「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の神学的問題点

1997年4月23日

長田 栄一

目次

序文

第1章 聖書論                  

第2章 神論

第1節 神の属性

第2節 三位一体論

第3節 神の名

第3章 天使論

第4章 キリスト論

第1節 先在のキリスト

第2節 キリストの受肉

第3節 キリストの贖罪

第4節 キリストの復活

第5節 キリストの着座

第5章 人間論

第1節 人間の起源と構成

第2節 人間の堕落と罪

第3節 罪の結果

第6章 終末論

第1節 偏った終末論

(1)「神の(王)国」

(2)「終わりの日」

(3)「世の終り(事物の体制の終結)」

第2節 キリストの再臨のあり方とその時期

(1)キリスト再臨は目に見えるか

(2)1914年の臨在開始

第3節 ハルマゲドン

第4節 死者の復活

第5節 裁き

第7章 救済論

第1節 「救い」の内容

(1)2種類の「救い」

(2)「救い」とは?

第2節 「救われる」方法

第8章 教会論

第1節 二層構造を持った教会

第2節 複数の教会組織の可能性

第3節 自組織の絶対化と他組織の全面否定


序文

 『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』という書物は、1982年、ものみの塔聖書冊子協会から発行された。(以下、『楽園』と略称する。)このレポートは、聖書を神の言葉として信じる福音主義信仰の立場から、『楽園』の内容を伝統的キリスト教教理の枠組みに照らし合わせることによって、その教理内容を体系的に理解しようとしたものである。特に聖書の正しい理解から見て逸脱していると思われる点に焦点を当てているが、分野によっては(三位一体の教理など)伝統的教理の弁証が既にかなりなされている分野もあり、そこでは弁証的な記述をかなり省略している。どちらかと言えば、『楽園』の教理の理解・把握に重点を置いている。

エホバの証人問題の対策に取り組んできた「新世界訳研究会」がインターネット・ホームページに記すところによると、『楽園』については次のようにコメントされている。

「『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』(1982年)

ものみの塔信仰の入門書ともいうべき書。現在までに7,200万部以上が配布されているという。エホバの証人が家庭を訪問する目的は、本書をともに学ぶ研究生を見いだすことにある。この書物を用いて、半年ぐらい研究生を教えるなら、ものみの塔の信仰の枠組を研究生の頭の中につくることができる。そうすれば、研究生は、エホバの証人の信仰のマインド・コントロールの中に入り、ものみの塔という組織こそ聖書を正しく解釈しているグループだと錯覚を起こすようになる。(中略)エホバの証人は、1983年に書籍研究のテキストとして学んでいる。」(注1

また、同じくホームページ「エホバの証人伝道のための『ガイドブック』」(注2)によると、次のように紹介、説明されている。

「[あなたは地上の楽園で永遠に生きられます(通称、楽園)]

15年間、家庭聖書研究で使っていました。しかし、1995年11月のハルマゲドンの教理の変更で、使えなくなりました。この本の154ページに「1914年の出来事を見た人が生きている間にハルマゲドンが来る。」とあるからです。昨年から、家庭聖書研究で学ぶ本は「知識」に変更しました。

[知 識]

家庭聖書研究で最初に学ぶ本で、エホバの証人の基本教理が全て入っています。

 楽園は、反キリスト教のカラーを強く出していましたが、知識はキリスト教の装いがさらにたくみになっています。しかし、教理が変ったわけではありませんので、知識を中心にして対話するには、細心の注意が必要です。」

つい最近までの15年間、家庭聖書研究で学ばれてきたのが『楽園』であることが分かる。それは、とりもなおさず、ここ15年ほどの間にエホバの証人になった人は、この書籍によって学んだ人が多いということでもあろう。従って、エホバの証人に対する対策の働きにおいて、今後は次第に『知識』の研究が重要となってくるものの、なおしばらくは、この『楽園』の内容を把握しておくことが大切だということができるのではないだろうか。この拙いレポートが、エホバの証人問題への取り組みにわずかなりとも貢献するところがあれば感謝である。

なお、使用した『楽園』は、1993年に入手した日本文のものである。1994年まで研究生として学んでおられたある方が使用していたものでは、178〜180頁の修正されたものが張りつけられていたが、この個所については、終末論の章で取り上げた。

 『楽園』各章の構成は、タイトルなしの導入部に続いて、数項目に分かれた本論部が続いている。それらの項目には数字が付けられていないが、便宜上導入部を第0項、続いての項を第1項、第2項……と数えることにする。また、各章毎に、段落に数字が付けられている。これは、項目に関わらず、章の初めから通し番号でつけられているが、本レポートでは各項目ごとに段落数を数え直すことにする。(参照段落が各項目の中でどの位に位置するものであるかを見当つけやすくするため。)例えば、導入部に2段落あれば、第1項の最初の段落には「3」の数字が付けられているが、本レポ−トではこの例の場合、この段落を第1項第1段落と呼ぶことにする。


第1章 聖書論

                           

 『楽園』の教えの中で、正統的教理の骨組みを大方維持している唯一の分野と言ってもよい。その他の分野でも、部分的には正統的教理が保持されているところがあるが、いずれも致命的な点で聖書の真理から離れている。従って、エホバの証人との対話において共通の土台が得られる貴重な分野であると言えよう。

 『楽園』においては、主に第5章が聖書論に当てられている。その章のタイトル「聖書は本当に神から与えられたものですか」が示すように、この章の主要な主張は、聖書が神の言葉であることである。その根拠として挙げられているのは、神のご性質からして神が一冊の本を通してご自身についての情報を与えることは期待できること(第0項)、聖書の不滅性(第1項)、聖書の統一性(第2項)、聖書の預言が成就していること(第5項第7、8段落)である。それに加えて、現在聖書本文と考えられているものが実質的には原典と同じであること(第4項)、歴史的にも科学的にも正確な内容であること(第5項第1〜6段落)が記されており、聖書翻訳の必要性にも触れられている(第3項)。いずれも正統的聖書論からみて問題はない。

このように教理入門書としての『楽園』に記されているところでは、正統的聖書論の骨組みを維持していると言うことができる。但し、実際的な面ではかなり重要になってくる問題点がある。それは、翻訳聖書として『新世界訳聖書』を使用している点である。

 興味深いことであるが、第3項第4段落に、ヨハネ第一5章7節が古い写本には含まれていないが、欽定訳聖書では三位一体の教理を支持するこの節を含めていることを指摘している。この指摘自体は正確ではあるが、当然のことながら『新世界訳』が三位一体を否定する自らの教理に合わせて不当な翻訳をしている点については触れられていない。ただ、『新世界訳聖書』の問題点については種々の研究がなされているようだし、本レポ−トの範囲を逸脱するので、これ以上は触れないことにする。(注3

 更に、厳密なことを言えば、第2項「聖書が書かれた方法」で採用されている譬えは、機械霊感説に当たるもので、正しい聖書霊感説(動力霊感説)とは異なる点も指摘しておきたい。


第2章 神論

 この分野では、聖書的神観に一致している部分もあるが、多くの重要な点で聖書の教えをゆがめている。主として『楽園』第4章「神とはだれですか」にその神論が展開されている。

たとえば、『楽園』第4章第1項「神は実在する」では、一種の神の存在証明がなされている。ヘブル3:4などを引用しながら、宇宙論的論証と呼ばれる方法で神の存在を主張するものである。これは伝統的に用いられてきた論証の方法の中でも最も有名なものである(注4)。このように、創造者としての神の存在を主張していることは、聖書的教理に一致している。

しかしながら、第4章のあとの記述は、聖書的神論から逸脱している部分が多い。三つの分野に分けて調べてみたい。

第1節 神の属性

 第4章第2項「神は実在者?」及び第3項「神の特質」で神の属性に関わることが論ぜられている。第3項では主に神が愛なる方であることを論じている。従ってこの項はほぼ問題がない。問題は第2項である。ここでは、神が「実在者」であることが論ぜられているが、その存在の仕方についての理解は正統的神学とは異なっている。

 論述の出発点で、神は「霊者」であると言われる(第1段落)。そして、「霊者」は「霊の体」を持つと言われている。続いて「神は、霊の体を持つ実在者ですから、住む場所もお持ちであるに違いありません。」(第2段落)として、「天」こそが神の住まわれる定まった場所だと述べる。このようにして、神の遍在性が否定されている。そして、第3、4段落で、神が宇宙のあらゆる場所でその力を働かせて活動することができるのは「目に見えない神の活動力である聖霊」によってであると述べる。父なる神と聖霊との間にある種の役割分担が考えられているようである。

 混乱した考え方が錯綜しており、これらを解きほぐすことは一見困難であるが、次の二点だけでも指摘しておくことは有益であろう。第一に、神が霊であるとは言われていても、「霊の体」を持つとは聖書のどこにも言われていない。第二に、神が天に住まわれることは確かであるが、それが神の偏在性を否定するものではないことは、列王上8:27、使徒行伝17:27、28などから明らかである。

神の偉大さを認めているようではあるが、聖書に啓示されているほどの偉大さを『楽園』は考えていない。彼らの「神」はあくまでも天の限られた空間に存在する存在に過ぎない。同時に、彼らの神観では、近くにいて下さる神、共にいて下さる神(詩篇139:5、7〜10、マタイ1:23など)ということは考えられないであろう。

第2節 三位一体論

 『楽園』第4章第4項は、三位一体論を真向から否定するために記されている。この点については、「あなたは三位一体を信ずるべきですか」というような31頁にわたるパンフレットが作られているほどで、伝統的教会を攻撃する際の主眼点になっている。『楽園』第4章に見られる主な論点は、(1)聖書には「三位一体」という語は出てこない。(2)イエスは(父なる)神と区別されているからイエスは神ではない。(3)聖霊は人格ではない、(4)古代エジプトやバビロンでは、神々が三神一組で崇拝されていた。三位一体論はこれと同じ。

 (2)と(4)の論点は明らかに三位一体論を誤って理解したものである。すなわち、(2)の議論は、三位一体の教理が三つの位格の独立性を主張するものであることを理解していない。(4)の議論は、三位一体の教理が三神論ではないことを理解していない。また、(1)は消極的論法に過ぎず、(3)の論点で指摘されている論拠は全く論拠になっていない。(人格的なもので満たされるわけがない、など。)

この点についても分かりやすく説明された本がいくつか出版されている(注5)ので、本レポートではこれ位にとどめておく。

第3節 神の名

 この点も、エホバの証人が伝統的教会を攻撃する際の主眼点のひとつである。「エホバ」という神のみ名を用いなければならないのに、多くの教会ではそれを用いていないというのである。

しかし、神聖四文字の正しい発音は「エホバ」ではなくて、恐らく「ヤ−ウェ」と発音されていたであろうことはよく知られた事実である(注6)。それ以上に本質的な問題は、神のみ名を用いるべきであることの根拠として引照されている聖句の解釈であろう。マタイ6:9、ヨハネ17:6、26の「名」は、呼び名のことではなく、そのものの人格、本質を表すものである。問題は、神ご自身を知り、敬い、神ご自身を世に証することであって、神の名称としてどのような名称を用いるかということではない。


第3章 天使論

 『楽園』においてかなりの紙数を費やして記しているのが、悪魔と悪霊に関することである。関心は主にその起源に集中しているようである。第2章「永遠の命の敵」では悪魔の起源とその働き、第10章「邪悪な霊たちは強力です」では、悪霊の起源とその働き、第11章「神はなぜ悪の存在を許しましたか」第12章「あなたは重大な論争に関係しています」では、悪魔をはじめ、悪の存在を神が許している理由について記している。

 悪魔や悪霊が神によって直接創造されたものではなく、天使が堕落した存在であるとの主張は伝統的神学に一致するところである。しかしながら、問題点がないわけではない。主に次の二点にまとめられよう。

 第一は、聖書の啓示から先に進みすぎていること。聖書では明らかにされていない多くの点について、あまりにも安易な推論によって多くの主張を展開している。悪魔や悪霊の堕落の時期については、聖書には明らかな啓示がなされていないにも関わらず、『楽園』では、その時期を特定している。悪魔についてはエデンの園でエバを誘惑した時点、悪霊については、ノアの洪水の直前に堕落したとされる。また、悪魔が神によってその存在を許されている理由について、二つの論争に解決を与えるためとされているが、これも聖書の啓示から先に進みすぎている。

 第二には、救済論との関わりにおいて、悪魔に焦点が当てられすぎていることが挙げられる。『楽園』第2章で悪魔について記されていることからも分かるように、『楽園』の示す救済論において悪魔の占める位置は大きい。このこと自体は単に強調の度合いの問題であるように見られるかもしれないが、その裏面として、人間の罪の問題があまりにも軽く扱われる点に目を向けるならば、これは本質的な問題であると言えよう。


第4章 キリスト論

 『楽園』では、正統的神学とは相いれないキリスト論が展開されている。キリスト論は神学の要であるから、この分野で異端的であるということは、『楽園』の教え全体が異端的であることを物語っている。三位一体論については、既に述べたので、時間的経過に従ってキリストを説明している『楽園』第6章「イエス・キリスト−神から遣わされた方ですか」及び第17章「キリストの再来―どのように見えますか」の問題点を指摘したい。

第1節 先在のキリスト

 受肉前のキリストについて記している第6章第1項「イエスは前から生きていた」は、『楽園』のキリスト論がアリウス主義的であることを明瞭に示している。第2段落「イエスは人間として地上で生まれる以前は、強力な霊者として天におられたのです。」「イエスは、天で高い地位にあったことを……」第3段落「これは、イエスが天で神の他の霊の子たちすべてに先立って創造されたということ、また神によって直接に創造されたのはイエスだけであったということを意味します。」すなわち、「神の言葉」「神の独り子」「神の初子」と呼ばれはするが、その意味は、神のスポ−クスマンであり、神によって最初に造られた存在、神とともに他のすべてのものを創造し、「計り知れないほど長い年月の間、ご自分の父とおられた」(第3項)が、神ご自身ではなく、創造されるまでは存在しなかった。

この点についての伝統的教理の弁証も既刊書で十分なされているので、本レポートでは省略する(注7)。

第2節 キリストの受肉

 第6章第1項第1段落「エホバが、強力な霊であるみ子の命を、天から処女マリヤの胎に移されたのです。」同第2段落「イエスは人間として地上に生まれる以前は、強力な霊者として天におられたのです。」という記述から、キリストの受肉に対する考え方を知ることができる。すなわち、「強力な霊者→人間」という図式である。神であるお方が、「神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、……人間の姿になられた」という、神の捨て身のみわざが、異質なものに歪められている。

キリストの受肉に関してはよく神人二性の結合の仕方についての論議がなされるが、神が人となったとは考えないので、当然そのような論議は問題にさえなっていない。

第3節 キリストの贖罪

 「イエスが地に来られた一つの大切な理由は、私たちのために死ぬことでした。」(第6章第3項)とあるのは正しいが、「一つの大切な理由」とのみ言って、「最大の理由」と言わないことは、『楽園』の贖罪観の決定的欠陥を示唆するものである。

 第6章第4項「イエスは贖いとしてその命をお与えになった」に、その贖罪論が展開されている。結果を先に言えば、刑罰代償説をとる点では正統的であるが、支払われた代価の大きさをあまりに軽く見積もっている点で、大きな欠陥を持っていると言えよう。第1段落に「イエスの命は、罪と死への束縛から人類を解放するために与えられたのである。」とあるのは正当だが、その前に「完全な人間としての(イエスの命は……)」と記すところに誤りがある。

 第2〜第4段落に、イエスの支払った代価の大きさについての言及がある。そのところに記されていることを要約するようにして挿絵が載せられている。それは、水平状態の天秤の片方にアダムが、片方にイエスが立っているという絵である。アダムが罪を犯したために、すべての人に罪と死とが伝えられた。そこで、『命には命』という律法を適用して、「神の完全な人間の子としてのアダム」と同等の人間としてイエスが「完全な命」を支払った、というのである。このような見方は、イエスの支払った代価の大きさを全く見誤っている。

 ロ−マ5章12〜21節に、アダムの堕落の結果とキリストの恵みの結果とが比較されている。類似点と同時に相違点のあることが記されている(15、16節)。その相違はアダムの価値とイエス・キリストの価値とが全く異なる大きさを持つところから来るのである。もし、キリストの価値がアダムの価値と同じであれば、キリストの死は、アダム一人を救うのみであったであろう。「アダム一人の命を贖えば、アダムから罪と死を伝えられたすべての人の命を贖うのだ」と言うとすれば、人間一人一人の罪の重さ、その責任というものを見逃しているとしか言いようがない。

 『楽園』の贖罪論の誤りは、キリストの神性を否定したことの直接の結果であるが、更には人間の罪責観の誤りの結果であるとも言えよう。

なお、キリストが死んで「黄泉(ハデス)」に下ったというのは、そこで苦しみを受けたのではなく、単に死んで墓に行った(霊魂の存続は認めない)にすぎないという主張が『楽園』第9章「『地獄』は本当に存在しますか」に記されている。このことは、キリストの贖罪観にも関わる重要な問題であるが、人間一般の「死」、「黄泉」に関わる論議の中でなされているので、人間論で扱うことにする。

第4節 キリストの復活

『楽園』20章「復活―だれのために、どこでありますか」では、死人の復活の教理の重要性が主張されている。エリヤやエリシャ、またイエスによって復活させられた奇跡は本当のことであると言う。従って、イエスの復活もまた受け入れている。しかし、その復活の性質については逸脱が見られる。

 シ−センの『組織神学』には、キリストの復活の性質について、3つの点を指摘している(注8)。すなわち、(1)それは実際のよみがえりであった。(実際に死んだのであって、気絶しただけではない。)(2)それはからだのよみがえりであった。(霊が現れたのでもなければ、幻覚を見たのでもない。)(3)それは他に類のないよみがえりであった。(奇跡によってよみがえった人々はやがて死んでいったが、キリストは死なないからだによみがえった。)

 『楽園』においては、(1)、(3)については同意するが、(2)を否定している。すなわち、キリストの復活とヤイロの娘、ラザロたちの復活との違いをあまりに大きく見ているのである。すなわち、イエスの復活は、死んだからだが復活したのでなく、霊者への復活であったとする。

そのことを詳しく述べているのは、17章「キリストの再来―どのように見えますか」である。すなわち、キリストの復活について詳しく述べられているのは、キリスト論(6章)の中ではなく、終末論(17章)の中である。このことは、彼らの復活論の逸脱が何を目的としているかを示唆している。すなわち、キリストの再来は、目に見えないかたちで起こるという彼らの終末論を支持するために、キリストの復活はからだの復活ではなく霊者への復活だとしていると言える。

 その根拠の一つとして挙げられているのが、第一コリント15:44〜50である。すなわち、天で生きられるのは、「霊のからだ」である。(ここまでは正しい。)従って、霊者だけが天で生きられる、というのである。「霊者は、霊のからだを持ち、天で生きる存在」というのが、一貫した考え方のようである。エホバ神、み使い、復活後のイエス、更には、復活後の14万4千人が天で霊者として、「霊のからだ」をもって生きる、というわけである。ここには、「霊のからだ」が、「肉のからだ」とは違う性質を持ちつつも、「霊」ではなく「肉や骨」を持ち(ルカ24:39)、復活前のからだとは別のからだなのではなく、同じからだである(ヨハネ20:27)という、聖書的理解からの大きな逸脱が見られる。

第5節 キリストの着座

 復活後の天でのキリストの地位について、第6章第6項「神の王国の支配者」では「イエスは天に戻るとすぐに王として支配を始められたでしょうか。そうではありません。」としている。これは、聖書の教えとは食い違っている。すなわち、復活、昇天後に神の右に座せられたことにより、キリストは既に王としての支配を始めておられる(黙示録1:5、コロサイ1:13)というのが聖書の教えである。

何故このような主張がなされるのかと言えば、そのことが1914年にキリストが王としての支配を開始したとする彼らの教理の前提になるからであろう(本レポート「終末論」の章参照)。しかし、そのような都合によって聖書的理解をゆがめることはゆるされない。

キリストは確かにご自身の十字架と復活のみわざによって私たちの救いの道を開き、天においても地においても一切の権威を授けられて(マタイ28:18)、信じるものに永遠の命を与え、聖霊を下して(使徒行伝2:33)、この地における真の支配者としてのみわざを行っておられるのである(黙示録1:5)。


第5章 人間論

 普通、人間論は2つの部分に分かれる。人間の起源、本質、構成についての部分と、人間の堕落、罪についての部分である。後者の中で、罪の結果に関する教え(特に地獄の教理など)については正統的教理からの逸脱が顕著であるので、節を改めて検討する。

第1節 人間の起源と構成

 この部分については第7章「人間はなぜ地上に存在しているのですか」、第8章「死んだらどうなりますか」に記されている。実は、『楽園』7章「人間はなぜ地上に存在しているのですか」から9章「『地獄』は本当に存在しますか」までは一続きになっている。すなわち、『楽園』の人間論は個人的終末論(死後の霊魂の存続と永遠の刑罰の否定)との深い関わりの中で展開されているということであって、注目に値する。

 人間の起源については、第7章第1項「進化か創造か」において、進化ではなく神の創造によるものであるとしている点で、正統的神学に一致している。

 人間の構成については、従来二分説と三分説が主張されてきた。これに対して、『楽園』が主張しているのはある種の単一説であると言えよう。人間には肉体から離れて実在を続けるような精神、霊、魂などないと主張する。その論拠として「魂」と「霊」という二つの言葉についての「正しい」解釈が説明されている。

 まず、「魂」については、人間の「魂」とは人間そのものであると主張し、人間とは塵から造られた肉体に生命が与えられたものであり、それがすなわち人間の魂であるという(第7章第2項「神が人間を創造した方法」)。創世記2:7「エホバ神は地面の塵で人を形造り、その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった。」(新世界訳)の引用を中心に、「魂」がほぼ「肉体」とか「体」に置き換えられるような意味を持つことを主張している(第7章第2項、第8章第1項「魂は死ぬ」)。従って、「魂は肉体の内部に住む、あるいは肉体を離れることのできる何か影のようなものではありません。」(第2項第3段落)と結論付けられることになる。すなわち、「魂」は、伝統的に考えられてきたように、肉体の内部にあって死後肉体から離れて存在するようなものではなく、人間の魂は人間自身をさしているという。その根拠として、エレミヤ2:34などを引用して魂には血液があると指摘したりもする(第7章第2項)。

ここで注意すべきは、「新世界訳」の翻訳方針として、一つの原語には一つの訳を常に当てはめようとすることである。「魂」と訳されている「ネフェシュ」(ヘブル語、注9)や「プシュケ−」(ギリシャ語、注10)は、多くの意味を持つ語である。「魂」(普通の意味での)、「心」、「命」、「人」、「被造物」などである。それを無理に「魂」とのみ訳しておいて、「人」や「命」と訳されるべき聖書箇所を引用して、「魂」の意味をすりかえようとしているだけのことである。

例えば、創世記2:7では「人」とでも訳すべきところであって「魂」と訳すのが間違いである。エレミヤ2:34は「罪のない貧しい人の命の血」(口語訳)などと訳すべきところであろう。一方で、聖書における「ネフェシュ」や「プシュケ−」の使用の中には、明らかに人間の内に、肉体とは別の精神的な働きをする部分として、あるいは肉体の死後も存続する部分として考えられている箇所があるのは否定できない(出エジプト23:9、マタイ10:28)。そのようなところでは「心」とか「魂」と訳されるべきである。なぜなら、日本語の「心」「魂」とはそういう意味だからである。

恐らくこのようなわけの分からない主張がなされている背景には、「新世界訳」及び『楽園』がもともと英語で書かれたことがあるものと推測される。なぜなら、「ネフェシュ」や「プシュケ−」の訳語として採用されている “soul” は日本語では「魂」とも「人」とも訳せる言葉であって、その分違和感が少なくて済むからである。

また、「霊」についてはこれを「生命力」と置き換えられると主張する(第8章第1項)。従って、「霊」もまた、人間の肉体が死ぬと同時に消え去るという。しかし、これも聖書の用法を少し調べるなら、とても通用しない(第一コリント5:3、5など)。邪悪な「霊」の存在などは認めるのに、人間の「霊」だけが「生命力」にすぎないと考えるのも不合理な話である。たとえば、伝道の書2:7「塵は……地に帰り、霊もこれをお与えになったまことの神に帰る」(新世界訳)について、「私たちの生命力が文字通りに地を離れて宇宙空間を経て、神のもとに帰るという意味ではありません。そうではなくて、将来の命に対するわたしたちの希望は今や完全に神にかかっているという意味で、霊は神に帰るのです。」(第8章第1項第4段落)と説明している。非常に苦しい解釈といえよう。

第2節 人間の堕落と罪

人間の罪に関わる教理の中で、『楽園』において極端に言及が少ないものがある。それは、個々人の罪責に関する部分である。それは、この分野において伝統的教理を受け入れているから、というのではなく、彼らの教えが本質的に個々人の罪責に関する教理の重要性を分からなくする性質を持っていると考えるべきであろう。更に、正統的教理からの明らかな逸脱が見られるのは、罪の結果に関するものである。(第3節で取り上げる。)これらは、彼らの教えを理解するための核心部分ではないかとさえ思われる。順を追って検討を進めよう。

まず、「罪」の定義は改めては行われていない。この書を通して、「罪」は「神の戒めを破ること」といった意味合いで使われている。

次に、人間の堕落については、キリスト論のところで触れたように、第6章「イエス・キリスト−神から遣わされた方ですか」のキリストの贖いを説明する項(第4項第3段落)で説明している。その他、第7章「人間はなぜ地上に存在しているのですか」第4項「人間が年を取り死んでいく理由」にも、アダムの堕落とその結果について述べられている。アダムが罪を犯した結果、人間に「罪(不完全さ)と死」(また、病気、老化も)とが伝えられたとしている。ここだけを見れば正統的であるように見えるが、後で見るように「死」の意味するところは違っている。

上記の個所以外で、人間の「原罪」「腐敗性」について説明をしているところは、この書の終りの方に見出すことができる。それは、この書の中核部分が終って、今日における目に見える神の組織がエホバの証人であるという、彼らにとって重要な結論を述べた(第23章)後、この組織に属する人々(クリスチャンと呼ばれる)が直面する罪の誘惑との戦いについて述べた部分(第26〜28章)である。「クリスチャン」であってもアダムから受け継いだ罪(不完全さ)ゆえに罪の誘惑との戦いがあると述べている。伝統的教理でいえば、聖化論に当たる部分であろう。

全体としては、最初に記したように、個々人の「罪責」についての言及は少なく、まとまったものは皆無といってよい。アダムの堕落とその結果としての罪(不完全さ)の伝達まででとどまって、個々人の罪責について言及しないならば、キリストの贖いが「私のため」という真に人を救う贖罪信仰は生じ得ない。

第3節 罪の結果

「罪の結果」については、個人的終末論として、終末論と重なる領域でもあるが、『楽園』では、人間論を扱う第7章に続く形で第8章「死んだらどうなりますか」第9章「『地獄』は本当に存在しますか」が続いているので、本レポートでも、ここで検討を加えることにする。

正統的教理において、罪の結果は「死」であり、その意味は三重であるとされる。すなわち、(1)肉体の死、(2)霊的死、(3)永遠の死(永遠の刑罰、第二の死)である。

この中で、まず「(2)霊的死」は無視されているように見える。罪の結果として神との交わりは阻害され、霊的な命を失っている(エペソ2:1、ルカ15:24)という聖書の中心メッセージが見失われているのである。(少なくとも『楽園』においてまとまった記述は見当たらない。)このことを裏返していうならば、キリストによる救いの本質が神との交わりの回復であり、霊的な命の再生であるという、救いについての聖書的理解を不可能にするものである。(救済論の章を参照。)

次に、「(1)肉体の死」についても、顕著な逸脱がある。正統的教理では、肉体の死は「肉体と魂との分離」として捕らえられるが、『楽園』第8章「死んだらどうなりますか」はこの教理を否定するために記された章である。すなわち、第1節で見たように、人間は肉体から区別される「霊」とか「魂」というものを持つのではないから、肉体の死は、その人の存在が無くなることに過ぎない、というのがこの章の趣旨である。この前提が成り立たないことは第1節で指摘した通りである。なお、死後の霊魂の存続についてはマタイ17:3、第一コリント5:5などで明らかである。

最後に、「(3)永遠の死」については、肉体の死によって存在が無くなるという考え方の当然の帰結として、永遠の刑罰(地獄)の教理が否定される。第9章「『地獄』は本当に存在しますか」は永遠の刑罰(地獄)の教理を否定するために記されている。この章では、KJVで“hell”と訳されているシェオルとハデス(口語訳ではそれぞれ「陰府(よみ)」、「黄泉(よみ)」と訳されている)、ゲヘナ(口語訳では地獄と訳されている)について、それらが死後永遠の苦しみを受ける場所ではないことを論じている。これらの用語を原語から考えること自体は、混乱を避けるために賢明なことだと言えよう。けれども、その結論はあまりにも強引に引き出されている。

まず、シェオルとハデスについて、第1項「シェオルとハデス」で論じられる。ヘブル語のシェオルがギリシャ語で引用される時(使徒行伝2:31)ハデスが使われているという指摘は正しい。(70人訳でもシェオルをハデスと訳している。)旧約聖書で信仰者もシェオルに行くように考えられていることも事実。また、旧約聖書で「シェオルが…むしろ死や無活動に結び付けられている場合が多い」という指摘もその通りである。けれどもそこから「シェオルとハデスは責め苦の場所ではなく、人類共通の墓を指す」との結論を出すことは性急に過ぎる。シェオルでの霊魂、意識の存続が言われているところもある(イザヤ14:9、10、エゼキエル32:21)。また、新約聖書でハデスに信仰者が行くと言われているところはなく、むしろパラダイスに行き(ルカ23:43)、キリストと共にある(ピリピ1:23、第二コリント5:8、9)と言われる。また、ルカ16:19〜31の金持ちとラザロについての主の説話の中で、金持ちが黄泉で苦しむところはあまりにも有名。

この個所については第9章最後の項「富んだ人とラザロ」にその解釈が説明されている。すなわち、この説話は例えであり、富んだ人とは当時の宗教指導者であって、富んだ人が死んだことは彼らが神の恵みを得られなったことを意味し、火炎の中で苦しむとは、キリストの弟子たちが彼らの悪い行いを暴露した時に非常な苦しみを感じること(使徒7:51〜57)を意味するという。余りにもこじつけた解釈である。

後回しにしたが、第1項第1段落では、「イエス・キリストがハデスの中におられたといことを見逃すことはできません。私たちは神が『地獄』の火の中でキリストを責め苦に合わせたと信ずべきなのでしょうか。もちろんそうではありません!イエスは死んで墓に行かれたにすぎません。」と記されている。ハデスについての聖書全体の教えがそれほど明確ではないことから、キリストがハデスにおいて苦しみを受けられたかどうかを断定することは難しいが、それをありえないと断定する『楽園』は、キリストの死が人間の罪の恐るべき報いを身代わりに受けて下さった贖いの死であることをあまりにも軽く見ていることの表れと言える。

シェオルとハデスについての考え方は、福音主義の神学者の中でもいろいろな意見があるようであるが、シェオル、ハデス共に単なる墓を指すとの見方をする学者はいたとしても少数派であろう。

第2項「地獄から出る」では、シェオル(ハデス)から出て復活することができることを、ヨナ2:2及びマタイ12:40、使徒2:31、32から主張している。シェオルからの復活があること自体は問題ないが、ヨナの経験は、キリストの復活の予表として言及されており、そこから「そうです。人々はシェオル(地獄)から出て来ることができるのです!事実、啓示20章13節には、『死とハデス[地獄;ジェームズ王欽定訳]もその中の死者を出す』という、心温まる約束があります。死者に状態に関する聖書の教えと、多くの宗教が教えてきたこととは、何と大きな相違があることでしょう!」(第2項第3段落)と結論付けることには飛躍がある。

まず、欽定訳で「ハデス」の多くが「地獄」と訳されたことを逆用して、「地獄」(「ゲヘナ」の訳語、次に扱う)の教理自体を否定しようとしていることに注意する必要がある。更に、黙示録20章13節のハデスからの死者の復活は、続いて最後の審判に直結するものであることを無視している(最後の審判については、終末論第5節「裁き」参照)。

一方、第3項「ゲヘナと火の池」では、「ゲヘナ」と「火の池」について記されている。

まず、「ゲヘナ」であるが、これは本来エルサレム城壁のすぐ近くにある「ヒンノムの谷」から出た語で、歴史的経過の末、当時、町のごみ捨て場となっていたことは正しい指摘である(注11)。しかしながら、それが復活の可能性のない死(永遠の滅び)を意味するとの結論は支持され得ない。それは、不信仰者へのさばきの場所として記され(マタイ23:33など)、永遠の火が燃えるところであり(マタイ18:8、9)、肉体の死の「後に」投げ込まれるところである。(ルカ12:4、5)

次に、「火の池」が「ゲヘナ」と同じような意味を持ち、黙示録20:14から「第二の死」とも呼ばれるとの指摘はその通りであるが、それが単に「復活のない死」を意味するという結論はやはり誤りである。「火の池」における火と硫黄との苦しみが永遠のものであることは、黙示録14:9〜11、20:10から明らか。黙示録20:10「彼らを惑わしていた悪魔は火と硫黄との湖に投げ込まれた。…そして彼らは昼も夜も限りなく永久に責め苦に遭うのである。」(新世界訳)を見ると、(彼らの訳でも)「火の池」が苦しみの場所であり、その苦しみが永久のものであることは疑いようがないように思われるが、この聖句についての説明は奇抜ですらある。バサニデスというギリシャ語(黙示録20:10で使われているわけではなく、マタイ18:34で全く関係のない形で使われている言葉)が「拷問者」とも「牢番」とも訳されうるところから、「永久に責め苦に遭う」という表現が、いわば死という牢獄に永遠に閉じ込められる(存在しなくなって復活もしない)ということを意味するというものである。余りにも強引で無理な解釈と言えよう。


第6章 終末論

終末論は、神学の最後に置かれるのが普通であるが、『楽園』における救済論と教会論は、終末論的な枠組みの中でしか理解できないものになっているので、終末論を先に取り上げることにする。

この世の終りに起こる様々な出来事については、聖書の様々な記述から多くのことを教えられる。しかし、それらの出来事の順序に関しては、聖書信仰に立つ人々の間にも見解の相違が存在する。従って、このレポートにおいては、出来事の順序よりも、それら個々の出来事の性質について、『楽園』がどのように聖書の記述から逸脱しているかを見ていくことにする。すなわち、キリストの再臨のあり方とその時期、ハルマゲドン、死者の復活、裁きについて順次取り上げる。

ただ、それらの出来事をバラバラに取り上げただけでは、終末論における枠組みを(聖書的に支持されえないとはいえ)強烈に打ち出している『楽園』の教えに対して、福音派教会がそれに代わるものを提示し得ないという印象を与えかねない。そこで、近年聖書神学の分野から終末論全体についての聖書的枠組みというものが提示され、ある程度福音派全体の共通理解になりつつあるようなので、最初にその面から『楽園』の終末論の特徴を明らかにしたい。

第1節 偏った終末論

終末論に関する聖書神学的研究の成果として、従来「未来的側面」に偏り勝ちであった終末論が「未来的側面」とともに「現在的側面」を合わせ持ったものとして理解されるようになってきている。たとえば、終末論において重要な意味を持つ「終りの日」、「世の終り」、「神の国」などの用語は、将来のことを指し示す用語であると同時に、キリストの初臨の時代は既に「終りの日」、「世の終り」と考えられており、「神の国」はキリストによって既に成就しているという側面を持つことが指摘されてきている(注12)。「終末」は新約聖書の時代から既に始まっていたという面が確かにある。

そのような面で言えば、『楽園』の終末論は徹底的に「現在的側面」を否定した終末論であるということができる。(この「現在的」というのは、主の初臨の時点で既に、ということであって、20世紀の今日、という意味ではない。彼らは1914年以降「終りの日」の期間に入っていると考えるので、それ以降は「終りの日」に入っていると考えるのであるが、新約聖書の時代から見れば1914年という年は遠い未来であり、それまではいかなる意味でも「終りの日」に入っていないと考えるゆえに、「現在的側面」を無視しているという意味である。念のため。)そこで、まず、『楽園』の中でも重要視される「神の(王)国」「終りの日」「世の終り(事物の体制の終結)」の三つの用語を取り上げて、『楽園』の終末論がそのような特徴を持っていることを確認したい。

(1)「神の(王)国」

終末論において、聖書神学の分野から聖書的枠組み提供がなされてきていると記したが、その際にキーワードになった言葉の一つは「神の国」であった。「国」(バシレイア)とは、王の領土、支配される民などの具体的なものを指しもするが、より中心的に伝えるのは「支配」「統治」そのものであるということが指摘されている(注13)。従って、キリストがそのみわざを地上において始めようとなさる時に、「神の国(支配)」は実現しつつあったのであり、キリストを信じる小さな群れが起こされてきたときに、イエスはパリサイ人に向かって「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)と言うことができた。マタイ12:28「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」とのお言葉は、既に聖霊によって御子が地上に神の力、神の支配を現し始めているがゆえに、「神の国はもう既に到来している」ということを明言されたものと言える。

ところが、『楽園』第13章「平和をもたらす神の政府」では、「神の王国」がキリストと弟子たちの宣教のわざにおいていかに重要な使信であったかを述べている一方(そのこと自体は正しい)、「神の(指導による)政府」という言葉と「神の王国」という言葉が同意語であることを前提に、神の王国が将来のものであることを当然のごとく印象付けている。(第1項「その王国の重要性を強調する」第一段落「地上にいた時のイエス・キリストとその支持者たちの主要な仕事は、やがて来る神の王国について述べ、教えることでした。」)このことについての問題点を二つに分けて指摘したい。

まず第一に、訳語の問題であるが、「神の王国」=「神の政府」ではない。ここでもまた、『楽園』がもともと英語で書かれていたので、"government"(支配とも政府とも訳される)という言葉がうまく利用されているようである。第0項ではイザヤ9:6、7を文語訳で引用して「政事(政府、英文欽定訳)」とコメントをつけているが、このところのミスラーというヘブル語は統治権を意味するものであって、具体的な政治制度を伴った「政府」というイメージを読み取ることには無理があるであろう。聖書における「神の国」概念を丹念に調べてみても、具体的政治的制度を伴った「神の政府」という概念を見出すことには無理があると言わざるをえない。「神の国」のこのような偏った理解は、「世」に対する偏った理解と結びついて彼らの終末論を著しく特徴づけるものとなっている。(3)で再び言及する。

第二の問題点は、「神の国」がキリストによって既に成就しているという面の無視である。「神の王国」=「神の政府」を前提にした時に、キリストの初臨以来の世界の歴史を見ても「神の政府」が支配を開始したとは思えないので、当然それは「やがて来る神の王国」ということになるのでろう。

マタイ3:2、ルカ17:21は、キリストの初臨によって既に神の国が成就しつつあることを示す聖句であるが、「天の王国は近づいた」「神の王国はあなた方のただ中にあるので」(いずれも新世界訳)とあるのは、「神の王国」の支配者となるべきキリストがおられた故であるとして、「神の王国」が支配を始めたことを認めない(第1項第2段落)。

第16章「神の政府は支配を始める」では、更にその主張を強化している。第1項「クリスチャンが祈り求める政府」第4段落では、キリストの昇天、あるいは聖霊の降臨によってキリストの支配が開始したと考える人がいるが、それは「神の政府」の誕生を示すものではない、と主張する。第2項「敵のただ中での支配開始」でもその主張は繰り返される。

では、いつ神の政府は支配を始めたのかと言えば、第4項「神の政府が支配を始める時」で、有名な「1914年」という年代の算出方法が紹介されて、それが神の政府の支配開始の時であることを述べる。(この点については、次節で詳しく取り上げる。)終始、「神の国」の現在的側面の無視を貫き通すのである。しかし、主は既に十字架と復活において完全な勝利を取られて、神の右に座していて下さるので、代々のキリスト者は勝利の主に対する信仰により、この地上にあって「神の国」の恵みと力を経験し、証しながらこの時代にまで至っている。(キリスト論第5節「キリストの着座」参照。)『楽園』は、「神の国」の現在的側面を無視することによって、「救い」の現在的側面を見失っているのである。この点については、次章「救済論」で再度取り上げる。

(2)「終わりの日」

第18章「『世の終り』は近い」では、1914年以降「終わりの日」(特定の期間ととらえている)に入っており、やがて「世の終り」(「事物の体制の終結」新世界訳、特定の日ととらえている)によって、今のサタンの支配下にある体制に終焉が訪れるとする。それはハルマゲドン(戦争)による。「世の終り」については(3)で取り上げるとして、ここではまず「終わりの日」について扱う。

「終わりの日」(ハイ エスカタイ ヘ―メライ)も終末論上重要な語であるので、注意深い検討が必要がある。「ヘーメライ」は複数であるので、これをある種の期間と解することは妥当であるが、問題はどのような期間であるかである。確かに第二ペテロ3:3では、主のご再臨の近い時期のことであるようだが、同時に引用されている第二テモテ3:1の「終わりの日(時)」は、将来のことを言っているようであっても、5節以降を見るときに、既にその時代は始まっていたということを感じさせる。その他、使徒2:16、17、ヤコブ5:3の用法は明らかに新約聖書が記された時代、既に「終わりの日(時)」に入っていたことを示している。

このように見てくる時に、「終わりの日」が「1914年以降、ハルマゲドンまで」といった確定した期間を表す用語と考えることは困難である。ここにも、『楽園』の終末論が20世紀に焦点を集中させた終末論であることが表れている。

(3)「世の終わり(事物の体制の終結)」

第18章で取り上げられているもうひとつの言葉は「世の終わり」(マタイ24:3、文語訳。新世界訳では「事物の体制の終結」)である。原語ではヘー スンテレイア テュー アイオーノス。ハルマゲドンによってサタンの支配下にある現在の体制が滅ぼされることをさすと考えられている用語である。この用語の捉えかたについても二つの問題点が指摘できる。

第一は、やはり訳語の問題である。スンテレイアを「終結」と訳すのはまだしも、普通「世」、「世界」、「世代」、「時代」と訳される「アイオーン」(注14)を「事物の体制」と訳すのは極めて恣意的、意図的であると見られても仕方がない。

ところが、『楽園』の最初からアイオーンを「事物の体制」と訳している個所が引用されているので、この訳語のイメージが早い段階で読者に植え付けられてしまう。たとえば、第2章「永遠の命の敵」でサタンについて述べる中でも、第二コリント4:4の「この事物の体制の神」が引用され(第0項第5段落)、この世界の国家、政府すなわち諸体制がすべてサタンの支配下にあることを印象づけられる。更には、聖句引用以前に「事物の体制」という言葉をさりげなく用いているので(第1章第4項第4段落)、日本語としては違和感のある「事物の体制」という言葉がいつのまにかなじみの言葉になっていくわけである。

これほどまでにして「事物の体制」という訳語を用いるのには一つの意図が感じられる。それは、現在のあらゆる分野における「体制」「組織」「制度」に対する否定であり、その替わりに彼らが提供する「組織」の肯定である。この訳語がハルマゲドンと結び付き、更には(1)で取り上げた「神の政府」のイメージと結び付けられるとき、ハルマゲドンという出来事が非常に強いイメージをもったものとして提示されることになる。すなわち、彼らの組織以外のすべての組織、制度が滅ぼされ、彼らの組織だけが地上を完全に支配し始める…それがハルマゲドンのイメージになる。

「世の終り」を「事物の体制の終結」と訳すことは、彼らにとって大きな武器になっていると言える。

第二に、そのような訳語をとることの結果として、「世の終り(事物の体制の終結)」がハルマゲドンという将来の特定の日に固く結び付けられている点である。第18章で言及されるマタイ24:3では確かに将来のことをいっていると考えられるが、この語句が新約聖書で常に将来のこと(ハルマゲドン)としてとらえられるわけではないことは指摘しておいてもよいであろう。ヘブル9:26の「スンテレイア トーン アイオーノーン」は、スンテレイアに冠詞がなく、アイオーンが複数になっているが、新世界訳でも「事物の体制の終結」と訳されている。しかし、この個所「…事実、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。」(口語訳)は明らかにキリストの初臨について述べたところであって、ハルマゲドンとは関係がない。新約聖書が書かれた時代既に「終末」と考えられていた分かりやすい例である。(他の語句では第一ヨハネ2:18なども参照。)

聖書的終末論がキリストの初臨と再臨の二つの出来事を視野に入れつつ、「未だ」と「既に」の緊張関係の中でとらえられるべきものであるのに対して、『楽園』の終末論は、未来的側面のみを強調し、しかも非常に強烈な特定のイメージを提示するものであると言えよう。

第2節 キリストの再臨のあり方とその時期

ここで、『楽園』の終末論を、これまで指摘したところに少し補足してまとめておくと、1914年にキリストは天において神の王国政府の支配を開始し、その時以来、「終わりの日」(あるいは「短い時」とも言われる。第16章第2項第4段落。)に入っており、キリストはやがてのハルマゲドンにおいて邪悪な事物の体制を滅ぼし、その後、「神の王国は地を治める唯一の政府となり」(第19章「ハルマゲドン後、楽園となる地球」第0項第3段落)、ハルマゲドンで生き残ることのできた人たちは、そこでの楽園の祝福を楽しむことができる(第19章全体に述べられている。)ということである。

この枠組みの中で、キリストの再臨がどう位置付けられるのか、ということであるが、『楽園』においては、キリストが天において神の政府の支配を開始した1914年がキリスト再臨(臨在開始)の年と設定されている。従って、第17章「キリストの再来-どのように見えますか」では、キリストの再臨(再来、臨在)は地上において、目に見える形で起こるのではないことが主張されていくことになる。そこで、この節ではキリスト再臨が目に見えるものであるかどうか、またその年代が聖書に記されているのかどうか、について検証する。

なお、キリスト再臨、ハルマゲドン、様々な年代といったものの関係は、エホバの証人の歴史の中でもころころと変わってきている。本レポートの趣旨に即して『楽園』の主張に限定して検討を加えることになるが、一言だけ歴史的経過についても言及するならば、ラッセルがその独自の主張を始めた当初から、目に見えない形での再臨と、1914年という年代は打ち出されていた(但し、再臨の年は1874年に設定され、1914年は「異邦人の時」の終りとして考えられた)(注15)従って、ここでの検討は、『楽園』の教えのみでなく、ある程度はエホバの証人の教えの歴史的伝統(という言い方が妥当かどうかわからないが。)に対する検討でもあると言える。

(1)キリスト再臨は目に見えるか

第17章「キリストの再来−どのように見えますか」で取り上げられるテーマである。『楽園』の結論は、キリストの再来(再臨)は目に見える形で地上に来られるものではないということであるが、その論拠として展開されている論理は大きく二つの部分に分けることができる。一つは、間接的に補強する形での論拠であるが、キリストの復活は霊者への復活であり、従って、昇天も再臨も霊者としてのものであるから、ということ。もう一つは、再来が目に見える形で地上に来られると主張しているように見える聖句を、「そうではないんだ」と再解釈する部分である。前者の部分については、キリスト論で取り上げたので省略する。

後者の部分で取り上げられるべき聖句は、使徒行伝1:11、黙示録1:7である。

まず、使徒行伝1:11については、「同じ様で来られる」(新世界訳)の再解釈を行っている。キリストが天に昇ったのと「同じ様で」というのは、どういう意味か。まず第一に、キリスト昇天の様は「大勢の人々に見られることもなく静かなもの」(第2項第6段落)であったこと、第二に、キリストは最後には雲によって見えなくなった、すなわち、「彼らはイエスを見ることができなかった」(第2項第7段落)こと、第三に、「イエスはその時霊的な体で天に昇られた」のであるから「戻って来られる時にも霊的な体で戻られ、目には見えません」(第2項第7段落)と主張する。大勢でなかったにしても、弟子たちに見られていたのは確かだし、最後には見えなくなったといっても、それまではずっと見えていたのであるし、「霊的な体」(この意味合いについても問題はあるが)であっても目に見えていたことには変わりがないので、目に見えない再臨を主張することには無理がある。

次に、黙示録1:7「見よ、彼は雲と共に来る。そして、すべての目は彼を見るであろう。彼を刺し通した者たちも見る。」(新世界訳)であるが、この聖句については、「見る」という語と「来る」という語の再解釈を行っている。

まず、「見る」の再解釈は第3項「すべての目はどのように見るか」で取り上げられている。ここでの「見る」は、"see"が「理解する」という意味にもなることをあげて、「その時すべての人がキリストの臨在を理解する、もしくは認めるという意味です」と説明される。エペソ1:18の「あなたの理解の目」(新世界訳)を取り上げて例証しているのであるが、この場合、「理解の」がついているので普通の意味の「目」でないことが明らかである。黙示録1:7の「見る」が普通の意味の「見る」でないことを示すものは何もない。

次に、「来る」の解釈として、第4項「キリストは地に戻られるか」で、「必ずしも実際の場所に来ることを意味しません。」と主張する。例証として創世記18:14「…来年のこの時期に、わたしはあなたのところに帰る。…」(新世界訳)、21:1「そしてエホバはご自分の言われたとおりサラに注意を向けられた。…」(新世界訳)を挙げ、「エホバが戻られることは、文字通り戻られることでなく、ご自分が約束しておられたことを行なうためサラにぎ自身の注意を向けるということ」(第4項第1段落)だと指摘している。従って、キリストが「来る」というのも、「この地に対する王国の権を執り、地に注意を向けるという意味です」(第4項第2段落)と説明する。ここで、「注意を向ける」と訳されているパーカドというヘブル語は「顧みる」とも訳せるが、「訪れる」とも訳せる言葉であって(注16)、主が実際にサラを訪れた可能性も否定できない。(パーカドは士師記15:1でも用いられているが、新世界訳でもここは「訪ねに行った」と訳されている。)たとえこの個所が「顧みる」「注意を向ける」と訳されるのが妥当だとしても、「彼は雲と共に来る」にそれを当てはめれば「彼は雲と共に注意を向ける(顧みる)」となり、非常に不自然である。「目に見えない再臨」という自らの教理のために非常に無理な解釈を積み重ねているとしか思えない。

更に付け加えるならば、第18章に至って、「またおいでになる」(マタイ24:3、口語訳)などと訳されているパルーシアを「臨在」と訳すことも、キリスト再臨が目に見えないものであることを補佐する役割を果たしているが、そのことについては、(2)で述べる。

(2)1914年の臨在開始

「その日、その時は、だれも知らない」という主イエスの言葉にも関わらず、ある人々はキリストの再臨の時が聖書に明らかにされていると考えてきた。『楽園』もまた、その年(臨在の開始の年)を1914年と算出する。おそらく、上記の主イエスのみ言葉は「ハルマゲドン」に対してのものとして考えられているのであろう。

その算出方法は、第16章「神の政府は支配を始める」に明らかにされている。その方法は、ダニエル4章のバビロン王ネブカドネザルが見た夢の独特の解釈によるものである。天に達する高い木が切られて「7つの時」の間過ごしたという夢であるが、ここから以下の三つの主張を組み合わせて1914年という年代を算出する。

1.「7つの時」の再解釈。この高い木とは「神の最高支配権、とりわけこの地球との関係における最高支配権」を意味するものである。この木が切られることは、地上で神の支配権を代表する政府がなくなったことを意味し、「7つの時」とはその期間が360×7=2520年であることを意味する。

2.「7つの時」の開始年代。ネブカドネザルがユダ王国を滅ぼした紀元前607年(彼らはそう主張する)に神はご自身の支配権を地上で代表する政府を失ったので、この年から「7つの時」(ルカ21:24から「異邦人の時」とも呼ばれる)が数えられるべきである。

3.「7つの時」(異邦人の時)が終るとは、キリストが神の天の政府の王として支配し始めることをさす。

以上の三つの主張により、キリストが神の天の政府の王として支配を始めたのは、紀元前607年から2520年たった1914年であるということになる。

ここで、以上の三つの部分のいずれか一つでも成立しなければ、1914年という年代は出てこない。ところが、上の三つの主張はいずれも承認しがたいものである。多少もっともらしい(3.)の点についても、神の支配権を地上で代表する政府を持つと言えば、(彼らの教えの中では)ハルマゲドンの年の方がふさわしいのではないか。

(2.)の点については、考古学上の証拠からBC587(6)年と確認されているし、聖書の証言にもその方が適合している。このことについは、既刊書に既に十分説明されているので、本レポートでは議論を省略する(注17)。

(1.)の点については、『楽園』のこの章の最初に認めているように、高い木はネブカドネザルをさす。更に聖書をそのまま読めば、高い木が切られて7つの時を過ごすとは、ネブカドネザルが高慢のために王位を追われて(おそらく)7年を過ごすということを意味する。7つの時が過ぎた後、王の理性がもとに戻り、神がまことの主権者であることを知り、神に賛美をささげる、というのがダニエル4章の内容である。

このダニエル4章から教えられるのは、地上での王や国がいかに栄枯盛衰を繰り返そうと、神の永遠の主権は地上に変わらず働いているということであって、2520年もの間、神の支配権が地上で現されなかったなどということとは逆のことである。

更に言えば、ルカ21:24の「異邦人の時」は、AD70年のエルサレム崩壊を表すと考えるのが妥当であろう。どう解釈しても、主イエスが過去のバビロンによるエルサレム崩壊について語られたとは思えない。

このようにして、ダニエル4章からの年代計算はどこからみても成立しないものである。ところが、この1914年説を裏付ける説明が、第18章「『世の終わり』は近い」でなされる。それは、マタイ24章の独自の解釈によるものである。弟子たちの主イエスに対する質問「あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」(3節、新世界訳)とそれに対するキリストのお答えとに基づき、キリストが臨在を開始(天での支配を開始)してから「事物の体制の終わり」までの期間中であることの「しるし」は、マタイ24章に記されたような様々な事柄(戦争、飢饉、疫病、地震、不法)である。その他、第二テモテ3:2〜5などからもいろいろな「しるし」(親に対する不従順、金を愛する者…など)を見出している。1914年以来それらの「しるし」は確かに見られるようになってきているから、1914年という年代は確かなものだというわけである。

戦争、飢饉、地震、疫病、不法について1914年という年が特別な年かどうかというのは、人の見方しだいであるので、全く証拠にはならない。このことについても詳しい議論が既に提供されているので本レポートでは省略する(注18)。

更に、第二テモテ3:2〜5については、第1節(2)で指摘したように、3:1を見れば将来の事を言っているのは確かだが、3:5では「こうした人々からは離れなさい」(新世界訳)と言っているので、パウロの時代既にそうした人々がいたことは明らかである。従って、1914年説を裏付ける証拠ではありえない。

なお、「臨在」と訳されるパルーシアは、確かに「臨在」とも訳せるが、「到来」、「来臨」とも訳せる言葉で、使徒1:11などと照らし合わせて考えるとき、「到来」の意味で訳すのが適当である。マタイ24:3においても、「テース セース パルーシアス」と「スンテレイアス テュー アイオーニオス」とが「カイ」(and)で結ばれていることを最も自然に解釈すれば、その両者が同時に起こるものであり、「あなたの再来」すなわち「世の終わり」のしるしが地上にどのように見られるか、ということになるであろう。「臨在」開始と「事物の体制の終り」との間の特定の期間のしるし、と解するのには相当無理がある。

第3節 ハルマゲドン

エホバの証人が世に対して伝える言葉の中でも、この言葉ほど強く投げかけている言葉はないのではないかとさえ思われるが、聖書中にこの言葉は黙示録16:16に一度出てくるだけである。それは悪の勢力が最終的に神に挑むため集結する場所として述べられている。おそらく黙示録19:19〜21に描写されているのも同じ出来事をさすと見られる。しかし、比喩的描写で満ちた黙示録の中のこれだけのことから、「ハルマゲドン戦争」なるものについてこれ以上のことを語るのは難しい。『楽園』にはこの戦争についての非常に明確なイメージを打ち出し、その時期についてさえ範囲を指定している。

第19章「ハルマゲドン後、楽園となる地球」では、ハルマゲドン(戦争)で、悪人だけが滅ぼされ、邪悪な体制のすべてが一掃されると説明される。その後、神の王国は地上を治める唯一の政府となり、正義の新体制のもと、楽園生活が始まる。このハルマゲドンでいかにして生き残り、地上の楽園に永遠に生きるかが『楽園』のテーマであるが、この点については、次章の救済論で取り上げることにする。

このハルマゲドンが起こるのは、『楽園』においては、1914年に生きていた14万4千人のうちの誰かが生き残っている間であるとされている。(第18章最後の段落。)しかし、当時のメンバーが残り少なくなってきたことから、この教理は変更された。(序文参照)

第4節 死者の復活

終わりの時の死者の復活に関しては、聖書によれば、二種類の復活があることが分かる。ヨハネ5:29によれば、善を行なったものが生命を受けるためによみがえるものと、悪を行なったものがさばきを受けるためによみがえるものとの二種類である。黙示録20:5、6にある第一の復活が前者に属するものであることも明らかである。

ところが、『楽園』第20章「復活―だれのために、どこでありますか」では、この二種類の復活の教理を奇妙にゆがめる。第2項「復活させられる時と場所」には、「第一の復活」は14万4千人に属するものであり、その復活はキリストと同じく、天への霊者としての復活であると述べられている。それは、「その(キリストの)臨在の間に」(第一コリント15:23;新世界訳)起こる。それ以外の者の復活は、その後、「義者と不義者との復活」(使徒24:15;新世界訳)として起こる。

従って、復活は信仰者と不信仰者の間で区別されるのでなく、14万4千人とそれ以外のものたちとの間で区別されるという、極めて非聖書的なものになっている。このことについては、救済論で再び取り上げる。

なお、第21章では、ヨハネ5:29がどのような解釈をされるかを述べている。次節で取り上げる。

第5節 裁き

聖書は、すべての者に対して神の最終的な審判の時があることを主張している。しかし、人間論でも見たように、『楽園』は永遠の刑罰の教理を否定しているので、裁きについても再解釈が行われている。

このテーマについて記している第21章「裁きの日とそのあと」において、裁きに関連する教えとして3つのことが記されている。

(1)「裁きの日」とは、ハルマゲドン後の1000年の期間のことであり、裁くのはキリストと14万4千人である。「義者」も「不義者」もよみがえって楽園の最高の環境に置かれる。彼らは、ハルマゲドン前の過去の行ないによってではなく(ローマ6:7を引用)、1000年の期間中に行なったことによって裁かれる。そのような環境下にあっても、「不義者」は「義者」よりも義を行なうことが難しい。その期間中、義を学び実行することをかたくなに拒むならば、彼らは滅ぼされる。(消滅死)

(2)「裁きの日」(1000年の期間)のあと、サタンが解放され、人々をエホバへの奉仕から引き離そうとする。この最後の試験にパスしなければ第二の死(復活のない消滅死)、パスすれば永遠に地上の楽園に住むことができる。

(3)「裁きの日」(1000年の期間)の前、「現代の裁きの日」がある。それがハルマゲドンである。

第4項「現代の裁きの日」第1段落に「ですから聖書は、これから先1、000年余りの間に起こる出来事についての情報を与えているのです。それによると、前途にある事柄を恐れる理由は何もありません。しかし問題は、あなたもそこにいて、エホバ神が蓄えておられる良いものを楽しめるかということです。」と記していることから、(1)、(2)については恐れる必要はないが、(3)について真剣に考える必要があるというのが、『楽園』の結論のようである。

以上のことを主張する過程で、黙示録20:4〜15がばらばらに引用されつつ、彼らの教理に合わせて再解釈されていく。たとえば、5節の「それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生き返らなかった」は、「(1000年の期間の終わりに)すべての人がついに人間としての完全性に達するという意味です。」(第2項第4段落)とここだけが復活が象徴的に解釈されるという非常に不自然な解釈になっている。

その他、前節で言及したヨハネ5:29も、第1項「『命』の復活と『裁き』の復活」で、ハルマゲドン前の行ないとは関係なく、1000年の期間中に善を行なった者は「命」へ、悪を行なった者は「裁き」(滅び、消滅死)へ、ということだと解釈される。これも無理な解釈と言えよう。

そのような中、「裁きの日」という言葉の出てくるマタイ10:15、11:22〜24についても言及している(第21章第0項)。それらの聖句は、キリストがご自身や弟子たちの宣教によって悔い改めない町々に言及して、「裁きの日」には、ソドム、ゴモラの地の方が、それらの町々よりも耐えやすいであろうと語られるところである。「裁きの日」を1000年の期間中のこととして解釈することから、ソドム、ゴモラの人々も、キリストや弟子たちが伝道した人たちも、一部は「裁きの日」によみがえり、その期間中の義の実践によって裁かれるが、その時キリストを受け入れることはソドム、ゴモラの人々の方がキリストや弟子たちの伝道を受けた人たちより容易だという解釈が、当初、行われていた。「当初」というのは、途中で「復活させられないかもしれない」とした修正文が作られ、上から貼って使われるようになったからである(序文参照)。自分たちの考えに合わせて聖書を無理に解釈しようとした当然の結果として起こった混乱といえるだろう。


第7章 救済論

救済論の領域にはキリストの贖罪などの教理を含めることもあるが、それについては、キリスト論の章で取り上げたので、ここでは含めない。この分野では、伝統的教理を否定する態度を明確に表している文章が量的に少ないので見過ごしがちであるが、この分野での聖書からの逸脱は深刻かつ本質的なものである。従って、聖書的教理との差違を十分把握する必要がある。第一に「救い」の内容、第二に「救われる」方法について取り上げる。

なお、実は、『楽園』の中には「救い」とか「救われる」とかいう言葉がほとんど目につかない。そのことも、聖書的救済論との比較をしにくくしているが、彼らの教えの中には確かに救済論にあたるものがあり、「救い」の内容と「救われる」方法について教えている。しかし、それを「救い」「救われる」という言葉を使わないで表現するところにも彼らの救済論の本質が表れていると見ることができる。従って、彼らの教えと聖書的教理との差違を明確にするために、この章の2つの節のタイトルにあえて「救い」、「救われる」の言葉を用いることにする。

第1節 「救い」の内容

『楽園』に示されている「救い」の内容(あるいはそれに当たるもの)は、一見明らかである。それはすなわち「地上の楽園で永遠に生きること」である。従って、それはこの書の主題でもある。けれども、ここにもまた見過ごしがちになる重要な点がある。それは、確かにこの書で学ぶ人にとっての「救い」は「地上の楽園で永遠に生きること」であるとされているが、同時に、別の種類の人々にとっては別の「救い」があるということも、(このような形で明確に意識化されないような仕方でではあるが)この書の中で明らかにされている、ということである。従って、(1)2種類の「救い」について、(2)彼らが無視(否定)している聖書的「救い」の内容について、の順序で記していくことにする。

(1)2種類の「救い」

まず、二種類の「救い」のそれぞれの内容について説明することにする。

第一の救いは「地上の楽園で永遠に生きること」である。『楽園』第1章「永遠に生きることは単なる夢ではない」第1項「信じることができる理由」で、「地上の楽園で永遠に生きること」が可能であり、また、神が最初の人間夫婦を創造した最初からの目的でもあって、神はその意図を必ず実現させるはずであると述べている。第2項「生きたいという願い−どこで?」では、それが人間の願いであることを述べ、第3項「人々が望む生活」ではそれがどんなにすばらしい生活になるかを(聖書のあちこちを引証しながら)描写し、第4項「すばらしい祝福は近い」では、神が現在存在している悪と悪を生み出すもの者たちを滅ぼして、地上にそのような祝福をもたらすその時が間もなくであることを述べている。その時が来たときに生き残り、永遠に地上の楽園に生きるにはどうしたらよいのか(「救われる」方法)がこの書のテーマになるわけである。

第二の救いは、それが「救い」であることを否定する(あるいは不明確にした)ような仕方で説明されている。第14章「だれが、またなぜ天に行きますか」がそれである。そこでは、ある人々が天に行き、キリストと共になることが聖書に記されていることを認める。伝統的には、この「天に行き、キリストと共になる」ということは、最も親しみ深い「救い」のイメージである。けれども、その第1項「善人はみな天に行くか」で旧約の「善人」たちが一人も天に行かなかったと論じ、従って、天に行くことは「善人」であることの報いではないことを示唆する。(旧約の「善人」たちは地上に復活するとされる。)では、ある人々が天に行くのは何のためかと言えば、第2項「一部の人々が天へ行く理由」で、キリストと共に地を支配するためであると主張される。そして、第3項「何人の人が天に行くか」でその数が14万4千人であるといういう有名な教理を導入する。このようにして、もう一つの「救い」は、「救い」というよりも、「キリストの共同支配者として奉仕するため」(第2項第5段落)に天に行くという、奉仕への選びとして表現されているので、それがもう一つの「救い」であるとは気が付きにくいようになっている。

さて、当然のことながら、聖書の提供する「救い」は1種類しかない。旧約時代の信仰者たちも、天に行った(少なくとも最終的には天に移される)ことは、ヘブル11:5、8〜16から明らかである。更に、救いは一種類だけであってその中に差別がないことは、ローマ3:22だけを見ても明らか。2種類の救いが必然的に2種類のグループを生み出し、それはまた聖書的教会論からの逸脱になるので、教会論の章でも更に検討を加えることにする。

(2)「救い」とは?

聖書的な「救い」の概念を一言で述べることはできないが、単純化して言うならば、それは、「罪とその結果である死からの救い」であり、「『永遠の命』『神の国』『御子キリストとの交わり』etc.への救い」であると言えるかも知れない。何からの「救い」であり、何への「救い」であるかという、その両面から検討してみたい。

まず第一に、彼らの救いは「罪とその結果であるからの死からの救い」(ローマ6:23、エペソ2:5など)であるだろうか。「罪」についても語り、「死」についても語りはする。しかし、既に見てきたように、彼らは個々人の罪責についてはほとんど触れない。また、彼らは、聖書的「死」の概念を肉体の死(その後は存在しなくなる)としか考えず、罪人の現実が霊的には死んだ者であること(エペソ2:1)にもほとんど触れず、更には、やがての審判の時に永遠の滅びを刈り取るものである(黙示録21:8など)ことを否定する。彼らの救いは、少なくとも聖書的な意味での「罪とその結果である死からの救い」であると言うことはできない。(人間論第3節「罪の結果」参照)

『楽園』で最も強調される「救い」はハルマゲドンで滅ぼされることからの救いであろう。第19章「ハルマゲドン後、楽園となる地球」の最初のところに「救われる」という言葉が出てくる。「ハルマゲドンでは悪人だけが滅ぼされます。…そのようなことを行いつづける人々を、神がハルマゲドンで救われるようなことはありません。」(第0項第2段落)それは、「地上の楽園で永遠に生きられない」ことを意味するように受け止められそうである。但し、『楽園』をよくよく読み返すならば、「不義者」の一部もハルマゲドン後の後復活するということがわかるし、ハルマゲドンで生き残っても、1000年の期間中やその後の試験にパスしなければやはり第二の死(復活することのない死)に至る。しかし、重点はやはりいかにしてハルマゲドンに生き残るかに置かれるようである(終末論参照)。

そこでは、聖書が示しており、聖霊によって個々人が悟るべき、神の前における自らの罪の深刻な認識というものが極めて希薄である。『楽園』の主要テーマはハルマゲドンにいかに生き残るかということであって、人間の罪の問題は、少なくとも主要な関心事ではなくなっているのである。

第二に、『楽園』の救いは何への救いであるだろうか。14万4千人以外の大部分の者にとってそれは、「地上」において、「神の政府」の支配下で、「将来にわたって永遠に生きる」ことへの救いである。そのことは、彼らが「救い」という言葉の代わりによく言及する二つの言葉を手がかりにして考えてみるとよくわかる。すなわち、彼らは「救い」を、主として「永遠の命」、「神の王国」という言葉と関連付けて考えている。確かにこの2つの言葉は「救い」と置き換えてもよい言葉として聖書で用いられている(マルコ10:17、23、26)。けれども、この2つの言葉は、将来目に見える形で現されるものであると同時に、より本質的には、罪人が神のご支配のもとに立ち返り、御子との豊かな交わりの中に生きることを指し示す言葉である。「神の王国」の用法については、終末論で取り上げたので、ここでは「永遠の命」について取り上げる。

『楽園』第1章「永遠に生きることは単なる夢ではない」で、次のように記されている。「聖書には、神に仕える人間に永遠の命を与えるという神の取決めのことがしばしば述べられています。―ヨハネ3:14-16、36。…」(第1項第6段落)ここだけを読むと聖書的に「永遠の命」について述べているかのように見えるが、前後の文脈を見ると、これは“「永遠の命」=「地上の楽園で永遠に生きること」”を前提にして引用されていることが分かる。

このことにおける第一の問題点は、「永遠の命」を「地上」に結び付けすぎている点である。確かに、聖書の中には、「地」の永遠性を言っているように見える個所がある。(第1項第6段落で引用される詩篇37:29、第2項第2段落で引用される詩篇104:5。)しかし、この二個所はいずれも詩篇の言葉であり、「詩」としての性質上、相対的永遠性を歌っていると考えることができる。聖書には「地」の限界性をより明確に主張しているところがある(詩篇102:25〜27、第二ペテロ3:3〜7、黙示録21:1)。キリストが提供しておられる「永遠の命」とは、「地上の楽園」に縛り付けられたものではなく、古い天、古い地が過ぎ去ろうとも奪われることのないものであり、その本質はキリストが共にいて下さることである。

更に、「(将来にわたって)永遠に生きる」ということでのみ「永遠の命」を考えることも、本質からそれた捉えかたである。確かに「永遠の命」には、肉体がよみがえって永遠に生きるようになるという未来的側面があるのは事実である。ヨハネ5:21〜29でもそれは明らかであるが、しかし、その文脈の中でも「わたしの言葉を聞いて、わたしを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。」(24節)とあり、原語を見れば「受け」は現在形、「移っている」は完了形が使われている。肉体の復活は未来のことであるが、「永遠の命」は未来になってはじめて与えられるのでなく、信仰によって現在受け取ることができるものであることを述べている。彼らが引用しているヨハネ3:36の「永遠の命をもつ」も現在形である。

これらのことは、「永遠の命」が単に生命の時間的長さを言う言葉というより、質的なものを表していることを理解して初めて了解できることである。「永遠の命」の本質について主イエスが語っておられるところは、「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ17:3)『新世界訳』では「〜を知る」を「〜についての知識を取り入れること」と訳しているが、これはヘブライ世界で「知る」が「人格的に知る。交わる。経験する。」といった意味であることを無視した誤訳である。神、また、御子との人格的交わりが「永遠の命」の本質であって、単に命の時間的長さのみを意味するものではない(注19)。このことは、キリストによる命を得るまでは、肉体的に生きてはいても、霊的には死んだ者であるとの聖書の主張からも裏付けられるであろう。(エペソ2:1〜5)

キリストが与えて下さる救いは、未来になって初めて現されるものではなく、現在信じる者の心に神との交わりが回復され(マタイ1:21〜24、第1ペテロ2:25)、御子が共に歩んで下さることの平安と確信が与えられることでああり(コロサイ1:12、マタイ28:20、ヨハネ14:27)、本当の「命」の豊かさをもって生きることである(ヨハネ10:10)。

『楽園』の示している「救い」は、聖書が示し、キリストが与えようとしておられる「救い」とは異質なものであると言えよう。

第2節 「救われる」方法

聖書に啓示され、宗教改革によって再確認された信仰義認(信仰のみによって義とされ救われる)の教理は『楽園』において保たれているのだろうか。一見保たれているように見える個所がある。それは、既に言及した第6章「イエス・キリスト−神から遣わされた方ですか」第4項「イエスは贖いとしてその命をお与えになった」の第6段落である。

まず、このように記される。「イエスの贖いの犠牲は今でさえわたしたちに益となります。どうしてでしょうか。イエスの贖いの犠牲に信仰を働かせることによって神のみ前に清い立場を得ることができ、神の愛のこもった、優しい世話を受けるようになるからです。」これはまさに信仰義認を主張しているように見える。けれども、彼らの「救い」はあくまでも未来に関わるものであるので、現在神の前に清い立場を得ることが即救いになるのではない。「今でさえわたしたちに益となります」という部分は、「将来の救いにつながるかもしれないから益になる」という受け取りかたをすべきところなのだろう。

それでは、将来の救いについては「信仰」がどのように働くのであろうか。先の文の続きのところに次のように記されている。「また将来においては、その贖いにより、神の義の新秩序における永遠の命という神の賜物をいただく道がわたしたちのために開かれるでしょう。(ペテロ第二3:13)その時には、贖いに信仰を働かせる人々はみな、罪と死への束縛から完全に解放されるでしょう。そして、完全な状態で永遠に生きることを期待できるでしょう!」この中で「贖いに信仰を働かせる人々はみな、罪と死への束縛から完全に解放されるでしょう」だけを見れば、信仰による救いが言われているように見えるが、その前後の「道が…開かれる」、「期待できる」を見ると少し怪しく思われてくる。そして、更に他の部分を見ていく時に、『楽園』が信仰のみによる救いをはっきり否定していることが明らかになる。

まず、第15章「神の政府の臣民となる」は「神の政府の臣民」になる条件を記している章であるが、そこでは「知識」「義にかなった行為」「神の政府に対する忠節」の三つを挙げ、それらを詳しく説明しているが、キリストに対する信仰については語られていない。

また、先に指摘した、ハルマゲドン後復活してきた人がそのまま永遠に生きられるかどうかの基準も「神に仕えることを選ぶ」かどうかであるとされ、キリストに対する信仰については記されていない。注目すべきことは、この奇妙とも言える「不義者」の復活の教理は、ルカ23:39〜43の十字架につけられた犯罪人についての記述を解説する中で説明されているのだが(第20章第1項)、ここほど信仰による救いを例証しているところはない。それを、「今日あなたに言いますが、あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう。」(『新世界訳』)から、犯罪人がパラダイスにいるのは「今日」でなく将来であり、パラダイスは天にあるのでなく、地上の楽園のことを指すという解釈をする。この解釈の妥当性については大きな疑問があるが、仮にこの解釈を認めたとして、ここでこの犯罪人の復活がゆるされることの理由としては、彼のキリストに対する信仰が言及されてよさそうなところであるのにそのような説明はされず、神の目的に対して無知であったことが考慮されるからだと説明する。信仰義認の教理を知らないかのようである。

最後に、『楽園』最終章「永遠に生きるためにあなたが行うべき事柄」では、「救い」の条件が明確に打ち出されている。第0項第2段落で、「いのちを選んでいることをどのように示せますか。それにはまず、エホバとエホバがなさった様々な約束を信じなければなりません。」と、まずは、信仰について述べている。(但し、キリストへの信仰についてはここでは述べられないことに注意。)しかし、次の第3段落で、「しかし、必要なのは信仰だけではありません。エホバに対して抱いている本当の気持ちを示す業もなければなりません。(ヤコブ2:20、26)」と続け、明らかに信仰のみによる救いから逸脱していることを示している。続いて第1項「献身とバプテスマ」で、神への献身と水のバプテスマについて教えられる。しかも、いずれの場合も「目に見える、神の組織」との緊密な関係が勧められている。

最後の第3項「地上の楽園におけるとこしえの命を選んでください」では、選択は二つしかないことを強調し、「広い道」と「狭い道」が対照され、第2段落「神の新しい体制で命を得るための道、もしくは方法は色々ありと結論しないでください。それはただ一つしかないのです。洪水に生き残ったのは幾隻かの船ではなく、ただ一隻の船でした。足早に近づいている『大患難』に生き残るのも、ただ一つの組織、目にみえる、神の組織です。どんな宗教でも同じ目標に到達するというのは、決して真理ではありません。(マタイ7:21−23;24:21)永遠の命という神からの祝福をいただくためには、神のご意志を行ない、エホバの組織の一員とならねばなりません。」と結論付けている。ここまで来ると、『楽園』の教理が本質的には信仰義認の教えを完全に否定し、「組織」に従属することによる「救い」を提供するものであることが明らかになっている。


第8章 教会論

教会論では、教会の本質(定義)の他、その使命、教会政治・職制、礼典などが扱われるが、『楽園』で最も問題なのは、定義・本質といった教会についての根本的な理解の面で聖書からの逸脱が見られることであろう。

たとえば、教会政治(職制)については、第23章「目に見える神の組織」第3項「今日における神権的な指示」、第4項「世界的組織を導く」では、「統治体」のもと、各国に「地域」、「巡回区」、「会衆」と細分化し、各会衆には長老が立てられ、巡回区には巡回監督がいて、各会衆を回る、というような仕組みが述べられている。このような具体的な組織制度については、伝統的諸教会の中でも様々な制度が存在し、それぞれに聖書の解釈があるわけで、自分の教派と比べて『楽園』の教理を非難することは妥当でないであろう。しかし、その中でも問題を帯びてくるところがあるとすれば、「統治体」に与えられている役割であり、それは、むしろ教会の本質に関わる面においてである。

礼典の執行の方式についても、同じようなことが言える。聖餐式にあたる記念式を年に一度行なうことについては、第23章「目に見える神の組織」第5項「会衆内での集会」の中で述べられている。そこで問題なのは、その回数や方式でなく、「14万4千人」のうちの地上に残っている人だけがそれに与かるとされる、より教会論の本質に関わる点においてである。バプテスマについては、第30章「永遠に生きるためにあなたが行なうべき事柄」に述べられているが、その問題点は、その方式ではなく、前章で述べたようにバプテスマを受ける条件として考えられている、「信仰プラス行ないによる救い」といった救済論に関わる考え方である。

従って、以下のところでは、教会論の、より本質に関わる問題点を2つ指摘しておきたい。なお、新世界訳では、エクレーシアを「会衆」と訳すが、第14章「だれが、またなぜ天に行きますか」第5項「神の会衆」第一段落で、「『教会』すなわち『神の会衆』という語は、…」と、「教会」という用語も否定してはいないようなので、特にかぎ括弧なしに「教会」という用語を用いることにする。

第1節 二層構造を持った教会

『楽園』の教会観の中で最も顕著なのは、明確に二層構造をもった教会観であることである。これは、救済論で既に述べていることだが、『楽園』は二種類の「救い」というものを提示している。従って教会は二つの層に分かれることになる。第14章「だれが、またなぜ天に行きますか」第5項「神の会衆」では、「今日、わたしたちが交わるクリスチャンたちのことを、クリスチャンの会衆、と言うかもしれません。」と記される一方、「キリストの追随者から成る特定のグループ」のことをさす用語として、「生ける神の会衆」(テモテ第一3:15)、「天に登録されている初子たちの教会」(ヘブル12:33)、「子羊の妻である花嫁」(黙示録21:9)、「キリストの体」(エペソ4:12)、「神の神殿」コリント第一3:17、「神のイスラエル」ガラテヤ6:16、「新しいエルサレム」(黙示録21:2)を挙げている。これらはいずれも、本来キリストを信じるすべてのクリスチャンを含む公同の教会をさす言葉であるが、それが、たった14万4千人で構成される特別なグループに限定された用語として考えられている。従って、新約聖書に記されているキリストの恵みの多くが「14万4千人」だけのものとしてとらえられていることになるであろう。(聖餐式に当たる記念式でパンとぶどう酒に与かるのが「14万4千人」のメンバーだけに限られてしまうのも当然である。)

教会の中に「指導者」(ヘブル13:17)と呼ばれる人々があることは、確かである。キリストは初代教会において使徒、預言者、伝道者、牧師、教師をお立てになった(エペソ4:11)。長老、監督、執事と呼ばれる人々が立てられたりもした(第一テモテ3:1、8、5:17、テトス1:5〜7)。けれども、それは働きの分野の違いであって、神の前には、キリストによって贖われ、一つにされているものである(ガラテヤ3:28)。キリストの恵み(「救い」)そのものが、あるクリスチャンと他のクリスチャンとで異なっているという教えは、聖書のどこにもない。働きの違いはあっても、キリストにあって一つであるという公同の教会の本質的単一性こそが、聖書の教会観である(第一コリント12:12、13、前章 第1節 (1)も参照のこと)。

第2節 複数の教会組織の可能性

「神の国」を「神の政府」と呼び代えたり、「目に見える神の組織」(第23章タイトル)が強調されるところからも分かるように、彼らの教会観は、「組織」というものと切り離せないものになっている。しかし、聖書でいう「教会」とは、キリストの御名を信じる信仰によって罪ゆるされ、聖別された人々の集まり(第一コリント1:1、2)であって、教会組織は教会の本質に関わるものであるよりも、教会の働きに関わるものと言える。

もちろん、教会の誕生直後から組織が存在したことは認められてもよいであろう。しかし、「教会」=「単一の組織」と考えるならば行き過ぎである。

第23章「目に見える、神の組織」第1項「目に見える、神の組織―過去と現在」第4段落で「エホバが二つ以上の組織をお用いになった時代がかつてあったでしょうか」と問いかけ、ノアの時代にノア及びその家族だけが神に保護されたこと、1世紀の教会においてエルサレム会議で割礼問題の最終解決が与えられたこと(第2項「1世紀における型」)、エペソ4:5で「信仰は一つ」と記されていること(第1項第4段落)、マタイ24:45〜47で、「主人が、時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため、彼らの上に任命した、忠実な思慮深い奴隷…主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。」(新世界訳)とあること(第1項第5段落)を理由に、神の組織は常に一つであって、「神の僕たちのこの組織はエホバの証人と呼ばれています。」(第1項第6段落)と結論づけている。

ここでは、ソロモンの次の世代でイスラエル王国が二つに分けられたことや、パウロの使徒職がエルサレムにいた使徒たちによらず、主ご自身によるものであるというガラテヤ書の記述(ガラテヤ1:11〜2:10)は無視されているようである。また、エペソ4:5は、組織の唯一性を証明しないし、マタイ24:45〜47は、クリスチャンに対して働きへの忠実さを求める譬えであって、霊的食物を供給するクリスチャンの中の特定のグループのことを言っているものではない。

第3節 自組織の絶対化と他組織の全面否定

『楽園』のこのような教えの当然の結論は、エホバの証人のみが真実な神の組織であって、それ以外のすべての「教会」組織は真実な神の組織ではないということである。

実は、この主張は、『楽園』の最初から最後まで、何回にもわたって繰り返されている。第3章「宗教は本当に重要なもの」で既にプロテスタント教会もカトリック教会も互いに殺し合い(戦争)をしたこと、不道徳が許容されている教会があることなどから、それらはすべて偽りの宗教であると主張される(第1項)。神論やキリスト論などについての教理を主張する時にも、常に伝統的教理への批判の形が取られている。第22章「真の宗教を見分ける」では、「神のみ名を神聖なものにする」(第1項;「エホバ」の名を使い、告げ知らせること)、「神の王国の宣明」(第2項)、「神の言葉に対する敬意」(第3項)、「世から離れている」(第4項;政治問題などに関わらないこと)、「彼らの間にある愛」(第5項;戦争に参加せず、人種差別などもしないこと)などの点から見て、エホバの証人だけが真の宗教であると結論付けられている(第6項)。第25章「あなたはサタンの世を支持しますか、それとも神の新しい体制を支持しますか」では、「サタンの世とは、神の目に見える組織とは別個に、あるいは目に見える神の組織の外に存在する、組織されたこの人間社会のことです」(第1項第2段落)と記され、その一つの重要な部分は、「大いなるバビロン」と呼ばれる偽りの宗教であると主張される(第1項第3段落)。神の新しい体制を支持するなら、偽りの宗教の世界帝国から出る必要があり、それは、偽りの宗教との関係を断つだけでなく、世の宗教的祝いとも関係しないことであるとされ、クリスマス、イースターなどの祝日を祝わないことが要求されている。

もちろん過ちを犯したことについて、それが、教会の歴史の中の例外的なことであったとして弁解することは許されないであろう。いかに例外的なことだったとしても、それらの点について、諸教会は神の前に深い反省と悔い改めをしなければならない(不道徳、戦争への不当な参加、差別の容認)。しかし、それらは、教会の2000年にわたる歴史の中のある部分について起こったことであり、それが教会の全体の姿を表しているかのように印象付けることはやはり不当である。教会の他の部分においては、不道徳とよく戦い、平和のために貢献し、差別撤廃のために労してきている。地上の教会の歩みの中では、失敗や、混乱、罪悪・堕落が入り込むことがあることは、新約聖書を見ても明らかである(コリント人への手紙、黙示録2、3章など)。それで即その教会が偽りの宗教と決め付けられてしまうのではなく、神は諸教会に悔い改めを求めらておられる。教会は、罪を罪として認め、悔い改めて、「清くて傷のない栄光の姿の教会」を目指して歩みを続けるのである。

更には、神のみ名に関する教えや、クリスマス、イースターに関する教えのように、聖書の教えを捻じ曲げて勝手に作り出した基準で自らの正当性を証明しようとしている点もある。

最も重要なことは、これまで見てきたような、『楽園』が聖書的教理から逸脱している点それ自体が、他から自らを区別し、他の諸教会を偽りと決め付けるための証拠とされている(第22章第3項第4段落)ことである。このことを逆に用いれば、エホバの証人こそが真の宗教でないことの証明をすることができるのは明らかである。

『楽園』の結論は何であろうか。先に引用したところを再度引用してこのレポートを締めくくりたい。『楽園』最終章最終項にこのように記されている。「神の新しい体制で命を得るための道、もしくは方法は色々あると結論しないでください。それはただ一つしかないのです。洪水に生き残ったのは幾隻かの船ではなく、ただ一隻の船でした。足早に近付いている『大患難』に生き残るのも、ただ一つの組織、目に見える、神の組織です。(中略)永遠の命という神からの祝福をいただくためには、神のご意志を行ない、エホバの組織の一員とならなければなりません。」

しかし、キリストはこのように語られる。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)自らの組織をキリストの立場に置いているエホバの証人は、真の神の組織ではなく、反キリストの組織であるといっても過言ではないであろう。


注1 新世界訳研究会「『参考文献』エホバの証人・マインドコントロールカルト」(http://homepage2.nifty.com/ichikawakita/witness/shiryou.html;1997.4.14.現在)

注2 背山藤枝「エホバの証人伝道のための『ガイドブック』」(hyyp://www.vc-net.op/~michio/witness/seyama.html;1997.2.23現在)

注3 金沢司『欠陥翻訳−新世界訳』(北海道広島会衆、絶版)

注4 ヘンリ−・シーセン『組織神学』(聖書図書刊行会)98〜100ページ

注5 ウィリアム・ウッド『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(いのちのことば社)

注6 G.W.Bromiley,ed. "The International Standard Bible Encyclopedia",4Vols.(Grand Rapids:Eerdmans Printing Company)の'God,Names of'の項

注7 ウィリアム・ウッド『[エホバの証人]への伝道ハンドブック』(いのちのことば社)106〜152ページ

注8 ヘンリ−・シーセン『組織神学』(聖書図書刊行会)551頁〜554頁

注9 Brown,Driver,Briggs "A Hebrew and English Lexicon of the Old Testament"

(Oxford University Press:Oxford)の該当項目

注10 岩熊直『増補改訂新約ギリシヤ語辞典』(山本書店)の該当項目

注11 『新聖書辞典』(いのちのことば社)「ゲヘナ」の項

注12 たとえば、日本の福音派が最近の研究成果も踏まえて刊行したとされる『新聖書辞典』、『新キリスト教辞典』(ともにいのちのことば社)の「終末論」の項などを見てもそのあたりの動向が伺える。

注13 ジョージ・E・ラッド『神の国の福音』(いのちのことば社)第1章「神の国とは何か」

注14 岩熊直『増補改訂新約ギリシヤ語辞典』(山本書店)の該当項目

注15 村本治「エホバの証人情報センター」(http://www/aracnet.com/~muramoto

1997.4.1現在)「エホバの証人とは--1.歴史 第一部 ラッセルとエホバの証人の起源」のページの「1)初期のラッセルと再臨派の影響」の項

注16 Brown,Driver,Briggs "A Hebrew and English Lexicon of the Old Testament"

(Oxford University Press:Oxford)の該当項目

注17 ウィリアム・ウッド『[エホバの証人]への伝道パンフレット1 目ざめの時! 1914年:それは特別な年か』(いのちのことば社)15〜20ページ

注18 ウィリアム・ウッド前掲書では、「しるし」として取り上げられている5つの点について、様々な学者の見解が載せられている。それらの学者たちの見解によれば、1914年以降これらの「しるし」の増加は全く認めることができず、更に言えば、ある学者たちの見解を受け入れれば、これらの点のほとんどについては、今世紀になって最も少ない時代に入っていると言うことさえできることになるようである。

注19 『新聖書辞典』(いのちのことば社)「永遠のいのち」の項


本書を執筆された長田栄一先生(E-Mail:church@host.ne.jp)は

日本イエス・キリスト教団函館中央教会http://www.host.ne.jp/user/churchの牧師をしておられます。

本書はこれからも内容が更新されていくかもしれませんので、本書専用の「URL」を紹介しておきます。
http://www.host.ne.jp/user/church/rakuen.htm




          
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