラスメイトだった。当時は、あの子のことを英二君と呼んでいた。
「英二君、水泳パンツはいてなかったんでしょ?」
 奇妙な視線が集中した。みんなは英二の裸を思い浮かべたのだ。
「バックの中に入ったままだたってことっ。そう聞いたんだよね……」
 達郎が言った。「警察は川を捜してた。おぼれたと思ってるんじゃないかな?」
「おぼれたんじゃないんでしょ?」
 佳代子の言い方は断定的だった。利菜が言いたかったことを代弁していた。
「おぼれたんじゃないんだよ。水泳パンツもはかずに泳ぐなんておかしいもんっ。それに発電所の下で泳げるわけない」
 佳代子が言ったのは、あの辺りの水深が浅いからだ。子供たちは、もう少し上にある松の木のあたりで泳ぐし、瀬田英二が友達と集まろうとしていたのもその場所だ。
 英二の自転車があった場所とはそんなに離れてない。佳代子はこう質問した。
「英二君がいなくなったの、おさそいと関係あると思う?」
「わからないよ。発電所の近くでいなくなったなんて気味が悪いけどさ、でも、あいつは山には行ってないだろ?」
「別のときにおまもりさまに行ったってことはない?」
 みんなはいっせいに紗英を見た。
「英二君、わたしたちとは別のときにおまもりさまに行ったのかも。そんであいつに捕まったんじゃないかな」
「捕まったなんて言わないでよ。英二君いなくなっただけかもしんないじゃん」
 佳代子の声は震えていた。でも、みんなの表情は、おさそいと関係ある、と言っていた。こんな目に合っているのが、自分たちだけだとは思えなかったし、思いたくもなかった。
 英二の身に何かあったなんて、もっと考えたくなかったが、発電所に置き捨てられた自転車は、なにかを暗示している気がした。一同は――いなくなった子供のことを話し合うだなんて、不気味なことだったけど――お互いが同じように感じているかを確かめたかった。
 達郎が吐息をついた。彼の顔は蒼白で、大きなガーゼが痛々しかった。
 達郎の頭からは、ある考えがこびりついて離れない。それにみんなにうまく伝えられるか、自信がなかった。
「おまもりさまに行ってから、変なことばっかり起こるよな」
 と彼は切り出した。実際には夏休みに入る前から、町の様子はおかしかった。集団下校が始まって、遠方の生徒のために送迎バスまで用意されていた(達郎たちはあぶれた口だが)。表で遊ぶ子どもたちの姿が、目立ってへったころでもある。なのに大人は肝腎なところで子供たちに注意を払わなかった。
 いちばん顕著なのは、自分たちの親だった(かわらないのは紗英の親だけだったが、これは彼女の母が子育てについて、強烈な信念を持っていたからだと思われる)。これだけ外を出歩いて、寛太の家に泊まりこんでも、苦情らしい苦情を言ってこない。
 達郎は、そんなことを思い出しながら話をした。
「おれはじいちゃんの言うとおり、おさそいのことは、幻なんだと思いたかった。でも、そうは思えないんだよな。溺死女とかなめ太郎とか、おれはばかばかしいって、そんなのいるはずない、こんなこと起こるはずないって思いこもうとしてたけど、おれたちそんなことしちゃいけないんだよ」
 達郎は一気にまくしたて、みんなのことを挑発するような目つきで見渡した。
 紗英が言った。「でも、じいちゃんは幻覚だって言った。達郎ちゃんだって、なめ太郎のことばかにしたじゃん」
「それは謝るよ。正直言うと、おれはいまリトルの試合がいちばん大事だったんだよな。でも、コーチの打球をうけて、ほんとに危険なんじゃないかっておもいだした。わるいものって、おれたちの頭がつくった幻覚なんかじゃなくって、ほんとにあるんじゃないかっておれは思うんだ」
 達郎の顔は真っ赤になって、しゃべる声は甲高かった。見えないのに存在するものについて説明するのは難しかった。
 達郎がおさそいについて認めるような発言をしたのは、これがはじめてだった。達郎の熱心な話しぶりにみんなは身を乗り出した。
「あんときの練習は監督がいなくてさ、藤尾って大学生のコーチが代理でノックをしてたんだ。最初はふつうだった。ランニングもストレッチもいつもとおんなじにやったんだ。キャッチボールのときは人数がたんなくてコーチもまじってやった。そのときはふつうだったんだ。でも、ノックがはじまって、コーチの様子が、おかしくなった」
 達郎の顔は赤くなり、この告白を恥じているようなそぶりだった。
 佳代子は達郎がもう黙ってしまうんじゃないかと思ったが、彼はやめなかった。
「そのことはリトルのみんなも認めてる。コーチのノックがおれに集中しはじめてさ。いやってほどきつくなって、なのに俺にもっと近寄れっていうんだよ。もっと、もっとだっ。みんな目え丸くしてさ、コーチはおれに近寄れっていうだけじゃなくて、ののしるんだよ。おれはもうやばいって思ったけど、そのときにはもう遅くって……」
「ボールが当たったんだ……」
 佳代子が言った。
「そのコーチ、俺知ってるぜ」
 寛太が言うと、達郎はうなずいた。
「やさしいいい人だろ。きびしいけどさ。終わるとジュースおごってくれたりするし、面倒見がよくって、俺は好きなんだよな。だけど、あのときはコーチの顔がゆがんで見えてさ、コーチの顔がその……」
「わるいものみたいに見えた?」利菜が言った。
 達郎はまたうなずき、
「そうなんだよ。おれおっかなくてさ。ボールが当たったのは、身がすくんだせいだ。ボールが来るのは見えたんだけど、脚が動かなくてさ。おれがぶっ倒れたら、コーチは元に戻って……」
 唾を飲む。
「へんな言い方だけどほんとなんだよな。鬼みたいに見えたのが、いつもの顔になって、慌てて飛んできたよ。おれのこと本気で心配してた」
「達郎ちゃんにけがさせたんだから当たり前だよ」佳代子が言った。
「コーチのこと悪くいうな。コーチのせいじゃないんだ。おれはこんなことみんなに言いたくないし、考えたくもないよ。でもな、もしかしたら、ほんとに危ないかもしんないだろ?」
「つまり、何が言いたいのよ」
 紗英が不機嫌に言う。
「つまり知っといた方がいいってことだよっ。みんな油断しちゃいけない。じいちゃんが言ってることは間違いだ。ほんとだけどまちがいなんだ」
 利菜が眉をとがらせ、「それってわけわかんないよ。間違いなのに、ほんとなわけ?」
「半分はほんとってことだよ。度胸があれば、わるいものをおっぱらえる。これはほんとだっただろ? でも、じいちゃんはおれたちが見てるのを、ただの幻だって思ってる」間をおいて、「でも、おれはそうじゃないって思ってる」
「ボールが頭に当たったりするから、そんなこと考えんのよ」
 紗英がつっけんどんに言った。
 みんなの視線が集中して、彼女は赤ら顔を伏せてしまった。
 達郎は大人びてうなずいた。
「あのノックではっきりしたのはほんとなんだ。おまもりさまになにがあるかはわかんないけど、そいつはおれたちになめ太郎を見せたり、コーチを操ったりしてるんだと思う。お化けだかなんだか知らないけど、おさそいってのがほんとにあって、そいつはだんだん強くなってる。とおれは思う」
 達郎の口調は力強かった。
「松井が親父に殺されたのも、町を歩き回ってる殺人犯も、みんなおまもりさまが操ってるのかもしれない。みんなはどう思う?」
 みんなは顔を見合わせた。そしたら新治がぽつりぽつりと話し始めた。新治の心は、あのことを思い出すのをしぶったが、にいちゃんには逆らえない。正直に話したにいちゃんには。
 それに新治はみんなに聞いて欲しくもあった。心にしまっておくには、負担の大きい話だった。そいつが三田のおじさんに変わったことも、そいつがしゃべった話の内容についても、できるかぎり正確に思い出し、みんなに伝えた。
 自分が三田のことをどう思っていたかという下りになると、新治はうつむいて涙とよだれをこぼしてしまった。でも、みんなはあるていど兄弟の置かれた状況を知っていたから、軽蔑したりはしなかった。新治も達郎も、新しいおじさんに意地悪をするような奴じゃない。
 友達が自分の話を受けて入れてくれたのを感じ、新治はほっと安堵した。みんなのことがますます好きになった。あの事件以来、ずっとつづいていたいやな気分が少しだけほぐれた。
 新治は最後に、兄ちゃんの言うとおりだと思う、幻なんかじゃなくてほんとに危険だと思う、と言った。
 新治の話が終わると、一同は黙りこんだ。佳代子と利菜は顔を見合わせ、昨日起こったことを話しはじめた。新治と別れたあと、利菜が母親を見つけに行きたいと言いはじめたこと、坪井という宗教家の家に行ったことを、包み隠さず正確に話した。
 その家では階段や手すりが変化したし、壁の裂け目からは佳代子の母親があらわれた。あいつはあたしたちの心が読めるんだよ、佳代子はそう言った。それで一番いやなふうに姿を変えるんだ。
 佳代子がそんなふうに言ったので、達郎は身震いしながらこう思った。
 あいつらはおれたちのことを知りつくしてるんだ。
 二人の話に、みんなは真剣な表情で聞きいっていたが、利菜がビニールボールを取り出すと、食い入るような目つきに変わった。達郎と寛太は信じられないと言いたげにボールに顔を近づけた。
 達郎が、「なんだよ、それ。おまえ持って帰ってきたのかよ」
「ちがう、気が付いたら机の上にあったのよっ。昨日の晩だけど……朝出かけるときはなかったのに」
 みんなはビニールボールに目を落とした。佳代子が言った。
「あたし、それ捨てるとき一緒にいたから、知ってんだ。部屋にあるはずないんだよね」
「達郎ちゃんの言うとおりだよ。親がおかしいのは幻覚じゃないもん」
 利菜が言うと、達郎はうなずきを返しながらこう言った。
「大人がいうみたいにさ、殺人犯はほんとにいるんだろうな。だけどそれだっておまもりさまと無関係とは言えないかもしれない」
「どういうことよ?」と紗英。
 達郎は立ち上がった。彼は頭をがしがしとかいた。
「コーチを操ったみたいに、おまもりさまの力が犯人を動かしてるかもしれない。幻はあいつそのものじゃなくて、おれたちの心がみせてるのかもしれないよな。だけど、おまもりさまの力が働いて、きっとそれが原因でみんながおかしくなってるんじゃないかな」
 佳代子は不機嫌そうに口をとがらせた。彼女は達郎が言ったことを認めたくなかった。
「じゃあ、おまもりさまに何があるの? ダースベイダーみたいな悪役がいるっての?」
「そんな妖怪なんていないんじゃないかな……」
 達郎は少しうつむいて沈思熟考しているようだった。
「おれはとってもそうは思えない。でも、満月の夜は人間が凶暴になるっていうだろ? あの山にある何かがみんなをおかしくさせてるんじゃないかって、おれはそう思うんだ」
 みんなは満月の話は、テレビで見るか、雑誌で読むかしてそれぞれに知ってはいた。満月のもつある波長が、人を凶悪にさせるのだ。そんなとき、犯罪件数はうなぎ登りになる。
 両神山には、おまもりさまという誰も近づかない場所まである。みんなはあの山にある何かについて真剣に考えはじめた。
「寛ちゃんは?」
 佳代子が訊いた。
 そういえば、寛太はみんなが合流してから、一言も口を利いてない。
「そうだよ、寛太はなにもなかったのかよ?」
 達郎も訊いた。
 みんなの視線は、竹村寛太に集中した。むしろ寛太の身にも何か起こっていることを、期待しているかのような目つきだった。
 そんな集中砲火を浴びても、寛太は青い顔をしてうつむいている。達郎は、寛太はもうしゃべんないのかな、と思ってそっぽをむいた。そりゃしゃべりたくないこともある。
 すると、寛太が口を開いた。
「おれいたかもしんないんだよな……」
 いたんだよな、と彼は言った。
 なにが? という顔で、達郎は向き直る。寛太は一気にまくしたてた。
「おれ、ほんとは松の木で泳ぐメンバーに入ってた。でも、あそこは発電所に近いから、行くのやだったんだよ。だから、断った。そしたら、英二のやつが代わりに行くことになった」
 寛太はあぐらをかいて足首をつかみ、そのあしくびにうんと顔を近づけた。泣くのをこらえているみたいだった。
 寛太が発電所に行きたがったのは、英二のことを確かめるためだった。英二が自分の身代わりになったみたいな、そんな罪悪感を感じていたのだ。
「おまえのせいじゃないよ」
 達郎はたまらくなって寛太の背を叩いた。寛太はだだっこみたいに首を振った。それも激しく。彼の顔から、鼻水と涙が垂れて、左右に散った。寛太に元気がないのも無理からぬことだった。
 みんなの目にも涙が浮かんだ。達郎だけが考え深げな顔をしている。
「達郎ちゃん、あたしたちどうすればいい?」
 佳代子が涙をぬぐって訊いた。彼女は手の甲についた涙を、じっと見つめた。
「図書館に行って山について調べてみないか」
 と達郎は提案した。彼は新治に目をやった。
「青葉図書館じゃなくてさくら図書館に行こう。すぐ近くだし。あそこの方が古い本とか、神保町のことが書いてある本がたくさんあるはずだ」
 達郎は寛太の肘に手を回して彼を立たせた。みんなも立った。
 かれらは校門の外に置いた自転車のところまで歩いていった。
 殺人事件が起こり始めてからこちら、校庭での遊びは禁じられていた。学校には当直の先生がいて、六人の姿も目にしていた。だけど、なにも言わなかった。注意もなかった。そのことに彼らは気づいていない。おまもりさまの血が誰にも見えなかったみたいに、町の人たちは彼らに関心をはらわなくなっていた。
 後年佳代子は、家の土間に倒れ、薄れゆく意識のなかでこう考えた。あのときは、六人の存在が町から消えつつあるみたいだったな、と。
 校庭を出るとき、最後に紗英がこう訊いた。
「あたしたちもうにげられないの?」
 みんなは互いの顔を、盗み見るみたいに目を見交わした。
 達郎はじっと前を見た。佳代子も利菜もうつむいて、靴をいじくりはじめた。
 それについては、誰もこたえようとはしなかった。

        十七

 さくら図書館は神保南幼稚園のほど近くにある。
 戦前に建てられたという、木造の、ふるぼけた二階建てだった。屋根は赤く塗られて、駐車場のまわりには、桜がたくさん植えてある。窓は大きい。南側の窓からは、鉄橋を走る電車が見える。
 新治はこのさくら図書館も好きだった。バーコード式の青葉図書館と比べれば、すべてアナログという感じだったが、それはそれでよかったのだ。
 さくら図書館は、その昔学校として使われていた。そのせいか、教室状の部屋がいくつもある。各教室はテーマごとにわけてあった。児童文学、日本文学、海外文学。目当ての郷土史は保健室があてがわれ、他の部屋に比べるとずいぶん手狭だ。
 六人はそこで山にかんする記述をさがしはじめたが、はじめてすぐに、こんなやり方では一日たっても終わらないことに、気がついた。そこで片端から調べるのをやめ、両神山について書いてありそうな本だけを棚から抜き出し、机の上に山積みにしていった。
 その上で、一人一山のノルマをつくった。
 女の子たちはまめだが、こういうことは大嫌いなはずの達郎と寛太も(とくに寛太!)今日だけは文句をいわずに仕事をこなした。
 本がひとりでにめくれたり、外の低木が窓をふさいだり、廊下を走ってきた誰かが扉をしめたり(座敷わらしだと紗英は思った)、妨害はさまざまあったが、それぞれに仕事をこなした。
 だけど、おさそいに関する記述はどこにもなかった。達郎は、あの山はずっと昔からあそこにあったのに、誰もこのことに気づかなかったんだろうかと思った。犯罪が多発する現象は、突然始まったのか?
 両神山には、昔山村があり、山の中には神社もあったということだけはわかった。だが、それがおさそいとどう関係があるのかまではわからなかった。
 みんなは近くのコンビニで食料を買いこみ、昼を過ぎても食べながら調べた。
 そのうち達郎が本を置いた。彼は黙って窓の外に目をやった。外では昔裏庭と呼ばれた場所で、子供たちがドッジボールをやっていた(ちなみに表の校庭は、半分は町に買いとられて道路になり、もう半分は図書館の駐車場になっている)。みんなは黙って達郎を見つめた。もう三時になっていた。
「もう帰ろう」
 達郎は不機嫌な声で言った。
「調べないの」
 佳代子が訊いた。
「調べてもわかるわけないよ」
「じゃあ、どうすんのよ?」
 佳代子が訊いた。達郎は振り向いた。憔悴した表情だった。そういえば、みんなちゃんと睡眠をとれなくて、目の下にくまを作っている。
 おまもりさまでなめ太郎を見てから、四日がたっていた。その間、まともだった日は一日たりともない。それぞれに恐ろしい体験をし、幻覚も見続けていた。
「みんなこのまま我慢できるか?」と訊く。「いまのままだと、いつまでたってもおさそいは終わらないかもしれない」
「だから、どうするつもりなのよ」
 佳代子が不機嫌に口をとがらせた。達郎は不機嫌そうに腰に手を当てる。わかってるくせに、と言いたげな表情だった。
「おれたちもう一度山に戻るべきだよ。おまもりさまに何があるかわかんない。けど、そいつはおれたちに戻ることを望んでると思うもんな」
「そんなの……っ」と佳代子は絶句した。「危ないに決まってるじゃんっ。あたしたちの人生まで終わっちゃうかもしんないんだよ。ひでゆきって子や、英二君みたいに殺されるかもしんないっ」
「英二はまだ死んでない。それにおれはじいちゃんについてきてもらえばいいと思う」
 達郎は言った。寛太郎が一緒と聞いて、みんなの顔つきが変わった。話は急に現実味を帯びはじめた。
 紗英の泣き声がそんな妄想をうち破った。
「でも、なんで戻んなきゃいけないの? すっごく怖いよ。殺人犯がいたらどうする? あんときだってさ、蔓草の向こうで国村さんほんとに死にかけてたのかも」
 みんなはびっくりして彼女を見た。誰もそんなふうには考えてこなかったのだ。
 佳代子が言った。真剣な決意めいた表情だった。
「でも、あたしは行きたいと思うんだよね……母さんのこともあるしさ。これ以上あんな目にはあいたくない。あんな母さん、たとえ本物じゃなくても見たくないよ。あたしの妄想だとしたらさ、妄想が現実になったもんだとしたら、なおさら悪いよ。あたし、母さんのこと、あんなふうに見てるの?」
 誰も答えることができなかった。
「なおさら悪いよ……」
 と佳代子は言い終えた。
 次に口を利いたのは利菜だった。図書室の机はその場所柄もあって、急速に会議室の様相を呈しはじめた。
「うちも、母さんがいなくなったじゃん。それっておまもりさまのせいかもしんない。父さんの様子もあんなだしさ。元にもどってくれるんなら、なんでもしたい」
 新治も同じ気持ちだった。寛太も、(罪悪感から)戻るべきなんだろうなと言った。英二が戻ってくるんなら、なんでもしたかった。その意味では、瀬田英二はおまもりさまに取られた人質のようなものだった。
 紗英はこんなことがはじまる前から、家の中はめちゃくちゃだった。でも、溺死女をみたり、おそわれたり……こんなことがつづいたら気が狂うのはほんとうだ。そのうち、みんなとばらばらになったとき(どんなに気をつけても、引き離されることはあると思う)、なにか事件に巻きこまれるんじゃないだろうか? 行方がしれなくなったり、そのうえ体の一部が食べられていたりするのかもしれない。
 自分の死体を想像するのはうそざむいことだった。紗英はむずがゆげに身を縮め、誰かの反対意見をまった。出なかった。
「今日は寛太の家に泊まろう」と達郎は言った。「そんでじいちゃんについてきてくれって頼むんだ。明日は両神山に行く」
 そして利菜に視線をあてがった。彼女は机の上でビニールボールをもてあそんでいる。みんなの視線が彼女の手元に集中する。利菜はそれに気づいてボールをしまった。
「そのボールもなんとかしなきゃな」
「神社に埋める?」
「そうしてもいいけど、まずはじいちゃんに頼みに行こう」
 達郎は机の上に散らばった本を片づけはじめた。みんなもそれにならった。彼らが外に出るころには、時刻は三時をまわり、分厚い雲が目立ちはじめている。天候は怪しくなっていた。
 彼らがさくら図書館を後にするころ、両神山ではすでに雨が降っていた。その雨粒は、瀬田英二の遺体を、洗っていたのだ。

        十八

「じいちゃんがいないっ?」
 寛太の声が、家の土間に響いていった。一同は寛太の家に戻っていた。
 寛太はばあちゃんと話していた。じいちゃんに両神山に着いてきてくれるよう頼もうと、寛太の家に集合したのに、肝腎の寛太郎が出かけていないという。
「なんでいないんだよ。どこいったんだよっ」
「同窓会で、隣町に行くというとった」
「同窓会?」
 みんなは顔を見合わせた。寛太郎みたいなじいさんでも、同級生が集まったりするのだろうかと、疑問を持ったのだ。
 ふつうはもっと早くから、はがきか何かで知らせるはずだと達郎は考えた。
 利菜はいなくなった母親のことを、紗英は溺死女のことを思い出し怖くなった。そりゃあ、じいちゃんは直接おさそいを追い払ってくれたりはしない。そんなことはできない(見えないんだから)。でも子どもたちにとって、寛太郎は心理的な防波堤のようなものだった。
 みんなはいっせいにうろたえた。泥棒がとなりにいるのがわかって、戸締まりをしようとするのに、肝腎の鍵がないようなものだった。しかも、この泥棒は、鍵がないのを知っている……。そんな気分だった。
 寛太はこの家にわるいものが制限なしに踏みこんでくるような気がして、さすがにおっかなくなった。
「いつもどるんだよっ?」
 ばあちゃんにつめよりなじる寛太を、達郎が止めた。
「やめろよ。隣町に行ったんなら、明日には戻ってくるだろ」
「でも……」
「あたしたち急いでいきたいわけじゃないし、あたしは待ってもいい」
 と佳代子は言った。二日ばかりがまんすれば、じいちゃんは戻ってくると思ったのだ。みんなは同じ気持ちだった。寛太も引き下がることになった。
 だが、夜になっても寛太郎が戻ってくる気配はなかった。連絡もなければ行き先もわからない。風呂にはいり、浴衣にきがえるころになると、達郎もおかしいと思い始めた。寛太はやきもきしっぱなしだ。
 竹村家には男親がいないから、寛太郎は出かけるときは行き先と連絡先をかならず残していくし、出先で帰れないときは電話をかけてくる。
 寛太は腹をたてたり、心配したりで忙しかった。
 六時を過ぎると、寛太家の周辺でも雨が降り始めた。寛太も達郎もいらだっていた。両神山に行く行かないよりも、寛太郎までいなくなったことに不安を覚えた。
 食事が終わった。テレビはつまらなかった。バラエティをみても誰も笑わない。八人も人がいて、話し声がつづかない。
 利菜と佳代子がトランプをはじめたが、カードをきって配るさいちゅうに、どちらもやめようと言い出す始末。男の子たちは蹴ったり叩いたりしてふざけていたが、それよりもじっと押し黙っていることの方が多かった。
 屋根をうつ雨音が、いやに高く響いてくる。雨音が子どもたちを、屋内に閉じこめているようだ。
 その大雨は、わるいものの挨拶のようでもあった。今からそこへ行くぞと。黒雲とともに舞いこんできそうだった。おさそいは時と場所を選ばない。これはほんとだ。
 一同は早めに就寝することにした。いつものように蚊帳を吊ると、布団をひいて横並びとなった。
 雨はやまなかった。
 今日は大変だったなあ。
 達郎が布団のなかでぼんやりとつぶやいたが、その今日というのは、まだ終わったわけではなかったのだ。

        十九

 利菜が物音で目を覚ましたとき、家の中は真っ暗だった。
 外では嵐がおさまっていない。雨と風の音が、部屋の中までとどろいてくる。雨戸がガタガタ鳴っている。
 利菜はじっと息を潜ませながら、さっき聞いた物音はまちがいかな、と思った。耳をすます。みんなのいびき声がしたし、すこやかな吐息もした。だけど、かりかりという音はまだ聞こえた。一人ごとも、ずっとつづいた。二つの音は夢まで届いて、彼女の目を覚まさせたのだ。
 利菜の左には紗英と佳代子がいる。右隣には新治と達郎がいた。佳代子がはじっこはいやだというので、寛太は佳代子の隣にいる。
 利菜は掛け布団の下でじっとしたまま、誰かの独り言を(少なくとも友達の寝言ではなかった。声は床下から聞こえたから)聞きながら、これがまだ夢なのかを考えた。雨戸が烈しく鳴り、彼女は身を震わせる。
 ピシャア!
 ふすまの閉まる音がした。利菜は布団の中で、魚みたいに身をひるがえした。俯せになり、恐る恐る上を見ると、寛太の部屋の戸がかすかに揺れて閉まっていた。
 閉まった――ということは、
 開いてたっけ?
 閉じていた気がする。眠るときは閉じていた気がする。寛ちゃんが夜中に起きて、開けたんだろうか?
 じゃあ、いまは誰が閉めたんだろう?
 利菜は眠っている人数を数えはじめた。自分を含めて六人いた。歌と寛太の母親、香奈恵は、別の部屋に寝ている。この部屋にいるのは子どもたちばかりだ。
 利菜はそうっと身を起こし、蚊帳の外まで視線を飛ばした。部屋のとなりは廊下で、雨戸につづいている。
 雨戸が開きはしないかと怖かった。布団の中で手をついた。今日はみんな寝相が悪い、夢のなかで苦しんでるみたいだ。寛太、達郎、新治。男の子たちもみんないる。ばあちゃんが部屋に入ったんだろうか……?
 なんのために?
 利菜にはいつもの蚊帳が、檻みたいに見えだす。襖はじっとしているが、気配がある。寛太の部屋に誰かいる……と彼女は信じた。
「佳代子……」
 利菜は紗英の体を越して、佳代子の体をゆすった。佳代子は恐がりだけど、いちばん頼りになるのは彼女だった。
「佳代子、起きてよっ」
 佳代子はびくっと身を震わせ目を覚ましたが、しばらくなにも答えず身動きすらしなかった。そのとき佳代子は隣に寝ているのがなめ太郎だと信じていたのだが、やがてここが寛太の家で、今自分を揺すったのが利菜だということに気が付くと、猛然と腹を立てた。トイレについてきてと言うつもりなら、絞め殺してやろうとさえ思った。
 佳代子は身を起こし、
「なにっ?」
 と利菜を睨みつけた。雨戸がごとごと鳴って、二人は布団をそっと引きつけた。風かな? と利菜は疑った。ほんとに風なのかな?
 佳代子が蚊帳の向こうでささやいた。
「なんなのよ? まだ夜でしょ」
「床の下から音がすんのよ。それにさっきはふすまが閉まった」
 佳代子は畳をみた。襖もみた。そして、「勘違いじゃないの?」と彼女は訊いた。だけど、鼻で笑ったりはしなかった。佳代子はより緊張したのだ。
 利菜はみんなを見て言った。「どうしよう?」
「開けよう」
 佳代子は蚊帳の端をそうっと押し上げ、四つんばいのまま外にでた。利菜もつづいた。蚊帳の外では、電池式の蚊取り線香が、赤い発光灯をつけている。
 佳代子は畳に耳を近づけて、「ほんとだ、かりかり音がする」
 利菜は佳代子の肩をつかんだ。「みんなを起こそうよ」
「だめだよ、騒いだらばあちゃんたちが起きてくる」と佳代子は言った。
 利菜はそれが重大事であるかのようにうなずいた。
 寛太郎の言葉を思い出す――怖いときに怖がるだけの奴はしみったれだ。
 利菜はじいちゃんに怖がっていると思われるのはいやだった。寛太郎は常に誇り高い人間だ。そのことを寛太やみんなにも要求している節がある。利菜は子供ながらにその期待に応えたかった。佳代子も同じ気持ちらしかった。
 佳代子が、
「襖は一人でにしまったりしない。あたしたちは怖がったりしない」
「しない」
 と利菜はうなずいた。
 佳代子が襖に手をかけ、素早く言った。
「反対側から開けてよ。いっしょに開けるんだよ」
 二人は左右から襖を同時に引いた。おばさんが桟に石けんを塗っていたから、襖は思ったよりもいきおいよく開いた。
 佳代子は尻餅をついた。利菜がうめくような吐息をもらした。「ひゃああああ……」
 部屋の中には、服がぶら下がっていた。両神山に着ていった服、神社に埋めたはずのはずの服だった。それも単にぶら下がっているだけじゃない、服は新たな血にまみれ、びしょ濡れになっている。古い血はえび茶色になり、泥も付いていた。掘り出してきたみたいに……。
 佳代子が、持ち場の襖をそうっと閉めた。利菜も閉めた。
「ありえない、ありえないよ」佳代子がつぶやくような早口で、「いたずらだったらいいのに、寛ちゃんのいたずらだったいいのに」
「それこそありえないよ、あの服、神社に埋めたんだもん。掘り出すなんてむりじゃん。寛ちゃんもこわがってた」
 利菜は襖までお化けになったというような顔つきで戸を見上げる。「それに床も汚れてた。自分の部屋なのに、そんないたずらしっこないよ」
 佳代子は、揺れるような目つきで、利菜を見、
「あの服、雨で濡れてたのかな?」
「ちがうと思う」
 その証拠に臭いがする。燃え立つような、血の臭いが。
 何かが天井裏を駆け抜け、二人は悲鳴を上げて飛び上がった。その音で達郎が起きた。彼は布団が空っぽになっているのに気が付き驚いた。
「利菜っ」と新治の体をこして、二人が寝ていたはずの布団をなでた。「佳代子っ」
「ここだよ」
 背中に声をかけられ、達郎は身を反りかえらせる。
「おどかすな、ぎっくり腰になるじゃんかよっ」
 達郎は肚がたったのと、ほっと安心したのとでおどけて言ったが、二人はまったく笑わず手をにぎり合っている。
 達郎の下敷きになった新治が、
「なんだよにいちゃん?」枕元のめがねをつかむ、彼は冷たい寝汗をかいたせいで、寝間着がぐっしょりと濡れている。
「こっちに来てよ」
 佳代子が静かな声で言う。自分たちが起きているのがばれるのを、こわがっているみたいな声色だ。
 兄弟は無言で顔を見合わせる。何があったのかは考えたくもなかった。
「開ける気?」利菜が佳代子に訊いた。「また開ける気?」
「そうよ」
「冗談っ、あんなのもう見たくもないよっ。気いついてんでしょ、臭いもすんじゃん」
「臭い?」
 達郎が蚊帳からはい出てくる。懐かしい血の匂いが嗅覚をみたす。彼は部屋へとつづく襖を見た。いつもの扉が邪悪に見えた。
「なにがあるんだよ? 開けたのか?」
 達郎が二人のそばへ行った。彼はまだ子どもだが、中学生ぐらいには大きい。利菜はわずかに安堵する。佳代子が答えた。
「服があった」
 ひっと息を呑む音がし、三人は飛び上がった。振り向くと、新治が手で口を押さえている。
 新治はすまなそうな顔をし、視線をそらした。
 達郎が、「神社に埋めたのにか?」
「なめ太郎だよ」
 新治が布団をひきよせ、ふるえながらくるまる。
 達郎はそれを見て迷った顔をし、「新治はそこで待ってろ」と弟に言った。彼は襖に顔を近づけた。襖の向こうになめ太郎がいて、開けると黄色い目玉が向こうから覗いて、いなごみたいに素早い腕が首をつかむにちがいない、と思いながら扉に手をかけた。
 襖が五センチ開いた……むせかえるほどの血の臭いが、隣の部屋から返ってきた。達郎は震えた。
 寛太は仏間を兼用しているから、部屋には仏壇があり位牌が祀ってある。床の間にはへんてこな絵の描かれた巻物が垂れ下がっている。その上にはご先祖さまの写真が飾ってある。そのうちの若々しい写真は寛太郎の兄弟のもので、先の戦争で死んだ人だという。達郎はいつも、気味が悪いな、と思っていたが、いまはそんなもの目に入らなかった。
 利菜と佳代子の目にもあの服が見えた。達郎の体がじゃまをして、新治には見えなかったみたいだ。
 達郎は唾をのんだ。襖を閉めた。今見たものを考えた。寛太は部屋の天井にロープをわたして、そこにプラモデルや野球のペナントをつっていた。服はそのロープにかかっていた。達郎は服をとめている洗濯ばさみもしかと見た。確かに血糊で真っ赤だった。
「どうしよう?」
 佳代子が訊いた。ばあちゃんと香奈恵はその部屋の隣で寝ている。佳代子はそれを起こそうかと言っている。
 達郎は服が独りでに戻ってくるなんて、その目で見ても信じることができなかった。自分が見た物を確かめたくてこういった。「電気をつけよう」
 佳代子がすばやく立ってスイッチを入れた。利菜が言った。「すっごい血の匂いがするよ……あの服、ぐしょぬれで、真っ黒みたいに見えたもん」
 すると達郎は怒って振り向き、
「このかりかり言う音はなんだっ」
 みんなは大きな声だったから、ばあちゃんたちに聞こえなかったか心配をした。かりかり言う音は四人がひそひそ話す間も、ずっとやまずに続いていたのである。
 寛太も紗英も起きてきた。二人は寝ている間にすっかり事情をのみこんだようで(夢も現実もおんなじぐらいにわるかった)、恐怖に目を見開いている。
「おばちゃんを起こさないの?」
 利菜が訊いた。
「だめだ。だって、二人には見えないんだぞ」
 と達郎は答えた、他人に――大人に見えないこと自体が今では怖かった。
「寛太、おまえの部屋に服がぶらさがってるぞ」
 寛太の顔がみるみる青ざめる。みんなの顔も。
「神社に埋めたやつか?」
「そうだ」
「埋めたのに戻ってきたのか?」
「そうだっ」
「なによ、この臭い?」
 紗英が両手で口をおおう。達郎が扉を開けたことで、血の臭いはますますきつくなっている。寛太と紗英も蚊帳から出てきた。
 これだけ血があったら、蚊の心配はいらないよね……と利菜は思った。口にしたら、佳代子にまちがいなくぶたれるが。佳代子は他人をぶつのをこわがってる。おばさんと同じになるのが怖いのだ。
 新治が達郎のそばにくる。
「見ない方がいいぞ」
 と達郎は弟に言った。
「見る。見ないよりいい」
 と新治は兄に言った。
 寛太が率先して襖を開けた。寝床の明かりが部屋へと伸びた。おかげで恐怖心は減ったのだが、血も服も減っていなかった。びしょぬれの服はそこにあり、さきほどよりもよく見えた。
 服は雨のかわりに血をあびたらしく、裾からぽつぽつと滴り、畳に血溜まりをつくっている。
「最悪だよ」寛太は言った。「最悪だよ。みろよ、畳までぐっしょりだ。どうすんだ? これ、どうすんだよ?」
 これには達郎たちも同情をした。寛太はこれからもあの部屋で生活をしなければならないのだ。
「もちこんだのおれじゃないぞ」
 寛太が涙目で達郎をみあげた。
「わかってる」
 寛太は額を手で押さえ、精一杯気丈な声で言った。「手伝ってくれよ。あの服外に出さないと」
 佳代子が言った。
「血も拭かないと。早く拭かないと取れなくなるよ」
「あれにさわるの」紗英が言う。「吐くよ。まちがいなく」彼女はもうえずいている。
 全員が泣き出しそうになっていた。女の子たちはすでに泣いていた。こらえようとしていたが、こらえきれていなかった。新治はショックでみじろぎもしない。寛太は畳が畳がと、おろおろしている。パニックの波がみんなを包んで、収拾が着かなくなり始めた。
 達郎は思った。じいちゃんに見つかる前になんとかしないと。
 べつに悪いことをしたわけじゃない。いたずらや悪さをしたわけじゃない。達郎のせいでも誰かのせいでもなかった。だけど、彼は怖かった。達郎はいつも弟たちのめんどうをみるようしつけられていたから、みんながこんなめにあっているのは自分の責任だと感じた。
「お、落ちついてくれよ」彼は寛太をつかまえた。「おまえ、かごをもってこい。服を入れるから。新聞紙とティッシュ……それにぞうきんもだ」
 寛太が隣の部屋に駆けこんだ。
 紗英が、
「おばちゃんを起こそうよっ」
 と言ったが、誰も耳を貸そうとしない。これだけ物音をたてたのに、起き出さないこと自体がふしぎだ。
 誰も言うことを聞いてくれないとわかると、紗英もティッシュをさがしにいった。達郎と新治は、物に血がつかないよう、部屋に散らばっている物を片づけ始める。
「わたし、火箸をとってくる」
 佳代子が言った。彼女は振り向き、
「利菜、ついてきてよ」
 佳代子が部屋を出ていこうとする。利菜は慌ててつづいた。
 二人は寝床から土間につづく戸を開けた。障子戸の外には、土間に降りるための段差が一段あった。そこに足をおろすと、寛太家の広い土間が見渡せる。居間からは寛太がつけた電灯の明かりが落ちている。その先では、真っ暗闇が、ずうっと奥まで続いている。
 二人はすっかり怖じ気づいた。
 利菜が電灯のスイッチをおす、かちかちという音がつづくばかりで、反応しなかった。「やっぱりだよ。こんなこったろうと思ったんだ……」
 佳代子は小声で、
「誰かいる……?」
 と訊いた。
「そんなこと訊かないでよ」
 利菜は小声で言い返した。いったい誰に訊いてるのかと、疑いたくもなる。
 土間は暗く何も見えないが、誰かがいるとは考えたくもない。懐中電灯が欲しいと思ったが、同時に暗がりを照らしたくなかった。明るくなったところに、誰かが(つまりなめ太郎が)うずくまっていたら、どうしようと思ったのだ。
 佳代子は利菜の手をまだ握っている。手首に跡が残るくらい強く。彼女はその手を引きながらこう言った。
「い、行こう」
「行くのっ?」
「あの服、素手でつかむ気?」佳代子は訊いた。「それも怖いよ……」
 突っかけの上に飛び降り足を通した。二人は履き物のイボイボにさえぞうっとなった。
「火箸は?」
 佳代子が訊いた。二人は風呂場の方を見た。風呂場は土間の奥手にある。火箸はその煙突を支えるわっか型の金具に引っかけられている。その方向は、ちょうど台所の出っ張りの陰になっていて、もっとも暗かった。
 二人はぞうりをひきずるようにして煙突に近づいていく。風呂場は台所の半分ほどの広さしかなく、そのぶん奥まっている。利菜は佳代子の腕にしがみつく。居間から明かりは落ちているけど、目の届かない場所がいっぱいあった。心臓がどくどくと鳴っている。感覚が鋭敏になり、わずかな物音にも飛び上がる。
 土間の土はでこぼこしており、二人の怖々足は、そのかすかなでっぱりにもひっかかった。何でもない地面が、このときだけは危なっかしく感じた。佳代子はまず台所に近づいた。角っこまで行き、背中を壁に押し当てた。腕だけを煙突の方に伸ばしていった。
 暗がりから手が伸びて、佳代子を引きずっていくんじゃないかと利菜は考える、佳代子の腰にしがみつく。
 佳代子の手は煙突を、二度、三度と叩いた。寛太郎は、子供たちがとりやすい位置に、火箸をつっていた。佳代子が金具にそって指をすべらすと、火箸にふれた。
 佳代子はうめきをもらしながら火箸をさぐった。だが、壁に背を貼り付けた体勢ではうまくつかむことができなかった。佳代子はしばらくもどかしさと奮闘した後、利菜に向かって、
「とりにくいっ」と怒ったように言った。「とれないよっ。だってつかめないんだもんっ」
 利菜は、その体勢じゃ無理だよと言いたかったが、煙突側にまわってとれなんて言えない。あんたがやれ、と言われるのが怖かった。
 佳代子は、利菜の気持ちを察したのか、「二人で行くからね」と切りつけるように言った。利菜はうなずいた。
 二人は寛太郎に教わった腹式呼吸をやることにした。息をぐうっと下っ腹まですいこむ。腕を垂らし、お腹に向かって息を吐く(吸っても吐いても、体が垂れるよう力を抜くのが骨だった)。三度くりかえすと、少しだが気分が落ち着いた。
 壁際を離れると、風呂場側に回りこんだ。
「なんだ、なにもいないよ」
 佳代子が安堵の口調で言った。煙突の辺りには暗がりが広がるばかりで、その闇はじっとしている。何かがうごめく物音もしなかった。
 利菜がささやく。「はやくとってもどろう」
「わかってるよ」
 と佳代子は言った。佳代子を先頭に煙突に近づく。
 風呂場には土間からしか入れない。色ガラスの引き戸がついている。彼女たちが煙突に近づいたとき、その戸が、キイィ……、と開いた。二人は悲鳴すらも凍り付かせて、縮み上がった。
 五右衛門風呂はかまどの上に乗っている。だから、風呂の入り口は高い。二人はぽっかりとあいた、四角い空間を見つめる。
 奥に据え付けられた洗濯機の白い肌……その高い踏み段の上に、真っ白な手が伸び、ひらひらした。手には濡れた長い髪がおちかかる。佳代子は口を開けて固まった、悲鳴を上げようとしたのだが、息すらも出てこなかった。彼女は息を出そうと腰を折り曲げじたばたした。行動を起こしたのは利菜だった。
 彼女は素早く火箸をひっつかむと、佳代子の腕をひっぱった。ぞうりを蹴立てて逃げた。土間を通りぬけようとすると、居間の障子戸がぴいっと開く、畳の上には痩せた女が、濡れた着物をたらして立っている。
 二人は頬骨をぶつけあいながら抱き合って飛び上がり、寝床に戻ろうと壁際まで遠ざかったあげくにはしご段にぶつかり、そのはしごは屋根裏の物置にのぼるためのものだが、その屋根裏でもかさかさとなにかが駆けずる音がおりてくる、彼女らは夢中で部屋にあがった。はいていたつっかけを脱ぎ飛ばし、蚊帳に潜りこみ、そこを通り抜けようとすると、隣の部屋から、タタタッ、と何かが駆けてくる音がした。
 二人は夢中で蚊帳をくぐり抜けると、寛太の部屋にもどった。
 みんなはしばらくあっけにとられ、無言で二人を見つめていた。四人は軍手をはめていて、それは子供の手にはなんとも不釣り合いで、利菜は軍手の白と血の赤の対比のせいか、みんなのことも怖かった。彼女はごくりと唾を飲む。佳代子がそうっと扉を閉めた。
「なにかあったのか?」
 達郎がこわごわ訊いた。利菜は説明しようとしたが、言葉がでてこなかった。喉が渇いて貼りついた感じがする。
 佳代子はなんでもないと答えた。みんなにうちあけるよりは、その方がずっとよかった。
 畳みの血だまりには、すでに新聞紙とティッシュがばらまかれていた。どれも血を吸って、重赤くなっている。利菜は火箸でティッシュをつまんだ。紗英がゴミ袋を広げる、そこに放りこんでいった。
 彼女だってさっきの女が気になる。着物を着て濡れそぼってるなんて、幽霊女の定番みたいなやつだ。でも、彼女はつとめて気にしないようにした。あんなの幻だ、幻。
 呼吸を深くして、さっきみたいに胸をくつろげようとしてみたが、喉の栓を閉められたみたいに、うまくいかない。ふすまの外に、さっきの女が立っているんじゃないかと思うと、気が気ではなかったからだ。
 みんなはティッシュをばらまき、新聞紙を広げる作業を続けた。なんどか繰り返すと、床の血だまりはうすくなった。女の子たちはしゃがみこむと、雑巾で畳の隙間に入りこんだ血をふきとりだした。
 寛太が椅子にのぼった。達郎がかごをさしだす。
 寛太は背伸びをして、洗濯ばさみをはずしていった。服が落ち、それを達郎がかごでうけとめる。
 ロープがぐらぐら揺れて、血がとびちった(広げた新聞紙に落ちる血滴は、ボタボタという音を響かせる)。血まみれの服が腕をかすめ、くそっ、気をつけろよっ、と達郎が言った。
 しばらくして、利菜はパジャマをこした素足を、ひやひやと風がなでるのに気がついた。彼女はおそるおそる振り向く。喉のポンプがあやまって作動したみたいに、気管が詰まった――襖が、あいていた。彼女の視線はも寝床の蚊帳を通り越して、一気に土間まで飛んだ。
 玄関の戸も開いてる……。
 土間に続く障子戸は、開け放したままだ。佳代子も自分も閉めてはいない。だけど、その外にある玄関の扉が、今では開いていた。嵐の音は、さきほどよりも強くなっている。土間になだれこむ雨が見えた。
 利菜は、詰めていた息をようやっと吐いた。
 玄関の戸があいてるんなら、じゃあ誰が入って来たんだろ……
 それとも、でていったのか?
 彼女は出ていってくれた方がいいと思った。さっきの女が出ていってくれたんならいいのに。
「戸が開いてるよ……」
 声をかけると、女の子たちは顔を上げ、男の子たちは振り向いた。みんなぎょっとした表情をしている。
 誰かの口から蚊の泣くような悲鳴が漏れた。
「お、おまえら玄関も開けたのかよ」
 達郎が言った。利菜と佳代子は首を振った。それどころか、寝床につづく襖が、いつ開いたかもわからなかったのだ。
「くそっ、ちくしょうっ」
 寛太は手が血まみれになるのもかまわず、服をはずしていく。みんなは表をじっと見つめる。まるで、なにか入ってくるものがいないか、見張っているみたいに。
 服を集め終わり、軍手もかごに放りこんだ。みんなは無言で互いを見合った。
「服を外に出さないと……」寛太が言った。
「ああ……」
 と達郎が答えた。
 外から響く風の音は、人の悲鳴のようだった。
 寛太と達郎はためらいがちに部屋を出た。すると後ろで、ひいいという音がした。振り向くと、仏壇の扉が音を立てて閉まるところだった。一同が悲鳴を上げると、今度は掛け軸の絵がゆれ、和紙から墨の線が浮かび上がった。柳に川、釣りをしていた男が出てこようとした。
 利菜の目の前で(彼女は悲鳴も上げていない。肺の空気が出尽くしていた)襖がしまった。佳代子と紗英があわてて閉めたのだ。
「みたっ? みたっ?」佳代子が振り向き、涙目で訊いた。
 利菜は首を横に振った。「見てない、なんも見えんかった」
 そのとき襖がかすかに開きはじめ、新治が罵声をあげながら飛び出し、その戸をふさいだ。彼は丸いとってを両側からはさみこんでいたが、利菜がこれまでに見たこともない動揺した顔で振り向くと、こう言った。「開けようとしてる……っ」
 寛太は廊下に飛び出すと、雨戸に使っていたつっかい棒を取り外した。利菜と紗英は棒をうけとると、柱と襖の間におしこんだ。
 新治は放心したように座りこんだ。
 みんなは無言で目を見交わした。
「かごを外へ出さないと」
 達郎は言った。
 みんなは駆け足で土間に向かった。達郎が踏み段に足をおろす、冷たい空気が足を叩いた。玄関は大開きに開いている。
 達郎は素足のまま土間におりると、階段の下にかごをおいた。
 寛太家の庭には、安っぽい外灯がひとつある。その明かりがついている。みんなの目に、雨に濡れた畑がうつった。利菜は佳代子と視線をかわした。二人とも玄関の扉は開けていなかった。
「じゃあ誰が開けたのよ」佳代子が訊いた。
「両神山からついてきたんだと思うか?」
 達郎が振り向きもせず言った。利菜はぎゅっと唇をかんだ。佳代子はこらえきれなくなって後ろをむいた。寛太の手は血まみれで、新聞紙で血をぬぐっている。
「わかんねえよ、そんなことっ」
 寛太は新聞紙を投げた。血で黒くなった紙の固まりが、居間から落ちる光の中を、ころころところがった。
「確かめるか?」達郎が訊いた。
「なにをよっ」
 佳代子がわめき返した。でも、達郎が何を確かめたいのかはわかってる。神社にうめた服を、ここまで持ってきた奴の正体だ。最悪なのは、みんながすでに答えをもっていることだった。両神山に着ていった服を持ってきたのは、両神山にいたあいつに決まってる。
「軒下にいるに決まってるよ」新治が言った。「にいちゃんも言ったじゃんか。このかりかりいう音はなんだって」
 彼はその瞬間なめ太郎につかまれた足のことを思い出したのだ。新治は怪我をしていたから、その感覚はよりいっそうなまめかしくよみがえった。
「あいつ、床板をはがそうとしてるんだ。それで、ぼくらを一人ずつ連れさるんだ」
「待てよ。音はしたけど、猫かもしれないだろ?」
「でも、わたしもそう思ったよ」利菜が言った。「そんなふうに考えんのやだけどさ。そう思うんだもん。佳代ちゃんはどう思った?」
「思いたくもなかったよ。あいつ、両神山からついてきたの? なんのために?」
「ぼくたちを捕まえるためだ」と新治が絶望的な声で言う。
「ちがう。そんなはずない」達郎が言った。「新治、おまえの言ってるのは、先生の話そのまんま……」
 そのとき、庭の暗闇を左から右へと陰が走った。
 新治は言った。「もういやだよ。あんなのに足首つかまれたり、怪我したり、怖い夢みたり、もううんざりだよ」
 みんなは表を見ている。開いた、玄関の方を。
 達郎が振り向いた。
「お、落ち着けよ……っ」
「落ちつけって、どうやんのよっ。達郎ちゃん説明つくの。服が一人でに戻ってきたりさ、血まみれになってたりさ、そんなことの説明が付くってのっ?」佳代子の声はヒステリーを起こしたときみたいに大きくなった。「そんでその血がじいちゃんには見えないかもしんないんだよ!」
 利菜にはその瞬間の佳代子が、怒ったときの登美子に見えた。そんなことを口に出したら、佳代子にはぶったたかれるだろうけど。
 佳代子は他人に暴力をふるうのを極端にこわがってもいる。利菜が手を伸ばすと、佳代子はがっくりとうなだれて、その手を握り返した。
 利菜は達郎に向かって言った。
「あたしたち、風呂場んとこで女のお化けを見たのよ。濡れてて、着物きてた」
 利菜が言うと佳代子も、
「あれって紗英が見た奴でしょ。溺死女だよ……」
 と言った。そのお化けのことならみんな知っていた。神保南小学校では、写生大会を水力発電で行うから、その怪談はなかば伝統のようになっている。
「うそでしょ……」
 紗英が訊くと、利菜と佳代子は首をふって否定する。
 達郎はすばやく扉によった。勢いよく閉めようとしたのだが、そのとき玄関の向こうから手が伸びて、扉の縁をかっと押さえた。達郎は、たたらを踏んであとずさった。みんなには血まみれの指だけが見えた。
 しばらく一同は無言だった。
 寛太は、たいへんだ英二が怒って戻ってきた、と思った。死ぬとなめ太郎の子分にされるんだっ。
 指は、扉をひたひたと叩き、リズムを取った。
 達郎が動くと、指はとまった。
「動かない方がいいよ」
 利菜が震え声で言った。
 指がまた動きはじめた。童謡が一同の頭に響いて、気が狂いそうになる。
 達郎は寛太と目を合わせた。二人は寛太郎の言った言葉を思い出した。おっかないのをやっつけるぐらいの気持ちがあれば大丈夫、という言葉を。寛太郎の言ったことは根拠がない。だけど、幽霊をやっつけられないかというと、答えはノーだった。体はむりでも、精神の力でなら、やれるんじゃないか。
 寛太はなめ太郎に石をぶつけたから、そのことを体で学んで知っていた。それに相手は子どもだ。少なくとも大人のモンスターじゃない。
 達郎が身を翻し、ファインプレーみたいなしなやかな動きで、ほうきを取った。寛太が土間に飛び降り、壁の懐中電灯をとった。
「あいつをやっつけろっ」
 達郎が震える声で叫んだ。
 佳代子も利菜も土間に飛び降りた、紗英も。新治は迷ったが、それでもみんなの後につづいた。
 達郎は箒を振りかぶると、夢中で手を打ち据えた。男の子が顔を出した。達郎は目を疑った、思わずごめんよと誤りそうになった。男の子は血まみれどころじゃない。ほんとに腐っている。おまけに怒っていた。歯をむき出して、雄叫びを上げた。達郎は一番前にいたから、口の奧にある金歯が見えた。彼はひるんだ。
 寛太が懐中電灯のスイッチをいれ、モンスターの顔を光で照らした。そいつは顔を押さえて、悲鳴を上げる。彼が苦悶に踊ると、血と腐った肉が飛び散る。土間とガラスにべちゃりと貼りつく。そいつは踊りながら庭に出た、みんなの耳に、ぬれた土をふむビチャビチャという音がした。男の子の体は、はがれるか食われるかしたようで、脛の骨はむき出しだ。
 みんなの心におじけがさす。
 彼らは達郎を先頭に、外へと踏み出した。
 外では風と雨が舞っている。落ち葉が庭を満たしている。鶏たちが騒ぎ、子どもたちは、雨に濡れるのもかまわず、立ちつくした。
 寛太の光は男の子の影をおったが形もなかった。
 寛太は電灯を振り回す。光りのなかを雨は白い筋をつけて落ちてくる。トイレを見た。屋根を探した。電灯の光はサーチライトのように旋回する、最後に畑と庭のあいだにある、どでかい蒲焼きみたいな稲木を照らした。寛太はあっと声を上げた。
 なめ太郎はそこにいた。相撲の蹲踞にも似た姿勢で座りこんでいる。長い髪がびしゃびしゃに濡れている。上半身にパジャマを着て。そのパジャマの隙間からは、妊婦のようにふくれあがった腹がのぞく。
 女の子たちは、悲鳴を上げて寛太に抱きついた。達郎が助けを求めて振り向くと、
「呼ぶなよ」
 なめ太郎が、ひび割れた、肋をきしますような声を投げかけた。彼は猿のようにしゃがんでいる、痩せた脛が目立つ。
「じじいは呼ばないでくれよ。あいつは嫌いだ。おまえらは好きだ。おれのものだから」
「お、おまえの子分はやっつけたっ」
 寛太が電灯を向けた。なめ太郎が長い舌を垂らした。あかんべをしたんだろうか。
「光はきかない」と言った。「このこと、誰にも言うな」
 彼の舌が地面にとどくほどにのびた。達郎は箒で叩こうとしたが、その前になめ太郎のパンチをくらった。腕だけが、ゴム人形みたいに伸びてきたのだ。達郎は棒みたいにぶち倒れた。ガーゼがべろりとはがれ、傷口があらわになる。
 あいつの手は縮まり、胴体に収まった。
 利菜たちは達郎を助けにかかる。なめ太郎が右手をふった。ゴムボールが落ちてきた。利菜の胸元に。彼女はそれをキャッチした。
 利菜は額に貼りついた髪をかきわけながら、稲木を見上げる。雨と涙のせいで、なめ太郎の姿はゆがんで見えた。
「他人にいうな。親にも友だちにも。おまえたちは戻ってくればいいんだっ」
「いやよっ」佳代子は泣いた。「あんなとこ、もどんないもんっ」
 なめ太郎は雲をつかむように両腕を上げた。
「逃げられると思うなよ! おれさまはいつでもおまえらを見てるぞ! おまえらを見て、おまえらをかならず連れ戻してやる! 暗闇にひきずりこんでやる!」
 なめ太郎は両腕を雄々しく天にのばす。子どもたちは力が――おまもりさまの力なのか、どす黒いものが空気をみたし、渦を巻くのを感じた。現実ではない、別の場所に迷いこんだ感じが強くなった。
「弱気になれ! おびえてしまえ! 悪いもので心を満たせ! もうおしまいだと信じこめ!」
 なめ太郎の首がのびた、ろくろ首みたいに地面に降りた。なめ太郎は叫びながら、一人一人の顔に近づき、契約を迫った。
 血と腐った肉の臭いで息もできない。
「言わないっ」ついに新治は言った。「言いません。約束しますっ」
 なめ太郎は首を振り、勝利の雄叫びを上げた。「ガーガーガーガガー」髪から泥と垢が飛び散った。この声はばあちゃんには聞こえないんだ、利菜は思った、血が見えなかったみたいに。だから自分の声で助けを呼ぼうとした。涙と鼻水にまみれた顔を、家に向けた。
「呼ばない約束だろうっ」腕をつかまれた。「呼ばない約束だ。ボールにかけて絶対だ」
「そんな約束してない……」
 利菜は答えた。なめ太郎は前腕の骨をいじくりいたぶる。唇をかんで痛みをこらえる。
「やめろよ、言うこと利く」達郎は言った。「だれにも言わない」
 なめ太郎は黄色い目玉でにたりと笑った。乱杭歯をむきだした。
「安心安心」なめ太郎は首と手を戻していく。「言っとくけど、逃げ場はないぞお」彼は笑った。「助けもなあし。ひどい目にあうのは約束するよ。ひどい目にあわせるオレが請け合う」
 なめ太郎は呵々大笑した。その声は耳ではなく、ちょくせつ頭に響き、頭蓋骨の裂け目が開きそうだ。
 新治は頭を手で押さえた、てっぺんから裂けてしまわないよう両手ではさんだ。
 そのうちに耐えきれなくなり、新治は家に駆けこんだ。佳代子と紗英もつづいた。利菜が遅れたのは彼女がビニールボールをまだ持っていたからで、なめ太郎はボールに誓ってと言ったから、こんなものを持っているのは決定的にまずいな、と思ったのだった。彼女はボールを捨てた。達郎と寛太が、両脇から利菜の腕を引っぱった。
 寛太が振り向くと、なめ太郎は稲木の上でとんぼ返りをうった。ぼわっという音がして、彼の体は空中に吸いこまれた。闇に飲まれたみたいだと、寛太は思った。


そして――二〇二〇年

        二十

「佳代子! 佳代子!」
 誰かが肩を叩いている。
 薄目を開けた。ぼやけた視界の中に誰かがいる。心配げな顔で唾を飛ばして、手を振り上げている。
「寛太……」
 彼女が頭を持ち上げると、そこは暗い土間で、二十五年前のあのときの風景が、あざやかによみがえり重なり合う。階段の下で、ほうきをかまえ、仁王立ちした達郎、踏み段の上で、外を見つめる利菜たち――だけど、今は昼間で、表からは明るい日差しが、幾筋にも混じり合いながら、土間へと降りかかっている。あれは遠い昔の話、今へとつづく昔の話だ。
 倒れていた間、佳代子はあの夜の情景を、映画の早回しのように思い出した。あの後、彼女たちが、泣きながら腕についた血をぬぐい落としたこと、朝になると川に行き、服とビニールボールを捨てたこと。服は石に引っかかりながらも、せせらぎをきらきらと流れていった。その後、自転車に戻ると、かごに両神山でなくした新治の靴と寛太の帽子が入っていたこと。
 佳代子はそうした記憶を思い出していただけでなく、現在の寛太と達郎、二人の精神ともシンクロしていて、その会話を聞いていた。だから、寛太たちが三人だけで山に戻ろうとしていることや、それに、利菜と紗英、二人の友達がいま東京にいて、ともに神保町に戻ろうとしていることも、それとなく知ることができた。
 それは、おまもさりさまや、わるいものが見せたのではないのだと彼女は思った。あいつなら、みんながバラバラになることを望むはずだ。だけど、そうさせなかったのは、別の力の働きなのではないのか。彼女たちはあの現象を、わるいもの、と単純に呼んだ。だけど、世の中は悪いことばかりではないし、いいことや、いい人や、いいものだってたくさんある。子供のころ、彼女たちはそうしたことを信じて、わるいものと対決した。
 彼女はそんなことを感じて、涙を流す。なぜだか泣けて仕方がなかった。寛太が心配して、佳代子の頭を膝へと乗せる。
 彼女は瞼を開く。
「寛太……」
 佳代子は身を起こす。冷たい土間に倒れていた間に、三七才の肌には細かな石がくいこみ、血管のようなあとが幾筋もつき、赤く腫れている。さきほど見たものを思い出し、天井の梁をかえりみるが、そこにかかった首つり死体はなくなっていた。
「佳代子、なんでこんなところに倒れてるんだ?」
「寛太、両神山にいったらだめ。あんたたちだけで行ったら」
 佳代子は旦那の腕をつかむ。寛太は驚いた顔で彼女を見下ろす。
「なんで知ってるんだ?」
「聞いてなくてもわかるのよっ。あの夏にあたしたちが無事だったのは、みんなでいたからよっ。あたしたちみんなでいたから助かった。一人っきりにはならなかったもん。一人でいたときだって、あたしたちは一緒だったのかもしれない。そう思うのよっ。ばらばらになったら、あいつはあたしたちを簡単に殺す。だから……」
 寛太はなすすべもなく、佳代子の頭をなでる。
「落ち着いてくれよ……」
 佳代子はひどいしくじりを起こしたときのように手を額にあてがう。「ああ、利菜っ」
「なんだ、利菜がどうした?」
「もどってきたらだめ……」
「なんだと?」
「あたし、連絡した……あの子に。手紙を書いたのよ」
「なにっ?」
「電話でも話したわ。あの子の身にも起こってる……」
 寛太は、無言で佳代子を見つめる。
「あのときの仲間みんなに。町を離れても関係ないのよ。あいつは時も場所も選ばない。どんなに離れても関係なんてないのかもしれない……」と彼女は言う。「だから、あんたたちだけで行ったらだめよ。あいつは人を操るなんて簡単なんだ。あのときだって、じいちゃんはいなかった。待っても戻ってこなかったのよ」
 佳代子は川に服を捨てたあの日、寛太郎が戻ってこなくて、そして、みんながそれぞれの親に電話をかけたことを思い出す。夜になって、なめ太郎の訪問を受けるのはもうごめんだった。
 紗英の母親は、ふしぎなことに両神山行きを反対しなかった、達郎たちの親も。息子が怪我をしたのに? 佳代子の母親はそもそもいなかった。利菜の父親が車を出すと言った。
 電話を切った後、利菜が泣いたこと、みんなが抱き合って輪になったことを、佳代子は思い出す。あの夏、若い彼女たちは強く、そして一つだった。
 寛太が涙にくれる妻を見下ろし、こう訊いた。「なんのことだ?」
「おぼえてないの? あんたの部屋は血まみれだった……。あのとき、神社に埋めた服が戻ってきて、そこら中に血が飛び散ってた。あたしがあの子の腕をぬぐってやった。利菜の……」
「なにをいってるんだ……」
 寛太は放心したように座りこんだが、佳代子はすべてを思いだしていた。あの夜、みんなは泣きながら腕についた血を洗い流した。洗面台に血と水が、混じり合いながら流れていった。一同は服を着替えて朝を待った。だが、朝がきて長い昼が過ぎ、夜になっても寛太郎はもどってこず、連絡もなかった。
「あたしたち、それで親に連絡したのよ……。じいちゃん抜きで山に戻ることに決めたの。だって夜になったら、またあいつが……」
「なんだよ、あれ……」
 寛太がつぶやいた。
 佳代子は寛太の顔を見上げる。その視線の先を追う。その先には古ぼけて虫食いだらけになった靴と帽子が、釘で壁に打ち付けられている。ぶっとく長い鉄釘が、根元まで。なんだか悪意のある打ち込み方だ。寛太は立ち上がると、さきほどのことばをくり返した。「なんだよ、あれは……」
「あんたのよ」佳代子が言うと、寛太は振り向く。「その帽子はあんたのよ。両神山でなくしたやつ……あのときも戻ってきたじゃない」
 寛太は目をみはった。
「あたしたち服もボールも、川に捨てに行ったのよ。神社にはもう戻る気にならなかったから。川に流してから、家に帰ろうとしたら、自転車のかごに、靴と帽子があったわ」
 寛太は靴と帽子に手を触れる。「新治のか?」
「思い出せないの……?」
「いや覚えてる。あいつは山で靴をなくしたんだ。なめ太郎にとられた。おれの帽子もだ」と彼は言った。「もう片方の靴は川に流した。なのに、あの日、自転車に戻ったら、両方ともかごの中に入ってたんだ。俺の帽子は血で汚れてた」
 新治の靴も茶色い染みがある。靴も帽子も茶色に変色してしまっている。新治の右足の靴は紐が切れている。子供用の二十センチの小さな靴。
 どちらも二十五年の旅を耐え――こうして、ぼろぼろになりながらも、戻ってきたわけだ。
「あたしたちは助かった。何人も行方不明になり、何人も死んでるのに。友達がいたから……そうじゃないの?」
 寛太は帽子を持ったまま、立ちつくす。「だけど、どうすればいい。利菜は戻ってくるのか?」
 佳代子はうなずいた。
「紗英には? 連絡をとったのか?」
「とれてない……。でも戻ってくる気でいるのはわかってる」
 と確信を持って言った。彼らの結束も、記憶の蘇りとともに強くなっている。気絶をしているあいだ、寛太や達郎をすごく近くに感じた。いま、寛太は利菜が戻ってくると聞いてとまどっている。寛太が男だけで山へ行こうとしたこと、自分を説得しようと考えたことを彼女は知っている。そして、彼女は、これまでにないほど強く、寛太を愛していることを知っている。わからないのは最善の方法だけ。
 あのときと変わらないことがもう一つ。彼女は今も迷っている。自分の行動を。決断を。いつだってそうなのではないか? はっきりとわかる未来など、何一つないのだから。
 佳代子は顔を伏せ、泣き始める。
「寛太、あたしどうすればよかったの? 利菜に連絡を取らない方がよかったの? でも、あたしだって苦しくて、あの子の助けが必要だった。あの子が心配だった……」
 そのとき寛太は名状しがたい表情をし、そして佳代子を抱き寄せた。
「なにもまちがってなんかない。おまえの言うとおり、おまえが利菜のことをわかってるんなら、利菜だって、おまえが危険にさらされてることをわかって、遅かれ早かれ戻ってきたかもしれない。紗英はどうだ? あいつには連絡すらとってない。日本にだってほとんどいないのに、おまえは紗英がここにくるのを知ってるんだろ?」
「ええ、ええっ。隣にいるみたいに感じるわっ」
「それならもういい。もう泣くなっ」
 と寛太は言って、佳代子をさらに強く抱き寄せた。達郎に一緒に戻ると約束したあのときですら、こうなることをわかっていたような気がする――自分たちがまたふたたびそろい、あの山に戻ることを。わるいものに、立ち向かうことを。
 だが、彼らは恐ろしかった。あのころと同じように、自分たちがしだいに追いつめられていくのを知っていて、たとえ結束を強めようとも、子供のようになにかを信じることはできなくなっている。肉体は成長したのに、精神はしぼんで、自分を信じ、誰かを信じる強い心がもはやない。
 彼らに与えられた希望があるとするならばたった一つ、あのとき生き延びたという事実のみだった。自分を信じる強い心がなければだめなのに、二十五年で身につけた知識も分別も、互いをつなぐ信頼という名のパイプをつまらせる塵芥にすぎないことを、六人がそれぞれに感じていたからである。
 だけど、戻るしかないんだ。と寛太は上をみあげて思う。苦しいときこそ下を向くな、これも寛太郎から教わったことだ。寛太は子どもたちのためにも、仲間のためにも山に戻るしかないことを知っている。二十五年前にそうしたように。
 結局、彼らはあのときと同じでそうするしかないからそうするのであり、確固たる信念がないときに、行動や決断に対する不安を感じるのは当然のことだった。
 彼らはずっと子供のころから、怖がっているだけではだめだということを知っている。決意したらとことんやりぬくことこそ、あのとき学んで忘れなかったことの一つなのだ。
 だから、寛太は恐怖を感じながらもこう信じている。人は人といるからこそ強くもなれる。
 信念こそがすべてを可能にするのであり、わるいものを克服するのは、たった一つ、信じる力のみなのだから。
 
 
 
第三部 最初の七日間

 章前 二〇二〇年 ――東京

        一

 結局41便は、予定より早く東京に着いた。到着予定時刻より、二時間も早い着陸だった。
 受け入れ側の管制塔も混乱がつづいた。機長のラルフと副長のエングルは、事情の説明に大わらわだった。乗客たちがみたという奇怪な現象、フライトレコーダに残った動かぬ事実。お偉方は答えを知りたがったが、その答えを誰に求めればいいのかもわからぬ始末だ。
 だが、結局は、誰もが納得するしかなかったのだ。科学的な説明をつけようというほうが土台無理な話。このことは、誰もが心の片隅に止めながらも、忘れていくしかない。やがては、航空世界の七不思議として、語り継がれるだけになる。
 語られるだけましというものだ。単に忘れ去られる話よりは。
 三日の査問会が終わると、紗英はすぐさま半年間の休暇を申し出た。今度は、ナンシーもとめなかった。紗英が申し出たのは、退職ではなかったし、彼女に休職が必要なのは、仲間の誰もが認めるところだ。同僚との亀裂も、紗英は辞さなかった。神保町に戻るつもりだった。果たすべき役目があるのなら、それを完遂するまでだ。
 空港近辺のホテルをとり、高村利菜に連絡をとった。
 電話のあと、タバコを片手に、ベッドに腰掛け、それから、おかしなことに気がついた。紗英が、半年間の休暇をとったことについて、利菜は驚きもしなかった。むしろ、当たり前のような口の利き方をしたのだ。
 紗英は、服を着替え、髪をといた。待ち合わせのカフェは、そう遠くないところにある。約束の時間には、まだ早い。だが、じっとしてはいられなかった。
 ふと手を止めて、別れ際のナンシーの、不安げな表情を思い出す。きっと、自分は、そんなナンシーよりも、ずっと不安げだったのだろう。
 エングルの、別れることをほっとしたような、よそよそしい態度。つかれきった、利菜の声。
 電話では何も訊かなかった。神保町のことも、山のことも。近況すらも。紗英はタバコに火をつける。あの光の渦を通り抜けるときに感じた、超自然的な力はもはや消えていた。
 脳細胞が、隅ずみまで開ききったような感覚を思うと、不安でしかたない。自分でない何かが、体にはいりこんだような感覚。それが麻薬以上の快感だったら、しまつにおえない。きっと、自分を抑えるなんてできなくなる (この一年間、彼女がとりくんできたのは、まさしく、自己統御の訓練だったのだが) 。
「利菜のやつ……」
 組んだ手の中で、タバコの火が少しずつ位置を変えていく。吸えば吸うほど短くなるタバコと同じで、こんな状態が続いたら、自分が磨り減ってしまうにちがいない、と紗英は思った。恐ろしいのは、これから会おうとしている旧友が、磨り減っているように感じられたことだ。
 紗英はあの渦を抜ける瞬間、その昔に起こった出来事を、ほとんど思い出しかけた。出来損ないの脳みそは、気絶している間にほとんど忘れてしまったけれど。
 それでも記憶力だけはすぐれたほうだ。
 幻覚や夢遊病といった症状が、きっと利菜にも起こっていたんだろうな、と彼女は思い、そんな話をどう切り出したらいいのかで、また頭を悩ますのだった。

        二

 紗英が指定したのは、キャラバンという名のオープンカフェだった。いい具合の日差しで、風も気持ちが良い。十時を半分ばかり過ぎたころあいで、客の入りもよかった。
 先に着いたようだ。
 店内に入った。窓際の、通りがみえる席に案内された。
 コーヒーを二つ注文した。携帯に着信があった。席を指示するうちに、利菜の姿が入り口に見える。手を振った。利菜が振りかえしてくる。その明るい表情に、紗英はほっとする。
 中学以降も、親友との連絡は、途絶したことがなかった。日本に帰省して、利菜や佳代子に会うのが楽しみだった。母親に会うよりも、この二人の顔を見るほうが、安心したものだ。ホームグラウンドに戻ったような、そんな感じ。
 フライトアテンダントになって、世界中を飛び回るようになったあとも、東京に戻るたびになにかにつけて連絡をとり、利菜に会うのがつねとなっていた。互いに社会人となり、昔のことなど多忙な毎日に埋没していたのに、いまだに親密な関係が続いていたのは不思議なことだ。だけど、ここ一年ばかり。利菜とも神保町の旧友とも、連絡を取っていなかったのだ。紗英はそのことに気づき、身震いをした。
 紗英は、親密な関係がつづいたのはとうぜんだ、と考える。子供時代にあんなことがあったのなら(たとえ記憶が欠落していたとはいえ)、しぜんなことではないのか?
 なのにこの一年ばかりは、意識的にしろ無意識にしろ、旧友のことをさけてきた。おまもりさまでともにつかまった面子のことを、忘れていたのだ。
 物思いに沈むうち、利菜が店員と二言三言交わして、席に近づいてきた。
 利菜は座りもせずに、紗英の肩に手を置いた。
「ひさしぶりじゃない、相棒。いつ東京に戻ったのよ」
「まずは席につきなさいよ」と紗英は言った。「コーヒー頼んどいたから。アメリカンでよかったよね」
「なんでもまかすわよ。そこにかんしちゃ、あんたがプロだからね」
 二人は声を殺して笑った。利菜が座った。
「秀雄さんはどうしてる?」
「元気よ」
「純ちゃんは?」
「バスケットはじめて張り切ってるわ」髪をかきあげる。「あの子とも会ってないでしょう?」
「何年生になったっけ?」
 少し間が空き、「五年生」
「そう……」
 利菜に会って膨らんだ気持ちが急にしぼんで、紗英はうつむいた。利菜の娘も、あのころの自分たちと、同じ年代になっていたのだ。紗英はすべてが符合しているようで、息苦しかった。
「ジョンとはどうなったの?」
 紗英は鼻で笑った。「もう別れたよ、あんなやつっ。絵ばかり描いて、口ばっかでさっ」
「絵で思い出したけど、わたしも本を出すことになってね」
「ほんと? すごいじゃん?」目を丸くする。
「といっても、もう出版したんだけどね。絵本を一冊。とうぜん言ってないよね」
 利菜の質問につばを飲む。利菜が、この一年連絡すら取っていなかったことに気づいていて、それ以上のことを言おうとしていることに気がついたのだ。
 顔を上げ、表情に不安が混じらないことを祈りながら、利菜の瞳をひたと見つめた。佳代子になにがあったの? 寛ちゃんになにがあったの? あんたたちは何を知ってるの? と訊きたくなったが、その疑問は瞳の中で渦巻くばかりで、一言も口にすることはなかった。本当は、すでに事が始まっていることを知っていたからだし、利菜が口にすることで、その現実と向き合うことが怖かった。
 彼女はまた顔をふせ、ミルクティの揺れを見つめるふりをした。
「どんな本?」
 と訊く。利菜が顔を上げたので、
「いやいい。内容は言わなくていい」と取り消した。
「なにが書いてあるか知ってるの?」
「知るわけないじゃない。楽しみはとっておきたいだけよ」
 だけど、なにが書いてあるかは知っていた。これまでの経過をおもんばかるに、利菜の絵本があのときの出来事を題材にしていることは、容易に想像できたからだ。
 怖いのは、利菜がそれを書いたときに、まったく狙っていなかったことだ。きっと彼女だって、おまもりさまのことはすっかり忘れていたはずだから。
 二人はそれから、とりとめのない話で盛り上がった。幼馴染が顔をあわせたら、必ずといって取り組む話題。昔話と、当時の知り合いの近況について、花を咲かせたのだ。利菜は、小学生時代の恩師が、また神保小学校にもどったことを教えてくれた。中学時代にくっついた、吉田と熊谷という先生の間に、三人の子供が生まれた話。初恋の谷村君に、三人目が生まれた話。だけど、どこかしら紗英はひっかかっていた。長い付き合いのせいか、利菜がいろんな話をふせているように感じられた。悪い話は、全部。
 ひとしきり笑ったあと、利菜は椅子にもたれかかって吐息をついた。ガラス越しに通りに目をやった。
 紗英はそんな利菜を見つめている。二人は本題に入る覚悟を決めたようだ。
「そろそろ帰ってくるころだと思ってたよ」と利菜は言った。
「わたしのシフト表でももってんの?」
 利菜は笑わなかった。真顔で紗英のことを見返した。「そんな気がしただけ」
 利菜は話した。神保町でまた殺人事件が起こっていること、行方不明がおきていること、クラスメイトの子供が殺されたこと。
「松本君の息子さんだったの? 良治君?」
 利菜はうなずいた。
「うそでしょう。犯人は捕まってないの?」
「つかまってない。警察は連続殺人の犠牲者じゃないかっていってる。遺体の一部を切り取られてたんだって。佳代子が教えてくれた」
「佳代子とは連絡を取ってたの?」
 利菜は首をふって否定した。「ここ一年は、ぜんぜん」
 紗英はまたティーカップに目を落とした。ふと二人が、カップをなでまわしたり見つめたりするばかりで、中身をひとつも口にしていないことに気がついた。
 利菜の顔からは、笑みが消えていた。固い表情だった。
「子供たちが殺されてる。寛太や達さんの知り合いの子供よ。私たちの知り合いの子どももいる」
「待ってよ。わたしは最近まで、五年生のときのことを覚えてなかったのよ。あんたはどうなの?」
 ややあって、「おんなじ。五月に佳代子が手紙をよこすまで、あの山のことは少しも思い出すことがなかった。でも、夢や幻覚ではずっと暗示してたのね」
「幻覚を見てたの?」
「おかしい?」
「おかしがってるように見える?」
「真剣なふうに見えるね。あんたも見てたの?」
 利菜は取調官のような冷静な目で、紗英のことを観察している。相手の話を、じっくりと訊くときに見せる、冷徹な表情。
「見てた。溺死女をなんども」
「あたしも見たよ」
「不眠症にもかかった?」
「かかった。夢遊病にもかかった」
「帰りの飛行機でさ……」
 と紗英は言いかけて、ふと口をつぐんだ。41便には仕事で乗りこんだのに、紗英は今、帰りの飛行機と口にした。別に、日本に帰省する予定ではなかったというのにだ。
「飛行機でなにがあったの?」
「おったまげるようなことよ」
 紗英は笑おうとしたが、唇が震えて中途半端に終わり、きゅっと唇を引き締めた。
 話した。飛行機の中で、溺死女が現れたこと、コクピットで見た光、その中を通り抜け、結果的にロンドン東京間のフライトを二時間ばかり短縮したこと。それは空間を飛び越えたことにほかならない。集団での瞬間移動と言えなくもないが、そんな話は査問会では一度も口にしなかったし、仲間と再度話し合うこともなかった。
 そのとき利菜のみせた行動は意外で、それでいて利菜だからこそ納得のいくものだった。彼女は、さも納得したようにうなずいたのである。
「佳代子はね、またおさそいが始まってるんじゃないかって言ってる。それも、子供のときよりずっとひどいことが起こってるって。わたしはあのときのことを全部思い出したわけじゃないけど、でも、もう一度……なんていうのかなあ」
 と言葉に詰まった。利菜には珍しいことだった。
「召集がかかってるってこと?」
「誰から?」と利菜は問い返す。
「わかんないよ。でも、あんたはおさそいって言った」
「子供のころはそう言ってた……」
「わるいものって? 昔はあいつらのこと、そう呼んでたよね」
「幻覚のことを?」
 紗英はうなずく。利菜は、
「でも、あれは幻覚以上のものだったよ。あれがなんだったのかは思い出せないけど、幻覚は人を殺したりしないし、佳代子をひっぱたいたりしないんじゃないかな……」
「みんなはどうしてるのよ?」
「まだ町にいる」
 利菜は知っている経緯を、ひとつずつ話し始めた。佳代子たちが山に戻ったこと、自分に手紙をくれたこと。佳代子との電話のこと。
「もうひとつ困ったことがあってね」
 と利菜は笑った。不思議な、笑いたくもないのにそうしているような、不思議な笑みだった。
「うちの両親と連絡が取れないのよ。あのときも母さんがいなくなったはずだけど、とにかく電話をしても通じないの」
「携帯は?」
「だめだった」
 紗英は息を呑んだ。思い出したのだ。
「またあの家に?」
「どうかな……」利菜は眉根を寄せる。「坪井って人が死んで、あの宗教はなくなったはずだよね。かあさんも、足をあらったはずだし。でもね……」
 利菜は口をつぐんだ、訴えるような目で見つめてくる。
「わたしは両親とも連絡をとってなかったのよ。一年ばかりの間、神保町のことはいっさい考えてこなかった。無意識のうちになんだろうけど、わたしは逃げてたんだと思う」と彼女は言った。「でも、ここまできたら、そうも言ってらんないよ。あんたはどう思うの?」
 紗英は指を組み合わせた。「あんなことがあったのに、みんな忘れてのほほんと生きてさ、つけがまわってきたって感じよね」
「忘れたのはあんたのせいじゃないよ」
「ともかく……わたしはなんだかわかんないけど――」
 と胸に手を当てる。41便で感じた力のことを思う。あの女が発していた力のことも。
「自分に働きかけてくる何かがあるのを知ってる。わたしだってこの一年、わけのわからないまま生きてきたけど」
 仲間や周りの人間に、さんざん迷惑をかけたけど。
 紗英は、男性ほどもある上背を精一杯伸ばした。
「それが私の人生なら、むきあうしかない」
「よく言った」
 と利菜が微笑んだ。
 とはいえ、石川紗英といえば、高村利菜が、上原利菜のままで、そのことに感謝したいような心持ちだった。
 紗英はともにすごした中学時代を思い、そのときかわした友情も、その後に自立した人生を歩めたことも、全部小学五年生のあの夏に起因していたのだと感じたのだ。
 利菜は、セカンドバッグを手にして立ち上がった。
「午後の便で千葉に戻ろう。両親のことも確かめときたいし、こっちにいても、なにもはじまんないからね」
「どんなことになるかわかる?」
 利菜は首を左右に振った。
「わかんないけど……向こうに戻ったら、思い出すこともきっとあるよ」
「出かけることは言ってあるの?」
「旦那にも娘にも言ってある。何日になるかわかんないけど、向こうに戻るって」
 紗英は、利菜を追って立ち上がる。
「秀雄さんはなんて言ってた」
「秀ちゃんには、町の様子は言ってないから。娘もいっしょに連れてけなんて、言ってたけどね」
「殺人事件のことは知らないの?」
「知らない。話してないから」利菜は会計をすますために財布をいじくりだした。
「それっておかしいんじゃない。出版社につとめてるんでしょ? あんたの故郷で連続殺人が起こってるんなら、耳にも入ってるんじゃないの?」
 テレビにも映っているはずだし。
「知ってるだろうけど……」利菜が振り向く。「連続殺人の起こった神保町と、わたしの故郷がおんなじ町だとは思ってないのよ。わかる?」
「そんな……」
「つまりこういうことよ」紗英の肩を叩く。「あんたのいう力が働いてんのは、わたしたちだけじゃないってこと。秀ちゃんやみんなに働いてる」
「うれしそうね」
 利菜は肩をすくめて、「公平ってことでしょ? それならわたし、納得できる」
 紗英は不服そうに唇をかんで眉をひそめたが、心中では利菜の意見に納得していた。彼女だってこんな事態にまきこまれるのが自分たちだけだとは、考えたくなかったからである。


第七章 バスツアー

        三

 一九九五年 八月十九日――土曜日

 血を洗い流し、服を着替えた。
 なめ太郎はいなくなったが、混乱は去っていなかった。紗英は、ふすまを開け仁王立ちする溺死女を何度もみたし、ほかの面子もご同様だった。達郎は、布団の上に一同を集め、固まりあって座るようにした。パニックを、なんとか抑えようとしたのだ。
 風がごおごおと吹き、ガタピシと、雨戸が揺れている。このままじゃあ、家が壊れるんじゃないかとみんなは思った。屋根の上を何かが走り、軒下からは部屋をおとなう物音がし、隣室には誰かの息遣いがあった。
 利菜はこんなことが続いたら、ぜったいに気が狂うと思った。坪井の家では、杉浦佳代子をわるいものから守った彼女も、ここでは気持ちが切れかけていた。寛太郎がいない。心理的な防波堤が、なくなった感じだ。大津波がみんなの心を押し流している。なんでも言うことをきくから、勘弁してほしいと考えていた。
 長い夜が明け、雨戸のかすかな隙間から光が落ちた。ばあちゃんとおばさんが起きて、みんなは仕方なくご飯を食べた。二人の大人は、子供たちの不可解な様子にも、まったく注意を払わなかった。六人ともが、出された食事の十分の一も食べなかった。ご飯を口に運ぶ箸は震え、爪の隙間に入りこんだ血の痕を見ては、吐き気をもよおす有様だ。おかずの味が、まったくしない。
 食事が終わると、彼らはまっすぐに、岩野辺川まで行った。その川は、寛太の家から歩いて二三分のところにあり、自転車なら一分とかからない。川辺の草は、朝露にぬれていた。この日は雲もなく、岸辺もじきに干上がってしまうことだろう。
 岩だらけの土手からは、岩野辺橋の高い欄干が見えた。
 血まみれの服を、川に流した。
 やっぱり山に戻るしかないの? 佳代子が訊いた。達郎は無言だった。だけど、家に戻ろうと向かった自転車のかごを見て、新治が悲鳴を上げはじめた。ホラー映画の子供みたいな、理想的な悲鳴の上げ方だった。彼は口をОの字にあけ、絶叫しはじめたのだ。「ぼくんのだ、ぼくんのだ、ぼくんのだ!」
 すぐさま達郎が抱きつくことで、その口をふさいだ。だけどみんなは見た。新治の自転車の荷台には、おまもりさまでなくした靴が、手際よくつっこまれていた。正確には、靴の片方は金熊川に流したのだが。両方とも戻ってきていた。
「無駄なんだっ」と新治は言った。「川に流しても無駄なんだっ。こいつらはみんな戻ってくるっ。なにをしてもむだだっ」
「そんなこというなっ。そんなことないっ。そんなこと思ってもいけないっ」
 達郎が言った。
「でも見ろよ」
 寛太は自分の自転車から、なめ太郎にとられたはずの帽子をとりあげる。案の定だ、と利菜は思う。彼の帽子が、血に濡れていたからだ。
「あんたのせいよ、あんたがおまもりさまに行きたいなんていうからよっ」
 佳代子が寛太を責めはじめた。寛太は口の中でもごもご言ったが、その言葉は誰にも聞きとれなかった。
 達郎が佳代子を止めた。「やめろよ。寛太が林に行こうって言ったとき、おれたちは誰も賛成しなかった。そのときは行かなかった。気がついたら[#「気がついたら」に傍点]、いつのまにか林の前に立ってたんだっ。そうだろ?」
「そうなんだよ……」
 利菜がぽつりと言った。その確信をこめた口調に、みんなは彼女をかえりみた。利菜はしゃくりあげている。パニックの渦に、飲まれようとしていた。
「い、いつのまにか草原に行ったみたいにさ、いつのまにかそこに行ってるかもしれないっ。そこってどこかわかんないけど、でもおっかないとこなのに決まってる。あたしどんな目にあうか、わかるっ。英二君や、秀幸君みたいな目にあうんだよ! 人殺しがいて、そいつに殺されるんだよ!」
 利菜は絶叫した。紗英が手をかけようとしたが、その手を振り払った。彼女はみんなから離れて背中を向けた。
 達郎は自分たちの結束が、今ここで崩れるんじゃないかと思った。だけど、利菜は必死の努力で涙をひっこめ、振り向いた。
「どのみち行くんなら、あたしたち自分の意思で行くべきだよ。だってあのときのみんな、ほんとにおかしかったもん」
 おまもりさまへの訪問を思い出す。友達に、腕をつかまれたときのこと。
「今まで黙ってたけど、あたしのことおまもりさまにおしやろうとした。みんな、あんときあやつられてた。行くんなら、ちゃんとしてるときに行きたい……いつのまにかそこにいるなんていやだ、誰かに操られるのもいや」
 利菜の告白は衝撃だった。自分たちまで操られるという考えは、頭になかった。
「そんなことがあったの?」
 佳代子が訊いた。利菜はうなずいた。
「何で言わないのよ?」
 佳代子のなじるような口調に、利菜はきっと目を上げた。
「あんたなら言える? 達郎ちゃんが言ったみたいにさ、友達が……」とみんなのことを指しまわす。「みんながいたからわるいものにとっつかまんなかったとして、その友達が自分のことうらぎったみたいなふうなこと、佳代子ならいえる?」
 利菜は目を閉じた。まぶたの端から涙がこぼれた。彼女は鼻水をこぼして泣いた。
「あんな目にあうの、もういやだ……」
 胸元から搾り出すような告白があり、佳代子と紗英が駆け寄った。みんなも。彼らは抱き合って、一塊になった。
 達郎はみんなを抱きかかえるように、腕を広げて言う。
「みんな、じいちゃんが帰ってくるのを待とう。明日はあの山に行くんだ。あの山に何かがあるんなら、決着をつけるしかない」
「なめ太郎が来いっていったのに?」紗英はしゃくりあげて泣いている。「ワナかもしんないじゃん」
「今だって十分危険だよ。それに、じいちゃんならなんとかしてくれる」
 だけど、寛太郎はその夜も帰ってこなかった。彼らは寛太郎の身にも、何かが起こったのではないかと心配をした。
 両神山には、行く必要がある。肝腎なのは、どう決意を固めるかだ。早く決めないと、またなめ太郎がやってくる。あんなやつにもういっぺん出くわすなんて、誰でもいやだった。
 彼らは山に行くにあたって、十字架やおふだなど、集められるものはみんな用意した。懐中電灯も。ろうそくも。食料も。必要とあらば、お堂の位牌だってむりやり引っぺがして持ってきた。ロープもラジオもコンパスもバットも、みんな寛太のリュックにつめこんだ。足りないのは寛太郎だけだ。その意味では、決意は固まっていなかったが、用意だけは、万端整っていたといえる。
 彼らはそれぞれの親に電話をすることにした。みんなでいれば、大丈夫なのではないかという甘い期待と、誰でもいいから反対意見を言ってくれ、という気持ちとでせめぎあっていた。
 利菜の父親が、車を出そうと言い出した。佳代子の母はおらず(当然だが)、紗英の母親も、達郎たちの両親も、両神山行きを反対しなかった。瀬田英二がいなくなって、まだ見つかっていないというのにだ。
 子供たちはこれまでは話の中だけの存在だったおまもりさまが、現実として迫ってくるのを感じた。両神山に行くというのがどういうことなのか、もういちど真剣に考えようとしたのだが、頭の中がぐるぐる回って、考えはひとつもまとまらない。
 利菜が電話をかけたとき、父の俊郎は待ち構えていたように電話をとった。呼び出し音はいちどもならなかった。父さんは、もしもし、上原です、とも、どちらさまでしょうか、とも言わなかった。決まったか、といきなり訊いた。うん、と利菜は答えた。その時点で、胸が震えて、うまく答えることはできなかったのだが。
 父さんは、明日の朝迎えに行くから、みんなで用意して待ってなさい、と言った。母親のことをまったく話題にしないのと同様、利菜が今どこにいるのか、どこに行くつもりなのかは、訊きもしなかった。訊かなくても、知っているようだった。
 利菜は受話器を置き、父さんが車を出してくれるって、とみんなに言った。平静を装おうと必死だった。みんなの方は、一目とも見られなかった。自分の父さんがモンスターみたいになっている、自分が今朝言ったみたいに、あやつられたみたいになっている。そんなことがいえるだろうか? 不信をまねくようなことを?
 彼女は言えないと思った。そいつはむりだ。

        四

 後年利菜が思うのは、あの朝みんなが一睡もできずに、早くから起き出し迎えを待っている間、ここにやってくるのは利菜の親などではなく、わるいものそのものだと気づいてたんだ、ということだ。
 達郎たちは雨戸もガラス戸も開け放ち、廊下をぶらぶらしながら、畑の向こうにある道路の様子を気にしていた。寛太はパンパンになったリュックをかかえこんでいた。
 午前六時で、台所では、ばあちゃんがみんなのために弁当をつくっていた。女の子たちは、ばあちゃんのことを手伝っていた。なんだか落ち着かない気分だった。
 県道に父親のイプサムがとまったとき、みんなはいっせいにその方を見た。と同時に、車のホーンが一度だけ鳴った。一同はびくりと身を縮ませた。
「来たな……」
 と達郎は言った。確認の口調というよりは、呆然とした声音だった。このときにいたるまで、彼らの誰もが、引き返す方法を探していた。だけど、その手段がなかったのだ。たとえ、いま行かなくても、別の場所で別の機会に、一人ずつ連れ去られるかもしれない。そのときの結果は、考えたくもない。
 達郎は口に出しては言わなかったし、言葉にして考えていたわけでもないが、自分たちの信頼が崩れないうちに行くべきだ、と感じていた。似たような感じは、みんなが持っていた。わるいものは心に働きかけてくる。だったら、みんなをばらばらにするなんて、簡単じゃないのか?
 達郎は立ち上がって、そこからみんなの顔を眺めおろした。ひどく遠くにいるみたいに見えた。一つ年下の子たち――なんてこった、みんな幽霊みたいじゃないか。
「用意はできたか?」
 と達郎は一息に言った。みんなとの距離が、元に戻った。利菜は車を眺めているうちに、イプサムの車体に引きこまれるような、引きずりこまれるような感覚を受けた。紗英も、佳代子も、新治も、寛太もおなじだった。
 寛太はこう思った、これはおれが考えてるみたいな、モンスターをやっつけるヒーローものの冒険なんかじゃないんだと(彼はこれまでの経験から、両神山行きのことをそんなふうに思っていた。だけど、このとき、自分の思い通りになんていかないことを知った――あの白い車体は凶悪だ。とっても)。
 寛太は行くのをやめようと、なんど達郎に申し出ようと思ったかしれない。だけど、行かなかった場合に起こることを思うと(それ以上に、自分たちの信頼にはいる亀裂を思うと)、とても口には出せなかった。これまでの人生で、まったく見せることのなかった分別でもって、みんなのあとに黙ってしたがった。
 達郎が寛太のリュックを背負った。ばあちゃんの弁当は、利菜がリュックにいれて持った。自分からすすんでその役を買ったのだが、それはばあちゃんの用意した弁当が、自分たちの用意したおまもりのように見えたから、という、それだけの理由だ。
 紗英は、家を出る間際に、ばあちゃんのまるまるした腰に抱きついて(この子の背が急激に伸びるのは、この一年後のことだ)、みんなをどぎまぎさせた。なめ太郎には、誰にも言うなといわれていたからだ。
 達郎は言った。
「い、いこう」
 利菜は父さんが車のホーンを鳴らしたまま、一度も降りてこないことに気がついた。いつもはちゃんと挨拶するのに。ひざの悪いばあちゃんは、玄関の踏み台に脚を下ろして、申し訳なさそうに表を覗いている。
 利菜は畑の私道から、家を見ようと振り向いた。みんなもそうした。あの家がわるいものからみんなを守ってくれるお堂みたいなもんで、自分たちは外に出ちゃったんだ、という考えが浮かんだ。頭を振って、その考えを追い払った。
「行くよ」
 みんなの先頭きって父親のところへ近づいた。わるいものに会うのに、弱気で行くのは最悪だ。だけど、ガラス越しに父親の様子を見たとき、利菜の強気の仮面はガラガラと音をたてて崩れた。
 父親は少しもこっちを見ずに、じっと前方を凝視してる。
「母さん……」
 となりにきた佳代子が、息を飲んだ。助手席には登美子が座っていた。意外だった。父さんとおばさんは、ちっとも仲がよくないのに。二人は子供たちの前では仲のわるい様子はみせなかったけど、利菜と佳代子は子供の直感で、二人の不仲に気づいていた。
 寛太は登美子が苦手だった。
「おばさん来るなんて言ってなかったじゃんかよ」
「知らないよ。あたしだって聞いてなかったんだから」
 と佳代子が口を尖らせる。
「の、乗ろうよ」
 新治が言った。彼は紗英と手をつないでいる(この二人が親しげにするのは珍しかった。どちらも恥ずかしがり屋だったのだ)。まるで決心が鈍らないうちに、嫌なことはさっさと済まそうと言いたいみたいだ。
 達郎が後部座席のドアを引き開けた。そこに何も乗っていなかったので、ほっとする。でも、車の中にはいやな空気が漂っていた。臭い、とかではなくて、重苦しい雰囲気が。
 達郎にはそれが濃厚に感じられたので、振り向いて年下のこどもたちの様子をみまもった。五人は中の空気のことには気づいていない。怪訝そうに達郎を見ている。
 意を決して、車内にのりこんだ。
「今日は、よろしくおねがいします」
 達郎は頭を下げ、運転席の真後ろに座った。隣は新治、その隣には補助席をおろして寛太。女の子たちは後ろに座った。みんなは窮屈そうに身を縮めている。必要以上にそうしていた。達郎の感じたいやな雰囲気を、感じとったのかもしれない。
 二人は、その間も無言のままだった。やがて、俊郎がゆっくりとギヤをドライブにいれ、イプサムを発進させた。
 こうして、恐怖のバスツアーは、始まったのである。

        五

 最初のうち、利菜と佳代子は、父親と母親の気を引く努力を怠らなかった。信子はどうしたの? と佳代子は訊いた。登美子は答えなかった。父さん仕事は? と利菜も訊いた。俊郎は答えなかった。みんなは顔を見合わせた。
 利菜と佳代子は意を決し、思いつく話題を並べ立てたが、二人は乗ってこなかった。
「だめだ、あの二人戻ってこないよ」
 利菜が言った。佳代子は、
「二人とも、まばたきもしてないように見えるよ」
 とうらめしげにつぶやいた。紗英はその二人にはさまれて小さくなっている。
 もういいよ。達郎が言った。こうなることを予想していたような口ぶりだった。
 神保町を抜ける直前、道路脇の畑に十人ほどの子供が集まっていた。神保小の子らしく、見覚えのある制服を着ている。そのうちの一人が、
「あれ秀幸君だよっ」
 利菜が言った。達郎たちは、押し合うようにして窓際に行った。車は時速六十キロで走っていた。その子供たちはすでに後方になりつつあったし、固まって立っているから、斉藤秀幸のことは、よく見えなかった。本当のところは、誰も見たくなかったのかもしれない。だけど、それとおぼしき人影はあった。帽子を深くかぶり、うつむきかげんに立っている、小さな子。
「ほんとに秀幸だったか?」
 達郎が訊いた。利菜は言葉につまった。彼女はよくわかんないと言おうとしたのだが、そういうかわりにうなずいた。斉藤秀幸は、最初に殺された子供だ。死んだ子供のうちでは、もっとも有名になっていたかもしれない。死んだのは一学期の途中で、学校中、その話で持ちきりだったからだ。
 二学期になったら、と利菜は考える。わたしたちもうわさ話の名前にくわわるんだ。
 彼女は震えた。
 紗英が言った。
「秀幸君だけじゃないよ。美由紀って子もいるように見えた(小野田美由紀。さくら幼稚園年長組の女の子だ)。わたし、家が近所だから、知ってるんだよね」
 寛太は目を見開いて、何か言いたそうにしている。英二のことを考えているのは(あの中に、英二がいなかったかと、訊きたがっているのは)、誰の目にも明らかだった。
 新治が、「あいつら仇をとってほしいのかもしれない」
「そんなわけない。あれは、秀幸たちじゃない。幽霊のわけないだろ? 死んだやつらが、あんなところに固まってたりしない」
「あれが生きてる子だったとして、あんなとこで何してたのよ」
 利菜が言った。町外れだし、あの辺りは子供があまりいない地域だ。夏休みなのに、制服を着ているのもおかしかった。
 達郎は振り向き、少し固い目で彼女をにらんだ。
「でもさ……」佳代子が言った。「あれって大勢だったよ。十人以上いたもん。あれが幽霊だったとしたら、もうそんなに殺されたの?」
 誰も答えなかった。達郎はむっつりと前を向いて座った。窓の外に目をやり、もう会話には参加しなかった。彼はリュックをひざの上においていたから、腕の震えを隠すことができた。
 あたごにつづく峠にさしかかったとき、六人は、道の両端に、動物たちが集まっていることに気がついた。みんなは仰天して、車の中を、左から右に行ったり来たりした。鹿や、狸や、狐にねずみ。山にこんなに動物がいたんだと、驚くぐらいに集まっている。
 彼らは道端に整列し、通り過ぎるイプサムを見送っている。
 みんなはつばを飲み、互いの顔を見やった。それぞれの席にすわりこんだ。言うべきことは何もなかった。言葉を封じるぐらい、驚きは深かった。
 登美子は何も言わない。
 新治はポケットに手を突っこんで、十字架を握りしめた。
「父さん、あたごによって」
 と利菜は声を掛けた。俊郎は答えなかった。
「寄ってってば!」
 利菜はヒステリーを起こして絶叫を上げた。みんなが首をすくめるほどの大声だったが、俊郎は彫像みたいに、ぴくりともしない。
 あたごをとおりすぎ、T字路をまわった。
 おまもりさまは、もうすぐだ。

        六

 前席にすわる二人の大人の落ち着きをよそに、子供たちは終始うろたえた様子だった。固唾を呑み、周囲の変化に目を配った。これだけおっかながっているのだから、いつ幻覚がはじまっても、おかしくなかった。
 利菜は自分たちが、ビニールボールを捨てた池に目を凝らした。ひょっとしたら、あのボールは、まだ水面に浮かんでいるんじゃないか? 家でみたボールは、ただの勘違いで(どんな勘違いなのかは知らないが)、まだこの池にあるんじゃないかと思ったのだ。
 イプサムは大きなカーブをまわって、いつもの駐車場に到着した。先客はいなかった。
 獲物はぼくらだけだ、と思い、新治は震えた。しょんべんをちびりそうだ。
 駐車場はあいかわらずのぺんぺん草を生やしている。あのときから、五日しかたっていないとは、信じられない。
 俊郎は入り口に車を止め、エンジンを切った。
 みんなは、まじまじとバックミラーを覗く。俊郎も登美子も、視線を返さない。
「お母さん、あたしたちもう行くよ」
 佳代子が言った。返事はなかった。
 達郎に促されて、寛太がドアをひき開ける。草原の空気は冷えていた。早朝のせいか、光も重く沈んでいるようだ。利菜は曇っているのかと思った。こんなときに雨がふるなんて、最悪だ。あれだけ入念に用意したのに、傘だけは忘れたからだ。
 だけど、空を見上げると雲はまばらで、太陽を隠すほどもない。
「もう七時半だよ」
 紗英がつぶやく。達郎も時計を見た。六人は、空を見上げる。
「太陽がのぼってないんじゃないのか……」
 達郎が呆然と言った。みんなはうろたえてうろつきまわったが、肌を刺す寒気と光量を考えるに、真夏の七時を回っているとは考えられなかった。まだ五時だといわれても、みんな信じこんだろう。
「達郎ちゃん……」
 佳代子が後ろで言った。彼女だけはこの騒ぎにも参加していなかった。
「ねえ、みんな見なよ」
 五人は太陽の行方探しに夢中だったが、佳代子のわななく声にそちらを向いた。
 草原の景色は、いっぺんしていた。ひまわりが、草地のいたるところを、埋め尽くしていたのだ。
 達郎は、ごくりと唾をのみこんだ。いつのまに生えたのよ。佳代子が口のなかでつぶやく。生えたはずがない。あれから五日しかたっていない。ひまわりはめいいっぱい成長して、みんなの背丈よりずっと大きい。その茎は標識のポールみたいにぶっとくなっている。黄色の花弁も、めいいっぱい成長して、今にも種をこぼさんばかりだ。
 ひまわりが、風に吹かれて、いっせいに首を傾けた。
 紗英が身をかがめ、こそこそと車に戻りはじめた。目はぎょとぎょと地面を見やり、あきらかに挙動不審だ。ドアに手をかけた。ノブをめいっぱい引いたが、あかなかった。「そんな……」
 そばにいた寛太が手伝ったが、ドアは開かなかった。利菜と佳代子も駆け寄り、
「開けて、開けてよ!」
 とドアを叩いた。
 がちゃり
 鍵の閉まる音がした。みんなは呆然と、ドアをみつめた。今鍵が閉まったんなら、なんでドアは開かなかったんだろう。
 ドクドクと、脳の奥底が脈打つのを感じる。鼓動が早くなる。一同は答えを求めるように、達郎をみる。尾上兄弟は、うろたえて互いの顔を見やった。子供たちが騒ぐのに、おじさんもおばさんも、こっちを見もしない。じっと、フロントガラスを見つめている。
「い、行こうっ」
 達郎がたまりかねてみんなに言った。新治がそんな兄貴を信じがたげに見上げた。
 佳代子が達郎に詰め寄って、ひまわりを指差した。
「行くって、どこに? あれが見えない? あれが幻覚? 消えてくれんの? じゃあ、いますぐ消してよっ。あたしの頭から追っ払ってよっ」
「みんな戻ってどうするんだよ、どこに行くんだよ。もう戻るとこなんてないんだぞ!」達郎は言った。
「あいつはどこにでも来るんだっ。四六時中、気を張るなんて、そんなことお前らにできるかっ? 親までおかしくなってるのにっ」
 達郎はイプサムのほうを指で突き刺した。寛太はバットをにぎって(ここにバッターボックスがあるみたいに構えをとる。見ようによってはこっけいだ)、達郎を凝視する。ほかの子たちも。
「おれにはそんなことできない。おれにはむりだ」
 達郎はそう言い残すと、リュックを背負いなおし、草原に横たわる小道に向かいはじめた。みんなはその後を追いかけた。達郎をほうって帰れるはずがない。
 利菜は一度だけ、イプサムを見返したが、父親は凍りついたように姿勢を固め、娘のほうは見向きもしなかった。
 父さんは、もうおまもりさまにつかまっちゃったんだ。そう思うと、震えがきた。
 でも行かないと、みんなが行くっていってる。
 それにあそこ――
 彼女はひまわりの向こうのおまもりさまを見つめる。あそこにはひょっとすると、母さんがいるかもしれない。
 利菜は持っていたお札を握りしめると、みんなの後を追いかけた。

        七

 子供たちはひまわりの青くさい臭いをかぎながら、息を切らして頂上をめざした。彼女たちは、茎をかき分けながら前に進んだ。
 アスレチックは、ひまわりに囲まれ、土台が見えない。ひまわりはあっというまに子供たちの背丈を追い越して、すぐに小道もわからなくなる。
 ひまわりの種が、バラバラと落ちかかり、紗英が悲鳴を上げた。
「こんなもんいつ生えたんだよっ」
 寛太が言った。その瞬間、頭上のひまわりが、首を回すみたいに回って彼を見た。人間の顔みたいな花弁から、あられ[#「あられ」に傍点]みたいにおなじみの種をバラまいたからたまらない。
 寛太は悲鳴を上げてしりもちをついた。達郎と佳代子が助け起こす。
「おさそいが、おさそいははじまってるっ」
 新治が言うと、
「当たり前よっ、おさそいならもうのっかっちゃってるんだからっ」
 と佳代子らしくない、だみ声みたいな悲鳴で怒鳴る。
「お、落ち着けよ」と、達郎。「おれたちは自分の意思でここに来た。まだつかまったわけじゃない」
 佳代子は、まだ怖い目のままだったが、うなずいた。
 寛太が、ぺっと種を吐いた。「あいつ、おれたちをこんな目にあわせて、どうするつもりなんだろ?」

 草原は、進むほどに草が濃くなった。
「みんな、ついてきてるか?」
 達郎は、先頭にたって草をかきわけ、そのせいで傷だらけになっている。
 振り向くと、ひまわりが深すぎて、全員の確認が取れない。
「はぐされないように、注意しろよなっ」
 仲間に聞こえるよう、大声で言った。
 みんなは達郎に言われるまで、とっぱぐれに会う危険に気づかなかった。それからは互いに注意して、丘をのぼりはじめた。
 太陽はまだ戻っていない。気温は低いが、子供たちは汗だくになっている。
 変な想像をしないように、恐怖を振り払おうと必死だった。ひまわりのジャングルを、息を荒くしながら、しゃにむに突き進む。
 国村さんはどこいっちまったんだ。達郎は、不安になった。あの人までつかまったんなら最悪だ。
 佳代子が下草に靴をとられた。利菜が男の子たちに声をかけ、進行をとめた。佳代子は舌打ちをし、靴の紐をなおしはじめた。利菜と紗英は、そんな彼女を守るかのように左右に立った。
 利菜は、紗英の様子に気がつく。耳をそばだてている。どうしたの、と彼女が訊きかけると、その発言をとめるように手を上げた。
「聞こえない?」
 切り詰めたような口調だ。利菜もとっさに耳を澄ました。佳代子が顔を上げる。
 そのとき、草をへし折るような、がさがさという音が聞こえた。三人は恐怖に目をこわばらせてその方角をみた。
 アスレチックだ。二階建てのアスレチックが、ブルドーザーみたいに動いている。
 それは、両神山でももっとも大きな部類に入るもので、こどもたちは何度もあの中に入ったことがある。こぶりだが屋上もついている。あの滑り台を、上ったことを思い出した。空洞を口のように開いて、地面に噛みつく。網とスチールのはしごを引きずって、押し寄せてくる。
「たいへんだ……っ」
 達郎は、新治と寛太の前に躍り出ると、女の子たちの間に飛びこみ、佳代子の腕をひいて立たせた。「お前ら、にげろっ!」
 アスレチックは、まるでラッセル機関車だ。土を跳ね上げ、ひまわりを砕く。
 達郎たちは、上に上がるのをあきらめ、草原を横ぎりはじめた。ひまわりが身を寄せ合って、行く手をふさいだ。寛太と新治は、その妨害に、怒りをこめてパンチを浴びせた。
 二人の目の前に巨大な岩があらわれた。普段は滑り台につかっていた、大きな岩だ。寛太と新治は迷った。遅れてくる達郎たちに目をやる。狂える生き物とかしたアスレチックは、今にも四人を飲み込まんとしていた。
 二人は、急いで巨岩によじのぼった。頂上につくと、達郎たちに手をふって、こっちに来い、岩の影にまわれ、と声をかける。
 そんなとき、寛太は視線を感じて、ふと下を見る。身の毛のよだつ思いに、縮み上がった。もうずいぶん高くのぼって、イプサムは米粒みたいに見えるのに、脳内の目だまが、望遠鏡みたいにズームアップし、フロントガラスの向こうで邪悪に笑う、俊郎と登美子の目線をとらえたのだ。
 新治が腕をひっぱった。達郎たちはすでに岩の陰に回っている。アスレチックが目前にせまる。巨大な空洞が、お化けの口みたいに開く。
 二人が岩を滑り落ちたとき、達郎たちも岩の真裏に到着した。子供たちは、互いの手足をかき集めるようにして、身を寄せ合った。
 アスレチックが岩にくらいつき、地震みたいな衝撃がみんなの体を振るわせる。一トンはあろうかという巨大な岩だが、アスレチックのぶちかましで、その場から、ずれた。こどもたちの体を押しやった。みんなはひとつにかたまって、大きな肉団子のようだ。
 木片がカラカラと落ちてくる。子供たちは頭を抱えて固まり、振動が消え去るのをまった。
 大音響が消え去り、あられ[#「あられ」に傍点]のようにふりそそいだ破片も、ときおりからからと落ちてくるばかりとなった。達郎がおそるおそる目を開けると、辺りにはアスレチックがまきちらした埃が舞い漂っている。体の下で、利菜や紗英たちがもぞもぞと体を動かした。生きているようだった。生きていることが信じられなかった。ついさっきまでは、あの巨大な口に、飲まれかけていたのだ。
 一同は、回りこんでアスレチックの様子を観察した。岩は、半分がたのみこまれていた。国村がアスレチックを頑丈につくったせいか、固い岩肌が砕かれていた。達郎たちが見ていると、口と思われる部分から、血が噴き出してきた。まるで生きているみたいに噴血をはじめたのだ。
 六人は、悲鳴をあげてとびすさった。まわりのひまわりが、巨大な顔から血を浴びせかけてきた。身を折って、なんだか反吐をはいているみたいだ。
 ひまわりはかれらを囲んでいた。まっこうから血反吐をあび、新治が転んだ。
「に、にげろっ」
 達郎が新治を助けおこし、上へ上へとみんなを押いやる。いつのまにか、ひまわりのトンネルができている。
 彼らはそこを駆けていったのだが、上からは血の雨が降り、ぐしょぬれになるばかり、悲鳴をあげ通しだ。
 寛太は目を開けるのもむずかしいなかで(吐き気をこらえるのが大変だ)、駐車場を見ようと振り向いた。おじさんの顔が気になったのだ。だが、彼の真後ろでは、ひまわりがものすごい勢いでトンネルの出口をふさいでいる。まるでひまわりのシャッターだ。
 大変だ、遅れたら、こんどはあの口に飲みこまれる。
 寛太は、あわててみんなの後を追いかけた。

        八

 ひまわりの畑が急に途絶え、彼らはたたらを踏んでとどまった。
 達郎は頬を流れる粘っこい血をぬぐった。靴も服もびしょぬれだ。手を振ると、血のしぶきがびしゃりととんだ。
 顔を上げると、おまもりさまがあった。五日前にも見た蔓壁が、そそり立っている。ここだけが変わっていない。
 国村のたすきがかかっていたススキ林がある。あのときは、まむしを追っ払おうと棒ではたいて通った。地面を血が流れ落ちてきた。
 でも、いまはおれの体を流れ落ちてる、と達郎は考える。ぜんぜん笑いたい気分じゃないのに、にやにやと笑みをもらす。なんで笑っているのか、笑いたいのか、自分でも良くわからなかった。
「もういやだよ……」
 佳代子の声がした。彼女はわななきながら、自分の体を見下ろしている。服を払うようなしぐさを見せたが、無駄だった。きっとパンツまでぐしょぬれになっているだろう。
「なにがおかしいのよっ」
 佳代子が怒鳴る。達郎はまだ自分が笑っていることに気がついた。紗英も利菜も新治も、寛太でさえも、非難するような目を向けてくる。
「まだ行こうっての? どうしたいのよ」
 紗英はこどものようにシャツを引っ張っている。目には涙をためていた。
 みんなは沈黙だった。ひどい目にあって、重く沈みこんでいた。
 達郎はくじけそうになるみんなをここまでひっぱってきたが、もう限界だった。友達が驚くような行動を見せた。彼はつったったまま、茫然と涙を流し始めたのだ。
 五人は唖然となった。達郎だって、自分の涙に驚いた。体を折り、指で涙をぬぐおうとしたが、その指も血で汚れていることに気がつき引っこめた。ここには蛇口も水もないことに気づき、そのことに泣きながら吹き出した。
「あれ、変だな?」
 強がったが、もう本物の限界だった。彼はその場に突っ伏すると、おいおいと、大きな体をゆすって、泣き始めたのだ。
 子供たちは、達郎の意外な行動を見てうろたえた。
 寛太はおまもりさまをみた。誰かが蔓壁の向こうから自分たちを覗き、このことを喜んでいるような気がした。だけど、これまでがんばってきた達郎が泣きじゃくるのをみて、彼は何も言えなかった。言うべき言葉が見つからないのは彼にはよくあることで、つい口を閉ざしたのだった。
 達郎をなぐさめたのは、寛太でも女の子たちでもなかった。これまで達郎とはずっとうまくいってなかった弟の新治で、おずおずと歩み寄ると、兄貴の肩に、手をかけたのだった。
 新治はほかのみんなとちがって、泣いている達郎をずいぶん見てきたし(といっても、もうずっと小さなころの話だったが)、なぐさめたこともずいぶんあった。
「い、いこうよ」
 新治は言った。達郎は腕に目を押し付けたまま、首を横に振る。
「もうやめるの?」
 新治が言うと、達郎は首をはげしく縦に振った。
「じゃあ、先に行っちゃうよ」
 新治は言った。自分でも意外な言葉だったが、口に出したとたん、ほんとに行きたくなったから驚きだ。新治は泣いている兄貴を見て、ほんとに林の向こうを覗いてみたくなった。こんな目にあってまで行かなければならない理由があるとするなら、その訳を知りたいと彼は考えたのだ。理由があるのなら、確かめてみたい。
 達郎が驚いて顔を上げた。
「行くのか?」と彼は弟に訊いた。「おまえ、行くつもりかよ」
 新治はうなずいた。達郎は信じられないと言いたげに首をふる。
 佳代子はもじもじと言いにくそうにしていたが、
「わたしも行ってみようかなあ」
 まるで、向こうにいいことがあるみたいな口調で言った。達郎は、茫然と佳代子の顔を眺めた。
 佳代子が手を後ろにくんで、おしゃまなそぶりをした。
「ここまできたのに引き返すなんて、もったいない気分」
 利菜と紗英が、きゃあとふざけてその背中にくっついた。
 達郎が咳きこみながらようやく笑った。
「お、おまえら、よく平気だな」 
「女は血に強いのよ。知らないの」
 佳代子が意味もしらないくせに、聞きかじりを言った。これには、達郎もみんなも笑いだした。
「よ、よし」と達郎はまぶたをぬぐいながら立ち上がった。「みんなが賛成なら、俺も行く。いいかっ」
 達郎がリトルのチームばりに声をかけると、一同は、お、おうっ、といささか威勢の上がらない気合を上げた。
 寛太はおっかなびっくり蔓壁のほうを見た。さっきまで感じた誰かの気配は、もうしなかった。でも、林の向こうのやつが、舌打ちをしたように感じて、彼は気分がよくなった。
 彼らはススキの前に立ちふさがった。達郎が言った。
「い、行くぞっ」

第八章 最初の訪問

        九

 達郎はリュックの中からタオルを取り出した。丈夫なナイロン越しにも、血はかすかに染みこんでいた。そんなに血を浴びたんだと知ってぞっとしたが、中身は無事のようだ。タオルや紙の縁についただけだ。
 彼らは拭えるところだけはぬぐった。ぐしょぬれで、乾いているところなんてひとつもない。確かにこんな目にあったのに、引き返すなんてできそうもなかった。出直して、一からやり直すなんてこと、考えられない。
 利菜はタオルを使う間も、物静かだった。みんなにたいして後ろめたかった。彼女だけは、母親を探しに行きたかったからだ。頬をぬぐうと、血が糸を引いた。ここの血は、粘り気がありすぎて、ぬぐいきれそうもない。
 だけど、タオルを真っ赤に染めた血よりも(泥バレーをやったよりもひどい有様だ)、気になることがある――脳みそがやっぱり脈打っている。血流が三倍にもなった感じだ。
 閉じていた引き出しが、どんどん開けられていくようでもある。視界が大きく、広くなり、細かいところまでずいぶん見えた。なんだか病み付きになりそうな感じ。彼女はその感覚を歓迎した。坪井の家で感じたのと同じだった、脳みそが全力疾走で駆けずり回る感じ。あの感覚に、近づきつつあった。
 やっぱり、この場所はあそことおんなじなんだ。パワースポット。利菜は、みんなも同じなのかと訊いてみたかった。きっとおなじのはずだ。
 準備は終わった。
 達郎が先陣をきった。佳代子、紗英、利菜が続いた。つぎに新治がいて、寛太はしんがりを勤めている。
 ススキを途中まで踏み分けたとき、ざわざわと草が鳴りはじめる。地面がゆれだしたかと思うと、ぐんぐんと成長をはじめ、あっという間にみんなの背丈を通り越す。でっかい泥をつけた茎しか見えなくなる。杉の木も蔓壁も巨大化していった。
 そばの小石が、頭ほどの大きさになった。あまりのことに悲鳴も出せなかった。落ち着いていたのは利菜だけだ。こんなことは、坪井の家でも経験していたからだ。
 友達があわてふためいて、別々の方向に駆け出そうとしているのが見えた。紗英はススキの向こうに巨大なアリを見つけた。新治は自分の靴が掘ったはずの穴に落ちかけている。
「みんな集まんなきゃだめよっ」利菜は、手近にいた紗英と佳代子の手を捕まえる。「手をつないで!」
「でもアリがっ」紗英が言った。
「アリはあんなにでっかくない!」
 佳代子と目が合う。二人はあの家のことを思い出した。坪井の家では、階段が斜面にかわり、手すりに油が塗られた。でも、あのときは、心をつないで元に戻したのだ。
「あたしたち、おんなじことをすればいいのっ?」
 佳代子が言った。利菜は、そうよ、と怒鳴り返した。
 地面のユレはまだおさまらない。みんなは手をつなぎあい、円陣をくんだ。紗英は近づいてくるアリの物音を聞きながらも、必死になって目を閉じた。脳みそが破裂しそうだ。これまでが低速なら、今のギヤは、オーバートップを突き破ってる。達郎も、新治も、寛太も、そのことを感じた。血流が脳に送り込まれ、彼らはうめき声を上げた。
 円陣を中心に、ものすごい力がながれこんでくる。外からながれこんでくるのか、それとも自分たちが高まっているのか、わからなくなる。みんなの心がつながっていく、まぶたをあけていないのに、みんなのことがよく見える。
 六人の感情がまぜこぜになって、達郎はわけがわからなくなる。それでも佳代子や新治が考えていることがわかった。達郎は弟のことを理解した。彼はいってやりたかった。お前はそんなに気をつかうことはないんだと、だれも、だれもおまえのことを……
 だけどそれは言わでものこと。新治はそんな彼の考えすら読み取っている。六人は互いを理解した。利菜と佳代子が、なんで坪井の家から逃げられたのかわかった。
「ああ、信じる、この力を信じる」
 と彼はつぶやく。自分を信じる、自分たちを。複雑な感情のうねりの中で、六人が感じていたことはこうだった。これはただの幻覚なんかじゃない、幻覚なんて超えている、みんながときおりつぶやき、考えていた言葉、世界はねじ曲げられている、あれが起こっているんだと、自分たちは心をつなぎあわせて、世界のねじまげを食い止めるんだ。
 パワーは高まりつづけ、足が宙に浮くのを感じた。新治が感嘆の声をあげる。ススキや大地、あらゆるものがドスンという音をたてて元にもどった。足がしっかりと地に着いて、一同は恐る恐る目を開けた。周囲の景色はまた元にもどっている。彼らは手をつないだまま蔓壁の奥を見る。この森には何かある、と彼らは信じた。
「すげえ……」
 寛太が言う。腕で口もとをぬぐった。いつのまにか鼻血があふれ出している。
 利菜はみんなの凝視にあって、弁解をはじめた。「このまえもおんなじことがあったのよ。例の家で。話したでしょ?」
「出力全開」
 と佳代子は言って、くすくす笑った。紗英も怖々しい笑顔をみせた。
 寛太の家を出たとき、結界を出たような放り出されたような感覚を味わった。でも、結界は自分たちそのものだった。自分たちにこんなことができるんなら、わるいものも何とかなるんじゃないかと思った。
 精神をつないだあの瞬間、彼らのアンテナは(そんなものがあるとするならだが)、千倍、万倍近くに高まった。ここがいかに危険なのかが良くわかった。
 世界は元にもどったが、みんなは手をつないだままでいた。もう少しこのままでいたかった。でも、心をのぞくのは失礼なことだ。
「ふう、みんなもう手を離そうぜ」
 と達郎は言った。この高ぶりを歓迎しつつも、ちょっと空恐ろしくあったのだ。
「えっ、もう?」
 佳代子が間抜けな返事をする。この感じ、理解しあえている感じが消えるのは惜しかった。みんなとつながる感覚はすばらしかった。
「手を離しても大丈夫だよ」
 新治が紗英に言った。
「そうだ、フォークダンスを踊りたいわけじゃない」達郎も寛太の心を読み取って言った。
「……どうやら、ほんとに手を離したほうがよさそうね」
 佳代子がおとなびた苦笑で手を離す。ほかの一同も。
 利菜は自分の手がどうにかなっているんじゃないかと思ってすり合わせる。
「すげえよ、こんなこと、誰も信じないぞ」寛太が言う。
「これまでだって誰も信じなかった」
 達郎は、不機嫌に言うと、蔓壁と向きあった。自分が制御できないような感覚が、急に気に入らなくなったのだ。
「わたし、元にもどってほしいだけなのに……」
 紗英が言った。
「おれだってそうだよ」と達郎。「でも、どうにもできないんだ。どんなに願っても、かわってくれなかったろ?」
 その言葉は、紗英にはよくよく理解できた。両親に元にもどってほしいという願いは、彼女がずっと祈り続けてきたことだからだ。
「願うだけじゃだめなんだ。おれたち何かをしなきゃいけない」
「なんであたしたちなの?」
 佳代子がうつむいて訊く。その声はしわがれていた。達郎はちょっと口をつぐんだ。ゆっくりと考えをめぐらせ、言葉を選んでいる。
「きっと、おれたちが自分で選んだからだよ」
 彼らは互いの顔色を確かめるようにぬすみみた。
「おれたちは、自分で決めてここに来たんだ。おれたち、秘密をつかもうとしてる。うんとやばいけどさ。それができるのは、たぶんおれたちだけなんだ」
 みんなは、達郎の言葉に納得したものが他にもいるか、確かめるみたいに互いを見合う。
 彼らは蔓網を凝視した。今度は国村の声もしなければ、なめ太郎の顔も見えなかった。
 寛太が達郎のそばでバットを構える。女の子たちは十字架を握った。新治が達郎からリュックをうけとった。
 達郎は屈みこむ、網に絡まった泥や、腐った落ち葉に顔をしかめる。彼は顔を上げる。寛太と新治が蔓を払ってくれたおかげで、見やすくなった林の向こうをみた。 みんなはしばらく茫漠とした顔で、おまもりさまを眺めやった。これが話しに聞き、夢にも見たおまもりさまなのだ。杉の木が行儀よく並んでいる。日があまり当たらないのか、下生えはほとんど生えていなかった。
 達郎は網を持ち上げ、上半身をくぐらせる。頭が網をくぐった瞬間、キン、という高い金属音がした。空気の層がまったく異質なものに変わった。それはあまりにも生々しく感じられたから、達郎は一瞬動きを止めた。
 寛太が訊いた。「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
 達郎は肘をついて、網の向こうに体を引きずっていった。最後に足がくぐった。新治からリュックを受けとり背負いなおした。
 みんなにこっちに来るよう言おうとしたが、ふと振り向いた達郎は、林の様子に目を剥いた。鼓動が止まったようだ。外から見たのと違う。杉は何倍も太くなり、苔むしている。ジャングルみたいに草むしていた。まるで、邪悪な栄養で肥え太ったみたいだ。見たこともない草、見たこともない木が生えている。しかも、草むらの中からは、誰かの足が突き出ていた。
「お、おい」
 彼は急に心細くなった。さっきはおまもりさまに立ち向かえるような気になったが、それがただの慢心だったとしたら……おまもりさまは心をつないだ自分たちより、ずっとずっと強力かもしれない。
 達郎は仲間がこっちに来るのをとめようとしたが、すでに寛太は体を半分をくぐらせている。達郎は寛太を助けて、起き上がらせる。
 寛太は、同じように目を見張った。「おい、向こうで見えたのとちがうぞっ」
 二人は残った仲間を見た。みんな怪訝な顔をしてる。
「見えないのか?」達郎が訊いた。
「なにが?」
 佳代子が尋ねた。
「こっちにきてみろよ」
 そこで新治が来た。彼は自分が目にしたものをこう評価した。
「本物のおまもりさまだ」
 女の子たちも、つぎつぎとおまもりさまにやってきた。佳代子がきて、利菜が続いた。最後の紗英だけは、草原側から誰かに足をつかまれた気がしてもたついたが、達郎と新治が引っぱって、ようやくこちらに来ることができた。
 彼らは林のふちにとどまったまま、しばらくおまもりさまのことを点検した。林の中は急速に薄暗くなってきた。寛太がリュックから懐中電灯をとりだした。ライトの部分にも血糊がついていた、それをタオルでやっきに落とすと、明かりをつけた。
「あれは誰の足?」佳代子が訊いた。
 達郎は無視して言った。
「ここは両神山じゃない。おれたちは本物のおまもりさまに来たんだ」
 紗英も訊いた。ヒステリーを起こしそうな危険な口調だった。「なんであそこに脚がつきでてんの?」
 脚はここから少し離れたところに生えている。生えている、というのはおかしいが、草に隠れてそんなふうに見えるのだ。
 達郎が、確かめに行こう、と言うと、紗英がその腕にしがみついた。
「やめてよ、死体を確かめにいくなんてっ。悪趣味なことしないでよっ。どうかしてるんじゃない……」
「だけど、あれが……っ」
 と達郎は言いかけて口をつぐむ。六人ともが同じことを考えていた。彼らはまだつながっていたから。あのとき、国村は(国村のまねをしたなめ太郎が、ということだが)、助けてくれ、と言った。国村はいなくなったままだ。でも、どこかには[#「どこかには」に傍点]いるはずだなのだ。
 あれはもっと別の死体なのかもしれなかった。大人の足に見えるけど、英二のものだという可能性だってある。
「死体じゃないかもしれない」
 達郎はみんなを説得するように言ったが、成功しなかった。出力全開の脳みそは、あの脚から(あの足の先から)生きている気配がしないことを告げている。
 彼らは勇気を起こして、死体に向かって歩いていく。ぶよぶよしたコケを踏みながら。寛太が強く踏みつけると、ぶすぶすと空気の抜ける音がした。辺りを満たす苔むした臭いに、彼はあえいだ。
 死体は草むらをなぎ倒し横たわっていた。きれいな死体、というものがあるならば、その死体には損傷もなく、血痕も見当たらない。眠っているようだった。呼吸をしていないことと、ありえないぐらい青ざめた皮膚の色が、男が死んでいることを告げている。
「外人だ……」と寛太が言った。
 達郎が新治に訊いた。「図書館で会ったやつか?」
 新治は首を横にふった。見たこともない男だった。
「ねえ、それって本物なの?」利菜が訊いた。「本物の死体?」
「うん」と達郎が答える。「そう見えるよ」
「じゃあ、なんでここにあるの? 外人でしょ?」
 寛太がバットで死体の脚をつつこうとした。佳代子が上からおさえた。「よしなよ、動きだしたら、どうすんのよっ」
「そしたら、こいつはゾンビだ」
「おれ、死体ってはじめてみた」
 新治が言った。みんなも、はじめてだった。親戚の死体なら見たことはある。たいていは棺に入った状態のままで。でもこいつは殺されたか、あるいは自殺したんだろう。
 利菜は辺りを見回した。森の様子は微妙に変化していた。起伏が多くなり、アニメでしかお目にかかれないような、へんてこな草木が増えていた。林というよりは、ジャングルという言葉がぴったりと合った。そんなところで、六人の子供が死体と向き合っているなんて、うそざむい話だった。
「おい、ひとつだけじゃないぞっ」
 寛太が言った。死体はここだけでなく、あちらこちらにあった。それとともに、異臭が――死体の腐っていく臭いが、鼻腔にとどいてきた。
 達郎は、こんなのうそだと思った。全部にせものだ。
 でも、視界を埋める死体はなくならない。目にうつるだけでも、数十はある。
 死体の群れはじつに多彩だ、国籍もバラバラだった。男もいれば女もいて、どう見ても江戸時代の農民としか見えない格好の男もいた。首吊り死体も、あちらこちらにぶら下がる。軍服を着た男、額に穴を開けたドレスの女、白骨死体もある。真っ黒に焼け焦げたもの、ミイラみたいにやせ細ったものもいた。
 うわあ……と紗英はうめいて、口に指をつっこんだ。みんな、固まれ、達郎が小声で言う。死体にきかれるのを、恐れるみたいな声音だ。
 なによ、これ?
 佳代子は泣き声だ。寛太が、
「ひでえ臭いだよ。マスクももってくりゃよかった」
「あれって、さむらい[#「さむらい」に傍点]じゃないの?」
 新治が言った。彼の左手には、腹に刀を突き刺したちょんまげの男が、顔のあちこちから血を流して倒れている。なます斬りに斬られている。男はまぶたをかっと開いていたが、その瞳はにごっている。あちらこちらで、虫がうごめく音がした。
 引き返そうかと、心が後ろを向きはじめる。
「なんで、こんなに死体があるんだよ。いろんな国のやつがいるんだよ」
 達郎は茫然と言う。
「でも、さっきは見えてなかった」
 佳代子が言った。
「関係あるのかな」
 と達郎。幻覚とは思えない。後年の紗英なら、ここにいろんな死体があったって、少しもおかしくなんてない、と答えただろう。
 みんなの頭で同じ言葉がぐるぐる回っている。
 世界はねじまげられている。
 それはまさしく、時代も空間も越えて集まってきた死体だった。そのことに気がついたとき、六人はぞうっと寒気がした。
 怪鳥が叫ぶ声が、森の奥からとどろいた。奇妙な動物が、あちらこちらで目に付きだす。そのいくつかは、死体に食いついている。新治のそばで、死んだ女の口から、芋虫が這い出てきた。
「弱気になっちゃだめだ」
 達郎は震える手を差し出す。かれらはふたたび手をとり合う。この死体が本物かどうかはわからない。でも、弱気になればなるほど、わるいものは集まってくる、悪いほうに変化していく。その力はみんなの心にも触手をのばしている。
 子供たちは想像以上に弱気になっていた。
 達郎は心のなかで、このねじまげをくいとめるんだ、と呼びかけた。
 利菜は母親を探したかったし、佳代子は外にいる母親自体が恐ろしかった。紗英は、わるいものがみんなの心に手を伸ばしているのなら、両親の不仲はそいつのせいじゃないかと考えた。新治だっておんなじ気持ちだ。寛太はこんな臭いを嗅ぎ続けるのはうんざりだったが、英二のためにも残りたかった。背を向けるところを、友達やじいちゃんには、見られたくない。
 みんなはそれぞれの事情で、達郎の申し出を受け入れた。森の奥に目を向ける。
 パワースポットが、本当にあるとするなら、坪井の家とは比べ物にならないぐらい強烈なやつだ。
 六人は順々に手を離していく。達郎は手になかの十字架やお札をみつめた。そっと指を開く。
 十字架はずるりと手のひらを滑り落ち、こけむした地面に落ちていった。
「捨てよう……」
 えっ? 紗英が顔をゆがめて訊き返す。
「こんなもの役に立たない。だっておれたち、誰も宗教なんて信じてない」利菜に目をむける。
「それどころか、にくんでるやつだっている。自分でも信じてないものに頼ったらだめだ。おれが信じてるのは……」メンバーの顔を順々に見回す。「みんなだ。おれはみんなのことを信じてる」
 六人は無言だった。やがて佳代子が、寛太が、新治が、もっていたおまもりや、位牌といった道具を捨てていった。達郎の足元で、小さな山ができた。
 利菜はごくりとつばを飲む。仲間の視線を避けるように目を泳がせた。
 みんながこんな目にあっているのは、自分のせいのような気がして、後ろめたい。そのせいか、みんなのことも怖かったのだ。
 彼女は父親の様子がおかしいことをみんなに言わなかった。言えば、みんなは両神山行きをとりやめにしたかもしれない。もう少しねばって、寛太郎の帰りを待ち受けたかもしれない。でも、彼女は母親を見つけたかった。ほうっておくのは危険な気がした。みんなに、ついてきてほしかった。
 坪井の家に佳代子を連れて行って、危険な目にあわせたというのに、ここでもおんなじことをしている。そのことが後ろめたかった。それに、彼女は友達のことを疑っている。みんながまたおまもりさまに操られて、なにかしてきやしないかと、不安を抱いている。
 仲間を疑うなんて、自分の心がひん曲がってしまったようで、いやな気持ちだった。
 身勝手なやつだ……
 声をかけられたが、彼女は振り向かなかった。
 利菜はおまもりを捨てたくなかったが、結局は友達のことを信じてそうした。それをみて、紗英もあきらめたように、十字架から手を離した。

        十

 寛太には名案があった。
 リュックからスプレー缶を取り出す。近所のホームセンターで買ったやつを。それを木に向かって吹き付けた。その樹木は節くれだち、魔女の森に出てきそうな代物だったが、寛太がスプレーの中身をふきかけた瞬間に、こぶの部分が大きく口を開け、寛太の放ったペンキの大半をのみこんでしまった。寛太は悲鳴をあげて、空中にバッテンを書いた。今度はうまくいった。生きている木は、真っ赤な×印を描かれて、顔をしかめたように見えた。
 彼らは高まる悪臭に辟易しながらも、森の中を進んでいった。ひどい死に様の死体に、脂汗をにじませながら進んだ。この死体は幻覚で、消えるんじゃないかと考えたが、甘い期待にすぎなかったようだ。胸が悪くなるだけだ。
 新治が立ち止まって吐き始めると、紗英もたまらず吐いた。森の中は寒かったが、みんなは汗だくになっていた。
「なんで消えないんだ、幻覚じゃないのかよっ」
 比較的状態のいい死体があった。寛太はそれに触ろうとした。
「やめろ、寛太!」
 達郎が声を上げたときには遅かった。
 寛太は、手を通って、死体の記憶がながれてくるのを感じた、視界は消えた。五感を奪われた感じだった。彼の目は、死んだ男の目になった。体が硬直し、唾が垂れる。喉を絞められる苦しさに、彼はあえいだ。かすんだ視界で、のどをしめる男の姿が見える。寛太は死を体験している。
 死んだんだ、こいつはこんなふうに死んだんだ!
 そこは霧深い湖畔のそばの草地で、ここじゃない[#「ここじゃない」に傍点]、と寛太は思った。この森じゃない、この男は別の場所で殺されてる。でも、おまもりさまに行き着いた……っ。
 とつぜん膝をおり、苦しみ始めた寛太を目の前にして、達郎はどうすることもできなかった。
 寛太が左手を首に伸ばす、その指がヒフの直前をひらひらと漂った。達郎は、この少年がどういうわけだが、首をしめられて苦しんでいるんだと知った。
 寛太の右手は、死体の肩に置かれたままだ。
 達郎が、その手を力任せに引き剥がす。新治は寛太の体をひっぱった。二人の頭脳にも、死の記憶がながれこむ。寛他の指が肩を離れた瞬間に、その映像、痛み、感触はとだえた。
 だが、達郎たちは、死体を通して、おまもりさま[#「おまもりさま」に傍点]に手を触れてしまったらしい。
 あちらこちらの死体から、殺害現場が風船のように浮かび上がった。
 悪意にみちた記憶が、メンバーめがけて集まってきた。六人の精神に、死の記憶が飛び込んでくる。子供たちの脳は、パンクするほどの衝撃を受ける。彼らは、その光景を見、臭いを嗅ぎ、その死を体で感じた。
 彼らは被害者でもあり、加害者でもあった。
 利菜は、行進する軍隊をみた、右手をかかげ、演説するヒトラー、銃弾に撃たれて倒れる少年。爆弾で人が死に、戦闘機の機銃で人肉が裂ける。彼女はその光景を打ち消そうとするかのように、大手をふった。記憶は、どんどん強くなる。彼女は悲鳴をあげた。みんなも悲鳴をあげていたが、その声はひどく遠くに聞こえた。みんなが遠くに感じられる――
 わあ、たいへんだっ、あいつが、あたしたちを、ひっぺがしにかかってる!
 一人の兵士と目があった。
 気がつくと、彼女は血まみれの体のまま、硝煙のただよう戦場にいた。辺りには銃弾が飛び交っている。砲弾の爆発で、体はかすかに震えている。周囲には、着弾。びゅんびゅん、ばしんばしん、弾が風を切る音、弾が地をうつ音、複雑な風がふいている。
 兵隊は(大柄な外国人だ)銃剣をかまえていた。どこかの国の言葉で、彼女にむかってわめいている。ようやく意識がはっきりとした。
 あたしに向かってわめいてるっ。
 兵隊は利菜にむかって駆けだした。
 うろたえてあたりをみまわすが、友達もいなければ遮蔽物もない。兵隊が持っていた銃剣を、槍みたいにつきだす。
 利菜は倒れこんだ。
 そうして、固い石ころだらけの地面に(その石ころは砲弾でくだけたらしく、鋭くささくれだっていた)頬をうちつけながら、彼女は兵士のすすだらけの若い顔、恐怖に血走った目を見、吐く唾を目にした。銃剣の先が、血で濡れている。腕をみると、二の腕が大きく裂け、そこから真新しい傷口がのぞいていた。
「痛い……」
 信じられないと言いたげにつぶやいた。
 これは罰だ、みんなをだました罰だ――
 達郎はそのとき、若者同士の殴り合いの現場にいた。それは殴り合いというよりもリンチに近く、殴られている少年はほとんど死にかかっていた。達郎はそんな場所にいたのに、戦場にいる利菜がなぜか見えた、背の高い兵隊と向かい合っている。利菜は腕を押さえている。兵隊は、止めを刺そうとしている。
「利菜!」
 と彼は仰天した口調で言った。
「みんな、心を合わせろ!」
 達郎の声で、一同はようやく落ち着きを取り戻した。達郎は寛太、新治と手をつないだままだ。佳代子は紗英と。利菜みたいに一人ぼっちではなかった。
 利菜は、達郎の声が聞こえて、振り向いた。紗英は、子供が母親にナイフをなんども振り下ろす現場にいたが、これは幻覚だと、今いる場所なんかじゃないと信じこみ、隣にいるはずの利菜に手をのばし、その手をつかんだ。
 利菜は胸を串刺しにされる寸前だったが、危ういところでその空間から引っ張り出された。子供たちは死の記憶から抜け出した。
 引き離された複数の記憶が、ねじ曲がりながら周囲を回りだす。寛太はそのなかに英二の姿をみる。寛太は、わるいものに、引きずりこまれそうになる。
 彼らはふたたび環になって、おまもりさまを呼び戻そうとした。友達とつながることで、なんとかなると思った。でも、甘かった。とても、手に負えるしろものじゃない。おまもりさまは想像を現実化してしまうが、それ以上のものでもあったのだ。
 気がつくと、六人は元いた林にもどっていた。死体はおとなしく死んでいた。死の物語は聞こえてこなかった。みんなはゆっくりと唾を飲んだ。あいつの秘密がわかった気がした。彼らは死体にふれることで、おまもりさまにふれることができた。あいつのことを理解した。
 こどもたちは自分たちにかかわっている何かのことを、単に、わるいもの、と呼んできた。それは人間が歴史や営みのなかでためこんだ、ありとあらゆる悪意のかたまりだ。それが自分たちに影響をあたえている……。人間があんな悪いものだなんて、ショックだった。
 利菜は胸元を見下ろした。もう少しで殺されるところだった。でも、友達が助けてくれた。みんな自分を見捨てなかった。
 安堵感がない。心の中で、わるいものが――不信が育っていく感じがする。自分も他人も、信じられない気がした。世界中で悪いことばかり起こっている。今もって。利菜はそれが怖くて震えた。吐き気をこらえ、嗚咽を漏らす。腕の傷は、生々しく残った。
「あいつ、あたしの服を切っちゃった」
 佳代子がハンカチをとりだし、利菜の腕にきつく巻きつける。きゅっと口を閉じている。寛太をにらんだが、何も言わなかった。
「あ、あいつだ……」寛太はあえぎながら言った。彼は鼻水を拭こうともせず、死んだ男を凝視している。「わるいものに殺されたんだ。おれ、こいつが死ぬとこが見えたっ。おれも殺されるとこだったっ。こいつはべつの場所で殺されたのに、なんでか、この場所にいる……」
 達郎が死体を見下ろす。人類の犯してきたありとあらゆる悪いものを見せつけられて、みんなの気持ちは重く沈んだ。死んで当然のような気がした。だって、人間は悪い生き物だっ。
 達郎はみんなの心がくじけかかっているのを感じた。さらにまずい事態があった。
 いつのまにか霧が出ていた。わたがしみたいな霧が群生している。
 紗英はカナダでガールスカウトに入っていたから、遭難に関しても知識があった。霧がでるのはまずかった。寛太がつけた目印も、みつけるのが難しくなる。このままだと、迷うことになるかもしれない。
 彼女がそのことを話すと、みんなは顔を見合わせた。
 紗英はあちこち動き回らないで、じっとしていたほうがいいと言った。
 みんなは紗英を見た。その目は、こんなところでじっとしていられるか、と言っていた。
 佳代子は足元を見下ろし、はっと息を飲んだ。足元には女の子が転がっていた。佳代子はその子を知らなかったが、見覚えだけはあった。紗英が、近所にいたといった子。何度も新聞をにぎわせた女の子。小野田美由紀という子。
「ひどいよ……」
 と佳代子は言った。友達もその死体に気がついた。紗英はありえないと口にした。美由紀ちゃんはすでに火葬されていた。彼女はこの子を乗せた、霊柩車のことも目にしている。
 みんなは、今朝見た幽霊たちのことを思い出す。その子たちの仲間入りをするか、このまま進むかだ。
 みんなは迷った。だけど、達郎が言った。「い、急ごう」
 一同は背中を刺されるような、純然たる恐怖を感じた。でも、戻ったところで結果は目に見えている。どこにいたところで、わるいものは彼らに関わってくる。わるいものが人類全体の悪意の塊とするのなら、どこにいったっておんなじだ。彼らは精神の奥底で、あらゆる人の意識とつながっているのを、感じたからだ。
 彼らは道なき道を進んだが、霧は深くなる一方だった。森のなかにスチームがあって、その蒸気を吹きつけてくるみたいだ。霧は足元をおおい、膝まできた。そのあとは一気だった。霧は林自体を飲みこんでしまった。
 達郎がおごそかに、
「もうだめだ、迷うぞ」
「たっちゃん、引き返そうっ」
 寛太が言った。
 でも、外には父さんがいるよ……。
 そんなことを言いそうになり、利菜は黙った。父親のことをモンスターみたいに言うなんて、そんなことはできない。
 実の親なのにな
 後ろから声をかけられ、今度は利菜も振り向いた。だけど、そこには霧が広がるばかり、林の様子さえわからない。霧が視界を隠し、みんなの恐怖は頂点に達した。見えないことが、こんなにも怖いことだは思わなかった。
 進むほどに、わるいものの力は強まっていく。
 六人はあれこれ話し合った結果、とうとう引き返す決意を固めた。子供たちは出直すだけだと言い張った。自分たちを見すえるなにかに対し、強がっているみたいだ。本当は動かないほうがいいとわかっていたけれど、死体とがまん比べをするなんてごめんだ。外にでて、態勢をたてなおしたかった。だけど、引き返すことは逃げ出すことに他ならない。
 心が後ろを向いたら、とたんに恐怖は万倍になった。
 彼らは懐中電灯をふやし、来た道をたどり始めた。ここで引き返したら、戻るなんてもう無理だ。でも、そのときには疲れが限界で、まともに考えることができなかった。
 脳みそが炎症をおこし、頭蓋骨の中でパンパンにはれあがっている。これまでにないほど脳みそを使いまくった結果、いまにも頭が破裂しそうだ。つないだ絆は切れ掛かり、みんなふつうの子供に戻りかけていた。
「なんでおまもりを捨てちゃったのよ」
 佳代子が達郎をなじると、たちまち罵りあいがはじまった。心を強くたもとうなんて、もう誰も考えなかった。
 ののしりあいに参加しなかったのは、利菜だけだ。彼女だけは心に語りかけてくる声に、集中していたからだ。
 罵りあいながら歩く五人のメンバーから、利菜の足取りは遅れがちになった。誰もがそのことに気づかず、その距離は十分にとられた。
 利菜は肩をつかまれた。振り向くと、坪井善三が立っていた。

        十一

 達郎たちは、寛太のつけた印を探すのに懸命だった。霧はちっとも晴れないし、あちこちの死体はそのまんまだ。懐中電灯の明かりが、サーチライトみたいに霧に吸いこまれた。達郎はみんなが離れないよう気を配った。
 おかしいのは利菜だった。彼女だけが一人遅れている。霧の向こうに、沈んだり浮かんだりしている。
 達郎は怪我でもしたのか、ひょっとして腕の傷口からばいきんでもはいったんだろうかと心配した。今にも倒れそうに歩いている紗英と佳代子に手を貸しながら、
「遅れてるぞ、早く来いよっ」と言った。
 わかってる、利菜は答えた。彼女が小走りになったので、達郎はちょっと安心した。よかった、体はなんともないみたいだ。
 だけど、変だな、達郎は思った。利菜の声は、耳で聞いたというより、頭に響いたように感じた。達郎は不安になった。
 おかしいな、なんでこんなふうに思うんだろう?
 達郎は恐怖の中で、こう考える。 きっと、山にいるせいで耳がおかしくなったんだ。たかいとこにのぼると、耳がつんとなるもんな。
 それは自分の考えのようでいて、そうではなかった。達郎は自分で自分の気持ちをごまかしたのだけれど、このときは気づかなかった。
 彼はもう一度振り向いた。利菜はちゃんとついてきていた。彼は前を向いた。新治と寛太の背中を、目で追い始めた。
 達郎が、そのとき見た利菜が幻覚に――わるいものが生み出した幻覚に過ぎないことに気がついたのは、ずっと後のことだった。そのときには、利菜はおまもりさまに完全につかまっていて、取り戻すことは不可能だったのである。

        十二

 坪井善三は完全に死んでいた。頭の半分が砕けている。開いた傷口からは、砕けた脳が露出していた。残った目玉は、完全に白目をむいている。左腕は皮一枚を残してぶら下がっている。右足はありえない方向に曲がっていた。出血は止まっていたが、乾いてはいなかった。
 この状態で生きている人間はいないとしての話だが、坪井善三は完全に死んでいた。それに利菜が坪井を最後に見たのは、彼の自宅だ。佳代子の母親に、連れてこられたんだろうか、と思って身震いをした。坪井の腕を振り払いたかったが、体が動かなかった。
 あの家で見たときは、どこにでもいるさえないおじさんだった。太っていたし、油ぎって、はげてもいた。あの日は宗教の集まりがなく、気をぬいてくつろいでいたのだ。えらい人にはぜんぜんみえなかったし、こんなに大きくもなかった。
 坪井善三は森の瘴気を吸って、何十年かぶりに成長したかのようだった。
 坪井の脳を見つめるうちに、うえっとえずきがおきた。
「吐くのか?」と坪井が問いかけた。口からは、黒いものがにじみ出た。「吐くのか? 俺を殺したのはお前じゃないか」
 利菜は胃袋を飲み下し、「違う、あたしは母さんを帰してほしかっただけだもんっ」と言った。「殺そうなんて思ってない!」怒鳴ってやりたかったのだが、声はひび割れ、涙もおちた。いっときはこの男を心底憎みきっていたというのに、いまはただ恐ろしい。
 坪井は、でもおれは死んだんだ、おまえも死ね、と言った。
「離してよ……」
 利菜は懇願する。手にはさらに力が入る。身動きをするとさらに強く。青白いつめが肩に食いこみだす。薄いシャツをこして、坪井のささくれ立ったつめが皮膚をつきやぶろうとする。利菜は痛くてまた泣いた。斉藤秀幸やほかの子供たちが、どんなふうに死んだのかがわかった。心を粉々に砕かれて、絶望して死んでいったのだ。絶望は人の心だけでなく、体だって殺すんだと、そのことが彼女にはわかった。
 カチリ
 なにかが所定の位置に収まる音がした。坪井の白目がぐるりとまわって黒目になった。
 利菜はひざを折った。逃げたいのに、体に力が入らない。
「もう助けはないぞ……」
 利菜は坪井の足元にひざまずいた。手を合わせて、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、助けてください……とつぶやいた。それは無意識に出た言葉だった。母親がいつもしていたお祈りの言葉が、耳に残っていたのだ。
 坪井に空白が訪れた。空白の時間が。彼は、生前自分が情熱を打ちこんだ言葉を聞いて、考えこんでいる。口をあけたまま、動きを止めた。
 顔を上げた利菜は、坪井が自分に覆いかぶさろうとしていることを知った。そのさきの結果は知りたくもない。坪井の口から真っ黒な血が、よだれまじりにたれ落ちてきた。利菜はそれをさけて、ぱっと立ち上がった。
「みんなはっ?」
 彼女の身動きで、霧が渦を巻いた。誰もいなかった。真っ暗だった。夜みたいに。
 利菜が口に手をあて、大声を上げようとする、霧の中から突き出た猿臂に、胸を一突きされてその場に転がった。痛みに顔をしかめながら見上げると、白い霧の幕を引き裂いて、ついになめ太郎があらわれた。
「関心、関心」
「うわああ!」
 利菜は声を上げながら、坪井の隣を駆け抜けた。なめ太郎が足音をならして追ってきた。
 振り向くと、クモみたいに長い手足を、猿のように振り動かして追ってくる。手足をつくたびに、ダッと土が舞い散った。利菜は死体をふみつけ(おなかを踏みつけると、肉が裂けて、中にたまった空気が、ぶふう、と出てきた)、木の根に足をとられながらも必死に走った。その間も、なめ太郎が心に語りかけてくる。
「みんなお前を捨てたぞ、よくがんばったがむだだったな、父親も母親もみんなおまえをみはなしてる、おまえはここで死ぬんだっ」
 そんなことない、と利菜は言った。でも、みんなから遠ざかっているのがわかる。みんながいるのとは反対方向に走っている。だけど、後ろには、なめ太郎がいて引き返せないのだ。
 霧の中から溺死女があらわれた。利菜はあわてて方向を変えた。溺死女は死体の腕や足をちぎって投げた。利菜は死体の腕に顔をつかまれ悲鳴を上げた。それをむしりとると、助けて、と言った。誰か、助けてっ。
 隠れるところを求めて走る。呼吸をするたびに大量の蒸気が胸にはいりこむ。木にぶつかり、低木の葉に頬を切り裂かれながらも走った。
 とまれ、小娘! もう逃げてもむだだ!
「うるさい!」
 振り向かずに怒鳴る。急に目の前に階段と扉が現れた。利菜は止まれずに敷石に足をとられ、階段に身を投げ出し、賽銭箱らしきものに身を打ち当てて止まった。骨の節々に痛みが走る。折れたんじゃないか。利菜はすねを抱えた。だけど、痛がっている暇はなかった。顔を上げると、坪井となめ太郎と溺死女の三人が飛びかってきた。
 利菜は悲鳴を上げて、身をひるがえす。後ろからは三人が階段を駆け上がってくる。利菜は一歩早く、お堂の扉を開け、中に滑りこむと、扉を閉めた。
 ドタン、ドタン
 外の三人が扉に身を打ち当てる。出て来い、出て来い、とわめいている。でも、扉を開けようとする気配はなかった。
 利菜が恐る恐る格子のすきまから外をのぞいた。三人の目玉と視線があい、彼女はしりもちをついた。なめ太郎は格子にしがみついて、扉を前後にゆすってる。利菜はしりもちをついたまま後ずさった。でてこい、でてこい、でてこい!
「いやだ! ぜったい、出て行かない!」
 そこはかなり大きなお堂だった。真っ暗だが、部屋の奥に飾り壇のようなものがある。部屋はひとつきりだ。仏像の類はなく、質素なつくりで、天井には蜘蛛が巣をはっている。窓はない。お堂の外からは、なめ太郎たちがうろつく音がした。なにかをぶつけているらしい。壁がときおり音を立てた。
 利菜は、安全なお堂で少し落ち着きを取り戻した。汗をかいたせいか、ひどい寒気を感じる。呼吸をととのえようとすると、吐く息は真っ白で、冷えた洞穴にいるみたいだ。全力疾走のせいで、肺が痛んだ。いろんなものにぶつかって、全身がぼろぼろだった。目暗闇のなかを走りすぎたのだ。
 痛みにうめきながら、腰をおろす。体を点検すると、ズボンがやぶけ、ひざ小僧がのぞいている。血が光っている。
 どんな目にあってもいいように、いらないズボンをはいてきたものの、それでも残念だった。擦り傷だらけで、打ち身も多かった。わずかな身動きでも痛みが走る。
 みんなのことを感じようと、意識を集中させた。だけど、なにも感じなかった。携帯の圏外にはいったような、そんな感じだ。
「どうしよう……デンチは達郎ちゃんがもってるし」
 とつぶやいてから、自分がピンクのリュックをせおったままだったことに気がついた。
 利菜はあわててそれをおろし、中身を確かめた。入っているのは弁当だけだ。
「食事か? くれよ」
 格子の隙間からなめ太郎がのぞいている。利菜は怒って弁当を投げた。風呂敷が解け、中身がちらばった。坪井善三が、外におちた中身をむさぼりはじめた。
 利菜は弁当の風呂敷をひざに巻きつけた。腕のハンカチを撫ぜると、涙が出そうになった。それをこらえて立ち上がる。お堂を再度みかえした。
 その部屋は広くなったり狭くなったりした。まるで利菜の感情に、坪数をあわせているみたいだ。彼女は自分で自分の手をとって、みんなのことを感じようとした。何も感じない。
 大声を上げて助けを呼びたいが、外はわるいものでいっぱいだ。
 このお堂、なんでこんなに新しいんだろう。両神山に村が在ったことは知っている。でもそれは江戸時代の話だ。その人たちが建てたお堂だとしても、とっくに朽ち果てているはずだ。
 世界はねじまげられている……ねじまげられている……と彼女は考えた。でも何かを考えるには、彼女は疲れすぎていた。
 体育すわりをして、膝におでこを乗せると、少し眠った。

 彼女が目を覚ましたのは、なにかを感じたからだった。お堂の中で、なにかが動いている。なめ太郎が入ってきたのかと思ったが、ちがうようだ。彼女は目をこすった。そんなには眠っていないはずだ。
 時計をみる。十一時になっていた。おまもりさまを四時間ばかりもうろつきまわっていたことになる。みんなはどうなったんだろう? わたしをおいて外に出ちゃったんだろうか?
 いけにえだ、となめ太郎が言った。
「佳代子はそんなことしない」と言い返す。
 どうやら部屋の奥にあるのは、縦長の丸鏡のようだった。利菜はふらふらと近づいていった。ずいぶんうすぼけた鏡で、おまけにすごく曇っている。暗いせいもあるが、映っているものがよく見えなかった。
 やがて利菜は、
「銅だ、この鏡、銅でできてるっ」
 でも、何かがそこでうごめいているのは確かだ。自分が映っているんじゃない。利菜はよく見ようと、目を細めて鏡に近づいた。鏡面に息がかかって曇りがついた。曇りをぬぐおうと指をのばした。そのときだった。
 その鏡は、磁石みたいに彼女をすいよせた。利菜は銅の鏡にはりつけになった。冷たい鏡に顔がはりつく。骨を残して、皮と肉がひっぱられる。利菜は鏡に手をついて体をひっぺがそうとした。外でなめ太郎たちが歓声を上げた。
「なによっ、この鏡っ」
 利菜は手をつっぱるが、鏡の吸引力はさらにつよくなる。そのうち鏡の向こうがはっきりしてきて、誰かが手をついていることを知った。
「手を離しなさいよ!」
 と利菜は言った。その人物は、うろたえたようだった。
 そのうち鏡の色が変わり、坪井の家でみたあの真っ黒な穴が鏡に広がった。どろどろとした瘴気が漂いだし、腕や体に巻きついてくる。その瘴気はわたアメみたいにしっかりしている。
「離してっ、離せ!」
 その言葉は、この日、彼女がこの世界に残した最後の言葉になった。吸いこみがぐっと強くなり、腕が鏡にめりこんだ。足をつっぱりこらえるが、踵があがってとてもこらえきれなくなる。利菜は穴から身を離そうと、ぐっと背をそらした。
 その瞬間、穴はぐわりとその輪を広げ、瘴気もろとも彼女を飲みこんだ。
 利菜がこの世から姿を消すと、黒い穴はなくなった。異界との鏡は、またもとの銅の鏡に戻った。
 そして、なめ太郎や溺死女の狂喜の叫びも、同時に消えたのだった。

第九章 ナバホ族

        十三

 一九九五年 ――おまもりさまにて

 子供たちは何かに追い立てられるような急ぎ足だった。目に映るのは真っ白な霧だけだ。一刻も早く林を抜けるよう、つんのめりながら歩く。枝葉に頬を引っかかれ、下草や死体に足をとられた。帰り道をたどれているのか、まったくわからない。
 ときおり、寛太のつけた×印にでくわした。夜のような闇が、だんだん明るくなる。霧が晴れてきた。達郎が頬をなでる風に気がついたとき、みんなの目に入り口である蔓網が見えた。利菜がいないことに気づいたのは、やっぱり杉浦佳代子だった。
「利菜は?」
 達郎が振り向く。後ろにくっついていたはずの利菜が、姿を消していた。
「はぐれたのか?」
 寛太は、利菜いないのか? と途方にくれて繰り返す。
「そんな……」佳代子は呆然と胸に手をあてた。「あたしたちあの子置いてきちゃったの? あの子忘れてきちゃったの?」
 達郎はみんなに急いで手をつながせた。彼らは一人足りない環になった。あの力は残っている。でも、かすかだ。利菜のことが感じられない。
 みんなは意識の触手をのばし、森のあちこちをさぐったが、利菜の気配はどこにもなかった。
 達郎は呆然と森をかえりみる。「大変だ、利菜をとられた……」
 彼らは来た道をあわてて引き返す。霧は潮が引くみたいに、あっという間になくなった。死体もない。そこはもうおまもりさまではなかった。あの不可思議なジャングルは消えた。ふだんの雑木林に戻っていたのだ。
 利菜を探してうろつきまわる間も、あせりはひどくなる一方だった。彼らはかなりの距離を引き返した。大声で利菜を呼んだが、声はうつろに響くばかりで、返事はない。達郎たちはこの雑木林に[#「この雑木林に」に傍点]、利菜がいないことを確信した。おまもりさまに残してきたのだ。
「だめだ、戻れない!」
 寛太が絶望したように叫んだ。彼は懐中電灯をつけたままだ。達郎はそれに気づいて自分のデンチの明かりを消した。寛太もまねした。
 真っ暗だったはずの林は、八月の明かりを取り戻していた。熱気がどっと襲いかかり、五人は汗だくになっている。
「利菜をとったから、元に戻ったんだ。あいつら、あたしたちに、あの子を返さない気だよ」
 佳代子は半べそでヒステリーを起こしかけている。紗英が腕をとろうとしたが、彼女はその手を振り払い、みんなから離れてしまった。佳代子は自分が利菜を見捨てたみたいな気になった。そのことを思い、彼女は泣いた。
 達郎は迷った、佳代子を見た。利菜を残して林を出るなんて、納得しないに違いない。でも助けがほしい、大人の助けがいる。自分たちは、もうふつうの子供に戻っている。その証拠に、幻覚すら見なくなっている。
 達郎は、いまさらながら気がついた。自分たちが信じたから、幻覚は現実化していった。そんな気がした。でも、もう信じるもくそもない。ヘトヘトで、わずかな意志力さえなくなっていたのだ。
 おまもりさまの外には大人がいる。あのときは様子がおかしかったけど、でも今なら……
「みんな外に出よう」
「利菜はどうするのよ!」
「おれたちじゃみつからない、見つけられないんだっ。捜索隊を呼ぶしかないだろっ」
「達郎ちゃんまちがってるよ……」と佳代子は言った。「あたしたちにみつけられないんなら、大人にだって見つけられっこない。だって利菜はおまもりさまにいるんだよ、ここにはいないのっ。それがわからない!」
 達郎はぐっと黙った。自分が正しいのか、佳代子が正しいのか、もうわからなくなった。

        十四

 そのころ、寛太と新治は、利菜をさがして、やみくもに歩き回っていた。暑さと湿気が、二人の小学生の体力を奪う。死体がなくなったとはいえ、ここがおまもりさまなのにはちがいないのだ。どこかにあのジャングルに通じる通路があるはずだ。自分たちには、その通路が見つけられると思った。
 彼らは斜面をのぼった。目の前に蔓網が見えた。奥を目指していたはずなのに、いつのまにか引き返してしまったらしい。
「寛ちゃんっ、見てよっ」
 新治が指差した。蔓網の前に、誰かが倒れている。新治は、利菜だ、と駆け寄りかけたが、すぐに足をゆるめた。駆け足が早足になり――やがて歩いて、かれは立ち止まる。
 利菜じゃない、あれは死体だ。
 ぶんぶんというハエの羽音がする。それにものすごい悪臭だ。
 その人が着ている服には、見覚えがあった。
「国村さんだ……」
 と新治は言った。

        十五

「おい、大変だ、みんな来てくれよ!」
 言い争いをする達郎と佳代子の耳に(達郎はもうおまもりさまに戻るのは無理だと考えていて、一方佳代子は必ず戻れるはずだと信じていた)、寛太の声が届いてきた。
 彼らはおそるおそる国村のそばによった。
 最後の五メートルを残して立ち止まった。おまもりさまでは死体に手をふれた寛太も、今度は無理だった。国村の遺体は、真夏の陽気で完全に腐りきっている。ぶんぶんという羽音が高く響く。人間の体が、こんな悪臭を放つなんて、信じられなかった。
 こいつらは国村さんを巣箱にしてるんだ、と思うと、新治は吐き気がした。国村の体の中では、蛆虫がうごめいている。
 あれはもう国村さんじゃない。紗英は泣きながら、達郎の背中に隠れる。佳代子が腕をつかんだ。
「早くしないと、利菜もあんなになるよ」
 達郎は答えることができない。国村から目が離せない。
 新治が言った。「国村さんはあのとき死んでたんだ。国村さんもつかまったんだよ」
 達郎は佳代子を見た。「このことを伝えないと。警察に知らせないと……」
「いやよ!」佳代子が怒鳴り、その声がみんなの体をびりびりと震わせた。「利菜はいるんだよ! ここにいるんだよ! 利菜をおいてけない!」
「でも、おれたちじゃ、もうむりだ!」
「手をつないでよっ」と佳代子は言った。「手をつないでよ、おまもりさまに戻るんだから!」
 達郎はしぶしぶその手を握った。みんなもそうした。
 彼らは目を閉じて、利菜を念じた。なにも感じられなかった。五分ばかりも、冷や汗をかいていたろうか? 誰もがつかれきって、意識の集中もむずかしかった。脳みそが疲労物質でうずくまっている。この日感じた力は、のきなみ喪失していた。利菜は感じられない。
「どうしたらいいの……?」
 と佳代子は言った。その声は、ぞっとする喪失感に震えていた。
 達郎は妥協案をだした。彼は寛太と新治に言った。
「二人とも草原を降りて、利菜の親父さんを呼んできてくれよ。そんで佳代子のおばさんには、警察を呼んでもらうんだ。利菜がいなくなったって、国村さんの死体をみつけたって、ちゃんというんだぞ。あたごまで行って、捜索隊をはけんしてもらえ。俺たちも一緒なら、利菜を見つけられるかもしれない」
 寛太と新治はおとなしくうなずいた。達郎の真剣なまなざしが突き刺さるみたいだ。彼だって、利菜を救うために、必死だったのだ。

        十六

 林を出た二人は、ひまわりが消えているのを見た。アスレチックは大岩に喰らいつき壊れたままだったが、あれだって他の人には見えないのかもしれない。寛太と新治は、腕を上げて服の臭いをクンクンと嗅いだ。国村の臭いが、あまりにも強烈だったためだ。
 二人は駐車場を目指して走った。草原をかけあがってくる俊郎と登美子が見えた。
「おじさん!」
 寛太が呼びかけると、敏郎が顔を上げた。
「寛太っ」
 とおじさんは呼び捨てにした、ふだんは竹村君というのに。きっと必死だったからだろう。それで寛太にも敏郎が元に戻っていることがわかった。
「たいへんなんだ、利菜が林でまよったんだよっ」
 おじさんに空白が訪れた。これまでの彼とは違って、実に人間らしい表情だった。俊郎は娘がいなくなったときいて、茫然自失となったのだ。
「あんたたち、なんであんなところに行ったのっ」
 登美子が二人をなじったが、誰も聞いている暇がない。
「おれたち国村さんの死体も見つけたんだよっ」
 俊郎の目に意識の光が戻った。
「国村って、あの国村さんか? あの人が死んだのか?」
 子供たちがうなずくと、敏郎は林に向かって走り始めた。新治が続いた。登美子も後につづこうとしたが、寛太が体を張ってとめた。彼はラグビーをするみたいに登美子の腰に組み付いた。
「おばさん、人を呼んでくれよっ、大勢呼んでくれよっ」
「竹村君? 佳代子はあの中にいるんでしょ? 林にいるの?」
 登美子は寛太の腕をとって言った。毛穴がひらくような、鬼気迫る表情だった。
「だけど、国村さんが死んでるんだっ」
「なんであんなところに……」
 登美子は言った。わたしはなんでこんなところに……? という言葉も続いているようだった。
 おまもりさまに背を向けると、車に向かって歩き出す。寛太は、二人とも目が覚めたら(といっても、眠っていたわけではなかったのだが)両神山にいたんだから、驚いたんだろうな、と考えた。彼は振り返ると、すぐに戻ってくるから待ってろよ、と念じた。みんながその思いを感じとってくれることを願った。
 それから、登美子の後をおって草原を降りていった。
 子供たちはその後も、利菜の姿を捜し求めたが、見つかることはなかった。
 実のところ、彼女は、この世界にすらいなかったのである。

        十七

 ジノビリ暦三年 ――イニシエの森にて

 樹齢は千年を越し、樹高は百メートルを越えている。家一軒が入るほどの樹幹があった。そんな大木が、天をつくように立ち並んでいる。
 木々の隙間を、二メートルはありそうな巨大な鳥が滑空していく。恐竜好きの佳代子が見たら、プテラノドンだと言って喜んだろう。大地は苔むし、おまもりさまの景色に少し似ていた。イニシエの森と呼ばれる、大陸の三分の一を占める、広大な森だ。
 毛むくじゃらの生き物が、倒木の隙間にうごめいている。その目は人間のような知性を感じさせるうえに、二本足で歩いていた。イニシエサマと呼ばれる、猿に似た真っ黒な生き物、鹿に似たクルエツボ……じつに多彩な動物が集まっていたが、彼らが見守っているのは四人のサイポッツの少年だった。
 そのうちの二人は、青年といっていい年齢だ。一人は中肉中背で、ビスコといった。筋肉質で、精悍な顔をしている。もう一人はノーマといって、とても痩せて長身だった。二人の少年のうちの一人は、ペックと呼ばれていた。とても太っている。この三人が貴族で、ヒッピという少年だけが、平民だ。
 サイポッツたちは、イニシエの森の生き物に気がついていない。
 動物たちは気配を殺し、四人の行状を見守っていた。
 だが、子供たちの様子がおかしくなると、彼らは隠れるのをやめ、身を乗り出した。

 四人は、大鏡と向かい合っていた。二メートルばかりもある、楕円形の鏡である。銀の装飾を施された鏡は、ぽっかりと開いた空き地に、石台とともにあった。彼らは死んだと思われている、ハッツ王を呼び出そうとしている。
 二人の青年と二人の少年は、恐怖に息をつめていた。上空でいくつもの鳥が、ぎゃあぎゃあと泣き喚いた。
 大鏡にむかっている少年――ヒッピはひときわ小柄だったが、その目には強い好奇心と、人知られぬ意志の輝きを感じさせた。明るいブルーの瞳が、今は恐怖に見開かれている。
 彼は大鏡に向かって手を伸ばしている。指は鏡にふれている。その冷たさに脳がしびれあがるが、離すことができなかった。強力な粘着剤で、ぴったりとくっつけられたかのようだ。
 大鏡からはどす黒い煙とともに、突風が吹きつける。ヒッピは風にあおられて、背筋を大きくそらし、呼吸も満足にできなかった。口の中まで風が吹き荒れ、叫ぶこともできない。
「ヒッピ、もう手を離せ!」
 ペックが言った。ヒッピはなにか答えようとしたが、首がぴくりとも動かない。視線すらも、鏡の向こうに吸われていく。突風で瞳が乾き、こぼれた涙は吹き飛ばされていく。
 誰かいる……。くぐもった鏡の向こうで、なにかがうごめいている。小柄な人影だ。ひどくあわてているみたいだ。その子が手を伸ばしてくる。ヒッピは逃れようと体をよじったが、その子の指が、彼の指と重なり合った。とたんに、右膝と腕に鋭い痛みが走った。関節が軋みをあげ、ヒッピは顔をしかめた。あばらに走る痛みに、ヒッピはあえぐ。
 相手がなにかを言った。
 ヒッピは、その女の子の意識や感情が、自分に向かって流れこんでくるのを感じた(女の子、女の子だ!)。その子は友達と離れて独りぼっちになっている、何かに追われていたこともわかった。その子の恐怖を感じ、ヒッピはついに悲鳴を上げた。仲間が彼の体に手をかけ、大鏡から引き離そうとした。
「利菜だ!」
 ヒッピが叫ぶと、ノーマとビスコは、驚愕の表情を見合わせる。
 ヒッピの手が大鏡から離れかけた瞬間、鏡の向こうから、にゅっと指が突き出てくるのが見えた(ヒッピの指とは、ぴったりくっついたままだった)。次に、頭が大鏡を通り抜けた。
 三人は仰天しながらも、ヒッピの体を引きつづける。肩が出た。腰も通った。四人は石畳の上に倒れこむ。最後に、足が鏡を通り抜けた。その血みどろの女の子は、どさりと地面に崩れ落ちた。
 彼らは呆然とその子を見下ろした。
 女の子は、ヒッピの足元にうずくまっている。背の高いノーマが、ゆったりとした足取りで女の子の脇にまわった。一瞬だけ、大鏡を見上げた。
 鏡面は真っ黒な渦を巻いている。今はなにも映していない。
 彼は少女の肩をゆすった。生乾きの血がべったりと手のひらにつき、ノーマは顔をしかめた。
「死んでいるのか?」
 とビスコが訊いた。二人はひどく仲が悪い。ノーマはじろりとビスコをにらみつけただけで、何も言わなかった。
「大鏡から出てきたぞ。ハッツ王を呼び出すはずだろうっ」
「この儀式は本物だったんですよ」ペックが、親友のヒッピを、助けるように抱える。「古臭くて、試したものもなくて、すくなくとも僕らはやった人間を知らないけど、本物だったんだ」
「ならば、なぜ国王が出てこなかったんだ!」
「こういうことではないですか? ……ぼくらはハッツ王の霊魂を呼び出すつもりだった。でも、ハッツ王は死んでいなかった」
「この子はなんだ? 国王の代わりに出てきたとでも言うのか?」とビスコは言った。「死人なのか?」
 霊魂にはとてもみえん……と彼はつぶやいた。
 ヒッピは、さきほどその女の子と意識を共有した。だから、彼女が死んでいないことを知っていた。血まみれで、ぼろぼろ、呼吸もしていないように見えるが、ちゃんと生きていると彼は思った。
「あなたはこんな儀式、信じていなかったのではないのですか?」
 ヒッピはペックに助け起こされながら、ひどくしゃがれた声で言った。ビスコは少年をにらみつけた。
「いったい誰なんです?」ペックが言った。「ぼくらとおなじサイポッツですか?」
 ビスコがさげすむように言った。「黒髪のサイポッツなどいない。きっと別種族だろう……」
 ノーマはうなずいた。ビスコはいけすかない差別主義者だが、頭のつくりは合理的だ。
「死んでるんですか?」
 ペックが訊いた。ノーマが答えようとしたが、その前に、女の子はうめき声をもらした。四人が見守る中で、その子はゆっくりと身を起こした。

        十八

 うめき声がもれる……。
 骨がひしゃげ、肉の裂ける痛みがあった。
 意識がまたはっきりとした。彼女は自分がつばを垂らしているのを知っている。おまもりさまに来たことも、お堂で銅の鏡に吸いこまれたことも覚えている。だが、なぜ、そんなことになったのかがわからなかった。
 利菜は坪井の家で見た、黒い渦を思い出した。あのときはあの穴から登美子が出てきた。自分はあの向こう側に来たんだと思った。
 なんとか起き上がろうとするが、視界がかすんでひどく気分が悪かった。喘息にかかったみたいに、息がうまく吸えない。顔を上げることもできなかった。
 大鏡をぬける瞬間、彼女は誰かと意識を共有した(少年……相手は少年だった)。佳代子や紗英たちと手をつないだときより、ずっと強くその少年と絆を持った。
 吐きそうになり、利菜はゆっくりと体を仰向けにする。わずかだが、吐き気が遠のいた。
 ぼやけた視界を、三つの顔がのぞきこんでいた。利菜はなめ太郎に捕まったんだと思った。なめ太郎と、溺死女と、坪井善三に。それとも、また殺人現場に居合わせているんだろうか。銃剣をもった兵隊を思い出す。今度はこの三人に殺されるんだ……。
 焦点があった。その三人はまだ少年といっていい年で(とくにその中の一人)、外国人だった。三人ともみごとな金髪をしている。
 利菜は青い目玉をのぞきこむ。そこには気遣わしげな色さえあった。
 だんだん知覚がはっきりする。彼女は三人の顔を越して、森の景色を眺め渡した。雲をつくような巨大な木々だ。ここは少なくともおまもりさまではない。あの森の、草木一本までもが発していた邪悪な妖気を、ここでは感じない。
 利菜は、不思議と、ネバエンディングストーリーという映画のワンシーンを思い浮かべた。虚無におかされた太古の森に、どこかしらにていた。
 利菜はこの三人もわるいものの見せる幻覚かと思った。でも、彼女は、あの少年と、まだ意識を共有している。その少年の目が、自分の視覚と重なり、利菜は血みどろの自分の姿を目にする。裂けたシャツが体に貼りつき、幼い胸のふくらみがわかる。血に濡れそぼった髪のせいで、できそこないの溺死女みたいに見えた。
 胃袋の中身がのどを突き上げ、利菜はまたその場に突っ伏した。硬い岩の地面に頭部が落ちて、その痛みがまた彼女の意識をはっきりとさせる。利菜は佳代子たちとやったときのように、なんとか意識を遮断しようとした。五感と重なりあっていた少年が、少し遠のき、彼女はようやく落ち着きを取り戻したが、それでも少年の感情や考えを読み取ることができた。
 こいつわるいものなんかじゃない、と利菜は思った。幻覚ではないんだと。なぜかそのことが怖かった。自分の中にいた少年の名はヒッピだ。涙がこみ上げてきた。ヒッピのことは感じられる。[#「ヒッピのことは感じられる。」に傍点]でも、佳代子たちのことは、どこにも感じないのだ。
「ここはどこ?」
 彼女は口を手で覆うようにする。
「君こそ、誰だ?」
 と青年の一人が言った。名前はビスコだ。利菜はその青年を知っている[#「知っている」に傍点]ことが恐ろしかった。佳代子や紗英のことを知っているみたいに、その青年のことを知っている。おまけにビスコが、まったく知らない異国の言葉をしゃべっているのに(少なくとも日本語ではまったくなかった)、自分はちゃんと理解してもいた。
 疲労から震えが起きる唇を、ぞろりとなめた。ビスコが貴族で、ヒッピを嫌っているのは、平民だからだ。ビスコは平民を見下し、それでヒッピは彼のことを快く思っていない。まるで、自分が嫌われているみたいな、ひどい扱いを受けたみたいな気になった。記憶を共有しているからだ。それはまるで失った記憶を、取り戻したような感覚だ。
 のっぽの青年はノーマで、どうやらこの人はいい人らしい。ヒッピは嫌ってはいない(もちろんヒッピが弟のような扱いを受けているからといって、自分が妹のような扱いを受けるとは限らない。そんな考えは危険だ)。
 利菜は重い頭を持ち上げた。三人とは離れたところでうずくまっているヒッピを見た。腰をぬかすほどに驚いている。彼の瞳の向こうに自分がいるような気がして、また岩に頭を預ける。
 ヒッピから流れこんだ情報は、全体から見ればごく一部だった。それでも整理ができずに、めまいがおこる。百科事典を、むりやり頭につめこまれた感じがした。その逆もおこったんだと思うと、彼女は逆上した。
「あんたたちが、あたしを呼び出したのねっ」
 しゃべりながら、利菜は自分が彼らの言葉を口にしていることに気づき困惑した。彼らも当惑している。「あんたたちのせいじゃないっ。元いたとこに戻してよ!」
「ぼくらはハッツ王を呼び出そうとしたんだ!」とペックが言った。
「あたしはそのハッツなんかじゃない!」
 ビスコが冷笑した。「そんなことはわかっている」
「なにがおかしいのよ、この身分差別のサディスト野郎っ」
 ビスコは最初面くらい、次に真っ赤になって怒りをあらわした。
「きさまはいったい何者だっ。なぜサイポッツのことばをしゃべってる? この血はなんだっ?」
 利菜はビスコに腕をとられて顔をしかめた。腕の傷に、指がふれたのだ。
 同時に、ヒッピも驚きの声を上げた。彼も腕を押さえている。
「怪我をしてるのか?」
 ビスコが手を離す。ノーマが彼女に近づいた。その青年がものすごい男前だったので、彼女はちょっとどぎまぎした。ヒッピのせいで、つい心を許してしまいそうになる。気をつけなくちゃいけないはずなのに、この三人が仲間みたいな、そんな気になってくる。
 ノーマが言った。「元いた場所とはどういうことだ? いや、大鏡から出てきたことは知っている。だが、われわれが呼び出そうとしたのは、死人だ」
「わたしは、死んでない……」と彼女は確信をもてずに言った。「ここって、外国? あんたたちこそ、死人じゃないよね」
 三人は、困惑の表情をかわしている。
 うずくまったままのヒッピが言った。
「君はまったく別の森にいたんだ。この子は、サイポッツじゃない」
 やっぱりあいつもあたしのことがわかってるんだ。利菜は怒りに唇をかみしめた。知らないやつに、自分のことを残らず知られるのはいやな気分だった。
「ぼくだっておんなじだ」とヒッピが言い返した。彼は立ち上がった。
「この子は友達と一緒にいたんですよ。恐ろしい目にあったんだ」ヒッピは一瞬記憶をたどるようなそぶりを見せた。「だから、血まみれなのか?」
 利菜がうなずいた。ヒッピは大鏡を通して、おまもりさまで利菜の身に起こったことを、まさしく体を通して体験した。彼は見知らぬ子供たちの苦悩をしり、身震いをする。だけど、それは三人の仲間のあずかり知らぬところ。
 ペックが、「なんでこの子のことを知ってるんだ?」と訊いた。
 ヒッピは唇をなめた。説明するのは難しかった。彼は懸命に言葉を選んだ。頭をぐるぐるまわっている言葉が、利菜には目に見えるようだ。
「ぼくらは大鏡をはさんで手をくっつけあった。そのとき、その子がぼくの中に入ってきたんだ」
「なにをいってるんだ?」とビスコは眉を寄せる。
「この子の感情とか、痛みがはいってきたんです、記憶もっ。まるでこの子になったみたいな感じだった。名前はリナだ。友達の名前もわかる」彼は腕を押さえる。「さっきビスコがさわったとき、ぼくも腕が痛んだんです。傷はないのに、今も腕が痛いっ。この子の考えが読めるような気がする……」
 ヒッピが利菜に腕を伸ばし、目をのぞきこんだ。
「やめてよっ」
 と視線をそらす。ヒッピのことが怖くなった。こんな目にあっているのに、氷みたいに冷静なやつだ。利菜は佳代子たちと意識の共有を体験しているが、ヒッピは初めてのはずだ。
 それに、彼を見ていると、心の奥まで読み取れそうな気がする。
 おまもりさまにいたときより、ずっと力が強くなっている。それにすごく眠たかった。脳の疲労が顔全体に降りて、皮膚がごわごわする。いますぐに眠りこけてしまいたかった。ここが自宅のマンションなら、どんなにかよかったのに。
 それよりも、佳代子たちはどこにいったんだろう? あの子たちがぜんぜんかんじとれない……。
「この子は向こうの世界でも、友達とこんなふうにつながり合ってたんだ。心をひとつにしていた」
「おい」
 ビスコが怖い顔をして、ヒッピの肩をつかんだ。利菜は自分の肩もつかまれた感触がして(もちろんそれはヒッピが感じているものよりずっと薄らかなものだったが)、右肩に目を落とした。
「おまえは今、向こうの世界と言ったな。向こうの世界と……」
 それはヒッピに対するというより、自問に近いものだった。利菜は唾を呑んだ。心が冷たくなった。
 彼女だって、心のどこかではその可能性を考えたが、取り上げたくはなかったのだ。
「そうとしか言いようがないんですっ」
 ヒッピがビスコの腕を振り払った。
 ノーマが言った。「いつもの幻覚ではないのか?」
 利菜は驚いて彼を見た。
「幻覚を見てるの?」
 彼女の目は、いつもの二倍ぐらいに見開かれる。驚きで心臓の鼓動が早くなる。胸が痛かった。脳だけではなく、心肺機能もいかれている。脳に酸素を送るために、無理な呼吸をしてきたからだ。いますぐに眠りこけるかして、少しでも疲れをとらないとやばいと彼女は直覚する。だけど、この四人に訊くことがある。
「幻覚を見てるの? 夢はどうなのよ? 無意識に行動したり……自分で考えてることが、現実に起こったりする?」
「なにをいってるんだ……」
 ビスコは否定しようとしたが、その声は弱弱しかった。だけど、ヒッピの目は、彼女の質問を肯定していた。肯定しているのが、感じられる。
「あんたたちもなの?」と彼女はまた訊いた。
「それはどういう意味だ……」とノーマが言った。
 利菜は癇癪をおこした。胸に手を当てた。「あたしにもなのよ。あたしにも、この子の考えやいろんな記憶が流れこんできたっ。全部じゃないけどっ。だからあんたたちのことがわかるの! あんたたちは……すごくやばいことになってる。まわりで人が死んでるんでしょ? 詳しいことはわかんない……でも、追い詰められたから、ここに来たんじゃないの? ここで儀式をしたんだ。ちがう?」
 四人は彼女の強い視線に、顔をそむける。
 頭のアンテナがどんどんふくれあがっていく。ここはおまもりさまじゃない。もうどんなにアンテナを伸ばしても、友達のことも父さんのことも、神保町のことも感じとれない。自分はすごく遠い所にきた。もしかしたら、ヒッピの言うとおり、ほんとに別の世界にやってきたのかもしれない。
 利菜は言った。「手を出しなさいよっ」
 とまどうヒッピに歩み寄ると、その手を握った。
 利菜は、彼女の記憶を流しこんでやった。自分たちがこの夏に経験したこと、わるいもののこと、友達との間に起こったこと、おまもりさまでの出来事を。何でこんなことができるのかはわからなかった。でも、できることを[#「できることを」に傍点]知っていたのだ。
 ヒッピが痙攣を起こし、唾をたらした。彼はうめきを上げている。
 ビスコが利菜を殴りつけた。
「やめろ!」
 ノーマがビスコを突き飛ばした。ペックが利菜を助けおこした。彼女の口の端から血が流れるのを見て、ペックは言った。
「ひどいじゃないですかっ」
「おれは、こんなことのために、危険な森に来たんじゃないっ」ビスコは憎悪のまなざしで身を起こす。「きさまら、よく考えてみろ、大鏡から出てきた、血みどろの子供だぞ!」
「出てきたくて来たんじゃない!」
 利菜は口の中を切ったようだ。ぺっとつばを吐くと、赤いものが地面に落ちた。
「ヒッピ、大丈夫か?」
 ビスコが言った。ヒッピは両手をついて頭を振っている。利菜は、この子のほっぺたにもおんなじ痛みが走ったんだ、と思った。
 ヒッピがつばをはくと、やはり赤いものが混じっていた。みんなは、ぞっとその光景をみた。ヒッピはその唾を見ながら、
「きみの世界もおんなじなのか? 犯罪が増えてるんだな?」
 利菜はうなずいた。
「親やまわりの人間がおかしくなってるんだ、そうだな?」
 またうなずく。
「どういうことだ?」ノーマが訊いた。
「この子がぼくに見せてくれたんだ。なんだかわかってきたぞ」
 利菜にもわかった。同じことが、別々の世界で起こっているのだ。だけど、状況はこの世界のほうがずっと悪いようだ。ヒッピたちは、いろんな国と戦争をしている。禁制だらけで、自由に物を言えない状態だ。
 それにこの四人の、憔悴しきった表情。この顔は達郎たちとおんなじだ。幻覚や、頭のなかの空想が現実になることで、追い詰められていったものの表情。
 利菜は頭をかかえこんだ。割れるように痛かった。もう立っているのもやっとだ。利菜の中にはまだヒッピがいたから、この四人が幻覚をみていたことも、素直に信じられた。おさそいのことを、悪いものと呼んでいたかどうかは別として、おなじ体験をしているのが感じられたのだ。
 足元がふらつきだす。
 ヒッピが利菜にかわって言った。
「この子たちも幻覚や幻聴をきいていたんです。まわりの人間がおかしくなってることまでおんなじだ」
「そんなばかな、そんなばかげた話が信じられるか?」
「でも、現実としてこの子はいるでしょうっ?」
 ビスコとヒッピが言い争いをはじめた。
 ヒッピから受け取った知識だけを点検してみても、この四人が大変な目にあってここまで来たのだということをうかがい知ることができた。ここは、サイポッツの国からは遠く離れている。この森は、おまもりさまのような、町の近辺にあるキャンプスポットではなくて、富士の樹海のように危険なところなのだ。
 ついに、肩膝をついた。ペックとノーマが支えた。利菜はそのとき、二人の着ているのが、豪奢な生地でできた神官衣であることを知った。本気で死者を呼び出そうと考えていたのかどうかはわからないが、行為を行ったことだけはわかる。そのおかげで、自分はあのお堂を抜け出すことができたのだ。それが、よかったのかどうかはわからなかった。
 だけど、ここはすくなくとも、おまもりさまほど危険じゃない。
 ノーマが森の奥を透かし見ている。利菜も空気の異変を感じ取った。不自然な静寂があった。その静寂を切り裂く音がした。
「くそっ」
 とノーマは言った。森の木々の影には、巨大な獣が群れをなしていた。利菜は熊かと思った。でも、熊にしては動きが変だ。
 完全な二足歩行をしているように見える。
「お前らやめろっ。ナバホ族だ!」
 巨大な槍がうなりをあげて飛来し、ビスコの足元に突き刺さった。太鼓やシンバルの音が森に響き、戦いを告げる鬨の声が上がる。
 木々の合間から、毛むくじゃらの男たちが躍り出てきた。

        十九

トゥルーシャドウ

 ナバホ族には十の氏族があるが、そのうちの一つであるスーの戦士たちは、疲れ果てていた。サイポッツとの戦闘が、男たちを消耗させていた。群れの長をつとめるトゥルーシャドウは、男たちを励ますのがやっとだった。サイポッツたちは、集団で戦闘を仕掛けてくる。戦うことを専門にした軍隊だ。
 ナバホ族はイニシエの森に住む太古の種族である。広大な森のあちこちに、それぞれの集落をつくっている。ナバホの男たちはみな巨体で、サイポッツに比べると身の丈は倍ほどもある。生まれついての豪力に加え、森での暮らしのせいか、みな敏捷だった。その顔は狼に似て、五感に優れている。
 イニシエの森には数十になる種族がいるが、ナバホ族に手を出すものはなかった。イニシエの森にくるサイポッツは数少なかったが、彼らはナバホ族のことを、毛のある人々と呼び、敬っていたのだ。
 はじめのうち、トゥルーシャドウたちは狩をするのと同じやり方で戦った。トゥルーシャドウは狩のときにつかう銀の仮面を、今もつけている。
 サイポッツが相手なら、三人にかかられようがナバホの種族が負けるはずがなかった。しかし、軍隊の立てる作戦は巧妙で、トゥルーシャドウたちは戦闘のたびに数を減らしていた。仲間の多くは傷つき、氏族のひとつである、モノの裏切りにも心を痛めていた。
「大丈夫か、トゥルーシャドウ?」
 気がつくとリトルロックがそばに来ていた。彼は狩の副官であり、トゥルーシャドウの親友だ。
「他のものを見てやれ。おれならば、五体軒昂だ」
「無理をするな」リトルロックは邪険に答えた。「けがをしているぞ」
 リトルロックは、すりつぶした薬草を差し出してきた。
 トゥルーシャドウは、美しく彩色のほどこされた、金の仮面をとりはずした。
 男たちは染料で自らの毛皮を染め、各家に伝わる衣を身にまとって戦った。サイポッツのつかう火薬は、それらの衣装をぼろきれに変えてしまった。代々伝わってきた装束を、二度と使えぬものにかえられ、トゥルーシャドウたちはいらだっていた。
「バロウズが荒れているな……」
「あいつはシャムナックと仲がよかった」
「一緒に戦っていたのか」
「うむ」
 サイポッツとの戦いが進むにつれ、トゥルーシャドウたちも、伝統的な狩の手法を捨てるしかなくなった。狩は必要な食用を得るためのもので、戦闘や無用な殺戮とは無縁だったのだ。
 トゥルーシャドウは三人を一つの単位にして戦わせていたが、それも日がたつにつれ、欠けるものが多くなった。トゥルーシャドウは仮面をじっとみつめ、バロウズの苦境を思った。目の前でともに育った仲間が死ぬのは、耐えられぬことだった。
 トゥルーシャドウは恐れを知らぬ男だと思われていたし、自分でもそう思ってきた。だが、今では恐怖にどっぷりとつかっている。彼とリトルロック、バロウズの三人だけが、ナバホの死体の山を目にしていたからだ。サイポッツの兵隊たちは、ミオの住人を殺しつくしていたのだ。ナバホの死体が、まるで薪かなにかのように積み上げられていた。
 トゥルーシャドウには、あのときのバロウズの言葉が忘れられない。あいつらの目的は、これか――?
 ナバホの各氏族は、おおよそ百人ばかりの集落をつくっている。千人以上の人口が存在することになるが、サイポッツとの戦争がはじまっていらい、五百人ほどに数が減っていた。たった半年のことである。彼らが根絶やしとなり、この世から消え去る日も、そう遠くはない。
 虐殺にあっていたのは、なにもナバホだけではない。そうした死体が築くサイポッツのオブジェは森のあちこちにできていた。死体を木につるし、なますぎりにし、内臓を引きずり出し、さらしものにされた。切り離した手足をつかって、子供の工作のように、つなげていたこともあった。サイポッツの行動は、たんなる殲滅作戦というだけでは足りなかった。ひとつの村を襲った後は、女子供にいたるまで殺しつくし、焼き尽くしを行っていた。種族の生活した痕跡すらも消そうとしているかのようだ。トゥルーシャドウにはわからなかった。
 なぜ、あいつらはこんな真似を――?
 おかしなことはほかにもあった。トゥルーシャドウたちは、最近森でよく迷うのである。サイポッツならいざ知らず、ナバホの自分たちが迷うことなど、これまでになかったことだ。感覚が狂ったというより、地形が変化しているようだった。見たこともないような動植物が出現することもある。
 だが、ナバホのスーは負けんぞ。決してサイポッツの軍門にはくだらん。
 トゥルーシャドウは顔を上げると、バロウズのもとに歩み寄った。
 トゥルーシャドウはリトルロックにささやいた。
「やつらは何かを探している。それがなんなのかを知ることだな」
「だからといって、おれたちを殺す理由にはならんぞ」
 トゥルーシャドウはうなずいた。
「だが、なぜかおれたちに恨みを持っている」
「ばかな、やつらに恨みを抱かれることなどあるかっ」
 バロウズがききとがめた。
「サイポッツたちは何を考えているんだ。このまま殺しを続けるつもりか?」
 ワークバイスが薬草を噛み砕いて言った。
 スーはナバホの中でも、三番目に大きな集落を形成していた。ナバホ族は工芸に巧みで、サイポッツとも古くから交易があった。金銀の品々を国王に贈ったこともある。一年前までは、良好な関係を築いていたのだ。ここにいるワークバイスも有能な工芸家で、サイポッツの技術者を招いたときは、またたくまに彼らの建築を理解し、水道の建設に尽力した。
「あいつら、砂漠の種族とも戦闘をしているそうじゃないか」
 クランドルが薬草を吐き捨てた。
「サイポッツは数も多いからな。おれたちと戦っても、兵隊の頭数には困らんのだ」
「ミオの連中は行方知れずのままだぞ。みんな殺されたんだろうか?」とワークバイス。
 サイポッツたちは、ナバホのミオを襲い、彼らのもつ鉱山を奪い取った。長老たちが全氏族の男を集め、向かわせたときには、集落にいた大半が殺されてしまった。残りの者は今も見つかっていない。
 サイポッツは他の集落をつぎつぎ襲い、虐殺を繰り返した。モノとシャム、マイルの三氏が早々と降伏してしまった。トゥルーシャドウは裏切りを恐れ、仲間の氏族と連携もとれない有様だった。
「このさきどうなるんだ、トゥルーシャドウ?」ワークバイスが言った。「あいつらは頭がいかれてるとしか思えん。おれたちを殺してなんになるというんだ?」
「皮をはいで毛皮を高く売るのさ」クランドルが答えた。
「理由にならんな。毛皮よりも、工芸をやりとりしたほうが儲かる」トゥルーシャドウが言った。「あいつらは鉱山を掘ったところで、細工をする技量がない」
「だから、ミオの生き残りを連れて行ったのか?」
「サイポッツの言うことをきくナバホはいない」
「じゃあ、モノの連中はどうなんだ? シャムもマイルもサイポッツに降伏したじゃないか」バロウズが言った。いずれもナバホの氏族だった。
「女子供を殺されればいやでもそうなるさ」リトルロックがぼんやりと答えた。「他の族長だっておんなじだ」
「冗談ではない! おれはシャムナックや殺された仲間の敵をとるぞ! サイポッツの言うことをきくぐらいなら、死んだほうがましだ!」
「それは族長のヘテナムンが決めることだ」
「従わんぞ!」とバロウズは言った。「おれは従わん! 一人になっても戦う!」
 おれもだ、おれもだ、とみな唱和した。温厚なワークバイスさえもだった。
「やめろ。みんな支度をしろ。一刻も早く村に戻ろう。お前たちがそんな話をすると、いやに不吉だ」
 トゥルーシャドウが珍しく冗談を言うと、男たちはみな苦笑した。確かに、集落のことが心配だった。
「とにかく、ナバホの体をもてあそばれることに、おれは耐えられんのだ」とバロウズは言った。
「トゥルーシャドウ」リトルロックが彼の肩に手をかけた。「話し声がするぞ」
 みなは、すわサイポッツかと緊張をめぐらせた。彼らの聴覚はサイポッツよりも俄然すぐれている。向こうには気づかれていないはずだ。
「もうフッドの集落に近いぞ」
「みんな耳を澄ましてみろよ。サイポッツのくそったれな公用語が耳に障る」
「公用語なもんか。あいつらがあっちこっちと交易をするものだから、自然に広まっただけだ」
「落ち着くんだっ」
 トゥルーシャドウが言った。彼らが沈黙すると、森からは生物が消えたかと思うほどに静かになった。ナバホの男たちは、気配を完全に殺して、森の端まで移動することができる。その能力が、これまでトゥルーシャドウたちの命を救っていた。
「やりすごすか?」リトルロックが訊いた。
「いや、もうフッドの集落に近い。兵隊だとしたら、フッドを襲うつもりだ」
「そらよ」バロウズはハンマーを拾い上げると、リトルロックに押し付けた。「トゥルーシャドウはやるつもりだ」
「この方角は大鏡のほうだ。神官どもが来ているのではないのか?」
「こんなときにか? やつらの儀式など、この一年見たためしがない」とトゥルーシャドウは否定した。「いいか、今回ばかりは退くわけにはいかん。サイポッツを見たら迷わず殺せ。女子供をなぶり殺される前に、やつらを殺すんだ」
 トゥルーシャドウたちは音もなく駆けていった。声はどんどん大きくなってくる。その時点で部族の誰もが、声の主が言い争いをしていて、その人数が五人しかいないことに気づいていた。その優れた嗅覚は、血の臭いをかぎわけていた。このさきで何者かが、サイポッツなのかナバホなのか、それともまったく別の種族なのかはわからないが、血を流しているらしかった。
 トゥルーシャドウたちはサイポッツを真似て作った飛び道具の数々をかまえた。木々の向こうにのぞく空き地には、サイポッツの姿が見えた。
「サイポッツだ、まちがいないぞ」
 バロウズが歯軋りをした。トゥルーシャドウは彼を抑えた。そして、自分の槍を高く掲げると、サイポッツめがけて投げつけた。

        二十

「ナバホ族だ!」
 ペックが言った。利菜は目を見張った。
 大鏡の周囲にまたたくまに群れ集ってきたのは、毛皮に覆われた人間だ。色とりどりの腰巻や、鉄の胸当てなどをつけている。どうみても動物なのに、二本足で立っている。巨大な斧や槍、クロスボウを手にしていた。
 二十人はいる。
 威嚇の矢が、五人の周囲に突き立った。
「あいつらとも戦争してるのっ?」
「そうだっ」とヒッピが答えた。
「サイポッツはいまあらゆる種族と交戦している」とビスコ。「こいつらはその中のひとつに過ぎんぞ」
 ナバホ族は石台にのぼり、五人の周囲をとりまいた。獣のような臭いが鼻をついた。ナバホの言葉でうなりを上げる。
 全員ポメラニアンのように、カールをうった長い髪をなびかせている。口元からのぞく牙は獰猛そうだ。利菜はスターウォーズのチューバッハを連想した。
 彼らは人間とは比べ物にならないぐらいに背が高く、筋骨もゴリラのように隆々としている。こんな連中と戦争をするなんて信じられない。
 ナバホ族は人間のようにすっくと立ち上がり、その姿は大木のようだ。
 彼女は痛む心臓を押さえる。ここは異世界なんだと、認めるしかなかった。
 ナバホ族は、ここにいるのが子供であるのをみとって戸惑っている。ヒッピが彼らの説得に当たっていた。ビスコがその肩をつかんだ。
「きさま、ナバホの言葉がわかるのか?」
 ヒッピがうなずいた。彼はちらりと利菜をみた。利菜はかすかにうなずくことで、自分もナバホの言葉が理解できることを伝えた。
 ビスコが言った。
「ならば公用語を話すように言え」
 ヒッピがナバホの言葉で話をした。すると、男たちはますますいきり立って武器を振り上げた。ノーマたちはたじろいだ。ペックが訊いた。「なんていってるんだ?」
「彼らはサイポッツの言葉は、しゃべらないと言ってるっ」
 利菜はうなずいた。ナバホ族は、戦争中の相手の言葉を話したくないにちがいない。
 ヒッピが悲鳴に似た声を上げる。「こいつら、ぼくらを殺すと言ってるっ」
 ノーマが言った。「冗談ではないっ。われわれはこんなところで死ぬわけはいかんっ」
 ヒッピが利菜のそばまでさがった。ペックが訊いた。
「知り合いなのか?」
 ヒッピはうなずいた。彼はナバホのうちでも、とくに大柄で、豪奢な装飾の施された槍をもつ男を指差し、「仮面をかぶっているのは、若長のトゥルーシャドウだ。リトルロックもいる。斧をもっているのはバロウズだ」
「ここはわれらの土地だ。サイポッツは出て行け!」
 トゥルーシャドウが共通語で言った。男たちの興奮はますます高まった。互いにナバホの言葉でさかんに論争している。彼らはサイポッツの子供がなぜ自分たちの土地にいると怒り、サイポッツのものがここにあるのがおかしいのだ、と言っている。
 利菜は大鏡を見た。どうやらこれはサイポッツがつくったものらしい。
 彼女は自分が通り抜けた渦が、まだそこにあるのを認めた。大鏡の穴は小さくなっていたが、閉じてはいなかった。真っ黒な瘴気を、ときおり噴き出している。利菜は大鏡に駆け寄って穴に手をあてた。
 なにも起こらない。癇癪を起こして鏡を叩くが、向こうの世界には戻れない。
 バロウズが怒りの声を上げて、鏡に剣を振り下ろした。利菜はあやうく斬られるところだったが、ヒッピが肩をひいて地面に転がした。
 大鏡は台座から転げ落ちた。ナバホ族は巨大な槌をつかって大鏡を粉々に砕いてしまった。
 利菜の眼前で、鏡の中央にあった黒い穴が、ひゅうとしぼみ空に消えた。利菜は鏡のかけらを一つ一つ拾い上げた。彼女はこんな世界を信じたくなかったし、理解したくもなかった。だけど、その世界への入り口だった鏡が壊れた。これがゲートのようなものだったとしたら、もうつかえなくなったのだ。
「なんてことをっ。大鏡を砕くなど、正気かっ」とノーマが抗議する。
「蛮族め! きさまらなど……」
 トゥルーシャドウの氷のような視線がビスコを射抜いた。ヒッピが言った。
「下手なことをいわないでくれっ。向こうはこっちの言葉がわかるんだっ」
 そのとき、ナバホ族の間から、ワークバイスが進み出てきた。
「トゥルーシャドウまってくれ、彼はヒッピだっ」
 トゥルーシャドウが振り向いた。
「彼はタットンの弟子だ。五年前に村に来たろう」
 ワークバイスがその場の一同に説明をはじめた。
 タットンはサイポッツの技術者で、戦争が始まる前は各地の種族をまわっていた。ヒッピはその唯一の弟子で、ナバホ以外にも八つの言語をしこまれている。タットンはもう初老だというのに、旺盛な行動力で、ナバホ族の村に用水路をもうけ、医術や農作物を伝えたのだ。
 バロウズが憎しみをたぎらせ、怒鳴った。
「関係あるか、サイポッツはみな殺しにしてやる! こいつらはナバホの毛皮をはいだっ。ナバホの臓物をひきずりだし、ナバホの魂を汚したのだ! 女子供を殺し、われわれを根絶やしにするつもりなら、サイポッツにもおなじ災いをもたらしてやる!」
 トゥルーシャドウがノーマと向き合った。彼は今度も共通語で言った。「貴様たちはここでなにをしている。イニシエの森がサイポッツを歓迎しないことはわかっているはずだ。それとも、どこかに大人がいるのか?」
「誰もいない。この森にはぼくらだけできた」
 トゥルーシャドウはノーマの神官衣を指でなぞった。「貴様、儀式の神官なのか? ハブラケットはどうした?」
「それは先代の神官だ。彼らはみな罷免になったんだ。ハブラケットさまは僕らに儀式を伝えてきたが、今は幽閉されている」
 トゥルーシャドウたちがざわめいた。
 ノーマが訊いた。「ハブラケットさまを知っているのか?」
「何度か、この森であったことがある」
「おれたちはハブラケットたちを、森の外まで送り届けたこともある」
「ワークバイスっ、余計なことを言うなっ」バロウズが怒鳴った。
「わるいがお前たちに同じことをしてやるつもりはないぞ」トゥルーシャドウは利菜をあごでさした。「その子はなんだ? サイポッツではないな」
 トゥルーシャドウが見たところ、血を流しているのはこの子だけのようだ。
 ノーマはこれまでのいきさつを説明した。ハッツ王を呼び出そうとしたこと、すると利菜が出てきたこと。
 ナバホ族はその話自体を信じていない。
「きいてくれ、戦争を仕掛けたのは、サイポッツの中でも一部のものなんだっ。彼らが兵隊を動かして……」
 バロウズがノーマを張り飛ばす。彼は棒のように地面に転げた。
 利菜はきっとバロウズをにらみ上げる、疲労を忘れてつかみかかった。
「ちくしょう、あんたのせいだ! あたしはほんとにこの大鏡を抜けてきたんだよっ。それを壊したら、もうもどれないじゃないか!」
 バロウズは利菜が女の子供であるのを知って、乱暴には扱わなかった。彼は右手で利菜の頭を押しやりながら、トゥルーシャドウに訊いた。
「この子は何を言ってるんだ」
 トゥルーシャドウは肩をすくめた。利菜はナバホ族の言葉で怒鳴った。
「おまえらのせいで、元の世界に戻れなくなったって言ってるんだっ」
 利菜は地面を叩き、その場に泣き崩れた。彼女の癇癪に男たちは毒気を抜かれてしまった。
「おまえ、ナバホの言葉がわかるのか?」
 トゥルーシャドウがいった。利菜は腕でまぶたを押さえたまま、うなずいた。
「本当におまえの仲間ではないのか?」
 ワークバイスがヒッピに訊いた。ヒッピはどう答えていいかわからなかった。
 バロウズが斧を振りかぶった。彼はノーマとビスコに向かって言った。「どのみち、こいつらはもう大人といっていい年じゃないかっ。サイポッツは女子供も容赦なく殺したんだぞ」
 ヒッピはバロウズの前に立ちふさがった。
「やめてくれっ。村ではあんなに協力してくれたろうっ。はかせや僕によくしてくれたじゃないかっ」
「そんなことは、忘れた。そんな記憶は、もうおれのなかにはないんだっ」
 バロウズは斧を振りかぶってはいたが、それを振り下ろせないでいた。
「戦争をしかけたのはきさまらだっ」
「あやまるよっ。たしかにぼくらが悪いし、それに……」
 今度はバロウズも本気で怒った。「あやまってなんになる! われわれの仲間が生き返るのか! きさまら死者を呼び出すと言っていたが、ならば死んだものを呼び戻せ!」
 利菜は顔をおおっていた手をどかした。バロウズたちの怒りが、苦しみがわかったのだ。彼女は顔を上げた。疲労のあまり、目がよく見えない。
 ノーマが立ち上がる。頬はぶっくりと腫れ上がっている。骨が砕けるほどの激痛の下で言った。
「トゥルーシャドウ。ハッツ王が死んだかもしれないんだ、幽閉されているのかもしれない。国の要職にあったものは、暗殺されたり、牢獄に入れられたりしている。貴族の間もむちゃくちゃだ。平民たちは反乱を起こそうとしている。ぼくらの国はもうだめだ」
「それが我々になんの関係がある」
 利菜が言った。「関係あるわよ」
「なんだと?」
 利菜はトゥルーシャドウを見上げた。言ってやろうと思った。こんなことになったわけを、人の心に働きかけるわるいものがいて、そいつらがみんなを操っている。でも、彼女はその相手の正体を知らなくて、うまく言葉にできなかった。トゥルーシャドウは涙の向こうでにじんだ。
「われわれはハッツ王の死を確かめるために大鏡まできたんだ」
 ビスコが言うと、トゥルーシャドウは笑い声を上げた。
「きさまらのような小僧が、新しい神官だと。それもたったの五人でか」
 ビスコは吐き捨てた。「三人だ。神官になれるのは貴族だけだ」
「トゥルーシャドウ、そいつらの言うことを聞くなっ。サイポッツの申し出はすべてうそいつわりだっ」
「みんな聴いてくれ」ワークバイスが子供たちを守って言った。「この子たちは生かして村に連れ帰るべきだ。人質になるし、サイポッツ側のことも訊き出せるだろう」
「子供のいうことなどなんになるっ」
「だが、神官になったものなら、サイポッツのうちでも身分は高いはずだ」
「やつらの位階などくだらん。われらには無意味なものだ」
「破壊された村を立て直すためにも、サイポッツの技術者が必要になるっ」
「苦しいいいわけだな、ワークバイス」と若長は言った。「この子はタットンの弟子にすぎん。再建のやくに立つとは思えんぞ」
 トゥルーシャドウの憎しみは誰よりも深かった。ワークバイスはさらに言った。
「この子たちは兵隊じゃない。大人が起こした戦争に巻きこむつもりかっ」
 バロウズが静かに言った。「おれはこいつら全員の生皮をはがねば気がすまんぞ。われわれの氏族がうけた痛みを、この場でかえしたいのだ」
「それでお前の傷がいえるとは思えない」彼はその場にいるみんなに言った。「そんなことをしても、自分を恥じるだけだぞ」
 ワークバイスは黙った。もう多くを語らなかった。ナバホ族は自分の心に問いかけた。彼らが迷ったときにするのは、内なる声を聴くことであり、感情に身を任せることではなかったのだ。
 何人かが、トゥルーシャドウに言葉をかけた。彼らは子供たちを集めると、後ろ手に縛りあげた。
「名言だったな、ワークバイス」リトルロックがワークバイスの肩を叩いた。「次の族長が必要になったときは、おれがお前を推挙してやる」
 利菜は荒縄で手首をかたく縛られた。頭が痛み、眠くて仕方なかった。もう眠いのを通り越した。全身がしびれ、呼吸も止まりかけていた。疲労のあまり、脳活動が停止しかかっていた。視界がかすんで、彼女はとうとう膝をついた。感覚がなくなり、全身が冷たくしびれあがった。意識をなくし、彼女は倒れたのだった。


第十章 五人の逃避行

        二十一

 ジノビリ暦元年 ――地下回廊にて

 広い王宮の一角で、フロイトは一人苦しんでいた。自分が狂気と正気の狭間にいるようでもある。
 やったことは正しかったのか?
 その疑問がたえず、胸のうちにある。目をそむけようとしても、疑惑が、沈もうとして沈まぬ浮き葉のように、浮かび上がってくる。相談しようにも、まわりにはまともな人間がいなかった。一人も。
 フロイトは、貴族の中でも高貴な家柄に生まれた若者で、新しく親衛隊の隊員となってからは、一年以上が経つ。はじめは、厳正な審査のある親衛隊に入隊できたことが誇らしくもあった。だが、いまではその旗印も、自分も、すっかり薄汚れた気がする。
 フロイトがスミスを殺したのは、親衛隊隊員となって、まもなくのことである。
 スミスというのは、不思議な男だった。王宮の中で絶大な権力を振るっているにもかかわらず、出自も階級も不明で、表立った役職にもついていない。それでいて、国王であるハフスの次に権力があった。どんな大臣も、スミスの言葉にはさからえないのである。
 スミスは寡黙な人間だった。自分の持つ権威に関心がなく、だからこそ、大臣たちはこの老人をおそれたのだった。ハフスはこの老人に全幅の信頼をおき、重要な相談は、大臣よりも彼にしていた。そのスミスが、うら若いフロイトを信頼し、特別な任務を与えたのは、偶然というほかない。
 その任務を新たに請け負ったのは、自分とヒルギス、トルバーンという三人の若者だった。三人とも王宮に仕え始めたばかりというほか、接点はなく、役職もまったくことなっていた。ヒルギスは文官であり、トルバーンは裁判所の役人だ。スミスが与えた任務につかなければ、顔を合わすこともなかったはずの人材である。その点、スミスの人選は巧妙だった。三人とも身分が高く、なにかことをおこせば、失うものが多かった。秘密のもれる危険性が低かったのだ。
 といっても、フロイトが、自分のほかに任務についている者があるのを知ったのは、ずっとのちのことだった。スミスは、人数すらもあかさなかったのだ。交代で任務に就くときいて、フロイトは他人の存在を知った。
 スミスは任務につくにあたって、ほかの任務者の詮索を禁じた。集まって話をすることを嫌っていた。もし、このことが外部にもれれば、誰がもらしたに関係なく、いずれもが姿を消すことになると言った。フロイトはその時点で、親衛隊隊員となった自分の未来に、傷がついたことを知った。
 任務はかわったものだった。彼は夜間、その存在を知ることもなかった地下回廊におりていくことになった。この回廊の存在自体が秘密なのだった。
 彼はその場所に食事を運んだ。
 回廊は荘厳な雰囲気に満ちていた。
 スミスはその回廊のことを恐れているようだった。フロイトがそう感じただけかもしれない。だが、目には緊張がはしり、彼が発する空気は緊迫感に満ちていた。
 不思議なことに、その回廊には誰もいなかった。
 廊下をすすむと、床に目印があった。スミスは、その印より先に進むことを禁じた。食事だけを、印の向こうに置けと命じた。
 フロイトは、食事を置いた。トレイのスープから