廣 島 丸










日本郵船百年史




参考資料:

〈1〉萱原宏一/戦中比島嘱託日誌/青蛙房/昭和58年

〈2〉日本郵船百年史

〈3〉日本郵船百年史

〈4〉松原宏遠/時局とニツケル/東京朝日新聞/昭和15年6月7日

〈5〉ウーゴ・ナンニ/下位春吉訳/原料争奪の世界戦/改造社/昭和15年

〈6〉防衛研修所戦史室/戦史叢書14/南太平洋 陸軍作戦(1)/

〈7〉小林英夫/日本軍政下のアジア/岩波新書/1993年

〈8〉森村桂/天国にいちばん近い島−地球の先っぽにある土人島での物語/角川文庫/昭和44年

●カレドニアの森
アーサー王伝説の有名な戦場に「カレドニアの森」がでてきます.イギリス人船長クックはスコットランドの風景に似た南洋の島にニュー・カレドニアという名を与えました.ナポレオン三世の時代のフランスが世界的に稀少なニッケル鉱山のあるこの島の領有を宣言したのは、ペリーが浦賀に来航した年のことです.明治25年にニッケル鉱山採掘の日本人労働者600人が、その前年に英国で竣工した廣島丸で運ばれました.日露戦争で「軍神」となる広瀬武夫はこの時「ああ此島も亦碧眼奴に先鞭を着けられ」たと「航南私記」
(1)に書いて、欧米列強の侵略に無念の情を発露しています.
●最初の外洋定期航路
独自の外国定期航路を持つことは日本海運のみでなく、明治政府の悲願でもありました.日本郵船は国家の基幹産業である紡績産業の発展とインド産棉花の輸入急増を受けて、ボンベイ航路の開設に着手します.欧州船会社の妨害は凄まじいものでした.英墺伊の船会社が組織する海運同盟で最も強硬だったのは英国です.「寸毫斟酌容赦する処無く」「報復手段」をとるという英P&O社の恫喝に対し、日本郵船は国家の利益のため敢然と立ち上がります.明治26年11月7日、日本発の外洋定期航路の第一船として神戸を出港したのがボンベイ航路廣島丸でした.そして安い輸入棉花が供給されるようになったのです.
(2)
明治28年、香港で一人の亡命者が廣島丸に乗船します.革命蜂起に失敗して脱出をはかる孫文でした.中国革命の父孫文はこの時はじめて日本の土を踏み、上陸した神戸からはその後多くの革命支援者を輩出します.
明治29年、外洋航路船に初めて日本人船長が誕生しました.廣島丸の嶋津五三郎です.写真に写っているようにこの時廣島丸船員は全員が日本人であり、そしてそれは当時稀有なことだったのです.
(3)
●FS作戦とニッケル

明治から昭和まで日本近代化の尖兵として闘い続けた廣島丸は開戦の二ヵ月半前、1941年9月23日、千島列島で座礁事故を起こし波乱の生涯を閉じます.
日本が通貨として国内に備蓄していたニッケルは重要な戦略物資であり、1940年にドゴールの自由フランス政府は、日本移民が営々と発掘を続けたニューカレドニア・ニッケルの対日禁輸を発表
(4)していました.「鉄・銅・真鍮の器物の酸化を防ぐ」メッキや、特殊鋼、砲弾の外装に使用(5)するために大本営はニュー・カレドニアの占領とニッケル2000トンの確保〈初年度〉を含めたFS〈フィジー・サモア〉作戦を立案します(6).東京の料亭では海軍将校が業者に「マレーや蘭印など、もう利権屋がほじくりかえしたところに割り込まないで、来るべき新占領地域に先手を」うっておいたほうが良いと鉱山開発への参入を示唆します(7).しかしFS作戦は実施されることなく、日本は敗戦へとつき進んだのです.
ニュー・カレドニアは戦後に訪れた日本人の作家によって新たな呼び名が与えられます.それは「天国にいちばん近い島」
(8)というものでした.〈この項おわり〉
BACK