十字架か杭か

新世界訳研究会 中澤啓介

 本書はエホバの証人が「イエスが処刑されたのは十字架ではなく杭であった」とする教えに対する反論である。学問的・聖書的にも格調が高く、説得力に富んだ本格的な労作である。

 本原稿の完成版は一冊の書物として印刷されており、希望者は950円で「新世界訳研究会」(神奈川県相模原市相模大野6−9−13 042-743-5674)に申し込み購入することができる。


目 次
 
手紙を受けとって
書物を執筆した理由
 
第一章 協会の主張
ラッセル時代、十字架はシンボルマークだった
ラザフォードが杭だと言いはじめる
変更した歴史的事情
真理と虚偽が折り混ざって
 
第二章 協会の悪引用
スタウロスについて
『新聖書辞典』の悪引用
『国際標準聖書百科事典』の悪引用
『インペリアル聖書辞典』の悪引用
クシュロンについて
ラテン語のクルクス
十字架は異教のシンボルか
タンムズの神
エジプトのクルクス・アンサータ
十字架がキリスト教に入ってきた背景
バインの辞書について
十字架をもつことについて
 
第三章 初代教会教父の文献から
イグナチウス(西暦30-107年)
バルナバ(西暦100-150年)
殉教者ユスチヌス(西暦110-165年)
シビュラの託宣
ペテロ行伝
パウロ行伝
トマス行伝
テルトリアヌス(西暦200-250年)
ミヌシウス・フェリクス(西暦210-250)
 
第四章 考古学の証拠
二百年祭の家
エルサレム近郊の納骨堂
廃墟の壁画
家族の墓
釘の刺さった骨
 
第五章 聖書の証言
批判者に対する対応
釘の数
罪状書きの位置
手を伸ばす
十字架を負う
イエスの十字架
 
第六章 十字架についての考察
ローマ以前の状況
ローマ世界の状況
処刑方法
ユダヤ世界において
十字架刑の廃止
イエスの死
スタウロスについて
 
結 論
 
*****************************
 
手紙を受けとって
 
 本書のタイトルは、「十字架か、杭か」である。なぜ、このようなタイトルの書物を書かねばならなかったのか。理由は明解である。数か月前、次のような一通の電子メールを受け取ったからである。
 
 はじめまして。私は東北大学に在籍する者です。
 キリストの十字架に関する質問をしたいのですが、よろしいでしょうか。私は今まで「キリストは十字架で磔になった」と思っていましたが、インターネットで、次のようなエホバの証人と反論者の対話を見つけました。
エホバの証人:十字架についてですが、古典(ここが大事)ギリシャ語では、スタウロスという語はまっすぐな杭をさしています。十字架(2つの杭を十字にしたもの)の起源は、西暦3世紀の半ばとされています(バイン著、『新約聖書用語解説辞典』参照)。つまり、キリストは十字架の上で死んだわけではないので、エホバの証人の本では、十字架は出てきません(「苦しみの杭」と訳されています)。
反論者:新世界訳の個性としてなら個人的に許容できます。Liddel & Scottのギリシャ語の辞書には、はっきり『cross』と、書かれています。
エホバの証人:恐らくその辞書は、3世紀以降のスタウロスの訳を、当てていると思います。大事なのは、その当時、つまりイエスがおられた当時です。ことばは時代とともに変わるのです。ギリシャ語も古代の単語を現代の意味で読むのはどうでしょうか?
では、仮に、「スタウロス」に、16世紀ごろ「星型」という意味がついたとします。どこかの翻訳者が、1世紀にも「星型」という意味で使われていたと勘違いし、使徒5章30節を、「あなた方が星型に掛けて殺したその方をよみがえらせました」と訳したら、信じますか?
同様に、3世紀以降の「十字架」という意味で訳したのならどうですか?
新世界訳はできるだけ厳密に訳しているのです。ギリシャ語といっても、プラトンの時代の古典ギリシャ語と、イエスの時代のコイネーと、現代ギリシャ語では意味、スペル、発音が語によっては、全然違うのです。日本語の比ではないと思います。(少なくとも発音は全然違う、まったく別の言語に思えます。)
 「十字架(クロス)」と「まっすぐな杭(スタウロス)」のどちらが正しいのでしょうか。普通の聖書の訳は間違っているのですか。
ご返答をお待ちしております。
 
 お手紙を受けとり、早速お返事しなければ、と思った。だが、簡単な返事ではすまされない。なぜなら、このエホバの証人の反論は、ものみの塔協会(以下、協会と略す)が主張していることを正確に反映していないので、まず、協会の主張を正確に紹介し、その上で反論しなければならないからである。
 
 では、協会の主張とはどのようなものか。詳しくは、本書で展開する。しかし、簡単に言えば、次のようなものである。
 「ギリシャ語のスタウロスという言葉は、古ギリシャ語においても、コイネーのギリシャ語においても、十字架という意味はなく、「まっすぐな杭」を指していた。ところが、四世紀になってから、コンスタンチヌス大帝が異教のシンボルであった十字架をキリスト教にもち込み、キリストが十字架につけられたと信じさせるようにした。」
 ところが、インターネット上で論じているエホバの証人(以下、証人と略す)は、ギリシャ語を、古典、コイネー、現代の三つに分類し、「ギリシャ語といっても、プラトンの時代の古典ギリシャ語と、イエスの時代のコイネーと、現代ギリシャ語では意味、スペル、発音が語によっては、全然違うのです。日本語の比ではないと思います。(少なくとも発音は全然違う、まったく別の言語に思えます。)」と発言している。筆者は、古典ギリシャ語の文献を十年以上にわたって、読んできた者である。従って、この発言には多くのコメントすべきことをもっているが、本題からずれるので、今は、控えておきたい。
 論者である証人は、ここで、スタウロスの現代ギリシャ語の意味を問題にしているわけではない。とすると、上記の発言は、古典のスタウロスとコイネーのスタウロスは意味が違う、と言いたいことになる。とすれば、古典は「杭」で、イエス時代のコイネーは「十字架」ということになる。そのようなことを主張したいわけがない。これでは、論者は否定したいことを証明してしまうことになるからである。
 従って、上記の発言の意味が解せない。
 あるいは、ひょっとすると、この証人は、3世紀半ば以降のギリシャ語を現代ギリシャ語と考えているのだろうか。そして、スタウロスについては、古典とコイネーの間の相違ではなく、古典及びコイネーと現代ギリシャ語との間の違いを問題にして論じているのだろうか。
 それならそれで、話のつじつまは一応合う。しかし、それでは、3世紀のギリシャ語を現代ギリシャ語に含めなければならなくなる。
 いくらなんでも、論者がそのような誤解をしているとは思えない。
 この証人は、バインの『新約聖書用語解説辞典』を基にして、「十字架(2つの杭を十字にしたもの)の起源は、西暦3世紀の半ばとされています」と述べている。むろん、バインがそのようなことを述べているはずがない。実際、バインは、十字架は古代カルディア人にはじまった、と述べている。それは、西暦前7世紀のことで、論者が主張している時より、およそ千年も前のことになる。
 むしろ、バインの著書が述べていることは、3世紀半ば頃までには、さまざまな形態の十字架のシンボルがキリスト教会の中に入り込んできた、ということにある。協会は、バインの書物のこの箇所をしばしば引用している。だが、正確に言えば、協会は、このバインの見解を採用しているわけではない。およそ百年遅い、4世紀の半ば近くに、太陽神を崇拝していたコンスタンチヌス大帝が、異教のシンボルであった十字架をキリスト教にもち込んだ、というのが協会の見解である。このような珍奇な考えを支持している書物は、私が調べた限りではない。
 証人たちは、通常、協会が教えることをそのまま鵜呑みにしている。しかし、インターネットの論者は、協会が教えていることをそのまま受け取っているようには思えない。多分、協会が説いていることを正確に理解していないのであろう。従って、その論者に反論しても無駄なことになる。
 むろん、筆者は、この論者を責めているわけではない。むしろ、何をどのように答えたらよいか、筆者が戸惑ったことを知っていただきたかった、というだけである。というのは、この種の学問的な議論は、問題を正確に把握し、論点を明確にして進めなければならないからである。
 証人の方々のほとんどは、ギリシャ語の専門家ではない。また、協会の出版物以外の資料に当たることはないであろう。協会の教えに批判的な書物を読むことは、大変勇気のいることであり、ましてや、それを正当に評価することは、ものみの塔の信仰をもっている人(協会が説く聖書の教理体系をそのまま信じている人)にとっては、至難の業である。だから、筆者は、いかなる証人の方であっても非難する気にはなれない。
 ただ、一つだけ、証人の方に、お願いしたいことがある。協会の出版物を読んだだけで、協会が教えている教理を弁護しないでいただきたい、ということである。
 というのは、協会の主張は聖書を正しく解釈していないことが多いし、歴史的資料を正確に検証していないからである。さらに、協会出版物は、学問の世界では考えられないような不誠実な引用をしているからである。このことは、本書を終りまで読んでいただければ、分かっていただけると思う。
 
 
書物を執筆した理由
 
 話をはじめに戻そう。筆者は、メールをくださった方に、ものみの塔協会の教えに反論する資料を送ろうとした。ところが、残念なことに、日本語では、この問題を扱った資料は皆無に等しいことが分かった。
 それもそのはずである。「十字架か杭か」などという問は、キリスト教世界(エホバの証人が正統的なクリスチャンに使う言葉)の人々にとっては、考えもしないことだからである。筆者自身、もし、証人の方々と話し合う機会がなかったなら、そのような問いが存在することすら知らなかったであろう。
 しかも、例え、そのような問題が存在していることを知ったとしても、キリスト教世界の人々は、「十字架でも、杭でも、そんなことはどちらでもいいことではないか」と、一笑に臥してしまうと思う。筆者自身も、長い間そう思ってきた。
 イエスは、全人類の身代りとして、罪を背負ってご自身の命を差し出された。その場所が十字架上であろうと、あるいは、杭の上であろうと、その贖いの意味や効果は、変わらない。十字架は、贖いの単なるシンボルにすぎないので、杭でも十字架でもどちらでもよいではないか。これが、平均的なキリスト教世界の人々の反応である。
 つまり、「十字架か杭か」という問そのものが、ナンセンスであり、真面目に応答する必要を覚えていなかったのである。従って、そのような問いを扱った資料は皆無なのである。
 では、なぜ、筆者は、「十字架か杭か」などという書物を論じる気になったのか。それは、次のような『ものみの塔』誌の文章にぶつかったからである。
「あなたがキリスト教国の教会に属していられるなら、十字架が異教の象徴であるということを教会でお聞きになったことがありますか。もしないとすれば、教会は真実を隠しているのです。そして明白な異教の象徴を崇めるようにすすめていることになります。」(『ものみの塔』誌1968年5月16日号、317頁)。
 筆者は、三十年以上、キリスト教会の牧師をしている。その間、ただの一度も、「十字架が異教の象徴である」と話したことはなかった。この『ものみの塔』誌によれば、筆者は「真実を隠している」ことになる。しかし、それは飛躍した論理であり、言いがかりである。私たちにとっては、「十字架は異教の象徴である」のではなく、「十字架は全人類の贖いの象徴である」のだ。だから、真実を隠しているなどと言われるのは、心外である。
 十字架は、贖いのシンボルである。キリスト者は、その十字架に、自分の罪が赦された事実を見る。神と人が和解できる根拠を見る。人と人との間の隔ての中垣が、それによって取り除かれたのだ。罪と死は、それによって滅ぼされた。サタンに対する決定的な勝利がそこにおいて宣言されたのだ。それが十字架なのだ。
 しかし、証人たちは、思うだろう。そのような十字架理解は、背教したキリスト教会の考えであって、聖書の教えではない、と。
 ほんとうは、このような十字架理解こそ、聖書の教えであるのだ。そのことを証人の方々に知っていただく必要がある。このような迫りこそ、本書を執筆した理由である。
 この執筆の背景には、次のようなこともある。筆者は、数年前、証人の方から、面と向かってこんなことを言われた。
「十字架は異教に由来しています。それを用いることは背教のしるしです。偶像崇拝をしていることになります。」
 筆者は、そのときは、その証人が、キリスト教のことを知らないため、勝手にそう思い込んでいるのだ、と聞き流した。でも、それから、十字架を見て震え出す何人もの証人たちに出会った。そんな経験から、その証人が話したことは、自分の個人的考えというより、組織の教えなのだ、と気づいた。
 「サタンが十字架の中に宿っている」とか、「十字架を通して悪霊が働く」などという言葉も、証人から聞かされた。さらに、「エホバの証人にとっては、キリスト教の会堂は、イスラム教の寺院や仏教のお寺以上に異教的である」という文章にも出くわした。
 パウロは、十字架が、ユダヤ人にもギリシャ人にもつまづきだった、と述べている(Tコリント1章18節)。しかし、十字架は、エホバの証人にとってもつまづきなのだ。また、十字架に敵対する者が多い、とも述べている(ピリピ3章18節)。しかし、エホバの証人もまた、十字架に敵対しているのだ。
 しかし、この責任は、個々のエホバの証人にあるわけではない。協会が、十字架に関する奇抜なストーリーをつくりあげ、証人たちに教えた結果なのだ。協会のリーダーこそ、証人たちを欺き、真実を隠している。協会リーダーに対する煮えくり返るような怒りを押えることが困難になってきた。
 しかし、もう一つのささやきが、聞こえてきた。責任を他人に転嫁するだけでよいのか。あなたは、真実を明らかにするためにどれだけの努力をしたのか、と。
 そのような声に強く促され、ペンを取りはじめた。というより、ワープロをたたきはじめた。
 最後に、本書を執筆しているとき、いつでも心に留めてきたみ言葉がある。その言葉を読者の皆様に知っていただき、本書を祈り心で読んでいただきたいと思う。
「これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。」(Uテモテ2章14節)
 
 
   
第一章 協会の主張
 
 ある問題を論じるには、問題の所在を正確に把握することからはじめなければならない。「十字架か、杭か」という問題に答えるためには、ものみの塔協会の主張を、正確かつ十分に理解しておかねばならない。そこで、協会の主張を検証することからはじめよう。
 
ラッセル時代、十字架はシンボルマークだった
 
 今日の協会は、「イエスは、十字架ではなく杭にかけられた」と教えている。ところが、協会は、その歴史の初めから、そのように教えてきたわけではない。
 ラッセルは、独自の聖書解釈に基づいていくつかの独特な教理を教えはじめた。1878年頃、彼が26才のとき、ものみの塔聖書冊子協会という宗教団体(むろん、当時は、『シオンのものみの塔冊子協会』という別の名称だった)を組織した。
 しかし、ラッセルは、イエスの処刑された道具(以下、刑具と略す)が「十字架」だったことを疑うことは一度もなかった。彼は、たくさんの説教、論文、聖書の注釈書を残している。今は、それらの資料をCD−ROMで検証することができる。それらのどれ一つをとってみても、イエスが杭にかけられた、と教えた箇所は出てこない。
 そのCD−ROMにおいて、ラッセルの時代に発行された『ものみの塔』誌を見ることができる。驚くべきことに、それらの表紙には、冠に囲まれた十字架が描かれている。毎号である。それは、そのしるしがラッセル時代の協会のシンボルマークだったことを意味する。多くの研究者は、そのシンボルマークがフリーメーソンのしるしと関係があったことを明らかにしている。しかし、その問題は、本書の論題からそれるので、今は、扱わない。ただ、ラッセル時代には、杭ではなく、十字架だと受け止められていたことを確認しておこう。
 ある人々は、イエスが釘磔になった道具が杭であったという考えは、ラッセル時代にはなかったから、協会が十字架をシンボルに使ったことを責めるべきではない、と主張するかも知れない。しかし、それは正しいことではない。協会が、イエスの刑具は杭であったとの主張を弁護するために引用する書物の多くは、前世紀の終りから今世紀の初めにかけて、既に出版されていた。『コンパニオン・バイブル』やバインの書物も(これらの書物については、後にふれる)。むろん、彼らの説は、ほとんどの人にとって受け入れられないものであったが。
 このことは、協会が教えている一つの教理に照らしてみると、大きな矛盾を露呈する。実は、協会は、1914年に天に臨在されたイエスは、1918年頃、地上のすべての宗教団体をお調べになり、ものみの塔協会だけを清い、唯一の神の組織と是認された、と教えている。もし、その教えが真実であるなら、イエスは、異教に起源をもつ十字架をシンボルマークに使っていたものみの塔聖書冊子協会を是認したことになる。むろん、当時は、十字架だけではなく、クリスマスも行い、輸血もしていたグループである。
 もし、あなたがエホバの証人であるなら、ちょっと考えていただきたい。ラッセル時代のエホバの証人を、十字架を偶像崇拝していた人々と断罪するだろうか。多分、そのようなことは、しないと思う。例え、当時の『ものみの塔』誌の表紙に、「十字架」がシンボルマークとして描かれていたとしても、そのことだけで、当時のエホバの証人を偶像崇拝呼ばわりすることは、失礼ではないだろうか。
 もし、そのようなことをしないとすれば、現在のキリスト教世界の人々に対しても、同じ態度をとるべきではないだろうか。十字架に限って言えば、ラッセル時代のエホバの証人と、現在のキリスト教世界のキリスト者の間には、何一つ違った考えは存在しない。従って、一方だけを偶像崇拝者呼ばわりするのは、不公平となる。
 
 
ラザフォードが杭だと言いはじめる
 
 ラッセルが死亡し、ラザフォードが二代目の会長に就任した。彼が会長になってからも、その最初の十年間は、十字架について、何の疑問ももっていなかった。
 ラザフォードは、1920年に、『神の立琴』という書物を出版した。その第六章は、「贖い」というテーマを扱っている。その章の初めには、十字架にかけられたイエスの絵が掲載されている。それは実に見事な絵で、本書の表紙に紹介したものである。表紙の絵をもう一度じっくり見ていただきたい。あなたは、それが、協会の出版物に掲載された絵であるなどと、ほんとうに信じることができるだろうか。
 この絵を証人に見せると、大抵の証人は、筆者が他の書物から抜いてきて挿入した偽物だと疑う。今日のエホバの証人には、それほど信じ難い絵である。
 では、協会は、いつ頃から、十字架ではなく杭だと言いはじめたのか。1930年代に入ってからである。1975年の年鑑(148頁)は、次の三つのことを記述している。
1)1928年のデトロイトの大会において、「十字架と冠の表象は不必要なばかりか好ましくないことが示された。」
2)1931年の10月15日号の『ものみの塔』誌の表紙から、十字架と冠の表象が外された。
3)1936年に出版された『富』という書物において、はじめてイエスが杭にかけられたことが明らかにされた。
 この3)については、『ものみの塔』誌1995年5月15日号(20頁)も確認している。
「協会が1936年に発行した『富』と題する本は、イエス・キリストが十字架ではなく、1本のまっすぐな棒杭もしくは杭に掛けられて処刑された、ということをはっきり述べました。」
 筆者の手元に、日本語に翻訳された『富』という書物がある。その26頁には、次のように記されている。
「然からば、何故にイエスは木に釘づけられたのであろうか。イエスは二本の材木の交差した所謂「十字架」の上に釘づけられたのではなかった。人間が考案して拝んでいる偶像絵画に示されてあるやうな十字形のものではなかったのである。身体は木の上に釘づけられたのである。」
 協会は、50年以上にわたって、十字架をシンボルマークに使ってきた。従って、それをいきなり変えるわけにはいかない。そこで、注意深く進めた。まず、そのシンボルマークがふさわしくないことが示されたと言っておく。そして、3年後に、そのシンボルマークを外す。そして、それから5年後に、杭だった、と教えはじめたのである。
 
 
変更した歴史的事情
 
 考えてみると、イエスの刑具が杭であると示されるのに、ずいぶん長い時間を要したものである。1870年代の半ばにはじまったものみの塔聖書冊子協会というグループは、今日では120年の歴史をもつことになる。その最初の半分の期間は、杭ではなく、十字架を信じてきたことになる。今日の協会の判断によれば、1930年頃までのエホバの証人たちは、異教に起源を有する崇拝物をシンボルに掲げ、十戒の三戒を破った偶像崇拝者たちのグループになる。
 信仰の根幹に関わる重要なことを、エホバ神は、ずいぶん長い間放置しておかれたものだ。もし、エホバ神が、ラッセルたちの聖書研究者グループを選ばれ、ご自身の唯一の伝達経路にされたというのであれば、最初に、十字架の問題にふれられるはずではないだろうか。「新しい光」を与えて(教理を変更するとき、証人たちは、このように言う)、証人たちを異教から切り離させるのに、なぜ60年もの長い時間を要したのか。理不尽なことだと思うのは、おかしいのだろうか。
 協会によってよく引用される『コンパニオン・バイブル(Commpanon Bible)』は、その付録の中に、イエスの刑具は十字架ではなく杭だった、と述べている。その書物は、1885年、ロンドンにおいて出版された。協会に新しい光が照る40年以上も昔のことである。また、協会が自説を弁証するためしばしば引用するバインの書物も、今世紀の初頭から5冊に分けられて、順次出版された。
 このような書物は、いずれも、専門家を対象としたものではなく、一般の読者の聖書研究のために用意されたもので、大変ポピュラーなものだった。従って、誰でも、手にすることができた。しかしながら、十字架に関して説明した部分については、聖書学者、歴史学者、言語学者の中で賛成する専門家はほとんど現れなかった。ほとんど、と言ったが、筆者が知る限り、一人もいない、と断言してよい。むろん、それは、伝統的な見解と異なる、という理由からではない。現代のギリシャ語学者は、歴史的資料を正確に検証して結論を出しているのであって、キリスト教信仰に影響されて判断するようなことは絶体にない。
 ところで、これらの書物は、誰でも手にすることができたもので、ラッセルやラザフォードが知らなかった、とは考えにくい。ラッセルが多読家だったことは有名である。彼が残しているたくさんの著述は、上記の書物を知っていたと推測させる。筆者は、ラッセルは、十字架に関するこれらの書物の主張を知ってはいたが、問題にもしなかった、と思っている。
 ラザフォードについても同じことが言えるであろう。彼は、「十字架は好ましいものではない」と示された年を、1928年としている。それより前から、上記の書物に接し、その主張を無視してきたのかも知れない。あるいは、その頃、上記のような書物に接し、十字架説を廃止し、杭説を主張しはじめるようになったのかも知れない。
 むろん、ラッセルの場合も、ラザフォードの場合も、正確なことは分からない。ただ、重要なことは、ラッセルやラザフォードが、十字架を信望している間も、キリスト教世界の聖書研究者の中には、イエスの刑具が杭だったと主張している人たちがいた、ということである。むろん、そのような人々は少数派であり、専門家の間では、評価されなかった、と言わねばならないけれど。
 ところで、一番大切なことは、どうして、ラザフォードは、1930年代前後になって、十字架から杭に変更したのか、ということである。
 手元にある資料から、筆者は、その背景を次のように推測してみた。必要であれば、ここに述べたことに関する参照資料をお送りする。ご自分で筆者の推測を検証していただきたい。
 ます、1916年にラッセルが死ぬと、協会内部に、主導権争いが表面化した。
 ラッセルは、生前、遺書をしたため、五人のメンバーによる委員会制で、組織を運営していくよう指示していた。ところが、組織内部に激しい権力闘争が起こり、警察まで導入された。そのような中で、遺書の中では序列の第七番目に位置していたラザフォードが会長に就任し、実権を握った。
 ラザフォードは、20年代の初めまでには、協会内部で彼に反対する人々を追放し、協会全体を掌握することができた。彼は、弁護士の知識とそれまでの苦い経験を踏まえて、鉄の組織をつくることに専念した。組織を引き締めるため、新しい書物を出版し、23年には、種痘禁止を打ち出し(これは、52年に解除する)、組織内部を統制していった。そして、1925年に、世の終りが来ると預言した。
 ラザフォードにとって、この1925年という年は、きわめて重要な年だった。というのは、ラッセルは、1874年にキリストが臨在され、1914年にハルマゲドンが来ると信じていた。ところが、この1914年にハルマゲドンが来て、この世のすべてが終わるという預言は成就しなかった。その結果、当時の協会の中には、大きな混乱が生じた。しかし、協会は、1874年のキリスト臨在説をそのままにし、それから50年後の1925年をヨベルの年と言いはじめた。その年に、アブラハム、イサク、ダビデなどが復活してくる、と主張しはじめたのである。
 しかも、協会は、そのような旧約聖書の聖徒たちの復活に備え、彼らの住居として、「ベッサリムの家」と言われる邸宅まで準備した。その家は、現在では、他人の手に渡っているが、今でも、カリフォルニア州のサンディエゴに存在する。
 1925年が到来した。そして、何事も起こらずにその年が過ぎ去った。むろん、証人たちの期待は裏切られ、誰も復活してこない現実に、失望した。ここに至って、ラザフォードは、教理を整備する必要を余儀なくされた。そこで、ラザフォードは、1874年のキリスト臨在説を破棄し、ラッセルがハルマゲドンと信じた1914年をキリストの臨在した年に変更した。
 ラザフォードは、証人たちの失望と落胆の矛先を他に向ける必要があった。そのタ−ゲットになったのがキリスト教世界である。実は、ラザフォードは、その時より数年前、1917年から18年にかけて投獄されなければならなかった。その背景には、キリスト教世界の僧職者階級の陰謀があった、と彼は考えていた。従って、その時以来、キリスト教世界に対し、激しい憎悪の感情をもっていた。そこで、キリスト教世界に証人たちの不満の感情を向けさせるため、キリスト教世界を徹底的に攻撃しはじめたのでる。
 協会の攻撃が効果的であるためには、キリスト教世界を背教者に仕立てる必要があった。そこで持ち出されたのが、異教に由来する十字架を、キリスト教会がシンボルに使っている、ということだった。むろん、他にも、クリスマスを祝うことや、エホバという神の名前を使わないことなどがあげられた。
 このようにして、ラザフォードは、キリスト教の背教性を指摘し、ものみの塔協会のみが「唯一の神の清い組織」であることを認識させようとした。その試みは、少なくとも組織の内部においては、成功したと言わねばならない。組織のカルト化という大きな犠牲をはらいながらであったが。
 以上のような事情が、協会が「イエスは、十字架ではなく、杭にかけられた」と主張するようになった歴史である。むろん、それは筆者の歴史解釈である。だが、それを背教者の解釈と即断し、拒否しないでいただきたい。筆者としては、「十字架か杭か」という問題の起こりを歴史的にたどりたいと願って、少々の洞察力を働かせた。通常の学問的センスをもって読んでいただくなら、検証されるべき仮説として論議していただけると思う。
 組織は、それがどんな組織であれ、組織が教えたい歴史がある。それは当然のことで、それはそれでよいと思う。しかし、組織が教える内部の歴史は、大抵、不都合なことは払拭されている。残念ながら、協会も同じである。協会は、数年前、『エホバの証人−触れ告げる人々』という協会の歴史をまとめた書物を出版した。証人たちは、分厚い、立派な装丁をしたその書物を見て、組織の歴史が正確に記述されている、と思い込んでしまう。しかし、それは欺きである。その書物は、組織にとって不都合なことはほとんどふれていない。まったくの内部向けの、組織の歴史を弁護した書物である。機会があれば、それについて詳しく論じた書物を著わしたいと思っている。
 
 
協会が展開する論理
 
 1930年代後半から、イエスは、十字架ではなく杭にかけられた、と協会は主張するようになった。それによって、協会の出版物は、本書の表紙のもう一つの絵のように変わって行った。そのような絵によって訴えようとした最大のポイントは何だったのか。それは、むろん、単なる歴史的な事実を問題としているのではない。十字架の中に含まれている(と、ものみの塔協会が考えている)宗教的な意味を問題にしているのである。
 その点について、『ものみの塔』誌1987年8月15日号(29頁)は、次のように説明している。
「したがって、24ページに掲載されているような、イエスの死を描いた当協会の出版物の絵は、解剖学上の絶対的な主張ではなく、道理にかなった芸術的な解釈にすぎないことが分かります。こうした絵に、学者の変わりやすく矛盾した意見を取り入れる必要はありません。また当協会の出版物の絵は、古代の異教に由来する宗教的な印象をきっぱり退けています。」
 杭につけられたイエスの絵は、「古代の異教に由来する宗教的な印象」を払拭していると、ここには記述されている。そのことこそが、ラザフォード以来、協会が問題にしてきたことなのである。ラザフォードは、単に歴史的興味から、イエスがかけられたのは十字架ではなく杭だった、と主張しはじめたわけではない。キリスト教のシンボルとして普及している十字架が、異教に由来することを公言し、キリスト教世界を背教者のグループ、偶像を拝む人々、と糾弾することに真の目的があったのである。
 協会は、普通の人が普通に聖書を読んだだけではとても思いもつかない考えを、聖書の中に読み込んでいく。例えば、地上に楽園が来ること、小さな群と呼ばれる144,000人だけが天に行くこと、思慮深い忠実な奴隷級と言われる統治体なるものが存在すること、新約聖書にもエホバという神名が237回出てくること、全人類は輸血禁止の戒律を守らねばならないこと、などなどである。
 そのような教えは、聖書を読んだだけでは出てこない。組織が聖書の中に読み込んだ独特な教理である。それは、いくつかの特定の聖句に独特の解釈を施し、それをある順番に並べ替え、独特な理屈をつけてつくりあげたものである。
 イエスが十字架にかけられたというキリスト教の信仰は、異教に由来するシンボルで、それは偶像崇拝である、という協会の主張も同じである。十字架を偶像として拝んでいる人など、筆者の周囲には、一人もいない。それは、証人の方が、キリスト教世界の人々を観察するなら、すぐ気づくはずである。実際、組織を出てから協会が教えていることを調べ直してみると、協会の教えが現実とは余りにかけ離れていることを知って驚くはずである。ところが、協会の教えが自分の脳裏に深く刻まれているときには、現実を素直に見ることができず、事実を正確に把握できなくなってしまうのである。
 では、協会は、どのような理屈を重ねることによって、十字架を信じるキリスト教世界を異教の偶像崇拝者に仕立てていくのか。その論理を紹介しよう。
1)有名な辞典によれば、「十字架」と訳されている「スタウロス」というギリシャ語には、もともと一本の杭という意味があった。
2)それを基にして、イエスは一本の杭にかけられた。
3)イエスがかけられた刑具を指しているもう一つの言葉として、新約聖書が「クシュロン」というギリシャ語を使用している。
4)その「クシュロン」は「木」を意味するので、「スタウロス」が一本の杭であったことは確証される。
5)一方、十字架は、古来からいろいろな地方で、異教の信仰において、その信仰を表すシンボルとして用いられてきた。
6)4世紀のコンスタンチヌス大帝は太陽崇拝者であったが、異教のシンボルだった十字架をキリスト教の中に持ち込んだ。
7)その結果、キリスト教世界は、十字架を崇拝する背教的なグループに堕してしまった。
8)以上のようなプロセスを経て、キリスト教世界は、イエスが十字架にかけられたと信じるようになってしまった。
 
 
真理と虚偽が折り混ざって
 
 以上のような協会の論理展開は、この種の問題に予備知識でもない限り、もっともらしく聞こえるであろう。しかし、それは、真理を一部含んでいる情報を巧みに操作して作り出した「ストーリー」である。
 ストーリーは、例えフィクションであったとしても、いくぶんかの真理を含んでいる。すべてが間違った情報ばかりでは、ストーリーにならない。協会が、イエスは杭につけらたと言うとき、それは全体として間違いであるが、その論理を組み立てていく過程においては、真理を内包している。そのことをまず、指摘しておこう。
1)例外的ではあるが、キリスト教世界の出版物の中にも、キリストが杭にかけられたと主張している書物はいくつか存在する。
2)ギリシャ語の「スタウロス」という言葉は、もともと一本の棒という意味で使われていた。
3)イエスの刑具について、新約聖書の5箇所において、「クシュロン」というギリシャ語が使われているが、それは、通常、「木」を意味している。
4)十字架と関わりがある図柄は、古代から、いろいろな地方で、異教の信仰のシンボルとして用いられた可能性がある。
5)1、2世紀のキリスト者たちは、ユダヤ教を背景にしていたこともあって、偶像と誤解されるような像をつくることは避けようとした。
6)4世紀以降、キリスト者の間には、十字架がキリスト教のシンボルとして採用されるようになった。
 しかし、協会の主張には、問題も含まれている。では、どのようなことが問題なのか。指摘しておこう。
1)まず、コンパニオン・バイブルであれ、バインの辞書であれ、「スタウロス」というギリシャ語の説明部分は、一般に認められている見解ではない、ということである。協会が引用する書物の見解は、他の書物にはほとんど見いだすことができない少数意見である。むろん、少数意見であるから真実でない、ということではない。真実である場合もあるし、そうでない場合もある。慎重に、検証される必要がある、ということである。
2)権威ある辞書はすべて(私が調べた限りでは、文字どおりすべて)、「スタウロス」は、もともとは一本の棒として使われていたが、イエス時代のローマ世界においては、伝統的な形態の「十字架」という刑具に対して使われていたことを明らかにしている。
3)ヘブライ語には、十字架に当たる言葉はなく、十字架は「エイツ(木)」という言葉に含まれていた。その「エイツ」というヘブライ語に、七十人訳ギリシャ語旧約聖書が「クシュロン」という訳語を当てたので、ユダヤ人の世界では、クシュロンというギリシャ語には十字架が含まれていた。
4)ギリシャ語「クシュロン」は、もともと「木」を意味したが、木で造られたさまざまなものに対しても使われており、十字架を指すことも可能であった。
5)1世紀から3世紀にかけての教父たちの文書は、イエスの刑具は一本の杭ではなく、伝統的な十字架の形態でなければ理解できない文章がたくさん登場する。
6)考古学的な発見は、イエスの刑具が一本の杭であるより、伝統的な十字架の形態であったことを示唆している。
7)キリスト者が十字架をキリスト教のシンボルとして導入されたのは、異教の信仰に妥協したことによるのではなく、キリストの死を重要視した結果である。
8)コンスタンチヌス大帝は、十字架刑をキリスト教の信仰から見てふさわしくないものと判断し、ローマ帝国の中では、十字架による処刑を廃止した。
 それが、歴史上の出来事に対する正しい見解であるためには、その出来事と関わりのあるすべての情報を考慮したものでなければならない。決して、自説に都合のよい情報だけを集めて構成したものであってはならない。さらに、どのような資料であっても、その資料的な価値を一つ一つ評価してから用いなければならない。歴史的資料は、歴史の中で生まれてきたものである。そのまま鵜呑みにして利用してはならない。加えて、それぞれの資料は、それぞれにふさわしく、全体像の中に位置づけられて再構築されなければならない。
 ところが、協会の出版物は、このような基本的なルールを守っていない。次章において、この問題を扱うことにしよう。
 
 
   
第二章 協会の悪引用
 
 協会は、「十字架ではなく、杭である」と主張するとき、自分たちのストーリーに合う情報だけを取捨選択している。そのストーリーに合わない資料は無視する。
 それだけではない。協会は、しばしば、自分たちの主張とは正反対の見解を述べている文献を、いろいろな工夫をして、自分たちに都合がよいように引用してしまう。証人の方は、協会の指導者は、神に油注がれた人々で、絶対にそのようなことはしない、と主張するであろう。私も、そう信じたいし、そうであってほしい、と願っている。はたして、実際はどうなのか。この章を読んで、ご自分で結論を出していただきたい。
 読者は、はじめから筆者と同じ結論に立って、以下の論述を読む必要はない。むしろ、筆者が記述している内容について疑いをもち、一つ一つ検証しながら、反論しながら、読み進んでいただきたい。その結果、本書の著者がいいかげんな発言をしていると思われたなら、ぜひご一報いただきたい。喜こんで、対話をさせていただく。
 
 
スタウロスについて
 
 協会は、「スタウロス」というギリシャ語が、古典ギリシャ語において、一本の杭を意味していたことを紹介する。そして、聖書の著者たちの用例も同じものだった、と主張する。例えば、『洞察』は、次のように述べている。
「イエス・キリストが杭につけられて死を遂げた際に用いられたような刑具。(マタ27:32-40;マル15:21-30;ルカ23:26;ヨハ19:17−19、25)新世界訳の中で『苦しみの杭』と訳されている言葉(スタウロス)は、古典ギリシャ語ではおもにまっすぐな杭もしくは柱を表わしており、クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちがこの語を横木の付いた杭を指して用いた証拠はありません。『杭につける』;行間、1149-1151ページを参照。」
 この文章の「古典ギリシャ語ではおもにまっすぐな杭もしくは柱を表わしており」という部分は、そのまま受けとってよい(この点は、後に確認する)。ところが、「クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちがこの語を横木の付いた杭を指して用いた証拠はありません」というのは、言いすぎである。
 イエスが、ローマの総督ポンテオ・ピラトのもとで処刑されたということは、イエスはローマの処刑法に基づいていた、ということである。イエス時代のローマ帝国における「スタウロス」が古典時代のスタウロスと同じであるとの前提に立てば、『洞察』の主張は正しい。しかし、権威ある辞書はそのようには述べていない。古典ギリシャ語の用例から、イエスの刑具の形態を推測するのは、歴史文献の正しい読み方ではない。このことは後で詳述する。
 同じことは、『ものみの塔』誌1992年11月15日号(7頁)の論述についても言える。
「聖書によると、イエスが処刑されたのは伝統的な十字架の上ではなく、一本の単純な杭、すなわちスタウロスの上でした。マタイ27章40節に出ているこのギリシャ語は、基本的には建物の土台に使われるような、まっすぐな普通の梁材あるいは柱を意味しています。したがって、十字架は決して真のキリスト教を表わすものではありません。」
 スタウロスは、確かに、古典ギリシャ語において、「建物の土台に使われるような、まっすぐな普通の梁材あるいは柱」という意味で使われている例がある。しかし、イエス時代のローマ帝国においては、そうではないケースがほとんどだった。ところが、この記事は、古典ギリシャ語の用例をイエス時代に一般的であったかのような前提に立って、記述している。
 加えて、「したがって、十字架は決して真のキリスト教を表わすものではありません」という結論の部分は、論理に飛躍がある。「したがって」という言葉は、二重の意味において正しい用法ではない。
 まず、ギリシャ語スタウロスの基本的な意味は、「十字架が真のキリスト教を表わす」かどうかということと無関係である。だから、この文章において、「したがって」という接続詞は不正確である。
 さらに、この論述は、「十字架が真のキリスト教を表わす」と主張している人が存在することを前提としている。しかし、実際には、そのような人はいない。筆者は、クリスチャンになって以来、この40年間に、実にたくさんのキリスト教世界のキリスト者に出会った。けれども、「十字架が真のキリスト教を表わす」と述べたり、考えている人に出会ったことはない。そのように考えている人がいるとの仮定は、協会の出版物に存在するだけである。実際には存在しないものを論じ、それを否定したところで、それは意味がないことである。
 
 
『新聖書辞典』の悪引用
 
 協会は、スタウロスの語義が杭であったことを繰り返し、強調する。例えば、『目ざめよ!』1984年9月22日号(14頁)は、権威ある辞書として認められている『新聖書辞典』を引き合いに出しながら、次のように述べている。
「『十字架』を表わすギリシャ語(スタウロス、動詞はスタウロオー)は第一義的には、まっすぐな杭あるいは梁を意味し、第二義的には、処罰を加え処刑をする際の道具として用いられる杭を意味する」。
 『洞察』も、同様である(第一巻、783頁)。
「しかし、聖書の当の筆者たちはこれらの点に関してどんなことを述べていますか。彼らはギリシャ語の名詞スタウロスを27回、動詞のスタウローを46回、シェンスタウロオー(接頭辞シュン、『と共に』の意)を5回、またアナスタウロオー(アナ、『再び』の意)を1回使いました。また、イエスがくぎづけにされた刑具を指すのに、『木』を意味するクシュロンというギリシャ語を5回用いました。古典ギリシャ語でもコイネーでも、スタウロスには2本の材木で作られた”十字架”という考えは含まれていません。それは、柵、砦柵、もしくはとがり杭の柵に使われるような、まっすぐな杭、棒くい、パイル、または柱を意味しているにすぎません。ダグラス編、1985年版、新聖書辞典は、253ページの『十字架』の項で、『「十字架」に相当するギリシャ語(スタウロス;動詞スタウロオー・・・)は第一に、まっすぐな杭もしくは梁材を意味し、第二に刑罰や処刑のための道具として使われた杭を意味する』と述べています。」
 以上の『目ざめよ!』および『洞察』の文章を、あなたのご家族や友人に読んでもらってほしい。そして、その方々に、ここに紹介されている『新聖書辞典』は、イエスが杭につけられたと教えているのか、それとも、十字架につけられたと教えているのか、と尋ねていただきたい。
 多分、あなたが尋ねた人々は、「その辞典はイエスのスタウロスは杭である、と教えているはずだ」と、答えてくるはずである。
 しかし、それは正しい答えだろうか。とんでもない。『新聖書辞典』はそのようなことを教えていない。まったく反対のことを教えている。
 実は、この聖書辞典は、『目ざめよ!』および『洞察』が引用している文章の後で、次のように述べている。よく読んでいただきたい。
「十字架の張りつけ刑は、フェニキヤ人やカルタゴ人によって行われていた。後になると、ローマ人によって広範囲に実施されるようになった。ローマ市民には稀で、奴隷、地方や下層階級の犯罪人がこの十字架刑にかけられた。従って、ペテロは、イエスのように張りつけになったが、パウロは打ち首にされたという伝承は、古代の仕方に一致している。」
 つまり、この『新聖書辞典』は、ローマにおいては、十字架刑は下層階級の犯罪人に対して用いられ、イエスも、ペテロもその中に含まれる、と述べているのである。
 さらに、同『新聖書辞典』は、続けて次のように述べている。
「犯罪者は一本のまっすぐ伸びた柱に縛られた、あるいは釘づけられたということの他に、三つの形態の十字架があった。まず、大文字Tの形態をしたcrux commissa(聖アントニオの十字架)と言われるもので、ある人々は、タンムズの神の象徴(タウという文字)から出てきたと考えている。次は、crux decussata(聖アンデレの十字架)で、Xの文字のような形態をしている。第三は、crux immissaと言われるもので、二本の棒が十字に組み合わされているもので、私たちの主はこの形態の十字架上で死んだという伝承がある(エイレナイオス、Haer. 2. 24. 4)。このことは、4つの福音書において(マタイ27:37、マルコ15:26、ルカ23:38、ヨハネ19:19-22)、罪状書きがイエスの頭の上に釘づけられていたことから説得力をもっている。」(New Bible Dictionary, Tyndale House Publishing, 1982 p.253)
 驚いてはいけない。『目ざめよ!』も『洞察』も、『新聖書辞典』が教えていることと正反対のことを教えているような印象を与える仕方で引用しているのである。
 もし、ある書物の最初の部分だけを引用して、その書物が本来主張しようとしている結論とは正反対である自分の説を支持しているかのように見せることは、詐欺的行為に等しい。学問の世界ではむろんのこと、一般社会のルールにおいても、絶対に許されない行為である。
 証人たちは、この種の資料を突きつけられると、決まって、「協会出版物は、例え一部であっても、『新聖書辞典』が確かに述べていることを引用しているのであるから、偽っているわけではない」と弁明する。ほんとうにそう言えるだろうか。
 例えによって話してみよう。今、学校の教師をしているクリスチャンがいたとする。その人が、他の人から「あなたはクリスチャンですか」と聞かれ、その人は「私は学校の教師です」と答えたとする。すると、この答えは正しいのだろうか。彼は学校の教師であるのだから、確かに、事実を答えていると言えよう。しかし、質問者が尋ねたことに答えているわけではない。もし、その人が、質問をよく聞かないで、うっかりとんちんかんな答えをしてしまった、というのであれば、そう答えた返事にめくじらたてることはない。しかし、質問された中味をよく分かった上で、しかも、自分がクリスチャンであることを隠しておきたいという意図から、そのように答えたのであれば、それは偽りの答えをしたことになる。
 協会出版物の場合は、どちらか。どう考えても、うっかりミスだとは言えない。意図的に返事を操作しているケースである。なぜか。協会のこの種の悪引用は、一度や二度ではないからである。そのことは、これからの論述を見ていただければ分かるであろう。
 実は、この種の悪引用は、十字架か杭か、という問題に限ったことではない。キリストの臨在に関してでも、エホバの御名に関してでも、三位一体に関してでも、その他、いろいろな分野の陳述の中で、協会出版物は悪引用を繰り返している。筆者は、機会ある毎にそのことを紹介してきた。
 
 『新聖書辞典』の悪引用という問題に戻ろう。
 
 あるいは、協会出版物は、「引用している辞典がイエスは杭につけられたと明言したわけではないから、間違ってはいるわけではない」と、弁明するかも知れない。しかし、その弁明もまた、詭弁である。そう考える人は、次のようなテストをしてみるとよい。
 まず、ものみの塔の信仰にも、キリスト教の信仰にも関わりをもっていない方々数人を選んでいただきたい。そして、先の協会出版物を読んでいただく。その後、「協会出版物で引用されている辞典は、イエスの刑具が十字架だったと述べているか、それとも杭だったと述べているか」と、問うていただきたい。もし、その方から、協会が主張している杭だという返事が反ってきたなら、協会出版物は知的詐欺行為を行ったことになる。なぜなら、引用されている辞典は、引用以外の他の場所で、十字架だと明言しているからである。
 筆者自身も、この箇所について、数十人の友人たちに上記のテストを繰り返してみた。ものみの塔の組織と関わりのある人にも、キリスト教世界に属する人にも、そのいずれにも無関係な人にも、実施してみた。その結果は、驚くべきものだった。テストを受けた人全員が、「引用されている『新聖書辞典』は、イエスの刑具は杭だと教えている」と、回答したのである。
 以上のテストから、協会は、出典に当たることをしない一般読者(むろん、このことは当然である)が、権威ある『新聖書辞典』でさえ、協会の見解を支持している、という印象を与えるため、このような引用文を掲げていると、筆者は結論せざるを得ない。読者の中には、筆者の断定は行きすぎだ、と思われる方もおられるに違いない。ぜひ、ご自分で、上記のテストを試していただきたい。そして、筆者と違う結論に達したなら、ご連絡いただきたい。ご一緒に考えたいと思う。
 証人たちがよくすることで、してはいけないことがある。「どのような動機からそのようなことをするのか」と問うて、問題に正直に直面しようとしないことである。私たちの動機は、明瞭である。ものみの塔協会は、権威ある人々の書物を正確に引用しているかどうか、ということを知りたいということである。もし、協会が真実を伝えているのであれば、協会に信頼していけばよい。もし、そうでなければ、協会から離れればよい。それだけのことである。
 他にも、してはいけないことがある。「それは背教者の考えである」というレッテルをはって、問題を調べようとしないことである。ここでしようとしていることは、協会が悪引用をしているかどうかを調べることである。調べた結果、悪引用をしていなければ、筆者の見解は背教者の考えで退けるべきである。もし、悪引用をしていれば、協会は不正直だと判断し、次の行動を取ればよいのである。
 何も調べないで、組織の言いなりになることを、一般にマインド・コントロールされている、という。証人たちは、協会がマインド・コントロールをかけているなどと思ってもいないであろう。そのようなことは、ものみの塔のことをよく知らない人が言うことだ、と考えるだろう。筆者もそうであってくれたら、と願っている。
 そこで、上記の実験をして、マインド・コントロールにかかっていないことを証明していただきたい。もし、その実験を自分の意思でできるのであれば、組織はマインド・コントロールをかけていないことを実証したことになる。情報を確かめることは、マインド・コントロールにかからない第一歩だからである。
 といっても、今述べたことは、実は、不正確である。あなたが証人で、しかも、本書をここまで読み進んできたとすれば、組織がマインド・コントロールをかけていても、あなた自身はマインド・コントロールにかかっていない、と言わなければならない。というのは、組織は本書のような書物を背教者の書物として読むことを禁じており、ほとんどの証人は、その方針に基づいて、本書を読みはじめることさえしないからである。
 これまで、『新聖書辞典』について述べてきた。では、これから、いくつかの悪引用の例を紹介する。その一つ一つが、筆者の言うように悪引用なのか、それとも、誰もが行うごく普通の引用なのかを、ご自分の目で、頭で、検証していただきたい。そして、筆者の判断が間違っているとか、オーバーであると思われたなら、遠慮なくご連絡いただきたい。改めて、ご一緒に考えさせていただくことをお約束する。
 
 
『国際標準聖書百科事典』の悪引用
 
 まず、『ものみの塔』誌1987年8月15日号(22頁)を開いていただきたい。そこには、『国際標準聖書百科事典』が引用され、次のように述べられている。
「『国際標準聖書百科事典』(1979年版)は、『十字架』という見出しのもとで次のように述べています。『ギリシャ語のスタウロスはもともと、地面にしっかりと固定された、先のとがった垂直な木の杭を指していた。』」
 筆者は、この文章を読んだとき、『国際標準聖書百科事典』は、イエスは「先のとがった垂直な木の杭」にかけられたと述べているのだ、と理解した。しかし、念のため、同事典に当たってみた。すると、引用された後に、次のような文章が続いていることが分かった。
「単純な垂直の棒という最も初期の形態に加えて、4つの変形された形態が有名なものになった。(1)普通の絵に見られる形態で、クルックス・イミサ(ラテン語のCROSS)と呼ばれる。それは、短めの横棒の上に、まっすぐな棒が上に突き出ている。イエスの頭の上に罪状書きが釘づけられていると述べられていることから、これこそイエスが死なれた十字架の形態であったと推論するのが安全であろう。...原始の十字架の形態の初期の変形は横棒を加えることによってもたらされた。この発展は、少なくともローマ世界においては、有罪と宣告された奴隷が運んだ横棒(軛のように首に結びつけられた道具)と関係している。帝国時代までには、十字架のはりつけは奴隷の刑罰となり、罪あるとされた人が処刑の場所まで横棒を持ち運ぶのが習慣となった。(『新約聖書神学辞典』、Z、572-3頁)」
 上記の事典の筆者は、さらに、他の三つの形態についての説明を続けている。しかし、私たちが扱っているテーマを論じるには、以上の引用で十分であろう。
 よく読んでいただきたい。『国際標準聖書百科事典』は、イエスの刑具は、イエスの頭上の罪状書きから、「普通の絵に見られる形態」の十字架だったと判断しているのである。そして、「帝国時代までには、十字架のはりつけは奴隷の刑罰となり、罪あるとされた人が処刑の場所まで横棒を持ち運ぶのが習慣となった」と解説しているのである。
 『ものみの塔』誌が引用している文章は、確かに『国際標準聖書百科事典』の中に出てくる。その限りでは不正な引用ではない。ところが、『ものみの塔』誌が論じているテーマは、イエスのスタウロスであるのだから、同事典が、イエスのスタウロスについて述べていることを引用するのが常識である。ところが、『ものみの塔』誌は、その部分には言及せず、自説に都合のよい無関係な部分を引用して、自説を正当化しようとしているのである。
 読者は、協会は悪引用をしていると判断されるだろうか。それとも、そのような批判は、単にケチをつけているにすぎない、と切り捨てるだろうか。
 なお、この『国際標準聖書百科事典』が紹介している『新約聖書神学辞典』の見解をここで紹介しておこう。この辞典が、ギリシャ語の辞書としてもっとも権威ある辞書であることは、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教を問わず、聖書研究者すべてに認められている。ものみの塔協会の出版物もまた、よく引用している辞書であるから、紹介する価値があると思う。『国際標準聖書百科事典』が参照するよう指摘している箇所には、次のように記されている。
「スタウロスは深刻な罪を犯した人を苦しめる道具である。その形態に関しては、三つの基本的な形がある。十字架は、垂直の立てられた棒であるか、縦棒の上に横棒がのせられたTの字の形のものか(crux commissa)、同じ長さの棒が交差してできあがったものか(crux immissa)、である。」
 上記の文章には、さらに、注がつけられている。それは、聖書学者ヒッツッヒの次のような文章であるが、スタウロスに関する『新約聖書神学辞典』の見解を正確に理解していただくため、紹介しておこう。
「もともとは、木、あるいは処刑のために地面に突っ込まれた柱が張りつけのために使われた。・・・いずれにしても、十字架は、いつでも、どこにおいても、私たちに親しまれ、教父たちによって記されている形態であったわけではない。この形態の発展、つまり、水平の横棒が加えられることは、奴隷の場合になされたpatibulumの罰と関係しているのであろう。」
 ここで、「私たちに親しまれ、教父たちによって記されている形態」とは伝統的な十字架を指す。そして、「patibulumの罰」とは、犯罪人が十字架の一部になる横棒を担いで、人々から辱めを受けながら処刑場まで足を運んだことを指す。ヒッツッヒは、伝統的な形態の十字架の起源を「patibulumの罰」ではないか、推測している。とすると、ローマ帝国時代の初期で、西暦前2世紀ぐらいになる。
 『ものみの塔』誌の引用の問題に戻ろう。読者は、権威ある辞書の最初の部分だけを、自説を弁護するのに都合がよいので引用し、肝心な部分は自説にとって不利であるが故に引用しないという「協会出版物の悪引用」という問題をどうお考えになるだろうか。
 本書の前書きで、インターネット上で、ギリシャ語のスタウロスについて論じている一人のエホバの証人のことにふれた。筆者は、この証人の方は、頭のよい、論理的な思考の持ち主であると思っている。問題は、この証人が、本書で紹介しているような悪引用を協会出版物が行っていることを知らないことにある。むろん、この点で、筆者は、この証人を責める気はない。ものみの塔協会の出版物であれ、その他の出版物であれ、普通、このような悪引用をするなどということは想像し難いことだからである。まして、その方は、エホバの証人である。協会出版物の著者たちは、油注がれた人々で、不正なことなどするはずがないと信じ切っていると思う。
 だから、責められるべきは、このような悪引用を行っているものみの塔協会の出版物の執筆者たちである。それらの執筆者たちの個人名は、組織の方針でが明らかにされていない。とすれば、それらの出版物の最終責任を負っている統治体である。
 
 
『インペリアル聖書辞典』の悪引用
 
 同じような例は、まだまだいくらでもある。『聖書から論じる』が紹介している『インペリアル聖書辞典』(P・ファベアン編、ロンドン、1874年版、第1巻、英文376ペ−ジ)についても、取り上げてみよう。
「インペリアル聖書辞典はそのことを認めて、次のように述べています。『十字架と訳されるギリシャ語[スタウロス]の正しい意味は、何かを掛けるとか、一区画の土地を囲う[柵を巡らす]のに使う抗、まっすぐな柱、あるいは1本の棒抗である。・・・ロ−マ人の間でさえクルクス(英語cross[十字架]はこれから派生している)は、もともとまっすぐな柱であったようだ。』
 まず、読者であるあなたは、上記の文章を自分自身でもう一度、読み直していただきたい。そして、次に、あなたの友人かあなたのご家族に(エホバの証人であっても、そうでなくても、それはどちらでもよい)、読んでもらってほしい。
 その上で、『インペリアル聖書辞典』は、イエスが、「杭、まっすぐな柱、あるいは1本の棒杭」にかけられたと教えているか、尋ねていただきたい。間違いなく、「そう教えている」という返事が返ってくるであろう。
 むろん、『インペリアル聖書辞典』がそのように教えていれば、何一つ問題はない。ところが、同辞典は、そのようなことを教えていないのである。むしろ、伝統的な形態の十字架だった、と説いている。まったく逆である。
 では、『論じる』は、どうして正反対の結論を引き出すのに、成功しているのか。それは、上記の引用文の「・・・」という省略された部分にある。
 ある文章をそのまますべてを引用すると長くなるので、「・・・」と書いて、その一部を省略することはよくある。通常、省略される部分は、論じられているテーマとは直接関係のない、抹消的な部分である。もし、それを省略することによって、意味が分からなくなってしまったり、意味が変わってしまったりするなら、それは決して省略してはいけない部分である。むろん、省略することによって、著者の主張を誤解させるようなことは絶対にあってはならない。学問の世界では、それほど失礼なことはない。このことは、学問をする者にとってのイロハであり、常識である。
 ところが、協会出版物は、そのような常識をさえ、もちあわせていない。というのは、しばしば、著者の主張を分かりにくくさせてしまったり、誤解させてしまうからである。それだけでも許されないことなのだが、ここで、『論じる』がしていることは、もっともっとひどいことである。信じられないことだが、引用している文献の著者がもっている結論とは、180度違う結論を導出させるために、小細工しているのである。
 どういうことか。以下、説明させていただく。
 実は、この「・・・」に当たる部分には、次のような文章が入っている。But a modification was introduced and usages of Rome extended themselves through Greek-speaking countries. 訳すと、「しかし、変形されたものが導入され、ローマの使用法は、ギリシャ語を話す国々に広がっていった」となる。この文章を入れて、『論じる』をもう一度、読み直していただきたい。
 ここで、「変形されたもの」とは、ものみの塔協会が主張している「杭」を変形したものである。すなわち、一般に言われる「十字架」のことである。すると、ローマ政府が処刑に使用したのは、杭ではなく、十字架ということになる。その十字架が、ギリシャ語世界全般に及んでいたことを、『インペリアル聖書辞典』は説いているわけである。
 お分かりいただけただろうか。それは、何と、『論じる』がここで説明していることと正反対のことである。
 実に驚くべき省略である。私は、40年以上、聖書に関する書物を読んできたが、これほどたちの悪い省略法は、見たことがない。うっかりミスと言うようなものでは決してない。よくよく考え抜いて行った小細工である。
 それだけではない。『論じる』の引用の最後の文章は、原文の文章の途中までである。文章の途中のカンマまでしか引用しないということは、絶対してはならないとまでは言えないが、普通はすべきではない。著者の意図が正確に伝わらないことが多いからである。『論じる』の場合はどうか。ここに、『インペリアル聖書辞典』の原文を紹介しておくので、読者自身が判断していただきたい。『論じる』の引用文の後、なお、次のような文章が続いているのである。
and always remained the more prominent part. But from the time that it began to be used as an instrument of punishment, a traverse piece of wood was commmonly add ... about the period of the Gospel Age crucifiction was usually accomplished by suspending the criminal on a cross piece of wood.
 訳すと、「そして、いつでも、より重要な部分が残されている。ところが、刑罰の道具として使われはじめた時からは、通常、横棒の木が加えられるようになった。・・・福音書の時代の頃には、はりつけは、通常、犯罪人を十字の木の上にぶら下げることによって成し遂げられた。」
 もう一度、英語の原文でも、日本語の訳文でもよい、よく読んでいただきたい。『インペリアル聖書辞典』は、協会が主張するように、イエスが杭につけられたなどとは教えていないのである。それどころか、刑具だった縦棒には、やがて横木が加えられたこと、そして、イエスの時代には、十字に組まれた十字架が刑具として使われていたと証言しているのである。
 『論じる』の著者たちが、ここで紹介している文章を知らないわけはない。すべてを百も承知の上で、重要な箇所を省略したり、途中で引用を打ち切っているのである。協会の主張は、権威ある『インペリアル聖書辞典』によって支持されているかのような印象を読者に与えるためにである。
 たまたま間違ってしまった。もしそういうことであれば、人間、誰でもすることである。許さないことは罪である。しかし、協会の悪引用は、不完全な人間がついつい犯してしまったミスとしてかたづけられることではない。そのように扱うことこそ不正直である。
 引用されている辞典は、伝統的な形態の「十字架」を主張している。このことを重々承知しながら、その上で、自分たちの主張である「杭」の部分を選び、全体がそのように読めるように小細工したとすれば、それは知的詐欺行為以外の何ものでもない。学問の世界のみならず、真理を愛する人たちの間では、許してはいけない行為である。
 筆者は、証人の方々に読んでいただきたいと願って、本書を執筆している。証人の方にとっては、筆者の言明は、厳しすぎると思われるかも知れない。しかし、筆者自身は、決してそう思ってはいない。言うべきことを当然言っているにすぎないと思っている。それは、相手がものみの塔協会であろうと、仲間のキリスト教世界であろうと変わらない。否、仲間であれば、もっともっと厳しい言い方をすると思う。
 筆者は、これまで、いくつかの学会に所属してきた。そのどの学会においても、ここで述べていることは当然のこととして、受けとめられるはずである。例外はない。
 学会は、この世のものである。この世に属する学会でさえ、協会がしているような引用方を許さないのである。とすれば、まして、真に正直であろうとしているエホバの証人の方々は(筆者がお会いした証人たちは、ほとんど例外なくそういう人たちであった)、協会の不正直さを見過ごしてはいけない。不正や悪を知りながら、それに対して沈黙を守ることは、その悪に荷担することになる。
 悪を指摘するときには、TPO(時と場所と機会)をわきまえなければならない。何でも指摘すればよい、というようなものではない。確かな事実であることを確認してから行うべきである。謙遜な心でしなければならない。権力や報復を恐れて、沈黙を守るようなことがあってはならない。それは、聖書の真理を信じる者の取るべき態度ではない。筆者は、証人たちに、協会の悪引用を正す責任があると思う。これまで、筆者は、日本支部の責任者たちに、九通の手紙を出し続けてきた。残念ながら、一通の返事もいただけなかった。
 やがて、エホバが正される。それまでは先走りをしないで、待つのがよい。協会のリーダーはそのように答えてくるであろう。組織のリーダーは、組織にとって不都合なことは騒がれたくないのである。組織のリーダーに、自分たちの不正や偽瞞性を認める勇気があるなら、その組織は、健全である。もし、それを覆い隠そうとするなら、その組織は腐りはてていると言わねばならない。
 
 
クシュロンについて
 
 協会が、イエスの刑具は十字架ではなく杭である、と主張する根拠の一つは、イエスの刑具に対し、新約聖書が「クシュロン」というギリシャ語を使っていることにある。例えば、『論じる』は、次のように述べている。
「神のみ子の処刑に関しても事情は同じだったのでしょうか。その処刑に使われた刑具を表わすのに、聖書がクシュロンという語も用いているのは、注目に値します。リデルとスコット共編の希英辞典は、この語の意味を次のように定義しています。『すぐに使えるように切ってある木、薪、材木など・・・木片、丸木、梁材、支柱・・・こん棒、棒・・・犯罪者が付けられる杭・・・生きた木の場合は立ち木』。この希英辞典はまた、『新約では、十字架に関して』と述べ、例として使徒5章30節および10章39節を引き合いに出しています。(オックスフォード、1968年版、1191、1192頁)しかし、これらの節で欽定訳、改訂標準訳、エルサレム聖書、ドウェー訳、および口語訳は、クシュロンという語を『木』と訳出しています。(この訳し方とガラテア3:13;申命記21:22、23とを比較。)」
 『論じる』が言いたいことは、次のように要約される。
1)新約聖書は、イエスがかけられた刑具に対して「クシュロン」というギリシャ語を使っている。
2)リデルとスコットのギリシャ語辞書によれば、「クシュロン」は一本の木である。
3)その辞書によれば、「クシュロン」は、新約聖書においては、「十字架」である。
4)しかし、その「クシュロン」は、いくつかの聖書において「木」と訳出しているので、イエスの刑具は十字架ではなく、杭である。
 これらの記述の中で、次の点は正しい。
1)使徒5章30節、10章39節は、使徒13章29節、ガラテヤ3章13節、Tペテロ2章24節の5箇所においては、イエスの十字架に対して、「クシュロン」というギリシャ語が使われている。
2)クシュロンの原義は、「木」である。
3)『論じる』が紹介している翻訳聖書は、クシュロンを「木」と訳出している。
 ところが、ここには、飛躍した議論の展開があることを知らねばならない。
 もし、「クシュロン」というギリシャ語が、一本の棒という意味にしか使用されていないのであれば、むろん、協会出版物が主張していることは正しいことになる。ところが、「クシュロン」は、単なる一本の木を指しているだけではない。『論じる』は、「クシュロン」が木でつくられた物を指している用例を、「・・・」という省略形で削除している。
 上記引用の『論じる』は、リデルとスコットの辞書の中から、火で燃やすために用意された薪、建築資材としての材木(Tコリント3:12にこの用例が見られる)、警官が使うこん棒、犯罪人の首をくくりつける板など、一本の木から造られたもののみを紹介している。ところが、「クシュロン」というギリシャ語は、両替人が使用していた机やアテネの劇場の椅子などに対しても使われた。そのことは、私がもっている『リデルとスコットの辞書』に明記されている。だが、『論じる』は、このような用例を注意深く外している。筆者には、意図的に小細工しているように思えるのだが、読者はどう思われるだろうか。
 いずれにしても、「クシュロン」は、ただ単に一本の木を指すだけではなく、木で造られた物を指している場合が、多々ある。もし、そうであるとすれば、「クシュロン」が十字架を指すことは十分に可能である。リデルとスコットの辞書は、そのような背景から、新約聖書における「クシュロン」は十字架を指す、と解説しているのである。
 『論じる』が紹介している聖書は、皆、「クシュロン」を「木」と訳している。しかし、それは、これらの翻訳者たちが、イエスがかけられた刑具を一本の柱だと考えていたことを意味しない。できるだけ原義に近い意味を訳出するため「木」と訳しているが、その中味は「十字架」を想定していると理解すべきである。例えば、NIVも「木」と訳しているが、それは十字架に対する表象的言及(figurative reference to the cross)だと説明している。
 では、なぜ、イエスの刑具に対して、「クシュロン」というギリシャ語が使われたのか。これはきわめて興味ある新約聖書の研究テーマである。この「クシュロン」は、初代教会の人々がメッセージとして語るようにパターン化された文章(これを現代の聖書学では、「ケリグマ」と呼んでいる)の中に出てくる。ケリグマと言われるものは、初期のクリスチャンたちが、その最初のときから中心的なメッセージとして語った内容を指している。それは、主として、ユダヤ人の背景の中で、ユダヤ人を意識して語られたメッセージである。
 ところで、ユダヤ人にとっては、「クシュロン」という語は、「神に呪われた者の処刑」というイメージがつきまとっていた。ガラテヤ3章13節がそのことを明らかにしている。なぜ、そのようになったのか。七十人訳ギリシャ語旧約聖書の翻訳者が、申命記21:22-23に出てくる「エイツ」に対し「クシュロン」という訳語を当てたからである。
 もともと、ヘブライ語には、十字架を意味する言葉はなく、処刑のための刑具はすべて「木」を意味する「エイツ」という言葉で表現した。ユダヤ人にとっては、刑具が杭であっても、十字架であっても、ヘブライ語の「エイツ」という言葉を使ったのである。その「エイツ」は、七十人訳ギリシャ語旧約聖書の訳語から、ギリシャ語で表すときには、「クシュロン」が使われるようになった。従って、ユダヤ人にとっては、「クシュロン」は、杭をも、十字架をも意味したのである。
 ユダヤ人が「クシュロン」という言葉を使うとき、刑具の形を問題にすることはなかった。むしろ、申命記21:22-23から、受刑者が神に呪われた者であることを強く意識して使っていたのである。
 このことは、ユダヤ人であった初代のクリスチャンたちにも当てはまる。彼らは、イエスの死を宣べ伝えたのであるが、その死は、神の呪いをご自身の身に引き受けた、全人類の贖いの死であることを強調した。初代の使徒たちが、ユダヤ人にキリストのメッセージを語るにあたって(使徒5、10、13章のすべてがユダヤ人に語られた文章の中に出てくることに注意)、ユダヤ人に馴染みの深い「クシュロン」を使ったことには、以上のような背景があったのである。「スタウロス」は、一般に(従って、ユダヤ人の間でも)、ローマ政府への反逆罪を想定させることばである。それに対し、「クシュロン」の方は、神の呪いを身に受けることを想定させるので、初代のユダヤ人クリスチャンたちは、そのケリグマにおいては、この言葉を選んだのである。
 このことをもっともよく解説しているのが、ガラテヤ3章13節である。また、Tペテロ2章24節は、キリストの死の中に、神の呪いを甘んじて受けるほどの謙遜さを意識していたことから、「クシュロン」という言葉が使われたものと思われる。
 結局、「クシュロン」というギリシャ語が使われたのは、イエスの死が神からの呪いを受けるものだったことを強調したかったことにある。それは、スタウロスにあたるヘブライ語をもたない、ユダヤ人にとっては、きわめて自然なことだったのである。
 従って、「クシュロン」が「木」を意味するので、イエスの刑具は一本の杭であった、と協会が結論づけるのは、あまりに性急すぎる。「クシュロン」という言葉が、刑具の形態を問題にしていないからである。もし、協会のような論理を展開するなら、両替人の机も、一本の杭でなければならなくなる。劇場の椅子までもが、一本の杭になってしまう。いくら協会であっても、そのような愚かなことは言わないであろう。
 むろん、以上の論述は、イエスの刑具が杭であると断定することが不合理であることを検証したにすぎない。伝統的な十字架であったことを証明したわけではない。しかし、協会出版物に対する返答は、とりあえずこれで十分であろう。新約聖書がイエスの刑具に対し「クシュロン」を使っている以上、イエスは杭につけられたはずだ、という協会出版物の断定は成り立たない、ということだけは分かっていただけたであろうから。
 
 
ラテン語のクルクス
 
 ギリシャ語のスタウロスに当たるラテン語は、「クルクス」である。協会によれば、この語も、杭を意味し、十字架になるのは、後代のことだと主張する。果たしてそれは、ほんとうだろうか。
 1966年12月15日号(758-59頁)の『ものみの塔』誌は、1950年に、ものみの塔協会とバプテスト教会の牧師との間でなされた論争を紹介している。その記事においても、イエスが杭につけられたことの最終的根拠として、「クシュロン」があげられているが、その他に、ラテン語「クルクス」についても言及している。
「1950年11月15日号『ものみの塔』(英文)は5ページの回答をのせ、その中で油そそがれた証人は、『ザ・バプテスト・レコード』が攻撃した点すべてについて、『新世界訳』の正しさを決定的に弁明しました。右の非難に対する油そそがれた証人の回答の一部を次にしるします。」
「貴紙の見出しは、『十字架は杭ではない』となっていました。そして第4節は、『十字架』のかわりに『杭』を使うのは奇妙であると述べています。・・・軽率なことばを書く前に、『新世界訳』をひもとき、付録の768-771ページにあるマタイによる福音書10章38節と『苦しみの杭』に関する説明を読んでいたなら、もっと慎重な論説を書くことができたでしょう。そこを読めばおわかりのとおり、ギリシャ人がスタウロス、ラテン人がクラックスと呼んだ刑具は、当初、横木のない一本の杭でした。・・・使徒ペテロはそれを単に『木』と呼び(使行5ノ30。10ノ39。ペテロ第一2ノ24)、使徒パウロも使徒行伝13章29節とガラテヤ人への手紙3章13節で『木』ということばを使っています。明らかに貴紙はこれらの聖句の意味を読み落としているものと思われます。イエスがつけて殺されたのは単なる杭ではなかったと言うことは容易ですが、貴紙の記事はこの点に関して『新世界訳』を奇妙で、不正確で、非聖書的であるとする論拠を一つもあげていません」。 
「『ザ・バプテスト・レコード』紙に対しては、『ものみの塔』の回答を掲載し、『新世界訳』に関する誤った宣伝を訂正し、聖書の真理に対する妨げを取り除くことが求められました。応答は?ヨブのような証人たちに対する牧師の敵意、エホバに対するそしりがその度合を強くしたことです。」
 筆者は、1950年の『ものみの塔』誌、およびバプテストの機関誌を調査しているが、未だ手に入らず、正確な議論ができないことを申し訳なく思う。ただし、この記事で言及している『新世界訳』の768-771頁の付録は、1950年に出版された英訳の『新世界訳』が手元にあるので、協会側が争点にしている根拠は正確につかめると思う(上記の記事自体が、協会側の根拠は、その箇所で十分に述べられていると明言しているのであるから)。
 ところで、この記事は、イエスの刑具が杭であるという根拠は、まず、「ギリシャ人がスタウロス、ラテン人がクルクスと呼んだ刑具は、当初、横木のない一本の杭」であり、イエスの刑具に対し「クシュロン」というギリシヤ語が使われていることにある、と述べている。
 スタウロスとクシュロンについては、既にふれた。従って、ここではラテン語のクルクスが「横木のない一本の杭」だったかどうかを検証しよう。
 上記の『ものみの塔』誌の記事は、『新世界訳』の付録を見るように指示している。そのラテン語クルクスの部分は、1985年版の参照資料付き聖書の説明(1769頁)とほとんど同じであるので、後者から、引用しておこう。
「ルイスとショートのラテン語辞典は、クルクスの基本的意味として、『罪者がつけられたり掛けられたりする、木、枠木、または木製の他の処刑具』を挙げています。西暦前1世紀のローマの歴史家リビウスの著作の中では、クルクスは普通の杭を意味しています。『十字架』はクルクスの後代における意味でしかありません。犯罪者をつけるための1本の杭はラテン語でクルクス・シンプレスク(crux sim'plex)と呼ばれました。そうした拷問用の刑具の一つがユストゥス・リプシウス(1547−1606年)によってその著書、『デー・クルケ・リプリー・トレース』(De cruce libri tres,アント・ワープ、1629年、19ページ)の中に描かれています。1770ページのクルクス・シンプレクスの写真はその本からの実際の複写です。」
 1950年版の付録の方は、最初の部分が、次のように異なっている。
「ラテン語訳において、スタウロスがクラックス(crux)と訳された事実は、そのこと(イエスの刑具が杭であること)に対して反論を提供するようなものではない。権威あるラテン語の辞書は皆、研究者に、クラックスの基本的な意味は、犯罪者がつけられたり掛けられたりする、『木、枠木、または木製の他の処刑具』(ルイスとショート)」
 1950年版の説明の方が論点が明確にされている。それは、次のように要約されよう。
1)ギリシャ語のスタウロスがラテン語のクルクスと訳されている以上、スタウロスも十字架を意味するはずである。
2)なぜなら、ラテン語のクルクスは、十字架を意味するからである。
3)しかし、それは正しくはない。ラテン語のクルクスの基本的な意味は、「木、枠木、または木製の他の処刑具」だったからである。
4)ラテン語のクルクスに十字架の意味が加わるのは、後代のことである。
 この議論にも、いくつかのごまかしがある。
 まず、ルイスとショートのラテン語の辞書を正しく引用していない、ということである。その辞書は、「クルクス」の字義的な意味として、一般的な用法と特殊な用法があることを解説している。協会出版物が言及しているのは、前者だけであって、後者を無視している。しかも、問題にしなければならないのは、一般的な用例ではなく、特殊な用例なのである。
 『ものみの塔』誌は、クルクスは「当初」杭を意味した、と述べている。言語に関心をもつ人々は、ある言葉の意味を確定するに当たり、語源、あるいは、最初に使われた意味を探索し、それこそ本来の意味であるかのように(あるいは純粋な意味であるかのように)取り扱うことがよくある。しかし、言葉の意味は、時代とともに変化し、ある時代になると、最初の意味は完全になくなってしまう例も決して少なくない。
 例えば、英語の「nice」という言葉は、古い英語では「foolish(愚かな)」を意味した。しかし、現在では、そのような意味はまったくなく、wonderfulとか、pleasantという意味である。
 ラテン語のクルクスについても、同じようなことが言える。最初、処刑の道具として一本の杭を指すこともあったが、次第に、それは、十字架を指すようになり、十字架の方が一般的になってくるのである。
 参照資料付きは、「『十字架』はクルクスの後代における意味でしかありません」と述べる。では、「後代」とはいつを指すのか。他の協会出版物からは、「後代」とは、四世紀以降でなければならない。しかし、そのようなことはありえない。参照資料付き聖書の説明では、西暦前一世紀のローマの歴史家のリビウスの文献をあげている。しかし、それでは、イエス時代より前の話であって、説得力はない。
 先のルイスとショートの辞書によれば、キケロの文献においては、クルクスは「十字架」の意味で使われている。もし、そうであるなら、協会の主張は成り立たない。キケロは、西暦前1世紀に活躍したローマの詩人だからである。
 ところで、『新世界訳』の付録は、リプシスの書物から、一本の杭にかけられている人の絵を紹介している。読者の方に、再びお願いしたいことがある。どなたかあなたの友人か、家族の方に、この絵を見せ、その前の頁の解説を読んでもらってほしい。そして、リプシスという人が、イエスは杭に掛けられたと考えていたか、十字架だと考えていたか、質問していただきたい。
 私が試してみた限りでは、全員が、「むろん、杭であると考えていた」という返事だった。あなたがしてみても、同じような結果が得られると思う。
 面白いことがある。実は、1985年版の『新世界訳』には、削除されているのだが、50年版のものには、この絵に関し、「これがイエスが掛けられた方法だった」というコメントがつけられていた。このコメントはいつから削除されるようになったのか。
 筆者の手元には、1969年版の『ギリシャ語聖書王国行間逐語訳』がある。そこには、そのコメントは記されている。ところが、それから16年後の、1985年版の『ギリシャ語聖書王国行間逐語訳』にはない。この間に何があったのか。
 筆者の手元に、『ものみの塔の杭とクリスチャンの十字架、どちらが正しいのか』という一冊の書物がある。その12頁に、南カリフォルニア大学のマリ・ツェング教師によって、リプシスの文章が英訳されている。76年10月3日になされたものである。それは『新世界訳』の偽瞞性が暴かれた記事である。
 リプシスは、彼の書物の647頁に、『新世界訳』が掲載している絵を載せている。しかし、そこでは、キリストに関しては一言も触れていない。実は、リプシスは、彼の書物において、この絵を含め、16種類の処刑方法を紹介している(そのほとんどは、十字架上での苦しみを描いたものである)。『新世界訳』が紹介している絵は、キリストとはまったく関係のない、一本の杭に処刑された犯罪者の絵だったのである。つまり、16種類の一つに過ぎない。そして、キリストの場合は、伝統的な十字架だったことを、その絵から14頁後の、661頁において、説明している。その一端を紹介しておこう。
「このことが間違っていないと言い切ってよいのかどうか、私には分からない。このこととは、『主の十字架には、縦棒、横棒、下に置かれた台座、上に置かれたタイトルの板の四つの木があった。』次の記録はエイレナイオスによって伝えられたものである。『十字架の構造自体は、5つの終り(テルトリアヌスはそれを「点」と呼んでいるが)をもっている。2つは垂直のそれであり、2つは、水平のそれである。もう一つは、真中にあり、そこに人が釘付けされたのである。』・・・しかしながら、古い絵や彫刻物からこの板(体を支えた板)が置かれていたことは明らかだと聞いている。それを、キリストの十字架から、早まって取り除くようなことをしない。他のものからであれば、もっと大胆にするであろうが。」
 リプシスは、キリストの刑具は杭ではなく、伝統的な形態の十字架であったことを初代の教父たちの証言から実証しているのである。
 このようなことを暴露されても、『新世界訳』は、「これがイエスが掛けられた方法だった」というコメントを削除しただけで、杭に掛けられた人の絵そのものは掲載し続けている。その偽瞞性を指摘されても、弁解ができるように、コメントだけは削除し、絵そのものは取り除かない。これが、正直さを証人たちに求めている協会リーダーたちがしていることである。
 
 
十字架は異教のシンボルか
 
 ものみの塔協会は、キリスト教世界の十字架は、異教のシンボルに由来するものであり、それは偶像崇拝に関係している、と主張する。このような主張は、ほんとうに正しいのだろうか。ご一緒に検証してみよう。
 協会は、十字架がキリスト教に起源を有するのではなく、異教に起源を有することを強調する。例えば、『論じる』は、ブリタニカ百科事典(1946年版)、第6巻、753ペ−ジの次のような文章を引用している。
「キリスト紀元よりはるか以前のものとされる、様々なデザインの十字架を描いた物品が、古代世界のほとんどあらゆる場所で発見されてきた。インド、シリア、ペルシャ、エジプトからは、いずれもおびただしい数のそうした物品が出土している。・・・キリスト教時代以前に、非キリスト教徒の間で十字架が宗教的象徴として使用されたが、それはほとんど全世界的なものであったと考えてよいであろう。そして、非常に多くの場合、それは何らかの自然崇拝と結び付いていた。」
 筆者は、いくつかの図書館を尋ねて1946年版のブリタニカをチェックしようとした。しかし、残念ながら、その版を見ることはできなかった。そこで、手元にある1988年版のブリタニカ(753頁)から、『論じる』が引用している箇所と関係する部分を紹介しておこう。
「十字架は、キリスト教時代よりはるか以前から、宗教的な、あるいはその他のシンボルとして使われてきた。しかし、それらが、何であるかを表す単なるしるし(マーク)なのか、それとも、所有物なのか、あるいは、信仰や礼拝と関わる重要な意味があったのかは、いつでも明らかであるわけではない。」
 46年から88年の40年間に、十字架に関してどれほどの研究がなされ、その成果がブリタニカの辞典に反映されているのかは、筆者には分からない。しかし、同じ系列の辞書であることを考えるとき、十字架と異教の関係については、88年版においてはずいぶんトーンダウンしていることに驚かされる。一般論としてであるが、古代中近東の宗教的事情は、研究すればするほど、断定的な結論を出すことに躊躇せざるを得なくさせている。新しい版において訂正されていれば、古い版の見解は破棄されたことを意味する。従って、『論じる』が古い版のブリタニカ辞典を使っていること自体、問題とされねばならない。
 協会は、『アメリカーナ百科辞典』をよく引用している。その十字架の項目は、十字架が古い時代からシンボルとして用いられてきたことを述べているが、その異教的な結びつきについては、きわめて慎重な言い回しに終止している。
「十字架は、人類にとって、もっとも古く普遍的なシンボルとして知られている。深い宗教的な洞察をもった人々やそうでない人々が、さまざまの十字架をつくり、それに隠された意味を付与してきた。」
 十字架、あるいはそれに関わりのあるある種のデザインが、古来から、宗教的な、あるいはその他のシンボルとして使われてきた、ということは確かであろう。そのような事実を無視したり、隠したりする必要はない。
 問題は、そのようなキリスト教以前の、十字架とかかわりがあると思われるさまざまなシンボルとキリスト教の十字架との間に、どのような関係があるのか、ということである。十字架という形態が似ているからと言って、両者に関係があると考えるのは早計である。協会の議論は、この点において問題がある。
 例えば、『論じる』は、G・S・タイアクが著わした『宗教儀式・建築・美術における十字架』という書物(ロンドン、1900年)から、次のような文章を紹介している(1ペ−ジ、英文)。
「キリストの誕生よりもずっと昔から、またそれ以後も、教会の教えが伝えられていなかった種々の土地で十字架の印が神聖な象徴として用いられてきたのは不思議とはいえ、疑問の余地のない事実である。・・・ギリシャのバッカス。ティルスのタンムズ、カルデアのベル、ノルウェ−のオ−ディンなどはみな、その信奉者にとって十字形で象徴された。」
 論点をはっきりさせるために、今は、ここ紹介されている十字形の象徴の真偽性は問わないことにする。むしろ、この引用部分は、タイアクの書物の1頁に出てくるのだが、その同じ書物の3頁に、次のように述べられていることに注目していただきたい。
「In all this the Cristians of the first age would have rejoiced, claiming it as a world-wide prophesy of the Cross of the Redeemer.(このすべてのことにおいて、それを贖い主の十字架の世界的に広まった預言として宣言しながら、最初の時代のクリスチャンは大いに喜んでいたのである。)」
 著者タアナクが主張したかったことは、次のようなことである。十字架は、異教の世界においてさまざまな形で知られ、用いられてきたが、最初の時代のクリスチャンたちは、その十字架を、「贖い主の十字架」として宣言した。
 ここで、「最初の時代」(the first age)と言われていることに注意していただきたい。それは一世紀の初代教会の時代を指す。決して、ものみの塔協会が主張するように、4世紀の話ではない。
 読者の皆さん、是非、考えていただきたい。なぜ、協会は、タアナクの書物の3頁は紹介しないで、1頁だけを引用しているのか。それは、言うまでもなく、キリスト教の十字架が古来からの異教のシンボルに由来することを読者に印象づけるためである。
 著者タアナクが考えてもいないこと、否、彼が考えている反対のことを、協会は、タアナクの書物の一部を引用して、論述しているのである。ある人が、自分が主張していることと正反対のことを説得するために、自分の言説の中から、その人の主張にあうところ一部だけを利用したなら、そうされた人は、決してよい気持ちはしないと思う。協会がしていることは、そういうことである。
 協会がこの問題を扱うとき、次のような三段論法が使われている。
1)十字架は、異教のシンボルとして使われていた。
2)背教したキリスト教は十字架を主張している。
3)十字架を主張するキリスト教は異教的である。
 しかし、ここには、議論のごまかしがある。まず、異教のシンボルとされる十字架は、必ずしも、キリスト教の十字架と同一ではない。エジプトのクルクス・アンサータにしても、バビロンのタンムズにしても、キリスト教の十字架の形態ではない。従って、キリスト教とのつながりを主張することはできない。
 さらに、キリスト教が十字架をシンボルにした背景には、異教とはまったく無関係な出来事が存在したことを考慮しなければならない。初代のクリスチャンたちは、キリストの死がもたらす恵みを表わすために、十字架をシンボルにした、という事実である。従って、キリスト教のシンボルを異教のシンボルと関連づけて考えることは歴史的には無意味である。
 いろいろな形の十字架が、例え、異教に用いられていたとしても、そのことは、即、キリスト教の十字架の異教性を立証することにはならない、ということである。なぜなら、キリスト教の十字架は、キリストの死の意味が大切にされた結果、シンボル化されたものであって、そのシンボル間にいくらかの形の類似性が認められるにしても、そのことをもって、歴史的関連性があるとは言えないからである。
 
 
タンムズの神
 
 ものみの塔の出版物は、タンムズの神について、次のような論理を展開する。
 バビロンのタンムズ神は十字架によって象徴された。キリスト教がシンボルとしている十字架は、そのタンムズの十字架と関わりがある。だから、キリスト教の十字架は異教に由来し、偶像崇拝となる。
 果たして、この主張は正当なのか。検証してみよう。
 協会出版物は、タンムズ神と十字架の関係を当然であるかのように記述している。例えば、『ものみの塔』誌1964年10月1日号(587頁)は、次のように述べている。
「十字は、キリストが来る数世紀も前から、インド、中国、ペルシャ、エジプト、そしてもとよりバビロンの異教徒が使っていました。直立の十字は、バビロニア人の神タンムズの象徴でした。また古代ローマにおいては、太陽神ソルのシンボルとしても使われました。この種の十字は、タンムズ神の頭文字「T」の原形でした。」
 ここでは、タンムズ神がTという十字に象徴された、と断言している。しかし、そう主張する根拠はあげていない。
 1965年2月1日号の『ものみの塔』誌(89頁)は、エゼキエル書8章14節に出てくるタンムズ神と十字架を結びつけている。
「エホバの宮にすわり、バビロニアのバッカス、タンムズ神のために泣いた背教のユダヤ人の女にとって、十字架は神聖なる象徴であったに違いありません。これらの女たちは、実際にはバビロンを建設した強力なかりうどニムロデのために泣いていたのです。」
 ここでは、タンムズ神のために泣いた女にとって、「十字架は神聖なる象徴であったに違いありません」と推測している。しかし、筆者の知る限り、エゼキエル書8章14節を十字架と結びつけて説明している注釈書は一冊もない。
 タンムズ神が十字架と関係があったという歴史的証拠はない。協会出版物の辞典、『洞察』や『助け(Aid to Bible Understanding)』でさえ、「タンムズ」の項において、十字架との関わりは一言も述べられていない。
 協会が、そのように言う根拠をあげているのは、『目ざめよ!』1989年1月22日号(22頁)の「十字架はバビロンに由来しているか」というコラムである。そこには、次のように述べられている。
「新約聖書用語解説辞典はさらに明確に、十字架は『古代カルデアにその起源を有し、タンムズ神の象徴(その名の最初の文字で、神秘的意味の付されたタウの形)として用いられた』と述べています。ですから、十字架は明らかにキリスト教以前のものです。」
 ここに指摘されている『新約聖書用語解説辞典』は、むろん、バインの辞書のことである。その辞書が、十字架とタンムズ神と関係づけていることは確かである。しかし、残念ながら、バインは、そう主張する根拠を提供していない。バインの辞書は、一般の読者のために解説したポピュラーな書物である。従って、詳しい資料を提供する必要はないが、一般に定説として認められていないことを記す場合には、その根拠を提示する必要がある。
 タンムズ神と十字架の間に何らかの関係があったかどうかは、残念ながら筆者は確認できなかった。しかし、ここでは、協会が主張するように、タンムズ神はTというシンボルによって表され、その形象は何らかの崇拝の対象となっていたという仮定に立って、議論を進めることにしよう。もし、タンムズ神がTというシンボルによって表され、そのシンボルが崇拝されていたとしたなら、協会が説くように、キリスト教のシンボルとタンムズ神のシンボルの間に、関係があったことになるのか。
 それは、無理である。というのは、もし、キリスト教の十字架がタンムズ神と関係があるのであれば、キリスト教の十字架は、十字架ではなく、Tの字の形でなければならない。あるいは、なぜ、Tの形から十字の形に変化したのか、説明する必要がある。十字によって、タンムズの神を象徴することは考えられないからである。
 さらに、キリスト教に十字架が取り入れられていくプロセスの中で、タンムズ神への信仰がどのように影響を与えたのかを説明しなければならない。協会出版物は、コンスタンチヌス大帝が太陽神の崇拝者であったことを述べている。しかし、タンムズ神への信仰との関わりは提示されていない。コンズタンチヌス大帝であっても、彼以外の誰であってもよい。協会が、キリスト教とタンムズ神との関連性を主張する以上は、両者の接点になる歴史的証拠を提供する責任がある。そのことをしない限り、キリスト教の十字架のシンボルをタンムズ神のT字形のシンボルと結びつけようというのは、想像上の概念にすぎない。
 
 
エジプトのクルクス・アンサータ
 
 次に、エジプトのクルクス・アンサータについて考えよう。クルクス・アンサータとは、T字の上に円がのっている図形で、エジプトではいろいろなところで使われていた。協会出版物は、このクルクス・アンサータは、性崇拝の象徴だった、と繰り返し説明している。例えば、『洞察』は、次のように述べている(第一巻、607頁)。
「エジプトの彫刻や絵画には、輪頭十字と呼ばれる神聖な象徴が実によく出て来ます。このいわゆる生命のしるしは上端に卵形の取っ手の付いた”T”の字に似ており、これは多分、男女の生殖器の結合した状態を表わしていたのでしょう。エジプトの神々はしばしば、輪頭十字を手に持った姿で描かれています。・・第2巻、530ページの写真。」
 この記事は、クルクス・アンサータが「男女の生殖器の結合した状態」を表わしていると推測している。しかし、実は、そのことは確かではない。エジプトに限らず、古代のさまざまな社会において、いろいろな形の十字架がシンボルとして用いられているが、それらを男女の生殖器と結びつけて解釈している学者を、筆者自身は、見つけることはできなかった。
 このエジプトのクルクス・アンサータについても、上の円形は永遠を表わし、下のT字は命を表わす、と解釈するのが一般的である。この点に関し、二つの辞書の見解を紹介しておこう。まず、協会出版物もよく引用する『アメリカーナ百科辞典(1988年版)』である。
「古代エジプト人は、T字形の十字架を、その上に来るべき生命のしるしとしての円をつけて使っている。この形は、クルクス・アンサータとして知られているが、生命のシンボル(タウ)と永遠のシンボル(円)とを結びつけたものである。タウがどのようにして生命のシンボルになったかは分からない。フェニキヤ人やアッティカ人にとっては、その同じシンボルが聖なる知恵という概念を意味している。十字の下に円が置かれた場合には、『正統的な』意味においての『善』を意味した。このような円の使用法は、最終的には、心を代表するようになった。円や月形と絡ませて描かれている十字架は、古代の人々によって、天文学的なシンボルとして用いられている。」
 もう一つ、これもまた協会出版物がしばしば引用する『国際標準聖書辞典』の見解を紹介しておこう(827頁)。
「インド、スリヤ、ペルシャ、ヨーロッパ、特にエジプトにおいて、後期石器時代からキリスト教の時代に至るまでのさまざまな標本が出てくる。エジプトの象徴においては、Tの十字架が一般的で、その形態はエジプトの十字架とさえ言われている。エジプト人の間では、十字架は、神的なものと永遠の命のシンボルであった。スペイン人の征服者は、インカ人やアズテック人によってシンボルとされた十字架を発見した。それは多分、4つの季節、あるいは、4つの方位を表すのかも知れない。」
 この解説によれば、「エジプト人の間では、十字架は、神的なものと永遠の命のシンボル」だったのである。『アメリカーナ百科辞典』も『国際標準聖書辞典』も、エジプトのクルクスアンサータを男女の生殖器と結びつけていないことを確認していただきたい。
 しかし、証人たちは、『論じる』を持ち出し、H・カットナ−著『性崇拝の歴史概説』(ロンドン、1940年)の16、17ペ−ジ(英文)を引きあいに出して、反論するかも知れない。そこには、次のように記されている。
「エジプトでは至る所で石碑や墓に種々の形の十字架が見られる。多くの権威者はそれらを、男根[男性の性器を表わしたもの]もしくは交合の象徴と見ている。・・・エジプトの墓では、男根像のそばに輪頭十字[上端に輪または取っ手の付いた十字架]のあるのが見られる」
 しかし、証人の方々に知っていただきたい。この引用もまた、誤解を与える不正確なものである。実は、省略された・・・の部分には、次のような文章が入っている。
Baring-Gould is of the contrary opinion and refuses to identify the cross with the phallus.(バーリングとゴウルドは、反対の意見であり、十字架を男根と同一視することを拒否している。)
 この省略された部分は、『論じる』が紹介している説に対して、反対意見を紹介している箇所である。従って、この部分を省略してしまうと、著者カットナーが論じていることが正確に伝わらなくなる。カットナーがどちらの見解を支持しているのかは、はっきりしないが、どちらであっても、『論じる』が省略した部分は、省略してはいけない箇所である。その部分を飛ばして読むと、著者の論述を完全に誤解することになるからである。
 まして、筆者には、カットナーは、『論じる』が省略した方の見解を支持しているかのように思われる。もし、そうであるなら、この『論じる』の引用方もまた、詐欺的行為と言わねばならない。
 さらに、カットナーの書物は、『論じる』が引用している文章の後に、つぎのようなことを述べている。この箇所も、私たちの議論にとっては重要な部分である。引用しておこう。
The question of their connection is still hotly disputted. That the cross was a secred sign long before Christ is supposed to have died upon one is conceded by Baring-Gould, for he believes that the cross 'formed a portion of that primeval religion, traces of which exist before the whole world among every people'.
訳すと、「両者の関係は、未だ、熱い議論が続いている。十字架は、キリストがその上で死なれたと思われるのだが、その時よりはるか以前から、聖なるしるしであったことはバーリングとゴウルドによっても認められている。というのは、彼は、十字架が『原始宗教のある部分を形作っており、その痕跡は、全世界が始まる前から、すべての民族の間に存在している』と信じているからである。」
 この文章は、『論じる』が断定的に紹介している性と十字架の関係には、異論があり、それは現在もホットな議論が展開されていることを明らかにしている。『論じる』の著者は、この部分をも引用しなければならない。なぜなら、『論じる』が断定的に述べていることに対して、重要な反証を提供しているからである。この部分まで引用していない『論じる』の著者は、自説を弁護するために、都合のいい部分だけを紹介していることになるからである。
 『論じる』は、なぜ、この部分を引用しなかったのか。むろん、クルクス・アンサータを性的結合と結びつけさせたかったからであろう。と同時に、そこには、「十字架は、キリストがその上で死なれたと思われるのだが、」という言葉が出てくることにも関係があるのであろう。『論じる』が自説を弁護するために用いている書物の著者カットナーが、イエスの刑具は十字架であったと明言しているのは、知られたくないことだったに違いない。
 それはともかく、カットナーの書物は、50年以上も前のものである。現代の宗教学者や考古学者の間には、筆者が調べた限りではあるが、『洞察』や『論じる』のように、クルクス・アンサータを男女の結合を表していると考えている学者は見あたらない。むろん、筆者の見落としがあるかも知れない。最近の学者の中で、協会が説いている見解をサポートしている書物や論文をご存じの方は、教えていただきたい。次の版からは、訂正することをお約束する。
 では、協会は、なぜ、これほどまでに、クルクス・アンサータを性崇拝と関係づけることにこだわるのか。『ものみの塔』誌1964年10月1日号(587頁)に回答がある。
「さらに、百科事典は、古代エジプトにおいて、十字がみだらな性崇拝の象徴となっていたことを明らかにしています。エジプト人の用いた十字はアンク(クルクス・アンサータ、取手のある十字)と呼ばれ、これはT字形の頂上に楕円形の取手をつけたものであり、男女の生殖器を表わしています。イスラエル人は、異教の象徴である、この陰茎十字を家の中に持ち込みませんでした。異教のエジプトにおけると同じく、ラテンアメリカなどにおいても陰茎型の使用はさかんです。「T」の字をかたどって建てた教会堂もあります。ホンジュラスの聖ペテロ寺院中央会堂のとびらには十字と楕円が使われています。古代エジプトのミイラを収めた墳墓には多数の十字が使われましたが、今日の墓地は、十字や楕円つきの十字さえ数多く見られます。」
 この記事は、性崇拝を象徴する十字を、教会堂や墓地の十字架と結びつけられて論じている。つまり、もともと十字には性的な汚れがつきまとったシンボルなので、そのような十字架を使っている教会堂もまたた、汚れたものである、そう言いたいのである。
 同じ論理が、1968年5月15日号の『ものみの塔』誌(318-19頁)にも見られる。
「クルクス・アンサータと呼ばれるエジプトの十字架は、上部に輪がついていました。この組み合わせは男女の生殖器官を表わすものでした。この十字架の女性の象徴すなわち、ヒンズー教でヨニと呼ばれる輪について、O・A・ウォール著『性の性崇拝』の359頁にこうしるされています。『クルクス・アンサータ(柄のついた十字架)は、インド、アッシリア、バビロン、エジプトからスウェーデン、デンマーク(古代北欧)および西欧大陸に至るまで世界中で用いられた・・・それはエジプト人のT型十字章すなわち生命力の象徴である。それは女性のヨニと男性のT字型十字架の結合を表わす。』これらの事実に照らしてみる時、建物に十字架をつけ、宗教的礼拝に十字架を用いる教会は、異教の崇拝を行なっていることになります。異教化された崇拝が真の神の是認を得ることはありません。すべてこのようなバビロン的崇拝から離れることが必要であり、真をもって創造者を崇拝する人々と交わることが必要です。黙示18:4。」
 ここでもやはり、クルクス・アンサータが性崇拝と結びつけられていることを強調し、「これらの事実に照らしてみる時」と論を進めている。つまり、クルクス・アンサータが男女の結合を表わしていることこそ、「建物に十字架をつけ、宗教的礼拝に十字架を用いる教会は、異教の崇拝を行なっている」根拠だ、というのである。
 このような論理がおかしなことは、言うまでもない。エジプトのクルクス・アンサータが何を象徴していようと、教会堂に十字架がシンボルとしてかかげられていることは関連がないからである。
 協会は、クルクス・アンサータの異教性を繰り返すことによって、十字架がもつ汚れを人々に印象づけ、その十字架をシンボルにもつキリスト教世界は異教的で汚れた組織である、と説得したいのである。このことは、『論じる』が、J・ガルニア大佐の『死者の崇拝』(ロンドン、1904年、226ペ−ジ、英文)いう書物から、次のような文章を引用していることにも見られる。
「エジプトの祭司たちや神官長を務める王たちは、太陽神の祭司としてのその権威の象徴として、手に・・・『輪頭十字』の十字架を持っており、それは『生命のしるし』と呼ばれた。」
 この引用には問題がある。実は、ガルニア大佐は、同書の225頁で、「十字架につけられた罪は救いである。そのようにすることができる力が得られるのは、ただ一つの十字架による。その十字架とはキリストの十字架である。」つまり、著者は、キリストの十字架は異教に見られるさまざまな十字架とはまったく異質のものである、と述べているのである。
 筆者は、上記の文章を読んで、ほんとうにびっくりした。ガルニア大佐の見解を完全に誤解していたことを知らされたからである。結局、『論じる』は、ガルニア大佐の書物の一部を、イエスの十字架は異教に由来するという協会の主張を説得するために利用したにすぎない。ガルニア大佐は、キリストの十字架とエジプトのクルクス・アンサータとは本質的に違うと言っているのに、協会は、同氏の著書を用いて、反対のことを教えているのである。
 『論じる』が扱っているテーマに関する大佐の見解は、筆者が紹介した上記の(225頁の)文章にある。従って、『論じる』は、その文章を紹介しなければならない。全然関係がない文章を引用することによって、ある人が、その人の見解とは異なった見解をもっているかの印象を与えてしまうことは、避けなければならないことである。通常、そのような論述方は許されない。エホバの証人の世界ではかまわないのだろうか。一般の社会では、そんなことをすれば、いっぺんに信用を失ってしまう。
 
 
十字架がキリスト教に入ってきた背景
 
 協会は、初代のキリスト教は背教し、四世紀のコンスタンチヌス大帝のときに、異教に由来する十字架が教会に入ってきた、と教える。十字架を異教に求めることには問題があるが、コンスタンチヌス大帝の頃に、十字架のシンボルがキリスト教の中に広まっていった、ということは事実である。この点について、『国際標準聖書辞典』が述べていること(827頁)を紹介しておこう。
「十字架の上でイエスが死なれたことで、この(十字架の)絵に、新しい意味が加わった。それはクリスチャンの宗教の第一のシンボルになった。そして、キリスト教芸術においていろいろ工夫された形態にしあげられた。しかしながら、十字架がキリスト教信仰の公けのシンボルとして制限なく使われるようになったのは、コンスタンチヌスの時以降である。」
 従って、次のような協会出版物の記述は、表現の細かな点で問題がないわけではないが、基本的には了解できる陳述である。例えば、『目ざめよ!』1984年9月22日号(12頁)の、次のような記述である。
「この有名な話の主人公はコンスタンチヌス大帝です。その時以降、ローマ・カトリック教は同帝国の国教となり、特権や人気や力を急速に拡大してゆきました。それと同時に十字架が同教会の公の象徴となり、十字架は次第に宗教建造物を飾るようになり、丘や山、四つ辻や公の広場などに立てられました。家の壁や、幾百万もの人々の胸元を飾るようになりました。」
 あるいは、『ものみの塔』誌1987年8月15日号(21頁)の陳述も、同様である。
「西暦312年;今のフランスと英国の地域を支配していたコンスタンティヌスは、義兄弟に当たるイタリアのマクセンティウスと戦うために出かけました。その途中、『これによって征服せよ』という意味の『ホック・ウィンケ』という語が記された十字架の幻を見たと言われています。そして勝利を得た後、その十字架を自分の軍隊の軍旗にしました。後にキリスト教がローマ帝国の国教となったとき、十字架は教会の象徴となりました。」
 その3頁後の24頁の「キリストの受難を描いた芸術作品に見られるような十字架は、コンスタンティヌスの時代以前にはなかったという点で、今やほとんどの学者の意見は一致している」という言明も、そのまま受けとって差し支えないと思う。
 しかし、『ものみの塔』誌1988年8月1日号(4頁)の次のような文章になると、かなり行き過ぎが見られる。
「異教の多くの習わしは、ローマ皇帝コンスタンティヌスのいわゆる改宗の後、”クリスチャン”の間に導入されました。『コンスタンティヌスの時代以降、十字架を象徴として用いることはキリスト教世界全体に広まり、程なくして様々な形の敬意がそれに示されるようになった』と、宗教史家のエドウィン・ビーバンは自著『聖像』の中で述べています。そこから、他の形の偶像崇拝への道が開かれました。同書は次のように述べています。『十字架の象徴に敬意をささげる習慣が入って来たのは、恐らく絵画や像に敬意がささげられるようになる前であろう。コンスタンティヌスがラバルム[十字架を組み入れた軍旗]で範を示すまで、十字架そのもの・・・はキリスト教の記念碑にも、宗教美術の中にも見いだせない。』」
 コンスタンチヌス以降、さまざまな十字架の象徴が用いられるようになったことは、確かであったとしても、それを「異教の多くのならわし」と結びつけたり、「偶像崇拝への道が開かれた」と言うのは、明らかに言いすぎである。さらに、「十字架そのもの・・・はキリスト教の記念碑に・・・見い出されない」という文章もまた、不正確である。1〜3世紀のキリスト者の墓地の中に、十字架が刻まれているからである。
 上記の文章では明言されていないが、協会の主張の中で一番問題になるのは、コンスタンチヌス大帝の時に導入された十字架のシンボルを、太陽礼拝と結びつけて解釈されることにある。例えば、『目ざめよ!』1984年9月22日号(13頁)は、コンスタンチヌス大帝の十字架を太陽礼拝に関連づける人がいる、と述べている。
「興味深いことに、コンスタンチヌスが空に見たとされ、のちに自分の軍隊の旗じるしとして用いた十字架はラテン十字架ではなく、*というしるしでした。このしるしについては、太陽崇拝(コンスタンチヌス自身が太陽崇拝者であった)と関連づける人も、ギリシャ語の「キリスト」を表わす最初の二つの文字、X(キー)およびP(ロー)から成るモノグラムと関連づける人もいます。その時以来、『十字架の兵士たち』によって数々の悪らつな残虐行為がなされた十字軍のような、非クリスチャン的な軍事活動に正義という雰囲気を加味するため、十字架が頻繁に用いられてきました。」
 ここには、太陽礼拝に関連づける人がいることを紹介しているが、それが誰であるかは述べていない。筆者は、コンスタンチヌス大帝の見た十字架を太陽礼拝と結びつけて解釈しているのを協会出版物以外、見いだすことができない。むろん、筆者が見落としている可能性もある。従って、断定することは避けなければならないが、コンスタンチヌス大帝のときに導入された十字架と太陽崇拝とを結びつけることができる証拠を見いだすことはできない。
 『ものみの塔』誌1987年8月15日号(22頁)もまた、コンスタンチヌス大帝の十字架が太陽礼拝と深い関係があったことを強く示唆している。
「また、コンスタンティヌスの”見た”十字形が、実際にキリストの処刑に用いられた道具を表わしていたとする証拠もありません。コンスタンティヌスがすぐ後に鋳造した多くのコインに刻まれていたのは、”P”を上に重ねたX形の十字印でした。(挿絵をご覧ください。)W・E・バインの『新約聖書用語解説辞典』は、『コンスタンティヌスがキリスト教の擁護者となるきっかけになった幻の中で見たと言ったキーという文字、すなわちXは、〔ギリシャ語の〕「キリスト」という語の頭文字であり、〔処刑用の道具としての〕「十字架」とは関係がなかった』と述べています。しかし実際には、この型の十字印は、太陽を表わす異教の象徴とほぼ同じです。」
 ここでは、コンスタンチヌスが見た幻の十字架は、「太陽を表わす異教の象徴とほぼ同じ」と結論づけられている。しかし、こで展開されている論理はきわめておかしなものである。『新約聖書用語解説辞典』の著者バインは、コンスタンチヌスが見た十字架の幻は、キリストが実際に掛けられた十字架ではなく、キリストのギリシャ語の頭文字X(キー)に関係している、と言明している。従って、バインの辞書の主張をそのまま受け取るなら、コンスタンチヌス大帝が見た幻は、キリストと関係がある、と結論づけなければならない。
 また、『ものみの塔』誌は、「”P”を上に重ねた」と述べているが、それはギリシャ語の「ロー」という文字のことで、キリストのギリシャ語表記の二番目の文字を指す。ということは、コインに刻まれた十字印は、キリストの最初の文字と二番目の文字とを組み合せてつくられたもので、キリストそのものを表している。
 にもかかわらず、この『ものみの塔』誌の記事は、突然、「しかし実際には、この型の十字印は、太陽を表わす異教の象徴とほぼ同じです」と、それまでの論述とはまったく無関係の、否、否定してしまうような結論を出してしまっている。読者はこの論理の飛躍に気づかれただろうか。
 このようなおかしな論述は、普通の書物では決して見られない。証人ではない普通の読者が、協会出版物は何を言おうとしているのかよく分からない、とこぼすのは、一見論理的に記述されているかのように見える記事が、実際には、論理的ではないことに基づく。上記の引用部分もその典型的なものである。
 記述の仕方、不正確な論理、といったことは横に置いておこう。今、一番重要なことは、コンスタンチヌス大帝の十字形が太陽崇拝と関係があったかどうか、ということである。残念ながら、協会出版物は、その証拠を提示していないし、そのように主張している学者や書物を明らかにしていない。ただ、「関係があった」と、断言するだけである。これでは、仲間の間にだけ通じるひとりよがりの考えである。
 協会は、十字架がタンムズ神やクルクス・アンサータなどと関係があった、と主張している。もし、それが事実であるなら、タンムズ神やエジプトの性崇拝とコンスタンチヌス大帝との接点がなければならない。コンスタンチヌス大帝が、タンムズの神を信じていたとか、クルクス・アンサータを使っていたという証拠があれば、協会の主張には説得力がある。しかし、そうでない限り、協会の主張は、単なる思い付きである。協会は、コンスタンチヌスの十字架がタンムズ神、エジプトの性崇拝、あるいは何らかの太陽崇拝と関係があったことを証明する責任がある。
 現在のところ、その証拠は何一つない。協会出版物もその証拠をあげていない。とすれば、「イエスは杭にかけられたにもかかわらず、コンスタンチヌスのときに、異教の信仰の影響によって、十字架が持ち込まれ、キリスト教が偶像崇拝者になってしまった」という協会の主張は、協会が勝手につくりあげた創作(ストーリー)なのである。
 
 
バインの辞書について
 
 辞書や辞典類を参照するとき、その道の権威者によるものを使用しなければならない。これは常識である。しかし、協会出版物は、自分たちの主張に合うような文献を捜して、それを引用する。その文献がどれほど正確なものか、一般に信用されているものか、少数意見にすぎないのか、時代遅れの見解であるのか、などといったことについては問題にしない。とにかく、自説に都合がよければそれでよいのである。
 ところで、協会出版物は、しばしばは、バインの『新約聖書用語解説辞典』を引用して、イエスがかけられたのは十字架ではなく、杭であったと主張する。はたして、この辞書はどれほど信頼されているのか。
 まず、最初に、バインの辞書について、一言述べておきたい。
 バインの辞書は、専門家を対象としたものではなく、一般の読者向けに書かれた通俗的な辞書である。それは、ある種の聖書解釈を前提としており、すべてのキリスト教会から受け入れられているわけではない。特に、学術的な正確性を期して記されているわけではないので、ギリシャ語の解釈論争において、バインの辞書を根拠に論じられることはない。これは、すべてのギリシャ語文献学者、歴史家が賛成してくださると思う。
 むろん、このことは、バインの辞書が無益だというのではない。ギリシャ語について深い知識のないキリスト者が、聖書を原語で学ぼうとするときには、とても役に立つ。しかし、意見の対立を検証するため、学術的な論争に用いるには不十分である。残念ながら、バインの辞書に対するボーマンの次の言葉は、当たっていると言わねばならない。
「一般に、バインの辞書は、福音的なクリスチャンの間では、評価されているが、この事柄(十字架)においては、明確に間違っている」(Robert M. Bowman, Understanding Jehovah's Witnesses, Baker Book House, Grand Rapids, Michigan, 1991 p.144)。
 バインが、協会の解釈するように考えていたとすれば、このボーマンの評価は正しい。しかし、筆者自身は、バインの文章を繰り返し読みながら、そこまで言う必要はないのではないか、という気がしている。というのは、バイン自身は、イエスが杭にかけられたと考えていたのではなく、十字架と考えていた可能性が高いからである。
 では、バインの主張を、改めて、『参照資料付き聖書』によって紹介しておこう(1769頁)。
「スタウロスは主としてまっすぐな杭を指す。それに犯罪人は処刑のためくぎづけにされた。この名詞も、杭に留めるという意味の動詞スタウローも、元々は、教会の用いている2本の梁材を十字に組み合わせた形とは区別されていた。後者の形は古代カルデアにその起源を有し、同国およびエジプトを含む隣接した国々において、タンムズ神の象徴(その名の最初の文字で、神秘的意味の付されたタウの形)として用いられた。西暦3世紀の半ばまでに、諸教会は キリスト教の幾つかの教理から逸脱するか、それをこっけいなものにしてしまった。背教した教会制度の威信を高めるため、異教徒が、信仰による再生なしに教会に受け入れられた。それらの者には異教の印や象徴を引き続き用いることが大幅に認められた。こうして、タウつまりтがキリストの十字架を表わすのに用いられるようになり、多くの場合に横棒を下にずらした形が使われた。」
 上記の文章を、協会のように、イエスの刑具は杭だったが、タンムズ神の信仰から、十字架になってしまった、と読むことは可能である。しかし、筆者には、バインがはっきりそのように言っている、とは思えない。というのは、バインは、十字架刑が古代バビロニア帝国から存在していたことを明言している。それは、西暦前7世紀のことである。しかも、上記の引用の後ろに続く「スタウロス」の字義説明において、マタイ27:32をあげ、「十字架もしくは杭自体」と解説している。さらに、バインは、同辞書の「木(tree)」という項目において、「クシュロン」を「十字架、スタウロスの木、ローマ人が処刑される人物を釘付けにした立てられた柱または杭」と説明している(4巻、153頁)。
 これらの語義説明の中で、十字架(cross)を最初に紹介していることから、バイン自身は、杭ではなく、十字架刑に処せられたと考えていた、と仮定した方がよいように思う。つまり、バインは、さまざまな十字架模様がキリスト教においてシンボルに採用されていく状況を解説しているのであって、イエスがかけられた刑具そのものについては問題にしていない、ということである。では、『参照資料付き聖書』が引用している先の文章は何を言いたかったのか。筆者は次のように推測する。
「今日の教会に見られるさまざまな十字架模様がキリスト教のシンボルとして使われはじめたのは3世紀半ば以降のことである。その頃教会は、キリスト教信仰のある信条から離れていくという背教的な動きがあり、かつて異教の神のシンボルとされていた十字架がキリスト教のシンボルになることが可能になってきた。」
 以上のバインに対する理解は、むろん、筆者の解釈である。英文でもあいまいなところがあるので、協会の解釈が不可能だというわけではない。いずれにしても、断定的な言い方は避けた方が賢明であろう。
 むろん、バインの辞書がどのようなことを述べているのか、その陳述をどう解釈するのかということは、本質的な問題ではない。より大切なことは、協会が述べていることが歴史的資料に符合するかどうか、ということでる。バインの主張がどのようなものであれ、十字架をめぐって説かれている協会の教えは、歴史的資料に一致するものではない。
 
 
十字架をもつことについて
 
 『論じる』は、「崇拝さえしなければ、十字架を大切に持っていてかまいませんか」という質問に対し、次のように答えている(220頁)。
「もし、親しい友人が偽りの訴えに基づいて処刑されたなら、あなたはどう感じますか。処刑された刑具の複製を作りますか。それを大切に持っているでしょうか。それとも、そのような物には触れようともしないでしょうか。」
 『ものみの塔』誌1989年5月1日号(25頁)も、次のように述べている。
「1世紀のクリスチャンはイエスの処刑の道具を神聖なものとはみなさなかったでしょう。その道具に崇敬の念を示すのは、その上で犯された悪業、つまり、イエスの殺害を称揚することになったでしょう。」
 さらに、続く26頁には、次のように述べられている。
「あなたの最愛の友が偽りの非難を受けて処刑されたとしたら、あなたは、(絞首刑に用いた縄であれ、電気椅子であれ、銃殺隊の銃であれ)処刑の道具の像を作り、その複製に口づけし、その前でろうそくをともし、それを神聖な飾りとして首の周りにかけるでしょうか。そんなことは考えられません。」
 最後に、『ものみの塔』誌1995年5月15日号(20頁)を紹介しておこう。
「イエスを釘付けにするために使われた道具は、決して偶像視するべきではなく、嫌悪の情をもって見るべきでしょう。」
 もし、十字架をキリストが処刑された刑具としてだけとらえるなら、上記の論述はもっともである。だれでも、「そのような物には触れようともしない」し、「その道具に崇敬の念を示すのは、その上で犯された悪業、つまり、イエスの殺害を称揚することに」なるであろう。あるいは、「その複製に口づけし、その前でろうそくをともし、それを神聖な飾りとして首の周りにかける」など「考えられ」ない。むしろ、「嫌悪の情をもって見るべき」ものであろう。
 しかし、このような十字架理解は、新約聖書が教えているものだろうか。明らかに違っている。
 新約聖書においては、十字架と関わりのある言葉として、スタウロス、アナスタウロオー、スタウロオー、シスタウロオーなどの言葉が使われている。これらの言葉の使われ方は、大きく二つに分けられる。
 一つは、イエスの処刑という歴史的な出来事に関わるものである。もう一つは、イエスの死がもたらした贖いと関わりのある神学的な意味である。もし、前者だけの意味しかないのであれば、『論じる』が主張していることは的を得ている。しかし、後者の意味を考慮すると、『論じる』が批判していることは検討外れになる。しかも、キリスト教信仰にとっては、後者こそ、重要なのである。
 例えば、パウロに例を取ってみよう。彼は、十字架に関わりのある言葉として、スタウロスを7回、スタウロオーを8回、シスタウロオーを2回、合計17回使っている。そのいずれもが、実際のイエスの受刑という歴史的出来事そのものに関わるものではなく、イエスの死がもたらした神学的な意味との関わりの中で使われている。
 例えば、パウロは、「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」(Tコリント1章23節)と宣言している。あるいは、「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」(Tコリント2章2節)と告白している。加えて、十字架から目をそらしてしまうことは、信仰から迷い出ることになると警告している(ガラテヤ3章1節)。さらに、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」とまで言い切っているのである(ガラテヤ6章14節)。
 パウロにとっては、福音(エウアンゲリオン)とは、「十字架のことば」であり(Tコリント1章17-18節)、そのメッセージこそ、人々に救いをもたらすものであった(Tコリント1章21節)。十字架は、全人類の罪が処罰されたところであり(コロサイ2章14節)、すべての被造物が服従させられたところである(コロサイ2章15節)。十字架は、民族間に平和をもたらし(エペソ2章14-16節)、万物との和解を可能にした(コロサイ1章20節)。
 十字架は、イエスに死をもたらしたというだけに留まらなかった。それは、キリスト者に死をもたらすものでもあった(ローマ6章3-6節、ガラテヤ2章20節、コロサイ3章3節)。そこに、律法主義からの解放があった(ガラテヤ2章19節)。
 この十字架は、ユダヤ人にとっては愚かなもの、つまづきであった(Tコリント1章23節、ガラテヤ5章11節)。多くの人に、敵対心をもたらすものでさえあった(ピリピ3章8節)。
 以上が、使徒パウロが説いた「十字架」の意味である。ところが、協会は、イエスの杭を死刑の道具としてしか理解しない。そして、その刑具のシンボルである十字架を持ち歩くことはおかしいと断罪する。十字架を、そのように貧しくとらえるエホバの証人の信仰は、新約聖書の信仰とは無縁なのである。
 十字架(それは、協会が主張するように、杭であってもいっこうにかまわないのだが)は、全人類の贖いのメッセージを象徴している。神の愛、神の知恵、神の力、神の赦し、神の恵み、罪の処罰、罪の力からの解放、サタンと死に対する勝利、民族の和解、万物の和解、人間の使命の回復、信仰の根本的基盤、キリスト者と世との関係などを指し示す。そのような一連のすばらしい恵みのしるしとして、キリスト者は十字架を信仰のシンボルに据えるようになったのである。
 キリスト者の中には、十字架を身に着ける人もいる。日常生活の中で十字を切る人もいる。多くのキリスト教会の会堂には、一番目立つところに、十字架が掲げられているであろう。その理由は、イエスの処刑そのものを意識しているからではない。イエスの贖いの死がもたらすすべての恵みを含めているのである。
 聖書は、イエスがかけられた十字架の形態やその十字架上での肉体の苦しみを問題にしていない。不思議なことに沈黙を守っている。考古学的な興味や歴史的な探求にも無頓着である。聖書が問題にしているのは、むしろ、十字架が、神と私たちの関係において何をもたらしたか、ということに集中している。そのもたらされたもののすべてを、キリスト教会は、十字架によって表象したのである。
 しかし、十字架は、ある形を形成している物体、像であることが多い。そのことを取り上げ、「いかなる像も刻んではならない」との十戒の中の三戒を破るものだ、と非難する人がいるかも知れない。筆者は、ある証人からそのように言われた。しかし、この批判は当たらない。それは、三戒の読み込みすぎである。十戒の三戒は、ものを刻んではいけない、と命じられているわけではない。もし、そうであるとするなら、彫刻物はすべて偶像になってしまう。三戒が戒めているのは、崇拝としての対象物を刻んではならない、ということである。
 キリスト者の中に、筆者が知る限り、十字架を神聖視したり、偶像視したりする人はいない。もし、そのようなことをしている人があれば、むろん、偶像崇拝の罪を犯していることになる。しかし、単に飾りとしてつけているのであれば、それは偶像視しているというわけにはいかない。例えば、ある人が、ある模様のネックレスをつけていたとする。それを見た別の人が、ネックレスやその模様を拝んでいると非難をはじめたらどうなるだろうか。あるいは、お部屋の飾り棚に、ある陶器を飾ったとする。それを見た別の人が、陶器を拝んでいると非難したらどうだろう。そのような批判が当を得ていないことは誰でも分かると思う。
 あるものを身につけているとか、飾ってあるというだけで、偶像崇拝に関わっていると即断してはならない。どのような意味で身につけているのか、どのような思いで飾ってあるのか、きちんと調べてから判断する必要がある。キリスト教会の十字架に疑念をもっている人は、教会に行って、キリスト者たちが十字架に対して崇拝行為をささげているかどうか、具体的に確認してから、非難した方がよい。
 あるいは、そのようなシンボルをもつこと自体がいけない、と主張する人がいるかも知れない。シンボルはシンボルである。従って、シンボルが指し示すものこそ重要である。もし、シンボルそのものがいけないと主張する人は、ものみの塔聖書冊子協会が「塔」をシンボルマークに使っていることも非難しなければならない。『ものみの塔』誌は、毎号、そのタイトル名の左肩に、協会のシンボルマークである「塔」を描いているからである。
 もし、その「塔」の図柄を取り上げ、証人たちは、塔を拝んでいるとか、そのようなシンボルマークは、十戒の三戒を破るものであるとか、非難する人がいたなら、証人の方々は、どのように反応されるだろうか。そのようなことを言う人は、ものみの塔の信仰のことを少しも分かっていない。私たちにとって、塔が何を意味しているのか、よく調べてから批判していただきたい、そう言われるに違いない。
 キリスト教世界が十字架をシンボルとして使っているのは、協会が塔をシンボルに使っているのと同じである。それ以上でも、それ以下でもない。
 筆者は、ある証人の方から、「クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書のこと)に一度も出てこない『塔』を、協会がシンボルマークとして使うことはおかしなことでしょうか」と質問されたことがある。確かに、初代のキリスト者たちは、協会がシンボルに使っている「塔」を重要視していない。新約聖書には、そのような「塔」については、どこにも言及していない。
 何をシンボルマークとして使うか、それは自由である。会社でも、学校でも、国家でも、ボランティアのグループでも、みなシンボルマークをもっている。そのマークに、何かの意味を込め、シンボルマークとして使っている。だから、協会が「塔」をシンボルマークに使おうと、他のものを使おうと、それはそれで自由である。
 シンボルマークというのは、そのグループが一番大切にしているものを表彰するのが普通である。キリスト教会は、イエスの贖いの死をその信仰の中心に置き、十字架をシンボルマークとして採用した。協会は、時を見張っているということが信仰の中心であると考え、塔をシンボルマークに据えた。どちらが、新約聖書の信仰をよりよく表しているか、読者にご判断を仰ぎたい。
 最後に、まとめておこう。
 私たちは、十字と関係するさまざまなシンボルマークがキリスト教以前から異教の信仰において用いられてきたことを見てきた。しかし、バビロンのタンムズの神は、Tの十字であり、エジプトのクルクス・アンサータは、T字の上に円がのせられていたものである。また、コンスタンチヌス大帝が見た幻というのは、Xにローというギリシヤ文字を加えたものである。そのいずれもが、伝統的にキリスト教会が採用してきた形の十字架ではない。しかも、それらが、キリスト教会のシンボルマークになっていった歴史的つながりもない。そのことを示す証拠はないし、協会出版物も、その証拠をあげていない。
 キリスト教会が十字架をそのシンボルマークに採用していく背景として、そのような複雑な状況を詮索する必要はない。十字架がシンボルになったのは、イエスが十字架の上で死なれたという単純な歴史的事実にあったのである。そのような認識は間違いであると協会は主張しはじめたので、歴史的に確証できない事柄をいろいろ並べなければならないのである。
 では、イエスの刑具が杭ではなく、十字架だったことを、次章において、初代教父の文献から確認することにしよう。
 
 
   
第三章 初代教会教父の文献から
 
 イエスが処刑された道具は、十字架だったのか、それとも杭だったのか。この問題に関し、初代教父たちが残した文献は、どのような証言をしているのだろうか。本章では、この問題を考察してみよう。
 教父たちは、イエスの十字架についてさまざまな証言をしている。しかし、今、ここで問題にしているのは、イエスの刑具の形態についてである。従って、十字架一般に関する教父たちの証言ではなく、十字架の形態について何らかの示唆を与える記述に限定して調べていきたいと思う。
 しかも、その教父たちの証言は、コンスタンチヌス大帝の時以前、つまり、西暦312年以前のものでなければならない。というのは、協会は、コンスタンチヌス大帝のときに、十字架が導入されたと教えているからである。しかし、ここでは、3世紀半ばまでのものに限定しよう。というのは、協会は、自説の最終的な寄り所として、バインの辞書をもち出すが、そのバインは、3世紀半ばぐらいまでと限定しているからである。
 
 
イグナチウス(西暦30-107年)
 
 イグナチウスは、1世紀後半に活動した教父である。ということは、時代的には、使徒たちとほとんど変わらない。とすれば、その証言の歴史的価値は、当然、新約聖書と同等である、と考えてよい。
 そのイグナチウスは、偽りの兄弟たちについて、もし彼らが父のものであるなら、「十字架の枝として現れる」と述べている(Epistle of Ignatius to the Trallians, The Ante-Nicene Fathers, vol.1 Wm. B. Eerdmans Publishing Company, Grand Rapids, Michigan, 1985, p.71)。
 ここで、イグナチウスは、クリスチャンたちを「十字架の枝」と表現している(英語ではbranchesと複数)。ということは、十字架が一本の杭ではないという前提で議論を進めている、ということである。
 
 
バルナバ(西暦100-150年)
 
 バルナバは、2世紀初頭に活躍した教父である。彼は、その手紙の中で、アブラハムが318人の奴隷に割礼を施したこと(創世記14章14節参照)について触れ、次のような説明をしている。
「最初に割礼を施したアブラハムは、霊においてイエスを予見し、三文字の教義を受けて、割礼を施したのである。というのは、『アブラハムは自分の家に属する十八人および三百人の男に割礼を施した(創世17:22、27および14:14)』とあるからである。彼に与えられた知識とはそれでは何で(あった)か。彼が、先ず十八人と述べ、それから間をおいて三百人と言っている点に注目しなさい。十八(を構成しているの)は、(数値が)十であるI(イオター)と、(数値が)八であるH(エーター)である。それは(それゆえ)イエスース(=イエス)となる。またT(タウ)(数値は三百)で(あらわされる)十字架が恵みを意味しているので、および三百人、とあるのである。それはそれゆえ、二文字でイエスを、また一文字で十字架をあらわされる。」(『使徒教父文書』講談社、1974年、41-2頁)
 バルナバは、この解説において、十字架がTによって表わされる、と明言している。このT(タウ)への言及は、イエスの十字架が一本の杭ではなく、Tの形をしていたと前提して、はじめて意味が通じる。
 協会は、十字架がTと関わりがあると主張するが、その場合、タンムズ神と結びつける。ところが、バルナバの手紙は、同じTに結びつけても、贖いの恵みと関係づけている。前者であれば、異教との関係が出てくるが、後者であれば、そうではない。むしろ、神ご自身の祝福を予想させる。
 さらに、このバルナバの手紙は、イスラエルの民がレフィディムにおいてアマレクと戦ったときに、モーセが手をあげた記録を取り上げている。そして、このモーセが手をあげたときの姿は十字架を表わしている、と述べている(前掲書、43頁)。
 読者は、出エジプト記17章11-12節を開いて、モーセが祈っている姿を想像していただきたい。そして、そのモーセの姿は、伝統的な十字架に一致するのか、それとも、協会が主張する一本の杭の方に符合するのか、判断していただきたい。
 
 
殉教者ユスチヌス(西暦110-165年)
 
 ユスチヌスは、2世紀前半に活躍したもう一人の教父である。彼の発言の中から十字架と関わりがあると思われるものを拾ってみよう。まず、『第一弁明』の中からである。
「『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、一人の若者がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にある。』話が進むとより明らかになるのですが、これは彼が磔にされ、そこに肩をつけた十字架の力を示すものです。」(『ユスチヌス』、教文館、1992年、50頁)
 ユスチヌスは、イエスがはりつけにされた際、イエスの肩が十字架につけられた、と述べている。協会が教える一本の杭の場合には、イエスが肩を「杭」につけたということになり、不自然である。この表現は、イエスの刑具が伝統的な十字架であったという前提に立つなら、初めて理解できる。
 ユスチヌスは、その『第一弁明』において、さらに、次のようなことも述べている。
「しかしいわゆるゼウスの子らの誰を例にとろうと、十字架刑に処せられるという点は悪霊共も決して模倣いたしませんでした。なぜならそれは、彼らには理解できなかったからです。と言うのも十字架に関するすべての言葉は、既に明らかにしましたように、シンボルによって語られているからです。」
「かの預言者が予告いたしましたように、これこそは彼の力と支配を示す最大のシンボルであり、そのことはわれわれの眼で知覚する所からも示すことができます。世界にあるすべてのものを考察していただきたいと存じます。一体万物は、十字の形なしに秩序と連関を保ちうるものでありましょうか。」
「まず海を渡るためには、帆柱と呼ばれるこの勝標(トロパイオン)が、舟のなかでしっかりと立っていなければなりません。また土はこの形状によらなければ耕すことができません。この形状の道具によらなければ、掘削人は仕事ができませんし、工人も同様です。」
「さらに人間の形が言葉(ロゴス)なき動物と異なる点は、人間の場合、身体の直立方向と直角に両手が伸びていることであり、顔では、額から隆起していてそこを生き物の息が通る、鼻というものを持っていること以外にありません。そしてこの形状は、他ならぬ十字架形を示しているのです。」
「次の言葉は預言者を通じて語られたものです。『われわれの顔の前の息は主キリストである。』」
「あなたがたローマ人の間で用いられているシンボルも、この形状の力を示しています。つまり申し上げているのは、軍旗と勝標(トロパイオン)の形のことなのです。これによって至る所あなたがたの進軍があり、そこに力と支配の印を示しているのです。たとえあなたがたがそれと気付かなくとも、なさっているのは実はこのことなのです。」(『ユスチヌス』、教文館、1992年、73頁)
 以上のような発言の中で、ユスチヌスは、イエスの十字架の重要性を強調するため、いろいろな例を紹介している。例えば、帆柱が立っている船、土を耕す道具、直立して両手を直角に伸ばしている人間、顔に見られる額と鼻、ローマ軍の軍旗、勝標(トロパイオン)などである。
 それぞれの例えを、一つ一つ、具体的に想像していただきたい。ここに記述されているすべての例えが、イエスの刑具は伝統的な十字架の形であり、協会が教える一本の杭ではないことが確信できるはずである。
 なお、ここに出てくるローマ軍の「軍旗(exillum)」とは、T字の形をした支柱に旗がつけられたものを指す。また、「勝標(tropaion)」とは、敵に勝利した場合、その敵の甲胄、武器などを束ねて吊り下げるためのものである。その形態は、T字であった。ローマ軍は、ギリシア以来、ローマ時代においても、勝利の標徴としてそれを戦場に立てることを習慣としていた。
 さらに、ユスチヌスが著した『トリフォンとの対話』から、十字架の形態を暗示するような箇所を拾ってみよう。その書物は、キリストのメシア性に関し、旧約聖書を予型論的に解釈しているが、焼かれた羊の中にイエスの十字架を見ている。
「完全に焼くように命じられた羊はキリストが経験された十字架の苦しみのシンボルである。焼かれた羊は、十字架の形のように焼かれ、並べられた。というのは、一本の串は下の方から頭に向かって刺し通されている。羊の足が付けられているものは、背中を横切っている。」(Dialogue With Trypho", Ante-Nicene Fathers, vol.1 p.215)
 ユスチヌスは、過越の羊が縦の串と横棒によって焼かれたことに言及している。そして、もし、キリストが過越の子羊であるなら、キリストの死は過越の羊の焼かれ方を正確に表すものでなければならない、と主張する。むろん、このような発言は、伝統的な十字架の形ではじめて意味がある。協会が説く一本の杭では、意味をなさない。
 『トリフォンとの対話』においても、バルナバの手紙と同じように、イスラエルの民がアマレクと戦ったときのことが取り上げられている。
「民がアマレクと戦うとき、ヌンとヨシュアが戦いを導き、モーセ自身は手を伸ばして神に祈っていた。フルとアロンは、一日中その手を、疲れたときに下ろさないように支え続けた。もしモーセが、十字架の模倣であるしるしのどの部分であっても、諦めてしまうなら、モーセの書に書いてあるとおり、人々は打ちのめされてしまったのだ。もし、モーセがその形に留まっているなら、アマレクはそれに応じて破れたのだ。勝利したものは、十字架によって勝利したのだ。」(前掲書、244頁)
 ユスチヌスは、モーセが手を伸ばして神に祈ったときの姿を、「十字架の模倣であるしるし」と述べ、モーセの勝利は十字架に他ならなかった、と理解している。
 読者の皆さん、もう一度、考えていただきたい。モーセが手を伸ばした(stretching out both hands)とは、どのような姿を想像できるだろうか。ユスチヌスが、「フルとアロンは一日中その手を、疲れたときに下ろさないように支え続けた」と記述したとき、一本の杭を想像した方がよいか、それとも、伝統的な十字架の形を想像した方が適切なのか。説明の要はないであろう。
 さらに、ユスチヌスは、『トリフォンとの対話』の中で、一角獣の中に十字架を見ている。
「一角獣の角は十字架を描いたタイプ以上の事実や絵であることは、誰でも、証明することができるだろう。というのは、一つのものは、垂直に立てられており、そこからもっとも高い端の部分が角になっている。もう一つの串は、それについていて、それらの角が一つの角に結び付いているかのようにその端が両サイドに現れる。」(前掲書、245頁)
 ここに描かれている「一角獣」は、先が分かれている角をもっている獣のことである。その獣の角は、一本の杭を表象しているのではなく、伝統的な十字架であることは論を待たない。
 最後に、『トリフォンとの対話』の中から、青銅の蛇についてふれている部分を引用しておこう。
「彼は、青銅の蛇をつくり、それを軍旗に掲げ、打たれた人々に見るように命じた。彼らがそれを見たとき、彼らは救われた。神が最初に呪われ、イザヤが述べているように大きな剣で切られた蛇は、当時の人々を保つものとして理解されるべきであろうか。あなた方の教師のように、しるしと見ないで、愚かにもそのまま受け取るのだろうか。むしろ、軍旗を受難のキリストを覚えるために言及されたものと考えるべきではないか。モーセはイエス(ヨシュア)と名つけられた方とともに、手を伸ばすことによってあなた方民のための勝利を成し遂げたのであるから。」(前掲書、255頁)
 ここで、言及されているのは、民数記21章4-9節に出てくる「青銅の蛇」である。彼は、その蛇が掲げられたのは軍旗であり、それはキリストの十字架を覚えるためのものであった、と解説している。ユスチヌスが軍旗と言うとき、それはローマ軍の軍旗のことで、T字形の旗竿を指している。ということは、イエスがかけられた木は、一本の杭ではなく、十字架だったことを示している。
 
 
シビュラの託宣
 
 2世紀半ばに記されたと言われる『シビュラの託宣』は、バルナバの手紙、ユスチヌスにならって、モーセの祈りの姿について、次のように記している。
「モーセは、聖なる腕をさし伸ばし、信仰によってアマレク人に勝って、彼の原型となった。」(『聖書外典偽典6』教文館、1991年、348頁)
 「彼の原型」とは、イエスが処刑されたことを指す。「腕をさし伸ばし」と表現されている以上、その刑具は伝統的な形の十字架だったことは間違いない。
 また、同じ書物の2頁後には、次のような文章が出てくる。
「主は以前の通りの肉の形で、まず御自分の仲間たちによってはっきりと見られる。そして、手と足に、御自身の肢体に穿けられた四つの傷あとをお示しになるであろう。」(『聖書外典偽典6』教文館、1991年、350頁)
 この記録は、イエスの手と足には「四つの傷あと」があることに言及している。むろん、これは、イエスのそれぞれの手足に、一本づつの釘が打たれていた、という意味である。協会の出版物が描く一本の杭では、イエスの手は重ねあわされて、一本の釘で打たれている。それでは、この文章に合致しない。伝統的な十字架の場合には、両手に釘が打たれているので、この描写に一致しない。
 
 
ペテロ行伝
 
 『ペテロ行伝』は、西暦180-90年頃に記された書物である。その38章には、次のような文章が出てくる。
「そこでわたしの愛する人々よ、今聞いている人もまた将来聞くであろう人たちも、あなたたちは最初の過ちを振り切って帰って来なければなりません。なぜならキリストの十字架にのぼることは適切なことなのです。このかたは唯一無比の広げられたことばであり、このかたについて霊は(次のように)語っています。『キリストはことば、神の響き(エコー)でなくて何であろうか』と。ことばとはわたしがかけられているこのまっすぐの木であり、響きというのは横木・・すなわち人間的性質のことなのです。そして中央あたりで横木を垂直の木に固定している釘というのは人間の回心であり、悔い改めです。」(『聖書外典偽典7』教文館、1993年、86頁)
 この記録は、ことばが縦の木で、響が横の木である、と述べている。しかも、「中央あたりで横木を垂直の木に固定している」と描いている。ここで言及されている「キリストの十字架」は、一本の杭ではなく、伝統的な形態であったことは明らかである。
 
 
パウロ行伝
 
 『パウロ行伝』は、200年頃、小アジアにある教会の長老によって書かれたと言われている。その中に、次のような文章が出てくる。
「刑の執行人たちは木々をひろげ、それらを積みあげた火葬壇に登るようにと彼女に命じた。彼女は両手をひろげてみずから十字架の形をつくりながら木々の小山に登り、そして執行人たちは火をつけた。ところが大きな炎が赤々と燃え上がったのに、火は彼女に触れようとはしなかった。」(『新約聖書外典』講談社、1974年、167頁)
 この記録は、明らかに、十字架が伝統的な形態であったことを前提として記している。
 
 
トマス行伝
 
 『トマス行伝』は、3世紀半ばまでには、シリア語で出来上がっていた、と言われている。その第5行伝には、次のような記述がある。
「彼はこう言って、パンに十字架のしるしをつけて、それを裂き、分配しはじめた。」(『聖書外典偽典7』教文館、1993年、275頁)
 ここで、パンにつけられたしるしとは、「罪と永遠の誤ちのゆるしのため」のものであった。それは、イエスの死を記念するものであったが、十字架が一本の杭であったなら、一本の線と記したはずである。十字架が二本線が交わる十字であったからこそ、「十字架のしるし」と記されたと考えるのが、より自然である。
 また、『使徒ユダ・トマスの行伝』には、「十字架のしるしをきる」ということがしばしば出てくる。例えば、次のような文章である。
「そして、彼は若者に言った、『おまえの心をわれらの主に拡げなさい。』そして、彼は十字架のしるしを切り、彼に言った。」(『新約聖書外典』講談社、1974年、239頁)
 ところで、「十字架のしるしを切る」とは、どのような行為なのか。それは、今日のあるキリスト者たちが十字を切るのと同じである。次の文章を読んでいただきたい。
「しかしユダは、神をほめたたえ、頭の中央に(十字架の)しるしをきった。そして彼は、少しの油で自分の鼻腔をしめし、いくらかを自分の耳の中に入れ、頭上に(十字架の)しるしをきったのである。」(『新約聖書外典』講談社、1974年、194-5頁)
 
 読者の皆さん、ここに記されているとおり、していただきたい。指をまず鼻腔に入れ、次に両耳に、そして、最後に頭上に触れていただきたい。それが、「十字架のしるし」である。とすれば、十字架はどのような形になるか、明らかであろう。
 
 
テルトリアヌス(西暦200-250年)
 
 テルトゥリアヌスは、3世紀前半に活躍した最も有名な教父の一人である。彼は、『護教論』の12章において、次のように述べている。
「諸君はキリスト教徒を十字架や柱にかけておられる。だが、どの神々の像をとってみても、神像になるにはまず粘土でつくられ、それから十字架や柱の上につけられているようである。」(『テルトゥリアヌス』キリスト教教父著作集(教文館、1987年)、37頁)
 ここで、テルトリアヌスは、十字架と柱を並列に並べて言及している。テルトリアヌスの時代には、キリスト者は、十字架によっても、柱によっても処刑された、ということである。柱とは、言うまでもなく、一本の杭のことである。すると、十字架は別の形態だったことになる。このことは、イエスの刑具が、一本の杭ではなかったことを証言していることになる。
 同じ書物の16章において、テルトリアヌスは、次のように述べている。
「垂直に据えられた木材はみなひとしく十字架の一部である。もしわれわれが十字架をおがむとすれば、部分的でない神を全体として拝んでいるのである。さきにわれわれはあなた方の神々の起源は彫刻家達によって十字架の上につくられたものにはじまるといった。一方あなた方もまた、勝利の女神達をおがんでおられる。戦勝(トロパエウム)の柱の場合も、その中身は十字の柱になっている。軍隊ではローマの宗教として軍団のしるしがおがまれ、それにむかって誓いをたてあらゆる神々よりもそれを重んじている。それにごたごた付けられている神々の像は、処刑の柱(十字架)の飾りである。皇帝旗や将軍旗の上につける布切れも、その柱の衣である。わたしはあなた方の心やりをたたえたい。十字架が飾りもなく、裸のままおがまれるのをあなた方は欲しておられないのだから。」(前掲書、46頁)
 この文章は、キリスト者は、3世紀の初め頃、「十字架を拝む者」と誤解され、非難されていたのを弁明するために記されたものである。ここには、「垂直に据えられた木」は「十字架の一部である」、と述べられている。ということは、十字架は、一本の柱以上のものだったことを示唆する。
 また、ここで「戦勝の柱」と訳されているトロパエウムは、ユスチヌスの書物で「勝標」と訳されたもので、その形態が十字架だったことは既に述べた。
 「軍団のしるし」と訳されている「スイグナ」という言葉は、ローマの軍団にとっては、軍旗のような意味をもっていた。しかし、それは旗ではなく、各種の像やシンボルを横棒に付けたものである。これも、テルトリアヌスによれば、十字架の形態を示唆するものだった。
 将軍旗とは、ローマ将軍の陣地、あるいはローマの船団につけた赤旗のことである。「布切れ」は、帆船のマストの先につける帆を指す。それらは、「柱の衣」(クルクス・ストラ)と言われていた。それも十字架の姿を示唆していた。ということは、この例えも、十字架は、一本の杭ではなく、伝統的な形態であることを意味する。
 最後に、テルトリアヌスが、『ユダヤ人への答え』において述べていることにふれておこう。彼は、申命記33章17節の「野牛の角」がキリストを表しているとして、次のような解説をしている。
「角は二つのキリストの性格、裁き主としての力と、救い主としての優しさを示している。それらの角は、十字架の両端である。十字架の部分である船の帆においてでさえ、先端はそのように呼ばれている。マストの中心の柱は、一角獣と呼ばれている。実際、この十字架の力によってこの角の方法によって、今は、世界の国々を信仰によって、地から天に突き上げている。そして、何時の日か、裁きによってその国々を天から地につき落とす。」
 ここでは、力と優しさは「十字架の両端」と表現されている。これが、十字架の横棒の両端を指していることは論を待たない。この表現は、十字架を協会が主張する一本の杭としたのでは説明がつかない。伝統的な十字架を想定して、はじめて意味をもつ。
 
 さらにこの記録は、船と帆を十字架に見立てている。この描写も、十字架は、一本の杭ではなく、伝統的な形である。
 
 
ミヌシウス・フェリクス(西暦210-250)
 
 3世紀初期のフェリクスの書物に、異教徒のカエシリウスとクリスチャンのオクタヴィアスとの議論が出てくる。ローマの弁護士だったオクタヴィアスは、十字架の形について次のように弁護している。
「あなた方の軍旗同様、キャンプの旗などにも、十字架が金ぶちで飾られている。伸ばされたオールによって船が静かに進むとき、突き出た帆によって進むとき、我々は、自然に十字架のしるしを見る。軍事的な軛が外されるとき、そして、人が純粋な心で手を伸ばして神を崇めるとき、それは十字架のしるしである。」(The Octavius of Minucius Felix, Ch.29, Ante-Nicene Fathers, vol.4 p.191)
 フェリクスは、船とオールの関係、あるいは船と帆の関係の中に「十字架」を見ている。この両方の例えから推測できる「十字架」とは、やはり、伝統的な形態の十字架になる。
 さらに、この記録は、人が手を伸ばしている姿の中に、十字架を見ている。筆者は、両手を広げて神を崇めるのを習慣としている友人たちをたくさんもっている。彼らの姿を想像したとき、一本の杭にはならない。伝統的な十字架の形となってしまう。
 協会は、コンスタンチヌスによって、異教のシンボルであった十字架が、キリスト教会に導入された、と説く。従って、協会の仮説を論破するには、4世紀半ばまでの証言を含めることができる。しかし、この辺で止めておこうと思う。
 というのは、協会は、自説を擁護するために、しばしば、バインの辞書を引き合いに出す。そのバインの辞書は、3世紀半ば頃までに、キリスト教の背教が起こり、十字架のシンボルが導入されたかのように記している。この論述を受け入れるなら、3世紀半ばまでの証言には価値がある。しかし、それ以降の証言には意味がない。
 例えば、ラクタンティウスは、「彼は十字架の上で手を伸ばされた。彼は彼の翼を、東そして西の方に伸ばされた。世界のどの側からであれ、すべての国民がその元に集められ、平静になる」(The Epitome of the Divine Institutes, Ch.51, Ante-Nicene Fathers, vol.7 p.243)と述べている。つまり、イエスが十字架の上で東西に手を広げたことの中に、世界中の民を集める象徴的な姿を読み取っている。
 あるいは、ラクタンティウスの文章の中には、サタンが十字架のしるしに対して逃げていくことを述べている箇所もある。
 さらに、「ユダヤ人たちは、家の柱の横棒と柱に血を塗った。それは解放のしるしであり、十字架の形だった」(The Divine Institutes, Book 4, ch.26, Ante-Nicene Fathers, vol.7)と述べ、出エジプトの際に、ユダヤ人が横棒と柱に血を塗った行為を「十字架の象徴」と見なしている。
 ラクタンティウスの以上のような論述が、イエスの刑具は一本の杭ではなく、伝統的な十字架だったことを証言していることは明らかである。しかし、ラクタンティウスは、西暦260年頃から330年ぐらいまで生きた教父である。ということは、3世紀後半から4世紀前半の人物ということになる。十字架導入をコンスタンチヌス時代とする協会の立場に立てば、ラクタンティウスのこれらの証言は、痛手である。しかし、バインの証言の立場に立てば、ラクタンティウスの証言は、既に背教が起こってからの発言として拒否されてしまうだろう。
 そこで、教父の証言は、これぐらいにしておくことにしよう。
 筆者は、教会史の専門家ではない。従って、筆者が当たることができた初代教会の文献は、ごくごく、僅かなものにすぎない。もし、教父たちの文献を、注意深くくまなく検証するなら、イエスの刑具が一本の棒ではなく、伝統的な形態であったことを示唆する記述を、他にもたくさん見いだすことができると思う。それは、教会史の専門家に委ねることにする。私たちが当面している問題に一応の結論を出すには、以上で十分ではないかと思う。
 
 
   
第四章 考古学の証拠
 
 筆者の手元に、協会が1969年に出版した『ギリシャ語聖書王国行間逐語訳』がある。それには、付録があり、ギリシャ語のスタウロスを「苦しみの杭」と翻訳したことについての説明がある。その最後の文章は次のようになっている。
「我々は、これが革命的な翻訳であることを認める。しかし、それはもっとも純粋なものである。時の経過と考古学的な発見は、確かに、そのことが正しいことを証明するだろう。現在であっても、イエスが一本の杭以上のものの上で死んだことを証明するという重荷は、宗教的伝統を主張するすべての人にある。」
 この文章が言いたいことは、次のようなことである。
 スタウロスを「苦しみの杭」と翻訳したことは、革命的なことで、それこそ純粋な翻訳である。十字架と翻訳したい人は、スタウロスが伝統的な十字架であったことを証明する責任がある。
 筆者の手元には、別の『ギリシャ語聖書王国行間逐語訳』(1985年版)もある。その版の付録は、P・W・シュミットの研究を加えている他は、先の69年版と基本的にすべて同じである。ところが、もう一つだけ、違いがある。上記に引用した部分だけは、カットされているのである。
 この部分が削除されたのは、たまたまの偶然によるものか、それとも、69年以降の考古学的発見の実状を知ってのことかは、筆者には知る由もない。ただ、他の部分が基本的に変わっていないのだから、前者ではありえない。やはり、意図的に削除された、というべきでろう。とすれば、協会もまた、最近の考古学の発見が、協会の見解に不利に働いていることを認めざるをえなくなっている、ということである。
 筆者自身は、その文章がカットされた背景は、ここに紹介する第五番目の証拠と関係があると推測している。しかし、それと関係があろうと、なかろうと、協会が85年版において、その部分を削除したのは賢明なことだった。考古学上の発見は、69年版が記述したこととは反対の方向に動いていることは確かであるからである。
 ところで、1世紀前後の著述家たちは、十字架について、記述することをためらった様子が見られる。考古学は、十字架の刑罰という問題を明るみに出しつつあるが、それでも、考古学的発見は、未だ、僅かなものでしかない。『新聖書辞典』は、その辺の事情を次のように解説している(前掲書、253頁)。
「はりつけの方法については、ローマ帝国の場所によってさまざまに異なっている。当時の世俗の著述家たちは、この最も残忍な品位を落としてしまうような処刑方法については詳しい記録を残すことに後込みしている。しかし、ユダヤにおける考古学的な作業によって、この問題に新しい光が投げかけられた。」
 考古学的な発見には、いつでも不確かな要素があることを認めておかねばならない。イエスがつけられた刑具そのものが発見されれば、私たちが直面している問題は一挙に解決するのだが、そのようなことを期待することは現実的ではない。その時代の、その地域における考古学的な発見を忍耐深く探求することによって、イエス時代の十字架について推測する以外、今のところ方法はない。
 
 では、イエスが杭ではなく、伝統的な形態の十字架に掛けられたことを予測させる証拠を、5つのあげ、検証することにしよう。
 
 
二百年祭の家
 
 最初は、西暦79年に廃墟と化したポンペイの町跡の発掘からである。出土したある家から、金属の十字架の跡が発見された。この発見について、ポール・マイヤーは、次のように述べている。
「信仰がナップル湾近郊に広められたのは、この初期の会衆によるものだったかも知れない。というのは、それより少し後には、ヘリキュラネウムの近くにおいてはクリスチャンがいたからである。ベスビウス山の火山による埋葬から逃れたリゾートの町に建てられた一つの家は、はっきりとした金属の十字架の跡を示している。それは、二階の黒こげになった祈祷台の奥の壁に刻印されている。十字架は、魚と同じように古くからのキリスト教のシンボルだったのだ。」(First Christians, First Harper & Row, New York, 1976, p140)
 マイヤーによれば、一世紀の半ばには、十字架がキリスト教の信仰のシンボルとして使われていたことになる。マイヤーは、続けて次のように述べている。
「二階には、『200年祭の家』と呼ばれた初期のクリスチャンの礼拝堂があった。白く漆喰が塗られたパネルは、大きな十字架の痕跡を示している。それは既に取り除けられているが、印を押された寄贈財産として使われたのであろう。その前には、小さな木の祭壇の残存物がある。それはベスビウス山の爆発による溶岩によって黒こげになってしまったが。」(前掲書、141頁)
 その家とは、クリスチャンの礼拝堂だったのである。小さな木の祭壇とは、聖餐台か、説教台のことであろう。すると、初代教会の最初の頃から、現在の教会堂のように、十字架がシンボルとして掲げられていた、ということになる。
 
 
エルサレム近郊の納骨堂
 
 次に、エルサレム近郊、オリーブ山のふもと近くにおいて、フランスの考古学者チャールス・クレアマン−ガンネアウが、1873年に発見した、30の遺体が葬られた納骨堂を紹介しよう。石でできた長方形のひつぎには、体の骨が埋葬品と共にそのまま残されていた。そこには、葬られた人の名前がヘブライ語とギリシャ語とで記されていたが、あるひつぎには、ユダという名前が録され、縦横の長さが等しい十字架が刻まれていた。
 さらに、イエスという名前が3回登場し、その中の2回は、十字架と結びけられている。ユダヤ人の第二の反乱事件以降、この地域にユダヤ人が入ることは禁じられていたので、葬られた年代は、西暦135年以降ではありえない。従って、西暦70-135年の間と推定される(この発見については、Ancient Times Vol 3, No.1 July 1958 p.3に詳しく報告されている)。
 この考古学的発見も、1世紀後半か、2世紀初頭には、十字架がキリスト教のシンボルとして採用されていたことを証言している。
 
 
廃墟の壁画
 
 3番目は、イエズス会のガルチが、1856年に、パレスチナの南側の斜面にあった建物の廃墟から発見した壁画である。それはキリスト教信仰をあざける目的で描かれたものである。その壁画は、次のようなものである。
 一人の人が、T型の十字架に結びつけられている。その十字架にかけられた人物の頭は、ろばとして描かれている。十字架の左側には、左手をあげ、崇拝の姿勢を示している一人の人物が描かれている。その右下には、「アレクサメノスは、彼の神を礼拝している」という文字が記されている。
 その壁画は、現在、ローマのキルチェリアノ博物館に収められている。それが作成された年代は、西暦217年頃と思われる。
 この壁画は、クリスチャンたちが、十字架につけられた方を「自分たちの神」として礼拝していたことを示唆している。しかも、その方がつけられた刑具は、T字形の十字架だった。
 この壁画に関し、フィネガンは次のように述べている(『古代文化の光』、岩波書店、昭和41年、368頁)。
「パラティヌスの南西側、キルクス・マクシムスの近くに、今日パイダゴギウムの名で知られている建物があるが、これは恐らく宮殿の役所の一つだったものと思われる。その部屋の中のあるものは、牢獄に用いられたものと考えられる。壁には今も、グラッフィティ(graffiti)とよばれる、粗雑に書きなぐった絵や文章が一杯にかいてある。その一つで、ガルッチが1856年に発見し、現在ローマの教会博物館にあるものが、有名な「十字架の戯書」(図124)である。この粗い落書き(グラフィティ)は驢馬の頭を持った一人の人間の、十字架上の姿を表している。両足は壇上に支えられ、伸ばした両腕は十字架の横木に縛られている。左手には子供あるいは若者のやや小さい姿が、片手を挙げて崇拝の態度を示している。文字は「アレクサメノスがその神を拝す」と記してある。恐らくこれは、宮殿内のある若いクリスト教徒に向けられた嘲弄を表しているものであろう。この落書はパウロがローマにいた時より恐らく150年位後のもの、すなわち三世紀の初めのものであろうが、これは十字架の言がいかに多くの者に愚かなものであったかを明瞭に示している(Tコリント1:18)。」
 なお、この情報については、Buried History vol 9, No.2 p.41あるいは、Ancient Times Vol 5, No.3 Marach 1961 p.12などに詳しく紹介されている。
 この壁画は、イエスがT字形の十字架にかけられたこと、そして、イエスは神として崇拝されていたことを示唆している。十字架に掛けられた人物の頭が騾馬に描かれていることは、壁画が、キリスト教をあざけっている人々によって描かれたことは間違いない。そして、2世紀後半から3世紀初頭にかけてのキリスト教信仰の内容が描写されている、と言えよう。
 
 
家族の墓
 
 1945年、ヘブライ大学のユダヤ人考古学博物館のE.L.シュケーニック教授は、ある家族の墓を発見した。2つの納骨堂には、ギリシャ語でイエスの名前がつけられていた。二番目の方には、4つの大きな十字架も描かれていた。
 Ancient Times は、次のように述べている。
「シュケーニック教授は、十字架は、『十字架につけよ』という叫びに等しい苦しみの表現かも知れない。どんなに遅く見積もっても、その刻印は、イエスの十字架から20年以内のものであろう。」(Ancient Times, vol 3, No.1 July 1958 pp.3-5 また、同誌、vol 5, No.3 March 1961 p.13も参照)。
 この墓は、出土した陶器、ランプ、文字の書体から、西暦前一世紀から、西暦後一世紀の半ば迄のものと推測されている。ということは、イエス時代よりすぐ後に、キリスト者たちの墓には、十字架がシンボルとして使われていたことになる。
 
 
釘の刺さった骨
 
 5番目は、バシリオ・ザフェリスに率いられたチームが、エルサレム近郊のギバット・ハ−ミブタル(ラス・エル−マサレフ)において発見した4つのユダヤ人の墓である。
その中の一つの納骨堂から、釘磔になった一人の若者の骨が出てきた。その年代は、そこから出土した土器から、西暦7年から66年の間のものと推定されている。そこには、イエホハナンという名前が彫り刻まれていた。
 この発見について、『新聖書辞典』は次のように述べている。(前掲書、253頁)
「その若者の腕(手ではなく)には、釘が横棒に打ちつけられていた。お尻のあたりには、横棒がつけられ、それによって体重が支えられていた。足は、揃えて曲げられ、釘づけられており、その一本の釘がかかとの骨にそのまま残されていた。その釘は14センチあり、2センチのところで折れ曲がっていた。釘とかかとの骨との間には、1.5-2センチのアカシアかピスタチオの板がつけられていた。また、釘の折れ曲がった部分には、小さなオリーブの木片が発見された。以上のような証拠から、このケースにおいては、足は、立て棒に釘づけられたのではなく、その立て棒に横板がつけられ、その横板に釘づけられたように思われる。足の骨は、一本は、ひどい損傷を受けており、もう一本は、斧のような鋭い道具でたたかれ折られている。「折られた骨」(crura fracta)は、受刑者の死期を速めることになり、ローマでは、よく行われた(キケロ、Philippicae 13 12)。・・・「手首の骨はほとんど損傷されていない。前腕の骨は傷ついているが、それは、十字架に釘づけられたことを意味するのか、それとも、縛られていたのかは決定的なことは言えない。」
 この発見について、『ものみの塔』誌1987年8月15日号(頁)は、特別、2頁を割いて、その研究成果を紹介している。しかし、残念ながら、『ものみの塔』誌は、その発見について正確な評価を下していない。むしろ、学問的に、非常に不正直な取り扱い方をしている。
 どういうことか。同誌は、発見後すぐに発表されたハーン教授の試見と、その15年後に発表された二人の学者の試見との間に意見の相違があることを指摘する。そして、学問的には絶対にしてはならないような結論を出してしまったのである。このことを詳しく説明しよう。まず、『ものみの塔』誌の結論部分を紹介する。
「では、ここからイエスの処刑について何が分かりますか。実際にはほとんど何も分かりません。例えば、23ページで検討したように、イエスがいかなる横木も付いていない垂直の杭の上で処刑されたことはほぼ間違いありません。また、イエスの場合に使用された釘の数まで正確に分かる人は今日だれもいません。」
 この記事は、まず、発掘された骨から、釘磔になった人は足を屈折させてはりつけになったのでろう、という、1970年にニコ・ハース博士が発表した見解を紹介する。そして、次に、足の骨と釘の長さや形状から、両足は柱をまたぐようなかたちで釘づけられた、とする、1985年にジョセフ・ジーアスとエリィーザ・セケレスが発表した見解を紹介する。手に関して言えば、前者は、釘付けられたと発表したが、後者は、縄で縛られた、と主張している。しかし、両者とも、刑具が伝統的な十字架の形であったことには異論がなかった。
 普通、以上のような二つの仮説を紹介した場合、どのような結論を出すのが穏当だろうか。答えは、最初の見解を支持するか、二番目の見解を支持するか、それとも、判断を留保するかのどれかである。この場合の留保とは、この処刑された人の手や足が、どのように十字架に釘付けられたか(あるいは縄で縛られたか)という点については、独断的になるべきではない、ということである。
 ところが、この『ものみの塔』誌の結論は、まったく違う。二つの見解に違いがあるということは、考古学的な研究がいかにいいかげんなものであるかを示すものである。従って、紹介した二つの見解ではなく、協会が主張している一本の杭という見解こそ正しい、というのである。
 『ものみの塔』誌が紹介している二つの見解は、一本の杭ではなく、十字架であるという点では、一致している。従って、処刑の方法については、詳細な点で異論があるが、刑具が十字架だったことは、学会で広く認知されていることである、と結論づけなければならない。
 しかも、ここで紹介されている研究者たちは、キリスト教世界の学者ではない。背教した(とエホバの証人が信じている)キリスト教世界とは無縁な、真摯なユダヤ教の考古学者たちである。彼らが、1世紀のユダヤにおいて、伝統的な形態の十字架を当然のこととして受け止めていることは真正面から受け止めるべきである。
 対立意見が存在するから、学問の世界は成り立つ。これは、まったくの常識である。自分と違う意見をもつ人たちの間に対立意見が存在するので、結局自分の意見が正しいことになる、などと言う人がいたなら、学者の間でも、一般社会でも、一笑に臥されるであろう。笑われてすませるようなことではない。以降、まったく相手にされなくなってしまうはずである。『ものみの塔』誌がしていることは、そのようなことである。筆者は、ものみの塔協会だからこのような批判をしているのではない。もし、仲間の牧師や教え子がそのような論理を使うなら、直談判して撤回を迫る。彼らに恥をかかせたくないからである。
 ただ、実際問題としては、筆者は、そのようなことをする必要ない。過去30数年の間の牧師生活で、そのような友人にも、生徒にも、先輩にも出会ったことはないからである。出会ったのは、ただ一つのグループ、ものみの塔の出版物だけである。
 ここで、筆者は、協会の出版物の執筆者たちとエホバの証人の方々とを区別して考えたい。筆者がこれまで接してきた証人の方々は、決して、道理をわきまえない方々ではない。ほとんどの方は、論理的で、判断力にも優れておられる。もし、正確な情報をお伝えさえすれば、ご自分の理性的能力を働かせ、協会出版物を正確に読んでくださるものと思う。ぜひ、上記の『ものみの塔』誌の記事を、改めて、クールな目で読んでいただきたい。
 
 
   
第五章 聖書の証言
 
 これまで、イエスの刑具が一本の杭だったのか、それとも、伝統的な十字架だったのかを、協会の出版物の証言、初代教父たちの文献、さらに考古学的発見から検証してきた。最後に、この点に関し、聖書の記述が何らかのヒントを与えていないか、考察してみたいと思う。
 
 
批判者に対する対応
 
 まず、はじめに心得ておかねばならないことがある。聖書は、イエスの刑具の形については、何も問題にしていない、ということである。その問題に対する直接的な言及はない。従って、さまざまな付随的なことから、刑具の形を示唆するヒントを見つけ出す以外にない。
 実は、イエスが処刑された刑具の形など、人類を贖うためのイエスの死においては、どうでもよいことであった。イエスが私たちの罪を背負って死なれたという事実こそ重要なのであって、死なれたときに用いられた刑具が一本の杭であろうと、伝統的な十字架の形であろうと、どちらでもかまわない。
 では、なぜ、イエスの刑具の形に関し、何も問題にしていない聖書の中から、何らかのヒントを捜さねばならないのか。それは、ものみの塔協会が、十字架は異教に起源をもつものであり、偶像崇拝に関わることで、神が是認されない、と主張するからである。キリスト教世界のキリスト者にとってはどうでもよいことなのだが、協会にとっては、十字架であってはならないのである。
 自分が信じていることを、他の人から間違っていると指摘された場合、それを信じている人にとってはどうでもよいことであったとしても、その批判者に対して、そのようなことはどうでもよいことだと、と無視してよいものだろうか。不当な批判にすぎず、沈黙を守った方がよい、ということも時にはあろう。しかし、その批判が誠実なものであるなら、それに答えないことは不誠実である。
 このような点に関し、ものみの塔協会の姿勢はどうだろうか。エホバの証人の方々は、どうだろうか、考えていただきたい。
 批判者に誠実に対応することは、必ずしも、簡単なことではない。多くの人は誠実に対応しようと努力するが、そうしない人も多い。その場合、次の8つの反応のどれかを示すケースが多い。
1)批判する人が間違っていると決めつけ、批判を一切を聞かない。
2)批判者を批判し、批判されていることは問題ではないと無視する。
3)批判されていることで、都合の悪い所は無視し、答えられる所のみ答えて済ませる。
4)論点をぼかし、問題をすり替えて、批判されていることとは違うことに答える。
5)批判されている問題と似ている問題を取り上げ、詭弁を用いてごまかす。
6)批判する人の動機を尋ね、動機を批判することによって、批判されている問題に真正面から立ち向かわない。
7)批判されている問題に対する自説の賛同者を捜し、その権威に訴えて批判を封じる。
8)批判されている問題について、自分は無知であると言い逃れをし、問題に直面しようとしない。
 人は、どのような意見をもとうと自由である。どのような学説であれ、信条であれ、それを標榜することは許されている。しかし、その意見、学説、信条をもつ自由には、責任が伴う。それらに対する真摯な批判には、誠実に答えるという責任である。この責任を放棄するなら、それは独断であり、独り言(モノローグ)になってしまう。
 本書の読者は、現役のエホバの証人かも知れない。あるいは、キリスト教世界のキリスト者かも知れない。あるいは、宗教とは無縁な者だと自負しておられるかも知れない。批判者に対してどのように対応するか、という点に限って言えば、その人が取る宗教的立場は大きな問題ではない。どのような批判であれ、真正面から取り組まねばならないのである。それは一人の個人に当てはまるだけではない。意を同じくするグループにも、学風を共にする研究者にも、同一信条を信じる宗教団体にも当てはまる。
 この点で、ものみの塔協会の指導者には、筆者は失望させられ続けてきた。筆者は、これまで、協会リーダーに10通に近い手紙を送ってきた。しかし、ただの一通の返事もなかった。30年以上の牧師生活、40年以上のクリスチャン生活、60年に近い人生の中で、このような経験ははじめてだった。筆者の身の回りにいる証人の方々が誠実であるだけに、信じ難い出来事だった。仮に意見を異にしても、お手紙をいただいたとのお返事ぐらいくださるのが礼儀ではないだろうか。
 ものみの塔協会のリーダーの態度はどうであれ、筆者自身は、すべての批判者に誠実に対応したいと願っている。今日までそうしてきたつもりであるし、今後もそうすることをお約束する。だからこそ、本書をも執筆しているのである。
 筆者は、協会が批判している「イエスの刑具は十字架だった」という教えを信じる者である。むろん、伝統的な形の十字架を信じない人は、キリスト教徒ではないとか、聖書を信じない不信仰者である、などと主張するつもりはない。十字架でも、杭でも、どちらでもよいとは思っているが、ものみの塔協会が筆者の見解を批判する以上、筆者はそれに答える責任を負っているのである。
 
 では、イエスの刑具に関してヒントになる聖書の証言を検証しよう。
 
 
   
釘の数
 
 まず、ヨハネ20章25節をお開きいただきたい。新世界訳聖書で読んでみよう。
「そのためほかの弟子たちは、『わたしたちは主を見た!』と彼に言うのであった。しかし彼は言った、『その手にくぎの跡を見、わたしの指をくぎの跡に差し入れ、手をその脇腹に差し入れない限り、わたしは決して信じない』。」
 ここで、イエスの弟子のトマスは、復活されたイエスに対し、「その手にくぎの跡を見、わたしの指をくぎの跡に差し入れ、手をその脇腹に差し入れない限り、わたしは決して信じない」と述べている。きわめて細かいことだが、トマスの言葉の中の「くぎ」という言葉に注目していただきたい。釘を表わすギリシャ語「エーロス」は、ここでは単数形ではなく、エーローンと複数形になっている。ということは、イエスの手は、2本以上の釘が打たれたことを前提としている。
 ローマの十字架刑の場合、腕は釘で打たれるより、縛られるケースの方が多かった。しかし、イエスの場合は、トマスの上記の証言から、釘で打たれたと考えるべきであろう。ルカ24章39節の証言もまた、この事実を示している。
 ここで、「釘」と訳されている「スパイク」というギリシャ語は、どこにでもある小さな釘ではなく、大変大きなものを指していた。そして、釘が複数であるのは、両方の手に一本づつ、二本のくぎが打たれたと解釈するのが一番自然である。ものみの塔の文献が掲載している杭にかけられたイエスの絵をよく観察していただきたい。両手は合わせられ、その両手は、一本の釘で打たれている。とすると、トマスが証言した釘の数は、協会が主張する一本の杭より、伝統的な形態の十字架を示唆している、と言えよう。
 協会出版物もこの批判を知り、弁明を試みている。例えば、『ものみの塔』誌の1985年2月1日号(31頁)である。
「中にはヨハネ20章25節から、それぞれの手を刺し通すために一本づつ、合計2本の釘が使われたと結論する人もいます。しかし、トマスが(くぎの)複数形を使っているからといって、それをイエスの両方の手が別個のくぎで刺し通されたことを示す明確な描写として理解しなければならないでしょうか。ルカ24章39節で、復活させられたイエスは、『わたしの手と足を見なさい。これはわたしです』と言われました。この言葉はキリストの足もくぎ付けにされたことを示唆しています。トマスは足のくぎの跡については述べていないので、複数形の『くぎ』という語は、イエスを杭につける際に複数のくぎが用いられたことに言及したばく然とした表現だったのかもしれません。」
 筆者は、協会出版物が、自説を守るため、思いもかけない理屈をつけるのに、ときどき出くわす。上記の箇所もその典型的なものである。『ものみの塔』誌は、わざわざ、ルカ24章39節を引き合いに出し、トマスの複数のくぎは、イエスの手と足に打たれた釘であろう(これもあいまいな表現になっているのだが)と弁解しているのである。
 しかし、トマスの言葉のギリシャ語原文は、「彼の手(複数)の中に釘(複数)の跡を見、私の手を釘(複数)の跡に入れなければ」となっている。従って、複数の釘の跡は、あくまでも、イエスの手の中になければならない。足の釘までもち出すのは、協会が自説を弁明するための苦し紛れの行為である。
 『ものみの塔』誌1987年8月15日号(29頁)もまた、同じような弁明をしている。しかし、いくぶんかニュアンスを変えている。
「イエスの手や腕が縛られただけではなかったということは、後日トマスが『その手(複数)の跡を見・・・ない限り』と述べた言葉から確かに分かります。(ヨハネ20:25)これは、釘が一本ずつそれぞれの手を刺し通していたという意味かもしれません。また、『くぎ』が複数であったということは、『イエスの手と足』にあった釘の跡を指していたのかもしれません。(ルカ24:39をご覧ください。)釘がイエスの手のどこかを刺し通したのは明らかであるとはいえ、その場所は正確には分かりません。」
 この号は、足の釘という可能性にこだわりながらも、「釘が一本ずつそれぞれの手を刺し通していたという意味かもしれません」と両手の可能性をも認めている。2年前の説明に比べ、いくぶんかトーンダウンしているのは、先の弁明があまりにおかしいことに気づき、軌道修正をはかった結果かも知れない。『ものみの塔』誌の編集者に聞いてみたいと思っている。
 
 
罪状書きの位置
 
 次に、マタイ27章37節を読んでみよう。
「また彼らは、『これはユダヤ人の王イエス』と記した罪状を彼の頭上に掲げた」
 ローマの処刑においては、犯罪人の罪状を人々に示すのが一般的だった。多くの人々に対する見せしめ、という意味があったのである。その慣習に基づいて、イエスの場合は、『ユダヤ人の王イエス』という罪状をつきつけられた。
 ところで、イエスの場合、その罪状書きはイエスの頭上に掲げられた。ということは、イエスの処刑の道具が十字架であったことを示唆する。なぜなら、もし、イエスが一本の杭にかけられたとすれば、罪状書は、頭上ではなく、手の上になる。「イエスの頭上」という表現は、伝統的な十字架の形態を想定した方が、よりピッタリくる。
 一本の杭の場合でも、イエスの頭の上に手がき、その上に罪状書がくるわけであるから、頭上という表現ができない、と言うわけではない。従って、この証言を、協会の「一本の杭」という主張に対する決定的な反証と見なすことはできない。証拠の一つとして考慮すべき材料にすぎない。
 
 
手を伸ばす
 
 さらに、ヨハネ21章18節を取り上げよう。
「きわめて真実にあなた方に言いますが、もっと若かった時、あなたはいつも自分で帯をして、自分の欲する所を歩き回りました。しかし年を取ると、あなたは手を伸ばし、ほかの[人]があなたに帯をさせ、あなたの望まない所に連れて行くでしょう。」
 このイエスの言葉は、次節から、ペテロがどのような死に方をするか、予告したものである。また、「手を伸ばす」のギリシャ語「エクテイノー」は、古代の文献において、十字架刑の文脈で使われている。とすれば、ペテロが、手を伸ばす、帯をさせられる、望まない所に連れて行かれる、と言われているのは、ペテロが、十字架の横棒の上に手を伸ばすこと、そしてその横棒に手が縛られること、それから処刑場まで連れて行かれることが予告された、ということになる(D. A. Carson著、The Gospel According To John (Wm. B. Eerdmans Publishing Co. 1991, p.679 参照)。
 なお、ギリシャ語「エクテイノー」は、新約聖書においても、手を横に伸ばす場合に使われており(マタイ8:3、12:13、12:49、14:31、26:51、マルコ1:41、3:5、ルカ5:13、6:10、使徒4:30、26:1など参照)、手を上にあげるという意味では使われていない。ということは、初代教会の人々の十字架理解は、一本の棒ではなく、伝統的な十字架の形態だったことになる。
 
 
十字架を負う
 
 イエスは、マタイ10章38節(平行記事はルカ14章27節)とマタイ16章24節(平行記事はマルコ8章34節、ルカ9章23節)において、弟子たちが十字架を負って従うよう、励ましている。
 この点について、『ものみの塔』誌も権威ある辞書としてしばしば引用する(正確に言えば、悪引用する)『国際標準聖書辞典』は、次のように説明している(827頁)。
「十字架を負うということについては、さまざまな説明が提唱されているが(TDNT、Z、578-79ページ)、この例えは、罪ある人が自分がつけられる十字架の一部を処刑場に運んでいくというローマの習慣がベースになっている。しかしながら、イエスが十字架にかかられる前に、彼の聴衆がこの隠喩を把握できたかははっきりしない。」
 同じように、『新聖書辞典』も、次のように解説している(254頁)。
「犯罪者が横棒を運ぶという恥ずべき姿はイエスの聴衆にはよく知られていることだったので、三度も十字架を負うという道について弟子たちに語られた(マタイ10:38、マルコ8:34、ルカ14:27)。」
 このイエスの例えは、受刑者が、自分がかけられることになっている十字架の一部(横棒)を処刑場まで運ぶというローマにおける十字架刑の方法を背景にして語られたものである。それは、プルタークが「それぞれの犯罪者は、自らの罰の一部として、自分の十字架を自らの背中に背負って運ぶ」と述べていること同じである(Plutarch, The Divine Vengeance, 554 A/B)。ということは、イエスは、ローマ世界における十字架を例えに用いたということになる。その十字架が、縦棒と横棒とからなる二本の柱によって構成されていたことは言うまでもない。
 
 
イエスの十字架
 
 マタイ27章32節、マルコ15章21節、ルカ23章26節は、イエスが十字架を背負って処刑場に行かれたことが記されている。その際、ローマの兵士は、イエスがその十字架を担いきれないのを見て、クレネ人シモンに手助けするよう命じている。通常、その十字架(ギリシャ語スタウロス)は、十字に組まれた十字架と考えられているが、厳密にはそうではなく、十字架を構成している横棒(ラテン語で、この横棒のことをpatibulumと呼ぶ)のことである。
 ヨハネ19章16節後半から18節にかけての書き方は、イエスが横棒を背負っていかれる様子を的確に表現している。新世界訳を開いていただきたい。
「そこで彼らはイエスの身を引き取った。そして、[イエス]は自分で苦しみの杭を負いつつ、いわゆる『どくろの場所』へと出て行かれた。そこはヘブライ語でゴルゴタと呼ばれる所である。そして、その所で彼らは[イエス]を杭につけた。またほかに二人の男を彼と共に[杭につけ]、一人をこちら側、一人を向こう側にし、イエスを真ん中にした。」
 「彼ら」とは、24-25節より、ローマの兵士を指す。「自分で」というギリシャ語「ヘアウト」の直訳は、「彼自身のための」である。それは、その十字架が、その人自身のために用意されたことを示唆している。ということは、処刑場にあらかじめ備えられている縦棒ではなく、その人のために用意された、犯罪者が処刑場まで背負っていく横棒のことである。「負いつつ」というギリシャ語「バスタゾー」は、背負うが原義であるが、この言葉は、「十字架の横棒を背負って町中を見せしめとして歩かされる」という当時のローマ世界における十字架刑の習慣を暗示した言葉である。「杭につけた」というギリシャ語「エスタウローサン」は、イエスの両手を、背負ってきた横棒に釘打ちし、その横棒を処刑場においてあった縦棒と結びつけ、立ちあげるまでの一連の出来事を指す。
 以上のように、ヨハネの福音書のこの記録の一つ一つは、当時のローマ世界の十字架刑を背景に読むなら、すべてがぴったり一致するのである。ということは、イエスの十字架の形態は、杭ではなく、十字架だったということになる。
 
 
   
第六章 十字架についての考察
 
 本書が扱っているテーマは、イエスの刑具が杭だったのか、それとも十字架だったのか、ということである。これまで、その問題を、協会出版物、初代教会の教父の文献、考古学的発見物、そして聖書の記述などから検証してきた。その結果、いずれの証拠に照らしても、杭ではなく、十字架になることを確認できたと思う。
 この最後の章においては、イエスの十字架の重要性をよりよく知っていただくため、いくつかのことを書き加えておこうと思う。
 
 
ローマ以前の状況
 
 一般に、はりつけによる処刑方は、ペルシャにはじまる、と考えられている(TDNT、7、573頁)。ヘロドトスが、それについて数多く言及しているからである(1 128 2、3 125 3、132 2、159 1、4 43 2および7、6 30 1、7 194 1f、ツキディディス1 110 3も参照)。
 しかし、それより古い、より野蛮な民族のもとで実施されていた形跡がある。ギリシャやローマの歴史家も、はりつけという野蛮な処刑方法を未開の人々から継承した、と記述している。
 考古学は、古代中近東、特にアッシリヤ帝国の為政者たちが、逃亡者、敵軍で捕虜になった人々、あるいは、反逆者などを、はりつけと関わりのある方法で処刑したことを明らかにしている(ANEP、362 368 373参照)。ただし、刺し通しの処刑とはりつけの処刑の違い、木につるされるときには既に死体になっていたのか、それとも生きたままであったか、受刑者は釘付けにされたのか、それとも縄で縛られたのか、などといった点に関しては、いつでも明らかになるわけではない。
 ヘロドトスは、生きている人をはりつけにする場合には、「アナスコロピゾー」という動詞、死体をさらして見せしめにする場合には、「アナスタウロー」という動詞、と使い分けていたようである。ところが、ヘロドトス以降になると、この二つの言葉の間には、明確な区別はなくなってしまう。
 ギリシャ世界における状況はどうか。実は、はりつけという処刑方法は、ギリシヤ帝国の初期においては、典型的なものだった、と言えるほどではない。しかし、帝国の後期になるとかなり一般化してくる。特に、アレクサンダー大王がツロの砦を破って征服したときには、2,000人をはりつけにしたことが記録されている(Historia Alexandri 4 4 17)。
 
 
ローマ世界の状況
 
 古代の文献によれば、カルタゴ人は、はりつけの刑を頻繁に行っていたようでる。ローマ人は、そのカルタゴから、はりつけの処刑方法を受け継いだと言われている。このはりつけの刑の多くは、最初一本の柱によってなされていたと思われる。
 この点に関して、ものみの塔協会も権威ある辞書としてしばしば引用している『新国際新約聖書神学辞典』は、次のように述べている。
「この形の死刑執行はローマ人によってのみ執行された。スタウロスは、十字架の形において、横板がつけられたことは大いにありうることである。一般の歴史の資料からは、十字架の正確な形が、同じ長さの棒からできた十字架(crux immisa)だったのか、T字の十字架(crux commissa)だったのかは明らかにできない。罪状書を張りつけることが一般的であったわけではないので、十字架はいつでも伝統的な十字の形(crux immissa)をしていた、と考える必要はない。」
 今日の歴史家は、西暦前2世紀頃には、すでに横棒がつけられるのが一般的だったと考えているが、そのことを歴史的に確証することは難しい。しかし、横棒が加えられ、今日の十字架が一般的になるに及んで、ローマ人が、十字架に対し、ラテン語のcruxという言葉を当てはめるようになったことは間違いない。
 ローマ帝国における十字架刑について、最初に言及している人物は、ローマの喜劇作家プラウトスである(西暦前254-184年)。彼は、十字架につけられる犯罪人は、太古の昔から、その反逆性の故に、十字架の苦しみを負う、と述べている(Martin Hengel, Crucifixion, Fort Press, p.52)。しかし、ローマの風刺詩人ジュベナールは、しばしば、執政者の気まぐれ故に、十字架を負わされることがあった、と述べている(Satires 4 219-223)。
 ローマの政治的指導者は、帝国初期の頃から、十字架刑を奴隷の犯罪に適用した。きわめて残忍な処刑方法であったからである。ローマ世界においては、むろん例外がなかったわけではないが、自由民やローマの市民権をもつ人々には、十字架刑は適用されなかった(キケロ、In Verrem 1 5 66)。
 なお、ローマにおいては、古くから、裸の木(arbor infelix)に、反逆罪の人や重い罪を犯した人をかける、ということが行われた。その場合にも、十字架刑同様、ごく例外的なものを除いて、ローマの市民権をもつ人々に適用されることはなかった。
 十字架刑は、次第に、奴隷だけではなく、外国人に、そして、盗人や強盗に適用されるようになっていった。奴隷だった人々が強盗などに結びつきやすい状況に置かれたことは想像できるであろう。
 十字架刑は、最初、ローマを中心に実施されていた。しかし、次第に、地方でもよく行われるようになっていった。というのは、ローマの政治的独裁者たちは、この十字架刑が、法と秩序の維持のため、きわめて有効な手段であることを見抜いていた。従って、ローマの支配下にあるさまざまな地方において、ローマ政府は、この処刑方法によって、権威に逆らう運動を鎮圧したのでる。ローマ帝国の確立・維持のためには、十字架刑はなくてはならないものだった、ということでる。
 キケロ(紀元前106-43年)は、「十字架という言葉自体、ローマ市民の体から、それだけではなく、その思いの中からも消えてしまえ」と叫んでいる(Pro Rabiro 5)。当時の著述家たちの多くは、この処刑方法を残酷すぎるもの、と非難している(キケロ、In Verrem 64 165 その他数多く。タキトゥス、Historia 4 3 11、ヨセフス、ユダヤ戦記 7 203)。十字架刑は、当時においても、それほど恐ろしいものだったのである。
 ローマの修辞学者クイテリアン(西暦35-95年)は、十字架刑が犯罪者や煽動者を恐れさせるのに一番効果があること、そして、その犯罪者たちによって犠牲となった人々に大きな満足を与えることを理由に、十字架は町の一番にぎやかな大通りの四辻に建てられるべきだ、と弁護している(Declamationes minores 274)。ローマ世界において、受刑者が自分がつけられべき十字架の一部(横棒)を背負って町内を歩かされたことや、処刑が公開の広場でなされたことは、単に刑罰の意味をもっていただけではなかった。むしろ、暴動の抑止機能のために、利用されていたのである。
 西暦200年頃に活躍したローマの法律家にユリウス・パウルスは、十字架刑が、火あぶり、首切りとともに、一番重い刑罰(summa supplicia)である、と述べている。この法律家によれば、十字架刑は、逃亡者、秘密を漏らした裏切り者、国家転覆の煽動者、殺人者などに適用された。要するに、十字架刑は、国家に対する反逆罪のような、社会不安をもたらす重罪に対してのみ、課せられた。
 
 
処刑方法
 
 古代の著述家は、十字架刑がどのように執行されたかという点について、何も記録を残していない。奴隷や極悪人の処刑方法など、記録する価値がなかったということなのかも知れない。それだけではなく、今日の歴史家は、十字架刑があまりに残忍な方法だったからではないか、と考えている。その理由が何であれ、記録がわ残されていないので、多くの謎が残されたまである。
 十字架刑の処刑方法が、時と場所、犯罪の内容や処刑者によって相当違っていたことは当然である。例えば、戦場で敵軍の将校を処刑するのと、平時に政治的なクーデターを起こそうとした犯罪者を処刑するのとでは、まったく違っていたことは論を待たない。
 状況に応じて違いがあったとしても、一般的なルールがあったこともまた、間違いない。そこで、ここでは、ごく一般的なプロセスを、歴史的な資料から分かっている範囲で、紹介したいと思う。
 まず、第一に、法的な裁きである。戦争のような特殊な状況のときには、その裁きは戦場で行われ、処刑も同じ場所で実施されることが多かったので、法的な裁きは省略されたか、簡略に行われた。しかし、通常の場合は、ローマ政府のもとで、ローマ法に基づき、厳格な裁判が行われた。
 裁判によって有罪が確定されると、処刑を執行するローマの兵士は、受刑者を拷問にかけた。受刑者を鞭で打つことは(これはカルタゴから受け継がれたものであるが)半ば慣習化していた。しかも、兵士は、受刑者から多くの血が流れ出るほど鞭で打ったので、受刑者はその死を速められるのが普通だった。つまり、拷問は、十字架上での苦しみを和らげる効果があった、ということでる。
 受刑者は、兵士から拷問を受けた後、自分がかけられることになる十字架の一部(横棒)を背負わされた。その際、縄で簡単に縛られることもあった。それから、人々のさらし者にされ、嘲笑や罵倒を受けながら、処刑場までの道のりを歩んだ。
 処刑場に着くと、受刑者は、背負ってきた十字架の横棒を、あらかじめ地面に建てられてある縦棒のところまで運んだ。その後、裸にされ、再び、鞭で打たれた。
 そして、横棒が寝かされ、受刑者がその横棒につけられた。イエスの場合、両手は釘で打たれたが、釘で打ちつけられるのは、稀であった(ヘロドトス、9 120 4、7 33)。多くの場合、ロープで縛られた。最近発掘されたケースやイエスの場合には、足もまた釘づけられた(ルカ24:39参照)。しかし、いつでもそのようにされたかどうかは明らかではない。
 十字架を建てる方法には、二とおりあった。一つは、処刑場において、十字架が地面に倒され、受刑者がその上に仰向けに寝かされ、十字架につけられ、その十字架が垂直に立てられる、という方法である。もう一つは、受刑者は横棒につけられ、あらかじめ建てられていた垂直の縦棒と結びつけられる、という方法である。建てるのが簡単だったことと、奴隷が横棒(patibulum)を持ち歩いたことなどから、ローマでは、後者の方が一般的であった。従って、十字架の形態としては、T字形のもの(crux commissa)がより多かった。その十字架の高さは、3メートルぐらいから、人間の背の高さとほとんど変わらないぐらいのものまで、いろいろだった。
 場合によっては、その柱の中ほどに小さな木(sedicula)をつけ、そこに腰を載せさせ、体の重みを支えさせた場合もあった。それは、手に釘を打った場合、手が体の重みを支えきれず、はり裂けてしまわないようにする、という目的もあった。
 犯罪人が十字架に固定されると、一人放り出されるのが普通だった。罵り、罵倒した群衆も、いつしか去ってゆき、受刑者は過酷な気候と戦かわねばならなかった。激しい苦痛が体中を襲い、体力が消耗し、窒息して死んでいくのが普通だった。昆虫や動物の餌食になることもしばしばだった。
 死体は、そのまま放置されることが多かった。その場合、死肉を求める肉食動物やはげたかなどの、格好の餌食になった。犯罪者の親戚や友人が、死体を引き受け、墓に葬ることもあった。特に、ユダヤ人社会では、死体が放置されることは不名誉だと見なされていたので、できる限り、放置されないようにした。
 (トビト書は、セナケリブ王が処刑した人々の遺体を、トビトが葬ったことを善行として伝えている;トビト書1章18-19節)。
 
 
ユダヤ世界において
 
 旧約聖書には、はりつけの刑が出てくる。その最初は、ヨセフの時代のエジプトにおける出来事である。創世記40章18-22節は、王ファラオの料理管長が木に吊されたことを報じている。それは、処刑され、死体となってから木に吊されたと思われる。
 ヨシュアは、アイの王を殺し、木にかけたが、夕方までに木から下ろした(ヨシュア記8章29節)。その後、5人の王に対しても同じことをしている(ヨシュア記10章26節)。
 サウルとその息子たちは、敵軍によって殺され、城壁に見せしめとしてさらされた(Tサムエル31章9-10節)。西暦前11世紀の出来事である。
 エステル記は、王の意思に反する者が木にかけられたことを記している(エステル記5章14節、6章4節、7章9-10節、9章13-14節)。それは、ペルシャ時代、西暦前5世紀のことである。
 西暦前2世紀には、七十人訳ギリシャ語旧約聖書が翻訳された。その翻訳は、スタウロスという言葉を用いていない。しかし、エステル記7章9節の「かける(ヘブライ語タラー)」や、8章12節(それに該当するヘブライ語はないので、訳者が補った)、さらに、哀歌5章12節において、動詞「スタウロー」を使っている。いずれも、未だ生きている人を処刑したケースとして理解していたかも知れない。
 エズラ記6章11節に関しては曖昧で、そこから何かを言うことはできない。ヨシュア記8章29節のギリシャ語訳は、「木にかける」(エクレマセン・エピ・クシュルー)の後ろに、「ディデゥムゥー」(2つの)という言葉をつけ加えている。すると、2つの木ということになり、これは十字架を示唆するかもしれない。
 ラビの文献においても、同様である。彼らは、申命記21章22-23節を基にして、細かな規定をつくった。すなわち、神を冒涜した者は石打ちの刑にしたが、その後で、法的な形式を整えるため、木にかけるということを行った。ある人が縛り、他の人が直ちに解くなどということをして、法的一貫性を保っているかのようにした(ストラックビラベック 1 1034-35)。しかし、このような記述は、理想的な姿を表したもので、実際にいつでも行われた、というわけではなかった。特に、西暦前1世紀の半ば頃から、ユダヤ人の最高議会サンヒドリンには、死刑執行の権限は与えられていなかった。
 そのような状況にも関わらず、そのような理想的なことが議論されていたのは、パレスチナにおいても、ローマ政府によって、はりつけによる死刑方法が執行されていたからである。ユダヤ人たちは皆、そのような処刑方法に憎しみをもち、ローマ政府に反感をもっていた。だから、はりつけの刑は、ユダヤ教の中では刑罰のかたちとしては弁護されていたが、実際にはほとんど実施されなかった。
 ユダヤ人社会においては、生きている犯罪者がはりつけによって処刑される、ということはなかったようである。偶像崇拝者、あるいは、神を冒涜する者は、石打ちの刑にされた。そして、死んで後、神に呪われた者として、死体が木の上にかけられたようである(申命記21章23節)。しかも、その死体は、夜通しその木にかけっぱなすことは許されなかった。神が与えた地を汚してはならなかったからである。
 ところが、パレスチナ一帯が外国の支配下に置かれるに及んで、ペルシャ、ギリシャ、ローマ世界の処刑方法であったはりつけ刑がユダヤ人の間でも導入されるようになった。特に、ヘレニズム時代のハスモン王朝の時代には、それが実施されたことが明らかになっている。例えば、アレクサンダーヤンナエウス(西暦前103-76年)は、反逆したバトメの町を攻略したとき、800人のパリサイ人を十字架刑によって処刑している(ヨセフス『ユダヤ戦記』1 4 6、『ユダヤ古代史』13 14 2と3)。死海写本のナホム書1章7節の注解やヨセフスの書物は、この処刑に激しく抗議している(ユダヤ古代史、11 261、266f、17 295、20 102 129 161、ユダヤ戦記5 449以下参照)。
 ヘロデで大王のときには、十字架刑についてはふれられていない。単に記録されていないだけかも知れない。しかし、彼がハスモニン王朝と距離を置こうとして、十字架刑を意図的に退けた結果なのかも知れない。
 最後に、ヨセフスは、ローマ軍がエルサレムを包囲したとき、身の毛のよだつような十字架刑が執行されたことを証言している(ユダヤ戦記、5 11 1)。それは、「もっとも悲惨な死」であった(同書、7 6 4)。なお、ヨセフスの書物には、地方においてさまざまな煽動活動を鎮静化させるため、十字架刑がきわめて多く用いられたことを伝えている(ユダヤ戦記、2 5 2、12 6、13 2、14 9、3 7 33、5 7 5、7 10 1、ユダヤ古代史17 10 10、20 6 2)。
 
 
十字架刑の廃止
 
 この十字架刑が廃止されるのは、コンスタンチヌス大帝の時である。彼は、十字架刑がキリスト教にとって屈辱的なものであると考え、ローマ帝国において禁止したのである。
 協会も、その事実は認めている。『洞察』は、その辺の事情を次のように伝えている。
「ギリシャ人やローマ人は杭につけて処刑する慣行をフェニキア人から取り入れたと言われていますが、ようやくコンスタンティヌスの時代になってこの慣行は帝国内で廃止されました。ローマ市民が杭につけられるのは極めてまれなことでした。それは普通、最も卑しむべき奴隷や犯罪者に科された刑罰だったからです。人を杭につけて行なう処刑方法は、ユダヤ人からもローマ人からも、のろわれた者たちに被らせる屈辱や恥辱の象徴とみなされていました。申21:23、ガラ3:13、フィリ2:8。」
 その酷さの故に、杭による処刑を廃止したコンスタンチヌス大帝が、なぜ、太陽崇拝を根拠に十字架を導入したのかは、分からないが、とにかく、協会はそのように信じていることは間違いない。
 協会の解説は別して、実際には、コンスタンチヌス大帝以降、十字架による処刑は廃止され、十字架(crux)という言葉は聖なる言葉となる。法律文書では、十字架の代わりに、絞首台(furca)という言葉が使われるようになった。受刑者は十字架の場合だと、死ぬまでの長い時間苦しまなければならなかったが、絞首台においては一瞬にして死ぬことができたのである。それ故、絞首台の方が、より人間的な思いやりのある処刑方法とされたのである。
 
 
イエスの死
 
 歴史上の出来事としてのイエスの死については、マタイ27章1-2節、11-61節、マルコ15章1-47節、ルカ23章1-56節、ヨハネ18章28節-19章24節に記録されている。さらに、マタイ20章19節、26章2節、ルカ24章20節、使徒2章36節、4章10節、黙示録11章8節などにも言及されている。これらの記録を総合すると、次のようにまとめることができよう。
1)イエスは、ユダに率いられたユダヤの兵士によって逮捕された(マルコ14章43-46節)。
2)ユダヤの最高議会サンヒドリンが招集され、イエスを取り調べた(14章53-61節)。
3)議会は、イエスが神への冒涜罪を犯したと判断し、死刑を決定した(14章62-64節)。
4)ユダヤ人たちは、イエスを愚弄した(14章65節)。
5)議会は、イエスをローマ総督ピラトに引き渡した(15章1節)。
(イエス時代、ユダヤにおいては、十字架刑はローマ政府のみが行使することができた。)
6)ローマ総督ピラトは、イエスが「ユダヤ人の王」かどうか尋問した(15章5節)。
(十字架刑は、ローマ政府に反逆するような大罪でなければ執行することはできなかった。)
7)ピラトは、沈黙を守るイエスを赦免しようと試みた(15章6-12節)。
(ローマ法に照らした場合、イエスを有罪にするには不十分な状況だった。)
8)群衆は、イエスを十字架刑に処することを要求した(15章11-14節)。
(イエスはローマの市民権を持っていないので、総督は、イエスを十字架刑に処することができた。)
9)総督は、イエスを鞭打ってから、十字架刑に処するため、ローマ兵士に引き渡した(15章15節)。
(ローマ法によれば、犯罪人は、十字架にかけられる前、鞭で打たれることになっていた。)
10)刑を執行する兵士たちは、さまざまな嘲笑をあびせさせ、イエスを辱めた(15章17-19節)。
11)イエスは、十字架の横棒を背負って、処刑場に向かった(15章20節)。
(ローマ法によれば、受刑者は、人々への見せしめのため、十字架の横棒を背負って町を歩かねばならなかった。)
12)兵士は、イエスの十字架をシモンに背負わせ、処刑場に連行した(15章21節)。
(ローマ法から見ると、他人が受刑者の十字架を背負うことは異常なことである。イエスの肉体の疲労が大きく、処刑場までもたないことを心配した死刑執行人の兵士の判断によってなされたものと思われる。)
13)イエスは、没薬を混ぜたぶどう酒を差し出されたが、飲まなかった(15章23節)。
(没薬を混ぜたものは、痛みを和らげるためのもので、ユダヤ独特のものであった。)
14)イエスは、十字架につけられた(15章24節)。
(シモンが背負った横棒の上に寝かされ、両手が釘で打たれ、その後、あらかじめ垂直に建てられていた縦棒にその横棒がつけられたものと思われる。)
15)「ユダヤ人の王」という罪状書が掲げられた(15章26節)。
(イエスは、ローマ皇帝に反逆するユダヤ人の政治的煽動者として裁かれたことになる。)
16)イエスは、道行く人々や両脇の犯罪人から罵りを受けた(15章29節、32節)。
(多くの人々が十字架の周りに集まり、犯罪者を嘲弄するのが、当時の一般的習わしであった。)
17)イエスは、酸いぶどう酒を含ませた海綿を差し出された(15章36節)。
18)神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた(15章38節)。
(神殿の幕とは、聖所と至聖所とを隔てた幕のことで、幕が裂けたとは、聖所と至聖所の区別が必要なくなったことを意味する。つまり、イエスの死により、神との交流が自由にできるようになったことを意味する。)
19)イエスは、息を引きとられた(15章39節)。
20)アリマタヤのヨセフは、ピラトとからイエスのからだの下げ渡しを願い出た(15章43節)。
(ユダヤにおいては、遺体を安息日にさらさないという習慣があった。ヨハネ19章31節参照)。
21)ローマ総督ピラトは、百人隊長によってイエスの死を確認し、イエスのからだを議会の議員ヨセフに与えた(15章45節)。
22)ヨセフは、イエスの遺体を亜麻布で包み、彼自身のために用意した墓に納めた(15章46節)。
 以上が、イエスが経験された死の歴史的経過である。しかし、キリスト者にとって見過ごしてはいけないことがある。イエスの死は、単に歴史的な出来事としては、重要なことではなく、贖いの観点からのみ意味がある、ということである。
 使徒パウロは、当時のキリスト者たちのために、13の手紙を残した。その中で、彼は、キリスト教の信仰にとって大切なことをすべて書き残していった。その彼は、歴史的出来事としてのイエスの死について、ほとんどふれていない。ただ、一か所、Tテサロニケ2章15-16節において、「[ユダヤ人]は主イエスをも預言者たちをも殺し、そしてわたしたちを迫害したのです」と、言及しているだけである。
 パウロは、歴史上のイエスに対し関心を示さないばかりか、次のように述べている。「かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方をしません」(Uコリント5章17節)。つまり、人間として行動された歴史上のイエスについては、知る必要がない、とまで言い切っているのである。
 むろん、パウロはイエスの死の歴史的事実を軽視したわけではない。その真意は、続くUコリント5章18-20節に述べられている。つまり、イエスの歴史上の死を、福音という視点からとらえなければなrない、と言っているのである。
 パウロ及び初代のキリスト者たちは、歴史上実際に起こったイエスの死を重要視した。それこそ、彼らが受け取り、また宣べ伝えた福音の中心的出来事だった。Tコリント15章3-4節を引用しておこう。
「というのは、わたしは、最初の事柄の中で、[次の]ことをあなた方に伝えたからです。それは自分もまた受けたことなのですが、キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった、ということです。そして、葬られたこと、そうです、聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと、さらに、ケファに現われ、次いで十二人に[現われた]ことです。」
 初代のキリスト者にとって、歴史の出来事としてのイエスの死は、福音という視点からのみ重要だった。イエスのはりつけのプロセス、そのときの肉体的・精神的苦痛、刑具の形態、そういったことは本質的な問題ではなかった。
 この初代のキリスト者たちの姿こそ、現代のキリスト者が学ばねばならないものである。例え、イエスの歴史的な死を正確にたどることができても、イエスによる贖いの恵みを知るのでなければ、一切は空しいのである。
 聖書は、イエスがはりつけにされた様子を詳細には描写していない。ただ、事実を淡々と記述するにすぎない。その肉体において経験された苦しみ、裁判に関わった人々の心理状態、周囲の人々の反応、などについては、必要最小限に押えられている。そのようなことは、イエスの贖いの業においては本質的なことではないからである。あるいは、贖いの本質的な意味を曖昧にしてしまう危険性が高いので、意図的にそのような描写を避けたのかも知れない。
 
 
スタウロスについて
 
 最後に、ギリシャ語の「スタウロス」について、まとめておこう。言うまでもなく、この語は、本書の論議において、中心的な位置を占めている。従って、折りにふれ言及してきた。ここでは、一部重複することを気にせず、あらためて整理しておく。
1)スタウロスは、もともと、一本のまっすぐな棒を指していた。例えば、西暦前7世紀のホーマーは、フェンスとか柵という意味で(『オディセイア』14,11)、西暦前5世紀のツキディデスは、土台という意味で使っている(7,25,5)。
2)同義語の動詞「スタウロー」は、「アナ」という接頭辞をつけて「アナスタウロー」として、より頻繁に使われた。それは、「掲げる」とか、「つき刺す」を意味した「アナクレマニーミ」(ヘロドトス、3,125,3f、7,194,1f)、あるいは「アナスコロピゾー」(ヘロドトス、9,78,3)と交換可能な言葉であった。
 これら一連の動詞は、「突き刺す」(ヘロドトス、7,238,1)、処刑あるいは見せしめのために「掲げる」(ヘロドトス、3,125,3f)、さらに「十字架につける」、「苦める」、などの意味で使われた。しかも、それらいずれもが、公衆の面前でなされた場合に使用されている。
 これらの動詞の厳密な意味は、その言葉が使われている文献の場所や時代、そして前後の文脈から判断しなければならないので、一般化して論じることは無意味である。
3)言語の歴史的状況から言えば、「スタウロー」あるいは「アナスタウロー」といった動詞の方が、名詞「スタウロス」より、より一般的に使われていた。しかし、名詞「スタウロス」もまた、次第に、動詞に対応した意味をもつようになった。
 はりつけの刑具に対し、「スタウロス」という言葉が使われるようになるが、西暦前3、4世紀の頃には、東と西ではその用い方に違いが見られる。東の方では、打ち首にされた犯罪人が、恥の上塗りをさせられるため、死体を見せしめにされたが、そのとき用いられた刑具をスタウロスと呼んだ(ポリビウス、7,21,3)。しかし、西側ではそのようなことは許されず、実施されることもなかった(ヘロドトス、7,238,1f、9,78,3、9,79,1、プルターク『De Pericle, 28,1)。スタウロスは、あくまでも、生きている犯罪人を死刑に処する刑具であった。
4)ローマ時代には、受刑者が、十字架の一部(ラテン語で、この横棒のことをpatibulumと呼ぶ)を持つことによって、人々の見せしめにされることが普通になった。このような習慣は、ギリシヤおよびカルタゴにおいても実施されていたことが今日確認されている。多くの歴史学者は、ローマ人はこの方法をカルタゴから学んだと推測している。歴史的にそのことを確証することは難しいが、東方諸国においては、そのような方法が実行されることはなかった。
5)結局、ギリシャ語「スタウロス」は、罪人が掲げられる棒(西暦前1世紀のデオドシウス・シックス、2,18,2)を指す場合もあったし、十字架の縦棒を指す場合も、横棒を指す場合もあった。むろん、十字架全体を指す場合もあった。その他、受刑者を突き刺したり、絞め殺したりするために使われた棒を指すこともあった。
 「スタウロス」の意味を決定するには、その文献が記された時代及び場所をよく考慮しなければならない。むろん、多くの場合、それだけでは決着がつかないので、前後の文脈から推測しなければならない。
 言葉の意味は、前後の文脈から決定しなければならない。当り前のことである。分かりやすい例を一つだけあげておこう。例えば、ルカ7章24節に、「ヨハネの使い」という表現が出てくる。この「使い」という言葉は、ギリシャ語の「アンゲロス」である。それは、むろん、通常、「天使」を意味する。しかし、この箇所は、「天使」では意味が通じない。前の19節から、ヨハネの二人の弟子を指している。言語は文脈によって決定されなければならない典型的な例である。
 
 
   
結 論
 
 
 『ものみの塔』誌(1971年2月1日号)は、次のように述べている。
「その形状について聖書は何も述べてはおらず、聖書中のそのギリシャ語は、『十字架』ではなくて、『杭』『柱』もしくは『木』を意味する以上、キリストは、横木のついた柱につけられて死なれた、と唱える人は、その主張を立証する責任を負っています。」
 「『十字架』ではなく、『杭』『柱』もしくは『木』を意味する」ギリシャ語とは、言うまでもなく「クシュロン」である。この引用文は、新約聖書が「クシュロン」という言葉をイエスの刑具に使っている以上、イエスの刑具が十字架だったことを実証する責任は、十字架を信じる者の側にある、と宣言している。
 立証責任が、ものみの塔協会側にあるのか、それとも、キリスト教世界側にあるのか、これは面白い問題である。しかし、今は、責任の所在を問うことは横に置いておこう。とにかく、筆者は、「横木のついた柱につけられて死なれた、と唱える人」である。従って、協会の考えによれば、筆者が、イエスの刑具が十字架だったことを証明しなければならない。
 しかし、キリスト教世界の者にとっては、イエスが処刑された刑具の形態など、人類の贖いの業においてどうでもよいことだった。一本の杭であれ、伝統的な十字架の形であれ、イエスが私たちの罪を背負って死なれた事実は、何の影響も受けない。
 聖書は、イエスの処刑の刑具がどのようなものであったかということについては、何も述べていない。もしそれが重要なことであるのなら、聖書記者は、当然、霊感によって、イエスの刑具の形態を明らかにしたであろう。しかし、霊感を受けた聖書記者は、そのよな問題を無視している。
 ある証人の方が、イエスは聖い方であるから、異教を背景としてもつ十字架によって処刑されるはずがない、と言われた。筆者は、そのような主張を協会出版物によって確認できなかったので、それは、筆者と話した証人の個人的考えだと思う。その出所がどこであれ、そのような議論が愚かなことは論を待たない。イエスの刑具が一本の杭であったとしても、イエスは、ローマ政府のもとで処刑された以上、異教徒が執行していた処刑器具によって処刑されたのである。器具だけではなく、裁判の法律も、裁判官も、処刑の手続きも、すべては異教的背景の中で行われたのである。
 筆者は、本書において、イエスがかけられたのは一本の杭ではなく、十字架だったと論じてきた。通常のセンスをもっておられるなら、納得していただけるはずである。しかし、組織を絶対視し、ここに紹介した資料を正当に評価しなければ、納得できないと思う。問題は、提供した資料の少なさにあるのではない。判断基準にあるのである。なぜなら、筆者が、教父の証言、考古学の資料、聖書の証言から、あと5つの証拠を加えても、その方は納得してくださらないことであろう。
 筆者自身は、もし、イエスの刑具が一本の杭だったことをいろいろな証拠から納得できるなら、喜んで、即座に、杭であると認める。その正直さは、必要である。筆者は、同じことを証人の方々にも求めたい。もし、イエスが伝統的な十字架にかけられたということを、本書にあげた証拠から納得できるなら、杭という考えを捨て、十字架を受け入れていただきたい。これは、信仰の問題ではなく、事実の問題であり、歴史の問題である。
 
 最後に聖書の言葉、ガラテヤ3章1節(新改訳)を読んでいただきたい。
 
「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」



          
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