書籍化奮闘記!!
お知らせ
ねじまげ世界の冒険にて、ドリームブッククラブ参加しております。アルファポリスが主催する、読者参加型の書籍出版システムで、携帯投票や予約注文はよくあるかもしれませんが、出資という独特の支援システムがもうけられているのです。
参加作品中で、これは売れる気に入った、という作品があれば、読者はその作品に出資を行いポイントを寄与することができます。
出資者にはその作品の印税権が与えられるという画期的なもの!
私も売れる作品を目指して精進を重ねています。
詳しくはこちらからです。
ドリームブック内の作品紹介ページはこちらです。
時空間を縦横無尽に行き来して、世界を救おうとする子供たちの物語です。
二十五年がたち、世界の崩壊がふたたびはじまるなか、六人の仲間たちは再び結集し、ねじまげ世界に立ち向かいます。
重厚な人間ドラマをお楽しみ下さい。
ねじまげ世界の冒険 あらすじ
三十七歳の絵本作家、高村利菜は幻覚や不眠症といった症状になやまされていた。どうやら、小学五年生の夏に原因があるらしい。
故郷の神保町では殺人事件が多発して……。
世界の崩壊がふたたびはじまるなか、六人の仲間たちは再び結集し、勇気と信頼を寄せ集める。世界のねじまげに立ち向かうには、互いを信じる心を、力とすることだ!
本格冒険SF小説!
といった感じのお話です。ポイントは無駄なエピソード、人物、描写を削っていくことになるでしょう。目標は、三百枚減です。
原稿は随時掲載していく予定です。感想などいただけると、大変助かります。
こちらは、ねじまげ世界の冒険、の旧版サイトです。訂正前の分ですね。これでも、三百枚ほど削った状態です。長い!
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自信とは、自分を信じる力である。……たぶん
第一部 おまもりさま
章前 二〇二〇年 梅雨
一
また、あの夢だ。
彼女は布団の重みを感じ、かっと目を見開いた。
暗闇のなかで、目をしばたく。汗をびっしょりかいている。悪夢のために体はこわばり、息を詰めてさえいたが、そこが自宅の寝室だとわかると、やっと呼吸をつくことができた。
女はやせこけて、おもやつれがしている。暗闇で、目がランランと光っている。うすいピンクのパジャマを着ているが、その明るい色合いは、深刻な心境を鑑みるに、なんとも不釣り合いな感じがした。
布団のなかで曲がった膝を伸ばすと、こわばった背筋がきしんで痛かった。彼女は眉をひそめながら、目が覚めるたびに浮かぶあの言葉を、忌々しい思いで受け止める。
世界はねじ曲げられている……という言葉。
「またあの夢か……」
泣きたい気分で一人ごちると、額に手をやり、大粒の汗をぬぐった。辺りは暗く、部屋はしんとしている。時計の音が、ほとほと鳴るばかりで、あとは夫の寝息がするだけだ。
彼女は37才の主婦で、名前は高村利菜といった。高村秀男とは結婚して十二年がたち、小五の娘をもうけている。昨年絵本を出版したこと以外は、ごく普通の主婦だと思っていた。自分では。
不眠症、不眠症という言葉が浮かぶ。昨晩は何時に眠ったのかと、焦燥にかられる。最後に時計の針を確認したときは、夜中の二時だった。いまは三時半である。その間、熟睡の感覚は一度もなかった。睡眠時間が減り始めたのは、昨年の十二月――今では一時間も眠ればいい方だ。
体を起こそうとすると、関節が軋んで痛かった。オーバーヒート寸前のエンジンみたいだ。彼女は不眠症と、悪夢が始まって五ヶ月がたち、自分が限界に来ていることを知った。
ベッドのうえで身をよじらし、夫を起こさないよう、注意をして布団をどかす。鏡を見ると、頬のこけた女がいて、その女の光る瞳が見え、泣いていたんだな、と彼女は思って、鼻をすすり、夫に背を向けた。泣くほど怖がっていたのに、夢の内容はさっぱり思い出せない。
床に足をおろし、冷たい板間の感触に吐息をつく。動悸がおさまるのを待った。ゆっくりと立ち上がると、体がふらついた。体勢を立て直すと、すっくと身を立て、胃袋の中身が遡るのをこらえる。時計とにらめっこをするうちに、吐き気は遠ざかった。部屋を歩くと、足下もしっかりした。利菜は額と腰に手を当てるおなじみのポーズで、なじみの不眠症問題にとりくんだ。
はじめのうちは、体を使っていないのが原因かと思った。ジョギングもしたし、水泳もやった。つまらない本を読んだり、コーヒーを断ったり、蜂蜜を食べたり、呼吸を深くしてみたり、あらゆる努力をおこなったが、効果はなかった。自立訓練法を試みたこともある。ヨガもやってみた。かかりつけの医者に相談もしたが、無駄だった。だいいち睡眠とは、努力をするようなことなのだろうか? 眠るのは、自然なことではないのか?
眠いときに眠るのは天国だと思う。要求と行為が合致する。眠れる健常人は、神経の問題だと彼女に言うが、それならば彼女はこのところずっとトゲトゲしていた。朝がきても疲れが抜けないのだから当然だし、じわじわとだが自分が鈍くなっていくのがわかる。精神を満たしているのは、不安と強迫観念だ。頭が回らない、気が利かなくなる、注意力は散漫で、神経過敏になっている。娘に手を挙げたこともある。それに対し、反省もしている。
彼女は右のこめかみをもみながら――実のところ頭痛もしていたのである――部屋を歩き回った。
「こんなことをしたってどうせ名案なんか浮かばないわよ」
壁を殴りつけたくなる。疲れをとるために眠るのに、眠るために疲れ果てるとはどういうことだ?
とほうにくれた。不眠症がすべてを鈍らせていた。判断力も、思考力も、記憶力も、生きる気力も削りとった。今では感情を抑えることも難しい。人に比べれば寛大な方だったのに、神経過敏でヒステリーの兆候が常にある。最悪なのは、娘に手をあげたことだ。
口答えをしたからなに? と口の中でつぶやく。あの子の顔を張り飛ばしたのに、正当な理由などなかった。八つ当たりをしたのである。
いまでは鉢植えにさえ腹が立つ。体調はつねに崩れて貧血気味だし、それに幻覚をよく見るのである。声を聞くし、誰もいないのに人の気配を感じたりする。脳腫瘍でもあるんだろうか?
医者には、ストレスをためないこと、などと言われたが、そのことにもまたぞろ腹が立ってきた。
「ストレスがたまってなにが悪いの? ストレスをためるな? 助言をどうも、役に立つわよ。ついでにストレスをためない方法も教えろってんだ。眠れないからストレスがたまるんだ! 人の百倍高給とるくせに、旦那とおなじことしか言えないのか。不眠症はたいしたことじゃない? 夜中に死にたいぐらいイラつくのがたいしたことじゃない? たいしたことじゃないんなら、今すぐ治せ!」
「利菜?」
声をかけられ、利菜は自分が一人ごとをつぶやいていたことに気がついた(つぶやくというより怒鳴っていたが)。彼女はばつの悪い気持ちで振り向いた。秀男が、ベッドの上で、体を起こしていた。
秀男とは、講文社の職場で知り合った。利菜は大学の頃から原稿の持ちこみをしており、そのまま出版社に就職をしたのである。秀男は三つ年上で、彼女の上司だった。気の強い彼女は、仕事の上では何度もぶつかりあったが、一年後には結婚し、その一年後には子どもが生まれたので仕事をやめた。
その後、秀男は編集長になり、雑誌をいくつも抱えている。利菜に絵本の仕事をもちかけたのも、この秀男である。
絵は中学生のころから描いていたものの、たんなる趣味のつもりでいた。ライターの仕事は、家に入っても続けていたが(腕のいいライターは仕事にあぶれない。秀男論)、自分に絵本が書けるとは思えなかったし、秀男は面白がって言っているだけだと思った。夫がしつこくこの話を持ちかけたとき、彼女はこう言った。
「書いたことないじゃない。書き方も知らないのよ? 花や風景を写実すんのと、頭のなかにある空想を紙にうつすのはぜんぜん別なわけ。無理よ無理無理あんたが何言おうとだめなもんはだめ。おだてんのもすかすのも金輪際やめてちょうだい」
と彼女は言ったのだが、秀男の返事は、
「じゃあ、今から覚えればいいじゃないか」
であって、彼女の、主婦は忙しいあたしは忙しいそもそも気が乗らないんだけど、といった論理にはまったく応じてくれなかった。応じたのは彼女のほうで、仕事のときからずっとそうだが、彼は彼女をのせるのが、職人のようにうまいのである。
それに秀男は、他人の才能を見抜く目をもっていた。しばらく打ちこんでみると、自分には絵本の本質を見抜く天賦があるらしい、ということが、利菜にもわかってきた。他人の絵本を読んでいると、どこをどのように書いているかがわかるし、そうした評論的な視点だけでなく、自分ならこう書くという、独自の視点も持っていた。
彼女はその筋にそって仕事を進めた。できあがったものは娘にみせた。ライターのときと同じく、やはり純子が審査員だった。娘の評価は、これいけてるよ、の一言だったが、彼女はそのとき娘の視線にやどった、驚嘆や賛美ともとれるなにかを喜んだ。いきおいにのって仕事をすすめ、半年で絵本を完成させると、その年の十月には出版にこぎつけた。
あれを書いていたころは、不眠症の症状はなく、体も健康そのものだった。今では仕事に戻ろうにも、構想すらわかない始末だ。結局不眠症は、睡眠だけでなく、彼女の才能もかすめとったわけである。
「眠れないのか?」
秀男はベッドの上から体をのばしナイトテーブルの明かりをつけた。部屋がすこし明るくなった。
彼女は鼻で笑いとばした。
「おもしろい質問するじゃない。眠ってるように見えるんなら、そう言って」
「また八つ当たりか」
秀男はグラスを手にとった。錠剤入りの瓶をもう片方の腕にもち、今年いくどめかになる質問を繰り返した。
「薬は飲んでるか?」
「飲んでない……」彼女は爪をかみはじめ、秀男はその手元を見ている。
「飲んだ方がいい」
彼はペットボトルを手にとり、ミネラルウォーターをコップについだ。薬瓶のふたを回すと、錠剤を手に落とした。ベッドを降り、近づいてきた。
「欲しくない……」涙声で言った。
「そんなに苦いのか?」秀男は鼻を錠剤に近づける。「においは悪くないぞ。飲め」
利菜は強情に腕を組んだ。「いやよ」
「飲めよ」
秀男がなおも手をつきだしてくると、彼女は薬を奪いとった。
「いらないわよ!」
と壁に叩きつける。錠剤の一粒は、粉々になり床に落ちた。他の粒は周囲に散った。
彼女はあとじさった。
「欲しくない……欲しくないのよっ……飲んでも効かないんだもん」
「はじめは効いたじゃないか」
秀男の落ち着きぶりに、利菜はまた腹を立てた。
「それは最初だけよ!」怒りで震えながら秀男をにらむ。「それはね、確かに眠れたわよ。でもあのときだってすぐに目が覚めたのよ。あんたには言わなかったけど……」
「そうなのか?」
「そうよ。間抜け面しないで。すぐに眠れたけど、すぐに目が覚めたのよ。もう薬なんて飲まないわ。眠れなくたってけっこうよ」
「そうやってやけをおこすのはやめろよ」秀男は我慢強く腰に手を当てた。「眠らなくて平気なのか? まいってるのはわかるだろう?」
「当然よ。あたしがいつも通りに見えるの? あんたこんな女に惚れたわけ?」彼女は両腕を広げて、首を左右に振りたてる。「まいって何が悪いわけ? ろくに眠れなくてごめんなさいね」
「その早口と身振りは変わってないぞ」彼は彼女の真似をした。「オーバーアクション」
「あんたも、あたしを怒らすのはあいかわらずね」利菜は腕を組んだ。秀男が肩をすくめた。彼女の物真似をまだやめない。「あんたはいっしょに働いてるころからいっつもそうよ。あたしがいらついてるのが見えない?」
「感情は見えないし、おまえは怒ると頭が回る」
「今はあんたにキレてんのよ」と吐き捨てる。「八つ当たりだけどね」
「それも変わってない」秀男は含み笑いを漏らす。
「そうね。絵本を書き出してまたぞろ上司と部下に戻ったわけだし。礼でも言おうか?」
「ごほびに薬を飲めよ」
「いやよ」
「効くかもしれないだろう」
彼女は本気で腹を立て、きつく言った。「薬を飲むともっと自分がだめになるのよ。にぶくなんの。わかったっ?」
秀男は彼女の語気に口ごもった。ふざけるのをやめて本腰になったが、方途がなかった。利菜はもともと不眠症になるような性格をしていない。絵本の仕事が終わって、燃え尽き症候群でも出たのか、ライターズブロックかと思ったが、そんなありきたりなもののせいにするには、彼女の症状は重かった。毎日小一時間と眠れていないし、日頃の挙動もおかしいのである。認めたくはなかったが、精神的な病に見えた。
不眠症がここまできた以上、薬を試してみるのは良策だと思えたが、当の妻兼部下が拒否している。秀男は腕をくんだまま弱り果てた。
「どうしてやったらいいんだ。眠れない理由がわからないし……ストレスが……」
「ストレスのせいじゃないって言ってるでしょ!」
利菜の大声が、切り裂くように部屋を満たした。秀男は表情を硬くした。
「おい、大声を出すな。純子が起きるだろう」
二人は黙った。ややあって、彼女は言った。
「起きたからなんなの。あの子はいつでも眠れるじゃない」
秀男は傷ついた表情を見せたが、顔は伏せなかった。
「そんなふうに言うなよ。そこはお前らしくないね」
利菜は黙った。不眠症がすすむと、ばかな言葉が出るもんだ、と唇をかみしめた。
秀男は黙ってポケットに手を突っこんだ。今度は小さく肩をすくめた。「仕事はすすんでるか?」と訊いた。秀男は、利菜の気晴らしになるかと思い、ライターの仕事をいくつか持ちかけていた。
「ぜんぜん。あんたが編集長じゃなきゃ、とっくにお払い箱かもね」
「心配ないよ」秀男は言った。「お前は才能あるから」
利菜は鼻で笑ったが、べつに嫌みな笑いではなかった。
「あたしを乗せんのも相変わらず上手よね」
「ああ」秀男は一瞬とまどうように顔をふせたが、まっすぐにみつめ、「お前が不眠症でも幻覚を見ても。夜中に起きて俺に当たっても、関係は変わらないよ。いまでも惚れてるからな」
と秀男は言った。彼の目は強く、おかげで彼女は彼の言葉を信じた。ときどき率直なことを言って喜ばすのもかわらないな、と彼女は思った。このところ、二人の関係はうまくいっていなかったが、彼女だって今でも彼が好きだった。
秀男は、「俺もストレスが原因とは思ってない。お前ここんとこ、ほんとにおかしいもんな」
率直なご意見どうも、と利菜は思った。
二人は思い思いの行動をとった。利菜はポケットに手をつっこむと、ぷらぷらと歩き回り、秀男は同じ場所で、踵を浮かせてはおろすのをくりかえし、腕を組んで考えている。
秀男はやがてぽつりと、「実家に戻るか?」
利菜は立ち止まり、険のある表情を見せた。「なによそれ」
「純子も春休みだろう。寛ちゃんとこでも泊まって、のんびりしてきたらどうだ?」
「女二人追い出して、浮気相手でも連れこむ気?」と意地の悪い笑顔を見せた。
「浮気相手はいない」秀男はにやけた。「もてるけど」
二人は互いにうつむいて、にやりと笑った。
彼らはまた部屋をぶらつきはじめた。ときおり互いに目をやった。
「あんた何考えてんの?」
「明日の仕事のこと」
「また雑誌を立ち上げるんだって?」と呆れたように言う。
「そう」秀男は思いついたように付け足す。「ああ、心配すんなよな。お前の助けはいらないから」
「そんなこと言って。仕事がつまったら原稿を回すじゃない。いつもいつもいっつも」
「腕が落ちてなきゃ、こんども回してやる」
「もちろん落ちてるわよ……」
彼女が落ちこんだ声で言うと、秀男はそっと近づく。「できることがあったら、なんでもするよ」と彼女を抱き寄せる。
「不眠症は治せないけど?」
秀男は少し体を離して、彼女の額にキスをした。
「不眠症は治せないし、文も書けない。絵もだめだし。だから原稿はお前に任す」
「頼りにしてるわよ、編集長」
「俺もお前を頼りにしてる」と彼は言った。「わかるよなあ。お互いさまだってことぐらい」
「もちろん」と彼女は言う。「あたしだってあんたを頼りにしてる」
秀男は利菜の髪をなでおろす。利菜はほっと吐息をつく。秀ちゃんはまだ私が好きだな、とのんびり思った。いいかげん愛想を尽かされるかと思っていた。このところ、八つ当たりばかりしていたからだ。でも、八つ当たりをするところは秀男にだってある。秀男の言うとおり、確かにお互いさまで、まだ互いが必要だった。
「こんな女と離婚したら?」と心にもないことを言った。
「よせよ」と彼が言う。「俺にほれてるくせに」
「ほれてるのはあんたの方でしょ」利菜は秀男の肩をそっと噛む。「一目ぼれだったくせに」
「先に告白したのはそっちだ」
「最初のデートでせまってきたの誰?」
「それは俺じゃない」と秀男は笑った。「別の相手」
秀男は彼女の背をなではじめた。二人はいつもの言い合いを続けた。そのうち、彼は体をぴたりとくっつけ、軽く体をゆすりだした。
彼女の右手をとった。
「なにしてんの?」
とさも愉快げに声をたてた。
「おどってる」
二人はわりと長い間踊った。やがて二人でベッドについた。行為を終えたあと、利菜は秀男の隣で天井をみつめた。
不安は消えてはいなかったが、今は安心感も生まれている。彼は彼女と手をつないでる。互いを信じる気持ちは、消えていない。二人が仕事上の上司と部下でしかなかったとき、秀男はよくこう言った。「問題が見つかってよかった」そう言って、肩をすくめてみせるのである。「直せばもっとよくなる」
彼女は眠れなかったが、起きる前より前向きだった。ただ、彼女はこうも思った。悪夢や幻覚の遠因は、このなぜとは知らない不安感にあるのだと。彼女は不安だ。医者のいうストレスなど関係なかった。強い不安を感じていた。
強迫観念が、空気のように彼女をとりまいている。それでも利菜は、秀男のことを思い、一人娘を思い、あきらめないことを決めた。不眠症だって、いつかは解決するに違いない。
ところが、彼女の心中には、あの言葉が浮かんでもいた……世界はねじ曲がっている――という言葉。
彼女は言った。
「世界はねじ曲がってなんかないよ。曲がってんのはあたしの性根の方」
結局彼女は彼女の夫を信じ、彼女自身を信じたのである。問題を抱えるのもお互いさまだが、今まで前向きに解決してきたのだ。だめだったことはあるが、だめにしたことは一度もない。
利菜は隣で眠る秀男に、そっとつぶやいた。
「不眠症には一番効果があるわよ」
二
事態が動き始めたのは、数日後のことだった。その日は前日からの雨がつづいた。家には彼女だけがいた。夫は仕事に行き、娘は学校だった。午前十時すぎ、クロネコヤマトの宅配が、彼女に荷物を届けてきた。
高村利菜の郷里は千葉県多賀郡の神保町だが、いまは東京の一戸建てに暮らしている。荷物を送ってきたのは、その郷里にすむ竹村佳代子で、利菜とは幼稚園のころからつづく、幼なじみの親友である。佳代子は、これも小学校からの腐れ縁だった寛太と結婚し、十九年がたった今では、二人で自然農園をやっている。
利菜は中学の卒業とともに、県外の女子校に通い始め、大学も就職も東京だった。神保町とはずっと疎遠だったのだが、佳代子と数人の仲間とだけは、ずっと交友がつづいている。
利菜は段ボールを居間まで運んだ。佳代子がホームセンターからもらってきた段ボールには、薄く土がついている。いつものように野菜を送ってきたらしく、重かった。箱を開くと、新聞紙でくるまれた野菜がある。
佳代子が野菜を届けてくるのは毎月のことで、宅配など珍しくなかったが、今回は新聞の上に封筒がある。茶色の便箋がのっていた。
佳代子が手紙を? と彼女はいぶかしんだ。用があるのなら電話をかけてくればいいと思った。佳代子は筆まめな方ではなかったからだ。
そういえば……と彼女は気がつく。この数ヶ月は電話のやりとりすらしていない。以前は三日と開けずに連絡を取り合っていたのに? 彼女がかけなかったのではなく、向こうからもかかってはこなかった。
封筒を裏返した。これといって署名はない。胸騒ぎがした。封筒を机に置き直す。佳代子にも何かあったのではないか、という直観がした。不眠症では半年も悩んでいたのに、佳代子に相談する気にならなかったこと自体が不思議だ。友達は大勢いるが、格別思い入れのある親友といえば、佳代子をおいて他にない。出版された絵本を、まず見せたのは佳代子だし、結婚の報告をまっ先にしたのも佳代子だった。誰にも打ち明けきれない悩みも、佳代子になら相談できた。ともに初潮を経験した友人とは、そういうものではないのか?
幼なじみといえば、自然と恥ずかしいところも知ってしまうものだし、なんといっても、佳代子は利菜に関するいろんな秘密を握っていたのである。
彼女は表に面したガラス戸に目を向けた。そのとき、六人の子どもたちが小雨の中に立っているように見えたが、気のせいだったようだ。彼女は大きく息をついて、封筒に視線を戻した。
不眠症がはじまったのが昨年の十二月……三月の半ばからは、夢遊病がはじまった。ロフトに隠れていたこともあるし、庭に出ていたこともある。二日前は風呂場に隠れていた。目を覚ますと、バスタブにうずくまっていた。シャワーからは小雨のように水が落ち、彼女はずぶぬれになって、泣きながら膝をかかえていた。部屋は真っ暗闇だったが、突如として明かりがついた。自分がどこにいるかを悟った。バスタブのカーテンはしまっていたが、そこに人影がうつっていた。
「誰……」
と彼女はつぶやいた。夫のはずはない。輪郭でそれを察した。立ち上がって、カーテンを開けた。
そこにはずぶ濡れの女が、着物と長い髪を垂らして立っていた。彼女は溺死女だと思い、悲鳴を上げ尻餅をついた。激痛に顔をしかめそれでも急いで顔を上げたが、そこではカーテンが微かに揺れているだけで何もいなかった。誰も。
彼女はシャワーを止めた。ずぶ濡れの体を見下ろした。いつもの幻覚にしてはできすぎだな、と暗い笑みをもらし、服を着替え、台所の椅子にすわり、なにが起こったのかを考えた。包丁をもち、なにごとかを考えながら、ほうれんそうを切った。みそしるをつくり、目玉焼きをつくり、食卓に並べていると、家族が起きてきた。たまたま早く起きたのよ、と説明した。たまたま不眠症になったし、たまたま幻覚を見るようになったのよ、と考えた。二日前のことである。
彼女自身は、そうした幻覚などの症状には、すべてなにかしらの遠因があるのだと考えていた。無作為に起こっているのではなく、ある一定のまとまりがあったからだ。無意識のうちに行動しているときは、何かから逃げようとしていることが多かったし、例の悪夢も、同じ内容をくりかえし見ているようだった。
佳代子の文面は次のようなものだった。
『まいど。ゲンキでやってるか? お久しぶりです、竹村佳代子でございます。梅雨もちかごろ盛りがついて、こっちじゃあざんざんぶりがつづいてる。ここんとこあんたともご無沙汰だったんで、手紙を書こうかと思う。こっちじゃあ近所の小学生を十人ばかり引き受けて、農園を手伝ってもらった。収穫があったんであんたに送る。そっちはどう? あんたは元気か?』
佳代子は簡単にご無沙汰だったと書いているが、彼女たちはメールのやりとりすらしていない。不眠症がはじまってからは、ふっつりと連絡が途絶えていたのではないかと思って、彼女は眉をしかめた。半年もご無沙汰がつづけば、身の上を心配しだしてもおかしくはない。
佳代子の手紙はこう続いた。
『最近電話もしてなかったけど、あんたのことは気にはしてる。あんただってあたしのことを気にかけてくれているとは思うけど』
「ほんというと、あんたのことはかけらも思い出さなかったよ……」
利菜は茶をいれた。手が震えていたので、彼女はますます落ちこんだ。体の病気ならまだ対処のしようがあるよ、と彼女は思って、熱い玄米茶を一口飲んだ。
『最近こっちは物騒でね、ちっぽけな町のくせに犯罪はよくあるし、こどもが連れ去られる事件が頻発して、うちの坊主も集団下校なんてやってる。東京より不安全なぐらいよ。こんな田舎で、割に合わないと思わない? うちの農園も、ちょっかいを出されて参ってる。警察に届けたりはしてないけどね。いやがらせをされる覚えはないんだけどね……。できのいいスイカはぜんぶ踏み潰されてるし、温室のビニールを引っぺがされたこともある。そんなわけで、あんたには聴いてほしい愚痴がいっぱいあるのよ。電話をしたかったけど、それだとうまく伝えられるか自信がない。根暗な話になりそうだしね……』
「だからなにがあったのよ」
手紙に話しかけながら、無意識のうちにポットを撫でた。猫がいればいいのだが、二ヶ月前に家出をして、それきり戻ってきていない。
一枚目の紙をめくったとき、彼女が目にしたのは、不眠症という文字だった。
『こういう子どもじみたいたずらもたまらないけれど、一番まいってるのは眠れないことなのよ。去年の暮れあたりから寝付きが悪くなってるのに気づいたけど、それがよくならないまま今も続いてる。今じゃあ一時間と眠れない。悪い夢ばかりみるし。あんたにだけは打ち明けるけど、幻覚までみるようになった』
佳代子の文字は急速に殴り書きになり、読むのも難しいぐらいの字面が続いた。利菜は、苦労しながらも必死に読んだ。夢中になってペンを走らす姿が、容易に想像できた。理不尽だが、同じ悩みをもつ人間をみつけて、どっと安心したのである。
『寛太のやつも同じだった。別に夜の営みに精を出してるわけじゃないんだけど。眠れないし、幻覚をみてるらしい。つまり夫婦そろって不眠症にかかったというわけ。あたしたちはそのうち好転するものと思いこみ、互いにその話しをしなかったけど、症状はだんだん重くなってくるし、黙っているなんて不可能だった。二ヶ月前、あたしたちは悩みをうち明け合った』
「それはうらやましい限りね」
といらだちをにじませる。彼女は同じ症状で苦しむ相手がそばにいない。秀男も不眠症にかかればいいのに。
佳代子は本当に思いつくままに、一人思索にふけりながら筆を走らせたらしい。手紙はだんだんと自己独白めいてくる。
『あたしたちは話すうちに、子どものころ似たような体験があったことを思い出した。たしか小学四年か五年の頃だ。あたしたちは不眠症にかかり、集団で幻覚をみるようになった。子どもの頃そんなことがあったなんて、思い出しても信じることができなかった。不眠症が伝染するなんてあたしは聞いたことがないし、そんな強烈な体験を、うっかり忘れたりするものだろうか?
寛太とあたしは、新ちゃんと達郎ちゃんにもこのことを話した。すると、二人も不眠症で悩んでいることがわかった』
新治と達郎というのは、郷里に住む尾上兄弟だ。今も交友がつづく幼なじみたちである。
『症状が出始めたのはみんな同じ時期で、悪夢をみるという点でも、共通している。あたしたちはあの夏、同じような経験をした仲間のことを思いだした。あたしたち四人をのぞけば、後はあんたと紗英がいる。二人も、不眠症にかかっているんじゃないだろうか? あたしたちはよくよく話し合ったが、あの夏に関するあたしたちの記憶は、ほとんど抜け落ちていた。あたしにはあんたが覚えているかどうか確証がない。だけど、あんたは、あたしたちとちがう体験をしている。四人で集まって話をするうちに、新ちゃんが、とつぜん思い出したように立ち上がってわめいた。稲光にあったみたいな顔だった。あの夏に、利菜が両神山で遭難した、と。あんたは二十五年前、あの山で一人遭難した。ちょうどみんなで幻覚をみていた時期だった。二十年以上も忘れていたけれど、でもあたしは思い出すことができた、あたしたちは。あんたはどうなの?』
「覚えてないわよ!」
利菜は手紙を投げ捨てた。しかし覚えていたのである。佳代子の手紙は彼女の記憶も呼び戻した。朝礼台にのぼる、自分の姿が浮かんでくる。
あれは無事帰ったことを、みんなに知らせる集会だと彼女は悟り、佳代子たちと自転車を走らす姿や、あの子たちと笑い合う姿を思い出す。あのころ――佳代子、紗英、新治、達郎、寛太の五人はいちばんの親友だった。今にいたっても交友がつづくほど、親密な友達だった。だけど、二十五年前に自分たちが抱えた悩みのことは、すっかり忘れていたのである。
大人になって、昔のことを話し合うのは、幼なじみの特権だ。しかし、これまでに不眠症の話が出たことは一度もなかった。遭難のことも。幻覚を見たことも。
彼女は再び外に目をやった。すると、二十五年前の子どもたちが、ずぶ濡れの庭に立っていた。六人の子どもたちが、雨に濡れながら。
彼女は手紙を取り落とした。
「あんたたち、あんたたちも苦しんでたんだ……」
と彼女は言った。彼女はこわごわしながら、ちらばった手紙をかきあつめる。外では雨が吹きしぶいている。しまい忘れたタオルが、風になびいている。子どもたちは一様に暗い表情をして彼女をみつめる。あの子たちが寄って来はしないかと、彼女は不安になる。
二十五年前の佳代子が、子ども時代の自分のとなりに立っていた。おさげを編んで、そばかすを散らした顔の佳代子。二十五年もたつのに、ここにいる佳代子はあの頃とおなじ格好をしている。デニムのつなぎを着て、両手をポケットに突っこんでいる。何でも入れられるから、でかいポケットのついたのが好きで、寛太を殴るのが趣味だった。同じ県営マンションに住んでいた佳代子。兄弟が多くていつもめんどうを押しつけられるんだと、腹立ち紛れに愚痴をこぼした佳代子が、どんよりと濁った目をして立っている。
あの頃、県営マンションにはあと二人の親友がいて、それが達郎と新治の兄弟だった。達郎は一つ年上で、リトルリーグのヒーローだった。高校のとき肩を壊して職人の道に進んだが、当時はプロを嘱望された逸材でもあった。そこにいる一同の中では、いちばん背が高い。ほお骨がぐりぐりと突き出て、佳代子にはホームベースとあだ名された。
達郎のとなりに立つ、ちっちゃなネズミ男が新治である。二人の兄弟は同じTシャツを着ている。本が好きで、利菜が絵本を書くことを、いちばんに喜んだのが新治だった。のび太がかけるみたいな、まん丸めがねに水滴がつき、彼の目玉は見えなくなっている(あの奥には目玉なんてないんだと思って利菜はぞっとする)。
列のはじっこで、すねたように口をとがらせている丸坊主の小僧が、寛太だ。小学生当時の寛太は、じいさんにいつも丸刈りにされて、それで坊主頭だったのである。彼の顔を流れる雨の筋は、子どもたちのなかでもいちばん多く太い。喧嘩っぱやくて、神保小では問題児扱い。今では立派に仕事をこなして、トライヤルウィークの生徒の受け入れだってやっている。
反対端にいるのは、紗英だ。中学に入学すると同時に、急速に背をのばし、男の子たちにからかわれた背い高のっぽの紗英も、このころは利菜たちと頭を並べている。肩までの髪からしずくが垂れている。黒いフリルのついたお上品なワンピースを着てる。彼女たちがママゴンと呼んだ母親が、いつもそんな服を着せるのである。
「あんたもなの?」
と彼女は言った。この中で町を離れているのは、自分と紗英だけだった。紗英は今ではスチューワデスになり、世界中を飛び回っている。結局ママゴンは、この子に足かせをつけるなんてできなかったのだ。線の細かった紗英も、人一倍の粘りをみせ、文字通りにあの町を巣立っていったのである。
新治と達郎は、今では二人で木工房を開いている。木に関するものならなんでもつくってしまう、手作り工場を立ち上げたのだ。利菜がデザインを手伝うこともある。二人とも絵の趣味を知っていたし、彼女の腕をかってもいた。
だけど、そこにいる子どもたちにとっては、まだ遠い未来の話だった。あのころは大人になるなんて夢にも思わなかった。小学校生活のおしまいなんて、まだまだ考えられなかった。
一同の真ん中にいるのが、利菜だった。小学五年生の彼女は、長く髪を伸ばしている。やせっぽちの脚にジーンズがぺったりとはりつく。まつげを通して雨が目にはいるのか、まぶたをしばたたいている。
「あんたたちみんな……」と彼女は言葉を失う。「でも……なんでよ、なんでわたしたちはそんな目にあったの? どうやって解決したのよ」
気がつくと、彼女はいつにない行動に出ていた、幻覚に話しかけ、あまつさえ幻覚に近づこうとしたのである。あれは幻覚じゃないと、なぜとはしらない確信をもった。今まで見てきたものも、全部幻覚などではなかったのだ。
あの子たちの足は、ぬかるみにめりこんでいる、影まであった。溺死女は髪を落としていった。自分のものだとごまかしたが、ちがう。彼女の髪はストレートなのにあの髪は縮れていた。旦那が他の女でも入れたんでしょ、と、彼女はあのとき笑ってごまかそうとしたが、そんなはずはなかったのだ。
戸口のすぐそばまで来て、急に恐ろしくなり、利菜はサッシをあけるかわりに、カーテンを閉めた。ガラスに背をくっつけた。心臓が激しく鳴った。佳代子は記憶がないと言った。記憶が抜け落ちている、と、書いていた。利菜もまた、遭難の日々と、その後の記憶がない。思い出せないのではなく、その部分の記憶が、すっぽりと抜け落ちている感じだった。佳代子たちはなにかを思い出した様子だが、彼女には戻ってこないのだ……。
そのとき、背中で声がした。ガラスに子どもの利菜が口をつけ、そっとささやいてくる。「両神山に戻るのよ……」
「帰りなさいよ。あんたはあたしじゃない、あたしの友達なんかじゃない。あんたたちみんな……」
みんな? みんな、何だというのだ? 幻覚なのか?
彼女にはとても幻覚だとは思えなかった。だから、「偽物じゃない……」とそれだけを言った。ひどく正確な表現に思えた。
鼻をすすりながら机に戻った。手紙をおいて、気が落ち着くのを待った。秀男が戻ってくれば、そんなばかなと一笑にふしてくれるにちがいない。幻覚に話しかけるなんて、馬鹿だなと言ってくれるに違いないと彼女は思ったのだが、読みかけの手紙はまだ目の前にあり、記憶は確かに戻ってきていた。利菜は紗英の心配もした。不眠症と幻覚があのころの仲間に起こっているのなら、あの子もおなじ体験をしていて不思議はない。
利菜は佳代子の手紙に目をやり、「まいった。頭がいかれたのがあたしだけじゃないなんて」と額を抱えた。「頼りのあんたまでいかれてるとはね」
佳代子の手紙を、読まずに畳んで物思いにふけった。そういえば、あのころはみんなが問題を抱えていた。佳代子には片親しかなくて、なのにその母親は娘も知らない男の子どもを産んだ。だから、当時は佳代子も白い目で見られていた。
佳代子の母親は、情緒不安定なところがあった。機嫌がよいときはいいが、かっとなると娘に暴力をふるうのである。佳代子はいつも妹や弟をかばっていた。だから、母親の暴力はもっとも佳代子に向けられた。頬を張らしたり、体に傷をつくっていることがよくあった。そんなときは利菜も佳代子の母親に、憎しみを覚えたものである。彼女は考える。あの子はどうなんだろうか? あの子も母親を憎んでいたんだろうか?
ガラス戸を、ドン! とはたかれた。子どもの声で佳代子が叫んだ。「もちろん憎んでたわよ! あいつが嫌いだったんだ! 殺してやろうと思ってたんだ!」
「消えなさいよ! 佳代子はそんなこと思いやしないわ! あんたは佳代子じゃない!」
利菜は、そちらを見もせずに言ったのだが、「ひどいよ……」と佳代子の傷ついた声が聞こえたときは、さすがに表に目を向けた。カーテンには人影すら映っていなかった。
佳代子だけではない、新治と達郎の兄弟だって大問題だった。佳代子も利菜も、当時は自分たちよりあの兄弟に関心をもっていた。他人の問題に目を向けることで、自分たちの問題から、顔を背けていたのかもしれないが。
尾上兄弟が、小学二年と三年だったころ、二人の両親が離婚した。母親が子どもたちをひきとったのだが、その二年後には再婚してしまった。新しい父親はとてもいい人だったのだが、達郎は大きくなっていたせいか、まるでなつこうとしなかった。ボロアパートに住む本物の父親を、しょっちゅう訪ねていた。泊まることもあるみたいよ、と、当時からゴシップ好きだった佳代子が話してくれたこともある。
一方で新治は新しい父親になつくようになった。家族がうまくいくよう、新治なりに心を配っていたようで、そのせいか彼は他人の顔色をひどく気にする子供になっていた。兄弟は今でこそ同じ仕事についているが、あのころはうまくいっていなかったのだ。話もせず顔を合わせることもなく、互いにさけているようだった。別にどっちになつこうがかまわないと思うのだが、二人は子どもだったから、お互いにどう接していいかわからなかったようだ。その後、どうやったか知らないが、あの兄弟なりに折り合いをつけたわけだ。
紗英はカナダからの帰国子女だったが、やはり両親がうまくいっていなかった。カナダにいたころは仲良くやっていたそうだが、工場が倒産し、家族が日本に戻ってからは、父親は家に寄りつかなくなっていった。あの子の母親は、娘にすべての関心をそそぐようになった。そうしないと、娘も離れていくというかのように。紗英を規則と塾で縛りづけにし、友達にすら口を出した。暴力こそふるわなかったが、ヒステリーで、言葉で紗英を傷つけた。
両親が離婚したのは、寛太のところも同じである。寛太は鷹揚で男っぽいところのあるやつだったが、なにかの拍子にひどくひねくれた面を見せることがあった。学校で喧嘩をしては、じいちゃんが呼び出されていた。利菜たちが彼の家に泊まりに行くようになってからは乱暴も少しは収まったが、あいかわらずのじいちゃん子で、母親にあまりかまっていないようだった。子供が母親にかまうとは、おかしな言い方だが。
「あんたはどうなのよ……」
子供の利菜の声が、すぐ近くでした。
「そうね、わたしも問題はあった……」
彼女は悲しい気持ちで思う。子どもの頃はひどい貧乏で、あの町で住む最底辺のぼろアパートで暮らしていた。県営マンションにうつる前のことだ。中野区の克美荘というところにいた。父親はあまり働かず、職を転々とした。母親はいつも苦労していた。妊娠もしていた。
彼女はいまでもあのアパートを思い出す。割れたガラスをテープで止めた窓、軋む床、暗い階段、そこに住む零細な、人、人、人。トイレは共同で風呂はなく、洗濯機は表にあり二階建てで、瓦屋根で、廊下は窓に接していて明るいがすきま風に底冷えがした。春よりも冬の木枯らしが似合い、日中の日差しよりも夜の暗がりが似合う。貧乏な学生が騒ぎ、おばさんたちは母親をいじめた。
「片桐さん……片桐さんにいじめられてた」
片桐さんには、髪をきってもらった思い出がある。彼女が三つの時である。ざんばらの髪にされたのか、虎刈りにされたのか(まさかそこまでひどくないだろう)、今となっては思い出せない。けれど、母親が頭を撫でながら、泣いていたのを覚えている。学生たちが怒ったが、片桐には文句すら言えなかった。あのアパートでは、主のような存在だった。片桐の亭主はいい人ではあったが、嫁には文句も言えずに小さくなっていた。母親はあそこで流産をした。
そのうち父親が県営マンションのくじを引き当て、暮らし向きは好転した。父親は仕事についた。二人は今も問題を抱えながら、あの県営マンションに暮らしている。
だけど、あの年に佳代子の母親が子どもを産んだ。利菜の母親が信子という名前をつけた。生まれるはずだった、子供のために考えていた名前だった。そのせいか、夫婦の仲は再び冷めはじめた。利菜はまた克美荘にもどるのではないかと、恐々としたものである。
彼女はまた思いだした。あの頃、母親は新興宗教にはまっていたのだ。何という名の宗教だったか?
当時、彼女たちはそれぞれの問題を抱え、そのために結束を強くした。だれか問題を抱えた仲間をそばにおくことで、安心していたのかもしれない。あの子たちだけは本当の仲間だったが、集団で不眠症や幻覚にかかるなど、今の彼女には考えられなかった。手紙に目を落とし、佳代子が両神山と不眠症を結びつけたように書いているのを不思議に思った。
手紙をひらく。ごくりと唾を飲みながら、続きを読み始める。
『当時の事件を覚えていたのは寛太だった。あたしたちは、少しずつ記憶を取り戻していった。あたしたちはまわりの状況も、二十五年前と似通っていることに気がついた。あのころも、神保町とまわりの町では、犯罪が多発していた。行方不明や、傷害事件がかなりあったし、それに両神山では殺人事件があった。あんたが遭難したときは、殺人犯にさらわれたと噂がたったほどだ。あの山で死体が発見されたのは、遭難の直前だったんじゃないかと、慎ちゃんは言っていたけど。
ねえ、あたしたちこの話題を二十年以上も口にしなかった。子どものころのことは会えば必ず口にするのに、このことは話題にすらのぼらなかった。だって思い出すことすらなかったんだから!
寛太が遭難事件を思い出したのは、今回もあの山で殺人事件が起こったからだった。亡くなったのは六十代の男性で、林の中で絞殺されていた。テレビでもちらっとやったし、新聞にも小さく載った。狭い町でのことだから自然に知ってはいたのに、あたしたちは四人で集まるまで、あの頃のことを思い出すことができなかった。
それで、あの日、寛太のやつが言い出したのだ。両神山に、今から行こうと』
手紙を持つ手が震えた。彼女は指の震えにすら気づかなかった。佳代子たちは両神山に出かけたのだ。
子どもの頃は、あの山にたびたびピクニックに出かけた。中腹には草原があり、そこへ家族ぐるみで出かけた。草原にはアスレチックがあり、確か山道にはハイキングコースもあった。
吐息を乱し、額の汗をぬぐう。
さきほどカーテンをひいたので、部屋は薄暗くなっている。立ち上がって電気をつけると、部屋の戸口に誰かがいて彼女は悲鳴を上げたが、次の瞬間には人影は消えて、彼女は今見えたのは、野球帽をかぶった子どもの水死体だったのかと、推測をめぐらすばかりだった。
すわりなおした彼女が目にしたものは、畳の上にできた水たまりだった。
佳代子はあの夏に殺人事件が頻発したと書いてる……この幻覚もあの夏と関係があるのではないか。水死体を見たことがあるんだろうか?
利菜は呼吸を整えた。冷や汗がひくと、また手紙に目を落とし、佳代子の打ち明け話にもどっていった。
『両神山には二十年間出かけてない。あんたの事件があってからは、一度も。子どもを行かせたこともない。あの山のことはずっと忘れてたのよ……。
両神山につくと草原はすっかり様変わりして、ロッジがいくつも建ちならんで、いつの間にかキャンプ場になっていた。信じられる? ロッジはかなりでかく、小中学の林間学校のチラシが貼られている。記憶にあった場所とずいぶんちがうんでめんくらった。小川だけが、昔と同じとこを流れてた。流れに沿って石がそえられていたし、アスレチックも新しくなっていた。駐車場の脇には、でっかい管理施設も建っていた。子供のころはジュースも買えないって不満をもらしたものだけど、今では販売機もあるし、ジュースどころかビールもたばこも買える。食堂もできてたわ。
平日のせいか管理所はしまっていて、話を聞くことはできなかった。あたしたちは草原をみてまわった。子どものころはだだっぴろく感じたけど、大人になってきてみると、狭くなった感じだ(本当は杉を切り倒して、丘を広げてしまったらしい)。
新ちゃんはこう言ったわ。キャンプ場のパンフレットは前に見たことがあるって。だけど、両神山のことだとは気づかなかったし、行こうとも思わなかった。彼、アスレチックには興味あるじゃない? 達兄とくんで、神保小の校庭に寄付もしたよね。だから、見にいきもしなかったのは、不思議だって言っていた。あたしたちはロッジの間をぬけて斜面をのぼった。あたしはおまもりさまの蔓壁がなくなってるのに気がついた』
「おまもりさま……」
彼女は肘をついて両手で顔をおおった。草原の上にある杉林いったいを、地元の人はおまもりさまと呼んでいた。
林と草原の境界には網がはられていた。そこに低木と杉の木から垂れた蔓草が何重にもからみつき、分厚いカーテンのように、林の縁を覆っていた。彼女たちは見たままの印象から、「蔓壁」と名付けたのである。
大人は子どもたちがおまもりさまに近づくのをいやがった。蔓壁は子どもたちを林から遠ざけるのに、格好の役目を果たしていた。あそこに近づくと、大人たちが大慌てで飛んできた。休日に人があふれかえるようになっても、林の縁にござを広げる人はいなかったし、林を切り倒して草原を広げようなどという、環境破壊団体もいなかった。奥には沼地があるという話だったし、まむしも出たからである。蔓草を刈りこもうとしないのは不思議だったが、子ども目にも、薄気味が悪かったのを覚えてる。
佳代子はおまもりさまのことをひとしきりつづっていた。
『こどものころは草原がかっこうの遊び場だったけど、大人になって来てみると、あたしたちは怖くて仕方なかった。山にいるのはあたしたちだけだった。草原は静かだった。鳥の声がいやによく聞こえた。蔓壁がなくなったせいか、あたしにはおまもりさまが口をあけて待ちかまえているクジラに見えた。あんたには馬鹿代子と笑い飛ばして欲しい。誰が蔓を切ったのか聞いてみたかったけど、手近には人がいなかった。管理所にも人をおいてない。閉鎖されたわけでもあるまいに……。
あたしたちは林に入ってみるか話あったけど、無人のロッジはなんとも不気味で、尻こみをするままに帰ってしまった。
不眠症とあの山が関係あるのか、あたしにはなんともいえない。だけど、二十五年前のあんたの遭難と集団幻覚は、ときをおなじくして起こってる。
寛太はあんたがあの事件のことは覚えてないんじゃないかと言ってる。手紙を書くのも反対してた。あんたまで不眠症にかかってるなんて、ばかげた話だと寛太は言った。あの人らしくはないけれど、そんなふうには考えたくもない様子だった。だけど、今まで音信不通だったこと自体、あたしにとっては不安だった。
あんたの身になにも起こっていないのならいい。だけど、もしあんたの身にあたしたちとおなじことが起こっているんなら気をつけて欲しい。あんたの身に起こってるのは単なる不眠症ではないし、幻覚にもよくよく注意すること!
どうにもならなくなったら電話しておいで。あたしたちはあんたの味方だし、なにが起こっているか理解もできる。もしかしたら、あたしの方があんたを必要としているのかもしれないけど。
まわりがたとえ頼りにできなくとも、あたしだけは頼りにして欲しい。以上』
読み終わると、最初のページを上にした。彼女は手紙をにらみつけながら、これは容易ならないなと考えた。佳代子は長々と書いているが、なんのことはない、これは警告の文面なのである。
あんたはなにを思い出したの? と利菜は佳代子に問いかけた。事件のことを思い出すために山にいったはずなのに、手紙は核心にはふれないままに終わっている。何も思い出さなかったとは考えられない。佳代子は手紙の文面をこんな形で終えていたからである。
『最後に一つだけ。ひまわりは咲いてなかったわ』
ひまわり? 草原にひまわりなんて咲いていただろうか?
手紙を読み返しながら、彼女はこうつぶやいた。
「あの山でなにがあったのよ」
佳代子の心配のほどが理解できた。電話をかけてこなかったのは、慎重に慎重を重ねたかったからだろう。そうでなければ手紙をよこすはずはない。
利菜はこう考えた。佳代子のやつ、あたしも山に行くなんて言い出すのを怖がったんじゃないだろうか?
利菜は殺人事件のことを確かめるために、置きためた新聞を取りに行きたかったが、なかなか。腰を上げるには勇気がいった。手紙を読む間も、見られている気配を、ずっと感じていたからだ。
表にはぜったいに顔を向けないと決めていたが、居間の畳には、子どもたちの人型が、長く影を落としていた。電話が必要になるのはまもなくらしい。
そうして、娘がもどってくるのを心待ちにしながら、彼女は立ち上がろうともせず、佳代子の手紙を何度も何度も読み返していった。
そこに、隠されたメッセージがあるというかのように。
今夜は、ますます、眠れそうになかった。
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第一章 両神山にて
一九九五年 八月十三日〜十四日
三
全てのはじまりは、一九九五年、八月十四日に帰着する。
この時点で、すでに二人の子供が殺されていた。一人は斉藤秀幸という、神保北小学校の生徒で、もう一人はさくら幼稚園に通う、小野田美由紀という五歳の女の子である。
殺人事件以外にも行方不明が二件あり(家出人の届け出を加えると、もう少し多くなる)、自殺が四件あった。外に出れば葬式に行き当たったし、町中を走るパトカーが、いつだって目を引いたころでもある。神保警察の人員はふだんの三倍にふくれあがったが、今年にはいって起こった殺人事件のうち、四件までは解決できていなかった。
六件の殺人は、ここ十年、神保町で起こった殺人事件の総計よりも多く、また事件はこれで終わったわけではなかった。表面化されなかった事件もふくめて、神保町は誰にも気づかないうちに、東日本でもっとも事件の集中する犯罪スポットになりつつあった。
その夏、彼女たちは、寛太の家で寝泊まりすることが多かった。そこでは寛太郎という風変わりな老人が、趣味で農園をやっていた。寛太郎は周囲の畑を全て買い取り、米や野菜をつくっている。
その日、利菜は縁下にすわって、スイカの種を庭に飛ばすのに忙しかった。寛太の家は庭が広く、にわとりが放し飼いにされている。町中からは離れた場所にあり、殺人事件などうそみたいにほのぼのしている。そのとき集まっていたのは、佳代子、利菜、紗英、新治の四人だった。みんなは両神山について話し合っていた。寛太だけは、あの山に行ったことがない。
「あんた両神山にいったことがないなんて遅れてるね」
種とばしが下手な佳代子は、真下に種をはき出しながら言った。佳代子は三月生まれの遅いきで、新治のつぎに体が小さかったが、クラスでは女子の先頭に立って、男子とやりあう質だ。どのクラスでも、女の子というのはいくつものグループにわかれるものだが、佳代子は誰にでも好かれる方だった。目下、幸田頼子がいちばんのライバルである。
「そんなもん、行かなくたっていいんだ」
寛太は種とばしもせず、ひまつぶしに鶏を捕まえては、物干し竿に乗っけている。将来佳代子の旦那になり、この辺り一帯に自然農園を開いてやりくりする寛太も、このときはただのいがくり坊主である。ガキ大将というより、一匹オオカミタイプの少年だったが、女子が佳代子をかつぎだしたときは、寛太が担ぎ出されるのが常だった。佳代子は女の子のくせに、拳で寛太をぶん殴る(利菜は、母親とのうっぷんをはらしてるな、と思ったことがある。もちろん佳代子は寛太以外を殴ったりしないけど)。
利菜が縁下に寝転がりながら、
「あの山はなかなかおもしろいんだよ。でっかい滑り台もあるし。ソリ滑りもできるしさ」
といった。二十五年後には不眠症に悩まされるこの娘もこのときは発症しておらず、目の下にはくまもなく、若さと長髪をもてあまし、佳代子のあとについて回った。二人は幼稚園のころからのつきあいで、小学生ながら悩みをうち明けあい、息も合ってなかなかいいコンビである。
最近行ってないよね、紗英が物惜しそうに言った。彼女は四年のときの転校生だ。将来スッチーになるだけあって、なかなかの美人顔で男子に人気がある。転校したてのときは、幸田頼子にねたまれいじめをうけた。そこに顔をだしたのが、なんにでも首をつっこむ杉浦佳代子で、この野次馬は二十五年後もかわらない。佳代子と利菜は、幸田頼子の向こうをはった。頼子とはもともと仲がよくなかったが、このときの大げんかで、決定的に仲違いをしてしまった。
三人の女の子はそれ以来の親友で、紗英が塾でがんじがらめの時はやっぱり首をだし、おばさんに叱られて泣いているときは、やっぱり口を出したりした。
紗英を寛太の家まで引っ張ってきたのもこの二人で、紗英が他人の家に泊まると言い出したとき、ママゴンは火を噴いて(とは佳代子の表現である)許さなかったのだが、そのときは寛太郎が、得意の弁舌で説得した。
紗英はカナダ時代は活発な娘だったが、環境の変化ですっかり大人しい娘に変わっている。しかし、寛太郎の家にいるときだけはのびのびとしているようだ。
紗英のそばで黙りこくっているのが眼鏡ネズミの新治で、彼は両親が離婚しただけでもショックなのに、母親が今年再婚してしまい、二重にふさぎこんでいた。勉強もあまりできず、不器用で、そのうえ運動音痴でもあった。三拍子が、悪い方に揃っていたのである。先年までは達郎のあとをついて回っていたのに、その兄とも今ではうまくいかず悩める夏を過ごしている。この夏は、寛太郎のひらく朗読会が、彼の楽しみである。
そして、一同のなかではなんでも言い出しっぺの佳代子が、やっぱりこのときも口火を切った。
「じゃあ、ひさびさに行こうよ。行きたくてしょうがなくなっちゃった。利菜のせいよ。うんとこさ山の上から滑り降りたいよね。最近おもしろいことないしさ。ジャスコの屋上には入れなくなっちゃうし(屋上にはちょっとしたゲーム施設があるが、斉藤秀幸という少年の死体が見つかったのでは閉鎖も仕方がない)、行きたいなあ」
「行きたいよねえ」
「行こうよ、みんなでさあ」佳代子は流し目で、冷たい視線を寛太に送った。「寛太はばかだけど、じいちゃんには世話になってるし。連れてってやらなくもないよ」
「えらそうに言うない馬鹿代子」
「あんた、ほんとににくたらしいね」
とはいえ、寛太家のお泊まりはとてもすてきなことである。みんなは農作業に手を貸すかわりに、寝泊まりをさせてもらっていたが、寛太郎がいるとなんでも遊びに早変わりしたし、農作業自体もなかなかに味があることだった。
利菜が、暑そうにうつぶせになり、脚を縁下に突きだしてぶらぶらさせた。一段下の踏み石に座る紗英が、そのつま先をつまんで遊びだす。
「行くのは賛成だけど、日曜まで待たなきゃね。父さんたちは夏休みないもん」と利菜が言った。
「なんで待たなきゃいけないんだよ」と寛太が利菜に訊いた。
「だって、車もないしさあ。親がついてないと遠くにいっちゃだめなんでしょ。終業式で言われたじゃん」
と佳代子は言ったが、本当は両親が連れて行ってくれるか自信がなかった。今年はディズニーランドにも行けなくなった。というより、夏休みになってからというもの、みんなには出かけた記憶がとんとなかった。町に縛り付けられているような気がして、気味が悪かった。一同が両神山に行きたがったのは、そのうっぷんを晴らすためでもあったのだ。
しかし、寛太は、
「両神山ぐらい自転車で行けらあ」
みんなはしばらく話し合った。自転車で行くのなら大人は抜きだ。寛太の家に泊まると言ってあるから、山に出かけてもばれる心配がない。
町で起こっている殺人事件のことを思うと、さすがにちょっと不安がったが、達郎に付いてきてもらうと言うことで一決した。達郎は小学六年生で、大人では全然無いのだが、利菜たちの感覚では準大人のようなものだった。理屈では誰も納得しない話だが、こどもは感覚で生きているから、これで親に黙っていくという罪悪感にはけりがついた。
佳代子は母親にいつもひどい目に合わされていたから、黙っていくのには賛成だった。母親をだますことに、ちょっとした快感すら覚えた。
利菜の方はこの夏、母親が宗教にはまりこんでいて、まだまだ家には帰りたくなかった。理解できないことを熱心に話されることぐらい苦痛なことはない。だいいち彼女は他の子供と同じで、聞くより話す方が好きだったのだ(佳代子が人気者なのは、みんなの話をよく聴くからだ)。
両神山は自転車で行くには少し遠いが、サイクリングもたまになら悪くないな、とみんなが思った。紗英だけはこの秘密が母親に漏れはしないか不安がったが(たしかにあのおばさんの目玉は、どこにでも届きそうだとみんなは思った)、あのおばさんの心配をしていたら、指一本動かすのにも気を使わなきゃいけなくなる。
新治は兄ちゃんが行くと聞いて、暗い顔を見せた。そのころ新治と達郎の仲は最悪で、なんとなく互いを避けるようになっていた。利菜と佳代子は、二人を仲直りさせるいい機会だと考えた。
達郎はその日野球場にいた。一同はリトルの練習場まで達郎を誘いに行った。球場にきて達郎を呼び出すと彼は野球場のはじからすでに飛び抜けてでかくなった体を、ゆったりゆたりと運んできた。
佳代子は、あたしたちだけじゃ不安だし、達さん達郎兄ちゃんよ、あんたあたしたちだけに行かせて心配じゃないわけ? でも、父さんたちにはだまっといてよね、行くの行かないのと得意の弁舌で達郎を説得した。
彼はしぶったが(規則をやぶるなんて大反対だった)、けっきょく最後には同意した。達郎だって本心では弟と仲直りがしたかったのである。
後年になり思い返すと、一同が町に殺人が吹き荒れているこの時期に、自分たちだけで両神山に出かけることにしたこと自体が不思議なことだった。その意味では、おさそいは山に着く前からはじまっていたともいえるのだった。
ふざけながら自転車を押し押し、山をのぼると意外に時間をくうもので、草原の駐車場に自転車を止めたときには、時刻は十時近かった。車は二台あった。親子連れが来ているらしく、小さな子どもたちの歓声が聞こえた。青葉はすでに陽に焼けていたが、風が渡って涼やかだ。
草原のアスレチックは国村という老人が、ボランティアで作り上げたものである。夏休みにしては、草原には人影が少なかった。利菜たちは事件の影響だと考えた。隣町でも、同様の事件は起こっていたからである。
草原の小道をのぼった。山草が道を彩り、吹き上げる風が、疲れた体に心地よかった。吊り橋の下にシートをひろげ、自分たちで用意したお菓子と、寛太の母親が用意した弁当を食べた。寛太はサンドイッチを食べながら、丘の林に目を向けた。
「ほんとにへんな蔦が生えてるな」
寛太の目は、丘の上に向けられている。
草原の先は杉林が山頂までつづいている。林の縁には防獣ネットをわたして入れないようにしてあった。蔓と低木が網にからみつき、人の進入を阻止している。
蔓草のネットを利菜たちは蔓壁と呼んでいる。その一帯は雑草も茂り放題だ。ネットにからみついた蔓草がじゃまをして、ここからでは林の奥はよく見えない。大人は、子どもたちが蔓壁の網を超えるのをいやがったようで、立ち入り禁止の看板を立て、草むらの周囲に杭を打ちこんだ。
「たっちゃん、あの林まで行ってみようぜ」
寛太が言った。
「行くわけないじゃん。一人で行けば」
佳代子は枝を手にすると、地面にはえたオオバコを、乱暴にはらいとばした。
「今日は国村さんいないのかな」
新治が言った。国村以前に、今日の山は人出がなかった。下の溜池でブラックバスを狙う大人たちの姿もなければ、平らなところでベースボールをやっている子どもたちの姿もない。六人は親にも言わずに自分たちだけできたのは、本当はまずかったんじゃないかと思い始めた。佳代子はそのことも気にして、
「国村さんがいたら、ぜったい止めるよ。あの林はほんとに危ないんだから。誰も手入れしてないって言ってたし、まむしもいるもん」
そういえば、おまもりさまの幽霊話も、たいはんは国村から仕入れたものだった。彼は怪談の名人で、話は細部まで真にせまっていた。
佳代子はその手の話が大嫌いだった。寛太の冒険心に蓋がしたくて、大人たちから聞かされた怪談のたぐいを話して聞かせた。それは子どもたちをおまもりさまから遠ざけるためのちょっとした作り話ではあったが、林の不気味さが話の裏付けに一役買っていた。子どもたちの大半が話を信じていなかったし、だから、おまもりさまに探検に行く男の子たちもときおりはいたのである。彼らはおっかない目にかなりあったし、怪我もした。林の中は誰も手をつけず、荒れ地のようになっていたからだ。それに帰ってこなかった子もいた。達郎が切り出した、迷って死んだ子どもの話は、つまり本当に起こったことなのだ。
寛太はその手の話が大好きだった。こどもたちは国村のような雰囲気もだせず、声色も使うことができなかった。
「そんなのいるわけねえな」と寛太は言った。「そんなお化けがいたら、こんなとこでピクニックなんかするもんか。あっほくさ、おまもりさまだって? ぜんぜん怖くないね、そんな名前」
「わたしがつけた名前じゃないよ」佳代子は枝を投げ捨てた。「怪談がどうこういうんじゃないよ。あの林ってほんとに危ないもん。あたしたちだけで来てるのにさ、けがしたらどうすんの? 寛太、うちらのかあさんになんていうつもり?(佳代子は紗英のおばさんになんていうつもりと思ったが、それは口にしなかった)」
寛太は怒ったように言った。「なに言ってんだ。おまえはほんとに馬鹿だよな。おまもりさまが怖いんならそう言えよ」
「怖いよ、悪い」佳代子はむきになって寛太をにらむ。「でも、お化けの話が怖いんじゃない。あの林じたいが嫌いなのよ」
利菜と紗英はうなずいた。佳代子の言うとおり、おまもりさまは不気味な林だった。みんなは、なんとなく黙りこんで、おまもりさまと呼ばれる林をみつめる。彼女たちがそんなふうにおまもりさまを特別視するのは、大人たちが本気で心配していたからだった。林に近づくと親が飛んできて連れ戻したし、なによりも大人たち自体があの林のことを気味悪がっていた。
利菜が切り出した。「はじめちゃんって知ってる? 三年生の子よ」
「知ってる。鼻水垂れでしょ」佳代子は自分のおさげで鼻をこすっている。
利菜はうなずいた。「鼻水は垂れてるね。でもあの子は馬鹿じゃない」と彼女は言った。「あの子たち、四月に林に入ったんだ。はじめちゃん、足首をつかまれてさ、転んだんだって。手につかまれたって言ってた。他の子も怪我したんだ」
「モグラがほった穴にはまったんだ」寛太が言った。「どんくさいよな。おっかながるのがいけないんだ。足首をつかんだのだってさ、どうせ木の枝かなんかだよ。それがへんなもんにみえたんだ。そいつは洟垂れじゃなくて、ヘタレだね――いいか、俺、いい話し教えてやるよ。これじいちゃんに聞いた話だから、全部ほんとだ。いっとくけど、じいちゃんはヘタレじゃねえぞ」と寛太は断った。「じいちゃん戦争でビルマにいっただろ。前線ってとこで(寛太は前線を地名だと思っている)逃げ回ってたんだ。前線を下げてたんだって(この意味はいまだによくわからない)。じいちゃんは度胸があるけどさ、お化けもなんもこわがんねえもんな。俺、子供んとき(彼はいまでも子供だが)幽霊屋敷でさ、こんにゃくになでられたときはさすがにびっくりしたけど、じいちゃん笑いながらこんにゃくつかんでるもんな。まいったよ。でも、そういうじいちゃんなのにさ、ビルマじゃただの木が敵にみえたっていうんだ。じいちゃんはそいつを撃とうとしたんだ」
「撃ったのかもしれないな」
達郎がおごそかに言った。
「撃ったかもな」達郎に向かって、寛太はうなずいた。「でも、ほんとに運の悪いやつらは、仲間同士で撃ちあったって言ってた」
「そういうこともあるかもね」佳代子は気がなさそうだ。ちょっと泣き出しそうなぐらいしょげている。
「うそじゃないぞ。じいちゃんの肩、鉄砲の穴があいてるだろ」
「知ってる。まだ弾が入ったままだって言ってた」と利菜が言った。
「うそに決まってるよ。弾がはいってたらあんな器用に手は動かせない」
佳代子が言うと、寛太は、
「ほんとなんだ。じいちゃんの手ときどきしびれるもんな。これ、俺が言ったっていうなよ。ほんとここだけの話だ。じいちゃんはさ。ほんとは左利きだったのに、今は右利きになってるもんな」寛太は秘密をもらすときの顔をして、「あれは味方に撃たれたんだよ」
「ひえ」新治が肩をすくめた。
「すげえな」と達郎が言った。
寛太はキラキラした目で、「じいちゃんはいろいろ体験してるんだ。味方の手榴弾がさ、近くで破裂して吹っ飛ばされたって言ってた。これ、すごいだろ?」
佳代子は眉をしかめた。「すごいけどさ、それっておまもりさまと関係ないじゃん」
「だからさ、ビルマの山奥ってすごいジャングルなんだぞ。それにくらべたら、あんな林たいしたことないんだよな」と寛太は自分がジャングルに行ったみたいに言った。「じいちゃんはな、血まみれで三日も森んなかでうめいてたらしいんだ」
「ふっとばされたときにか?」
達郎が訊いた。
寛太はうなずいた。「手榴弾でやられたときだ」
達郎は感心した。彼はリトルでキャプテンをつとめるような少年だったから、みんなより大人びていたし、お化けの話など全く信じていなかった(だけど、あそこに行くと漆にかぶれれるのはほんとだ)。寛太郎のことは素直にすごいと思ったのである。
「よく助かったなあ。オオカミや熊にやられたかもしれないぜ。ビルマなら虎もいたかもな」
と達郎は言った。
みんなは去年学校でみた、『ビルマの竪琴』という映画を思い出した。子供にとっては難しい内容だったし、細かなことは忘れてしまったが、切々と心に響く、いい映画であったことは覚えている。映画の登場人物と、若いころの寛太郎を重ねてみたりもした。
「そうだろ? だから、俺、おまもりさまのお化けはほんとかって訊いたんだよな。そんな不気味なとこならさ、おまもりさまより不気味だとおれは思うんだよ。じゃあ、おまもりさまにお化けが出るぐらいなら、ビルマにはぜったいいるよなって思ったもんな」
「じいちゃん、なんて言った?」利菜が訊いた。
「たぶん、うそだろうなって言ったよ」
寛太は言ったが、じいちゃんの言葉にはつづきがあった。あそこには近づくんじゃないぞ、と寛太郎は言ったのだ、おかしなことが起こる場所はほんとにあるからな。でも、寛太はそのことを意図的に黙っておいた(寛太は自分でも気づかなかったが、心の中にしのびこんだ誰かが、その言葉を封じたみたいな感じがした。今まで味わったことのない奇妙な感じだったので、彼は顔をしかめて黙りこんだ)。
佳代子が、「たぶんじゃん。じいちゃん、たぶんって言ったんじゃん。ぜったいなんて言ってない」
と言うと、利菜はふくれた。
「そんなのぜったいとおんなじだよ。でも寛太が言うことなんか信用できないね」
「おれはうそなんか言ってない」
佳代子と寛太の間で、言った言わない戦争が勃発する。
「やめろって」達郎が口をはさんだ。「おまもりさまになんか誰も近づかない。今日は大人が少ないからな。国村さんもいないみたいだし」
「それってほんとにあぶないことがあるみたいな言い方だよ」
利菜が言った。国村さんがいないのがいちばん不安だよ、と佳代子は思った。
国村はひょうひょうとした老人で、どこかしら寛太郎に似ていた。寛太郎にくらべると人間に重みが足りなかったが、行動的で、山を行楽地に変えることに、凡人ばなれした情熱を傾けていた。小さなアスレチックは独力でつくったし、巨大な物になると、町役場までおしかけて人出を集めてくる。怪談話を思い起こすだけでも、なかなかのアイディアマンだった。
達郎は二人を見た。「そうだよ。お化けなんかいなくたって危ないことはあるんだ。だから、おまもりさまの話はもうなしだ。いいな」
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四
子どもたちは、アスレチックのまわりで遊んでいた。ビニールボールをぶつけ合ったりしてふざけていたが、自分たちが、少しずつ丘の上を目指していることには、気づいていなかった。
当時、アスレチックからおまもりさまの林までは、二十メートルばかり空間があった。国村はその空間を草刈り機で手入れしたうえ、草場のふちに杭をうちこみ、念入りにロープを渡していた。ロープの向こうは草むらになっている。その奥にあるのが、例の蔓壁だ(蔓壁があり、草むらがあり、杭とロープがあり、そして草刈りで手入れされた空間が、アスレチックまでつづいている)。草むらの中央には看板が立っている。書かれている文字は、この先立ち入るべからず――
利菜が林の杭がみんな引き抜かれていることに気がついたのは、自分たちがいつのまにか走り回るのをやめて、蔓壁の前に並んでいたからだった。
彼女は驚いて、となりに立つ佳代子の肩を揺すった。佳代子も驚いてまわりを見回す、居眠りでもしていたようなそぶりだった。佳代子は紗英をゆりおこした、利菜は右隣の達郎を、達郎は寛太を、寛太は新治をゆすりおこす。
みんなはおまもりさまの杉木立を呆然とみつめる。これほど蔓壁の近くに来たことはなかった。蔓壁はもっと分厚いものだと思っていた。おまもりさまが覗けるとは知らなかった。蔓と網の隙間からは、林の奥がほんのり見えた。
蔓壁との間には、うっそりとした草むらしかない。
「いつのまにのぼったんだ?」
達郎が誰にともなく訊いた。誰も答えなかった。杭のあった場所には、ススキが長く伸びていた。草原から風が吹き上げ、そのススキを揺らしている。子どもたちは顔を見合わせた。国村が立てた看板は、ひん曲がりススキのかげに隠れている。この間までは(そんなに昔じゃない)ニスを塗られて光っていたのに、いまでは朽ち果て虫食いだらけになっている。そこだけ時間がたって風化してしまったみたいだ。
見ろよ……達郎が地面を指さす。ススキの一角に日本手ぬぐいが引っかかっている。国村さんのだ、と言って佳代子が手を伸ばし、利菜が止めた。
「なんでわかんのよ。誰のかなんてわかんないじゃん」
「あんなの持ってんの、あの人ぐらいしかいないよ」
「そんなのわかるもんか」
佳代子にはあの手ぬぐいに手をふれてほしくないと思った。茶色のシミができていたからだ。血だろうか?
あんなのただの手ぬぐいだ、達郎は思った。彼はみんなを寛太郎の家まで送り届ける義務があった。この面子のリーダーだし、寛太郎には今朝、みんなを頼むぞと肩をたたかれたばかりだ。達郎はみんなに下まで降りようと言おうとした。もう昼前だ。お菓子を食べに降りてもいいし、もう帰ってもいい……。
蔓の向こうから声がしたのは、そのときだった。「佳代ちゃんかい?」
「国村さんの声だ……」
佳代子は呆然と言った。
利菜は国村がおまもりさまにいるのはおかしいと思った。大人はおまもりさまに行かない。行くのは馬鹿でむこうみずな子どもだけだから。
利菜は佳代子に向かって言った。なんとなく網の向こうには声をかけられなかった。国村は姿を見せないし、声の調子もいつもとちがった。暗い、重苦しい声だった。
「うそだよ、なんでおまもりさまにいんの? 網の向こうにいんの?」
「きっと入っていいんだよ」佳代子の目は輝いて、頬は赤く染まっている。
「そんなのおかしいよ」
達郎が利菜の肘をとった、新治には左手を、紗英には腰を押された。みんな、いつのまにか彼女の周りに回りこんでいた。利菜はやめてよと声をかけようとしたが、誰も自分と目を合わせないので声をつまらせる。利菜は恐ろしくなり、達郎の肩にかみついた。肉に歯が食いこむと、達郎が悲鳴を上げ、新治と紗英がぱっと離れた。
「なにしてんのよ」
佳代子が言った、利菜は言い返した。
「そんなのこっちのせりふだよ。悪ふざけのつもりならこっぴどい目に遭わせてやる!」
紗英は泣き声を出した。「ねえ、わたしたちなにしてんの? いま、利菜のこと、おまもりさまに連れてこうとした?」
みんなは黙りこんで林を見返した。林の奥を見ようとしたが、その光景はビデオの写りが悪い時みたいにちかちかしている。じっと見ていると、頭がおかしくなりそうだった。
みんなは殺人事件のことを思い出し、駐車場にパトカーがサイレンを鳴らして集まってくるのを想像した。神保町ではその年、そんな光景をよく目にしていたからみんなが連想したのも当然だが、それが未来の――それも近い未来の光景だとは誰も気づいていなかった。
「もう帰ろう……」
新治がこわごわ言って身を返すと、急に突風が吹きつけてきた。新治は息が吸えなくなり、動きを止める。草原には人がいなかった。アスレチックは無人だった。駐車場から大急ぎで車が出ていくのが見えた。達郎が、震え声で、
「ここにいるのはおれたちだけだ」
「変な言い方やめてよ」
佳代子が小声で言い返した。利菜も帰りたかったがそうもいかなくなる、国村がこう話かけてきたからだ。
「ちょっと助けてくれないか」
佳代子は、みんながびっくりするぐらいの速さで林に向きなおった。
「どうしたのっ?」もう半べそをかいている。「国村さん、おまもりさまに近づくなって言ったじゃん。あたしたち下に降りるよ」
「待ってくれないか。助けてくれ」
利菜たちは顔を見合わせとまどった。助けてくれとは自分たちに言っているのか? 国村はいつも助ける側だ、それに助けるには林に入らなくてはならない。
「だから、なにがあったのよ」
佳代子が訊いた。
「国村さん、怪我したの?」
と利菜も訊いた。風はいよいよ子どもたちに向かって押し寄せ、ススキを吹き流し、網にからまる蔓をはらいとばした。うずくまる人影が見えた。国村は座りこんでいるようだ。返事はなかったが、みんなは怪我をしたんだと思いこんだ。
「どうしたらいい?」
佳代子が言うと、みんなは年長者の達郎を見た。
「けがをしてるんなら、人を呼ばないと」達郎は独り言のように言うと、林にむかって怒鳴り声を上げた。「国村さん、大人が誰もいないんだよ! おれたち親と来てないから。寛太、下まで降りて人を呼んできてくれないか」
「待ってよ。国村さんほんとに怪我したの? 大けがなの?」
利菜が訊くと、達郎は「わからないよ」と叫んで答えた。風がうなりを上げて、草や木立をゆさぶった。達郎が大声を出したのは、不安なのはもちろんだが、風がすごい勢いで渦を巻いていたからでもあった。
紗英が、「国村さん、歩けないのかな?」と訊くと、佳代子が手ぬぐいを指さした。「見てよ……」
手ぬぐいは、先ほどと同じくススキにかかったままだった。ススキとともに、右に左に揺れていた。だけど、今では鮮血がしたたり落ちている。さっきは茶色の染みに見えたのに。利菜も佳代子も、さっきは乾いていたと思った。佳代子はさわろうとまでしたから、みまちがいとは思わなかった。だけど、二人は、血を見たショックで、深くは考えなかった。
ススキの壁を越して、国村が言った。「ここから出してくれないか」
「じゃあ、自分で出られないのね」
佳代子が訊いた。つかまっとるんだ、と国村は言った。みんながその意味を深く考えないうちに、草場からは血が流れ落ちてくる。
達郎は思った。うわあ、こいつはびっくりするぐらいの大けがだ。達郎は、そばの枝を素早く拾って、ススキをばしばしと叩き始めた。寛太も同じことをはじめた。寛太は今日はじめておまもりさまの蔓壁をみた。あのときはススキなんて生えていなかったのだが、誰かが大けがをしているときに、そんな疑問をはさむゆとりなんてあるだろうか? 二人は一心にススキを叩き続ける。達郎が首を伸ばして、ススキの中を覗いた。
「なにしてんのよ」佳代子がこわごわ訊いた。
「マムシを追っ払ってるんだ」達郎は答えた。
利菜が、「国村さんとちがうんじゃない……」と言った。国村も年寄りだが、声の主はもっとずっと年寄りに聞こえた。声は……単に古びて聞こえた。
達郎は怖かった。だけど、どうしてもおまもりさまに近づかなくては気がすまなくなっていた。こんなの変だと心の片隅では思ったが。だけど、町で殺人犯が野放しになっているのはほんとだし、リトルのコーチたちが連続殺人の可能性について話しているのも知っていた。国村さんがそいつにやられたんじゃないかと思うと、気が気ではなかったのだ。
達郎は枝を伸ばしてススキをかき分けると、まむしがはいずっていないことを確かめた。振り向くと仲間の確認を待った。寛太がうなずき、新治がうなずいて眼鏡を上げた。女子たちは、手をつなぎ合っている。
寛太と達郎は、ススキ林に踏みいった。血を踏まないよう、おっかなびっくり。達郎が腕をのばして、枝のさきに手ぬぐいをひっかけた。手ぬぐいの先端からは血が幾筋もしたたり落ちる。傷口がそこにあるみたいに。寛太は、こいつは血の蛇口だあと思い、達郎が振り向いた。
「やばいぞ、信じらんないぐらいの大けがだ」
辺りには生臭い血の臭いが漂っている。紗英が吐きそうな顔で喘いでいる。利菜がその手を引いた。四人は達郎と寛太の後につづいた。
こんなに血が出たら、生きてるわけないよ、と利菜は思い、血をかわして足をふみおろす。国村の血液は地面に染みこまずに流れてくるが、子どもたちは誰もそのことに気づかない。
「包帯かなにかないのか」
と達郎は女の子たちに怒って言ったが、そんなものをもってくるはずがない。達郎はパニックをかみ殺すみたいに唇を噛んだ。なんで今に限って大人がいないんだと困惑した。
「みんないなくなっちまったのか?」
国村の声がする。なんだか怒っているみたいな声だった。ここにいるわよ、と佳代子は答えた。達郎は枝ごと手ぬぐいを捨てた。
利菜は、手ぬぐいが真っ赤に染まっているのを見た。白い部分はほとんどなくなっている。まるで手ぬぐいが血を流したみたいだと思う。達郎が振り向いた。
「たんかがいる。新治、棒をみつけてこい。男はシャツをぬぐんだぞ」
「棒なんてないよ」
「はやくしてくれ」
国村の声が言った。子どもたちはさらに林に近づいた。蔓網まではまさに一歩の距離だった。利菜が、
「ねえ、なにか変じゃない」
とみんなに言った。彼女はさっき友だちに林に連れこまれそうになった。そのせいだか知らないが、人一倍冷静で慎重だった。少しいやな言い方だが、国村の身の安全より、自分の身の心配をしていたのだ。
みんなの目は、そんなのわかってるよ、と言っていた。だけど、黙ってツルアミを見返しただけだ。網にも蔓にも血がついている。さっきはついてなかった、と、利菜は心中で悲鳴を上げた。
「ここはいいぞ」
国村が言う。六人は顔を見合わせる。
「なにがいいの」佳代子が訊いた。「けがをしてるんでしょ?」
国村は答えなかった。かわりに想像力が働きだす。子供たちの頭は、おまもりさまの力が想像力をかきたてたみたいに、フル回転をしはじめる。利菜は蔓で首を吊って死んだ女の姿を頭に描いた、彼女は女の垂らす鼻水を感じ、首に食いこむ蔓の感触をまざまざと肌に感ずる。
おかしいよ、こんなのぜったいおかしい……
利菜はささやくようにつぶやき、呆然と足を見下ろす――と、血が靴をとりまいていた。彼女を中心に血だまりがあった。
ちくしょう、中に染みこんだりしたら、気を失うに決まってる。
佳代に手を伸ばし袖をひいた。佳代子は利菜が指さす方を見た。
「やっぱり大人を呼んできた方がいいよ……」
と言って利菜は咳きこんだ。空気にまで血液が噴霧のようにまじってる。
利菜がつばを吐くと、血だまりに落ちた。佳代子はそれをじっと見た。
「でも、手遅れになったらどうするのよ」佳代子は震え声で言い返す。「おっかないなんて言ってらんないよ」
国村さんじゃないかもしんないじゃんと利菜は思った。このとき考えたのは、四年のとき先生からキャンプ場できかされた怪談のことだった。こんなことを考えるなんて恥ずかしい。友だちにばれたら、ヘタレ呼ばわりされるかもしれない。だけど、ここにいるのはみんな親友だったから、彼女はその考えを口にすることができた。
「なめ太郎っておぼえてる?」利菜は言った。「紗英ちゃんだって知ってるでしょ? 四年のときの話しだもん。いたっしょ? トイレに付いてきてもらったもん」
紗英も同じ考えに達したようだ。
「知ってる、そいつ人の声を真似すんのよ」紗英はみんなにも聞こえないような小声で言った。国村には聞かれたくなかったのだ。「血をなめるお化けの話でしょ。男の子も聞いたって言ってた」
達郎は振り向いた。「その話ならオレも知ってる。話したのは片山っちだろ」
片山っちという言い方は耳慣れなかったから、年下の子たちは頭のなかで、片山先生のことだなと翻訳した。
「キャンプに連れてくときは必ずその話をするんだ。作り話だ。でたらめだよ。朝になるとかならずいうんだ。あれは作り話だって。夜中怖がらすんだ」
達郎は言ったが、みんなは不安げに顔を見合わせるばかりだ。
「今は国村さんを助けないと、みんなばかな話しないで協力……」
達郎は黙った。達郎はみんなの方を向いていたから、林を見ていなかった。蔓の隙間から、痩せて(すごく痩せて)、薄汚れた手が出てきたことに気づかなかった。その手は指がうんと長く、爪もうんとのびている。十センチはある。その爪はまっすぐで、鋭利だ。
その手が、達郎の手首を、そっとつかんだ。
「助けならいらないよ」と、手の主は言った。
達郎が振り向くと、蔓をかきわけるようにして顔があった。髪がぼさぼさに伸びて、その髪がくっつきあっているのは、ヘアトニックのせいじゃなく垢と泥と血のせいだった。達郎は先生の話をあまり覚えていなかったが――なにせ二年前の話だ――その瞬間、記憶のなかにある映像と現実の像が一致した。
目玉は病的に黄色い。鼻からふーふー息を吸ってる。そのせいで鼻の穴がいっぱいにふくらむ。なめ太郎は目を見開いたまま笑う。歯は黄色く、尖ってギザギザで、血糊がいっぱい残っていた。
「うわあ……」と達郎は言った。
「よう!」
なめ太郎が手を引いたので、達郎はよろめき屈んだ。なめ太郎の顔が近くなり、そいつが舌をのばして耳をなめた。二メートルはありそうな長い舌だった。達郎はその悪臭と舌先の感触に身を凍らせる。
「うそだ、うそだ、ありえない!」
と利菜は叫んだ。脳が干上がって、神経が切れてしまいそうだ。彼女はなめ太郎をはっきり見た、あいつの顔を。なめ太郎の舌はヘビみたいに二つに割れてる。その声は、甲高いのとしわがれたのが重なったような、二重音声だ。ひゃあ、先生の言ったとおりだ。佳代子はあいつが見えるのはあたしだけかな、と考えた。紗英は思考が停止して、何も考えられなくなった(脳パンクだ、と彼女はその言葉を繰り返し考えた)。
「捕まえた」
となめ太郎は言った。新治が「兄ちゃんがつかまった」と金切り声で叫んだとき、蔓の中からもう一本の手がのびて、彼の細い足首をつかむ。新治はススキの中に倒れこみ、血の混じった土を跳ね上げる。彼は地面に頬をうちつけぼんやりする。眼鏡がずれ、顔にはねばねばした血が、べったりつく。
唾を垂らしながら、ぼんやりと顔をあげたとき、なめ太郎が蔓から身を乗り出した。
「捕まえたあ! 捕まえたあ! こっちに来い小僧ども!」
なめ太郎が思い切りよく腕を引くと、新治の靴が脱げ、手が足首を離れた。なめ太郎はバランスを失い後ろに倒れかかる。達郎は手を捕まれたままだったから、なめ太郎に引かれるまま横様にころんだ。
二人は草むらに倒れこみ、血まみれになった。
「ちくしょう!」
となめ太郎が雄叫びを上げた。
寛太はあまりのことに呆然としていたが、その、ちくしょう、を聞いてしゃんとなった。彼はじいちゃんから、骨と皮だけになった人間のことはさんざん聞き出していた。その瞬間彼は、こいつはなめ太郎なんかじゃなくて、そのたぐいのこじきなんだと考えたのだ。なめ太郎が本物だったら、こんなに間抜けじゃない。
寛太はすばやく身をかがめると、石を拾おうとした。だけど、地面はススキまみれで、土も見えない。
彼は草をかき分けた。土と草の臭い以上に血の臭いは強烈で、地面は血の海と化している。彼は怖じ気づいたが、そのとき、じいちゃんに、しっかりしろ、と腰をたたかれた気がした。腹を据えろと自分に発破をかけると、えいえいとうなり声を上げながら、草をかきわけた、石があった。
そのとき、なめ太郎によく似たこじきは新治をあきらめ、達郎の腕を握っていた手を、両手にもちかえた。なめ太郎は細腕のくせに、すごい力だ。
「ちくしょう、こいつにひっぱられる」達郎はふんばろうとしたが、地面は血でできた汚泥にかわり、彼の足を滑らせる。
一方寛太は立ち上がって、石をぶつけようとした。だがなめ太郎はすごく近くにいて、あいつの顔を見ていると腕が萎えて、手元が狂いそうだった。彼はなめ太郎よりも、達郎や新治に当ててしまうことの方が怖かった。
寛太は一歩踏み出した、また一歩、なめ太郎が彼の目玉で大きくなった。達郎を見ていたなめ太郎が、こちらを向いた。寛太が拾ったのは、てのひらほどの割合大きな石で、ずっしりと重い。彼はこんな重さの石を投げたことはない。だから、近づいてよかったと思った。投げたりしたら、とてもこいつをひるませるほどの威力は出せなかったろう。
なめ太郎に睨まれたとき、彼は脳髄を一撃されるような感触を受けたが、体は無意識のうちに動きだしていた。寛太はわめき声を上げると、なめ太郎の顎に石を叩きつけた。骨と肉の砕けるぐしゃりとした鈍い感覚が、腕に伝わった。
「やった」達郎が言った。なめ太郎の手が腕から離れた。なめ太郎の顎から飛沫が上がり、服にかかったが気づかなかった。
「やったぞ、寛太」
寛太は怖気をかんじたが、達郎の腕は自由になった。二人は後ろにはいずって逃げた。そして、転がっていた新治につまづきふらついた。
「わ、悪ふざけをした、おまえが悪いんだ!」
寛太が叫ぶのと、なめ太郎が腕をふるうのは同時だった。すごい勢いだったが、寛太はしゃがもうとしたし、達郎が彼の腰に組み付いて転ばせたから、二人は鋭くとがった爪の餌食にならずにすんだ。二人は新治の上に倒れこみ、達郎は弟とススキを踏み潰す格好となった。
なめ太郎は、首のかわりに寛太の帽子を握りしめていた。ぐしゃぐしゃにつぶれるほどに強くつかんだ。女の子たちはそれまで息を詰まらせていたが、それをきっかけに悲鳴を上げた。
「きゃああああああああああああ!」
「寛ちゃん、逃げてぇ!」
利菜がいち早く金切り声を上げた。三人は四つんばいのまま逃げようとしていて、後ろを見ていない。なめ太郎の手が寛太の首にむかってのびる。
達郎は恐怖の罵声を上げながら、立ち上がると、寛太を突き飛ばした。なめ太郎の手がまた空をかいた。
「あいつ、あいつ首をしめようとした」
佳代子が非難の叫びを上げる。
達郎が振り向くと、なめ太郎の血まみれの顔の奥で、目玉だけが憎しみの情念に燃えていた。うわあ、こいつはおれたちを憎んでる。達郎は思った。逆恨みだけど。恐怖の底になぜか喜びもあった。なめ太郎が苦しんでいるのを知ったからだ。
達郎は声を限りに号令する。
「みんな逃げろ!」
リトルで鍛えた彼のかけ声はすごかった。みんなは半分ばかり金縛りにかかっていたが、そのひと声で一斉に動き出した。
なめ太郎は伸ばした腕を(なんと三メートルばかりにのびている)、新治に向けた。
利菜は及び腰が幸いして、一同のいちばん後ろにいた。彼女は一部始終を目撃した。友達の惨憺たるありさまに怒りがわいて、またたくまに恐怖を塗りつぶしていった。
彼女は手にしたゴムボールを振りかぶると、渾身の力で投げつけた。いつもの手投げではなく、松坂みたいな腕の振りで。ピンクのボールは、風を切り裂くと一直線にすっとんでいき、滑稽にもなめ太郎は避け損なって額に受けた。新治はなめ太郎の腕から逃れた。お腹がよじれるぐらい恐ろしかったが、彼女も夢中だった。
「ざまあみろ! おまえなんか死ねばいいんだ!」
利菜が怒鳴ると、なめ太郎は大口を開けてうなった。唾と血が重なりあい滝のように糸を引く。なめ太郎は蔓壁を引き裂きにかかった。
一同はパニックになった。達郎が寛太を引きずって蔓壁から離れた。佳代子と紗英が新治を左右から抱えた。二人とも「誰か、誰か助けて」と助けを呼んでいる、新治は口を動かすばかりで声もだせない。
達郎は寛太を、女の子たちは新治を抱えてススキの中から転げ出た。みんなは血まみれになりながら、夢中で草原を駆け下りた。
足に地がつかず誰もが転んだが、なめ太郎に捕まるのではないかと思うと転びながらでも走って逃げた。利菜はなめ太郎の食事のじゃまをしたから(なめ太郎は死体の血を舐めるからだ)、きっと復讐されると思った。怒りなんて消し飛んで、いまはひたすらおっかない。寛太郎が言ったみたいに、おっかな虫が腹の底に貼りついている。寛太はさきほどの英雄気分はどこへやら、あいつに捕まって殺されるんだとおもいこんでいたし、佳代子と紗英もなめ太郎をみたショックから、まるで立ち直れなかった。新治は片方の靴が脱げて靴下がむきだしだ。彼の靴下は血でずぶぬれだし、ほっぺたにも血がべっとりついてる。新治はいますぐ死にたいと思った。みんながまわりにいなけりゃ、きっとつかまっていたことだろう。
達郎だけはみんなを追い立てるのに忙しく、おっかながっているひますらなかった。
ときおり、ざざざっざざざっと草をかき分けるような音がした。呼び止められる声を聞いた気がしたし、国村の声を聞いた気がした。
利菜が途中で振り向いたとき、おまもりさまからはゴムボールが帰ってきた。力任せに投げつけられたんじゃない、友だちとキャッチボールをやるときみたいな、スローボールが帰ってきた。
だから、彼女は、無意識のうちに、そのボールをつかんでいたのだった。
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五
子供たちは草原を駆け下りた。自転車に飛び乗り、一目散に山をくだった(利菜はビニールボールをため池に投げ捨てた)。坂を下って、ドライブインの駐車場にはいる。車は三台停まっていた。みんなは誰にも見られたくないという思いと、もっと大勢人がいればいいのにという思いでみじめな気分を味わった。達郎はすぐさま近くの男性に助けを求めたかったが、その感情をこらえにこらえた。どう話していいかわからなかったのが理由の一つ。おまもりさまでなめ太郎に会った、なんて、いくらなんでもそんなことを言うのはまずい。自分や弟を襲ったものがなんだったのか、達郎にはわからなかった。彼の理性は妖怪なんて否定したがっていた。けれど、自分が見たものが人間だとは、本心からは思えなかったのだ。
あれが人間で、本物の殺人犯だったのなら話は簡単だ。でも、そんな嘘はつけない。自分にはつけても、周りにつくわけにはいかない。もし、こんなときに殺人犯に襲われた、なんて切り出したら、とんでもない騒ぎになることは達郎だってわかっていたのだ。
地図の看板前に自転車をとめると、ハンドルやサドルにまで血がついていた。達郎はみんなに何にも触らないよう気をつけさせた。
トイレを行き来する人がいくらかあった。一行はさすがに人目をひいた。自販機からジュースをとっていた人が、ふと顔を上げた。髪はざんばらで、服も乱れていたし、様子も尋常ではなかったのだ。達郎が店に踏みこむと、カウンターのおばさんが顔を上げた。ネームプレートには片桐とあった。新しく入ったパートのようで、子どもたちは誰も見覚えがなかった。
達郎はすぐさま質問攻めに合うと予想していた。片桐はなにも言わない。仲間の目が自分に集中するのがわかる。頭に血が上ったが、なんとか唾を飲みこんだ。
「あの……」達郎はみんなを見て、それから片桐に目を戻す。「Tシャツとタオルを貸してもらえませんか?」
「タオルは売ってあるけど、Tシャツはないわよ」
「達郎ちゃん、お金がないよ」
佳代子が小声で袖をひく。片桐は彼女に目を向けた。
「タオルぐらい貸してあげるけどねえ、自転車で下りてきたの? ひどい髪になってるわよ。なんでそんな顔してんの?」片桐は一拍子おいて、「なにかあったの?」
この片桐は二宮町の人間だ。最近この辺りでちかんや変質者が多いことも知っている。殺人事件についてももちろん知っていた。
その疑念は影みたいに忍び寄り、彼女は身を乗り出した。
「あんたたち山から下りてきたの? 何があったの? 誰かに何かされたんじゃないでしょうね?」
達郎は面食らい、口がわなないた。達郎は血のことをまっさきに聞かれると思ったからだ。この人には、血が見えないんだろうか? 達郎の頭は高速で回転している。あいつのことをなんて言えばいいんだろう? 殺人犯なのか? それとも――ほんとになめ太郎なのか?
でも、片桐は答えを待っている。だから、
「上で変な奴にあったんです」
と咄嗟に答えた。言ってから心の中で胸をなでおろした。変な奴というのはほんとのことだし、これなら精神病院にぶちこまれることもない。
片桐は緊張したようだった。
「おかしな人って? 変質者かね。大人に言った? 国村さんはいなかったの?」
達郎は口をつぐんだ。国村はいたようでいなかったからだ。片桐は、最近あの人は見かけないからね、とひとりごちた。
片桐は表に目を走らせながら、「タオルはなんにつかうの?」
「だって、みんな血まみれですよっ」
達郎はリトルでしつけられてるだけあって、受け答えもしっかりしていたが、このときばかりは声が高くなった。片桐はおかしそうに笑っただけだった。
「おおげさなこと言って。どれ、手を見せてごらん」
片桐がレジに寄りかかり新治に向かって身を乗り出した。弟が手をつきだした。彼の右手には、倒れこんだときにできた擦り傷がいくらかある。草場の血も、手のひらにべったりついたままだ。拭きようがなかったし、さわりたくもなかったのだ。
だけど、片桐はあつくぬったどうらんのような血も気にならないようで、新治の手首をやさしくつかんだ。
「転んだんだね。おかしな人ってどんなやつ? 怒ってるんじゃないよ。あんたたちにおかしなまねをしたんなら、警察にも言わなきゃいけないからね。最近町で悪い奴がうろちょろしてるのは知ってるよね。まだ捕まってないんだから……神保町じゃ殺人事件も起こってるんだよ。どうなの? おばさん警察を呼ぼうと思うんだけど……というのはここにも警察がきて、怪しい奴がいたら通報してくれって言われてるからだけど。といっても、今までそんなやつはいなかったけどね。警察をよぶほど大事だと思う? いたずらだったら、あんたたちを叱らなきゃいけないけどね……そんなふうには見えないし」
と新治の手に食いこんだ小石を、爪で器用にはぎ落とす。新治は呆然と片桐を見ている。
面食らっていたのはみんな同じだった。利菜は達郎の真後ろにいた。彼の広い背中がよく見える、白いシャツの半分方が真っ赤になっている。血が乾きかけている――なのに、片桐はそのことにふれなかった。外にいた大人だって、興味はしめしたが駆け寄ってきたりはしなかったのだ。子供が血まみれになってるのに。心配して当然なのに?
新治の傷は深くはなかったが、泥がついていたし、消毒はしといた方がいいな、と片桐はつぶやいた。そのことに及んで利菜は確信したのだった。この人には、血が見えてないんだ。
「ちょっと待ってなさいよ」と片桐は言った。「ふみちゃん、ちょっとレジについてよ」奥に呼びかけ、
「消毒ぐらいはした方がいいからね。おかしな人って男の人?」
片桐は新治よりも、おかしな人の方に興味があるようだ(それは利菜も同じだった)。若い女の人が、エプロンをしめながら奥から来、片桐が変わって姿を消した。利菜はその人のネームプレートを読んだ。
赤川文絵は片桐とおなじことを訊いた。
「みんなひどいかっこうね。大急ぎで降りてきたの?」
利菜の疑惑は、確信に変わった。彼女は赤川の様子を見ながら、達郎をドアの近くまでこっそり引っ張っていき、「見えてないよ」
「なんだって?」
「見えてないよ、みんな血が見えてない」
「そんなばかなことあるわけない」紗英がそばにきて小声で言った。「あの人、ひどいかっこうって言ったじゃん。外の人もじろじろ見てた」
「みんな自分の頭見てみろよ」
達郎が頬をひきつらせる。女の子たちは長髪が乱れてぼさぼさだ。寛太は顔に草をつけたままだし、新治の眼鏡はずれたままだ。その眼鏡にも血がついている。それにスニーカーは片足だけだ。利菜はアイスボックスのガラスにうつった自分の姿を覗く。まったく起き抜けの頭よりひどかったし、顔の肉もこわばっている。
利菜はクーラーボックスに手をついたまま振り向いた。
「こんなかっこうしてたら、注目あびて当然だよ」
片桐という人は、奥でおばさん仲間と、おかしな人の話しをつづけているみたいだ。
紗英が言った。「出ようよ。あたし、ゆっくり話したい。外の人が、どんなふうにあたしを見るか見たい」
「だめだ」達郎は震えながら首を振る。「そんなことしたら、よけい変に思われる」
「どうするつもりよ」
佳代子が訊くと、達郎は、
「おれが話すから、みんなは黙ってろ」
ドアのそばで固まっていると、赤川が言った。
「あんたたち、なにがあったの? おかしな人ってなによ?」とレジから身を乗り出し、「その人、厚いコートでも着てなかった?」
彼女がにやにや笑うと、片桐が奥から顔を出してきた。
「ふみちゃん、こどもからかうんじゃないよ」
「だってさあ、みんなぶったまげの顔してんじゃん」
利菜が冷凍庫を離れると、達郎は彼女が手をついたところをあわててふいた。ガラスに血がうつっていたからだ。
片桐は消毒液とタオルを持って姿を現した。追い立てるように、子供たちの背に腕をまわした。
「みんな、外のベンチ行く? おばさんが、アイスおごったげる」
達郎が冷凍庫から顔を上げ、
「ぼくら、大丈夫です。おっかなくて逃げただけだし……」
片桐はとりあわなかった。はいはいとうなずきながら、新治の手をひき外にいった。利菜たちはあとを追いかけた。片桐は店のとなりにある休息所まで子どもたちを連れて行った。片桐は新治に手を洗わせ、傷にはマキロンをふりかけた。新治の手についた血は、水を受けて薄まり、排水溝に落ちていった。
小谷というやせっぽちのおばさんが、アイスを持ってきてくれた。みんなはアイスを渡されたものの、食べる気がしなかったので手に持ったままでいた。片桐が顔をしかめた。片桐は新治に近づきすぎたらしく、エプロンのすそに血が伸びている。利菜はそのことを聞こうかと思った。一同はがまんをして、アイスのカップをはずした。
達郎はなるべくうそをつかないことにした。もともとうそは苦手だし、なるべく事実に近いことを話した方がいい。
「なにかされたわけじゃないんです」まごまご言った。「でも、浮浪者みたいなかんじの人で……」
「服は着てた?」
「ふみちゃん、レジッ」
「――服もぼろぼろだったし、しつこく話しかけてきたから」
「そんだけ? ほんとに?」
「ええ」
「あたしたちが怖がって逃げたから、その人追いかけてきたんだと思う」
佳代子が付け足したから、達郎は顔をしかめた。
「そう?」片桐はちょっと身を起こして気を抜いた。「あんたたちも知ってるとおもうけど、さいきんへんな事件が多いからね。ねえ、行方不明の子みつかったっけ」
と片桐は小谷に話しかけた。
「まだだねえ。もう三日もたつんだけど……その子もこのへんでいなくなったのよ」
「そんな具合だからね。おばさんたちも心配なのよ。その人が普通の人ならいいけど……汚くても普通の人はいるし、まあいろんな人がいるからね……」
「普通です」達郎は少し口ごもり、「でも、ひげも髪も伸ばしっぱなしで、すごい汚い人だったし……新治が転んだから、みんな慌てたんです」
片桐が達郎の目をのぞきこむ。ちょっとうたがっているな、と達郎は思った。今の説明じゃまずかったかな?
「みんな、これからどっちに帰るの? 神保町の方?」
「神保町です。自転車できたんですけど」達郎はその自転車をさがすみたいに、駐車場に目を向けた。「これから親に迎えに来てもらおうと思います」
「ああ、親御さんがここにくるのね」片桐はほっとした顔をみせた。「そんな汚い身なりの人、この辺で見かけたことはないけどね。山でなにしてたのかしらね」
「おばさん」利菜は片桐の前に手をさしだした。血がついた方の手だ。「わたしも転んで手をついちゃったんだけど、なんともなってない?」
片桐はどれどれと利菜の手をもった。もちろん彼女に傷なんてない。「なんともなってないけどね。心配なら、マキロンぬっとく?」
「うん。消毒しときたい」
「あたしも」
「わたしも」
佳代子と紗英も言った。おばさんがまた三人をじっと見た。佳代子は言った。
「その人の服にさわっちゃったから。紗英は手、にぎられたから。その人、殺人犯だと思う?」
まるで期待するみたいに片桐を見た。殺人犯であって欲しいみたいな言い方だ。
「まさかねえ」片桐が慌てたように打ち消す。「……まさかとは思うんだけど。いやね、みんながみんな、誰彼かまわず疑ったり、心配したりするのはよくないと思ってさ。警察にも通報がたくさん入ってるって言うのよねえ……いたずらもふくめて」
「ぼくらのはいたずらじゃありません」
「わかってるわかってる」
佳代子は噴水式の水道のところに行って、手を洗い出した。利菜と紗英が後ろについた。佳代子がちょっとうつむいて、肩を落とす。こりゃ泣いてるな、と利菜は思った。それから自分も泣きたくなった。佳代子は右手をつぶすほど力を入れて、掌をこすっている。なかなか落ちない。こんなにはっきりしたものが見えないことに、うすら寒くなった。利菜は佳代子をなぐさめ、泣くのをやめさせなきゃと思ったが、小谷という人は佳代子の涙を変な意味にとらなかった。
「泣かなくてもいいのよ。怖かったわねえ」
佳代子が泣いたのは同情を引くのによかったようで、二人のおばさんは急に警戒をといてみんなをいたわりだした。
服をひっぱられたので振り向くと、紗英がシャツをにぎって泣いている。泣いてる場合じゃないよ、と利菜は妙に冷えた頭で考える。血がみえないこと自体、おかしいんだから。
佳代子は片桐たちの見ている前で、家に電話をした。おばさんはひどくどなっているようだった。
片桐は新治のためにサンダルを持ってきてくれた。新治が履こうとしないので、おばさんたちはふしぎそうに顔を見合わせた。新治はソックスに血がついたままだったし、そんな足のまま履き替えるのはいやだったのだ。達郎が肩を揺するが、新治はがんこだった。真っ赤なソックスをむきだしにして、つっ立ったままでいた。
「わたしはじいちゃんに来て欲しい」
ふだん大人しい紗英が意見を言った。みんなおなじ気持ちだったが、寛太郎は免許をもっていない。
「トラクターでくんのか?」
達郎が訊いた。みんなは暗い顔をして黙り込んだ。利菜が、「そんなの陽がくれちゃうよ」とぼそりと言うと、佳代子がぱっと顔を上げ、目をまんまるにみひらいた。利菜はときどき佳代子の笑いのつぼをついた。彼女は寛太郎が耕耘機をごとごといわせながら、夕陽にむかって走るさまを想像したのだ。佳代子のおかしみはみんなに伝染したようで、友だちは笑い声こそ上げなかったが、笑顔をかわすことはできた。
利菜は言ってよかったな、と思った。なんでも、言ってみるもんだ。
「中に入って待ってる? お茶でも入れるわよ」
と片桐が訊いたが、達郎は断った。断るなんて変だけど、六人だけで話をしたかった。だから、「河原に降りたい」と言った。「あまり迷惑になるといけませんから」
へんな言い訳だけど、こどもたちは他にうまい言い訳を思いつかなかった。
六
その日、不可思議なことはそれ以上おこらなかった。おまもりさまの血は、子供たち以外の誰にも見えなかった。信頼している寛太郎にさえも。六人は身を寄せ合い、この恐怖が過ぎ去るのを待った。日が過ぎれば、記憶とともに恐怖も薄れて、すべてが元通りになるに違いないと考えた。だが、子供たちは確かにつかまっていていた。
以下は、その後、二十五年がたっても逃れることのできない、おさそいの顛末である。
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第二部 おさそい
章前 二〇二〇年 ――後日
一
佳代子はいつでも電話をかけてこいと書いていたが、高村利菜は数日がたっても、受話器をとる気にはなれなかった。携帯電話を片手に、アドレスを呼び出すところまではいったのだが電話をかけるには至らなかった。
あの夏の記憶は、少しずつだがよみがえった。手紙が記憶の引き出しを探り当てたかのようだ。だが、その引き出しは混沌としていて、のぞき見るのも容易ではない。なにせ、彼女自身がおっかなびっくり、その記憶にふたをしようとしているのだ。
佳代子たちに会いたかった。会って相談がしたかったし、ことの真相が知りたい。なによりも心配だった。佳代子はいやがらせを受けていると書いていた。誰に? 殺人事件があり、犯罪が多発しはじめた町で、誰にいやがらせを受けているのか?
友人の身に起こったこと、起こりうることを考えると、彼女は心配でたまらない……。
この一年間は、佳代子はおろか、神保町のことすら思い出さなかった。あの町に関する思考がすべて欠落していた感じなのである。なのに、いまでは故郷に帰らなくてはという感情が、強迫観念にまで高まっている。あの町にっ。あの山にっ。じつのところ、独りぼっちで取り残されているような、そんな錯覚すら味わっていたのである。
彼女はなるべく論理立てて考えようとしたが、理屈では割り切れないことが多かった。第一に記憶喪失、第二に幻覚のことである。幻覚や記憶喪失に、集団でかかるとは考えにくかった。部分的に記憶をなくすということはあるだろうが、集団で失うなどありえない。それも六人が六人とも、同じ時期の記憶をなくしている。集団で幻覚を見るということはあるだろうが、今回は、集団といっても、互いに遠く離れた場所で起こっている……。
佳代子にかつがれているのなら話は別だ。あの手紙自体が、たんなるいたずらだったのならそれでいい。だけど、それはありそうにない、と、利菜は思った。
佳代子にたいする心配の情は強くなる一方だ。利菜はあの子たちがいなくなったら、もう自分の今の情況を理解してくれる人物は一人もいなくなることに気がついた。不眠症や幻覚にさいなまれる自分をわかってくれる人は、彼らをおいてほかにない。
ひょっとして、向こうからは掛けられない事情があったとしたら……。佳代子は書いていたではないか、神保町には戻ってくるなと。ここで電話をかけないということは、あの子を見捨てることと同じじゃないかと、彼女は自分に問いかける。
利菜は佳代子のことを思い、自分と同じ目に合っているはずなのに、まだ自分を思ってくれる佳代子の気遣いに涙した。電話をかけたのは、その気遣いに応えるためでもあった。ことに対する好奇心もある。もちろん。
だけど、相手をコールする電話の無機質な電子音を聞いていたとき、彼女はこの一件をなんとか解決したいという一心だった。不眠症も神保町での犯罪事件も、解決できるのは自分たちだけではないか……そんな錯覚すら覚えるのだった。
コール音の陰では、こんな声が、かすかにささやくのを感ずる。世界はねじ曲げられている……
受話器の向こうから佳代子の声が聞こえたとき、なつかしさと安堵で胸が暖まった。自分が思った以上に参っていることを知った。
「佳代子? あたしよ、上原利菜」
しばらく沈黙があった。佳代子はこう言った。「いまは高村利菜でしょう……」
利菜は、佳代子が歓迎しない口振りながらも、おなじように懐かしさを感じていることを知った。
「荷物は届いたわよ。手紙も読んだ」鼻をすする。「ありがとう。お仲間がいるって知って、ほっとしてたとこよ」
「お仲間……? そう……じゃあ、あんたも不眠症で苦しんでるってわけね」
「そうよ」
「あの手紙を読んで、あたしがいかれたとは、あんたは思わなかったわけだ……」
「元気がないじゃない」鼻をすすった。なんでこんなに涙が出るのか、胸が熱くなるのか、自分でもわからなかった。ひとつには安堵のためと思う。胸にためこんでいた不安が、あふれ出ていくようでもある。「あたしは、あたしはほっとしてる。自分がおかしくなったのかって疑ってたときに、病気で、だめになったかもしれないって思ってた。でも、あたしと……あたしのことを理解してくれるやつがいるんだって思ったら……」
「どっと安心したわけだ」と佳代子は言葉をついだ。「あたしはねえ、あんたが電話をかけてこなければよかったって思ってた。でも、いずれこうなることは、わかってたように思うよ」
「紗英には連絡をとったの?」
「とれてない。手紙は送ったんだけどね。忙しい子だから……読んだかどうか」咳払いをした。涙ぐんでいることは、容易に想像できた。「子供の頃もさ、あんたは一番あたしのことわかってくれたから、だから、電話もかけられなかったのは、きつかったよ」
「こっちもおんなじよ。ねえ、しばらく会わなかったなんてうそみたいだよねえ」
二人は電話越しに笑い声を通わせる。
利菜は言う。「あたしはちょっとずつ眠れるようになってね。幻覚も見る回数がへったわ。悪夢はみてるけど、でも、前ほどひどくはないと思う。今日、電話をかけたのは」ぐっと声をつまらせる、唾を飲み下す。「あんたのことが心配だったからよ」
利菜は黙りこみ、相手の反応を待つ。佳代子はなにも答えない。
「両神山に行ったんでしょう?」
と利菜は言ったが、電話は無言が続く。
「なにを見たの?」
「なにも見てないわ」
「なにを思い出したの?」
「あんたはどうなの……。どこまで覚えてるの?」
「詳しいことは思い出せない。山で迷ったときの記憶も出てこないのよ。でも、こんなことってありうるのかな? だって、みんながいっせいに記憶をなくしたり、幻覚をみたり、不眠症にかかったり……それに、子供時代にも同じことがあったなんて、そんなこと信じられない……」
「そう、あんたは思い出してないのね。おさそいのことも、なにも」
おさそい? おさそいと言ったのか?
佳代子の声にいらだちがまじったようだった。利菜はとまどいを感じ、受話器をわずかに耳から離す。
「あんたの身になにもおこってないんなら、黙ったままでいようと思ってた。あんたはもう町を離れてるし、両神山のちかくにはいない。子どももいるしね」と佳代子はつづけた。「あたしたちは夢を見てただけじゃない。真っ昼間にだって、幻覚を見てたわ。二十五年も前のことだし、わたしもあれが現実だったのか確信がもてなかったけど、寛太は覚えてたし、新ちゃんや、達さんもね。いま思うと、大人になってからの幻覚は、全部子供のころに関することだった。あの二人に話すかどうかは、そりゃ迷ったわよ。新ちゃんはなんども捕まったし、いちばんおっかない目にあってたから」
「あんた、捕まったって言った?」
「そういったわ」佳代子は言った。「おまもりさまにね。あたしたちはおまもりさまにおさそいをうけてた。いったいどこまで覚えてるの?」
おぼえている。心の奥深くではすべてを直覚していたが、見えない壁がせきとめるかのように、意識の表面にはのぼってこない。
「詳しいことはなにも」
「無理ないかもね。あんたは本当につかまったわけだし」
「何によ」
「おまもりさまによ」
「……いいかげんにして。電話をきるわよ」
利菜はほんとに切断ボタンを押そうと思った。受話器を耳から離し、指をボタンに持っていった。だけど、そのとき、受話器の向こうから声がし、それは佳代子の声ではなく、低いにじみだすような男の声で、「切るな」とそう言った。
利菜は受話器を耳に戻し、ゆっくりと顔をなでた。
「後ろに寛太がいるの」
「いないわ。聞こえたのね」
佳代子の答えは聞く前からわかっていた。
「電話の混線かしらね」
「ありえないよ」
「寛太がいるんでしょ……」
「泣かないで」佳代子は昔とかわらぬやさしい声音だ。そばにいたら髪をなでてくれたことだろう。必要なのはそれだった。寛容と、理解と。「あんたもまいってるのね。肚をたてたりして悪かったよ。寛太はいないわ。あんたに連絡をとるの、反対してたから」
「どうして……?」
「わかってるでしょ」
「わたしがつかまったからね」と利菜は言った。佳代子が言ったように泣いてはいない。でも、口元を抑えて、涙をこらえる必要はあった。「思い出せないけど……何かあったことはわかってる。また危ない目にあうっていうの?」
電話の向こうで佳代子は何度かうなずいた。「危ないかもしれない。あのときのおさそいは、だんだんひどくなったから。また始まったのよ」と佳代子は言った。「今のあんたになにが起こってるか、あたしは知らない。あたしたちは逃げられたんだと思ってた。でもちがった……あたしたち、つかまったままだったのよ」
「わたしは半年前からいやな夢を見てるわ。幻覚も見てるし。それに夜中にかってに歩きまわってるみたいなのよ」
涙はこらえられなかった。かってにあふれだしてきた。
「……わかってる」
「わかってる? なにが?」鼻がつまり(それはたんなる鼻水とはおもえないほどに熱かった)、利菜は言葉につまる。「なにがわかるの? 目が覚めたらバスタブのなかにいたこと? バスタブの向こうに女が立ってたこと?」
「溺死女……」
「なんだって?」
「なんでもないよ……。でも夢遊病がおこってるのは、二十五年前と同じよ。やっぱり、あんたもあたしもおさそいをうけてるのよ」
「でも、あんたは、あんたは覚えてくれてる。わかってくれるのね?」
「わかってるわ。あたしたちは同じ目にあってたんだから」佳代子は間をおき、「今もって」
「寛太は? どうなの?」
「おなじよ。おさそいを受けてる」
「あんたには? あんたにはなにが起こってるの?」急に記憶があふれだし、彼女は一瞬言葉を失う。「思い出したよ。無意識に行動してたこともあった。わたしはあんたを見捨てようとしたこともあったわ」
「それはあんたのせいじゃないよ」
「だから怖いのよ。ますます、自分が……どうにかなったら? 娘になにかしたら?」
佳代はなにも言わない。
「否定してくれないのね」
「あのころのおさそいとはちがうのよ。ちがうというか……ちがうと思う。大人になったからそう思うのかもしれない……だけど」
「山でなにがあったの?」
「言えないよ。あたし、あんたに戻ってきてとも言いたくない。そんな無責任なことは言えない。でも、どうしていいかわからなくて……」
「つかまってるのはわたしもおんなじよ」
「今度のはちがうのよ」
「なにが」
「みんながよ。今度のおさそいは町中がつかまってる、そんな感じ」
今度泣いたのは佳代だった。
「……泣かないでっていうのは気休めになりそうね」
「そうね」
「でもわたしがついてるわ。あんたがわたしについてるみたいに」
「そう。マンション仲間の絆は消えてないってわけだ」
「あの頃の絆はね」
佳代子はため息をついた。「あと問題なのは……紗英ね」
「あの子も危険だって言いたいの」
「わからない。彼女と連絡とってる?」
「最近はごぶさたなのよ。フライトでとびまわってるみたいだし」
「でも、両神山にいないかぎりは安全かもしれないね」佳代子はつぶやくように言った。しばらくだまり、やがて「ねえ、覚えてる。こどものころの噂話。両神山でまよった子どもの話とか」
かすかに笑う。「覚えてるよ。父さんたち、子供が林にはいるのをおっかながってたから。ずいぶんおどかされたわ」
「そうね」佳代子は言った。「でも、おじさんたちが怖がったのもむりなかったのよ。あれを調べてみた。両神山の噂。知ってることも知らないことも。ネットや図書館で記事をあさってね。警察にだって足を運んで、話をきいたわ」喉を鳴らす音がした。「あれはほんとだった。あの森で、何人も子供が死んでる。死体が見つからなかったものもふくめて」
利菜は何も言わなかった。何も言えなかった。舌は石膏になった。佳代子は話した。
「最近うちのまわりもぶっそうでね。犯罪がよくあるのよ。ひったくりとか、殺人事件とか。こんなちいさな町でよ?」
と佳代子は言う。
「ここ最近の犯罪記録をしらべたのよ。それを地図にかきこんでいった。たんなる丸を書いただけだけど。そうしたら、事件が多発してるのは、両神山周辺の町だけだとわかった。あの山を中心に、円を描くみたいにね」と佳代子は言った。「それにあの山で、また殺人事件がおこってる」
「うそでしょ……」と利菜はつぶやいた。
「これがうそならつきたくもない。おまもりさまで死体が見つかったのよ」
二人は沈黙した。利菜の沈黙は単純な恐怖からだったが、佳代子はべつの意味でとったようだ。
「誤解しないで。今度みつけたのはあたしじゃないわ」
「今度? なに? 佳代子、何を言ってるの?」
「みつけたじゃない……二十五年前、あたしたち国村さんの死体をみつけたのよ」
利菜は言った。「うそよ……」
「ねえ、事件のことはなにも知らないの? 新聞にだって載ったのよ」
「そんな話読んだ覚えは……」
そのとき、冷蔵庫の扉が目についた。何かが貼ってある。その紙を目にとめ、「ちくしょう……」と彼女はうめいた。
「なに?」
「切り抜きよ」
「なんだって?」
利菜は立ち上がって、冷蔵庫の前に行った。扉に手をついて、内容を確かめた。それは古い紙で、薄汚れていて、ゴミ箱から拾い出してきたかのようだった。紙にはガムの切れ端がついていた。五月五日の日付だ。すでに処分に出したものだ。
「新聞の切り抜きがここに……あんたの言ってる事件の記事よ」
「……あんたが貼ったんじゃないのね」
「あたりまえよ。旦那だって娘だって、こんなもん貼ったりしない」
利菜ははぎ取ろうとした指をとめた。新聞は、冷凍庫の扉にはりつけてある。マグネットはつかっていない。最初は糊で貼ってあるのだと思ったが、そうではなかった。新聞紙の紙は、赤くにじんでいた。
「やれやれだわ」と彼女は言った。
「あのときのことを覚えてなくても、あんたにはおさそいがかかってる――みんなに」
そう、佳代子は言った。切り抜きのことは、否定すらしなかった。
「わたしたちどうすればいいの?」利菜は訊いた。
「わからないよ。頼りはあんたなのよ。あのとき、あんたがもどってきて、事件がおわったんだから」
「なにが起こってるのよ」と利菜は訊いた。
「おそさいよ」と佳代子は言った。「またおさそいがはじまったのよ」
二〇二〇年 ヨーロッパ上空
二
あの年、寛太や利菜といった、幼なじみの面々と恐怖の夏を過ごした石川紗英も、中学を卒業とともにイギリスへ留学をし、スチューワデス――フライトアテンダントの職に就いた。
スチューワデスになりたい(フライトアテンダントなんて言葉、小学五年生の紗英には縁がなかった。スチューワデスが差別用語だったなんて。世の中……ああ。とはいえ、フライトアテンダントとなった今では、紗英もスチューワデスなる呼び名の使用には反対だった)、そのために外国に留学するのだという考えは、小学生の頃から頭をついて離れなかった。母親とは口論が絶えなかったし、始終束縛されるのは我慢ならなかった。
紗英はことあるごとに母親に反抗するようになった。彼女の背丈はあの夏を過ぎてから急速に伸び始め、六年生のはじめには母親を追い越していた。彼女の反抗は、母親が期待したような「まわりの友達」のせいではなく、伸びすぎた骨格のせいなのだと、彼女は信じている。
結局、幼なじみがママゴンと呼んだ母親の手を逃れ、イギリスに渡ることができたのも、あの夏の出来事が遠因だと思うようになるのだが、彼女がそのような考えを持つに至ったのはずっと後のこと。
午後十一時四十五分。雷鳴と稲光がみたすフライトの中、石川紗英の乗るブリテュッシュエアウェズ41便は、進路を東京に向けて、大空のスラロームをくり返している。その日のフライトは多忙を極めた。コールボタンは雷鳴さながらにひらめいた。客室乗務員たちは、そのたびに通路を走り回っている。
気流は荒れ続け、41便は空飛ぶ酔っぱらいさながらだ。旅客機酔い袋は飛ぶようになくなった。乗客たちは生きた心地もしていない……。
紗英は機内食を戻しつづけるふとっちょの世話を焼きながら、機内に視線を走らせる。すると座席のいたるところに濡れそぼった髪の女がいた。その連中が、上目遣いで紗英に視線を注いでいた。
女は血走った眼をしている。場違いな着物まで着こんで、水滴をしたたらせている。溺死女だ。最近いつも見かけるあの女だった。
紗英はこらえきれずに悲鳴を上げるが、その声は偶然起こった乗客たちの驚声にまぎれる。
飛行機が傾き、乗客たちの悲鳴がまた上がる。シートベルトのサインはつきっぱなしだ。
紗英の顔色は真っ青だった。
窓の外では黒い雲が機体を取り巻いている。ときおりひらめく雷光が、その雲母を照らし出す。
紗英はその光とともに太った紳士に目を戻す。彼女は夢中でその背をなでる。紳士の背中が、なでればあの女を消してくれる魔法のランプだというかのように。
分厚いスーツごしでもじっとりとした汗を感じるが、彼女は気にならない。他のことに気をとられていたからである。
「ありがとう君、もういいよ」
紳士は袋から青白い顔をあげた。紗英がなんとか微笑をとりつくろい顔を上げると、窓の外では溺死女が分厚いガラスに手を貼りつかせていた。目を見開き、大口を開けて絶叫しているらしい女は、亡霊そのものだった。
うろたえて、通路を後ずさると、腕をつかまれた。
「大丈夫なの、気分が悪いのなら、ギャレーにもどって」
ナンシーが耳元でささやいた。様子をみかねて駆けつけてきたらしい。
「おい君、大丈夫なのか?」
太っちょが尋ねる。紗英は考える。チーフアテンダント万歳、このふとっちょ、反吐のことも忘れるぐらい、わたしは顔色が悪いらしい……。紗英は、ギャレーに戻って落ち着こうとタバコをとりだす。そこで不思議なものを見た。数人の子供たちが通路を駆け抜けて行く。紗英はあわてて立ち上がるが、シートベルトの着用サインは消えていない。乗客は誰も席を立てないはずだ。
「見なさいよ。幻覚と現実の区別もつかなくなった」
紗英は自嘲気味の笑いを浮かべ、もう仕事に戻ろうかと通路に目をやる。ファーストクラスとギャレーを仕切るカーテンの裏に、人陰がある。紗英は凍り付いた。
またあいつだ……。
カーテンの裾からは裸の足が覗いている。着物から水滴がしたたり、通路の絨毯を瞬く間に濡らしていく。
紗英は大きく息を吸い、目を閉じると、消えろ消えろと何度も念じた。口の端からうめきが漏れ、紗英はおそるおそる目を開く。
女は目の前に立っており、充血した眼が彼女をのぞきこんでいる。女の背丈は見るたびにちがうのだが、今日は百七十五センチある紗英と変わらない。例の上目遣いの目で紗英を睨みつけ、腕を伸ばしてくる。
紗英は思わず手を出して、女の肩をつきのけた。すり抜けると思った手が、骨にぶつかり、女はあっけない弱さで体をふらつかせる。濡れたてのひらを見つめて悲鳴を上げる。溺死女が非難の目を向けてきた。
驚愕と怒りのいりまじった顔で、シートに置かれた雑誌を拾い上げ.。幻覚にさわったのは初めてだった。慌てて雑誌を丸めると、頭上に振りかざし、
「さわれるんなら、こうしてやる」
女の頭を打ち据えると、濡れた髪がびちゃりと鳴った。あまりの現実感にむかつきを覚える。彼女は怒れる調教師のように、女を追いかけては打ち据えた。
びしゃりびしゃり。
溺死女は通路を横切ると、トイレに駆けこみ閉じこもった。
紗英は荒い息を吐きながら、揺れる機内に立ちつくした。
「幻覚にさわれるとはね……」
垂れた腕から雑誌が落ちる。すると、それを見越したかのように扉の向こうからは、ひどいよ……という子供の声がした。紗英はその声に聞き覚えがあり、眉をしかめた。大急ぎで脳内をさぐると、大昔の親友が見つかった。
「利菜?」
扉にむかって呼びかける。紗英は誰も様子を見に戻ってこないことにほっとしながら、さきほど打ち据えた女が仲間のアテンダントでないことを祈り(あの女は幻覚のくせに、扉をあけてトイレに駆けこんだのだから、その可能性は大いにある)、扉にそっと指をそわす。彼女は今にも消え去りそうな笑みを浮かべる。
「ばかばかしい、あたしの頭が作り出した声じゃない。幻覚に話しかけるなんて……」
扉はじっとしている。紗英は無意識のうちに手を伸ばし、ノブを回す……すると、内側から誰かが押さえたように、動かなくなる。
機内の照明がまたたいたかと思うと、41便は急激な気流に乗り、激しく機体を旋回させた。紗英は手を開き体を支えようとするが、立っていられず、身を投げ出す。通路が体を叩いたかと思うと、あごを強打し、彼女は意識を昏倒させる。
「うっ……」
顔を上げると、口の端を血がしたたり落ちた。紗英は床に手をついて身を起こそうとするが、視界がくらんでうまくいかない。
彼女の職業意識は、乗客の様子を見に行くんだという責任感を訴えたが、神経がどこかで切断をおこし、立とうとする意識は、手足から滑り落ちていく。
もう一度顔を上げると、今度は溺死女が直前に立っている。紗英は、その女を子供のころに見たのだということを、自分が最初に見たのだということを思い出す。
溺死女は一瞬で立ち消えた。紗英は、前方に見える光景に唖然となった。
「なにあれは……」
そこでは、外からは決して開くことのないコクピットルームのドアが開き(ドアは内側からしか開けられない)、機長のラルフと副操縦士のエングルが叫んでいた。
41便の前方は、オーロラのような激しい光で満たされていた、だけではない。その光は風防ガラスを通って流れこみ、コクピットの中でうねりをあげていたのである。
光はギャレーまで届いている。照明が再度瞬いた。乗客の悲鳴が聞こえるが、それは何億光年も遠方から届いてきたかのようだ。
紗英は四つ足のままはいすすんだ。ストッキングが大きくさけ、むきだしの肌が絨毯をこする。コクピットの直前まではいすすむと、壁に手をついて立ち上がる。光は生き物のように漏れてくる。金色のようでもあり、七色でもあり。いや、すべての色だと彼女は思う。
コクピットとギャレーには段差がもうけてある。転ばないようにまた近づく。光が頬をなでる。液体のようになめらかで、確かな感触があった。揺れる機内で手をかざした紗英は、光にふれた指がかすむのを見る。身動きをとめ、光の中へと手をつきこんでいく。腕は透明になり、大きくゆがんで伸びもした。
旅客機は轍を通る車のように振動している。紗英は光に導かれるようにして、コクピットに踏みこんだ。
コクピットに踏みこむと、紗英の体は光で満たされた。
光は生きていた。暖色は熱く、寒色は冷たかった。盲目のようにゆっくりと進み、ラルフの操縦席に手をかけた。彼は操縦桿を引いて減速を試みていたが(この現象がはじまってすぐに自動操縦は切っていた)、隣にいる紗英を見てぎょっとなった。
「どうやって入った……」
紗英はちらりとラルフに目をやり、その顔がX線を浴びたように組織をむき出しにし、チーズのようにやわらかくゆがむのを見た。どうやら自分の顔も同じのようだ。ねじまげられたラルフの顔が驚愕に変わり、再び前方に向き直る。
「この光はなんなの?」
「わからん、どんどん入りこんでくる。無線も通じない。ジェットエンジンも止まりかけてるぞ!」
エングルが悲鳴のような怒鳴り声を上げる。紗英は驚いて――乗客に聞かれては大変だ――ドアをかえりみた。
コクピットから通路に目を向けた紗英は、ファースト・クラスには声が届いていないことを知った。機内サービス準備室の通路は、百メートルばかりの延長工事をたったいま終えたらしい。
紗英は今見たものを閉め出すかのように、力一杯ドアをしめた。
ラルフが席越しに怒鳴る。
「なぜ、入れたんだ」
「ドアが開いてたからよ」
「くそ、お互いの声も聞き取りにくくなってるぞ」エングルが無線に八つ当たりをしながら言った。「ラルフ、進路を変えろお」
エングルに言われるまでもなく、ラルフは操縦桿にむかって全体重をかけている。光の中では全てがゆがんで見えるらしく、かれが身動きするたびに残像がうまれる。ラルフの顔は、なすびのようにカーブを描く。
「操縦がきかない」ラルフが食いしばった歯の隙間から声を出す。41便がまた上下に跳ね飛んだ。
エングルが紗英に言う。「席について、シートベルトを締めるんだ」
しかし、彼女は言うことを利かない。上官の言葉を無視して、さらに身を乗り出した。光を、その先にあるものを。
「なんなの、あれは?」
「わからない!」エングルが計器パネルを叩いた。「管制塔、応答たのむ! トラブル発生! ただちに応答頼む! こちらブリテュッシュエアウェズ41便! 操縦がきかない! 回線が混雑してる! 聞こえないのか!? 近くの空港まで誘導してくれ!」
41便の視界は、光で覆われて何も見ることが出来ない。旅客機はその光を押し分け進んでいく……というより、ある方向に引き寄せられていた。その意味では、ジェット機は今、川を進む船に似ていた。
その禍々しい光は、遙か前方から41便を引き寄せている。先端では、光は消失している。その空間には星も雲もない。紗英はその場所のことを、ただ深いと感じた。あそこは深すぎるから、光も何も見えないのだと。
彼女はその虚無を、どこかで見た気がする。
世界はねじ曲げられている……彼女はつぶやく。自分がつぶやいていることにも気づいていない。そのときコクピットを満たす光の中は、あらゆる音に満たされていたからだ。
エングルは計器を操作して管制塔との交信をこころみるが、高性能のスピーカーからは、陽気なロックや日本の歌謡曲が流れてくるばかりで、いっかな用を果たさない。絶叫がする。誰かの金切り声、おっそろしく古い歌や聞いたこともないような歌。はては宴会のばか騒ぎのような声まで流れてくる。そして、ふいに静寂になり、とぎれ、とぎれてはまた聞こえだす。
紗英はその光のうちに、子供時代の光景を見る。草原いっぱいにひまわりが咲き乱れ、自分たちはひまわりをかき分け怖々歩いている。
彼女は恐怖よりも、興奮を感じはじめる。
ラルフは光の川を脱しようと、操縦桿ととっくみあいを演じている。彼の右腕は筋も千切れんばかりにふくれあがり、生き物みたいに脈打っているが、このやっかいな代物は、万力で挟まれているかのように、ぴくりともしなかった。彼らがこの奇態なオーロラを見つけてから、五分とたっていない。それ以前には、オートパイロットが、操縦桿に軽快なワルツを踊らせていたのである。
ラルフは速度計の針をみるために頭を下げた(視界は光にふさがれていたから、通常の位置からでは計器板が読めなかった)。巡航速度を保っているが、しれたもんじゃない。電磁波だかなんだか知らないが、忌々しい光のせいで、最新のはずの電子機器がこぞって反乱を起こしたのだ。
ラルフは緩慢な動きで体を起こす。光に重さがあるとは驚きだが、こいつは海水のごとくだ。
彼は操縦桿を倒そうとする努力を放擲して、前方を見つめる。
彼はゆがんだ顔に涙を浮かべ紗英を見た。数秒間見つめ合った後、ラルフはこう言った。
「君の言ったとおりだ……世界はねじ曲げられている……」
彼らは前方に顔を向ける。光は手招きするように三人をなで回す。紗英は東京に戻ることだけを願った(心の片隅では、神保町にもどることを願っていたのだが)。
41便は光の深部へと突き進んでいった。光の消失する空間へ。紗英は操縦席のシートにしがみついた。腕をまきつけ、ちいさな胸をおしつぶし、けれどコクピットからは出ようとしない。彼女の胸は恐怖よりも興奮でわきたっていた。大量のエネルギーが――宇宙からかどこからなのかわからないが、注ぎこまれているかのようだ。五感も六感もまんべんなく高まりきった感じ。この感じは子供のころに、何度も味わった気がする。
その瞬間、彼女はあの夏に起こったことを見たものを思い出した。なぜこのようなことが起こったのか、そのわけすら、おぼろげながらも理解した。
彼女は機長の肩を揺り動かした。
「ラルフ! しっかりしてよ! わたしたちは東京に行くのよ! 落ち着いて東京のことを考えて!」
「くそ、メイン・キャビンの方はどうなってるんだ!」副長のエングルが紗英に向かって怒鳴る。「君はなんでそんなところにしがみついてる! キャビンの確認をしてこい!」
「うるさい、このくそったれえ!」
エングルは目を丸くした。紗枝は鬼のような形相で怒鳴る。
「わたしたちは東京に行くのよ! おたおたしている暇があったら、東京のことでも念じなさい!」
「しかし……」
穴が近づいてくる。
ラルフがシートアームに置かれたエングルの腕に手をのせ、「エングル」と呼びかける、彼が平静を求めている。エングルに、紗英に、自分自身に。
「くぐるぞ……」
ブリテュッシュエアウェズ41便は、虚無に吸いこまれていった。紗英は東京のことを、向こうに残した友達のことを考えつづけた。その友達とは一年以上も連絡を取っていないのに、彼らが大変な危機にさらされていることを知る。41便の機器はこぞっていかれたというのに、紗英の頭にあるレーダーは、極限まで性能を高めたかのようだ。
コクピットの視界からは、光がとりはらわれてゆく。虚無が身をのりだす。
「あの向こうにあるのは、東京よ……」と彼女は確信をこめた力強い声で言った。「信じて……」
そして、真っ暗になった。
次に意識をとりもどしたとき、紗英は床に倒れ、副操縦士のエングルに身を揺すぶられていた。
紗英が顔を上げると、エングルは驚愕の表情を浮かべて彼女を見下ろしていた。その顔には汗がしたたり落ち、憔悴のあとが濃い。
ラルフがキャビンにむけて室内放送をする声が聞こえる。ブリテュッシュエアウェズ41便、ラルフ・クライン機長です。当機ははげしい乱気流に見舞われましたが、無事東京上空に達しました。
「どうなったの……」
彼女は身を起こす。機内が明るくなっていることを知った。
コクピットの外は暗闇どころか、青空に変わっていた。
「君の言ったとおりだ」ラルフが言った。「東京上空だ。……正確には八丈島のうえだ。時刻は午前五時四十一分」
「そんな」紗英は立ち上がる。「さっきは午後の十一時だったのよ。そんなに気を失ってたの?」
「われわれは意識を取り戻して、すぐに君を起こした」とエングルは言った。
機体は安定している。光の残滓はかけらもない。
「じゃあ、あなたたちも六時間近く、意識をなくしてたってわけね」
エングルは首をふり、操縦桿を指さした。
「ありえない、オートパイロットは切ってある」
紗英とエングルはコクピットに立ちつくす。アームレストの脇についたサービスコンソールに置かれたコーヒーが、まだ湯気を放っている。
「つまり君の言った通りだったわけだ。われわれは東京を念じた。そして、東京についた」
「そうらしいわね」
「もっと重要なのは、我々がロンドン東京間を二時間以上も短縮したということだ」とラルフが言った。
「君はなんで東京につくことがわかったんだ」エングルが紗英の肩をつかんだ。「あのとき言ったろう。東京でも念じろ、あの向こうにあるのは東京だ。そう言ったぞ」
「そのようね」
エングルはいぶかしむように眉をひそめる。「なぜ落ち着いていられるんだ?」
「今日かぎりでこの仕事から開放されるからよ」
「なにっ? 何を言ってるんだっ?」
「エングル、よせ、なにが起こったかはわからないが、彼女のせいではないだろう」
とラルフは言ったが、エングルはそうは思えないと言いたげに顔をしかめている。ラルフは言った。
「ジェットエンジンは正常に復した。無線もつながっている。我々の役目はこいつをふたたび地上につなげることだ」
「乗客がさわがないか」
「さわいだとしても、なにが起こったか説明のつけられるものはいやしない。われわれもふくめてだ」
コクピットのドアがノックされた。三人は驚いて顔を見合わせた。紗英が開くと、ナンシーが外に立っていた。紗英がコクピットにいるのをみてぎょっとしたようだ。紗英はこう直覚した。わたしが幻覚をみて、騒いだとおもってるわね。
ナンシーはさきほどの機の動揺はそれが原因だと考えたのだ。しかし、それでは説明のつかないことがいくつかあることに、同時に気づいたものらしい。
「機長、説明してもらえませんか。乱気流に飲まれたかと思うと、乗客は――わたしもふくめてですが――全員失神しました。気がつくと、窓の外の景色がちがう。朝になっているじゃありませんか」
「待て、乗客もみんな気を失っていたのか?」ラルフが訊いた。
「そうです」
ラルフはシートに身を預けた。沈黙の中でジェットエンジンの音だけが響いた。
ややあって彼は言った。「そういうことなら機内放送で情況を伝えよう。加減抵抗器の誤作動で……つまり客室与圧の異常で、乗客は意識を失った。その間に東京についた……」
「本当にそうなんですか? 東京の上空なんですか?」ナンシーは言った。「たった4時間で東京についたんですか?」
ラルフは振り向いて笑った。「なにをいってるんだ、たしかに記録的な速さだが……」
しかし、ナンシーは毅然と言った。「機長、いまは何時だと」
ラルフは計器に目をやった。
「いまは午前五時四十三分だ」計器のデジタル時計をみながらエングルが言った。
「わたしの時計ではそうではありません」
「なんだと?」
「あなが見たのは、パネルの時計でしょう? わたしのアナログは十一時五十五分のままです」
ナンシーは腕をかかげながら言った。紗英も年代物のロレックスをみた。ラルフも。エングルは鼻で笑って二人の客室乗務員に言った。
「つまりこういうことか。コントロールパネルのものは電波時計だ。勝手に時刻を修正してる。正確な時刻はあれから五分とたっていない」
「なんとでも言うがいいさ」ラルフは疲れたように言った。「こっちだって説明のつけようがないんだ。さあ、みんなプロに戻ってくれ。ブリテュッシュ航空がわれわれに高い給料を払っているのは、パニクるためじゃない」と言って、副長に、「エングルっ?」と訊いた。
「わかってる」エングルは投げやりに言ってこめかみをもむ。目を閉じる。じわりとした疲れが、脳に染みこむ。「オーケーだ」
「君たちはキャビンに戻って乗客の面倒をみてくれ」とラルフは二人に言った。「これから忙しくなるぞ……」
ラルフはマイクを取り上げ、乗客に説明をはじめた。ナンシーは、紗英の手を取り上げ、コクピットから連れ出した。
「あなたはなんでコクピットにいたの? ギャレーに戻ったときは、あなたの姿が見えないんでぎょっとしたわ」と彼女は言った。「なにがあったの?」
「わからない。言っても信じてくれるかどうか……」
「言って」
「わかってるわ。飛行機が地に足をつけて、乗客が大人しく機を降りたら、みんな話す」
「そうしてくれるとありがたいわね」
ナンシーはファースト・クラスに戻りはじめる。機内にはラルフ・クラインの声がひびき、乗客たちがざわめいている。
ナンシーの後を追おうとした紗英は、背後に気配のようなものを感じ振り向いた。すると、トイレのドアが開いており、びしょぬれの利菜が、子供の利菜が涙をながしながら扉に寄りかかっているのが見えた。紗英は言葉をなくして、眉をひそめる。おさそい……と彼女は考える。わたしたちはおさそいがかかってる。
はて、おさそいってなんだ? と彼女は自らに問い返す。わからない。だけど、あの町に戻れば、なにかがわかるかもしれない。
利菜はノブにしがみついている。その彼女にトイレの中から溺死女の手が伸びる。
「あせらなくたって、すぐに戻るわよ……」
振り向くとナンシーが怪訝な顔で待っていた。トイレに目を戻すと、扉は開いていたが、利菜の姿はなかった。紗英はそれでも心の中で、声をかける。
安心なさいよ。わたしはあんたがおぼれるのをほっといたりしない。
あんたたちがおぼれるのを、だまってみてたりしない……。
第二章 寛太家にて
一九九五年 八月十七日――木曜日
三
利菜たちは、両神山での出来事を、幻覚かなにかだと思い込もうとした。だけど、異常な出来事は立て続けに起こった。
寛太の家に寝泊りしていたときも、人影や軒下に見える目玉に悩まされていたし、幻聴も何度か聞いた。子供たちはそうした現象をわるいもの≠ニ呼ぶようになった。それは「わるいもの聞こえた」とか、「わるいもの見えた」といったふうに使われた。
紗英は自宅で溺死女に襲われた。新治は、青葉図書館で、マジシャンに会い、兄の達郎はわるいものにのっとられたコーチに怪我をさせられた。
どうやら悪い気持ちや考えがわるいものをおびきよせているのだということに、利菜たちはおぼろげながら気づき始めた。彼らは、不眠症にかかり、夜中も出歩くようになった。彼らの精神は、刻一刻と、追い詰められていった。
これは、子供たちが両神山でなめ太郎に出くわしてから、四日後の話である。
四
夕暮れ近いマンションまでつづく県道を、二人は短い影をのばし、歩道の砂利を拾うように、とぼとぼと歩いている。自転車を押し、すごく疲れた様子だ。
利菜は真っ白なTシャツに紺のジーンズ、佳代子はピンクのTシャツに、カーゴパンツをはいている。二人の女の子はやせっぽちで、決して細くはないジーンズがぶかぶかに見える。
利菜のシャツには、血糊の手形がついていた。佳代子のほっぺにも。昨日泥酔した母親に殴られたせいで(拳で殴られたのはたぶん初めてだと思う)かなり濃い青あざができていたが、そのうえに重なるように血の筋が伸びていた。
利菜は涙目でうつむいている。そのうち彼女が立ち止まったので、佳代子も立ち止まった。
佳代子は所在なげに体を揺らしながら、利菜が動き出すのを待っていたが、利菜は唇を震わすばかりで、ものも言おうとしない。
「お母さんいなかったね」
と佳代子は言う。利菜は無言でうなずいた。その瞬間、彼女の顔から鼻水が垂れ、涙がぽとりと落ちて、歩道の白いタイルに染みこんだ。利菜はいっそう深く顔を伏せたから、佳代子からは顔が見えなくなる。
彼女はなんと言っていいかわからず、もじもじして自分がいっとう泣きたくなった。そのうち、利菜が、
「おかあさん、どこいっちゃったんだろ……」
喉がひび割れたみたいなしゃがれ声で言ったから、佳代子は子供ながらに胸をつかれて、
「おばさん、戻ってるかもしんないじゃん」
と涙声で言った。
佳代子は利菜の肩に手をかけようと腕をあげたが、結局ふれられずに胸へと引き戻す。利菜が嗚咽をもらすと、我慢できずに二人は抱き合う。
二人の子供がそんなふうに深く傷つき、なぐさめあうかのごとく、熱い抱擁をかわすことになったそのわけは、目黒区にある一戸建てを訪ねたことが原因だった。二人は利菜の母親を捜しに出かけたのだが、肝腎の母親には会えず、危うくわるいものに捕まりかけたのだ。
利菜は以前にも――それはおさそいが始まるよりずっと前のことだったが――その家に連れて行かれたことがあったから、そこがどんなところで、どんな人がいるのかもわかっていた。そうでなければ、佳代子をさそうはずがない。だけど、わるいものが佳代子の思うとおり、みんなの心に忍びこんでくるのだとしたら、利菜だってあいつの思うとおりに行動させられたということになる。
利菜の母親は、おまもりさまから戻ったその日にいなくなったのだが、父親に訊いてもあいまいな答えが戻るばかりで(彼女の父は炭酸のぬけたコーラみたいになっていた)、所在を知ることはできなかった。
彼女の母親、三津子は、釈栄会という仏教系の宗派に二年前から所属していた。娘をこっそり連れて行ったのはその宗派に入信させるためで、こっそり連れ出したのは父親が反対していたからだった。
その家は、どこにでもある普通の民家だ。会長先生という人も、普通のおじさんにしか見えなかった。ただ、子供ながらにその人たちの言っていることはへんてこに聞こえた。
母さんが言うには、利菜はもうその宗教に入信していて(それも迷惑だ)、このことは父さんには言ってはいけないということだった。母さんはそのとき真剣な――利菜の頭に穴を空けるみたいな目つきで、じっと見つめて、あの人にもそのうち何が正しいかがわかるはずだから、と言い切った。でも、正しいことなのに父さんに隠し立てをするのは、それこそ変じゃないかと彼女は感じた。利菜は父親のことも信頼していたから、黙っていること自体がつらかった。
利菜は積極的にそのことを忘れて、母さんが宗教を話題にしようとしても他人とそのことを話していても、なるべく関わらずに聞かないように、疑問やいやな気持ちにはふたをするよう努めてきた。母さんがおかしいんじゃなくて、宗教が母さんをおかしくしたんだと思った。そして、心のどこかではあの家を憎むようになった。ホラーハウスみたいに邪悪なものを感じるようになったのだ。
母さんがいなくなって、まっさきに頭に浮かんだのがあの家だった。あの家に入りこんで(捕まって)、それで帰ってこないんだと、そう考えたのだ。
おまもりさまに入りこんで四日がたっていたが、母さんはまだ戻ってこなかった。父親が仕事に行くと、利菜は友達と遊びに出かけた。母さんがいなくなったことは、誰にも話していなかった。こんなときに、(幻覚やおかしな声をきいて夜も眠れなくなっているときに)母親がいないなんて最悪だが、父親すらいなくて家にいる母親にはぶっ飛ばされている佳代子よりはましだと思った(そんなふうに自分をなぐさめるのは、佳代子にたいして悪いと思ったけど)。
だけど、新治と別れ、佳代子と二人帰ることになったあのとき、急に何もかもが我慢できなくなった。家に帰るのが、いやになったのだ。
利菜は母親がいなくなったのは、おまもりさまのせいだと考えた。幻覚や眠れないことにも我慢ならなくなった。ストレスなんて言葉は、小学五年生にはぴんとこなかったけど。子供は大人より柔軟かもしれないが、なんでも許容できるわけじゃない。そのピークがあるとするなら、今だった。
「佳代子、あたしがついてきてって頼んだら、来てくれる」
と彼女は言った。その言葉はいきなりで形相もすさまじかったから、さすがに佳代子も言葉につまった。
来るのこないの、と彼女は切り口上に言った。佳代子は思わず行くよ、と答えた。言ってから、しまったと考えた。
「母さんが帰ってこなくなったんだよね」
利菜は急に肩をおとしてそうつぶやいた。佳代子はおばさんの宗教のことも(あの家に始終出入りしてれば自然に知ることになるのだが)、かなり詳しく知っていたから、すぐにどこに行けばいいのか事情はのみこめた。
「じゃあ、おばさんはその家にいるんだ」
「他に行くとこなんかないよ」と利菜は憎々しげに言った。「佳代子ついてきてくれる? あたし、母さんに戻ってきて欲しいんだ。父さんはなんにも言ってくんないしさ、洗いもんとか洗濯もんとかたまるばっかだしさ、うちがなんか悪い場所みたいで、ちがっちゃったみたいで、やなんだよね……」
ほんとは父親もすっかり変わってしまった、母親がいなくなったのは他の行方不明事件と(殺人事件と)同じなのかもしれないと考えていた。そうしたことは、口に出すのも怖かった。
「ここんとこ、夜眠れないし……」
佳代子は驚いた。「あたしもだよ。あたしも眠れない……」
「だからさ。母さんが戻ってきたからって眠れるとは思えないけど……幻覚もみるんだろうけど、でも、今よりずっとましだよ。あたし一人でも行こうと思ったもん」
それはうそだった。
「でも、佳代子がついてきてくれるんなら安心する」
そんなふうに頼られて、悪い気はしない。佳代子は、この話を聞いたとき、半分がた肚は定まっていた。
母親のお腹が大きくなって、噂が学校中に広まったとき、佳代子はずいぶんいやな思いをした。女の子たちは陰に回って、うわさ話をしたからだ。佳代子はずいぶん我慢した。面と向かって言われるのなら言い返すこともできる。でも、みんな聞こえよがしにしか言わない。いちばん陰険だったのは、幸田頼子だ。佳代子が振り向くと、素知らぬ顔で目もあわせなくなる。佳代子がぐっとこらえてそっぽを向くと、また噂話が再開する。
そんなことが積み重なって、佳代子はある日、しつこく噂話をしていた頼子のグループに、つかつかと歩み寄った。そして、抗弁する一同に、平然と言い返した。
「そうよ、赤ちゃんが生まれるんよ。それっていいことでしょ。悪い?」
そして、頼子をひっぱたいたのだ。
すぐさま教室中が騒ぎになった。関係ないのも騒いだし、関係あるのはおおいに慌てふためいた。すぐさま先生が飛んできた。
先生はそうなった理由を二人に訊こうとしたが、佳代子はがんとなって言わなかった。
そのうちに事情がわかって、先生も佳代子がしたことを理解してくれた。佳代子に同情的だったのだが、さて、お互いに謝ろうという段になったとき、どんなにすすめられても佳代子は頭を下げなかった。
「子供が生まれるんは、すばらしいことだってじいちゃんが言った。だからあたしは悪くない」と言ったのだ。
ともあれ、佳代子のやったのは暴力だったし、頼子の母親は、小学校の役員会ときくと、すぐに顔を出す人でもある。先生は一生懸命説得した。それでも佳代子が頑固をはるものだから、双方の母親が呼ばれることになった。
登美子は職員室に入るとすぐさまヒステリーを起こし、先生も頼子の母も、佳代子のことも口汚く罵った。その間、佳代子は真っ赤な顔をしながらも、必死に泣くのだけはこらえていた。
結局、登美子のおかげで佳代子は無罪放免になったのだが、家に帰ると、妊娠した母親から暴行を受けた。
夕方になり、利菜に電話をかけた。利菜は自宅でずっと佳代子の心配をしていた。二人の自宅は、同じ県営マンションの隣の棟だから、すぐ近くである。
佳代子が利菜の家に現れるまでは、ちょっとばかり時間がかかった。
利菜は佳代子の様子をみて驚いた。泣いたせいなのか、あんまりひどく叩かれすぎたせいなのか、彼女の顔は腫れぼったかった。びっこをひいていたし、大事な顔に、切り傷がいくつもあった。
部屋に入り座った。利菜は椅子に、佳代子は床に。佳代子はそれまで、学校でも家でも泣かなかったのだが、そのときはじめて腫れ上がった頬に、ぼろぼろと涙をこぼしたのだった。
そういうことがあったから、竹村佳代子は利菜にたいして恩義があった。自分のいちばん惨めな部分を受け止めてくれるのは、両親ではなく、利菜だった。
しばらく佳代子は小刻みに首を縦に振った。やがて自分でも納得がいったのか、大きく一つうなずいた。
「じゃあ、あたしたち気をつけて行かなきゃいけない。おさそいのこともあるし。おうむ教とか、おっかない宗教だってあるもんね。寛太か達郎ちゃんを誘ってもいいけど、二人で行く?」
「行く」と利菜は言った。「あたし、今日連れ戻したいのよ。いますぐに。母さんに戻ってきて欲しいの」
佳代子はうなずいた。
その家は閑静な住宅街の一角にあって、不気味な雰囲気を放っていた。家自体はいたって普通だ。門はありふれたアルミ製だし、どこのホームセンターにも売ってあるような、四角いポストがついている。
表札には坪井とある。
佳代子は宗教というと、お寺を想像したから、こんなところに教祖とか会長がいるのは、ちょっと想像しにくかった。
二人は少し離れた電柱の影から、緊張した面もちで家を眺めたが、ブロック塀の向こうは静まりかえっている。佳代子は、静か、という言葉だけでは足りないような気がした。この辺り一帯では、空気すら沈黙してしまったみたいだ(本当はあらゆる音がひどく遠のいた感じだったのだが、彼女たちはそのことに気づかなかった)。
佳代子はすっかり気後れがしたが、利菜の手前引き返すわけにはいかなかった。その家がどんなふうだったかは、利菜から聞いてある程度は知っていた。
「行こう」
利菜は門に手をかける、かすかにきしみながら、内側に開いていった。わずかなすきまに、身をくねらせるようにして入っていく。ブザーに手を伸ばし、あわてて――熱いお湯に触れたみたいに、引っこめた。
「静電気だよ」
と彼女は苦笑いをして言った。
ブザーは二回むなしく響いた。利菜はもう一度押した。もう一度。――返事がない。
「誰もいないんじゃない?」
「いないかもしんないけど……」
利菜はみいられたようにノブをみつめ、やがてそれに手を伸ばした。
彼女はびっくりしたみたいに振り向いた。「開いてる」
ゆっくりと戸を開いていく。中は暗く、空気は何世紀も放逐された家のようによどんでいる。戸をしめきっていた。そのせいで、外よりも蒸し暑い。
汗がふきだしてくる。
玄関から入ってすぐに階段がある。そのわきに、廊下がまっすぐ伸びている。廊下と階段は家の中央にあり、左右の部屋をしきっていた。以前来たときと、見た目は全く変わらないのに、利菜はものすごく違和感を感じた。圧迫感を。
「ごめんください」
震えた声が、暗い玄関に吸いこまれていく。それにつれて、二人は一歩二歩と家のなかに入っていった。利菜の背中には佳代子が貼りついている。その肌の暖かさが、彼女をほっと安心させる。
「誰もいないのかな?」
佳代子が言う。
「隠れてるのかもしれない」
「勝手に入るのはまずいんじゃない?」
「あたしはこの宗教の一員だもん」
だから、入ってもいいはずだと思った。
「あたしが怖いって言ったら、あんたどう思う?」佳代子が言う。
「その気持ちわかるって言うよ」前を向いた。「あたしだって怖いもん」
廊下にあがった。
右側の扉を開けるとリビングだった。ワイドテレビと大きな机が目についた。利菜は右手にあるじゃばら式の戸を開けた。台所だ。南側の窓から明かりが落ちている。前きたときは大勢のおばさんたちが料理をつくっていたけど、いまはその姿もない。
奥には勝手口があるが、利菜は鍵が閉まっていると思った。そこだけではなく、家中の鍵が。
そんな嫌な予感におそわれて振り向くと、玄関の扉が閉まっていた。
「閉めたの?」
佳代子が首をふる。二人は凍り付いた視線をかわした。どちらからともなく手を握りあう。
佳代子の手は冷たい。部屋の温度が、どっと下がった感じだ。家中が冷気を放出しているかのように。汗で濡れたTシャツも冷たく感じだす。しめきった部屋のなかで、足下にだけ風を感じた。
「利菜……」
と声がした。母親の声だった。
「二階からだ……」
利菜は言った。佳代子の手を引いてリビングを出た。廊下はさらに暗くなっている。ガタガタと何かが閉まる音がする。
「雨戸をしめる音だよ」と佳代子がせっぱ詰まった声で言う。「おさそいがはじまったんだ。やばいよ、利菜。はやく出ないと……」
――でも、母さんが……と利菜は言いかけ、その言葉を飲みこんでしまう。上から母親の声がしたのに、久しぶりに声をきいたのに、彼女はすごく怖かった。
母さんのあの声。名前を呼ぶ声……なんだか邪悪な気配がまじる声でもある。彼女はここ数日、幻覚をみて、幻聴だって聞いてるのに、なんでこんなところにいるんだろうと思いはじめる。ここにきたのはまちがいでとんでもないまちがいをおかしているような……だってかあさんの声はかあさんがいっているんじゃないかもしれないし、佳代子の言うようにおさそいなのかもわなにはまったのかもしんない。だっておさそいをうけてるのはわたしたちだけじゃないかもしれないし、ゆくえふめいとかじことかれんぞくさつじんとかさいきんやたらおおい……
でも、足は階段を一歩登りはじめたので彼女はすこし驚く。まだ佳代子の手を引いている、友達を道連れにするみたいに。
しかし、階段を一歩、また一歩とのぼるたびに、さきほどまで頭にうかんでいた疑問はかき消え、佳代子に対する心配の情も消えてしまう。頭の中の耳に、栓をされたみたいに。
彼女たちは、何かに導かれるように、階段をのぼりだす。いまは夏で、まだ日も高いというのに、家の中がどんどん暗くなっていくことに気が付く。わずか数分で曇ったんだろうか? さっき外で見上げたときは、雲なんてなかったのに。
でもここでは時間がどんどん過ぎるのかもしれない。そんなことを頭の片隅で考える。前頭部は霞がかかったようなのに、脳みその中心はフルスピードで回転している感じだ。アドレナリンやらホルモンやらが、バルブ全開であふれ出す。
二人は階段の手すりに手をかける。最後の数段を残し、利菜は立ち止まる。そこから見える廊下の壁に、亀裂が入っていることに気づいたからだ。その亀裂からは、煙が出ているようにも見えた。
利菜はあれが見えるかどうか、佳代子に訊こうかと思った。出力全開の脳みそが、佳代子にも見えていると教えてくれる。利菜は佳代子との、強い結びつきを感じる。
どんな周波数もひろえる高性能の受信機みたいに、彼女の脳はふだんは見えないものを、見てはいけないものまで見せてくれる。亀裂からあふれでるものは、煙よりもどす黒く、黒ずんだ光みたいに見えた。
やばい……
利菜は心臓のあたりを右手で探った。彼女は振り向いていないが、佳代子も同じように心臓に手を当てているのを見た。肉眼では見ていないが、彼女の脳みそは、肉眼の限界を超えたらしい。
そして、亀裂がさらに大きく裂け、どす黒い光があふれ出してきたかと思うと、その光ともに指が幾本も突き出て、亀裂の壁を、がっとつかんだ。
利菜はそこから、紗英が見たという溺死女が出てくるんだと思った。じっさい頭が見えたときは濡れた海草みたいな縮れ髪で、その髪の隙間から血走った眼が覗いていたのだが、佳代子が、――母さん? とつぶやいた瞬間に、その女は杉浦登美子にかわっていた。
佳代子が叫び始めた。
「母さんだ! 母さんだ! 母さんだ!」
佳代子の母親はスカートをまくりあげ、亀裂の中から大きく足を踏み出す。登美子の来ているワンピースに、亀裂からあふれるどす黒い光がまとわりついた。
登美子は腕を左右に押し広げる、亀裂がめきめきと大きくなった。
中からは風と光が猛烈に吹き出し、利菜と佳代子は思わずバランスを崩しそうになる。あやうく階段を踏み外すところだったが、利菜が手すりをつかんだので(手すりはサラダ油が塗られたみたいに急にぬるぬると滑りだし、利菜は手すりの留め具に指を引っかけることで、どうにか二人分の体重を支えることが出来た、そして佳代子と体がふれたその瞬間、佳代子があんな母親を見るぐらいなら、ここから落ちて死にたがっていることを知った、そんな親友の思いに、利菜は身を引き裂かれるみたいな悲しみを感じた)、なんとかその難だけは逃れた。
彼女は我に返って言った。
「佳代子、しっかりしてよ! おばさんがこんなところにいるわけない!」
振り向くと、階段は三十度ばかり勾配を急にしたみたいだ。利菜は佳代子のことを腕一本で支えている。二人は崖から落ちかけたロッククライマーみたいになっている。
「あれはわるいものだ、これはおさそいだ、あんなのおばさんじゃない」
佳代子が言った。「母さんがあたしを殺すんだ!」
「殺したりするもんか! はっ倒すよこの野郎!」
「だって母さんが……」
佳代子は言葉に詰まったが、利菜はその言葉の続き、もしくは佳代子の気持ちみたいなものを全部理解してしまった。佳代子の母親が、酔っぱらって二人で死のうかとすすめたことも、今すぐ殺してやろうか、とか、あんたなんか生まなきゃよかったと言ったこと、それはドラマからしたら月並みな言葉ばかりかもしれないけれど、佳代子がうけたショックは月並みなんかじゃなく深かった。佳代子は思い出せないけれど、幼いころから、ろくにしゃべれもしないころからそんな言葉を浴びつづけていたし、それは彼女が思い出さなくても潜在意識のなかで、厚くぶっとく根をはっている。利菜は佳代子と精神がつながるのを感じた。佳代子のうけた傷跡を、痛みを、その身で再現しながらのぞき見た。
利菜は悲しみよりもずっと強い憤りのなかでこう言った。
「ちくしょう、あんたの母さんがあんたにどういったって、あたしはあんたといたいのよ! 死にたいなんて、死んだほうがいいなんて、心のかたすみでだって思わないでよ。こんなところ出るんだ。あたしもあんたも、あんな方になんかいかない」
と利菜は上を見る。
「さあ、気持ちを強く持ってよ。じいちゃんに言われたみたいに」
「じいちゃん……」
佳代子が言葉が飲みこめないみたいに呆然とする。
「そう、じいちゃん。階段はこんな急じゃない。手すりもすべったりしない!」
利菜が手すりをぶったたいた。その瞬間、勾配が元に戻って二人は階段に叩きつけられた。利菜は階段の角に肋と骨盤を打ち当て、痛みにうめきながら階上を見上げる。
佳代子の母親は階段の上がり口に傲然と立ち、さあ、こっちに来るんだよ、と言った。男みたいに野太い声だった。その声を聞いた瞬間利菜は、こいつにはかなわない、こんな奴にはかなわない、数秒でも一秒でも長く一緒にいたら、説得されて心をへし折られて、きっと絶対に引きこまれる、と思った。手でも口でも。こんな手強い奴にはかないっこない、と。
利菜は慌ててわるいもの登美子から目を離すと、佳代子をせきたてた。
「さあ、下に降りて。玄関開けて逃げるんだよ」
二人は音をたてて階段を駆け下りはじめたが、後ろからはそれをはるかに越える大きな足音が響いて、利菜は頭の真後ろに、わるいものがぴったりはりつくのを感じ、あいつがはき出す死の息が髪の毛を吹き払い、わあたいへんだ佳代子のかあちゃんがぴったり後ろに食いついてる、と思った。
三人が階段を文字通り波打たせながら駆けきった瞬間、リビングから登美子が出てきた。一瞬で階下にワープして、二人の行く手をぴたりとふせいだ。
「母さん……」
佳代子がうめいている。登美子は腕をふりあげ、娘のほおを手痛く張り飛ばした。
「やめて!」
利菜は悲鳴を上げた。登美子が名状しがたいような顔つきで見下ろす。佳代子に殺すと言ったとき、おばさんはこんな顔をしていたんだろうか?
「人の親に化けるなんて最低だよ……」
震え声でつぶやく、登美子がまた手を振り上げたときには利菜はそのわるいものをつきとばしていた。未知のエネルギーが、脳みそだけじゃなく体中を駆けめぐっていた。
「佳代子をぶったたくと許さないよ!」
そのとき、リビングとは反対側の、仏間の戸が開いた。釈栄会の会長にして、この家の主人、坪井善三が頭をかきながら、
「うるさいぞ! なにを騒いでるんだ!」
お経でも上げていたらしく、肩には文字の入ったたすきを掛け、手には数珠を持っている。彼は三人を(正確には倒れている三人目の人物を)見て、あんぐりと口を開けた。利菜は思った。この人には見えてる。
こんど有無を言わさずに手を引っ張ったのは佳代子だった。彼女は家宅侵入を見つかったことで、全く度肝を抜かれて必死になっていた。
「行こう!」
佳代子は玄関のドアをあけた。その瞬間、表の真夏の外気が家の中の冷え切った空気と対立しあい、空間がぐわんとしなるのを二人は感じた。感じるどころか、空間のねじ曲がる音まで聞いたのである。
それでも二人は手で水を切るようにして、空間の境をかきわけ(境目は泥みたいに二人のこどもをとりまいた)、なんとか表に身を乗り出した。利菜の肺に八月の正常な空気と熱気がながれはいり、肌と全内臓はその急激な温度変化にきゅっと縮み上がる。
表に数歩かけだしたところで、二人は振り向いた。家の中では登美子から姿を変えた何かが、坪井に覆い被さるところだった。
二人が坪井を助けようか何か声をかけようかと迷っているうちに、玄関の戸がばたんと閉まった。アニメのコマが、停止したみたいに静かになった。悲鳴もなにもきこえない。二人は顔を見合わせる、次の瞬間には自転車に駆けだし、サドルに飛び乗ると一目散にペダルをこぎはじめた。
もう肝も勇気も消し飛んで、後ろを振り返るゆとりすらない。
坪井家から遠ざかるその一時、辺りは確かに静まりかえっていたけれど、二人の心だけが悲鳴を聞いていた。空間がねじ曲がってしまった家からは、すべての音が漏れなくなっていたけれど、フル回転の頭脳が、そんな悲鳴を聞かせてくれたのである。
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五
二人が家までつづく帰り道で肩を寄せ抱き合い泣いたのは右のような事情があったからで、二人が無事坪井家から出られたのは、彼女たちが一人ではなく二人でおさそいにひっかかってしまったという、ただそれだけの理由にすぎない。佳代子の頬と利菜の背中についた血の痕は、わるいものがつけた手形のようなものだった(その痕を二人はずっと気にしていたのだけど、道行く人で気づいた人はいなかった)。
二つの自転車は全速力でかっとんだ。悲鳴が聞こえなくなるまで。あの音がなくなるまで。脳みそが元に戻るまでペダルをこいだ。そうしていれば、脳みそに回ったオイルを足が使い果たしてくれるみたいにペダルをこいだ。
自宅のマンションがある方角とは道が違っていたのだけれど、約一〇分間の全力疾走は、肉食動物が獲物を平らげるときの、バリバリびちゃびちゃいう音を遠ざけてくれた。
どちらからともなくスピードをゆるめ、そのうち利菜はブレーキレバーを握りしめた。佳代子も止まった。
自転車は止まったが、心臓は全力疾走を続けていた。血液は体中をかけめぐり、血管はふくらみっぱなしだ。二人はハンドルにつっぷした姿勢のまま、目をみかわす。
利菜は見た? と顔で訊いた。佳代子は見た、と顔でうなずいた。
二人は自転車で坂を下りた。後は歩いて家までの道を辿りはじめた。
佳代子は利菜に心の中を覗かれたような気がして、とくに母親との関係については誰にも知られたくないことが多かったから、気まずい思いをしていた。利菜もそれがわかっていたから、登美子については触れずじまいでここまで来た。ただ、今日受けたおさそいは今までにない強烈なものだったし、おまもりさまへのおさそいというよりは、あの世へのおさそいみたいだったな、と彼女は感じ、それですっかり怖じ気づいて泣いたのだった。今日ばかりはただのおどしやすかしじゃなく、本物の命の危険を感じた。なのに母親はいなくて、父親も様子がおかしく、相談すべき大人はもう誰も周りにいなかった。
二人は今日の出来事で、おさそいは頭がつくった幻覚なんかじゃないということを身に染みるほどに理解した。そうして、自分たちがすっかり追いつめられていることを、子供ながらに感じたのだった。
利菜は他のメンバーがどう思っているのか知りたかったが、家に帰りつくと、ほどなくして達郎から電話があった。あまりうれしい電話ではなかった。彼は自分が怪我をしたことと、瀬田英二がいなくなったことを伝えてきたからだ。
達郎は明日、校庭にみんなで集まろうと、それまでに自分は寛太と英二のことを調べに行くつもりだと言った。彼はみんなで集まって、話をした方がいいと言った。
電話の音がなくなると、部屋は黙りこんでしまった。居間には自分と父親が脱いだ服がとっちらかっている。
台所に行くと、カップラーメンの開けたのや、使ったままの皿やコップが、テーブルや洗面台に散乱している。ここ数日のゴミで目一杯ふくらんだゴミ箱、入るだけ詰めこまれたまま結ばれてもいないゴミ袋が二つある。
西日がさしこむ台所は、すっぱい匂いがした。ゴミ袋に近づくと、ナイロンにはレタスの腐った茶色いヘドロみたいのがこびりついていた。虫もいた。夏場に誰も窓を開けることもなく、クーラーをかけることもなかった部屋は、蒸し暑い空気がこもっており、かさこそとゴキブリの走る音がした。
「こんなんあたしの家じゃない……」
口に出すと泣けてきて、利菜は腐ったゴミの匂いのなかで、しゃくり上げながら鼻水を垂らした。あの家に行けば、母さんに会えると思ったのに、それだからこそ危険を犯してまで佳代子に付いてきてもらったのに、結果は違ったのだ。
ひとしきり泣くと気が落ち着き、利菜は少しだけ気持ちが前向きになった。こんなふうに泣いてちゃいけない。泣いてもいいけど、その後はきっぱり元気をださなきゃだめだ、と寛太郎に言われたとおり、臭い部屋で胸一杯に空気を吸った。
利菜は部屋を歩き回って、あちらこちらの窓を開けた。クーラーも全開でかけてやった。ほんとはそんなことをしたら、かあさんに、電気代がかかるでしょ、と怒られるけど、今日ばかりはその心配もない。
「いない方が悪いんだよ」
というと、清々とした気分になった。
母親は几帳面な人で、部屋を散らかすのは厳禁主義で、掃除機を一日一度はかけ、窓ガラスも週に一度は拭く人だった。その反動で利菜はまったく家のことをやらなくなっていたが(ちょっと潔癖性気味にはなっていたが)、生まれて初めて家事をやろうという気になった。
利菜は父親のタンスから軍手を見つけた。花粉症用のマスクもつけた。ゴミ袋の口を三つともしめてまわり、下のゴミ回収場までもっておりた。
その後、彼女はたまったゴミを集めてまわり、たまった汚れ物を洗い、たまった服を洗濯機におしこみ、見よう見まねで回してみた。粉を入れ忘れたが、後で追加した。風呂を洗うと、お湯をためだし、それから部屋という部屋に掃除機をかけた。
六時になると、父親がローソンの弁当をもって帰ってきた。片づいた部屋を見て、父親はしばらく無言だったが、ややあって頭に手を置いた。
父さんがまともな反応を返したのはそのときだけで、後はずっと上の空だった。まるで頭の中の考えに熱中して、まわりのことには何も気が付かない様子だった。
利菜は湯船に浸かり、なるべくリラックスしようとつとめながら、父さんはだんだんひどくなってくな、と考えた。風呂に顔をつけて、涙をお湯に垂れ流す。父親が食事をしながら口からご飯をとりこぼす様子や、痴呆患者みたいに、テレビをつけているのにまるで見ていない様子を思い出した。
利菜は、まるで父さんじゃない、誰か他人と暮らしているみたいだな、と考えた。そうすると怖くなって、怖がったり不安がったりするとよく幻覚をみるから、お湯をジャバジャバと顔にぶっかけて気を紛らした。
こうして上原利菜の精神は、日一日と追いこまれていったのだが、おまもりさまに戻る決心をしたのは、風呂から上がり髪を拭きながら部屋に戻り、机の上に置かれた、ある物を見つけたからだった。
ビニールボールがあった。
彼女はしばらく戸口に立ちつくし、それからゆっくりとした足取りで机に近づき、震える指で手にとった。ひっかき傷がいくつもあった。色はピンクだ。茶色い染みのような物がこびりついていた。山で捨てたボールだった。なめ太郎が投げ返してきたやつだ。
利菜はビニールボールをテーブルに落とした。
そのとき、後ろで戸が開いて、利菜はなめ太郎が入ってきたと思ったのだが、戸を勢いよく開けたのは父親で、彼は爛々とした目で、「ビニールボールは見つかっただろっ!」と一声叫ぶと、本棚が揺れるほど、きつく戸を閉め出ていった。
利菜は息を乱しながら、しばらくその場で立ちつくした。捨てたのに……と彼女はつぶやいた。捨てたのにどうやって戻ってきたんだろう? 父さんがここに置いたのかな?
ビニールボールに手を伸ばす、彼女は指先で触れようとする。ボールは自然に転がった。ボールについた茶色の染み。それはあのときついた血の痕なのだけど、その血痕はボールに幾重にもくっついて、笑った顔のようにも見える。
あれは父さんなんかじゃない、と考えると震えが起きた。部屋を出て、わき目もふらずに居間を横切り、玄関を開けると外に出た。家を出ていった。
六
翌日、子供たちは達郎に言われたとおり神保南小学校に集合した。
校門前の駄菓子屋には、すでに紗英がきていた。阿曽商店は、勘定場が畳みの縁台になっていて、そこに腰かけ、くつろげるようになっている。
達郎と寛太は、英二のことを確かめに行って、まだだった。
利菜は佳代子たちにもビニールボールを見せた。新治と紗英は無言だった。みんなひどく無口になった。
十分ほどすると、寛太たちがきた。駄菓子屋を出ると、学校の門は封鎖され、運動場には子供たちの姿がない。その方が好都合だった。
みんなは買いこんだお菓子をもって、裏門にまわった。門のそばに自転車を固めて置いた。達郎を先頭に中に入った。
リトルでの怪我の話をせびりながら運動場にまわると、テラスの階段に腰を落ち着けた。そのときには雨はやみ、赤いタイルも乾いていた。六人は黙々とお菓子を広げ、黙りこくって校庭や雲を眺めた。
口火を切ったのは佳代子だった。達郎に、
「敷地には入れたの?」
「入れなかった」
警察がいたからだと彼が言ったので、みんなはちょっと緊張した。達郎は寛太と連れだって、発電所の様子を見に行ったのだ。行こうと言い出したのは寛太で、彼は今も青い顔をしている。
利菜は瀬田英二とは、四年のときのクラスメイトだった。当時は、あの子のことを英二君と呼んでいた。「英二君、水泳パンツはいてなかったんでしょ?」
奇妙な視線が集中した。みんなは英二の裸を思い浮かべたのだ。
「バックの中に入ったままだたってこと。そう聞いたんだよね……」
達郎が言った。「警察は川を捜してた。おぼれたと思ってるんじゃないかな?」
「おぼれたんじゃないんでしょ?」
佳代子の言い方は断定的だった。利菜が言いたかったことを代弁していた。
「おぼれたんじゃないんだよ。水泳パンツもはかずに泳ぐなんておかしいもん。それに発電所の下で泳げるわけない」
佳代子が言ったのは、あの辺りの水深が浅いからだ。子供たちは、もう少し上にある松の木のあたりで泳ぐし、瀬田英二が友達と集まろうとしていたのもその場所だ。
佳代子はこう質問した。
「英二君がいなくなったの、おさそいと関係あると思う?」
「わからないよ。発電所の近くでいなくなったなんて気味が悪いけどさ、でも、あいつは山には行ってないだろ?」
「別のときにおまもりさまに行ったってことはない?」
みんなはいっせいに紗英を見た。
「英二君、わたしたちとは別のときにおまもりさまに行ったのかも。そんであいつに捕まったんじゃないかな」
「捕まったなんて言わないでよ。英二君いなくなっただけかもしんないじゃん」
佳代子の声は震えていた。でも、みんなの表情は、おさそいと関係ある、と言っていた。こんな目に合っているのが、自分たちだけだとは思えなかったし、思いたくもなかった。英二の身に何かあったなんて、もっと考えたくなかったが、発電所に置き捨てられた自転車は、なにかを暗示している気がした。一同は――いなくなった子供のことを話し合うだなんて、不気味なことだったけど――お互いが同じように感じているかを確かめたかった。
達郎が吐息をついた。彼の顔は蒼白で、大きなガーゼが痛々しかった。
達郎の頭からは、ある考えがこびりついて離れない。それにみんなにうまく伝えられるか自信がなかった。
「おまもりさまに行ってから、変なことばっかり起こるよな」
と彼は切り出した。実際には夏休みに入る前から、町の様子はおかしかった。集団下校が始まって、遠方の生徒のために送迎バスまで用意されていた(達郎たちはあぶれた口だ)。表で遊ぶ子どもたちの姿が、目立って減ったころでもある。なのに大人は肝腎なところで注意を払わなかった。いちばん顕著なのは、自分たちの親だった(変わらないのは紗英の親だけだったが、これは彼女の母が子育てについて、強烈な信念を持っていたからだと思われる)。これだけ外を出歩いて、寛太の家に泊まりこんでも、苦情らしい苦情を言ってこない。
達郎は、そんなことを思い出しながら話をした。
「俺はじいちゃんの言うとおり、おさそいのことは、幻なんだと思いたかった。でも、そうは思えないんだよな。溺死女とかなめ太郎とか、折れは馬鹿馬鹿しいって、そんなのいるはずない、こんなこと起こるはずないって思いこもうとしてたけど、俺達そんなことしちゃいけないんだよ」
達郎は一気にまくしたて、みんなのことを挑発するような目つきで見渡した。
紗英が言った。「でも、じいちゃんは幻覚だって言った。達郎ちゃんだって、なめ太郎のことばかにしたじゃん」
「それは謝るよ。正直言うと、俺はいまリトルの試合がいちばん大事だったんだよな。でも、コーチの打球をうけて、ほんとに危険なんじゃないかっておもいだした。わるいものって、俺達の頭がつくった幻覚なんかじゃなくって、ほんとにあるんじゃないかって俺は思うんだ」
達郎の顔は真っ赤になって、しゃべる声は甲高かった。見えないのに存在するものについて説明するのは難しかった。
達郎がおさそいについて認めるような発言をしたのは、これがはじめてだった。達郎の熱心な話しぶりにみんなは身を乗り出した。
「あんときの練習は監督がいなくてさ、藤尾って大学生のコーチが代理でノックをしてたんだ。最初は普通だった。ランニングもストレッチもいつもとおんなじにやったんだ。キャッチボールのときは人数がたんなくてコーチもまじってやった。そのときは普通だったんだ。でも、ノックがはじまって、コーチの様子が、おかしくなった」
達郎の顔は赤くなり、この告白を恥じているようなそぶりだった。
佳代子は達郎がもう黙ってしまうんじゃないかと思ったが、彼はやめなかった。
「そのことはリトルのみんなも認めてる。コーチのノックが俺に集中しはじめてさ。いやってほどきつくなって、なのに俺にもっと近寄れっていうんだよ。もっと、もっとだ。みんな目え丸くしてさ、コーチは俺に近寄れっていうだけじゃなくて、ののしるんだよ。俺はもうやばいって思ったけど、そのときにはもう遅くって……」
「ボールが当たったんだ……」
佳代子が言った。
「そのコーチ、俺知ってるぜ」
寛太が言うと、達郎はうなずいた。
「やさしいいい人だろ。きびしいけどさ。終わるとジュースおごってくれたりするし、面倒見がよくって、俺は好きなんだよな。だけど、あのときはコーチの顔がゆがんで見えてさ、コーチの顔がその……」
「わるいものみたいに見えた?」利菜が言った。
達郎はまたうなずき、
「そうなんだよ。俺おっかなくてさ。ボールが当たったのは、身がすくんだせいだ。ボールが来るのは見えたんだけど、脚が動かなくてさ。俺がぶっ倒れたら、コーチは元に戻って……」
唾を飲む。
「変な言い方だけどほんとなんだよな。鬼みたいに見えたのが、いつもの顔になって、慌てて飛んできたよ。俺のこと本気で心配してた」
「達郎ちゃんに怪我させたんだから当たり前だよ」佳代子が言った。
「コーチのこと悪くいうな。コーチのせいじゃないんだ。俺はこんなことみんなに言いたくないし、考えたくもないよ。でもな、もしかしたら、ほんとに危ないかもしんないだろ?」
「つまり、何が言いたいのよ」
紗英が不機嫌に言う。
「つまり知っといた方がいいってことだよ。みんな油断しちゃいけない。じいちゃんが言ってることは間違いだ。ほんとだけど間違いなんだ」
利菜が眉をとがらせ、「それってわけわかんないよ。間違いなのに、ほんとなわけ?」
「半分はほんとってことだよ。度胸があれば、わるいものをおっぱらえる。これはほんとだっただろ? でも、じいちゃんは俺達が見てるのを、ただの幻だって思ってる」間をおいて、「でも、俺はそうじゃないって思ってる」
「ボールが頭に当たったりするから、そんなこと考えんのよ」
紗英がつっけんどんに言った。
みんなの視線が集中して、彼女は赤ら顔を伏せてしまった。
達郎は大人びてうなずいた。
「あのノックではっきりしたのはほんとなんだ。おまもりさまに何があるかはわかんないけど、そいつは俺達になめ太郎を見せたり、コーチを操ったりしてるんだと思う。お化けだかなんだか知らないけど、おさそいってのがほんとにあって、そいつはだんだん強くなってる。と俺は思う」
達郎の口調は力強かった。
「松井が親父に殺されたのも、町を歩き回ってる殺人犯も、みんなおまもりさまが操ってるのかもしれない。みんなはどう思う?」
みんなは顔を見合わせた。そしたら新治がぽつりぽつりと話し始めた。図書館でなにがあったのかを。新治の心は、あのことを思い出すのをしぶったが、にいちゃんには逆らえない。正直に話したにいちゃんには。
新治は最後に、兄ちゃんの言うとおりだと思う、幻なんかじゃなくてほんとに危険だと思う、と言った。
新治の話が終わると、一同は黙りこんだ。佳代子と利菜は顔を見合わせ、昨日起こったことを話しはじめた。新治と別れたあと、利菜が母親を見つけに行きたいと言いはじめたこと、坪井という宗教家の家に行ったことを、包み隠さず正確に話した。
その家では階段や手すりが変化したし、壁の裂け目からは佳代子の母親があらわれた。あいつはあたしたちの心が読めるんだよ、佳代子はそう言った。それで一番いやなふうに姿を変えるんだ。
佳代子がそんなふうに言ったので、達郎は身震いしながらこう思った。あいつらは俺達のことを知りつくしてるんだ。
二人の話に、みんなは真剣な表情で聞きいっていたが、利菜がビニールボールを取り出すと、食い入るような目つきに変わった。達郎と寛太は信じられないと言いたげにボールに顔を近づけた。
達郎が、「なんだよ、それ。おまえ持って帰ってきたのかよ」
「ちがう、気が付いたら机の上にあったのよ。昨日の晩だけど……朝出かけるときはなかったのに」
みんなはビニールボールに目を落とした。佳代子が言った。
「あたし、それ捨てるとき一緒にいたから、知ってんだ。部屋にあるはずないんだよね」
「達郎ちゃんの言うとおりだよ。親がおかしいのは幻覚じゃないもん」
利菜が言うと、達郎はうなずきを返しながらこう言った。
「大人が言うみたいにさ、殺人犯はほんとにいるんだろうな。だけどそれだっておまもりさまと無関係とは言えないかもしれない」
「どういうことよ?」と紗英。
達郎は立ち上がった。彼は頭をがしがしとかいた。
「コーチを操ったみたいに、おまもりさまの力が犯人を動かしてるかもしれない。幻はあいつそのものじゃなくて、俺達の心が見せてるのかもしれないよな。だけど、おまもりさまの力が働いて、きっとそれが原因でみんながおかしくなってるんじゃないかな」
佳代子は不機嫌そうに口をとがらせた。彼女は達郎が言ったことを認めたくなかった。
「じゃあ、おまもりさまに何があるの? ダースベイダーみたいな悪役がいるっての?」
「そんな妖怪なんていないんじゃないかな……」
達郎は少しうつむいて沈思熟考しているようだった。
「俺はとってもそうは思えない。でも、満月の夜は人間が凶暴になるっていうだろ? あの山にある何かがみんなをおかしくさせてるんじゃないかって、俺はそう思うんだ」
みんなは満月の話は、テレビで見るか、雑誌で読むかしてそれぞれに知ってはいた。満月のもつある波長が、人を凶悪にさせるのだ。そんなとき、犯罪件数はうなぎ登りになる。
両神山には、おまもりさまという誰も近づかない場所まである。みんなはあの山にある何かについて真剣に考えはじめた。
「寛ちゃんは?」
佳代子が訊いた。
そう言えば、寛太はみんなが合流してから、一言も口を利いてない。
「そうだよ、寛太はなにもなかったのかよ?」
達郎も訊いた。
みんなの視線は、竹村寛太に集中した。むしろ寛太の身にも何か起こっていることを、期待しているかのような目つきだった。
そんな集中砲火を浴びても、寛太は青い顔をしてうつむいている。達郎は、寛太はもうしゃべんないのかな、と思ってそっぽをむいた。そりゃしゃべりたくないこともある。
すると、寛太が口を開いた。
「俺いたかもしんないんだよな……」
いたんだよな、と彼は言った。
なにが? という顔で、達郎は向き直る。寛太は一気にまくしたてた。
「俺、ほんとは松の木で泳ぐメンバーに入ってた。でも、あそこは発電所に近いから、行くのやだったんだよ。だから、断った。そしたら、英二のやつが、代わりに行くことになった」
寛太はあぐらをかいて足首をつかみ、その足首にうんと顔を近づけた。泣くのをこらえているみたいだった。
寛太が発電所に行きたがったのは、英二のことを確かめるためだった。英二が自分の身代わりになったみたいな、そんな罪悪感を感じていたのだ。
「お前のせいじゃないよ」
達郎はたまらくなって寛太の背を叩いた。寛太はだだっこみたいに首を振った。それも激しく。彼の顔から、鼻水と涙が垂れて、左右に散った。寛太に元気がないのも無理からぬことだった。
みんなの目にも涙が浮かんだ。達郎だけが考え深げな顔をしている。
「達郎ちゃん、あたしたちどうすればいい?」
佳代子が涙をぬぐって訊いた。彼女は手の甲についた涙を、じっと見つめた。
「図書館に行って山について調べてみないか」
と達郎は提案した。彼は新治に目をやった。
「青葉図書館じゃなくてさくら図書館に行こう。すぐ近くだし。あそこの方が古い本とか、神保町のことが書いてある本がたくさんあるはずだ」
達郎は寛太の肘に手を回して彼を立たせた。みんなも立った。
彼らは校門の外に置いた自転車のところまで歩いていった。
殺人事件が起こり始めてからこちら、校庭での遊びは禁じられていた。学校には当直の先生がいて、六人の姿も目にしていた。だけど、なにも言わなかった。注意もなかった。そのことに彼らは気づいていない。おまもりさまの血が誰にも見えなかったみたいに、町の人たちは彼らに関心をはらわなくなっていた。
後年佳代子は、家の土間に倒れ、薄れゆく意識のなかでこう考えた。あのときは、六人の存在が町から消えつつあるみたいだったな、と。
校庭を出るとき、最後に紗英がこう訊いた。
「あたしたち、もうにげられないの?」
みんなは互いの顔を、盗み見るみたいに目を見交わした。
達郎はじっと前を見た。佳代子も利菜もうつむいて、靴をいじくりはじめた。
それについては、誰もこたえようとはしなかった。
七
さくら図書館は神保南幼稚園のほど近くにある。
六人はそこで山にかんする記述を探しはじめたが、はじめてすぐに、こんなやり方では一日たっても終わらないことに気がついた。そこで片端から調べるのをやめ、両神山について書いてありそうな本だけを棚から抜き出し、机の上に山積みにしていった。本がひとりでにめくれたり、外の低木が窓をふさいだり、廊下を走ってきた誰かが扉をしめたり(座敷わらしだと紗英は思った)、妨害は様々あったが、それぞれに仕事をこなした。だけど、おさそいに関する記述はどこにもなかった。達郎は、あの山はずっと昔からあそこにあったのに、誰もこのことに気づかなかったんだろうかと思った。犯罪が多発する現象は、突然始まったのか?
両神山には、昔山村があり、山の中には神社もあったということだけはわかった。だが、それがおさそいとどう関係があるのかまではわからなかった。みんなは近くのコンビニで食料を買いこみ、昼を過ぎても食べながら調べた。
そのうち達郎が本を置いた。彼は黙って窓の外に目をやった。外では昔裏庭と呼ばれた場所で、子供たちがドッジボールをやっていた(ちなみに表の校庭は、半分は町に買いとられて道路になり、もう半分は図書館の駐車場になっている)。みんなは黙って達郎を見つめた。もう三時になっていた。
「もう帰ろう」
達郎は不機嫌な声で言った。
「調べないの」
佳代子が訊いた。
「調べてもわかるわけないよ」
「じゃあ、どうすんのよ?」
佳代子が訊いた。達郎は振り向いた。憔悴した表情だった。そういえば、みんなちゃんと睡眠をとれなくて、目の下にくまを作っている。
おまもりさまでなめ太郎を見てから、四日がたっていた。その間、まともだった日は一日たりともない。それぞれに恐ろしい体験をし、幻覚も見続けていた。
「みんなこのまま我慢できるか?」と訊く。「今のままだと、いつまでたってもおさそいは終わらないかもしれない」
「だから、どうするつもりなのよ」
佳代子が不機嫌に口をとがらせた。達郎は不機嫌そうに腰に手を当てる。わかってるくせに、と言いたげな表情だった。
「俺達もう一度山に戻るべきだよ。おまもりさまに何があるかわかんない。けど、そいつは俺達に戻ることを望んでると思うもんな」
「そんなの……」と佳代子は絶句した。「危ないに決まってるじゃん。あたしたちの人生まで終わっちゃうかもしんないんだよ。ひでゆきって子や、英二君みたいに殺されるかもしんない」
「英二はまだ死んでない。それにおれはじいちゃんについてきてもらえばいいと思う」
達郎は言った。寛太郎が一緒と聞いて、みんなの顔つきが変わった。話は急に現実味を帯びはじめた。
紗英の泣き声がそんな妄想をうち破った。
「でも、なんで戻んなきゃいけないの? すっごく怖いよ。殺人犯がいたらどうする? あんときだってさ、蔓草の向こうで国村さんほんとに死にかけてたのかも」
みんなはびっくりして彼女を見た。誰もそんなふうには考えてこなかったのだ。
佳代子が言った。真剣な決意めいた表情だった。
「でも、あたしは行きたいと思うんだよね……母さんのこともあるしさ。これ以上あんな目にはあいたくない。あんな母さん、たとえ本物じゃなくても見たくないよ。あたしの妄想だとしたらさ、妄想が現実になったもんだとしたら、なおさら悪いよ。あたし、母さんのこと、あんなふうに見てるの?」
誰も答えることができなかった。
「なおさら悪いよ……」
と佳代子は言い終えた。
次に口を利いたのは利菜だった。図書室の机はその場所柄もあって、急速に会議室の様相を呈しはじめた。
「うちも、母さんがいなくなったじゃん。それっておまもりさまのせいかもしんない。父さんの様子もあんなだしさ。元に戻ってくれるんなら、なんでもしたい」
新治も同じ気持ちだった。寛太も、(罪悪感から)戻るべきなんだろうなと言った。英二が戻ってくるんなら、なんでもしたかった。その意味では、瀬田英二はおまもりさまに取られた人質のようなものだった。
「今日は寛太の家に泊まろう」と達郎は言った。「そんでじいちゃんについてきてくれって頼むんだ。明日は両神山に行く」
そして利菜に視線をあてがった。彼女は机の上でビニールボールをもて遊んでいる。みんなの視線が彼女の手元に集中する。利菜はそれに気づいてボールをしまった。
「まずはじいちゃんに頼みに行こう」
達郎は机の上に散らばった本を片づけはじめた。みんなもそれにならった。彼らが外に出るころには、時刻は三時をまわり、分厚い雲が目立ちはじめている。天候は怪しくなっていた。
彼らがさくら図書館を後にするころ、両神山ではすでに雨が降っていた。その雨粒は、瀬田英二の遺体を、洗っていたのだ。
八
「じいちゃんがいないっ?」
寛太の声が、家の土間に響いていった。一同は寛太の家に戻っていた。寛太はばあちゃんと話していた。じいちゃんに両神山に着いてきてくれるよう頼もうと、寛太の家に集合したのに、肝腎の寛太郎が出かけていないという。
「なんでいないんだよ。どこ行ったんだよ」
「同窓会で、隣町に行くというとった」
「同窓会?」
みんなは顔を見合わせた。寛太郎みたいなじいさんでも、同級生が集まったりするのだろうかと、疑問を持ったのだ。
達郎は、普通はもっと早くからはがきか何かで知らせるはずだと考えた。利菜はいなくなった母親のことを、紗英は溺死女のことを思い出し怖くなった。そりゃあ、じいちゃんは直接おさそいを追い払ってくれたりはしない。そんなことはできない(見えないんだから)。でも子どもたちにとって、寛太郎は心理的な防波堤のようなものだった。
みんなはいっせいにうろたえた。泥棒が隣にいるのがわかって、戸締まりをしようとするのに、肝腎の鍵がないようなものだった。しかも、この泥棒は、鍵がないのを知っている……。そんな気分だった。
寛太はこの家にわるいものが制限なしに踏みこんでくるような気がして、さすがにおっかなくなった。
「いつもどるんだよっ?」
ばあちゃんにつめよりなじる寛太を、達郎が止めた。
「やめろよ。隣町に行ったんなら、明日には戻ってくるだろ」
「でも……」
「あたしたち急いで行きたいわけじゃないし、あたしは待ってもいい」
と佳代子は言った。今日一日ばかり我慢すれば、じいちゃんは戻ってくると思ったのだ。みんなは同じ気持ちだった。寛太も引き下がることになった。
だが、夜になっても寛太郎が戻ってくる気配はなかった。連絡もなければ行き先もわからない。風呂にはいり、浴衣に着替えるころになると、達郎もおかしいと思い始めた。寛太はやきもきしっぱなしだ。
竹村家には男親がいないから、寛太郎は出かけるときは行き先と連絡先をかならず残していくし、出先で帰れないときは電話をかけてくる。寛太は腹をたてたり、心配したりで忙しかった。
六時を過ぎると、寛太家の周辺でも雨が降り始めた。寛太も達郎もいらだっていた。両神山に行く行かないよりも、寛太郎までいなくなったことに不安を覚えた。
食事が終わった。テレビはつまらなかった。バラエティをみても誰も笑わない。八人も人がいて、話し声がつづかない。
利菜と佳代子がトランプをはじめたが、カードをきって配る最中に、どちらもやめようと言い出す始末。男の子たちは蹴ったり叩いたりしてふざけていたが、それよりもじっと押し黙っていることの方が多かった。
屋根をうつ雨音が、いやに高く響いてくる。雨音が子どもたちを、屋内に閉じこめているようだ。
その大雨は、わるいものの挨拶のようでもあった。今からそこへ行くぞと。黒雲とともに舞いこんできそうだった。おさそいは時と場所を選ばない。これはほんとだ。
一同は早めに就寝することにした。いつものように蚊帳を吊ると、布団をひいて横並びとなった。
雨はやまなかった。
今日は大変だったなあ。
達郎が布団のなかでぼんやりとつぶやいたが、その今日というのは、まだ終わったわけではなかったのだ。
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九
利菜が物音で目を覚ましたとき、家の中は真っ暗だった。彼女は布団の下で体を硬直させている。外の嵐はおさまっていない。雨と風の音が、部屋の中までとどろいた。
雨戸がガタガタ鳴っている。利菜はじっと息を潜ませながら、さっき聞いた物音はまちがいかな、と思った。耳をすます。みんなのいびき声がしたし、すこやかな吐息もした。だけど、かりかりという音はまだ聞こえた。一人ごとも、ずっとつづいた。二つの音は夢まで届いて、彼女の目を覚まさせたのだ。
闇夜に目が慣れると、四角い蚊帳の天井がようやっと見えた。利菜は落ち着きを取り戻して友達を確認した。利菜の左には紗英と佳代子がいる。右隣には新治と達郎。佳代子がはじっこはいやだというので、寛太は佳代子の隣にいる。
利菜は掛け布団の下でじっとしたまま、誰かの独り言を(少なくとも友達の寝言ではなかった。声は床下から聞こえたから)聞きながら、これがまだ夢なのかを考えた。
雨戸が烈しく鳴り、彼女は身を震わせる。
ピシャア!
ふすまの閉まる音がした。利菜は布団の中で、魚みたいに身をひるがえした。俯せになり、恐る恐る上を見ると、寛太の部屋の戸がかすかに揺れて閉まっていた。
閉まった――ということは、
開いてたっけ?
閉じていた気がする。眠るときは閉じていた気がする。寛ちゃんが夜中に起きて、開けたんだろうか?
じゃあ、いまは誰が閉めたんだろう?
利菜は眠っている人数を数えはじめた(増えていたらどうしようかと思い身震いする)。自分を含めて六人。寛太の親は別の部屋に寝ている。この部屋にいるのは子どもたちばかりだ。
そうっと身を起こし、蚊帳の外まで視線を飛ばす。部屋のとなりはテレビのある居間、その反対は廊下で、雨戸にまでつづいている。雨戸が開きはしないかと思うと恐ろしい。布団の中で手をつく。今日はみんな寝相が悪い、夢のなかで苦しんでるみたいだ。ばあちゃんが部屋に入ったんだろうか……?
なんのために?
いつもの蚊帳が、檻のように見えだす。襖はじっとしているが、気配がある。寛太の部屋に誰かいる……と彼女は信じた。
「佳代子……」
利菜は紗英の体を越して、佳代子の体をゆすった。佳代子は恐がりだけど、いちばん頼りになるのは彼女だった。
「佳代子、起きてよ」
佳代子はびくっと身を震わせ目を覚ましたが、しばらくなにも答えず身動きすらしなかった。そのとき佳代子は隣に寝ているのがなめ太郎だと信じていたのだが、やがてここが寛太の家で、今自分を揺すったのが利菜だということに気が付くと、猛然と腹を立てた。トイレについてきてと言うつもりなら、絞め殺してやろうとさえ思った。
佳代子は身を起こし、
「なにっ?」
と利菜を睨みつけた。雨戸がごとごと鳴って、二人は布団をそっと引きつける。風かな? と利菜は疑った。ほんとに風なのかな?
佳代子が蚊帳の向こうでささやいた。
「なんなのよ? まだ夜でしょ」
「床の下から音がすんのよ。それにさっきはふすまが閉まった」
佳代子は畳を見た。襖も見た。そして、「勘違いじゃないの?」と彼女は訊いた。だけど、鼻で笑ったりはしなかった。佳代子はより緊張したのだった。
利菜はみんなを見てた。「どうしよう?」
「開けよう」
佳代子は蚊帳の端をそうっと押し上げ、四つんばいのまま外にでた。利菜もつづいた。蚊帳の外では、電池式の蚊取り線香が、赤い発光灯をつけている。
佳代子は畳に耳を近づけて、「ほんとだ、かりかり音がする」
利菜は佳代子の肩をつかんだ。「みんなを起こそうよ」
「だめだよ、騒いだらばあちゃんたちが起きてくる」と佳代子は言った。
利菜はそれが重大事であるかのようにうなずいた。
寛太郎の言葉を思い出す――怖いときに怖がるだけの奴はしみったれだ。
利菜はじいちゃんに怖がっていると思われるのはいやだった。寛太郎は常に誇り高い人間だ。そのことを寛太やみんなにも要求している節がある。利菜は子供ながらにその期待に応えたかった。佳代子も同じ気持ちらしかった。
佳代子が、
「襖は一人でに閉まったりしない。あたしたちは怖がったりしない」
「しない」
と利菜はうなずいた。
佳代子が襖に手をかけ、素早く言った。
「反対側から開けてよ。一緒に開けるんだよ」
二人は左右から襖を同時に引いた。おばさんが桟に石けんを塗っていたから、襖は思ったよりもいきおいよく開いた。
佳代子が尻餅をついた。利菜はうめくような吐息をもらす。「ひゃああああ……」
部屋の中には、服がぶら下がっていた。両神山に着ていった服、神社に埋めたはずのはずの服だった。寛太郎はこどもたちが安心するようにと、一緒に神社の裏山に埋めてくれたのである。それも単にぶら下がっているだけじゃない、服は新たな血にまみれ、びしょ濡れになっている。古い血はえび茶色になり、泥も付いていた。掘り出してきたみたいに……。
佳代子が、持ち場の襖をそうっと閉めた。利菜も閉めた。
「ありえない、ありえないよ」佳代子がつぶやくように早口で、「いたずらだったらいいのに、寛ちゃんのいたずらだったいいのに」
「それこそありえないよ、あの服、神社に埋めたんだもん。掘り出すなんてむりじゃん。寛ちゃんも怖がってたし」
利菜は襖までお化けになったというような顔つきで戸を見上げる。「それに床も汚れてた。自分の部屋なのに、そんないたずらしっこないよ」
佳代子は、揺れるような目つきで、利菜を見、
「あの服、雨で濡れてたのかな?」
「ちがうと思う」
その証拠に臭いがする。燃え立つような、血の臭いが。
何かが天井裏を駆け抜け、二人は悲鳴を上げて飛び上がる。その音で達郎が起きた。彼は布団が空っぽになっているのに気が付いた。
「利菜」と新治の体をこして、二人が寝ていたはずの布団をなでた。「佳代子」
「ここだよ」
背中に声をかけられ、達郎は身を反りかえらせる。
「おどかすな、ぎっくり腰になるじゃんかよ」
達郎は肚がたったのと、ほっと安心したのとでおどけて言ったが、二人はまったく笑わず手をにぎり合っている。
達郎の下敷きになった新治が、
「なんだよにいちゃん?」
枕元の眼鏡をつかむ、彼は冷たい寝汗をかいたせいで、寝間着がぐっしょりと濡れている。
「こっちに来てよ」
佳代子が静かな声で言う。自分たちが起きているのがばれるのを、こわがっているみたいな声色だ。
兄弟は無言で顔を見合わせる。何があったのかは考えたくもなかった。
「開ける気?」利菜が佳代子に訊いた。「また開ける気?」
「そうよ」
「冗談、あんなのもう見たくもないよ。気いついてんでしょ、臭いもすんじゃん」
「臭い?」
達郎が蚊帳からはい出てくる。懐かしい血の匂いが嗅覚をみたす。彼は部屋へとつづく襖を見た。いつもの扉が邪悪に見える。
「何があるんだよ? 開けたのか?」
達郎が二人のそばへ行った。彼はまだ子どもだが、中学生ぐらいには大きい。利菜はわずかに安堵する。佳代子が答えた。
「服があった」
ひっと息を呑む音がし、三人は飛び上がった。振り向くと、新治が手で口を押さえている。
新治はすまなそうな顔をし、視線をそらした。
達郎が、「神社に埋めたのにか?」
「なめ太郎だよ」
新治が布団をひきよせ、震えながらくるまる。
達郎はそれを見て迷った顔をし、「新治はそこで待ってろ」と弟に言った。彼は襖に顔を近づけた。襖の向こうになめ太郎がいて、開けると黄色い目玉が向こうから覗いて、いなごみたいに素早い腕が首をつかむにちがいない、と思いながら扉に手をかけた。
襖が五センチ開いた……むせかえるほどの血の臭いが、隣の部屋から返ってきた。達郎は震えた。寛太の部屋は仏間を兼用しているから、部屋には仏壇があり位牌が祀ってある。床の間にはへんてこな絵の描かれた巻物が垂れ下がっている。その上にはご先祖さまの写真が飾ってある。そのうちの若々しい写真は寛太郎の兄弟のもので、先の戦争で死んだ人だという。達郎はいつも、気味が悪いな、と思っていたが、今はそんなもの目に入らなかった。
利菜と佳代子の目にもあの服が見えた。達郎の体がじゃまをして、新治には見えなかったみたいだ。
達郎は唾をのんだ。襖を閉めた。今見たものを考えた。寛太は部屋の天井にロープをわたして、そこにプラモデルや野球のペナントを吊っている。服はそのロープにかかっていた。達郎は服をとめている洗濯ばさみもしかと見た。確かに血糊で真っ赤だった。
「どうしよう?」
佳代子が訊いた。ばあちゃんと寛太の母親は隣の部屋で寝ている。佳代子はそれを起こそうかと言っている。
達郎は服が独りでに戻ってくるなんて、その目で見ても信じることができなかった。自分が見た物を確かめたくてこう言った。「電気をつけよう」
佳代子がすばやく立ってスイッチを入れた。利菜が言った。「すっごい血の匂いがするよ……あの服、ぐしょぬれで、真っ黒みたいに見えたもん」
すると達郎は怒って振り向き、
「このかりかり言う音はなんだ」
みんなは大きな声だったから、ばあちゃんたちに聞こえなかったか心配をした。かりかり言う音は四人がひそひそ話す間も、ずっとやまずに続いていたのである。
寛太も紗英も起きてきた。二人は寝ている間にすっかり事情をのみこんだようで(夢も現実もおんなじぐらいに悪かった)、恐怖に目を見開いている。
「おばちゃんを起こさないの?」
利菜が訊いた。
「だめだ。だって、二人には見えないんだぞ」
と達郎は答えた、他人に――大人に見えないこと自体が今では怖かった。
「寛太、お前の部屋に服がぶらさがってるぞ」
寛太の顔がみるみる青ざめる。みんなの顔も。
「神社に埋めたやつか?」
「そうだ」
「埋めたのに戻ってきたのか?」
「そうだ」
「なによ、この臭い?」
紗英が両手で口をおおう。達郎が扉を開けたことで、血の臭いはますますきつくなっている。寛太と紗英も蚊帳から出てきた。
新治が達郎の側に来る。
「見ない方がいいぞ」
と達郎は弟に言った。
「見る。見ないよりいい」
と新治は兄に言った。
寛太が率先して襖を開けた。寝床の明かりが部屋へと伸びた。おかげで恐怖心は減ったのだが、血も服も減っていなかった。びしょぬれの服はそこにあり、さきほどよりもよく見えた。
服は雨のかわりに血をあびたらしく、裾からぽつぽつと滴り、畳に血溜まりをつくっている。
「最悪だよ」寛太は言った。「最悪だよ。見ろよ、畳までぐっしょりだ。どうすんだ? これ、どうすんだよ?」
これには達郎たちも同情をした。寛太はこれからもあの部屋で生活をしなければならないのだ。
「もちこんだの俺じゃないぞ」
寛太が涙目で達郎を見上げた。
「わかってる」
寛太は額を手で押さえ、精一杯気丈な声で言った。「手伝ってくれよ。あの服外に出さないと」
佳代子が言った。
「血も拭かないと。早く拭かないと取れなくなるよ」
「あれにさわるの」紗英が言う。「吐くよ。まちがいなく」彼女はもうえずいている。
全員が泣き出しそうになっていた。女の子たちはすでに泣いていた。こらえようとしていたが、こらえきれていなかった。新治はショックでみじろぎもしない。寛太は畳が畳がと、おろおろしている。パニックの波がみんなを包んで、収拾が着かなくなり始めた。
達郎は思った。じいちゃんに見つかる前になんとかしないと。別に悪いことをしたわけじゃない。いたずらや悪さをしたわけじゃない。達郎のせいでも誰かのせいでもなかった。だけど、彼は怖かった。達郎はいつも弟たちのめんどうをみるようしつけられていたから、みんながこんな目にあっているのは自分の責任だと感じたのだ。
「お、落ちついてくれよ」彼は寛太をつかまえた。「おまえ、かごをもってこい。服を入れるから。新聞紙とティッシュ……それにぞうきんもだ」
寛太が隣の部屋に駆けこんだ。
紗英が、
「おばちゃんを起こそうよ」
と言ったが、誰も耳を貸そうとしない。これだけ物音をたてたのに、起き出さないこと自体が不思議だ。
誰も言うことを聞いてくれはないとわかると、紗英はティッシュを探しにいった。達郎と新治は、物に血がつかないよう、部屋に散らばっている物を片づけ始める。
「わたし、火箸をとってくる」佳代子が言った。「利菜、ついてきてよ」
佳代子が部屋を出ていこうとする。利菜は慌てて続いた。
二人は寝床から土間につづく戸を開けた。障子戸の外には、土間に降りるための段差が一段あった。そこに足をおろすと、寛太家の広い土間が見渡せる。居間からは寛太がつけた電灯の明かりが落ちている。その先では、真っ暗闇が、ずうっと奥まで続いている。
二人はすっかり怖じ気づいた。利菜が電灯のスイッチをおす、かちかちという音がつづくばかりで、反応しなかった。
「やっぱりだよ。こんなこったろうと思ったんだ……」
佳代子は小声で、「誰かいる……?」と訊いた。
「そんなこと訊かないでよ」
利菜は小声で言い返した。いったい誰に訊いてるのかと、疑いたくもなる。
土間は暗く何も見えないが、誰かがいるとは考えたくもない。懐中電灯が欲しいと思ったが、同時に暗がりを照らしたくなかった。明るくなったところに、誰かが(つまりなめ太郎が)うずくまっていたら、どうしようかと思ったのだ。
佳代子は利菜の手をまだ握っている。手首に跡が残るくらい強く。彼女はその手を引きながらこう言った。
「い、行こう」
「行くの?」と利菜。
「あの服、素手でつかむ気?」佳代子は訊いた。「それも怖いよ……」
突っかけの上に飛び降り足を通した。二人は履き物のイボイボにさえぞうっとなった。
「火箸は?」
佳代子が訊いた。二人は風呂場の方を見た。風呂場は土間の奥手にある。火箸はその煙突を支えるわっか型の金具に引っかけられている。その方向は、ちょうど台所の出っ張りの陰になっていて、もっとも暗かった。
二人はぞうりをひきずるようにして煙突に近づいていく。風呂場は台所の半分ほどの広さしかない。そのぶん奥まっている。利菜は佳代子の腕にしがみついた。居間から明かりは落ちているけど、目の届かない場所がいっぱいあった。心臓がどくどくと鳴っている。感覚が鋭敏になり、わずかな物音にも飛び上がる。
佳代子はまず台所に近づいた。角っこまで行き、背中を壁に押し当てた。腕だけを煙突の方に伸ばしていった。佳代子の手は煙突を、二度、三度と叩いた。寛太郎は、子供たちがとりやすい位置に、火箸をつっていた。佳代子が金具にそって指をすべらすと、火箸にふれた。
佳代子はうめきをもらしながら火箸をさぐった。だが、壁に背を貼り付けた体勢ではうまくつかむことができなかった。佳代子はしばらくもどかしさと奮闘した後、利菜に向かって、
「とりにくい」と怒ったように言った。「とれないよ。だってつかめないんだもん」
利菜は、その体勢じゃ無理だよと言いたかったが、煙突側に回って取れなんて言えない。あんたがやれ、と言われるのが怖かった。
佳代子は、利菜の気持ちを察したのか、「二人で行くからね」と切りつけるように言った。利菜はうなずいた。
二人は寛太郎に教わった腹式呼吸をやった。三度くりかえすと、少しだが気分が落ち着いた。壁際を離れると、風呂場側に回りこんだ。
「なんだ、なにもいないよ」
佳代子が安堵の口調で言った。煙突の辺りには暗がりが広がるばかりで、その闇はじっとしている。何かがうごめく物音もしなかった。
利菜がささやく。「早く取って戻ろう」
「わかってるよ」
佳代子を先頭に煙突に近づく。
風呂場には土間からしか入れない。色ガラスの引き戸がついていた。彼女たちが煙突に近づくと、その戸がキイィ……、と開いた。二人は悲鳴すらも凍り付かせて、縮み上がった。
五右衛門風呂はかまどの上に乗っている。だから、風呂の入り口は高い。二人はぽっかりとあいた、四角い空間を見つめる。
奥に据え付けられた洗濯機の白い肌……その高い踏み段の上に、真っ白な手が伸び、ひらひらした。手には濡れた長い髪がおちかかる。佳代子は口を開けて固まった、悲鳴を上げようとしたのだが、息すらも出てこなかった。彼女は息を出そうと腰を折り曲げじたばたした。
行動を起こしたのは利菜だった。彼女は素早く火箸をひっつかむと、佳代子の腕をひっぱった。ぞうりを蹴立てて逃げた。土間を通りぬけようとすると、居間の障子戸がぴいっと開く。痩せた女が、濡れた着物を垂らして立っている。二人は頬骨をぶつけあいながら抱き合って飛び上がり、寝床に戻ろうと壁際まで遠ざかったあげくにはしご段にぶつかり、そのはしごは屋根裏の物置にのぼるためのものだが、その屋根裏でもかさかさとなにかが駆けずる音がおちてくる、彼女らは夢中で部屋に上がった。履いていたつっかけを脱ぎ飛ばし、蚊帳に潜りこみ、そこを通り抜けようとすると、隣の部屋から、タタタッ、と何かが駆けてくる音がした。
二人は夢中で蚊帳をくぐり抜けると、寛太の部屋にもどった。
みんなはしばらく呆気にとられ、無言で二人を見つめていた。四人は軍手をはめて、それは子供の手にはなんとも不釣り合いで、利菜は軍手の白と血の赤の対比のせいか、みんなのことも怖かった。彼女はごくりと唾を飲む。佳代子がそうっと扉を閉めた。
「何かあったのか?」
達郎がこわごわ訊いた。利菜は説明しようとしたが、言葉が出てこなかった。喉が渇いて貼りついた感じがする。
佳代子はなんでもないと答えた。みんなに打ち明けるよりは、その方がずっとよかった。
畳みの血だまりには、すでに新聞紙とティッシュがばらまかれていた。どれも血を吸って、重赤くなっている。利菜は火箸でティッシュをつまんだ。紗英がゴミ袋を広げる、そこに放りこんでいった。
佳代子はチラチラと襖を見ている。利菜だってさっきの女が気になる。着物を着て濡れそぼってるなんて、幽霊女の定番みたいなやつだ。でも、彼女はつとめて気にしないようにした。あんなの幻だ、幻。
利菜は呼吸を深くして、胸をくつろげようとしてみたが、喉の栓を閉められたみたいに、うまくいかない。襖の外に、さっきの女が立っているんじゃないかと思うと、気が気ではなかったからだ。
みんなはティッシュをばらまき、新聞紙を広げる作業を続けた。何度か繰り返すと、床の血だまりは薄くなった。女の子たちはしゃがみこむと、雑巾で畳の隙間に入りこんだ血をふきとりだした。
寛太が椅子にのぼった。達郎が籠をさしだす。寛太は背伸びをして、洗濯ばさみを外していった。服が落ち、それを達郎が籠で受け止める。
しばらくして、利菜はパジャマをこした素足を、ひやひやと風がなでるのに気がついた。彼女はおそるおそる振り向く。喉のポンプがあやまって作動したみたいに、気管が詰まった――襖が、あいていた。彼女の視線はも寝床の蚊帳を通り越して、一気に土間まで飛んだ。
玄関の戸も、開いてる……。
土間に続く障子戸は、開け放したままだ。佳代子も自分も閉めてはいない。だけど、その外にある玄関の扉が、今では開いていた。嵐の音は、さきほどよりも強くなっている。土間になだれこむ雨が見えた。
利菜は、詰めていた息をようやっと吐いた。
玄関の戸があいてるんなら、じゃあ誰が入って来たんだろ……
それとも、出て行ったのか?
彼女は出ていってくれた方がいいと思った。さっきの女が出ていってくれたんならいいのに。
「戸が開いてるよ……」
声をかけると、女の子たちは顔を上げ、男の子たちは振り向いた。みんなぎょっとした表情をしている。
誰かの口から蚊の鳴くような悲鳴が漏れた。
「お、お前ら玄関も開けたのかよ」
達郎が言った。利菜と佳代子は首を振った。それどころか、寝床につづく襖が、いつ開いたかもわからなかったのだ。
「くそ、ちくしょう」
寛太は手が血まみれになるのもかまわず、服を外していく。みんなは表をじっと見つめる。まるで、なにか入ってくるものがいないか、見張っているみたいに。
服を集め終わり、軍手もかごに放りこんだ。みんなは無言で互いを見合った。
「服を外に出さないと……」寛太が言った。
「ああ……」
と達郎が答えた。外から響く風の音は、人の悲鳴のようだ。
みんなは駆け足で土間に向かった。達郎が踏み段に足をおろす、冷たい空気が足を叩いた。玄関は大開きにあいている。
達郎は素足のまま土間におりると、式台の下にかごをおいた。
寛太家の庭には、安っぽい外灯がひとつある。その明かりがついている。みんなの目に、雨に濡れた畑がうつった。利菜は佳代子と視線をかわした。二人とも玄関の扉は開けていなかった。
「じゃあ誰が開けたのよ」佳代子が訊いた。
「両神山からついてきたんだと思うか?」
達郎が振り向きもせず言った。利菜はぎゅっと唇をかんだ。佳代子はこらえきれなくなって後ろを向いた。寛太の手は血まみれで、新聞紙で血をぬぐっている。
「わかんねえよ、そんなこと」
寛太は新聞紙を投げた。血で黒くなった紙の固まりが、居間から落ちる光の中を、ころころと転がった。
「確かめるか?」達郎が訊いた。
「なにをよ」
佳代子がわめき返した。でも、達郎が何を確かめたいのかはわかってる。神社にうめた服を、ここまで持ってきた奴の正体だ。最悪なのは、みんながすでに答えをもっていることだった。両神山に着ていった服を持ってきたのは、両神山にいたあいつに決まってる。
「軒下にいるに決まってるよ」新治が言った。「にいちゃんも言ったじゃんか。このかりかりいう音はなんだって」
彼はその瞬間なめ太郎につかまれた足のことを思い出したのだ。新治は怪我をしていたから、その感覚はよりいっそうなまめかしく蘇った。
「あいつ、床板をはがそうとしてるんだ。それで、僕らを一人ずつ連れさるんだ」
「待てよ。音はしたけど、猫かもしれないだろ?」
「でも、わたしもそう思ったよ」利菜が言った。「そんなふうに考えんのやだけどさ。そう思うんだもん。佳代ちゃんはどう思った?」
「思いたくもなかったよ。あいつ、両神山からついてきたの? なんのために?」
「僕たちを捕まえるためだ」と新治が絶望的な声で言う。
「ちがう。そんなはずない」達郎が言った。「新治、おまえの言ってるのは、先生の話そのまんま……」
そのとき、庭の暗闇を左から右へと陰が走った。
新治は言った。「もういやだよ。あんなのに足首つかまれたり、怪我したり、怖い夢みたり、もううんざりだよ」
みんなは表を見ている。開いた、玄関の方を。
達郎が振り向いた。
「お、落ち着けよ……」
「落ちつけって、どうやんのよ。達郎ちゃん説明つくの。服が一人でに戻ってきたりさ、血まみれになってたりさ、そんなことの説明が付くってのっ?」佳代子の声はヒステリーを起こしたときみたいに大きくなった。「そんでその血がじいちゃんには見えないかもしんないんだよ!」
みんなは佳代子の怒声に固くなった。利菜にはその瞬間の佳代子が、怒ったときの登美子に見えた。そんなことを口に出したら、佳代子にはぶったたかれるだろうけど。佳代子は他人に暴力をふるうのを極端にこわがってもいる。利菜が手を伸ばすと、佳代子はがっくりとうなだれて、その手を握り返した。
利菜は達郎に向かって言った。
「あたしたち、風呂場んとこで女のお化けを見たのよ。濡れてて、着物きてた」
利菜が言うと佳代子も、
「あれって紗英が見た奴でしょ。溺死女だよ……」
と言った。そのお化けのことならみんな知っていた。神保南小学校では、写生大会を水力発電で行うから、その怪談はなかば伝統のようになっている。
「うそでしょ……」
紗英が訊くと、利菜と佳代子は首をふって否定する。
達郎はすばやく扉によった。勢いよく閉めようとしたのだが、そのとき玄関の向こうから手が伸びて、扉の縁をかっと押さえた。達郎は、たたらを踏んであとずさった。みんなには血まみれの指だけが見えた。
しばらく一同は無言だった。
寛太は、たいへんだ英二が怒って戻ってきた、と思った。死ぬとなめ太郎の子分にされるんだ。
指は、扉をひたひたと叩き、リズムを取った。
達郎が動くと、指は止まった。
「動かない方がいいよ」
利菜が震え声で言った。
指がまた動きはじめた。童謡が一同の頭に響いて、気が狂いそうになる。
達郎は寛太と目を合わせた。二人は寛太郎の言った言葉を思い出した。おっかないのをやっつけるぐらいの気持ちがあれば大丈夫、という言葉を。寛太郎の言ったことは根拠がない。だけど、幽霊をやっつけられないかというと、答えはノーだった。体はむりでも、精神の力でなら、やれるんじゃないか。
寛太はなめ太郎に石をぶつけたから、そのことを体で学んで知っていた。それに相手は子どもだ。少なくとも大人のモンスターじゃない。
達郎が身を翻し、ファインプレーみたいなしなやかな動きで、ほうきを取った。寛太が土間に飛び降り、壁の懐中電灯をとった。
「あいつをやっつけろ」
達郎が震える声で叫んだ。
佳代子も利菜も土間に飛び降りた、紗英も。新治は迷ったが、それでもみんなの後に続いた。
達郎は箒を振りかぶると、夢中で手を打ち据えた。男の子が顔を出した。達郎は目を疑った、思わずごめんよと誤りそうになった。男の子は血まみれどころじゃない。ほんとに腐っている。おまけに怒っていた。歯をむき出して、雄叫びを上げた。達郎は一番前にいたから、口の奧にある金歯が見えた。彼はひるんだ。
寛太が懐中電灯のスイッチをいれ、モンスターの顔を光で照らした。そいつは顔を押さえて、悲鳴を上げる。彼が苦悶に踊ると、血と腐った肉が飛び散る。土間とガラスにべちゃりと貼りつく。そいつは踊りながら庭に出た、みんなの耳に、濡れた土を踏むビチャビチャという音がした。男の子の体は、はがれるか食われるかしたようで、脛の骨はむき出しだ。
みんなの心におじけがさす。
彼らは達郎を先頭に、外へと踏み出した。
外では風と雨が舞っている。落ち葉が庭を満たしている。鶏たちが騒ぎ、子どもたちは、雨に濡れるのもかまわず、立ちつくした。
寛太の光は男の子の影をおったが形もなかった。
寛太は電灯を振り回す。光りのなかを雨は白い筋をつけて落ちてくる。トイレを見た。屋根を探した。電灯の光はサーチライトのように旋回する、最後に畑と庭のあいだにある、どでかい蒲焼きみたいな稲木を照らした。寛太はあっと声を上げた。
なめ太郎は稲木の天辺にいた。相撲の蹲踞にも似た姿勢で座りこんでいる。長い髪がびしゃびしゃに濡れている。上半身にパジャマを着て。そのパジャマの隙間からは、妊婦のようにふくれあがった腹がのぞく。
女の子たちは、悲鳴を上げて寛太に抱きついた。達郎が助けを求めて振り向くと、
「呼ぶなよ」
なめ太郎が、ひび割れた、肋をきしますような声を投げかけた。彼は猿のようにしゃがんでいる、痩せた脛が目立つ。
「じじいは呼ばないでくれよ。あいつは嫌いだ。お前らは好きだ。俺のものだから」
「お、お前の子分はやっつけた」
寛太が電灯を向けた。なめ太郎が長い舌を垂らした。あかんべをしたんだろうか。
「光はきかない」と言った。「このこと、誰にも言うな」
彼の舌が地面に届くほどに伸びた。達郎は箒で叩こうとしたが、その前になめ太郎のパンチをくらった。腕だけが、ゴム人形みたいに伸びてきたのだ。達郎は棒みたいにぶち倒れた。
ガーゼがべろりとはがれ、傷口があらわになる。
あいつの手は縮まり、胴体に収まった。
利菜たちは達郎を助けにかかる。なめ太郎が右手をふった。ゴムボールが落ちてきた。利菜の胸元に。彼女はそれをキャッチした。
利菜は額に貼りついた髪をかきわけながら、稲木を見上げる。雨と涙のせいで、なめ太郎の姿はゆがんで見えた。
「他人に言うな。親にも友だちにも。お前たちは戻ってくればいいんだ」
「いやよ」佳代子は泣いた。「あんなとこ、もどんないもん」
なめ太郎は雲をつかむように両腕を上げた。
「逃げられると思うなよ! 俺さまはいつでもお前らを見てるぞ! お前らを見て、お前らを必ず連れ戻してやる! 暗闇に引きずりこんでやる!」
なめ太郎は両腕を雄々しく天に伸ばす。子どもたちは力が――おまもりさまの力なのか、どす黒いものが空気を満たし、渦を巻くのを感じた。現実ではない、別の場所に迷いこんだ感じが強くなった。
「弱気になれ! おびえてしまえ! 悪いもので心を満たせ! もうおしまいだと信じこめ!」
なめ太郎の首が伸びた、ろくろ首みたいに地面に降りた。なめ太郎は叫びながら、一人一人の顔に近づき、契約を迫った。
血と腐った肉の臭いで息もできない。
「言わない」ついに新治は言った。「言いません。約束します」
なめ太郎は首を振り、勝利の雄叫びを上げた。「ガーガーガーガガー」髪から泥と垢が飛び散った。この声はばあちゃんには聞こえないんだ、利菜は思った、血が見えなかったみたいに。だから自分の声で助けを呼ぼうとした。涙と鼻水にまみれた顔を、家に向けた。
「呼ばない約束だろう」腕をつかまれた。「呼ばない約束だ。ボールにかけて絶対だ」
「そんな約束してない……」
利菜は答えた。なめ太郎は前腕の骨をいじくりいたぶる。唇をかんで痛みをこらえる。
「やめろよ、言うこと利く」達郎は言った。「誰にも言わない」
なめ太郎は黄色い目玉でにたりと笑った。乱杭歯をむきだした。
「安心安心」なめ太郎は首と手を戻していく。「言っとくけど、逃げ場はないぞお」彼は笑った。「助けもなあし。ひどい目にあうのは約束するよ。ひどい目にあわせる俺が請け合う」
なめ太郎は呵々大笑した。その声は耳ではなく、ちょくせつ頭に響き、頭蓋骨の裂け目が開きそうだ。
新治は頭を手で押さえた、てっぺんから裂けてしまわないよう両手ではさんだ。
そのうちに耐えきれなくなり、新治は家に駆けこんだ。佳代子と紗英も続いた。利菜が遅れたのは彼女がビニールボールをまだ持っていたからで、なめ太郎はボールに誓ってと言ったから、こんなものを持っているのは決定的にまずいな、と思ったのだった。彼女はボールを捨てた。達郎と寛太が、両脇から利菜の腕を引っぱった。
利菜が振り向くと、なめ太郎は稲木の上でとんぼ返りを打った。ぼわっという音がして、彼の体は空中に吸いこまれた。闇に飲まれたみたいだと、利菜は思った。
第三部 最初の七日間
章前 二〇二〇年 ――東京
一
結局41便は、予定より早く東京に着いた。到着予定時刻より、二時間も早い着陸だった。
受け入れ側の管制塔も混乱がつづいた。機長のラルフと副長のエングルは、事情の説明に大わらわだった。乗客たちがみたという奇怪な現象、フライトレコーダに残った動かぬ事実。お偉方は答えを知りたがったが、その答えを誰に求めればいいのかもわからぬ始末だ。
だが、結局は、誰もが納得するしかなかったのだ。科学的な説明をつけようというほうが土台無理な話。このことは、誰もが心の片隅に止めながらも、忘れていくしかない。やがては、航空世界の七不思議として、語り継がれるだけになる。
語られるだけましというものだ。単に忘れ去られる話よりは。
三日の査問会が終わると、紗英はすぐさま半年間の休暇を申し出た。今度は、ナンシーも止めなかった。紗英が申し出たのは、退職ではなかったし、彼女に休職が必要なのは、仲間の誰もが認めるところだ。同僚との亀裂も、紗英は辞さなかった。神保町に戻るつもりだった。果たすべき役目があるのなら、それを完遂するまでだ。
空港近辺のホテルをとり、高村利菜に連絡をとった。
電話の後、タバコを片手に、ベッドに腰掛け、それから、おかしなことに気がついた。紗英が、半年間の休暇をとったことについて、利菜は驚きもしなかった。むしろ、当たり前のような口の利き方をしたのだ。
紗英は、服を着替え、髪をといた。待ち合わせのカフェは、そう遠くないところにある。約束の時間には、まだ早い。だが、じっとしてはいられなかった。
ふと手を止めて、別れ際のナンシーの、不安げな表情を思い出す。きっと、自分は、そんなナンシーよりも、ずっと不安げだったのだろう。エングルの、別れることをほっとしたような、よそよそしい態度。つかれきった、利菜の声。
電話では何も訊かなかった。神保町のことも、山のことも。近況すらも。
紗英はタバコに火をつける。あの光の渦を通り抜けるときに感じた、超自然的な力はもはや消えていた。脳細胞が、隅ずみまで開ききったような感覚を思うと、不安でしかたない。自分でない何かが、体にはいりこんだような感覚。それが麻薬以上の快感だったら、始末に負えない。きっと、自分を抑えるなんてできなくなる (この一年間、彼女がとりくんできたのは、まさしく、自己統御の訓練だったのだが) 。
「利菜のやつ……」
組んだ手の中で、タバコの火が少しずつ位置を変えていく。吸えば吸うほど短くなるタバコと同じで、こんな状態が続いたら、自分が磨り減ってしまうにちがいない、と紗英は思った。恐ろしいのは、これから会おうとしている旧友が、磨り減っているように感じられたことだ。
紗英はあの渦を抜ける瞬間、その昔に起こった出来事を、ほとんど思い出しかけた。出来損ないの脳みそは、気絶している間にほとんど忘れてしまったけれど。
それでも記憶力だけはすぐれたほうだ。
幻覚や夢遊病といった症状が、きっと利菜にも起こっていたんだろうな、と彼女は思い、そんな話をどう切り出したらいいのかで、また頭を悩ますのだった。
二
紗英が指定したのは、キャラバンという名のオープンカフェだった。いい具合の日差しで、風も気持ちが良い。十時を半分ばかり過ぎたころあいで、客の入りもよかった。
先に着いたようだ。
店内に入った。窓際の、通りがみえる席に案内された。
コーヒーを二つ注文した。携帯に着信があった。席を指示するうちに、利菜の姿が入り口に見える。手を振った。利菜が振りかえしてくる。その明るい表情に、紗英はほっとする。
中学以降も、親友との連絡は、途絶したことがなかった。日本に帰省して、利菜や佳代子に会うのが楽しみだった。母親に会うよりも、この二人の顔を見るほうが、安心したものだ。ホームグラウンドに戻ったような、そんな感じ。
フライトアテンダントになって、世界中を飛び回るようになった後も、東京に戻るたびになにかにつけて連絡をとり、利菜に会うのが常となっていた。互いに社会人となり、昔のことなど多忙な毎日に埋没していたのに、いまだに親密な関係が続いていたのは不思議なことだ。だけど、ここ一年ばかり。利菜とも神保町の旧友とも、連絡を取っていなかったのだ。紗英はそのことに気づき、身震いをした。
紗英は、親密な関係が続いたのは当然だ、と考える。子供時代にあんなことがあったのなら(たとえ記憶が欠落していたとはいえ)、自然なことではないのか?
なのにこの一年ばかりは、意識的にしろ無意識にしろ、旧友のことをさけてきた。おまもりさまでともにつかまった面子のことを、忘れていたのだ。
物思いに沈むうち、利菜が店員と二言三言交わして席に近づいてきた。
利菜は座りもせずに、紗英の肩に手を置いた。
「久しぶりじゃない、相棒。いつ東京に戻ったのよ」
「まずは席につきなさいよ」と紗英は言った。「コーヒー頼んどいたから。アメリカンでよかったよね」
「なんでも任すわよ。そこに関しちゃ、あんたがプロだからね」
二人は声を殺して笑った。利菜が座った。
「秀雄さんはどうしてる?」
「元気よ」
「純ちゃんは?」
「バスケットはじめて張り切ってるわ」髪をかきあげる。「あの子とも会ってないでしょう?」
「何年生になったっけ?」
少し間が空き、「五年生」
「そう……」
利菜に会って膨らんだ気持ちが急にしぼんで、紗英はうつむいた。利菜の娘も、あの頃の自分たちと、同じ年代になっていたのだ。紗英はすべてが符合しているようで、息苦しかった。
「ジョンとはどうなったの?」
紗英は鼻で笑った。「もう別れたよ、あんなやつ。絵ばかり描いて、口ばっかでさ」
「絵で思い出したけど、わたしも本を出すことになってね」
「ほんと? すごいじゃん?」と目を丸くする。
「といっても、もう出版したんだけどね。絵本を一冊。とうぜん言ってないよね」
利菜の質問につばを飲む。利菜が、この一年連絡すら取っていなかったことに気づいていて、それ以上のことを言おうとしていることに気がついのだ。
顔を上げ、表情に不安が混じらないことを祈りながら、利菜の瞳をひたと見つめた。佳代子に何があったの? 寛ちゃんに何があったの? あんたたちは何を知ってるの? と訊きたくなったが、その疑問は瞳の中で渦巻くばかりで、一言も口にすることはなかった。本当は、すでに事が始まっていることを知っていたからだし、利菜が口にすることで、その現実と向き合うことが怖かった。
彼女はまた顔をふせ、ミルクティの揺れを見つめる振りをした。
「どんな本?」
と訊く。利菜が顔を上げたので、
「いやいい。内容は言わなくていい」と取り消した。
「何が書いてあるか知ってるの?」
「知るわけないじゃない。楽しみはとっておきたいだけよ」
だけど、何が書いてあるかは知っていた。これまでの経過をおもんばかるに、利菜の絵本があのときの出来事を題材にしていることは、容易に想像できたからだ。
怖いのは、利菜がそれを書いたときに、まったく狙っていなかったことだ。きっと彼女だって、おまもりさまのことはすっかり忘れていたはずだから。
二人はそれから、とりとめのない話で盛り上がった。幼馴染が顔をあわせたら、必ずといって取り組む話題。昔話と、当時の知り合いの近況について、花を咲かせたのだ。利菜は、小学生時代の恩師が、また神保小学校に戻ったことを教えてくれた。中学時代にくっついた、吉田と熊谷という先生の間に、三人の子供が生まれた話。初恋の谷村君に、三人目が生まれた話。だけど、どこかしら紗英はひっかかっていた。長い付き合いのせいか、利菜がいろんな話をふせているように感じられた。悪い話は、全部。
ひとしきり笑った後、利菜は椅子にもたれかかって吐息をついた。ガラス越しに通りに目をやった。
紗英はそんな利菜を見つめている。二人は本題に入る覚悟を決めたようだ。
「そろそろ帰ってくるころだと思ってたよ」
「わたしのシフト表でも持ってんの?」
利菜は笑わなかった。真顔で紗英のことを見返した。「そんな気がしただけ」
利菜は話した。神保町でまた殺人事件が起こっていること、行方不明事件が起きていること、クラスメイトの子供が殺されたこと。
「松本君の息子さんだったの? 良治君?」
利菜はうなずいた。
「うそでしょう。犯人は捕まってないの?」
「つかまってない。警察は連続殺人の犠牲者じゃないかって言ってる。遺体の一部を切り取られてたんだって。佳代子が教えてくれた」
「佳代子とは連絡を取ってたの?」
利菜は首を振って否定した。「ここ一年は、ぜんぜん」
紗英はまたティーカップに目を落とした。ふと二人が、カップをなでまわしたり見つめたりするばかりで、中身をひとつも口にしていないことに気がついた。
利菜の顔からは、笑みが消えていた。固い表情だった。
「子供たちが殺されてる。寛太や達さんの知り合いの子供よ。私たちの知り合いの子どももいる」
「待ってよ。わたしは最近まで、五年生のときのことを覚えてなかったのよ。あんたはどうなの?」
ややあって、「おんなじ。五月に佳代子が手紙をよこすまで、あの山のことは少しも思い出すことがなかった。でも、夢や幻覚ではずっと暗示してたのね」
「幻覚を見てたの?」
「おかしい?」
「おかしがってるように見える?」
「真剣なふうに見えるね。あんたも見てたの?」
利菜は取調官のような冷静な目で、紗英のことを観察している。相手の話を、じっくりと訊くときに見せる、冷徹な表情。
「見てた。溺死女をなんども」
「あたしも見たよ」
「不眠症にもかかった?」
「かかった。夢遊病にもかかった」
「帰りの飛行機でさ……」
と紗英は言いかけて、ふと口をつぐんだ。41便には仕事で乗りこんだのに、紗英は今、帰りの飛行機と口にした。別に、日本に帰省する予定ではなかったというのにだ。
「飛行機でなにがあったの?」
「おったまげるようなことよ」
紗英は笑おうとしたが、唇が震えて中途半端に終わり、きゅっと唇を引き締めた。
話した。飛行機の中で、溺死女が現れたこと、コクピットで見た光、その中を通り抜け、結果的にロンドン東京間のフライトを二時間ばかり短縮したこと。それは空間を飛び越えたことに他ならない。集団での瞬間移動と言えなくもないが、そんな話は査問会では一度も口にしなかったし、仲間と再度話し合うこともなかった。
そのとき利菜のみせた行動は意外で、それでいて利菜だからこそ納得のいくものだった。彼女は、さも納得したようにうなずいたのである。
「佳代子はね、またおさそいが始まってるんじゃないかって言ってる。それも、子供のときよりずっとひどいことが起こってるって。わたしはあのときのことを全部思い出したわけじゃないけど、でももう一度……なんて言うのかなあ」
と言葉に詰まった。利菜には珍しいことだった。
「召集がかかってるってこと?」
「誰から?」と利菜は問い返す。
「わかんないよ。でも、あんたはおさそいって言った」
「子供のころはそう言ってた……」
「わるいものって? 昔はあいつらのこと、そう呼んでたよね」
「幻覚のことを?」
紗英はうなずく。利菜は、
「でも、あれは幻覚以上のものだったよ。あれがなんだったのかは思い出せないけど、幻覚は人を殺したりしないし、佳代子をひっぱたいたりしないんじゃないかな……」
「みんなはどうしてるのよ?」
「まだ町にいる」
利菜は知っている経緯を、ひとつずつ話し始めた。佳代子たちが山に戻ったこと、自分に手紙をくれたこと。佳代子との電話のこと。
「もうひとつ困ったことがあってね」
と利菜は笑った。不思議な、笑いたくもないのにそうしているような、不思議な笑みだった。
「うちの両親と連絡が取れないのよ。あのときも母さんがいなくなったはずだけど、とにかく電話をしても通じないの」
「携帯は?」
「だめだった」
紗英は息を呑んだ。思い出したのだ。
「またあの家に?」
「どうかな……」利菜は眉根を寄せる。「坪井って人が死んで、あの宗教はなくなったはずだよね。母さんも、足を洗ったはずだし。でもね……」
利菜は口をつぐんだ、訴えるような目で見つめてくる。
「わたしは両親とも連絡をとってなかったのよ。一年ばかりの間、神保町のことはいっさい考えてこなかった。無意識のうちになんだろうけど、わたしは逃げてたんだと思う」と彼女は言った。「でも、ここまできたら、そうも言ってらんないよ。あんたはどう思うの?」
紗英は指を組み合わせた。「あんなことがあったのに、みんな忘れてのほほんと生きてさ、つけが回ってきたって感じよね」
「忘れたのはあんたのせいじゃないよ」
「ともかく……わたしはなんだかわかんないけど――」と胸に手を当てる。41便で感じた力のことを思う。あの女が発していた力のことも。「自分に働きかけてくる何かがあるのを知ってる。わたしだってこの一年、わけのわからないまま生きてきたけど」
仲間や周りの人間に、さんざん迷惑をかけたけど。
紗英は、男性ほどもある上背を精一杯伸ばした。
「それが私の人生なら、むきあうしかない」
「よく言った」
と利菜が微笑んだ。
とはいえ、石川紗英といえば、高村利菜が、上原利菜のままで、そのことに感謝したいような心持ちだった。
紗英はともに過ごした中学時代を思い、そのときかわした友情も、その後に自立した人生を歩めたことも、全部小学五年生のあの夏に起因していたのだと感じたのだ。
利菜は、セカンドバッグを手にして立ち上がった。
「午後の便で千葉に戻ろう。両親のことも確かめときたいし、こっちにいても、何も始まんないからね」
「どんなことになるかわかる?」
利菜は首を左右に振った。
「わかんないけど……向こうに戻ったら、思い出すこともきっとあるよ」
「出かけることは言ってあるの?」
「旦那にも娘にも言ってある。何日になるかわかんないけど、向こうに戻るって」
紗英は、利菜を追って立ち上がる。
「秀雄さんはなんて言ってた」
「秀ちゃんには、町の様子は言ってないから。娘もいっしょに連れてけなんて、言ってたけどね」
「殺人事件のことは知らないの?」
「知らない。話してないから」利菜は会計をすますために財布をいじくりだした。
「それっておかしいんじゃない。出版社につとめてるんでしょ? あんたの故郷で連続殺人が起こってるんなら、耳にも入ってるんじゃないの?」
テレビにも映っているはずだし。
「知ってるだろうけど……」利菜が振り向く。「連続殺人の起こった神保町と、わたしの故郷がおんなじ町だとは思ってないのよ。わかる?」
「そんな……」
「つまりこういうことよ」紗英の肩を叩く。「あんたのいう力が働いてんのは、わたしたちだけじゃないってこと。秀ちゃんやみんなに働いてる」
「うれしそうね」
利菜は肩をすくめて、「公平ってことでしょ? それならわたし、納得できる」
紗英は不服そうに唇をかんで眉をひそめたが、心中では利菜の意見に納得していた。彼女だってこんな事態に巻きこまれるのが自分たちだけだとは、考えたくなかったからである。
第七章 バスツアー
一九九五年 八月十九日――土曜日
三
血を洗い流し、服を着替えた。
なめ太郎はいなくなったが、混乱は去っていなかった。紗英は、襖を開け仁王立ちする溺死女を何度も見たし、他の面子もご同様だった。達郎は、布団の上に一同を集め、固まりあって座るようにした。パニックを、なんとか抑えようとしたのだ。
風がごおごおと吹き、ガタピシと、雨戸が揺れている。このままじゃあ、家が壊れるんじゃないかとみんなは思った。屋根の上を何かが走り、軒下からは部屋をおとなう物音がし、隣室には誰かの息遣いがあった。
利菜はこんなことが続いたら、ぜったいに気が狂うと思った。坪井の家では、杉浦佳代子をわるいものから守った彼女も、ここでは気持ちが切れかけていた。寛太郎がいない。心理的な防波堤が、なくなった感じだ。大津波がみんなの心を押し流している。なんでも言うことをきくから、勘弁してほしいと考えていた。
長い夜が明け、雨戸のかすかな隙間から光が落ちた。ばあちゃんとおばさんが起きて、みんなは仕方なくご飯を食べた。二人の大人は、子供たちの不可解な様子にも、まったく注意を払わなかった。六人ともが、出された食事の十分の一も食べなかった。ご飯を口に運ぶ箸は震え、爪の隙間に入りこんだ血の痕を見ては、吐き気をもよおす有様だ。おかずの味が、まったくしない。
食事が終わると、彼らはまっすぐに、岩野辺川まで行った。その川は、寛太の家から歩いて二三分のところにあり、自転車なら一分とかからない。川辺の草は、朝露に濡れていた。この日は雲もなく、岸辺もじきに干上がってしまうことだろう。
石ころだらけの土手からは、岩野辺橋の高い欄干が見えた。
血まみれの服を、川に流した。
やっぱり山に戻るしかないの? 佳代子が訊いた。達郎は無言だった。だけど、家に戻ろうと向かった自転車のかごを見て、新治が悲鳴を上げはじめた。ホラー映画の子供みたいな、理想的な悲鳴の上げ方だった。彼は口をОの字にあけ、絶叫しはじめたのだ。「ぼくんのだ、ぼくんのだ、ぼくんのだ!」
すぐさま達郎が抱きつくことで、その口をふさいだ。だけどみんなは見た。新治の自転車の荷台には、おまもりさまでなくした靴が、手際よくつっこまれていた。正確には、靴の片方は金熊川に流したのだが。両方とも戻ってきていた。
「無駄なんだ」と新治は言った。「川に流しても無駄なんだ。こいつらはみんな戻ってくる。なにをしてもむだだ」
「そんなこというな。そんなことない。そんなこと思ってもいけない」
達郎が言った。
「でも見ろよ」
寛太は自分の自転車から、なめ太郎にとられたはずの帽子をとりあげる。案の定だ、と利菜は思う。彼の帽子が、血に濡れていたからだ。
「あんたのせいよ、あんたがおまもりさまに行きたいなんていうからよ」
佳代子が寛太を責めはじめた。寛太は口の中でもごもご言ったが、その言葉は誰にも聞きとれなかった。
達郎が佳代子を止めた。「やめろよ。寛太が林に行こうって言ったとき、おれたちは誰も賛成しなかった。そのときは行かなかった。気がついたら、いつのまにか林の前に立ってたんだ。そうだろ?」
「そうなんだよ……」
利菜がぽつりと言った。その確信をこめた口調に、みんなは彼女をかえりみた。利菜はしゃくりあげている。パニックの渦に、飲まれようとしていた。
「い、いつのまにか草原に行ったみたいにさ、いつのまにかそこに行ってるかもしれない。そこってどこかわかんないけど、でもおっかないとこなのに決まってる。あたしどんな目にあうか、わかる。英二君や、秀幸君みたいな目にあうんだよ! 人殺しがいて、そいつに殺されるんだよ!」
利菜は絶叫した。紗英が手をかけようとしたが、その手を振り払った。彼女はみんなから離れて背中を向けた。
達郎は自分たちの結束が、今ここで崩れるんじゃないかと思った。だけど、利菜は必死の努力で涙をひっこめ、振り向いた。
「どのみち行くんなら、あたしたち自分の意思で行くべきだよ。だってあのときのみんな、ほんとにおかしかったもん」
おまもりさまへの訪問を思い出す。友達に、腕をつかまれたときのこと。
「今まで黙ってたけど、あたしのことおまもりさまにおしやろうとした。みんな、あんときあやつられてた。行くんなら、ちゃんとしてるときに行きたい……いつのまにかそこにいるなんていやだ、誰かに操られるのもいや」
利菜の告白は衝撃だった。自分たちまで操られるという考えは、頭になかった。
「そんなことがあったの?」
佳代子が訊いた。利菜はうなずいた。
「何で言わないのよ?」
佳代子のなじるような口調に、利菜はきっと目を上げた。
「あんたなら言える? 達郎ちゃんが言ったみたいにさ、友達が……」とみんなのことを指しまわす。「みんながいたからわるいものにとっつかまんなかったとして、その友達が自分のことうらぎったみたいなふうなこと、佳代子なら言える?」
利菜は目を閉じた。まぶたの端から涙がこぼれた。彼女は鼻水をこぼして泣いた。
「あんな目にあうの、もういやだ……」
胸元から搾り出すような告白があり、佳代子と紗英が駆け寄った。みんなも。彼らは抱き合って、一塊になった。
達郎はみんなを抱きかかえるように、腕を広げて言う。
「みんな、じいちゃんが帰ってくるのを待とう。明日はあの山に行くんだ。あの山に何かがあるんなら、決着をつけるしかない」
「なめ太郎が来いって言ったのに?」紗英はしゃくりあげて泣いている。「ワナかもしんないじゃん」
「今だって十分危険だよ。それに、じいちゃんならなんとかしてくれる」
だけど、寛太郎はその夜も帰ってこなかった。彼らは寛太郎の身にも、何かが起こったのではないかと心配をした。
両神山には、行く必要がある。肝腎なのは、どう決意を固めるかだ。早く決めないと、またなめ太郎がやってくる。あんなやつにもういっぺん出くわすなんて、誰でもいやだった。
彼らは山に行くにあたって、十字架やおふだなど、集められるものはみんな用意した。懐中電灯も。ろうそくも。食料も。必要とあらば、お堂の位牌だってむりやり引っぺがして持ってきた。ロープもラジオもコンパスもバットも、みんな寛太のリュックにつめこんだ。足りないのは寛太郎だけだ。その意味では、決意は固まっていなかったが、用意だけは、万端整っていたといえる。
彼らはそれぞれの親に電話をすることにした。みんなでいれば、大丈夫なのではないかという甘い期待と、誰でもいいから反対意見を言ってくれ、という気持ちとでせめぎあっていた。
利菜の父親が、車を出そうと言い出した。佳代子の母はおらず(当然だが)、紗英の母親も、達郎たちの両親も、両神山行きを反対しなかった。瀬田英二がいなくなって、まだ見つかっていないというのにだ。
子供たちはこれまでは話の中だけの存在だったおまもりさまが、現実として迫ってくるのを感じた。両神山に行くというのがどういうことなのか、もういちど真剣に考えようとしたのだが、頭の中がぐるぐる回って、考えは一つもまとまらない。
利菜が電話をかけたとき、父の俊郎は待ち構えていたように電話をとった。呼び出し音はいちどもならなかった。父さんは、もしもし、上原です、とも、どちらさまでしょうか、とも言わなかった。決まったか、といきなり訊いた。うん、と利菜は答えた。その時点で、胸が震えて、うまく答えることはできなかったのだが。
父さんは、明日の朝迎えに行くから、みんなで用意して待ってなさい、と言った。母親のことをまったく話題にしないのと同様、利菜が今どこにいるのか、どこに行くつもりなのかは、訊きもしなかった。訊かなくても、知っているようだった。
利菜は受話器を置き、父さんが車を出してくれるって、とみんなに言った。平静を装おうと必死だった。みんなの方は、一目とも見られなかった。自分の父さんがモンスターみたいになっている、自分が今朝言ったみたいに、操られたみたいになっている。そんなことが言えるだろうか? 不信を招くようなことを?
彼女は言えないと思った。そいつは無理だ。
四
後年利菜が思うのは、あの朝みんなが一睡もできずに、早くから起き出し迎えを待っている間、ここにやってくるのは利菜の親などではなく、わるいものそのものだと気づいてたんだ、ということだ。
達郎たちは雨戸もガラス戸も開け放ち、廊下をぶらぶらしながら、畑の向こうにある道路の様子を気にしていた。寛太はパンパンになったリュックを抱え込んでいた。
午前六時で、台所では、ばあちゃんがみんなのために弁当をつくっていた。女の子たちは、ばあちゃんのことを手伝っていた。なんだか落ち着かない気分だった。
県道に父親のイプサムがとまったとき、みんなはいっせいにその方を見た。と同時に、車のホーンが一度だけ鳴った。一同はびくりと身を縮ませた。
「来たな……」
と達郎は言った。確認の口調というよりは、呆然とした声音だった。このときにいたるまで、彼らの誰もが、引き返す方法を探していた。だけど、その手段がなかったのだ。たとえ、いま行かなくても、別の場所で別の機会に、一人ずつ連れ去られるかもしれない。そのときの結果は、考えたくもない。
達郎は口に出しては言わなかったし、言葉にして考えていたわけでもないが、自分たちの信頼が崩れないうちに行くべきだ、と感じていた。似たような感じは、みんなが持っていた。わるいものは心に働きかけてくる。だったら、みんなをばらばらにするなんて、簡単じゃないのか?
達郎は立ち上がって、そこからみんなの顔を眺めおろした。ひどく遠くにいるみたいに見えた。一つ年下の子たち――なんてこった、みんな幽霊みたいじゃないか。
「用意はできたか?」
と達郎は一息に言った。みんなとの距離が、元に戻った。利菜は車を眺めているうちに、イプサムの車体に引きこまれるような、引きずりこまれるような感覚を受けた。紗英も、佳代子も、新治も、寛太も同じだった。
寛太はこう考えた、これは俺が考えてるみたいな、モンスターをやっつけるヒーローものの冒険なんかじゃないんだと(彼はこれまでの経験から、両神山行きのことをそんなふうに思っていた。だけど、このとき、自分の思い通りになんていかないことを知った――あの白い車体は凶悪だ。とっても)。
寛太は行くのをやめようと、なんど達郎に申し出ようと思ったかしれない。だけど、行かなかった場合に起こることを思うと(それ以上に、自分たちの信頼に入る亀裂を思うと)、とても口には出せなかった。これまでの人生で、まったく見せることのなかった分別でもって、みんなの後に黙って付いていった。
達郎が寛太のリュックを背負った。ばあちゃんの弁当は、利菜がリュックにいれて持った。自分から進んでその役を買ったのだが、それはばあちゃんの用意した弁当が、自分たちの用意したおまもりのように見えたから、という、それだけの理由だった。
紗英は、家を出る間際に、ばあちゃんの丸々した腰に抱きついて(この子の背が急激に伸びるのは、この一年後のことだ)、みんなをどぎまぎさせた。なめ太郎には、誰にも言うなと言われていたからだ。
達郎は言った。
「い、いこう」
利菜は父さんが車のホーンを鳴らしたまま、一度も降りてこないことに気がついた。いつもはちゃんと挨拶するのに。膝の悪いばあちゃんは、玄関の踏み台に脚を下ろして、申し訳なさそうに表を覗いている。
利菜は畑の私道から、家を見ようと振り向いた。みんなもそうした。あの家がわるいものからみんなを守ってくれるお堂みたいなもんで、自分たちは外に出ちゃったんだ、という考えが浮かんだ。頭を振って、その考えを追い払った。
「行くよ」
みんなの先頭きって父親のところへ近づいた。わるいものに会うのに、弱気で行くのは最悪だ。だけど、ガラス越しに父親の様子を見たとき、利菜の強気の仮面はガラガラと音をたてて崩れた。
父親は少しもこっちを見ずに、じっと前方を凝視してる。
「母さん……」
隣にきた佳代子が、息を飲んだ。助手席には登美子が座っていた。意外だった。父さんとおばさんは、ちっとも仲がよくないのに。二人は子供たちの前では仲のわるい様子はみせなかったけど、利菜と佳代子は子供の直感で、二人の不仲に気づいていた。
寛太は登美子が苦手だった。「おばさん来るなんて言ってなかったじゃんかよ」
「知らないよ。あたしだって聞いてなかったんだから」
佳代子が口を尖らせる。
「の、乗ろうよ」
新治が言った。彼は紗英と手をつないでいる(この二人が親しげにするのは珍しかった。どちらも恥ずかしがり屋だったのだ)。まるで決心が鈍らないうちに、嫌なことはさっさと済まそうと言いたいみたいだ。
達郎が後部座席のドアを引き開けた。そこに何も乗っていなかったので、ほっとする。でも、車の中にはいやな空気が漂っていた。臭い、とかではなくて、重苦しい雰囲気が。
達郎にはそれが濃厚に感じられたので、振り向いて年下の子供たちの様子を見守った。五人は中の空気のことには気づいていないらしい。怪訝そうに達郎を見ている。
意を決して、車内にのりこんだ。
「今日は、よろしくおねがいします」
達郎は頭を下げ、運転席の真後ろに座った。隣は新治、その隣には補助席をおろして寛太。女の子たちは後ろに座った。みんなは窮屈そうに身を縮めている。必要以上にそうしていた。達郎の感じた嫌な雰囲気を、感じとったのかもしれない。
二人は、その間も無言のままだった。やがて、俊郎がゆっくりとギヤをドライブにいれ、イプサムを発進させた。
こうして、恐怖のバスツアーは、始まったのである。
五
最初のうち、利菜と佳代子は、父親と母親の気を引く努力を怠らなかった。信子はどうしたの? と佳代子は訊いた。登美子は答えなかった。父さん仕事は? と利菜も訊いた。俊郎は答えなかった。みんなは顔を見合わせた。
利菜と佳代子は意を決し、思いつく話題を並べ立てたが、二人は乗ってこなかった。
「だめだ、あの二人戻ってこないよ」
利菜が言った。佳代子は、
「二人とも、まばたきもしてないように見えるよ」
とうらめしげにつぶやいた。紗英はその二人に挟まれて小さくなっている。
もういいよ。達郎が言った。こうなることを予想していたような口ぶりだった。
神保町を抜ける直前、道路脇の畑に十人ほどの子供が集まっていた。神保小の子らしく、見覚えのある制服を着ている。そのうちの一人が、
「あれ秀幸君だよ」
利菜が言った。達郎たちは、押し合うようにして窓際に行った。車は時速六十キロで走っていた。その子供たちはすでに後方になりつつあったし、固まって立っているから、斉藤秀幸のことは、よく見えなかった。本当のところは、誰も見たくなかったのかもしれない。だけど、それとおぼしき人影はあった。帽子を深くかぶり、うつむきかげんに立っている、小さな子。
「ほんとに秀幸だったか?」
達郎が訊いた。利菜は言葉につまった。彼女はよくわかんないと言おうとしたのだが、そう言うかわりにうなずいた。斉藤秀幸は、最初に殺された子供だ。死んだ子供のうちでは、もっとも有名になっていたかもしれない。死んだのは一学期の途中で、学校中、その話で持ちきりだったからだ。
二学期になったら、と利菜は考える。わたしたちも噂話の名前に加わるんだ。
彼女は震えた。
紗英が言った。
「秀幸君だけじゃないよ。美由紀って子もいるように見えた(小野田美由紀。さくら幼稚園年長組の女の子だ)。わたし、家が近所だから、知ってるんだよね」
寛太は目を見開いて、何か言いたそうにしている。英二のことを考えているのは(あの中に、英二がいなかったかと、訊きたがっているのは)、誰の目にも明白だった。
新治が、「あいつら仇をとってほしいのかもしれない」
「そんなわけない。あれは、秀幸たちじゃない。幽霊のわけないだろ? 死んだやつらが、あんなところに固まってたりしない」
「あれが生きてる子だったとして、あんなとこで何してたのよ」
利菜が言った。町外れだし、あの辺りは子供があまりいない地域だ。夏休みなのに、制服を着ているのもおかしかった。
達郎は振り向き、少し固い目で彼女をにらんだ。
「でもさ……」佳代子が言った。「あれって大勢だったよ。十人以上いたもん。あれが幽霊だったとしたら、もうそんなに殺されたの?」
誰も答えなかった。達郎はむっつりと前を向いて座った。窓の外に目をやり、もう会話には参加しなかった。彼はリュックを膝の上に置いていたから、腕の震えを隠すことができた。
あたごにつづく峠にさしかかったとき、六人は、道の両端に、動物たちが集まっていることに気がついた。みんなは仰天して、車の中を、左から右に行ったり来たりした。鹿や、狸や、狐にねずみ。山にこんなに動物がいたんだと、驚くぐらいに集まっている。
彼らは道端に整列し、通り過ぎるイプサムを見送っている。
みんなは唾を飲み、互いの顔を見やった。それぞれの席に座りこんだ。言うべきことは何もなかった。言葉を封じるぐらい、驚きは深かった。
登美子は何も言わない。
新治はポケットに手を突っこんで、十字架を握りしめた。
「父さん、あたごによって」
と利菜は声を掛けた。俊郎は答えなかった。
「寄ってってば!」
利菜はヒステリーを起こして絶叫を上げた。みんなが首をすくめるほどの大声だったが、俊郎は彫像みたいに、ぴくりともしない。
あたごを通り過ぎ、T字路を回った。
おまもりさまは、もうすぐだ。
六
前席にすわる二人の大人の落ち着きをよそに、子供たちは終始うろたえた様子だった。固唾を呑み、周囲の変化に目を配った。これだけおっかながっているのだから、いつ幻覚がはじまっても、おかしくなかった。
利菜は自分たちが、ビニールボールを捨てた池に目を凝らした。ひょっとしたら、あのボールは、まだ水面に浮かんでいるんじゃないか? 家でみたボールは、ただの勘違いで(どんな勘違いなのかは知らないが)、まだこの池にあるんじゃないかと思ったのだ。
イプサムは大きなカーブをまわって、いつもの駐車場に到着した。先客はいなかった。獲物は僕らだけだ、と思い、新治は震えた。しょんべんをちびりそうだ。
駐車場はあいかわらずのぺんぺん草を生やしている。あのときから、五日しかたっていないとは、信じられない。
俊郎は入り口に車を止め、エンジンを切った。
みんなは、まじまじとバックミラーを覗く。俊郎も登美子も、視線を返さない。
「お母さん、あたしたちもう行くよ」
佳代子が言った。返事はなかった。
達郎に促されて、寛太がドアをひき開ける。草原の空気は冷えていた。早朝のせいか、光も重く沈んでいるようだ。利菜は曇っているのかと思った。こんなときに雨がふるなんて、最悪だ。あれだけ入念に用意したのに、傘だけは忘れたからだ。
だけど、空を見上げると雲はまばらで、太陽を隠すほどもない。
「もう七時半だよ」
紗英がつぶやく。達郎も時計を見た。六人は、空を見上げる。
「太陽がのぼってないんじゃないのか……」
達郎が呆然と言った。みんなはうろたえてうろつきまわったが、肌を刺す寒気と光量を考えるに、真夏の七時を回っているとは考えられなかった。まだ五時だと言われても、みんな信じこんだろう。
「達郎ちゃん……」
佳代子が後ろで言った。彼女だけはこの騒ぎにも参加していなかった。
「ねえ、みんな見なよ」
五人は太陽の行方探しに夢中だったが、佳代子のわななく声にそちらを向いた。
草原の景色は、一変していた。ひまわりが、草地のいたるところを、埋め尽くしていたのだ。
達郎は、ごくりと唾を飲みこんだ。いつのまに生えたのよ。佳代子が口のなかでつぶやく。生えたはずがない。あれから五日しかたっていない。ひまわりはめいいっぱい成長して、みんなの背丈よりずっと大きい。その茎は標識のポールみたいにぶっとくなっている。黄色の花弁も、めいいっぱい成長して、今にも種をこぼさんばかりだ。
風に吹かれて、いっせいに首を傾けた。
紗英が身をかがめ、こそこそと車に戻りはじめた。目はぎょとぎょと地面を見やり、あきらかに挙動不審だ。ドアに手をかけた。ノブをめいっぱい引いたが、あかなかった。「そんな……」
側にいた寛太が手伝ったが、ドアは開かなかった。利菜と佳代子も駆け寄り、
「開けて、開けてよ!」ドアを叩いた。
がちゃり……
鍵の閉まる音がした。みんなは呆然と、ドアを見つめた。今鍵が閉まったんなら、なんでドアは開かなかったんだろう。
ドクドクと、脳の奥底が脈打つのを感じる。鼓動が早くなる。一同は答えを求めるように、達郎をみる。尾上兄弟は、うろたえて互いの顔を見やった。子供たちが騒ぐのに、おじさんもおばさんも、こっちを見もしない。じっと、フロントガラスを見つめている。
「い、行こう」
達郎がたまりかねてみんなに言った。新治がそんな兄貴を信じがたげに見上げた。
佳代子が達郎に詰め寄って、ひまわりを指差した。
「行くって、どこに? あれが見えない? あれが幻覚? 消えてくれんの? じゃあ、いますぐ消してよ! あたしの頭から追っ払ってよ!」
「みんな戻ってどうするんだよ、どこに行くんだよ。もう戻るとこなんてないんだぞ!」達郎は言った。「あいつはどこにでも来るんだ。四六時中、気を張るなんて、そんなことお前らにできるか? 親までおかしくなってるのに」
達郎はイプサムのほうを指で突き刺した。寛太はバットを握って(ここにバッターボックスがあるみたいに構えをとる。見ようによってはこっけいだ)達郎を凝視する。ほかの子たちも。
「俺にはそんなことできない。俺には無理だ」
達郎はそう言い残すと、リュックを背負いなおし、草原に横たわる小道に向かいはじめた。みんなはその後を追いかけた。達郎をほうって帰れるはずがない。
利菜は一度だけ、イプサムを見返したが、父親は凍りついたように姿勢を固め、娘のほうは見向きもしなかった。
父さんは、もうおまもりさまにつかまっちゃったんだ。そう思うと、震えがきた。
でも行かないと、みんなが行くっていってる。
それにあそこ――
彼女はひまわりの向こうのおまもりさまを見つめる。あそこにはひょっとすると、母さんがいるかもしれない。
利菜は持っていたお札を握りしめると、みんなの後を追いかけた。
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七
子供たちはひまわりの青くさい臭いをかぎながら、息を切らして頂上を目指した。彼女たちは、茎をかき分けながら前に進んだ。
アスレチックは、ひまわりに囲まれ、土台が見えない。ひまわりはあっというまに子供たちの背丈を追い越して、すぐに小道もわからなくなる。
ひまわりの種が、バラバラと落ちかかり、紗英が悲鳴を上げた。
「こんなもんいつ生えたんだよ」
寛太が言った。その瞬間、頭上のひまわりが、首を回すみたいに回って彼を見た。人間の顔みたいな花弁から、あられみたいにおなじみの種をバラまいたからたまらない。
寛太は悲鳴を上げてしりもちをついた。達郎と佳代子が助け起こす。
「おさそいが、おさそいは始まってる」
新治が言うと、
「当たり前よ、おさそいならもうのっかっちゃってるんだから」
と佳代子らしくない、だみ声みたいな悲鳴で怒鳴る。
「お、落ち着けよ」と、達郎。「俺たちは自分の意思でここに来た。まだつかまったわけじゃない」
佳代子は、まだ怖い目のままだったが、うなずいた。
寛太が、ぺっと種を吐いた。「あいつ、俺たちをこんな目に合わせて、どうするつもりなんだろ?」
草原は、進むほどに草が濃くなった。
「みんな、ついてきてるか?」
達郎は、先頭にたって草をかきわけ、そのせいで傷だらけになっている。振り向くと、ひまわりが深すぎて、全員の確認が取れなくなっていた。
「はぐされないように、注意しろよな」
達郎は仲間に聞こえるよう、大声で言った。
みんなは達郎に言われるまで、とっぱぐれに会う危険に気づかなかった。それからは互いに注意して、丘をのぼりはじめた。
太陽はまだ戻っていない。気温は低いが、子供たちは汗だくになっている。利菜は変な想像をしないように、恐怖を振り払おうと必死だった。ひまわりのジャングルを、息を荒くしながら、しゃにむに突き進んだ。
佳代子の体が急に沈んだ。下草に靴をとられたのだ。利菜が男の子たちに声をかけ、進行が止まった。佳代子は舌打ちをして、靴の紐をなおしはじめる。利菜と紗英は、彼女を守るかのように左右に立つ。
利菜にはひまわりのざわめきがまるで彼らのおしゃべりのように聞こえてきた。背の高いひまわりの花弁が曇り空の下で彼女を見おろしている。意思をもっているかのようだ。それもとびきりの悪意を(ありえない話だが、ひまわりたちは太陽の方角を無視して、みんな彼女の方を向いている)。
利菜は大口をあけて、呼吸を早くしながら、紗英にひまわりがどう見えるか訊こうとした。
紗英はじっと西の方を向いたまま、体を震わせている。耳をそばだてているようだった。利菜が、どうしたの、と問いかけると、その発言をくいとめるように手を上げた。
「聞こえない?」
紗英は言った。切り詰めたような口調だ。利菜はとっさに耳を澄ました。佳代子が顔を上げた。
「ほんとうだ……」
草をへし折る、がさがさという音が聞こえた。三人の女の子たちは恐怖に目をこわばらせてその方角をみた。
アスレチックだった。二階建てのアスレチックが、ブルドーザーみたいに動いてこっちにやってくる。
利菜は悲鳴を上げ、佳代子は尻餅をついた。アスレチックはひまわりを蹴散らし、大地を削りとりながら突進してくる。そいつは両神山でも最も大きい、中は部屋のようになっている。子供の頃はあの中でままごとをしたものだった。こぶりだが屋上もついている。利菜はとっさに口を覆い隠したが、すでに見つかった後だった。滑り台はまるであいつのベロだった。そして、その下の空洞を口のように開いて、地面に噛みついた。網とスチールのはしごを引きずって、押し寄せてくる。
「大変だ……」達郎は、新治と寛太の前に躍り出ると、女の子たちの間に飛びこみ、佳代子の腕をひいて立たせた。「お前ら、逃げろっ!」
利菜は後ろを振り向きながら、紗英の手を引いて走った。まるでラッセル機関車だ。土を跳ね上げ、ひまわりを砕く。
達郎は、上に上がるのをあきらめ、草原を横ぎりはじめた。ひまわりが身を寄せ合って、行く手をふさいだ。寛太と新治が、その妨害に、怒りをこめてパンチを浴びせる。
目の前に巨大な岩があらわれた。普段は滑り台につかっていた大きな岩だった。寛太と新治は急いでその上にのぼり、遅れてくる達郎たちに目をやった。狂える生き物とかしたアスレチックは、今にも四人を飲み込まんとしている。二人は、達郎たちに手をふって、こっちに来い、岩の影にまわれ、と声をかける。
利菜はもう後ろも向けない。アスレチックの跳ね散らかす草原の土が、ふくらはぎに当たっている。アスレチックのどす黒い気配が彼女の背中を叩いている。もう追いつかれると思った。彼女は寛太たちの声を耳にしながら、夢中で岩の陰に回った。新治が寛太の腕をひっぱり、下へ引きずり落とした。二人の少年が利菜たちの頭に落ちてきた。達郎が突然振り向いて、三人の女の子を抱え込むようにして身を投げ出す。みんなは岩の真裏で一塊になり、互いの手足をかき集める。
その時、利菜は爆弾が炸裂するような音を聞いた。高層ビルの倒壊現場のような音だった。彼女の上には、達郎が乗っていて、その下には佳代子と紗英がいた。アスレチックが回り込んでくるこの鬼ごっこが一生続くんだと彼女は思ったが、地震みたいな衝撃が体を震わし何も考えられなくなる。アスレチックが岩に食らいついたのだ。横綱級の図体ではこまわりがきかなかったものらしい。一トンはあろうかという巨大な岩が、アスレチックのぶちかましで、その場から、ずれた。利菜たちの体を押しやり、みんなは悲鳴を上げ、大きな肉団子のかたまりが崩れた。上にいた寛太と新治が転げ落ち、皮肉にもおまもりさまのひまわりが受け止めてくれた。
木片がカラカラと落ちてくる。利菜は頭を抱えて固まり、振動が消えるのをまった。大音響がおさまると、あられのようにふりそそいだ破片も、ときおりからからと落ちてくるばかりとなった。おそるおそる目を開ける。辺りにはアスレチックがまきちらした埃が舞い漂っている。達郎がどくと急に体が軽くなった。佳代子と紗英がもぞもぞと動いている。生きているようだった。利菜は生きていることが信じられなかった。ついさっきまでは、あの巨大な口に、飲まれかけていたのだ。
みんなは互いを助け合いながら起き上がり、ほうけた顔を見せ合った。
「みんな無事なのか……」
と達郎がばかな質問をした。彼はほっぺに大きな草汁の後を付け、ちっとも大丈夫そうじゃない。
寛太が岩の上にのぼり、ひゃあ、とたまげた声を上げた。利菜たちも岩の脇を回り込んだ。
滑り岩は、アスレチックに半分がた飲みこまれていた。国村はよほど頑丈につくったようで、岩肌が砕かれている。利菜は金太郎がおにぎりにかぶりついて、途中でかたまるさまを想像した。そのぐらいやんちゃなありさまだった。寛太が岩をおりた。子供たちが無言で手を握り合っていると、口と思われる部分から、血が噴き出してきた。まるで生きているみたいに噴血をはじめたのだ。
利菜は、悲鳴をあげて飛び退る。すると、周りのひまわりが、のぞきこむように身を折って、巨大な顔から血を浴びせかけてきた。身を折って、なんだか反吐をはいているみたいだ。ひまわりは生き物のようにうごめき、彼らを囲んだ。まっこうから血反吐をあび、新治が転んだ。
「に、逃げろ」
達郎が新治を助けおこし、上へ上へとみんなを押いやる。いつのまにか、ひまわりのトンネルができている。利菜はそこを駆けていったのだが、上からは血の雨が降り、ぐしょぬれになるばかり、悲鳴をあげ通しだ。目を開けるのもむずかしいなかでどうにか振り向く。彼女の真後ろでは、ひまわりがものすごい勢いでトンネルの出口をふさいでいる。まるでひまわりのシャッターだ。
大変だ、遅れたら、こんどはあの口に飲みこまれる。
利菜は、慌ててみんなの後を追いかけた。
八
ひまわりの畑が急に途絶え、彼らはたたらを踏んでとどまった。
達郎は頬を流れる粘っこい血をぬぐった。靴も服もびしょ濡れだ。手を振ると、血のしぶきがびしゃりと飛んだ。彼が顔を上げると、おまもりさまはすぐそこにあった。五日前に見た蔓壁が、滝のようにそそり立っている。ここだけが変わっていなかった。
国村のたすきがかかっていたススキ林がある。あのときは、まむしを追っ払おうと棒ではたいて通った。地面を血が流れ落ちてきた。
でも、今は俺の体を流れ落ちてる、と達郎は考える。ぜんぜん笑いたい気分じゃないのに、にやにやと笑みを漏らす。なんで笑っているのか、笑いたいのか、自分でも良くわからなかった。
「もういやだよ……」
佳代子の声がした。彼女はわななきながら、自分の体を見下ろしている。服を払うようなしぐさを見せたが、無駄だった。きっとパンツまでぐしょ濡れになっているだろう。
「なにがおかしいのよ!」
佳代子が怒鳴る。達郎はまだ自分が笑っていることに気がついた。紗英も利菜も新治も、寛太でさえも、非難するような目を向けてくる。
「まだ行こうっての? どうしたいのよ」
紗英は子供のようにシャツを引っ張っている。目には涙をためていた。みんなは沈黙だった。ひどい目にあって、重く沈みこんでいた。
達郎はくじけそうになるみんなを引っ張ってここまできたが、もう限界だった。彼は友達が驚くような行動を見せた。突っ立ったまま、茫然と涙を流し始めたのだ。
五人は唖然となった。達郎だって、自分の涙に驚いた。体を折り、指で涙を拭おうとしたが、その指も血で汚れていることに気がつき引っこめた。ここには蛇口も水もないことに気づき、そのことに泣きながら吹き出した。
「あれ、変だな?」
強がったが、もう本物の限界だった。彼はその場に突っ伏すると、おいおいと、大きな体を揺すって泣き始めたのだ。
子供たちは、達郎の意外な行動を見てうろたえた。
寛太はおまもりさまを見た。誰かが蔓壁の向こうから自分たちを覗き、このことを喜んでいるような気がした。だけど、これまで頑張ってきた達郎が泣きじゃくるのをみて、彼は何も言えなかった。言うべき言葉が見つからないのは彼にはよくあることで、つい口を閉ざしたのだった。
達郎をなぐさめたのは、寛太でも女の子たちでもなかった。これまで達郎とはずっとうまくいってなかった弟の新治で、おずおずと歩み寄ると、兄貴の肩に、手をかけたのだった。
新治は他のみんなとちがって、泣いている達郎をずいぶん見てきたし(と言っても、うんと小さな頃の話だったが)、なぐさめたこともずいぶんあった。
「い、行こうよ」
新治は言った。達郎は腕に目を押し付けたまま、首を横に振る。
「もうやめるの?」
新治が言うと、達郎は首を激しく縦に振った。
「じゃあ、先に行っちゃうよ」
新治は言った。自分でも意外な言葉だったが、口に出したとたん、ほんとに行きたくなったから驚きだ。新治は泣いている兄貴を見て、ほんとに林の向こうを覗いてみたくなった。こんな目にあってまで行かなければならない理由があるとするなら、その訳を知りたいと彼は考えたのだ。理由があるのなら、確かめてみたい。
達郎が驚いて顔を上げた。
「行くのか?」と彼は弟に訊いた。「お前、行くつもりかよ」
新治はうなずいた。達郎は信じられないと言いたげに首をふる。
佳代子はもじもじと言いにくそうにしていたが、
「わたしも行ってみようかなあ」
まるで、向こうにいいことがあるみたいな口調で言った。達郎は、茫然と佳代子の顔を眺めた。
佳代子が手を後ろに組んで、おしゃまなそぶりをした。
「ここまできたのに引き返すなんて、もったいない気分」
利菜と紗英が、きゃあとふざけてその背中にくっついた。
達郎が咳きこみながらようやく笑った。
「お、お前ら、よく平気だな」
「女は血に強いのよ。知らないの」
利菜が意味もしらないくせに、聞きかじりを言った。これには達郎もみんなも笑いだした。
「よ、よし」と達郎はまぶたを拭いながら立ち上がった。「みんなが賛成なら、俺も行く。いいか」
達郎がリトルのチームばりに声をかけると、一同は、お、おう、といささか威勢の上がらない気合を上げた。
寛太はおっかなびっくり蔓壁のほうを見た。さっきまで感じた誰かの気配は、もうしなかった。でも、林の向こうのやつが、舌打ちをしたように感じて、彼は気分がよくなった。
六人はススキの前に立ちふさがった。達郎が鼻から大きく息を吸いこむと、勢い込んで、
「い、行くぞ」
第八章 最初の訪問
九
達郎はリュックの中からタオルを取り出した。丈夫なナイロン越しにも、血がかすかに染みこんでいる。そんなに血を浴びたんだと知ってぞっとしたが、中身は無事のようだ。タオルや紙の縁についただけだ。
彼らは拭えるところだけは拭った。ぐしょ濡れで、乾いているところなんて一つもない。こんな目にあったのに引き返すなんて、確かにできそうもなかった。出直して、一からやり直すなんてこと、考えられない。
利菜はタオルを使う間も、物静かだった。みんなに対して後ろめたかった。彼女だけは、母親を探しに是が非でも中に入りたかったからだ。正直なところ、達郎が気を入れ替えてくれてほっとしていたのだ。
頬を拭うと、血が糸を引いた。ここの血は、粘り気がありすぎて、拭いきれそうもない。だけど、タオルを真っ赤に染めた血よりも(泥バレーをやったよりもひどい有様だ)、気になることがある――脳みそがやっぱり脈打っている。血流が三倍にもなった感じだ。閉じていた引き出しが、どんどん開けられていくようでもある。視界が大きく、広くなり、細かいところまでずいぶん見えた。なんだか病み付きになりそうな感じ。利菜はその感覚を歓迎した。坪井の家で感じたのと同じだった、脳みそが全力疾走で駆けずり回る感じ。あの感覚に、近づきつつあった。
やっぱり、この場所はあそことおんなじなんだ。パワースポット。利菜は、みんなも同じなのかと訊いてみたかった。
きっと同じのはずだ。
準備は終わった。達郎が先陣をきった。佳代子、紗英、利菜が続いた。次に新治がいて、寛太はしんがりを勤めている。
ススキを途中まで踏み分けたとき、ざわざわと草が鳴りはじめた。まるでうなぎのように身をくねらせだしたのである。地面が揺れだしたかと思うと、ススキはぐんぐんと成長していき、あっという間にみんなの背丈を通り越す。でっかい泥のついた茎しか見えなくなる。
利菜がススキの脇から身を乗り出すと、蔓壁も杉の木も巨大化している。足下をみると小石が頭ほどの大きさになっている。友達はあまりのことに悲鳴も出せない。落ち着いていたのは利菜だけだ。こんなことは、坪井の家でも経験していたからだ。
利菜は佳代子たちが、別々の方向に駆け出そうとしているのを見つけた。紗英はススキの向こうに巨大なアリを見つけて悲鳴を上げている。新治は自分の靴が掘ったはずの穴に落ちかけている。
「みんな集まんなきゃだめよ」利菜は、手近にいた紗英と佳代子の手を捕まえる。「手をつないで!」
「でもアリが」紗英が言った。
「アリはあんなにでっかくない!」
佳代子と目が合った。佳代子もあの家のことを思い出した。坪井の家では、階段が斜面にかわり、手すりに油が塗られた。でも、あのときは、心をつないで元に戻したのだ。
「あたしたち、おんなじことをすればいいのっ?」
佳代子が訊いた。利菜は、そうよ、と怒鳴り返した。
地面の揺れはまだ収まらない。男の子たちがやってきて手をつなぎあった。利菜たちは自然円陣を組むかっこうになった。紗英は近づいてくるアリの物音を聞きながらも、必死になって目を閉じた。脳みそが破裂しそうだ。これまでが低速なら、今のギヤは、オーバートップを突き破ってる。達郎も、新治も、寛太も、そのことを感じて声を上げた。血流が脳に送り込まれると、もう呻きしか上げられない。
子供たちの円陣を中心に、物凄い力が流れ込んでくる。パリパリと髪が音を立て、皮膚が泡立つ。外から流れ込んでくるのか、それとも自分たちが高まっているのか、わからなかった。
みんなの心がつながっていく。瞼を開けていないのに、互いのことが見えるのだ。
六人の感情がまぜこぜになり、達郎はわけがわからなくなる。それでも佳代子や新治が考えていることがわかった。達郎は弟のことを理解した。彼は言ってやりたかった。お前はそんなに気をつかうことはないんだと、誰も、誰もお前のことを……
だけどそれは言わでものこと。新治はそんな彼の考えすら読み取っている。六人は互いを理解した。利菜と佳代子が、なんで坪井の家から逃げられたのかもわかった。
「ああ、信じる、この力を信じる」
と彼はつぶやく。自分を信じる、自分たちを。複雑な感情のうねりの中で、六人が感じていたことはこういうことだった。これはただの幻覚なんかじゃない、幻覚なんて超えている、みんながときおりつぶやき、考えていた言葉、世界はねじ曲げられている――あれが起こっているんだと。
自分たちは心をつなぎあわせて、世界のねじまげを食い止めるんだ。
パワーは高まりつづけ、足が宙に浮きはじめた。新治が感嘆の声が聞こえた。ススキや大地、あらゆるものがドスンという音をたてて元に戻った。足がしっかり地に着くと、一同は恐る恐る目を開けた。周囲の景色はまた元に戻っている。彼らは手をつないだまま蔓壁の奥を見る。この森には何かある、と彼らは信じた。
「すげえ……」
寛太が言う。腕で口もとを拭った。いつのまにか鼻血があふれ出している。
利菜はみんなの凝視にあって、弁解をはじめた。「この前もおんなじことがあったのよ。例の家で。話したでしょ?」
「出力全開」
と佳代子は言って、くすくす笑った。紗英も怖々しい笑顔を見せた。
利菜はゴクリと唾を飲んだ。寛太の家を出たとき、結界を出たような放り出されたような感覚を味わった。でも、結界は自分たちそのものだったのだ。自分たちにこんなことができるんなら、わるいものも何とかなるんじゃないかと思えた。精神をつないだあの瞬間、彼女たちのアンテナは、千倍、万倍近くに高まった。ここがいかに危険な場所なのかも良くわかったのだ。
世界は元にもどったが、みんなは手をつないだままでいた。もう少しこのままでいたかった。でも、他人の心を覗くのは失礼なことだ。
「ふう、みんなもう手を離そうぜ」
と達郎は言った。この高ぶりを歓迎しつつも、ちょっと空恐ろしくあったのだ。
「え、もう?」
佳代子が間抜けな返事をする。この感じ、理解しあえている感じが消えるのは惜しかった。みんなとつながる感覚はすばらしかった。
「手を離しても大丈夫だよ」
新治が紗英に言った。
「そうだ、フォークダンスを踊りたいわけじゃない」達郎も寛太の心を読み取って言った。
「……どうやら、ほんとに手を離したほうがよさそうね」
佳代子が大人びた苦笑で手を離す。ほかの一同も。利菜は自分の手がどうにかなっているんじゃないかと思ってすり合わせる。無害な電流を死ぬほど流されたような感覚だ。
「すげえよ、こんなこと、誰も信じないぞ」寛太が言う。
「これまでだって誰も信じなかった」
達郎は、不機嫌に言うと、蔓壁と向きあった。自分が制御できないような感覚が、急に気に入らなくなったのだ。
「わたし、元に戻ってほしいだけなのに……」
紗英が言った。
「俺だってそうだよ。でも、どうにもできないんだ。どんなに願っても、変わってくれなかったろ?」と達郎。「つまり願うだけじゃ駄目なんだ。俺たち何かをしなきゃいけない」
「なんであたしたちなの?」
佳代子がうつむいて訊く。その声はしわがれていた。達郎はちょっと口をつぐんだ。ゆっくりと考えをめぐらせ、言葉を選んでいる。
「きっと、俺たちが自分で選んだからだよ」
彼らは互いの顔色を確かめるように盗み見た。
「俺たちは、自分で決めてここに来たんだ。俺たち、秘密をつかもうとしてる。うんとやばいけどさ。それができるのは、たぶん俺たちだけなんだ」
みんなは、達郎の言葉に納得したものが他にもいるか、確かめるみたいに互いを見合う。
彼らは蔓網を凝視した。今度は国村の声もしなければ、なめ太郎の顔も見えなかった。
寛太が達郎の側でバットを構える。女の子たちは十字架を握った。新治が達郎からリュックをうけとった。
達郎が屈みこむ。網に絡まった泥や、腐った落ち葉に顔をしかめる。彼は顔を上げる。寛太と新治が蔓を払ってくれたおかげで、見やすくなった林の向こうをみた。
みんなはしばらく茫漠とした顔で、おまもりさまを眺めやった。杉の木が行儀よく並んでいる。日があまり当たらないのか、下生えはほとんど生えていなかった。これが話しに聞き、夢にも見たおまもりさまなのだ。
達郎は網を持ち上げ、上半身をくぐらせた。頭が網をくぐった瞬間、キン、という高い金属音がした。空気の層がまったく異質なものに変わった。それはあまりにも生々しく感じられたから、達郎は一瞬動きを止めた。
寛太が訊いた。「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
達郎は肘をついて、網の向こうに体を引きずっていった。最後に足がくぐった。新治からリュックを受けとり背負いなおした。
みんなにこっちに来るよう言おうとしたが、ふと振り向いた達郎は、林の様子に目を剥いた。鼓動が止まったようだ。外から見たのと違う。杉は何倍も太くなり、苔むしている。ジャングルみたいに草むしていた。まるで、邪悪な栄養で肥え太ったみたいだ。見たこともない草、見たこともない木が生えている。しかも、草むらの中からは、誰かの足が突き出ていた。
「お、おい」
彼は急に心細くなった。さっきはおまもりさまに立ち向かえるような気になったが、それがただの慢心だったとしたら……おまもりさまは心をつないだ自分たちより、ずっとずっと強力かもしれない。
達郎は仲間がこっちに来るのを止めようとしたが、すでに寛太は体を半分潜らせている。達郎は寛太を助けて、起き上がらせた。
寛太は、同じように目を見張った。「おい、向こうで見えたのとちがうぞ」
二人は残った仲間を見た。みんな怪訝な顔をしてる。
「見えないのか?」達郎が訊いた。
「なにが?」
佳代子が尋ねた。
「こっちに来てみろよ」
そこで新治が来た。彼は自分が目にしたものをこう評価した。
「本物のおまもりさまだ」
女の子たちも、次々とおまもりさまにやってきた。佳代子がきて、利菜が続いた。最後の紗英だけは、草原側から誰かに足をつかまれもたついたが、達郎と新治が引っぱって、ようやくこちらに来ることができた。
彼らは林の縁にとどまったまま、しばらくおまもりさまのことを点検した。林の中は急速に薄暗くなってきた。寛太がリュックから懐中電灯をとりだした。ライトの部分にも血糊がついている。それをタオルでやっきに落とすと、明かりをつけた。
「あれは誰の足?」佳代子が訊いた。
達郎は無視して言った。
「ここは両神山じゃない。俺たちは本物のおまもりさまに来たんだ」
紗英も訊いた。ヒステリーを起こしそうな危険な口調だった。「なんであそこに脚がつきでてんの?」
脚はここから少し離れたところに生えている。生えている、というのはおかしいが、草に隠れてそんなふうに見えるのだ。
達郎が、確かめに行こう、と言うと、紗英がその腕にしがみついた。
「やめてよ、死体を確かめにいくなんて。悪趣味なことしないでよ。どうかしてるんじゃない……」
「だけど、あれが……」
と達郎は言いかけて口をつぐむ。六人ともが同じことを考えていた。彼らはまだつながっていたから。あのとき、国村は(国村の真似をしたなめ太郎が、ということだが)、助けてくれ、と言った。国村はいなくなったままだ。でも、どこかにはいるはずなのだ。
あれはもっと別の死体なのかもしれなかった。大人の足に見えるけど、英二のものだという可能性だってある。
「死体じゃないかもしれない」
達郎はみんなを説得するように言ったが、成功しなかった。出力全開の脳みそは、あの脚から(あの足の先から)生きている気配がしないことを告げている。
彼らは勇気を起こして、死体に向かって歩いていく。ぶよぶよしたコケを踏みながら。寛太が強く踏みつけると、ぶすぶすと空気の抜ける音がした。辺りを満たす苔むした臭いに、彼は喘いだ。
死体は草むらを薙ぎ倒して横たわっていた。きれいな死体、というものがあるならば、その死体には損傷もなく、血痕も見当たらない。眠っているようだった。呼吸をしていないことと、ありえないぐらい青ざめた皮膚の色が、男が死んでいることを告げている。
「外人だ……」と寛太が言った。
達郎が新治に訊いた。「図書館で会ったやつか?」
新治は首を横にふった。見たこともない男だった。
「ねえ、それって本物なの?」利菜が訊いた。「本物の死体?」
「うん」と達郎が答える。「そう見えるよ」
「じゃあ、なんでここにあるの? 外人でしょ?」
寛太がバットで死体の脚をつつこうとした。佳代子が上から抑えた。「よしなよ、動きだしたら、どうすんのよ」
「そしたら、こいつはゾンビだ」
「俺、死体ってはじめてみた」
新治が言った。みんなも、はじめてだった。親戚の死体なら見たことはある。たいていは棺に入った状態のままで。でもこいつは殺されたか、あるいは自殺したんだろう。
利菜は辺りを見回した。森の様子は微妙に変化していた。起伏が多くなり、アニメでしかお目にかかれないような、へんてこな草木が増えていた。林というよりは、ジャングルという言葉がぴったりと合った。そんなところで、六人の子供が死体と向き合っているなんて、うそざむい話だった。
「おい、一つだけじゃないぞ」
寛太が言った。死体はここだけでなく、あちらこちらにあった。それとともに、異臭が――死体の腐っていく臭いが、鼻腔に届いてきた。
達郎は、こんなのうそだと思った。全部にせものだ。
でも、視界を埋める死体はなくならない。目に映るだけでも、数十はある。
死体の群れは実に多彩だ、国籍もバラバラだった。男もいれば女もいて、どう見ても江戸時代の農民としか見えない格好の男もいた。首吊り死体も、あちらこちらにぶら下がる。軍服を着た男、額に穴を開けたドレスの女、白骨死体もある。真っ黒に焼け焦げたもの、ミイラみたいにやせ細った者もいた。
うわあ……と紗英はうめいて、口に指を突っこんだ。みんな、固まれ、達郎が小声で言う。死体に聞かれるのを、恐れるみたいな声色だ。
なによ、これ?
佳代子は泣き声だ。寛太が、
「ひでえ臭いだよ。マスクも持ってくりゃよかった」
「あれって、さむらいじゃないの?」
新治が言った。彼の左手には、腹に刀を突き刺したちょんまげの男が、顔のあちこちから血を流して倒れている。なます斬りに斬られている。男はまぶたをかっと開いていたが、その瞳は濁っている。
あちらこちらで、虫のうごめく音がした。
六人の心が引き返そうかと、後ろを向きはじめた。
「なんで、こんなに死体があるんだよ。いろんな国の奴がいるんだよ」
達郎は茫然と言う。
「でも、さっきは見えてなかった」と佳代子。
「関係あるのかな」
利菜が言った。幻覚とは思えない。後年の利菜なら、ここにいろんな死体があったって、少しもおかしくなんてない、と答えただろう。
みんなの頭で同じ言葉がぐるぐる回っている。
世界はねじまげられている。
それはまさしく、時代も空間も越えて集まってきた死体だった。そのことに気がついたとき、利菜たちはぞうっと寒気がした。
怪鳥が叫ぶ声が、森の奥からとどろいた。奇妙な動物が、あちらこちらで目に付きだす。そのいくつかは、死体に食いついている。新治のそばで、死んだ女の口から、芋虫が這い出てきた。
「弱気になっちゃだめだ」
達郎は震える手を差し出す。彼らは再び手をとり合う。この死体が本物かどうかはわからない。でも、弱気になればなるほど、わるいものは集まってくる、悪いほうに変化していく。その力はみんなの心にも触手をのばしている。
子供たちは想像以上に弱気になっていた。
達郎は心の中で、このねじまげを食い止めるんだ、と呼びかけた。
利菜は母親を探したかったし、佳代子は外にいる母親自体が恐ろしかった。紗英は、わるいものがみんなの心に手を伸ばしているのなら、両親の不仲はそいつのせいじゃないかと考えた。新治だっておんなじ気持ちだ。寛太はこんな臭いを嗅ぎ続けるのはうんざりだったが、英二のためにも残りたかった。背を向けるところを、友達やじいちゃんには、見られたくない。
みんなはそれぞれの事情で、達郎の申し出を受け入れた。森の奥に目を向ける。
パワースポットが、本当にあるとするなら、坪井の家とは比べ物にならないぐらい強烈なやつだ。
六人は順々に手を離していく。達郎は手の中の十字架やお札をみつめた。そっと指を開く。
十字架はずるりと手のひらを滑り落ち、苔生した地面に落ちていった。
「捨てよう……」
えっ? 紗英が顔をゆがめて訊き返す。
「こんなもの役に立たない。だって俺たち、誰も宗教なんて信じてない」利菜に目を向ける。
「それどころか、憎んでる奴だっている。自分でも信じてないものに頼ったら駄目だ。俺が信じてるのは……」メンバーの顔を順々に見回す。「みんなだ。俺はみんなのことを信じてる」
六人は無言だった。やがて佳代子が、寛太が、新治が、持っていたおまもりや、位牌といった道具を捨てていった。達郎の足元で、小さな山ができた。
利菜はごくりと唾を飲む。仲間の視線を避けるように目を泳がせた。みんながこんな目にあっているのは、自分のせいのような気がして、後ろめたい。そのせいか、みんなのことも怖かったのだ。
彼女は父親の様子がおかしいことをみんなに言わなかった。言えば、みんなは両神山行きをとりやめにしたかもしれない。もう少し粘って、寛太郎の帰りを待ち受けたかもしれない。でも、彼女は母親を見つけたかった。放っておくのは危険な気がした。みんなに、ついてきてほしかった。
坪井の家に佳代子を連れて行って、危険な目にあわせたというのに、ここでもおんなじことをしている。そのことが後ろめたかった。それに、彼女は友達のことを疑っている。みんながまたおまもりさまに操られて、何かしてきやしないかと、不安を抱いている。仲間を疑うなんて、自分の心がひん曲がってしまったようで、いやな気持ちだった。
身勝手なやつだ……
声をかけられたが、彼女は振り向かなかった。
利菜はおまもりを捨てたくなかったが、結局は友達のことを信じてそうした。それを見て、紗英もあきらめたように、十字架から手を離した。
十
寛太には名案があった。
リュックからスプレー缶を取り出す。近所のホームセンターで買ったやつを。それを木に向かって吹き付けた。その樹木は節くれだち、魔女の森に出てきそうな代物だったが、寛太がスプレーの中身を吹きかけた瞬間に、こぶの部分が大きく口を開け、寛太の放ったペンキの大半を飲みこんでしまった。寛太は悲鳴を上げて、空中にバッテンを書いた。今度はうまくいった。生きている木は、真っ赤な×印を描かれて、顔をしかめたように見えた。
彼らは高まる悪臭に辟易しながらも、森の中を進んでいった。ひどい死に様の死体に、脂汗をにじませながら進んだ。この死体は幻覚で、消えるんじゃないかと考えたが、甘い期待にすぎなかったようだ。胸が悪くなるだけだ。
新治が立ち止まって吐き始めると、紗英もたまらず吐いた。森の中は寒かったが、みんなは汗だくになっていた。
「なんで消えないんだ、幻覚じゃないのかよ」
寛太の足下に比較的状態のいい死体があった。寛太はそれに触ろうとした。
「やめろ、寛太!」
と達郎が言った。
死体に手を触れた瞬間、自分の皮膚と死人の皮膚が溶け合うような感触がした。視界が消え、五感が奪われた。死者の記憶が流れ込んできた。寛太は男の死を追体験している。彼の目は、死んだ男の目になった。体が硬直し、唾が垂れる。喉を絞められる苦しさに、寛太はあえいだ。かすんだ視界の中で、自分の喉を絞める男が見えた。
死んだんだ、こいつはこんなふうに死んだんだ!
そこは霧深い湖畔のそばの草地で、ここじゃない、と寛太は思った。この森じゃない、この男は別の場所で殺されてる。でも、おまもりさまに行き着いた……。
とつぜん膝をおり、苦しみ始めた寛太を目の前にして、達郎はどうすることもできなかった。寛太が左手を首に伸ばす、その指がヒフの直前をひらひらと漂った。達郎は、この少年がどういうわけだが、首をしめられて苦しんでいるんだと知った。寛太の右手は、死体の肩に置かれたままだ。
達郎は、その手を力任せに引き剥がす。新治も寛太の体をひっぱった。二人の頭脳にも、記憶が流れ込んできた。けれど、寛太の指が肩を離れた瞬間に、その映像、痛み、感触はとだえた。だが、達郎たちは、死体を通して、おまもりさまに手を触れてしまったらしい。
森中に散らばった死体から、色のついた気体がムクムクとわき出してきた。それは雲のようにふわふわと宙に浮かんだ。音こそしないが、人々が苦しみ死ぬさまが雲の中に見える。寛太の元に駆け寄ろうとした利菜も、目の前に浮かぶ陰惨な殺害現場に怖じ気づいた。
悪意にみちた記憶は、メンバーめがけて集まってきた。六人の精神に、死者の記憶が飛び込んでくる。子供たちの脳は、パンクするほどの衝撃を受ける。彼らは、その光景を見、その臭いを嗅ぎ、その死を体で感じた。彼らは被害者でもあり、加害者でもあった。
「やばいぞ、みんな手をつなげ!」
と達郎は言った。寛太と新治はとっさに達郎の手を取った。紗英と佳代子も。
遅れたのは利菜だった。彼女は特大の記憶に飲まれて転んだからだ。頬が地面の苔をすり、擦り傷に顔をしかめたのは一瞬で、彼女はすぐさま記憶の奔流に飲みこまれた。その記憶には無数の死が詰め込まれている。行進する軍隊をみた。右手をかかげ、演説するヒトラー、銃弾に撃たれて倒れる少年。爆弾で人が死に、戦闘機の機銃で人肉が裂ける。利菜はその光景を打ち消そうとするかのように、手をふった。あまりにもおぞましい光景だった。記憶はどんどん強くなる。一つに上られようとしているのだ。利菜は悲鳴を上げた。みんなも悲鳴をあげていたが、その声はひどく遠くに聞こえた。みんなが遠くに感じられる――
わあ、たいへんだ、あいつが、あたしたちを、ひっぺがしにかかってる!
気がつくと、彼女は血まみれの体のまま、硝煙のただよう戦場に這い蹲っていた。辺りを銃弾が飛び交っている。砲弾が近くで炸裂して、体が震える。口の中で奥歯がカチカチと鳴っていた。周囲に着弾があるたびに縮み上がった。びゅんびゅん、ばしんばしん、弾が風を切る音、弾が地をうつ音が、頭蓋を震わし、鼓膜がおかしくなりそうだ。利菜は複雑な風に服をはためかせながら、佳代子、と言った。達っちゃん助けて
周囲を見回したとき、大柄な兵隊が銃剣を構えて彼女を見おろしていることに気がついた。どこかの国の言葉でわめいている。さっきからずっと怒鳴っていたようだが、最初の砲弾で耳が馬鹿になり、全く聞こえていなかったのだ。
「あたしに向かってわめいてる……」
彼女はガタガタ震えながら呟いた。両肘を抱えると、血まみれの体に砂埃がいっぱいついている。地と一緒にじゃりつく音が、骨に聞こえた。
兵隊がこっちに歩いてくる。ひどく興奮しているようだった。
うろたえてあたりをみまわすが、友達もいなければ遮蔽物もない。利菜はこの期に及んで殺されるはずがないと思った。自分は子供だから。でも、この夏は子供が大勢殺されたことを思い出した。兵隊が持っていた銃剣を、槍みたいにつきだしてきた。利菜は地面に伏せた。
そうして、固い石ころだらけの地面に(その石ころは砲弾でくだけたらしく、鋭くささくれだっていた)頬をうちつけながら、彼女は兵士のすすだらけの若い顔、恐怖に血走った目を見、吐く唾を目にした。銃剣の先が、血で濡れている。腕をみると、二の腕が大きく裂け、そこから真新しい傷口がのぞいていた。
「痛い……」
信じられないと言いたげにつぶやいた。わるいものがすぐ側で囁いた。これは罰だ、みんなをだました罰だ。
戦車が荒れ地の丘を乗り越えるのが見えた。兵隊は仲間からも取り残され、敵に囲まれ、すっかり錯乱しているのだった。血まみれの子供を是が非でも道連れにすると決めたようだった。利菜は逃げようとしたが、腰が抜けて這うことしかできなかった。デカ靴に背中を踏まれて、蛙のようにうぎゃっと鳴いた。利菜は踏みつけにあったまま強引に振り向いた。男はとどめをさそうと銃剣を振り上げながら狂ったよう叫んでいた。それは外国語だったのに、利菜にはちゃんと翻訳されて聞こえた。死ねと
達郎はそのとき、若者同士の殴り合いの現場にいた。それは殴り合いというよりもリンチに近く、殴られている少年はほとんど死にかかっていた。達郎はそんな場所にいたのに、戦場にいる利菜のことがなぜか見えた、背の高い兵隊と向かい合っている。利菜は兵隊に押さられ、止めを刺されかかっている。
「利菜!」
と彼は仰天した口調で言った。彼が記憶にとりこまれず、自分を保つことができたのは、仲間と手をつないでいたからだった。達郎はその手の感触を心強く思いながら、
「みんな、心を合わせろ!」
と言った。
達郎の声で、一同はようやく落ち着きを取り戻した。紗英は、子供が母親にナイフをなんども振り下ろす現場にいたが、これは幻覚だと、今いる場所なんかじゃないと信じた。友達の存在がそうさせてくれた。隣にいるはずの利菜に手をのばし、その手をつかんだ。利菜は後頭部を串刺しにされる寸前だったが、危ういところでその空間から引っ張り出された。子供たちは間一髪で死の記憶から抜け出した。
子供たちから引き離された記憶は、渦を巻いて頭上を巡りだした。寛太はそのなかに英二の姿をみる。わるいものに、引きずりこまれそうになる。
達郎は仲間を掻き集めると、再び手をつないで円陣を組ませた。
彼らはふたたび環になって、おまもりさまを呼び戻そうとした。達郎は友達と一緒にいれば、なんとかなると思った。でも、甘かった。おまもりさまは、とても、手に負えるしろものじゃない。
気がつくと、六人は元いた林に戻っていた。死体は大人しく死んでいた。死の物語は聞こえてこなかった。彼女たちはゆっくりと唾を飲んだ。秘密がわかった気がした。彼女は死体に触れることで、おまもりさまに触れることができたから。あいつのことを理解したのだ。子供たちは自分たちにかかわっている何かのことを、単に、わるいもの、と呼んできた。それは人間が歴史や営みのなかで溜めこんだ、ありとあらゆる悪意の固まりだ。それが自分たちにも影響を与えている……。人間があんな悪いものだなんて、ショックだった。
利菜は胸元を見下ろした。危うく心臓を一突きされるところだった。でも、友達が助けてくれた。みんな自分を見捨てなかったのだ。そう思うとじわりと涙が浮かんだ。わるいものはいろいろ言ってくるけれど、でもそれは真実じゃない――
けれど、安堵感がない。心の中でわるいものが――不信が育っていく感じがする。自分も他人も信じられない気がした。世界中で悪いことばかり起こっている。今もって。利菜はそれが怖くて震えた。吐き気をこらえ、嗚咽を漏らす。右腕をみると、傷は生々しく残っていた。
「あいつ、あたしの服を切っちゃった」
利菜は唇をかみしめて泣き声をこらえている。佳代子がハンカチをとりだし、利菜の腕にきつく巻きつけた。彼女もきゅっと口を閉じている。寛太を睨んだが、何も言わなかった。
「あ、あいつだ……」寛太は喘ぎながら言った。鼻水を拭こうともせず、死んだ男を凝視している。「わるいものに殺されたんだ。俺、こいつが死ぬとこが見えた。俺も殺されるとこだった。こいつは別の場所で殺されたのに、なんでか、この場所にいる……」
人類の犯してきたありとあらゆる悪いものを見せつけられて、みんなの気持ちは重く沈んだ。誰もが死んで当然のような気がした。だって、人間は悪い生き物だ。
利菜はみんなの心がくじけかかっているのを感じた。記憶をさ迷っている間に、事態はさらにまずくなっていた。いつのまにか霧が出ていた。綿菓子みたいな霧が群生している。
紗英はカナダでガールスカウトに入っていたから、遭難に関しても知識があった。こんな樹海みたいな場所で、霧が出るのはまずい。寛太がつけた目印も見つけるのが難しくなる。このままだと、迷うことになるかもしれない。
彼女がそのことを話すと、みんなは顔を見合わせた。紗英はあちこち動き回らないで、じっとしていたほうがいいと言った。みんなは紗英を見た。その目は、こんなところでじっとしていられるか、と言っていた。
佳代子が足元を見下ろし、はっと息を飲んだ。女の子がすぐ側に転がっていた。佳代子はその子を知らなかったが、見覚えだけはあった。紗英が近所にいたと言った子。何度も新聞をにぎわせた女の子。小野田美由紀という子。
「ひどいよ……」
と佳代子は言った。友達もその死体に気がついた。紗英はありえないと口にした。美由紀ちゃんはすでに火葬されていた。彼女はこの子を乗せた、霊柩車のことも目にしている。
子供たちは、今朝見た幽霊のことを思い出す。その子たちの仲間入りをするか、このまま進むかだ。
利菜は額の汗を拭った。傷がひどく痛んだ。
みんなは迷った。だけど、達郎が言った。
「い、急ごう」
一同は背中を刺されるような、純然たる恐怖を感じた。でも、戻ったところで結果は目に見えている。どこにいたところで、わるいものは彼らに関わってくる。わるいものが人類全体の悪意の塊とするのなら、どこにいったっておんなじだ。彼らは精神の奥底で、あらゆる人の意識とつながっているのを、感じたからだ。
彼らは道なき道を進んだが、霧は深くなる一方だった。森のなかにスチームがあって、その蒸気を吹きつけてくるみたいだ。霧は足元をおおい、膝まできた。そのあとは一気だった。霧は林自体を飲みこんでしまった。
達郎がおごそかに、
「もうだめだ、迷うぞ」
「たっちゃん、引き返そう」
寛太が言った。
でも、外には父さんがいるよ……。
そんなことを言いそうになり、利菜は黙って顔を伏せた。父親のことをモンスターみたいに言うなんて、そんなことはできない。
実の親なのにな――
後ろから声をかけられ、今度は利菜も振り向いた。だけど、そこには霧が広がるばかり、林の様子さえわからない。霧が視界を隠し、みんなの恐怖は頂点に達した。見えないことが、こんなにも怖いことだは思わなかった。
進むほどに、わるいものの力は強まっていくようだ。
六人はあれこれ話し合った結果、とうとう引き返す決意を固めた。子供たちは出直すだけだと言い張った。自分たちを見すえる何かに対し強がっているみたいに。本当は動かないほうがいいとわかっていたけれど、死体と我慢比べをするなんてごめんだ。外に出て、態勢を立て直したかった。だけど、引き返すことは逃げ出すことに他ならない。
心が後ろを向いたら、とたんに恐怖は万倍になった。
彼らは懐中電灯をふやし、来た道をたどり始めた。ここで引き返したら、戻るなんてもう無理だ。でも、そのときには疲れが限界で、まともに考えることができなかった。
脳みそが炎症をおこし、頭蓋骨の中でパンパンに腫れあがっている。これまでにないほど脳みそを使いまくった結果、いまにも頭が破裂しそうだ。つないだ絆は切れ掛かり、みんなふつうの子供に戻りかけていた。
「なんでおまもりを捨てちゃったのよ」
佳代子が達郎をなじると、たちまち罵りあいがはじまった。心を強くたもとうなんて、もう誰も考えなかった。言い争いに参加しなかったのは、利菜だけだ。彼女だけは心に語りかけてくる声に、集中していたからだ。
罵りあいながら歩く五人のメンバーから、利菜の足取りは遅れがちになった。誰もがそのことに気づかず、その距離は十分にとられた。
利菜は肩をつかまれた。振り向くと、坪井善三が立っていた。
十一
達郎たちは、寛太のつけた印を探すのに懸命だった。霧はちっとも晴れないし、あちこちの死体はそのままだ。懐中電灯の明かりが、サーチライトみたいに霧に吸いこまれた。達郎はみんなが離れないよう気を配った。
おかしいのは利菜だった。彼女だけが一人遅れている。霧の向こうに、沈んだり浮かんだりしている。
達郎は怪我でもしたのか、ひょっとして腕の傷口からばいきんでもはいったんだろうかと心配した。今にも倒れそうに歩いている紗英と佳代子に手を貸しながら、「遅れてるぞ、早く来いよ」と言った。
わかってる、利菜は答えた。彼女が小走りになったので、達郎はちょっと安心した。よかった、体はなんともないみたいだ。
だけど、変だな、達郎は思った。利菜の声は、耳で聞いたというより、頭に響いたように感じた。達郎は不安になった。
おかしいな、なんでこんなふうに思うんだろう?
達郎は恐怖の中で、こう考える。きっと、山にいるせいで耳がおかしくなったんだ。高いとこに登ると、耳がつんとなるもんな。
それは自分の考えのようでいて、そうではなかった。達郎は自分で自分の気持ちをごまかしたのだけれど、このときは気づかなかった。
彼はもう一度振り向いた。利菜はちゃんとついてきていた。彼は前を向いた。新治と寛太の背中を、目で追い始めた。
達郎が、そのとき見た利菜が幻覚に――わるいものが生み出した幻覚に過ぎないことに気がついたのは、ずっと後のことだった。そのときには、利菜はおまもりさまに完全につかまっていて、取り戻すことは不可能だったのである。
十二
坪井善三は完全に死んでいた。頭の半分が砕けている。開いた傷口からは、砕けた脳が露出していた。残った目玉は、完全に白目をむいている。左腕は皮一枚を残してぶら下がっている。右足はありえない方向に曲がっていた。出血は止まっていたが、乾いてはいなかった。
この状態で生きている人間はいないとしての話だが、坪井善三は完全に死んでいた。それに利菜が坪井を最後に見たのは、彼の自宅だ。佳代子の母親に、連れてこられたんだろうか、と思って身震いをした。坪井の腕を振り払いたかったが、体が動かなかった。
あの家で見たときは、どこにでもいる冴えないおじさんだった。太っていたし、油ぎって、はげてもいた。あの日は宗教の集まりがなく、気をぬいてくつろいでいたのだ。えらい人には全然見えなかったし、こんなに大きくもなかった。
坪井善三は森の瘴気を吸って、何十年かぶりに成長したかのようだった。
坪井の脳を見つめるうちに、うえっと嘔吐きが起きた。
「吐くのか?」と坪井が問いかけた。口からは、黒いものがにじみ出た。「吐くのか? 俺を殺したのはお前じゃないか」
利菜は胃袋を飲み下し、「違う、あたしは母さんを帰して欲しかっただけだもん」と言った。「殺そうなんて思ってない!」怒鳴ってやりたかったのだが、声はひび割れ、涙も落ちた。いっときはこの男を心底憎みきっていたというのに、今はただ恐ろしい。
坪井は、でも俺は死んだんだ、お前も死ね、と言った。
「離してよ……」
利菜は懇願する。手にはさらに力が入る。身動きをするとさらに強く。青白い爪が肩に食いこみだす。薄いシャツをこして、坪井のささくれ立った爪が皮膚をつきやぶろうとする。利菜は痛くてまた泣いた。
斉藤秀幸や他の子供たちが、どんなふうに死んだのかがわかった。心を粉々に砕かれて、絶望して死んでいったのだ。絶望は人の心だけでなく、体だって殺すんだと。そのことが彼女にはわかった。
カチリ
何かが所定の位置に収まる音がした。坪井の白目がぐるりとまわって黒目になった。
利菜は膝を折った。逃げたいのに、体に力が入らない。
「もう助けはないぞ……」
利菜は坪井の足元にひざまずいた。手を合わせて、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、助けてください……とつぶやいた。それは無意識に出た言葉だった。母親がいつもしていたお祈りの言葉が、耳に残っていたのだ。
坪井に空白が訪れた。空白の時間が。彼は、生前自分が情熱を打ちこんだ言葉を聞いて、考えこんでいる。口をあけたまま、動きを止めた。
顔を上げた利菜は、坪井が自分に覆いかぶさろうとしていることを知った。そのさきの結果は知りたくもない。坪井の口から真っ黒な血が、よだれまじりにたれ落ちてきた。利菜はそれを避けて、ぱっと立ち上がった。
「みんなはっ?」
彼女の身動きで、霧が渦を巻いた。誰もいなかった。真っ暗だった。夜みたいに。
利菜は口に手をあて、大声を上げようとする、霧の中から突き出た猿臂に、胸を一突きされてその場に転がった。痛みに顔をしかめながら見上げると、白い霧の幕を引き裂いて、ついになめ太郎が現れた。
「関心、関心」
「うわああ!」
利菜は声を上げながら、坪井の隣を駆け抜けた。なめ太郎が足音をならして追ってきた。
振り向くと、クモみたいに長い手足を、猿のように振り動かして追ってくる。手足をつくたびに、ダッと土が舞い散った。利菜は死体を踏みつけ(おなかを踏みつけると、肉が裂けて、中にたまった空気が、ぶふう、と出てきた)、木の根に足をとられながらも必死に走った。その間も、なめ太郎が心に語りかけてくる。
「みんなお前を捨てたぞ、よく頑張ったが無駄だったな、父親も母親もみんなお前を見放してる、お前はここで死ぬんだ」
そんなことない、と利菜は言った。でも、みんなから遠ざかっているのがわかる。みんながいるのとは反対方向に走っている。だけど、後ろには、なめ太郎がいて引き返せないのだ。
霧の中から溺死女があらわれた。利菜は慌てて方向を変えた。溺死女は死体の腕や足をちぎって投げた。利菜は死体の腕に顔をつかまれ悲鳴を上げた。それをむしりとると、助けて、と言った。誰か、助けて。
隠れるところを求めて走る。呼吸をするたびに大量の蒸気が胸に入りこむ。木にぶつかり、低木の葉に頬を切り裂かれながらも走った。
止まれ、小娘! もう逃げても無駄だ!
「うるさい!」
振り向かずに怒鳴る。急に目の前に階段と扉が現れた。利菜は止まれずに敷石に足をとられ、階段に身を投げ出し、賽銭箱らしきものに身を打ち当てて止まった。骨の節々に痛みが走る。折れたんじゃないか。利菜はすねを抱えた。だけど、痛がっている暇はなかった。顔を上げると、坪井となめ太郎と溺死女の三人が飛びかってきた。
利菜は悲鳴を上げて、身を翻す。後ろからは三人が階段を駆け上がってくる。利菜は一歩早く、お堂の扉を開け、中に滑りこむと、扉を閉めた。
ドタン、ドタン
外の三人が扉に身を打ち当てる。出て来い、出て来い、と喚いている。でも、扉を開けようとする気配はなかった。
利菜が恐る恐る格子の隙間から外を覗いた。三人の目玉と視線があい、彼女は尻餅をついた。なめ太郎は格子にしがみついて、扉を前後に揺すっている。利菜は尻餅をついたまま後ずさった。出てこい、出てこい、出てこい!
「いやだ! ぜったい、出て行かない!」
そこはかなり大きなお堂だった。真っ暗だが、部屋の奥に飾り壇のようなものが見える。部屋はひとつきりだ。仏像の類はなく、質素なつくりで、天井には蜘蛛が巣をはっている。窓はない。お堂の外からは、なめ太郎たちがうろつく音がした。何かをぶつけているらしい。壁がときおり音を立てた。
利菜は、安全なお堂で少し落ち着きを取り戻した。汗をかいたせいか、ひどい寒気を感じる。呼吸を整えようとすると、吐く息は真っ白で、冷えた洞穴にいるみたいだ。全力疾走のせいで、肺が痛んだ。いろんなものにぶつかって、全身がぼろぼろだった。目暗闇のなかを走りすぎたのだ。
痛みにうめきながら、腰をおろす。体を点検すると、ズボンがやぶけ、膝小僧がのぞいている。血が光っている。
どんな目にあってもいいように、いらないズボンを履いてきたものの、それでも残念だった。擦り傷だらけで、打ち身も多かった。わずかな身動きでも痛みが走る。
みんなのことを感じようと、意識を集中させた。だけど、なにも感じなかった。携帯の圏外にはいったような、そんな感じだ。
「どうしよう……デンチは達郎ちゃんが持ってるし」
とつぶやいてから、自分がピンクのリュックを背負ったままだったことに気がついた。利菜はあわててそれをおろし、中身を確かめた。入っているのは弁当だけだ。
「食事か? くれよ」
格子の隙間からなめ太郎がのぞいている。利菜は怒って弁当を投げた。風呂敷が解け、中身がちらばった。坪井善三が、外におちた中身をむさぼりはじめた。
利菜は弁当の風呂敷を膝に巻きつけた。腕のハンカチを撫ぜると、涙が出そうになった。それをこらえて立ち上がる。お堂を再度みかえした。
その部屋は広くなったり狭くなったりした。まるで利菜の感情に、坪数をあわせているみたいだ。彼女は自分で自分の手をとって、みんなのことを感じようとした。何も感じない。
大声を上げて助けを呼びたいが、外はわるいものでいっぱいだ。
このお堂、なんでこんなに新しいんだろう。両神山に村が在ったことは知っている。でもそれは江戸時代の話だ。その人たちが建てたお堂だとしても、とっくに朽ち果てているはずだ。
世界はねじまげられている……ねじまげられている……と彼女は考えた。でも何かを考えるには、彼女は疲れすぎていた。
体育すわりをして、膝におでこを乗せると、少し眠った。
彼女が目を覚ましたのは、なにかを感じたからだった。お堂の中で、なにかが動いている。なめ太郎が入ってきたのかと思ったが、ちがうようだ。彼女は目をこすった。そんなには眠っていないはずだ。
時計をみる。十一時になっていた。おまもりさまを四時間ばかりもうろつきまわっていたことになる。みんなはどうなったんだろう? わたしをおいて外に出ちゃったんだろうか?
いけにえだ、となめ太郎が言った。
「佳代子はそんなことしない」と言い返す。
どうやら部屋の奥にあるのは、縦長の丸鏡のようだった。利菜はふらふらと近づいていった。ずいぶんうすぼけた鏡で、おまけにすごく曇っている。暗いせいもあるが、映っているものがよく見えなかった。
やがて利菜は、
「銅だ、この鏡、銅でできてる」
でも、何かがそこでうごめいているのは確かだ。自分が映っているんじゃない。利菜はよく見ようと、目を細めて鏡に近づいた。鏡面に息がかかって曇りがついた。曇りを拭おうと指を伸ばした。そのときだった。
その鏡は、磁石みたいに彼女を吸いよせた。利菜は鏡にはりつけになった。冷たい鏡に顔がはりつく。骨を残して、皮と肉がひっぱられる。利菜は鏡に手をついて体を引っぺがそうとした。外でなめ太郎たちが歓声を上げた。
「なによ、この鏡」
利菜は手を突っぱるが、鏡の吸引力はさらに強くなる。そのうち鏡の向こうがはっきりしてきて、誰かが手をついていることを知った。
「手を離しなさいよ!」
と利菜は言った。その人物は、うろたえたようだった。
そのうち鏡の色が変わり、坪井の家でみたあの真っ黒な穴が鏡に広がった。どろどろとした瘴気が漂いだし、腕や体に巻きついてくる。その瘴気はわたアメみたいにしっかりしている。
「離して、離せ!」
その言葉は、この日、彼女がこの世界に残した最後の言葉になった。吸いこみがぐっと強くなり、腕が鏡にめりこんだ。足を突っぱりこらえるが、踵が上がってとても堪えきれなくなる。利菜は穴から身を離そうと、ぐっと背を反らした。
その瞬間、穴はぐわりとその輪を広げ、瘴気もろとも彼女を飲みこんだ。
利菜がこの世から姿を消すと、黒い穴はなくなった。異界との鏡は、また元の銅の鏡に戻った。
そして、なめ太郎や溺死女の狂喜の叫びも、同時に消えたのだった。
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坂上誠一郎のねじまげシリーズ http://homepage2.nifty.com/i-bunko/ |
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