聖書は輸血を禁じていない
 
エホバの証人の輸血拒否の誤りについて
 
日本福音同盟神学委員会
 

  【目   次】

この冊子の目的

T 創世記9章3〜4節

U レビ記17章10〜14節

V 使徒15章19〜29節

W その他の聖書箇所

終りに

(付  記)


 
聖書は輸血を禁じていると教える「ものみの塔協会」
 
エホバの証人は輸血を拒否します。輸血を要する緊急事態に陥っても、医療関係者に輸血をしないよう要求します。その結果、生命を失うエホバの証人もいます。また彼らの意志を無視して輸血を強行した医療機関が訴えられ、裁判に持ち込まれています。
エホバの証人が輸血を断固拒否するのは、ものみの塔聖書冊子協会(以下「ものみの塔協会」)によって聖書が輸血を禁じていると教えられ、それを信じきっているからです。同協会は、エイズや肝炎などの感染症を輸血がもたらすと述べるなどして、輸血の恐ろしさを強調します。しかし、輸血を拒否する最大の理由は医学上の問題にあるというより、聖書が輸血を禁止していることにあるとしています。例えばものみの塔協会発行の『ものみの塔』誌1961年12月15日号757頁には、次のように書かれています。
「輸血についてのエホバの証者の立場は、医学の賛成、不賛成にもとづいていません。輸血が安全であるとか、危険であるからという根拠にもとづいて、彼らは決定しません。彼らは神の御言葉にもとづいて決定します。」
また『目ざめよ』誌1975年9月8日号28頁にも同様の指摘があります。
「輸血は、聖書の律法を深く研究し、自分がその律法下にあることを認め、その律法を擁護するよう決意したクリスチャンにかかわる聖書の律法に関連した問題です。輸血を受けるかどうかは……人間が自分の命を支えるために体内に血を取り入れることを禁じた神の律法にかかわる倫理上の肝要な問題です。」
 
   
この冊子の目的:
 
聖書は輸血を禁じていないことを明らかにすること
エホバの証人が言うように、聖書は本当に輸血を禁じているのでしょうか。いいえ。聖書は決して輸血を禁止していません。むしろ、聖書はかけがえのない生命の尊さを教えていますから、必要な時には輸血を行なうべきです。
この小冊子は、「聖書は輸血を禁じている」とするものみの塔協会の主張を検討し、彼らの主張が聖書の教えでないことを明らかにするものです。
(以下、聖書の書名や引用は、ものみの塔協会発行の新世界訳聖書1982年版によります。それはこの翻訳にもとづいて聖書を検討しても、輸血禁止の教えを導き出せないことを、知っていただきたいからです。ただし必要と思われるところでは日本聖書刊行会発行の新改訳聖書も併記しました。)
 
ものみの塔協会の挙げる根拠の少なさ
「輸血は聖書の教えに反する。」という主張の根拠として、ものみの塔協会が挙げる基本的な聖句(聖書の個所)は、旧約聖書の創世記9章3〜4節、レビ記7章10〜14節、新約聖書の使徒の働き(以下「使徒」)15章19〜29節の三つです。
生命を犠牲にしても守らなければならない教えにしては、根拠は余りにわずかです。イエス・キリストは弟子たちに多くの教えを残しましたが、輸血を禁止するようなことは何も語っていません。クリスチャン生活の諸問題を扱う13の書簡を書いたパウロも何も言っていません。福音書と三つの書簡、「啓示(黙示録)」を書いた使徒ヨハネも記していないのです。輸血禁止が本当に重要な教えなら、新約聖書の中心人物たちが一切触れていないことは解せません。実際聖書全体を見れば、エホバの証人が血に関して曲解していることがよくわかります。
 
   
T. 創世記9章3〜4節
 
聖書を正しく理解するためには、前後の文脈をよく見る必要があります。問題となる第一の個所はどうでしょうか。創世記9章1〜7節には次のように記されています。
1)次いで神はノアとその息子たちを祝福してこう言われた。「子を生んで多くなり、地に満ちよ。 2)そして、あなた方に対する恐れ、またあなた方に対するおののきは、地のあらゆる生き物と天のあらゆる飛ぶ生き物、地面を動くあらゆるもの、また海のすべての魚に引き続きとどまるであろう。それらは今あなた方の手に与えられる。 3)生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように、わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。 4)ただし、その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。 5)さらにわたしは、あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手から、その兄弟である各人の手から、わたしは人の魂の返済を求める。 6)だれでも人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからである。 7)そしてあなた方は、子を生んで多くなり、地に群がってそこに多くなれ。」
この言葉は、有名な「ノアの洪水」(創世記6〜8章)の後に語られたものです。腐敗堕落した人間を神は洪水をもって滅ぼされました。しかし、敬虔に生きていたノアとその家族は、神の命令に従って建造した箱船に入り滅亡を免れました。一年後洪水の水が引けたので彼らは箱船を出、かわいた地に祭壇を築いて神を礼拝しました。そのような彼らを神は祝福します。この聖書の個所は、その祝福の言葉なのです。
ものみの塔協会は次のような論理を展開して、ここから輸血禁止を導き出します。
(1) 神は血を伴う肉を食べてはならないと命じた。
(2) それは血が魂だからである。
(3) 洪水によってノアとその家族以外みな滅ぼされた。従ってノアはその後起こって来る全人類を代表してこの命令を受けた。これは全人類への命令である。
(4) 血を食べることと輸血することは同じである。
(5) 従って、輸血は人類の歴史の初め、ノアの時代から禁止されていた。
ノアに対する神の言葉は、本当にそのようなことを意味しているのでしょうか。
 
1. 「血を伴う肉を食べてはならない。」という命令は動物の命の尊重を教える
創世記9章4節は直訳すると、「しかし、あなたがたは、肉をその命(魂)のまま血のまま、食べてはならない。」となります。文頭にある「肉」は3節の「生きている動く生き物」の肉のことです。つまり、神はノアとその家族に、「緑の草木」と共に動物の肉を食することを許可したのです。
しかし、ひとつの条件をつけました。「その命のまま血のまま」食してはならない、ということです。「その命のまま」というのは、「命があるままで」ということで、禁じられているのは「生きた肉」「生肉」です。それに「血のまま」という語句が加えられることによって、「血のついた(血のしたたる)生肉」が禁じられたことが分かります。このように、血を伴う肉を食べてはならないと命じられていることは事実ですが、禁止の中心ポイントは血そのものというより、血のついた生肉全体にあります。
そもそも、神はなぜこのような命令を与えられたのでしょうか。9章1〜7節の全体を見れば、この命令の意図は明瞭です。
洪水後、神がノアとその家族に与えた祝福の中心は子孫の繁殖にあります。天地創造の時、最初の人アダムとエバに与えられた「子を生んで多くなり、地に満ちよ。」という命令(創世記1章28節)が、冒頭(1節)で繰り返されます。また結び(7節)でも同じことが語られています。
子孫の繁殖を語る言葉にはさまれて、5〜6節に生命の尊重を勧める言葉があります。そして子孫の繁殖と生命の尊重をつなぐものとして3節の肉食の許可があります。子孫が増えて行くために、ノアとその家族は食物を必要としていました。しかし、洪水後の世界では、神が食料として与えた草や実(1章29節)は十分に無かったでしょう。種をまいて収穫を得るには時間がかかります。そこで神は動物の肉を食することを許可したのです。「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。」(3節)
しかし、それだからといって、動物を生きたまま食べたり、その血を飲んだりしてよいわけではない。それが4節の但し書きの主旨です。動物の肉を食べてよいが、無制限に動物を殺してよいわけではない。動物といえどもその命は尊重されなければならない、ということです。
このような意味を、ものみの塔協会は正しくとらえてはいません。動物の肉を食することを神は許されるが、動物の命を尊重しなければならず、特に動物を生きたまま食したり、血を飲んだりすることは慎むようにということを語っているこの個所を、彼らは強引にも輸血を禁止するものと解釈するのです。
 
2. 血イコール魂/命ではない
創世記9章4節が輸血を禁じていると解釈するために、ものみの塔協会は「血は生命である」とします。そして生命は神に属するものだから、動物の血はもちろん、人間の血も摂取することは許されないというわけです。そのような見方は正しいのでしょうか。
4節には「その魂つまりその血」とあります。確かに、「その命(魂)のまま、血のまま」とあって、ヘブル語のネフェシュ(魂、命)とダーム(血)は同格として並べられています。次の5節でも「わたしは、あなた方の魂の血の返済を求める。」(新改訳は「あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。」)とあり、ダームはネフェシュの代価とされています。
しかし、レビ記17章11節では、「肉の魂は血にある」(新改訳は「肉のいのちは血の中にある」)と言われています。普通AはBの中にあるからAはBであるという論理は成り立ちません。ですから、魂/命は血の中にあるから魂/命が血であるとは言えません。魂/命と血は別のものでありつつ、しかも同一のものであるとは言えないのです。
もしそれが言えるとすれば、「魂/命が血である」という表現が比喩である場合です。人間の命の維持のために血が重要であることは古代の人々にも明かだったでしょう。ですから、両者の密接な関わりを表現するのに、「魂/命が血である」と言ったり、「魂は血にある」と言ったりしたのです。文字通り血そのものが命/魂であると言っているのでも、血の中に魂/命が入っているということでもありません。
実際「血」が比喩的に使われる例は多くあります。「血を流す」という表現は(文字どおりの意味のこともありますが)殺すことを意味します。また「血の責任」と言えば、殺人を犯した責任のことです。こうした例において「血」は殺人を表わす比喩なのです。
血それ自体が魂/命でないことは、単純な観察からも明かです。私たちは出血するとき、血が体外に出たから魂や命も体外に出てしまったと考えません。また死んだ人の体内には血がしばらくは存在していますが、だからそこに命があるとは考えません。
確かに血は生命に深く関わっているので、血が命を象徴することはありますが、だからといって血イコール魂あるいは命とみなすことはできません。
3. ノアとその家族に対する命令は全人類に対する永遠の命令ではない
もうひとつの問題は、ものみの塔協会が主張するように、ノアとその家族に対する命令は全人類に対する永遠不変の命令なのかということです。
確かに9章8節以下では、世界規模の洪水をもって人類を滅ぼすことは二度としないという「永遠の契約」(16節、新世界訳では「定めのない時に至る契約」)が語られています。その際、神は虹をもってその契約のしるしとされました。
しかし、8節以下で「永遠の契約」が語られているから、自動的に1〜7節の教えも永遠であるということにはなりません。8節には「さらに神はノアおよび共にいるその息子たちにこう言われた。」とあり、そこから新しい教えが始まっています。またそこで語られる永遠の契約の内容も、1〜7節の教えとは直接関係の無いものです。
もし4節の「血を伴う肉を食べてはならない。」という命令を絶対的なもの、永遠のものとするなら、1〜7節全体で語られていることがみなそうだということになるでしょう。そうでなければ一貫性を欠くことになります。
しかし、例えば「動く生き物はすべて」食してよいとされているのに、やがてイスラエルに律法が与えられたとき、いけにえの儀式の上から、また神の民として他の国民から自らを区別するためにも、食べてはならない動物の規定が加えられました(レビ記11章)。また死んだ動物の肉も、創世記9章4節の命令にもかかわらず、イスラエル以外の外国人は食べることが許されました(申命記14章21節)。また、イスラエル人がたとい食べたとしても、衣服を洗い、水を浴びれば良かったのです(レビ記17章15節)。こうした旧約聖書の律法の規定を見るとき、創世記9章4節の命令が絶対不変のものでなかったことがわかります。
また、「子を生んで多くなり、地に満ちよ。」という命令がこの個所の中心的な教えであることは既に見ましたが、エホバの証人がそれを実践しているかと言えば、そうではないようです。むしろ、「ハルマゲドンが近い。」と信じて結婚しない人も大ぜいいます。また子どもを持つことに消極的な傾向が見られます。
創世記9章1〜7節の命令は決して永遠不変なものではありません。エホバの証人が4節の命令を絶対視するのであれば、共に語られている命令も固守すべきです。他の教えにはこだわらず、「血を伴う肉を食べてはならない。」という命令だけを特別視する態度は一貫性を欠いています。
ものみの塔協会は旧約聖書の命令のすべてを守るよう求めていません。それなのになぜ血の問題にだけ異常な関心を払うのでしょう。彼らによれば、イエス・キリストが血を流し贖いを成就した後でも命じられているからということですが、その根拠として彼らが挙げるのは使徒15章だけであり、しかもその個所についての彼らの解釈は、後に見るように正しくありません。
とにかく「血を伴う肉を食べてはならない。」という命令は永遠不変の命令ではないのです。
 
4. 血を伴う肉を食べることと輸血は同じではない
輸血禁止は、さらにもう一つの不当な解釈に支えられています。それは血を伴う肉を食べることと輸血を同一視することです。
両者には、他の生物の血を自分の体内に取り入れるという共通点があります。しかし、それが別の行為であることは明かです。前者は動物の血を食べることで、血は消化器官に入って行きます。それが禁じられたのは、前述したように、動物の命を尊重する精神からです。
しかし、輸血は他の人間の血液を血管に注入することです。それは危機に瀕している生命を救うためのものですから、生命の尊重を説く聖書の教えにふさわしい行為です。倫理的にも宗教的にも許される、いやむしろ、十分な注意を払って行なうのであれば、推奨されるべき行為であると言えます。問題の個所のすぐ後(9章5ー6節)には、神のかたちに造られた人間の命の尊厳が語られているのです。
 
このようにエホバの証人の解釈は、文脈を無視したり他の命令を無視したりして血の問題だけにスポットを当てています。また血と魂や命を同一視したり、血を食することと輸血を同一視するなど、不当な解釈や論理の飛躍が見られます。この個所の文脈で生命尊重の精神が教えられていることを考慮するなら、緊急事態における輸血は許されるべきものです。
 
   
U. レビ記17章10〜14節
 
輸血禁止の根拠とされる第二の聖句は、レビ記17章10〜14節です。
10)「『だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で、いかなるものであれ血を食べる者がいれば、わたしは必ず自分の顔を、血を食べているその魂に敵して向け、その者を民の中からまさに断つであろう。 11)肉の魂は血にあるからであり、わたしは、あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が、その内にある魂によって贖罪を行なうからである。 12)それゆえにわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方のうちのいずれの魂も血を食べてはならない。あなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者も血を食べてはいけない。」
13)「『だれでもイスラエルの子らに属する者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で、食べてよい野獣または鳥を狩猟で捕えた者がいれば、その者はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。 14)あらゆる肉なるものの魂はその血であり、魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。
この他にもレビ記と申命記に3個所ずつ類似の教えがあります。すなわち、レビ記3章17節、7章26〜27節、19章26節、申命記12章16節、23〜25節、15章23節にも「血を食べてはならない。」とあります。たくさんあるようですが、聖書全体から見れば、限られた書物にしか見出されないことは明かです。これら以外、旧約聖書のどこにも「血を食べてはならない。」という禁止命令はありません。新約聖書に至っては皆無です。
 
1. 血を食べることを禁じる律法をどのように理解すべきか
(1)ユダヤ人は血抜きの肉を食べる
ユダヤ人はこうした律法を字義どおり守りました。正統派のユダヤ教徒は今もそれを守り、食用の肉から細心の注意を払って血を除きます。先ず動物の咽の両側、胸部の二つの主な動脈と、10番目、11番目、12番目の肋骨の動脈、腰の動脈など全ての動脈、そして全ての静脈を除去します。その上でばらした肉を水に浸します。さらに残っている血を抜くために塩を振りかけます。彼らが食べるのは、このような方法で正式に血を処理した「コシェル肉」だけで、それ以外の肉は食べません。
もし、レビ記や申命記に記された律法が今日でも有効であると考えるのなら、それらの個所から輸血禁止の教えを読み取る以前に、ユダヤ人がしているような処理を徹底して行なうべきでしょう。「血を食べてはならない。」という教えは血を口から体内に取り入れることの禁止なのです。
(2)クリスチャンは守る必要はないと考える
クリスチャンは、旧約聖書の律法が時代や文化を超えて通用する倫理的道徳的なものであれば(例えばモーセの十戒の「殺してはならない」「姦淫してはならない」といった命令は)遵守します。しかし、旧約時代のいけにえ(犠牲の動物)に関わる律法や、衛生上の理由から設けられたものについては、今日も守るべきものとは考えません。特にいけにえは、キリストの十字架の死を予言的に指し示すものであり、それは既に成就したので、その後は繰り返す必要が無くなりました。
このようにユダヤ教徒とキリスト教徒は、この律法の今日における有効性について見解が分かれます。しかし、この旧約の律法の意味が、字義どおり血を食することであって、それ以上のものではないと理解する点では大方一致しています。
(3)血を食べることを禁じた理由は贖罪の血の尊重にある
それでは、なぜ神は旧約聖書の時代に血を食べることを禁じたのでしょうか。この問いに対して様々な仮説が提出されて来ました。衛生上の理由があったとか、動物の血を飲むと動物の本性が飲んだ人の中に移されるという迷信があったためであるとか、動物の血が異教の礼拝やまじないと関係していたためであるとか、さらには、他の部族との同盟に動物の血を用いたことから血を特別視する風習があったためであるといった見解です。どれも興味深いものですが、歴史的な根拠は乏しく可能性の域を出ません。
旧約聖書において動物の血は、人間の罪を贖うために用いられました。そのことは上記のレビ17章11節でも語られています。神は動物の血を人間の罪の代償と見なしました。ですから、犠牲の動物の血は人間の命を象徴するものです。そこで、動物の血を食べるようなことをして、血を軽々しく扱うことを禁じられたのではないかと思われます。
実際、血を食べることを禁じる言葉は、たいてい犠牲の動物について語る文脈に見出されます。現在考察しているレビ記17章10〜13節も直前の1〜9節にいけにえの動物への言及があります。また11節自体、血が贖罪のためのものであるとしています。
他の個所もまたいけにえの動物に言及する文脈にあります。レビ記3章17節は「共与の捧げ物(新改訳では『和解のいけにえ』)」に関する規定の結びの言葉です。レビ記7章26〜27節はもろもろのいけにえに関して祭司に与えた指示の、やはり結び近くに位置しています。申命記12章16節は、「焼燔(しょうはん)の捧げ物(新改訳では『全焼のいけにえ』)」への言及(13〜14節)に続くものです。申命記12章23〜25節の場合、「焼燔の捧げ物」への言及が後に出て来ます(27節)。申命記15章23節もまた、それに先だって「エホバへの犠牲」が語られています(21節)。
ただし、レビ記19章26節の場合はいけにえの動物に限定されず、すべての動物に言及しているととった方が良いでしょう。またレビ記17章14節も「あらゆる肉」「いかなる肉」と繰り返されており、血はいけにえの動物の血に限定されないようです。
従って、「血を食べてはならない」という命令は、基本的には、人間の罪の代償として用いられた動物の血を軽々しく扱うことのないよう求めたものですが、そのような精神を徹底するため、いかなる動物の肉も血と共に食することのないよう規定が拡大されたものと思われます。贖罪を尊ぶ精神を徹底して、食用の動物の血も避けるように命じたのです。食用の肉を屠るときにも、血による贖罪の恩寵を思い起こすようにという要請がここにあると考えられます。
血を食べることの禁止規定の真意がこのようなものであれば、そこから輸血の禁止を引き出すことはできません。
 
2. 禁止命令を破った場合の罰則はそれほど重くない
ものみの塔協会は、輸血を受けたエホバの証人を聴聞委員会にかけます。もしその人が「悔い改めない」ということで「排斥」されることになれば、それは「地上で永遠に生きる」望みが断たれることを意味しています。それは、エホバの証人にとって生命を失うことよりも恐ろしいことなのです。
旧約聖書に見られる、血を食することの禁止規定は、守らない者に対してそれ程の厳しい罰則を課しているかどうか、見ることにしましょう。
(1)レビ記17章10、14節
まず10節には、「…いかなるものであれ血を食べる者がいれば、私は必ず自分の顔を、血を食べているその魂に敵して向け、その者を民の中からまさに断つであろう。」とあります。また14節でも、すべて血を食べる者は「断たれる」とあります。
ここで「断つ」と訳されているヘブル語のカラトは、本来の意味は「切る」ですが、多様な意味で用いられています。木や葉を「切り取る」(イザヤ9章14節)、かえるが「消えて行く」(出エジプト8章9節)、台を「切り倒す」(レビ記26章30節)、人を「殺す」(オバデヤ14節)、部族を「絶やす」(民数記4章18節)、国を「滅ぼす」(イザヤ10章7節)、子孫を「断ち切られる」(詩篇109篇13節)といった具合です。
レビ記17章10、14節の「断つ」については、「死刑に処する」という解釈と「イスラエル人の間から追放する」という解釈に分かれます。「民の中から断つ」という表現は旧約聖書に11回見出されますが、その中に「殺す」という表現と並行して使われている用例がある(出エジプト31章14節、レビ記20章3、5節、アモス2章3節)ことを考えると、前者がふさわしいように思われます。しかしまた、15、16節の罰則規定が比較的軽いことを考慮すると、後者の解釈がまさっています。
(2)レビ記17章15ー16節
問題となっている個所に続く15ー16節には、こう記されています。
15)[すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば、その地で生まれた者であれ外人居留者であれ、その者は自分の衣を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる。そののち清くなるのである。 16)しかし、それを洗わず、その身に水を浴びないのであれば、その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない。」
これは、死んでいた動物や野獣に殺された動物の肉を食べた者に対する罰則です。こうした動物の肉には当然血が含まれていたはずです。それなのに罰則規定は驚くほど軽く、衣服を洗い水を浴びれば夕方には清くなることができるとあります。これは、輸血する者を厳しく処分するものみの塔協会の態度とずいぶん違います。
そこでものみの塔協会は、ここで言及されているのは、知らないで食べてしまったケースであるとします。『ものみの塔』誌1983年7月15日号31頁で、レビ記5章2節を引き合いに出して次のような解説をするのです。
「神はイスラエル人が不注意から過ちを犯すことがあることを認めておられました。ですから、レビ記17章15節はそのような過ちのための規定として理解することができます。例えば、あるイスラエル人が自分に出された肉を食べ、食べた後でそれが血の抜かれていないものであることを知る場合、その人は罪あるものとされます。しかし、それが不注意から起きたものであるゆえに、その人は清くなるための処置を講じることができました。」
しかし、この説明はいろいろな点で説得力を欠いています。第一に、この個所に「知らないで」とか「不注意で」といった言葉はありません。示唆する表現もありません。
第二に、そもそも、血を抜いた肉を食べるよう厳格に教えられていたユダヤ人が、血抜きしてあるかどうかを確かめずに食べるという事態は考え難いことです。語られているのは死んでいるのを見つけた動物ですから、血を抜いていないのは初めから明かです。それを「不注意から起きたもの」と片付けてしまうのは無理です。
確かに5章2節は本人が気づかない内に動物の死体に触れていた場合のことを扱っています。しかし、そこで言われている内容は、それでもやはり罪科を持つということで、それで罰則が軽減されるということではありません。むしろレビ記5章2〜4節は、たとえ「そのことが当人からは隠されていて、後にそれを知るようになった」場合でも、そのことが言い訳にならないと、繰り返し強調しているのですから、この個所を引き合いに出すこと自体不適切なのです。
それでは、どうしてレビ記17章15〜16節の罰則は軽いのでしょう。ひとつの可能性は、そもそも死んでいた動物の肉を食べるということは、ユダヤ人が緊急事態にあることを意味しているのであって、そのゆえに罰則が軽かったのだということです。あるいは、本来このような肉をユダヤ人が食用にすることはなく(出エジプト22章31節)、寄留する外国人には売ることが許されるようになった(申命記14章21節)ことを考慮すれば、ここで語られているのはユダヤ教に改宗していない寄留者や旅行者など、旧約聖書の祭儀規定が適用されない人々のことなのかもしれません。
いずれにせよ、血を含む肉を食べる行為に軽い罰則しか課していないこの個所が、血を摂取することに極端に厳格なものみの塔協会の解釈に対立していることは明らかです。
 
3. 血を地面に注ぐことが血の神聖さを示しているわけではない
ものみの塔協会は、レビ記17章13節の「血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。」という言葉が血の神聖さを教えているとします。血を地面に注ぐことは神に血を返すことであると解釈し、だから血が神聖なのだとするのです。『ものみの塔』誌1964年8月1日号459頁では、こう述べています。
「動物を殺したとき、血を注ぎ出して『母』なる大地にそそぐことが要求されていました。(レビ17:13、申命記12:16、15:23、使行15:20)それは神から与えられた恵みとして肉を得ても、生命を神に返すことでした。」
挙げられている使徒15章20節には「血」が出て来ますが、「血を注ぐ」とか、「地面に注ぐ」といったことは語っていません。レビ記と申命記の二つの個所には「血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。」「地の上に、それを水のように注ぎ出すべきである。」とあります。しかし、その行為が神に生命を返すという意味を持っていると述べてはいません。裏付けとして提出された聖句に肝心のことが語られていないのです。
また『ものみの塔』誌1978年9月15日号30頁にはこう書かれています。
「古代イスラエル人が、体外に出された血は神のものであり、地上の生物の命を支えるためのものではないことを示すため、『水のように注ぐ』べきであると告げられていた点を指摘できるでしょう。(申命記12:24、口)……この点から考えるなら、クリスチャンは後日自分または他の人に輸血する目的で、自分の血が血液銀行に入れられるのをどうして許すことができるでしょうか。」
ここで根拠として挙げられている申命記12章24節も、「それ(血)を水のように地面に注ぎ出すべきである。」とあるだけで、「体外に出された血は神のものであり、地上の生物の命を支えるためのものではないことを示すため」といったことは言われていません。
さらに『エホバの証人と血の問題』6頁の発言も同様です。
「普通に流れ出る血は、すべて注ぎ出すことによって、ノアとその子孫は、生命が創造者からのものでありまた創造者に依存するものであるという認識を表明することになりました。」
ノアが血を注ぎ出したとか、「生命が創造者からのものでありまた創造者に依存するものであるという認識を表明」したとかいったことは、聖書自体には記されていません。
同じ書物は次の様にも述べています(9頁)。
「動物を殺す場合、人はその生命が神からのものであり、また神に属するものであることを認めるべきなのです。血を食べず、それを祭壇もしくは地面に『注ぎ出す』ことによって、イスラエル人は、事実上その生き物の生命を神に返していました。」
ここでも、彼らは血の神聖さを何とか印象づけようとし、地面に血を注ぐことに言及しますが、その行為が生命を神に返すことに相当することを裏付けることができません。そのためここでは聖書個所を挙げることすらしていません。
さらに『洞察』第二巻178頁にある同様の主張も不当な読み込みです。
「人は食物にするために殺すどんな動物の命も神のものであることを認めなければならず、そのことを認めているしるしとして、その血を地面に水のように注ぎ出すことが必要でした。これは、命を自分勝手な目的で用いずに、神に返すことに似ていました。ー申12:15、16」
確かに申命記12章16節は、血を地面に水のように注ぎ出すべきことを述べています。しかし、ここでも「どんな動物の命も神のものであることを…認めているしるしとして」それをしたとは、言われていないのです。
このように、動物の血を地面に注ぐ行為は語られていますが、それが「生命を神に返す」とか「生命が神のものであることを認める」といった意味を持つとは教えられていません。
『ものみの塔』誌1982年1月15日号30頁では別の角度から論じています。「こうしてある意味で、血は神に返されました。地は、神の足台だからです。」と述べ、レビ記17章13〜14節とイザヤ66章1節を引用するのです。
前者は既に見たように、「血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。」と教えていますが、それが血を神に返す行為であるとは述べていません。
イザヤ66章1節には「天はわたしの王座、地はわたしの足台である。」とあります。ものみの塔協会の論理は、聖書は地面に血を注ぐよう教えているが、地は神の足台だから、そこに血を注げば神に返すことになるということです。これは論理の飛躍です。そもそも、イザヤ66章1節とその文脈に、血を注ぐ行為は出て来ません。それでも「地は神の足台である。」と言われていると主張するかもしれませんが、この宣言は天も地も神の支配下にあることを述べているのであって、何も地だけが神のものだと言っているのではありません。
地は神の足台であると固執するなら、地面にしみこんだ雨も、地に埋められた死体も、地に埋めたゴミも神に返されたことになるというのでしょうか。
このように、地面に血を注ぐことを血を神に返すことと解釈し、血の神聖性を主張しようとする議論は、聖書によって裏付けられません。地面に流された血は単なる物質に過ぎません。人のものであれ動物のものであれ、血は体内にあって生命を維持するものですが、生命そのものではありません。ですから体外に出れば生命の無い物質に過ぎないのです。
それでは、どうして血を地面に注ぐようにという指示が語られているのでしょう。理由は単純です。レビ記17章15節でも、申命記12章16節、15章23節でも、語られているのはいけにえの動物ではなく食用の動物です。前者であれば血は祭壇に注がれますが、後者ではそのようなことはできませんから、単純に地面に注がれるべきであると述べているのです。
 
以上見てきたように、レビ記17章などに書かれている血を食することの禁止や血を地面に注ぐようにという命令から、ものみの塔協会が主張するような輸血の禁止を引き出すことは到底できません。
 
   
V. 使徒15章19〜29節
 
輸血を禁止するものみの塔協会の議論は、使徒15章19〜29節をもって完結します。彼らは、創世記9章から「血を伴う肉を食べてはならない。」というノアに対する命令が、全人類に対するものであるとしました。それからレビ記17章の「血を食べてはならない。」という命令は、ノアに対する命令がイスラエル民族に適用されたものであるとしました。そして最後に使徒15章にあるエルサレム会議の決議事項が、ノアに対する命令のクリスチャンに対する再確認であったと主張するのです。
 
1. ものみの塔協会の議論におけるこの個所の重要性
新約聖書は繰り返し、クリスチャンはキリストによって律法から解放されていると教えています(ローマ7章1〜6節、10章4節、ガラテヤ3章23〜25節、4章1〜7節、5章1節など)。それなのにどうして血に関する規定を守らなければならないのか。それはこの使徒15章で「血を避けるよう」命じられているからである。そのように彼らは主張します。
『聖書から論じる』310〜311頁は、周囲の人々から、「あなた方は輸血を拒んで子供を死なせています。それはひどい事だと思います」と言われたなら、「親の中には神の言葉が、この使徒15章28、29節で述べている事柄に動かされている人がいると思われませんか」と答えるよう教えています。また輸血問題で質問されたら、「ここで実際に問題点となっているのは、神に対する忠節さです。血を避けるようにと命じているのは、神の言葉なのです」と述べるように指示し、使徒15章28、29節を挙げています。さらに「聖書が『血を避ける』ようにと述べているのを知っておられましたか。その言葉を見ていただきたいと思います」と言って、再び使徒15章28、29節を示すよう助言します。結局のところ輸血禁止を支える聖句は使徒15章の言葉なのです。
問題の使徒15章19〜21節、28〜29節にはこう記されています。
「19)ですから、わたしの決定は、諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず、20)ただ、偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。 21)モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており、彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです。」
「28)というのは、聖霊とわたしたちとは、次の必要な事柄のほかは、あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。 29)すなわち、偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば、あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください。」
 
2. 「避けるように」という命令はユダヤ人クリスチャンに対する配慮の勧め
この個所で血は、偶像によって汚された物/偶像に犠牲としてささげられた物、淫行、そして絞め殺されたものと共に避けるように言われています。血を避けるとはどのようなことを意味したのでしょうか。そもそもなぜこのようなことが記されたのでしょうか。
(1)異邦人クリスチャンに割礼や律法を強制するかどうか話しあったエルサレム会議
この個所を正しく解釈するためには、使徒15章に記録された「エルサレム会議」がどのようなものだったのか、その背景を知る必要があります。
初代教会は最初ユダヤ人だけで構成されていましたが、まもなく異邦人、つまりユダヤ人以外の民族が加わって来ました。最初はわずかでしたが、シリアの首都アンテオケに教会が誕生すると、本格的な異邦人伝道が始まりました。その後アンテオケ教会から派遣された宣教師パウロやその他のクリスチャンたちの精力的な伝道によって、異邦人の信者は急速に増加していったのです。
そこで大きな問題が起こって来ました。ユダヤ人はみな割礼を受けていました。割礼は男性の性器の包皮の皮を切り取ることで、神の民のしるしとされていました。その割礼を異邦人クリスチャンは受けていません。またユダヤ人が守っているモーセの律法を守っていません。それは保守的なユダヤ人クリスチャンには受け入れがたいことでした。そこで彼ら保守主義者は異邦人の回心者も割礼を受け、律法を守るべきであると主張しました。しかし、異邦人伝道を進めて来たパウロたちは、人が救われるために必要なのはイエス・キリストを信じる信仰だけで、割礼や律法を要求しなくてよいとしました。
ある時アンテオケ教会にエルサレムから保守主義者たちがやって来たため、激しい論争が起こりました。アンテオケ教会はパウロたちをエルサレムに派遣し、教会の公式見解を明らかにするよう求めました。このようにして開かれたのがエルサレム会議でした。
使徒たちや長老たちが集まり、激しい議論が交わされました。しかし、使徒ペテロが立ち上がって、かつて自ら異邦人に伝道した時の経験を語りました。恵みによって救われると自分たちも信じているのに、どうしてユダヤ人が負いきれなかった律法の「くびき」を異邦人信者の首にかけて神を試みるのかと、彼は論じました。その説得力のある議論に反論する者はいませんでした。続いてパウロたちは、異邦人の間で起こったことを報告しました。その後、イエスの弟でエルサレム教会の中心的指導者になっていたヤコブが話し合いを総括しました。彼はペテロに同意し、「神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。」と語りました。その上で、「ただ」と但し書きをつけました。それが問題の四つの避けるべきことでした。問題となっている20節はヤコブの発言です。
こうして使徒たちはパウロ一行をアンテオケに送り返すとともに、エルサレムから人を派遣しました。そして彼らに書状を託しました。それはエルサレム会議の決議を明らかにする公式の文書です。その書状の結びが問題の29節なのです。
(2)ユダヤ人クリスチャンに対する配慮として求められた付帯事項
四つ避けるよう語られていることが但し書きで、中心的命令でないことは話の流れから分かります。決議の中心は異邦人に律法のくびきを負わせてはならないということで、それに「ただし」と付帯事項が続きます。それが20節なのです。
なぜその付帯事項を加えるのか、21節でヤコブは明言しています。四つのものを避ける理由は、「モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており、彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです。」ということです。つまり避けるべきものを四つ挙げたのは、モーセの律法を安息日ごとに聞いているユダヤ人のためだということです。
確かに初代教会には、モーセの律法にこだわるユダヤ人クリスチャンがおりました。恵みによって、キリストに対する信仰によって救われたと信じつつも、先祖以来守って来た生活習慣やものの考え方を切り替えることは容易でありませんでした。割礼を受けず、律法を守らない異邦人クリスチャンと交わるなら、神の前に汚れた者となってしまうという感覚がなかなか脱けなかったのです。教会は割礼や律法の実行を救いの条件とはしないけれども、そのようなユダヤ人クリスチャンに対する配慮として四つのことを避けて欲しい。異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの交わりのために避けて欲しい。それがこの付帯決議の意図でした。
これが最も自然な解釈で、大方の研究者たちに支持されて来ました。実は、ものみの塔協会の創設者、C. T. ラッセルもそのように理解していたのです(協会では、輸血禁止と理解する自分たちの解釈がずっと変ることなく行なわれて来たように見せかけていますが、そうではありません)。ラッセルはこう書いています。
「これらのものを避けるようにという勧告は、ユダヤ人たちが、そのような肉を食べることによって異教の偶像礼拝に参加することになると考えたからである。偶像なるものは木や金属や石にすぎない、という物事にとらわれない見方をすれば、偶像は食物を益したり、害したりするものではない。にもかかわらず、異邦人クリスチャンは、これらのことを行なう自由をすて、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、弱い兄弟たちの良心を傷つけないのは望ましいことである。……血の使用の禁止についても同じことである。……これらの禁止事項は律法の契約のもとに置かれたことのない異邦人には無縁なものだった。しかし、ユダヤ人の思いはこのことに非常に深く根ざしていたので、教会の平和を保つためには異邦人はこのことも守る必要があった。」(『ものみの塔』誌1909年4月15日号英文116〜117頁)
 
3. ものみの塔はこの但し書きをどのようにして永遠不変の禁止命令とするか
初代教会の特殊な状況における配慮として語られている言葉を、ものみの塔協会は永遠の禁止命令としてしまいました。そうするために彼らはどのような議論を展開しているのでしょうか。
(1)伝統的な解釈に対する見当違いな批判
ものみの塔協会は、これまで見て来たような伝統的な(普通の)解釈を次のように退けます(『ものみの塔』誌1961年12月15日号751頁)。
「この聖句について注解を述べる神学評論家たちは、それは私たちに関係しないと言います。『それは一時的なものであって、キリスト信者になったユダヤ人たちの感情を害さないためであった。そのような禁止を課す必要は、すでに過ぎさったのであるから、たとえ言葉で述べられなくても、取り消されたにちがいない。』しかし、どんな必要が過ぎ去ったのかと、わたしたちはたずねます。いまでも生来のユダヤ人がクリスチャン会衆と交わっています。それで、ユダヤ人がいないなら、それは必要でないなどとは言えないでしょう。生命が血の中にあるため、人間は血を食べてはいけないと聖書は明白に示しています。」
注意深く読めば、問題がいくつもあることがわかります。第一に、「神学評論家たち」は、状況が変化したため使徒15章20、29節にある「禁止を課す必要は、すでに過ぎさった」としていると、彼らは述べていますが、これは見当違いです。既に見たように、伝統的な解釈の要点は、そもそも20、29節が決議の中心ではなく、付帯決議に過ぎないという点です。律法として要求されることではなく、ユダヤ人キリスト者に対する愛の配慮であるということです。その点を彼らは見落としています。
第二に、彼らの議論のポイントは、二千年前と状況は変っていないという主張です。確かに保守的なユダヤ教徒は今も存在しています。しかし、メシアニック・ジューと呼ばれる現代のユダヤ人クリスチャンは、福音の本質をよく理解しているので、割礼を受けていない異邦人クリスチャンと交わる上で支障はありません。その点で、ユダヤ人クリスチャンに対して配慮しなければならなかった一世紀の状況と現在の状況は違います。
第三に、仮に、「いまでも生来のユダヤ人がクリスチャン会衆と交わってい」るから、問題の「禁止」項目が今でも適用されると言うなら、一世紀のユダヤ人キリスト者で保守的な人々が望んだように、エホバの証人も行動しなければなりません。それは輸血の禁止ではなく、血抜きをしていない肉を食することの禁止です。
第四に、引用の最後に、「生命が血の中にあるため、人間は血を食べてはいけないと聖書は明白に示しています。」とあります。ここで彼らが立証しなければならないのは、「血を食べてはいけない。」というモーセの律法を、新約の時代に生きるクリスチャンたちも守る必要があるということです。ところがそのような教えは新約聖書には出て来ません。ここで「聖書」と言われているのは旧約のモーセの律法のことです。彼らは、新約時代のクリスチャンもモーセの律法を守らなければならないかという問いに対して、モーセの律法にそう教えられているから守る必要があるのだと答えているだけのことで、立証すべきことを立証していません。
(2)他の禁止事項が不変だから、血の禁止も不変という不当な議論
血を避けることをクリスチャンも守るべき永遠の命令とみなすのは、血以外の禁止命令が永遠不変に守るべき命令であるからだと、ものみの塔協会は論じます。
例えば『ものみの塔』誌1969年8月15日号499頁には、「それでわたしたちも『血から離れて』いなければなりません。そしてこのことは大切です。姦淫や偶像と同格に置かれているからです。」と書いています。同様に『聖書から論じる』(307頁)に、「ここで、血を食べることは、偶像礼拝や淫行など、わたしたちが行なうことを望んではならない事柄と同じように扱われています。」とあります。
『ものみの塔』誌1991年6月15日号9頁でも同じです。
「彼らは神の導きのもとに、クリスチャンにはモーセの律法を守る義務はないが、『偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたもの[血を抜いていない肉]と淫行を避けている』のは『必要な』ことである、と述べました。(使徒15:22、29)そのようにして彼らは、血を避けることが、偶像礼拝や由々しい不道徳行為を避けることと同じほど道徳的に重要なものであることを明確にしたのです。」
他の禁止事項が不変の倫理規定だから、血の禁止も同様だという論理ですが、はたして、他の禁止事項はそのようなものなのでしょうか。
a. 偶像にささげられた肉
「偶像によって汚された物」という表現(20節)は、新約聖書で他に出て来ません。それに対応する「偶像に捧げられた肉」(29節のギリシャ語エイドーロチュートス)は他に7回出て来ます。その内5回はコリント人への第一の手紙の8章から10章にかけて見出されます(8章1、4、7、10節、10章19節)。そこにおいてパウロは、「偶像にささげられた食物」を食べることは「良心の問題」であるとしています。
『ものみの塔』誌でもかつては、「パウロは、もし人があなたを食事に招くなら、出されるものを食べなさいと言っているのです。」と書いて、偶像にささげられた肉を永遠に禁止すべき重大な事柄としていませんでした(1960年3月1日号86頁)。
ところが、それでは彼らの教えに矛盾が生じるので、5年後の同誌(1965年5月1日号)では違った解釈を示します。つまり、使徒15章の「偶像に供えられた肉」は、コリント第一10章18〜21節と関係があり、「正式に宗教儀式として食べる肉」のことで、偶像礼拝に深く結びついているため、食べることを永遠に禁じられた。一方8章1〜10節の「偶像に供えられた肉」は、「と殺場、あるいは異教徒の肉市場」に出された肉で、それを食べることは「良心の自由」に属することであると述べました。
しかし、コリント第一8章と10章にそのような区別を認めることに無理があるため、7年後の同誌(1972年12月15日号756頁)では、コリント第一8章の「偶像に供えられた肉」を、使徒15章の「偶像に供えられた肉」と同一視します。
ところが、さらに7年後の同誌(1979年1月15日号30頁)では、8章と10章のいずれも、使徒15章の「偶像に供えられた肉」と異なったものに言及しているとするのです。このように、『ものみの塔』誌の解釈は揺れ動きます。
コリントの人々はアポロ神を始めとする神々に肉をいけにえとして捧げ、礼拝していました。その肉は通常、祭司や捧げた人とその友人たちによって神殿の中で食されたのですが、一部市場で売られ、一般の人々の手にも渡りました。こうした肉を食べてよいかどうか、コリントのクリスチャンの間で意見が割れていました。一つは、そもそも偶像の神々は実際に存在しないのだから、食べても構わないという意見。もう一つは、その肉は偶像と関わりがあったのだから、食べるべきではないという意見です。
そうした問題に対してパウロがコリント第一8章、10章で語っていることは次のように要約できます。まず最も中心的なことは、偶像の神は実際には存在しないのだから、偶像にささげられた肉には特別な意味はない、それを食べても差し支えないということです。このことは8章でも(4〜8節)、10章でも(19、23節)言われています。それでは何をしてもよいかと言えば、そうではありません。パウロは、他の人の良心のために(8章12節、10章28〜29節)、他の人をつまずかせないよう行動するよう求めています(8章9、13節、10章32節)。従ってノン・クリスチャンの家庭に招かれた時、出される肉が「偶像にささげた肉」であると知らせてくれる人がいたら、食べないほうがよいと勧めます(10章27〜29節)。また、偶像礼拝の場での食事に加わるような行為はつまずきになる上(8章10節)、「悪霊と分け合う」こと(新改訳は「悪霊と交わる」こと)、「悪霊の食卓に…あずかること」になるとして退けます(10章20節)。このようにパウロは具体的な指示を与えています。
従って、「偶像にささげられた肉」イコール「偶像礼拝」ではありません。偶像礼拝と断定できれば、その禁止を不変の倫理規定とみなせますが、それはできません。結局パウロはコリント人への第一の手紙で、絶対的な罪ではないが、場合によっては他の人をつまずかせないための愛の配慮として、偶像にささげた肉を避けるよう勧めているのです。それはエルサレム会議の決議が表わしている精神と同じです。
b. 淫行
ものみの塔協会は淫行もクリスチャンにとって不変の禁止命令だから、血を避けることもまた不変の命令であると論じます。
「淫行」と訳されるギリシャ語ポルネイアは、様々な性的な罪を表現するのに用いられる語です。新約聖書では夫婦間の不貞(マタイ5章32節、19章9節)、姦淫とは区別された不道徳な性的交わり(マタイ15章19節、マルコ7章21節)、近親相姦(コリント第一5章1節)、売春(同6章13、18節)といった具合です。
「淫行」は確かに普遍的に禁じられるべきことです。しかし、エルサレム会議はどうして沢山ある不道徳の中からわざわざ「淫行」を取り上げたのでしょうか。性的不品行を含めた不道徳な行ないのリストは十戒を始め聖書のあちこちに見出されますが、なぜエルサレム会議はここで「淫行」を取り上げているのでしょうか。やはり当時の異邦人クリスチャンが陥る危険性の高い性的不道徳が具体的に考えられていたためでしょう。そうした不品行の有力な候補は、コリント第一6章18節で言及されている神殿売春です。パウロが異教の神殿娼婦との売春を取り上げ、不品行を避けるよう勧めているのは、異教の不道徳な習慣を続けている回心者がいたからであると思われます。
このように神殿と結びついた「淫行」を意味していたとすれば、それが「偶像にささげた肉」に続いて語られていることも合点が行きます。啓示(黙示録)2章14、21節でも、「バラムの教え」や「イゼベルの教え」といった誤った教えとの関連で、「偶像に犠牲としてささげられた物を食べさせる」ことと「淫行を犯させ」ることが並んで出て来ます。異教の祭儀において、ささげた肉を食することと神殿売春はしばしば併存していたようです。
もちろん、「淫行」がこのような類の性的罪だから、今はそれを避けなくて良いということではありません。そうした罪は今日も罪です。ただ、エルサレム会議の付帯決議が、「永遠の禁止規定」として掲げられたというより、当時の事情に則して語られた事柄であったことはわかるでしょう。
それから、たとえ「淫行」にこのような限定が無く、広く性的罪を意味していたとしても、「淫行」の禁止が永遠不変のものだから「血」の禁止も永遠不変だという論理には無理があります。もしその論理を成り立たせようとするなら、横並びに並んでいるもの全部が永遠の倫理規定、普遍的に妥当するものであることを、まず立証しなければなりません。しかし、既に見たように「偶像にささげた肉」についてそのようなことを語ることはできませんでした。加えて残るもう一つの「避けるべきこと」も到底「永遠の倫理規定」とは言いがたいものなのです。
c. 絞め殺されたもの
「絞め殺されたもの」(ギリシャ語のプニクトス)は新約聖書で使徒15章20、29節にしか出て来ませんが、意味は明瞭です。すなわち、レビ記の規定に従って血を抜いていない、つまり食用として調理していない動物の肉のことです。それはものみの塔協会の理解でもあります。『ものみの塔』誌1978年9月15日号30頁で「『絞め殺されたもの』という表現は、肉の中に血が残るような仕方で殺された動物の肉を指しています。クリスチャンはそのような肉を食べることはできません。」と述べています。
新約聖書では「絞め殺されたもの」についての言及は他にありません。それを含めてユダヤ人の間では細かく守られていた食物規定の全体が、もはやクリスチャンの間では守らなくてよいとされています。特にローマ14章2〜5節でパウロは、「ある人は何でも食べてよいとの信仰を持っているのに対し、弱い人は野菜を食べます。」と記し、それぞれの確信を尊重するよう勧めています。食物の規定にどのような態度をとるかは、各自の良心に委ねられた問題であり、絶対に守らなければならない永遠不変の規定でないことを明らかにしているのです。
同じローマ14章でパウロは「わたしは知り、また主イエスにあって確信しているのですが、それ自体で汚れているものは何もありません。ただ、人がある物を汚れていると考える場合にのみ、その人にとってそれは汚れたものなのです。」とも書いています(14節)。さらに「確かに、すべての物は清いのですが、つまずきのきっかけとなるのにそれを食べる人には害になります。肉を食べること、ぶどう酒を飲むこと、また何にせよあなたの兄弟がつまずくような事は行なわないのがよいのです。あなたがたの抱く信仰は、神のみ前で自分自身にしたがって抱きなさい。」と記して(20〜22節)、良心に委ねられる問題であるが、つまずきを与えないよう配慮すべきであるという、まさにエルサレム会議の決議と同じ主旨のことを教えているのです。
もう一個所、パウロが書いたテモテ第一4章3〜4節も引用しておきましょう。「そうした人たちは結婚することを禁じたり、信仰を持ち真理を正確に知る人が感謝してあずかるために神が創造された食物を断つように命令したりします。神の創造物はみな良いものであって、感謝して受けるなら、退けるべきものは何一つないのです。」
このような教えが新約聖書に繰り返されていますから、「絞め殺されたもの」を永遠不変の倫理規定とすることはできません。
以上見て来たように、他の禁止事項に基づいて血を避けることを永遠不変の命令とする議論は成り立ちません。
 
4. 「血を避けること」から「輸血の禁止」を引き出すことはできない
それでは「血」そのものの意味を調べることにしましょう。ものみの塔協会が言うように「血を避けること」は「輸血の禁止」を意味するのでしょうか。
普通、使徒15章にある「血を避けるように」という勧めは、「肉の中にある血を食べてはいけない。」とするレビ記17章の教えに従うユダヤ人クリスチャンに対する配慮として語られたものと理解されています。しかし、それが輸血の禁止を述べたものであるという印象を与えようとして、ものみの塔協会はさまざまな工夫をこらします。
(1)医師ルカの報告
『ものみの塔』誌1968年4月1日号209頁には、こう書かれています。
「ルカはパウロの同伴者であり、『愛する医者ルカ』とパウロに呼ばれています。ルカは今日の医師に加わって輸血するでしょうか。聖書から見てその答えは否です。クリスチャンのエルサレム会議の布告を報じ、それを三回も引用している聖書の筆者はルカにほかなりません。・・・医師ルカあるいは他の医師のために例外を設けていません。また有能な医師の施す輸血の場合を除き、あるいは立法府や判事の命令のある場合を除いて、血を避けよとは命じていません。・・・使徒時代のキリスト教会議は人間の血と動物の血の区別なく、いっさいの条件をつけずに『血』を禁じました。」
この文は、「エルサレム会議の布告」を報じているルカが医師であったから、その布告は「輸血」を禁止しているに違いないと思わせようとしているようです。論理が飛躍していることは、すぐにわかるでしょう。
また「有能な医師の施す輸血の場合」とか、「立法府や判事の命令のある場合」といった条件をつけていないから、どのような輸血もしてはいけないのだという指摘も、初めから「輸血の禁止」が教えられているということが前提になっています。「輸血の禁止」を念頭において読むエホバの証人は納得するでしょう。しかし、もともと「輸血の禁止」が語られていないのですから、条件をつけようにもつけられないのです。
医師ルカが書いているという事実から何となく輸血と結びつけようとする手法や、初めから「輸血の禁止」を前提にした読み込みは明白です。
(2)酒の例
さらに『とこしえの命に導く真理』167頁は以下のように論じています。
「聖句を細かに調べ、『血から離れていなさい』、また『血を避けなさい』と命じている点に注意してください。(使徒行伝15:20、29)これはどういう意味ですか。医師が酒類を避けなさいと命じた場合、それは酒を口から飲んではならないが、直接静脈に注入することはさしつかえないという意味ですか。もとよりそうではありません!それで『血を避ける』ということは、血をいっさいからだの中に入れてはならないという意味です。」
医師の命令を例に引いた議論は、注意せずに読むと納得してしまうかもしれません。酒を避けるようにという医師の命令は確かに、酒を静脈に注射してよいという意味ではありません。しかし、問題はそれが自動的に「血を避けなさい」という命令にそのままあてはまらないということです。「避けなさい」という命令文は、それが結びつく目的語によって意味が異なって来ます。酒であれば、体内に入れることは一切いけないということは明らかです。しかし、現在扱っているのは「血を避けなさい。」という命令文ですから、目的語の血が何を意味するかで、避けることの意味も変わって来ます。酒の場合に言えたことがそのまま言えるわけではありません。「血を抜いていない肉」を食することを避ける歴史的文化的背景があるのですから、血を避けるということはあくまでも、そのような肉を食べないようにするということに過ぎません。彼らは酒の例を使って、本来意味していないことを読み込み、拡大解釈しているのです。
 
以上見て来たように、使徒15章に記されたエルサレム会議の四つの付帯決議は、永遠に守るべき禁止事項といったものではなく、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの交わりのための必要な配慮として、エルサレム教会の指導者たちが提案したものです。特定の歴史的文化的状況において語られた事柄を、その状況を無視し、当時の人々が思いもしなかった「輸血禁止」の教えとして解釈するものみの塔協会の主張は、まったく聖書の教えから逸脱しています。
 
   
W. その他の聖書個所
 
輸血禁止を主張するためにものみの塔協会が挙げる聖句は、基本的にはこれまで見て来た三個所です。しかし、他にも彼ら自身が言及する個所、そして彼らに対する批判において言及される個所がありますので、それも見ておきましょう。
 
1. 輸血禁止の主張に利用される聖書個所
(1)血のついた肉を食べたイスラエルの民 サムエル第一14章31〜35節
緊急事態でも輸血をしてはならないと教えるため、ものみの塔協会はサムエル第一14章を引用します。「血に関する神の律法は非常時には従わなくてもよいのではありませんか。」という質問に、『エホバの証人と血の問題』9、10頁はこう答えるのです。
「聖書ははっきりこれを否定しています。緊急時にはその適用を緩和してよいという特例はありませんでした。サウル王の時代、イスラエルの幾人かの兵士に起きた事の中にそれを見ることができます。長い戦いのために飢え疲れたその人々は羊と牛をほふって、それを『血のままで食べだし』ました。……これが『非常時』と思えたゆえに彼らは罪を免じられましたか。そうではありません。神の任命を受けた彼らの王は、その行為を『血のままで食べて、エホバに対して罪を犯す』こととみなしました。」
この説明は、この章に記されている出来事を正しくとらえていません。
第一に、確かに兵士たちの行為を報告した人々は、「民は血のままで食べて、エホバに対して罪をおかしています。」と言いました(33節)。また、サウル王も「あなた方は血のままで食べてエホバに対して罪をおかしてはならない。」と語りました。しかし、そのために兵士たちが処刑されたとか、罰を受けたとか言われていません。血を避けることが生命にかけても守らなければならない規定であるなら、それは解せないことです。
もうひとつ注目すべき事実があります。敵であるペリシテ人に復讐するまで断食するよう王は命令を出しました。結果は大勝利でした。ところが勝利に貢献した王子ヨナタンは父の命令を知らずに蜂蜜を口にしてしまったのです。兵士が血のついた肉を食べたのはその後です。それから、王は敵を追撃すべきかどうか神に伺いましたが、答えがありませんでした。そこで誰の罪のせいかを調べると、罪を犯したのはヨナタンであることがわかりました。王はヨナタンに死を宣告しました。しかし、神が共におられたからこそ勝利を得たと考えた民のとりなしによって、ヨナタンは助かりました。興味深いことに、サウロ王は神からの答えが無かったとき、「兵士たちが血のついた肉を食べたからだ。」とは言わなかったのです。もし、彼らの罪が重大であったのなら、当然彼らの責任が問われることになったでしょうが、そうならなかったのです。
この事実に気づいて『ものみの塔』誌1994年4月15日号31頁は、兵士たちが処罰されなかった理由は、彼らが血に対する「敬意をもっていなかったわけではない」こと、「血を抜こうと多少は試みていたのかもしれ」ないこと、疲れや空腹から「十分な時間をかけて通常の血抜きを」しなかったことにあると説明します。しかし、この個所にそうしたことを示唆する言葉は全くありません。
とにかく、この出来事はものみの塔協会の主張の裏付けになるより、かえって彼らの輸血禁止の極端さを印象づけることになります。
(2)家来が命がけで得た水を飲まなかったダビデ
サムエル第二23章15〜17節、歴代誌第一11章17〜19節
ペリシテ人の軍勢と戦っていたダビデはのどが渇き、「ああ、門の傍らにあるベツレヘムの水溜めの水を一杯飲めたらよいのだが。」ともらしました。それを知った三人の家来が敵の陣営を突き抜けてベツレヘムに行き、その水をダビデにもたらします。彼はその行為に感動し、「エホバよ。このようなことをするなど、わたしには考えられないことです!自分の魂をかけて行った人々の血を[わたしは飲めるでしょうか]。」と言って、水を飲まず神にささげたのです。
『ものみの塔』誌1991年6月15日号10頁は「初期のクリスチャンは、命を表わす血を取り入れるよりも、進んで死の危険を冒したのです。」と述べ、聖書を参照するよう勧めます。ものみの塔協会はダビデの行為を輸血拒否の模範にしたいようですが、それはまったくの見当違いです。死の危険を冒したのは三人の家来です。またダビデは、家来が命をかけて汲んで来た水を詩的に「血」と表現したのあって、血を食することとも、輸血とも何ら関係ないのです。
(3)医師に治してもらえなかった長血の女 ルカ8章43〜48節
ここには12年間長血をわずらっていた女性を医者が癒せなかった話が出て来ます。『ものみの塔』誌1968年4月1日号203頁はこれ言及し、次のように述べます。
「医師は、今日の医学の技術を駆使し、『命の血』を患者の体内に直接に注入することもします。専門家である医師に対するこの信頼のゆえに、聖書の警告は無視されてしまうのです。聖書の一筆者である医師ルカが19世紀前にしるした一つの病気の例が、その警告となっています。……ルカはこの例について次のようにしるしました。『ここに、12年間も長血をわずらっていて……だれにもなおしてもらえなかった女がいた』……。」
ルカが書いていることは単に、イエスの許にやって来た女性が12年間血の流出に苦しんでいて、「だれからも治してもらえないでいた」という事実です。輸血に対する警告ではありません。ルカの書き方は「警告」という風ではなく、単に彼女の病が癒し難いものであったことを記しているだけです。それをあたかもルカが当時の医師仲間を批判しているかのように受け取るなら、明らかな読み込みです。仮にルカが批判していたとしても、それで輸血の禁止を教えていることにはなりません。
(4)神を愛せよという命令 マタイ22章37節、ルカ10章25〜27節
彼らは「心から神を愛しなさい。」という聖書の教えまで、輸血禁止の言葉にしてしまいます。『血、医学および神の律法』8頁にこう書かれています。
「他の生物の血を自分の体内に入れることが禁ぜられた以上、他の人の体内に入れるために自分の血を与えるのも当然に悪いということになります。この事は律法のうちの最大のいましめである次の言葉の中に示されています。『心をつくし、魂をつくし、思いをつくして、あなたの神であるエホバを愛さねばならない。』(マタイ伝22:37、新世)。」
「魂をこめて神を愛するとは、どういう事ですか。大洪水の後、ノアに与えられた律法の中では神は魂と血を等しいものと思われていることを思い起こしてください。神は言われました。『しかし肉を、その魂-血のままで食べてはならない。』(創世記9:3-4、新世)。後に神はイスラエル人に対して、この原則を再び述べられました。『血は魂である』(申命記12:23、新世)。私たちは生命を意味する血の一部を取って、しかもすべての魂をこめて神を愛することはできません。なぜなら『私たちの魂ー血』の一部を取って、それを他の人に与えてしまったからです。」
この解釈にも欠陥があります。まず、自分の血を他の人に提供したら、神を魂をこめて愛せなくなると聖書は教えていません。むしろ、神のかたちに創造された人間として他者に愛を注ぐことは、愛である神の姿を反映する行為であり、神に喜ばれます。そしてそれが神に対する愛の表現にもなるのです。イエスは、食物や着物など生きて行くのに必要なものを誰かに分け与えるなら、それはイエス自身にしたのと同じであると言っています(マタイ25章34〜40節)。聖書によれば、人にしたことが究極的な意味においては神にしたことになるのです。
仮に魂/生命=血という解釈に立つとしても、エホバの証人は輸血を進んでしなければならなくなります。神を愛しなさいという命令と並んで「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばなりません。」と命じられています(マタイ22章39節)。またヨハネ第一3章16節に、「わたしたちは兄弟のために[自分の]魂をなげうつ努めがあります。」とあります。「魂をなげうつ」ということは血をささげることになります。隣人を愛するためには輸血をしなければなりません。
同様にマタイ20章28節によれば、イエスは「仕えてもらうためではなく、むしろ仕え、自分の魂を、多くの人と引き換える贖いとして与えるために来た」と言いました。そのイエスが「わたしはあなた方のために模範を示しました。あなた方も、わたしがあなた方にしたと同じようにするためです。」と述べています(ヨハネ13章15節)。イエスは私たちの模範ですから、血を与える者とならなければなりません。このように、ものみの塔協会の解釈法は、彼ら自身の教えを覆すことになります。
それはそれとしてクリスチャンは、自分の血を与える輸血を神に喜ばれる隣人愛の行為であると、聖書から教えられています。
(5)血の責任 使徒20章26節
この個所でパウロは「わたしがすべての人の血について潔白である」と述べています。『ものみの塔』誌1961年12月15日号761頁はこれを引用し、エホバの証人が血について責任が無いと言えるよう奨励しています。輸血拒否の責任について言っているのか、伝道の責任について言っているのかははっきりしていませんが、もし前者であるなら、それもまた不当な解釈です。
聖書は明らかに後者の意味で語っています。続く27節は理由を表す接続詞で導入されていて、パウロが「何一つ差し控えることなく、神のみ旨をことごとくあなた方に伝えたからです。」と、26節で述べたことの根拠を明らかにしています。要するに彼は、自分は語るべきことは全て語ったのだから、あとは聞く側の責任である、各人が神にどうさばかれるかについて責任は自分に無いと言っているのです。
使徒20章18〜35節は、エペソの長老たちに対する別れの言葉ですが、パウロは自分がいかによく教えて来たかを述べ、それゆえまた曲がった教えに惑わされないために自分の教えにしっかり留まるよう強調しています(特に20〜21節、24節、29〜32節参照)。そうした文脈を考えると、「血の責任」をこのように理解したほうがはるかに自然です。いきなり「輸血」の話を持ち出すのは唐突です。
(6)エルサレム会議の確認 使徒21章25節
この個所の背景はこうです。第三次伝道旅行の終りにパウロはエルサレムを訪問しました。その際、教会の長老たちは彼にひとつの助言をしました。それは、パウロが宣教地でユダヤ人に彼らの慣習を無視するよう教えているという噂がエルサレムに届いているから、その誤解を解くため、誓願の儀式に参加し費用を負担するようにというものでした。その助言の最後に長老たちは「諸国民の信者については、偶像に犠牲としてささげられた物、ならびに血と絞め殺したもの、また淫行から身を守っているべきであるとの決定を下して、使いの者を送ってあるのです。」と付け加えたのです。
ものみの塔協会はこれに言及し、「血を避けるようにという要求が、一地域に住む異邦人からの回宗者だけにあてられたものでも、またほんの短い期間だけ適用されるものでもない」ことを示していると論じます(『エホバの証人と血の問題』13頁)。
確かにエルサレム会議から10年経った頃でも、会議の決議が守られていたと言えるでしょう。しかし、これはそれだけのことで、前に見たように会議の議決は輸血の禁止を教えているわけではないのですから、彼らの主張の支えにはなりません。
確かにこの時点では、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間の緊張関係は変っていませんでした。しかし、やがて異邦人クリスチャンが圧倒的多数を占めるようになり、キリスト教のユダヤ教からの分離がはっきりして来ると、もはやユダヤ人の習慣に対する配慮は不要となります。その結果エルサレム会議の決議は倫理的に解釈され、四つの項目が「偶像礼拝と不品行と殺人」という三項目とみなされるようになりました。とにかく、エルサレム会議の議決が適用されたのは、古代教会において一時期のことであったのです。
(7)イエスの模範 ペテロ第一2章21〜22節
『ものみの塔』誌1991年6月15日号9頁は、次のように述べています。
「血で人間の命を救うという問題に関して、キリスト教はどんな立場を取っていますか。イエスは、血を用いることについてみ父が述べた事柄をご存知でした。イエスは「悪を行なわず、[また]その唇に不実なことを見いだされなかった」とあります。それはイエスが、血に関する律法を含め、律法を完全に守られたことを意味します。(I ペテロ2:22、ノックス訳)イエスはそのようにして、命と血に対する敬意についての模範を含め、追随者のための模範を示されました。」
ペテロ第一2章22節から、イエスは忠実な人であったのだから、それゆえ律法を完全に守ったはずであると言います。そのようにして血に対する敬意も含め弟子たちに模範を残されたと言うのです。
確かにこの聖句には罪を犯さず偽りを語らないイエスのことが語られています。そして模範となられたとも言われています。しかし、それは苦しみにありながら復讐しようとせず、神に任せて十字架への道を進まれたイエスを、苦難に会っているクリスチャンたちが模範にするようにという勧めです。それ以外の何物でもありません。
ところが、律法の遵守を持ち出し、その上その律法には血に関する律法が含まれるとし、イエスは血に対して敬意を払われた、だから輸血は禁止されるとするのです。どうしてこのような読み込みができるのでしょう。エホバの証人は絶えず、律法への忠誠を教えられているので、「不実なこと」が無かったと聞けば自動的に、律法を完全に守っていたという意味であると理解するのです。そして律法を完全に守っているなら、血の規定も当然守り、エホバ神に是認されると信じているのです。そのため、血の問題など教えていない聖書の個所でも、それが教えられていると曲解するのです。
ペテロ第一2章21〜22節は、彼らが主張するようなことを何も語っていません。また新約聖書のどこにおいても、イエスが血の律法について語ったという報告はありません。
しかし、イエスが血について語っている個所はあります。イエスは、ご自分の肉を食べ血を飲むようにと語っているのです。例えばヨハネによる書(ヨハネの福音書)6章53〜55節にこうあります。
「きわめて真実にあなた方に言いますが、人の子の肉を食べず、その血を飲まないかぎり、あなた方は自分のうちに命を持てません。わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終りの日に復活させるでしょう。わたしの肉は真の食物であり、わたしの血は真の飲み物なのです。」
もちろん、ここで言う「血」は文字通りの血ではなく、イエスの贖いの死のことです。イエスの血を飲むとは、イエスの死を自分のものとして受け入れることです。つまり、イエスが罪人である私たちが受けるべき刑罰を、私たちに代わって引き受けて死んでくださったと信じることです(イザヤ53章6〜12節、ローマ3章23〜25節、コリント第二5章21節参照)。もし「血を避けなければならない」という命令が、ものみの塔協会が言うように命を賭けて守らなければならない程重大なものであるなら、人間の救いに関わる重要な事柄を、たとえ比喩であったとしても「血を飲む」などと表現するでしょうか。
 
2. 輸血禁止批判で取り上げられる聖書個所
輸血を禁止するものみの塔協会の教えがいかに聖書本来の教えから逸脱したものであるか、既に明らかになったと思いますが、最後に彼らにとって不都合となる聖書個所を見ることにしましょう。
(1)犬に肉を与えること 出エジプト22章31節
この個所には、「野にある、野獣に裂かれた肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えるべきである。」と教えられています。ここで語られている肉は、当然血を含んだ肉です。それを犬に与えるよう命じているのです。
ものみの塔協会は「血は神聖であるから、神に返すために地に注ぎ出さねばならない。」と教え、しかも犬に対する輸血も禁止するのですから(『ものみの塔』誌1964年5月15日号319頁)、確かにこの聖句と矛盾していることになります。犬は「異邦人」を指していると解釈しても、少しも解決にはなりません。
(2)緊急事態 マタイ12章1〜8節、マルコ2章23〜28節、ルカ6章1〜5節
マタイ12章1〜8節には次のように記されています。
「その季節のこと、イエスは安息日に穀物畑の中を通られた。その弟子たちは飢えを覚え、穀物の穂をむしって食べ始めた。これを見てパリサイ人たちは彼に言った。『ご覧なさい、あなたの弟子たちは安息日にしてはいけないことをしています』。[イエス]は彼らに言われた、『あなた方は、ダビデおよび共にいた人たちが飢えた時に[ダビデ]が何をしたかを読まなかったのですか。すなわち、彼が神の家の中に入り、みんなで供え物のパンを食べたことを。それは、彼も、また共にいた者たちも食べることを許されず、ただ祭司たちだけに[許された]ものだったのです。またあなた方は、安息日に神殿にいる祭司たちが安息日を神聖でないもののように扱っても罪にならないことを、律法の中で読んだことがないのですか。ところが、あなた方に言いますが、神殿より偉大なものがここにいるのです。しかし、「わたしは憐れみを望み、犠牲を[望ま]ない」ということの意味を理解していたなら、あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。人の子は安息日の主なのです』。」
この個所で、イエスは安息日の規定にあくまでもこだわるパリサイ人を批判しています。緊急時の輸血も認めないものみの塔協会のかたくなな態度は、パリサイ人の姿とよく似ています。
このような批判に対して『ものみの塔』誌1982年10月15日号30頁は反論します。ダビデがパンを求めたのは緊急時だからではない。「誰か信頼できる人から食べ物を得ようとして」祭司から求めたのである。祭司が食べてよいパンとは「神の奉仕に携わっている人々」が食べてよいパンである。ダビデは「神に油注がれた王から与えられた特別の使命と思われるものを帯びた者」であったから、そのパンを食べてもよかった。共に居た者たちも「女から遠ざかって」いたので、清い者として祭司のパンを食べる資格があった。イエスの弟子たちは生きるか死ぬかの状況にあったわけではない。また彼らは「神の言葉を教え……真の崇拝を押し進めていた」のだから、安息日の規定を破ったことにはならない。彼らはこのように説明します。
しかし、ものみの塔協会が批判されているのは、ダビデたちがした行為の解釈の問題ではありません。むしろ輸血禁止にあくまでも固執する彼らの姿が、安息日律法を杓子定規に実行しようとして、「わたしは憐れみを好むが、いけにえを好まない」(マタイ12章7節、新改訳)と言われる神のみこころを見落しているパリサイ人の姿に酷似しているということです。ですから、イエスに批判されたパリサイ人の姿とどう違うのか、明らかにしなければなりません。
実際イエスは福音書の中で、パリサイ人の律法主義が律法の精神をないがしろにしていると、繰り返し嘆いています。例えば、当時の「供え物」の規定を遵守することによって、モーセの十戒のひとつ「あなたの父と母を敬いなさい。」という戒めを無視している現実を指摘し、「こうしてあなた方は、自分たちの伝統(新改訳では「言い伝え」)のゆえに神の言葉を無にしています。」と述べています。それは偽善であって、「人間の教えを教理として教える」ことに他ならないとまで言っています(マタイ15章1〜9節)。自分たちの教えに過ぎない輸血禁止をエホバ神の名のもとに強制するものみの塔協会がしていることは、これと同じなのです。
イエスはまた、十分の一の捧げ物をきちんと実行しながら、律法の中でより重要な「公正、憐れみ、忠実を無視している」パリサイ人を「偽善者」と呼び、「災い」であるとまで言っています。この糾弾もそのままものみの塔協会に当てはまるでしょう。たとえある程度の危険性を伴うとしても、基本的に人間の生命を救うために与えられている輸血は、他の医療技術と共に神の恩寵と見ることができます。それを徹底的に禁じることによって、神のかたちに造られた人間のかけがえのない生命を失わせているのですから、災いでなくて何でしょう。またそれをエホバ神の名においてエホバの証人たちに強いるのですから、偽善の罪でなくて何でしょう。
 
   
終りに
 
聖書が輸血禁止を教えているというものみの塔協会の主張は、裏付けを欠いています。聖書はそのようなことを教えていません。彼らが挙げる聖書の個所は輸血禁止を説いていません。ただ論理の飛躍やこじつけ、最初から輸血禁止の教えを前提にした読み込み、時代錯誤の解釈などによって彼らの教理は支えられているのです。
輸血禁止は「書かれている事柄を越えてはならない」という聖書の原則(コリント第ー4章6節)に違反しています。ものみの塔協会が聖書に忠実であろうとするなら、輸血禁止をただちに撤回しなければなりません。
1920年代の終り、ものみの塔協会は種痘を禁じていました。輸血禁止と同様に、創世記9章に記された神とノアの「永遠の契約」を根拠にして、「種痘を受けることは、罪であり、不法であり、惑わしに他ならない」としました(『黄金時代』誌1929年5月1日号、英文502頁)。その結果エホバの証人の間で天然痘の犠牲者が多く出たのです。しかし、その教えも20年余りで撤回されました。『ものみの塔』誌1951年12月15日号764頁で「種痘ということについては、自分自身で決めることである。」とされたのです。
同じことが臓器移植についても起こりました。『ものみの塔』誌1968年4月1日号202頁は臓器移植を「人食いの行為」として禁止しました。その結果、例えば角膜移植手術を受けられずに多くのエホバの証人が失明することになったのです。しかし、『ものみの塔』誌1980年6月15日号31頁は「聖書は特に血を食べることを禁じていますが、他の人間の組織を受け入れることをはっきり禁じている聖書の命令はありません。」と述べ、この問題を各個人がその良心に従って決めるべきこととしました。
このようにものみの塔協会は禁止事項を撤回して来ているのですから、輸血禁止もまた撤回できないはずはありません。
そもそも、120年近いものみの塔協会の歴史において、輸血は始めから禁止されていたわけではありません。初代会長のチャールズ・T・ラッセルの時代も、第二代会長のジョセフ・F・ラザフォードの時代も、輸血は禁じられていませんでした。使徒15章のラッセルによる解釈は前述したとおり、輸血禁止を求めていません。ラザフォードの時代の『黄金時代』誌1935年7月29日号、英文683頁には、ロンドンの病院で45回も献血したB・W・テイブルという人が称賛と共に紹介されている程です。『慰め』誌1940年12月25日号、英文19頁も、輸血で命を助けられたニューヨークの主婦の話を紹介しています。そこには少しも非難めいたことは書かれていません。
実際、輸血禁止の教えが登場するのは三代目のネイサン・H・ノア会長になってからのことです。例えば『目ざめよ』誌1951年5月22日号、英文5頁は、自分たちの赤ちゃんに輸血することを拒否したエホバの証人夫妻の次のような言葉を紹介しています。「赤ちゃんに血を与えることによって神の戒めを破るよりは、それを守ることの方が重要である。……たとえ赤ちゃんは死んだとしても、新しい地球においてチャンスがある。しかし、もし私たちがエホバの法を破るなら、新しい地球へのチャンスは、私たちだけでなく、赤ちゃんも失ってしまう。」
こうした輸血拒否の姿勢は時と共にエスカレートし、当初は「良心の問題」として扱われていた輸血が、1961年頃には輸血を受ける者は組織から「排斥」されるという厳しいレベルにまで進んで行ったのです。ですから輸血禁止が厳しく教えられている期間は三十七年ということになります。
そのようなわけで、輸血禁止は聖書の教えとは言えないばかりでなく、ものみの塔協会の永遠不変の教えでもなかったのです。ですから、ものみの塔協会は一日も早く輸血禁止の教えの撤回を公にし、生命の危険にさらされているエホバの証人に輸血することを許可していただきたいのです。終りにそのことを強く要請したいと思います。

   
付 記
 既に「ニュース&お知らせ」コーナーで報告してきましたが、JEA神学委員会ではエホバの証人が聖書の教えであると主張する輸血拒否の教えが本当に聖書の教えであるのかということを吟味するための研究作業が続けられてきました。(私 藤原もその6人の委員の一人として作業に取り組んできましたが。)

 その研究課題の第1はエホバの証人が輸血拒否の根拠とする聖書箇所に関わる研究であり、その第2はエホバの組織の輸血拒否に関わる教理の変遷の歴史の研究でした。すなわち、輸血拒否の教理は真に聖書に基づいた教えであるのか、またこの教理はエホバの組織において常に首尾一貫性をもって教えられてきたものなのか、という点についての研究吟味を試みるということでした。そして、その研究の結果は上に述べられている通りです。

 このような研究成果がエホバの証人の方々の目にもとまり、その過ちから解放されること、エホバの証人の輸血問題をめぐって苦悩の中に置かれている関係者の方々がエホバの証人の血の教えの本質を知って適切な対応ができるようになること、広く一般の人々にもエホバの証人の輸血拒否は聖書とは無縁な教えであることを認識してもらうこと、あるいはまた輸血拒否の教えにより医療現場などで引き起こされている混乱や悲劇を防ぐため等々にいささかでも貢献できることを切に祈り期待しています。

 そのような意味において、このパンフレットが日本の社会で広く用いられ役立っていくことを願って止みません。

当ホームページ・ウェブマスター 藤原導夫

 
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