・第一章 訂正し続けた歴史
初期の歴史
パスツールについて
種痘に関して
臓器移植について
結論
・第二章 輸血禁止の歴史
1930年代まで
1930年代から
輸血を推奨していた
1940年代に入って
1950年代
1960年代
血液成分の一部でも禁止する
動物への輸血を禁止する
第[凝固因子を認める
血の成分を認める
どこへ行くのか
結 論
・第三章 医療に対する否定的な態度
輸血の危険性を強調する
輸血に対して悪いイメージを与える
「血」は暴利をむさぼる事業
輸血を受けなくても、不利ではない
医師への不信感を抱かせる
輸血は強姦に等しいか
子どもたちへの教育
結 論
・第四章 輸血禁止をめぐって
文字どおりの解釈ではない
血に対する特別視
血の使用法は一つだけか
血を食べることと輸血することは同じか
少量ならよいのか
肉食動物はどうなるのか。
魚の血は食べてもよいか
聖書への読み込み
初代教会史
・第五章 輸血の歴史
17世紀の輸血−動物血の人への輸血
19世紀初期の輸血−人の血液を人へ
19世紀後半の様子
20世紀の輸血
日本における輸血の歴史
・第六章 輸血に関する基礎知識
60兆個の細胞からなる体
血液各成分の生成と寿命
血液の構成と働き
成分輸血
自己血輸血
輸液
血液銀行
輸血の決定
・第七章 輸血拒否の法的問題
輸血拒否のための出版物
医療機関連絡委員会
医療委員会から伝道者への文書
医療委員会より県の医師会への文書
各医療機関の対応
はじめての訴訟に対しての判決
これまでの事例
輸血拒否は公序良俗にはんするか
ものみの塔聖書冊子協会への提案
結 論
・第八章 わずかな聖句から
聖書の証言が根拠である
聖書は輸血問題を重要視しているか
輸血禁止の協会の論理
・第九章 創世記9章3-4節の解釈
ノアに対する命令とは
血を食べてはいけない、という意味は
血は生命であるとは?
生命の尊重が中心的テーマ
永遠の命令か?
血を食べることと輸血することとは同じ?
結 論
・第十章 レビ記17章11-16節
血を食べてはいけない、という律法
血を食べない理由
禁止命令を破った場合
レビ記17章15-16節の協会の解釈
地に注ぐとは神に返すこと?
聖書からの検証
モーセ時代に輸血があったか?
結 論
・第十一章 使徒15章19-29節
エルサレム会議決議事項の背景
決議事項の意図
協会の応答
他の3つの命令は永遠か
偶像にささげられた肉
淫 行
締め殺されたもの
血
健やかにお過ごしください
統治体による決定?
結 論
・第十二章 その他の聖書箇所
Tサムエル14章24-35節
Uサムエル23章15-17節
ルカ10章25-27節
使徒20章26節
使徒21章25節
Tペテロ2章21節
出エジプト22章31節
申命記14章21節
マタイ12章1-8節
13才の少女が、交通事故のために入院した。医師は、手術をすれば助かると判断して、少女にそのことを話した。ところが、少女は、「私は、エホバの証人なので輸血をしないでほしい」と申し出た。医師は「手術をすれば、治る。輸血はどうしても必要な時だけしかしない」と約束した。少女は孤児だった。医師は、子供であっても、本人の意志を尊重しようと考え、本人の了解を取ろうと努力した。その介あって、少女は納得した。
一晩たった。手術をしよう準備に入った医師たちに異変が起きた。昨夜、どこから聞きつけたのか、エホバの証人の仲間が少女のところにやってきた。そして、輸血を受けないように彼女を説得してしまったのである。その日、医師は、再び、少女の説得をはじめた。長い話し合いの末、彼女は、必要であれば、輸血を受けることを了承した。ところが、その日もまた、エホバの証人たちが病院に押しかけてきた。そして、彼女に輸血を受けるのを思いとどまらせてしまった。医師は、私の友人の宣教師に電話をした。その宣教師は、エホバの証人のことをよく知っていたので、少女が輸血を受けるよう説得を依頼したのである。宣教師は、その少女を訪問することを約束した。その日の夕方、再び、医師から宣教師に電話が入った。その少女は、先ほど、息を引き取った、と。
その医師は、友人の宣教師に言った。「エホバの証人は生きる資格がない。13才の少女に死ね、死ね、と言っているのだ。あれはどういう信仰なのだ。それに、あなたがたキリスト教の宣教師や牧師は何をしているのか。彼らは、聖書を持ち出して『輸血は禁じられている』と言っているではないか。誰もそれにまともに反論していないではないか。」
友人のその宣教師が電話をくれたのは、昨年(1996年)7月半ばのことだった。その日のことをよく覚えているのは、テレビが、妊娠していた主婦が、輸血を拒否し、死亡してしまった事件を報道していた直後のことだったからである。
ものみの塔聖書冊子協会は、幾つもの禁止命令を出しておきながら、後になって撤回する、ということは既に見てきた。そこから学べることの一つは、エホバの証人や、外の世界が声を大きくするなら、ものみの塔聖書冊子協会は、「輸血拒否」の信条を変える可能性がある、ということである。その場合でも、これまでに払われた犠牲が余りに大きいので、「輸血拒否」という言葉は、何とか残そうとするであろう。しかし、それは余り問題ではない。その中味が変われば、エホバの証人の医療事情は相当、変わるのである。組織が輸血に対して見解を変えれば、個々の証人も、自らの宗教的信条を簡単に変えるのである。箴言4章18節を引用して、新しい光が照った、と言うはずである。だから、医学会も、法曹界も、ジャーナリストも、そのような動きに貢献してほしいのである。
ところで、ものみの塔聖書冊子協会が、医学の領域に踏み込んで、何をどのように発言しようと、それはそれで自由である。しかし、その自由には、最低、次のような責任が伴う。
@正確な情報を伝える
A信者の一人ひとりが判断する自由を認める
Bもし、間違ったことを公表したなら、その誤りを公けに認める
Cその間違いによって不幸な事態をもたらせるようなことがあれば、その人々に謝罪をする
D間違ったことを説いた人は、公的に責任を取る
ところが、協会は、外部の世界に向かって、「信教の自由」を主張しながら、その自由に伴う「責任」を回避している。証人の皆さんに見極めていただきたいのは、この点である。
協会は、自らの組織を「神の唯一の伝達経路」と教える。そして、協会の出版物は、すべて「神からの霊的食物」であると言い、神の権威を帯びた教えとして受け入れさせる。組織の教えは絶対である。批判することを許さない。疑問をもつことは悪魔に惑わされているしるしだ、という。自分の考えをもつことは「独立的思考」と呼ばれ、高慢な人であることを表わす。もし、従来の見解が間違っていたことを認めざるをえなくなると、人目につかないようにそれまでの教えを引っ込める。そして、箴言4章18節をもちいて、神が「新しい光」を与えてくださった、と訂正した意見を出版物に掲載する。古い主張に対して責任を取ることはしない。それらの情報は、できるだけエホバの証人の目にふれさせないようにする。古い見解と新しい見解の矛盾を指摘する書物は皆、「背教者の書物」にする。もし、そのような書物をエホバの証人が読むなら、排斥処分にする。そのような組織は、神の組織だろうか。
あなたは、エホバの証人として、毎日、神に喜ばれたいと願い、努力しているだろう。「血」についての協会の教えは、聖書が示している真理であり、間違いない、と確信していると思う。しかし、もう一度だけ、チャンスをいただきたい。ベレヤの人々のことを思い出し、この書物を調べていただきたい。
「さて、[ここの人たち]は、テサロニケの人たちより気持ちがおおらかであった。きわめて意欲的な態度でみ言葉を受け入れ、それがそのとおりかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べたのである。」(使徒17章11節)
彼らは、使徒パウロの説教さえ、聖書に照らしながら、調べた。そして、聖書に従った。もし、協会が、聖書の真理を正しく教えているのであれば、何一つ恐れることはない。聞いたこと、あるいは読んだことを聖書に照らし合わせながら調査することは、決して背教的行為ではない。本書の情報を参考にしながら、これまで協会の出版物が教えてきたことが聖書の教えどおりかどうか、チェックしていただきたいだけである。
私は、長い間、レビ記17章10節は、人間が殺した動物のことを指している、と思っていた。ところが、先日、『ものみの塔』誌1983年7月15日号を目にして驚ろいた。そこには、レビ記17章10節を人間が殺した動物に限定するのは、「聖句が述べる以上のことをそこから読み取ろうとする行為です」と述べてられていた。この文章が正しければ、私は「聖句が述べている以上のことを読み取ろうとしている」ことになる。これは、私にとっては重大問題である。私は、はたして、「聖句が述べている以上のことを読み取ろうとしている」のか。もう一度、レビ記17章を読み直した。聖書のあちらこちらを読み比べながら、徹底的に調べてみた。そして、私なりの結論を出した。
大事なことは、ものみの塔聖書冊子協会の出版物が述べていることを、聖書に照らして見ることである。そこで言われている情報をそのまま鵜呑みにしないで、聖書と読み比べ、聖書の主張に、素直に耳を傾けることである。
読んでいくうちに、自分で考えてはいけない、自分で考えること自身、高慢なことである、聖書は、組織に教えてもらわなければ、自分一人では分からない、組織が教えていることを疑うことは罪である、本書を読むことはサタンの罠である、...いろいろな思いが浮かんでくるであろう。しかし、迷う必要はない。あなたは、聖書から調べようとしているのだ。あなたがしていることは、ベレヤの人々がしたことなのだ。
私は、本書を執筆するにあたり、『ものみの塔』誌1964年3月15日号(177頁)の文章を何度も思い出した。次のように書いてある。
「偽りの宗教があるのではありませんか。別の宗教が間違ったものであると言い、またそのことを示すのは、宗教の迫害ではありません。知識のある人が特定の宗教の間違っていることを公けに暴露し、偽りの宗教と真の宗教との相違を他の人々に示すのは、宗教の迫害ではありません。しかし偽りの宗教の間違っていることを暴露し、また説くために、真の崇拝者は権威ある判断の手段、絶対に間違うことのない基準を持つことが必要です。偽りの宗教を公けに暴露するのは、報道の誤りを明らかにするよりも有益なことです。それは宗教の迫害ではなくて公共に対する奉仕であり、人々の永遠の生命と幸福に関連しています。それでもなお人々には選択の自由が与えられています。」
「宗教を実践するからには、それが真実で正しい宗教であることを確信しているのは当然です。自分の宗教だけが正しい宗教であると信じていても、それをひとりよがりときめつけることはできません。しかしその人は自分の宗教が唯一の正しい宗教であり、永遠の祝福をもたらすという事を証明できなければならず、そうでなければせっかくの信仰も根拠のない軽言となります。」
本書を著わすにあたって、基本的に、聖書と、協会の出版物のみを使うことにした。エホバの証人の方々がほんとうに信じているのは、聖書と協会の出版物だけだからである。聖書は、すべて新世界訳を使用した。証人の皆さんが違和感を感じないためである。協会の文献は要約しないで、そのまま引用するように努めた。協会の教えを正確に理解するためである。ただし、1960年以前の古い文献は、英語から自分で訳した訳文を載せた。海老名の日本支部の図書室に、古い日本語の資料を見せていただきたいと許可を求めたが、お返事をいただけなかったからである。訳文は正確を期したつもりである。しかし、もし不信をもたれるなら、ご連絡いただきたい。手元にある英語の原文の文章をコピーしてお送りする。
もし、本書を読んで、ものみの塔に関して、もう少し違う情報がほしい、と思われたなら、資料をご請求いただきたい。喜んでお送りする。また、もし、著者と直接話してみたいと思われる方がおられるなら、ご連絡いただきたい。もし、あなたが、エホバの証人か研究生であるなら、時間の許す限り、北海道でも、九州でも飛んで行く。交通費を含め、費用は一切、不要である。気軽に声をかけていただきたい。
聖書の神が、あなたの心を聖書に向けさせ、聖書の言わんとするところを汲み取らせてくださるように。
1997年4月1日
『輸血拒否問題を考える会』
代表 中 澤 啓 介
宗教は、その宗教が教える価値観に基づいた世界観を提供する。その世界観は、生きるに必要なすべての領域に関わりをもつ。従って、医学的な領域をも含む。どの宗教も、医学的な事柄に対して、それなりの見解をもっている。そして、それが反社会的なものでない限り、社会も、それを容認している。
ものみの塔聖書冊子協会は、1876年にはじまった。従って、120年の歴史をもつ。その間、医学的な領域に踏み込んで、さまざまな発言をしてきた。私たちは、協会が、医学的な問題に関してどのような発言をしてきたのか、たどってみることにしよう。
初期の歴史
協会は、グループが誕生したときから、医療的な事柄に発言してきた。ここでは、いくつか目にとまったものを紹介しよう。
まず、『ものみの塔』誌1881年5月号(英語版、226頁)である。その雑誌は、「ピンクの別荘の信仰の薬」という薬の広告を出している。この薬を飲むなら長生きする、と宣伝している。この「長生きする薬」は、今では、どのような薬か、分からない。それは、神が示された薬ではなかった。ものみの塔協会の創設者ラッセルが、勝手に宣伝した薬にすぎない。
『ものみの塔』誌1896年3月1日号(英語版、41-42頁)を、見てみよう。そこでは、トーマス・エジソンが発見した「エックス線の写真機」についてふれられている。
「写真および電話機を発明した電気の技術者トーマス・エジソンは、新しい『エックス線』を発見し、8インチの樫の木の箱を通して写真を取ることに成功した。しかし、先月号で指摘したように、神智学や他の学問は、新しい発見は欺きの道具箱の一つにすぎない、と宣言している。聖書は、サタンが我々の時代において強い惑わしの働きをもたらす、と前もって警告している。しかし、神に感謝せよ。サタンは、「選ばれた民」を欺くことはできない。終わりまで服従し、忠実であることが、私たちの召命と選びを確かなものにする。言い替えれば、もし、私たちが、言葉と主の霊に忠実であるなら、神は私たちを守ってくださる。」
協会は、エックス線の写真機を「欺きの道具箱」と酷評している。そして、それは、サタンの惑わしの働きの結果できあがったものである。しかし、サタンは、エホバの証人をだますことはできない、と強調している。今から100年前の話ではあるが、ラッセルはおかしなことを教えたものである。
証人の皆さん、ちょっと、考えていただきたい。このような見解を協会の創設者ラッセルに教えたのは、聖霊によるのだろうか、悪霊によるのだろうか、それとも、ラッセル自身の考えに基づいたものなのか。
その同じ記事は、ある『抗毒素』のことを「千年王国の祝福の源泉」と述べている。しかも、その記事は、千年王国が、その時から20年後、つまり、1916年に到来する、と予言している。
「鉱物と石炭酸から成り立つ抗毒素はアセプトリンと呼ばれる。それは病気を抑止するものとして大いに期待されている。最近のこれらの発見は、言うまでもなく、千年王国の祝福の準備に他ならない。今から20年後は、意図的に罪を犯した人は死んでしまうが、その他の人々は回復する時となる。そして、その抗毒素は、人類にとって、珍しいものではなくなり、すべての祝福の真の源泉を示唆する信仰へと導く。」
証人の皆さん、あなたは、アセプトリンと呼ばれる抗毒素について聞いたことがあるか。病気を抑止する薬だそうである。千年王国に病気がないのは、このアセプトリンのお蔭らしい。しかも、その千年王国は、この『ものみの塔』誌が出版されてから20年後に来ると預言されている。この『ものみの塔』誌の発行年は1896年だから、千年王国は、1916年に開始されていなければならない。
1916年、千年王国ははじまっただろうか。むろん、ノーである。
ラッセルは、1916年頃に千年王国が到来することを預言した。しかし、間違った。このような預言の間違いを犯したのは、創設者ラッセルだけではなかった。二代目会長のラザフォードは、1920年に出版した『現存する万民は決して死することなし』の中で、1925年にアブラハム、イサク、ヤコブが復活してくる、と預言した。そして、カリフォルニア州サンディエゴ市に、彼らが住む家まで建設した。その後、第二次世界大戦がハルマゲドンの戦いであると、何度も預言した(1941年)。三代目会長ノアは、人類の歴史が1975年で、6,000年を迎え、その年にハルマゲドンが到来すると、預言した。むろん、いずれの預言も外れた。千年王国は来なかった。申命記18章20-22節を読んでいただきたい。
「しかし、話すようにとわたしが命じたのではない言葉をあえてわたしの名において話し、あるいは他の神々の名においてはなす預言者、その預言者は死ななければならない。そして、あなたが心の中で、『エホバが話されたのではない言葉をどのようにして知るのか』と言う場合であるが、もし預言者がエホバの名において話しても、その言葉が実現せず、そのとおりにならなければ、それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない。」
ラッセルは、1916年、ラザフォードは、1942年、ノアは1977年死んだ。申命記の言葉と合わせて考えていただきたい。
話を医療問題に戻そう。1912年1月15日号の『ものみの塔』誌は、協会が「千年王国の豆」なるものを売買していたことを明らかにしている。それは、「病気にならない豆」と言われている。そんな豆があれば、ラッセル自身、4年後に死ぬことはなかったであろう。ものみの塔協会というのは、いいかげんなものを売買していた組織である。いったい、ほんとうに、神が選んだ「清い神の組織」なのだろうか。それとも、その辺にある他の人間の組織と同じなのだろうか。
『ものみの塔』誌1915年5月15日号(5689頁)は、インフルエンザや腸チフスには、酸っぱいミルク、あるいは、とうがらしの胡椒のえんどうの中に発見された「健康のバクテリア」が効く、と述べている。あなたは、「健康のバクテリア」なるものについて、聞いたことがあるか。それが、ミルクやえんどうにあるというのだが。
また、そのすぐ後(5691頁)には、肺炎であれば、どんな場合にも効く新しい薬として、「ナトリウムサルチル酸」を紹介している。昨年夏、私は、肺炎で3か月ほど休養をとらなければならなかった。もし、「ナトリウムサルチル酸」という薬をもらえば、簡単に直ったのだろうか。どんな肺炎にでも効くのなら、医師はどうしてその薬をくれなかったのだろうか。
1929年4月22日号の『黄金時代』(現在の『目ざめよ!』の前身)は、「電子による自動診断」という記事を、5頁にわたって掲載している。ある小さな医療機器が病人の病状を100パーセント正確に診断し、電子波によって病をいやすことができる、というのである。しかもこの機械を、「医学史上最大の発見」と紹介している。手元に、医学の歴史を記している書物が数冊あるが、どの書物にも、この「医学史上最大の発見」という機器のことが記されていないのはどうしてなのだろうか。
『ものみの塔』誌1932年9月14日号(792頁)は、「アルミニウム」を非難している。そんな例をあげれば、まだまだいくらでもあげることができる。
協会が、医学的な問題にふれたこと自体を非難しているのではない。信仰は、医療の分野も包含する。だから、毒素の話をしようが、薬の話をしようが、医療機器の宣伝をしようが、それは自由である。しかし、当時の医学的な知識から言ってもおかしな事柄を、ラッセルやラザフォードが、エホバ神の権威で語ったとしたら、問題である。当時の信者たちは、それらの教えを神からの絶対的なものとして、受けとめたからである。
パスツールについて
パスツールが、医学会にどれほど大きな貢献をしたかを述べる必要はない。ところが、驚くべきことに、『黄金時代』1936年9月23日号(英語版、814頁)は、「詐欺師パスツール」という記事を掲載している。少々長くなるが、紹介しておこう。
「パスツールについて、多くの人は恩人と思っているが、実際はそうではなく、健康のために無数の金品を費やさせ、世界中の数え切れない人々の生命を損なわせてしまっている。パスツールの第一の関心は富と栄誉にあり、そのために、センセーショナルなことを行なう。彼は、自分が正しいことを証明される前に、自分のことを宣伝したがるという習慣がある。例えすべての発見が彼の教えに矛盾するとしても、なお自分の教えにしがみついている人物である。」
「1911年、イリノイ州は、牛乳の問題を調査するために、20万ドルを費やした。動物に対するツベルクリン反応のテストは、どのような角度から見ても、無益で、危険で、詐欺的である。ミルクのパスツール殺菌法は、それを保存するには役立つが、消費者にはよくない。W・A・エバンスと彼の仲間の医者たちは、このようなレポートを知って、詐欺的な行為をする代わりに、これらの記録のすべてのコピーを破棄した。そして、その破棄したものをバター製造法とミルクの消費者のために書き改める、ということをした。」
「イリノイ州の調査とは関係なく、数年後に、合衆国の内務省は、ドイツからロエニス教授という専門家を招き、同省のパウロ・ハッカーとともに、結核患者とツベルクリンの問題を調査させた。それはイリノイ州のレポートとは別に作成されたのだが、結果は、イリノイ州のものときわめてよく似ていた。つまり、動物へのツベルクリン反応は、全く馬鹿げたものである、ということである。今、それらのレポートを取り寄せるがよい。もう一人のほら吹きの声が聞こえてくるだろう。」
「狂犬病というのは、現実のものではなく、架空のものである。もし、その迷信にお金が絡んでいなければ、とっくの昔に消え去っていただろう。...パスツールは、狂犬病を治療しているのではなく、産み出しているにすぎない。」
じっくり読んでいただきたい。そして、当時のものみの塔協会のリーダーたちの医学の知識がどの程度のものだったか、考えていただきたい。
ところで、驚いてはいけない。1977年出版の『人生には確かに目的がある』(79頁)という書物では、その評価を、180度変え、ルイ・パスツールを「医学に大きく貢献した著名な科学者」と呼んでいる。その記事は、パスツールが、1864年に、パリのソルボンヌ大学においてした講演を詳しく紹介した後、次のように述べている。
「この言葉は百年以上も昔に語られましたが、これは現在でも真実です。科学者たちが、生命のない物質から生命を自然発生させ得たことは一度もありません。実際、内科医も歯科医も外科医も、そして科学者たちも、パスツールの実験に頼り、信仰を置いています。自分たちの病院や外科器具を殺菌しますし、牛乳や水を殺菌します。それは細菌による感染や腐敗を生じさせないためです。」
協会が、なぜそんなにパスツールにこだわるのか、私には分からないのだが、最近の『目ざめよ!』誌(1996年12月8日号)においても、「ルイ・パスツール、その研究により明らかにされた事柄」という4頁にわたる特集記事を載せている。
「その講演やそれ以後の数々の発見のゆえに、パスツ−ルはワ−ルドブック百科辞典にある通り、『世界で最も偉大な科学者の一人』になりました。しかし、当時の人々にそれほどの感銘を与えたのは何故でしょうか。どうして世界的に知られるようになったのでしょうか。わたしたちは今どのような面でその発見の恩恵に浴しているでしょうか。」
「パスツ−ルは1895年に亡くなりました。しかしパスツ−ルの研究は貴重なもので、わたしたちは今日でもその様々な恩恵に浴しています。だからこそ、パスツ−ルは『人類の恩人』と呼ばれています。その名は今でもワクチンや、パスツ−ルが発明者であると一般に認められている種々の処置法と結びつけられています。」
時間の経過とともに、ある人に対する評価が変わることは、よくある。しかし、パスツールに対する協会の評価は、どうも理解できない。60年前に「詐欺師」と言われた人が、今日では、「人類の恩人」になってしまうのである。なぜ、1930年代には、ものみの塔協会は、パスツールを「詐欺師」と呼んだのか。その答えは簡単である。協会のリーダーに医学の知識がなかったのである。
パスツールの業績は数多い。彼と同時代の医師たちは、彼の仕事を基にして、外科学を発展させた。彼自身の評価は、前世紀末には、既に確立していた。わずかな医学の知識さえあれば、誰でも彼の研究成果を評価できたはずである。1930年代の「神の唯一の伝達経路」である協会のリーダーは、そのわずかな医学的知識さえ持ち合わせていなかった、ということである。否、もしかしたら、無知だったのではないのかもしれない。意図的に、パスツールに対して悪意・敵意を抱かせたのかもしれない。エホバの証人たちに、種痘拒否を徹底させるために。
人は、自分の内面に潜む隠されていることを、しばしば他人に投影する。パスツールについて言われたことが、ラザフォード自身にあったのではないか、そんな風に私には思われる。前記の『黄金時代』が「詐欺師パスツール」について述べている文章をラザフォードの名前に置き換えて読んでみていただきたい。エホバの証人には、認めにくいことであろうが、一般に言われているラザフォード評とよく一致する。
「ラザフォードの第一の関心は富と栄誉にあり、そのために、センセーショナルなことを行なう。彼は、自分が正しいことを証明される前に、自分のことを宣伝したがるという習慣がある。例えすべての発見が彼の教えに矛盾するとしても、なお自分の教えにしがみついている人物である。」
種痘に関して
ものみの塔協会が医学の領域に干渉して、大きな失墜を演じるのは、「種痘」問題である。ここで、その問題を取り上げよう。まず、『黄金時代』1923年1月3日号(英語版、211頁)を見ていただきたい。そこには「種痘法」という記事が掲載され、「狂犬病などというものが存在しなくなるのは、いつのことであろうか」と、種痘に真っ向から反対している。これこそ、協会が、医療に本格的に介入した最初の記事である。
2年後の『黄金時代』1925年4月8日号(英語版、424頁)もまた、「種痘」を強く非難している。ところが、ところがである。それからさらに2週間後の『黄金時代』は、「現代医学の最大の貢献の一つは、ジフテリアに対する毒素の発見と精製である」と、正反対の見解を紹介している(1925年4月22日号、英語版、455頁)。
同じ機関誌の前号と次号とで、まったく正反対のことを述べる。これはいったいどういうことなのだろうか。どちらが、エホバ神が協会に示した啓示だと受けとめるべきなのだろうか。
4年後の『黄金時代』1929年1月9日号(英語版、245頁)は、1925年4月22日号で一旦認めたかに見える「種痘」を、再び強く非難する。
「発見は、無知、間違い、迷信などに基づいて、研究所によってなされている。しかし、いつの日か、いわゆる医学と言われる学問は、それらの発見が無知以外の何ものでもないことを発見するだろう。」
それから4ヶ月後の1929年5月1日号の『黄金時代』(英語版、502頁)は、種痘に対する協会の否定的姿勢を一層鮮明にしている。
「思慮深い人々は、種痘を受けるより、天然痘でいることを望むであろう。...種痘を受けることは、罪であり、不法であり、惑わしに他ならず、...それは一人の生命をも救ってはいない」と。
この文章は、ラザフォードをはじめ、当時の協会のリーダーたちの医学的無知を暴露している。世界保険機構(WHO)は、種痘を武器にして、インド、パキスタン、東南アジア、アフリカ、南米などで天然痘の撲滅作戦を展開した。その結果、患者の発生が次第に減少し、1980年には、天然痘という病気を地球上から消滅させることができた。そのような人々は、協会のこの文書によれば、「思慮深い人々」ではないのである。
その2年後の『黄金時代』(1931年2月4日号、英語版、293-4頁)は、「種痘」を創世記9章のノア契約に結びつけ、神の律法を破る冒涜行為、と断罪した。
「種痘は、洪水の後に、創世記9:1-17で、神がノアと結ばれた永遠の契約を直接侵害する。」
「この契約は、人類の家族全体が含まれているだけではなく、地上の他のすべての被造物をも含んだものである(創世記9:10および12を見よ)。この契約は非常に重要だったので、それを破ることがどれほど危険なことであるかを覚えさせるために、神は、虹を雲の中に置かれた。この契約において、神が人間に禁じたのは、二つのことである。一つは、人間は、動物の血を内に入れてはならない、ということである。もう一つは、仲間の人間の血を流すようなことをしてはいけない、ということである。もし、この法を犯すなら、彼は、人間によって、血を流されるのである。この契約の中には、動物のことが含まれているので、同じような仕方で、人間も流される、ということである。」
「すべての理性的な人は、神が反対されたのは血を食べることではなく、動物の血を人間の血と関係づけることである。法律に反して人間は仲間の人の血を流すことだけではなく、動物の体を取り、不法な仕方で、血を抜きだし、毒を入れて、その血を人間の血に直接注入することを禁じているのである。そのようにして神の律法を破ることは、それ以上のことは考えられないような神を冒涜する行為である。種痘は、人命を救ったこともなければ、天然痘を防いだこともない。良い食物、良い水、衛生環境こそが人間の健康の基礎である。このことをはっきり証明した病気こそ天然痘であった。」
「種痘禁止」という点に関し、1931年までは、協会には迷いがあった。しかし、この記事以降は、完全にそうではなくなった。その時から、エホバの証人は、種痘を受けることが出来なくなった。その結果、エホバの証人、特に子どもたちの間に、種痘を受けないことによる犠牲者が続出する。それにともない、多くの訴訟事件も起きた。そのような訴訟事件は、組織を重大な危機に陥れるが、それでも、組織の指導者は、「種痘」に対する方針を固く守り続けた。
アメリカでは、多くの州が、「種痘」を受けなければ学校に入学できない、という法律をつくった。それに対し、エホバの証人の両親は、種痘を受けたように見せるため、酢によって腕にしるしをつけてもらい、「種痘を受けた」という偽りの証明書を医師に書いてもらい、提出した。この種痘禁止命令は、31年から20年間続いた。
ところが、1952年のことである。協会は、種痘に関するそれまでの教えを撤回してしまった。1952年12月25日の『ものみの塔』誌(英語版、764頁)は、「読者からの質問欄」で、次のように述べている。
「種痘ということについては、自分自身で決めることである。...そのことに関する熟慮の結果、私たちには、創世記9:4において結ばれた永遠の契約の侵害に当たるとも、また、それと関わりのあるレビ記17:10-14の神の命令に矛盾するとも思えない。」
証人の皆さん、この文章と、1931年2月14日号の『黄金時代』の文章、「種痘は、洪水の後に、創世記9:1-17で、神がノアと結ばれた永遠の契約を直接侵害する」とを、よく読み比べていただきたい。文字どおり、正反対のことを述べている。同じ団体が述べていることとは到底思えない。
どうして、そんなことが起こったのか。『ものみの塔』誌は、「熟慮の結果」だと言う。では、それより、20年前、「種痘禁止」を明確に打ち出したときには、熟慮しなかったということになるのか。そんないいかげんなことってあるのだろうか。その20年間に、種痘禁止の教えによって、相当数の人々が命を落としている、というのに。
ものみの塔聖書冊子協会が教理を変更するとき、聖書から論ずることはまずない。むろん、それまで間違って教えてきた責任を明らかにすることもない。どれだけの犠牲者が出たとしても、その一人に対してでさえ、謝罪することはない。ただ、自分たちの機関誌『ものみの塔』誌の「読者からの質問欄」というコーナーを借りて、いとも簡単に、20年間教えてきた「生命を左右した教え」でさえ、変えてしまうのである。こんなことは、他のどんな組織においても、考えられないことである。
どのような組織にとっても、それまで教えてきた教理を変更するのは大変なことである。変更するには、それなりの具体的な理由があったはずである。では、ものみの塔が、種痘禁止を解除した背景に何があったのか。ものみの塔の組織、および副会長フレデリック・フランズの弁護活動をしていたコビントン弁護士は、次のような事実を明らかにしている(バーグマン著、『輸血』、1994年、34頁)。
ものみの塔の組織は、40年代になると、種痘禁止の教えによって、窮地に立たされるはめになっていった。実は、協会は、種痘を受けなければ入国できない100以上の国々に、150人以上の宣教者を派遣していた。彼らは、6か月間の滞在許可を得るため、「種痘を受けた」という偽りの証明書を医師から発行してもらっていた。また、組織の指導者たちもそのような国々を旅行する際には、同じことをしていた。ところが、アメリカを出発して、外国を訪問したエホバの証人の中に、天然痘にかかる人々が続出しはじめた。アメリカ連邦政府は、この異常事態に気づき、ものみの塔を調査しはじめたのである。
組織は、そのような事態に直面し、1952年、種痘禁止の教えを解除せざるをえなくなった。これこそ、1952年12月25日号の『ものみの塔』誌が、「熟慮の結果」と述べたことの具体的な中味だったのである。
証人の皆さん、よく考えていただきたい。協会が「種痘禁止解除」を打ち出したのは、政府の査察を受ける事態に陥って、組織のリーダーが「熟慮した結果」決めたことだったのである。ということは、種痘禁止も、種痘禁止解除も、聖霊の示しに基づいたのではなく、協会のリーダーが、その時その時に考え出したものだった、ということである。
しかし、この問題をそれで終らせるわけにはいかない。協会が、種痘に関してそのようにもて遊んでいた間に、多くのエホバの証人と子供たちが命を奪われたのである。1965年8月22日号の『目ざめよ!』は、次のように報告している。
「種痘が伝染病患者の減少に果たした役割は疑い得ない。今世紀の最初の30年間、合衆国だけでも、何万という天然痘による死者が出た。1920年から1930年だけでも、3万にから10万人に及ぶ。ところが、最近では、わずか55人の天然痘患者が報告されるのみである。しかも、彼らに、死の危険性はない。さらに、種痘は小児麻痺の減少に役だっているようである。」
この何万人もの死者のうち、エホバの証人とその子どもたちがどれぐらい含まれていたのかは、明らかではない。しかし、彼らは、種痘を禁じられていたので、他の人々より、高い確率で命を落としたことは間違いない。彼らに対する責任は、誰にあるのか。一般的な社会常識の感覚から言えば、ものみの塔聖書冊子協会の指導者にある。彼らは責任を取るべきである。しかし、この65年の『目ざめよ!』誌の書き方を見ていただきたい。まるで他人ごとのような書き方ではないか。責任を感じているどころか、問題があったとも思っていないように見える。こんなことが許されてよいのだろうか。
臓器移植について
協会が、医療の分野においていいかげんなことを教えてきたもう一つの例を紹介しよう。それは、臓器移植に関してである。
1961年8月1日号の『ものみの塔』誌(英語版、480頁)は、死んだ人の臓器を提供することは「良心の問題」であるとしていた。
ところが、それから7年後の、1968年4月1日の『ものみの塔』(222頁)は、「医学研究のために遺体を提供すること、あるいは臓器の移植手術を受けることには、聖書の見地からさしつかえがありますか」という読者からの質問に対し、次のように解答している。
「病気あるいは欠陥の生じた器官が健康をとりもどすふつうの方法は、栄養分の摂取です。体は食べた食物を使ってその器官を直し、あるいはいやし、徐々に体の細胞を更新します。この自然の働きがもはや用をなしていないと判断され、器官を切除して他の人の器官を移植することを医師がすすめるのは、健康回復の近道をとっているにすぎません。この種の手術を受ける人は他の人の肉によって生きることになり、それは人食い的です。エホバは人間が動物の肉を食べることを許されましたが、人の肉の場合それを食べるにしても、あるいは他の人からとられた器官あるいはからだの一部を移植するにしても、人食い的に人の肉を体内にとり入れて命を保たせる行為を許されませんでした。」
協会は、臓器移植を「人食いの行為」とし、完全に禁止したのである。その結果、1968年から1980年の間は、角膜移植と腎臓移植が、エホバの証人の間では不可能になった。
1969年6月2日のデトロイト・フリー・プレス紙は、ヒーレー・H・ワード氏によるミルトン・ヘンシェル氏−当時48才で、統治体の成員だった。1993年、ものみの塔の第五代目の会長に就任した−とのインタビューを掲載している。少々長いが、重要な発言なので、紹介しておこう(翻訳は、著者による)。
「ヘンシェル氏によれば、ものみの塔の教義には、いくらかの発展していることがないわけではないが、『輸血』と『臓器移植(それには輸血を伴うことが普通である)』に対する禁止命令は、今も変わっていない。」
「心臓あるいは他の臓器の移植は、まさしく『人食いの行為』である。臓器移植は、自分の命を保持するために、他の人の体のある部分を取り入れることになるからである。ヘンシェル氏は、創世記9章3-4節と使徒15章29節とを引用しつつ、このことを説明した。氏はまた、『私たちは復活を確信しており、死を恐れてはいない。もし、臓器を移植して5年生き延びたとしても、未来を失ってしまうなら、どのような益があるだろうか』と述べた。」
「ヘンシェル氏は、『その未来とは、神が悪魔を打ち破るハルマゲドンの戦いが含まれる。その戦いは、短い期間で終わる。多分、数カ月であろう。そして、1975年に注目すべきである』と述べた。彼らは、聖書に記されている人物の年齢を足して、1975年が創造から6,000年を経過する年代だと算出する。そして、このハルマゲドンの後、パラダイスが訪れ、キリストが目に見えない形で支配する。その時、144,000人(彼らは選ばれた霊的な民として、神の霊的な領域で、神のみ手の中にある)以外の人々は復活する、彼らはそう信じているのである。」
ところが、この臓器移植に対する禁止令もまた、エホバの証人の間に大きな問題を引き起こすことになる。この教えの故に、エホバの証人とその子どもたち数千人が角膜移植をできず、視力を完全に失うことになってしまったのである(バーグマン、前掲書、38頁)。こういう事態に陥って、ものみの塔の指導者は、やっと、このような教えが殺人に等しい行為であることを悟ったのである。
そして、1980年になり、臓器移植に対する禁止令を破棄したのである。1980年6月15日の『ものみの塔』(31頁)は、次のように述べている。
「聖書は特に血を食べることを禁じてはいますが、他の人間の組織を受け入れることをはっきりと禁じている聖書の命令はありません。そのようなわけでこの問題について決定を迫られる人各々は、物事を注意深く、祈りのうちに考量し、それから神のみ前で自分のできること、あるいはできないことを良心的に定めなければなりません。それは個人的に決定を下す問題です。(ガラテア6:5)ある人が臓器の移植を受けたとしても、会衆の審理委員会は懲戒措置を取らないでしょう。」
エホバの証人たちは、箴言4章18節の言葉を引いて、その教義の変更の理由を説明するであろう。しかし、神からの「新しい光」が照った、などと言ってもらいたくない。もし、光が照って、真理がより明らかになったというのであれば、臓器移植の禁止令がさらに細かく、示されるはずである。どの臓器の移植はよく、どの臓器の移植は悪い、ということが示されたのであれば、「新しい光」で説明してもよい。しかし、80年の見解は、それまでの教えを完全に否定したのである。これは、「新しい光」では説明できない。もし、80年の見解が正しいければ、それまでの見解は間違っていたのである。
ただ、変わった、というだけではない。正確に言えば、臓器移植に対する80年の見解は、『ものみの塔』誌1961年8月15日号の見解に戻ったということである。「光」で例えるなら、61年頃には、光が照っていた、しかし、68年から80年までは光が消えてしまった、そして、80年になって、再び光が照った、ということである。従って、68年から80年までは、協会の指導者に光が照らなくなり、エホバの証人たちは皆、暗やみを歩いていた、と言わねばならないのである。
その13年間に、角膜を移植するなら、視力を回復させることができた数千人の人々が失明した。その悲劇の原因は、協会のリーダーたちにある。彼らが、医学と聖書に無知であったため、臓器移植を禁止したために、起こったのである。本書をお読みの皆さんにお聞きしたい。そのようなことを教えた宗教指導者に、責任はないのだろうか。多くの犠牲者を出したことに対し、ひとことの謝罪もしなくてもすむものなのだろうか。一般の社会でそのようなことが行われるなら、刑事犯の罪に問われるのではないだろうか。
結論
ものみの塔聖書冊子協会は、教団の歴史の初めから、医療の分野に踏み込んで、さまざまな発言をしてきた。しかし、医学の領域に本格的に介入しはじめたのは、1923年頃からである。そのような歴史の中で、私たちは、特に、パスツール、種痘、臓器移植について、ものみの塔の出版物がどのように意見を変えてきたかを見てきた。その結果、協会は、「熟慮の結果」という名目で、容認から禁止、禁止から容認へと、見解をひるがえしてきたことが分かった。
以上の事実は、二つの重要なことを教えている。まず、ものみの塔聖書冊子協会に教理を教えている「統治体」は、エホバの証人たちが信じているような「神の唯一の伝達経路」などではない、ということである。
ある人が、それはよいことだ、と言ったかと思うと、しばらくして、それは悪いことだ、と前言を翻す。またしばらくすると、再び、それはよいことだともとに戻してしまった。人々は、そのような人を信用するだろうか。一度なら、まだよい。そんなことが他でも起こった。そしてまた、他のことでも同じことをやった。もはや、人々は、そのような人を信用しないであろう。
人間の世界でもそうである。まして、信仰の世界は、永遠の真理、普遍的な真理を問題にしている。教えられることがくるくる変えられては、困るのである。神は変わらない。神が啓示される真理も変わらない。だから、命がけで信じるのである。神は、決して、人を惑わすようなお方ではない。種痘を受けないで死亡してしまったエホバの証人、それは神のご意志に従ったからではない。協会のリーダーたちの医学に対する敵意から生じた犠牲者である。角膜の手術を受けることができないで、失明してしまったエホバの証人、その人もまた、協会のリーダーたちの医学に対する無知がもたらした犠牲者である。
協会が種痘禁止や臓器移植禁止を撤廃したことは、もう一つの重要なことを示唆する。それは、「輸血禁止」に関してである。協会は、種痘の禁止に対しても、臓器移植の禁止に対しても、創世記9章4節の言葉や使徒15章20節の言葉を引用しながら、主張した。それは、「輸血の禁止」に対して使っている聖書箇所と全く同じである。ところが、協会は、そのような聖書の解釈をいとも簡単に捨ててしまったのである。同じことが「輸血」について起こらないと、誰が保証してくれるだろうか。
むろん、輸血禁止の解除は、種痘禁止や臓器移植禁止の解除とは、比べものにならないほど大きな問題である。これまでの犠牲者も比ではない。輸血禁止を解除するなら、協会の屋台骨をゆるがすことになるであろう。しかし、「歴史は繰り返す。」輸血禁止は、解除されるであろう。むろん、輸血禁止解除などと、大々的に言うほど、組織のリーダーは愚かではない。「輸血禁止」という言葉を残すであろう。だが、その中味を限りなく実態のないものにするであろう。このことは次章で検証する。
協会は、その教団がはじまったときから、一貫して「輸血禁止」を教えてきた、ほとんどのエホバの証人は、そう思い込んでいる。「輸血禁止」の教理は、ものみの塔をものみの塔たらしめる最大の特徴ある教えであるから、教団内にいる信者も、外の一般の人もそう考えるのはごく自然である。普通、その教団のシンボルになるような教義は、途中で変えられるようなことはないかである。協会自身もそう思わせたいのであろう。『血はあなたの命をどのように救うことができますか』(1990年、6頁)は、次のように述べている。
「彼らは命を高く評価し、良い医療を積極的に求めますが、神の首尾一貫した基準に違反しないことを決意しています。つまり、命の創造者からの賜物として尊重する人々は、命を取り入れることによっていのちを支えようとはしないのです。」
「神の首尾一貫した基準」という表現に注目していただきたい。この文章は、輸血に関し、神は首尾一貫した基準をもっていた、と教えている。神が神である限り、首尾一貫していなければ、困る。しかし、教会が言いたいことはそのようなことではないように思う。エホバの証人たちは、その神の首尾一貫した基準を知り、それを守ってきた、と言いたいのではないかと思う。
もし、そうであるなら、事実は逆である。ものみの塔聖書冊子協会は、輸血に関し、大きな変更を繰り返してきた。もし、神が「首尾一貫した基準」をもっているとすれば、ものみの塔聖書冊子協会という組織は、神の組織ではないことになる。協会が、輸血に関し、首尾一貫した基準を示してこなかったからである。本章では、協会のそのような歩みを検証することにしよう。
1930年代まで
ものみの塔聖書冊子協会の創設者ラッセル(1876年から1916年まで)は、輸血については、何も言及しなかった。「輸血」は、前世紀の終りから今世紀初頭にかけて、かなり広く普及しはじめていたので、もし、ラッセルが輸血はいけないと考えていたのであれば、何等かの言及をしたはずである。しかし、そのような証言はない。
ラッセルは、今日の協会が輸血禁止の根拠にしている使徒15章20節および29節に対する注解を残している。それによれば、使徒15章の禁止命令は、異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンと一致していくために設けられた戒めである。決して、今日の協会が主張するような、いつの時代のクリスチャンもが守らなければならない永遠の命令などとは、考えていなかった。このラッセルの解釈は、本書十章で紹介する。
ところで、ものみの塔の教えによれば、イエスは、1914年に天の王座に即位し、1918年頃、すべての宗教団体を見回し、ものみの塔というグループのみが神のみ旨にかなう人々である、と認定したことになっている。でも、1918年に、イエスがご覧になった人々は、誰一人「血を体に取り入れてはならない」などとは信じていなかった。1918年と言えば、輸血は、既に、医学の世界では、注目されていたテーマであった(輸血の歴史については、六章で扱う)。協会は、血を避けるようにという命令は、ノアの時代から神によって定められていた、と主張する。もし、そうであるなら、1918年にイエスが調べられたとき、ものみの塔聖書冊子協会が血の問題に少しも気づいていなかった、というのは、おかしな話ではないか。
初代の会長ラッセルだけではない。二代目会長のラザフォード(1917年から1942年)もまた、「輸血」については一言も述べていない。彼は、医学的なことについてたくさんのことを述べている。特に、「種痘」を目の敵にし、証人たちに種痘禁止命令を課した。むろん、その命令は、三代目の会長の時代に、撤回されてしまうが、それでも、医療問題に本格的に踏み込んだのは、ラザフォードだったという事実は忘れてはならない。彼の時代、医学の世界では、輸血技術はますます発展し、注目されてきたのである。その彼が、「輸血」については何も言及していないのである。否、否、厳密に言えば、ふれていないのではなく、輸血を推奨していたのである。
ラザフォードは、1935年、天に行く144,000人の数が満ちた、と宣言した。その時天に行くことが保証された144,000人(この人数は、1世紀から数えたものであって、実際の人数は、6万人ぐらいである)は、全員、「種痘」は神から禁じられている、と信じていた。しかし、「輸血」を神が禁じている、とは、誰一人信じていなかった、ということである。証人の皆さん、おかしいと思わないか。今日の協会は全く逆のことを教えている。「種痘」はよく、「輸血」はいけないのである。
協会が輸血を全面的に禁じ、輸血を受けたエホバの証人を排斥処分にするのは、1961年からである。それまでは、輸血を認められていた、と言ってよい。ものみの塔聖書冊子協会は、1876年頃はじまったのであるから、そのはじめの85年ぐらいは、輸血は禁じられていなかった、ということになる。「輸血禁止」というのは、最近35年ほどの話なのである。本章では、その事実をものみの塔協会の出版物から検証する。
1930年代から
1920年代から40年代前半にかけては、協会は、種痘を禁止していたが、輸血は問題にしていなかった。協会が輸血に否定的になるのは、40年代の後半からである。
協会が出版している『エホバの証人の1976年の年鑑』は、1945年7月1日号の『ものみの塔』誌において、輸血は既に禁止されていたかのような書き方をしている。協会は、輸血禁止の教えを説きはじめた時期を、できるだけ古くまでさかのぼらせたい、と考えている。気持ちは分かる。しかし、これは、欺きである。45年の『ものみの塔』誌の記事は、「血を食べること」が主なテーマであり、「輸血禁止」ではなかった。これは後ほど、詳述する。
ところで、この1945年の記事は、1927年12月15日号の『ものみの塔』誌に言及している。45年の記事は、「血を食べること」について扱っているのだが、その件に関しても、協会は、ずっと前からそのことを教えてきた、と印象づけたいのである。これもまた、実は、欺きである。1927年の『ものみの塔』誌は、確かに、創世記9章2-4節を引用している。しかし、その後で議論しているのは、殺人に関してである。「輸血すること」はおろか、「血を食べること」についてさえ、言及していない(英語版、371-72頁参照)。協会にとっては、創世記9章2-4節は、「血を食べること」を主張するのに大切な聖句である。ところが、協会は、創世記9章2-4節が殺人についての文脈の中で引用されているにもかかわらず、「血を食べること」について言われているかのような紹介をしているのである。「血を食べること」についてのルーツを、少しでも昔にさかのぼらせたいという協会の意図は、あまりにこざかしい、と言わねばならない。
前の章で、1931年2月4日号の『目ざめよ!』誌の文章を紹介した(???頁)。その文章をもう一度、注意深く読んでいただきたい。そこでは、ノアの契約に言及されているが、ノアの契約を「血を食べること」と結びつけてはいない。当時の協会は、「種痘」を問題にしていた。だから、創世記9章2-6節も、動物の血と人間の血とを混ぜ合わせることが許されるかどうか、という観点から論じられた。従って、ノア契約が持ち出されてはいるが、「血を食べること」について問題にされたわけではない。まして、「輸血」のことなど、まったく念頭になかった。
協会が「血を食べること」を最初に取り上げるのは、1932年6月16日号の『黄金時代』(英語版、634-37頁)である。そこでは、「血を食べること」は、神が禁じられた律法とされている。しかし、その「血を食べること」が「輸血を受けること」と結びつけられるに至ってはいない。
「律法は動物、鳥、魚の肉を食べてもよいが血を食べてはいけない、というものだった。血を食べてはいけないと言われた理由は、血の中に「生命の原理(life principle)」があるからである。ここで再び、神は、生命の神聖さを教えている。生命は血の中にあるので、それは食べられるべきではない。」
1939年2月15日号の『ものみの塔』誌は、豚肉を食べることが許されるかどうか、を論じている。同誌は、豚肉を食べることを禁じられているのはユダヤ人であって、新約聖書のクリスチャンはそうではない。しかし、「血を食べてはいけない」という命令は、ユダヤ人だけでなく、すべてのクリスチャンを拘束する、と述べている。ここでは「血」の命令が普遍的なものである、との認識が深まるが、未だ、「血を食べること」と「輸血」を結びつけるには至っていない。
1930年代は、「輸血」は医療処置として認められ、ひろまっていく時代である。従って、「血を食べること」が「輸血すること」と関係があるとすれば、当時の文献にそのような考えを示唆する文章が出てきてもよさそうなものである。しかし、「血を食べること」と「輸血すること」とは、本来無関係なことである。だからこそ、30年代のものみの塔の文献には、「血を食べること」が出てきても、「輸血する」という言葉は、一切出てこないのである。
輸血を推奨していた
以上見てきたことは、1920年代から30年代にかけては、協会は、輸血禁止を問題にしていなかったことを明らかにしている。反対に、協会出版物は、当時、輸血を推奨していたことを示す記事を掲載している。ここでは、二つだけ紹介しておこう。
まず、1925年7月29日号の『黄金時代』(英語版、683頁)である。そこには、ロンドン病院のB.W.ティブル氏が、輸血を必要とする患者のために、45回も献血した、と称賛されている。
もう一つは、それから15年後、1940年12月25日の『慰め』(『黄金時代』の後の雑誌名、従って、現在の『目ざめよ』誌の前身)である。そこには、ニューヨークの主婦が胸部の手術において緊急事態に陥ったとき、その場に居合わせた医者が、自分の血液を輸血のために提供し、その主婦を助けたこと、その主婦は手術後も幸せに生きていることを喜んでいることが報じられている。むろん、医者の行為は賛辞の言葉で飾られている。
従って、1940年代の前半までは、ものみの塔は、輸血に対して否定的であったわけではない。
1940年代に入って
1920年代から30年代にかけては、「輸血」という言葉は、協会の出版物には出てこない。「輸血」という言葉が最初に登場するのは、1943年12月22日号の『慰め』誌である。そこでは、天然痘に対して免疫をつくる種痘との関わりの中で、「輸血」が非難されている。その記事は、二つのことを示唆する。一つは、1943年の時点では、輸血そのものは非難されてはいない、ということである。もう一つは、「輸血禁止」の教えの背景には、「種痘禁止」があった、ということである。
「輸血」という言葉が、「種痘」と切り離されて出てくるのは、1944年12月1日号の『ものみの塔』誌である(英語版、362頁)。
「ノアの子孫としてだけではなく、生命を支える血の神聖さに関わる永遠の契約をイスラエルに与えた神の律法に縛られる者として、寄留者は、輸血であれ、口からであれ、血を食べたり、飲んだりすることを禁じられている(創世記9:4、レビ記17:10-14)。」
この記事に至って、「輸血」が「血を食べること」と結びつけられている。むろん、直接禁止されているのは「血を食べること」であって、「輸血」ではない。しかし、この記事は、「輸血」も「血を食べること」の手段の一つである、という前提に立って、論じている。
既に述べたとおり、協会が輸血禁止を打ち出したのは、1945年である、と一般に信じられている。それは、協会が出版している『エホバの証人の1976年の年鑑』が、次のように述べていることに基づいている。
「1945年7月1日号の『ものみの塔』誌は血に関するクリスチャンの立場を明確にしました。とりわけ同誌が指摘したところによれば、輸血の歴史は古代エジプトにまでさかのぼりますが、文献に残る最も古い例は1492年に法王インノケンチウス8世に施されたものであり、3人の若者の生命を犠牲にしたその輸血も法王の命を救うことにはなりませんでした。さらに重要なことに、『ものみの塔』誌のその号は、ノアに与えられた血に関する神の律法は全人類に対して拘束力を持つことおよびクリスチャンは血を避けるよう求められていることを示していました。(使徒15:28、29)」
この記事を読むと、1945年7月1日の『ものみの塔』誌(英語版、198-203頁)は、「輸血禁止」を明らかにしているかのように見える。しかし、ほんとうにそうだろうか。もう少し詳しく見てみよう。
1945年7月1日号の『ものみの塔』誌は、まず、1927年12月15日号に言及し、「血の罪」にふれる。そして、それとは全く無関係の「血を食べること」に論点をシフトする。つまり、ほんとうは、「殺人」が禁じられていたのだが、あたかも「血を食べること」が、1927年の時点で既に禁じられていたかのような書き方をしているのである(198頁)。
次に、1939年2月15日号の『ものみの塔』誌について言及しつつ、血を食べたり・飲んだりすることは、ユダヤ人だけではなく、クリスチャンにも適用されるべきだと、論じる。既に確認したように、1939年の記事が、「血を取り入れること」を非難していることは事実である。しかし、その場合、「輸血禁止」のことは含まれていなかった。
続いて、神が、ペテロに動物やはうものを食べるように命じた記事(使徒10章9-16節)を取り上げる。ペテロは、動物をほふって食べる際、血を避けたはずである、なぜなら、ペテロはクリスチャンであるから血を避けたはずである、と論じる。そして、使徒15章6-20節、および15章22-29節、21章25節を引用する。むろん、ここには循環論法の間違いがある。それはともかく、この論議でも、「血を食べること」を問題にしているが、「輸血禁止」までは主張してはいない。
さらに、「血を食べてはいけない」ということを主張するために、T歴代誌11章17-19節のダビデが三勇士が汲んできた水を飲まなかった記事や、Tサムエル14章32-34節の、サウル王が、血のままの肉を食べた民を非難した記事を引用する。これらの引用もまた、「血を食べること」を禁止するためであって、「輸血」を禁止するためではない。
そして、「もし、血が肉と共に食べられる(あるいは飲まれる)なら、血を取り入れた人は、その動物の生命を自分勝手に殺したという罪を負わねばならない。その人は、契約を破った人として、神に裁かれる」と断定している。そして、血を抜いても、その血を食べなければ、その人は「勝手に生命を殺した」という罪には問われない、とおかしな結論を出している。つまり、もし、私が動物を殺し、その血を抜き、その肉を食べるなら、動物を殺した罪を負わなくてもすむ。しかし、もし、動物を殺し、血を抜かないで、血と肉の両方を食べるなら、動物を殺した責任を負わねばならない、というのである。むろん、このような不条理な教えは、それ以前の協会の文献にも、それ以降の文献にもない。何はともあれ、ここでも、禁じられているのは、「血を食べること」であって、「輸血すること」ではない。
さらに、その記事は、血の律法が、人間より低い動物に当てはまるのであれば、まして人間に当てはまるはずだ、と述べる。そして、アメリカーナの百科辞典を引用する。実は、先の1976年の年鑑が述べている「輸血の歴史は古代エジプトにまでさかのぼりますが、文献に残る最も古い例は1492年に法王インノケンチウス8世に施されたものであり、3人の若者の生命を犠牲にしたその輸血も法王の命を救うことにはなりませんでした。」という文章は、アメリカーナ百科辞典からのものである。ただし、重要なことがある。『ものみの塔』誌の記事は、ただ紹介しているだけであって、それに対して一言のコメントも述べていない。そして、著者は、次のテーマ「贖い」に移っていく。
この意図不明の百科辞典の引用から(読者は、著者がどのような意図で百科辞典を引用しているのか、原文にあたって考えていただければ、と思う)、その記事の著者が「食べること」と「輸血」とを結びつけて考えていた、と推測することは間違っていないと思う。しかし、この引用をもって、著者が「輸血」禁止を表明している、とまで言うのは、いきすぎである。従って、協会が、輸血禁止の教義のルーツをできるだけ古くさかのぼらせたいために、1945年の『ものみの塔』誌を引き合いに出すのは正しくない、と言わねばならない。
次に、1948年10月22日号の『目ざめよ!』にも、「血を食べること」と「輸血すること」との関連を示唆する文章が出てくる。その記事は、「神の律法によれば、人間は、他のものの血を取り入れてはならない」と述べ、レビ記7章27節と申命記12:25を引用している。そして、「輸血は、神の律法に従わないという危険に加え、健康の危険をも含んでいる」と述べ、肝炎が輸血にとっての「深刻な問題である」という科学雑誌の言葉を紹介している。ここでは、「輸血」は「神の律法に従わないという危険」と認識されている。「輸血」は神に従わない「危険」なのである。だんだん微妙になってくるが、未だ、禁止にまでは至っていない。
1950年代
「輸血」禁止が明確に確認できるのは、1951年5月22日号の『目ざめよ!』(英語版、5頁)の記事である。そこには、自分たちの赤ちゃんに輸血を拒否したラブレンツ夫妻の言葉が掲載されている。
「赤ちゃんに血を与えることによって神の戒めを破るよりは、それを守ることの方が重要である。...例え、赤ちゃんは死んだとしても、新しい地球においてチャンスがある。しかし、もし私たちがエホバの法を破るなら、新しい地球へのチャンスは、私たちだけでなく、赤ちゃんさえなくなってしまう。」
このご夫妻の発言は、きわめて重要である。というのは、「輸血」を「神の戒め」と規定し、もしそれを破るなら、永遠の生命を受けるチャンスを失う、と告白しているからである。この証言は、ものみの塔聖書冊子協会の輸血に対する立場を明らかにしたもの、と読むことができる。普通、誰でも、重要な教えを変更するときは、聖書から真正面に論じられるはずだ、と期待するであろう。しかし、それは、ものみの塔のやり方ではない。協会は、もっと巧みである。時には、『ものみの塔』誌の「読者からの質問欄」を利用する。あるいは、証人たちの証言という形で明らかにする。さらに、『ものみの塔』誌の研究記事の中で、すぐには気がつかないような形で、それとなくふれておく。そうすれば、大きな変更であっても、信者たちのショックを和らげることができるからである。協会は、このご夫妻の発言に、その時以降、すべてのエホバの証人を拘束する「輸血を受けるなら、永遠生きる見込みをなくす」という重要なメッセージを託したのである。
もともと、ものみの塔の教義は、聖書に基づいているわけではない。だから、教理を変更するときも、聖書から論じることはしない。ものみの塔の教理を問題にするとき、聖書から論争しようというのは、お門違いなのである。協会側は、まず、教理を変更する。そうしてから、それに見合うような聖句を捜し出す。ヘリクツをつければ、変更した教理を支持するような聖句を二つや三つ見いだすことは、それほど難しいことではない。
問題は、協会が、なぜ、1940年代の後半に「輸血」の問題をちらつかせながら、51年になって、輸血禁止を打ち出しはじめたのか、ということである。少なくとも、三つほどの理由が考えられる。
@まず、ノア会長と組織への忠誠心を養うためである。ノアが会長に就任したとき(1942年)、多くの証人たちは、ラザフォード、あるいはものみの塔の教理に献身していた。彼らは、新しく誕生したノアの管理体制とその組織に対し、忠誠心を示させる必要があった。それを試し、養うには、新しい教えが必要だった。その新しい教えこそ、「輸血」だったのである。これはラザフォードが、クリスマスの廃止(1927年)、十字架の廃止(1931年)などによって、組織を引き締めていった手法に通じる。
A第二は、間違った医学的知識に基づいていた、ということである。協会の指導者は、病気は、栄養の問題、感情の問題、あるいは罪やサタンの働きと関わりがある、と考えていた。病気が病原菌によって引き起こされる、とは考えていなかった。そのような科学的な考えは、今でもある信仰者の間では、おかしな考えと見られている。協会は、もともと、医学的な発展に反発する傾向をもっていた。医学の最先端の象徴と見られる「輸血」を敵視して、組織を固めようとしたことは十分にありうることである。
B三番目に、種痘禁止を撤廃する動きと連動していた、ということである。協会が、種痘を禁止したのは、1923年だった。それが、40年代後半になると、さまざまな問題が起こり、種痘禁止を解除しなければならない事態に追い込まれたことは既に述べた。組織のリーダーが、その撤廃に当り、一番恐れたのは、証人たちが動揺することだった。その動揺を静める一番良い方法は、新たな禁止条令を提示することだった。しかも、よりハードルの高い命令を。「輸血禁止」は、血の全てを禁止することである。「種痘禁止」は血の一部の否定にすぎない。だから、「輸血禁止」は「種痘禁止」を十分にカモフラージュすることができた。輸血禁止のはじまりが1951年、種痘禁止解除が1952年、まことに絶妙なタイミングではないか。
1960年代
1940年代後半から何となく匂わされていた「輸血禁止」は、1951年に明確になった。それでも、その禁止命令は、最初はそれほど厳しくはなかった。51年から7年たってからの、1958年8月1日の『ものみの塔』(英語版、478頁)を見ていただきたい。その「読者からの質問欄」は、「油注がれた人が自ら輸血を受けたが、主の記念式に与ってもよいか」という質問を扱っている。それに対し、次のような答えが掲載されている。
「会衆は、自ら輸血を受けた人、あるいは他の人が受けるのを認めた人について、排斥せよとの支持を受けてはいない。血の神聖さに関する神の法を破った人に対する裁きは、エホバの至高な裁判に委ねよう。...自らの意志で輸血を受けたから、あるいは愛する者が輸血することを認めたから、ということで、その人は排斥されるわけではないのだから、あなたは、その人が主の記念式に与ることを妨げる権利をもっていない。」
驚いてはいけない。144,000人に属する天的なクリスチャンが、自分の意志で輸血を受けたとしても、排斥されなかったのである。排斥されないどころか、主の記念式に与ることさえできたのである。別の言葉で言えば、協会は、58年頃までは、「輸血」を「良心の問題」と考えていた、ということである。「輸血禁止」が表明されてから7年も経っていたのに、である。
では、協会が輸血を受けた人を排斥にするのは、いつ頃からか。それから3年後である。1961年5月1日号の『ものみの塔』(287頁)は、「献身して、洗礼を受けた者が輸血を受け、この点で聖書にそむいた場合、その人はクリスチャン会衆から排斥されますか」という質問に対し、次のように答えている。
「霊感された聖書は、排斥されると答えています。」
「神の律法は、人間の魂がその血の中にあることをはっきり述べています。ですから輸血を受ける者は、自分と同じ人間あるいは人々の血液にある神から与えられた魂を食べているのです。それはクリスチャンに対する神のいましめを破ることです。それは重大なことであって、各自が良心に従って随意に決定すべきものとして見すごしたり、軽視すべき事がらではありません。...輸血を受ける者は、排斥によって神の民から切り離されなければなりません。」
この文章は、明快である。協会は、1961年からは、輸血はもはや「良心の問題」ではなく、「排斥処分」にする、と宣言したのである。もし、エホバの証人が輸血を受けるなら、「地上で永遠に生きる見込みは完全に断たれてしまう」ということを、改めて、周知徹底させようとしたのである。このことは、1969年8月15日号の『ものみの塔』誌(500頁)においても、確認されている。
「神の律法を破って自分の命つまり魂を救おうとするなら、わたしたちはそれを永遠に失う結果となるのす。」
考えてみると、おかしな話である。1958年には、「144,000人の天的な人々(証人の間では霊的エリート)」が輸血を受けたとしても、主の記念式に与れた。ところが、3年後の1961年には、主の記念式に与れなくなる。与れないどころではない。組織から排斥されてしまうのである。それも、144,000人は、むろんのことであるが、「地上の大群衆」でさえ、輸血を受ければ、永遠に生きる見込みがなくなる、というのである。
あることに対して意見を変えることは、人間の世界では、ごく普通に起こる。人間はすべてを知っているわけではないのだから、それは許される。しかし、あることを教えるのに、神の名を使い、絶対的なものとして提供した場合、話は別である。間違うことは許されない。くるくる変えるようなことがあってもならない。神は決して、間違うお方でもなければ、変わるお方でもない。
このように教理を変えた協会のリーダーは、次のように言わねばならない。「これまで、私たちは違うことを教えてきた。その間違いの原因はここにあった。その間違いによって迷惑をかけた方々に謝罪する。その間違いに対して、自分たちはこのような責任をとる。そして、今後、次のように改める。そして、新しい人々と交代する。特に神の名を使って、神を冒涜することになったことを許していただきたい」と。
それぐらいのことは、社会のどの団体でも行う。証人の皆さん、ちょっとだけ、他の角度から考えていただきたい。このようなことが、ものみの塔ではなく、他の宗教団体で起こったならどうなるだろうか、と。私は、キリスト教世界に身を置く者である。もし、私が、協会がしたように、教える内容をくるくる変えたら、即刻、非を認め、謝罪し、責任をとって辞職しなければならない。否、辞職ではすまないであろう。牧師職剥奪である。当然である。聖書の教えを一貫して教えず、そのときそのときの状況で変えて説くなら、教える資格などないからである。
血液成分の一部でも禁止する
ものみの塔協会のリーダーは、1950年代は、輸血に対して、それほど厳格には考えていなかった。例えば、1958年9月15日号の『ものみの塔』(英語版、575頁)は、「読者からの質問欄」において、次のように述べている。
「血を禁止している聖書の箇所は、いつでも、食物として取ることと関連している。従って、栄養物となるものが禁止されているのである。...抗体を創造するために、血液の血清あるいは輸血によって血液の中に抗体を注入することは、体の活動力を産み出すための栄養物として血を食すること(それが、口からであれ、輸血によってであれ)と同じではない。神は、ワクチン、血清、血液の凝固したものによって、人間の血液の流れを汚染しようなどという意図はおもちではないが、そのようにすることは、食物として血を禁じた神のご意志の中には、含まれてはいない。」
この記事は、血液の構成部分のあるもの、「ワクチン」、「血清」、「血液の凝固したもの」を認めている。むろん、そのような血液の成分を認めた背景には、「種痘禁止」を解除するということがあったことは間違いない。どのような理由であれ、協会は、1958年の時点では、血液のある成分が人の体内に入ることを認めていた。
ところが、1961年12月15日号の『ものみの塔』誌(754頁)を見ていただきたい。3年前とは、違い、血液の一部であっても、輸血することを認めていない。
「いまではこの研究はかなり進み、医者たちは全部の血と血漿−これはほとんど無色の液体で、血液細胞はそれで運ばれる−を使用するだけではなく、必要に応じて、血漿とは別の赤血球と、いろいろの血漿蛋白質を使用します。血をそのように医学的に使用するなら、神の律法は破られますか。血あるいは血漿あるいは赤血球またはいろいろな血の成分を注入して生命を支えるのは悪いことですか。そうです!・・・」
「それが血の全部であろうと一部であろうと、その血が自分自身のからだから取られたものでも、他人のからだから取られたものであろうと、あるいは輸血として与えられようと注射として与えられようと、神の律法は適用します。神は人間に血を与えました。しかし、人間は他の物質を使用するのと同じように、その血を使用すべきではありません。神は血の神聖さに対する尊敬を要求します。」
ここでは、血を「赤血球」、「血漿」などに分け、そのような血液の成分の一部であっても、用いることは「神の律法」を破ることである、と明言している。
『ものみの塔』誌1962年2月1日号(90頁)は、さらに細かくなり、ある品物に血の成分があるかどうかチェックするよう勧めている。
「他の品物についても同様な処置を取ることができます。特定な品物に血か、血の一部がはいっていると信ずるなら、それを売る人に尋ねなさい。もしその人が知らないなら、製造業者に手紙を書いて問い合わせなさい。レッテルを見ると血の一部が使用されていると明示されている時もありますが、いつでもそうとは限りません。たとえば、特定な品物のレッテルは、アルブミンが含有されていると、明示しています。すると、血の一部がその品物にはいっているのですか。良い参考書、図書館にある百科辞典、あるいは良い辞書を使用してアルブミンという言葉を見てごらんなさい。アルブミンは、血清の中にもありますが、牛乳や卵の中にもあると知ります。その特定な品物内のアルブミンがどこから来ているかを知る唯一の方法は、それをつくる人々に尋ねることです。」
この記事は、牛乳や卵の中にあるアルブミンはよいが、人間の血液からつくられるアルブミンはだめ、と主張している。もし、食品のレッテルにアルブミンが入っている、と記されているなら、それはどのようなアルブミンから採られたものか、尋ねなければならないのである。
『ものみの塔』誌1963年6月1日号(344頁)では、次のように述べている。
「次のように医師に尋ねさえすればよいのです。「血漿は何から採ったものですか」「赤血球は何から採ったものですか」「それは何から採ったものですか」。血から採ったものという答えであれば、どうすべきかは明白です。聖書の原則は血液のみならず、血の成分を用いて生命を支え、あるいは体力をつけることにかかわっているからです。」
この記事もまた、血漿などの血の成分を輸血することを禁じている。しかし、証人の皆さん、あなたはご存じだろうか。今日協会が許可している「アルブミン」や「グロブリン」は、この「血漿」の一部である。1963年の時点では、協会は、アルブミンもグロブリンも許可していなかった。
動物への輸血を禁止する
協会は、61年に輸血した人を排斥処分にすることを明確にしてから、輸血に対しては厳しくなる一方だった。その一つの現れとして、輸血禁止条令は人間に限定されず、証人たちが飼っているペットにまで及ぶ。例えば、1964年5月15日号の『ものみの塔』誌(319頁)は、子どもが育てているペットに対して、次のように述べている。
「クリスチャンは、家畜は小さな子供のものだからと言って、浸礼を受けていない子供が自分の責任で決定し、獣医に輸血させるのを許してはなりません。両親は子供と家畜の上に権威を持つべき者であり事の全体を管理すべき者ですから、浸礼を受けた両親に責任があります。それは神に対する両親のつとめです。」
協会のこのような規則を厳格に守ろうとするなら、証人たちが飼っている犬や猫にも「輸血拒否カード」をぶら下げ、免責証書を持たせなければならないであろう。もっとも、交通事故にあったペットを飼い主も分からずに輸血までして治療する獣医はいないであろうけれど。
この記事は、さらに、動物の餌にまで注意するよう指導している。ペットの餌を買ったなら、そのレッテルをよく読み、血が含まれているかいないか、チェックしなければならないのである。
「では、動物のえさについてはどうですか。血を含んでいると思われる場合、えさとして用いてもよいですか。クリスチャンにかかわるかぎり、すでに考慮した原則に従って、答えは否定です。それゆえ、市販されている犬その他、動物のえさの容器にはったレッテルに血の成分が上げられているならそれを知るクリスチャンが良心の責めを感ずることなく、そのえさを自分の管理する動物に与えることはできません。」
いやはや、動物を飼うのも大変なことである。この辺の戒めについては、変更したという文献を捜すことができない。今でも、証人たちは、守っているのだろうか。
同記事は、さらに、獣医が輸血することまで、禁じている。
「それでは、獣医が家畜に輸血するのを許す事は聖書に逆らう事になりますか、との質問にはどう答えるべきですか。それは聖書にもとります。動物にする場合でも、輸血を目的として血を用いる事は正しくありません。血を食べる事を禁ずる聖書の言葉は明白です。従って、人体の場合であれ、家畜その他の動物の場合であれ、体力の増進を目的として人間、またクリスチャンの所有する動物の体内に血を注入すべきではありません。」
ユダヤ人は、律法を守るために、一つ一つの事柄に細かな規則をつくった。その結果、600以上の禁止命令が出来上がった。それを厳格に守ろうとしたのが、パリサイ人たちだった。彼らに対し、イエスは、「書士とパリサイ人たちはモーセの座に座っています」(マタイ23章2節)と述べ、「盲目の案内人、ぶよは濾し取りながら、らくだを呑み込む者たちよ!」と断罪された(24節)。協会が輸血に対してしていることは、昔のパリサイ人たちがしていることと何ら変わらない。17年間エホバの証人だった私の友人は、歯から出血があると、その血を飲まないよう、ティシュペーパーで、拭き取るよう努力した、と話してくれた。彼女は例外だと思ったら、他の証人たちも同じようなことをたくさん話してくれた。
第[凝固因子を認める
血友病とは、血漿の中の「血液を固める因子(第[因子とか、第\因子と言われる)」が不足しているため、血液が固まらない病気である。もし、その「因子」を補うなら、生命に異常はないが、もしそれを補わないなら、出血した場合死に至る場合がある。むろん、エホバの証人の中にも、血友病患者は多数いる。彼らにとっては、協会が教えはじめた「血」の問題は、死活問題だった。
1965年11月22日号の『目ざめよ!』(英語版)は、ある出来事を、エホバの証人にとっての朗報として伝えている。それは、ブルース・ブッドロウという血友病のアメリカ人科学者が、自分の病状が好転したので、その原因を調べたところ、ピーナッツをたくさん食べたことにあった。このことは、他の血友病患者によっても確証された、というニュースである。これは、今では、笑い話にもならないが、血の成分を禁じられたエホバの証人たちにとっては、喜ぶべき情報だったのである。
60年代後半、協会のリーダーたちは、血友病患者に血漿を使うことを認めていなかった。1975年2月22日の『目ざめよ!』(英語版、30頁)は、血友病患者に血漿を使うことに関し、「真のクリスチャンは聖書が血を避けなさいと命じているのであるから、そのようなことをしない」と断言している。
確かに、協会指導者は、そのように述べているが、実は、その裏側では、別のある事実が進行していた。統治体は、正反対のことを決議し、信者に別の指示を出そうとしていたのである。まず、次の文章を読んでいただきたい。
「それでは、ジフテリア・破傷風・ビールス性肝炎・狂犬病・血友病・Rh因子不適合などの病気に対処するため、血清注射を受けるのはどうですか。これは『灰色の領域』に入るものと思われます。クリスチャンの中には、そのような目的で血液の誘導体を少量取り入れることは、神の律法に対する不敬の念の表れではないと考えます。そうした人々の良心はそのような治療を受けることを許します(ルカ6:1-5と比較してください。)しかし、他のクリスチャンは、血清には少量であるとはいえ血液が含まれるので、良心的に拒否せざるを得ないと感じます。」
これは、1978年9月15日の『ものみの塔』(31頁)の記録である。「血漿」の使用を禁じた75年2月から、3年半後の記事である。この75年から78年の間に、協会の指導者の間に何が起こったのか。今では、当時の統治体員レイモンド・フランズが、その辺の事情を明らかにしているので(『良心の危機』、106-7頁)、有名な話となっているが、ご存じない人のために紹介しておこう。
協会が、1961年12月15日号の『ものみの塔』誌において、血液から血漿を取り出して使用することを禁止して以来、血友病患者のエホバの証人から、血友病の治療を受けることの是非を問う質問が協会本部にたくさん寄せられた。それに対し、統治体は、一度だけの治療はよいが、一度以上の治療は食べることに通じるので許さない、と決めた。
言うまでもなく、統治体破、決めたこと全部を協会の出版物によって公表されるわけではない。統治体が決めた事柄のうち、どの決議を、いつ、どのように、公表するかは、統治体自身が決める。統治体は、血友病に関するこの決定を、質問をしてきた人に、個別に返答することにしていた。ところが、この決定は、ある血友病の証人たちにとっては、死を意味した。統治体の決定に大きな批判が起こった。そこで、1975年6月11日の統治体の会議は、血友病患者が血液の中の凝固因子を使うことを認めた。
協会本部は、これまで質問してきた証人の一人ひとりに対し、手紙のファイルの住所をたどりながら、統治体の新しい決定を連絡した。はじめは、この決定を、内密裏に個々の信者に連絡しようとした。ところが、問題が起こった。手紙で問い合わせてきた人々には、通知できたが、電話で質問してきた人々には、答える術がなかった。それで、結局、『ものみの塔』誌で公表せざるをえない状態に追い込まれた。ところが、一度だけはよいがそれ以上はだめ、というはじめの決定を公表していたわけではなかった。それで、この新しい決定をどのように公表するかで手間取った。結局、統治体会議が新しい決定をしてから丸3年たって、1978年6月15日号の『ものみの塔』誌(日本語は、3か月遅れになる)において、上記のような文章を発表したのである。
その文章をよく読んでいただきたい。まず、血友病・Rh因子不適合を、「ジフテリア・破傷風・ビールス性肝炎・狂犬病」などの中に入れ、「灰色の領域である」と規定する。そして、あるクリスチャンは、「神の律法に対する不敬の念の表れではない」と考えるが、「他のクリスチャンは、血清には少量であるとはいえ血液が含まれるので、良心的に拒否せざるを得ないと感じる」と述べる。結局、統治体は、自分たちが決めたことを何一つ明らかにしなかった。最初の決定も、新しい決定も。ただ、血友病患者が凝固因子を使うことができるようにしたことは確かである。しかも、それも、各信者が決定すべきことであると述べ、自分たちの責任をすべて頬かむりしてしまったのである。
61年から78年までの17年間に、どれだけのエホバの証人の血友病患者が命を落としてしまったのか、私には分からない。相当数の人々がいたことだけは想像できる。統治体が新しい見解を決議してから公表するまでの3年間(75年から78年)だけでも、痛ましい事件は起こった。それらはすべて、ものみの塔聖書冊子協会、そして、「統治体」の犠牲者なのである。
血の成分を認める
最近の『ものみの塔』誌や『目ざめよ!』誌、それに、協会が証人たちに渡す文書は、血漿の中にある「アルブミン」や「グロブリン」の使用を認めている。しかし、それらをいつ頃から認めるようになったのかは、確認できない。
例えば、『目ざめよ』1993年8月8日号(24-25頁)は、血液に由来している予防接種として、B型肝炎ワクチン、Rh免疫グロブリン、抗毒素、抗蛇毒素、免疫グロブリン、ガンマグロブリン、高度免疫血清製剤などを紹介し、次のように述べている。
「こうした受動免疫法は血の問題に関連して心配されている免疫法であるため、良心的なクリスチャンはどのような立場を取るでしょうか。本誌は姉妹誌の『ものみの塔』誌に以前載せられた記事は、一貫した立場を取っています。つまり自分や家族がこの治療法を受けるかどうかは、聖書によって訓練された個々のクリスチャンの良心にかかっているという立場です。」
「一貫した立場」の所に、1978年9月15日号の『ものみの塔』誌を見るように、との注がついている。78年9月15日号とは、上記の『ものみの塔』誌のことである。とすれば、「一貫した立場」というのは、偽りである。78年の文章が、協会がそれまでに決めたことを取り消すために発表した苦肉の策だったことは既に述べた。93年と78年とでは同じであるが、それ以前とは、まったく違っていた。そんな場合にも、「一貫した立場」という言葉を使えるのだろうか。
『目ざめよ!』1994年12月8日号(27頁)によれば、RhIGを受けることができるか、という点について、次のように述べている。
「わたしたちは、どんな妊娠の場合でも抗体が胎盤を通じて母と子の間を自由に通過することに注目してきました。それでクリスチャンの中には、RhIGのような、抗体からなる注射を受けることは、プロセスが本質的に自然現象に類似しているので、聖書の律法に対する違反とは思えない、と結論した人もいます。」
協会が伝道者に指示している文書は、次のように医師に言うよう指導している。
「私は、私の治療にあたって、輸血(全血、赤血球、白血球、血小板、血漿)を受け入れることができませんので、ここにその旨お知らせいたします。だだし、次に挙げるもの、アルブミン、免疫グロブリン、凝固因子製剤、術中希釈式自己血輸血法、術中回収式自己輸血法、血液と無関係の増量剤、および輸血が関係しない医療処理は受け入れることができます。」
この文書は、アルブミンを認めている。アルブミンは、主に火傷や出血多量の患者に使われる。もし、体の3割ぐらいの火傷を負ったなら、600グラムほどのアルブミンが必要だそうである。それだけのアルブミンを得るには、10リットル以上の血液を要し、30人ぐらいの人が献血してはじめて得られる、と読んだことがある。一方では、献血はいけないと述べ、他方では、献血者の血液からつくられるアルブミンはよいというのは、まったくの矛盾である。もし、現在、エホバの証人がアルブミンの治療を受けることを認めるのであれば、そのために献血した人々を認めなければならない。彼らを「血を地に流さなかったから神に背いている」と断罪することはできないはずである。協会が、証人に対し、アルブミンの使用を認めるのであれば、献血を認めるべきである。また、そのような献血の恩恵に与っているのであれば、エホバの証人もまた、献血すべきである。もし、献血を認めないのであれば、アルブミンの治療も断念すべきである。そうしなければ、一貫性がない。
免疫グロブリンや血友病製剤についても同じことが言える。一人の血友病患者が一生の間に必要な血液製剤をつくるには、3万人分もの献血者が必要だと、聞いたことがある。
どこへ行くのか
最近の協会は、輸血に関し、柔軟路線に転じつつある。人工透析なども、管を血管と見なせば、許される、などという詭弁を使いながら、認めている。恐らく、近いうちに、自己血輸血を認めるだろう。『ものみの塔』誌1995年8月1日号(30頁)を、注意深くご覧いただきたい。
「そうした危険が存在するため、無輸血手術センターは、輸血に代わる治療法を用いています。その一つは患者自身の輸血を再注入する方法ですが、この技術を受け入れることについて、特定の状況のもとでは問題はないと判断する証人たちもいます。」
この記事は、自己血輸血に対し、何の条件もつけていない。『ものみの塔』誌の読み方に慣れている人なら、このような書き方は、保存してある自己血輸血の利用に道を開くための伏線だろう、と予想する。むろん、私たちは統治体員ではないから、予測するにすぎないが、多分当っているだろう。
ジェリー・バーグマンは、三代目のエホバの証人だが、20冊以上の書物を書き、400以上の論文を寄稿している精神医学者である。彼は、現時点では、そのニュースソースを明らかにすることはできないが、と断わった上で、ブルックリンにあるものみの塔本部の高い地位にいる人々の中に、輸血禁止が聖書に基づくものではないことを確信し、いかに撤廃するかに苦心している人々がいることを明らかにしている。
ものみの塔協会が、どこに軟着陸の地点を捜すことができるか、それは誰にも分からない。多分、信者の動揺を防ぐため、「輸血禁止」という言葉は残すであろう。成分輸血の幅をさらに広げ、保存した自己血輸血を承認していくであろう。そうすれば、「輸血禁止」を実質的に解消できる。そうして、「輸血禁止」という言葉を使わなくするだろう。そうすれば、「輸血禁止」を過去の遺物として、葬り去ることができるだろう。
否、ひょっとしたら、証人たちはまったく別の反応を示すかも知れない。証人たちは、エホバ神は「新しい光」を与えられた、輸血禁止を解除してくださった、なんと慈愛に富んだ神であろう、と言うかも知れない。これまで協会が輸血禁止を説いてきたのは、輸血を受けるかどうかを問題にしたわけではなかった。エホバ神に対して忠誠を示すかどうかを試す手段にすぎなかった。今や、輸血によるテストの期間は終った。これからは違うテストの方法になるはずだ、と。
証人の皆さん、そんな勝手な想像をして、と怒らないでいただきたい。協会は、1975年にハルマゲドンが来ると預言した。でも来なかった。その預言が実現しなかったとき、その出来事を覆い隠すために用いた手段は、ここに述べたとおりだったのである。「歴史は繰り返す」。輸血禁止解除のときにも、そんな風にするような気がする。もっとも悲劇的なのは、そのように組織が「輸血禁止」をもて遊んでいる間に、現実に命を失っていくエホバの証人とその証人のご家族がいる、という事実である。
結 論
ものみの塔聖書冊子協会が、「輸血」という言葉を持ち出したのは、1943年のことである。以来、協会は、徐々に徐々に、輸血禁止を強く打ち出し、1961年には、完全に、徹底することができた。
61年以降、協会は、細かく規則を定め、厳しくする一方だった。しかし、76年頃を境に、次第に緩やかにしていく。そして、現在では、血液のある部分を利用することを認め、輸血を受けても、すぐに排斥しないで、配慮するように指導している(『ものみの塔』誌1997年2月15日号参照)。
種痘禁止も、臓器移植禁止も、撤廃された。輸血禁止も解除されるであろう。どうせ、解除するのであれば、一日でも早い方がよいではないか。ものみの塔の支部委員の方々、地域監督や、巡回監督、それに各会衆の長老にお願いする。すべてのエホバの証人のために、そのご家族のために、輸血禁止を一日も早く解除するよう、統治体に働きかけていただきたい。早ければ、早いほどよい。被害はそれだけ少なくなるのだから。現在のものみの塔の組織において、教理を決めることができる統治体に、そのことを直言できるのは、あなたたちだけである。種痘禁止令でも、臓器移植禁止令でも、内側からの声が起こらない限り、統治体は動かないのである。私たちも働きかけるが、あなたがたの責任が大きい。
ものみの塔聖書冊子協会は、聖書を根拠にして、輸血禁止を主張している。しかし、そのために利用できる聖句は、基本的に、三つだけである。しかも、それらの聖句を文字どおりに解釈するなら、輸血禁止などと読むことは絶対にできない。世界中で、それらの聖句を輸血禁止に当てはめるグループは、ものみの塔以外にないことからも、そのことは明らかである。否、ものみの塔の歴史自体からも、そのことは検証できる。1961年、今から35年前までは、協会の指導者たちでさえ、それらの聖句を輸血に当てはめて考えることはしなかったのである。
しかも、それらの聖句のうち、創世記9章3-4節、使徒15章29節などは、種痘を禁止するときにも、臓器移植を禁止するときにも使われた。そして、種痘も、臓器移植も、解除してしまった。今は、同じ聖句から、輸血禁止を説いている。しかし、それも、もう輸血には当てはめません、という時代が来るかも知れない。輸血禁止は、聖書的根拠のきわめて乏しい教えである。その薄弱さを補うために、協会は、証人たちに、輸血の恐ろしさを訴える情報を与え続けている。
輸血の恐ろしさを証人たちに徹底させるために、協会の出版物が流している情報の多さに驚くであろう。しかも、それらは、あまりに不正確なものなので、多くの人は怒りを感じるに違いない。友人の医師は、『ものみの塔』誌を読むまでは、ものみの塔聖書冊子協会に同情的だった。しかし、その情報が、不正確で、悪意に満ちたものであることに気づき、ものみの塔に対する見方を、すっかり変えてしまった。
本章では、輸血を拒否させるために、協会が証人たちに流している情報を取り上げることにしよう。そのような材料は、ものみの塔の出版物に無数にある。ここに紹介するものは、私の目にとまったもので、ほんの一部にすぎない。
輸血の危険性を強調する
輸血に危険が伴うことは事実である。しかし、赤十字の方々の輸血事業の努力、あるいは、医療関係者たちの努力によって、現在日本で使用されている血液は、きわめて安全性の高いものである。そのような血液を輸血することによって、今日まで、多くの人の生命が助かってきた。ところが、協会は、輸血によって多くの人命が救われてきた事実をいっさい評価しない。むしろ、輸血がどれほど危険であるかを、繰り返し、繰り返し強調し、輸血に対して拒否反応を示すように教育している。証人たちは、輸血に関して、協会以外の情報を目にすることはない。従って、協会の出版物が教えている輸血の危険性だけをそのまま鵜呑みにしている。
まず、1961年8月15日号の『ものみの塔』誌(502頁)をご覧いただきたい。
「血液は人体の非常に複雑な部分です。そしてお医者さんが輸血をするときには細心の注意を払わなければなりません。また、血液そのもの、および血液が他の人の体内に入れられるときに生ずる反応についてくわしく知ることが必要です。さもないと、死をも生ぜしめるかも知れぬ非常に悪い症状をひきおこすでしょう。しかし、お医者さんはそのような重要なことを良く知っているでしょうか。」
この文章を読んだ医師は、「医学教育上重要な輸血の問題点は、当然、常識として、医学生に教えられています」とのコメントをくれた。これは医師たちを馬鹿にした発言ではないだろうか。
次に、1961年12月15日号(757頁)を見てみよう。
「輸血をされる人がすぐ直面する危険のひとつは、溶血反応の可能性です。すなわち、酸素を運ぶ赤血球が急速に滅ぼされることです。このため、割れるような頭痛があったり、胸や背中が痛み、腎臓の働きが弱くなるために毒が体内にはいるのを助けてしまいます。数時間か数日後に死亡するでしょう。この危険を除き得る医学の知識はまだありません。」
これもまた、不正確な記述である。医師は、溶血反応を避けるため、血液型やRh型、あるいは、不規則抗体といった問題に対処し、いわゆる不適合輸血を予防している。従って、上記のような問題はまずない、と考えてよい。
1969年8月15日号(500頁)は、次のように述べている。
「事実を言えば、多くの患者は輸血に無事に耐えていますが、輸血の結果として病気になる者も少なくありません。そして、毎年、幾千人もの人が輸血の直接の結果として死んでいます。」
「毎年、幾千人もの人が輸血の直接の結果として」死亡しているというデータは、不正確であると思う。何に基づいているか、その根拠を明らかにしていただきたい。
1974年9月8日号の『目ざめよ!』(17頁)は、次のようなデータを紹介している。
「ある人は、毎年3万人以上のアメリカ人が輸血のために肝炎にかかりそのうち3,000人が死亡すると指摘しています。」
「輸血による血清肝炎がもとで毎年50万人が病気にかかり、3万5,000人が死亡するものと同センター(疾病まん延防止センター)は推定している。」
1975年9月8日号の『目ざめよ!』(28頁)は、次のように述べている。
「スコットランドのある大学で輸血技術を教える一講師は次のように書いています。『輸血には多くの危険がある。偶然の細菌感染、病気の伝染、血液型の不一致、血液型に対する免疫作用の危険などは特に重大である。血液は魔法の物質ではないので、輸血が患者に及ぼす益と・・・危険とを注意深く比較考慮しなければならない。現在では、そのような危険のゆえに、輸血を避けようとする医師が少なくありません。」
この文章を読んだ友人の医師は、「ここに記述された内容には、疑問がある。それは学問的に認められている文献からの引用であるとは思えない」と、感想を漏らしている。ものみの塔協会に問いたい。スコットランドの大学の講師の名前はどなたなのか。この文章の出典はどのような文献なのか、と。医師は、基本的に、輸血をしなくてすめば、しないですませようとしているのである。そのような事実を無視して、協会出版物は、もともと輸血が不必要であっても、医師たちは輸血をしてしまうかのような書き方をしている。これは誤りである。
ものみの塔の1982年9月15日号(23頁)は、次のように述べている。
「輸血のために、法王ヨハネ・パウロ2世が感染したような、しばしば致命的な結果を生むウイルスなどに感染し、病気や肝炎になる人々は数え切れないほどいます。」
輸血には、ウイルスによる感染、という問題があることは事実である。特に、この記事が書かれた1982年頃は、未だ、多くの未解決の問題があったことは、最近のマスコミの報道からも明らかである。しかし、それから15年経った今は、事情がずいぶん異なっている。
読者の中には、この記事は、書かれた82年頃の状況には合っているのだから、そのようなことに目クジラをたてる方がおかしい、と言うであろう。一般の書物の場合は、そのように考えてもよい。しかし、ものみの塔の文献をそのように見るのは間違っている。エホバの証人たちは、『ものみの塔』誌の記事を、神からの啓示であり、「霊的食物」と見なしている。それは、絶対的に権威あるものと見なされている。彼らは、後になって、この記事を読んだ場合、82年当時の状況の中で語られていることだと意識して読まない。時間を越えた、絶対的な真理が教えられている、と理解して読むのである。会衆の長老は、公開講演をする場合、協会の古い出版物を引用しようとする。古いほど権威あると思っているからである。証人たちは、『ものみの塔』誌の記事が時代的制約を受けて記されている、とは思っていない。神から啓示された永遠の真理であるとして受けとめているのである。
『ものみの塔』誌1983年7月15日号(31頁)は、次のように述べている。
「言うまでもなく、最近の医学上の証拠によれば、人を救うのにふつう輸血は必ずしも必要ではありません。経験を積んだ医師は、大抵の場合に、代わりになる一般的な療法でも同じほど効果が上がることを実証しています。輸血によってのみ生き続けることのできたかもしれない人の数は、輸血の害のために死んだ人の数よりも少ないとさえ言えるかもしれません。」
この記事は、どんな場合でも、輸血をしなくても済むかのような書き方をしている。しかし、これは真実ではない。交通事故にあった人を救出するのに、どうしても輸血しなければ助からない場合が、常にある。「最近の医学上の証拠によれば」などともったいぶった言い方をしているが、この記述は不正確である。
この記事は、「輸血によってのみ生き続けることのできたかもしれない人の数は、輸血の害のために死んだ人の数よりも少ないとさえ言えるかもしれません」と述べているが、そんなことは決してない。基本的に、輸血はそれを必要とする場合のみ、している。そして、輸血した人の大多数は、生命が助かっているのであるから、輸血したことによって死んだ人の数が多くなることは、論理的にありえない。
1985年4月15日号(12頁)は、次のように述べている。
「もちろん、学識のある人々は輸血そのものが重大な危険を招くことを知っています。タイム誌(1984年11月5日)は、『毎年約10万人のアメリカ人が輸血による肝炎にかかっており』、その主な原因となっているのは『消去法によらなければ実体の分からない正体不明のウイルス』だと述べています。タイム誌はまた、AIDS(後天性免疫不全症候群)の6,500余りの症例について報告していますが、その中には『輸血と関連した症例』があります。その報告は、『最終的な死亡率は90%ないしそれ以上になると思われるが、犠牲者の半数近くがすでに死亡した』と述べています。」
輸血には、正体不明のウイルスによる感染という危険性が今なお存在していることは事実である。しかし、この記事は、「学識のある人々」という書き方によって、一般の人々には知られていない特別な危険性があるかのように、もったいぶって記している。そのような輸血の危険性は、学識がなくても、誰でも知っている。
『目ざめよ!』1990年10月22日号(9頁)は、次のように述べている。
「肝炎に感染する人は何十万人にも上り、輸血を受けた人のうち肝炎にかかって死ぬ人はエイズにかかって死ぬ人よりもずっと多いのが実状です。しかし、そのことはほとんど報道されていません。どれほどの数の死者が出ているのか、だれにも分かりませんが、現状は満員の乗客を乗せたDC−10型機が毎日1機墜落する自体に匹敵するかもしれない、と経済学者のロス・エカートは述べています。」
肝炎による死者がいることは確かである。しかし、「肝炎に感染する人は何十万人にも上り」という記述は、正確であるようには思えない。ものみの塔協会に、お願いする。このデータの出典を明らかにしていただきたい。「満員の乗客を乗せたDC−10型機が毎日1機墜落する自体に匹敵するかもしれない」ということは、年間、1万人以上が死んでいる、ということである。それにしても、飛行機事故の悲惨さに輸血の怖ろしさをだぶらせて記述するのは、いきすぎである。
『目ざめよ!』1990年10月22日号(11頁)は、次のように述べている。
「結腸ガン患者の長期生存に関しては、輸血による相当不利な影響が見られた。このグループで、手術後5年間生き延びたのは、輸血を受けた人の48%、輸血を受けなかった人の74%であった。」
ものみの塔の出版物は、この種の数字の比較をよく紹介する。しかし、これは読者を惑わすものである。輸血をする場合は、輸血しなければならないからするのである。従って、輸血した人と、輸血しなかった人の生きる確率を比較するのは、見当違いである。このような叙述の仕方は、読者を欺いている。なお、結腸ガン患者の長期生存に関して言えば、輸血をしたかしないかによって生存率が変わることはない、ということである。
『目ざめよ』1990年10月22日号(15頁)は、次のように述べている。
「エホバの証人は輸血を避けていたために、無数の危険から守られました。今日ではエホバの証人以外にも、輸血を拒否する人が増えています。医療団体は徐々にこたえ応じており、血液の使用を減らしています。『外科年俸』が述べているとおり、『一番安全なのは輸血しない方法であることは明らか』です。パソロジスト誌は、エホバの証人は輸血が望ましい治療法ではないと長年主張してきたことについて述べ、こう付け加えました。『反対の立場を取っている血液銀行の関係者たちの主張とは裏腹に、証人たちの主張を裏づけるかなりの証拠がある。』」
医師が、できる限り輸血を避けようとしていることは事実である。そして、それは必要なことである。しかし、日本では、輸血のための血液の必要は、年々多くなり、献血者が不足している状態にある。「一番安全なのは輸血しない方法であることは明らか」という文章は、読者を惑わすものである。この文章は、輸血しない方が輸血することより安全である、と述べているのであろうか。もし、そうであれば、輸血は輸血しなければ助からない場合にするのであるから、この文章は正しくない。もし、輸血すると肝炎などに感染する危険性があるが、輸血しなければ安全である、と言いたいのであれば、それはそのとおりである。しかし、輸血をするのは、輸血しなければ助からないからである。すると、輸血しなければ、肝炎にかからなくてすむであろうが、死ぬ確率が高くなる。とすれば、「一番安全なのは輸血しない方法であることは明らか」などとは言えないはずである。
『目ざめよ』1991年4月8日号(28頁)は、インドの保険省の委託調査の報告を次のように述べている。
「献血者の中には、『アルコール中毒者や麻薬の常習者』、あるいは『不特定多数の者と性関係を持つ人』が少なくない。それで同誌(インディア・トゥデー紙)は、献血された血液が『肝炎やマラリヤや梅毒、そして今ではエイズを』うつす場合があるため、『外部から血液を買うのは、ロシア式ルーレットをするようなものだ』と嘆いた。」
インドの状況と日本の状況とは異なる。協会の指導者にとっては、正確な情報を流すことが目的ではない。証人たちに、輸血がいかに危険であるかという印象を与えることができれば、それでよいのである。この記事を読めば、証人たちは、輸血をすれば、肝炎、マラリヤ、梅毒にかかるかもしれない、と思うだろう。いずれにしても、現在は(1991年の時点でも)、マラリヤや梅毒、エイズに感染する血液を輸血するようなことは、どこの国においてもなされていない。
『目ざめよ』1992年6月22日号(29頁)は、次のように述べている。
「日本では輸血経験者は輸血用血液の献血をする資格がない。なぜだろうか。日本赤十字社は理由として『C型肝炎ウイルスの感染率が高いこと』を挙げたと、読売新聞は伝えている。同紙によると輸血経験者のC型肝炎ウイルスの感染率は8.31%と輸血暦のない人の12倍である。そのため日本は、輸血経験者からの血液であるという理由だけでそれを危険な血液として受け付けない方針を採用した最初の国となった。」
C型肝炎の抗体測定技術が十分確立したとは言えないこの時期のデータは、正しいとは言えない。???
『目ざめよ』1992年4月8日号(31頁)は、次のように述べている。
「インドネシアの保健大臣が国内で2,500人ぐらいの人がエイズにかかっているらしいと述べたことを、ジャカルタ・ポスト紙は伝えている。インドネシアの一般市民の間でエイズの危険性に対する意識が高まっている。この恐ろしい病気が輸血によって広まりかねないことを認めて、インドネシアの供給血液を検査する特別の努力が払われている。ジャカルタ・ポスト紙は、献血血液のサンプルからは、これまでのところHIVウイルスは発見されていないと報告している。しかしインドネシア赤十字社は、これまでに検査した献血血液の2.56%の中から、梅毒スピロヘータやB型肝炎ウイルスを発見している。」
『目ざめよ』1992年12月8日号(31頁)は、次のように述べている。
「日本赤十字社は、無料のエイズ検査目的の人からの献血を防ぐことに努力を傾けている。少し前に、日赤は朝日新聞に掲載した広告の中で、ウイルス保有の不安のある人に、献血をしないように頼んでいる。広告には、『エイズは感染してから抗体ができるまでの期間は、最新の検査技術を使ってもスクリーニングできません』とある。それでも、『無料で気軽な献血でエイズ検査という人が増えているよう』であると、読売新聞は伝えている。昨年はこの検査で29人の献血者がエイズ患者であることが判明した。」
『目ざめよ!』1995年6月8日号(21頁)は、次のように述べている。
「医療専門家の述べた証言によれば、病気に感染するおそれや他の危険の全くない血液を供給するのは不可能なことです。医療専門家は血液に関する重大な危険や誤用があることを認めています。地区輸血サービスの医療責任者であるJ・ブライアン・マクシェフリー博士は、講義の際に『輸血を行なわねばならないなら、診断か治療のどちらかで失敗したことになる』と語ってこの問題に注目させている、と証言しました。」
いかなる医師も、輸血をしたくて、しているわけではいない。未知のウイルスがある限り、輸血が百パーセント安全というわけでもない。しかし、今日では、輸血はかなり安全に行われるようになっている。「輸血を行なわねばならないなら、診断か治療のどちらかで失敗したことになる」という文章は、明らかに言いすぎである。血液のある病気や、輸血が不可避の手術、ということがあるからである。
輸血に対して悪いイメージを与える
『ものみの塔』誌1983年7月15日号(31頁)は、次のように述べている。
「古代イスラエル人も従順なクリスチャンも、生きた牛の頚動脈に矢を撃ちこんで血を採り、それを牛乳に混ぜて飲むアフリカの部族民のまねをしなかったことを理解するのは少しも難しくはありません。同様に、何単位もの人血が採り出され、命を長らえさせることを目的として輸血される医学的な習わしを神の僕たちは受け入れることができません。」
この記事は、輸血を、「生きた牛の頚動脈に矢を撃ちこんで血を採り、それを牛乳に混ぜて飲むアフリカの部族民のまね」と形容している。生命を救うために、細心の注意を払っている医療従事者に対して、何という例えであろうか。
『目ざめよ!』1990年10月22日号(8頁)は、次のように述べている。
「もし血液が安全であるのならなぜ裁判所も医師たちも血液に『有毒』とか『極めて危険』とかいうレッテルを貼っているのでしょうか。顔覆いや長靴で身を固め、さながら宇宙服のような出で立ちで手術をする医師がいるのはなぜでしょうか。それらはみな、血との接触を避けるためです。」
どこの裁判所や医師が、血液に「有毒」とか「極めて危険」というレッテルを貼っているのだろうか。その裁判所あるいは医師の名前を教えていただきたい。または、そのようなことが記されている文献を紹介していただきたい。
手術をする医師の服装について、「顔覆いや長靴で身を固め、さながら宇宙服のような出で立ちで手術をする」という表現は、穏当だろうか。「血との接触を避けるため」とは、医師は患者の血液から病気を写されることを恐れて、という意味である。これはまったくの誤解である。医師が清潔な手術服とマスクを着用するのは、自らの皮膚や髪に付着する細菌を患者に感染させないようにするためである。細心の注意を払って、全ての病原菌から患者を守ろうとしている医師に対して、何という言葉だろうか。協会出版物がこのように悪意に満ちた描写をするほんろうの理由は何なのだろうか。
協会出版物がこのようなことを書いているからといって、何も目くじらたてることはない、と思う人がいるかも知れない。一般の出版物だったら、そう思ってもよい。無知な人の記述なのだ、なかなかユーモアのセンスがあるではないか、と笑い飛ばしておこう。だが、もし、証人たちのメンタリティーを知るなら、決して、そうしてはならない。証人は、協会の出版物が述べていることを、一言一句、神から備えられた教えとして読むように訓練されている。私が話した証人たちは、例外なく、医師の手術服について、ここに記されているとおりに理解していた。そのようなことは、常識から見ておかしいと気づくはずだ、と思ってはいけないのである。このような描写の一つ一つが、証人たちの脳裏に、血は恐ろしいという感覚を植え付け、輸血拒否の行動を育んでいるのである。
『ものみの塔』誌1991年6月15日号(12頁)は、次のとおり述べている。
「多くの場合、血に関する神の律法を無視する人々は、血による有害な影響をすぐさま、あるいは後になって経験します。輸血が原因で死ぬ人もいるのです。」
この記事は、輸血を「神の律法を無視する」こととし、「すぐさま」か「後になって」かは別にして、「有害な影響」を経験する、と断定する。輸血に何の問題もない、とまで言うのは言いすぎである。しかし、この記事のように断定するのは、明らかに間違いである。輸血をしても、特に問題にならない人が圧倒的多数である。問題は、ものみの塔協会が、自らの出版物に、このような記事をいつもいつも掲載し、読者に、輸血が恐ろしいというイメージを脳裏に焼き付いてしまうことである。
協会は、血液の病気、輸血の恐ろしさを広く宣伝するため、『目ざめよ!』の「世界の窓」という頁を利用する。最近数年の記事の中から、目にとまったものを紹介する。このような記事を、来る月も来る月も、目にしていれば、誰でも、輸血は危険なものだと感じるようになるはずである。
日本については、1992年6月22日号(C型肝炎)、1992年12月8日号(エイズ)、1994年1月22日号(エイズの予防法)、1994年6月22日号(エイズ)、1994年8月22日号(輸血拒否の権利)、1995年2月8日号(エイズ治療と増加)が掲載している。
アメリカについては、1993年5月8日号(梅毒、C型肝炎、ガンウィルス、エイズ)、1996年1月8日号(エイズ)、1996年6月22日号(エイズの増加)が言及している。
アフリカについては、1994年7月8日号(エイズの予防)、1995年1月8日号(エイズの増加)、イギリスについては、1995年7月22日号(C型肝炎、エイズ)、イタリアについては、1996年2月8日号(エイズ、肝炎)、インドについては、1991年4月8日号(エイズ)、インドネシアについては、1992年4月8日号(エイズ)、オーストラリアについては、1994年1月22日号(エイズ)、1995年10月22日号(細菌感染)、オランダについては、1995年号(エイズ)、カナダについては、1995年5月22日号(アレルギー反応、エイズ)、コートジボワールについては、1994年3月8日号(エイズの治療)、ドイツについては、1995年10月22日号(エイズ)、フランスについては、1996年10月22日号(C型肝炎)、ベネズエラについては、1995年7月8日号(エイズの感染)、ボリビアについては、1994年10月8日号(シャガス病、マラリア肝炎、梅毒、エイズ)、南ドイツについては、1994年4月22日号(エイズ)が扱っている。1994年7月8日号には、国連からのエイズ感染の警告を載せている。
もし、医師の方々がエホバの証人の診療をされ、輸血拒否の申し出を受けたなら、証人たちは、この種の情報を一方的に与えられていることを踏まえて、対処していただきたいと思う。
また、医療従事者は、証人たちの輸血拒否に出会い、そのかたくなな態度に驚かされる場面に出くわすこともあろう。また、彼らの仲間が大挙して訪れ、自分たちの信条を通すため、異常とも思われる行動に呆れることもあろう。しかし、できれば、彼らを理解してあげていただきたい。彼らは、長い間間違った情報を植えつけられ、心底から、輸血は神に背き、信仰の忠誠心を試されている、と信じ切っているのである。マインド・コントロールというのは、知性から出発するが、感覚的、生理的側面をも支配し、その人の行動を規定する。情報の操作によって、正常な判断力を失わせ、常軌を逸した行動をとらせることは決して難しいことではないのである。
ただし、個々の医師が、個々のエホバの証人に対応するだけでは不十分である。間違った情報を溢れるように与え続けているものみの塔協会の指導者とその出版物を問題にしなければ、問題は解決しない。実は、医師の立場から、ものみの塔の出版物を調べ、医学的に不正確な発言をチェックし、普段から、証人たちに正しい情報を提供していただく必要がある。証人たちは、マインド・コントロール下にあるので、そのような情報に耳を傾けないかも知れない。しかし、証人たちの中にも、心ある人々はいるはずである。何人かの医師で結構である。そのようなことに使命を感じてくださる医師が起こされることを願っている。もし、そのようにしてくださる医師がおられるなら、私たちにできることがあれば、喜んで協力させていただく。「輸血拒否による悲劇をなくしたい」というたった一つの動機から、関係者は協力しあわなければならない。
「血」は暴利をむさぼる事業
輸血は、多くの人々の愛の献血によって成り立っている。それは、人々の善意に支えられている。しかし、ものみの塔は、献血や血液銀行を徹底的に批判する。この世界で、ものみの塔という宗教団体ほど、血液事業を悪く言う団体はない。
『ものみの塔』誌1982年1月15日号(31頁)は、輸血を「血の商業的な利用」と述べている。多くの人命を救う「輸血」に対し、協会は、なぜ、このような表現を使うのか。協会の出版物を発行している人々は、血液について、よく調べている。決して、無知なのではない。彼らは、証人たちに、輸血に対する嫌悪感をもたせるため、血液事業に対して徹底的な敵対心・憎しみを植えつけようとしているのである。
『目ざめよ!』1990年10月22日号(3頁)は、「血液の販売−もうけの大きい商売」という大きな字のタイトルを掲げ、5頁にわたって、血液事業が金儲けの収益事業であることを強調している。1940年代には、血液を成分に分け、成分輸血の技術が進んだ。この記事は、そのことを取り上げ、「血液の売買は以前にもまして利益の多い商売になっています」と酷評している。そして、血液貿易の最大の輸入国は日本であり、最大の輸出国が米国だという。
「『毎日新聞』によれば、日本は全世界の血漿の約3分の1を消費しています。その血液成分の96%は輸入で賄われており、その大半は米国からの輸入です」
『目ざめよ!』1990年10月22日(11頁)は、次のように述べている。
「次の結論は避けられないように思えます。つまり、血液銀行業界は、血液製剤の危険から人々を守ることよりも、自らを財政的に保護することのほうに強い関心を抱いているということです。」
血液銀行業界とは、具体的には、日本赤十字の方々のことを言うのであろうか。彼らのことを「血液製剤の危険から人々を守ることよりも、自らを財政的に保護することのほうに強い関心を抱いている」と言うのは、あまりに非常識な言葉であろうか。血液事業にに関わっている人々に、それが厚生省のお役人や製薬会社、医療関係者や血液銀行などに関わりのある方々であっても、これまで問題が全くなかった、というわけではない。しかし、そのような方々が、多くの人命を救うために献身的に努力されていることも評価すべきではないか。輸血することに反対であるのなら、それはそれでよい。しかし、輸血に従事する人々をこれほど悪く言う必要はない。このような偏見を証人たちに教え続けている協会のリーダーに対し、沈黙を守っていていいのだろうか。
ところで、最近のものみの塔協会は、アルブミン、免疫グロブリン、凝固因子製剤などの使用を認めている。それらの製剤は、現在のところ、献血者の血液を用いなければつくることができない。もし、証人たちにそれらの使用を認めるというのであれば、献血を認めなければならない。否、認めるどころか、証人たちもまた献血をして、それらの製剤をつくり出すのに寄与しなければならない。そのようなことは、誰が考えても常識である。献血は認めないけれど、献血された血液からつくられたものは利用してもよい、などという理屈は、どこの世界に行っても通じない。これぐらいのことは、いくらマインド・コントロールされているとしても分かるはずだ、と思うのだが、実際はそうではない。あなたの周囲にいるエホバの証人に尋ねてみるとよい。
輸血を受けなくても、不利ではない
どんな医師も、できることなら、輸血を避けたい、と思っている。輸血を必要最小限にとどめようとすることは、医師の世界では常識である。また、かなり大きな手術の場合でも、輸血なしで治療できる場合も少なくない。輸血なしですむのであれば、ぜひ輸血なしでしてもらいたい。そのようなことは言わなくても、医師は基本的に了解しているのである。問題にしなければならないのは、輸血をしなければ助からないようなケースである。輸血をしなければ助からないのであるから、理屈だけを言えば、輸血をしないでも助かった、という事例はないのである。輸血をしないで助かった場合は、もともと輸血は必要なかったのである。ところが、協会の出版物は、輸血を受けなくても何一つ不利なことはないかのような書き方をしている。
例えば、『ものみの塔』誌1969年8月15日号(500頁)は、次のように述べている。
「これによって神のしもべは聖書を無視して輸血を受ける人より不利な立場に立たされることになりますか。そうではありません。これは実際には、神のしもべに困難な事態をもたらすものではないのです。」
エホバの証人は、輸血を受けなくても、不利な立場に立たされることはない、と言えるだろうか。証人の中で、輸血を拒否したゆえに死んでいった人はたくさんいる。その事実一つをとってみても、証人が不利な立場に立たされることは明白である。輸血しないでも不都合がないというのであれば、よいけれど、実際には、そうではない。エホバの証人自身にも、その家族にも、医療従事者にも、多大の迷惑をかけているのである。このような無責任な発言を野放図にしておいてよいものだろうか。
『目ざめよ!』1974年9月8日号(16頁)は、次のように述べている。
「輸血に対する考え方を変える医師が、ここ数年しだいに増えています。これらの医師は、あらゆる種類の大手術を輸血なしですることを学びました。しかし他の医師は、こうした新しい事態を無視して、未だに、望まない人たちにまで輸血を強制しようとしています。」
「あらゆる種類の大手術を輸血なしで」できるというのは、明らかに偽りである。このような不正確な発言を黙認してはいけない。医学会の方々も、何等かの発言をする責任がある。『目ざめよ!』という雑誌は、エホバの証人だけが読んでいるのではない。伝道のために、一般の人々に配布される目的で、全世界で6,000万部も発行されている隔週の週刊誌である。
同じ雑誌の20-21頁は、生後1日目の赤ちゃん、あるいは、16才の交通事故にあった少年が輸血をしないで、助かった例を紹介している。このように記すことによって、協会のリーダーは、輸血は不必要なものであるかのような印象を証人たちの脳裏にたたき込みたいのである。このような記事を読み続けるなら、すべての病気や手術において輸血など必要ない、と考えるようになるのは自然なことである。
『聖書から論じる』(309頁)は、次のように述べている。
「エホバの証人は、治療に輸血を受け入れないことによって、実際にはより良い治療法の益を受けています。『アメリカ産科婦人科ジャーナル』(1968年6月1日号、395ページ、英文)の中で一医師はこう認めています。『輸血の許されていない情況下で手術をするとなると、いきおい技術は向上するはずである。出血している血管を一つ一つ押えてゆく点でさらに積極的になるからである』。」
「エホバの証人は、治療に輸血を受け入れないことによって、実際にはより良い治療法の益を受けています」という発言は間違っている。医師たちは、輸血をしないで済むものであれば、輸血なしで治療をしたいのである。輸血をするのは、そうしなければ、生命を維持することが困難な場合に限られる。従って、輸血拒否によって、「より良い治療法の益をうける」ということはあり得ない。輸血をしないで大丈夫なケースは、エホバの証人であろうとそうでなかろうと、輸血をしないのが原則なのである。
エホバの証人が輸血を拒否したことが、どれほど医療技術を進歩させたかは、明らかではない。輸血が許されない状況の方が、輸血が許されている状況に比べ、医療技術が向上するかも知れない、ということは理論的にはありうる。しかし、それを裏づける客観的なデータがあるわけではない。エホバの証人が輸血を拒否した結果、医療技術が発達したかのような発言は、問題である。エホバの証人がこの世界に一人もいなくても、医師たちは、できれば、輸血をしないで手術することを模索している。多くの医療関係者に迷惑をかけながら、一言の謝罪もせず、医師が懸命に努力していることを自分たちの功績であるかのように言うこの無神経さをあなたはどう思われるか。非常識などという言葉をはるかに越えているのではないか。
『聖書から論じる』は、輸血に関わって用いることができる専門的なことをたくさん述べている。それらは、医学的には誤りであるとは言えないが、正しい情報とも言えない。例えば、「輸血なしであらゆる種類の外科手術を成功裏に行なうことができます」と述べている(309頁)。たしかに、心臓切開手術にしても、脳の手術にしても、手足の切断手術にしても、ガンに冒された器官の全摘術であっても、輸血なしで手術はできないわけではない。しかし、いかなる手術の場合にも、出血が多量になるという緊急事態が絶対に起こらない、という保証はない。だから、この文章は、医者にとっては現実的ではない。加えて、ある血液の病気は、輸血しなければ、治らないものもあるので、この文章は不正確である。
さらに、「私たちは子供に、もっと安全な輸液は受けさせます。AIDS、肝炎、マラリアなどの危険を伴わない輸液を受け入れております」(310頁)という文章も、間違いではない。ところが、輸液は血液に代わるものではない。もし、ある一定量以上の輸液を注入すると、血管の外に放出された水分が、再び血管に戻るという現象が起きる。従って、使える輸液の量は限られている。輸液を使うなら、輸血をしなくても大丈夫であるかのような印象を与えるこの文章は、無知な読者を欺むくものである。
「多量の血液が失われると、体そのものが、蓄えていた大量の血球を循環系の中に放出し、また新しいものの生産を速めます」(同書、310頁)という文章も、間違いとまでは言えない。問題なのは、この文章が、「新しいものの生産」は手術中の数時間の間になされるかのような印象を与えていることにある。実際には、数週間かかるのである。数時間の手術の時間内に、「新しいもの」が生産されれば、輸血の必要はない。しかし、数週間かかるのであれば、輸血をするという文脈の中では、「新しいものの生産を速めます」という文章はナンセンスである。
私たち一般の者は、医学の知識をほとんどもっていない。輸血に関する知識など、皆無に等しい。従って、専門的な知識をもっている人は、素人が誤解することのないよう、ていねいに説明する責任がある。ところが、協会の出版物は、一部真理が含まれている専門知識を悪用して、一般の人々に輸血に関して誤解を与えている。そのようなことを許しておいてよいのだろうか。
医師への不信感を抱かせる
医師は完全ではない。いろいろな医師がいることも事実である。医療機関に問題がないわけでもない。国の医療行政に問題がないとも言えない。しかし、一般的な言い方だが、ほとんどの医療関係者は、ほんとうに患者のためを思い、多くの犠牲を払って、患者にとってベストの治療をしようと努力している。ところが、ものみの塔の出版物は、医療関係の従事者にきわめて厳しい批判を向けている。時に、憎悪に等しい感情をぶちまけている。一般に、カルト教団は、組織に忠誠心を保たせるため、敵を想定し、その敵から迫害されている、という意識をもたせる。ものみの塔にとって、その敵の一つが、医師たちに他ならない。
『ものみの塔』誌1968年4月1日号(203頁)は、輸血に反対する医者に対し、次のように述べている。
「命を救う者、人の現在の命を救う役割をになう専門職に携わる者として自他ともに許すこれらの人々の大多数は、医学の進歩した現在、聖書にある神の律法は非科学的で時代おくれとなり、昔の本である聖書はもはや通用しないと考えています。」
これは、30年前の文章であるが、証人たちの意識は、今もほとんど変わらない。はじめてものみの塔の出版物を手にしたとき、ものみの塔協会は、どうして、医師と医療関係者に、そんなにも否定的なのだろうか、と不思議に思ったことがある。この文章もそうである。医師の大多数は、医学の進歩を誇りにし、神の律法が非科学的であると主張している、と批判している。「神の律法」は、ここでは、「血に関する律法」のことで、具体的には、「輸血禁止」のことである。とすれば、この文章は不正確である。輸血禁止を否定する医師は、「神の律法」が「時代おくれ」になったと考えているのではない。輸血禁止は、聖書の中に含まれてはいない、と言っているにすぎない。輸血禁止を否定する医師は、「昔の本である聖書はもはや通用しない」と主張しているわけでもない。「輸血禁止」を否定することと、聖書を否定することとは、決して同じではない。
アメリカでは、輸血拒否による裁判が頻発している。輸血が必要になる状況は一様ではない。判断力のある未成年の場合、判断力のない未成年の場合、緊急事態の場合など、いろいろなケースがある。輸血拒否者が成人の場合であっても、配偶者や両親の状況によってさまざまなトラブルが起こっている。協会は、そのような問題を正確にとらえないで、医師に対して非難を繰り返している。例えば、『目ざめよ!』1974年9月8日号(21頁)は、法廷に調停を頼む医師を非難している。
「望まない患者に輸血を強制しようとして法廷命令にまで訴える医師は少なくありません。」
医師が法廷に訴えることを非難する前に、協会のリーダーが考えなければならないことがある。医師がどうして法廷の調停を依頼しなければならないのか、ということである。輸血拒否という異常事態を正しく把握し、その責任が自らにあることを認識することである。そして、そのような事態を二度と繰り返さないよう、証人たちを指導することである。
同じ記事の16頁には、輸血を強制しようとする医師について、次のような批判の言葉を吐いている。
「しかしこのタイプの医師は、特定の治療法に固執するあまり、法廷命令に訴えてまで自分の望む医療を患者に強制しようとします。往々にしてこの種の医師は、より新しい医療法が開発されたため、ある種の病気に対するその医師の治療方法がすでに時代遅れになっているということを認めません。」
医師は、決して、自分がしたい治療法を患者に強制しようとしているのではない。患者に必要だと確信するから、最善の治療をしようと努力しているにすぎない。この記事は、無輸血の治療をする医師が進んでいる医師で、輸血をする医師は、遅れた治療法しかできない医師である、という前提で論じている。これは間違いである。無輸血で治療をする医師というのは、基本的に、輸血が必要であると想定される治療はしない、ということなのである。それを、法廷に訴えて輸血をする医師は、自分の技術不足を認めたがらない医師である、と断定するのは間違いである。患者の生命を救わんとして、治療のためのチームをつくり、さまざまな角度から治療法を検討し、誠心誠意努力している医師に対し、失礼な言葉以外の何ものでもない。
『聖書から論じる』(319頁)は、「『輸血をしなければ死ぬ』と医師が言う場合はどうですか」という質問に対し、証人たちには、次のように答えるよう、指示している。
「状況が本当にそれほど重大である場合、医師は、輸血はその患者は必ず助かると保証できると思われますか。」
もし、医師がこのような質問を受けるなら、「必ず助かります」などとは言えないであろう。医師は、せいぜい、「輸血しなければ、死ぬ確率は高い。しかし、もし、輸血すれば、助かる確率は増える」と言えるのみである。協会は、どうして、このような冷たい質問を医師にするよう指示するのか。医師と患者にとって、一番重要なことは、信頼関係をもち続けることである。
さらに、同書は次のように言うように、指示までしている。
「もしかすると、その医師は輸血をしないで行なう治療の経験をお持ちでないのかもしれません。私たちは、できるならその医師が、必要な経験を持つ別の医師の方と連絡を取ってくださるようお願いしてみます。あるいは、他の医師に治療をお願いします。」
勝手なものである。自分たちで、輸血を拒否しておいて、担当医師が経験不足であるから、変えていただきたい、というのである。これは、一種の脅しである。医師が、最新の、そして最善の治療法を学ぶことは当然である。しかし、輸血する医師は未経験の医師である、と述べたり、輸血しない医師を経験豊かな医師と見たてて、そちらに移るよう工作する、という姿勢は、医師と患者の不信感をつのらせるにすぎない。
『目ざめよ!』1990年10月22日号(12頁)、は次のように述べている。
「こうして盛んに虚偽が暴かれているにもかかわらず、この神話はいまだに健全な指針として広く尊ばれています。多くの麻酔医や他の医師たちは、患者のヘモグロビン値が10以下になると、貧血を治療するために輸血をしなければならないという気になります。それはほとんど自動的な反応です。今日における、血液と血液製剤の過剰使用の一因がそこにあることに疑問の余地がありません。『ヒト免疫不全ウイルス伝染病に関する大統領委員会』で働いたテリーザ・L・クレンショー博士の推測によると、米国だけでも毎年およそ200万件の不必要な輸血が施されており、貯蔵血液を用いた輸血の約半分は回避できたはずのものです。日本の厚生省は、日本における『見境なく輸血を施す慣行』や『その効き目に対する盲信』を公然と非難しました。」
「インフォームド・コンセント」は、今日の医療世界において、きわめて重要な概念である。現在の日本においては、ほとんどの医師および医療機関は、基本的にその立場に立って、医療行為を遂行している。しかし、医師と患者の間でほんとうに重要なのは、医師と患者が信頼しあうことである。インフォームド・コンセントを叫ぶ前に、両者の信頼の回復に努力をしなければ、「インフォームド・コンセント」もむなしいものに終る。不信の上に立ったインフォームド・コンセントと、信頼の上に立ったインフォームド・コンセントは、天と地ぐらい開きがあるのである。
医療関係者の努力も必要であろう。しかし、エホバの証人に関して言えば、『ものみの塔』誌などの協会出版物が、医師への敵対感情を煽るような記事を掲載しないことである。証人たちは、協会の出版物の言うとおりに考え、感じ、行動するようにマインド・コントロールされているからである。
輸血は強姦に等しいか
エホバの証人の武田みさえさん(68才)は、脳の腫瘍を摘出するため東大の医科学研究所の附属病院において手術を受けることになった。手術を受けるに当り、武田さんは、医師たちに輸血を拒否することを申し出ていた。ところが、医師たちは、救命のために輸血が必要であると判断し、輸血をした。この事実を知らされた武田さんは、医師と国とを告訴した。その法廷において、武田さんは、輸血を「強姦されたに等しい」と証言した。そのことを、1996年2月15日号の『ものみの塔』誌は、次のように伝えている。
「本人の同意なしに、他人の体液を体内に入れられるということが許されてよいのでしょうか。武田さんは法廷で、それは自分にとって強姦されたに等しいと述べ、『意識のないときに自分の意志に反して輸血をされ、この苦しみ、傷は消えない』と心中を明らかにしました。」
輸血をして助けてくれた医師に対し、なぜ、この婦人は「強姦されたに等しい」などという言葉を吐いたのだろうか。理由は簡単である。組織がそのように言うように教えているからである。1990年11月に証人たちに配布された『わたしたちの王国宣教』には、「あなたは信仰を試みる医療上の問題に対処する備えができていますか」という4頁の印刷物が同封されていた。それには、特別、「この資料は必要な時すぐに取り出せる場所に保管してください」と、注意書きがある。証人たちは、組織が教えることに絶対服従を誓っているので、ほとんどの証人は、その印刷物をすぐ取り出すことができる場所に置いている。その文書は、輸血を強行しようとする人たちに対して、次のように言うよう指示している。
「どんな仕方であれ輸血が強要されるのは、私にとって、強姦されるのと同じことです。そのようなことをされたなら、その不本意な暴行によって生じる感情的、霊的な痛手を背負って残りの人生を過ごしてゆかなければならなくなります。私の同意なしに私の体に対してなされる侵略行為に、私は力づくで抵抗します。私は、強姦された場合と同じように、暴行を加えた人たちをどんな努力を払ってでも訴えます。」
1991年6月15日号の『ものみの塔』誌は、14才と6か月の少女について、次のように記している。
「少女は、自分にできるどんな方法を用いても、自分に輸血が施されることには抵抗すると証言した。彼女は輸血を自分の体に対する侵害とみなし、強姦のようなものだと考えた。」
私は、14才の少女に「強姦」などという言葉を使わせてしまうものみの塔聖書冊子協会に怒りを感じる。救命という尊い医師たちの努力に対し、なぜ、協会は、輸血を受けることを強姦に等しい、などと教えてしまうのだろうか。『血はあなたの命をどのように救うことができますか』(20頁)というブロシュアーは、その理由を聖書を使って説明している。
「また聖書は、血を避けることを淫行を避けることと同列に置いているので、クリスチャンに血を強制するのは、強制的な性行為、つまり強姦に等しい行為です。−使徒15:28、29。」
使徒15章の「血を避ける」という命令は、「動物の肉を食べるとき、血を食べないように」ということが本来の意味だった。協会も、そのような解釈が、文字どおりの、そして第一義的な意味であることは認めている。すると、もし、ブロシュアーの説明が正しければ、「動物の血を食べること」が「淫行」と同列に置かれているので、「強姦と等しい」行為ということになる。こんなめちゃくちゃな解釈はない。「強姦」という言葉を使う以上、強姦した人がいる。「輸血」の場合は、医師になるのか。それなら、肉を食べる際に血もともに食べたなら、誰から強姦された、と考えるべきなのか。ブロシュアーの著者に答えてもらいたい。協会はまったくいやな例えを考え出したものである。
証人たちは、協会の出版物しか、読めないような状態に置かれた人々である。他の情報をほとんど手にすることもなく、繰り返し、繰り返し協会の出版物から、「輸血」が「強姦に等しい」と聞かされ続けているのである。もし、そのような状態に置かれるなら、そのようにしか考えられなくなってしまうのが、普通の人間である。それが、マインド・コントロールの手法、と言われるものである。人はある先入観を吹き込まれるなら、そのように考え、そのように行動し、そのように感じるものなのである。個々の証人を責めることはできない。彼らは、組織の犠牲者なのである。
先の裁判の判決文によれば、武田さんは、手術を受ける前から、輸血を受けることは強姦に等しい、と医師に訴えていた。そして、手術後、輸血の事実を知らされてから、強姦にあったように感じて苦しんでいる。それは偽りではない。マインド・コントロールを用いた組織の指示どおり、考え、感じる人になっているのである。ほんとうに怒らなければならない相手は、そのようなことを教えた組織の指導者である。
子どもたちへの教育
ものみの塔の信仰において、最大の犠牲者はエホバの証人二世である。幼児期には、文字どおり、ゴムホース、皮制のバンド、定規などで体罰をもってしつけられる。5つの大人の集会にも、すべて出席しなければならない。週に何回かは、親の後ろについて伝道しなければならない。学校では、クラスの人と友だちになることは「世の友になる」と非難される。クラス委員の選挙、生徒会の選挙、すべてだめである。友だちのお誕生会も、年賀状もだめ。おめでとう、という言葉を使ってはいけないのである。協会が1992年に方針を変更するまでは、高等教育を受けることさえ、白眼視された。
協会は、エホバの証人の子どもたちが輸血を受けないよう、注意深く指導している。子どもたちに輸血の恐ろしさを徹底的に教えるのは、証人の親の大事な努めである。例えば、『ものみの塔』誌1991年6月15日号(16-17頁)は、子どもの両親に対して、どんなことがあっても、輸血を拒否するよう教え、訓練するよう、指導している。
その記事は、19才の青年が、十分な準備をしていなかったために、裁判所から輸血の許可が下ろされてしまったことを報じている。反対に、同じ記事は、14才の子どもが、輸血拒否を裁判所に認めさせた事例を紹介している。そして、12才の少女が、もし、輸血をするなら、どのような行動を取るかを紹介し、判事が少女の主張を認めたことを紹介している。
「ある12才の少女は白血病の治療を受けていました。児童福祉局は輸血をこの少女に強制できるよう、裁判所に問題を持ち込みました。判事は次のような結論を下しました。『彼女は裁判所に対して、もし自分に輸血を施そうとするなら、全力を振り絞ってその輸血と鬪う、と落ち着いてはっきり述べた。自分は叫んだり暴れたりし、自分の腕から注入器具を引き抜き、ベッドのわきにある血液バッグを処分するつもりだと述べた。私は彼女が実際にそうすると思う。私はこの子をそうした厳しい試練に合わせるどんな命令を出すことも拒否する。』」
『目ざめよ!』1995年1月22日号(11頁)は、裁判所が、ジョシュアという16才の青年を判断能力があると判定したことを報告している。この記事は、エホバの証人の親や子どもに対してだけでなく、裁判所に向けての記事のようにも思われる。
先の1992年9月の『わたしたちの王国宣教』に同封された印刷物は、特別、「あなたの子供を血の誤用から保護する」という項目を設け、証人の両親を徹底的に指導している(3頁)。
「例えば、あなたは子供を輸血から守るために、正当な手段をすべて講じてきたでしょうか。万一、輸血を施されそうな状況に直面したなら、子供はどのように反応するでしょうか。輸血を強要されるかも知れない緊急事態に効果的に対処するため、何が行えるかを家族で話し合ったでしょうか。」
協会は、もし子どもたちが輸血を受けるなら、その子どもはもちろん、親も「永遠の命を受ける見込み」が断たれると強調する。そして、子どもが小さな時から、輸血がいかに恐ろしいかを、徹底的にたたき込むよう指導している。そんな中で育った子どもが、輸血が必要な事態に陥ったとき、「輸血を受けます」と言えるはずがない。
エホバの証人二世の中には、中学生後半から高校生になると、ものみの塔の信仰に疑問をもちはじめるケースが目立つ。中には、社会人になって、その信仰の特異性にショックを受ける。そのような彼らも、小学生、中学生の頃は、組織が教えるとおりに、考え、感じ、行動するよう訓練されている。あたかも、自分の判断力と意志とで告白しているようであるが、実態は、マインド・コントロール下の出来事である。医師も、法曹界もこのような現実をよく認識して、対応する必要がある。
1987年、浜松において、高校生がバイクの事故で死亡した。彼は輸血すれば、助かったのだが、両親がエホバの証人だったことから、輸血を拒否、死亡してしまった。ルポライターの大泉氏によれば、本人は、既にエホバの証人ではなかったようである。しかし、両親の信仰の故に、輸血されることなく、死亡してしまったのである。病院関係者も、はじめは輸血すれば助かった、と言っていたのに、証言を翻す。
過ぎたことはし方がない。しかし、すべての人はもっと、真実に、問題を直面すべきである。エホバの証人二世の人たちを見て、私は、ほんとうに心が痛む。
結 論
本章では、ものみの塔聖書冊子協会が信者に輸血を受けさせないため、いかに誤った情報を流しているかを見てきた。証人は、組織の出版物が神の教えであると信じている。だから、他の書物にほとんど興味を示さない。ほとんどの証人が、組織以外の書物を読むことは無駄だと思っている。実際、組織は伝道時間を割くようにと徹底して指導しているので、協会が出版する以外の書物を読む時間などない。医学的な知識をもっている証人は、ほとんどいないので、組織の出版物からの情報をそのまま信じている。
このような情報を聞かされ続けているなら、輸血拒否をするのは、当然である。インフォームド・コンセントは言うまでもなく大切である。しかし、誤った情報の中に置かれている証人たちにとっては、輸血拒否以外のチョイスは不可能なのである。
もし、本書を医療関係者が手におられたなら、そのような方々にお願いしたいことがある。エホバの証人を、輸血拒否するけしからん人々、と考えないでいただきたい。彼らは、神に喜ばれたいと願って、誠実に生きようとしている人々である。悪いのは、そのような純粋な心を食い物にしているものみの塔聖書冊子協会の指導者たちである。一人ひとりの証人は、カルト教団のマインド・コントロールの下に置かれている。そのような状況を十分に認識し、普段から、ものみの塔聖書冊子協会に医学の領域においても、正しい情報を流すよう働きかけてほしい。単に、協会の医療問題連絡委員会からの要請に対し、輸血拒否患者にどう対応すべきかを考えるだけで、ことたれり、としてはならない。マインド・コントロールの実態を考慮し、一般のエホバの証人に援助の手を伸ばしてもらいたいのである。
すべての医療関係者がこの種の問題に関わらなければならないわけではない。お互い皆、自分の責任を果たすのに忙しい。だから、各病院に一人か二人でよい。聖書の研究者、カルトやマインド・コントロールに明るい心理学者、法曹界やジャーナリストの方々と情報を交換しあい、エホバの証人の輸血拒否問題に対応していただきたいのである。日本には、既に、40万人のエホバの証人がいる。単純に計算しても、年間、40人の証人が交通事故で亡くなっている。また、正確な統計があるわけではないが、輸血拒否で対応に苦慮している医師たちは、毎年、数千件に及んでいると思われる。しかも、証人が輸血拒否を主張するため、病院側が治療を拒み、そのため、治療してくれる病院を探し回るという事態が増えている。治療を引き受けてくれる病院がないので、病気が相当重くなり、緊急入院するケースが驚くほど増えている。早期に治療をすれば、治療も簡単であったし、輸血をしないですむ可能性もずっと高かったのにと悔やまれるケースも聞く。
何とかしなければならない。医師の皆さんにお願いしたい。エホバの証人たちに適切に対応していただきたい。
一章では、ものみの塔聖書冊子協会が、これまで、医療的な問題についてどのように発言してきたかを見てきた。二章では、輸血について、組織がどのように教えてきたのか、歴史的に概観した。三章では、信者に輸血を受けさせないために、組織が、いかに、間違った医学的情報を流しているかを紹介した。
本章では、エホバの証人が輸血拒否をするとき、その背景にある考えや、生じる矛盾などを取り上げる。証人の皆さんには、これらの問題の一つ一つについて、自分の頭で考えていただければ、と思う。そうするなら、協会が主張している「輸血禁止なるもの」が、組織が聖書を利用してかってに考え出したものにすぎないことを理解していただけるであろう。
文字どおりの解釈ではない
ある人々は、ものみの塔は、聖書を文字どおりに解釈しているので、輸血禁止を教えている、と考えている。これほど大きな誤解はない。ときどき、ものみの塔は、聖書の字句を文字どおりに解釈する根本主義者である、と言われる。これもまた、間違った評価である。協会は、レビ記17章10-16節の律法を守るべきだと主張する。普通のキリスト教は、そのような律法はユダヤ人のためのもので、新約聖書のクリスチャンは、そのような律法から解放されている、と説く。そのような立場に比べれば、ものみの塔は聖書を文字どおりに解釈している、と言えるかも知れない。しかし、協会は、このレビ記の律法を文字どおりには解釈しているわけではない。文字どおりに解釈しているのは、動物の肉を食べるに際し、血を抜くことに異常なまでに神経を使っているユダヤ人である。ものみの塔は、文字どおりの意味など問題にしないで、そこには、まったく含まれていない、新しい「輸血」という教えを持ち込んでいるのである。
ユダヤ人は、レビ記17章の「動物の血を食べてはいけない」という律法を文字どおりに守るため、古来、大変な努力をしてきた。彼らは、肉を食べるに際し、細心の注意を払って、血を取り除く。咽の両側、胸部の二つの主な動脈と、10番目、11番目、12番目のあばら骨の動脈、腰の動脈などすべての動脈をはじめ、すべての静脈を除去する。そして、その肉を水に浸し、さらに、その上、残っている血を抜くために塩を振りかける。こうして、肉のすべての部分から血を抜き去って、料理用の肉にしているのである。
聖書を文字どおりに解釈する人々とは、このようなユダヤ人のことを言うのである。ところが、協会は、食用の動物の肉から血を抜き取ることには、それほどこだわらない。むしろ、「血を食べる」という聖句を「血液の問題」にすり替える。そして、輸血の問題になると異常なほどに神経質になる。これは、聖書の字句拘泥主義者のすることではなく、偶喩的解釈者のすることである。ものみの塔が輸血禁止に用いる聖句のどれ一つとっても、文字どおりに解釈するなら、輸血禁止など出てこない。このことは、それらの聖句を輸血禁止に当てはめるグループは、世界中で、ものみの塔以外にないことからも、明らかである。
血に対する特別視
協会が、輸血禁止を説くのは、「血」を特別視しているからである。例えば、『血はあなたの命をどのように救うことができますか』というブロシュアー(1990年出版)は、次のように述べている(4頁)。
「民は血を特別なものとして扱うことにより、命が神に依存していることを示しました。そうです、彼らが血を取り入れるべきでなかった主要な理由は、それが健康に有害だったからではなく、血が神に特別な意味を持つものだったからです。」
この「血」を特別視する見方は、協会の出版物に数多く登場する。そのうちのいくつかを紹介しておこう。まず、1968年4月1日号の『ものみの塔』誌(204頁)である。
「血液の性質と組成およびそれが命をささえるという事実は、血液が知力、生命、目的のない進化の産物である可能性を否定しています。血液のこのような特色は、理知のある生きた、そして目的を持ち、造り出す神、人間の創造者なしには生まれません。」
この記事は、血液自体があたかも「知力」、「生命」、「目的」をもっているかのような書き方をしている。そして、血液が創造者による特別な創造物であることを主張している。そのような血液に対する特別視に科学的な根拠があるわけではないことは言うまでもない。
『ものみの塔』誌1976年7月15日号(424頁)は、血液に関する次のような見解を紹介している。
「スイスのチューリッヒで開かれた法医学者の国際会議で英国の法医学者たちが語ったところによると、『およそだれでも血痕を残すならば、その人がどんな人かを示す個性を再現することは、法医学によって間もなく可能になるであろう』とのことです。ドイツの新聞ディー・ウェルト紙に報ぜられたように、研究者たちは次のことを発見しました。すなわちそれぞれの人の血液中には、一生の間に蓄積された、非常に多くの、さまざまな病気に対する抗体が含まれており、それによってその人の血液は他のどんな人の血液とも異なっているという事実です。『他のどんな血液とも完全には適合させ得ない、特定の独自の血液型をだれもが有していることは、今日認められている』と同紙は述べています。ある人がどこに住んでいたか、およその年齢、アレルギーに関する情報、さらには職業や性的習慣に関する事柄さえも、血液を分析することによって知られるようになりつつあります。『簡単に言えば、その経歴、環境と共に、ある人を「見分け得る程度まで」再現する可能性は無限のように思われる』と、その記事は結んでいます。」
この記事は、血液を分析すれば、住んでいる場所、およその年齢、アレルギーをもっているかどうか、職業、性的習慣などが分かる、と述べている。その人の経歴、環境まで見分けられる、というのでる。今日の血液を研究している学者に、そのような発言が正しいかどうか、聞いてみるとよい。一笑に伏されるであろう。
さすがに、最近の出版物は、血が科学的に特別な存在であるような記述は少なくなっている。先のブロシュアー『血はあなたの命をどのように救うことができますか』も、「血が神にとって特別な意味を持つ」という言い方をしており、宗教的な意味で、特別視しているだけである。「血」が贖いという観点から特別な意味が付与されていることは事実である。しかし、それは、「血」そのものが、他のものと違う特別な実態をもっているからではなく、「血」が命そのものを表わすから重要ようなのである。例えば、「イエスの血」というとき、「イエスの命」、「イエスの贖い」、「イエスの死」などを指している。決して、イエスの血そのものではない。
血の使用法は一つだけか
協会の輸血禁止の教理を支えているもう一つの根拠は、血は贖いのためにだけ用いるべきだ、という考えにある。もし、聖書がそのように教えているなら、むろん、血液を他人の命を救うために用いる「輸血」は許されないことになる。では、そのように述べている箇所は聖書にあるのか。ない。一か所もない。しかし、ものみの塔協会は、聖書がそう教えているかのように証人たちを説得しようとする。そこで、さまざまのごまかしをしている。
例えば、「キリストの血のみが救いを与える」という聖句から、血の唯一の使い方は、キリストの贖いだけだと主張する。そして、さらに、「輸血禁止」にまで論理を展開する。『ものみの塔』誌1961年12月15日号(756頁)を見ていただきたい。
「動物の犠牲はもう必要ありません。全くのところ、神は動物の犠牲を忌み嫌われます。なぜなら、動物の犠牲は神ご自身がもうけ給うた犠牲に対する不敬を示すからです。したがって、イエス・キリストのあがないの犠牲は、神がご自分のクリスチャン証者たちの中にもうけ給うただ一つの取り決めです。」
そして、その段落の最後で、次のように述べている。
「私たちの生命は、私たちがこのご準備を受け入れるかどうか、血の正しい使用についての神の取り決めを受け入れるかどうかに依存しています。神の御手から永遠の生命を受けることを望む賢明な人々は生命の与え主なる神の否認する仕方で血を使用するのを避けます。」
この記事は、血の正しい使用法は、キリストの死だけであり、他は、すべて、神の意志に背いた、間違った使用法である、と聖書が述べているように書いている。むろん、それが正しければ、輸血を認めるわけにはいかない。ところが、この記事の書き方には、ごまかしがある。前半に言及されている「ただ一つの取り決め」という言葉は、旧約聖書の動物の犠牲制度に対比して、キリストの贖いに関して述べたものである。旧約時代には、さまざまな犠牲がささげられた。しかし、それらは今や、無効になった。新約時代には、ただ一つ、キリストの贖いの死だけで十分になった。ところが、後半の文章においては、「ただ一つの取り決め」という表現を、輸血における血の使用、に絡ませて議論を展開している。つまり、旧約聖書の犠牲制度を否定するためではなく、輸血を否定するために「ただ一つの取り決め」の「ただ一つ」という言葉を利用している。巧みな欺きという他はない。
『ものみの塔』誌1969年8月15日号(501頁)は、キリストの死と復活に救いがあると述べた後で、「救いは輸血によってではなく、イエスが流された血に対する信仰によってのみ得られるのです」と述べている。これもまた、おかしな論理である。輸血による救いは、地上の命を生きながらえさせるだけであり、イエスの血による救いは、永遠の生命と関わりがある。輸血によって、永遠の命を受けようなどと思う人は、世界中のどこにもいない。このようなおかしな発言は、単なる言葉遊びとして見過ごした方がよい、と考えるであろう。ところが、証人たちは、このような言葉でさえ、論理的におかしな発言だとは思わず、真剣に受けとめるのである。
『ものみの塔』誌1978年9月15日号(19頁)は、レビ記17章11-12節を引用し、次のように述べている。
「そうです。わたしたちの創造者また生命授与者は、ご自分の決定を明確に述べられたのです。すなわち(創造者から与えられた命を象徴する)血は一つのこと、つまり犠牲としてのみ用いられるということでした。こうして血は高く評価され、神聖なものとして取り分けられました。律法の下では血は食べても飲んでもならず、また人間が考え出すどんなことにも用いてはなりませんでした。」
この記事は、「血は一つのこと、つまり犠牲としてのみ用いられる」と述べている。ところが、そのことを支持する聖句をあげていない。聖句をあげないけれど、出版物で繰り返し、繰り返し述べておく。すると、その教えがあたかも聖書が教えているかのような錯覚に陷るのである。これこそ、ものみの塔協会が用いる常套手段である。
1980年8月8日号の『目ざめよ』(31頁)もまた、そのような例と言えよう。
「血の唯一の正しい用い方、つまり律法のもとで唯一の法的な正しい用い方がありました。それは犠牲のために用いる方法でした。命は神のものでしたから血も神のもので、これは罪を贖うものとしてささげられました。(レビ17:11)食物として用いられた動物の血は注ぎ出されたので、血を食べたり、外の神々にささげたりする、血の誤用は防止されました。血を地面に注ぐ人は、そうすることによって、神が命の授与者であることと、命がささげられて罪が贖われる必要のあることを認めたのです。−レビ記16:11、15-18」
この記事は、「血の唯一の正しい用い方、つまり律法のもとで唯一の法的な正しい用い方がありました。それは犠牲のために用いる方法でした」と述べている。そのためにあげている聖句は、レビ記17章11節である。その聖句は、確かに、血が贖いに用いられることを教えている。しかし、「血の唯一の用い方」であるとは、教えていない。教えていないが、協会が言いたいことは繰り返されている。
『洞察』第二巻(179頁)の記述を見ていただきたい。
「神がこれまでに是認された血の用い方は一つしかありませんでした。すなわち、犠牲のために用いる方法です。神はモーセの律法のもとにあった人々に、動物の犠牲をささげて贖罪を行なうようにとお命じになりました。(レビ記17:10、11)神のみ子イエス・キリストがご自分の完全な人間としての命を罪のための犠牲としてささげられたのも、やはり神のご意志と調和したことでした。−ヘブ10:5、10」
「血」が贖いに用いられたことは事実である。しかし、問題は、それが、「神がこれまでに是認された」唯一の血の用い方かどうか、ということである。もし、聖書からそう言いうるなら、輸血は禁止されるべきである。ところが、ここでも、そう主張していることを証明する聖句をあげていない。否、あげることができないのである。
『ものみの塔』誌1982年1月15日号(31頁)の説明は、もう少し手が込んでいる。つまり、脂肪は「ほかのどんなことに用いてもよい」と言われているが(レビ記7章24節)、血については、そのような言及がないことに(レビ記7章26節)に注目する。その結果、「血」は犠牲以外に使ってはいけない、という結論を導き出す。しかし、24節において「何に使ってもさしつかえない」と言われているのは、「死んだ動物の脂肪や野獣に引き裂かれた動物の脂肪」のことである。これらの脂肪は、もともと神に犠牲としてささげられることは許されていなかった。また、ここでは、食べることも許されていない。従って、脂肪はどのようなことに使うことも許るされたが、血はいけにえ以外に許されていなかった、と論理を展開するのは、「血」を特別視するための、完全な読み込みである。
協会の出版物は、いろいろな論理のごまかしが溢れている。一般の人々が、ものみの塔の文献の理解に苦しむのは、普通の書物では決してお目にかかることのできないこのような論理のごまかしがあるからである。ところが、外部の人々には、分りにくい書き方も、証人たちにとっては、違う意味をもつ。つまり、その記事を書いている人々が、一般の人々には理解できないような真理をもっているかのような錯覚を起こさせるのである。結局、それは、組織の権威づけに役立つ。ある人を権威者であると認めると、おかしな論理で話していることが、他の人には理解できない特別すばらしい真理を話しているかのように錯覚させてしまうことはよくある。協会の指導者が、論理力の弱い人々とはとうてい思えない。その辺のからくりを百も承知の上で、意図的に使っていることは間違いない。とすれば、協会のリーダーは、怖ろしい知的偽瞞集団である。
聖書を、自分の考えを主張するために利用しようとするなら、どんな議論をも組み立てることができる。聖句を並べて、聖書が輸血を勧めていることを証明することも可能である。
@イエスはご自身の血でもって、他の多くの人を贖った(ヘブル9:12)。
A血は命であり、他の人を贖う力をもっている(Tペテロ1:19-20)。
B「贖う」とギリシャ語には、「救う」という意味もある。
Cクリスチャンはイエスに習う者である(Tペテロ2:21)。
Dクリスチャンも、イエスと同じように、他の人を救うために自分の命をささげるべきである(Tヨハネ3:16)。
E従って、クリスチャンこそ、輸血して、人を助けるべきである。
お分かりいただけただろうか。以上のように、本来関係のない聖句を自分勝手に並べるなら、どんなことでも主張できるのである。ものみの塔聖書冊子協会が用いている聖書の用い方も、そのようなものである。
血を食べることと輸血することは同じか
「輸血禁止」は、「血を食べること」と「輸血すること」とが同じであるという前提に立って、はじめて成り立つ。そのことが言えなければ、輸血禁止の教義は、すべて崩れてしまう。従って、協会の出版物は、繰り返し、両者が同じであることを強調する。
まず、『ものみの塔』誌1963年6月1日号(344頁)は、読んでいただきたい。
「聖書は、『食べる』ことを禁じているので、輸血は血を消化器官に入れることではないと論ずる人があるかも知れません。しかし輸血は食物を胃に入れるのと同じ働き−つまり体力をつけ生命を支える−をもっと直接にするというだけのことで、食べることと輸血の間に相違はありません。病気から身を守るため、健康な人に接種するワクチンは別のものです。虚弱者あるいは病人に輸血するのは、体力をつけるためであり、からだを養うために食物を与えるのと同じです。」
ここでは、「食べること」と「輸血すること」は、両者とも「体力をつけ、生命を支える」から同じである、と言われている。しかし、輸血に関し、「虚弱者あるいは病人に輸血するのは、体力をつけるためであり、からだを養うために食物を与えるのと同じです」と言われていることは正確ではない。ある人が手術を受ける際、輸血を必要としたとする。その場合、輸血は、「体力をつけるためであり、からだを養うため」などではない。
協会は、「血を食べること」と「肉を食べること」とを区別する。しかし、生物学的、栄養学的に言えば、動物の血を食べることと、動物の肉を食べることとは変わらない。血の中には、他のものにはない特別な成分があるというわけではない。血液の細胞は、体の他の組織細胞と変わらない。もし、動物の血を肉とともに食べるなら、肉の部分と同様に血液もまた、消化器系の器官に入り、アミノ酸やビタミン、ミネラル、炭水化物、脂肪、蛋白質などに分解される。そして、その食べた人の体の組織の中に吸収されていく。それは、他の食物と同じである。むろん、ある動物の脂肪は野菜の脂肪と化学的に異なる。しかし、人の体は、植物の栄養素と動物の栄養素とを区別することはない。
輸血は、体に必要な血液が不足した場合、その不足分を補うために、血管に血液を注入する医療行為である。その際、医師は、その人の体に合った最良の血液を使うよう細心の注意を払う。もし、血液の成分のあるものだけですむなら、成分輸血を試みる。自分の血液をあらかじめ保存しておいて、手術の際にその自己血を使うことができれば、そうする。輸血によって注入される血液は、化学的に変化することなく、注入された人の血液と混じり合い、その人の血液の一部となって働く。輸血は、血が体の中に入ることだから、食べることと同じだとするのは、余りに乱暴な論理である。
『ものみの塔』誌1969年8月15日号(500頁)は、次のように述べている。
「患者が口から物を食べることができない場合、医師はときに輸血を施すのと同じ方法で養分を取らせるのではありませんか。聖句を細かに調べ、『血から離れていなさい』、また『血を避けなさい』と命じている点に注意してください。・・・それで、『血を避ける』ということは血をいっさいからだの中に入れてはならないという意味です」
「医師はときに輸血を施すのと同じ方法で養分を取らせる」とは、点滴のことである。確かに、点滴は、養分を血管に入れ、その養分を体中に配分する。ところが、ここで比較しなければならないのは、「血を血管に入れること」と「血を食べること」である。「食べ物を口から入れること」と「食べ物を血管に入れること」は同じである、と言う人はいないはずである。あるいは、「ぶどう糖という栄養素を口に入れること」と「ぶどう糖という栄養素を血管に入れること」とは同じである、などと言う人もいない。
なお、「血を避ける」とは、使徒15章においては、「動物の肉を食べるとき、血を抜いて食べる」という意味である。ところが、この説明は、「血をいっさいからだの中に入れてはならない」と表現を変えている。しかも、協会は、「いっさい」という言葉を勝手に補って、輸血までもが含まれているかのような印象を与えようとしているのである。
この記事は、血を「避けなさい」という言葉が「血から離れていなさい」という独特なニュアンスをもってるかのような書き方をしている。しかし、これはごまかしである。「避けなさい」と訳されたギリシャ語「アペケスタイ」は、避ける対象や内容について何かを語るということはない。「避けなさい」という言葉がどれほど強い調子の言葉であったとしても、「動物の肉を食べる際の血」が、「輸血における血」に変わることはない。協会は、「聖句を細かく調べ」などと言って、自分たちの主張が聖書の教えであるかのように言おうとしているが、それは欺きである。
さらに、『エホバの証人と血の問題』(18頁)から続けよう。
「クリスチャンは『血を避けているように』、という命令に注意してください。(使徒15:29)血を口に取り入れることと血管内に取り入れることとに区別を許すようなことは何も述べられていません。また、実際のところ、その両者に何か基本的な違いがあるでしょうか。」
この記事は、「血を口に取り入れることと血管内に取り入れることとに区別を許すようなことは何も述べられていない」、と述べている。これは、もともと問題にもならないことを自分で勝手に問題にし、それに対して何も述べられていないから、そのような問題は存在しない、という論理である。ずいぶん勝手な言い分である。何も述べられていないことは、そのようなことはもともと問題にされていなかった、にすぎない。実際、エルサレム会議の参加者の誰が、血を「血管内に取り入れること」を想定して議論していただろうか。ペテロか、ヤコブか、それともパウロか、バルナバか。
この記事は、「両者に何か基本的な違いがあるでしょうか」と問いかけている。引用されている使徒15章29節の「血を避ける」とは、「動物の肉を食べるとき血を抜くように」ということである。従って、ぜひ、友人やご家族の方に「動物の血を抜いてその肉を食べることと、医療的に輸血を受けることとに基本的な違いはあるか」、と聞いてみていただきたい。
また、『聖書から論じる』(309頁)は、「輸血は本当に食べることと同じですか」という問いに、次のように答えている。
「病院では、患者が自分の口を通して食事を取ることができない場合、その患者には静脈を通して養分が与えられます。では、自分の口の中に決して入れなくても、輸血によって血を体の中に受け入れる人がいる場合、その人は本当に、『血・・・を避けている』ようにという命令に従っていると言えるでしょうか。(使徒15:29)例えとして、アルコールを避けるようにと医者から言われた人のことを考えてください。飲酒はやめても、アルコールを直接静脈の中に注入させるとすれば、その人は指示に従っていると言えるでしょうか。」
ここでもまた、点滴による栄養補給という医療行為を媒介にして、「血を食べること」と「輸血すること」との同一性を主張する。点滴は、食物の中の吸収されやすい栄養素を血管に注入し、体中に配る作業で、食べることと基本的に変わらない。しかし、輸血は違う。輸血は、何等かの事情で、人が生きていくのに必要な血液の量に不足が生じた場合、医師が必要な血液を必要な分だけ補う、ことである。それは、生命維持に、緊急かつ必要な医学的処置である。食物は、胃の中に入ってから、さまざまなものに分解され、体全体に吸収されていく。そのうちのあるものは、体内の組織として留まるが、大部分はエネルギー、あるいは排泄物を通して体外に出ていく。一方、輸血によって血管の中に注入された血液(あるいはその成分)は、輸血された人の血液と一体となって、吸い込んだ酸素や、食物の中のある部分を体中に運搬する。輸血された血液が分解され、他のものに変わることはないのである。
点滴による栄養補給を持ち出し、「血を食べること」と「輸血すること」とを同一視させようとするのは、無理である。まして、アルコールを飲むことをアルコールを血管に注入することに例えるなど、論外である。アルコールを血管に注入したなら、その人はショック死してしまうであろう。
体内に入るという観点だけを考えれば、「血を飲むこと」と「輸血すること」とは同じに見えるであろう。しかし、それはごく表面的なことである。体内に入るという点だけから言えば、食物を食べることも、空気を吸うことも同じだ、と言える。だからと言って、食事を断つことは空気を断つことに等しい、と言う人がいるだろうか。空気を断ったなら、一瞬にして死んでしまうのである。食物がなくても、数日、否、一月ぐらいは優に生きられる。協会の出版物は、例えを巧みに利用して、読者を誤導する点でも、天才的である。
少量ならよいのか
ものみの塔は、「血を食べること」を禁止している。しかし、ユダヤ人のように、厳密に守るようには教えていない。むしろ、「血の神聖さ」に尊敬を払うことが重要だとし、微量な血であれば食べてもかまわない、とする。例えば、『ものみの塔』誌1962年2月1日号(90頁)は、特別な調理液に肉を浸してまでして、血を抜く必要はない、とユダヤ人のやり方を否定している。協会が輸血の際に用いられる「血」に、あれほどのこだわりを見せるのであれば、たとえ少量の血でも神は禁じておられるのだから、特別な調理液によってであれ、何であれ、完全に抜きなさい、と教えないのが不思議である。
「肉から血を正しく取り出した後でも、ごく少量の血は残ることでしょう。また、肉から出てくる液は、内蔵の液かも知れません。大切なことは、血の神聖さに尊敬が払われたこと、生命の神聖さの原則に対して敬意が払われたかどうか、ということです。神の律法によると、動物を殺すときには、その動物から血を取り出さねばなりませんが、微量の血をも取り除くために特別な調理液の中に肉を浸すことは必要ではありません。」
同じ記事の91頁は、魚や昆虫の血は微量であるので、その血を注ぎ出すことは不可能であるから、そのようにしなくてもよい、と述べている。
「肉をギュッとしぼるとか、浸すことは要求されていませんでした。ただ血を注ぎ出すことが要求されていたのです。注ぎ出すほど十分な量の血がない場合には血を取り出すために極端な手段を取る必要はありません。もちろん、生物を切り開いたとき、血のたまっているのが見えるなら、その血を取り除くことは容易で、かつ正しいことです。」
1963年3月15日号は、「もちろんたとえ血を抜いても、多少の血が肉の中に残ることは避けられません。血管を流れる血を注ぎ出せば、神の律法の要求にかないます。」と教えている。血の神聖さを強調するわりには、ずいぶんいいかげんな態度である。
ごく少量ならよい、という論理は、驚くべき主張である。これは、嘘は、ごく小さなものだからよい。泥棒も、ごく少量のお金だから許される、と言っているのと同じである。姦淫は、わずかであればよい。偶像礼拝もちょっとのことなら許される、などと協会は教えるのだろうか。いけないものは、ごくわずかであってもいけないはずである。協会は、ずいぶんご都合主義なことを言うグループである。
協会は、ごく少量の血なら食べてもよい、というこの教えを、血清注射を許可するために利用している。1965年2月15日号(105頁)は、次のように述べている。
「協会は、病原菌の接種に関連した血の使用など、現代医学の血の使用はどんなものでも是認しません。しかし接種は、社会のある部分では事実上避けられない場合があります。それで協会は、病気と戦う抗体を強化する目的で行なわれる、血の成分を含む血清の注射を受けるかどうかは各個人の良心にまかせます。ある人が血清注射を受けたとしても、聖書がはっきり禁止している血を直接食べているのではないという事実から慰めを得るでしょう。」
「したがって、クリスチャンが血清注射を受けるかどうかを決める場合でも、クリスチャンである医師や看護婦がそれを他の人に注射するかどうかを決める場合でも、その人自身が決定しなければなりません。依頼に応ずるかどうかの決定は医師を職業とするクリスチャンたちひとりひとりの責任です。」
私には、この記事の意味が分からない。「協会は、病原菌の接種に関連した血の使用など、現代医学の血の使用はどんなものでも是認しません」と述べているので、血清注射は禁じられているはずである。ところが、「社会のある部分では事実上避けられない」という現実的な状況から、「血の成分を含む血清の注射」を認めると主張している。注射を認めるなら、現代医学の血の使用を是認することである。それを是認しないのであれば、注射を否定することである。何度読んでも分からない。
1974年12月15日号の『ものみの塔』誌(766頁)は、「血液から精製された血清を用いる治療を受けることはクリスチャンにとって正しいことですか」という質問に対し、次のように答えている。
「それは、血の成分のごく少量を含むにすぎず、伝染病に対する補助的な保護を目的として用いられ、しかも血が平常行なっている命を支える役割を果たすために用いられるのではない血清の使用についてはどうですか。わたしたちは、この点に関しては各クリスチャンの良心が決定すべきであると考えています。」
ここでは、血清を利用する理由として、@血の成分をごく少量含むにすぎない、A伝染病に対する補助的な保護を目的としている、B血が平常行なっている命を支える役割を果たしているわけではない、という三つをあげている。これは、詭弁である。この三つの理由によって、血液のある成分を医学的に利用できるのであれば、やがて、どのような輸血であっても、正当化できるであろう。
以上のように、協会は、「血を食べること」にはかなりいいかげんなのだが、「血」が使われることになると、異常に神経質になる。協会は、血の入ったのりで作ったベニヤ板、あるいは日用品までチェックするように勧める。食用の肉に関する寛大さに比べると、まったく裏腹である。「血を食べること」については、パリサイ人の足元にも及ばないが、「血を使うこと」になると、パリサイ人以上の律法主義者になる。
これはまことに面白い現象である。聖書を読んでいる人は、この世界に何億といる。しかし、「血を避ける」という言葉の中に、「血を使う」ことを問題にしたり、「血」に触らないよう注意したり、「輸血禁止」を読み込む人は、エホバの証人以外にいない。ユダヤ教の律法を厳格に守ろうとする人々でも、そのようなことを意に介する人はいない。
肉食動物はどうなるのか。
ある証人の子どもが、動物の血を食べてはいけないということが、エホバ神のご意志であるなら、エホバ神は、どうして、動物の肉を食べるような動物を創造したのか、と母親に聞いた。もっともな質問ではないだろうか。一言だが、『ものみの塔』誌1982年1月15日号(31頁)は、そのことにふれている。
「野性動物の多くは草食ではありません(創世記1:30)。むしろ、他の動物を血も含めて食べてしまいます。それでも、血に関する神の律法を知るクリスチャンは、自分の飼っている動物のえさとして故意に血を与えるでしょうか。」
この記事は、肉食動物が他の動物の血を食べることに言及している。しかし、それに対して答えを出していない。ただ、自分の家畜に「故意に血を与える」ことなどしない、と断言するために、言及しているだけである。エホバの証人が家畜に血の入ったえさを与えることがよいかどうかは、今は、問題にしないでおこう。むしろ、「血」が協会が教えるように、それほど神聖なものであるなら、その血を食べるような肉食動物を、神はなぜ造られたのか、という質問には、答える責任があるように思う。その肉食動物は、「血」の律法を犯していることになるのか。もしそうであるなら、神は、どうしてそのような動物をつくられたのか。私の知る範囲では、そのことに答えた協会の文献はない。もし、あったなら、教えていただきたい。
これは輸血問題を考えるとき、決して小さな問題ではない。ある動物が他の動物を食べて生きているとすれば、その動物の血をも食べているはずである。とすれば、動物の血自体が神聖なものであるから、人間は、動物の血を食べてはいけないのだ、という協会の論理は成り立たなくなる。そのような肉食動物を創造されたのは、神だからである。神はノアの時代に、人間に動物の肉を食べることを許したが、血を食べることを許さなかった。その神が、肉食動物に対しては、他の動物の肉を食べることを許したのである。動物の血自体を神聖なものと言うのであれば、ここに、どうしても、矛盾が生じてしまう。
魚の血は食べてもよいか
モーセ律法(レビ記11:9、申命記14:9)は、魚を食物として食べることを許している。もし、「血は命である」という文章を、ものみの塔が主張するように理解するのであれば、魚を食物として食べる場合もまた、血を抜いて食べなければならないはずである。ところが、『ものみの塔』誌1954年5月1日号(英文、287頁)は、「血」の問題に、魚は含まれない、との公式見解を発表している。
「聖書には、魚は、血を抜く事柄について何も教えられていないので、特に注意しなくてよい。」
この記事は、魚の血を抜かなくてもよい理由として、聖書がそのことについて何も教えていないからである、と述べている。これは大変おかしな議論である。聖書には、どういう種類の動物の血は抜きなさいなどと、もともと述べていないからである。だからこそ、協会は、レビ記17章14節の「あらゆる肉なるものの魂はその血であり」という言葉を取り上げ、すべての動物の血を禁じている、と議論している。魚の場合だけ、禁じられていない、というのは、勝手な解釈である。
『ものみの塔』誌1973年8月15日号(510頁)は、魚の血は、少量であるから、注ぎ出す必要はない、と述べている。
「モーセの律法の条件に合った食用にふさわしい魚には、注ぎ出して土でおおうほど、多量の血はありませんでした。律法が魚の血を抜くことについて明確に述べていない理由がそこにあるのは明らかです。」
これもまた、おかしな議論である。実は、多くの魚には、相当数の血が含まれている。しかも、その血は、すべての脊椎動物の血液と同じように、血漿と血球から成り立っている。魚の血と他の動物の血とは、本質的に変わらない。否、魚の血の方が人間の血液より、濃度は濃いと言わねばならない。
もし、ものみの塔聖書冊子協会が教えるように、「血は命である」ということが重要であるなら、魚も含まなければならない。魚の生命は魚の血にあり、その血は、他の動物の血と同じように、神にとって特別なものであるはずである。
聖書が、魚の血を問題にしていない理由は、明らかではない。多くの聖書研究者は、「血を食べてはいけない」というレビ記17章10-14節の命令は、「神にささげられたいけにえの動物」と関係があり(このことは本書10章で扱う)、魚は犠牲としてささげられることはなかったからだ、と考えている。ものみの塔の文献がよく引用するマクリントンとストロングの百科辞典は、次のように説明している。
「ミカエリスの調査によれば、魚の血を食べることは禁じられているようには思えない。レビ記7:26は、特に、鳥と動物をいけにえとしてささげることに言及している。以上のことは、魚は主にささげられなかったので、その血を食べることが許されていた、ということであろう。」
この百科辞典によれば、血を食べてはいけない動物は、神にいけにえとしてささげられた動物に限定される、というのである。もし、そうであれば、「血は生命であるから食べてはいけない」とするものみの塔の主張は、まったく間違っていることになる。
確かに、魚の血を食べることは禁じられていない。イエスは、復活された後、ガリラヤ湖畔で、弟子たちと共に魚を食べた(ヨハネ21章13節)。その時、食用にふさわしい魚とするするために、血抜きをした、という形跡はない。
魚だけではない。バプテスマのヨハネは、「いなごと野蜜」を食べていた(マタイ3:4)。むろん、ヨハネが、いなごの血を抜いた、などと想像する必要はない。もし、「血」自体が神聖なものである、ものみの塔協会のように考えなければならないのなら、いなごの血であっても気にすべきである。
創世記9章4節の「肉」と訳されたヘブライ語「バサール」は、「動物」という意味である。ほとんどの聖書研究者は、その「動物」という言葉は哺乳動物や四足の動物を指していつ、と考えている。すべての生物を「植物」と「動物」とに分け、植物以外のすべてのものを指す「動物」という意味であれば、むろん、昆虫、魚、細菌類などを含めなければならないが、創世記9章4節の「動物」には、昆虫、魚、細菌類までを含める必要はないであろう。とすれば、「血」を食べてはいけない、と言われている動物は、いけにえとしてささげられる動物が念頭に置かれていた、と解釈できる。もし、そう理解するなら、レビ記17章11節で「贖い」が強調されていることにも符合する。
もし、「血を食べること」が、いけにえの動物と関係があるなら、協会が主張する、血自体の神聖さという教えが崩れることになり、従って、輸血禁止という教えも、成り立たなくなる。
聖書への読み込み
協会は、「輸血」は聖書が禁じている、と教える。しかし、そうではない。聖書の中に、自分たちの主張を読み込んでいるだけである。エホバの証人は皆、自分たちこそ、聖書を正しく理解している唯一のクリスチャンである、と確信している。協会が教えていることは、聖書が説いていることだと疑わない。そこに問題がある。協会が「輸血」のために用いる聖句の解釈については、8章以降で検証する。ここでは、輸血の関連記事の中で、協会がいかにいいかげんに聖書を用いているかを明らかにしよう。
まず、1968年4月1日号の『ものみの塔』誌(205頁)を取り上げよう。その記事は、「西暦33年、神はモーセの律法をイエス・キリストの死の杭に釘づけにしてそれを廃止されましたが、この特定の律法(動物の血を人間のからだに入れることを禁ずる神の律法)だけは廃止されず、効力を失いませんでした」と述べ、コロサイ2:13-14とエペソ2:13-15を参照聖句にあげている。
この文章を読んだ人は、コロサイ2章13-14節およびエペソ2章13-15節の聖句が、動物の血を人間の体に入れることを禁止している、と思うであろう。本文を素直に読んでいけば、論点がそこにあり、だれもが知りたいと思っていることもその部分だからである。ところがこの二つの聖句は、いずれも、前半の条件文、キリストが死を通してモーセの律法を廃止したことに言及している。そのような真理については、誰でも知っている新約聖書の真理であり、あえて聖句をあげる必要はない。むしろ、「この特定の律法(動物の血を人間のからだに入れることを禁ずる神の律法)だけは廃止されず、効力を失いませんでした」という文章こそ、聖句によって証明されなければならないことである。
では、なぜ、肝心な文章に対しては聖句をあげないで、聖句をあげる必要のない文章に対して聖句をあげているのか。理由は簡単である。肝心な文章を支持する聖句がないからである。では、なぜ、聖句をあげる必要のない条件文に対する聖句をあげるのか。もし、その聖句をあげなければ、結局聖句を一つもあげないことになってしまう。それでは、ものみの塔の主張が聖書が教えている、という印象を与えることはできない。従って、あげる必要のない条件文に対してであっても、聖句をあげておかねばならない。協会は、このような聖書の引用方法によって、聖句をあげることのできない主文章が、聖書的真理であるかのような印象を与える努力をしているのである。
ものみの塔の出版物は、このような聖句の引用法をひんぱんに用いている。聖句引用の何パーセントぐらいが、この種の引用であるか正確に調べたことはないが、半数近くにのぼるのではないかと、思わされている。一般の人々は、聖書をよく知らないし、それに、引用箇所を聖書本文にあたりながら調べることもしないので、ものみの塔の出版物は、聖書の教えを教えているかのように勘違いするのである。これは、知的欺き以外の何ものでもない。
協会は、しばしば、ある言葉に二つ以上の意味がある場合、別の意味で語られている聖句を引用して議論を展開する。例えば、「血の罪」という言葉である。協会は、その言葉に「殺人」と「輸血」の意味を含める。そして、「殺人」について言われている聖句を「輸血」の意味だと利用しながら用いる。例えば、『ものみの塔』誌1978年9月15日号は、「わたしを血の罪から救い出してください」(詩篇51篇14節)を引用している。『ものみの塔』誌は、この言葉を輸血に関する議論の流れの中で使っている。従って、この『ものみの塔』誌だけを読んでいるなら、詩篇51篇の「血の罪」とは、「輸血」のことを述べているのだと、勘違いするであろう。しかし、詩篇51篇の「血の罪」とは、ダビデ王が人妻ウリヤを殺害したことを指している。詩篇の「血の罪」という言葉には、「輸血」という意味はまったくない。
ものみの塔が聖書を説明するとき、正しく解釈しているのではなく、自分の主張したいことにあてはめて聖書を利用しているにすぎない。その例として、『ものみの塔』誌1965年2月15日号(106頁)を、取り上げてみよう。
「エホバの証者の医師のなかには、信仰をもたぬ人依頼されて輸血を施した人もいます。しかし、彼らは、献身したエホバの証者に対しては輸血をしません。申命記14章21節に示されているとおり、信仰のない人に頼まれて輸血するかどうかはクリスチャンである医師自身の良心にまかされています。信仰をもたぬ人に血をまぜたソーセージを売るかどうかを決めねばならないクリスチャンの肉屋や食品店の店主も同じ立場にあります。」
ここには、「申命記14章21節に示されているとおり」とある。すると、普通は、申命記14章21節が、「信仰のない人に頼まれて輸血するかどうかはクリスチャンである医師自身の良心にまかされています」と教えていることを期待する。では、実際に、申命記14章21節を開いていただきたい。そこには、ユダヤ人自身は、「死体で発見されたもの」を食べてはいけないが、外人居留者になら与えてよい、と言われている。この聖句は、エホバの証人の医師がエホバの証人ではない人に輸血をすることの是非について論じていない。協会が、自分たちの主張したいことを教えるために、聖句を利用しているだけである。協会の聖句の用い方は、ほとんどがこの種のものである。
今から、30年前、エホバの証人の医師は、エホバの証人ではない人々に輸血することができた。しかし、今日ではそうではない。協会はそのようなことを許してはいない。どうしてそんなことが起こるのか。協会の教えは、聖書の主張に従っているのではなく、自分たちの言いたいことを聖句に絡ませながら説いているだけだからである。30年前は、「申命記14章21節に示されているとおり」と言った。今は、エホバの証人の医師がエホバの証人ではない人々に輸血をする自由があるかという点に関し、協会の主張が変わったので、申命記14章21節の言葉を使わない。では、30年前に言ったことはどうなるのか。忘れさせることである。
『ものみの塔』誌1991年6月15日号(14頁)は、詩篇86章11節のダビデの祈りを引用して、血に関しても、エホバの教えに従うように、勧めている。その際、この詩篇の作者であるダビデについて、次のように述べている。
「ダビデが少年時代から血に関する神の見方を教えられてきたことは注目に値する事柄です。血に関する神の見方は宗教上の奥義ではありませんでした。律法が民に対して読まれた時、ダビデは次の部分を聞いたことでしょう。」
そして、レビ記17章11-12節を引用している。
ダビデは、少年時代から、血に関して教えられてきた、というのは、初耳である。だから、そのことを示す聖書箇所をあげてもらいたい、と思うのは自然である。ところが、この記事は、聖書箇所をあげていない(正確に言えば、あげることができない)。むしろ、「エホバよ、あなたの道をわたしに教え諭してください」という祈りを取り上げ、
@ダビデは律法を聞いたはずだ
Aもし律法を聞いたとすれば、レビ記17章11-12節も含まれていたはずだ
B従って、少年時代から血に関する見方を教えられてきた
と論理を展開してしまう。これが協会の聖書の用い方である。聖書が言わんとすることを聞いているのではなく、自分が言いたいことを、聖書の中に勝手に読み込んでいることがわかっていただけたと思う。
協会の出版物は、聖句の引用がおかしいだけではない。論理の展開もきわめていいかげんである。いいかげんなのではなく、意図的にごまかしている、と言うべきであろう。例えば、『ものみの塔』誌1991年6月15日号(14頁)を見ていただきたい。
「血に対する敬意はキリスト教の中心的な問題です。ある人は『それは言いすぎではないか』と言うかも知れません。しかし、イエスの犠牲がキリスト教の中心的な問題でないとしたら、中心的な問題とは何でしょうか。それに、使徒パウロはこう書きました。『わたしたちは[イエス]により、その血を通してなされた贖いによる釈放、そうです、わたしたちの罪過の許しを、その過分のご親切の富によって得ているのです』。(エフェソス1:7)」
この記事は、要約すれば、「イエスの贖いがキリスト教の中心であるから、血に対する敬意がキリスト教の中心である」と、教えようとしている。この論理は、どこかがおかしい、と普通の人なら気づくはずである。どこに問題があるのか。まず、「イエスの贖いがキリスト教の中心であるから」という文章は正しい。次に、「血に対する敬意がキリスト教の中心である」という文章は、「血に対する敬意」が「イエスの贖いの血」のことを言っているのであれば、問題はない。ところが、読者にはそう解釈させておいて、いつのまにか、「血に対する敬意」の中味を、「輸血」に置き換えて、話を進めていくのである。この論理のすり替えに気づかれただろうか。
多くのエホバの証人は、『ものみの塔』誌の著者が、そのようなごまかしをするとは考えない。よく意味がつかめないのは、自分の頭が悪いせいだろう、あるいは、自分には、知識がないからよく分からないのだ、と考える。そして、聖書は難しい、しかし、その難しい聖書から、私が理解できないような難しい真理を明らかにしてくれる組織をもっていることはすばらしいことだ、自分も、組織の出版物をしっかり学び、ついていかねばならない、そう思うよう、メカニズムが働くのである。
これが、マインド・コントロールの手法の一つであることは言うまでもない。
協会が「輸血禁止」を主張するのは、聖書がそう言っているからではない。むしろ、そう理解できるように、関連のありそうな聖句を並べただけにすぎない。そのような間違った聖書の使い方を理解していただくために、「医者に行くことは不信仰である」という主張を、聖書から証明してみよう。まず、マルコ5章26節を開いていただきたい。
「彼女は多くの医者にかかってはいろいろな苦痛に遭わされ、自分の資産をすべて使い果たしたのに益を受けることもなく、むしろよけいに悪くなっていた。」
次に、ヤコブ5章14-15節を読んでいただきたい。
「あなた方の中に病気の人がいますか。その人は会衆の年長者たちを自分のところに呼びなさい。そして、エホバの名において油を塗ってもらい、自分のために祈ってもらいなさい。そうすれば、信仰の祈りが病んでいる人をよくし、エホバはその人を起き上がらせてくださるでしょう。また、その人が罪を犯したのであれば、それは許されるでしょう。」
そして、最後に、U歴代誌16章12-13節である。
「それから、アサはその治世の第三十九年に両足に病を患い、ついに彼はひどく病んだ。ところが、その病の中でさえ、彼はエホバを求めないで、かえって治療者を[求めた]。ついに、アサはその父祖たちと共に横たわり、その統治の第四十一年に死んだ。」
マルコ5章26節は、医者がひどい人であることを告げている。ヤコブ5章14-15節は、祈りが病をいやすと教えている。そして、U歴代誌16章12-13節は、医師のところに行った人が死んだことを教えている。この三つの聖句を重ね合わせて、私は、「医者に行くことは不信仰である」という主張を、聖書から証明した。あなたは、納得されるだろうか。むろん、どこかおかしい、と思うだろう。ものみの塔聖書冊子協会がしていることも、大同小異である。
初代教会史
ものみの塔協会は、使徒15章のエルサレム会議の決定が、2、3世紀のクリスチャンにおいても、守られていたことを強調する。新約聖書においては、使徒15章の決定が守られていた痕跡はないので(使徒21章で、守られていた意味は、10章で扱う)、協会は、2世紀から3世紀の文献の中から、エルサレム会議の決定が守られていたことを示す証拠を示そうと努力している。
協会は、3世紀までのクリスチャンは、「血を体内に取り入れることを禁ずる」というエルサレム会議の命令を堅く守っていた、しかし、オーガスチン以降は、背教が進み、この命令が拘束力のないものにしてしまった、と言いたいのである(『ものみの塔』誌1968年4月1日号、206頁)。協会は、その証拠として、三つの文献をあげている(『エホバの証人と血の問題』、13-14頁、『洞察』、第二巻、180頁)。
まず、エウセビオスの「教会史」(V、1、26)の記録である。『洞察』(第二巻、180頁)から引用してみよう。
「それから100年余りたった西暦177年には、リヨン(今はフランス領土内)で宗教上の敵たちがクリスチャンは子供たちを食べていると言って、偽りの告発をした時、ビブリスという名の女性は、『あの人たちは理性を持たない動物の血さえ食べることを許されていないのに、どうして子供を食べたりするでしょうか』と言いました。」
二番目の証言は、テルツリアヌスの『弁明』(]T、13、14)からである(『ものみの塔』誌1971年6月1日号、342-3頁、『目ざめよ!』1980年8月22日、31頁、『ものみの塔』誌1991年6月15日号、10頁、『聖書から論じる』、308頁)。ここでは、『洞察』(第二巻、180頁)の訳文を紹介しよう。
「クリスチャンの前で、あなた方の誤りを恥じるべきである。わたしたちは普通の食物に動物の血をさえ含めていないからである。それゆえに、わたしたちは絞め殺されたもの、あるいは独りでに死んだものを避けるのである。それは、たとえ肉の内部にあって見えないとしても、何等かの点でその血によって汚されることがないようにするためである。終わりに、あなた方はクリスチャンを試す時、血の一杯入ったソーセージを差し出すが、もとよりあなた方は、クリスチャンの間でそれが禁じられていることを十分承知している。だが、あなた方はクリスチャンに罪を犯させたいと思っているのである。」
最後に、ローマの法律家ミヌキウス・フェリクス(西暦250年頃の人)の『オクタウィウス』(XXX、6)からの文章である(『洞察』、同頁より)。
「人間を打ち殺すのを見ることも聞くこともわたしたちには許されていない。わたしたちは人間の血を避けようとする気持ちが非常に強いので、食事の際にも食用にされる動物の血を避ける」
これらの証言は、2世紀のクリスチャンたちが動物の血を食べなかったことを示唆している。といっても、これらの証言から、協会が主張するように、2、3世紀のクリスチャンがエルサレム会議の決定を守っていた、と結論づけることは難しい。
@これらのテキストは、いずれも使徒15章のエルサレム会議の決定との関連で言及されているわけではない。
A2世紀のクリスチャンたち、あるいは、教父が、「動物の血を食べてはいけない」という教理に言及したり、クリスチャン生活において必要だと述べている箇所は、ただの一か所もない。
Bこれらの記事は、ユダヤ人が「動物の肉を食べる際、その血を抜いて食べる」という習慣をもっていたが、クリスチャンの間にも、そのような習慣を引き継いだ人々がいたことを暗示している。
Cテルツリアヌスの発言は、クリスチャンが、聖餐式にイエスの血を飲み、肉を食べたことを非難している人々に対して、弁明したものである。
D2世紀以降、「血を避ける」という言葉は、「血を食べる」という意味より、「人を殺す」という意味で使われるようになった。
Eテルツリアヌスは、「三位一体」という言葉をはじめて使った教父である。ということは、彼が言及しているクリスチャンは、三位一体を信じていた人々である。もし、協会が、テルツリアヌスの言葉を引用するのであれば、三位一体の信仰者たちを認めることになってしまう。協会はそれでよいのだろうか。
『エホバの証人と血の問題』(14頁)は、以上の三つの他に、使徒15章28-29節に言及している教会教父たちの文献を多数紹介している。
「使徒15章28、29節がこのように当てはめられたことを裏付ける(二世紀および三世紀の)参考資料は以下の中にも見い出されます。オリゲネスの「ケルススへの反論」、[、29、30、および『マタイ伝注解』、]T、12。クレメンスのに「師範』、U、7、および『ストロマテイスに」、W、15。『クレメンス説教集』、Z、4、8。『クレメンスの承認』、W、36。殉教者ユスティヌスの『対話』、XXXW。キプリアヌスの『論文』、]U、119。『十二使徒の教え』、Y。『聖使徒たちの規程』、Y、12。ルキアノスの『ペレグリヌスの死について』、16。」
この記事は、読者を完全に欺いている。ここに紹介されている教父たちの文献は、読者には、「動物の肉を食べる際、血を食べないように」という使徒15章のエルサレム会議の決定を守っていたことを証言しているかのように見えるだろう。だが、事実はまったく違う。確かに、これらの文献は、使徒15章のエルサレム会議の決定を問題にしている。しかし、「血を食べること」と理解していたのではなく、「人を殺す」という意味に解釈して、問題にしていたのである。従って、これらの箇所は、協会が主張する「輸血禁止」を支持する教父たちの文献にはならない。むしろ、そのような解釈を否定する証言として、読まねばならない。
結論
この箇所では、ものみの塔の文献の中で、輸血禁止を説くために用いているいくつかの問題を取り扱った。
もし、この文章をエホバの証人の方が読んでおられるなら、一つの実験をしていただくとよいと思う。本書で引用した『ものみの塔』誌のある号をエホバの証人の仲間にしてみることである。
例えば、王国会館に行って、1965年2月15日号の『ものみの塔』誌を捜してほしい。そして、106頁を開き、協会は、今でもエホバの証人の医師がエホバの証人ではない人に輸血をしてもよいと考えているのか、長老か長い信仰生活を送っているエホバの証人の方に問いただしていただきたい。そして、もし、協会が、今はその時とは違うことを教えているという答えがあれば、今はどういうことを教えているのか、それはいつ頃変わったのか、今の教えはどの聖句に基づいているのか、30年前の申命記14章21節の解釈はどうなったのか、などという質問をしていただきたい。
あなたが話す証人の方は、なぜ、あなたはそのような質問をするのか、その動機は何か、そのような情報をどこから手に入れたのか、などと逆に質問してくるだろう。そして、あなたの質問には答えないであろう。答えられないのである。むしろ、あなたは背教者の影響を受けている、と烙印を押し、組織に忠実ではない、と警戒されるであろう。そのとき、あなたは、沈黙して引っ込んではならない。むしろ、提示している文書は、背教者の文書ではなく、協会自体の出版物であることを示し、納得いく説明を求めていただきたいのである。もし、協会が聖書に忠実であるなら、困ることも、答えられないこともないはずである。隠すことも、逃げる必要もないはずである。
そのとき答えを手にすることができなければ、十分に待ってあげていただきたい。しかし、必ず、答えを得るまで、諦めずに待ち続けていただきたい。そうすることによって、あなたは、ものみの塔聖書冊子協会という組織の実態を見ることができるだろう。
これまで、ものみの塔聖書冊子協会の出版物が、医療の領域についてどのようなことを述べてきたかを見てきた。ものみの塔が教える「輸血禁止」を正しく評価するには、「輸血」についての正しい知識が不可欠である。そこで、本章では、「輸血の歴史」についてふれておこう。そして、次章において、「輸血に関する一般的常識」にふれてみたい。
近代以前の輸血
古代における輸血については確実な資料がない。古代エジプトでは王侯・貴族病気治療のために捕虜より取った血液の浴槽につかり、また古代ローマ人は若返りの妙薬と称して捕虜の生血をしぼり飲んだという。また円形闘技場の観衆は戦士が死亡すると、場内に殺到してその血液を飲んだという戦慄するような光景も記載されている。またユダヤやシリアでも同様な風習があった。そのようなことをするのは血液こそ生命自身の根源であり、それを摂取することがまさに起死回生の力を持っていることを人々が本能的に感じていたからであろう。6世紀に降ってARTHUR王の時代、VALIANT王子の物語の中で、戦いで傷つき馬から転落した若いGEOFFREY将軍が丘の上に倒れて冷たくなり失神していると、若妻ALETAとお供が駆け寄った。彼女は祖父が同じようにして戦死したことを知っていたので、自分の腕を出して祈りを捧げた後、自らの腕とお供の腕にナイフを加えて血を採り、葦の筒を用いて夫に血を与えて死に瀕した夫の命を救ったという。これはつくり話かも知れないが、当時の人々はすでにこのような感覚をもっていたのかと思う。
それから900年あまり、15世紀の終わり(1492)に法皇INNOCET8世が昏睡状態となったので、ヘブライの医師の進言によって3人の若者が犠牲となって、死に至まで採決されて法皇に捧げられたとあるが、口からこの血液は飲まれたらしいとされている。
17世紀には輸血に関していろいろの事件の去来した世代であった。まず1604年ロストックの医師MAGNUS PEGALIUSが若返り法として銀の管をもって輸血する方法を発表している。さらにANDEREAS LIBAVIUS(1615)の著書の中には次のような記載がある。「丈夫で健康な青年をつれてこさせた。また力が枯渇して弱い衰え、辛うじて呼吸をしている人を連れてこさせた。master of artをして2本のチューブを持ってこさせ、お互いに同志を連結せしめた。先ず健康者の動脈を開き、チューブを挿入して確かめた。次に患者の動脈を切開しその中に柔軟なチューブを入れ、2本のチューブを連結した。健康者の血液は温かくてスピリットに満ちており、病人の体内におどりこんだ。そして直ちに生命の泉となり、無気力・沈滞を一掃した」とある。古語であるので著者の翻訳に自身がないが、その気分は充分にくみとれる。人から人への輸血の第一例といえるかも知れない。しかしこの直接輸血法については批判はまちまちであり、ある学者はLIBAVIUSが輸血の信奉者であるとし、また他の人はこれは輸血を
やゆしているのであると解釈している。
輸血学の歴史に輝かしい1頁を加えたのはWILLIAM HARVEYの「血液循環論」である。彼は1616年初めてこの講義をしたが、ちょうどSHAKESPEAREの死亡したのと同じ頃であったという。彼は1628年「動物における心臓の働きと血液についての実験的解剖学」という論文を発表したが、これは出血すれば循環血液が減少し、これに対し輸血すれば救命され得るという科学的論理を樹立する原動力となった。
イギリスのSir CHRISTOPHER WRENは建築家でもあり、また天文学者でもあったが犬を用いて静脈内にいろいろの薬液を注入する方法の研究をした。彼は次にあげるRICHARD LOWERの友人でありLOWERにいろいろの技術やアイデアを教えたといわれる。
17世紀の輸血−動物血の人への輸血
1665年、オックスフォードのリチャード・ローワー医師は、脱血して死にそうになっていた犬に輸血を行ない、完全に回復させた。これが、現存する記録から知り得る最初の輸血である。
以降、イギリス、フランスを中心に、輸血は、動物実験から人体への応用と発展していった。先のローワー医師は、2年後の1667年11月、子羊の血を狂人と見なされていた男の人に輸血したが、特別な支障はなかった、と報告をしている。一方、フランス人のジェーン・バプティステ・デニスは、それより少し前の1667年6月に、熱病の少年をはじめ4人の患者に輸血をしたことを報告している。
この二人が、人間に対する輸血を最初に行なった医師だった。それらは、いずれも、動物の血をその動脈から人間の静脈にカニューレを介して注入するという、今日の常識では考えられない直接輸血であった。
デニスは、3オンスの脱血があった少年に9オンスの子羊の血を輸血し、無事に回復させた症例を報告している。ところが、その5例目に異常事態が起こった。それは、10オンス脱血した人に、5〜6オンスの子羊の血を輸血したケースである。第1回目は何事もなく終わったが、第2回目のとき、患者はショックから昏睡状態に陥り、翌日には血色素尿が出現した。今日、溶血性副作用と言われる反応である。
このような輸血先陣争いが行われている中で、ある患者が死亡した。その家族は、医師を告した。その結果、パリでは、輸血に対する反対運動が高まり、パリの医学会は、許可なくして輸血することは犯罪である、と決めた。フランス議会もまた、1678年、フランス国内での輸血を禁止した。一方、ロンドンの王室会議は、ローワー医師を招いて検討した結果、輸血を非合法の行為と決定した。その結果、輸血への関心は急速に衰えることになった。
これら17世紀に行われた輸血は、ローワー医師の犬の実験を別にすれば、失われた血液を補うためになされた、というわけではなかった。医師たちは、輸血によって、精神異常を修正することができるのではないか、老人を若返らせることができるのではないか、夫婦間の不和も夫婦相互の血を輸血することで落ち着くのではないか、などと考え、実験していたのである。
19世紀初期の輸血−人の血液を人へ
その後1世紀半にわたって、輸血の試みは休眠状態にあった。この休眠状態を破ったのは誰か。アメリカの医学誌(1825年)は、1795年にフィリップ・シンシック医師が輸血を施行したと紹介している。しかし、シンシック自身の報告がないので、その詳細を確認できない。
確認できるのは、1812年、ロンドンの聖トーマス病院の医師ジェームス・ブランデルの輸血である。彼は、産褥期の出血に対し、輸血が適正な治療法であると考えた。ブランデルは、犬の実験から、ある動物の輸血には、その動物の血液を用いるべきで、他の動物の血を代用できない、と結論づけた。人の輸血には、人の血液を用いなければならない、という今日の常識を定着させたのは、ブランデルだったのである。当初、彼は、直接輸血を勧めていた。しかし、血液を数秒間容器に入れておき、それを注射器で輸血しても差し支えない、ただし、その際、注射器から空気を除いておく必要がある、と記述している。
そのブランデルは、胃がんで生命があやうい状態になっていた患者に、14オンスの血液を5〜6分間隔で輸血した記録を残している。その患者は、一時容体は好転したが、結局56時間後に死亡してしまった。なお、彼は、数人の産褥期出血の婦人に輸血を行った記録を残している。
彼は、供血者からの血液を、患者の腕より数フィート上方にあるカップから、重力差によって患者の静脈内のチューブを介して輸血する方法を考案した。また、1840年には、血友病A患者の治療には、新鮮な血液の輸血が有効であることを明らかにした。
以降、ブランデルの同僚の産婦人科医師たちを中心に、輸血が普及するようになった。
19世紀後半の様子
19世紀半ばになると、輸血はかなり高度な技術が必要なこと、患者の死亡を早めてしまうケースがあることなど指摘され、、ロンドンを中心に、輸血に対して疑義の声が大きくなっていった。1849年、ルーツ医師は、相当量の出血があった患者、消化不良による著しい衰弱、食道狭窄、熱による虚脱、重症下痢、赤痢等の患者に、輸血を施した48の症例のうち、18例が死亡に至った、と報告している。その最大の理由は、輸血の際、空気が注入されてしまったことにある、としている。
19世紀後半は、輸血に対するセンセーショナルな雰囲気も消え、さまざまな技術が改良された時期だった。特に、血液は凝固するので、輸血は迅速に行わなければならないことから、注射器の改良、供血者と患者の静脈同士の直接輸血、供血者の動脈と患者の静脈の直接吻合などが試みられた。ただし、いずれの方法も、非実現的だった。ビスショフ医師は、1835年に、脱線維血の使用を考えた。ノイドルファー医師は、抗凝固剤を添加することを考え(1860年)、リン酸ナトリウムによって試みた(これは成功しなかった)。
19世紀後半には、患者と供血者が直接輸血をしないですむための器具が考案された。また、直接輸血のためのさまざまな外科的手技が試みられた。受血者の副作用も研究された。不適合輸血後の濃い排尿は、血尿ではなく血色素尿で、供血者の赤血球の破壊によるものであって、患者の赤血球の破壊によるものではないことも解明された。
19世紀の最後の4半世紀は、血液そのものを輸血に使用できない状況になり、ある時期(1873〜1880年)には、ミルクが血液の代用として用いられることもあった。しかし、副作用が大きく、その使用は禁止された。また、1884年には、生理食塩液を血液代用品として用いることが促された。
20世紀の輸血
20世紀に入ると、輸血に必要なことがたくさん発見された。1901年、ノーベル賞を受賞したランドシュタイナー医師は、血液にはA、B、O型があることを発見した。1902年、スターリ医師とデカステロ医師は、もう一つの血液型AB型があることを発見した。1907年にはオッテンバーグ医師が、患者と供血者の血液型を検査する方法、その適合関係などを発見している。モス医師は、溶血試験という血液型を判定する方法から、手間のかからない凝集試験という方法を見い出した。これら血液型の発見こそ、輸血を安全なものとして普及させた。今日では、詳細に言えば、200以上の血液型が発見されている。また、1945年にクーブス医師たちが発見した抗グロブリン試験は、血液型の検査を簡便なものにした。
輸血を普及させるには、抗凝固剤が発見されることと血液の長期に保存できる方法が必要だった。前世紀には、抗凝固剤がなかったことから、患者と供血者の間の直接輸血が試みられてきた。しかし、血管吻合が困難なことや輸血量が不明なことから、その方法は広く受け入れられるには至らなかった。1914年、抗凝固剤として、クエン酸ナトリウムが提案された。また、リチャードヴェイル医師は、クエン酸加血が冷蔵庫内で数日間保存できることを確認した。これらの成果に基づいて、ルース医師とトゥルナー医師は、ブドウ糖を加えて、抗凝固と保存の双方に役立つ溶液を完成した。この溶液は、血液に対し大変多くの量を要したので、輸血に先立って除去しなければならないという欠点はあったが、輸血に大きな貢献をした。この方法による輸血血液は、第一次世界大戦で初めて用いられた。O型のみであったが、10〜26日間保存された血液だった。
1918年、英国およびアメリカの軍隊は、クエン酸加血を戦傷ショックの治療に用いた。このルースとトゥルナー液、およびその後改良されたアルサーブ液は、第二次世界大戦の頃まで用いられた。このアルサーブ液は、保存する血液との割合が1対1であった。1943年、ルーティット医師とモリソン医師は、その割合を4対1、ついで6対1にまでにすることができる「ACD液」を精製した。
当時、血液の保存には、ゴム栓付きのガラスびん、チューブ、金属針のセットが用いられた。医師たちは、一度使ってから後、洗浄し、滅菌して、再利用していた。しかし、血液、蛋白および洗浄液を完全に除去することは難しかったので、患者に発熱副作用を招くことがあった。
ガラスびんを用いて採血をすると、真空式では、血液に泡が生じ、凝固してしまった。一方、重力採血法では、供血者および患者に空気塞栓の危険があった。そこに、プラスチック製の輸血器具が出現した。それは、輸血業務に飛躍的な改善をもたらすことになるが、アメリカ赤十字が1949年に導入してから、一般に承認され、普及するまでには、10年の歳月を要した。
そのような輸血器具が普及したことによって、1950年代および60年代は、成分輸血(血液の中の必要な要素だけを輸血する方法)が促進された。特に、1960年代から70年代にかけて、プラズマフェレシスのリバイバルによって、成分輸血が飛躍的に発展することになった。この手技は、もともと、1914年に、アベル医師たちが、免疫した動物から抗毒素血清を採取する目的で用いていたものだった。
なお、電気冷蔵庫の出現もまた、保存液の発達、および血液の系統的保存に役だった。
輸血を普及させるには、よい血液を確保することがもっとも重要な課題となった。それまで、死体から採血した血液を輸血に用いたりすることもあったが、問題がないわけではなかった。結局、血液を最も安全で確実に得るには、善意による献血に頼ることが一番よいということになり、血液銀行が設立されるようになった。その最初のものは、公式には、1932年、レニングラードに設立された、と言われている。しかし、最初に機能した血液銀行は、スペイン市民戦争に関連して1936年バルセロナに設立された血液銀行であろう。アメリカでは、1937年に、シカゴのクック地域病院に設立された。
なお、輸血医学および血液事業は、ますます目ざましい進歩と発展を遂げている。血液型学におけるモノクローナル抗体その他の応用、感染症を防ぐための検査法が進歩、輸血をスムーズに行うためのコンピュータによる徹底した管理システム、などをあげることができる。
日本における輸血の歴史
日本で初めて輸血が行なわれたのは1919年(大正8年)である。陸軍軍医の後藤七郎教官(後に九州帝国大学第二外科教授になる)は、英国に留学し、第一次世界大戦の西部戦線に従軍して輸血の状況を視察して、帰国した。その後、彼は、濃胸手術をした後、大きな出血があった患者に対し、300ミリ・リットルの輸血をして、生命を取り留めることができた。彼は、フランスからジャンブロー輸血器を持ち帰って、わが国の輸血療法の先達として活躍することになった。
塩田広重医師も、同年、ジャンブローの輸血器を用い、子宮出血による貧血患者に輸血を実施した。1924年(大正13年)、河石九二夫医師は、河石式輸血器を考案し、輸血を施行している。1930年(昭和5年)、浜口総理大臣は、狙撃されて副腔内出血でショックに陥ったが、輸血によって一命を取り留めることができた。この出来事は、輸血の効果と安全性を日本中に知らせる有名な事件となった。
1936年(昭和11年)の日支事変から1939年(昭和14年)の第二次世界大戦の頃は、世界全体において、輸血の必要性と重要性が注目され、研究が進展した。日本では、東陽一医師が、熊本と満州の新京間の血液輸送実験を行っていた。また、乾燥血漿の製造も少量ながら行われていた。
終戦後、それまでは、採血した血液を注射器でそのまま輸血していたが、血液銀行を設立する必要が叫ばれるようになった。特に、1948年(昭和23年)、東大分院において、輸血梅毒事件が起こったのを契機に、輸血の安全性と保存血の採用のため、血液銀行が設置されるようになった。1951年(昭和26年)には日本血液銀行と東京医大血液銀行、1952年(昭和27年)には広島血液銀行、1953年(昭和28年)には日本製薬血液銀行、1954年(昭和29年)には千葉県立血液銀行などが、続々開設された。日本赤十字社の血液銀行の発足は、1952年(昭和27年)である。初期の頃は、供血のほとんどは売血者によるもので、日本赤十字社もしばらくは売血も扱っていた。
1950年代に入ると、外科、特に脳神経外科、呼吸器外科、心臓血管外科の手術は非常に発達し、輸血の機会もきわめて多くなった。そして、輸血の増加とともに、肝炎の頻発が目立つようになった。特に、ライシャワーアメリカ大使が暴漢に襲われ、日本人の血液によって輸血されたが、肝炎を発症することになった。この事件は、「黄色い血液」の追放運動として展開され、1964年(昭和39年)、輸血血液はすべて献血によることが閣議決定された。その結果、日本赤十字社の各血液センターが充実、拡張された。この間、大河内一雄医師は、ブランバーグ博士らが発見した「オーストラリア抗原」が肝炎の発生に大きく関連していることを確認した。このブランバーグ博士はノーベル賞を受賞したが、肝炎とくにB型肝炎との関連性を実証した大河内教授こそ、真の業績者だった、と言われる(このオーストラリア抗原が、今日「HB抗原」と呼称されている)。HB抗原の発見は、輸血後の肝炎に対する防止に役だったばかりか、母子間に起こるB型肝炎の感染予防にも、大いに貢献した。
1980年代以降の一番大きな問題は、肝炎に代表される輸血後の感染症を防止することだった。それは、今日でも、医師や厚生省を巻き込んだ問題として、マスコミを賑わしている。特に、近年恐れられているのは、HIVエイズウイルスと、HTLV−1ウイルス(成人細胞白血病[ATL]ウイルス)である。外国に比べれば、日本のHIVの輸血による感染はそれほど多いわけではないが、それでも多くの犠牲者が出てしまった。また、HTLV−1抗体保有者は九州などに多く、日本は、世界に先駆け、そのスクリーニングを採用している。また、HB抗原の場合は、スクリーニングをしても、およそ10%の患者に肝炎が発生している。その原因を10年以上追及した結果、1988年(昭和63年)、非A非B型肝炎として、C型肝炎ウイルス関連抗体と認定できるものが発見された。1989年(平成元年)11月より、スクリーニング検査も、HTLV−1の場合同様、世界で初めて採用された。
1970年代には、成分輸血の技術が大幅に発展した。それまでは、採血した血液をそのままの状態で輸血する「全血輸血」だったが、赤血球、血小板、血漿の成分に分けて輸血することができるようになったのである。患者の中には、血液そのものを補わなければならないケースも多いが、ある成分だけを補給すれば間に合う場合も少なくない。その方が、患者にとっても負担が少ないことは言うまでもない。加えて、その方が、献血者からの血液を有効に利用できる。従って、今日の輸血は、成分輸血の方が多くなりつつある。
1980年代初期は、凝固第[因子、アルブミン、グロブリンなどの血漿製剤の原料となる血漿量を確保できない状態にあった。当時、エイズ対策の一環として、それぞれの国が血漿製剤を自給する方針をたてていた。しかし、日本は、製品あるいは原料血漿を含め、血漿製剤の90%を輸入に依存しており、大変遅れをとっていた。
1988年(昭和63年)、日本でもまた、輸血のための血液はむろんのこと、血液製剤に必要な血液をも、国内の献血によって自給する方針を立てた。献血者には、400ミリ・リットルの採血に協力を願う(それまでは、200ミリ・リットルが多かった)、成分採血を導入して血漿の採血量を増やす、血液製剤を適性に使用する、などを押し進めたのである。関係者のさまざまの努力により、赤十字血液センターは、輸血に必要な血液、および各血液製剤を満たすことができる状態になりつつある。
なお、輸血に関係する学会としては、1952年(昭和27年)、「日本血液銀行運営研究会」が発足した。それは、1954年(昭和29年)に「日本輸血学会」と改称され、今日に至っている。1960年(昭和35年)には、「第8回国際輸血学会」を主催した。この学会は、低温医学、成分輸血療法、組織適合性の研究、アフェレーシス、自己血輸血、骨髄移植など、多方面にわたり協力しながら、研究活動を行なっている。
ものみの塔聖書冊子協会が主張している「輸血禁止」問題を正しく取り扱うには、血液及び輸血に関する基礎的な知識が必要である。本章では、そのようなことを簡単にまとめて紹介する。
60兆個の細胞からなる体
人間の身体は、役60兆個の細胞から成り立っている。一つの細胞は、直径10ミクロン(1ミクロンは1000分の1ミリ)から30ミクロンの大きさで、真中に核がある。その核の中のDNA(デオキシリボ核酸)に遺伝情報が隠されており、細胞の働きを調節している。核以外の部分は原形質と言われ、水、蛋白、脂肪、ビタミン、ミネラル、酵素類を含んでいる。
それらの細胞は、もとはすべて、受精卵から形や働きが別れて変化したものである。それらひとつひとつは分化し(細胞が質的に変化していくこと)、成長・増殖していく(分化した細胞が大きくなり、数を増していくこと)。それらの細胞が集まって、脳、肝臓、腎臓、胃、皮膚、筋肉、骨、目、手足、...などとなり、一個の人間の肉体を構成している。
これら60兆の細胞一つ一つは、生命をもっていて、血液から栄養、水、酸素を受け取り、それをもとに運動をしたり、新陳代謝(物質を合成したり、分解したり、排泄する活動)を行っている。細胞を養っている血液中の蛋白やビタミン、ミネラルなどの栄養素が不足すると、各細胞も栄養失調を起こして、脳や肝臓...などの各臓器の働きが十分にできなくなる。
血液各成分の生成と寿命
血液を注射器で取り出し、容器の中に入れると、時間とともに、下の方に、重いものが沈み、上の方は澄んでくる。下に沈んだものは、赤血球、白血球、血小板と言われるもので、形をもっているので「有形成分」と呼ばれる。これらは、骨髄でつくられるが、血液全体の45%を占めている。
一方、上の方に集まったものは、「血清」と呼ばれる。90%以上は水分であるが、消化管を通して吸収された栄養素(蛋白質、脂肪、糖分、ビタミン類、ミネラル類、酵素類)、全身の内分泌管によってつくりだされる各種ホルモン、肺から吸い込まれた酸素などを含んでいる。
「血液」とは、これらの両方のものを含めたものを指す。血液は、四六時中全身くまなく巡回し、体全体60兆個の細胞に、栄養と水と酸素を供給し、各々の細胞から出される老廃物を肺や腎臓に運び、呼気や尿として排泄させている。従って、出血して体内の血液が一定量より少なくなると、生命を維持できなくなる。また、血栓が起きるとその部位より先の細胞は生きながらえることができず、壊死(えし)を起こす。
人体の血液量は、体重の約13分の1である。体重65キロの人の血液は、5キロで、5,000CCということになる。
赤血球
赤い色をした円盤状の細胞である。血球成分の体積のほぼ99%が赤血球である。その中のヘモグロビンは、酸素や二酸化炭素と結合しやすい特性をもっているので、体内を循環する際、細胞に酸素を供給し、二酸化炭素を持ち去る、という働きをする。この赤血球は、骨髄の中の赤血球系幹細胞から分化してつくり出される。その寿命は120日である。赤血球を一定のレベルに保つために、エリスロポエチンが働く。貧血や低酸素状態で、組織に対する酸素供給が低下すると、エリスロポエチンがたくさん生成され、赤血球の造血を促進する。
白血球
血液1立方mmにつき6,000ないし8,000個が含まれている。白血球は、好中球(異物や細菌が侵入してくると、血管から出て、それを食い尽くす)、好酸球(弱い食作用をもち、アレルギーなどに関与する)、好塩基球(役目は、好酸球と同じ)などの顆粒球、リンパ球(免疫に大きな役割を果たす)、単球(大型の単核細胞で、運動と食作用が盛ん)などに大別される。リンパ球は、胸腺に由来するリンパ球で細胞性免疫に関わるT細胞と、胸腺に由来しないリンパ球で体液性免疫に関わるB細胞とに別れる。これらは、一部のT細胞を除いて、骨髄で生成される。輸血と関係の深い顆粒球の寿命は、約7〜10日、Tリンパ球は、4〜6ヶ月である。
血小板
赤血球よりずっと小さい血球で、核をもたず、不規則な形をしている。血液1立方ミリ・メートルにつき約20万〜80万個含まれている。血小板は、血管に傷がついて出血した場合に、血液を凝固させ止血させるという働きをする。骨髄より生成され、7〜14日の寿命である。この血小板は、産生が低下したり、破壊されたり、異常に体内分布したり、対外に喪失する、などということによって減少する。しかし、血小板の生成を促進する物質や手段は、未だ発見されていない。
血漿
上記の各固形成分を沈澱させたあとに残る淡黄色の液体を指す。この血漿の約9割は水分である。残りは、アルブミン、グロブリンなどの蛋白質やブドウ糖などの糖質、脂肪、塩類などである。細胞は、水分、塩分、カルシウム、リンなどの量を一定に保つ必要があるが、その補給作業をするのが、この血漿である。体の活動に不可欠な栄養分やホルモンを溶かし込んで、体の各部分に運び、代わりに老廃物を持ち去る、という働きをする。また、体の中心部で発生した熱を取り込んで、体の表面で放散することによって体温を調節している。
アルブミン
肝臓で生成される。体内寿命は、正常時には、半減期19日である。その調節はホメオスタティックに行われ、肝細胞レベルで膠質浸透圧が高いときは生成が抑制される。肝疾患になると生成が悪くなる。低蛋白血症のときは、アルブミンの寿命は長くなる。
凝固因子
血液を固める働きをする。凝固第[因子が不十分である人を血友病A患者という。第\因子が不足している人を血友病Bと言う。これらの凝固因子は肝臓で生成される。その半減期は13時間と23時間である。第[因子の血中濃度を高める方法には、酢酸デスモプレシンの点鼻、あるいは静脈注射法がある。
血液の構成と働き
体内にあるすべての血液の量を「全血液量」という。この全血液量の約10%は、造血する臓器、あるいは脾臓などに蓄えられ、残りの90%は、体中を循環している。その量を「循環血液量」という。それは、循環赤血球量と循環血漿量との和と言うこともできる。
一人の人循環血液量は、ほぼ体重に比例する。正常の成人男子では、1キログラム当り、約75ミリ・リットル、成人女子では、1キログラム当り、約65ミリ・リットルである。小児の場合には、1キログラム当り、85ミリ・リットルと成人よりも多い。また、肥満者では一般に少なく、筋肉労働者では多い。長期に床に臥している病気の人は少ない。
血液は、心臓のポンプ作用によって全身に配分され、物質や熱を運搬する。血液が流れる状態は、身体の活動や変化に対応して調節される。循環血液量や心臓の拍出力、末梢血管抵抗などが僅か変化しただけでも、影響を受ける。
血圧は、血液が血管壁に与える圧力のことである。心臓の心室が収縮するときは、血液の流量が多くなり、血圧が高くなる。反対に、心室が拡張するときには、流量が少なくなるため、圧力も低くなる。この血圧は、一定ではなく、何等かの理由で心臓が送り出す血液の量が増えたり、血液の流量が同じでも、細動脈が縮んで、血液が流れにくくなったりすると、上がる。血液の流量が減ったり、細動脈がゆるんだりすると下がる。
血液が体内を循環するとき、もっとも重要な役割は、酸素を運搬することである。酸素運搬の効率は、@肺におけるガス交換、A血液の流量、Bヘモグロビンの濃度、C酸素とヘモグロビンの親和度などによって決まってくる。
成分輸血
1970年代までは、輸血のほとんどが、採血された血液をそのまま輸血するという方法だった。その際、採血された血液は、ガラスビンに入れられ、使用されていた。ところが、プラスチックバックが開発され、血液が保存できるようになった。さらに、閉鎖回路で子バッグと連結しているダブル、トリプルなどのバッグの開発は、さまざまな問題を解決できた。しかも、採血した血液を赤血球、血小板、血漿の各成分に分離して、別の複数の患者の輸血に用いることが可能になった。
1980年代は、成分輸血療法の普及に明け暮れた時代である。それまで全血輸血になじんできた臨床医師が、成分輸血を採用するまでに時間を要したことは事実である。しかし、貧血の治療には、赤血球濃厚液でほとんど間に合うことが分かった。また、血小板、あるいは血漿成分の活用で十分であることが認識されるようになってきた。今では、全血輸血1に対し、赤血球濃厚液輸血は4の割合となっている。内科の輸血においては、この割合をはるかに超え、10倍以上であるが、外科領域では、2倍を超えてはいない。
成分輸血が発展した理由の一つは、血液成分分離装置の開発と進歩にあった。アメリカの国立癌研究所とIBMは、共同で連続血液成分採血装置を開発した。以後、血小板、顆粒球など血球成分の採取に威力を発揮する装置が、さまざまな会社において、開発された。特に、血漿板を採取する装置は、輸血に対して大きな貢献をした。それは、1人の献血者から、バッグ採血10〜20人分の血小板を採取できるうえ、同種免疫の機会や輸血感染の危険を避けることを可能にした。むろん、このような成分採血は、血漿製剤を国内で自給するという目標に大きく貢献している。
成分採血は、献血者の負担を少なくする。従来の全血採血では、赤血球の量が回復するのに時間がかかったので、次に献血できるまでには、かなりの間隔をおく必要があった。しかし、血小板や血漿は、採血後数日で回復される。従って、より頻回に、採血することが可能である。成分採血をするには、献血が可能かどうかを検査するのに、およそ1時間を要するのと、体内にACD液を注入しなければならないが、その二つさえ了承されれば、とても効率のよい採血法である。
成分輸血は、血液の各成分の採血と処理に関して、さまざまの技術的な進歩があって可能になった。成分採血および成分輸血は、献血者の限られた血液資源を、有効に利用できるし、またさまざまの血液製剤の原料として活用できるでの、今後ますます、盛んになるであろう。
自己血輸血
現在の輸血技術においては、他人の血液を輸血する場合、疾病伝播や同種免疫の危険が皆無とは言えない。もし、輸血を自己血によってまかなうことができるなら、その危険性を避けることができる。従って、輸血には自己血を用いることが最も望ましい。自己血は、手術中に出血した血液を回収する方法もあるが、それを確実になしうる、という保証はない。そこで、通常は、手術に先立って、患者自身の血液を採血しておき、手術の際の失血に備える。そのような血液を「貯血式自己血」と言われる。この方法は、輸血に必要な最良の血液を確実に確保できるという観点から、大変推奨されている。1991年(平成3年)、自己血輸血法の標準化が行われている。
輸液
体重の60%は、体液と言われるものである。それらの内、細胞内にあるもの(40%)を「細胞内液」と呼ぶ。細胞外にあるもの(20%)を「細胞外液」と呼ぶ。後者はさらに、組織間にあるもの(15%)と血漿(5%)とに別れる。細胞内液と細胞外液とは、それぞれ、電解質の量および組成が一定の水準を保っていなければならない。水・電解質の平衡状態がくずれたとき、それを修復するために輸液療法を行う。
現代の医療においては、次のような目的で、輸液剤を用いている。
@生体に水・電解質を補給してバランスを保つ。
A循環血液量を維持する。
B栄養を補給する。
C浸透圧の調節を行う。
輸液には、電解質輸液、糖液、アミノ酸液、脂肪乳剤、高カロリー輸液、血漿増量液、浸透圧利尿剤等があり、患者の状態に応じて、用いられるものが違う。輸液は、次のような場合に、用いられる。
@水分の摂取不足、嘔吐や下痢などによる体液の喪失、発熱や日射病による発汗などによる脱水症状
A外傷による出血、あるいは消化管出血などによって、循環血液量が減少し、組織レベルにおいて、底酸素状態になることによって出血性ショックが発生した場合
B広範囲の熱傷の療法のため
C栄養不十分な患者に対して
血液銀行
日本では、日本赤十字の血液センターが輸血に必要な血液を用意している。今日では、献血者も輸血される人も、このシステムに違和感をもつ人は少ないであろうが、このシステムが定着するまでにはかなりの年月を要した。
まず、1926年(昭和元年)、売血による供血組織がスタートした。その組織は、第二次世界大戦中も細々と持続していた。1943年(昭和18年)、陸軍省研究機関の肝入りで、献血報国隊が結成された。それは、戦傷者のための乾燥血漿を製造する目的で、また女子が中心になっていたが、わが国において、はじめての無償の供血組織と言ってもよいであろう。
第二次世界大戦直後は、輸血に必要な血液は、低所得者階層の売血に頼らねばならなかった。ところが、1948年(昭和23年)の輸血梅毒事件が引き金となり、血液銀行を設立すべきであるという声が次第に大きくなった。最初、安全な血液を十分に確保するために、赤十字を中心に血液銀行が建てられる方針だった。ところが、朝鮮戦争で実績をあげたある民間企業が、先の乾燥血漿製造を引き継ぎ、いち早く「民間商業血液銀行」を設立させた。その結果、赤十字の血液事業は、大きり頓挫した。さらに、1954年(昭和29年)、保存血液の価格が保険診療の薬価基準に収載された。それは、血液を薬剤の1つとして位置づけ、今日までの血液事業の運営に、決定的な影響を与えることになった。
ところが、1950年代(昭和30年代)から、心臓外科および脳神経外科の手術が急速に普及する。その結果、大量の輸血血液が必要になり、商業血液銀行では間に合わなくなる。そこで、赤十字を中心とする献血制度が確立していく。はじめの頃は、企業を中心とする自己防衛的な預血制度や優遇事項を裏書した献血手帳の売買などが行われたりしていたが、献血率は次第に上昇し、国民人口の7〜8%が協力するにまで至った。その結果、輸血血液は、量的には、完全に自給できる段階に到達した。
輸血の決定
輸血の主な目的は、患者の血液(ある場合には血液の成分)が何等かの事情で不足が生じた場合に、補充することにある。しかしながら、輸血療法がどのように進歩したとしてても、肝炎、エイズなどに代表される輸血感染症と輸血による同種免疫といった問題から完全に解放されているわけではない。輸血の機会が増えることによって、これらの問題も無視できないので、輸血の利点のみでなく、輸血の危険をも考慮しておく必要がある。
輸血は、医学的処置から言えば、補助療法である。とはいえ、救命に直接的な関わりがあり、きわめて重要である。医師は、患者の臨床検査所見、理学的所見などに基づいて、輸血療法を行うか否かを決定する。しかし、肝炎、T細胞白血病ウイルス、エイズウイルス、輸血による合併症の危険性を完全に避けることができるわけではない。当然、これらのリスクも、輸血の決定にあたっては考慮しなければならない。
特に、アメリカでは、輸血後のエイズ感染が多発し、医師の責任を問う訴訟が相次いだ。その結果、インフォームド・コンセント(説明と同意)ということが定着しりようになった。むろん、この背景には、アメリカの血液事業が、エイズ、肝炎などをもつ確率が高い人々からの売血に依存してきた、という特殊な状況があった。しかし、日本においても、輸血後の肝炎の発生率はかなり高く、患者本人あるいは家族に、輸血に伴う危険について告知する必要性がある。そこで、どの病院でも、輸血をするかどうかという決定権は、医師の裁量権にのみ属するとは考えず、患者あるいは家族の意思をも、尊重する傾向にある。
では、輸血に関わるインフォームド・コンセントとは、どのようなものが必要なのだろうか。少なくとも、次のようなことが含まれる。
@輸血はなぜ必要か。輸血をしない場合には、どのようなことが起こると考えられるか。
A輸血は避けられないか。代替の療法の可能性はあるのか。
B輸血を行うことによる治療上の利点と危険は、どの程度のものか。
C輸血を行う場合、他人の血液(同種輸血)ではなく、自分の血液(自己血輸血)でできないか。
医師は、その際、輸血による合併症の可能性などについても触れておく必要がある。言うまでもなく、輸血について余計な不安を患者に与えないよう、注意しなければならない。しかし、その危険性は、手術そのものの危険に比べれば、きわめて少ないこと、輸血をしなければ、輸血をしないより危険な状態に陥ることを、よく説明する必要がある。
医師に輸血拒否を申し出るのは、エホバの証人だけではない。輸血によって生じる問題が皆無でない以上、医学的見地から、輸血を拒否する人々がいることは理解できる。そのような立場の人は、個人的信念に基づいて行動しているのであり、尊重されねばならないと思う。
しかし、エホバの証人の輸血拒否は、少々事情が違う。ものみの塔協会は、宗教団体として、聖書から輸血を禁止し、その教義を信者に要求しているのである。本章では、その実態を紹介し、混乱している医療の現場に少しでもお役にたてたら、と願っている。
輸血拒否のための出版物
ものみの塔聖書冊子協会は、証人たちに、輸血拒否を貫かせるために、周到な準備をさせている。今から、30年以上も前の文書であるが、『ものみの塔』誌1967年11月15日号は、法廷から輸血を命令された場合にはどうしたらよいか、病院に入院するにはどのような注意が必要か、病院側の承諾書を書く際にどのような点を注意しなければならないかなど、こと細かに指示している(702-3頁)。
1977年には、『エホバの証人と血の問題』という小冊子を出版し、輸血を拒否させるために、徹底した教育・指導を施している。
さらに、1990年には、『血はあなたの命をどのように救うことができますか』というブロシュアーを出版し証人にはもちろん、外部の人々に対しても啓蒙活動をしている。
『ものみの塔』誌や『目ざめよ!』誌は、証人たちが輸血拒否を守るよう、絶えず、「血」に関する記事を掲載している。それは、証人たちに対する警告でもあり、恐怖心を与える機会でもあり、組織に対して忠誠心を試す試金石ともなっている。
協会は、証人一人ひとりに、「免責証明書」という書類を書かせている。病院側から古すぎて無効である、と言われないために、毎年、1月になると書き替えさせている。
医療機関連絡委員会
1995年9月の『わたしたちの王国宣教』によれば、61の医療機関連絡委員会があり、300人の長老がそのメンバーになって次のような働きをしている。
@定期的に病院を訪問し、医療および輸血に対するエホバの証人の立場を説明している。
A無輸血治療に関係する最新の医学文献や法的な資料を提供し、医療関係者を啓蒙する。
B輸血拒否によるトラブルが発生した場合、連絡場所になり、エホバの証人を援助する。
最後の点に関しては、「昼夜を問わず、緊急な援助の要請を受けます。時には、医師、患者、親族、そして長老との間の仲介役として極度のストレスの中、明け方まで病院で過ごすこともあります」と述べている。証人の患者に輸血拒否を貫かせるため、大挙して病院に押しかけてきたエホバの証人たちに出会った人も少なくないであろう。それは、この医療機関連絡委員会のメンバーたちの行動なのである。
この連絡委員会は、アメリカでも、盛んに活動している。最近の『目ざめよ!』1995年3月22日号(19頁)は、次のように述べている。
「より良い協調関係を確立し、医師が無輸血治療を行なうよう支援するため、エホバの証人は架け橋となる有益なサービスを開発してきました。エホバの証人の統治体は、ニューヨークのブルックリンにホスピタル・インフォメーション・サービス(HIS)を設立し、エホバの証人の長老の中から選ばれた人たちが医療機関連絡委員会(HIC)を構成して活動できるよう訓練してきました。医学調査が行われ、その結果がHICのセミナーで提供されました。さらに、この情報は医師や病院に提供されます。また、対立を避けるための努力の一環として、他の経験ある医師たちに相談する機会を取り決めることもあります。」
医療委員会から伝道者への文書
ここに、医療委員会が証人たち(厳密には、伝道者)に配布した印刷物がある。それは、組織は、エホバの証人に対し、いかに細かな指導をしていることを示している。少々長くなるが、組織が証人たちにどのようなことを指導しているのかを理解していただくために、紹介しておこう。
「自分がいつ救命のために病院に運び込まれるか、あるいは“ささいな”問題と思えた事柄のために病院に行ったものの、それがいつ血の問題に関する深刻な対立に突然発展するかを予測できる人はいないため、以下の事項を行なっておくのは賢明なことです。」
「自分と証人の署名押印のなされた最新の『医療上の宣言』証書を常に身に着けておく。この『医療上の宣言』証書を『血のカード』と決して呼ばないようにするのは最善。中にはそうした表現を誤解する人がいるかもしれない。」
「治療のために入院する際にはいつでも、長老たちに知らせる。」
「坦当医、外科医、麻酔科医と話し合い、彼等が輸血を用いずに治療する気持ちがあるかどうかを確認する。(自分さえ輸血を望んでいなければ、そうした話し合いをしないでもすむと考えてはならない。)」
「入院の際すぐに、またためらうことなく、自分がエホバの証人であることを伝える。可能なら長老を伴い、輸血なしで治療してほしいという願いを必要な証書に記すための援助を求める。(通常、病院には『責任証書』などの書類がある。病院が、そうした書類はないと主張し、あなたの置かれている事態が非常に緊急であるにもかかわらず、治療を延期したり拒否したりしているなら、共にいる長老はあなたの依頼に基づいてHLCに連絡し、『輸血謝絶・兼免責証書』を持ってきてもらうか、ファックスで送ってもらうことができる。)」
「実際に緊急事態が生じた時、あるいは生じていると主張される時に輸血を施してもよいという許可をうっかり与えてしまうことのないよう、病院の書類に署名する前に、まず細心の注意を払って読むべき。病院の書類には普通、あなたが輸血を望まないことについて述べた事柄をすべて無効にしてしまうような一節が含まれている。あなたには、そうした文章を抹消し、自分が望む事柄を書き加える法的権利がある。その際、各々の調整箇所に印鑑を押す。あとで問題が生じた時のため、調整した書類のコピーを自分用に取る。だれかが、あなたが書類に調整を加えるのを防ごうとするなら、病院の管理者が病院の弁護士と話し合いたい旨告げる。これらの書類にきちんと記入することを遅らせないようにする。(子供の治療に関する詳細は、『王国宣教』1992年9月号の折り込みを参照。)」
「上記のことからお気づきのように、ご自分の医療上の必要について長老たちと意志の疎通を保つことは、あなたにとって最善の益となります。長老たちが事態を観察し、必要であると感じるなら、恐らく協力的な医師を見いだすため、あなたの承認のもとにHLCの援助を求めることでしょう。地元の長老たちは、あなたが求められている事柄をきちんと行なう上で孤立することがないよう、そうした方法で援助を与えるべきであることを理解しています。こうした時こそ、堅く立つために、長老たちの愛ある助けと励ましが必要ななのです。・・伝道の書4:9,10,12」
そして、次のような文書を用意するよう指示している。
「私は、私の治療にあたって、輸血(全血、赤血球、白血球、血小板、血漿)を受け入れることができませんので、ここにその旨お知らせいたします。だだし、次に挙げるもの、アルブミン、免疫グロブリン、凝固因子製剤、術中希釈式自己血輸血法、術中回収式自己輸血法、血液と無関係の増量剤、および輸血が関係しない医療処理は受け入れることができます。」
「私は、エホバの証人の一人として、私のうちに深く根ざす宗教的信念と価値観に基づき、この医療および信教上の指示書を作成いたします。加えて、私は輸血による有害もしくは致命的な結果が私の身体に及ぶことも望んでおりません。」
「私は治療にあたってくださる医師の方々が輸血の使用が救命のために必要不可欠であると判断される場合のあることを理解しておりますが、そのような場合であっても私は輸血を受け入れることができず、ここにお伝えする指示を固守いたします。」
「上記は、医師から輸血治療および無輸血治療それぞれの有効性や危険性の説明を受けた上で、私自身が慎重に考慮した事柄であり、この指示は、私が無意識状態にあっても変わることはありません。」
「私は、輸血以外の十分な治療が施されたにもかかわらず、私が血を拒んだことによって生じるかもしれない死亡その他のいかなる損害に対しても医師、病院職員の方々の責任を問うことはありません。この指示は、私の法定代理人、相続人、(遺族)遺言執行者に対しても拘束力を有します。」
そして、担当医および麻酔医には、次のような文章に署名押印してもらうよう指示している。そして、2部作成して、1部は医療機関が、もう 1部は患者が保管するよう指導している。
「私は、上記患者と話し合った上、その意向を受け入れることにしました。いかなる場合にも、患者の拒否する輸血や血液製剤を使用しないことに同意いたします。」
医療委員会より県の医師会への文書
ものみの塔の医療委員会は、エホバの証人の患者が医療機関を受診した際のトラブル等を未然に防ぎたいとして、各県の医師会に対し「無輸血治療に関するお願い」を出している。これも紹介しておこう。
「わたしたちは、゛人の命を救う゛という大変貴重な努めを果たしておられる先生方の御努力にいつも深く感謝しております。エホバの証人は聖書の教えを日常生活の中で実践しようと努めているクリスチャンですが、『血を避けなさい』(使徒15:28、29)という聖書のことばに輸血を避けることが含まれていると考え、無輸血治療を先生方にお願いしております。」
「全血や赤血球、白血球、血小板、血漿は拒否いたしますが、血漿から分画したアルブミン、免疫グロブリンなどを用いることについては、証人各自の判断で決める事柄であると考えています。一方、貯血式自己輸血は受け入れませんが、無血充填の透析装置や人工心肺装置、および循環系と一体となり、しかも持続的に循環している術中希釈式自己血輸血や術中回収式自己血輸血に関しては、各自の判断で決定する事柄であると考えています。」
「エホバの証人は命を尊んでおりますので、輸血が関係しない治療は積極的に受けたいと願っています。それでエホバの証人の患者が皆様の病院に参りますときには、次のような対応をしていただければ幸いです。」
(1) 成人や判断能力を有する未成年について
本人の意志が明瞭であれば、配偶者、親、あるいは親族の考えがいかなるものであれ、本人の意志を尊重し、『輸血謝絶 兼 免責証書』(図 1参照)を受け取ったうえで無輸血治療を行なう。万一、不測の事態が生じても、患者との医療契約に従い、無輸血で対処する。京都大学や名古屋大学の倫理委員会などでも輸血拒否を容認する決定がなされましたように、世界的な流れとなりつつあるインフォームド・チョイスの立場を尊重していただければ幸いです。
(2) 乳幼児および判断能力のない未成年について
子供の健康に関わる治療法については、親がその責任を負うという考えから、親の意志を尊重し『輸血謝絶 兼 免責証書』を受け取ったうえで、無輸血治療を行なう。
(3) 無意識状態などの緊急な場合
エホバの証人は『医療上の宣言』証書や『身元証明書』(図 2参照)を常に携帯している。これらは亨前の意志表明となっているので、証書を確認したならば、配偶者、親、あるいは親族の考えがいかなるものであれ、『医療上の宣言』証書に明示された本人の意志を尊重し、無輸血治療を行なう(『身元証明書』の場合は、親の意志を尊重する)
(4)詳しくお尋ねになりたいときや、上記の方法で受け入れていただくことが難しい場合
エホバの証人の医療機関連絡委員会に連絡していただきたいと思います。(下記の連絡先を参照なさってください。委員は24時間態勢で備えております) なおエホバの証人の医療機関連絡委員会は、率直なご意見をお聞きしたり、ご説明するために病院や先生方を訪問しております。またこの問題に関する医学上の文献や法律面の情報等をご希望の場合は、いつでもお伺いするか郵送致しますのでご連絡ください。
先生方のご活躍とご繁栄を心よりお祈りいたします。
エホバの証人の医療機関連絡委員会
各医療機関の対応
エホバの証人の医療機関連絡委員会は、各病院に、自分たちの立場を説明する文書を配布し、協力を求めている。それに対する、各医療機関の対応はさまざまである。むろん、基本的には、どの医療機関も、インフォームド・コンセントを大切にしているが、細かなところでは、やはり微妙な違いがある。
例えば、北里大学では、1985年6月に川崎で起こった事件を踏まえて、翌月には、「『エホバの証人』の輸血に関するガイドライン」を作成している。それは、90年と92年に改訂されているが、次のようなものである。
輸血を必要とする医療に時間的余裕のある場合には、@)輸血拒否に対して、診療上輸血が必要であることを説明し、患者の同意を得るように最善の努力を尽くし、この経過を病歴に記載する。A輸血拒否に対して、輸血をしないで診療したために起こり得る危険性を十分に説明する。B診療上輸血が不可避で、輸血拒否を固持する場合には診療を引き受けないこともあり得ることを説明する。C上記の経過を病歴に記載する。
時間的に余裕がない場合には、@救命のために医師が輸血を判断した場合は、輸血する。この医療行為の決定は、医学部兼務医員(但し、講師以上)が行う。なお、知力、判断能力のない場合(小児を含む)も同様である。
北里の場合は、緊急事態であれば、輸血もありうる、という立場である。筑波大学の立場も同様で、憲法で保証された信仰の自由を守ること、医師としてインフォームド・コンセントを行うの二点を確認した上で、「輸血しか救命の手段がない場合は、緊急の倫理委を開くか、担当医師が責任を持つことになる」と堀委員長は述べている(朝日新聞、1992年9月11日)。
これに対し、1991年10月9日の朝日新聞は、京都大学医学部「医の倫理委員会」(糸川委員長)の決定を次のように伝えている。
「成人と緊急な場合に限り、患者が輸血を辞退した意志を表明した『免責証書』とインフォームド・コンセントなどの条件を満たせば、申し入れを受け入れることにした。未成年や乳幼児については保留した。また、医師が輸血なしで手術に踏み切れないと判断した場合には、ほかの医療施設に送ることもありうる、とした。」
なお、同新聞によれば、吹田市の国立循環器病センターも同様の決定をしている、という。岡山の日赤病院もまた、緊急事態の場合であっても、輸血拒否を示す文書を持っているなら、輸血しない。患者が知力、判断力がない場合も同様、と決めているので、同じ線に沿うものであろう。
これらの決定を見てみると、両親が輸血を拒否しても、子供には輸血する、という医療機関はかなり多い。京都大学でも、未成年や乳幼児に対しては保留しているし、先の岡山の日赤病院でも、「小児の場合は、親が拒否しても医師の裁量権で輸血を行う」と決めている。
また、東京都立病産院倫理委員会は、「本来親と別個の主体である子供の生命に危険が及ぶ場合においてまで親の代理権が認められると考えることは妥当ではない。したがって、子供の生命に危険が差し迫った場合においては、子供の生命を守るため、輸血を行うこともやむをえない。」と決めている。さらに、名古屋大学医学部倫理委員会でも、15才未満の子供については親の輸血拒否があっても「原則救命優先」と決めている。
ここでは、「輸血以外の医療において、親の反対を押し切って医師が最良と考える医療を強行できないのに(あるいはしないのに)、生命に危険が及ぶという理由のもとに輸血医療のときだけは上述のように医師の独断を許すことはできない」(若杉長英大阪大学医学部法医学教室教授、「エホバの証人と輸血」『救急ナースのための法知識』Vol.7 No.11)というのは、小数意見である。
もう一つ、ほとんどの医療機関が、輸血できない場合は、手術を拒否することができる、と決めていることである。例えば、国立循環器病センターの倫理委員会は、「医師が患者を説得しても輸血を拒否した場合には、医師の判断で手術を断わってもよい」と決めている。
しかし、この対応は、問題の解決にはならない、ということである。手術を拒否すれば、患者は、治療を受けられないのであるから、病状は悪化する。そして、結局、緊急入院まで待たされることになるのである。そのときは、輸血しなければならない事態になる確率がはじめの場合より高いことは言うまでもない。
12;インフォームド・コンセント
インフォームド・コンセントとは、医師が患者に対し、治療内容を十分に説明し、患者の同意を得たうえで、治療を行うという考え方である。医師は、治療行為に当り、患者の自己決定権を尊重するということである。この思想は、もともとは、ドイツの医師たちが第二次大戦中に行なった人体実験に対する反省から生まれた。それが、アメリカにおいて、自己決定権という法理と結びついて、次第に、定着しつつある。
アメリカにおいては、患者が、医師の医療過誤を訴えるケースが増え、そのような訴訟から医師を守るために、このインフォームド・コンセントがあると、理解される傾向が強い。しかし、日本においては、医師が患者に対して治療内容を説明し、患者がそれに対して自分の希望を受け入れてもらう、という理解が一般的である。インフォームド・コンセントは、医師と患者を対立関係に置きやすいが、そうではなく、よりよき治療がなされるために、医師と患者が信頼関係を形成するためにある、という根本的精神を絶えず確認する必要がある。
人は、自らの信条にしたがって、医療行為を受ける権利がある。このような考えは、日本の医療の現場でも、次第に定着しつつある。もし、この立場に立てば、エホバの証人が宗教上の理由から、輸血を拒否する場合、医師は輸血することができないことになる。どの医療関係者も、基本的には、この考えに立っている。
しかし、問題は、そう簡単ではない。医療の現場は、さまざまな状況がかさなりあっているからである。患者の信条にしたがって、輸血をしない、と決定している病院もあるが、現場の医師に委せる、患者が拒否しても輸血をする、など各医療機関の対応はまちまちである。この点について、どのような点が現在問題になっているのかを整理してみる。
@患者が明確な意志表示により輸血を拒否したならば、医師はその申し出を受け入れることができなければ、治療を拒否することができるか。(インフォームド・コンセントは、医師と患者が、対等の当事者であることを前提とする。とすれば、医療においては、医師の裁量権も患者の自己決定権もいずれも絶対ではない。原則として、両者の意志が合致した場合のみ、治療行為がなされることになる。)
A輸血をしない前提で治療をはじめたが、緊急事態に陥り、輸血以外に救命の方法がない場合、医師は、救命の義務があり、緊急避難の行為として、輸血拒否をしている人に輸血をすることができるか。(ここでは、医師の裁量権と患者の自己決定権とがぶつかることになる。この場合、どちらの法益が優先されるのか、一方が他方の権利を侵害した場合、罪に問われることはあるのか、ないのか。)
Bもし、患者が緊急入院をした場合で、医師が治療を拒否できる状況ではないときは、患者が免責証書などをもっていても、輸血以外に救命の手段がないときには、医師の裁量権で、輸血することができるか。(緊急入院の場合は、医師は、その治療を拒むことはできないので、医師に選択権がなかったことになる。ということは、この医療行為は、医師と患者との間に契約関係が存在したわけではないので、医師の裁量権が優先すると考えられる)。
C成人の患者であっても、医師の下に運び込まれたとき、意識不明であったり、判断力が著しく減弱しているときは、家族から輸血拒否の申し出があっても、医師は自己の判断により輸血することができるか。(このような場合、医師は、患者の真意を確認することはできない。もっとも、患者が輸血拒否の意志表示を記載した書面を携帯していても、それは患者の希望を記したものであり、契約条項と見なすことはできない。)
D成人の患者であっても、患者が妊婦であるときは、医師は自己の判断により輸血することができるか。(胎児の生命は尊重されねばならず、母親の自由な処分に服するものではない。従って、胎児の生命を守るため、医師は患者の意志に反しても輸血することができる。)
E患者が未成年の場合、医師は、自己の判断により、輸血することができるか。(未成年の患者本人が輸血を拒否した場合、患者は民法上の行為能力がないのであるから、生死に関わる重大な問題については、医師の判断は患者の意志に優先する。また、患者の両親が輸血拒否の意志表示をした場合、信仰上の問題は代理に親しまないこと及び患者本人に社会通念上不利益な決定は親権の乱用と考えられることから、医師はこれを無視することができる。)
なお、成年とは、民法に定める成年(20才)をいう。婚姻により成年とになされる場合は別として、20才未満のものは未成年である。イギリスにおいては、1969年家族法改正法により、16才以上の者は、医療に関する承諾については、成人とみなされるというが(橋本雄太郎他「患者の治療拒否をめぐる法律問題」判例タイムス569号8頁・昭和61年)、このような特別法のないわが国においては、16才以上の者を成年とみなすべき根拠に乏しい。
最後に、輸血を強行したときの医師の法的責任について考えてみよう。
エホバの証人の医師を無視して輸血を強行した場合には、治療が成功しても失敗しても刑事責任や民事責任を問われる可能性がある。
1)治療が成功した場合
刑事責任として、暴行罪(刑法第208条)、傷害罪(刑法第204条)、監禁罪(刑法第220条)、強要罪(刑法第223条)、民事責任としての患者の自己決定権や信教の自由侵害したことに対する賠償責任(民法第709条)、診療契約違反に対する賠償責任(民法第415条)が問われる。
2)治療が失敗した場合
刑事責任として、殺人罪(刑法第199条)、傷害罪(刑法代204条)、傷害致死罪(刑法第205条)、業務上過失致死傷罪(刑法第211条)に問われる。民事責任は成功した場合と同じであるが、失敗の場合は賠償の度合が更に大きくなるものと推察される。
はじめての訴訟に対しての判決
1997年3月12日、東京地裁703号法廷において、輸血拒否を申し出たエホバの証人に対する判決が日本の裁判史上はじめて下された。
事件は、1992年9月、東京大学医科学研究所附属病院において起こった。エホバの証人の主婦武田みさえさん(当時62歳)が、「輸血拒否の意志」を表明して、腫瘍の手術を受けた。手術は成功したが、2,500ミリ・リットルの失血があり、1200ミリ・リットルの緊急輸血がなされた。武田さんは、退院後、輸血の事実を知らされ、担当医師と病院の監督権をもつ国に対し、訴訟を起こしたのである。
協会は、この訴訟の経過を、1996年2月15日号の『ものみの塔』誌において、「だれが治療法を決めますか」という見出しを掲げて、報道している。そこには、武田さん自身の証言内容が掲載されているので、紹介しておこう。
「昨年の10月 4日、東京地裁で本人尋問に立ったこの婦人は、『目の前が真っ暗になりました。何でこんなことをされたのか。これからどうしていったらいいのか。どうして〔医師は〕輸血をしたのか。頭の中がボーッとしてしまいました。その後も、夜はずっと眠れませんでした』と、語りました。そこまで証言してから、この柔和でおとなしそうな60歳代の婦人は、語気を強めて、「いくら考えてもくやしい」と語りました。本人の意志なしに、他人の体液を体内に入れられるということが許されてよいのでしょうか。武田さんは法廷で、それは自分に取って強姦されたに等しいと述べ、『意識のないときに、自分の意思に反して輸血をされ、この苦しみ、傷は消えない』と、心中を明らかにしました。」
もし、普通の人がこの記事を目にするなら、とても理解できない言葉だと思う。患者のために誠心誠意治療をし、必要やむをえない状況に陥ったため輸血をして生命を助けた医師団に対し、「強姦された」と告訴しているのである。「強姦」などという口にするのも恥ずかしい言葉を、どうして使うのか。どうして、一生「強姦された」というような思いで生きていかねばならないのか。信仰者として、赦しの言葉や感謝の言葉はないのか、多くの人は率直な疑問を提すると思う。
しかし、この武田さんを責めるべきではないと思う。この武田さんが「強姦されたに等しい」と述べたのは、組織にそう教えられ、言うように指導されていたからである。そうでない限り、輸血に対してそんな言葉を思い浮かぶはずはない。証人たちは、自分たちの信条に関わるようなことに関しては、協会以外の書物を見ることは許されていない。証人たちは、生の体験からそう考え、感じるから「強姦」という言葉を使ったのではない。組織からあらかじめ、そう教えられているから、そのように考え、感じ、反応するのである。そういう状況をマインド・コントロールというのである。告訴した武田さんも、ほんとうは犠牲者なのである。誰の犠牲者か。むろん医師ではない。国でもない。組織のリーダーの犠牲者である。
この訴訟に対し、裁判所は、きわめて明解な判断を下した。エホバの証人の輸血拒否の申し出を、宗教的信条に基づく「特約」であると位置づけた。そして、その特約を「公序良俗に反する」と判断したのである。
「原告は、被告国との間で、手術中にいかなる事態になっても原告に輸血をしないとの特約を合意したと主張しているが、医師が患者との間で、輸血以外に救命方法がない事態が生ずる可能性のある手術をする場合に、いかなる事態になっても輸血をしないとの特約を合意することは、医療が患者の治療を目的とし救命することを第一の目標とすること、人の生命は崇高な価値のあること、医師は患者に対し可能な限りの救命措置をとる義務があることのいずれにも反するものであり、それが宗教的信条に基づくものであったとしても、公序良俗に反して無効であると解される。」
「よって、原告主張の特約は無効であるから、原告の被告国に対する債務不履行に基づく損害賠償請求は、右特約の存否について論ずるまでもなく、失当である。」
きわめて明解な判決である。緊急事態における輸血拒否の意志表明は、たとえ信仰上の信念であったとしても、医療の目的、生命の価値、医師の義務の3つの観点から、「公序良俗」に反すると断定したのである。
この判決を意外な感をもって迎える人も少なくないと思う。このような訴訟においては、輸血拒否そのものに対する判断は、患者の宗教的信条に絡む問題であるので、裁判所の馴染むところではない、と回避される可能性が高いと思われたからである。つまり、「信教の自由」とか「インフォームド・コンセント」といった患者の自己決定権という形式を前面に掲げ、輸血拒否という患者の意志表明の中味そのものには立ち入らない、と想像されたのである。ところが、今回の東京地裁の判断は、エホバの証人の輸血拒否の申し出を「公序良俗」に反する、と価値判断したのである。
「患者の自己決定権」については、医師が「輸血をする」と言えば、武田さんは手術をしなかったのだから、医師は患者の権利を侵害した、と裁判所は見なしている。
「原告は、被告医師らから手術中に輸血以外に救命方法がない事態になれば必ず輸血をすると明言されれば、本件手術を受けなかったはずであるから、被告医師らは、前記行為(原告の意志に従うかのように振る舞って原告に手術を受けさせたこと)によって、原告が本件手術を拒否する機会を失わせ、原告が自己の信条に基づいて本件手術を受けるか受けないかを決定することを妨げたものである。」
「医師が患者に輸血することを言わないことは違法か」という点については、医師が輸血するかどうかを言うことは医師の説明義務には含まれない、とする。
「患者に対し、手術をしようとする医師は、当該手術の内容、・効果、身体に対する影響・危険及び当該手術を受けない場合の予後の予想等を患者に対し説明する義務を負うものと解される。しかし、この説明義務に基づく説明は、医学的な観点からされるものであり、手術の際の輸血について述べるとしても、輸血の種類・方法及び危険性等の説明に限られ、いかなる事態になっても患者に輸血をしないかどうかの点は含まれないものである。」
医師が、診療を求められた患者の宗教的信条を尊重して、輸血すると明言すれば、患者は手術を拒否せざるをえず、結果的には、患者を死に至らしめることになる。それも医師に与えられた選択枝の一つである。しかし、もう一つの選択枝もありうると、裁判所は述べる。
「患者の救命を最優先し、手術中に輸血以外に救命方法がない事態になれば、輸血するとまでは明言しない対応をすることも考えられる。そして、後者の対応を選んでも、医師の前記救命義務の存在からして、直ちに違法性があるとは解せられない。」
そして、次のように結論づけている。
「結局、この場合の違法性は、患者と医師の関係、患者の信条、患者及びその家族の行動、患者の病状、手術の内容、医師の治療方針、医師の患者及びその家族に対する説明等の諸般の事情を総合考慮して判断するべきものである。」
結局、武田さんの場合は、さまざまの状況を総合的に考慮した結果、医師の対応に違法性はなかった、と結論づけた。
これまでの事例
この判決を、「信教の自由」に対する無理解とか、「インフォームド・コンセント」という流れに逆行した判決である、と即断すべきではない。むしろ、どうして、裁判所が、「医師に治療を求めた患者に対し、医師は、その治療行為において、緊急事態に陥り、輸血以外に救命の方法がない場合、輸血拒否という患者の意志表明は、公序良俗に反する」という見解を提示したのか、「一般的に、医師は、患者に対し可能な限りの救命措置をとる義務があり、手術中に輸血以外に救命方法がない事態になれば、患者に輸血をする義務があると解される」という医師の救命措置を優先させたのかを、を考える機会にすべきだと思う。
エホバの証人による輸血拒否の申し出は、わが国においても、既に30年以上にわたって、医師たちを困惑させ、医療の現場を混乱させてきたことである。従って、法的側面からも、何等かの判断基準が示される必要がある。場合によっては、問題をスムーズに解決するための制度なども検討しなければならないであろう。「信教の自由」とか、「インフォームド・コンセント」といった、一般的、抽象的、観念的な建前を掲げて、それで問題が解決したなどということではない。輸血拒否という教義そのもの、さらには、そのような教義を教える宗教団体の特異性をも含めて、医学界、法曹界、聖書学者、宗教学者、心理学者などによる幅広い論議を積み重ねる必要がある。しばらくは、多様な見解が提示され、試行錯誤が続くであろう。しかし、正確な実状認識からスタートして、社会的コンセンサスづくりに貢献していただきたいのである。
医療の現場では、輸血拒否によるトラブルは、日本においても、30年以上前から見られた。しかし、当時は、エホバの証人の人数もわずかであり、あまり話題になることはなかった。この問題を一躍有名にさせたのは、1985年(昭和60年)、川崎で起こった事件である。
わが国の医学・法学関係の文献に最初に現れた輸血拒否事件は、1973年(昭和48年)、麻酔科の森川医師が48才の潰瘍性大腸炎の患者を治療したケースであろう。その場合は、電解質液の輸液1,000ミリリットルを使用すむことによって済んだので、輸血をしないで済ませることができた。森川医師は、その経験の後、輸血拒否の問題に関し、アメリカの麻酔医であり、法律家であったドーネットの見解を紹介している。
@緊急手術でない場合、最良の方法は手を引くことである。
A緊急手術の場合は、場合によっては患者の同意が得られなくても、輸血を行う。輸血をしない場合には、裁判所よりの許可を得ておく必要がある。
B小児の場合、両親の同意が得られなければ、裁判所の許可を求める。
森川医師は、「患者の宗教上の自由は当然尊重されなければならないが、医師が患者の安全を考えて最善と信じて行う医療行為(輸血)が拒否されることは好ましいことではない。また輸血を行うために上記のような手続きをふまねばならぬとすればどうであろうか。考えただけでも煩雑であり恐ろしい気がする。このような宗教がわが国で普及し、われわれに新たなる問題を起こすことがないよう心より念じるものである。」
斎藤憲輝医師は、1980年(昭和55年)頃、32才の女性患者の子宮全摘手術を行い、電解質輸液1,200ミリリットルで手術は成功した。この経験を踏まえ、アメリカの文献を検討し、次のような結論に達した。
@緊急時でない限り、医師の指示に従わない患者の診療を拒否することができる。
A患者が成人で、緊急性のない場合、信教の自由という基本的人権を犯すことになる。
B未成年の場合で、両親が拒否する場合には、親権喪失の規定に基づき、裁判所に仮処分命令を求めることができる。
C妊婦または、幼少児の親で緊急性がない場合、胎児または幼少児を守るため裁判所の介入で輸血が許可される。
D緊急時には、緊急非難の原理によって、輸血をしたことで法律上の罪を問われることはない。
輸血拒否は公序良俗に反するか
東京地裁の判決の最大の特色は、輸血拒否の特約を「公序良俗」に反する、と断定したことにある。このような理解は、輸血拒否問題を論じている法的な文献には、見られないものである。問題は、なぜ、輸血拒否を「公序良俗」に結びつけたのか、という点にある。私は、裁判所が、エホバの証人の信仰に、カルト性を見い出した結果ではないかと思う。もし、そうであるとすれば、今回の判決は、時代遅れの判決なのではなく、時代を先取りした判決と見なすこともできるのである。
毎日新聞は、「セクト宗教事情−ヨーロッパ報告」という記事を、1997年3月20日から4回にわたって掲載した。それは日弁連消費者問題対策委員会の7人の弁護士(団長、山口広弁護士)からなる調査団の報告である。それによると、最近、ヨーロッパの国々では、セクトと言われるグループ(ヨーロッパで「セクト」と呼ばれるグループは、日本やアメリカでは「カルト」と呼ばれている)の活動に対し、国家が人々に警告を与え、予防させるため、立ち上がりはじめた、というのである。
どのカルト教団も自らが「カルト」と呼ばれることを嫌う。そこで、内部の信者には、教団のカルト性を否定し、カルトという言葉を自分たちのグループには当てはまらないように定義し直して、説明する。あるいは、カルト的要素が一般の人々の目にふれないようカモフラージュするのにやっきになっている。フランス議会は、昨年(1996年)1月、「フランスのセクト」という報告書をまとめた。その報告は、あるグループが「セクト」に属するかどうかは難しいとしながらも、次のような10の要件のどれか一つでも満たすのであれば、「カルト」である位置づけたのある。そして、首相直属の「セクト観察機構」を発足させ、カルトに関する情報を収集し、青少年をはじめ一般の人々にカルトに対する予防措置を取るよう、警告を発したり、研修会を開いたりしている。この「観察機構」には、警察、国税、教育、福祉、外務などの11省庁の代表者に学者、専門家などが加わり、本腰を入れてカルト対策に乗り出している。
このような動きは、フランスだけに留まらず、全ヨーロッパに広がりつつある。例えば、ベルギー議会もまた、超党派の11人の議員からなる「セクト調査委員会」を設け、警察関係、国税関係、宗教研究者、ジャーナリスト、精神科医などが中心になって、カルトの実態調査を進めている。近く、その調査報告が公表されるはずである。
むろん、これらヨーロッパの国々は、長い歴史の中で、「信教の自由」を勝ち取ってきたので、「信教の自由」を犯さないよう慎重に進めている。つまり、カルトに対して法的規制をしようというのではなく、カルトがもたらしている社会性を逸脱した行為を、現行法規の中で、問題にしようというのである。そこでは、「信条の正しさは取り扱われない」(コットレ報告)。
では、フランス議会は、ものみの塔を「カルト」と考えているのか。しかり。実は、相談件数が一番多いグループの一つがエホバの証人である。ものみの塔は、信者たちを徹底的に管理しているので、一般の人々には、その実態を知られていない。ほとんどの人が戸別訪問してくる「立派な振舞いをする主婦」というイメージで、ものみの塔協会を判断してしまうのである。それは、オウム真理教の実態が、サリン事件までは、一部の弁護士とジャーナリスト以外には、ほとんど知られていなかったのに似ている。
では、フランス議会が提唱した10の要件とはどのようなものなのか。ものみの塔がそれに対して、どのように当てはまるのか、考えてみよう。
@精神の不安定化
証人の中に精神的に不安定な人々が多いことは、よく知られている。自らもエホバの証人V世である精神医学者ジェリー・バーグマン博士は、証人の精神的病気が発生する確率は、普通の人の16倍に及ぶと結論づけている。証人たちは、伝道のノルマやハルマゲドンやサタンなどの力に対する潜在的な脅迫観念に締め付けられた生活をしている。
A法外な金銭的要求
協会の正式名称は、ものみの塔聖書冊子協会である。この名称は、「宗教団体」というより「出版社」である。それも、会員制の出版社である。証人たちは、『ものみの塔』誌、あるいは『目ざめよ!』を、一人平均、毎週10冊購入している。むろん、自発的寄付という名目ではあるが(数年前、税金を免れるため、販売制度から完全寄付制に変更した)、ほとんどの証人は、一冊150円位を協会に払っている。さらに、協会は、毎年、大きな書物や書籍研究の書物を出版配布している。それらの書籍代を加えると、証人たちは、年間10万円ほどの出版物を購入していることになる。
さらに、日本のエホバの証人は、一月平均、40時間を戸別訪問に費やしている。その最終目標は、ものみの塔教団の出版物を購入する人であり、売り歩く人である。もし、時給800円とすれば、800円×40時間×12か月で、年間40万円の働きを無給で奉仕させている。とすれば、協会は、証人一人当り、年間50万円の献金をさせていることになる。だから、王国会館や大会ホールを日本中に建てることができるのである。
B生まれ育った環境からの誘導的断絶
証人たちは、目に見える形の共同体をつくってはいない。しかし、ほとんどの時間を伝道に駆り立てて忙しくさせ、協会以外の出版物を読ませないようにするなら、精神的には、完全な共同体になるのである。お誕生のお祝い、父の日や母の日の禁止、クリスマス、感謝際、正月などにおける家族の交わりを断たせているのだから、証人たちは、家族を捨てて信仰の仲間と生きるように意識づけられてしまっている。
C健康な肉体への危害
協会が個々の証人たちに危害を加えるようなことはしない。しかし、ほとんどの証人たちが言うことは、彼らの肉体は慢性的に過労状態にある、ということである。ある証人が、もし、正規開拓者として20年も歩むなら、体はぼろぼろになってしまう、と告白している。
D子供の強制的な入信
エホバの証人の間で最も悲劇的なのは、エホバの証人二世である。一般の人々は、証人の子どもが、静かで、行儀がよいのに驚くのだが、その裏側には、お仕置きのゴムホース、革バンド、定規等があることを知っている人は少ない。小さな時から五つの大人の集会に出席することを強要され、戸別訪問の伝道には、生まれて数カ月もしないのに、連れていかれるのである。学校で友だちと遊ぶと「世の友にならないように」と注意されるので、他の子どもたちと自由に遊ぶこともできない。
E大小にかかわらず社会に敵対する説教
証人たちは、神権主義(神がすべてを決める権限をもっている)が正しい、と信じている。従って、多数決で決める民主主義は信仰の敵である。選挙や社会活動はこの世に属することで避けなければならない。だから、子どもたちは、小学校、中学校では、クラス委員、生徒会の選挙などもできない。
F公共の秩序を乱す行い
公共の秩序を乱すとまでは言えないが、証人たちは、組織から多くの制約を課せられているので、学校や職場でトラブルの種になることが多い。国家や校歌も禁止である。
G多くの訴訟問題
近年、エホバの証人の間での離婚、一家離散などの悲劇が続出している。私のところには文字どおり、毎日電話の相談がかかってくる。悲劇的な問題を抱えている家庭は、一説では、4万件に及ぶ、と言われている。最近20年間の離婚訴訟の47%は、エホバの証人である。最近10年間をとれば、何と87%になる。
H経済流通からの逸脱、
証人たちのほとんどが、組織のために働くために、それまでの仕事を止め、アルバイトやパートに切り替える。彼らは、社会から隔離された生活形態をとっている。
I国家権力への浸透への企て
キリストは1914年に、天の王座に即位した。そのキリストのもとに144,000人の共同支配者がいる。この政府は、日本やアメリカの政府と同列に並べられるべき現実の政府である。組織の審理委員会は、日本の裁判所に匹敵する司法世界なのである。オウム王国という言葉を聞いて、唖然とした人が多いいが、証人たちは、それよりはるかに真面目に、自分たちをエホバ王国の民と考えているのである。
お分かりいただけただろうか。フランス議会は、この10の要件の一つでも当てはまれば、カルトと認定する。よく調べれば、ものみの塔は、ほとんど全部当てはまるのである。ただし、ものみの塔は、120年の歴史を持っているので、その方法は、すぐには分からないような巧みな方法でやっているのである。
カルトの問題に回り道をしてしまった。輸血拒否の裁判の問題に戻ろう。東京地裁の判決がものみの塔のカルト性の認識を背景としていたかどうか、私には、分からない。しかし、輸血拒否を「公序良俗」というには、そう理解するとき、一番分かりやすい。「公序良俗に反する」とは、カルトという言葉の法律用語と見ることさえできるのである。
むろん、日本の司法界が、輸血拒否に関してそのような角度から判断するかどうかは、今後の裁判の推移を見守っていかねばならない。それはただ、日本だけではなく、世界のカルト問題に対する認識の動向にも深い関係があるのである。
最後に、輸血拒否という問題にしぼって、それが、「信教の自由」からだけで判断していただきたくない理由をまとめておきたい。
まず、聖書解釈の自由を認めていない、ということである。証人たちが輸血に関して決定権を持っていないのである。基本的人権は、教団に対してはないのだろうか。教団は聖書を解釈する自由をもっている。しかし、個々の信者にはその自由を認めていない。普通の聖書解釈の書物を読むことを許可していない。このような自由を認めない信条を個人の基本的人権として扱うことには、素朴な疑問が残る。
次に、輸血禁止が変わる可能性がある、ということである。教団は、医療的な問題に関し、くるくる意見を変えてきた。聖書の創世記9章4節の言葉、使徒15章の言葉を利用しながら、種痘禁止を主張し、引っ込めた。同じ聖句を使いながら、臓器移植を打ちだし、その後に引っ込めた。輸血に関しても、成分の使用もいけないと言ったり、よいと変えたりしている。すると、教団自体がこの教理を変える可能性がある。人命に関わらなければ問題はないが、変えたときには、既にその人の命は亡くなっているのである。
教団は、血液事業に関し、輸血に関し、医療に関し、正しい情報を信者に与えてはいない。間違った情報を洪水のように信者たちに流している。しかも、そのような問題に関して、他の情報を読むことを禁じられている。そのような状況に置かれたエホバの証人は、果たして患者の自己決定権をもっている、と言えるのであろうか。
教団は、信者に「個人が決定すること」と説明する。しかし、バプテスマを受けるときには、組織に忠誠を尽く約束させられる。輸血すれば、排斥処分である。輸血拒否カードは教団が用意し、それを提出しないでいることはできない。中味は、個人が決定しているわけではない。このような状況の中で、輸血拒否は、証人たちの決定と言えるのだろうか。
「信教の自由」という歴史的に勝ちとられてきた基本的人権は、カルトという宗教団体によって新しい理解と対処を求められている、という状況にある。この現実を認識して、輸血拒否に関する裁判も考え無ければならない。
ものみの塔聖書冊子協会への提案
私は、輸血拒否の問題について、何人かの友人の医師たちと話し合う機会をもった。彼は、個人の信仰を大切にする人であるが、その中の一人が、こんなことを言っていた。現場の医師の率直な気持ちを表した言葉であろう。紹介してみたい。
「エホバの証人が輸血を拒否するのであれば、それはそれでよい。しかし、それぞれの医師もまた、人間として、医師として、患者に対する考えと責任がある。それも同じように尊重されなければならない。だから、ものみの塔は、自分たちの考えに基づいた病院を自分たちで建てたらよい。セブンスデー・アドベンチスト教団は、自分たちの信条に基づいた病院を建てているではないか。そうすれば、多くの医師に余分な負担をかけないで済むし、輸血拒否の度にトラブルを起こさないですむではないか。エホバの証人の主張を聞いていると、自分たちの主張を通すために何の努力もしていない。ただ、甘えているだけだ。」
武田さんが訴えた裁判をきっかけにして、「輸血拒否問題を考える会」というグループが発足した。それは、かつてエホバの証人だった人々100名以上の人が名を連ねている。彼らが、「独自の病院を建ててていただきたい」という提案をしていることを紹介して、本章を終わろう。
ものみの塔協会の指導者は、自分たちが教えていること(それは聖書の教えではありません)が、いかに多くの医師をはじめとする医療関係者を困惑させ、苦しめ、大きな問題の中に巻き込んでいるかを、あらためて考えていただきたいのです。もし、輸血禁止を撤廃しないのであれば、医療関係者を、自らの信条の故にこれ以上苦しめないよう、ものみの塔協会は、ものみの塔の信条に基づく病院を建設してください。そのようにして、緊急事態においても、輸血拒否によるトラブルが発生しないようにする責任が、協会の指導者にはあります。ものみの塔協会は、各地に王国会館や大会ホールを建てています。しかし、エホバの証人のために、各都道府県に病院を建てることこそ急務を要します。そうしませんと、輸血に関してエホバの証人とは違う信条をもっている医師たちを大きく苦しめることになるからです。単に、「免責にします」と言ってすむようなことではありません。まして、信教の自由を持ち出したり、契約違反行為として訴えることは、身勝手であり、我侭です。
聖書の証言が根拠である
輸血禁止問題を取り扱うとき、三つの側面から取りあげる必要がある。一つは、ものみの塔聖書冊子協会が120年以上の歴史の中で、「血」あるいは「医療問題」をどのように教えてきたか、という点である。二番目は、聖書が輸血についてどのように教えているか、という点である。そして三番目は、輸血、あるいは輸血がもたらすさまざまな問題である。第一と第三の問題は、別の機会に扱う。ここでは、第二の問題を取り上げよう。
協会は、証人たちに輸血拒否を教え、それを実施させるため、『ものみの塔』誌および『目ざめよ!』誌、その他の出版物によって、さまざまな記事を掲載している。輸血の怖ろしさ、血液事業の金権主義、エイズや肝炎の怖ろしさ、無輸血手術の安全性、輸血を拒否してよくなった人の証言、死を恐れずに輸血を拒否した人々の証詞、等々である。しかし、協会が輸血を禁じる最大の理由は、そのようなことにあるのではない。「聖書が輸血を禁じている」ことの確信こそ、輸血拒否の根幹にある理由である。そのことを、『ものみの塔』誌1961年12月15日号(757頁)は、次のように述べている。
「輸血についてのエホバの証者の立場は、医学の賛成、不賛成にもとづいていません。輸血が安全であるとか、危険であるからという根拠にもとづいて、彼らは決定しません。彼らは神の御言葉にもとづいて決定します。」
『目ざめよ!』1974年9月8日号(19頁)もまた、同じことを述べている。
「よく知られているように、エホバの証人は輸血を受けません。確かに証人たちは、輸血が危険であることを知っています。しかし、証人たちが輸血を拒否しているのは主に宗教上の理由からであり、この後者の理由のほうが彼らにとってははるかに重要です。」
さらに、『目ざめよ!』1975年9月8日号(28頁)は、次のように述べている。
「輸血は、聖書の律法を深く研究し、自分がその律法下にあることを認め、その律法を擁護するよう決意したクリスチャンにかかわる聖書の律法に関連した問題です。輸血を受けるかどうかは一時的な気まぐれの問題ではなく、人間が自分の命を支えるために体内に血を取り入れることを禁じた神の律法にかかわる倫理上の肝要な問題です。」
証人は、なぜ、輸血を拒否するのか。答えは簡単である。聖書が輸血を拒否するように教えている、と確信するからである。では、聖書はほんとうに輸血を拒否するように教えているのか。
聖書は輸血問題を重要視しているか
協会は、過去50年間、輸血拒否をきわめて重要な問題であると教え続けてきた。はたして、聖書は、協会が説くほど輸血禁止を強調しているだろうか。とても、そうは思えない。協会が輸血禁止を主張するために持ち出せる聖句は、三つだけである。創世記9章3-4節、レビ記17章10-16節、使徒15章20節と29節である。むろん、この三つ以外の聖句も使われないわけではないが、基本的には、この三つである。
輸血禁止を教えるのに三つの聖句しか使えない、というのは、とてもおかしなことではないだろうか。イエスは、四つの福音書の中に、輸血に関する教え(輸血に適用できるような教え)を何一つ残さなかった。使徒パウロは、13の手紙を残しているが、輸血と結びつけられるような事柄について何一つ言わなかった。使徒ヨハネは、啓示の書で、終わりの日のことを述べているが、輸血に結びつけうるようなことは、何一つ言及していない。輸血拒否が命をかけても守らねばならない永遠の律法であるなら、どこかに触れられてもよさそうなものである。
協会の出版物は、「血」という言葉が聖書に出てくる回数に、異常なこだわりを見せている。例えば、『ものみの塔』誌1968年4月1日号(204頁)は、次のように述べている。
「神は血について多くのことを言われました。文字になった神の言葉六十六巻すなわち創世記から黙示録までの千百八十九章に血のことは四百四十七回出ています。」
しかも、わざわざ次のような注まで付けている。
「最古のギリシャ語写本は使徒行伝十七章二十六節に『血』という言葉を欠いており、したがってたいていの現代訳において、その数は四百四十六回になります。」
『エホバの証人と血の問題』(5頁)も、「聖書の巻頭の書から巻末の書に至るまでに、「血」に関して述べる箇所が400以上あります」と述べている。このように、ものみの塔の出版物が、聖書に出てくる「血」の回数にこだわるのはどうしてか。理由は簡単である。聖書全体が輸血禁止を教えているという印象を与えたいのである。1961年8月25日のミルウォーキーの集会において、当時のノア会長は、次のように述べている。
「血を取り入れることに対する禁止は、ノアから使徒ペテロに至るまで、聖書全巻を通じて繰り返されている聖なる原則である。エホバの証人は、幾つかの別々の聖書の本文を取り出し、それに自分勝手な解釈を施して構築したようなものではない。」
ノア会長の言葉は真実ではない。実は、ものみの塔が輸血禁止を教えるために用いることができる聖句は、基本的に、三つしかない。しかも、その三つを、順番を狂わせないで並べ、ある理屈をつけて説明していかない限り、輸血禁止の教えは出てこない。むろん、一つの聖句でも、輸血禁止を明確に教えていれば、「血」という言葉が出てくる回数など、問題にする必要はない。しかし、事実は、協会が用いる三つの聖句でさえ、輸血にあてはめるのは無理がある。そこで、「血」という言葉がに400回以上出てくることを強調し、輸血のに用いる聖句が少ないことをカモフラージュしているのである。
ノア会長が否定したこと、つまり「エホバの証人は、幾つかの別々の聖書の本文を取り出し、それに自分勝手な解釈を施して構築したようなものではない」ということこそ、協会の出版物が、「血」という言葉の頻度数にこだわる理由である。「血」という言葉が数多く出ているから、聖書は輸血禁止について多くの箇所で教えている、と言いたいわけである。
ここに議論のごまかしがある。「血」という言葉が出てくることと、「血を取り入れる」ということとは全く違う。確かに、聖書は、「血」について 400回以上言及している。しかし、そのほとんどは、協会が「輸血」に適用する「血を食べる」という意味ではない。そのような意味で使われているのは、新約聖書では、使徒15章20節、29節、21章25節の三箇所だけである。他は、「殺人」(マタイ23:30)、「処刑」(マタイ27:24)、「キリストの契約」(マルコ14:24)、「苦悩の表現」(ルカ22:44)、「新しい契約のしるし」(ヨハネ6:53)、「固有名詞」(使徒1:19)、「裁き」(使徒18:6)、「贖罪」(ローマ5:9)、「肉体」(Tコリント15:44)、「いけにえの血」(ヘブル9:12)、「死」(ヘブル12:4)、「キリストの血」(Tヨハネ1:7)、「キリストの受肉」(Tヨハネ5:6)、「生物が住めない場所」(黙示録8:8)、「裁きの結末」(黙示録16:4)などの意味で「血」を用いている。それらのどれ一つを取っても、輸血に結びつけることはできない。
旧約聖書においても、同様である。「血」という言葉が312節で出てくるが、そのうち84節は、「流血」あるいは「血を流す」という言葉で、「殺人」あるいは「死」を意味する。協会が輸血に関係づけようとしている「血を食べる」という用例は、モーセ律法の中で、数カ所出てくるにすぎない(レビ記3:17、7:26、19:26、申命12:16、23、24、25、15:23)。中には、イスラエルの民が神の助けによって敵を完全に征服することを「血を飲む」と表現している箇所(民数記23:24)さえある。
結局、「血」という言葉が多く出てくるので、「聖書は血の神聖さを重要視している」とか、「血」という言葉は、「血を取り入れる」という意味で、輸血に関係があるので、輸血禁止は聖書全体から構築されている教理である、という協会の主張は、偽りである。
輸血禁止の協会の論理
エホバの証人たちと、聖書に基づいて、あるテーマをディスカッションすると、彼らは、いろいろな聖句に飛んでいく。つまり、一つの聖句で協会の主張が弁護できないと、他の聖句に移って、説明しようとする。それもうまくいかないと、また別の聖句を持ち出す。ところが、輸血の問題を話し合うと、話はまったく別である。同じ聖句を、同じ順序で、同じ説明の言葉で繰り返す。ただ、それだけである。
その聖句とは、既に述べた、創世記9章3-4節、レビ記17章11-17節、使徒15章20-29節である。この三つによって、証人たちが生命を失うかもしれない輸血禁止の教理が出来上がっているのである。しかも、この三つの聖句の組み合せ方は、常に一貫している、(例えば、『ものみの塔』誌1967年11月15日号702頁、1985年4月15日号12頁、1991年6月15日9頁および14頁、『血はあなたの命をどのように救うことができますか』3-5頁など)。別の言葉で言えば、この三つの聖句を、一定の順番で、一定の説明方法で説かない限り、輸血禁止という教えは成り立たないのである。
では、協会は、この三つの聖句を、どのように並べ、どのような理屈をつけて、輸血禁止の教理を導き出しているのか。
@まず、創世記9章4-5節である。
神は、ノアに、動物を食物として与えた。その際、神は、「動物の血を食べてはいけない」と命じた。神は洪水によって、ノアとその家族以外のすべての人を滅ぼしてしまったので、ノアとその家族は、洪水後に生きている唯一の人々である。従って、ノアは、その後に起こってくる全人類を代表している。従って、神がノアに与えた命令は、全人類に対するものである。神が血を食べることを禁じたのは、血は命であるからである。
A次は、レビ記17章11-12節である。
神は、神の民イスラエルに、モーセを通して律法を与えた。その律法の中に、食物に関する規定があった。そこには、動物の肉を食べる際、血と共に食べてはいけない、という命令が含まれていた。この戒めは、神がノアに与えた人類に対する普遍的命令に基づいている。
B最後は、使徒15章20-29節である。
エルサレムで行われた会議は、「偶像に犠牲としてささげられた物」、「血」、「絞め殺されたもの」、「淫行」の4つを避けるよう決議した。協会は、「偶像に犠牲としてささげられた物」を「偶像礼拝」と考える。そして、「淫行」とともに、人間が守るべき永遠の倫理的な規程だと主張する。そして、この二つが永遠の倫理規定であるなら、「血」もまた永遠の倫理規定である。「血を避ける」とは、血を伴った動物 の肉を食べてはいけないということである。動物の血を食べていけないのであれば、まして、人間の血を食べてはいけない。食べるとは、体の中に入れることである。輸血も、体の中に入れるという点で、食べることと同じである。従って、人間の血を体の中に入れる、つまり輸血はいけない。このエルサレム会議の決定は、一世紀の統治体の決定であり、すべてのクリスチャンに拘束力をもっている。
『ものみの塔』誌72年1月15日号(頁)の記事は、以上の協会の論理をよく説明している。つまり、レビ記3章17節は、「あなた方は脂肪も血もいっさい食べてはならない」とあり、「血」だけではなく、「脂肪」を食べてはいけないはずである。ところで、「血を食べてはいけない」という戒めは、ノアに対して与えられた、全人類に対する命令に含まれていた。しかし、「脂肪」はそうではない。また、使徒15章19-29節のエルサレム会議も、「血」について言及したが、「脂肪」については何も言わなかった。従って、「血」の問題は、現代のクリスチャンに対して拘束力をもつが、「脂肪」の部分はそうではない。
多くの聖句が、「血」と「脂肪」を同列に置いている(出エジプト記23:18、レビ記3:17、7:23-25、17:6、イザヤ書1:11、34:6、34:7、エゼキエル39:19、44:7、44:15)。しかし、協会は以上の論理で脂肪の部分を切り捨ててしまう。聖書は、血だけを特別視しているわけではないのに、協会は「血」だけを問題とするのである。
では、協会は、いつでもこの論理を適用するのか。そうではない。例えば、使徒15章に出てくる「血」以外の禁止命令、「偶像にささげられた肉」、「淫行」、「絞め殺されたもの」は、ノアに対する命令には出てこない。それでも、人類に対する永遠の倫理規定とする。どのようにしてか。まず、「偶像にささげられた肉」を「偶像礼拝」と読み変える。そして、「偶像礼拝」と「姦淫」は、いつの時代に生きる人間にも必要な倫理規定である、という常識に訴えるのである。すると、「絞め殺されたもの」が残ってしまう。しかし、これで4つのうち3つを「人間が守るべき永遠の倫理規定」と位置づけることができた。4つめは、頬かむりすることにしよう、協会はそう決め込んだのである。すると、証人たちの思考回路が勝手に働くようになる。「絞め殺されたもの」は「血」の中に含まれるのだ。エルサレム会議が禁止したのは、4つのように見えるけれど、実は3っつだったのだ、と思い込むようになる。
以上が、協会が主張する論理である。そこで、これらの三つの聖句の本来の意味がどのようなものだったのかを明らかする。そして、それらの聖句を組み合せてつくられた輸血の教理が、ほんとうに聖書の教えなのかどうか、検証しよう。
協会は、輸血禁止の教えがノアに与えた命令に由来することを、繰り返し強調している。従って、ノアに対する命令を正確に理解することが、輸血問題を考える出発点である。
ノアに対する命令とは
協会の年代計算によると、今から年4,366前になる。神は、世界中を見渡し、人々が神に背き、悪を行っているのをご覧になった。そこで、洪水によって全人類を滅ぼそうとされた。神は、ノアに箱船を造るよう命じ、ノアとその家族を救おうとされた。彼らは、箱船を造り、その中に入って、洪水の裁きから免れた。箱船の生活は一年続いた。神の裁きが終わり、彼らは、箱船から出た。ノアとその家族以外のすべての人類は滅ぼされてしまい、新しい時代が到来した。ノアは、祭壇を築き、神を礼拝した。神は、そのようなノアに、すばらしい約束を与えた。その約束の中に、協会が輸血禁止と結びつけている「ノアに対する命令」が含まれている。
では、創世記9章1-7節を開いていただきたい。
「次いで神はノアとその息子たちを祝福してこう言われた。『子を生んで多くなり、地に満ちよ。そして、あなた方に対する恐れ、またあなた方に対するおののきは、地のあらゆる生き物と天のあらゆる飛ぶ生き物、地面を動くあらゆるもの、また海のすべての魚に引き続きとどまるであろう。それから今あなた方の手に与えられる。生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように、わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。ただし、その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。さらにわたしは、あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手から、その兄弟である各人の手から、わたしは人の魂の返済を求める。だれでも人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからである。そしてあなた方は、子を生んで多くなり、地に群がって、そこに多くなれ。』」
協会は、上の記録の「その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」という句から、輸血禁止の教えを導き出している。それが正しいかどうかは、まず、ここに記されている「ノアへの約束」全体をよく理解する必要がある。テキストの内容を、節を追って、簡単に要約しておこう。
神は、人類を祝福し、人類が地に満ちることを望まれた(1節)。動物は、人間を畏れ、人間の手の中に置かれている(2節)。神は、植物同様、動物をも食物として、人間に与えた(3節)。ただし、その動物を命の象徴である血のままで食べてはいけない(4節)。神は、動物であれ、人間であれ、人間を殺すものに復讐する(5節)。殺人者は死の報復を受ける。人間が「神のかたち」に造られたからである(6節)。人類が地に満ちるように(7節)。
最初の部分1-3節は、神が最初の人間アダムとエバを創造されたとき、その人間にお与えになった祝福の言葉ときわめてよく似ている。創世記1章においても、神は人類を祝福し、子孫が増えるよう宣言され、その人類に地球を管理する権威をお与えになった(28節)。そして、植物を食物としてお与えになった(29節)。ところが、ノアに対する祝福の言葉の中に、アダムとエバに対するものとは、異なっているものがあった。ノアに対しては、植物だけではなく、動物をも食料としてお与えになったのである。ただし、この動物の肉を食べる際に、神は一つの条件をつけられた。「その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」という条件である。
協会は、この一つの条件を取り上げる。そして、次のような論理を展開して、輸血禁止の教えを導き出す。
@神は、血を伴う肉を食べてはならない、と言われた。
Aその理由は、血は魂だからである。
Bこの命令は、モーセ時代の律法より前に、ノアに与えられたので、イスラエル民族に留まらず、全人類への命令である。
C「血を食べること」と「輸血をすること」とは、同じである。
D従って、「輸血」は、人類史の初め、ノアの時代から、禁止されていた。
では、この一つ一つの論理を検証していこう。
血を食べてはいけない、という意味は
協会は、創世記9章4節を、「人が動物の肉を食べる際、血を含んだままで食べてはならない」と、解釈する。しかし、神がノアに言われたことは、そのようなことではない。4節のヘブライ語を直訳すると、「体を、生命のまま、血のまま、食べてはならない」となる。新世界訳が「肉」と訳しているヘブライ語「バサール」は、「動物の体」をさす。しかも、その「体」という言葉に、「生命」という修飾の言葉がつけられている。つまり、「動物の体、生命を伴った体」を食べることが禁じられているということである。さらに、その後に「血」という言葉が続く。それは、生命が「血」の中に存在している、との但し書きである。すると、結局、「動物の体を、命があるままで(生きたままで)食べてはいけない、その生命は血の中にあるのだけれど」という意味になる。
以上のような創世記9章4節の厳密な理解は、新世界訳の訳文からも、読み取れないわけではない。新国際標準訳の、「But you must not eat meat that has its lfebood still in it.」(その内に生命の血がある、そのような肉を食べてはいけない)という訳は、原文のニュアンスをよく表している。
神は、人類に動物を食べることを許された。しかし、生きたままで食してはいけない、と言われた。死んだ動物のみ、食べることを許されたのである。実は、古代のある人々は、動物を生きているままで食べたり、生きている動物の血を飲んだりした。動物が生きている間に、食べたり飲んだりするなら、その動物の生命力を自分のものにすることができる、という迷信があったからである。
血は生命であるとは?
創世記9章4節は、「その魂つまりその血」と述べている。協会は、「血が生命である」とい言葉から、血を神聖視する。そして、そこから輸血禁止を教える。従って、「血は生命である」とはどういう意味なのかを、明らかにしなければならない。
聖書が「血は生命である」と述べていることは確かである。「肉の魂は血にある」(レビ記17:11)、「あらゆる肉なるものの魂はその血である」(レビ記17:14)、「血は魂である」(申命記12:23)などと述べた聖句がいくつかある。問題は、「血は生命である」とはどういう意味か、そのことは血を神聖視することを求めているのか、ということである。
エレミヤ2章34節は「生命の血」と述べている。「一つのものがあるものであり、かつそのあるものの中にある」という論理は成り立たない。従って、生命が血であり、かつ、生命は血の中にある、と言うことはできない。「生命は血である」とは、生命と血とはまったく同じである、という意味ではない。むしろ、生命は血の中にある、という意味である。なぜなら、血液こそ、生命に必要な栄養素や酸素を体中の細胞に送り込むからである。
どんな動物であれ、一定以上の血液が体から流出するなら、生命を維持できなくなる。その意味で、血がなくなる、とは、生命がなくなることである。従って、旧約聖書においては、「血を流す」とは「死」と同義語であり、「血の責任」とは、殺人に対する責任を意味した。ユダヤ人たちは、食用の動物を殺すのに、血を抜くという方法を用いた。
むろん、反対は真実ではない。血があるからと言って、生命があるとは言えない。動物の体には、死んだ後もしばらくの間、血液がその体内に存在している。だから、血と生命を全く同一視するわけにはいかない。このことは、協会も、認めている。『洞察』(第二巻、179頁)は、次のように述べ、血はあくまでも「生命」に対する象徴的な表現としている。
「真の大祭司であられるイエス・キリストは、地面に注ぎ出されたご自分の血ではなく(ヨハネ19:34)、血によって表されていた、ご自分の完全な人間としての命の価値を携えて、天そのものに入られました。」
協会は、血そのものが命であると、教えているわけではない。『ものみの塔』誌1984年9月1日号(12頁)は、「魂は血である」ということを、「『命の霊』(生命力)が心臓の動きを誘発し、その結果として心臓は脳を含め人体のあらゆる器官に血液を送り出す。その結果、脳の思考能力が刺激を受け、思いが機能するようになる。従って血自体を神聖視するのはおかしいのである。」とかなり科学的な説明をしている。決して、血イコール生命、とは見なしていない。
生命の尊重が中心的テーマ
協会は、創世記9章1-7節の中心的なメッセージが、輸血禁止にあるかのような読み方をしている。しかし、ほんとうに神がここで言いたいことは、「生命の尊重」ということである。
創世記9章3-4節は、それに続く9章5-6節との関係で理解すべきである。この9章5-6節の中心テーマは、人を殺してはならない、人を殺すなら、神はその責任を求める、ということである。
神は、ノアに、殺すなら動物を食べてもよい、とされた。しかし、人間の場合は、殺すことを許さなかった。ということは、むろん、人間を食してはいけないということである。そして、人間を殺してはいけない理由を、神は明らかにされた。それは、人間が「神の像」に造られたからである。もし、創世記9章5節の「人間を殺すこと」を、文字どおりの意味に解釈するのであれば、その前の節の「動物の体を生命のまま食べること」もまた、文字どおりに解釈するのが自然である。
ところで、『ものみの塔』誌1986年9月1日号(18頁)は、この創世記9章3-6節を、十戒の6番目「殺してはならない」と結びつけている。もし、9章3-4節を9章5-6節と結び付けて解釈するのであれば、創世記9章4節は、動物の体を生きたままで食べる、という意味の方が、動物の血と肉とともに食べるというより、はるかに論理的である。結局、神は、人類が増えるよう祝福した。そして、その人類に、地球を管理する責任を委ねた。人間は、動物を食べてもよいが、動物といえども、生命を尊重しなければならない。そこで、その象徴である血を食べないように命じられた。9章3-4節はそういう意味である。
永遠の命令か?
協会は、創世記9章1-7節を、ノア以降の全人類に対する永遠の命令と解釈している。そう解釈する根拠はどこにあるのか。もし、創世記9章1-7節が、それに続く創世記9章8-17節のノアに対する「永遠の契約」(9:12および16)の中に含まれるとすれば、ノアに対する命令は永遠の命令となる。しかし、創世記9章1-7節と9章8-17節とを切り離して理解すべきであるなら、全人類に対して拘束力をもつ命令と主張することは難しい。『ものみの塔』誌1968年4月1日号(205頁)参照。
9章1-7節を、9章8節以降の「永遠の契約」に含めるべきだろう。まず、8節の文章の構造は、1節の文章の構造と並行関係にある。従って、8節以降は、7節までとは違った状況の中で語られた、と考える方がよい。また、神がノアに結ばれた「永遠の契約」は、洪水によって地球を滅ぼすことはしない、という内容が中心である(9:9-11)。その契約には、人類の増加や繁栄、地球の管理権、食物の約束、殺人の禁止といった9章1-7節にある約束は含まれていない、と理解する方が自然であろう。とすれば、9章1-7節は、「永遠の契約」に含めない方がよい。
血を食べることと輸血することとは同じ?
ノアに与えられた命令は、「動物を生きたまま食べてはならない」ということだった。協会は、この命令を、「動物の肉を食べるとき、血を食べてはいけない」と解釈する。では、議論のため、その解釈が正しいとしよう。その場合、一つの重要なことが成り立たなければならない。「血を食べること」と「輸血すること」とが同じである、ということである。このことが言えなければ、ノアへの禁止命令から輸血禁止を主張するわけにはいかない。
「食べること」と「輸血すること」が違うことは、『組織が輸血を禁止している』という冊子の中で、詳しく論じた。従って、ここでは、重要な点だけを述べておきたい。
まず、次の二つの文章を読んでいただきたい。
「聖書は、『食べる』ことを禁じているので、輸血は血を消化器官に入れることではないと論ずる人があるかも知れません。しかし輸血は食物を胃に入れるのと同じ働き−つまり体力をつけ生命を支える−をもっと直接にするというだけのことで、食べることと輸血の間に相違はありません。」(『ものみの塔』誌1963年6月1日号、344頁)。
「クリスチャンは『血を避けているように』、という命令に注意してください。(使徒15:29)血を口に取り入れることと血管内に取り入れることとに区別を許すようなことは何も述べられていません。また、実際のところ、その両者に何か基本的な違いがあるでしょうか。」(『エホバの証人と血の問題』、18頁)
これらの文章は、「血を食べること」と「輸血すること」とを同一視するとき、「輸血禁止」の教えが成り立つことを明らかにしている。では、この両者は、ほんとうに同じなのだろうか。
「血」が、人間の体内に入るという点では、同じである。しかし、それはごく表面的なことである。もし、生物学的、栄養学的に言えば、「動物の血を食べること」と「動物の肉を食べること」とは変わらないのである。「血」の中には、「肉」の中にはない特別な成分があるわけではない。血液の細胞は、体の他の組織細胞と変わらないのである。もし、動物の血を肉とともに食べるなら、肉の部分と同様に血液もまた、消化器系の器官に入り、アミノ酸やビタミン、ミネラル、炭水化物、脂肪、蛋白質などに分解される。そして、その食べた人の体の組織の中に吸収されていく。「血」は、他の食物と何等変わるところはないのである。
「輸血」は、体に必要な血液が不足した場合、その不足分を補うために、血管に血液を注入することを指す。もし、血液の成分のあるものだけを補えばよいのであれば、血液の中のその成分だけを注入する。輸血によって注入される血液は、食物として体内に入った血のように、化学的に変化して、体内に吸収されていくわけではない。むしろ、輸血された人の本来の血液の中に混じり合って、その人の血液の一部となって働く。血が体の中に入るという点だけを取り上げ、「血を食べること」と「輸血すること」とが同じである、というのは、余りに皮相的な議論である。
結 論
本章は、創世記9章3-4節が、輸血禁止を導き出すにふさわしい聖句かどうか調べた。その結果、3-4節は、動物を生きたままで食べてはいけない、という命令であったこと、それは、8節以降の「永遠の契約」には含まれないこと、「血を食べること」と「輸血すること」とは違うことが確認できた。従って、創世記9章3-4節は、輸血に適用することはできない。
創世記1-7節は、神が、洪水の裁きが終わった後の人間に対し、地上に満ちるようになること、地球管理の使命を再確認させること、動物の肉をも食料として与えること、人間の生命の尊厳性などについて約束された記録である。偶像礼拝をしてはならない、姦淫をしてはならない、などという人間が守るべき永遠の倫理規定を示されたわけではない。従って、この箇所を使徒15章と結び付け、いつの時代でも人間が守らなければなならない倫理を教えている、とする協会の解釈は、「聖句が述べる以上のことをそこから読み取ろうとする行為です」ということになる(『ものみの塔』誌1983年7月15日号)。
創世記9章4節は、既に見たように、本来、食物の規定を定めたものではない。動物を食べることを許すが、その動物といえども、生命を尊ばねばならず、生きたままで食べてはいけない、と命じているのである。もし、動物の生命がそのように貴いのであれば、人間の生命の貴さはどれほどであろうか、と神は言っておられるのである。なぜなら、人間は「神の像」に造られ、神ご自身の御姿を繁栄している存在だからである(6節参照)。従って、この箇所の真意は、協会の輸血禁止という教義と真っ向から対立する、と言わねばならない。輸血こそ、創世記9章3-6節の精神に基づいて、医師が医療の分野で努力している一つの営みだからである。
創世記9章4節は、動物の肉を食物とする場合、生きたままの体を食べてはいけない、という命令であったことを確認した。続いて、レビ記17章10-16節を調べることにしよう。
血を食べてはいけない、という律法
神は、昔、モーセを通してイスラエルの民に、さまざまの律法をお与えになった。その中の一つは、動物の血を食べてはいけない、ということであった。その条項は、レビ記に5箇所と申命記に2箇所出てくる。
「これはあなた方の住むすべての所で代々定めのない時に至る法令となる。すなわち、あなた方は脂肪も血もいっさい食べてはならない」。(レビ記3:17)
「またあなた方は、自分の住むいずれの場所においても、鳥のものであれ獣のものであれいっさい血を食べてはならない。どんな[血]にせよ血を食べる魂すべて、その魂は民の中から断たれねばならない」。(レビ記7:26-27)
「あなた方はどんな物も血と共に食べてはならない。あなた方は[吉凶の] 兆しを求めてはならない。また魔術を行なってはならない。」(レビ記19:26)
「ただし、血を食べてはならない。地の上に、それを水のように注ぎ出すべきである。」(申命記12:16)
「ただ、血を食べることはしないように堅く思い定めていなさい。血は魂であり、魂を肉と共に食べてはならないからである。それを食べてはならない。そえを水のように地面に注ぎ出すべきである。それを食べてはならない。こうしてエホバの目に正しいことを行なうことによって、あなたにとってもあなたの後の子らにとっても物事が良く運ぶためである。」(申命記12:23-25)
「ただしその血を食べてはならない。地の上に、それを水のように注ぎ出すべきである。」(申命記15:23)
以上の6箇所に加え、協会が、通常輸血禁止を導き出すために用いるのが、レビ記17:10-16である。
「それゆえにわたしはイスラエルの子らにこう言った。『あなた方のうちのいずれの魂も血を食べてはならない。あなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者も血を食べてはいけな い。だれでもイスラエルの子らに属する者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で、食べてよい野獣または鳥を狩猟で捕らえた者がいれば、その者はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。あらゆる肉なるものの魂はその血であり、魂がその内にあるからである。』そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。『あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる。』」
ユダヤ人は、律法を遵守した。彼らは、肉を食べるに際し、このモーセ律法に従い、細心の注意を払って、食用の肉から血を取り除いた。生来のユダヤ人であれ、イスラエルに住む外人居留者であれ、この律法を厳格に守った。この規定から外れないように動物の肉を正式に調理する人々さえ現われた。その人々によって律法が破られないようにしたのである。
ユダヤ人の調理家たちは、食用の肉とすするため、咽の両側、胸部の二つの主な動脈と、10番目、11番目、12番目のあばら骨の動脈、腰の動脈などすべての動脈をはじめ、すべての静脈を除去した。そのようにしてから、その肉を水に浸した。さらに、残っている血を抜くために塩を振りかけた。こうして、肉のすべての部分から血を抜き去り、料理用に適した肉とした。ユダヤ人は、以上のような方法で正式に血を処理していない肉を食べることは、許されていなかった。
ユダヤ人は、この規定をモーセ以来守り続けてきた。現在でも、このような慣習を守り続けている。もし、ユダヤ人のレストランに入るなら、血を完全に抜いたパサパサした肉を食べさせられるであろう。思ったより美味しいことに驚くかもしれない。長い伝統の中で、ユダヤ人たちは独特の料理法を身につけてきたからである。
血を食べない理由
では、神は、なぜ、イスラエルの民に、血を食べることを禁じたのか。その理由としていくつかの理由が考えられる。
まず、衛生的理由である。多くの人は、血を見ると、汚く思ったり、非衛生的だと感じる。しかし、血液そのものが、非衛生的である、とは言えない。血液の中に細菌があり、食物としてふさわしくない、ということではない。
動物の血液に、食物としてふさわしくないものが含まれている、というわけではない。血液の細胞は、体の他の組織細胞と変わらず、もし口の中に入るなら、他の部分とともに、消化器系に入り、アミノ酸やビタミン、ミネラル、炭水化物、脂肪、蛋白質などに分解される。そして、それらのあるものは、体の組織の中に吸収されていく。それは、他の食物となんら変わらない。従って、食品として、血が不適格だ、と言えない。
第2の可能性は、昔の人々の迷信的信仰と関係があるのではないか、ということである。昔、ある人々は、動物の本性や行動はその動物の血の中にある、と考えた。そして、もしある動物の血を飲むなら、その動物の本性が飲んだ人の中に移される、と信じた。このような考えが、古代教会史においてどれぐらい普遍的に広がっていたか、今では明らかではない。興味深いことに、協会の文献の中にも、同じような考えが出てくる。例えば、『目ざめよ!』1974年9月8日号(18頁)は、シャドマン博士のこんな言葉を紹介している。
「血液には、その人が世に出て以来のすべての個人的特質が秘められている。その中には、遺伝的傷害、病気に対する??患性、個人の生活および飲食の習慣に起因する毒素などが含まれている。」
第3の可能性は、動物の血が異教の神々の礼拝やまじないと関わりがあった、ということである(レビ記19:26参照)。イスラエルにおいても、血は神殿における贖いのため重要な役目を果たしていた。異教の神殿でも血が用いられていた。神はそのような偶像との関係を断つため、血の規定を定められたのかも知れない。
最後に、ユダヤ人は、長い間遊牧民だったので、動物の血を用いて他の部族と同盟を結んだことに関係があるのかもしれない。そのようなことから、血を特別視する風習が生じた可能性はある。しかし、それは、可能性であって、歴史的に確証できるほどの確かな資料はない。
今日、私たちが手にし得る資料からは、神が、動物の肉を食べる際、血を食べてはならないと言われた理由は、定かではない。しかし、聖書全体から、次のように推測できる。神はすべての生物を創造された。その生命は神が創造されたもので、尊重されなければならない。その生命を象徴するものは、血である(レビ記17:14)。ところで神は、人間の罪を赦すために、動物の血を用いられた(レビ記17:11)。動物の血は、人間の生命さえ象徴する。人はそのような血を尊重しなければならない。
このような見方は協会と同じである、と言うかも知れない。しかし、協会の見解は、微妙に違う。例えば、『ものみの塔』誌1991年6月15日号(9頁)は次のように述べている。
「彼らが血を取り入れるのを避けるべきおもな理由は、血が健康に有害な場合があったからではなく、血が神にとって特別な意味を持つものだったからです。」
協会が、「血が神にとって特別な意味を持つ」と言うとき、「血は生命を象徴している」、という意味ではない。むしろ、「それぞれの生命の血は、その動物に固有のものであり、その血そのものが、神にとって、他の一切のものとは違う特別な存在である」ということである。そのような血に対する特殊な見方に、輸血禁止という教義の根がある。
レビ記17章10-16節で、「血を食べてはいけない」と言われているのは、神にいけにえとしてささげられた動物の血に関してである、と解釈する人が多い。確かに、その前の1-9節では、いけにえのことが言われており、また、11節もこの解釈を支持する。
もし、そのように解釈するなら、17章14-15節は、いけにえではなく、その他の動物も含めた一般的な動物になる。そう解釈すると、15-16節で、その戒めを破った人への罰則が軽いのも理解できる。
禁止命令を破った場合
動物の血を食べてはならない、というモーセ律法を破るなら、神は、「その者を民の中から断つ」(レビ記17:10、14節も参照)。この「断つ」という言葉はどのような意味か。
「断つ」と訳されたヘブライ語は、「カラト」(原義は「切る」)である。この言葉は、大変広い意味で、文脈によって、訳語を決定しなければならない。例えば、木やはっぱを「切り取る」(イザヤ9:14)、神の恵みを「断つ」(Tサムエル20:15)、かえるが「消えていく」(出エジプト8:9)、台を「切り倒す」(レビ記26:30)、人を「殺す」(オバデヤ14、ナホム3:15)、部族を「絶やす」(民数記4:18)、国を「滅ぼす」(イザヤ10:7)、子孫が「断ち切られる」(詩篇109:13)、民の間から「断つ」(レビ記20:3、5、6)、敵の国々を「征服する」(申命記19:1、ヨシュア23:4、士師4:24、Uサムエル7:9)、イスラエルの名前を地から「消し去る」(ヨシュア7:9)、イスラエルとの関係を「切る」(T列王記9:7)、などなどである。
このレビ記17章10節および14節の「断つ」は、「死刑に処せられる」という解釈と、「ユダヤ人社会から追放される」という解釈に分かれる。10節の「断つ」という言葉には、「民の中から」という語句が加えられているので、「ユダヤ社会から追放される」という解釈の方がよいであろう。もし、そう理解するなら、レビ記17章15-16節の罰則規定が軽いことに符合する(このことは後ほど扱う)。もし、「死刑」と解するなら、17章10-14節の罰則と、17章15-16節の罰則の開きは大きすぎる。しかし、それは人間的判断である。決定的なことは言えない。
レビ記17章10-14節の部分は、祭司にのみ適用される、と考える人がいる。しかし、このレビ記17章1節、10節は、全イスラエルに語りかけている。従って、祭司に限定しない方がよい。また、レビ記17章10-14節は、すべての動物ではなく、犠牲の動物に関する規定だ、と推測する人もいる。確かに、レビ記19章26節、申命記12章15-16節、20-25、15章23節などは、犠牲の動物に関する規定である。しかし、このレビ記17章13-14節は、「狩猟で捕らえた肉」について言及している。イスラエルでは、狩猟による獲物を犠牲にささげることは許されていなかった。それゆえ、レビ記17章10-14節の「血」は、「いけにえにささげられた動物の血」に限定しない方がよい。
レビ記17章10-14節の罰則は、ユダヤ社会からの追放であったとしても(死刑であればなおさらのことであるが)かなり厳しいものである。それは、神が、日常生活において、神の律法を厳格に守るよう強く求められたことを示す。律法を守り得る状況の中で、律法を守らないなら、神は、厳しい責任をその人に問われる。
レビ記17章15-16節の協会の解釈
レビ記17章15-16節は、その前の10-14節の罰則規定に比べると驚くほど軽い。このことは、輸血禁止を主張する協会に対し、難しい問題を投げかける。まず、聖書を開いてみよう。
「[すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば、その地で生まれた者であれ外人居留者であれ、その者は自分の衣を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる。そののち清くなるのである。しかし、それを洗わず、その身に水を浴びないのであれば、その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない』」。
この聖句は、野獣に殺されたものを食べるなら、「衣を洗い水を浴びて」清められなければならない、と教える。この罰則は、女のものがあったときより軽い(レビ記15:19-30)。ここに出てくる「野獣に殺された肉」には、その動物の血が含まれていたはずである。とすれば、「血を食べること」と「輸血すること」を同一視し、輸血をするなら、排斥処分にさえしかねない協会にとっては、レビ記17章15-16節の罰則はあまりに軽すぎる。レビ記17章を輸血と結びつける協会は、何らかの説明をしなければならない。
協会は、この問題に気づいている。従って、『ものみの塔』誌1983年7月15日号(31頁)は、レビ記5章2節を引き合いに出し、次のように解説している。
「神はイスラエル人が不注意から過ちを犯すことがあることを認めておられました。ですから、レビ記17章15節はそのような過ちのための規定として理解することができます。例えば、あるイスラエル人が自分に出された肉を食べ、食べた後でそれが血の抜かれていないものであることを知る場合、その人は罪のあるものとされます。しかし、それが不注意から起きたものであるゆえに、その人は清くなるための処置を講じることができました。」
協会は、レビ記17章15-16節を、死んだ動物の肉を知らずして食べた人のケース、と説明する。しかし、そのような説明は説得力がない。「すでに死体となっていたもの」あるいは「野獣に引き裂かれたものを食べる者」という表現は、知らないで食べ、後で知らされた人のことではない。この表現は、死体となっていた動物を発見した人が、その肉を食べたケースのことである。血抜きの肉を食べ続けているユダヤ人が、血抜きをしてあるかどうか分からないで食べる、などということは実際問題としてあり得ない。
しかも、モーセ律法は、あやまって罪を犯した場合も、詳しい罰則規定を設けている。祭司の場合(レビ記4:2)、イスラエルの全会衆の場合(レビ記4:13)、上に立つ者の場合(レビ記4:22)、一般の人々の場合(レビ記4:27)など、それぞれの人に対して、細かく規定している。モーセ律法において、気づかなかった、ということは言い訳けにはならない(レビ記5:2-4)。レビ記5章17-18節は、次のように述べている。
「また、ある魂が、してはならないとエホバの命じるすべての事柄のうちの一つを行なって罪をおかしたなら、そのことを知らなかったとしても、その者は罪科のある者となっており、自分のとがに対する責めを負わねばならない。それで彼は、値積もりされるところにしたがって、群れの中からきずのない雄羊を罪科の捧げ物として祭司のところに携えて来なければならない。祭司は彼のため、彼が意図もせずに犯した間違い、たとえ当人が知らなかったものであるとしても[その間違い]のために贖罪を行なわねばならない。こうして彼はそれを許されることになる。」
先の『ものみの塔』誌が触れているレビ記5章2節は、汚れたものの死体に触れる罪について述べている。ユダヤ人は、例え、知らないでしたことだとしても、その罪を告白し(レビ記5:5)、羊、やぎ、山鳩、家鳩などのいけにえをささげなければならない(レビ記5:6-7)。もし、それができないときは、小麦粉のささげものでもよかった(レビ記5:11-13)。いずれにしても、知らなかったということで罪が軽くなったわけではない。つまり、レビ記17章15-16節の罰則規定の軽さは、協会が言うように、「知らなかった」ということでは説明できないのである。
レビ記11章39-40節は、食用の獣に触れたり、食べたりした場合の罰則が記述されている。
「さて、あなた方の、食用の獣のいずれかが死んだ場合、その死体に触れる者は夕方まで汚れることになる。また、その死体の何かを食べた者は自分の衣を洗う。その者は夕方まで汚れた者とされなければならない。その死体を運び去った者は自分の衣を洗う。その者は夕方まで汚れた者とされなければならない。」
この罰則規定は、レビ記17章15-16節の「その者は自分の衣を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる」という罰則規定に類似している。従って、レビ記17章15-16節は、レビ記11章39-40節の特殊なケースと見るのがよい。
しかし、「死体となった動物の肉」を食べた場合、軽い罪で済んだ。なぜか。「死体となった動物の肉」を食べるというのは、ユダヤ人にとっては、緊急事態に置かれた場合だからである。普通の状況であれば、そのような肉を食べることは決してしなかった。しかし、緊急事態はいつ起こらないとも限らない。神は、そのような場合、「死体となった動物の肉」を食べるのを許された。ただし、そのような場合であっても、清めを必要とした。結局、レビ記17章15-16節は、食物のない緊急事態の中においてでさえ、死んだ動物の肉を食べることには罰が伴い、清めの儀式を受けなければならない、と教えているのである。
ということは、食用の肉の血を食べること自体は、大きな罪とは見なされていなかった、ということになる。すると、レビ記17章10-14節における罰則規定の厳しさは(それがユダヤ社会からの追放であろうと、死刑に処せられることであろうと)、神の律法を知りながら、それを意図的に破ってしまうことにあった。モーセ律法によれば、故意に罪を犯す場合は、死罪である(民15:30-31)。血を食べる行為自体にあったのではない、ということである。
しかし、百歩譲って、ものみの塔の説明を正しいとして、議論を進めてみよう。もし、知らないで血を食べた場合に、レビ記17章15-16節にあるような軽い罪で済むのであれば、協会が証人たちに課す責任は、明らかに聖書が教えていることではない。例えば、エホバの証人の母親が、生まれてきた子どもに輸血をした場合、ものみの塔は、その子どもは永遠の生命を受ける見込みが断たれてしまう、と教える(『目ざめよ!』51年5月22日号)。これほどの重い罰則はレビ記17章15-16節の教えと一致しない。
地に注ぐとは神に返すこと?
輸血禁止は、血が神聖なものであるという教えを前提としている。ところが、血の神聖さを教えている聖句はない。そこで、協会は、血は地面に注ぎ出されなければならないという言葉に注目する。そして、地面に注ぎ出されるとは、神に返されることである、という詭弁を使い、聖書は血を神聖視していると教える。
この記事は、保存してある血液を輸血してはいけない根拠として、申命記12章24節の聖句をあげている。「血は食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない」という言葉である。それは、肉を食べることはよいが(申命記12:20)、その時は、「血を水のように注ぎだし、それから食べるように」と述べている箇所である。この聖句から、輸血の際の保存血液の禁止を導き出すことは、常人にはできない。あまりに文脈からかけ離れた解釈である。このような聖書の解釈を認めるなら、聖書を使って、言いたいことはどんなことでも言えるだろう。
例えば、1964年8月1日号の『ものみの塔』誌(459頁)は、次のように述べている。
「動物を殺したとき、血を注ぎ出して『母』なる大地にそそぐことが要求されていました。(レビ17:13、申命記12:16、15:23、使行15:20)それは神から与えられた恵みとして肉を得ても、生命を神に返すことでした。」
ここで、紹介されている参照聖句の前三つは、確かに「血を地に注ぎ出す」ことにふれている。「その血を注ぎ出して塵で覆わねばならない」(レビ記17:13)、「地の上に、それを水のように注ぎ出すべきである」(申命記12:16、15:23)。(使徒15:20は、血という言葉は出てくるが、その血について何の説明もない)。ところが、「血を地に注ぎ出すことが「生命を神に返すことである」という肝心の文章に対しては一つの聖句も紹介していない。協会の出版物は、たくさんの参照聖句をあげるが、それが聖書の教えであることを証明してほしい文章に対しては、聖句をあげない。これは、協会のどの書物にも共通している。
むしろ、エゼキエル39章17-19節を読んでいただきたい。そこでは、神の裁きの結果、地に流された血が、鳥や獣になめつくされる、と言われている。「地に流された血は神に返された」とすれば、そのようなことが起こるのは、おかしいと言わねばならない。
1968年4月1日号の『ものみの塔』誌(204頁)は、保存血液を輸血することに反対して、創世記4章10-11節のアベルの血に言及している。「アベルの血が叫んでいる」とは、殺されたものが復讐の叫びをあげている、という象徴的な表現である。『ものみの塔』誌が、保存血液を禁止する根拠に、なぜ、この聖書箇所に言及しているのかは、今一つはっきりしない。
『ものみの塔』誌1978年9月15日号(30頁)も、「血を注ぐ」ことの重要性を申命記12:24から強調し、保存血液の輸血利用を否定している。しかし、それが、神に命を返す、という意味があることは説明されていない。
「古代イスラエル人が、対外に出された血は神のものであり、地上の生物の命を支えるためのものではないことを示すため、『水のように地に注ぐ』べきであると告げられていた点を指摘できるでしょう。(申命記12:24、口)・・・この点から考えるなら、クリスチャンは後日自分または他の人に輸血する目的で自分の血が血液銀行に入れられるのをどうして許すことができるでしょうか。」
『エホバの証人と血の問題』(6頁)の次の発言もまた、同じである。
「普通に流れ出る血はすべて注ぎ出すことによって、ノアとその子孫は、生命が創造者からのものでありまた創造者に依存するものであるという認識を表明することになりました」
この文章についても、聖書の該当箇所をよく調べていただきたい。聖書のどこにも、ノアが「普通に流れ出す血はすべて注ぎ出」した、などと記されていない。協会の出版物は、聖書の記録に勝手な言葉を付け加えて説明する。自分たちが主張したいことを、聖書が教えているかのような印象を与えるためである。
次の頁にも、同じことが繰り返されている。
「動物を殺す場合、人はその生命が神からのものであり、また神に属するものであることを認めるべきなのです。血を食べず、それを祭壇もしくは地面に『注ぎ出す』ことによって、イスラエル人は、事実上その生き物の生命を神に返していました。」
ここも同じである。「『注ぎ出す』ことによって、イスラエル人は、事実上その生き物の生命を神に返していました」と協会が主張したいのはよく分かる。輸血禁止の教えが、そのように血の神聖さを主張することによって成り立っているからである。問題は、そのような主張をしたければ、そのことを指示する聖句をあげる責任がある、ということである。ところが、ここにおいても、そのような聖句は、一つとしてあげられていない。
『洞察』第二巻(178頁)も同じである。
「人は食物にするために殺すどんな動物の命も神のものであることを認めなければならず、そのことを認めているしるしとして、その血を地面に水のように注ぎ出すことが必要でした。これは、命を自分勝手な目的で用いずに、神に返すことに似ていました。−申12:15、16」
ここでは、申命記12章15-16節を参照聖句としてあげている。その聖句は、確かに、「血を地面に注ぎ出す」ことを述べている。しかし、動物の命が神のものであると「認めているしるしとしてその血を地面に注ぎ出す」と述べているわけではない。
唯一の例外がある。『ものみの塔』誌1982年1月15日号(30頁)は、「こうしてある意味で、血は神に返されました。地は、神の足台だからです」と述べ、レビ記17章13-14節とイザヤ66章1節を引用している。レビ記17章13-14節は「塵で覆われる」ということを述べていても、「神に返す」ということを述べてはいない。問題は、イザヤ66章1節である。
「天はわたしの王座、地はわたしの足台である。では、あなた方がわたしのために建てることのできる家はどこにあるのか。では、わたしのための休み場としての場所はどこにあるのか。」(イザヤ66:1)
ここで、神は、地を「わたしの足台」と呼んでいる。古代において、戦いに勝った人は、敵の武将を自分の足の下に踏みつけ、勝利を宣言した。それと同じように、ここで、神は、地をご自身の支配下に置いた、と宣言している。この勝利の宣言は、前の65章17節の「新しい天と新しい地」と関係している。つまり、神が勝利を宣言した「地」とは、「新しい地」のことである。一方、「血を地に注ぎ出す」場合の「地」は、現在の地、である。従って、イザヤ66章1節の「地」を「血を注ぎ出す地」と結びつけるのは、正しくない。
もし、イザヤ66章1節の「地」が、現在の地球の地であったとしても、それは、死んだ動物の血が神の支配下に置かれた、というだけのことである。地が神の足台だから、地に流された血は神に返された、ということであれば、降った雨も神に返されたことになり、埋めたゴミも神に返されたことになってしまう。死体を地に埋めたことを、死体を神に返した、などとは言わないだろう。
協会は、人であれ、動物であれ、死んだらすべてが終わりである、と教えている。従って、死んだ人であれ、動物であれ、それらの血は生命ではなく、単なる物質と考えねばならない。血は体内にあるときは、生命を維持するために働いている。しかし、その動物が死んでしまえば、その血は何等特別なものではない。人は塵で造られたので、塵に返るのだから(創世記3:19、ヨブ記10:9、34:15、詩篇90:3、104:29、伝道者3:20)。従って、血が地に注がれることは、生命が神に返されることではない。地に流された血は、すでに生命のない物質である。生命のない物質である血が神に返される必要はない。神はこれまで死んだ人間や動物の血を受けとったり、喜んだりしてはいない。まさか、神の御座の前は血の海ではあるまい。
協会の教えを「結婚を象徴する結婚指輪」に例えてみよう。結婚をした二人が、結婚指輪を交換し合った。ところが、何等かの理由で、その二人の結婚はうまくいかなくなり、離婚してしまった。彼らは、その結婚指輪は不要になったので、庭に捨ててしまった。しかし、庭は神の大地である。従って、その指輪は神の元に返されたことになる。そうすることによって、二人は、結婚を神聖なものと見なしたことになる。指輪は結婚を表すので、庭に捨てる以外、他の用途に使ってはならない。
協会が「血」を生命から切り離し、特別扱いしているということは、そういうことである。
聖書からの検証
「血が地に注がれるとは、神に命を返す」という教えは、輸血禁止を教える協会にとって、欠かすことができない。しかし、そのようなことを教えている聖句は一つもない。むしろ、そのような考えを否定する記録が、聖書にはたくさんある。以下、そのいくつかの例を紹介してみよう。
創世記4章10-11節に、アベルの血が地面から叫んでいる、と記されている。その結果、カインは地面からのろわれ、その地から追放された。すると、協会の考えに基づけば、アベルの血は神に返され、その「血」がカインに対する復讐を叫んだことになる。証人たちはそのようなことを信じているのだろうか。
神は、モーセに、ナイル川の水を取り、乾いた陸地に注ぐよう命じた。それは、「あなたがナイル川から取ったその水は必ず、乾いた陸地の上にあってまさに血となる」(出エジプト4:9)ためであった。もし、協会の「血」の理解に立てば、この水からできあがり、陸地に満ちた血は、誰の生命を象徴し、誰の生命が神に返されたもの、と考えたらよいのか。エジプトの国民全部とでも言うのだろうか。
次に、出エジプト7章17-21節を引用する。ここには、血が「命と反対の死の象徴」として出てくる。エジプト全土に満ちた血を見て、「血を地に注ぎ出すことは、命を神に返すことである」、あるいは、「血は神にとって神聖なものである」という協会の教えに一致するかどうか、考えていただきたい。
「エホバはこのように言われました。『これによってあなたは、わたしがエホバであることを知るであろう。今わたしは、わたしの手にあるこの杖でナイル川の水の上を打つ。それは必ず血に変わるであろう。そして、ナイル川にいる魚は死に、ナイル川はまさに悪臭を放ち、エジプト人はナイル川からの水を飲む気を全く起こさなくなるであろう』。エホバはモーセに言われた、「アロンにこう言いなさい。『あなたの杖を取り、エジプトの水の上、その河川の上、ナイルの運河の上、すべての溜り水の上に手を伸べて、それらを血にならせなさい』。そうすれば、エジプトの全土に、また木の器の中にも石の器の中にも必ず血が生じるであろう」。直ちにモーセとアロンはそのとおり、エホバの命じたとおりに行なった。かれらがファラオとその僕たちの目の前で杖を振り上げてナイル川の水を打つと、ナイル川の水はすべて血に変わった。そして、ナイル川にいた魚は死に、ナイル川は悪臭を放つようになった。それでエジプト人はナイル川からの水を飲むことできなくなった。血はエジプトの全土に生じた。」
予言者エリヤは、イスラエルの王アハブに次のような神の言葉を告げた。「犬がナボテの血をなめ尽くしたその場所で、犬があなたの血を、あなたの[血]をもなめ尽くすであろう」(列王記2119)。ナボテという人は、罪のない人だったにもかかわらず、彼の血が地面に流されたとき、その血を犬がなめ尽くした、と記されている。これは、「血が地に注がれることは生命を神に返すことである」という協会の教義に矛盾する。地に「血」が注がれるとは、その人の生命が終わったことを意味するだけである。地に注がれた「血」を神聖視するのは、協会が輸血禁止を持ち出した結果、必要に迫られ、作り上げた教えなのである。
ヨブは、「地よ、わたしの血を覆うな」(ヨブ記16:18)と叫んでいる。それは「死ぬな」という意味であって、「生命を神に返すな」などという叫びではない。
預言者イザヤは、「その打ち殺された者たちは投げ出され、その死がいについては悪臭が立ち上がり、山々は彼らの血のゆえに、必ず溶ける」と述べている(イザヤ34:3)。預言者はここで、神の裁きの結果、死んだ人の血が余りに多いので、山が溶けるほどだ、と述べている。血をこのように例えること自体、預言者が、「血が地に注がれるとは、その生命が神に返される」という教えをもっていなかったことを意味する。
また、預言者は、「彼らの地は必ず血でびっしょりぬれ、彼らの塵も脂肪で脂ぎる」と述べている(イザヤ34:7)。神の裁きの結果、多くの血が流され、その地域一帯が血の海になる、と宣言しているのである。しかも、脂肪は血と同列に置かれており、血は特別視されていない。
ユダはイエスを裏切って畑を買った。その畑は「血の畑」と呼ばれた(マタイ27:8)。使徒1章18-19節は、その辺の事情を次のように描いている。
「それで、実にこの人は、不義に対する報酬で畑を買い取ったが、まっさかさまに落ちて、その身は真ん中から音を立てて張り裂け、その腸はみな注ぎ出されたのである。そのことはまたエルサレムの全住民に知られるようになり、結果としてその畑は彼らの言語でアケルダマ、すなわち”血の畑”と呼ばれた。」
イエスを裏切ったユダの記録とはいえ、ここには、「血の神聖さ」とか、「神に命を返す」というようなニュアンスはまったく見られない。
黙示録は、血の混じった雹による神の裁きを伝えている(8:7)。また、神の裁きの結果、海の三分の一が血になると宣言している(8:8)。黙示録11章6節は、水を血に変えるという神の裁きを伝える。16章3、4節は、海や川や水の源の水が血になることを教えている。これらの箇所では、血の神聖さを説いているのではなく、命を象徴する水に対比して、死を象徴する「血」を描いている。
以上の記録は、たくさんある聖書の記録から拾ったわずかな例にすぎない。聖書が、「血は命である」と述べていることは事実である。と同時に、聖書は、「血を死あるいは、神の裁きを象徴しているものとして用いている。いずれの場合であっても、「血」そのものを神聖視している箇所は、一箇所もない。繰り返す。ただの一箇所もない。聖書は、人であれ、動物であれ、生きているものであれ、死んだものであれ、その「血」自体を神聖視したり、特別視したりはしていない。
もし、そうであれば、輸血を禁止する根拠は完全に、崩れてしまう。
モーセ時代に輸血があったか?
協会の出版物は、聖書の時代に、輸血ということがあったわけではないことを認めている。つまり、「血を食べること」を禁じている命令は、現代においては、輸血に当てはめることができる(当てはめねばならない)、ということなのである。しかし、聖書時代にも、輸血があったと述べている記事もある。
『ものみの塔』誌1968年4月1日号(202頁)は、次のように述べている。
「『輸血の紀元は古代エジプトにまでさかのぼる』と言われています。紀元前1513年、予言者モーセがその民をエジプトから導き出した時、エジプトにおいて輸血のようなことが行なわれていたとすれば、必ずモーセの神の目にとまったはずです。血とその正しい処理の方法について、モーセの民に律法を授けられる神が、エジプト人のこの行ないを心にとめられていたとしても、不思議ではありません。」
この記事は、いくつかのことを想像を交えて記述している。それを整理すると、次のような主張になる。
@モーセ時代に輸血が行われていた。
Aそれはモーセの目にもとまっていた。
B神もまた、この行為に目をとめていた。
C従って、モーセ律法には、輸血の問題は含まれているはずである。
Dだから協会が輸血を禁止するのは、聖書的である。
この記事は、アメリカーナ百科事典(1929年版)第4巻、113頁をあげながら、この箇所が歴史的に真実であることを証明しようとしている。その百科事典がどのようなことを述べているか、現在、調査中である。
いずれにしても、現代の医療技術に匹敵する輸血を、モーセ時代まで遡らせて、議論するのは、愚かである。私の手元に、いくつかの輸血の歴史を記した書物がある。いずれも「輸血」という医療技術は、17世紀に始まる、と述べている。モーセ時代にも輸血があった。だから神の言葉の中には、輸血の教えがある。従って、現在の輸血禁止の教えは聖書的である、と論理を展開するのは、アナクロニズム(時代錯誤)以外のなにものでもない。
結 論
神は、モーセ律法の中で、血を食べてはいけない、と命じた。ユダヤ人は、食用の肉から血を抜く方法について細かく規定し、そのモーセ律法を厳格に守ろうとした。彼らは、律法の一言一句たりともおろそかにしなかった。どんな犠牲を払ってでも、モーセ律法を守ることに命をかけた。しかし、そのようなユダヤ人の中で「血を食べてはいけない」という律法を、輸血と結びつけた人はいなかった。ユダヤ教徒の中にも、キリスト教のグループの中にも、聖書を真剣に学んでいる人々はたくさんいる。その中で、「血を食べてはいけない」という律法を輸血禁止に結び着けているグループはない。
むろん、世界中のすべての人がそう思わなくても、協会の教えは正しいということはありうる。しかし、協会の輸血問題に関する限りそれは当てはまらない。協会は、1930年代から50年ぐらいまで、聖書は種痘を禁じられている、と教えた。しかし、1950年にその教えを撤回した。1960年代は、輸血を全面的に禁止した。しかし、今は、成分輸血はよい、人工透析による治療はよい、などと変えている。現時点では、自己血輸血を禁止しているが、最近の『ものみの塔』誌は、自己血輸血を認める方向に動いている。かつては、輸血するなら、排斥処分であったが、1997年2月15日号は、寛大な扱い方をすると変えている。
ニューヨークにいる協会本部の指導的立場の人々の中には、輸血禁止を解禁すべきだと考えている相当数の人がいる。これは確かな情報である。統治体は神からの啓示によって決めているのではない。今、輸血禁止を解いてしまうなら、これまでの犠牲が余りに大きく、組織の根幹が揺らいでしまう。そのことを恐れているから、輸血を認めることができないだけである。
聖書全体が神の啓示である限り、モーセ律法は、新しい契約のもとにあるクリスチャンにとっても、重要な意味がある(Tコリント10:11、ローマ15:4)。と同時に、クリスチャンは、キリストにある新しい契約の中にあるのであって、古いモーセ律法に拘束されてはいない(ローマ8:2、10:4、ガラテヤ3:19、25、6:2、ヘブル7:11-12)。この点については、むろん、協会も同じ考えである。
では、協会は、なぜ、モーセの律法の一つ、レビ記17章の「血を食べてはいけない」という戒めを、今日においても守らなければならない、と主張するのか。それは、次のような議論である。
まず、ノアに対する命令が全人類に対するものであることを確認する。
「ノアとその肉親だけでなく、その時代以降の全人類に適用されるものでした。なぜなら、大洪水以降生きてきた人たちは皆、ノアの家族の子孫だからです」(『洞察』第二巻、179頁、なお、『エホバの証人と血の問題』、7頁も参照)、
次に、レビ記17章10-16節にある「血」に関する教えは、モーセ律法ではあるが、ノアに対する命令が、イスラエル民族に適用されたものである、と位置づける。
そして、最後に、使徒15章20-29節にあるエルサレム会議の決定事項を持ち出す。エルサレム会議は、クリスチャンが「血」を避けるように命じているが、それは、ノアに対する命令の再確認だった、と解釈するのである。
新約聖書においては、このエルサレム会議の決議事項以外には、「血」を避けるように教えている箇所はない。ということは、協会の輸血禁止の教義は、使徒15章20節および29節の解釈にすべてがかかっている、と言っても過言ではない。
『聖書から論じる』(311頁)は、周囲の人から「あなた方は輸血を拒んで子供を死なせています。それはひどい事だと思います」と言われたなら、「親の中には、神の言葉が、この使徒15章20節、29節で述べている事柄に動かされている人がいると思われませんか」と答えるよう、指導している。
また、「あなた方は、輸血を良いことだとは信じていません」という質問を受けたなら、「ここで実際に問題点となっているのは、神に対する忠節さです。血を避けるようにと命じているのは、神の言葉なのです」と述べるよう指示し、使徒15章20節、29節を参照聖句としてあげている。さらに、「聖書が『血を避ける』ようにと述べているのを知っておられましたか。その言葉を見ていただきたいと思います」と述べ、それから再び、使徒15章20節および29節を示すよう、アドバイスしている。結局、使徒15章20節および29節だけが、輸血禁止の支持している聖句なのである。協会は、他の聖句をあげることはできない。
エルサレム会議決議事項の背景
使徒15章で行われたエルサレム会議は、輸血問題にとって、きわめて重要な意味をもつ。そのときの決議事項の解釈が、今日、1,000万人以上のエホバの証人たちの生命を左右する。とすれば、間違った解釈は許されない。
まず、この会議の決議事項が生み出された背景を見ておこう。
初代教会に一つの問題が起こった。エルサレム在住のあるユダヤ人クリスチャンが、クリスチャンになる異邦人は、イエスに対する信仰だけでなく、割礼を受ける必要がある、と言いはじめたのである。彼らは、エルサレムでそのように主張するだけにとどまらず、パウロやバルナバたちが働いていたアンテオケの町まで乗り込んで、異邦人伝道を妨害しはじめたのである。
彼らの活動は、放っておいていいような問題ではなかった。というのは、「割礼を受けないで、信仰だけで救われるのか」、「救いにとってモーセ律法は必要か」という、キリスト教信仰の、根幹に関わる問題だったからである。パウロとバルナバは、問題を放置しなかった。反対活動の首謀者たちの出身教会を訪れ、使徒や長老たちと、この問題について話し合う必要を感じたのである。
エルサレム教会は、アンテオケからやって来たパウロとバルナバを喜んで迎えた。そして、この問題を話し合うため、使徒、長老、一般の会衆を招集した。むろん、問題提起をした当事者パウロやバルナバも加わった。
かなり激しい討論が続いた。
やがて、討論の結果、一つの結論に達した。「救われるためには信仰だけで十分であって、割礼は必要ない」ということである。
この結論は、異邦人伝道においては、きわめて重要な意味をもっていた。パウロやバルナバの働きを承認し、それまで形成された異邦人教会を公式に認めたということである。
この決定を、異邦人諸教会に徹底させる必要があった。そこで、異邦人教会に文書が作成され、送られることになった。
では、決議事項の文章は、どのようにして生み出されたのか。たどってみることにしよう。
エルサレム会議が、「救われるために、割礼が必要かどうか」という問題を討論した際、意見のまとめ役を演じたのがヤコブだった。このヤコブは、一つのことを付け加える必要があると述べた。「ただ、偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送る」(20節)ということである。会議に参加した使徒、長老、会衆のすべてがその決議に賛成した(22節)。そして、ユダとシラスの二人を選び、書きあげた書状を託した。その書状の発信人は「使徒や年長者の兄弟たち」、受信人は「アンティオキア、シリア、キリキアにいる、諸国民からの兄弟たち」である(23節)。その内容は、エルサレム教会の一部の人が迷惑をかけたことに対する説明(24節)、パウロとバルナバに対する推薦の言葉(26節)、彼らと同行して事情を説明するために派遣するユダとシラスの紹介(25節および27節)であった。そして、その手紙の最後に次のような文章を加えた。
「聖霊とわたしたちとは、次の必要な事柄のほかは、あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。すなわち、偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば、あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください。」(28-29節)
決議事項の意図
エルサレム会議は、救いのためには、割礼は必要ないことを確認した。しかし、「偶像に犠牲としてささげられた物」、「血」、「締め殺されたもの」、そして「淫行」の四つを避けるように、という命令を加えた。いったい、この命令はどのような意味なのか。その命令はどのような意図で決議されたのか。このことを正確に理解することにこそ、「輸血禁止」を考える鍵がある。
このエルサレム会議の決議事項を正しく理解するには、21節のヤコブの言葉に戻らねばならない。ヤコブは、20節で、4つの禁止命令を付加することを提案したが、次の21節で、一つの重要な言葉「ガル」を使っている。この「ガル」というギリシャ語は、「なぜなら」という意味で、直前の文章の理由を説明するときに使う。すると、21節は20節の説明文となる。日本語の新世界訳は、この「ガル」を訳出していないので分かりにくいが、英語の新世界訳には「For」という言葉が入っている。
とすると、20節で4つの禁止命令を加えたのは、「モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており、彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」という理由からである。つまり、4つのことを避ける理由は、モーセの律法を安息日ごとに聞いているユダヤ人のために、ということだったのである。
初代教会においては、食物、祭、生活習慣などのことで、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に意見の対立があった。それは、コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙などから明らかである。特に、ローマ人への手紙の9-11章、14-15章などは、この両者の対立を解くために記された。他の手紙では、パウロは、この種の問題のため、ペテロやバルナバさえ非難している。
「しかし、ケファがアンティオキアに来た時、わたしは面と向かって彼に抵抗しました。彼には責めるべきところがあったからです。ヤコブのもとからある人たちが来るまでは、諸国民の者たちと一緒に食事をしていたのに、彼らが来ると、割礼組の者たちへの恐れのために、身を引いて離れて行ったからです。残りのユダヤ人たちも彼と共にこの虚偽に加わり、その結果、バルナバさえも彼らと共にその虚偽に引かれて行きました。しかし、彼らが良いたよりの真理にしたがってまっすぐに歩んでいないのを見た時、わたしはみんなの前でケファにこう言いました。「あなたは、自分ではユダヤ人でありながら諸国民のように生活し、ユダヤ人がするようにはしていないのに、どうして諸国民の者たちに、ユダヤ人の習わしにしたがって生活することを強いているのですか」(ガラテヤ2:11-15)。
結局、エルサレム会議は、クリスチャンになるのに、割礼は不要だが、4つの禁止命令には従わねばならない、と決定したのではない。それは、エルサレム会議でペテロが語った次の言葉に矛盾する。
「また、わたしたちと彼らとの間に何の差別も設けず、彼らの心を信仰によって浄められたのです。それですから、どうして今、父祖もわたしたちも負うことのできなかったくびきを弟子たちの首に課して、神を試したりするのですか。それどころか、わたしたちも、その人たちと同じように、主イエスの過分のご親切によって救われることを頼みとしているのです」。
ユダヤ人であれ、異邦人であれ、信仰だけで救われる。割礼をはじめとする律法を守る必要はない。これが、エルサレム会議が確認したことである。
しかし、初代教会には、モーセ律法を気にしているユダヤ人クリスチャンがいた。彼らは、クリスチャンになってからも、律法にこだわっていた。キリストの恵みによって救われたと信じていながら、律法を守っていない異邦人と交わることは、汚れることだと考えていたのである。そこで、エルサレム会議は、異邦人に、あることを配慮するよう求めた。それが、4つの禁止命令だったのである。この配慮は、一世紀の教会においては、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンとが一致していくため、あるいは食事の交わりを共にするために、必要なことだったのである。
エルサレム会議に関する次の説明を読んでいただきたい。これは、エルサレム会議の決定に関して私がこれまで読んだ文章の中で、最も優れたものである。
「それから、彼らは、律法としてではなく、『必要なこと』としてまとめあげた。・・・これらのものを避けるようにというアドバイスは、ユダヤ人たちが、そのような肉を食べることが異教徒の偶像礼拝に参加することであると考えたからである。偶像なるものは木や金属や石にすぎない、という物事にとらわれない見方をすれば、偶像は食物を益したり、害したりするものではない。にもかかわらず、異邦人クリスチャンは、これらのことを行なう自由をすて、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、弱い兄弟たちの良心を傷つけないのは賢明なことである。血の使用の禁止についても同じことである。これらの禁止条項は律法のもとで生活していなかった異邦人にとっては無縁なものだった。しかし、ユダヤ人の思いには深く根ざしていた。従って、教会の平和を保つためには、異邦人がこれらのことを守る必要があった。・・・もし、彼らが争いを好まず、分裂を避けようとするのであれば、これらのことに関する自由を喜んで犠牲にしたであろう。」
読者は、このような説明をしたのは、誰だと思われるだろうか。驚いてはいけない。ものみの塔聖書冊子協会の創設者、C.T.ラッセル、その人である。むろん、ラッセルが述べている解釈は、特別なものではない。初代教会からはじまって、今日に至まで、聖書研究者たちが一貫して主張している見解である。
協会の応答
ところが、現代のものみの塔の指導者だけが、上記の聖書解釈を拒否する。彼らは、4つの禁止命令を、異邦人がユダヤ人に対して配慮すべきことから、いつの時代のクリスチャンも守る必要がある永遠の命令、としてしまった。『ものみの塔』誌1961年12月15日号は、通常の解釈を次のように批判している。
「この聖句について注解を述べる神学評論家たちは、それは私たちに関係しないと言います。『それは一時的なものであって、キリスト教信者になったユダヤ人たちの感情を害さないためであった。そのような禁止を課す必要は、すでに過ぎ去ったのであるから、たとえ言葉で述べられなくても、取り消されたにちがいない。』しかし、どんな必要が過ぎ去ったのか、とわたしたちはたずねます。いまでも生来のユダヤ人がクリスチャン会衆と交わっています。それで、ユダヤ人がいないなら、それは必要でないなどとは言えないでしょう。生命が血の中にあるため人間は血を食べてはいけないと聖書は明白に示しています。」
この反論は、二つの点で、説得力がない。まず、今でも、ユダヤ人キリスト者が教会の中にいるのだから、ここにある禁止命令が不必要であるとは言えない、と述べている点である。しかし、よく考えていただきたい。このように言うことは、それ自体が、神学評論家の主張を前提として(受け入れて)なされた反論である。これでは、協会が、4つの禁止命令は、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが一致していくための手段として決議された、と認めていることになってしまう。
しかし、今は、そのことは問わない。『ものみの塔』誌が述べていることをそのまま受け入れ、議論を展開しよう。確かに、現在の教会にも、ユダヤ人クリスチャンはいる。とすれば、エルサレム会議の決定事項は、今日も守るべきだ、と主張すべきなのか。誰もそう考えてはいない。現代のユダヤ人クリスチャンが置かれている状況は、一世紀の状況とは違う。現代のユダヤ人クリスチャンは、福音の本質をよく理解し、律法を破棄してクリスチャンになっている。従って、異邦人クリスチャンが、エルサレム会議の禁止令を守らなくても、ユダヤ人クリスチャンとの間に亀裂は生じない。そのようなわけで、エルサレム会議の附加事項を守る必要はない。
もう一つの点は、『ものみの塔』誌は、循環論法の間違いを犯している、ということである。「血を食べてはいけない」というモーセ律法が、新約のクリスチャンたちにも必要か、と議論しているときに、「生命が血の中にあるため人間は血を食べてはいけないと聖書は明白に示しています」と断言する。ところが、「生命が血の中にあるため人間は血を食べてはいけない」という命令は、新約聖書には出てこない。旧約聖書にあるだけである。とすると、ここで「聖書」と言われているのは、モーセ律法になる。ということは、新約時代のクリスチャンも「血に関する」モーセ律法を守らなければならないか、という質問に対し、モーセ律法にそのような教えがあるのだから守る必要がある、と論じていることになる。これでは、循環論法である。
しかも、先の『ものみの塔』誌は、モーセ律法と言うべきところを、「聖書」と述べ、この循環論法のごまかしを隠している。実際、多くの人は、この使徒15章以外に、「血に関する律法」が新約聖書においては出てこない、という事実を知らない。だから、「生命が血の中にあるため人間は血を食べてはいけないと聖書は明白に示しています」と言われれば、新約聖書にも出てくる、と想像してしまうのである。このような欺きのからくりを見破ることは、聖書をよく知らない人にとっては難しいであろう。
他の3つの命令は永遠か
協会は「血を避けること」が新約時代のクリスチャンにも適用される、と主張する。それは、「血」以外の禁止命令が「永遠に守るべき命令」だと理解することに基づいている。例えば、『ものみの塔』誌、1969年8月15日号(499頁)は、次のように述べている。
「それでわたしたちも『血から離れて』いなければなりません。そしてこのことは大切です。姦淫や偶像を避けることと同格に扱われているからです」
ここでは、「血」を、姦淫や偶像と同列に置いて論じる。
協会は、「血」以外の禁止命令が人間が守るべき永遠の倫理規定であるがゆえに、「血」も同じように理解しなければならない、という論法を一貫して主張している。いくつか紹介しておこう。まず、『目ざめよ!』1976年6月22日号(29頁)である。そこには、「淫行」について次のように述べている。
「『淫行』とは、広い意味において不道徳な性行為を指します。神がこうした性的な違反行為を是認されないことを知るために、モーセの律法の下にいなければならないことはなく、またその律法を守ろうと努めねばならないということもありません。モーセの律法以前の出来事は、そうしたことが神の目に悪であったことを明らかにしています。」
『聖書から論じる』(307頁)は、次のように述べている。
「ここで、血を食べることは、偶像礼拝や淫行など、わたしたちが行なうことを望んではならない事柄と同じように扱われています。」
また、『ものみの塔』誌1991年6月15日号(頁)も次のように述べている。
「彼らは神の導きのもとにクリスチャンには、モーセの律法を守る義務はないが、『偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたもの[血を抜いていない肉]と淫行を避けている』のは『必要な』ことである、と述べました。(使徒15:22、29)そのようにして彼らは、血を避けることが偶像礼拝や由々しい不道徳行為を避けることと同じほど道徳的重要なものであることを明確にしたのです。」
このような論法は、協会の出版物の随所に出てくる。従って、「血」の命令が、人間が守るべき永遠の倫理規定であるかどうかを確認するには、エルサレム会議で決議された他の3つの禁止命令が、永遠の禁止命令かどうかを、調べなければならない。もし、「偶像にささげられた肉」、「淫行」、「絞め殺されたもの」の三つが、人間が守るべき「永遠の倫理規定」である、と確認できれば、「血」に関しても、そう考えるのが自然である。しかし、もし、一つでもそのように言えない場合には、「血」に関しても「永遠の倫理規定」とするのは疑わしくなる。
偶像にささげられた肉
「偶像によって汚された物」(20節)というギリシャ語「トーン・アリスゲーマトーン・トーン・エイドーローン」は、新約聖書の他の箇所には出てこない。もし、新約聖書(むろん、旧約聖書においても)において、「偶像によって汚された物」という言葉が他に一度も出てこなければ、その禁止命令を「聖書が教えている永遠の倫理規定」と断定するわけにはいかない。むろん、これは、沈黙からの議論である。
ところで、20節の「偶像によって汚された物」という言葉は、使徒15章29節の正式な決議文書においては、「偶像にささげられた肉」となっている。このギリシャ語「エイドーロトュートス」は、新約聖書において、他に7回出てくる。コリント人への手紙第一8章1節、4節、7節、10節、さらに10章19節、黙示録2章14節と20節である。ただし、コリント人への手紙第一8章7節と10章19節は単数形であるが、他はすべて複数形である。コリント人への手紙第一10章28節にも、同じ肉を指す言葉「犠牲としてささげられたもの」が出てくる。しかし、ギリシャ語は「ヒエロトュトン」で、違った言葉である。
ところで、コリント人への手紙第一8章から10章は、「偶像にささげられた肉」という問題を特別に取り上げている。この箇所は、協会の輸血禁止命令の理解にきわめて重要な意味をもつ。というのは、この箇所は、「偶像にささげられた肉」が「良心の問題」として扱われているからである。この点に関し、『ものみの塔』誌1960年3月1日号(86-7頁)は、次のように述べている。
「ですからパウロは、もし人があなたを食事に招くなら出されるものを食べなさいと言っているのです。パウロは、『偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかに神がいないこと』を知っていたのです(コリント前8:4、新口)。しかし、もし一緒に食べている者の誰かが、「これは神にささげられたものだ」と言えば、その人の良心のためにそれを少しも食べてはなりません。あなた自身の良心のためですか。いいえ、他の人の良心のためです。あなたは食べることによってその人をつまづかせるかも知れません。」
このような説明は、協会がエルサレム会議15章から輸血禁止を教えることと矛盾する。というのは、もし、Tコリント8章から10章に出てくる「偶像にささげられた肉」を食べることが良心の問題であるとすれば、エルサレム会議で決定した「偶像にささげられた肉」もまた、良心の問題になるからである。その場合、「偶像にささげられた肉」は、クリスチャンに対する永遠の禁止命令である、とする協会の見解は崩れる。もし、そこが崩れてしまうなら、それに基づいて、「血もまた永遠の倫理規定」とする主張も、成り立たなくなってしまう。
協会がそのことに気づいていないわけではない。5年後の『ものみの塔』誌(1965年5月1日号)が、違った解釈をしているからである。つまり、使徒15章20節および29節の「偶像に備えられた肉」を、Tコリント10章18-21節と関係づけ、「正式に、宗教儀式として食べる肉」と解釈したのである。そのような肉は、「聖なる祝いに使われた肉」で、偶像礼拝に深く結びついており、食べることが永遠に禁じられた、と考えるのである。一方、Tコリント8章1-10節の「偶像に備えられた肉」は、「と殺場、あるいは異教徒の肉市場」に出された肉であり、それを食べることは「良心の自由」に属する、と解説している。
ところが、それから、7年後の『ものみの塔』誌1972年12月15日号(756頁)は、65年の説明とは、矛盾したことを述べている。そこでは、Tコリント8章の「偶像に備えられた肉」を、エルサレム会議で決定した「偶像に備えられた肉」と同一視しているのである。
「偶像崇拝に関係した宗教的儀式で実際に肉を食べる、あるいは、崇拝のことを意識しているにもかかわらず、食べてしまうということです。それはクリスチャン会衆の統治体が聖霊の導きによって禁じたことでした。」
さらに、それから7年後には、また別の見解に移る。『ものみの塔』誌1979年1月15日号(30頁)は、8章と10章の間に区別を設けない。両者とも、エルサレム会議で言及された「偶像に備えられた肉」とは異なったもの、として解説しているのである。
「使徒15章28、29節の布告が禁じていることは、クリスチャンが公けの宗教儀式の一部となることつまり偶像崇拝の行為に携わることでした。動物の犠牲を偶像にささげた人々は、幾らかの肉を手に入れて食べることになっていました。そうすることは明らかに宗教的な行為で、異教の神と食卓を分け合うものと見なされました。(出エジプト34:15、申命記32:17、コリント人第一10:18-21)。クリスチャンは絶対にそうすることはできませんでした。・・・それでコリント第一8および10章、ローマ14章の中でパウロは、イスラエル人が携わって神の怒りを招いた偶像崇拝的な行為や偶像を崇める祝宴にあずかることを許容しているのではありません。(民数25:1-4、啓示2:14)むしろパウロは、普通の食事の時に、通常、偶像の神殿に運び出され、一般の人々に販売されていた肉をただ食べることだけを考慮していたのです。このような肉はその出所だけで、汚れたり、不浄なものになったりすることはありませんでした。」
結局、協会は、エルサレム会議の決議事項の「偶像に備えられた肉」と、Tコリント8-10章で扱われている「偶像に備えられた肉」との関係について、一貫した解釈を提供していない。このようにその解釈をくるくる変えるのでは、どの見解が協会の公式の解釈か分からない。そこでまず、聖書のテキストそのものを考察することにしよう。
コリント教会は、さまざまの問題に直面した。それらの問題を解決するため、パウロに手紙を書いた。手紙を受けたパウロは、一つ一つの問題に答えた。それが、コリント人への手紙第一である。5〜7章では、「性」の問題を扱った。そして続く、8〜10章は、「偶像に備えらえた肉を食べてよいかどうか」という質問に答えた。
コリントの町には、アポロ、アスクレピウス、デメテリオス、アフロディトスなどの異教の神々が神殿に祭られていた。コリントの人々は、毎日、そのような神々に礼拝をささげていた。彼らは、肉を持参し、異教の神殿においていけにえとしてささげた。その肉は、通常、祭司とささげた人、およびその友人たちによって、その神殿の中で祭儀として食された。残った肉は、他の祭司の食物になったり、市場に出され、一般の人々に売られた。
ところで、コリントのクリスチャンの間に、そのような肉を食べてよいか、という点で、意見を異にした二つのグループが存在した。一つは、偶像など存在しないのだから、食べてもかまわない、という人々である。他は、それは偶像と関わりがあったものなのだから、食べるべきではない、という立場であった。Tコリント8章において、「あなた方」(8:9)、「知識を持つあなた」(8:10)、「あなたの知識」(8:11)、「あなた方」(8:12)と呼ばれているグループが前者である。「ある人々」(8:7)、「弱い人たち」(8:9)、「弱い人」(8:10)、「その弱い人」、「[あなたの]兄弟」(8:11)、「自分の兄弟」(8:12)と言われているグループが後者である。
二つのグループは、互いに譲らなかった。そこで、教会は、パウロの指示を求めて手紙をしたためた。
それに対し、パウロは次のように答えた。まず、偶像なるものは、実際には存在しない(8:4-6)。神に近づくことと食べ物とは関係がない(8:8)。しかし、すべての人がそう考えているわけではないことを知って(8:7)、その人たちをつまづかせないようにしなければならない(8:9)。もし、知識のある人が異教の神殿で祭儀的な食事をするなら、それを見た弱い人は「偶像に備えられた肉」を食べることになるかもしれない(8:10)。その場合、その人の弱い良心は「汚され」(8:7参照)、「破滅に陥らせ」(8:11)ることになるかもしれない。そのようにするなら、結局、その知識ある人は、「自分の兄弟に対して罪をおかし」、「キリストに対して罪をおかしている」ことになってしまう(8:12)。
9章1節〜10章13節は、8章13節の言葉を説明するための挿入なので、ここでは割愛する。
10章14節に飛ぼう。パウロは、8章で扱い、中断していた「偶像に備えられた肉」の問題に戻る。しかし、今度は、新しい視点から取り上げる。確かに、8章4-6節で述べたとおり、偶像も、偶像に備えられた肉も、それ自体では何の意味もない。偶像など存在しないからである(10:19)。しかし、偶像の背後には「悪霊」が存在する。そして、「偶像に備えられた肉」とは、「悪霊に備えられた肉」に他ならず(10:20)、「偶像に備えられた肉」を食べることは「悪霊と分け合う者」になる(10:20)。それは、「エホバの食卓」にあずかる者にとってはできないことである(10:21)。
クリスチャンの行動の一般的原則は、自分の益のためではなく、他の人の益のためである(10:23-24)。「偶像に備えられた肉」が、神殿の中ではなく、「肉市場で売っているもの」となった場合は、いちいち問わないで食べてよい(10:25-26)。友人に招かれて、その家で食事をする場合も同様である。ただし、だれかが、「これは犠牲としてささげられたものです」と言うなら、その人をつまづかせないために、食べないように(10:27-29)。
以上のような、「偶像にささげられた肉」に関するパウロの教えは、次のことを明らかにしている。
@8章と10章の「偶像に備えられた肉」は、同じ言葉であり、両者とも、コリント教会からの質問に答えているのであるから、区別するのは、不自然である。
A8章および10章とも、偶像など存在せず(8:4-6、10:19)、「偶像にささげられた肉」には特別な意味はない(8:7-8、10:19)と強調している。従って、「偶像にささげられた肉」を食べても差し支えない(8:7-8、10:23-24)。
B8章は、「偶像の神殿で食事の席について横になって食事をしている」人をつまづきの例にあげている(8:10)。10章は、悪霊との関わりにおける問題を指摘している(10:20-22)。
C8章も10章も、他の人の良心のため(8:12、10:28-29)、他の人をつまづかせないように行動することを求めている(8:9、13、10:29、32)。
以上が、「偶像にささげられた肉」に関する使徒パウロの教えである。それは、「偶像にささげられた肉」を「偶像礼拝」と規定し、「人が守るべき永遠の倫理規定」とする協会の解釈とはまったく違う。協会が、「偶像にささげられた肉」を「偶像礼拝」と短絡的に規定し、「永遠の倫理規定」だ、と主張するのは、パウロの信仰と真っ向から対立する。
淫 行
協会は、「淫行」がクリスチャンにとって永遠の禁止命令であるから、「血」もまた、永遠の禁止命令である、という論理を展開する。『目ざめよ!』1976年6月22日号(29頁)は、次のように述べている。
「ユダヤ人との平和のために、クリスチャンの運営審議会が、ただ一時的に淫行を避けるようクリスチャンに要求していたと述べることは確かに間違っています。決してそうではありません。不道徳な性行為は、律法が与えられる以前でも悪であり、律法の下でも悪であり、律法が 成就されたのちの西暦49年においても悪でした。そして今もなお、確かに悪です。そうしたことをならわしにする者たちは、神の王国を相続することはできません。コリント人へ第一6:9、ガラテヤ5:19-21、啓示21:8」
むろん、「淫行」が永遠の禁止命令であるからといって、「血」もまた永遠の禁止命令であるとは限らない。反対もまた、真である。「淫行」が一時的な禁止命令であるからといって、「血」もまた一時的な禁止命令と考えねばならないわけではない。だがここで、「淫行」という言葉が、常に人間が守るべき永遠の倫理規定をさしているかどうか、考えてみよう。
新世界訳が「淫行」と訳しているギリシャ語は、「ポルネイア」である。この言葉は、「性」にまつわるさまざまな罪に対して使われている。その語源は「売る」であるが、『ものみの塔』誌1983年6月15日号(30頁)は、次のように説明している。
「この語は一世紀の多くの異教の神殿や今日の『売春宿』で行なわれるような売春行為と結びつけられています。」
そして、次のような注をつけている。
「高く評価されている『新約聖書および他の初期クリスチャン文書の希英辞典(バウエル、アルントおよびギングリッヒ共著)の1979年版は、ポルネイアを『売春行為、不貞、淫行、あらゆる種類の不法な性的交接』と定義しています。」
「ポルネイア」には、「姦淫」、「性的誘惑」、「遊女と交わる」、「霊的な関係を結ぶ」などの意味がある。ただし、聖書本文の中でどの訳語がふさわしいかは、その語が出てくる文脈から判断する以外にない。例えば、新約聖書では、次のような用例が見られる。
マタイ5章32節、19章9は、夫婦間の「不貞」を指している。
マタイ15章19節およびマルコ7章21節は、「姦淫」とは区別されており、「何等かの性的交わり」あるいは「性的欲望に基づく誘惑」を指すのであろう。
Tコリント5章1節は、「近親相姦」である。
Tコリント6章13節と18節は、6章15節から「遊女と交わる」という意味である。当時のコリントの神殿には、1,000人以上の娼婦がいた。異教の神殿に偶像礼拝に行く多くの人は、遊女と遊んだ。
続く、Tコリント7章2節は、文脈から「遊女との交わり」と読めないことはないが、そのようには限定しないで、「性的欲望から生ずるさまざまの誘惑」を考えた方がよいであろう。
ガラテヤ5章19節、エペソ5章3節、コロサイ3章5節、Tテサロニケ4章3節は、キリスト者の肉のうちに働く「性的な欲望から来る誘惑」を指している。
黙示録は、「宗教的な比喩的意味での姦淫」という意味で、用いている(2:21、9:21、14:8、17:2、18:3、19:2)。このような用例は、預言者ホセアが、神とイスラエルの民との契約を結婚関係に例えたことに基づく。彼以降、「ポルネイア」という言葉は、民が神から背教して偶像礼拝に陥っていくことを意味した(例えば、エレミヤ3:2、9、ホセア6:10、U列王記9:22)。実際、多くの偶像の神殿の周囲には、遊女がたむろしており、そのような言い回しは理解しやすいものだった。
では、使徒15章20節および29節の「ポルネイア」はどのような意味か。上記の意味の一つ一つを適用しながら、考えてみよう。
まず、キリスト者の肉のうちに働く「性的欲望から生ずる誘惑」ではないであろう。というのは、ガラテヤ5章19-21節は、「肉の働き」を15も列記している。もし、その中の一つだけをエルサレム会議が取り上げる、としたら、何等かの理由があるはずである。しかし、「淫行」だけを取り上げ、それだけを「永遠の倫理規定」と解釈するのは、いかにも不自然である。もし、そのように言いたいのであれば、「好色」、「敵意」、「争い」、「憤り」、「ねたみ」などは(ガラテヤ5:19-21)、どうして「永遠の倫理規定」にならないのか説明しなければならない。
使徒15章20節および29節の「ポルネイア」が、夫婦間における「不貞」について言及しているようにも思えない。その場合は、エルサレム会議は、十戒の第七戎を取り上げたことになる。では、他の九戒をどうして取り上げないのか、その理由を説明する必要がある。「姦淫してはならない」が「永遠の倫理規定」であるなら、どうして、第五戎の「あなたの父と母を敬え」、第六戎の「殺してはならない」、あるいは第八戎の「盗んではならない」は、「永遠の倫理規定」ではないのか。それにもし、モーセ律法にある「淫行」を、すべての人間が守るべき永遠の倫理規定として、クリスチャンに課すのであれば、恵みによって救われる、というエルサレム会議の決定を否定することになってしまう。次の聖句を合わせて読んでおいていただきたい。
「したがって、律法の業によって肉なる者が[神]のみ前で義と宣せられることはありません。律法によって罪についての正確な知識が生じるのです。しかし今や、律法からは離れて神の義が明らかにされました。律法と預言者たちによって証しされているとおりです。そうです、イエス・キリストに対する信仰による神の義であり、信仰を持つすべての者のためのものです。差別はないからです。」(ローマ3:19-21)
「人が義と宣せられるのは律法の業によるのではなく、ただキリスト・イエスに対する信仰を通してであることを知っているので、このわたしたちでさえキリスト・イエスに信仰を置き、こうして、律法の業によってではなく、キリストに対する信仰によって義と宣していただけるようにしたのです。律法の業によっては、肉なる者はだれも義と宣せられないからです。」(ガラテヤ2:16)
では、エルサレム会議で決議事項に含められた「ポルネイア」は、どのような意味だったのか。恐らく、「偶像にささげられた肉」が、異教の神殿と深く関わっていたので、この「ポルネイア」もまた、異教の神殿との関わりにおいて考えていたととるのがよい。つまり、Tコリント6章のケースである。
黙示録2章においても、バアルの教え(14節)やイゼベルの教え(21節)との関連で、「偶像にささげられた肉」と「ポルネイア」の二つが並列して出てくる。これらの用例も、使徒15章の「淫行」を、異教の教えと結びつける可能性を示唆する。
ところで協会は、「淫行」を「姦淫」の意味にとり、「偶像にささげられた肉」とともに「永遠の倫理規定」にしようとした。「血を避ける」ことを「永遠の倫理規定」にするためである。
しかし、先の「偶像にささげられた肉」は、コリント人への手紙第一では、「良心の問題」として扱われている。さらにここでは、「淫行」は、異教の神殿における不道徳な行為を指す可能性が高いことを確認した。すると、この両者とも、「人間が守るべき永遠の倫理規定」ではない。とすれば、「血」もまた、「永遠の倫理規定」と言えなくなる。
締め殺されたもの
エルサレム会議の禁止命令として加えられた「絞め殺されたもの」について、最後に検討しよう。「絞め殺されたもの」と訳されたギリシャ語「プニクトス」は、新約聖書において、この箇所にしか出てこない。従って、新約聖書からは、この禁止命令がどのようなものかを明らかにすることはできない。
多くの聖書研究者は、レビ記17章15-16節に言及されている「すでに死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたもの」と関係づける。その可能性はあるが、決定的なことは言えない。他の人々は、食用の肉として正式に調理していないすべての肉を指す、と主張している。『ものみの塔』誌1978年9月15日号(30頁)は、このような見解に立っている。
「『締め殺されたもの』という表現は、肉の中に血が残るような仕方で殺された動物の肉を指しています。クリスチャンはそのような肉を食べることはできません。」
この「絞め殺されたもの」は、エルサレム会議の決議事項以外、新約聖書には一度も出てこない。なぜか。二つの理由が考えられる。この「絞め殺されたもの」に関する禁止命令は、このエルサレム会議の決議で目的が達成され、以降必要なくなったのかもしれない。あるいは、エルサレム会議においては、重要な事柄だったが、それ以降のクリスチャンにとっては、大きな問題ではなくなり、話題に上ることもなくなったのかもしれない。
そのどちらにしても、「絞め殺されたもの」を「永遠の倫理規定」と見なすのは、無理である。これは食物に関する規定にすぎない。協会の出版物自身が、禁止命令は4つだと言いながら、実際に、「永遠の倫理規定」として取り上げるのは、常に、「偶像にささげられた肉」、「淫行」、「血」の三つだけである。この「絞め殺されたもの」については、何も言わない。
何も言わない結果、証人たちは、「血」の中に含まれるかのように、勝手に解釈する。「血」に含めて考えてくれれば、協会は、「絞め殺されたもの」を「永遠の倫理規定」であると証明する必要はなくなる。
しかし、エルサレム会議は、明らかに、他の三つと並行して、「絞め殺されたもの」をあげている。これは、重要な一つの附加命令であった。協会は、この命令も、いつの時代のクリスチャンも守るべき倫理であることを証明しなければならないはずである。
新約聖書は「絞め殺されたもの」に関しては、何も触れていない。だが、食物については次の箇所でふれている。それらの聖句は、基本的にすべての食物を承認しており、「絞め殺されたもの」を禁じるような聖句は一つもない。
「ある人は何でも食べてよいとの信仰を持っているのに対し、弱い人は野菜を食べます。」(ローマ14:2)。
「ただ食物のために神のみ業を打ち壊してはなりません。確かに、すべての物は清いのですが、つまずきのきっかけとなるのにそれを食べる人には害になります。肉を食べること、ぶどう酒を飲むこと、また何にせよあなたの兄弟がつまずくような事は行なわないのが良いのです。あなたの抱く信仰は、神のみ前で自分自身にしたがって抱きなさい。自らよしとしている事柄について自分を裁かないでよい人は幸いです。しかし、疑念を抱いている場合、それでもなお食べるなら、その人はすでに罪に定められています。信仰によって[食べて]いるのではないからです。実際、信仰から出ていないことはみな罪です。」(ローマ14:20-23)。
「そうした人たちは結婚することを禁じたり、信仰を持ち真理を正確に知る人が感謝してあずかるために神が創造された食物を断つように命令したりします。神の創造物はみな良いものであって、感謝して受けるなら、退けるべきものは何一つないのです。」(Tテモテ4:3-4)。
血
最後に、エルサレム会議の附加命令の「血」について考えることにしよう。この表現が、レビ記17章12-13節の「肉の中にある血を食べてはいけない」と関係があると見ることに聖書研究者の間に異論はない。むろん、協会もまた、そのように解釈している(『目ざめよ!』1975年9月8日号、29頁)。
ユダヤ人は、「血が入っている肉を食べてはいけない」とのレビ記の律法を厳格に守った。ユダヤ人の料理人は、正式な血の抜き方で、動物の肉から血を抜き、食用の肉を用意した。ユダヤ人から見れば、エホバの証人たちも含め、私たち日本人が食べている肉は皆、律法違反になってしまう。それは、レビ記17章が禁じた肉、エルサレム会議か付加事項として加えた「血」を伴った肉だからである。従って、現在のエホバの証人は、誰一人、エルサレム会議の「血」に関する禁止命令を守っていないことになる。
しかし、協会は、エルサレム会議の「血」に対し、手紙の発信人であるエルサレム教会の指導者たちも、受信人である小アジアの異邦人クリスチャンたちの誰もが予想もしなかった中味を加えた。「輸血禁止」という命令である。協会は、「血」という言葉を「輸血」と解釈し、文字どおりの意味を無視し、「輸血禁止」こそ、エホバ神が全人類に求めているものだとすりかえたのである。
協会とて、モーセ律法が、新約聖書のクリスチャンにとって、不要になった、と教えることには変わりはない。それなのに、なぜ、エルサレム会議の「血」がクリスチャンを拘束すると教えるのか。その理由は、エルサレム会議の「血」と、創世記9章4-5節のノアに対する命令とを結びつけることにある。つまり、血に関する律法は、モーセ以前のノアの時代に与えられたもので、ユダヤ人だけではなく、全人類に対する命令であるとする。エルサレム会議の「血」に関する決議は、そのノアに対する命令の確認にすぎない(『ものみの塔』誌1969年8月15日号、498頁、同誌1982年1月15日号、30頁)。
では、協会は、血を伴った動物の肉を食べてはいけない、という命令を、どのようにして輸血禁止にまでもっていくのか。二つのステップを踏む。一つは、動物の血が人間の血を含んでいる、と説得することである。他方は、食べることと輸血することとは同じである、と納得させることである。
まず、動物の血は人間の血を含むか。『目ざめよ!』1975年9月8日号(29頁)は、次のように述べている。
「聖書は人間の命が動物の命よりも尊いことをはっきり示しています。ゆえに、動物 の(命を象徴する)血でさえ、それを用いるには余りにも神聖であるとすれば、人間の血もやはり神聖なのではありませんか。」
この文章には、議論のごまかしがある。最初の文章は、人間の命と動物の命を比較し、人間の命が動物の命より尊い、と述べる。そして、後半で、その命の象徴である血の比較をする。むろん、人間の血の神聖さは、動物の血のそれに勝る、と言うのはよい。ところで、エルサレム会議が、食べることを禁じたのは、殺された動物の血である。もしそれと比較するのであれば、殺された人の血でなければならない。もし、殺された動物の肉を血のまま食べてはいけない、と言うのであれば、当然、死んだ人間の肉を血のまま食べていけない、と比較しなければならない。これが正しい比較である。
もし、それが正しい比較だとしても、さらに、次のように論じる人が現れても不思議ではない。死んだ人間の肉を血のまま食べてはいけないというのであれば、まして生きている人間の肉を血のまま食べてはいけない、ということになるのではないか、と。これもその通りである。しかし、問題は、生きている人間の肉を血のまま食べることと、輸血とは、まったく違う、ということである。輸血を認めている人で、生きている人間の肉を血のまま食べることを認めている人はない。輸血という医療行為は、生きている人であれ、死んだ人であれ、血を伴った人間の肉を食べることと根本的に異なる。
健やかにお過ごしください
エルサレム会議の決定を伝える手紙の最後には、挨拶の言葉が出てくる。新世界訳は、「これらのものから注意深く身を守っていれば、あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」と訳出し、先の4つの禁止命令を守るなら、その人の生涯が繁栄し、健康になる、と解釈する(『ものみの塔』誌1982年9月15日号、22頁)。
「あなた方は栄えるでしょう」と訳されたギリシャ語「エウ・プラクセテ」は、「あなた方はよい事をしたのです」、「あなた方は親切を示したのです」という意味である。「繁栄する」と訳せないことはないが、アルメニア語およびコプト語に訳された新約聖書の証言から、「あなた方は正しく行動している」という意味に解釈するのがよい(バウアーの辞典参照)。この表現は、新約聖書において他にもう一箇所、マルコ14章7節において使われているが、新世界訳は、「善を行なう」と訳している。とすれば、「これらのものから注意深く身を守っていれば、あなたは正しいことを行なっているのだ」と訳すのが一番よい。
しかし、議論のため、新世界訳の「繁栄する」という訳語を了解しよう。多くのエホバの証人は、この訳語から、もし、輸血をしないで、血を避けていれば、健康になり、生活も繁栄する、と理解する。しかし、「繁栄する」というのは、「あなた方は繁栄するだろう」、「あなた方はうまくいくだろう」という意味であって、異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンとの交わりにおいてうまくいく、あなた方異邦人の教会活動がスムーズにいく、と述べているのである。手紙を受け取った個人の健康が増進することや、その人の生活が繁栄していくことを述べているわけではない。
次に、エルサレム会議の文書の最後の言葉(使徒15:29)について考える。新世界訳はその言葉を「健やかにお過ごしください」と訳している。この訳語から、協会は、エルサレム会議で決めた4つのことを避けるなら健康になる、と教えている。例えば、『ものみの塔』誌1982年9月15日号(22頁)は、「健やかにお過ごしください」と訳されたギリシャ語「エロースセ」は、「強健であってください。お達者で、健康でありますように」という考えが含まれている、と解説している。
この言葉の語源は「強くあれ」であり、健康への祈りが含まれていることに異論はない。しかし、この言葉をエルサレム会議で決められた4つの命令を守っていれば、健康であると、手紙の本文と結びつけて解釈するのは正しくない。というのは、そのギリシャ語「エロースセ」は、手紙の最後に付け加える挨拶言葉だからである。この表現は、新約聖書以前の手紙において、頻繁に使われていた。しかし、新約聖書の書かれた頃には、あまり使われなくなった(バウアーの辞典参照)。現在の新約聖書においては、この挨拶言葉はここにしか出てこないが、他にもう一つだけ、その使用例を示唆することができる。クラウデオ・ルシヤが総督ペリクスに宛てた手紙(使徒23:26-30)の最後に、この挨拶言葉を載せている写本である。
この言葉は、手紙を締めくくるための挨拶言葉で、日本流に言えば、「敬具」とか、「早々」にあたる。従って、手元にある聖書を見ると、「以上」(口語訳、新改訳)、「健康を祈ります」(新共同訳)、「さようなら」(現代訳)、「ごきげんよろしく」(詳訳)、「ご機嫌よう」(岩隈)などと訳されている。英語では、ほとんどが「Farewell」(欽定訳、新国際標準訳、フィリップ、改訂訳、エルサレム訳、新英語訳、リビングバイブル)であるが、「Good-bye」(今日の聖書)というのもある。語源を考慮して、「ご健勝に」とか、「お達者で」というぐらいの訳でもよいだろう。
ところで、このような挨拶言葉と、本文の中味を結びつけ、本文の命令を守れば「健やかである」など論じるのは、滑稽である。ところが、多くの証人たちは4つの命令と結びつけて理解している。協会がそう教え続けてきたからである。ところが、協会のそのような解釈の間違いを指摘する文書が数多く現れてきた。すると、協会は、『ものみの塔』誌1991年6月15日号において、それまでの解釈を訂正した。
「『健やかでお過ごしください』という表現は、『血と淫行を避けていれば、いっそう健康になる』ということを約束していたのではありません。これは単なる手紙の結びであり、『ごきげんよう』というようなものです。」
残念ながら、ほとんどの証人は、このような協会の訂正を知らない。輸血を拒否すれば、より健康でいられる、という従来の教えに、いぜんとしてとらえられている。
統治体による決定?
エルサレム会議を説明するとき、協会の文書にのみ出て来る一つの言葉がある。「統治体」である。例えば、『ものみの塔』誌1972年12月15日号(756頁)は、エルサレムの使徒会議の決定が、「クリスチャン会衆の統治体が聖霊の導きによって禁じたことでした」と述べている。『聖書から論じる』(307頁)もまた、使徒15章28節、29節を引用した際、「聖霊とわたしたち[クリスチャン会衆の統治体]とは」と説明している。『洞察』においても同様で、「1世紀のクリスチャン会衆の統治体は、聖霊の導きを受けて」とエルサレム会議について解説している(『洞察』、第二巻、180頁)。
なぜ、協会は、エルサレム会議を「統治体の会議」にしたいのか。理由は簡単である。「血を避けるように」という命令(これこそ、協会によれば、輸血禁止命令となるのだが)が、神からの絶対的な命令であることを証人たちに印象づけたいからである。証人たちは、「統治体」こそ、「神の唯一の伝達経路」であり、この「統治体」を通して、すべての真理が明らかにされると信じているのである。
ところで、協会がエルサレム会議に「統治体」という表現を使うとき、その「統治体」に、どのような人を含めているのか。『聖書研究の手助け』(英語版、244頁)は、「神の神殿の第二の土台である使徒たち(黙示録21:14)を含んだ、一世紀のクリスチャン会衆の目に見える統治体」と説明している。「使徒たちを含んだ」という表現は、使徒だけではなく、エルサレム会議で論議に加わった長老たちをも含めているように思われる。『ものみの塔』誌1991年6月15日号(9頁)の「歴史的な記録は、その後クリスチャンの統治体の会議の席で、クリスチャンはイスラエルの律法すべてを守るべきかどうかが決定された時に生じた事柄を明らかにしています」という文章は、エルサレム会議そのものが「統治体の会議」と言われている。すると、一世紀の統治体の会議は、一般のクリスチャンに公開され、一般のメンバーが参加した会議だったことになる。ところが、現代のものみの塔聖書冊子協会の統治体の会議は、11人の統治体の成員が、秘密裏に行うもので、まったく様相が違う。
むろん、「統治体」などという言葉は聖書のどこにも出てこない。言葉が出てこないだけではなく、そのような組織は、新約聖書の中に見られない。協会が、統治体の教理を教えるために使う聖句は、このエルサレム会議を除けば、他に二つだけである。一つは、エチオピアの宦官に聖書を説き明かした「ピリポ」(使徒8章)である。もし、聖書を解き明かす人を「統治体」とするのなら、世界中に統治体はいくらでもいる。また、ピリポは、宦官が信仰をもち、バプテスマを受けた後は、宦官から引き離されてしまう(使徒8:38)。すると、「統治体」は、イエスを信じるまでは必要だが、その後は不要になるはずである。まさか、協会がそのようなことを認めるはずはない。「ピリポ」の都合のよい部分だけをとって、「統治体」を読み込むのは、間違いである。
協会が「統治体」を持ち出すもう一つのテキストは、マタイ24章45-48節である。それは、イエスの到来を準備して待っている「忠実で思慮深い奴隷」の例え話である。その忠実さを認めたイエスは、その人に財産を委ねると言われた。この「忠実な奴隷」が、「統治体」だと言うのである。
これもおかしな解釈である。もし、この「奴隷」が「統治体」であるなら、「統治体」は、キリストが再臨するまでは存在しない。従って、一世紀には、「統治体」は存在しないはずである。また、例え話の後半、マタイ24章48-51節は、その奴隷が不忠実な悪い奴隷の場合に言及している。「統治体」は、イエスが話されたように、悪い僕になることもあるのか。もし、悪い僕になることがなければ、マタイ24章45-51節の「奴隷」は、「統治体」のことを言っているのではない。ルカ12章42-48節にある並行記事はマタイよりはっきりこの点を明らかにしている。
協会が「統治体」を主張するために持ち出す二つの例、「ピリポ」も「忠実な奴隷」も、実際には、「統治体」のことは何も言っていない。聖書は、「統治体」という言葉を使っていないし、そのような働きをする機関について一言も触れていない。もし、エルサレム会議を「統治体の会議」と定義づけるのであれば、一世紀の教会におけるさまざまな問題について、エルサレム会議が検討し、その結果を手紙で各教会に通達したはずである。ところが、エルサレム会議が開かれたのは、後にも先にも、この時だけである。もし、教会の中に問題が起こったなら、パウロをはじめ使徒たちが訪問したり、手紙を書いている。そのようなとき、エルサレム会議が開かれたことは一度もない。
もし、エルサレム会議の決議事項を執筆した人々が「統治体」であるのなら、パウロやバルナバは統治体のメンバーではありえない。というのは、彼らこそ、この会議で討議すべき課題を持ち込んだ張本人だからである。この手紙は、「わたしたちの愛するバルナバおよびパウロ」(15:25)、あるいは、「わたしたちの主イエス・キリストの名のために自分の魂を引き渡した人たち」(15:26)と、二人のことを述べている。ということは、二人は、「統治体」のメンバーではない。
読者よ、もう一度、よく考えていただきたい。初代教会にはたくさんの問題が起こった。だからこそ、新約聖書が出来上がった。パウロによる手紙をはじめ、新約聖書の手紙はすべて、それらの問題を解決するために書かれた。そのような問題が起こったとき、エルサレム教会で会議が開かれただろうか。パウロは、13の手紙を書き、ヨハネは3つの手紙を書き、ペテロは2通の手紙を書き、ヤコブは1通の手紙を書いた。彼らは、エルサレムにおいて、統治体の会議を開き、その結論を手紙の中にしたためたわけではなかった。
協会が「統治体の会議」と見なすエルサレム会議は、たった一度開かれたにすぎない。ではなぜ、エルサレムで会議が開かれたのか。それは、エルサレム教会所属の信徒が問題を撒き散らしたからである。
「さて、ある人たちがユダヤから下って来て、『モーセの慣例どおり割礼を受けないかぎり、あなた方は救われない』と兄弟たちに教えはじめた。しかし彼らを相手に、パウロとバルナバによって少なからぬ争論と議論が起きた時、人々は、パウロとバルナバおよび自分たちのうちのほかの幾人かが、この論争のことでエルサレムにいる使徒や年長者たちのもとに上ることを取り決めた。」(使徒15:1-2)。
エルサレムにおいて会議が開かれたのは、エルサレムの教会が他の地域の教会より高い立場にあったからではない。エルサレム教会自体が解決しなければならない問題だったからである。
エルサレム会議が「聖霊」によって導かれたことは確かである(使徒15:28)。しかし、その聖霊の導きは、エルサレム会議の占有物ではなかった。ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ地方の教会も(使徒9:31)、アンテオケの教会も(使徒13:2)、聖霊の導きの基に活動していた。聖霊の働きは、すべてのクリスチャンに与えられているものであって、特別なものではなかった。エルサレム会議が「統治体の会議」である根拠として、聖霊の働きを持ち出すことはできない。このエルサレム会議自体が、本当のクリスチャンであるしるしとして、聖霊を受けたかどうか、という事実を問題にしていた(使徒15:8)。
協会がエルサレム会議を「統治体の会議」と権威づけ、「輸血禁止」を押し付けてくることにおける聖書的根拠はない。組織は成員たちを欺いている。聖書からは、何一つ言うことができないはずである。
結 論
本章では、輸血禁止命令の新約聖書における根拠、使徒15章にあるエルサレム会議の決議事項を見てきた。結局、そこで決議されたものは、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間に一致をもたらすための必要事項だったのである。それは、永遠の禁止命令などではない。この箇所から、輸血禁止を導き出すことなど、不可能である。
輸血禁止を直接教えている聖句として、協会が用いるのは、創世記9章3-4節、レビ記17章10-16節、使徒15章20-29節の三箇所である。しかし、協会は、輸血の教えを弁護するために、他にも、取り上げている聖書箇所がある。そこで、本章では、そのような聖句を考察しよう。
そのような聖句は、二つに分かれる。一つは、協会が、輸血禁止を主張するのに、積極的に用いる聖書箇所である。他方は、輸血禁止の弁明のために触れざるをえないテキストである。前者には、血のまま肉を食べた民(Tサムエル14章24-35節)、タビタが水を飲まなかったこと(Uサムエル23章15-17節、T歴代誌11章17-19節)、神を愛するという命令(ルカ10章25-27節)、血の責任(使徒20章26節)、エルサレム会議の確認(使徒21章25節)、イエスの模範(Tペテロ2章21節)などがある。後者には、犬に肉を与えること(出エジプト22章31節)、外人居留者に対して(申命記14章21節)、非常事態のとき(マタイ12章1-8節、マルコ2章23-28節、ルカ6章1-5節)などがある。
私は、過去40年間にわたる協会の出版物には、一応目を通したつもりである。しかし、なお、もれている聖書箇所があるかも知れない。ご指摘いただければ、版を重ねるときに増補していく。
Tサムエル14章24-35節
協会は、緊急事態であっても輸血をしてはいけないことを教えているテキストとして、この聖句を繰り返し引用する。いくつか、紹介しよう。まず、『ものみの塔』誌61年12月15日号(750頁)である。
「緊急の場合であっても、血の神聖さについての神の律法を度外視すべきではないということが認められました。このことは、サウル王の指揮するイスラエルの軍隊がペリシテ人と戦っていたときに生じたひとつの出来事に示されています。...今日のあるラビたちは、生命を救うためなら、律法の要求を度外視しても良いという見解を持っていますが、彼らはそのようには考えなかったのです。人々がその時にしていたことは、神に対する罪であって、直ちにその行いを中止させる手段が講じられました。」
『ものみの塔』誌1978年6月15日号にも言及されているが、ここでは割愛する。次に、『エホバの証人と血の問題』(10頁)から引用する。そこでは、「血に関する神の律法は非常時には従わなくてもよいのではありませんか」という質問に対し、次のように答えている。
「聖書ははっきりこれを否定しています。緊急時にはその適用を緩和してよいという特例はありませんでした。サウル王の時代、イスラエルの幾人かの兵士に起きた事の中にそれを見ることができます。永井戦いのために飢え疲れたその人々は羊と牛をほふって、それを『血のままで食べだし』ました。...これが『非常時』と思えたゆえに彼らは罪を免じられましたか。そうではありません。神の任命を受けた彼らの王は、その行為を『血のままで食べて、エホバに対して罪を犯す』ことと見なしました。」
同じことが『血はあなたの命をどのように救うことができますか』の4頁に、繰り返されているが、これ以上引用する必要はないであろう。問題は、はたして、Tサムエル14章の出来事は、緊急事態であっても輸血をすべきではないことを、本当に教えているのか、ということである。そのことを検証するため、その事件を聖書の筋書きに従い、正確にたどってみる必要がある。
サウル軍とヨナタンの軍隊が、ペリシテ人と戦っていたときのことである(22-23)。サウルは、敵に復讐を果たすまでは断食するように命じた(24)。その地方の森には、蜜があったが、サウルの命令に従い、食べなかった(25-26)。父サウルの命令を知らなかったヨナタンはその蜜を食べてしまった(27)。父の言葉をヨナタンに伝えるものがいたが(28)、ヨナタンは、父の命令の方がおかしいと述べる(29-30)。民は、分捕り物を食べはじめる(31-32)。サウルに、「民は血のままで食べて、主に罪を犯している」と告げる者がいた(33)。サウルは、牛や羊をきちんとほふり、食事をするように勧める(34)。サウルは、祭壇を築く(35)。サウルはペリシテを責めるべきかどうか、神に伺ったが、答えはなかった(36-37)。そこで、だれが罪を犯しかを捜すことになった(38-39)。罪を犯したのがヨナタンであることが判明した(40-42)。サウルがヨナタンに何をしたのか尋ねると、ヨナタンは蜜を食べたことを告白した(43-44)。民がヨナタンのためにとりなしをし、ヨナタンは解放された(45-46)。
以上の出来事に対し、協会は、いくつかの点で間違った解釈をしている。まず、ここに記されている事件を緊急事態の出来事と、とらえることである。確かに、イスラエルの民は、疲れ、空腹だった。食用の肉にするため、血を抜く努力をしなかった。しかし、だからと言って、彼らが緊急事態にあった、とは言えない。特に、輸血をしなければ一命を落としてしまう、という緊急事態と比較するのは、間違っている。
ところで、サウル王は、民が分捕り物をほふり、血のままで食べてしまったという報告を聞いたとき、使者たちに次のように命じた。
「民の中に散って行ってあなた方は言いなさい、『あなた方は各々、自分の牛を、また各々、自分の羊をわたしのそばに連れて来て、ここでほふって食べなさい。あなた方は血のままで食べてエホバに対して罪をおかしてはならない。』」
サウル王は、血のままで動物の肉を食べることを罪と見なした。しかし、そのような行為を行った民を、裁いてはいない。過ぎたことを責めないで、動物の肉を、血を抜いて食用の肉にしてから食べるよう、指示した。その結果、「民は皆、その夜、各々自分の手にある牛をそばに連れて来て、そこでほふった」のである(34)。
もし、協会が主張するように、ここに記されている出来事が、緊急事態においても輸血をしてはいけないことを教えているとすれば、「血のままで肉を食べたこと」に対する罰が記されていないのはおかしい。むしろ、この記録は、緊急事態のときには(むろん、このような言い方は協会側の立場に立っての発言であるが)、「血」を食べても裁かれない、ことを教えている。つまり、協会が教えていることと正反対の結論を導き出すことができるのである。
35節は、サウルが「エホバのために祭壇を築いている」ことを伝えている。その祭壇は、民が血のままで肉を食べた罪に対してのものだったかどうかは、明らかではない。たとえもし、そうであったとしても、血のままで食べたことに対する処罰は大変軽い。このような軽い取り扱いは、このテキストを輸血と同一視することを難しくする。協会はこの疑問に答える責任がある。
この記事は、一連の出来事の中で、誰に罪の責任があるのかを問うている。くじは、まず、民に責任がないことが明らかにされる。ヨナタンかサウルのどちらかに罪があるとされたのである。最後に、ヨナタンに罪の責任がある、とされる。しかし、民は、ヨナタンの業績から、神がヨナタンと共におられるはずだ、と述べ、ヨナタンを救い出す。ヨナタンに神が共におられたのであれば、悪いのは、サウル王、ということになる。明確に述べられているわけではないが、結局、この記録の中で、責任を負わねばならないのは、敵に復讐を完了するまで、民に食物を食べないよう命じた(24節)サウル王である。それに比べれば、民が血のままで肉を食べたことなど、ここではほとんど問題にされていない。むしろ、先の『ものみの塔』誌が、サウル王のことを「神の任命を受けた彼らの王」などともち上げているのは、この記録全体の主旨をよく理解していないことに基づく。
協会は、「血のままで食べた」という出来事の前に記されている24-32節の記事、さらに、その後の36-46節の記録を無視している。ただ、民が肉を血のまま食べたことだけをとりあげる。そして、「空腹状態」だったのを「緊急事態」と想定する。そのようにして、この記録から、緊急事態においても輸血をしてはいけない、と教えるのである。協会の聖書研究の方法は、その出来事の流れ全体を完全に無視し、自分に都合のよい箇所を都合よくとりだし、自分たちが言いたいことをそこにかぶせて言っているだけである。
Uサムエル23章15-17節(T歴代誌11章17-19節)
この聖書箇所は、ダビデについて、次のようなエピソードを伝えている。
ダビデは、ペリシテ軍と戦っていたとき、咽が乾いた。20キロほど離れたところにあったベツレヘムの井戸の水を飲みたかった。彼がそのようなことをもらすと、三人の勇士が、敵陣の真っ只中を通り抜け、水を汲んできた。ダビデはそのように命をかけて水を汲んできた三勇士の行為に感動し、その水を飲まないで、それを注いで神にささげた。その際、ダビデは、「自分の魂をかけて行った人々の血を[私は飲めるでしょうか]」と叫んだ。
『すべてのことを確かにせよ』(英語版は1953年に出版、日本語版は1963年に翻訳)は、「輸血」という項目を掲げているが(51-2頁)、「血で命を救おうとすることは誤り」と述べ、ダビデが三勇士の水を飲むことを輸血になぞらえている。しかし、三勇士の水が輸血に結びつけられる理由は説明されていない。
『ものみの塔』誌1961年12月15日号(755頁)は、この記録について次のように述べている。
「ダビデは神の律法を尊重しました。彼は動物の血を避けただけではなく、人間の血を食べるという極悪の罪を避けました。ほんとうに、彼はその律法違反に思われるものさえも避けました。彼は神のみ心にかなう人でした。今日の円熟したクリスチャンたちも、ダビデのとった道と同様な従順の道に心から従います。そして、血の誤用に関する一切の行いを避けます。彼らは神を愛しているので、血の神聖さに尊敬を示します。」
協会の以上の説明は、普通の人には、とても理解できない。ダビデが「動物の血を避けた」とどこに記されているのか。ダビデが、三勇士の汲んできた水を飲んだなら、どうして「人間の血を食べるという極悪の罪」を犯したことになるのか。その水を飲むことが、どうして、「その律法違反になるもの」なのか。その水を飲まないことが、「神のみ心にかなう」のか。ダビデが「従順の道に心から従っている」などと、どうして言えるのか。わからないことだらけである。
ダビデは、確かに、「血」という言葉を使っている。それは三勇士が命をかけて運んできた「水」のことである。従って、この「血」は、三勇士の文字どおりの血ではない。「命をかけた水」を、詩的、文学的に表現したにすぎないのだ。それを協会は、なぜ、文字どおりの「血」に解釈するのか。しかも、その「血」は、神の律法が教えている「血」とも、輸血に用いられる「血」とも何一つ関係はない。協会が、ダビデの行為と輸血拒否とを結びつけようとするから、支離滅裂の解釈になってしまうのである。
『ものみの塔』誌1991年6月15日号(10頁)は、「初期クリスチャンは、命を表わす血を取り入れるよりも、進んで死の危険を犯したのです」と述べ、Uサムエル23章15-17節を比較するよう勧めている。
ここでも何を比較したらよいのか、分からない。「命を表わす血を取り入れるよりも、進んで死の危険を犯した」人物として、『ものみの塔』誌は、ダビデを考えているのだろうか。それとも、三勇士なのか。水を汲むために命をかけたのは三勇士だった。しかし、彼ら三勇士が、「命を表わす血を取り入れる」のを避けたわけではない。三勇士の命を象徴する水を飲まなかったのはダビデである。しかし、その水を得るために、ダビデ自身が命をかけたわけではない。
それとも、協会は、ダビデは咽が乾いており、もし、水を飲まなければ、死にそうだった、とでも解釈しているのだろうか。それなら、それで話は通じる。だが、実際には、ダビデは水を飲まなくても何でもなかった。だから、そんな解釈は成り立たない。あるいは、三勇士が自分の命を差し出して水を汲んだ行動を、輸血のための献血者にでもなぞらえようと、言うのだろうか。そうすれば、ダビデはその水を飲まなかったのだから、輸血拒否者に仕立てあげることも可能である。しかし、その場合は、協会は、三勇士の行動を非難しなければならない。まさか、いくら協会であっても、聖書が三勇士の行動を非難している、とまでは読み込まないであろう。
協会の出版物は、無理に輸血と結び付けて解説しようとするので、聖書の本来言いたいことをまったく分からなくしてしまう。これでは、いくら聖書を読んでも、聖書の真理に到達できない。
ルカ10章25-27節
『ものみの塔』誌、1961年12月15日号(756-7頁)は、ルカ10章25-27節の「神を愛せよ」という命令から輸血の血を供給することを禁止する。その論理はこうである。愛するとは、生命をささげることである。神を愛するとは、神にのみ生命をささげることである。生命をささげるとは、生命の中心である血をささげることである。神にのみ生命をささげるとは、神にのみ自分の血をささげることである。ということは、他の人に血を与えてはいけない、ということである。そして次のような結論に達する。
「ゆえに、この最大のいましめは、次のことを示します。すなわち、献身したクリスチャンは他の人のために生命の血を与えることはできません。生命は神のものです。そして私たちは神の奉仕に生命をささげます。隣人を愛するために、生命を与えねばならないと論ずるのも正しくありません。隣人と共同で神の律法を破ることは隣人愛ではありません。輸血は悪いと神の言葉は示しています。従って、輸血のために血を与えることも悪いのです。」
この記述は、聖書の言葉を少しづつずらして、自分が言いたいことを聖書をして言わしめてしまう典型的な例である。その欺きの巧みさには脱帽である。協会のまねは誰もできないが、あなたも、聖書が直接言っていないことを、聖書の言葉を使って言ってみたらよい。
私も、聖句を使って輸血を推薦してみよう。まず、ルカ10章27節を開いていただきたい。そこには、「あなたの隣人を自分自身のように[愛さねばならない]」という聖句がある。次に、Tヨハネ3章16節を開いていただきたい。そこには、「わたしたちは兄弟のために[自分の]魂をなげうつ努めがあります」とある。「魂をなげうつ」とは、「生命をささげる」ということである。「生命をささげる」とは、「血をささげる」ということである。従って、隣人を愛するとは、隣人に輸血をすることである。隣人を愛さねばならないとは、輸血しなければならない、ということである。
もう一つやってみよう。マタイ20章28節で、イエスは「仕えてもらうためではなく、むしろ仕え、自分の魂を、多くの人と引き換える贖いとして与えるために来た」と言われた。魂とは、生命のことである。生命の中心は血である。イエスは、多くの人に血を与えるために来た。「贖う」とは、他の人の命を救うことである。ところで、イエスは、「わたしはあなた方のために模範を示しました。あなた方も、わたしがあなた方にしたと同じようにするためです」(ヨハネ13:15)と言われた。従って、イエスのように私たちも多くの人のために血を与えねばならない。多くの人に血を与えるとは、輸血に協力することである。
お分かりいただけただろうか。聖句を勝手に解釈して結び合わせていけば、どんな結論でも導き出せる。これこそ、昔から言われた「風が吹けば、桶やがもうかる」式の聖書解釈である。
使徒20章26節
『ものみの塔』誌1961年12月15日号(761頁)は、パウロが「わたしがすべての人の血について潔白である」と述べた使徒20章26節を引用している。その記事は、クリスチャンが血について責任がない、と言えるように励ましている。
使徒20章26節の「血」が、輸血拒否とかかわりがあるような「血」を意味していないことは明らかである。むしろ、「やがて受ける神の裁きに対するその人の責任」を指している。それは、次の27節で、パウロが、神のみ旨全体(その中味は、21節によれば「神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰」だった)を宣べ伝えた、と告白していることから明らかである。
先の研究記事が、パウロの言葉を、輸血における血と結び付けているのか、伝道の責任という意味で解釈しているのかは、はっきりしない。むしろ、わざと曖昧にして、両者を含ませているのかもしれない。その結果、輸血問題における血の責任をも問おうとしているようだ。もし、そうだとすれば、これもまた欺きである。
使徒21章25節
協会は、エルサレム会議の決議事項は後々まで守られ続けてきた、と強調する。その証拠として、使徒21章25節を引用する(例えば、『ものみの塔』誌1968年4月1日号、206頁など)。一つの例だけ紹介しておこう。『エホバの証人と血の問題』(13頁)は、次のように述べている。
「使徒たちの上記の布告(使徒15:28-29のこと)はクリスチャンの永久的な努めではなかった、と論じる人々がいます。しかし、『使徒たちの活動』の書はその考えを否定しています。それは、エルサレム会議がその布告を出した約10年後に、クリスチャンたちが引き続き、『偶像に犠牲としてささげられた物、ならびに血と絞め殺されたもの、また淫行から離れているべきものであるとの決定』に従っていたことを示しています。(使徒21:25)つまり、それらのクリスチャンは、血を避けるようにという要求が、一地域に住む異邦人からの回宗者だけにあてられたものでも、またほんの短い期間だけ適用されるものでもないことを知っていたのです。」
協会のこのような解説は、使徒21章25節の背景を完全に無視している。使徒21章17-26節全体は、協会の解釈を支持しない。むしろ、エルサレム会議の禁止命令は、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンとの間に亀裂を生じさせないために与えられた、という解釈を支持する。以下、聖書の記録の流れをたどってみる。よく考えていただきたい。
パウロは、第三回の伝道旅行の終わりにエルサレムに立ち寄った(17-19)。エルサレムの長老たちは、パウロたちを大喜びで迎えた。しかし、彼らは、ユダヤ人クリスチャンのある人々が、パウロが律法を無視しているのではないかと、疑義の念をもっていることを伝えなければならなかった(20-21)。そこで、パウロに対し、律法に忠実であることを示すようにと勧告した(22-24)。
パウロは、エルサレムのユダヤ人クリスチャンの疑義の念に対し、「秩序正しく歩んで、自らも律法を守っていること」(24節)を証詞しようとした。そのような話の流れの中で、「諸国民の信者たちについては、偶像に犠牲としてささげられた物、ならびに血と絞め殺されたもの、また淫行から身を守っているべきであるとの決定を下して、使いの者を送ってあるのです」という文章が出てくる(25節)。
ユダヤ人クリスチャンは、パウロには、律法を守っていることの具体的証詞を求めた。しかし、「諸国民のクリスチャン」に関しては、エルサレム会議の決定を守っていれば十分だと、考えていた。このことは、エルサレム会議の決議事項がどのような意味をもっていたかを明らかにしている。つまり、異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンと一致していくには、エルサレム会議の決議事項を守っていればよかったのである。エルサレム会議の決議事項をそのように解釈することこそ、ものみの塔聖書冊子協会の創設者ラッセルが説いたことである。そして、初代教会から今日までの聖書研究者の解釈である。
協会が教えるように、エルサレム会議の10年後に、その会議の決議事項が持ち出されたことは事実である。しかし、それは、初代のクリスチャンたちのすべてが、エルサレム会議の禁止命令を常に守っていた、ということではない。実は、協会の出版物は、使徒21章25節を引用するとき、重要な語句を削除している。最初に出てくる「諸国民の信者たちについては」という部分である。この箇所で、「諸国民の信者たち」という句は、きわめて重要な意味をもつ。パウロに導かれた異邦人のクリスチャンたちのことが、パウロと対比されているからである。
では、協会は、なぜ、この重要な句を削除して引用するのか。理由は簡単である。エルサレム会議の決議事項が異邦人クリスチャンに対するものであることを証人たちに知られたくないのである。もし、そのことが分かれば、エルサレム会議の決議事項が、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの一致のために定められた、という一般的解釈を認めねばならなくなる。そうなると、協会は、「輸血禁止命令」を主張する土台を失ってしまうのである。
神の「唯一の伝達経路」である人々が、こんな姑息なことをしていることを、あなたはどう思うか。
Tペテロ2章21節
クリスチャンは、聖書が教えることを信じる。中でも、イエスが教えたことを大切にする。では、イエスは、「輸血」についてどのようなことを教えたのか。直接ではなくても、何かヒントらしいものはあるのだろうか。
残念ながら、何一つない。イエスは、生涯を通じて、創世記9章3-4節に関しても、レビ記17章にある「血に関する律法」についても、触れていない。その他、輸血に関係がありそうなことについては一言も触れていない。イエスは、律法は、神を愛することと隣人を愛することである、とまとめた(マタイ22:36-40)。「律法全体はこの二つのおきてにかかっており、預言者たちもまたそうです」(マタイ22:40)と教えたが、その際、血を食べることについては、ただの一言も触れなかった。
むろん、イエスが「血」について何も言及しなかった、というわけではない。弟子たちに対し、ご自身の血を「新しい契約の血」と説明された。主の記念式(聖餐式)においてである(マタイ26:27-28、マルコ14:23-24、ルカ22:20)。協会は、キリストの血を飲むことが輸血に矛盾するとは考えない。
イエスは、群衆に対し、ご自身の肉を食べ、ご自身の血を飲むように、と説教された(ヨハネ6:53-57)。
「きわめて真実にあなた方に言いますが、人の子の肉を食べず、その血を飲まないかぎり、あなた方は自分のうちに命を持てません。わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。わたしの肉は真の食物であり、わたしの血は真の飲み物なのです。わたしの肉を食し、わたしの血を飲む者は、ずっとわたしと結びついているのであり、わたしもその者と結びついています。生ける父がわたしをお遣わしになり、わたしが父によって生きているのと同じように、わたしを食する者、その者もまたわたしによって生きるのです。」
ここでイエスは、永遠の命をもつためには、イエスの血を飲まなければならない、と教えた。むろん、この「血」は、文字どおり「血」ではなく、「イエスの贖いの死」を意味している。そして、「イエスの血を飲む」とは、イエスの死を自分のものとして受け入れる、ということである。もう少し分かりやすく言えば、イエスが私たちが受けるべき刑罰を身代りに引き受け、死んでくださった、と信じることである(イザヤ53:6-12、Uコリント5:21、Tペテロ3:18)。
イエスは、「血を食べる律法」については、一言も述べていない。ところが、協会は、そのようには認めない。イエスは、血に関しても、何かを言ったはずだ、と考える。『血はあなたの命をどのように救うことができますか』(5頁)は、次のような説明をしている。
「イエスは忠誠の人であり、それゆえに非常に敬われています。イエスは、創造者の言葉を通して血を取り入れることは間違っており、その律法には拘束力があるということを知っておられました。したがって、血に関する律法を擁護させまいとする圧力のもとに置かれたとしても、イエスがその律法を擁護したであろうと考えてよい正当な理由があるのです。イエスは「悪を行なわず、[また]その唇に不実なことは見いだされなかった」のです。(ペテロ第一2:22、ノックス訳)そのようにイエスはご自分の追従者たちに模範を示されましたが、命と血に対する敬意という面でもイエスは模範でした。」
ここで言われていることを分析してみよう。
@イエスは忠誠の人で敬われている(血の問題は、ものみの塔の信仰に対して「忠誠を試される」問題なので、イエスの忠誠をもち出している)。
A創造者の言葉を通して「血を入れることは間違っている」と言われていた(イエスは創造者なる神から、「血」に関しては直接教えられていた、という前提に立っている)。
B「血に関する」律法に拘束力があると知っていた(協会が信じていることをそのまま、イエスに覆いかぶせて論じる)。
Cイエスは血に関する律法を擁護しなければならなかった、と考える(イエスの周囲のユダヤ人の中で、「血に関する律法」の理解において違った考えをもつ人がいたかのような前提で話を進めている)。
Dイエスは、その律法を擁護したと考えてよい正当な理由がある(実際には、起こらなかった状況なのに、その状況を支持するような「正当な理由」がある、と断定する)。
Eその「正当な理由」として、Tペテロ2章22節の聖句をもち出す(この聖句は、次節から、ののしられてもののしり返さない、という文脈の中で語られているのであって、「血に関する律法」とは無関係である)。
F「血の律法」のためには、「欺き」と訳した新世界訳より、「不実」と訳したノックス訳の方が都合がよいと考え、ノックスの訳文を紹介する(自分たちの主張に少しでも近い訳文を紹介するのが協会の常套手段である)。
Gイエスは、「命と血に対する敬意という面でも」弟子たちの模範であった(イエスだけではなく、イエスの弟子たちまでもが、「血の律法」に従った、と主張する)。
まことに見事に詭弁を用いた論述である。協会の教義を前提にし、元来「血」とは無関係だったTペテロ2章22節を用いて、イエスが「血の律法」に従った、と断定する。イエスだけではなく、イエスの弟子たちまでもが「血の律法」を守った、というのである。4つの福音書において、イエスが、「血」に関してただの一言も語っていないにもかかわらず。
協会は、教えたいことを、繰り返す。人間は、繰り返し流される情報が、真実である、と錯覚する。上記のイエスに関する記録も、『ものみの塔』誌1991年6月15日号(9頁)で繰り返されている。
「血で人間の命を救うという問題に関して、キリスト教はどんな立場を取っていますか。イエスは、血を用いることについてみ父が述べた事柄をご存じでした。イエスは「悪を行なわず、[また]その唇に不実なことを見いだされなかった」とあります。それはイエスが、血に関する律法を含め、律法を完全に守られたことを意味します。(Tペテロ2:22、ノックス訳)イエスはそのようにして、命と血に対する敬意についての模範を含め、追模範を残されました。」
言葉遣いが少々違うだけで、中味はほとんど同じである。先の『血はあなたの命をどのように救うことができますか』と、よく読み比べてみるとよい。
イエスは、「血の律法」に関し、一度も口にしていない。弟子たちに対しても。群衆に対しても。パリサイ人や律法学者に対しても。その点に関し、イエスは、当時のユダヤ人の考えと同じだった。だから、イエスは「血の問題」を取り上げなかったのである。
出エジプト22章31節
まず、出エジプト記22章31節である。
「野で獣に裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない。」
「獣に裂き殺されたものの肉」は、当然、血が抜かれていない。その肉を犬に与える、となると、肉の中に含まれている血も、犬に与えることになる。そうなると、「血は神聖であるから、神に返すために地に注ぎ出さねばならない」という教えと矛盾する。
この「犬」をマタイ7章6節、15章26-27節などから、「異邦人」と解釈する人もいる。しかし、出エジプト記が書かれた時代には、「異邦人」を「犬」と呼ぶことはなかった。従って、文字通りの「犬」と解釈すした方がよい。協会が出版している『聖書研究の手助け』(461頁、1044頁)も、文字どおりに解釈している。
このテキストを、ある人は、「獣に裂き殺された肉」は犬に投げ与えねばならないほど忌み嫌うべきものである、と解釈する。他の人は、犬なら食べてよいほどの無価値なもの、と解釈する。忌み嫌うべきものなのか、それとも無価値なものなのか、それはそれで興味深い問題ではある。しかし、どちらにしても、「獣に裂き殺された肉」の中の「血」は、犬の体に入ってしまう。これは、輸血禁止を説く協会には不都合な聖書箇所である。
協会は、『ものみの塔』誌64年2月15日号において、犬の輸血さえ禁じている。この聖句は、正反対のことを教えている、と言えよう。
申命記14章21節
次に、申命記14章21節を扱う。
「あなた方は、何にせよ死んでいたものを食べてはならない。あなたの門の内にいる外人居留者にそれを与えてもよい。その者がそれを食べるのである。あるいは、それは異国の者に売られるかもしれない。あなたは、あなたの神エホバにとって聖なる民なのである。」
この聖句は、興味深いことを教えている。イスラエルの民は、「死んでいたもの」を食べてはいけないが、外国人には売ってもよい、と言うのである。ところで、レビ記17章10節、15節の方は、イスラエル人と外国人寄留者との間に区別はなく、両者とも食べてはいけない、ことになっている。とすると、ここには、一見、矛盾がある。多くの聖書研究者は、レビ記が禁じているのは、人間の手で食用に殺されたものに関する律法で、自然死した動物は除外される、と解釈する。そうすれば、矛盾を解決することができる。
しかし、協会は、血の神聖さを強調するので、動物の血に関し、人間が殺したものと自然に死んだものとの区別をするわけにはいかない。そこで、その矛盾を解決するため、協会は、「外人居留者」という言葉の中味が違う、と弁明する。つまり、申命記14章21節の方は、「イスラエル人の中にいた完全に回宗者になっていなかった人」を考える。そして、レビ記17章10節の方は、「完全な回宗者」とする(『ものみの塔』誌1983年7月15日号、30頁)。そして、前者については、「神の律法全部を守ろうとしておらず、イスラエル人や回宗者からは汚れたものとみなされた死体を、独自の用途に充てたかもしれません」(『ものみの塔』誌1983年11月15日号、30頁)と説明する。『洞察』(第二巻、180頁)の弁明も同じである。申命記の「外人居留者」を「エホバの崇拝者になっていない異国の人や外人居留者」とし、レビ記のそれを「真の崇拝に加わって律法契約のもとに来た外人居留者」と説明している。
むろん、このように、同じ言葉に、違った中味を含ませて弁明することは正しい方法ではない。ある教えに基づいて調べたとき、二つのデータに矛盾が生じたなら、その考えの正当性を疑わねばならない。そうしないで、データを操作して(中味を勝手に解釈し直して)、その考えを押し通そうとするなら、どんな教えでも成り立たせることができる。協会が「血の神聖さ」という考えを守るため、「外人居留者」の定義を、申命記とレビ記の間で違えてしまうのは、聖書研究において、決してしてはならないことである。
しかし、今は、議論を進めるため、百歩譲って、「外人居留者」を協会が説明するように区別して考えよう。実は、そうしても、問題が解決するわけではない。申命記14章21節は、神の民には永遠に許されていないものを(むろん、協会の教えによれば、ということであるが)、外人居留者に与えよとか、外国人に売るようにと、勧めているのである。これは、神が、神の民に禁じられた偶像礼拝の偶像を、神の民と共に生活している不信者に与えよ、とか、自分と無関係の不信者に売るように、と勧めているのと同じである。神は、そのようなことを、本当に勧めているのだろうか。
この点に関して、協会は次のように弁明している。
「血を抜いていない死骸を外人居留者に与えたり、異国の者に売ったりすることには何ら不正なところはありませんでした。というのは、イスラエル人は事実を偽ったわけではなく、またもらう者もしくは買う者も自発的に行動したからです。」(『ものみの塔』誌1984年7月15日号、29頁)。
この説明の空しさは、誰の目にも明らかである。神の民が偶像を与えたり、売ったりした場合、もらう人や買う人は、自発的にもらったり、買ったりしているのだから、与えたり、売ったりする人には責任がない、と協会は、言っているのである。買った人の責任は大きいが、売った人にも責任があるのは、常識である。
さらに、協会は、この聖句を次のように適用する。自分がその店の主人であるなら、タバコや偶像を売ることは許されない。しかし、もし従業員であるなら、命令された場合にはそれをしてもよい。あるいは、医療関係者が、エホバの証人ではない人々に輸血をすることは差し支えない。しかし、証人たちにはいけない、といった具合いである(1974年の「王国宣教」2月号、『目ざめよ!』、82年12月22日、88頁)。ここまでくれば、言いたい放題である。
協会は、そもそも、どうしてこのような苦しい弁明をしなければならないのか。それは、「血の神聖さ」という教義を守るために、一つのことを認めることができないことにある。つまり、その一つのこととは、人が食べるために準備された動物の肉と、自然に死んだ動物の肉とは、違った扱いをしなければならないということである。
マタイ12章1-8節(マルコ2章23-28節、ルカ6章1-5節)
マタイ12章1-8節において、イエスは、安息日の律法に固くこだわるパリサイ人を批判している。ある人たちは、協会が、緊急時の輸血を認めない態度は、このパリサイ人に似ている、と批判する。そして、イエスの律法に対する態度こそ、模範にすべきではないか、と主張する。これは鋭い問いかけである。まず、その聖書の箇所を紹介しよう。
「その季節のこと、イエスは安息日に穀物畑の中を通られた。その弟子たちは飢えを覚え、穀物の穂をむしって食べ始めた。これを見てパリサイ人たちは彼に言った、『ご覧なさい、あなたの弟子たちは安息日にしてはいけないことをしています』。[イエス]は彼らに言われた、『あなた方は、ダビデおよび共にいた人たちが飢えた時に[ダビデ]が何をしたかを読まなかったのですか。すなわち、彼が神の家の中に入り、みんなで供え物のパンを食べたことを。それは、彼も、また共にいた者たちも食べることを許されず、ただ祭司たちだけに[許された]ものだったのです。またあなた方は、安息日に神殿にいる祭司たちが安息日を神聖でないもののように扱っても罪にならないことを、律法の中で読んだことがないのですか。ところが、あなた方に言いますが、神殿より偉大なものがここにいるのです。しかし、「わたしは憐れみを望み、犠牲を[望ま]ない」ということの意味を理解していたなら、、あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。人の子は安息日の主なのです』。」
『ものみの塔』誌1982年10月15日号は、「読者からの質問」欄(30頁)で、そのような批判には根拠がない、と弁明に努めている。以下が、その要約である。
まず、ダビデとその一行は、食物を得ようとすれば、その地方の状況からいって、いくらでも得られた。従って、ダビデがパンを求めたのは、緊急時だからではない。そうではなく、「誰か信頼できる人から食べ物を得ようとして」、祭司に食べ物を求めたのである。祭司が食べてよいパンというのは、「神の奉仕に携わっている人々」が食べてよいパンという意味である。ダビデは、「神に油注がれた王から与えられた特別の使命と思われるものを帯びた者」であるから、そのパンを食べるに値する。さらに、ダビデとともにいた人々も「女から遠ざかって」いたので、大祭司によって儀式上清い者と、確認された。従って、彼らもまた、祭司が食べることができたパンを食べる資格があった。
ところで、イエスの弟子たちもまた、同じ状況にあった。彼らは、その安息日前後の日に、食物を買うことができたはずである。だから、生きるか死ぬかの状況にはなかった。しかも、「安息日の本当の意味は、真の崇拝を押し進めるためのもの」であり、イエスの弟子たちは「神の言葉を教え、そのようにして真の崇拝を押し進めていた」のだから、安息日の規定を破ったことにはならない。
協会のこの弁明は、聖書が述べていることに、聖書が述べていないことを巧みにおり混ぜていることにある。例えば、ダビデとその一行が祭司のパンを食べたこと、弟子たちが安息日に穂を積んで食べたこと、イエスは、最終的には、それらの行為を罪とは見なさなかった、という点は、聖書が述べていることである。安息日の位置づけも、その表現に多少の問題を感じるが、大きく外れてはいない。
しかし、この弁明には、ごまかしが含まれている。まず、批判者の意見を極端に表現して、それを否定する、というやり方である。ある人の意見に反論するには、反論する相手の意見を十分に理解し、その上で、正確に反論しなければならない。ところが、協会の出版物には、ほとんどの場合、そのような態度は見られない。それは、輸血禁止の問題に限らない。そこで、協会の輸血禁止を批判する人の論理も正しく知る必要がある。以下、要約しておこう。
イエスの弟子たちが安息日に空腹を覚え、畑の穂を積んで食べたのを、パリサイ人が批判した。イエスは、そのような状況のときに、安息日が設けられた本来の意味から、安息日に対して杓子定規の解釈に固執するパリサイ人に対し、弁明した。このかたくなな姿勢を取り続けるパリサイ人と、輸血を拒否するものみの塔の姿勢とに共通項がある。羊が穴に落ちているのに、安息日の規定を盾にして救い出そうとしないパリサイ人は、輸血を拒否するエホバの証人にそっくりではないか。
従って、『ものみの塔』誌は、輸血を批判する人たちが、ものみの塔聖書冊子協会の姿勢とパリサイ人の姿勢の間に類比を見い出していることに対して、弁明しなければならない。ところが、先の『ものみの塔』誌は、批判者たちの意見を「命が危険にさらされている場合には神の命令を無視できる」とまとめて、そのようなまとめに対して反論しているのである。同誌は、ダビデもイエスの弟子たちも、「生きるか死ぬか」というような状況ではなかった、と一生懸命説明しているが、そのようなことは、実際にはどうでも良いことなのである。
この記事は、ダビデが「王から秘密の使命を帯びていたことをほのめかした」と述べ、祭司のみが食べることができるパンを食べることができた、と説明している。このほのめかしとは、Tサムエル21章2節の、ダビデが食糧をアヒメレクから得ようとして、アヒメレクを欺いた言葉のことである。それは、「ダビデが神に油注がれた王から与えられた特別の使命と思われるものを帯びた者として現われた」ことではない。そのような信仰を表明した言葉ではなく、サウル王からの逃避行の中で、ダビデが苦し紛れに語った弁明の言葉である(21章8節参照)。従って、この言葉から、ダビデが祭司のみが食すことができるパンを食べる資格をもっていた、などと論ずるのは、奇想天外な解釈である。
さらに、大祭司は、ダビデと同行した人々について「女から遠ざかっていた」ことを確認した。協会は、そのことを儀式上清いことと確認したとし、ダビデとそのお供の人々に「備えのパンを分け与えるのは間違ったことではありませんでした。それは神が意図された基本的な使用目的にかなうものでした」と解説する。これもまた、欺き以外の何ものでもない。こんなヘリクツをつけて祭司しか食べることができなかったパンを他の人が食べることができるようにしてしまう協会の解釈には、ただ、ただ、あ然とさせられる。
イエスの弟子たちに関しても、「神の言葉を教え、そのようにして真の崇拝を推し進めていた」から、「畑に残っていた穂を積むことはさしつかえない」と断定する。もし、この理屈が正しければ、真の崇拝を押し進めている人であれば、安息日には何をしてもよいことになる。
結局、この『ものみの塔』誌の研究記事は、輸血禁止を批判する人々に対して、何一つ有効な反論をしていない。むしろ、この弁明自体が、反対者の批判を正当なものと確信させてしまうことになる。創世記9章3-4節を引用して、輸血は神が定められた絶対命令であると解釈すること、「その律法を破ってもよいという許可を神はお与えになりませんでした」という論理、「創造者は血を神聖であると布告されました」と聖句をあげずに断定する姿勢、ローマ帝国下のクリスチャンたちの生き方に言及して自分たちの考えを弁護すること、そのような態度こそ、パリサイ人の姿とだぶる。
あらためて、マルコ2章23-28節を見ていただきたい。そして、輸血拒否を教える現代のものみの塔聖書冊子協会とパリサイ人との間にいかに類似点が多いか考えていただきたい。
パリサイ人は、イエスの弟子たちが安息日に穂を摘んでいるのを見て、イエスを非難した。そのとき、イエスは、ダビデが祭司のみ食べることを許されていたパンを食べたことを例にあげ、弟子たちを弁護し、「安息日は人のために存在するようになったのであり、人が安息日のために存在するようになったのではありません」(27節)、と答えられた。パリサイ人は、どんなことがあっても、安息日を守らねばならない、と考えていた。しかし、イエスは、安息日が設けられた精神を教え、例外的に、あるいは、緊急時のときには、安息日を破ることが許される、と言われたのである。
他の箇所で、イエスは、安息日について、次のように述べている。「あなた方のうち自分の息子や牛が井戸に落ち込んだ場合、安息日だからといってこれをすぐに引き上げない人がいるでしょうか」(ルカ14:5)。「神が与えた命を大切にする」ことこそ、「血の問題」の本当の精神である。それを、輸血拒否をかたくなに貫くことによって守ろうとするのは、現代のパリサイ人になってしまう。
結 論
私たちは、協会が教える「輸血禁止」の教えが聖書の教えかどうか、調べてきた。その結果、創世記9章3-4節も、レビ記17章10-16節も、使徒15章20-29節のいずれの聖句も輸血を教えていないことを確認できた。さらに、輸血に関連して取り上げられるどの聖句も、輸血を禁止するものではないことを確認できた。実際、聖書の中のただの一句も、輸血を禁止していない。それどころか、聖書の精神は、むしろ、輸血することを教えている。
協会が押し付ける「輸血禁止」という教えは、明らかに、「書かれている事柄を越えてはならない」(コリント人への手紙第一4章6節)というパウロの言葉に違反している。
イエスは、当時のパリサイ人に向かって、「重い荷をくくって人の肩に載せますが、自分ではそれを指で動かそうともしません」と述べている(マタイの福音書23章4節)。その姿こそ、協会の指導者たちに当てはまる。
予言者エゼキエルが、民を食い物にしていたイスラエルの指導者を非難した言葉を聞いていただきたい。
「あなた方は病気のものを強めず、病んでいるものをいやさず、打ち砕かれたものに包帯をせず、追い散らされたものを連れ戻さず、失われたものを見いだそうとせず、かえって、過酷に、それも圧制的に彼らを従わせた」(エゼキエル34書4節)。
使徒ペテロは、終わりの時代について述べている。ペテロの言葉は、ものみの塔聖書冊子協会の指導者にぴったりではないか。
しかしながら、民の間には偽預言者も現われました。あなた方の間に偽教師が現われるのもそれと同じです。実にこれらの人々は、破壊的な分派をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった所有者のことをさえ否認し、自らに速やかな滅びをもたらすのです。さらに、多くの者が彼らのみだらな行ないに従い、そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう。また、彼らは強欲にもまやかしの言葉であなた方を利用するでしょう。しかし彼らに対して、昔からの裁きは手間どっているのではなく、その滅びはまどろんでいるのでもありません。(Uペテロ2:1-3)
証人の方々に、率直に申しあげる。あなたがたは騙されている。
エホバの証人であるあなたは、聖書を愛しているはずである。聖書の神に従いたいと思っておられるにちがいない。聖書に帰ってほしい。聖書の神を信じてほしい。組織の教えや欺きに気づいてほしい。決然と立ち上がり、ものみの塔の信仰を後にしてほしい。あなたは、組織の仲間がすばらしい、と思い出されるかも知れない。しかし、あなたにとって、より重要なのは、ものみの塔聖書冊子協会の教えが真理か偽りかということである。もし、真理でないなら、組織から出る以外にない。組織の外には、あなたがこれまで見てはいけないと言われていた真の情報を与えてくれる人々がいる。あなたを助け、あなたと共に歩もうとする大ぜいの人がいる。勇気を出して、出てきてほしい。もし、手助けが必要であるなら、喜んでお手伝いさせていただく。新世界訳研究会に、ご連絡いただきたい。
新世界訳研究会 中澤啓介
神奈川県相模原市相模大野6ー9ー13
Tel 0427-43-5674 Fax 0427-48-1959