江 り い 丸







写真
出版協同社/世界の艦船/1997年4月号
参考:
石原廣一郎/「私の履歴書」/日本経済新聞社


土井全二郎/栄光なにするものぞ/朝日ソノラマ/1995年


●南洋の鉄山王
昭和初期「南洋の鉄山王」と呼ばれた実業家の巨人・石原廣一郎は「私の履歴書」にこう書いています.「当時,南方で最も人口が多く富裕な国は蘭領印度(インドネシア)であったが,日本からの輸出は,同国の年間輸入総額約8億円のうちわずか7,8千万円で,欧州からの輸入が7億円以上を占めていた.これはオランダの商品には関税がかからないが,日本品には関税がかかること,さらに日本からインドネシアヘの輸送船にはオランダ船が使われ,しかも運賃協定によって高運賃をしいられているためであった.」そこで石原は,独自にインドネシア航路を設立することを考えます.勝算の決め手は所有船舶の有効活用でした.マレー半島には石原が発見・開拓した鉱山があり,石原汽船はマレーで産出した鉄鉱を八幡製鉄所に納めるために多くの商船を抱えていました.鉄鉱石をおろし空で南方に戻る船なら,雑貨などを積んで最低運賃で運んだらどうか.市場調査で試算したところ,たとえ関税がかかっても3年後には1億以上の輸出増になるという結果がでました.これを受けて昭和6年3月21日,石原汽船の爪哇(ジャワ)定期航路が開設されたのです.「私はこの航路に江りい丸以下8隻の優秀船を十日おきに配船し,運賃は従来の二割引きとして発足させた.すると他社はあらゆる手段を用いてわが社の運営を妨げた.」「しかしこれは予期していたことなので損失は意に介せず,ひたすら輸出増進という目的に向かって邁進した.以来三年,わが社のこうむった損失は二百万円に及んだが,日本の対インドネシア輸出は長足の増進を示した.」石原には自社の利益よりも日本国家の利益のために働くという意識が濃厚にあったと言われます.妨害した他社というのは,その頃運賃協定で同盟していた南洋郵船,大阪商船,瓜哇チャイナ,日本郵船のことでしたが,輸出総額が激増すると他社も潤って石原との軋轢は解消します.解消しえなかったのは貿易が激減したオランダとの経済摩擦でした.
●世捨て人
度重なる貿易・関税交渉も失敗し,ついに日本はオランダと戦争状態に突入します.開戦の二ヶ月前の江りい丸は香港で英国魚雷艇から威嚇射撃を受けています.原因は江りい丸の領海侵犯でした.中島一等航海士は英国側の防御体制を探るための威力偵察だったのではないかと語っています.開戦時には台湾の高雄で久留米師団が乗船,その中の将校に中島航海士の旧友がおり,極秘だと言いながら4つの金庫の中身を見せてくれました.中には「ペソ,ギルダーの札束がぎっしりと詰まっていた.」それはフィリピンや蘭印に上陸した陸軍部隊が使用する通貨でした.
開戦直後にフィリピン戦線を視察した石原廣一郎は「陸軍と海軍が戦果を争い,占領地区の争奪をしていたことと,経済を知らない軍人が,産業経済の指導について命令を出していたこと」に日本の冥い未来を予感しますが,耳を傾ける要人は誰もおりませんでした.江りい丸が雷撃されて沈んだのは昭和19年1月11日の宮崎沖です.乗船していた南洋派遣部隊2500名のうち200名が戦死,その頃石原は自社の鉱山がある山あいの僻地で生活しておりました.「私は戦争に負ける日を待つことにして,紀州熊野川の瀞に六畳と四畳半の小屋を建て,そこで世捨て人として暮らすことにした.」(この項おわり)
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