加 賀 丸







野間恒.山田迪生/
日本の客船/海人社/1991年



出典:
中島敦/かめれおん日記「わが西遊記」所収/京北書房/昭和22年
所蔵:三輪祐児

●エリザ・R・シドモア
中島敦の「かめれおん日記」にこんな一節があります.「ヂョーヂ・スイドモア氏の碑の手前に腰を下る。ポケツトからルクレテイウスを取出す。」そして本は開かず思索に耽ります.「斯ういふ綺麗な墓場へ来ると却つて死といふものの暗さは考へにくい。墓碑、碑銘、花束、祈祷、哀歌など、死の形式的な反面だけが、美しく哀しい舞台のことのやうに、浮かび上つてくるのである。」
そう遠くない死の訪れを予感する果敢なくも美しい情景です.中島が書いた「ヂョーヂ・スイドモア氏の碑」は、果敢なく美しい日本の桜を愛したアメリカ人女性の物語に連なります.
横浜山手の外国人墓地にあるその碑にはエリザ・C・シドモアと息子のジョージ・W・シドモア、娘のエリザ・R・シドモアの家族の名が刻まれています.
エリザ・R・シドモアは「日本人力車旅行」という著書もある旅行作家でした.彼女は隅田川に沿う向島の桜に心を奪われたのです.同じように日本を愛した植物学者のデービッド・フェアチャイルド博士もまた桜に魅せられた一人でした.博士はワシントン郊外の自宅に桜の苗木を植えます.アメリカの風土でも桜は開花しました.フェアチャイルド博士はエリザ・シドモアや昆虫学者のチャールズ・L・マーラット博士らを招いて桜の宴を開催します.
●桜の物語
それから数年後、エリザはタフト大統領夫人に面会して、ワシントンに計画されている公園に桜を植樹することを提案します.ニューヨークでやはり桜の植樹運動をしていたのがジアスターゼで有名な高峰譲吉博士でした.高峰博士から東京市の尾崎行雄市長に、高平駐米大使から小村寿太郎外務大臣に、支援の輪が広がります.
そして1909年9月12日、桜の苗木2000本が日本郵船シアトル航路加賀丸によって無償で運ばれ、アメリカ国民は歓喜します.しかしこの苗は植物検疫で外来種の害虫や細菌が多く発見されて、全て焼却処分になります.
友情の灯を消すまいとする人々の努力が始まりました.農事試験場長の古在由直博士の調査で伊丹市東野の種が害虫に強いことがわかります.日本で初めての「青酸ガス薫蒸」施設も建てられ、厳重な管理のもとで育成されて再度輸送された桜は、今度は無事にワシントン・ポトマック河畔に植えられたのです.
尾崎行雄はのちに、日露戦争の際米国が日本に対して示してくれた好意への感謝であったと伝記に記しています.日米に架け橋を渡したエリザ・R・シドモアは、排日の風潮が激化するアメリカを離れ1928年にスイスで没しますが、その遺骨は1929年に横浜の外国人墓地に移されます.納骨の日、外相代理や米国代理大使、横浜市長を代表して弔辞を捧げたのは新渡戸稲造博士でした.1934年に加賀丸は解体処分になります.文学者中島敦は日米開戦から1年後の1942年12月に逝去、憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄東京市長は大隈内閣の法務大臣などを歴任して戦後の1954年に永眠、その死を悼む愛猫が椅子に座っている姿が全国のニュース映画館に流れました.(この項おわり)
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