どう対応したらよいか!

エホバの証人の救霊のために立ち上がれ


(大野キリスト教会  中 澤 啓 介)



目    次

は じ め に

第一章 訪問伝道の実態

第二章 どう応対したらよいのか

第三章 エホバの証人の組織


はじめに

 『エホバの証人の救霊のために立ち上がれ』というシリーズの二冊目のパンフレットを出版できることを主に心より感謝する。
 このシリーズはたった一つの願いをもって出版している。それは本当の福音を知らないで、今日も一軒一軒の家庭を訪問しているエホバの証人の方々に、福音的キリスト者が証詞をしていただきたいという祈りである。
 このパンフレットがお役に立つなら、どのような形であっても活用していただければ本当に感謝である。教会などで学びあうときのテキストにでも用いていただくなら望外の喜びである。
 このパンフレットにおいても、できる限り正確な記述を心がけたが、もし間違いがあったらご指摘いただきたい。特に三章の部分は、部外者には分かりにくいことや資料が限られていることもあって不十分なところがあるのではないかと思う。ものみの塔との深い関係のある方々からのご意見などお聞かせいただければと願っている。
 エホバの証人への伝道は、それに携わる人がバラバラに対応しているだけでは到底間に合わない。日本中のいろいろな場所でエホバの証人問題と取り組んでいる方々との連携プレーが必要である。エホバの証人の動き、この問題と取り組んでいる教会側の動きなど情報を交換しあえないだろうか。どこかが中心になってネットワークづくりを進めていただけたらと願う。
 エホバの証人の組織から信者を救出させることを目的とした団体、教会が起こされつつある。本当に感謝である。とともに、学問的にも本格的に取り組む専門機関が必要である。もしこの問題に正しく取り組むなら、日本の福音派の宣教姿勢、体質の刷新、教会形成に計り知れない益をもたらすと思う。
 エホバの証人問題は、福音派が総力をあげて取り組むだけの価値がある。

第一章 訪問伝道の実態

 あなたの住んでいる地域のエホバの証人は、今日もあなたのご近所の家庭を一軒一軒訪問している。しかも彼らは、自らをクリスチャンと名乗り、聖書を正しく解釈している唯一のグループとして個別訪問をしているのである。
 聖書のすばらしい福音を確信しているキリスト者はこのような状況にどう対応したらよいのだろうか。それには、まずエホバの証人の訪問伝道の実態をよく理解しておくことが必要である。

信者はみな訪問伝道者
 エホバの証人の組織においては、信者=訪問伝道者である。ところが普通のキリスト教会では、信者はあまり熱心に伝道していない。あるいは、証詞と伝道を区別し、証詞はすべての信者の責任であるが、伝道は伝道の賜物が与えられている人のするものだ、と考えているキリスト者もいる。しかも、その場合、伝道する人は牧師あるいは教職者の仕事であるかのようにとらえられていることも少なくない。しかし、エホバの証人はそうではない。訪問伝道をしないエホバの証人というのはありえないのである。
 なぜならば、ものみの塔の組織においては、書籍で聖書を学び、理解した、あるいは信じただけでは信者とは見なされない。彼らは、戸別訪問による伝道(野外奉仕ともいう)を実践しなければならない。そうしなければバプテスマを受けることはできないし、またバプテスマを受けた後であっても、この訪問伝道をやめるなら信者ではなくなる。
 エホバの証人にとって、この訪問伝道は必要不可欠である。王国会館で行なわれるすべての学び・訓練のプログラムは、この訪問伝道に照準が合わされている。
 ものみの塔には、礼拝や祈り会にあたる集会はない。基本的に、集会は学びの場であり、訪問伝道、あるいはその結果生まれる研究生を導くための訓練を受ける場なのである。

何はさておいても伝道
 エホバの証人にとって、すべての家庭を訪問して伝道することは義務である。それがまことの『イエスの弟子のしるし』であると信じている。エホバの証人はキリスト者が訪問伝道をしていないことを指摘し、それだけでもイエスの弟子ではない証拠だと批判する。
 マタイの福音書24章14節には「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」と言われている。今は終わりの時代である。そしてエホバの証人は、このみ言葉は訪問伝道によって成就すると信じている。
 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)とのイエスの言葉もまた、エホバの証人にとっては訪問伝道を意味している。とにかく彼らがしなければならない唯一のことは訪問伝道なのである。
 では、病気の人や体の不自由な方、お年寄りなど訪問伝道ができない人はどうなるのか。そのような人々もまた、伝道の責任が回避されるわけではない。訪問伝道はできなくても、他の方法で伝道しなければならない。たとえば、外に出られないなら、ワープロで友人に手紙を書くとか、ベッドに寝ているなら、付添いの人に書籍を読んでもらいながら伝道する、といった具合いである。組織はこのような伝道を訪問伝道に準ずるもの(『非公式な伝道』)として認めている。
 子供が生まれたばかりの若い奥さんが、出産の数カ月後に訪問伝道に復帰することも当然のように行なわれている。その結果ご主人から強く叱られ、体をこわしてしまった婦人もいる。とにかく、訪問伝道はハルマゲドンの戦いに生き延びるためには、必須条件なのである。
 訪問伝道の時間を生み出すため職業を変える人も少なくない。私の知っている人は、長年勤めた公務員生活に別れをつげ、パートタイムで働きながら伝道している。仲間と自営業的な仕事をし、四日間その仕事をし、残りは伝道活動に使っている人たちもいる。彼らにとって仕事は生活の手段にすぎず、職業など何であってもかまわないのである。
 学生もまた、訪問伝道に熱心である。普段はあまり時間がないので、春休みや冬休みには、多くの時間を訪問伝道にさくように勧められる。中学を卒業する子供たちの中には、高校に進学しないで、通信教育を受けている人たちも多い。訪問伝道に励むためである。高校を卒業するなら、大学に行く人はほとんどいない。大学の教育などエホバの証人にとっては意味のないことなのである。ただし、この数年の間にこの考えは少々変わってきたようである。

計画的な訪問伝道
 今日、エホバの証人は日本のほとんどの地域において、すべての家庭を一か月に一度ぐらいの割合で訪問できる力をもっている。彼らは、すべての家庭を地域ごとに分け、用意周到な計画のもとに訪問伝道をしている。決して思いつきで行っているのではない。
 エホバの証人は、70-80人ぐらいの人々からなる『会衆』(普通のキリスト教会の教会にあたる)をつくっている。訪問伝道の最終的責任はその地域にある『会衆』に委ねられている。
 『会衆』は普通、5つぐらいの『群れ』(一つの群れは15〜20人ぐらい)に分けられている。そしてその『会衆』が存在する地域を50ぐらいの区域に分けて、一つの『群れ』が10ぐらいの区域を担当するようにしてある。こうして『群れ』は、その区域内にあるすべての家庭を一軒残らず繰り返し訪問するのである。
 通常エホバの証人は、訪問伝道をはじめる前に、あらかじめ指定された場所に集まり、その日の聖書の言葉を読んで、祈ってから訪問伝道を開始する。通常は『群れ』単位で行なう。路上ではなく、信徒の家に集まり、短い集会をもってはじめることもある。
 訪問はブロックごとに進めていく。もし訪問先の人と話し込んで長くなると、群れの他の人たちはメモを渡し、次のブロックに進む。その日の訪問が終わると、皆で集まって簡単な報告をしあい、解散する。
『王国のよいたより』とは
 このような訪問によって、エホバの証人が伝えようとしているのは『王国のよいたより』である。では、『王国』とは何か。これこそエホバの証人を理解するキーである。
 エホバの証人が信じる王国は、1914年にはじまった。その年イエスは、天の王国において、王として即位された。これを『臨在』という。キリストが王になったとき、サタンは地上に投げ出された。その結果、サタンは地上で最後の活動をはじめ、飢饉、地震、不法、...などが地上に満ちるようになった。これこそイエスがマタイ24章で「世の終わりのしるし」と言われたことと解釈する。
 イエスのこの王国は、二重構造になっている。ペンテコステ以降1935年までにクリスチャンになった人々は天の王国に行く民とされている。その数は144,000人に限られる。彼らは、「油注がれた人」と呼ばれ、地上楽園をキリストとともに支配する。彼らのみ、新しい契約に与った民であり、聖餐式(エホバの証人では、『記念式』と言われる)に与ることができる。新約聖書のメッセージは基本的には、この天に行く民に書かれたものである。
 一方、1935年以降エホバの証人になった人たちは、天の王国には行かず、地上の楽園ですごす。この地上は、滅ぼされるのではなく、ハルマゲドンの戦い以降、人類の永遠の住みかになる。そしてこの地上の楽園は、先の天上の聖徒たちによって支配されるのである。

訪問伝道をする理由
 エホバの証人は、間もなくこのハルマゲドンの戦いがはじまると信じている。それは、1914年のキリストの臨在を見たとされる世代が地上での命を終わるまでには来るとされている(マタイ24:34)。このハルマゲドンの戦いは「神の大いなる日の戦い」(黙示録16:14)であり、エホバ神を恐れない者はすべて神ご自身の裁きを受ける。この滅びを逃がれる唯一の道は、エホバの証人の信仰を持つことである。「救いのためにエホバの証人の組織に来ない限り、すべての人は間もなくやってくるハルマゲドンの戦いにおいて滅ぼされる」(『ものみの塔』81/11/15号、p21)。この確信がエホバの証人を訪問伝道に駆り立てている。
 むろん組織は、ハルマゲドンの恐怖を伝道の動機にしないようにしばしば警告している。たとえば『わたしたちの王国宣教』では、「エホバの証人が野外宣教をするとき、エホバ神を代表するという特権を帯び、神とともに働くという誉れをいただく」と教え、訪問伝道が信者に益する点として次のような点をあげている。
   @エホバ神への純粋な愛
   A真理と義を求める人が必ずいる
   B家の人が聞いても聞かなくてもエホバのみ名が知らされ、神に誉れがもたらされる
   C無私の愛、喜び、平和、辛抱強さという霊の実を養う助けになる
   D謙遜さと同情心を養うのに助けになる
 しかし多くの信者にとってはこのような教えは建前である。ハルマゲドンの恐怖こそ伝道の原点になっている。しかも、そのハルマゲドンの戦いに生き延びることは伝道の相手だけでなく、実はエホバの証人自身にとっての問題でもある。というのは、たとえバプテスマを受けたエホバの証人であっても、組織の指示のもとで忠実に、そして熱心に訪問伝道をしない限り、彼ら自身もまたハルマゲドンの戦いの際に生き延びることができないと教えられているからである。エホバの証人にとっては、救いは可能性であって、必ず実現する確かな約束とは言えないのである。

訪問伝道をする人々の内面
 訪問される側としては、エホバの証人は信仰の喜びに満たされ、人々を救いに導きたくて、訪問している、と思えるかもしれない。むろんそういう人もいるであろう。しかし、多くのエホバの証人はそのような純粋な動機だけからではない。
 まず、ほとんどのエホバの証人は、ハルマゲドンの戦いの際に、エホバ神に見捨てられまいとして伝道に励んでいる。特に信仰に入って間もない人、あるいは若い人にこの恐怖感は強い。これまでものみの塔は繰り返し世の終わりを預言してきた。1799年、1874年、1914年、1916年、1918年、1925年、1937年、1941年、1975年などである。その度にハルマゲドンの裁きが強調され、信者は伝道に駆り立てられてきた。むろん伝道を推進させるために終末預言をしたと見なすのは言いすぎであろう。しかし、結果として、終末預言が組織に属する人たちに恐怖感を与え、伝道に対する切迫感をあおり、組織を拡張させていったことは否定できない。
 さらにまた、多くの信者は、組織に所属する者としての義務感や、あるいは組織の目を気にしながら伝道に励んでいる。彼らは毎月何時間の野外奉仕をしたかを報告しなければならない。組織は信者に伝道時間のノルマを課してはいない。もっと巧妙である。『会衆』の中に、野外宣教に熱心でないなら、怠惰である、霊的でない、世的である、神が受け入れてくれるはずがない、という空気をただよわせ、無言の威圧感を与える。この空気こそ問題なのである。
 この組織から抜け出た人々によれば、エホバの証人のほとんどはこの訪問伝道が重圧になっている。エホバの証人は、訪問伝道の時間を少しでも多くするため、いろいろな工夫をしている。例えば、自分の家を出てから最初の家で伝道するまでは、時間数に入れることができないので、まず隣の家に寄るとか、道で出会った人に伝道するなどして時間数を増やすのである。家を出る前に家族に伝道するようにし、そこから時間数を計算している人もいる。
 長い間エホバの証人の活動に熱心だったクイックは次のように告白している。「組織にいる間は、心の平安がなく、エホバ神が自分を受け入れていてくださっているとの確信をもてたことは一度もなかった。仲間のエホバの証人たちも、人々にエホバ神を伝えたいという動機からというより、訪問伝道の時間を満たしたいと考えていた。」(Pilgrimage through the WATCHTOWER p35-36)
 私たちは訪問伝道に励むエホバの証人の内面を理解する必要もある。ヨージー・ドイオンは、十年間のエホバの証人としての活動を振り返って、次のように述懐している。
 「ある時新聞に、エリザベス女王が練り歯磨き用の微笑を見せびらかせていると書いてあった。だが私は今やこの練り歯磨き用の微笑を、永続的にしていなければならぬのだった。すべての証人が家の戸口でそうしたのだ。結局ものみの塔は、世界中でエホバの証人ほど礼儀正しく親切な人間はいないことを、今まで私たちにたびたび知らせていたのだ。気難しい顔をしたり歯をむき出したりすることによって、この事実が嘘であることを暴くことは許されなかった。誰も見ていない内密の時にこそ、本当の顔はこっそり使うべきものだったのだ。」(『無慈悲な牧者たち−エホバの証人十年間の報告』(あかし書房、湯川真人訳、1988年、109頁)

訪問伝道の聖書的根拠はあるのか
 エホバの証人は、訪問伝道こそイエスが教え、使徒たちが採用した伝道方法だったと主張する。はたしてこのような主張は正しいだろうか。
 エホバの証人が訪問伝道をしなければならない根拠としてあげる聖書箇所は三つである。一つ一つについて検証してみよう。
@マタイの福音書10章12節〜14節
『新世界訳』では次のように訳している。「その家の中に入るときには、家の者たちにあいさつをしなさい。そして、その家がふさわしいなら、あなた方の願う平安をそこに臨ませなさい。しかし、もしふさわしくないなら、あなた方からの平安をあなた方のもとに帰らせなさい。どこでも、人があなた方を迎え入れず、またあなた方の言葉を聴かない所では、その家またはその都市から出る際に、あなた方の足の塵を振り払いなさい。」
 エホバの証人の聖書の読み方は普通の聖書の読み方と全く違う。まず主張したいことがあり、そのことを言えそうなテキストを探す。そして文脈を無視して、自分たちの主張をそのテキストに読み込む。この箇所もそうである。
 このテキストは、前の11節からも、弟子たちが伝道旅行をするにあたって、宿泊する家庭に言及していることは明らかである。弟子たちがある町に入ったなら、自分たちを迎えてくれる人を捜し出し、そこに留って伝道活動をしなさい、とイエスは言われたのである。今日エホバの証人がしているような家から家への戸別訪問をしなさいなどとは一言も言われていない。明らかに読み込みである。
A使徒の働き5章42節
 『新世界訳』では、「そして彼らは毎日神殿で、また家から家へとたゆみなく教え、キリスト・イエスについてのよいたよりを宣明し続けた」となっている。
 ここで、「家から家へ」と訳されているギリシャ語は、カタ オイコンで、家(オイコス)は単数形である。この表現は、新約聖書において他に5回出てくる。そのうち4回はパウロの手紙に出てくるが、そのいずれにおいても、キリスト者が集まっていた『家の教会』をさしている(ローマ16:5、Tコリント16:19、コロサイ4:15、ピレモン2)。もう一か所は、使徒の働き2章46節である。そこでもまた、エルサレムのキリスト者が集まっていた『家の教会』を指していることは文脈上明らかである。使徒の働き5章42節と使徒の働き2章46節の表現は全く同じであるので、そう限定する必要はないが、全く同じ家をさしていると解釈することもできるのである。いずれにしろ、家から家への伝道を命じているテキストと解釈するのは、無理である。
B使徒の働き20章20節
 『新世界訳』では次のようになっている。「同時にわたしは、何でも益になることをあなた方に話し、また公にも家から家にもあなた方を教えることを差し控えたりはしませんでした。」
 ここで「家から家にも」と訳されているギリシャ語は、カタ オイクウスで、5章42節とは違い、家(オイクウス)は複数形である。この句は、その直前にあるデーモシア(『新世界訳』では「公」、『新改訳』では「人々の前」)と対比された内容を提示する。
 ところで、このデモーシアは、使徒の働き16章37節(『新改訳』では「公衆の前」)と使徒18:28(『新改訳』では「公然と」)に使われているが、その原義は「公け」(publicly)である。すると、『カタ オイクウス』は、「公け」と対比された伝道のことになる。
 この使徒の働き20章20節は、パウロが自らのエペソ伝道に言及している箇所である。パウロのエペソ伝道についてはかなり詳しく記述されているが、私たちが知る限り、パウロが家から家への訪問伝道をした形跡はない(使徒19:8-10)。「沈黙からの議論」には慎重でなければならないが、もしそれがエホバの証人が主張するほど重要なことであるなら、使徒たちの伝道記録のどこかに触れていると期待するのは自然だと思う。しかし、そのような箇所は全くない。
 使徒の働き20章20節の『カタ オイクウス』は、使徒の働き5章42節と同様(「家」が単数であるか複数であるかの違いはあるが)、『家の教会』を指していると解釈するのがよいであろう。パウロが訪問伝道について言及している可能性を全く否定することには慎重であるべきだが、訪問伝道の聖書的根拠にすることは聖書解釈の逸脱である。もしそのような読み込みを許すなら、聖書を用いて自分の言いたいことをどんなことでも言うことができるということになるであろう。
 なお、ついでに一つのことに触れておきたい。それは、パウロが宣教したメッセージの内容である。それは「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」(20:21)と要約される。これは『神に』対する悔い改めであり、その信仰の対象は『主イエス』である。『エホバ』に対する悔い改めでも、『エホバ』に対する信仰でもない。このテキストから、聖書が主張していない伝道方法を問題にするより、聖書が明言している宣教のメッセージこそ問題にすべきである。
 結局、訪問伝道を『イエスの命令』あるいは『キリストの弟子のしるし』と見なす聖書的根拠は全くない。ものみの塔が、自分たちの主張に合致するよう『新世界訳』を翻訳したにすぎない。翻訳者が原著者の主旨を変え、自分の主張を読み込むことは、翻訳者として、絶対にしてはならないことである。それは原語を知らない一般読者を迷わせることであり、原著者にも大変失礼である。
 ところで誤解のないように申し述べておくが、これまでの言及は、訪問伝道が非聖書的であるなどと主張しているわけではない。ここで扱った聖句が戸別訪問伝道に聖書的根拠を与えるものではない、と言いたかったにすぎない。訪問伝道が数ある伝道方法の中でも有効な方法の一つであることはたしかであり、福音派の教会の中でも、もっともっと実践されるべきであろう。ただ、訪問伝道こそが聖書に指示された唯一の伝道方法であるとか、それをしなければイエスの本当の弟子ではないとか、それをしていないキリスト教会は神に忠実ではない、などというものみの塔の主張に反論しただけである。

第二章 どう応対したらよいのか

 エホバの証人に訪問されたらどうすればよいのか。キリスト者は誰でも、この問題について考えておかねばならない。自分のことだけではなく、地域の人々にどう対応すべきかを教える責任がある。なぜなら、エホバの証人は組織の綿密な計画に基づいて、あなたの地域の家を一軒残らず訪問する。そしてものみの塔の教えを聖書を使いながら、キリスト教の名において語っている。
 私たちがどう考えようと、エホバの証人は、既成のキリスト教はサタンの教えだと断言し、今日も布教活動を展開しているのである。

無防備なキリスト者
 キリスト者は、エホバの証人の訪問に的確に対応するため、準備しておかなければならない。というのも、エホバの証人はクリスチャンをもっとも伝道しやすい対象と考えているからである。かつてエホバの証人だった人が、「訪問した家庭がクリスチャンだと分ったときにはいつでも『しめた』と思った。聖書から話せば糸口が見つかると思ったからである」と告白している。
 ほとんどのエホバの証人は、クリスチャンと聖書から話をしたいと思っている。キリスト教は異教の教えを取り入れた間違った宗教であり、クリスチャンは聖書を読んでいないので、そのことに気づかない。もしエホバの証人が聖書を教えるならクリスチャンは信じるはずだ、とそう思っているのである。事実、エホバの証人の中には、ミッションスクールに行っていた人や教会との関係があった人が少なくないのである。
 キリスト者も熱心に聖書を読み、学んでいる。しかしそれは、神様が自分に望まれていることを聖書を通して聞こうとするデボーショナルな読み方である。この読み方は聖書本来の読み方であって間違っているわけではない。しかし、エホバの証人に対応するには不十分である。もしそのような読み方をするだけで、教理的な学びをきちんとしないなら、ものみの塔の教えが何となくおかしいことに気づいても、反論することはできないであろう。
 しかもものみの塔の聖書解釈は独特である。相手の主張をよく知ることはもちろん、反論の仕方も学んでおかないと対話はできない。仮りに話したとしても互いに自分の主張をぶつけ合うだけの平行線となり、口論に終わって、空しさを感じるだけであろう。

訓練を受けているエホバの証人
 エホバの証人はすべて伝道者である。彼らは伝道のプロとしての徹底した訓練を受けている。ものみの塔の集会の多くは、訪問伝道を鼓舞することに中心が置かれている。訪問の仕方、あいさつの仕方、話しの切りだし方、聖書研究にもっていくいき方、一つ一つていねいに実演によって訓練している。訪問した人や研究生から出される質問を想定し、その答え方を手とり足とり教えているのである。
 しかも、集会の中で教えるだけではない。実地訓練も徹底している。初心者にはベテランの人を付き添わせ、見習わせる。難しい研究生であれば、担当者(『司会者』と呼ぶ)を変える。また訪問伝道のときには、『群れ』ごとに一か所に集まり、はじめと終わりに連絡・報告を徹底して、失敗や恐れのとりこにならないよう、あるいは怠惰にならないよう細心の注意を払っている。
 組織は訪問伝道のためにさまざまのマニュアルを用意している。それは実にきめ細かく、どんな場合にも対応できるよう作られている。例えば、訪問した相手が「関心がない」と答えた場合、「忙しい」と反応した場合、「教会へ行っているから」と言った場合、「信仰が違うから」と拒否した場合など、一つ一つのケースを取り上げ、具体的に分かりやすく書かれている(『聖書から論じる』9-24頁参照)。そこには、セールスのテクニックや大衆心理学が見事に応用されているように思われる。

今までの対応の不十分さ
 一方、これまでのキリスト教会は、「エホバの証人は異端であるから、関わらないように」と教えてきただけではないだろうか。キリスト者の多くは、ものみの塔は三位一体を信じない異端的グループで、ヨハネの福音書1章1節のみ言葉を示せば、彼らの間違いは簡単に明らかにされる、ぐらいの認識しかなかったのではないかと思う。これではとうてい太刀打ちできない。
 何も知らないキリスト者は、エホバの証人の訪問を受けると、自分はクリスチャンだからと言って、ただ追い返してしまったのではないだろうか。実はこれは、彼らのマニュアルどおりの応対で、一番まずいやり方である。というのは、エホバの証人は「キリスト教世界の人々は聖書を読んでいないので、エホバの証人と話すことを恐れて追い返してしまう」とあらかじめ教育されているからである。
 ある元エホバの証人は、家庭訪問しながら、「エホバの証人が普通のキリスト教の教会に行っている人の家を尋ねると、ほとんどの人が話し合いを避けて逃げてしまう。真実を明らかにするための話し合いを拒むのは、闇にいる者、偽善者の特徴である。それは彼らが大いなるバビロン、サタンの組織に属している証拠に他ならない」とよく話した、と証言している。あなたがエホバの証人をただ追い返すだけなら、エホバの証人はそれを利用してキリスト教会の悪宣伝をしているのである。
 そのような話を聞かされるあなたのご近所の方々は、キリスト教会をどのように見るだろうか。聖書の真理をもっているのはキリスト教会ではなく、エホバの証人であるかのように考えるようになってしまったとしても仕方がない。欧米のようにキリスト教の伝統がある国なら、そのようなことをどれほど言われても影響は少ないだろう。しかし、日本はそうではない。まして今や、エホバの証人とキリスト者の数とはほぼ同数である。もしキリスト教界がこのまま何もしなければ、一般の人にとっては、聖書の真理をもっているのはエホバの証人ということになりかねない。あなたがエホバの証人を追い返す度に、そのような認識を助長する手伝いをしているのである。
 キリスト者は、訪問してきたエホバの証人をただ追い返すだけではいけない。エホバの証人の実態を知り、正しい対応の仕方を学ばなければならない。福音の真理を持つキリスト教会はこの問題に真剣に取り組まなければならない。日本全国のすべての教会が、今、緊急に。

いろいろな対応の仕方
 では、エホバの証人の訪問を受けたら、具体的にどのようにしたらよいのか。大きく分けると、四つの段階がある。
   @はっきり断わり、再訪問を拒否する
   Aキリスト者であることを証詞し、文書を手渡す
   B数回の対話をしながら証詞を試みる
   C研究生になって逆に聖書の真理を示す
 どの対応が一番よいかは、人によって異なる。自分のしやすい方法で対応していただきたい。他人のまねをする必要はない。また、将来変わることがあってもよい。ただ、今の自分の状態や立場をよくわきまえ、きちんと対応していただきたい。

断る人は明確に
 まず、エホバの証人との関わりをもつ気がない人は、訪問をはっきり断っていただきたい。この場合、門前払いをしても、決して失礼ではない。はっきりと断り、「二度と訪問してもらいたくない」と断言すべきである。もしその後、他の人が来た場合には、「この前他の人に来ないように」言ったことを繰り返し、絶対に訪問しないようにもう一度はっきり言っていただきたい。
 そのような態度をあなたがとることで、訪問者のカードに「再訪問拒否」と記されるはずである。相当な時間がたてば、再び訪問されるかもしれないが、通常それ以降は、訪問されないはずである。もし自分が再訪問を拒否したことを知らない他のエホバの証人が訪問してきたなら、自分が再訪問を拒否したことを組織の中で確認していただきたい、と述べ、訪問者のお名前を聞いておくとよい。
 あいまいな断わり方はいけない。多くのキリスト者はせっかく訪問してきた人に悪いという気持ちからか、ついあいまいな姿勢を示してしまう。異端的教えを明確に拒絶することは愛がないことを意味しない。セールスマンが訪れたとき、買う気がないのに、買いそうな気を見せるのはむしろ偽瞞である。自分を偽ることにもなるし、相手の時間を無駄にすることになる。それは失礼なことである。
 通常、再訪問を拒否する場合には、自分がキリスト者であることは言わない方がよい。先に述べたように悪用される危険性があるからである。
 もし自分がクリスチャンであることを明らかにする場合には、「私たちの家庭は神様を信じており、本当の平安に満たされております。今後いくら訪問してくださってもエホバの証人の信仰とは違いますので、絶対に訪問しないでください。もしあなたが自分の信仰に疑問が生じ、確信がなくなり、平安を失って、聖書に立つ本当のキリスト教の教会に行きたいと思ったときには、どうぞおいでください。私たちの教会をご紹介しますから」と話すのがよい。

文書を渡して証詞する
 何も言わず、とにかく断るというのは、一つの方法ではある。しかしあるキリスト者は、自分がクリスチャンであることを伝え、少しでも証詞をしたいと願うであろう。それはすばらしいことである。ぜひ、そうしていただきたい。そのようなクリスチャンが増えることを願う。
 では、そのような思いを持っている人は、どうしたらよいのか。
 まず、エホバの証人に手渡す文書を用意していただきたい。文書は簡単なトラクトの類から40頁ぐらいの小冊子までいろいろある。あまり簡単なものではない方がよい。ウィリアム・ウッド師の「エホバの証人への伝道パンフレット」を特に推薦したい。「目ざめの時!−それは特別な年か」、「目ざめの時!−忠実で思慮深い奴隷は誰か」、さらに「目ざめの時!−救い:それはいつ与えられるか」の三冊がシリーズで出版されている(いのちのことば社、定価300円)。あるいは、ティム・ボイル師による「エホバの証人の皆様へ、聖書を正しく理解しましょう!」という小冊子も役立つ(連絡先は、〒305、茨城県筑波市東新井24-7、電話は0298-55-0223)。これらの文書は、エホバの証人が読むなら、何らかのショックを与えるはずである。
 これらの文書は、エホバの証人に手渡す前に必ずご自分で読んでおいていただきたい。書かれている内容をよく理解し、もし相手が読んで質問をしてきたなら、ある程度の受け答えができるようにしておくのがよい。事前に教会で学ぶ機会があれば大変すばらしい。あるいは牧師からアドバイスを受けておくようお勧めする。エホバの証人と議論する必要はない。ただ彼らが考える機会を提供するのである。もしあなたが答えられないような難しい質問を受けたなら、「自分もよく分からないので調べてきます」と答え、牧師に相談すればよい。
 文書の用意ができ、ご自分も読んだなら、エホバの証人の来訪を祈りつつ待つことである。神様が丁度よい時に、あなたにふさわしい人をお送りくださるよう祈っていただきたい。あなたは伝道される立場から、伝道する立場に変わった。神様はあなたのことを一番よくご存じである。そして神様はあなたに託そうとする魂を送ってくださるはずである。
 さて、エホバの証人が来て、『ものみの塔』誌を読んでください、と差し出したとしよう。そのときあなたは、「ありがとうございます。私はクリスチャンです。私も読んでいただきたい文書があります。もし私の方の文書も読んでいただけるなら、あなたの雑誌も読ませていただきます」と、用意した文書を差し出すのである。
 通常、エホバの証人は自分たちの出版物以外は読まない。特にキリスト教の立場から書かれたものは、サタンからのものと考えているので受け取らない。
 もし受け取ることを拒否された場合には、「エホバの証人の方はエホバの証人以外の文書を読まないと聞きましたが、本当にそうなんですね。それでは、私もあなたたちの文書を受け取ることはできません」と言って、相手が差し出された文書を受け取ることを拒否するのである。
 もし相手が受け取った場合には、「ありがとうございます。私も、あなたから受け取った文書を読ませていただきます。次においでになるときには、私がお渡ししました文書の感想をお聞かせください。お待ちしています。」と言っていただきたい。
 エホバの証人があなたの差し出した文書を受けとったすれば、あなたはあなたの受け取った文書を読む必要がある。一通り目を通し、書かれていることについて何等かのレスポンスできるようになっておいていただきたい。そして教会の牧師には状況を説明し、牧師からの指示を仰いでいただきたい。お祈りをしていただくことは特に重要である。私たちの戦いは、霊的なものだからである。
 さて、エホバの証人が再訪問してきたなら、「先日の文書をお読みになりましたか。感想をお聞かせください」と先手をとって、話しかけるのがよい。渡しっぱなしはいけない。エホバの証人は仮りに受け取っても読まない場合が多いから、必ず、こちらが渡した文書についての感想を求める必要がある。もし読んでいないことが分かったなら、読んでから話をしたいと言って帰っていただく。対話に入ってはいけない。相手は約束したことを守らなかったのである。こちらも毅然とした態度で臨んだ方がよい。
 自分が受け取ったエホバの証人の雑誌については、触れないで済ませるものなら触れない方がよい。せっかくレスポンスしようと準備したのだから話したいと考えてはならない。あなたは今、伝道をしているのである。相手が話したい話題より、こちらが用意した話題に引き込まねばならない。できる限りこちらのペースで進めていくことである。相手の雑誌の話題などについては、相手が聞いてきた場合のみ、簡単に答えるにとどめる。

数回会って話す
 はっきり断る、キリスト教の文書を手渡す、という対応よりさらに踏み込んで、もっと積極的に伝道することは可能だろうか。あらかじめいくらかの学びをしておくなら、決して難しいことではない。訪問して来たエホバの証人もまた、聖書の救いを必要とする求道者である。訪問された機会を逆手にとり、真の福音を伝えるチャンスにするのである。
 エホバの証人に伝道しようとする人は、最初に自分がどこまで関わるのかを決めておかねばならない。というのは、エホバの証人は、あなたと数回の話をするなら、そのうち聖書研究をしませんか、と必ず誘ってくるからである。聖書研究とは名ばかりで、実はそれはものみの塔の書物の学びである。もしあなたがエホバの証人についてじっくり学び、本格的に伝道しようという気持ちがないなら、その誘いに応じてはいけない。その手前でストップすべきである。
 数回の対話では、エホバの証人を救いに導くことは無理である。だから余り深い議論に入らない方がよい。むしろ、あなたがもっているキリストの愛を感じていただければよい。エホバの証人は、自分たちの訪問が迷惑がられていることを知っている。だから暖かく迎えてくれる人に出会うと愛を感じる。彼らは本当の愛に飢えている。
 数回ぐらいなら会って話してもよい、と考える人は、まず自分の信仰を証詞するのがよい。挨拶の後、自分はクリスチャンであること、聖書に確信を持っていること、信仰の喜びの中で毎日を歩んでいること、感謝に溢れた教会生活を送っていることなど、遠慮なく話してみることである。信仰の体験やデボーションの中で教えられた聖句など気負わずに話してみるのもよい。エホバの証人以外にも、聖書を真剣に読み、聖書を信じて生きているキリスト者がいるのだという事実を知っていただくだけでもよい。
 それに対するエホバの証人の反応はさまざまであろう。訪問伝道の初心者は戸惑うに違いない。彼らが学ぶマニュアルには出ていない対応だからである。ベテランの人は、うなずきながら、良き理解者であるかのような態度を示すであろう。でも、彼らはあなたの証詞を受け入れ、本心から聞いているわけではない。彼らはあなたと話しながら、伝道のきっかけを見いだす努力をしているにすぎない。
 自分の証詞をするだけではなく、エホバの証人の方の証詞を聞くのもよい。信仰に入る前にはエホバの証人についてどんなことを知っていたのか、いつ頃信仰に入ったのか、信仰を持つにあたってどのような抵抗があったのか、今どんなことを感じているのか、ものみの塔の信仰に対して家族の反応はどのようなものか、救われた喜びや感謝はあるか、個人的に神様との交わりや祈りの生活はどうしているか、などを自由に聞いてみるとよい。
 あるエホバの証人は喜んで話にのってくる。一方、あまり話したくないという態度を示す人もいる。エホバの証人の場合、個人的な神様との交わりはほとんどない。救いの喜びや感謝、祈りが答えられたという体験も少ない。非常に主知主義的な信仰である。しかし彼らが弱みを見せることはない。彼らはプロの伝道者である。

研究生になる
 エホバの証人に本当に伝道しようと願うなら、数回の対話では不可能である。エホバの証人は、組織から教えられる思考の枠組にガッチリ固められている。組織以外の教えは、いかなる人の言葉であれ、聞くに値しないと信じている。真理が他にあるなどとは夢にも思わない。組織に反対する人たちの背後には悪魔がいると思い込んでいる。
 コンクリートで二重にも三重にも固められているように思われるエホバの証人の信仰を崩すには、どうしたらよいのか。結局次の二つのことをする以外にない。
 一つは、ものみの塔の聖書の読み方が、聖書のテキストを文脈をたどりつつ正確に読むことによって、おかしいのではないかと気づかせることである。このために、キリスト者はつぎの三つのことに心がけなければならない。
@ものみの塔の主張をよくつかみ、その聖書解釈が文脈を無視したでたらめなことをはっきり認識する
A聖書のテキストを正確な歴史的、文法的知識に基づき、文脈に沿いながら正しく解釈する
B最後に、その聖書解釈をエホバの証人が納得できる形で説明し、説得する技術を身につける。
 二つ目は、ものみの塔の出版物に出てくる矛盾を指摘し、そのようなことを教えている統治体に信頼することがむなしいことに気づかせることである。しかしそれは簡単なことではない。多くのキリスト者にとって、ものみの塔の出版物は手に入りにくいからである。しかもそれを読破して、矛盾点を指摘するなど大変な作業である。しかし最近は、これまでのものみの塔の出版物に現われた誤りや矛盾を指摘した資料集が出版されるようになった。感謝である。そのような資料はものみの塔の組織が出版したもののコピーだけに、エホバの証人にとっても受け入れやすい。
 問題は、この二つのことに気づかせるのにどのような方法があるかということである。ものみの塔はキリスト教の教えは悪魔からのものと教え、信者がキリスト教の集会に出席することや、キリスト教の書物を読むことを禁じている。彼らの方からキリスト教に近づいてくることはないのである。
 もしそうであれば、エホバの証人が伝道しようとキリスト者に近づいてくる機会を逆利用する以外にない。それは彼らの研究生になることである。彼らが研究生に対し、書物を通してものみの塔の信仰を教えようとするとき、彼らも聖書を使う。その機会に、ものみの塔の聖書解釈の誤りを指摘し、正しい聖書解釈を示し続け、考えていただくのである。
 エホバの証人の聖書研究の誘いにのって研究生になることは、ものみの塔の信仰の土俵で戦うことである。そのために注がなければならない時間とエネルギーは大変なものになるであろう。しかし、本格的にエホバの証人への伝道を試みるためには他に方法はない。そのような試みがどれほどの効果を期待できるかは何とも言えない。しかし結果がどうであれ、試みる価値はあると確信する。ぜひ大勢の方々にエホバの証人に対する伝道者となっていただきたい。

恐れずに立ち上がれ
 エホバの証人への伝道を難しく考える必要はない。恐れる必要もない。もしあなたが@失われた魂に愛を持ち、A彼らに対する宣教の重荷を感じ、B教会生活をきちんとおくりCものみの塔の信仰について学ぶ意欲をもっているならば、エホバの証人伝道は難しくはない。エホバの証人がキリスト教を批判をするとき、同じ聖句を用い、同じ順番で、同じ論理で、マニュアルどおりに攻めてくる。すべては組織が教えたパターンどおりに言うので、一度よくそのフレームを理解し、適切な反論方法を身につけるならば、誰にでも効果的に対話できるはずである。
 最近は、エホバの証人が提示する聖句に対して、エホバの証人が自分の信仰に疑問を持たざるをえなくなるような対話の仕方を教える書物も出版されつつある。特に英語圏では、元エホバの証人だった人たちが書いている書物がたくさんあるので、それらがまとめられ、日本でも紹介されて、エホバの証人への伝道に用いられる日も近いことであろう。
 エホバの証人は伝道に熱心である。すべてを捨ててエホバ神と組織に献身した人々である。もし彼らがこの熱心さで聖書の本当の福音を信じるなら、献身的なキリストの証人になるであろう。私たちはそのことを期待してエホバの証人への伝道を試みていこう。
 エホバの証人への伝道に取り組むことは、教会にとっても大きなチャレンジとなる。彼らに伝道するには、自らの姿勢を正さねばならないからである。聖書の学びに対する態度、宣教に対する姿勢、教会形成のあり方・・・さまざまな変革が要求される。そしてそれは、他の方法ではなかなか得られないものである。エホバの証人伝道が、プロテスタント教会の永遠の課題『教会の刷新』に大きな貢献をしてくれることを筆者は疑わない。

第三章 秩序厳しい階級組織

 エホバの証人への伝道を試みる者にとっては、ものみの塔についてよく知ることが重要である。本章では特に、ものみの塔の組織がどのようになっているのか触れてみよう。

統治体
 ものみの塔の組織は、徹底したピラミッド型の階級組織である。それは神権的秩序という名目のもとに絶対服従が強制される社会である。それは、アメリカのニューヨーク州ブルックリンにある『統治体』といわれるグループによって統括されている。
 この統治体のメンバーは現在12名である。92年12月22日、第四代目の会長レデリック・ウィリアム・フランズ氏が死去したので、同年12月30日に、ミルトン・G・ヘンシェル氏が第五代目の会長に選出された。
 この統治体のもとには、委員会があって、世界中のエホバの証人の活動が統括されている。その権威は、神の代理者としての権威で、絶対である。この統治体は、エホバの証人の信者に必要な霊的食物を備える「忠実で思慮深い奴隷」(マタイ24:47)と見なされており、ものみの塔の出版物はすべて、この統治体の責任のもとで発行されている。

支部
 この統治体のもとに、各国の支部が置かれている。その支部には、3人以上の支部委員が統治体から任命され、その国の働きを統括している。この支部を監督し、運営している人たちを『地帯監督』という。彼らはその国のエホバの証人の活動全般に責任を負い、支部事務所の種々の記録を管理する。また印刷工場をはじめさまざまの施設を監督している。
 日本支部は戦後の1949年に活動を再開し、東京の三田に事務所を置いた。
 1972年には、静岡県の沼津に日本支部の事務所を移した。その時から印刷機が設けられ、日本語の雑誌は外注しないで、自分たちで印刷するようになった。
 1979年、神奈川県の海老名市に日本支部の事務所は移され、海老名ベテルと呼ばれるようになった。
 1989年には、新しい工場と宿舎ができあがり、450人の人々が、日本におけるものみの塔の活動を支えるため、出版業務を中心とした事業に従事している。

地域区
 各支部のもとに地域区が設定されている。その地域の数は国によって異なるが、日本では40ほどの地域に分かれている。
 地域全体を監督する人は『地域監督』と呼ばれ、統治体によって任命される。地域監督は地域大会の責任をもつほか、自分の地域における巡回大会(後述する)のプログラム作成に責任をもち、その中で公開講演を担当する。また、彼のもとにある巡回監督(後述する)を指導する。地域監督は、月に一度、支部に自らの活動および会計の報告をする。

地域大会
 エホバの証人は年に一度、地域ごとに、4日間の地域大会を開いている。この大会は、@自分の『会衆』だけではなく、巡回区や地域区、さらに世界中のエホバの証人の活動に目を留めさせる、A一般の人々にも公開し、家族や友人への伝道の機会とする、という二つの目的をもっている。
 1993年の地域大会は、7月20日から8月末にかけて日本全国40箇所で行なわれた。大会は4日間にわたり、朝の9時ごろから夕方5時近くまで続く。そのプログラムは、聖書からの話、さまざまな主題に関する討議、訪問伝道の実演、聖書劇などである。基本的には、すべて統治体によって準備されたもので、世界共通である。ただし、地域の必要に応じて、いくぶんかの調整は許されているという。
 神奈川と東京の一部は、AブロックとBブロックに分かれて、7月20日からと、24日からの2回に分け、横浜アリーナで開催された。いずれも13,500人が集まり、立錐の余地もないほどだった。長野県の松本では、今年できたばかりのホールに、6,000人を集めた。

巡回区
 地域区の下に巡回区がある。日本では通常、一つの地域区に13ほどの巡回区がある。この巡回区単位で、年に2回、春と秋に、2日間の巡回大会が開かれる。この巡回区の責任者は『巡回監督』と言われ、統治体から任命される。
 巡回監督は年に2回、巡回区内にある『会衆』を定期的に訪問する。一つの『会衆』の訪問は一週間と決まっている。その訪問は火曜日にはじまる。火曜日の午後、訪問先の『会衆』の伝道者の記録カード、月ごとの野外奉仕の報告、集会の出席者数の記録、区域の記録、会計関係の書類などを調べる。長老や奉仕の僕と特別な会合をもったり、開拓者(伝道者の中でも多くの時間をさいている人たち)との特別な会合なども設定される。また、その週の王国会館の集会は特別なプログラムが組まれ、巡回監督は過去6か月間に学んだことを復習させたり、『会衆』の必要に応じた特別な講演をする。
 巡回監督は、伝道者とともに、野外奉仕、再訪問、研究などに同行してアドバイスを与える。その助言を希望する人は、掲示板に張り出された用紙に書き込むようになっている。希望者が多い場合には、『会衆』の長老団が調整する。訪問中の宿泊、食事などもメンバーがあらかじめ申し出るようになっている。
 巡回監督は、月に一度、支部に自らの活動および会計の報告をすることになっている。

巡回大会
 巡回区ごとに行なわれる巡回大会は、土曜日から日曜日にかけて行われる。内容的には地域大会、あるいは普段王国会館で行われている集会とほとんど変わらない。ただ、小さな『会衆』で行われる普段の学びより、その地域の中から優れた人が選ばれ、良く準備されているのでレベルが高い。信者たちは、すばらしいプログラムだと誇りに思っており、研究生や家族を熱心に誘う。彼らは、誘った人たちも感動してくれるものと期待しているようだが、普通の部外者には、内容もあまりない、退屈な集会だと感じるであろう。
 バプテスマ式は『会衆』ごとにはしないで、年2回の巡回大会、あるいは年1回の地域大会で行なう。バプテスマを受ける人は、より多くの人から祝福を受けるので、感動も大きいようだ。それに『会衆』ごとの伝道の成果が現れるので、競争心が駆り立てられる。その結果、『会衆』の横の絆が深まっていくようだ。組織はその辺の心理をたくみに利用しているようにも思える。
 機会があったら地域大会、巡回大会をのぞいてみるとよい。誰でも歓迎されるはずである。集会は講義や学びが中心で、時間どおりに始まり、時間どおりに終わる。最初に祈りや賛美はあるが、特別な音楽やショー的なものは全くない。学校の授業のような雰囲気で、感性に訴えるようなものは、ほとんどない。
 舞台や講壇の飾りつけもなく、すべてが整然となされ、余分なものは一つもない。ジーパン姿や派手な服装の人はいない。男性は背広、女性は簡素で地味であり、装身具をつけている人もめずらしい。小さな男の子であってもネクタイをきちんと締めている。エホバ神の前に普段着で出ることなど、彼らには考えられないのである。
 子供のためのプログラムなどは特に用意されていない。5、6才の子供たちも、朝から夕方まで一日中静かに親の横にいて、大人のために組まれたプログラムを、ノート片手にこなしている。
 昼食時や休み時間など、互いに挨拶を交わしているが、大きなジェスチャーで挨拶する人などはいない。騒いでいる子供も見あたらない。交わりによって、仲間意識を高めようとはしているが、自然な感情の発露が見られないというのが率直な印象である。マインド・コントロールされた集団の雰囲気だというべきなのだろうか。筆者は薄気味悪い印象をもった。

日本全国を網羅した『会衆』
 日本では、エホバの証人の成長は目覚ましい。毎年、地域区が1つ、そして巡回区が13ぐらいの割で増えている。数年前までは『会衆』のない地方があった。そのような『会衆』のない地方は「未割り当て地」と呼ばれ、開拓伝道者が派遣されたり、既存の『会衆』によって夏などに集中的な訪問伝道が展開された。その結果、そのような地域にも、『会衆』が生み出され、現在は、日本全国どの地域にも『会衆』が形成されている。
 神奈川県相模原市のある『会衆』は、2、3年前までは、山梨県のある「未割り当て地」を担当し、そこに『会衆』を設立する働きに協力していた。かつてその活動に参加したエホバの証人たちが、夏休みに子供たちを連れて、共同生活をしながら訪問伝道をしたことを話してくれた。そして、もはや日本では「未割り当て地」がなくなり、そのような活動ができなくなってしまったことを残念がっていた。

『会衆』とは
 エホバの証人では、教会のことを『会衆』という。一つの『会衆』は50人ぐらいの成員よりなりたっている。成員とは訪問伝道をしている人のことである。その訪問伝道者のほとんどはバプテスマを受けているが、バプテスマを受けていない人々も10人ぐらいは含まれているのが普通である。その成員を中心に、エホバの証人のもとで聖書を学んでいる研究生、エホバの証人の家族などを加え、一つの『会衆』は、70人ぐらいというのが平均であろう。
 エホバの証人の活動・集会は、通常この『会衆』単位で行なわれている。活動の中味は、世界共通であるので、『会衆』によって違うことはほとんどない。それでも地域により、構成している『会衆』の層により、特に指導者である長老の人柄によって、『会衆』の雰囲気にはかなりの違いがある。

長老
 『会衆』を治めているのは『長老』である。通常一つの『会衆』には3人ぐらいの長老がいる。長老は身分的なもので、職務的には『監督』という表現が使われる。その『会衆』の最終責任者は『主宰監督』と呼ばれる。長老団の会合の司会をしたり、その会員が抱えている問題の最終責任を負っている。その他、『神権宣教学校の監督』がいる。また野外活動を中心とした奉仕活動に責任を持つ『奉仕監督』がいる。この他、通信物や『会衆』の重要な記録類などを扱う『書記』がいる。これらの人々によって長老団が組織される。これらの長老団は文書の在庫目録、注文、野外報告、推薦状に関すること(監督、奉仕の僕、正規開拓者の任命やその取り消し)などを扱う。
 長老は他の成員と同じで、兄弟姉妹と呼ばれている。しかし、その権限は絶大なものである。エホバの証人は、キリスト教会においては牧師が先生と呼ばれていることを非難している。しかし、エホバの証人の組織の中で長老が持っている権限は、牧師のそれとは比べものにはならないくらい大きい。呼ばれ方は何であれ、その権威主義的在り方は想像以上である。
 この長老になるには、通常は、入信してから、少なくとも7、8年はかかるようである。家族があるなら、子供たちを信仰に導いていることも大切な条件のようだ。

奉仕の僕
 長老のもとに『奉仕の僕』といわれる人がいる。彼らは長老たちが細かなことに煩わされないよう長老たちを助ける働きをする。聖書で執事と呼ばれている人たちである。彼らは、『会衆』が個人的に、あるいは野外奉仕において使用する文書を取り扱う。『会衆』の会計や、野外奉仕の区域の割り当て、集会の準備なども彼らの仕事である。王国会館を維持管理すること、集会に来た新しい人たちを歓迎したり、集会の案内をすることなども彼らの責任である。彼らは火曜日の夜、群れ単位で行われる書籍研究の司会をすることができる。
 奉仕の僕になるには、入信してから早い人で2、3年、普通は3-5年かかるようである。また、長老になるには、奉仕の僕を数年経験する必要がある。奉仕の僕を何年もしながら、長老になれないために組織に不満をもっている人の話もよく聞く。

開拓伝道者
 エホバの証人にとっては、奉仕とは、野外奉仕のことで、一軒一軒訪問して伝道をすること、そこで出会った研究生と聖書の学びをすることである。それは彼らの信仰生活においては不可欠なもので、そのためにできる限り多くの時間を割くように励まされている。信者はこの訪問伝道に割く時間によって、いくつかのランクづけがなされている。
 エホバの証人はすべて伝道者である。エホバの証人の信者になるとは、エホバ神を証言することであって、それは訪問伝道をすることである。月に最低一時間以上の訪問伝道ができなければ、その人は信者(伝道者)とは見なされない。
 月に60時間を野外奉仕にさく人々を『補助開拓者』と呼ぶ。むろん彼らはバプテスマを受けていなければならない。それは一か月単位で任命され、何ヶ月でも続けることができる。その承認はその人が所属する『会衆』の奉仕委員によってなされる。
 補助開拓者の上に『正規開拓者』がある。月に90時間の野外奉仕をする人である。バプテスマを受けてから6か月以上たち、補助開拓を連続6か月以上した人が正規開拓者になることを申し出ることができる。彼らは長老たちの推薦を受け、ものみの塔聖書冊子協会によって任命される。
 『会衆』の長老団は、補助開拓者の人に正規開拓者になるように熱心に勧める。毎月続けてではなくても、夏休みのとき、あるいは巡回監督が回ってくる月などに努力するように声をかけているようだ。
 相模原市のある『会衆』には、50名の成員のうち、17名の正規開拓者、10名の補助開拓者がいる。これが平均的な会衆の実態であろう。
 さらにその上に、『特別開拓者』と呼ばれる人たちがいる。月に120時間の野外奉仕をする人である。正規開拓者として効果的な働きをしたことが認められる人々の中から選ばれる。彼らはものみの塔聖書冊子協会によって任命され、奉仕する場所は協会から割り当てられる。協会は彼らを経済的に援助している。

ノルマではないが
 野外奉仕に対して、組織は信者にノルマを課しているわけではない。あくまでも自分の意志に基づいてなされていると主張する。確かに、自発的に申し出て行なう形式になっている。しかし実際にはそれは建前である。組織からは、信者は少しでも多くの時間を野外奉仕にたずさわらなければならないと教えられ、その奉仕を熱心にしないなら霊的ではないという空気が満ちている中では、野外奉仕に熱心にならざるをえないのである。
 例えば、1992年11月号の『わたしたちの王国宣教』7頁では、次のような「12月に補助開拓を行いなさい」という記事がある。
 「年末には学校が休みになるため、バプテスマを受けた若者たちには普通、余分な時間があるものです。親や他の大人の伝道者たちもそれらの若者たちに加わり、その月の野外奉仕を拡大できるかもしれません。同様に、全時間の世俗の仕事を行っている大勢の人々も、命を救うこの宣教の業に普段より多くの時間をささげることができるでしょう。
 補助開拓者として奉仕できるかどうかは、求められている余分の努力を進んで払うか(ルカ13:24)、家族や『会衆』に関する事柄を含め、自分の活動をよく組織するなら、補助開拓者として奉仕する喜びを味わえるだけの時間を見いだせるでしょう。」
 先のヨージー・ドイオンは組織にいた10年間を回顧して、次のように述べている。
 「開拓者に一度成った者は誰であろうと、もうその道から退いてはならない、この仕事に取りかかった者は後ろを向くべきではないのだということが、何度も強調されていた。開拓者であってはいけないどんな理由もないことが、多くの感銘深い実例で次のように示されていた・・たとえ多くの子供を抱えた母親たちであろうと、彼女らが真理を十分に評価している限り、開拓者奉仕を行うことができるであろう。老人や虚弱者もまた、開拓者奉仕が役立つ。つまり彼らは病気にならないし、充実した満足感を与えられるのだから、進んで開拓者の道を選ぶべきである。手足の不自由な人や目の見えない人でさえ、開拓者奉仕を行うことができる。彼らはただ、電話で知人たちに証言するか、手紙で多くの人たちと連絡を取るかさえすればよいのだ。それだけに、若い証人たちは誰もが、ますます開拓者奉仕を彼らの第一の使命として熱望すべきである。できることなら親たちは、子供らが開拓者奉仕を続けていくことができ、世俗的な仕事に頼らないで済むように、彼らを支えてやらねばならない(176-77頁)。」

『会衆』ごとの会計は
 ものみの塔では、『会衆』ごとに会計を管理している。王国会館に行くと三つの献金の箱がある。一つはその会衆のために使われるもの、二つ目は、書籍や雑誌のためのもの、三番目は、世界のものみの塔の働きのための箱である。
 エホバの証人たちの生活は裕福ではないので、献金は多くはない。70人ぐらいの会衆の一か月の献金は、20万円ぐらいである。しかし、『会衆』の長老や奉仕の僕は無給であるからそれほど費用はかからない。
 エホバの証人が配布する雑誌や書籍は、以前は有料であった。しかし数年前から無料になった。エホバの証人たちは自分が配布する部数の費用は自発的な寄付という名目でものみの塔聖書冊子協会にささげている。値段は定められているわけではないが、それなりの相場というのが仲間の間にある。私の知っている人は、雑誌については一冊100円で計算している。その人はいろいろな寄付も含め、毎月2万円ほどささげている。平均はもう少し少ないかもしれない。
 ものみの塔聖書冊子協会の本部の会計は公表されないので、実態はつかめない。本部、各国にある支部の建物はどんどん拡張されているので、不動産に注ぎ込まれていることは間違いない。

おことわり
 外部の者にとっては、組織の内部のことは分かりにくい。組織の内部にいても、長老などの上にいなければ分からないことも多い。この章に記したものみの塔の組織の紹介はこれまでいろいろな方からお聞きした情報をもとにしてはいるが、そのすべての情報を確認したわけではない。また、記述にあたっては客観的であろうと勤めたが、情報提供者の、そして私自身の主観的判断が入ることは避けられない。お許しいただきたいと思う。間違っている部分、不十分な部分があったら、ぜひご指摘いただきたいと思う。大切なことは、エホバの証人に重荷をもつ者が、ものみの塔聖書冊子協会の本当の姿を正確に知ることである。特に、かつて組織の中にいた方々のご協力をお願いしたい。




          
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