筑 後 丸





写真:
野間
恒.山田迪生/
日本の客船/海人社/1991年
参考:
丸山昇/上海物語/講談社学術文庫/2004年

●魔都上海
明治以後,日本人が外国人の手を借りずに自らの力で開設・運用した最初の国際定期航路,それが三菱会社の横浜‐上海線でした.この航路は,旅行客が京浜地区から神戸あるいは門司・長崎までを汽車で旅行し,そこから船に乗り換えるという動態を示したため,やがて主線は神戸‐上海線に移って行き,補助線として横浜‐上海線という位置づけになります.日露戦争の後需要が増加したため,日本郵船はこの路線用として英国のダヴィッド&ウヰリアム・ヘンダーソン社の新造貨客船2隻を購入しました.「筑前丸」と「筑後丸」です.
筑後丸が就航した頃の上海は「魔都」の揺籃期でありました.19世紀後半から支那随一の貿易港として成長してきた上海に入港する船舶量は,1910年には1871年の10倍のトン数,13倍の隻数に達しました. 1920年代には「怡和洋行(ジャーディン・マセソン商会),横浜正金銀行,中国銀行,サッス−ン・ハウス,パレス・ホテル,チャータード(麦加利)銀行,ノース・チャイナ・ディリー・ニュース社,台湾銀行,露清銀行,交通銀行,上海海関,匯豊銀行(香港上海銀行),輸船招商局,日清汽船,シャンハイ・クラブ」などの絢爛たる建築が黄浦江に接する租界の外灘に林立し,南京路には先施(シンシア)デパートが開店,映画館,劇場,遊技場なども配した近代都市が短期間のうちに形成されていきました.筑後丸はその上海と日本を結びます.
●上海游記・支那游記
大正10・1921年の3月21日,一人の小説家が門司から筑後丸に乗船して上海へと赴きます.漢籍に通じ京劇のファンでもあったこの小説家はモダンなコンクリートの劇場「天蟾舞台」で梅蘭芳の舞台を鑑賞し,上演中も騒々しい観客の文化や俳優を描きます.上海は女優京劇団誕生の地でもありました.彼がまだ支那を旅行している頃,北京では魯迅がこの小説家の代表作を日本語から翻訳していました.作品名は「鼻」と「羅生門」.芥川龍之介自身はしかし,支那の大衆に決して好感情を抱くことはなかったようでした.帰国後に執筆した「上海游記」「支那游記」には支那人への辛辣な批評が述べられています.同じ年の7月,上海にあるフランス租界では十数名の青年たちが秘密裏に集まって一つの結社を組織します.それが陳独秀や毛沢東を中心にした共産党であり,中華人民共和国が成立するまでの28年におよぶ闘争の歴史がここに始まったのです.
筑後丸は1922年に南洋航路へと配置転換し,上海線には豪華な「上海丸」「長崎丸」が就航します.支那旅行から戻った芥川は体調を崩し神経衰弱にも侵されていました.仕事のトラブルもあってオピアムなどの薬物を服用するようになり,昭和2・1927年に自殺を遂げます.オピアムというのはアヘンのことです.昭和7・1932年,上海で日本人僧侶が襲撃され殺害された事件をきっかけに上海事変がおこり,蒋介石の軍隊と日本軍が戦火を交えました.当時上海にいた田中隆吉少佐は,この事件は板垣征四郎が仕組み自分が実行したものであったと証言しています.停戦そして第二次上海事変,戦闘地域は拡大しアメリカ・イギリスとの戦争が開始され、それから1年たたぬ昭和17年11月3日に筑後丸は潜水艦による雷撃によって撃沈されます.場所はインドシナ半島の沖合で10名の船員が戦死しました.〈この項おわり〉
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