九月
洋一と太助の物語に続編が出来ました。
とりあえず、冒頭のみ掲載いたします。
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第一部 牧村洋一、ナーシェルになる
第一章 ナーシェルはどこに?
その一 ふたたび、本の世界へ
1
その赤表紙の本は、四人の人間を噴水みたいに吐き出した。かすかに聞こえるオーケストラの楽曲が、ページを揺らしてパラパラとめくり、やがてぱたりとページを閉じた。洋一は悲鳴を上げながら宙を舞い、赤い絨毯に胸から落ちた。猛烈な痛みが腰にまで走り、洋一は完全に伸びてしまった。夢見心地の世界を抜けてきて、体はぐにゃぐにゃのタコになったみたいだ。彼はどうにか仰向けになると懐に手を当てた(まるで赤ちゃんみたいに腰がすわらない)。よかった。伝説の書はちゃんと持って帰ったみたいだ。
顔を上げると、頭がクラクラして視界が流れる。仲間は四方に散って転がっている。中央にはロビン・フッドの冒険だ。そして、洋一の視界に飛びこんできたのは、懐かしい故郷の風景だった。男爵がもたれる壁一面の本棚。太助の向こうにある巨大なデスク。天井から下がる大仰なシャンデリア、奥村の肩越しには、両親と談笑してきたソファの背中。それらは全て洋一の一部だった。なによりもここには両親の匂いがたくさんある。戻ってきた――と思う、その思いは、入れすぎたビールの泡みたいに心にこぼれ、彼を一杯にしてしまう。手をつくと思わず感動を吐き出していた。「やった! やったよ! 僕ら戻って来れたんだ!」
太助がグダグダと身をおこす。奥村も刀を杖にして起き上がる。力の入らない体には閉口しているようだが、二人とも顔だけは笑っている。
奥村がロビン・フッドの冒険を拾い上げた。表紙についた塵をさっと払う。「よくやったぞ、お前達」
洋一は太助と、顔を見合って、にやりと笑う。
そこへ水を差したのは、ほらふき男爵その人だった。彼だけは歓喜の輪にも加わらず、顎を天へ向け部屋中を見渡していたのだ。
「おかしいぞ静かすぎる。ウィンディゴはどうした?」
洋一はぎくりと身を立てた。注意と耳をとぎ澄ます。そういえばあれほど騒いでいた本たちが物音一つ立てなくなっている。洋一は、あれからどのぐらい経ったんだと思った。冒険の連続ですっかり忘れていたけど、団野は彼を取り戻すために(別れ際を考えればありえないとも思ったが)、役所に手を回しているかもしれない。男爵たちのことだって、警察に通報しているかもしれないのだ。洋一はともするとウィンディゴよりそっちの方が心配になってきた。部屋はまだ夜の冷気に冷えていたが、カーテンの外は冴え冴えと明るい。デジタル時計を見ると日付が変わっていなかった。洋一はほっと胸を撫で下ろす。本の世界で過ごした時間は、現実とは関係ないらしかった。
ミュンヒハウゼンがカーテンを開くと、ウィンディゴの姿は欠片もなかった。
「今のうちかもしれん。結界を強化しておこう」
男爵の懸念は自分たちが本の世界に入っている間、外の世界が無法地帯になってしまうことだった。それだけにこの部屋の護りは完全なものにしておきたかった。ウィンディゴはついに入って来られなかったが、これからどんな手を使ってくるかわからないし、安全な砦はここだけだ。外に出るのも難しくなるだろう。奥村の提案で食料も持ち込むことにした。外の本も掻き集めておいた方がいい。次にどの本に入るか、吟味しなければならない。
「しかし、ここをまるまる空けるわけにはいかん。お前たち、任せられるか」
と男爵が言った。洋一はややほっとしてうなずいた。太助は不満そうだった。けれどこれは重要な役目だ。無事な本はもうここにしかない。それにこの部屋を守るということは、ロビンとジョンの世界を守るということもふくんでいた。ここにあるかぎり、「ロビン・フッドの冒険」はあんぜんだからだ。
「我々の声色をつかって騙そうとするかもしれん。合い言葉を決めておこう」
と奥村が念を押す。洋一はウィンディゴはどうしたんだろうと今度はそのことが心配になった。なるほどあいつはロビンの世界からは一掃されたけど、弱体化したとは思えない。いまごろ策略を練り、彼の寝首をかく機会を虎視眈々と狙っているはずである。洋一はすっかり恐ろしくなって首をすくめた。
2
男爵と奥村がいなくなると、洋一の不安はいっそう強くなった。男爵たちは物語の方が安全だといったが、それはまったくの真実だったのだ。本の世界というクッションがなくなると、洋一は全くの無防備な気がした。なるほど、伝説の書はその力を十全に示しはしたけれど、それは本の世界だけの話だ。現実の世界でその効力を発揮するかは未知数だった。
洋一は充実感と奇妙なさみしさを覚えて窓際に行き、図書館の庭を眺めた。なんだかここ数日で荒涼としたようだった。彼の故郷は半分になってしまった。母親のつくる朝食の匂いがしない、恭一が落ち葉をはく様子もない。庭には枯れ木だけがあって、その枯れ木すら両親の不在を悲しんでいるようだった。洋一はあの木立の隙間から両親が帰ってこないかと期待をかけたが、そんなことを考える弱さを恥じて、恭一のデスクに向き直る。今更こんなことを考えるなんて、ともに戦ったロビンやアーサー王に申し訳ない。二人とも自分に期待をかけてくれたから。
洋一は大振りな椅子にすわりこむ。革張りの豪奢な椅子にかしこんでいると、彼は世界一滑稽な王様みたいに見えた。太助は手持ち無沙汰な様子で、洋一のことを見るとも無しに見ている。ロビン・フッドの冒険をうやうやしく本棚にしまいこんだのだった。故人をいたむ姿を見慣れた彼は、沈黙がときに人を慰めることを知っていたのだ。
洋一は不思議な空気に包まれていた。こうして日常の空間に身を置いてみると、自分があんな激しい戦いの中に身を置いていたなんて信じがたい気分だ。洋一はひとまずの仇を討ったことを、墓前に報告するような気持ちでデスクを撫でた。伝説の書を護り通したことに満足はしていたが、報告する誰かがいないことに、やはり寂しさを覚えたのだった。
「洋一、これはなんだ?」
物思いから醒めた。太助がしゃがみこみ、ソファの下から何かを引っ張り出していた。彼が拾ったのは分厚い大学ノートだ。
洋一はデスクを回ってノートを取った。
「僕が書いた小説だよ」と言う。「前に話したことあったろ?」
なんでここにあるんだろ……
そのノートは母親の手で簡単な表装がしてあり、上段には、「ナーシェルと不思議な仲間たち」、というタイトルが大きくロゴ書きされている。洋一はノートを開いた。小さな文字が横向きにびっしりと並んでいる。ふつうは縦に書くのだろうが、洋一は学校の授業そのまま横向きに書いてしまい、恭一もそれを指摘しなかったのだ。恭一は、とにかく自由に書かせてみよう、という方針だったらしい。ノートのうち赤字で書かれた文字は、恭一の訂正箇所である。洋一が訂正した部分もたくさんあって、文章を追っていくのが難しいほどにごちゃごちゃしている。こうしてみると、ナーシェルのお話は、洋一にとっては、本当の習作だったのだ。一年をかけて手直しを繰り返し、いよいよ新作にとりかかろうかというところで、事件は起こってしまったのだ。
太助がすごいなと感心している。洋一は素直にうなずいた。彼は子供だけど、一つの作品を一年かけて作り込んだことは疑いない。その行為がロビンの世界で自分やみんなを救ってくれたのだ。洋一は父親に対してありがとうと声に出さずに感謝した。同時に、もう一度小説が書きたいな、と思った。もう一度、作品を読んでもらいたかった。習うことはまだまだたくさんあったのだ。そう思うと、ウィンディゴに対する新たな憎しみがわいたのだった。
――でも、おかしいな。この本は僕が持ってたはずなのに。
父親が持ち出して推敲を加えようとしたのかもしれないが、恭一は部屋に入るのだって、いちいち断る人である。自分のテリトリーを大事にする分(そりゃいろいろ秘密をかかえこんでいたのだから、大事にもするだろう)、他人の領分も重んじる人だった。洋一は何か違和感を感じて、ページをめくった。すると、奇妙な感覚が沸き起こった。血の気が一挙に抜けて平衡感覚がなくなり、ノートから字面が浮いて輝くように見えたのだ。洋一は吐き気を堪えながら、自分の文字と父親の赤文字が揺らめくのを見つめた。そのときには、ページから風が噴き上がって、彼の前髪を押し上げるようになっていた。洋一がしまった、と思ったときにはもう遅かった。本から巨大な腕が突き出て、彼の右腕をつかんでいたからだ。
「ウィンディゴ!」
太助がすぐそばで叫んでいる。猛烈な風で彼も近づけないのだ。洋一は竜巻の中心にいて、そして、本から突き出た野太い腕に、ものすごい力で引っ張り込まれようとしていた。本の世界に。「洋一!」太助が目を開けて叫んだ時には、洋一の体は足元から引っこ抜かれていた。同時に支えをうしなったノートが地面に落ちて(洋一の手は表紙に置かれたままだ)、洋一の体を頭から吸い込んでいた。
「くそう! 洋一を離せ!」
プールにダイブした瞬間の静止画みたいだ。腰から先だけが突き出てもがいている。太助は竜巻の中に体を突っ込んだ。凄い力が彼の胴体を捻り上げた。彼は逆向きに腰をねじ込みながら、なんとか洋一の胴体に組み付いた。足を地に着け、なんとか洋一の体をひっこぬこうとしたが、わらじ履きの足がジワジワと左に流されている。太助はついに片足だちになってケンケンをし始めた。洋一の体はなおもノートに飲みこまれる。もうその悲鳴はかすかにしか聞こえない。太助は右足をどうにか下ろしてノートの端を踏んづけた。
太助は体を折りながら、友人の体をたぐり、腕をノートの中に突っ込んだ。まるで底なし沼みたいにどろりとしている。ノートはまるで真っ白な水みたいにやすやすと彼の腕を飲みこむ。すると、洋一の書いた文字が飛沫のようにあふれでてきた。
太助は洋一の肩をつかんだ。そのときゲタゲタという勝ち誇った笑い声がした。
洋一を離せ! と言いながら、太助の頭も洋一に引きずられる形でノートに没した。ノートの文字が舌に喉に貼りついてくる。二人の体はバンジーが跳ね返ったときのような勢いで、現実の世界から引っこ抜かれてしまった。
3
食料庫はひどい有り様だった。冷蔵庫は全開で、中の物はすっかり食い荒らされている。食器はあちこちに放り投げられ大半が砕けてしまっていた。皿のぶつけあいでもしたんだろうか? 椅子は転げて足は砕け、ケチャップの類は壁に投げつけられて無残な飛沫を描いている始末。はてはマヨネーズやドレッシングで出来た落書きまである。きちがいがこぞって祝宴をひらいたような有様だ。薫が見たら卒倒する乱行に、男爵も言葉をなくしてしまった。
床下の食料は無事だった。保存用の品をためこんであり、缶詰やカップラーメン、タンクに入った水もある。二人はそれらを全てあの部屋に持ちこみ、長期戦にもちこむ構えだった。男爵は奥村よりも、現代社会の知識があるから、保温ポットも持って行くことにした。
男爵は部屋に残した二人が心配になってきた。ここへの道中だって、あまり安全とは言えなかった。廊下中に本が散乱していたし、カーペットはまくれあがり、花瓶の類は残らず割られ、年代物の甲冑だって、バラバラに分解され、散らかされていた。
二人は取り急ぎキッチンを出て、廊下の角から先をのぞいた。二階の部屋がずいぶん遠くに思えた。二人とも食い物をつめこんだリュックをかかえ、水タンクを二つ三つと抱えている。何事か起こっても、まずはこの荷物を降ろさないことには、満足に戦えないのだ。
男爵は敵のいないのを確認すると、水タンクをチャプチャプ言わせながら廊下を走った。彼はポットを小脇に抱え、一見すると火事場泥棒に見えなくもない。気が急いていたが、その足が止まったのは、廊下の半ばも過ぎぬ辺りのことである。
二人は玄関ホールの真裏にいた。ホールには二階に続く階段があるが、東西の棟に向かう通路はその裏にあるわけだった。さきほどの巨大キッチンは東手に。男爵は西側の棟に何があるのか知らなかったが、そちらの方角からうめき声と何者かのうごめく物音がしたのである。
奥村はすぐに荷物をおろし、刀を抜いた。男爵は荷物を抱えたまま呻いたのだった。
「何者じゃ……」
4
二人の保護者が窮地に陥った頃、牧村洋一と奥村太助もまた、これまでにない窮地に立たされていた。ロビンの世界の苦難を思えば、あれ以上の窮地があるなんてお笑いぐさだが本当だから仕方ない。
以下はその顛末である。
まぶしさにきゅっと目を閉じている。光はだんだんと薄らぐ。明るい緑を感じながら恐る恐る目を開く。予想通り森の中にいた。背中には濡れた草地が広がっている、彼は森のど真ん中で、大の字になって転がっていた。とてつもなく高くて、とてつもなく太い木が、彼にのしかかるようだった。まるで高層のビルディング街にいるようだ。恐怖に目を見開いて、ぎょろぎょろと目玉だけを動かす。はるか頭上で梢が天をふさいでいる。合間には、不穏な曇り空。巨木の枝葉はずっと上にしかついていないから、森の中は意外と明るい。日本にはまずこんな森はない。そりゃそうだろう。この森は彼の頭の中にあったのだから。
ほんとにナーシェルの世界に来たのかな、と口の中でつぶやく。声に出すと誰かに自分の存在を気づかれそうで怖かった。けれど、友人のことを思い出したとき、彼の恐怖は胸から転がり落ちていた。寝ころんだまま、
「太助……」
とつぶやいた。手足をそっと引きつける。身をおこすと、少し頭がふらふらする。
広大な森の中に立ち上がる。太助、ともう一度言った。返事がない。一人で本の世界に来てしまったのかと途方に暮れる。肌寒さに震えながら肘をさすり、太助がどこかで気を失ってはいないかと懸命に目を凝らす。と同時に奇妙な違和感を感じる。何かおかしかった。おかしな世界にまぎれていたから、自分の何がおかしいのかもわからなかった。その違和感を確かめる前に、左から声がする。かえりみると、声のしたほうには低木が素敵な茂みをつくっている。周りを確かめながら駆け寄り、低木の下をのぞきこむ。枝の下は草がなくて、土がさらさらに乾いている。
「太助」かすれ声でささやく。「いるんだろ? どこなのさ?」
「洋一、ここだよ」
声はもっと左からする。その声にも違和感を覚えた。太助よりずっと高い声だ。違和感は彼の心臓を躍動させている。鼓動の高まりと共に不安まで高まって、洋一はさらに身を低くして声のしたほうを確かめた。そこにいたのは真っ白なネズミだった。赤い土の上に後ろ足をついて立っている。
「シングルハット?」
と洋一は驚いた。それは洋一の生み出した主要な人物の一人だ。
シングルハットは怒ったように手を突き上げ、「ちがう僕だ。奥村太助だ。君こそ牧村洋一なのか?」
洋一は何を言ってるんだと言い返そうとした。けれど、すぐにその言葉を飲みこむ。何に違和感を感じていたのか、このときはっきりとわかったからだ。恐る恐る体を見おろす。真っ黒だった。彼の肌はつややかなチョコレート色をしている。手足も元の体より五センチばかり長かった。洋一は息を荒くしながら頭をかきまわしてみた。肩に届くほどに伸びたぼうぼうの髪。それに声も変だ。聞き慣れた自分の声じゃない。よく考えたら視力もずっといい、アボリジニみたいに! 彼は木の葉でできた腰蓑しか着けておらず、それで体があんなに冷たかったのだ。背中は露で濡れて、あちこちに草がくっついていた。事実は明白だったのに、認めたくなかったらしい。でも、目の前のシングルハットは……。
洋一は長くてしなやかな腕をおろした。
「まさか……」泣きたい気持ちでうめいた。シングルハットを指さして、「シングルハットじゃないのか? 太助なのか? 僕は……」と唾を飲む。「ナーシェルなのか?」
「シングルハットって誰だ? それより、僕はどうなったんだ!」太助はネズミの手を振り上げる。「僕ら、あのノートに飲みこまれた。でもロビンの世界に入っても、僕らは僕らだった。なのに今回はちがう」
「今度は男爵の呪文をつかわなかったじゃないか」と洋一は言った。シングルハットが鼻の髭を蠢かせる。「僕ら、物語の登場人物になっちゃった。僕、僕……」
洋一はすっかり恐ろしくなってしゃくり声を上げた。太助は友人が泣こうとしているのを見取ると、大慌てで手を振り回した。視界のずっと下で、ピンクの肉球が弧を描いた。
「待て待て」と太助がささやいた。「こんなところで大声を出すな。何がいるかわからないぞ」
「ここは木の葉の国だよ。危険な動物なんているもんか」
「でも、ウィンディゴの影響を受けてる。君の書いた通りのもんか」
ともかく落ち着いて状況を話してくれ、と太助が言った。
5
あのノート。あのノートの中にいるのは間違いない。けれど、あの物語世界を知るのは洋一の他は両親だけだ。そのことだけでも、洋一の不安はますます高まる。男爵はこう言わなかったか? 古い物語は大勢の人の思いが集まって強い力を持つのだと。だとしたら、ウィンディゴにとっては実に都合の良い話だ。なにせこの世界は生まれて一年ばかりしか経っていないのだ。
ともあれ、二人が別人に成り代わった事実は変わりようがない……。
洋一は簡単に説明した。ナーシェルというのは、草原の部族の一員で、この世界でゆいいつの子供のことだ。今が物語のどの辺りかはわからないが、木の葉の国にいるのはまちがいない。
「君はシングルハットというネズミなんだ。ミッチとネッチっていう二人組の仲間で……」
「まいったぞ」太助がネズミの腕を組む。洋一は自分の掌にのるほどちっぽけになった友人を見おろす。
「僕らの体はどうなったんだろう?」
「それよりも伝説の書だよ!」太助が怒るとキーキーという音がする。
「そうだ、僕ら本がない!」
「僕の刀もだ!」太助はすぐに情けない顔になった。声まで変わってしまって、面影が全くなくなっている。「みつけたってこんな体じゃ扱えないよ。それに男爵たちは僕らがどこに消えたか知らない」
二人はいよいよ青くなり、互いの顔を見合った。
「あの本はもともと僕の部屋にあったんだ。ウィンディゴはあのノートを父さんの部屋に送りこんだんだよ。あいつらは入れないけど、物は魔法で送ったりできるのかもしれない」と洋一は興奮しながら立ち上がる。「なんとかしてこの世界を抜け出さないと。なあ、やっぱり物語を結末まで導かなきゃいけないと思うか? エンドマークの音が鳴らないと元の世界には戻れないのかな?」
シングルハットになった太助はうんうんと考え込んでいる。その姿をみると、洋一はこんなときだというのに、おかしくなった。そして自分をおかしくさせるシングルハットに腹が立った。シングルハットは元々お気楽ネズミで、悩むようなキャラじゃない!
すると、太助は洋一の腹立ちを感じたのか、素直に手をついて頭を下げた。「すまない。僕があんな本を拾ったばかりに」
「よせよ! ネズミのくせに謝るな」
「好きでなったわけじゃないぞ」そう責めるな、と太助は言った。
洋一は、「僕らを本の世界に引き込んだのは、きっとウィンディゴだ。あのときの腕を見たろ?」
太助がうなずく。
「ということはあいつは僕らがこの世界にいることを知ってるんだ」
「どうする? 本も刀もないんじゃあ、戦えない」と太助。「僕らの体はどこにあると思う?」
体? と洋一は小首をかしげた。「体がどこかにあるってどういう意味?」
「だってそうだろう。僕らは体ごとこの世界に引きずりこまれた。じゃあ、体だって、この世界のどこかにあるはずだ」
「そ、それじゃあ」と言葉につまる。「僕ら物語を正しい方に導くだけじゃなくって、自分の体も見つけなきゃ行けないってこと? 伝説の書もないのに? 君はネズミじゃないか!」太助は自分が責められたみたいに小さくなる。「ウィンディゴに襲われたらおしまいだよ!」
「この世界はそんなに危険なのか」
洋一はふと気がついた。ナーシェルの物語は子供向けの児童文学作品で、ロビンのような激しい戦闘があるわけじゃない。それでも不思議の国々は仲違いしている。そこが重要だと思った。ウィンディゴはこの状況を利用して、いくらでも悪い方に導くに違いない。
「それより元の僕らの体がどこにあるかを考えるべきだよ」と洋一。「ナーシェルたちと入れ替わったのかも。つまり、僕らの体には、ナーシェルたちが入ってるのかもしれない」
「どうだろう。ウィンディゴはもう本を見つけてると思うか?」
「あいつが伝説の書を手にいれてたら、僕らなんてとっくに殺されてるよ」
そうかな、と太助が首をかしげる。洋一はいらいらと問いただした。
「だってあいつは創造の力での勝負をつねに挑んできた。殺そうと思えばいつでもやれたのに、そうはしなかったじゃないか。何か理由があるのかもしれない」
洋一はたったいま首を絞められているようないやな気持ちがした。ウィンディゴがいつでも背中に貼りついているようなそんな気がしたのだ。言われてみると、自分とウィンディゴの間には奇妙な結束があるようだ。ノッティンガムでもシニックでも、彼が弱るたびにウィンディゴは彼の心に働きかけてきた。洋一は空虚な恐怖に胸を引き裂かれるようだった。伝説の書がなくては、彼は創造の力を扱えないのだ……。
洋一はその思いを振り払うように立ち上がった。「とにかく、ミッチとネッチを探さなきゃ。ここは冒頭に出てくる森の中だから。近くに虹の冒険号が墜落しているはずだ。そこで、ミッチとネッチと出会って、仲間になるしかない。ほんとなら、シングルハットとも――」
目の前が真っ暗になった。洋一は横向きのまま地面に叩きつけられる(ナーシェルの体は猫みたいに柔らかくと、地面にぶつかった衝撃をグニャグニャと吸収してしまった)。横合いから音もなく駆けてきた物体に体当たりを喰らったのだ。身をおこそうとする間もなく、そいつがのしかかってきた。
「ドードー鳥だ!」
と洋一は叫んだ。それはダチョウのように二本足で走り、キリンのように首が太く、ペリカンのように大きなくちばしをしたこの世界の乗り物である。ナーシェルの親友にして、一番の旅のお供だ。もちろん洋一のことをご主人と勘違い(ともいえないが)してつきかかってきたものらしい。ドードー鳥はナーシェルと別れたのが心細かったのが、夢中で体をこすりつけてくる。
「ドードー、ドードー、わかったからやめてくれ」
洋一がどうにかドードーの体を押しのけると、ドードー鳥はすぐに太助をみつけてくちばしを近づける。洋一は慌てて太助に飛びつき、裸の胸に抱え込んだ。
「だめだよ、ドードー! これは食べ物じゃない!」
「洋一苦しい」
と太助がうめく。どうやら夢中になって力いっぱい握りしめてしまったみたいだ。洋一がそっと両手を開くと、太助は両腕で指を押しのけながら、フー、と長い吐息をついた。
「ごめんよシングルハット」
「僕は奥村太助だ!」
と太助は真っ赤になった。
こうしていると、まるでスチュアートリトルだなあ。と洋一は思い、泣けてくるやら情けないやらで、ほとほと肩を落としたのだった。
6
ドードー鳥には黄色塗りの立派な鞍と、丈夫な手綱がついていた。かなり大きな鳥類で、子供なら三人でも乗せて走れる――太助はあきらかにほっとした様子だ。一体にネズミの姿で広大な森をどうやって旅をすると言うんだろう。洋一は鞍の後方にくくりつけられたリュックの中身を確かめた。乾燥させた木の実やパン、それに木の葉でできた手紙が出てきた。木の葉の国の言葉で書かれていたが、洋一は楽々と読むことが出来た。
「やっぱりナーシェルは木の葉の女王の呼び出しを受けたんだ。このへんは元の話と変わってない」
「なんの用で呼ばれたんだ?」
「木の葉の国は枯れ葉の危機に瀕してるんだよ。ブリキの王様が、常春のストーブを止めてしまったから。ナーシェルは女王の依頼で、ブリキの国に行かなきゃいけないんだ」
ところが一滴の水もふらないブリキの国では、大雨が続いており、ブリキの住民たちは錆に苦しんでいる。ストーブのための石炭も全て凍らされてしまっていた。ナーシェルと仲間たちは、雨水国、太陽と月の国、雪と氷の国と順ぐりに旅をしていかなければならないはめになる。はずなのだが。
洋一は涙混じりの溜息をついた。「元の話ではそうだったけど、ウィンディゴがそのままにしておくはずがないよ」
「ロビンのときみたいにか? 別の物語と結びつけるつもりだろうか?」
しばし考えてみる。「それはないと思う」
「なんでそう言い切れる?」呆れたように言った。
「男爵はあいつも本の世界観にしばられてるって言ってた。アーサー王とロビンの話はどっちもイギリスが舞台だっただろ。だから、二つの世界はつなげることが可能だったけど、この世界はそうじゃない」
「君が作った話だからか?」
「そう、どの物語ともつながっていないはずなんだ。つまりあいつも僕とおんなじなんだよ。なんでも創作できるわけじゃないんだ。この世界や物語と、無関係な人物を生み出したりはできないはずなんだ」
「だからって、じっとしているわけにはいかないよ。今回は離ればなれになったわけじゃない。男爵も父上もこの世界にはいないんだから」と太助はドードー鳥を見上げる。「旅をするなら、こいつを乗りこなすしかないぞ」
「わかってるよ」
洋一もドードー鳥を見上げる。ナーシェルの変化には気づかないらしい。大人しく側に立っていた。自分の想像力が生み出した生き物を間近で見るのは変な気分だ。太くてしっかりした足、合鴨のように艶やかな体毛、赤黒緑をあわせた鮮やかな発色も彼の想像の通りだった。
まさか、自分の本の世界に入るなんてと洋一は呻いた。男爵とおじさんの助けが借りられないのに、肝心の本はなく、太助はネズミになってしまった。洋一はほとほと泣きたい気分でドードー鳥の野太い首を叩いた。
洋一は太助を肩に乗せると、鐙に足をかけた。体を跳ね上げるようにして鞍にまたがる。振り落とされるかと思ったが、ナーシェルの体はきれいにバランスをとりながらドードー鳥をたやすく乗りこなしてしまった。洋一は歓声を上げた。鞍も手綱もお手製で彼の体にしっくりとはまる。ナーシェルになるのがこんなに快適だとは思わなかった。全身をやわらかな糸で吊られているみたいだ。軽々としたキレのある動きに、我ながら惚れかえるようだった。
「すごいよナーシェルは。これで体育をやったらすごいぞ」
「僕は早く自分の体に戻りたいよ」と太助が吐息をつく。
「僕だってそうだよ」
洋一は唇を尖らせながら、ドードー鳥のお腹を軽く蹴った。そのとたん、ドードー鳥は静止状態からいきなりトップスピードに移り、疾走を開始した。洋一は自分が風の一部になったと思った。耳の脇では風が猛烈な音を立て、森の緑は一つの色に溶け合いながら、視界の後方に流れていく。ドードー鳥に背中は決して乗り心地がいいとは言えなかったが、素晴らしく発達したナーシェルの身体意識はドードーの動きに合わせて背骨をくゆらし、この鳥と少年は、新しく生まれた一塊の動物であるかのようだった。洋一と太助は悲鳴混じりの笑声を上げた。その声がとだえたのは森の緑がこがね色に変わったからだ。
洋一はドードー鳥に声をかけた。ドードーは数度地面を跳ねた後、軽やかに止まった。三人の疾走は風を呼んだようだった。巨大な木々の隙間を無数の風が駆け抜けて、梢で居残っていた葉っぱたちを吹き散らし、空中にダンスチームをつくっている。一方地上の草はすべて枯れていた。落ち葉がその上に厚く積もっていた。洋一たちは雪原のように分厚い落ち葉の野原の上にいる。季節が数分で変わったようにも見えたが、事実は枯れ葉の危機がこの森にまで押し寄せていたのだった。
「これもウィンディゴの仕業なのかな」
と太助が言った。わからないと洋一は言った。どういうことだ? と太助が訊く。
「ウィンディゴも創造をするけど、僕と同じなんだ。なんでも出来るわけじゃない。あいつが創造したことも、一人歩きしてるんだ。つまり――」
「つじつまあわせのことを言っているのか?」
「うん。あいつだって、本の世界をコントロールできてるわけじゃない。だから、ロビンの世界でだって対抗できたんだ」と洋一。「でも、伝説の書がなくちゃ絶望的だよ。だって、僕はあの本がなくちゃ創造の力を発揮できないんだから」
「それなら、なんとしても伝説の書をとりもどさないと」
洋一はうなずきつつ、「いいかい、この世界には五つの国がある。そのどこかに僕らの体はあるはずだ。ウィンディゴはたぶん新しい国をつくらない。そんなことをしたら、物語のバランスが崩れすぎるから。ウィンディゴだって先の読めない展開はいやだと思うんだ」
もっともウィンディゴはこの世界が崩壊したところで、気にもとめないはずだけど。
太助は少し深刻な顔をして喉を鳴らした。二人はしばし沈黙して枯れ行く森を眺めた。洋一は驚きよりも悲しみの方が深かった。物語の冒頭では枯れ葉の危機は、国のずっと西側で起こっていた。父親とつくった物語も、こうしてウィンディゴの手によってすっかり狂わされてしまったのだ。
洋一が地上に素足をおろすと、枯れ葉が乾いた音をたて、無数に砕けてしまった。ドードー鳥は鳴かない鳥だけど、なんとなく悲しそうに見えた。
二人はそこからは辺りを確かめるようにして歩いていった。
「こんな世界をナーシェルが見なくてよかった」
と彼は言った。ナーシェルは彼が生み出した人物だけれど、彼は親が子供をみるようにして、あの少年を愛していたからだ。
洋一はふところをなでたけど、そこにはナーシェルの茶色くつややかな皮膚があるばかり、もはや彼の一部のようになっていた伝説の書の感触はない。彼はあの本を畏れていたけど、今はさみしく思ったのだった。
「見ろ、洋一。家があるぞ」
太助が肩の上から声を掛けた。洋一が顔を上げると、ひときわ厚く積もった落ち葉の中に、木で出来た屋根と煙突が突き出ているのが見えた。まるで落ち葉の山のようだったが、脳裏に何度も描いたシルエットを見間違えるはずがない。
洋一は感動に胸を躍らせながら、力強くつぶやいた。
「虹の冒険号だ」
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