| 吉 野 丸 画 上田毅八郎 |
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| 参考: 神戸大学経済経営研究所/神戸大学附属図書館/新聞記事文庫 大阪時事新報/大正9年12月28日 藤波健彰/ニュースカメラマン/中央公論社/昭和52年 バンポン会/第一三三兵站病院史/昭和51年 |
●クライスト 第1次大戦終結後の1920・大正9年,3隻のドイツ商船が欧州から日本に向け航海しておりました.8959トンの貨客船「クライスト」,1万4503トンの客船「カップ,フニステレー」,そして貨物船「ビール・フェルト」は何れも敗戦国ドイツからの第一回賠償船として日本に受け渡されたものでした.翌10年1月23日に横浜に到着したクライストは,「吉野丸」と改名して近海郵船に譲渡されます.もう1隻の客船「カップ,フニステレー」は東洋汽船の豪華客船「大洋丸」となって太平洋航路に就航し時代の脚光を浴びますが,「吉野丸」は台湾航路客船として地味な航海を続け,昭和12年には陸軍輸送船として徴傭されています.大東亜戦争緒戦の昭和17年5月初め,「吉野丸」も前線輸送に活躍しほどなく「大洋丸」との運命的な時を迎えるのです. 大日本教育映画協会のカメラマン藤波健彰氏のグループは軍の命令でボルネオに派遣が決まり大洋丸に乗る予定でしたが,直前に吉野丸への変更が伝えられます.他にも商社のタイピスト嬢など幾人かが,輸送船団最大の大洋丸からあぶれて小柄な吉野丸に乗船することになり,命運を分かちます.5月8日,フィリピンのコレヒドール陥落が伝えられ吉野丸の夕膳におかしら付きと祝い酒が振舞われている時,遠方で爆発音が響きました.僚船大洋丸に魚雷が命中したのです.「五島列島沖の暗い海面にただ一つポツリと光る大洋丸の燃える姿が,船尾の遠くにいつまでも見えていた.暗い甲板に立ちつくし,私は人間の運命の不思議を思わずにはいられなかった.」と藤波氏は記しています.占領地復興の任務に抜擢された官僚,商社員や技術者など800名以上が大洋丸とともに犠牲になる大惨事でした.このため日本の南方経営は2年遅れたとも言われます. ●なだれのように ボルネオに着任した藤波氏のグループは,住民にギターのストリングやマウスピース,日本歌曲の楽譜を無料で配布する宣伝活動や,飛行場建設の記録撮影を行ないました.ボルネオ軍司令官は加賀百万石・前田利為侯爵で教養も高く文化活動に理解があったと藤波氏はその人柄を偲んでいます.前田司令官の搭乗機が消息不明になった時,遭難地点を特定する手がかりになったのは司令官と同行する友人に藤波氏が貸していたパジャマの破片でした.機体と遺品は40日後に海底から引上げられました. 吉野丸は南方輸送に従事したのち,昭和17年10月からは改装され純白の船体に赤い十字を記した病院船として行動しますが,昭和19年7月には輸送船に再改装され部隊輸送にあたることになります.関東軍の将兵5千を満載して7月29日に高雄を出港,マニラを目指しますが2日後に潜水艦の魚雷が命中,5千の兵士は「なだれのように海中に落ちた」と郵船戦時船史は書いています.第一三三兵站病院史にはこの時の体験談が多く掲載されていますが,殆どの人が「この船は絶対沈まない」と叫ぶ船員の声を聞いたと証言しています.放り出された兵の救助も緩慢でした.護衛艦が「今日はこれで終る.日が暮れると敵さんがやって来る.明朝来るからそれまで浮いていろ」と言って去ったあと,幾日も漂流して無人島に辿りついたという証言もあります.吉野丸の生存者は約2400名でした.(この項おわり) |
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