「宗教は恐ろしいか」


大野キリスト教会 中 澤  啓 介



・・・・・・・目  次・・・・・・・

第一章 宗教は恐ろしいのか
  キリスト教への問い/より根底的な問い/宗教の在り方
  布教の仕方にフォ−カスを/新しい宗教が問題なのではない
  検証、対話、公開討論会の必要性/宗教の中にある欺き
  宗教の倫理の必要性


第二章 カルトとは何か
  アメリカにはじまるカルト/定義の必要性/カルト研究機関の活動
  カルト研究不在だった日本/カルトに着目する必要性
  カルトのさまざまな定義/カルトの定義(提案)
  どのグループがカルトか/カルト教団の特色


第三章 マインド・コントロールの問題
  いろいろな使われ方/カルト研究家たちの定義/正体を隠して近づく
  ラブ・シャワーで迎える/パラダイムを植えつける/思考停止に導く
  外からの情報を遮断する/判断基準が狂ってしまう/社会から分離する


第四章 マインド・コントロールからの解放
  信者は犠牲者/組織から離脱するには/家族の方々への励まし
  問題を解決しておく/救出の土台づくり/考える人になるように
  効果的な質問を/カルトの集団から切り離す/専門家への依頼
  組織の矛盾を示す/脱会の決断をしてから/リハビリが大切である
  かつての仲間に/おわりに



第一章 宗教は恐ろしいのか


 連日連夜マスコミを賑わせる事件が起きた。日本中を震撼させたオウム真理教による一連の事件である。むろん、この宗教団体が起こした問題には、教祖とそれを取り囲む人々の個人的資質に帰着させるべきことも少なくない。しかし、それだけで片付けることができない多くの問題を社会に投げかけた。
  「宗教とは何か」
  「宗教はオカルトとどう結びついたのか」
  「マンガやアニメがこの宗教に与えた影響はどのようなものだったのか」
  「超能力への興味をあおったテレビなどに責任はないのか」
  「宗教教団がいかなる要件で革命団体のようなグループに変質していったのか」
  「科学の最先端は宗教的なものとどのような接点をもつのか」
  「若者はどうしてこの種の宗教にひかれるのか」
  「学生の勧誘にどのような手段を用いたのか」
  「理系の学生たちはなぜ簡単にこの種の教義を受け入れてしまいやすいのか」
  「大学の教養科目は、この種の宗教に対して何の防御機能も果たせないのか」
  「宗教は最新のメディアをどのように利用しているのか」
  「この種の宗教はいかなるマインド・コントロールの手法を用いているのか」
  「この種の宗教においては、誰が加害者で誰が被害者になるのか」
  「なぜ薬物の使用によって修行を促進させようとしたのか」
  「脱会した信者を、社会はどのように受け入れたらよいのか」
  「マインド・コントロールを解くにはどのようにしたらよいのか」
  「どのようにしたら家庭は子どもをこの種の宗教団体から守ることができるのか」
  「この種の宗教団体に対して信教の自由はどのように保障されるべきなのか」
  「組織が用いるマインド・コントロールは、信者の信教の自由を侵害することにならないのか」
  「マインド・コントロールを受けた人々の犯罪の責任はどこまで問われるべきなのか」
  「既存の宗教団体はこの種の宗教団体が発展していることに責任はないのか」
  「現行の宗教法人法は本当に不備なのか」
  「この種の宗教団体と結び付いてきた金融機関や政治家にはどのような責任が課せられるのか」
  「国家権力はこの種の宗教団体にどう対応したらよいのか」
  「地域社会はこの種の宗教団体とどのように共存しうるのか」
  「この種の宗教団体に対する公安警察の介入はどこまで許されるのか」
などなど、いくらでも上げることができる。
 この事件は、これまで日本社会が考えようともしなかったいくつもの問題を投げかけた。戦後50年の間に起こった最大の悲劇的な事件であったことは間違いない。しかもこの事件は、日本社会の根底に横たわっている問題を一度に噴き出させたといってもよい。
 このような事件を二度と繰り返してはいけない。そのために宗教界、教育家、警察、マスコミ、政治家、行政の指導者、家庭、それぞれが自分の問題として責任を感じるべきだと思う。評論家的な態度を捨て、第三者的ではなく、共に痛みを担いながら、突き付けられた課題と取り組むことが求められている。それぞれが責任転嫁を止め、真正面から立ち向かわない限り、類似した問題が起こることは避けられない。オウム事件の背景にあった病巣がそのまま温存されるからである。

<キリスト教への問い>

 では、キリスト教の一牧師である私に、オウム事件は何を問いかけたのか。私はどのような責任を負っているのか。
 ある識者がテレビで、「オウム真理教の教祖・麻原彰晃がキリスト宣言をしたり、聖書にあるハルマゲドン思想をふりかざしているのに、キリスト教側から反論や説明が何もないのはどういうことなのか」と発言された。牧師やクリスチャンである専門家たちもマスコミに登場しているので、その発言が当を得たものかどうか私には分からない。教会や牧師もこの種の問題に多くの研究を重ね、真摯に問題に取り組んでいる。もしかの識者のような認識が一般的であるなら、誤解を解いていただきたい。そのような印象を与えている責任がキリスト教側にあるなら、申し訳けないと思う。
 オウム真理教については、キリスト教の立場から、たくさん言わなければならないことがある。キリストを一人の修行者にしてしまっていること、マタイとヨハネのみ信頼できる、などと勝手な価値判断をして新約聖書を解釈していること、ノストラダムスを武器にして終末を解釈していること、仏教的な教えをごちゃ混ぜにしながらヨハネの黙示録を解説していること、薬物投与による儀式をキリスト・イニシエーションと名づける冒涜的行為をしていること、教義の重要な五つの柱のうち三つまでを聖書を引用しながら解説していること・・・などなど。
 手もとにある麻原教祖の50冊ぐらいの書物のうち、少なくとも「キリスト宣言シリーズ」の4冊と「終末論シリーズ」の3冊は、キリスト教側が反論しなければならない書物である。必要であれば、喜んで応じる用意がある。
 しかしここでは、そのような問題を扱わない。むしろ、オウム真理教が投げかけた、より根底的な問題を取り上げる。それはキリスト教に突きつけられた課題というより、もう少し広く、宗教全体に突きつけけられたものである。「カルト」あるいは「マインド・コントロール」という問題である。

<より根底的な問い>

 オウム事件は、やがてマスコミの視界から消え、人々の話題からも葬り去られることであろう。麻原教祖が振りかざした珍奇な聖書解釈など一瞥の価値もない、と一笑にふされる時が来る。
 しかし、オウムが起こした事件は、一般の人々に一つの強烈な印象を与えた。「宗教は恐ろしい」ということである。オウムが投げかけた個々の聖書解釈に答えることより、人々の中に蔓延している、このより根底的な宗教への疑義に答えることこそ、キリスト教の牧師として、一宗教家としての責任だと思う。
 多くの方々が感じておられるように、私もまた宗教は本当に恐ろしいと感じている。オウムのように兵器まで備えたり、殺人事件を犯したりするのは問題外であるが、オウム事件を契機にして、一般の人々が宗教に対する不安感や不信感を増大させていることは間違いない。宗教は奇妙な価値観を教える、法外な寄付をさせられる、普通の生活をできなくさせる、正常な判断力を失わせる、教祖や組織の言うことに盲従させる、正体を隠して勧誘してくる、簡単には止めさせてくれない、平和な家庭を乱してしまう、などなどである。
 多くの人々は、次のような素朴な質問をもっている。いくら信教の自由を保障するといっても、そのようなことを許しておいてよいのだろうか。宗教の世界、信仰の世界だからといって、治外法権を認めすぎているのではないか。実際、宗教を隠れ箕にして、人々を欺いている宗教家や宗教団体は後を断たないではないか。このような状況の中で、信頼できる宗教とそうでない宗教とをどのようにして見分けることができるのか。
 私は、一人の宗教家として、このような問いに答える責任を感じている。そこで、このような欺きが行なわれている宗教を疑似宗教と呼び、そうでない宗教を真実の宗教と呼ぶことにする。では、どのようにすれば疑似宗教と真実の宗教とを見分けることができるのか。この疑問を解決するため、私は「カルト」と「マインド・コントロール」という二つの概念を導入することを提案したい。
<宗教の在り方、布教の仕方にフォ−カスを>
 疑似宗教という言葉は、私がキリスト教の牧師だからといって、キリスト教以外の宗教、仏教、イスラム教、ユダヤ教、儒教、ヒンドゥー教などを指すわけではない。あるいは、それらの伝統的宗教から派生したさまざまの新しい宗教を考えているわけではない。
 私はここで、それぞれの宗教が奉ずる教義を取り上げ、その中でどれが真理なのかを論争する気はない。むしろ、それぞれの宗教の組織の在り方、布教の仕方にフォ−カスをあてて論じたい。
 いうまでもなく、組織の在り方や布教の方法は、その宗教が奉ずる教義と密接に結びついている。両者を切り離すことなど、現実的ではない。にもかかわらず、今はあえて、教義の問題をもち出さない。それは難しいことであるが、不可能ではない。私たちは、東京のお茶の水にあるビルの一室を借りて、あるカルト集団の研究会を開いている。テープでの受講も含めると、100人近くの方々が毎週学びあっている。もう一年以上続いているが、受講生の宗教はさまざまである。熱心な仏教徒もいれば、現役の神主さんご夫妻も出席している。それぞれが信じている教義の違いを乗り越えて、カルト集団にとらえられている人々をどのようにしたら救出できるかという共通の課題に取り組んでいる。

<新しい宗教が問題なのではない>

 宗教は時代の中で生きていくものである。多くの宗教は、その根本的教義を変更することなく、その時代の潮流に適応していく。それはごく自然なことで、大方の人々に受け入れられる。しかし、ある人たちはそのような流れに満足しないで、その宗教の出発点・原点、真の精神を回復したい、と考える。このような「原点回帰運動」はどの宗教にも、どの宗派にも起こる。
 また、ある人々は、それまで継承されてきた「伝統的な教義解釈」に不満を覚える。そして、受け継いだ教義を新しく解釈し直し、伝統的な教団から分離する。その解釈のし直しが小さければ「分派」、大きければ「独自の宗教」になる。いずれにしろ、そのようなグループは自らの存在感を世にアピールするため、特異性を強調する。その結果、伝統的なグループとの間に摩擦が生じる。戦後間もなく、日本に宗教ブームをもたらした宗教団体の多くはこのようなグループである。
 さらに別の人は、ある一つの宗教の教義を新しく解釈し直すだけでは不十分だと考える。彼らは、一つの宗教の教義に縛られないで、いくつかの宗教を混合して新しい宗教をつくる。それは、いろいろな宗教の中から良いところだけをつまみ食いしただけの「宗教混合(シンクレティズム)」なのだが、その宗教教団のリーダーたちは「宗教統合」と呼ぶ。教祖が自己の宗教体験に基づいて、それまで異質だと考えられていた宗教を一つに体系化してしまうからである。最近の新・新宗教、ニューエイジと言われる運動の多くは、この類に属する。そこでは、仏教とキリスト教、神と本当の自己、自然と超自然、合理主義と神秘主義、オカルティズムとコンピュータ世界、宗教と科学などの区別がなくなりつつある。
 このような新しい宗教運動を危険視するだけでは何の問題も解決しない。それらの宗教の多くは、人々のニーズに応えようとして起こったものだからである。そのような宗教が既成の観念、既存の価値観、それまでのライフスタイルに挑戦状をたたきつけるのは、宗教である限り当然のことである。宗教は、個人の魂の平安にとどまらず、現実に存在する周囲の社会に根源的な問いを発するものだからである。既存の秩序に生きる者には、それらは特異なもの、危険なもの、日常生活を乱すものと感じるだろう。しかし、それらが既存のものとは異質であるというだけで裁いてはいけない。社会はそれらを容認するだけではなく、保障する必要がある。それこそ「信教の自由」に属する問題である。

<検証、対話、公開討論会の必要性>

 新しい宗教が起こること、それ自体に問題があるわけではない。しかもその宗教がどのようなことを信じても、それは保障されなければならない。といっても、その宗教の教義が客観的な真理でなくてもよい、と言っているわけではない。いかなる人であれ、団体であれ、いいかげんなことや偽りを言うことは許されない。宗教的真理を学問的に検証しうると考えることは愚かであるが、だからといって、学問的に明らかに正しくないことを言っても、宗教であるが故に何の責任も問われない、というのもおかしな話である。
 宗教は理性的判断を超えた世界を問題にする。それは信じる世界であり、決断の世界である。試行錯誤を繰り返しながら真理に到達するという学問の世界とは異なる。しかし、信者は宗教活動の多くを理性によって実践しており、その教義もまた理性によって認識している。超自然的な体験を無視することは間違っているが、同時に、理性によって扱われうる部分で理性的な対応を回避し、責任逃れをすることは許されない。
 今日の宗教界は、ほとんど対話や論争をしない。一つの教団の中でさえ、教理理解や信条内容に関して真摯な議論を戦わすことはまれである。まして、宗教が違ってしまうなら絶望的状態である。宗教の世界にも、一部には学会なるものがある。しかし、それは同じ宗教内に限られている。宗教学を専攻している学者たちは、宗教を超えて、さまざまな宗教団体の問題を論じている。しかし、一つの宗教に生きる教職者や信者は、自分たちとは違った宗教の人々と対峙し、それぞれが主張する教義の真偽性を論じたり、共通のテーマに取り組もうとはしていない。宗教界が社会的信用を得られない一つの理由がここにあることは言うまでもない。今後、公開討論会などを開き、異なる宗教間の対話を進めていく必要があるであろう。

<宗教の中にある欺き>

 新しい宗教を研究する場合、その宗教が何を信じるのかという教義的問題がより重要で、より根源的であることは論をまたない。しかし、今ここでは、何を信じるかという教義の点は棚上げにしておきたい。そして、その教義をどのように信じるかという点にだけ問題をしぼることにする。もう少し具体的に言えば、ある宗教をどのように信じさせるか、一旦信じた人をどのように信じさせ続けるか、脱会したいと言う人にどのように対応しているのか、といった宗教団体の活動面を取り上げたいのである。
 宗教団体の中には、布教に全然関心を示さない宗教もある。しかしそれは、例外であろう。多くの宗教は、一人でも多くの信者を獲得しようと努力している。その布教にあたって、その宗教のメンバーが良識の範囲で活動しているなら問題はないであろう。ところが、もし人の弱みにつけ込んで勧誘するようなことがあったらどうだろう。宗教団体の名を隠して、宗教とは全く関係のない音楽会や講演会などを開いて住所を記入させ、後になってそれを宗教団体の勧誘に利用するとしたらどうだろう。
 信者が信仰をもち続けるために、宗教教団がさまざまの努力をすることは当然である。しかし、集会に出席しないと罰が当るとか、不幸なことが起こるなどと脅かすことは許されるだろうか。あるいはまた、自分たちの宗教に反対する情報は悪魔からのものであるとして、外部から入るの情報には一切耳を傾けないよう指導することに問題はないのだろうか。さらにまた、信者が組織内の規律を破った場合、その宗教団体は信者に対してどのような処分をすることまで許されるのだろうか。
 どのような宗教団体であっても、信者が脱会することは防ぎたいものである。しかしそのためにしてよいことと、してはいけないことがあるはずである。脱会を防ぐために、組織から離れた人を悪く言ったり、偽りの情報を流すことは許されるのだろうか。組織を離れないよう恐怖心でつなぎとめることは、どこまで許されるのだろうか。
 ある宗教は、その組織を止めた人とは、例え兄弟であっても、親子であっても、口をきくことも、挨拶することも許さない。教団が信者を組織から離脱した人に接触させたくないというのはよく分かる。しかし、そこまで家族の絆を断つ権限を宗教集団はもっているのだろうか。

<宗教の倫理の必要性>

 ビジネスの世界には、ビジネスのルールがある。詐欺まがいの商いをすれば、法の裁きを受けねばならない。学問の世界も同様である。そのルールを破れば、学者としての信用を失う。マスコミの世界も同じである。社会のどの分野であっても、それぞれの世界において倫理基準がある。医学の世界には医の倫理がある。法律の世界にも法の倫理がある。科学の世界にも科学者の倫理が存在する。むろん、そのような倫理は永久不変ではない。時に、その世界を二分するような微妙な問題を論争することもある。社会の変化につれ、かつての倫理基準を変更しなければならない事態も生じる。例えそうであっても、それぞれの世界で、その分野特有の倫理規定をつくる努力をしている。もしそれがなければ歯止めがきかなくなり、暴走する危険性がある。
 宗教の世界を全く同じように考えることはできない。他のすべての分野は、ある程度同じ常識的な世界観、価値観、倫理観を前提としている。ところが、宗教の世界は、その常識な世界観、価値観、倫理観をも問い直し、より根底的な生き方に迫るからである。しかしそれにしても、信教の自由という錦の御旗を隠れ箕にして、宗教がしたい放題のことをすれば、社会から葬り去られてしまう。そこまでいかなくても、良識ある人々から、宗教は胡散臭いもので近づかない方がよい、と絶縁状をたたきつけられてしまう。日本社会において宗教に対する評価が極端に低いのは、宗教の倫理が欠如しているからである。
 それは新しく起こった宗教に固有の問題だというわけではない。伝統的な既成宗教にも当てはまる。歴史を重ねた宗教は、その長い歩みの中で社会的に認知されてきているので、新しい宗教ほど非社会的なことはしない。しかし、多くの伝統的宗教もまた、教団の維持に忙殺され、さまざまの既得権を失わないよう自己保身的で、宗教の倫理(内容に何を考えるかは別にして)に対しては無関心であるか、大変甘いと言わなければならない。
 宗教の倫理は、宗教集団の自己規制の問題である。間違っても、国家権力や政治的圧力によって左右されてはならない。宗教家たちがこの問題に目ざめ、責任ある態度をとらなければ、外圧を受ける口実を与えることになる。それは絶対に避けなければならない。宗教家は、一般社会よりはるかに高い倫理基準をもっているはずである。良心の世界に生きる者が、非倫理的な行動をして法の世界に引きずり出されるようなことがあれば、それだけで宗教家失格である。
 ところが、現代のある宗教グループは、この宗教の倫理を無視している。多くの場合、それは無自覚というより、意図的である。私はこのような宗教集団を「カルト教団」と呼びたい。次章で、カルト教団について解明したいと思う。

第二章 カルトとは何か


<アメリカにはじまるカルト>

 カルトグループの活動は、年を追うごとに盛んになっている。それは、信教の自由を建国の理念とするアメリカに端を発した。そして、ヨーロッパ、アジア、全世界的な広がりを見せている。特に最近では、共産主義崩壊後のロシアや東欧諸国において目立っている。
 アメリカにおいては、1800年代の半ばにいくつかのキリスト教系のカルトが誕生した。それらのグループは、今世紀前半までは、異端的教義が主として問題にされ、今日言われるような意味でのカルトとしての要素には、さほど注目されなかった。
 ところが、60年代の半ばにジョンソン政権が「アジア人移民制限法」を撤廃した頃から、東洋系カルトの活動が目立つようになった。それを契機に、それまでなりをひそめていたキリスト教系の異端グループも、カルト的要素を強めていく。さらに、新しいさまざまのカルトグループが誕生し、70年代に入るとカルトの隆盛をとどめることができなくなる。80年代には全盛時代を迎え、あるグループは閉鎖的・過激化の一途をたどり、社会問題化していく。
 現在のアメリカには、2000以上のカルト教団が存在する。その多くは合法的な範囲で活動している。しかし、政府のカルト問題委員会の顧問をしているカリフォルニア大学のリチャード・オフシュ教授によれば、狂信的・暴力的過激集団になりうる教団は、200におよぶという。別の学者によれば、その数はもっと多い。

<定義の必要性>

 世界にいくつぐらいのカルト教団があるのか、その実態がどのようなものなのかは正確にはつかめていない。その数は3000から5000とも言われる。それほど数にバラつきがあるのは、カルトが秘密主義という特性を有していて、調査しにくいことにある。
 さらに、カルト教団の出没が激しいことも別の要因である。ある学者は、毎日一つづつ新しいカルトが誕生している、と述べている。しかも、宗教教団は生き物である。その組織は常に変質する可能性を秘めている。ある時点まではカルトに数えられていなかった教団でも、何かをきっかけにカルト化することはよくある。
 しかし、カルト教団の数がはっきりしない決定的な理由は、「カルト」という言葉の定義があいまいだからである。カルトの定義次第で、あるグループはカルト教団に数えられたり、そうでなくなったりする。しかも、どのように定義したとしても、ボーダーライン上のグループが存在することは避けられない。

<カルト研究機関の活動>

 このようなカルト集団の動向に合わせて、カルトを監視する、調査・研究する、あるいはカルト教団のメンバーに伝道するというグループが誕生した。それに携わる人々の中には、かつてカルトを経験し、今はそこから開放された人々も多い。60年代の半ばには、すでにそのはしりを見ることができるが、こちらの動きもカルト教団の動向に合わせるかのように年々活発になっていく。アメリカ宗教センターが調査した『1993年のカルト研究組織の年鑑』によれば、そのようなグループは、全世界に693も存在する。むろんその大半はアメリカにある。これらのグループは、被害者の家族が中心になっているもの、心理学を専攻したカウンセラーによるもの、カルト集団からの救出を目的としたキリスト教の教会を主体にしたものなどさまざまである。
 このように世界中に広がっているカルト研究機関は、さまざまな定期刊行物、あるいは書籍やビデオなどを通じて、カルト教団の動向を報じている。さらに、さまざまな国際会議を開き、情報交換を積極的にすすめて、ネットワークづくりに励んでいる。その集いも、学術的色彩の強い学会のようなものから、カルト集団の人たちを招いて救出することを目的としているものまで、大変幅広い。

<カルト研究不在だった日本>

 その年鑑に紹介されている日本のグループはたった一つ、エホバの証人伝道に取り組んでいる『真理のみことば協会』のみである。これまで日本においては、カルトの研究はほとんどなされてこなかったと言わなければならない。世界的潮流から見れば、文字どおり孤児の感がある。とはいえ、カルト研究が遅れてきたことをマイナス評価するだけでは片手落ちである。これまでの日本における宗教教団の活動において、カルト的要素がクローズアップされなかったことは喜ばしいことなのかも知れない。
 日本においても、明治時代以降、数多くの新しい宗教団体が生まれた。さらに第二次世界大戦直後は、戦前の宗教団体も息を吹き返してきたのに加え、新興宗教も活発になり、第二次宗教ブームを迎えた。加えて、70〜80年代にかけては、「新・新宗教」と言われるグループが雨後の竹の子のように次々と生まれ、第三次宗教ブームなどと騒がれた。一部には、宗教ビジネスと陰口を言われような、宗教団体と呼ぶには首をかしげたくなるようなグループもあり、また宗教法人の税制を悪用する人たちまで登場した。
 これらの明治以降に起こった新しい宗教団体の中には、教義がラディカルで、狂信的な危険分子と見られる団体もなかったわけではない。あるいは、その布教活動において社会的な問題を起こしたグループもあった。しかし、欧米の宗教学者が「カルト」という言葉を使わざるをえないような要素が問題になることはほとんどなかった。

<カルトに着目する必要性>

 しかし、オウム事件以降、日本の社会も変わった。「カルト」あるいは「マインド・コントロール」という言葉をごく日常的に使うようになった。これは日本の宗教研究において、画期的な出来事である。といっても、それはよい意味ではなく、欧米の宗教研究の後追いをしなければならないという、残念な意味においてである。
 むろん、オウム事件が「カルト」あるいは「マインド・コントロール」という問題をはじめて突きつけたわけではない。数年前、統一教会の霊感商法や集団結婚式が話題になったとき、「マインド・コントロール」に関する書物が出版された。あるいは、輸血拒否事件や家庭破壊という問題でエホバの証人の家族から相談を受けた人々は、この問題と真剣に取り組み、研究してきた。しかしそれは一部の人の間で話題になっただけで、社会全般における関心事にまではならなかった。
 しかも、その時には、それぞれの宗教団体の特異な問題として片づけてしまった。つまり、特定の宗教の教義や活動の仕方として個別に扱ってしまい、カルト教団に内包する共通の問題にまで目を留めなかった。もし今回もまた、「カルト教団」に共通する問題点を論じ、討議を重ねないなら、現代社会がかかえている宗教問題の病巣に迫ることはできない。その結果、オウム問題に対する認識も皮相的なものに終止し、この種の宗教の再発を防ぐことができないことになる。
 宗教は恐ろしい、だから宗教には近づかない方がよい、そう思うだけでは問題の解決はない。宗教をみくびってはいけない。宗教家である私がびっくりするほど、本来人間は宗教的な存在である。あるいは一見非宗教的に見える人も、きっかけさえあれば、宗教的存在になる。超常現象、神秘体験、オカルト的世界、本当の自己を発見したいという、いわゆる「精神世界」への渇望は、若者を中心としてではあるが、今後増えこそすれ、減ることはない。もし宗教界がこのようなニーズに気づき、彼らの欲求を軌道修正させた上で、それに答える努力をしなければ、問題は何一つ解決しない。

<カルトのさまざまな定義>

 「カルト」という言葉の使い方は、人によってまちまちである。従って、その定義を明確にして使わなければ、混乱するだけである。「カルト」という言葉は、ラテン語の「クルトゥス」に由来する。それはもともと「礼拝、儀式、崇拝、礼賛」などを意味した。しかし、今では一般に、そのような意味では使わない。
 ある人々はこの言葉を「古い宗教に対立して起こった新しい宗教」という意味で使う。先日も、ある方が新聞で、「キリスト教もイエスの時代はカルトだった」と発言していた。その場合、カルトが新興宗教を意味していることは明らかである。もしカルトをそのように理解するなら、すべての宗教にはカルト時代があり、その宗教は時間とともにカルトでなくなる、ということになる。しかし、今日のカルト研究家たちは、カルトという言葉を、このような意味では使っていない。
 欧米のあるカルト研究者は、「カルト」を「キリスト教の異端」という意味で使っている。例えば、カルト問題研究の草分け的存在と言われるワルター・マーティン博士は「聖書の根本的教理を否定するか、誤解しているリーダーのもとに集まっている宗教的グループ」と定義している。あるいはカルト研究家の代表的な学者ハロルド・ブッセル博士もまた「使徒信条で告白されている歴史的キリスト教と明白に矛盾するような信仰内容と実践を主張している宗教的グループ」と理解している。
 キリスト教の立場に立てば、「カルトの定義において最も重要な構成要素は、神学的なもの」(ロナルド・エンロス『カルトとは何か』参照)であろう。しかし、それでは現代のカルト研究家が研究対象にしている多くのグループが土俵に上がってこない。彼らは、聖書や神学といった教義的内容を問題としないで、宗教集団の活動における社会的・心理的特質を取り上げているからである。

<カルトの定義(提案)>

 オウム真理教の問題以来、日本のマスコミをはじめ、識者たちは「カルト」という言葉を「閉鎖的・破壊的な宗教」という意味で使っている。それは、基本的に欧米のカルト研究家たちの使い方でもある。
 この場合、「破壊的」という言葉は二つの内容を含む。一つは、ある人がその宗教集団に入信すると、その人がもっていた本来の人格が破壊され、その宗教集団が目論んだ人格に置き換えられてしまうということである。もう一つは、その宗教集団以外のすべての世界を自分たちに対立するもの、迫害者、呪われるべきもの、サタンと見なし、そのような外的世界を破壊しなければならないと考えるようになる、ということである。
 そのような「カルト」理解に立って、「カルト」を次のように定義する。
『カルトとは、何らかの欺きを伴った手段によって、あるリーダーまたは組織のもとに人を集め、マインド・コントロールの技法を用いて、その教義およびリーダーを無批判に受容させ、その集団以外の情報はすべて操作されている(あるいは偏見に基づいている)として遮断し、その集団がすべての世界であるかのように生活することを求める宗教教団である。』
 この定義によれば、カルト教団とは、欺きを伴った勧誘、権威主義的リーダーの存在、マインド・コントロールの利用、盲目的服従の要請、情報の遮断、同質群の人々による共同体の形成などをその特性としている。もちろん、カルトと言われる教団が、これら全部の特性を持ち合わせているわけではない。ある宗教団体がここに指摘された特性のいくつかを示すなら、そのグループをカルト教団と呼ぶべきであろう。

<どのグループがカルトか>

 ある教団をカルトグループに入れるかどうかは難しい問題である。誰もがカルト教団と認めるグループにおいてさえ、先の定義で触れた特性を認めることができるというわけではないからである。というのは、ほとんどのカルト教団は、外部の人からカルトに見られないよう、細心の注意を払っている。従って、ある教団にこれらの特性の一つ一つが個別に存在するかを詮索するより、その教団の活動が、全体としてカルト的要素を表しているかどうかを見きめめねばならない。
 「カルト」という言葉は不名誉な響きを伴っている。だから、外部からカルトと呼ばれる宗教教団であっても、自らがカルトであるとは認めないものである。従って、私たちは、教団の弁明を鵜呑みにせず、その教団の活動の全体像を把握して、正確に判断しなければならない。誰もが異論なくカルトと呼ばねばならないグループもある。しかし、カルト的要素が強くても、カルト教団と呼ぶには慎重であった方がよいケースもある。レッテル張りは分類を前提とする。その場合、微妙なゾーンが存在することは避けられない。
 ある宗教教団に「カルト」というレッテルを貼るかどうかは大きな問題ではない。どのようなレッテルが貼られようと、先に述べた特性が、ある宗教教団の活動のうちに見い出されるなら、その宗教は健全とは言えない。そのような欺きの活動を直すべきである。あるいは、そのような欺きの行為を直す気がないのであれば、これから勧誘しようとする人や信者でもはじめの段階の人には隠すというようなことは止め、すべてを明らかにして布教すべきである。

<カルト教団の特色>

 カルト教団の特性についてもう少し具体的に述べてみよう。
@権威主義的なリーダー
 カルトには、その組織内の人々に対し、絶対的な忠誠を強いる中心的なリーダーが存在する。その人物は、宗教的教義および組織の活動の決定において絶対的権威をもっている。その権威はリーダーの特別な宗教体験、あるいはカリスマ性に基づいており、終身性が普通である。メンバーはリーダーに対して疑問をもったり、反抗することは許されない。絶対服従が強いられる。
 教団の歴史とともに、リーダー・シップの形態は変化する。通常、最終的権威をもつリーダーは一人だが、そのリーダーが死亡すると、集団指導体制になることが多い。どのような形態をとるにしても、その集団がカルト教団である限り、そのリーダー(あるいは複数)は絶対的権威を継承する。
 多くの場合、リーダーは特別なタイトルをもっている。例えば、ジョン・ロバート・スティーブン(生ける言葉の教会のリーダー)は「使徒」、グル・マハライ・ジ(神の光のミッションのリーダー)は「完全な主」、モ・バーグ(神の教会のリーダー)は「父ダビデ」、文鮮明(統一教会のリーダー)は「お父様」、麻原彰晃(オウム真理教のリーダー)は「尊師」、大川隆法(幸福の科学のリーダー)は、「エル・カンターレ」である。エホバの証人のリーダーは「統治体」と呼ばれている。
A教義は絶対で、真理はその組織に占有されている
 カルトにおいては、リーダーは神(この神概念は宗教集団によって違うので、ここではその内容は問わない)に選ばれた特別な存在である。神はそのリーダーを通してのみ語る。従って、そのカルト教団の信者のみが真理を保有し、継承することができる。組織外の人がその真理を手にする可能性は全くない。真理はその組織の占有物で、その組織を離れては存在しない。他の集団が説くものは、それがどのような組織であっても、どのような内容であっても、偽りの教えである。
 カルト教団の内部では、「その真理」は検証されたり、批判されることはない。カルトのリーダーは、その教えを変えたり、後戻りさせたり、それまでと全く矛盾することをしばしば教えるが、そんな場合でも、さまざまな言い訳をして正当化してしまう。例えば、以前は受け止める人々に理解する力がなかったのでそこまでは明らかにしなかったとか、すべてのことを一度に啓示すると理解しにくいので徐々に新しい光を示しているとか、教祖の力が働いて神の意志が変更された、などである。普通の社会では、「間違いでした、勘違いでした」と謝罪すべきところだが、それではリーダーの権威が失墜してしまう。カルト教団では、リーダーの権威を守らねばならないので、絶対にそんなことは言わない。
 これまでしばしば、教団が信ずる教理や見解を変更してきたあるカルト教団は、タッキング理論を持ち出す。ヨットは、帆が風の力を受けて、右に揺れ、左に揺れながら前進していく。同じように、真理もいろいろ変更されながら、次第に明らかになっていく、というのである。教団内の信者は、このタッキング理論によって、いとも簡単にだまされてしまう。はじめに言っていたことが途中で変更になり、再びはじめに言っていたことに戻るなどタッキングとは全く違うではないか、と外部の人が指摘しても、信者はおかしいと思わないのである。否、間違ったことを正直に認めるのだから、自分たちのグループは神の潔い組織である、次にどのような新しい光が与えられるのかを楽しみにして待っている、などと開き直る。あいた口がふさがらない。
 カルト教団は、外部からの批判を問題にしない。彼らにとっては、もともと外部の人たちは真理を理解する力などなく、耳を傾けねばならないような相手ではない。外部の人たちによる客観的な情報、学問的判断、常識的推測も気にしない。常識こそサタンが用いる武器であり、外部の情報を得たいと思うこと自体がサタンの誘惑であり、罪である。信者になると、カルトの生活がすべてであり、外部の世界がどう考えようとかまわなくなってくる。仲間同志で通じればそれで十分なのである。
 宗教は、それが宗教である限り、自らの奉ずる教義を絶対化する。これは当然のことである。しかしその場合、信じる内容である教義と、その教義を信じさせる組織とは区別しておかねばならない。普通の宗教教団においては、前者の絶対性を主張しても、後者の絶対性までも主張することはない。しかし、カルト教団はその両者において絶対化を主張する。
B閉鎖的・秘密主義である
 カルト教団は、他の教団が主張しない独特な教義を説いている。その独特な教義は一見もっともらしく見えるが、その道の専門家から見れば、全くデタラメな解釈がほとんどである。しかし一般の人は、そのことについての知識が何もないので、教えられたことを鵜呑みにしてしまう。
 例えば、キリストの12弟子はキリストを裏切ったのだから、そのような弟子たちが書いた書物は新約聖書であっても価値はない。しかし、イエスの言葉が残されているマタイの福音書とヨハネの福音書はよろしい。それにヨハネの黙示録は預言がなされているから価値がある、などと麻原彰晃が言えば、ほとんどの人はああそうか、と納得してしまう。聖書の正しい読み方を知らないからである。カルトのリーダーが、聖書の言葉を自分たちに都合よくねじ曲げて解説しても、それに気づく人はほとんどいない。
 これだけ情報が多いと、一般の人が個々の情報の真偽を選別することは不可能である。その結果、一つ一つの情報を確かめることを止め、信頼できる情報源を求めるようになる。情報化社会においてはこれはやむを得ないことかもしれない。しかし、信頼できる情報源であっても、なお、自己の責任を放棄してはいけない。個人はそれぞれの目と耳でその情報源からの情報を一つ一つチェックする責任がある。しかし、カルト教団は反対の姿勢をとる。自分の意見をもつことは不遜なのである。カルトのリーダーは、自分の意見に盲目的に従わない人は、「独立した考え」をもとうとする人であり、不従順で、高慢な人だと断罪する。
 さらに、多くのカルト教団では、その教義を展開するのに特殊な言葉を使う。そのことは、組織の中にいる人に対して、教義が神聖で、ありがたい特別なもの、という印象を与える。信者たちはその言葉を使うことによって、外部の人に対する選民意識、エリート意識を感じる。反対にそのような言葉は、外部の人がそのカルト教団とコミュニケーションをとるための障害になる。カルト組織が秘密主義に映る一つの理由は、このような言葉の壁にある。
 カルト教団が、それまで使われてきた用語を用いる場合でも、その言葉の伝統的な内容とは違う意味で使うことが少なくない。このことは、新しい言葉が使われる以上に、やっかいな問題を引き起こす。カルト内の人と外の人との相互理解や対話を困難にさせてしまうからである。というのは、それぞれが自分の理解した仕方で言葉を使うので、議論がすれ違ってしまうのである。しかも、このすれ違いの理由が使っている言葉の意味内容が違っていることに基づくとは思っていないので、両者の間に不信感が増幅する。
 私は、一人の方と三位一体について話をし続けた。ところがある時、相手が考えている(つまり彼の所属するカルト教団が教えている)三位一体と私が信じる三位一体とは、同じ言葉を使いながら、中味が全然違っていることに気がついた。なんとそれまで、私たちは半年間不毛な議論を重ねていたのである。カルト集団の人と話した外部の人から、接点がない、宇宙人と話をしているみたいだ、平行線に終わって空しさだけが残る、などという感想をよく聞く。その大きな原因は、同じ言葉を使っても、指し示している内容が違うことにある。しかも、このようなコミュニケーションの断絶は偶発的なものではなく、カルト教団が目論んでいることである。それは、組織の信者を外部世界から隔離するための重要な戦略の一部である。
C生活への細かな規則を設ける
 多くの人は、カルト教団は破壊的な信仰であるから、その信者のライフスタイルはデタラメなものであるはずだと、勝手に決め込んでいる。私はこれまでいくつかのカルト教団の信者と接触してきたが、私の知る限り、実際は正反対である。むろん、教団によっていろいろな点での違いはあるが、概して言えば、カルト教団は、信者の生活のかなり細かな点に至るまで統制している。あるグループは、厳しい私立中学の校則以上の規制を信者に課している。
 例えば、スーツとネクタイを着用すること、髪の毛の長さは耳が見えるようにしておくこと、派手な服装はしないこと、女性のズボンは体の線が見えないこと、デートをするには許可をもらうこと、テレビや新聞は見ないこと、食べ物に規制を設けること、自分たちの組織以外の人とは交わらないこと、旅行をしないこと、家族や親戚づきあいは控えること、家族の行事には参加しないこと、などなどである。
 カルト教団が信者にこのような高い(?)倫理・行動規定を要求することは、その教団にとって付随的なことではない。それは教団形成において不可欠な戦略である。このような高い倫理規定を要求する教団は他にはないのだから、自分たちの教団が真理をもっている証拠だ、という意識を信者に植えつける。簡単には守れない高いハードルを設け、カルト教団の神聖さ、権威を確立しているのである。
 また、この高い倫理規定は、信者に自らが不十分であることを自覚させる。その結果、ある信者は神からより一層の愛顧を受けようと信仰に献身する。また他の信者は、恐怖感を覚え、組織に忠誠心を示すようになる。このような高いハードルは、信者が教団に弱みを握られているような錯覚を起こさせるのである。そのような引け目の感情は、信者が教団から脱退するのを困難にさせる。
 さらに、このように生活を細かく規制することは、自分で考えないで人の指示に従うという幼児性を養う結果となる。そのようなメンタリティーこそ、カルト教団が信者に要求しているものである。さらにまた、外面的装いを統制できるなら、内面の統制もやりやすくなる。組織に対して何等かの反抗心を抱いている人が、規則を破ることによって意志表示をすることはよくあるからである。
 そのような信者一人一人の礼儀正しさは、カルト教団の欺瞞性を覆う役目をも果たしている。カルト教団の内部の人にも外部の人にも、このような高い倫理規定を要求している教団が悪を企むはずがない、と信じ込ませるのである。オウムの信者たちが、「虫さえ殺すことを許していない教団が、どうしてサリン事件を起こすことなどできるでしょうか」とテレビのアナウンサーに反論していた。この原理が見事に働いている好例である。
 生活に対する細かな規制は、内部の人々には帰属意識と選民思想を助長させる。と同時に、外部の人々がカルト教団の信仰に入信するのに役立つ。多くの人々は、カルト教団の信者が礼儀正しいのを見て、自分や自分の家族、身の周りにいる人々にないものを見い出す。教義には胡散臭いものを感じていても、あのような立派な人たちが信じているものだから真理であるかも知れない、と思わせてしまう。教義のいいかげんさが、信者の行状によってカバーされるというのはまことにおかしな話だが、実際、カルトの信者からよく聞く話である。
D迫害されているという意識
 カルト教団の教える教義は偏見と独断に満ちており、一般の人には、非理性的・反合理的に映る。しかもカルト教団は、家族生活、学校生活、地域社会、職場などの日常生活に対して、生活の細かな点に至るまで干渉する。その結果、信者は伝統的慣習や社会的通念を破ることになり、さまざまな点で周囲との衝突を経験する。カルト教団は、そのような家族や周囲との衝突を「信仰の故の迫害」と認識させる。
 この迫害されているという被害者意識を信者にもたせることもまた、カルト教団にとっては付随的なことではない。迫害はカルト教団の形成にとっては不可欠だ、とまで言うのは言いすぎであろう。しかし、迫害されているという意識を信者がもつことは、カルト教団にとって、信者教育のための重要なプログラムなのである。周囲から迫害を受けているという被害者意識が、信者たちの一致と結束に大きな貢献を果たしていることをよく知っておいていただきたい。残念ながら、カルトの問題で悩んでおられるご家族の方々で、このメカニズムに気づいている人はほとんどいない。
 カルトは、周囲の人々の反対を、「真理を理解していない人たちによる真理に対する挑戦」「背後でサタンが画策している」「真理に立っているしるし」などと教え込む。そう教えられている信者は、反対されればされるほど信仰を強めていく。仲間の信者は、家族から反対されている信者を暖かく励まし、英雄扱いする。カルト教団の信者の場合、強い迫害を受ければ受けるほど、そのカルト教団の強力な戦士と化していく。これは、今まで接したどのカルト集団の方々にも当てはまる。ご家族の方が反対すればするほど、家族のもとには帰りたくなくなり、仲間と一緒にいたいと思うようになる。ご家族の方には、その辺をよく認識していただきたい。
E恐怖心を植えつけている
 普通宗教は、人々に救いを約束する。キリスト教であれば、愛、平安、希望、喜び、信頼、祝福、解放、赦し、勝利などといった言葉が中心的モチーフとなる。仏教であれば、平静、悟り、解放、達観・・・等々となるであろうか。
 ところが、カルト教団が信者に与える根底的なものは、そのようなものではない。カルト集団によって信者の中に植えつけられてしまうもの、それは共通して「恐怖心」である。確かに、カルト教団といえども、それぞれ救いを約束する。しかし、どのような教義を説いていたにしても、信者を支配している感情は「恐れ」(ファビオス)である。カルト教団に深くはまっていけばいくほど、その信仰に熱心になればなるほど、この感情が強くなる。反対に、恐怖心が薄ければ薄いほど、その人はカルト教団から遠い存在である。
 信仰から離れたら呪われる。この組織から離れたら行くところはない。ハルマゲドンが近い。不信仰になるなら、病気や事故に見舞われる。サタンが家族を用いて反対する。伝道に熱心でなければ、不幸な目に会う。このようなことが起こったのは、自分が不信仰だったからではないか。仲間から見張られている。仲間から信仰に熱心であると思われていないのではないか。こんな自分を神は受け入れてくれないのではないか・・・。カルト教団の信者の心の中には、恐れの感情が果てしなく続く。
 カルト集団では、信者同志の間で、本当の愛や信頼関係は生じにくい。どのカルト集団も、自分たちの教団の中にのみ本当の兄弟愛がある、このように家族的な絆で結ばれている社会は他にない、と自負する。カルトに入るまで、あるいは、入った直後はそう見える。はじめての人には特に心を配るよう、組織は注意深く指導しているからである。しかし、それが表面的なものに過ぎないことはすぐ明らかとなる。カルト集団の愛は、心からの愛というより、組織が取り決めたので実践している愛だからである。しかもその愛は、組織に忠実な人にのみ、あるいは組織に忠実である限り、注がれる。
 カルト集団は、組織およびそのリーダーとの関係を優先させる。従って、カルト教団の中での愛は、組織という第三者を介しての愛である。もしその人が組織に役立つ人なら、組織は、病気になった人、経済的に困難に陥った人、引越しをする人を総動員で手助けする。しかし、もしそれが組織に役立たなくなった人であったらどうだろう。まるで使い捨てカイロのような扱いである。
 カルトの組織の中には「愛」は育ちにくい。愛とは本来、何の警戒心もない、誰にも遠慮や気兼ねのない中でしか生まれない。お互いの信頼関係こそ、愛の源である。ところが、カルト集団の支配的感情は「恐怖心」である。そのため、信頼よりは猜疑心の方が大きくなってしまう。カルト集団には本当の愛は生じない。
 あるカルト教団を最近抜け出た人が、「組織の中の人間関係は、基本的に不信だった。あの人は霊的ではない、規則を破っているのではないか、罪を犯しているのではないか、などとイエスの時代に人を裁いていたパリサイ人のようだった。中にいるときには気づかなかったけれど、今思えば、あそこでの人間関係は、お互いがお互いを監視しあうスパイ組織のようだった」と述懐した。多くのカルト集団において、この言葉は決してオーバーではない。
F脱会が難しい
 どんな組織にとっても、会員が脱退することは喜ばしいことではない。いつでも大きな傷みが伴う。しかし、人がある組織から抜け出たくなる事態はまま起こる。宗教団体であっても例外ではない。その組織においては残念なことであるが、仕方がない。信教の自由とは、「信じる自由」を保障すると同時に、「信じない自由」をも、あるいは「信じるのを止める自由」をも、保障する。宗教団体に加入する自由もあれば、そこから脱退する自由もある。
 ところがカルト集団の場合はそうではない。信者がカルト教団から抜けることは至難の業である。まずカルト教団は、普段からことあるごとに、組織から離脱するなら、いかに悲惨な目に会うかを教え込んでいる。脱会した人がどのように不幸な目にあったかを繰り返し強調する。さらに、脱会するには、裁判所まがいの委員会を開き、信者を調査したり、尋問したりする教団さえある。
 多くのカルト教団は、信者が組織から離脱した人と交流することを禁じている。組織を抜け出た人を悪魔にやられた人、罪を犯した人と見なし、そのような人と交わる信者は、自らも悪に染まることになると、恐怖心を抱かせる。あるカルト教団では、例え親兄弟であっても、組織を離脱した人とは口をきいてはいけない、あいさつをしてもいけない、と教えている。
 カルト教団が、信者が組織の離脱者たちと交流するのを嫌うのは、彼らから組織に不都合な情報が入ることを警戒してのことである。組織の脱会者は、大抵、自分が所属していた教団の教義や組織の活動や在り方に疑問をもった人である。しまも彼らは、マインド・コントロールという環境下にありながら、それに束縛されなかった人たちで、強い精神力の持ち主である。賢明な判断力を維持しながら、組織内から流された情報を的確に把握し得た人である。自分を失わないで、反骨精神を貫いたとも言える。従って、そのような人は組織にとって一番困る人物である。
 カルト教団が、組織から出た人と交際を断つよう教えることは、組織を守るためだけではない。脱会した人への厳しい制裁措置は、信者に対し、もし自分が組織から抜けたならどのように扱われるのかを知らせる「恐ろしい見せしめ」になる。離脱した人々を徹底してサタン呼ばわりすることによって、連鎖反応を食い止めようとしているわけである。あるカルト教団では、組織から抜け出た人を、拉致監禁してまでも連れ戻す。一度組織を裏切ったなら、何をされるか分からないという恐怖心を信者に植えつけるためにある。組織は、そこから抜け出た人をどう扱うかによって、その本性を表す。それは宗教団体だけの話ではないが。

第三章 マインド・コントロールの問題


 カルト問題を明らかにするには、マインド・コントロールという課題に取り組む必要がある。この言葉は、数年前に統一教会の集団結婚式や霊感商法の問題が起こったとき一般に使われるようになり、一時流行語にさえなった。しかし、その意味するところが十分に検討されなかったので、日本社会においては市民権を得るほどには至らなかった。

<いろいろな使われ方>

 最近は多くの人が「マインド・コントロール」という言葉を使っている。「マインド」も「コントロール」も、一般によく使われる英語なので、「マインド・コントロール」という言葉も親しみやすい印象がある。それだけに、人々はこの言葉を自己流に使う傾向がある。例えば、先生が生徒を教育する場合、親が子どもをしつけるとき、会社が社員を叱咤激励して仕事をさせるとき、自分で自分を節制するとき、などなどである。
 ある言葉がどのような意味で使われるかは、歴史の中で自然に定まっていく。従って、「マインド・コントロール」という言葉もいろいろな使われ方をされながら、落ち着くところへ落ち着くであろう。私の知る範囲では、欧米のカルト研究家たちは、この言葉をかなり厳密な意味で使おうとしている。日本でもまた、同じような使い方をするよう提唱したい。

<カルト研究家たちの定義>

 では、カルト研究家たちはどのような意味で使っているのだろうか。この問題の先駆者スティーヴン・ハッサンは、有名な書物『マインド・コントロールの恐怖』の中で、次のように定義している。
 「それは、個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊して、それを新しい人格と置き換えてしまうような影響力の体系のことである。多くの場合、その新しい人格とは、もしどんなものか事前にわかっていたら、本人自身が強く反発したであろうと思われるような人格である。」
 ここで見落としてならないのは、マインド・コントロールは、それを受けた人の本来の人格を破壊してしまうということである。その点で、マインド・コントロールは教育や訓練と根本的に異なる。教育とか訓練は、言うまでもなく、その人が本来もっているものを引き出すことにある。破壊するという意図など毛頭ない。
 もう一つ注意すべき点は、置き換えられる人格に関してである。マインド・コントロールされてでき上がる人格は、もしそうなるとあらかじめ分かっていたなら、決してそうなることを望まなかったような人格である。マインド・コントロールされた人々は能面のように無表情で、皆同じような顔をしているとよく言われる。それは、カルトが植えつけたカルトの人格だからであろう。
 ところで、ハッサンによれば、このマインド・コントロールは、「解凍」「変革」「再凍結」の三段階を経て達成される。各段階において、どのような方法が用いられるかはカルト教団によって異なる。
 「解凍」とは、本来の人格が壊されていく段階である。このための時間がどれほどかかるかは、その人がそれまでに育てられた人格の質によって異なる。第二番目の「変革」とは、本来の自己が壊されて空白になった部分に、カルトの新しい人格が埋め込まれる段階である。実際には、カルトの人格が本来の人格を壊していく面も強いので、一段階目と二段階目は同時並行的に進行する。「再凍結」の段階では、新しく植えられたカルトの人格が補強され、結晶化されていく。
 ところで、「マインド・コントロール」は、よく言われる「洗脳」とは区別した方がよい。洗脳とは、空腹にすること、睡眠をとらせないこと、拷問にかけること、薬物を使うことなど、何等かの物理的な手段を使って、ある人の思想を変えることを指す。カルト教団のマインド・コントロールの中には、そのような意味の洗脳にかなり近いものもある。しかしここでは、そのような物理的な圧力を加えないで進めていくものを「マインド・コントロール」と呼んでおきたい。
 では、カルト教団ではマインド・コントロールを実現するため、どのような手段を用いるのか。基本的パターンを紹介しておこう。はじめにおことわりしなければならないのは、これから述べる手段は、カルト教団によって相当な違いがあるということである。例えば、正体を隠して近づくという点では、統一協会の方がエホバの証人よりはるかに強い。しかし、パラダイムを植えつけるという点では、エホバの証人の方が統一教会よりはるかに強い。従って、厳密には、一つ一つの教団のマインド・コントロールを別々に扱う必要がある。しかし、どのカルト教団にも共通する特色を大ざっぱに理解しておくことも重要である。

<正体を隠して近づく>

 一般に外部の人々は、カルト教団に対してよいイメージをっていない。それは前章のカルトの特性を見れば当然と言える。カルト教団は信者勧誘にあたって、その名前を出さないことが多い。主催者不明の講演会、音楽会、スポーツ大会、映画会、セミナーなどに誘われて、後からカルト教団主催のものだったと聞かされ、驚いた経験をおもちの方も多いであろう。
 カルト教団の名を隠すことはしなくても、相手に合わせてよい名称を使ってカモフラージュすることもある。かつてカルト教団のメンバーだった人が、「自分たちはクリスチャンです。本当のキリスト教です。聖書を学んでいるグループです、と名乗って戸別訪問していました」と話してくれた。そのカルト教団は、組織内ではキリスト教世界をサタンの巣窟だと非難しながら、伝道の場面では、一般にもたれているキリスト教へのよい評判を利用しているわけである。

<ラブ・シャワーで迎える>

 催眠術を研究している斎藤氏は「人が催眠状態に陥るには、催眠をかけようとする人へのラポート(信頼関係)がキーである」と述べている。マインド・コントロールにおいても全く同様である。カルトのリーダーは組織の教義を植え込むために、その人が本当に愛されていると実感させることが必要だと知っている。だから、教団は新しい人への歓迎方法を徹底して訓練している。カルト教団の集いに出席した人は、ここに自分のことをこんなに気にかけてくれる人たちがいるのだ、と感動するはずである。カルト教団が、そのような感情を、カルトに心を開かせる第一歩として利用していることは明らかである。
 統一教会のセミナーに参加した人が次のような体験を語ってくれた。会場にバスが着くと、先輩たちが玄関にずらりと迎えに出ていた。その晩眠ろうと床に着くと、何と枕べに30通以上の手紙が置いてあった。中味は皆ほとんど同じで、「このセミナーがあなたにとってすばらしいものとなるでしょう」「あなたがこのセミナーで真の友人を見つけることができますように」といったものだったが、それでも感激して、翌日から講師の話を真剣に聞くようになってしまった、と。
 一般に、人はある人を信頼するようになると、その人に対する批判能力が甘くなり、通常ならおかしいと思うことも受け入れやすくなる。また、信頼する人を悲しませたくないという感情が働くので、相手の意見に同調するようになる。その人を受け入れてしまうなら、相手の意見を受け入れることもそれほど難しくない。ほとんどのカルト教団は、このメカニズムをよく知って悪用している。カルト教団を見て、なぜあんなばかばかしい教義をいとも簡単に信じてしまうのかと首をかしげる方は、人間の心理とカルトの狡猾さを研究する必要がある。

<パラダイムを植えつける>

 人間は、たくさんの情報の中から自分にとって意味あるものを集め、それを組み立てながら物事を認識していく。その認識作業において最も重要なものは、情報を処理するための「思考の枠組(パラダイム)」である。人は与えられた情報すべてを、そのまま受け入れるわけにはいかない。自分のパラダイムに適合するものだけを取捨選択し、そのパラダイムの中に位置づけて処理する。もしこのパラダイムがなければ、情報処理は不可能となり、与えられた情報はその人にとって意味をなさない。ある人たちはそれを世界観、哲学、信念、ビリーフ・システムなどと呼ぶ。名称は自分に合ったものを選べばよい。
 多くの人は、このパラダイムの重要性を認識していない。否、その存在すら自覚していない。しかし、それこそ物事の判断において決定的な位置を占めている。普通私たちは、さまざまな日常経験や学問を通してこのパラダイムを形成する。いろいろな分野ごとにそれぞれのパラダイムをつくり、やがてトータルなものが次第に出来上がっていく。よく「人格の完成」ということが言われるが、その中味は、このパラダイムがあらゆる方向にバランスよく育っていくことだと考えることもできよう。
 一つの分野ですばらしいパラダイムを形成しているからといって、他の分野でもそうだとはかぎらない。例えば、化学の研究をした人は、その人の頭の中に、化学の分野における最先端のパラダイムを形成している。しかし、そのパラダイムは、その人の宗教の分野にまで及んでいるわけではない。宗教的分野におけるパラダイムは、空白状態に近い場合がいくらでもある。学問が細分化すればするほど、その学問によってできあがるパラダイムは全人格的なものから遠のいていく。
 今日の日本における知識人の多くは、宗教を胡散臭いものと考えている。公立学校は宗教に対して中立の立場をとり、宗教はタブーの世界である。家庭もまた、ほとんどが無宗教か、名目だけの宗教である。その結果、現代の若者たちが宗教的な分野におけるパラダイムを形成する機会はほとんどない。
 もし、人間が本当に宗教無しで生きられるとすれば、それはそれで問題は起こらない。しかし、人間から宗教的渇望を取り去ることは不可能である。人間が物質的なものだけでは満足できず宗教的なものを求める事実は、共産主義社会崩壊後のロシアをはじめ、東欧諸国で宗教ブームを迎えている現実から明らかである。占星術がはやり、オカルトブームが起こり、本当の自己を探求するニューエイジ運動がもてはやされているのは、物質文明が高度に発達した資本主義社会においてである。
 人間がこれほどまでに宗教的な存在であるのに、教育の現場は、宗教の分野におけるパラダイム形成に参与できないでいる。これこそ現代教育が直面しているジレンマである。そこにカルト教団がつけ込む余地が生まれる。カルトの指導者は、このパラダイムの重要性をよく知っている。だから、どのカルトもトータルな世界観を提供しようとする。共産主義はそれなりに科学的装いをもった唯物史観を提供した。ところが、カルト指導者は知性や合理主義の限界を示し、物事の善悪や白黒をはっきりさせ、霊的世界を含んだ世界像を明解な論理を展開しながら提供する。多くの現代人は、自分の宗教的パラダイムをつくることなどできないから、カルトが示すパラダイムに魅せられてしまう。
 哲学、文学、心理学などは、宗教といくぶんかオーバーラップする分野のパラダイムを形成する。従って、これらの学問を専攻した人々は、他の学問を学んだ人より、カルト教団の説くパラダイムに抵抗を示すかも知れない。しかし、それも程度の問題である。カルト教団の説得の技術は、彼らが身につけたパラダイムなど簡単に飲み込んでしまう。一方、理科系の学問や音楽などは、宗教的な分野のパラダイムを空白のままにしておく。そのような学問を専攻した人は、カルトに対して全く無防備である。

<思考停止に導く>

 カルト教団は、自分で考え、自分の責任で発言し、自分で判断し、自分で決断し、自分の行動に対して自分が責任を負う、という人間をつくろうとしない。それどころか、主体的に生きることは高慢であり、「悪」である。カルト教団にとってよいメンバーとは、組織の言うことを忠実に守る人のことである。疑問をもつことは、悪魔に惑わされていることに他ならない。
 あるカルト指導者は、「組織から飛べと言われたなら、なぜ飛ぶのかと問うてはいけない。どれだけ飛べるかに努力を集中すればよいのだ」と講演している。また、「神は、信者が正しいことを信じているかどうかを問わない。組織のリーダーがその点での裁きを受ける。神が信者を裁くのは、教えられたことに忠実であったかどうかという点だけである」とも述べている。カルトの人間観を端的に表わした言葉である。
 カルト教団は、自分で考えない人間をつくるため、忙しく働かせる。人間は暇があると好奇心が旺盛になるし、情報も集めたくなる。一旦した決断ことに対し、不安も襲ってくる。暇がなければ、話題や関心も限定されてしまうし、物事を多角的に検証する余裕も出てこない。カルトのリーダーたちはこのことをよく知っている。だから、彼らは信者を忙しく働かせる。間断なく働かせることは、組織に実益をもたらせるだけの目的ではない。信者をマインド・コントロールするための重要な手段なのである。

<外からの情報を遮断する>

 カルト教団が説いているパラダイムは、外部の者にとっては、きわめていびつなものである。従って、カルト教団は、情報の解禁が教団の崩壊につながることをよく知っている。もしカルトの信者が自分のパラダイムに合わない情報を多く手にするなら、カルトのパラダイムに疑問をもち、新しいパラダイムを求めはじめる。カルト教団は、そのようなことを許すわけにいかない。
 カルト教団は、この点でも巧妙である。組織外から流れてくる情報はすべて偏見に満ちている、あるいは、何等かの操作が行なわれている、とあらかじめ信者に警告しておく。もし、そのような考えを最初に信者の頭脳にインプットしてしまえば、信者はパラダイムに合わない情報をすべて情報の送り手たちが操作したもの、と考えるようになる。その結果、信者はその情報を受けつけない。それだけではない。信者は、教団はそのような操作された情報が来ることを預言していた。従って、この教団の言うことは間違いない、と変な確信をもつようになり、ますます組織への信頼を深めていくことになる。
 また、カルト教団は信者に、次のようなことをあらかじめたたき込んでおく。「組織の外にある世界はすべて敵であり、真理のひとかけらもない。神は、これまで誰も知ることができなかった真理を、自分たちのカルトの教祖にはじめて啓示された。それは、その宗教を研究してきた人たちが、長い間ずっと求め続けてきたものである。外にあるものは古びて価値のないもので、過去の遺物にすぎない。そのようなものに耳傾けることは、結局悪魔に身売りすることである」。そのように思い込まされた信者は、外部の情報を得たいなどと思わなくなってしまう。
 カルト教団が一番恐れているのは、信者が、組織の離脱者と接することである。彼らは内側の事情や情報を熟知している。しかも、何等かの手段で外部の情報を手に入れ、組織に反旗を翻した人々である。組織を離脱した人々は、組織に留まっている人々より知識欲も旺盛で、賢明な判断力をもち、主体性がある。そのような人々がカルト信者に対して間違いを説得することは、それほど難しくない。カルト教団が彼らを「背教者」あるいは「サタン」呼ばわりして、信者に接しないよう厳し警告するのは当然である。
 たとえ組織が情報を遮断しなくても、マインド・コントロールを受けた人は、自分自身で外部の情報を遮断するようになる。人間は本来、受け取った情報と調和していたいという強い願望をもっている。もし自分のパラダイムに適合しない情報が入ってくると、脳は受けつけにくくなる。情報を取り入れて新たな葛藤を経験するより、そのような情報は排除して、平和に暮らしたいのである。もしマインド・コントロールを受けていなければ、新たな情報を受けとった人は、その人の内に既に形成されているパラダイムを、その新しい情報をも抱え込めるようなものに変更しようと努力するはずである。ところが、カルト集団の中では、もしパラダイムを変更したなら、組織に留まることはできなくなる。従って、カルトの信者は、自分のパラダイムを新しい情報をも含みうるパラダイムに変更しようとは思わない。むしろ、情報そのものが操作されているとして、その情報を拒否する。

<判断基準が狂ってしまう>

 人は自分に賛成してくれる意見を求め、反対意見を軽視する。そのような傾向は誰もがもっているもので、責めることはできない。日常生活では、そのような生き方が許される。というより、そうでなければ生きてはいけない。
 しかし、真理を追及する学問の世界においては、そうであってはならない。学問する人はまず、自分の考えを指示するデータを提示する。次に、その考えに賛成する他の人々の意見をも紹介して、自説を補強する。しかし、それは必要な作業の半分にすぎない。最後に、反対意見のすべてをていねいに紹介し、その一つ一つに真正面から、正確に反論しなければならない。どのような分野の学問であっても、この方法論自体は変わらない。
 ところが、カルトの世界は違う。もともとカルトの信者は、教団の教義が学問的検証を必要とするなどとは考えていない。教祖を信じるので、教祖が思いつきで言ったようなことでも、そのまま権威あるものとして受け止める。それは無批判的である。反対意見を真剣に考慮する、などということとは無縁の世界である。
 しかも、すべては善か悪、敵か見方、神かサタン、と二者択一である。例外的な事例を取り上げて、それにこだわったりはしない。オール・オア・ナッシングの世界である。人々がカルトの世界にひかれ、そこに安心を見いだすのは、明解な論理と迷いなき断定にある。情報が溢れ、問題が複雑になり、すべてのことがファジィーになりつつある現代だからこそ、人々はカルトが説く明解な教えに期待を託すのである。
 このようなカルトの世界に長くいると、思考は単純になり、判断能力は著しく低下する。自分たちに都合の悪い情報は無視する。その結果、自分のパラダイムにますます強い確信をもつようになる。もし、ある情報を突きつけられて言い逃れができない状態に追い込まれるなら、その情報を自分たちのパラダイムに合うように合理的に解釈してしまう。さらに、その弁明に説得力がないと分かるなら、組織の権威を隠れ箕にして開き直る。時には話し相手を攻撃して、問題をすり替える。
 宗教的教義は理性的判断によって決定しうるものではない。それは確かに理性を超えたところにある真理であり、信仰によって飛躍すべき世界である。しかし、それは超理性であっても、反理性ではない。超理性とは、理性で考えても決着がつかない領域のことは理性による判断を中止するということである。それに対し、反理性とは、理性で決めるべき領域のことがらであるにもかかわらず、理性で正しく処理しないことを言う。宗教の教義の世界においても、理性が通じ、理性で判断できる領域は多い。カルト集団は、そのような領域においてさえ、理性的な処理を許さない。
 例えば、ある降神術者が、「キリストの霊が自分に臨んでこう言っている」と述べたとする。ある歴史上の人物の霊が、現代の人間に降って何かを語ることがあるのだろうか。私自身はそのようなことが本当に起こるとは信じていないが、起こるのだと信じること自体を反理性だと考えてはいない。それは超理性の領域のことである。しかし、もしキリストが本当に語ったと言うのであれば、福音書に残されたキリストの言葉と、霊を受けた人の言葉との間に矛盾はないはずである。真実な経験であれば、両者の比較を拒否するどころか、喜んでその検証を申し出るであろう。それは理性の領域の問題で、理性的判断が可能なことである。もしその検証に耐えられないような結果が出るなら、反理性と断定しなければならない。それは眉唾ものである。

<社会から分離する>

 マインド・コントロールによって置き換えられる人格は、その人が本来もっていた人格ではない。後から置き換えられたものである以上、それが維持されるためには、カルト教団によって常にフォローされる必要がある。そうしないと、その人は生来の人格に戻ってしまう危険性をもつからである。カルト教団の指導者は、その事実をよく知っている。信者を外の世界から隔離し、信者のみによる共同体をつくろうとする理由の一つがそこにある。
 あるカルト教団は、すべての信者に、家族を離れ、一定の場所で仲間の信者との共同生活をするよう説いている。他方、そのグループのリーダー的立場の人、あるいは一部の人には共同体生活を義務化しているものの、一般の信者にはそこまでは求めないという教団もある。さらに、物理的な形では共同体を築いていないが、それ以上の強い絆で信者同志を結び、組織に徹底的な献身を誓わせているカルト教団も存在する。
 先日、一人の方が「自分は一人でアパート暮しをしているけれど、生活のすべてが組織中心だった。組織のこと以外に時間を使うということはまったくなかった。考える内容は、組織のことだけだった」と述懐していた。このカルト教団は、共同体を形成してはいないが、信者のメンタリテーは共同体そのものである。集会に出席すること、集会の予習と復習に時間をとること、伝道に励むことなど、すべて組織が要求していることである。彼は12年間の信者生活の中で、一度だけ病気で集会を休んだことがあった。その時彼はメンバーの半数から電話を受けた。こうなると、物理的に共同生活をしている以上に共同体意識をもった生活である。

第四章 マインド・コントロールからの解放


 「マインド・コントロール」とは、その人本来の人格がカルトの人格に置き換えられてしまうことである。それは、「解凍」「変革」「再凍結」というプロセスを踏む。では、一旦マインド・コントロールにかかったら、そこから解放される道はないのだろうか。
 たとえ人格が置き換えられたとしても、その人はやはりその人である。以前の人格が完全に消え去ってしまっているわけではない。置き換えられたというより、上塗りされたと言った方が適切かも知れない。もし、その人がカルトから距離を置くなら、置き換えられた人格の方が風化して、本来の人格が出てくるはずである。カルトの人格は、カルトの世界でのみ通じるものだからである。
 しかし、反対の側面も考えておかねばならない。たとえ上塗りされただけであるように見えても、本来の人格に相当奥深くまで食い込んでいるという事実である。カルトを離脱したある人が、カルトから抜けて何年もたっているのに、カルト時代に植えられた教えや雰囲気を思い出し、恐怖感に襲われることがある、と告白している。あるカルト研究家は「カルト教団で10年生活をしたなら、その後遺症から完全に抜け出るには10年かかる」と言っている。マインド・コントロールは、それほど大きな影響を人々に与えるものである。

<信者は犠牲者>

 カルトの信者は、その教団のマインド・コントロールによる犠牲者である。一人ひとりの信者は、信じる教義に関し、あるいはその言動に関して、大きな制約を教団から受けている。自分で選び、自分の意志で行動しているという側面が全くないわけではないから、個人に責任がないわけではない。しかし、カルト教団は、信者の思考回路をカルト独特のパラダイムに置き換え、外部からの情報を遮断してしまっている。教団の上層部にいけばいくほど、情報も多くなり、命令権も強くなる。従って、加害者的要素は強くなる。にもかかわらず、カルト集団の場合、トップに立つリーダー以外はすべて犠牲者と言ってよい。
 この世にカルト教団が存在する限り、社会はその動向に目を光らせる必要がある。信教の自由を尊重しながら、同時にカルトを監視することは簡単なことではない。だが、それはどうしてもしなければならないことである。国家権力のレベルではなく、市民運動のレベルで。カルトには秘密主義という壁があるので、限界があることも事実である。しかし、市民レベルだからこそできることもたくさんある。否、それをしなければ、ますますカルトをより閉鎖的、破壊的なグループに追いやってしまう。また、単にカルトを監視するだけではなく、カルトの実態を世に知らせ、カルトに警戒するよう社会に啓蒙していく努力もしなければならない。
 さらに、カルトの犠牲者を助け出すということにも真剣に取り組まねばならない。そのことに一番大きな痛みを感じているのは、カルト教団信者のご家族である。彼らの叫びに耳を傾けることが、多くの人にとってカルト問題に取り組む出発点であろう。
 カルト教団の信者を、その教団の間違いに気づかせ、そこから解放する働きに対して、「救出する」(rescue)という言葉を使う。通常、「救出する」という表現は、火事場や戦場など特別危険な状況に置かれている人を助け出す場合に使うのであって、宗教の世界にはあまり馴染まない言葉である。それにも関わらず、このような言葉を使わなければならないのは、カルトから抜け出させる働きが困難で、危険に満ちたものだからである。

<組織から離脱するには>

 ある人がカルト教団に入信したということは、その教団のマインド・コントロールを受けた、ということである。その宗教集団がカルトと言われる限り、マインド・コントロールを受けなければ、その教団の信者にはならない。さらに、その組織の中で生活しようとも思わないはずである。カルト教団とは、それほど異常な世界である。従って、カルトから救出するということは、結局マインド・コントロールから解放するということにつきる。カルト信者と空しい教義論争を繰り返した経験のある人は、誰でもうなずくはずである。
 とはいえ、カルト教団の信者すべてが同じような程度でマインド・コントロールを受けているわけではない。組織べったりの人もいれば、組織から距離を置いている人もいる。きわめて例外的ではあるが、マインド・コントロールはさほどきいておらず、その人本来の人格がそのまま生きている場合もある。そのような人は、カルト教団の中でも、組織の命令に隷属せず、比較的自由に自分の意志で行動している。組織のコントロール下に完全には置かれていないので、信者の仲間から尊敬を受けることはあっても、組織からよく思われることはない。そのような人が何等かの理由で組織外の世界と接触すると、そのカルト教団が抱えている問題、マインド・コントロールのメカニズム、教義の欺瞞性などに気づきはじめる。
 しかし、カルトの欺瞞性に気づくことと、カルト教団から抜け出ることとは別のことである。カルト教団を離脱するには、教義や組織のいくつかの間違いに気づくだけでは不十分で、それを裏づける確かな情報が数多く必要である。カルト教団の信者が組織を離脱するには、その組織が明らかに間違っていること、あるいは意図的な偽瞞によって運営されていることを確信しなければならないからである。ところが、組織がそのような情報を流すことはありえない。自分で組織の昔からの資料を丹念に調べるか、そのような研究をしている外部の人からの助けを得なければならない。だが、組織はその外部の人々をサタンあるいは背教者と呼んでいる。従って、信者にとっては、彼らから入手する情報をそのまま信じるわけにはいかない。組織を信じるのか、それとも外部の人を信じるのか、カルト信者にとって最も難しい決断を迫られる。
 カルト教団を離脱する際には、自分が組織に疑問をもち、信仰を自分自身で検証していることを周囲に知られないようにしなくてはならない。これは、大変神経を使う。私の友人は夜中の3時に起きて、毎朝3時間、組織の勉強をしているふりをして研究し続けた。奥さんも同じカルトの信者だったからである。3年間調べた結果、組織を離脱する決意をしたが、奥さんを説得するのに、それから1年かかった。もし、奥さんを説得できなかったなら、離婚に追いやられただろう、と述懐していた。
 知的に教義の欺瞞性に気づいたとしても、感情がそれについていくには時間を要する。周囲の人々はすばらしい人ばかりだ。こんなよい人々がいる組織を神が顧みられないはずはない。自分も、この教団の中である種の宗教体験をしている。この教団を神が認めていないとすれば、自分が教団の中でしたあの経験は一体何だったのか。この組織を抜けたなら、自分が行くべき組織は他にあるのか。他の組織はもっとおかしなものだ。それなら、少々間違いはあっても、この組織に留まっていた方がよいのではないか。今、自分は忠誠心を試されているのかもしれない。謙遜と従順をテストされているのだとしたら、はやまってはいけない。脱会した人に対する教団の仕打ちは恐ろしい。自分があのように扱われるのだとしたら、耐えられない。それに、もし、この教団が間違っていたのなら、自分が導いた人に対してどう説明したらよいのか、彼らに対する責任はないのか、自分は抜け出ても、まだ同じカルトにいる家族や親戚の人たちはどうなるのか、・・・。
 知的にカルト教団の教えの間違いに気づいてから、それを確信し、不安の感情を整理し、組織を離脱するまでに1〜2年、ときには数年かかる。カルトの組織は、その信者にとって文字どおりすべてだったのである。カルトの否定、それは、今までの自分に対し、死を宣告することに等しい。これまで肯定していたものを否定し、これまで否定してきたものを肯定しなければならない。カルト教団から脱会することは、カルト教団に入信するより何倍も、否、何百倍も勇気がいることなのである。自分のプライドのすべてを捨てなければできない。
 もし、カルト教団から脱会しようとする人がいたなら、ご家族はじめ周囲の方々は、その人を暖かくそのまま迎え入れていただきたい。カルト教団と決別しても、すばらしい人生が送れることを示してあげてほしい。カルト時代の経験は、本人が言い出そうとしない限り、聞き出さない方がよい。もし話しはじめたら、評価を加えず、じっくり時間をとって聞いてあげていただきたい。決して急がないでいただきたい。カルト教団の中で置き換えられてしまったカルトの人格を、今度は自分で「解凍」し、再び本来の自分を取り戻さねばならないのである。カルトの人格を「解凍」するのに役立つ情報を提供していただきたい。本来の自分を取り戻すために役立つことをしていただきたい。旅行を楽しむとか、一般の書物を読むとか、音楽を聞くとか、昔の友人に会うとか、スポーツで汗を流すとか、工作をともにするとか、・・・。

<家族の方々への励まし>

 カルト教団の信者が自分で組織の間違いに気づき、組織を離脱することができれば、それにこしたことはない。しかし、いつでもそうなることを期待できるわけではない。では、信者が自分から抜け出るまで、家族や友人は何もしないで、手をこまねいている以外に方法はないのか。最終的には本人の信仰の自由に属することであるにしても、何とかならないものだろうか、と考えているご家族は非常に多い。
 カルト教団の犠牲者は本人だけではない。そのご家族の痛みもまた、カルト教団がもたらしたものである。昨日私は、カルトのことで悩んでおられる4軒のご家族から電話を受けた。奥様がカルトに入ってしまったために離婚を考えている40才ぐらいの男性。嫁ぎ先でカルト教団に入った娘さんのことで、親族会議の真っ最中に電話をかけてきた60才ぐらいの婦人。27才の息子さんをカルトに奪われたと嘆くお母さん。奥さんと聖書をいっしょに学び続けた結果、最近心を開いて話してくれるようになった、と喜びの知らせをくださった40才になるご主人。
 カルト教団がもたらした悲劇、それは決して小さなものではない。これからますます増えるであろう。もう何年も信仰のことで口論が絶えない夫婦。親戚中が集まって、右往左往している一族。カルトに入ってしまったのは自分のせいだと自責の念にかられている人。あの時もっときつく注意しておけば、カルトに入らなかったのではないかと悔やんでいる人。その宗教団体がカルトであるなどとは夢にも思わず、信仰に励むようしっかり励ましてしまったことを嘆いている人。マインド・コントロールについて無知だったので、迫害に迫害を重ねてしまった人。...本当にいろいろである。
 ご家族の皆さん、自分を責めないでいただきたい。愛する人の救出をあきらめないでいただきたい。家族の方々の愛は必ず届く。道は必ず開かれる。最終的には、肉親の方々の愛しかない。目をあげていただきたい。いっしょに重荷を背負ってくださるカウンセラー、弁護士、精神科医、教育者、宗教家が、あなたのそばにも必ずいるはずである。
 マインド・コントロールによってカルトの新しい人格を植えつけられたとしても、その人本来の人格が完全に消えてしまったわけではない。もとの自分は深く残っているものであり、折あらば吹き出してくる。カルト教団の中では消滅してしまったかのように見えても、決してそうではない。カルト信者になったあなたの大切な人が、現在どんな状況あるとしても、愛し続け、待ち続けていただきたい。カルト教団は決して彼の住まいではない。あなたの家こそ、ご家族こそ、彼の帰るべきところである。門を広く開けて待ってあげていただきたい。

<問題を解決しておく>

 カルト宗教に入った人にはそれなりの理由がある。家族をカルトから救出しようとするなら、はじめにその原因を取り除いておく必要がある。もし、その原因がご家族にあると思われるなら、家族が集まってその問題を話し合うことからはじめなければならない。問題が今でも続いているのであれば、カルトから抜け出させ、家に戻らせることは難しい。たとえ救出に成功したとしても、カルトに戻ってしまう確率は高い。
 カルト宗教への入信の動機が、具体的な問題というより、人生の意味を求め、自分をささげつくすことのできるものを捜すといった宗教的欲求に基づくこともある。その場合には、カルトではない、真の宗教を提供する必要がある。そのためには家族そろって、信頼できる宗教を尋ねることをお勧めする。娘さんがあるカルト教団から救出されることを願って聖書の学びをはじめたお父さんが、聖書を信じてキリスト教に入信した。その方が、「娘が本当に必要としているものがここにあることが分かった」と告白している。そのようなものを提供できるようになるまで、本当は、カルトから救出する準備ができていないのではないだろうか。家族の皆さんが宗教を軽視しているため、そのことだけで、宗教以外の話題であっても、家族の話は聞くに値しないとカルト信者に感じさせてしまっていることは非常に多い。
 伝統的な宗教は、カルト信者とそのご家族に対し、オープンな姿勢をとる必要がある。できる限りそのご要望に応じることができるよう配慮する用意がなければならない。なぜ人々がカルトにひかれたのかを認識し、そのニーズに応える責任がある。むろん、伝統的な教団は大きな制約を背負っている。新しい宗教のように自由ではない。しかし、伝統を自己弁明に利用したり、隠れ箕にしてはならない。宗教が宗教である限り、人々の叫びに応えるべきである。宗教的イリュージョンの世界に逃避してはならない。

<救出の土台づくり>

 マインド・コントロールを受けた人は、カルトの新しい人格に置き換えられている。そのことは日常生活をしている限りほとんど分からない。むしろ周囲の人々からは、すばらしい人格を身につけたと勘違いされることさえある。というのは、新しいカルトの人格は単純、素直、従順、謙遜などをその特色としているからである。ところが、カルト教団の信仰、組織などの話になると、たちまち、カルトの人格のマイナス面が顕わになってくる。
 では、そのようなカルト教団の人々がカルトの間違いに気づくために、どのような接し方をしたらよいのか。カルトの信者をもつ家族の立場に立って共に考えてたいと思う。
 カルト教団は信者に対し、組織の外にいる人々への徹底的な懐疑心を植えつけている。「外部の人たちは真理をもっていないどころか、真理の敵、迫害者である。決して心許してはならない」。そう教わっている。従って、もしカルト信者を救出したければ、私たちが敵でも迫害者でもないことを証詞しなければならない。彼らを心から愛していること、信頼していること、いっしょに人生を送りたいことを伝えなければならない。
 ほとんどのカルト信者は、信仰以外の日常会話で違和感を示すことはない。普通の会話をしている限り、家族をサタン呼ばわりすることもない。だから、ご家族の方は何でもない会話を少しでも多くするよう努力していただきたい。もし、その方がカルトと接触しはじめたばかりであるなら、カルトの危険性をあいまいにしないで、はっきり言う必要がある。しかし、入信してしまってからは、カルトと直接関わりのある話題を持ち出すには、知恵を要する。入信前ならともかく、入信してしまった後は、信者にとって、カルトへの非難はそのまま自分への非難になる。その結果、サタンが家族を背後で操って、自分を迫害しはじめたのだ、と考えるようになる。これでは救出は不可能である。家族をはじめ周囲の人々が、サタンではなく、自分のよき理解者だとカルト信者が認識することこそ、救出の第一歩である。このために、周囲の人々は大きな努力をしなければならない。この土台ができあがらない限り、救出の次のステップに進むことはできない。
 このような土台づくりには忍耐が求められる。あるご主人は、数年にわたってカルト教団から出版されている出版物を学び、さらにそのカルトを批判している書物も研究して、カルトの信者である奥さんとディスカッションを続けている。最近その奥さんは、組織のリーダーが正直に質問に答えようとしないのを見て、組織に不信を募らせつつある。そこまでいくのに、ご主人の努力は並み大抵のものではなかった。
 カルト教団の信者も、もし、話相手が攻撃的な態度をとらなければ、心を開く。だから、人間として心が通い合う会話ができるようになることが先決である。それまでは、教義論争は控えた方がよい。カルト教団の信者にはごまかしは絶対にきかない。カルトの信者は、あなたが彼らの組織の人たち以上に真理を求め、真理を愛し、真理に生きているのを見るまでは、信仰のことで耳を傾けようとはしないであろう。その場合、あなたが相手にしているのは、目の前にいる一人の信者ではなく、そのカルトのリーダーである。
 カルト教団を甘く見てはいけない。カルトのリーダーたちは、現代人が直面している問題や人間の心理をつぶさに研究している。人間関係を築くという点で、教義の知識という点で、組織を形成する能力の点で、彼らはプロ中のプロである。だから、カルト集団から信者を救出することは、難しい手術を手掛けるのと同じである。生半可な気持ちで取り組むぐらいなら、はじめから手をつけない方がよい。

<考える人になるように>

 カルト教団のことをよく知らない人は、カルトの教義や組織の間違いを指摘すれば、その信者は組織を離脱するはずだ、と考える。それは全くの勘違いで、甘いと言わざるを得ない。信者は間違いを指摘されると、防御本能が働く。それ以降何を聞いたとしても、実際には何も心に入っていかない。それはカルトの信者に限らず、人間誰にでも起こる現象である。従って、本当の信頼関係を確立するまでは、教義についての会話をはじめてはならない。
 救出活動は、説得からスタートするのではない。カルト信者を愛することからはじまる。ご家族の方が、そのカルト宗教によって自分の生活が乱されて困るとか、世間体が悪いとか、自分は嫌いだ、という動機から救出したいのであれば救出は成功しない。むしろ、カルトに入信したその人自身が、本当にすばらしい人生を送ってほしい、という純粋な愛からはじめる場合のみ、救出は可能である。
 救出とは、カルト教団の教えの間違いに気づかせ、そこから解放することではない。そう考える限り平行線の議論が続き、不毛な結果に失望する。そうではなく、救出の鍵は、信者の心にかけられたマインド・コントロールを解くことにある。カルトの人格に置き換えられてしまったとは、考えることを放棄した人間になってしまった、ということである。従って、マインド・コントロールを解くとは、自分で考える人間になっていただく、ということに等しい。
 では、考える人間になっていただくにはどうすればよいのか。まず、カルトの信者が話すことをよく聞くことである。そして、的確な質問をすることである。すぐに答えることができるような、簡単な質問からはじめていただきたい。自分がカルトについてよそで学んだことを披瀝してはならない。決して教えようとしてはならない。人間の一番の罪深い性質は、他人を教えたいと思うことにある。どうしてこんなことが分からないのだ、そんなことは常識ではないか、誰がどう考えたっておかしい、というような言葉は皆禁句である。カルトの人間にとって、常識は何の価値もなく、サタンが惑わせているものにすぎない。だから、そんなことは常識だよと言えば、悪魔の側に立った人々はそう考えているのだ、と理解するだけである。

<効果的な質問を>

 話し合いがはじまったら、どんな場合にも腹を立ててはいけない。腹を立てたら、それだけで負けである。最初はその人自身に関心をもっていることを示すため、その人に関わることを取り上げるのがよい。相手のペースに合わせ、ゆっくり、こんな質問からはじめてみてはどうだろう。
  どうしてカルト集団に入ったのか?
  カルト集団で得られたものは何か?
  カルト集団のすばらしいところは何か?
  カルト集団にあって、世間一般にないものは何か?
  今どんなことを感じているか?
  カルトの教えの中で、どんなところに一番感動したか?
 どんな答が返ってきても、否定的なレスポンスをしてはいけない。その考えに賛成できなくても、ゆっくり聞いて、その人自身を受け止めていただきたい。実は、カルトの仲間には、その人をそのまま受け止めるような愛は存在しない。カルト教団は、その組織に役立つ人間を求めているだけである。従って、カルトの信者は組織の中で、心安らぐ友を見いだすことはできない。ご家族をはじめ周囲の人々は、テクニックではなく、本当の愛を示していただきたい。
 もし、カルトが教えている教義について話し合えるようになったら、次のような質問を繰り返してみるとよい。
  この点について、組織はどう教えているのか?
  これまで組織はそれについて一貫してそのように教えてきたか?
  教えを変えたとしたらなぜだろうか?
  組織の教えに対してあなたはどう思うか?
  組織が教えていることで、何かおかしいと思うことはないか?
  一般の人が組織のそのような教えを聞いたとき、変に思うことはないだろうか?
  一般の人が変に思うのはどうしてだろうか?
  その点に関し、他の解釈をすることは可能だろうか?
  別の解釈を示し、それに対してどう思うか?
 カルト教団の信者と話をするときは、時間を気にしてはいけない。私は一般の人をカウンセリングするときは、1時間半までと決めている。相手のためにはむろん、自分のためにもその方がよい。スタッフ同志では3分間ですませるように訓練している。しかし、カルト教団の信者と話すときは別である。昨日も、一人のカルト教団の指導者が来訪された。朝の10時にはじまり、夜の9時まで話が続いた。昼食もほとんどとらず、夕食も忘れて、何と11時間である。しかもその方は、帰り際に満面笑みを浮かべながら、「今日は本当にすばらしい、目が開かれた一日でした。何だか1時間ぐらいしかお話しなかったように感じます」と言って帰られた。私はすぐ床につくことができたが、彼は家に着くまで4時間車を走らせなければならない。このようなことは、そのカルト教団の信者である場合、例外ではない。

<カルトの集団から切り離す>

 カルト信者との対話ができるようになったら、できるだけその人をカルト集団から切り離す努力をすることである。というのは、カルト集団に戻ると、せっかく解けはじめたマインド・コントロールもすぐ復元してしまうからである。だから、対話が成り立ち、本人が考えはじめるようになったら、できるだけカルトの仲間から離していただきたい。本来の自分がとり戻せるような環境を設定していただきたい。
 食事をともにするとか、買物や旅行に行くとか、楽しい行事を計画するなどして、人間としてごく当り前の感情を取り戻させなければならない。テレビも、ニュースや教養番組なら、それほど抵抗感を示さないであろう。ともに見ながら、常識的なものの見方を自然に分かちあうことである。絵を描いたり、音楽会に行ったり、趣味のサークルに参加させてみることも一案である。カルトよりすばらしい家族や友がカルトの外にいることを知らせていただきたい。本人の意志を尊重してではあるが、キリスト教の教会などに連れて行くのもすばらしい。カルト以外の世界にも、カルトにまさる人間のすばらしい交わりがあることを知らせなければならない。もしカルトから救出されても、本当に自分が生かされ、喜びを味わう仲間を見い出せなければ、またカルトに帰ってしまう恐れがある。頭で教義の間違いを理解しても、心がカルトの雰囲気を渇望するからである。

<専門家への依頼>

 救出の過程で、家族が本人を保護し、専門家に救出を依頼するという方法を取った方がよい場合も少なくない。いわゆる「脱洗脳(デプログラミング)」である。この救出方法を詳しく紹介することは控えねばならない。ただ、キリスト教系のカルトに対しては、そのカルトから脱会した人とキリスト教会の牧師たちが中心になって、真剣に取り組んでいる。私もその内の何人かとは親しくさせていただいているが、ただただ頭が下がる思いである。
 この方法には、問題がまったくないわけではない。家族が払う犠牲も大きいので、誰にでも勧めるわけにはいかない。しかし、あるカルト教団の信者と話していると、結局この手段による以外方法がないのではないか、と思わされることがしばしばである。カルトからの救出、これは緊急事態である。超法規的措置が求められる。事例があまりに多く、恒常的であるので、緊急とか、超法規的という言葉はふさわしくないかもしれない。でも、カルトからの救出を真剣に考えるなら、そのような言葉を使わざるをえない。家族が一致してこのデプログラミングに取り組むなら、カルト信者を組織から解放できる確率はかなり高い。
 アメリカなどには、「カルト集団からの脱会を助けるカウンセラー」という専門家がたくさんいる。残念ながら、日本でこのような働きを進めている人はまだ少ない。しかし日本でも今後、この種の専門家がたくさん出てくるであろう。いろいろなカルト集団を離脱した人たちが増えており、かつての仲間に対して重荷を負って立ち上がる人々も起こされつつある。日本のキリスト教会もそのような働き人を育てることに目覚めはじめた。期待していこう。

<組織の矛盾を示す>

 カルトの信者が、所属するグループの間違いを調べてみようという気になれば、その人がカルトから解放される日は遠くない。教団の教えを組織が説くのとは違った角度から見直す必要があると思いはじめるなら、マインド・コントロールは音をたてて崩れていく。もし組織以外の人の話を聞く姿勢を示したなら、チャンスである。ぜひそのカルト教団のことをよく知っている人のところに連れて行っていただきたい。もし、カルト教団を離脱する気持ちが読み取ることができるなら、そのカルトの専門家の援助を願う方がよい。彼らはそのカルト教団の間違いやウイーク・ポイントをよく理解しているだけではない。脱会しようとする信者の不安や迷いを暖かく包むことができる。脱会者に対するカルト教団側の対応もよく知っているので、効果的な脱会手続きの方法も教えてくれる。どのようなことが起こっても、彼らは専門家として対処してくれる。
 カルト信者が教団から離脱するには、大きな決断をしなければならない。その決断を決定的なものにするためには、組織がもっている矛盾点、教義上間違っている点を言い逃れができないように追い詰めていく。しかしその場合、一般的常識や客観的事実と照らし合わせながら話しても効果がない。カルトの信者は、組織内の出版物しか信じない。従って、組織が出版している書籍等の中から、互いに矛盾する点を考えさせる、という方法しか残されていない。それも偶然起こった矛盾ではなく、組織が意図的にごまかしていることを明らかにしなければならない。組織の欺瞞性を明らかにすることがポイントである。通常、カルトの信者は、教義の矛盾を指摘されても、組織が教える奇妙な詭弁で答えてくる。マインド・コントロールがきいている限り、それは続く。しかし、もし組織が信者を意図的に欺いていることが本当に分るなら、マインド・コントロールは氷解する。そうすれば、脱会の決断もできる。

<脱会の決断をしてから>

 カルト集団の信者は、別の世界観、別の価値観、別の思考様式の中で生きてきた人たちである。カルト教団の間違いに気づいたからといって、すぐに一般的、常識的な人間になるわけではない。周囲の人々は引き続き、暖かい心をもってフォローし続けなければならない。時間がかかることを忘れてはならない。完全な回復には、その人がカルトに関わっていた年数と同じだけの年数がかかると考えていただきたい。
 多くのカルト集団は、組織から離脱した人に報復する。ある教団は、その人を組織に連れ戻そうとしたり、肉体に危害を加えようとする。他の教団は、一切の交際を遮断し、精神的に苦痛を味わわせる。その扱いは、脱会した人がカルト教団の中で占めていた位置によって違う。組織にとってダメージが大きい人物であればあるほど、報復は厳しくなる。
 脱会した人が受ける苦痛は、カルト教団からの報復だけではない。マインド・コントロールの後遺症もまた強力である。カルト信仰の間違いに気づき、生来の自分を取り戻すには、多くの葛藤を経験する。植えつけられた教義は、絶えず脳裏によみがえってくる。新しいパラダイムが確立されるまでは、さまざまな新しい情報と古いパラダイムの間で不協和音を起こし続ける。それはごく自然なことである。そのような状況を見て、周囲の人々は、彼はまだカルトから抜け出ていないのではないのか、と心配するのはよくない。自然の感情が増えれば増えるほど、カルト集団に戻ることはできなくなる。カルト教団に戻るのではないか(フラッシュ・バックという)と周囲の人々が心配しているのが脱会者に伝わると、脱会者は気持ちのやり場がなくなる。カルトに戻ることなどもうありえない、そう信頼することだ。
 カルト集団を脱会した人は、宗教に対して次の3つのパターンのどれかを選ぶ。
  @すべての宗教に嫌気がさして、無宗教になる。
  A教義は正しいのだが、それを説いた組織が間違っていたと考え、その信仰の本来あるべき姿を求めようとする。
  Bそのカルトとは異なるより本物の信仰を求め、他の宗教を捜す。
 これらいずれのケースを選ぶかは、カルト集団の中での本人の宗教経験、組織から離脱するときの本人の状態、離脱を助けた周囲の人々の姿勢などによって違ってくる。いずれにしても、周囲の人々は自分の考えや宗教を押しつけるべきではない。本人の希望、判断を尊重すべきである。進路選択をすぐできる人と、時間を要する人とがいる。その人のペースに合わせる以外にない。どんなことがあっても、カルトからカルトに渡り歩く人(カルト・ジプシーという)をつくってはならない。

<リハビリが大切である>

 カルト集団に身を置いた人は、自分のすべてをそこにかけてきた人である。カルトに入信するとき、職業も、財産も、友人も、それまで築いてきたすべてのものを捨てている。カルトから出る場合もまた、再び一からやり直さねばならない。昨年10月、私は、あるカルト教団に50年間生活した方とお会いした。彼は淡々と次のような話をしてくれた。「私は、4か月前に、教団を脱会する決心をしました。このままその教団に留まっていれば、死ぬまで衣食住には不自由なく、それなりの生活ができるのに、と何度も考えました。でも、数年間の調査の結果、組織が偽りを教えていることが分かった以上、そのまま組織に留まることはできませんでした。私の良心が許さないのです。これからの人生がどのようになるのか、今の私には、まったく分かりません。ただ神にお委せすることにしました。私としては、本当の神に、誠実にお仕えしていきたいと願っています。」
 カルト教団から脱会する人に対し、とりあえずの生活ができるよう配慮しなければならないこともある。住居、食物、衣服、当面の生活費などである。カルト集団から離脱した人たちは、ほとんど無一物である。彼らは今日生きるための糧を必要とする。ご家族に理解がある場合はよいが、恵まれたケースばかりではない。カルト信者の救出に関わる者は、そのような点で惜しむことがあってはならない。
 脱会者が何よりも必要としているのは、心から話し合える友である。彼らが発する疑問には、誠実に答えてあげなければならない。すぐ答えられなければ、調べる努力を惜しんではならない。ときに、なぜそのような問題にこだわるのか分からないこともあるだろう。繰り返し同じ質問をするかもしれない。自分にだけではなく、他の人にも同じような質問をするだろう。そのようなとき、自分を信用していないのか、私の答のどこが不満なのだ、などと腹を立ててはいけない。同じ質問をいろいろな人にし、多くの人から同じ答えが返ってくることを期待している。それはカルトの思考回路の特色である。
 カルトの離脱者は、自分より先にそのカルトを出た人に会うと大変勇気づけられる。かつての仲間たちとの分かちあいは、心の奥底に刻まれたカルトの傷をいやす。組織を離脱する前後は、恐怖感、不安感で一杯である。自分と同じような体験をした人の話を何度も何度も聞きながら、自分の行動が間違っていなかったことを確かめようとする。
 カルト集団を離脱した人は、さまざまな恐れや不安に襲われる。また、組織に戻りたくなるという感情に襲われることもあるかもしれない。かつての友のことが気になるのも自然である。感情はあまりいじらない方がよい。時間が解決することも多い。むしろ、植えつけられた教義の一つ一つを正しい考えに置き換えていく作業が必要である。カルトのパラダイムを新しいパラダイムに変えてしまうのである。それ以降の人生が中途半端にならないために、この新しいパラダイムづくりに時間をかけることを惜しんではならない。カルトの信者が脱会すると、家族は、これまでさんざん周囲に迷惑をかけてきたのだから、今度は早く恩返しをしなさい、と社会復帰を強く勧めたくなるであろう。あわてないでいただきたい。カルトのマインド・コントロールをそれほど甘くはない。リハビリには十分な時間を取らねばならない。
 家族の人や周囲の人々だけでは、脱会者を十分にリハビリすることはできない。いろいろな手段を捜してほしい。どこかにカルト教団から離脱した人々の定期的な集まりがあるだろう。同じカルトの元メンバーが集まって、そのカルトの教義を新たな角度から学び直している人たちもいる。かつての仲間を救出しようと考えている人たちもいるはずだ。カルトの脱会者たちのために書物を用意したり、高度な講座を開いている人たちもいるだろう。被害者の家族会などのようなものもあるはずである。家族の方々は、そのような所に積極的に出ていくよう励ましていただきたい。脱会して家族は喜んでいるのだが、本人は今一つ、という場合もないわけではない。脱会しただけでは振り出しに戻っただけである。新たな目標に向かってすばらしい人生を歩み直す希望を与えていただきたい。

<かつての仲間に>

 カルト教団の偽瞞性を確信して組織を離脱した人は、かつての教団にどのような態度をとるのだろうか。大きく分ければ次の三つが考えられる。
  @そのカルトの欺瞞性に嫌気がさし、すべてを忘れようとする。
  Aそのカルトの欺瞞性を赦すことができず、そこで失ったものを数え、憎しみをもち続ける。
  Bそのカルトの欺瞞性を赦し、今でもそこに留まっている人々が犠牲者であると認識し、救出活動を展開する。
 私が知る限り、組織を離脱した人は、一般の人より、組織に対して厳しい態度をとる。彼らが、すべての財、才能、時間、人生をそのカルトにささげてきたことを思えば当然のことである。彼らは、そのすべてを欺かれた犠牲者である。彼らは入信するとき、一切のものを捨てた。そしてそのカルトから抜け出すにあたって、再び、カルト内で得たすべてのものを捨てた。だまされたとはいえ、自分で入信した以上、他の誰かを責めるわけにはいかない。彼らは怒りをぶつけるところがないのである。周囲はその悔しさを分かってあげなければならない。
 もし、離脱者たちが集まって、かつての仲間のことを悪く言ったり、組織で起こったことの不満をもらすようなことがあったなら、暖かく見守ることだ。彼らは、そのようにすることによって、自分の歩みを整理している。カルト時代の生活は本当に窮屈で、規制されたものである。そこで蓄積された不満は組織を出てから日に日に大きくなる。一度は全部吐き出させた方がよい。それも仲間同志が一番よい。お互いを理解し合えるからだ。カルトの離脱者が、本音で話すことはできる友は、同じ痛みを経験しているかつての仲間なのである。
 カルト外の人が、カルト教団を離脱した人に、カルトの悪口を言うことは慎重にした方がよい。もし批判すれば、元信者を傷つけるだけである。憎しみと恨みを増幅させても、何一つ益はない。むしろ、カルトの経験をプラスに働かせることができないか、アドバイスした方がよい。彼らは一般の人がなしえない経験を味わった人々である。もしそれを生かすことができると分かれば、カルトの経験も無駄ではなかったと励まされるであろう。
 中でもすばらしいことは、かつての仲間の救出に役立てることである。自分は解放されたとしても、それまで共に生活してきた友の多くは、未だ組織の中で奴隷状態にあるのだ。そこでの経験をもっている人は誰よりもそのことに痛みを感じるはずである。だれかがカルトの内部の人々に、「本当の情報」を知らせなければならない。中には、疑いをもって情報を求めている人もいるはずである。一歩先に情報を手にした離脱者こそ、彼らを助けることができる人である。さらに、何も知らない一般の人々にカルトの怖ろしさを警告することは、カルト経験者の義務だと言ってよい。その恐ろしさを本当に語れるのは、カルト集団の離脱者だけである。それは、かつての仲間を裏切ることではない。むしろ社会を本当に愛しているからこそ出てくる行動である。

<おわりに>

 今、日本の社会はカルト教団の実態に目ざめ、正しい対応をはじめなければならない。もしこれまでどおり、無関心を装い続けるなら、やがてカルトから大きなしっぺ返しが来るだろう。その時では遅すぎる。オウムのような重大事件を経験しながら、ここから何も学ばないとすれば、それこそ社会全体が病んでいると言わなければならない。
 まず、カルト集団をはびこらせないことである。カルトの信者を組織から救済することは容易ではない。それより重要なことは、人々がカルトに入ることを防ぐことである。一人一人がカルトの実態を知り、カルトから身を守ることである。カルト的な宗教教団を厳しく監視することは、信教の自由を軽視することではない。
 このために、各家庭が果たすべき責任は大きい。宗教を危険視し、子どもたちに宗教団体から遠ざかるよう教えるだけでは不十分である。人々が宗教に求めていることは、人間にとって根源的なものである。体系的世界観の欲求、本当の自己の発見、生涯をかけても惜しくないもの、人生の目的、...こういった問題に親が取り組まなければ、子どもたちがカルトに走るのを食い止めることはできない。子どもをカルトから守りたければ、親が自らの宗教的認識を変革する必要がある。
 カルト問題は、教育の世界にも大きな変革を求めている。実利主義、多元主義、相対主義、唯物主義、科学主義といった言葉でくくられてしまう現代の学問の在り方に、改めて根本的なメスを入れなければならない。真理を探求すること、批判的精神を養うことこそ、学問本来の目標である。元日本哲学会会長の沢田允重教授が「今日の教育の最大の問題は、考える人間を育てようとしないことにある。高校教育で、倫理社会という科目を設けたとき、暗記の科目としての倫理を教えることになってしまった。本来そこでは、考える人を育てるために、哲学を教えるべきだった」と述べている。オウム問題にからめての発言であるが、師が30年前、教室で学生に同じことを講じておられたことを思い出す。
 カルト問題を起こさせた責任のかなりの部分は、既成の宗教界が負うべきである。確かに、現代の若者がいつでも正しい宗教的関心や欲求をもって、宗教に近づいているわけではない。しかし、それらを正し、あるべき方向に整え、その底辺に流れている根源的な叫びに誠実に応えていく責任が宗教界にはある。カルトが応えようとした彼らのニーズを既成の宗教が受け止めない限り、カルトはなくならない。カルト宗教の台頭は、既成宗教に対する厳しい告発に他ならない。



          
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