いかに対話するのか



(大野キリスト教会  中 澤 啓 介)



目    次



は じ め に


第一章 神権的権威を主張する組織


第二章 エホバの証人はカルト集団


第三章 対話に入る前に


第四章 救出活動




はじめに

 

 「エホバの証人の救霊のために立ち上がれ!」のシリーズ三冊目、『いかに対話するのか』をお送りできることを主に感謝する。

 

 この小さなパンフレットもまた、たった一つの願いをもって著した。それは本当の福音を知らないで、今日も一軒一軒の家庭を訪問しているエホバの証人の方々、あるいはそのもとで学んでいる研究生に、福音的キリスト者が証詞をしていただきたいという祈りである。

 

 私は牧師になってから27年間、エホバの証人は異端であり、伝道できる相手だとは思って来かった。異端に惑わされないよう教会員を守る責任があり、どのように避けるべきか教えてきただけだった。

 といっても、むろんエホバの証人と接する機会がなかったわけではない。牧師になって以来、おそらく10人ぐらいの人々とは接してきた。「私の話しを聞いてくれるなら、お話をしてもよい」と言うと、教会にでも上がり、話しこんで行った人も結構いたのである。

 十数年前には、一人の青年が教会を訪れてくれた。十回以上にわたって、お話をした。エルサレム崩壊の年代をその青年は紀元前607年と主張し、私が586年だと話した段階で議論が行きづまった。長老からストップがかかったのである。彼はこれ以上私の所に行くことはできない、と手紙をくれた。彼は今、東北地方の巡回監督をしているそうである。

 

 昨年の7月だったと思う。金曜日の夜、私は王国会館で行なわれている神権宣教学校に行ってみた。エホバの証人は訪問伝道の訓練を受けていた。何回か通っていたのだが、ある土曜日の朝のことだった。私は数人のエホバの証人に出会った。出会ったというのは正確ではない。むしろ、後ろ姿を見たと言うべきだろう。追い越してみれば、昨日集会でいっしょだった人たちであることが確認できるだろう。でも私にはとてもその勇気はなかった。

 それは突然の経験であった。奇妙な経験だった。それまで感じたことのない感情だった。急にエホバの証人が哀れな人たちに見えてきたのである。そして、「あなたにはエホバの証人に証詞をする責任がある」、そういう神様からの召命感を受けたのである。

 それまでの私は、エホバの証人は喜び勇んで、確信に満ちて、伝道に励んでいると思っていた。しかしそうではないのだ。疲れているのに、訓練を受け、頑張れと励まされ、ハルマゲドンの戦いに生き延びるために、脅迫観念にかられてしているのだ。マインド・コントロールされた犠牲者なのだ。彼らが悪いのではない。彼らは組織にだまされ、欺かれているのだ。彼らもまた本当の福音をしる必要がある。

 

 以来、その召命感は大きくなるばかりである。

 

 エホバの証人をキリストに導くことが自分にできるのか。私には分からない。未だ導いた経験がない。でももし神様からの召命であるなら、止めるわけにはいかない。何年かかってもよい。効果がなくて、無駄であってもよい。私はキリスト者として、聖書の真理を知るものとして、本当の福音を信じる者として、証詞しなければならない、否、証詞したい。

 ただその一念だけで、小さなパンフレットを出版する。

 

 

  第一章 神権的権威を主張する組織

 

 ものみの塔において最大の問題は聖書解釈である。しかしその聖書解釈の問題は、聖書を解釈する権威を与えられたと信じられている統治体という問題にぶつかる。この組織という問題をよく理解しておかないと、エホバの証人との対話は徒労に終わるであろう。ものみの塔の信仰は聖書信仰ではなく、実は組織信仰なのである。

 

 『ものみの塔』誌(1957/5/1号、p274)は、「我々はエホバ神を父としてだけではなく、その組織を母とも認めねばならない」と述べている。組織は神とほぼ同じ位置に置かれているのである。エホバの証人はエホバ神に献身するのであるが、それは具体的に組織に無条件に服従することである。組織を疑うことは最大の罪であり、滅びに至る(『ものみの塔』誌1980年11月1日号、19-22頁参照)。エホバの証人になるとは、組織の奴隷になるということに他ならない。

 

統治体とは

 エホバの証人の組織は、ニューヨークのブルックリンにある統治体といわれる組織によって管理・運営されている。この統治体は全世界のエホバの証人の信者たちに対して、エホバ神の代理者として絶対的な権威をもっている。現在その構成員は12名である。彼らは皆144,000人の一人である。

 

 統治体という言葉がものみの塔聖書冊子協会の出版物に頻繁に使われるようになるのは、1970年代になってからである。それまでは会長に一切の権限が集中していたが。しかし、組織が増大するにつれ、そのようなあり方に不満を持つ人々が現われた。後に統治体のメンバーを抜けたレイモンド・フランツは、会長から統治体に権限が移されるときの統治体内の混乱、葛藤などを率直に証詞している。

 統治体のメンバーは、もともと・ものみの塔聖書冊子協会の7人の理事のみだったが、1971年には会長の任命によって4人が加えられ、1977年までには、18人にふくれあがっていく。現在は12人のメンバーで構成されている(『エホバの証人−王国の宣教者たち』 頁)。

 

 この統治体の最大の仕事は、世界中のエホバの証人が学び、配布する雑誌、あるいは書籍を出版することにある。『ものみの塔』誌をはじめ、多くの出版物によって、信者の歩みは完壁なまでにコントロールされているのである。

 

 この統治体のもとに六つの委員会が構成され、全世界の信者とその働きを支配している。その委員会とは、編集委員会、出版委員会、印刷委員会、人事委員会などである。各委員会は、統治隊のメンバー3、4人を中心に、数名あるいは十数名からなるメンバーによって構成されている。彼らの多くは、144,000人には入っていない。

 

 エホバの証人は、自分たちは聖書に従っていると思い込んでいる。しかし実際にはそうではない。統治体が解釈した聖書に従っているのである。統治体はすべての信者に対し、その解釈を神の声として服従することを要求する。『ものみの塔』誌は次のように述べている。「神の組織を通して与えられる神の指示に従わないということは、実際に神の支配を拒否することではないでしょうか」(1976年6月1日号、339頁)。

 

ものみの塔の組織しか認めない

 エホバの証人は、・この統治体の権威のもとにある自分たちの組織だけが神の真理を保持している、・と信じている。他の宗教組織は、キリスト教を含めてすべて、神に導かれているのではなく、悪魔に欺かれている。それは、黙示録に出てくる大淫婦バビロンに他ならず、滅ぼされるべきものである。

 

 ものみの塔の歴史においては、その教理は変更に変更を重ねてきた。しかしこの組織の権威という点においては、少しも変わっていない。そのことを確認するため、古い『ものみの塔』誌からいくつか引用しておく。

  「ものみの塔聖書協会は世界で最も偉大な協力団体である。なぜなら、それが組織されて以来今日に至まで、喜びの知らせを知らせるために主がご自身のチャンネルとして用いてこられたからである」(『ものみの塔』1917/1/15号、p6033)。

  「ものみの塔聖書協会は、主が収穫の期間がはじまって以来、ご自身の真理を分与するために用いてこられた唯一のチャンネルである」(『ものみの塔』1919/4/1号、p6414)。

  「エホバの証人の組織は地上で主を代表する見える部分であり、主の直接管理下に置かれている」(『ものみの塔』1938/5/1号、p169)。

 

 このような組織絶対化の考えは、最近ますます強調されている。比較的最近の『ものみの塔』誌から2、3引用しておこう。

  「地上のどこの場所であれ、エホバの証人の組織のみが神の聖き霊または活動的な力に導かれている」(1973/6/1号、p402)。

  「我々は神がご自身の組織を導いておられるという事実を見失ってはならない」(1985/6/1号、p19)。

 

 福音的キリスト者にとっては、この統治体の権威こそ、決して受け入れることのできないものである。個々の信仰箇条が異端的であることに注意を払わねばならないが、その根には、聖書をかってに解釈し、その聖書解釈を通して信者をマインド・コントロール統治体が存在していることこそ重大な問題なのである。

 心あるエホバの証人たちの中には、この絶対化された組織の権威に疑問を抱き、組織崇拝の間違いに陥っているのではないかと喝破して組織から離れる人たちもいる。しかしこれは、このような組織の実態を知るなら、大変勇気のいることである。私たちはこの間違いに気づかせ、彼らの良心を目ざめさせて聖書の本当の福音に帰ってくるように、情報を提供し、励ましつづけなければならない。

 

統治体の聖書的根拠

 エホバの証人は、・この統治体の原型を初代教会のエルサレム教会・に求める。エルサレム教会は、いろいろな地方に異邦人教会が形成されていくプロセスにおいて重要な役割を果たした。はたしてそれは統治体の存在の根拠になるであろうか。一つ一つの聖句を検証しよう。

 

@使徒の働き8章14節と11章22節

 8章でサマリヤ地方に福音が伝えられ、教会が形成されつつあるとき、エルサレム教会はペテロとヨハネとを派遣した。また、11章では、アンテオケにたくさんの信者が生まれたとき、バルナバを派遣した。このようにエルサレム教会は異邦人の教会ができあがるとき、@異邦人の受け入れた福音が使徒たちの伝えている福音と同一であることを確認し、Aユダヤ人教会と異邦人教会が良き交わりを保つためであった。両者が一つの信仰共同体であることを確認することは初代教会においては、非常に重要であった(エペソ2:14-22)。

 これは今日の教会で言えば、開拓伝道をした教会に母教会から信仰の確認を求め、交わりの手を差し延ばすために、人を送ったようなものである。

 

A使徒の働き15章

 アンテオケ教会に、救われるために割礼が必要だと主張する人たちが現われたので、パウロやバルナバはエルサレムに行き、会議が開かれた(使徒15:1-35)。この問題に対して一応の結論が出たので、エルサレム教会はその結論を手紙にしたため、諸教会に送った(使徒16:4-5)。

 この記録は、ある教会に問題が起きたとき、教会から指導者たちが集まり、相談し、主のみ心を求めた結果、ある結論に達したなら、皆でそれを守ろう、ということをした実例である。

 

 ところでものみの塔は、福音宣教が神の恵みによって前進し、異邦人教会が誕生していくプロセスの中でとったエルサレム教会の行動を統治体の存在する聖書的根拠に主張する。しかし、上記の解釈から、今日のものみの塔の統治体の働きに適用することはあまりに無理なことである。統治体のしていることとエルサレム教会の役目とが全く異質のものであることは説明の要はないであろう。ものみの塔は、自分の言いたいことを聖書を利用して主張することは日常茶飯事であるが、ここもまたその典型的実例と言えよう。

 

 一世紀の教会がその歩みにおいて教えを受けたのは、エルサレム教会ではなく、パウロを中心とした使徒たちである。彼らは聖霊の導きを受け、教会が信ずべきこと、取るべき立場、具体的な問題の処理方法について的確な指示を与えていた。そしてその内容は、今日聖書という形で神は私たちに残してくださった。教会は神からのメッセージを、あるいは霊的食物を組織体から受けるのではなく、聖書そのものから受けるのである。

 

B使徒の働き8章26-40節

 エチオピアの宦官は聖書を読んでいたが、ピリポに対し、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と語っている(使徒8:31)。ピリポは聖書を解説しつつ、宦官を信仰に導いた。

 このような例もまた、統治体が必要であることを根拠にする聖句としてはあまりに常軌を逸している。ある人が導かれるとき、聖書を解説して手助けをしてあげる人が必要なこともある。そのようなケースの場合にこの話を適用することは差し支えないが、それ以上は聖書の読み込みすぎである。

 むしろ、ペレヤのユダヤ人が聖書を直接調べた記録から言えば、統治体の存在は不要なのである。パウロの手紙もまた、「理解しにくいところがある」と言われている(Uペテロ3:16)。それでも解説者はいなかったのである。

 Uテモテ3:16-17は、神の人にとって聖書だけで十分であることが教えられている。

 

Cマタイの福音書24章45-47節

 イエスは、再臨の時がいつであるかは分からないのだから、目を覚まし、用心するよう教えられた(マタイ24:36,42,44,50,25:13)。そして、主の来臨を待って食事の用意をきちんとしている奴隷は幸いだとほめ、自分の全財産を委せた、と言われている。

 1914年、キリストは天の王国で王位に即位された(『臨在』と言われる)。その時キリストは、地上における宗教組織をご覧になり、ものみの塔の聖書研究者たちを『忠実で思慮深い奴隷』として是認され、他の宗教組織、キリスト教世界は破棄された。その結果、この『忠実で思慮深い奴隷』に自分の全財産を託された。この『忠実で思慮深い奴隷』が神の民のために霊的な食物を用意する人たちである。

 この『忠実で思慮深い奴隷』が具体的に誰を指すのかという点では、ものみの塔の出版物でもはっきりしない。少なくとも、@ものみの塔聖書冊子協会の創設者ラッセル、A組織のトップである歴代の会長、B統治体、C天の王国の民144,000人全部のどれかであろうが、はっきりしない。

 いずれにしろ、この『忠実で思慮深い奴隷』から、エホバの証人の霊的食物が来ると信じられていることは間違いない。

 

 このような解釈はエホバの証人以外全く思いもつかないほど滑稽なものである。それは、この話の後半48-51節も合わせて読めば全く明らかである。そこでは、同じしもべが不忠実であるなら、厳しく罰せられ、捨てられてしまう、と述べられており、用心深く主の再臨を待ち望むよう警告している、ごく一般的な例え話である。このことは同じ例え話を載せているルカの福音書ではさらに明白である(ルカ12:41-48参照)。

 

聖書解釈者としての統治体

 エホバの証人は、神のみ心を知るのに、聖書を読むだけで十分だとは考えていない。聖書を解釈してくれる人が必要だと言う。「神が用いておられるコミュニケーションのチャンネル(ものみの塔聖書協会)に触れない限り、我々がどれほど聖書を読もうと命の道に添って前進することはできない」と『ものみの塔』誌が述べるとおりである(1981/12/1号、p27)。

「エホバ神は、あらゆる国にいるクリスチャンが聖書を理解し、それを自分たちの生活に正しく適用するための助けとして、・・・ご自分の『忠実で思慮深い奴隷』を備えてくださいました。神が用いておられるこの伝達の経路と連絡を保たなければ、どれほど多く聖書を読むとしても、わたしたちは命に至る道を進むことはできません。」(『ものみの塔』誌1982年3月1日号)

 

 エホバの証人の出版物を読まないで聖書のみに向かうことは、ものみの塔にとってはとても危険なことなのである。

「一人であるいは小さなグループに分かれて家庭で聖書だけを読んでいれば十分だ、と彼らは言います。ところが不思議なことに、彼らはそのような”聖書朗読”を通してキリスト教世界の僧職者が著わした100年前の聖書注釈書に教えられている背教した教理に逆戻りしてしまう」(『ものみの塔』1981/12/15号、p24)。

 皮肉なことに、この文章は意外な事実を示している。ものみの塔の組織は、もし信者たちが聖書だけを読むようになるなら、100年前のキリスト教が説く教え(正統的なキリスト教教理)を信じるようになってしまう、と心配しているのである。

 

調整ばかりしている統治体

 ものみの塔は矛盾したことを平気で言う団体である。一方では、統治体の絶対的権威を要求しながら、他方では、絶対ではないことを弁解し、間違いが起きても言い逃れができるようにしてある。「啓示の書−その壮大な最高潮は近い!」では次のように述べている(9頁)。この文章は、神からのものとして無謬性を主張しているのだろうか、それとも、人間の解説であるから間違いがあり得ると言っているのだろうか。読者のご意見をいただきたい。ただしものみの塔の組織の中では、絶対的なものとして受け止められているのである。

「この出版物の説明が絶対確実だと唱えているわけではありません。昔のヨセフと同様、わたしたちも、「解き明かしは神によるのではありませんか」と言います。(創世記40:8)しかし同時に、わたしたちは、この本の述べる説明が聖書全体と調和しており、神からの預言が破局に向かう現代の世界の出来事のうちにいかに著しい仕方で成就してきたかを示していることを確信しています。」

 

 最近出版された『エホバの証人−神の王国をふれ告げる人々』の書物は、これまでものみの塔が信者には隠してきた部分をいくぶんか明らかにしている。最近は、ものみの塔の問題や批判的な書物が数多く出版されるに及んで、触れないわけにはいかなくなったのであろう。あるいは、近い将来、大きな教理の変更をするための下準備の書物かも知れない。

 それにしても、ものみの塔の歴史は調整の歴史だったことを明らかにしている。これでも多くの都合の悪い情報は隠されたままであるが、・この書物を読むだけでも、よくも間違いを教えてきたものだ・と感心するであろう。わが知る限り、これほどの間違いは一つであっても、許されないだろうと思う。まして、箴言4:18を用いて、啓示は斬新的で、次第に真理は明らかになるのだと自己弁明するなど考えられないことである。彼らの弁明の一例をあげよう。

 

 ローマ13:1には「上に立つ権威」とある。長年にわたってものみの塔は、・この権威はエホバ神とキリスト・と解釈してきた。特に、1929年6月1日号と6月15日号では、さまざまの理由をあげ、「聖書研究者たちは神の至上の権威に敬意を示したいと真剣に願っていたので、『上にある権威』はエホバ神とイエス・キリストであるに違いないと考えました」と言っている(『エホバの証人−神の王国をふれ告げる人々』、147頁)。

 しかしその後何年にもわたって、「その聖句の文脈や、聖書の残りの部分全体を考慮に入れた意味などが入念に再検討された」(同頁)結果、・世俗の支配者たちである・ことが明らかになったと言う。それだけではない。このように間違って解釈したことさえ、エホバの証人には役だったと説明する。「その過程で、エホバの証人各自は、神と世俗の権威の両方に対する責任を本当に果たしているかどうかをじっくり考える機会を得ました。」(同頁)。

 

 今、キリスト者はあなたの書棚にあるローマ人への手紙の注解書を開いていただきたい。そこに神あるいはキリストと解説しているものがあったなら示してほしい。私のところにある注解書は、16世紀のカルヴァンに始まり、昨年出版された書物の20冊近いすべての注解書は、地上の政府と解説しているのである。

 ものみの塔はここの解釈は間違っていました。その間違いも時には怪我の光明というのでしょう、役に立った側面はなかったとは言えませんが、と言うのが、常識なのである。そういうことを悪魔の声だと言うのなら、もはや、ものみの塔の言うことはカルト集団と断罪される以外にない。

 

神権的組織とは

 エホバの証人は、自分たちの組織が神権的(theocratically)であることを強調する。それは組織が神の権威によって統括されているということを意味する。

 神は秩序の神である(Tコリント14:33)。従って神の組織は、上から下まで、すべてが神の秩序によって運営されるはずである。その秩序は、神の権威に基づいている。エホバの証人はバプテスマを受けるとき、この「神権的な秩序」を受け入れ、組織への忠誠を誓った人たちである。その結果、最上部の統治体から、最下位の研究生に至るまで、完全な階級制度が構築されることになる。

 

 この神権的秩序は絶対である。これに服することは信仰者として当然のことである。もしそれに反逆するなら、それはサタンに従うことになる。信者はいかなる場合にも、この神権秩序に従わなければならない。この点に関して、『ものみの塔』誌は次のように述べている。

 神の家族内のすべての人にとって、地上の『忠実な奴隷』と通して伝達される、偉大な神権統治者エホバおよび王なるみ子イエス・キリストの教えや取決めに忠節に服するのは、何と重要なことなのでしょう。神権的秩序はまずエホバご自身を頂点として始まり、そこから下に向けて広がっているのですからわたしたちは神権的な支配から独立することによって悪魔サタンを見倣う者になってはなりません。神権的秩序に服さないように勧めたサタンの欺まん的な言葉に聞き従ったエバに臨んだ悲惨な結果を思い出してください。(1982年9月1日号、17頁)

 

 エホバの証人の組織においても、上に立つ人は僕であって支配するものではないと言われる。しかしそれは建前である。例えば、あなたが、エホバの証人のもとで書籍をとおして聖書研究をはじめたとする。するとそのエホバの証人はあなたの研究司会者(略して司会者)になる。その司会者はあなたを導く教師であり、組織の活動においてはあなたに対して絶対的な権威を持っている。『会衆』の他の人が食事などの交わりに誘うときにも、その司会者を通さなければならない。あなたがエホバの証人の書籍を求めるときも、その司会者を通してである。その司会者を通して研究生はエホバの証人の仲間入りをしていくのである。

 

 

  第二章 エホバの証人はカルト集団

 

 最近の学者、そしてマスコミは、ものみの塔をカルト集団として扱う傾向にある。はたしてこのことはものみの塔に対して正しい評価と言えるだろうか。

 

ものみの塔側からの反論

 異端のグループは自分たちがどのような呼ばれるかは、いつも神経を尖らせている。エホバの証人においても同様である。『ものみの塔』誌94年2月15日号では、「エホバの証人−カルト教団?それとも神の奉仕者?」という特別記事を掲載し、ものみの塔がカルト集団ではないことを弁明している。

 

 エホバの証人がカルト集団かどうかは、『カルト』という言葉の定義による。『ものみの塔』誌によれば、カルト教団とは次のように定義されている。

「明らかにカルト教団は、正常な社会行動として今日受容されているものに反した、急進的な見方や慣行を有する宗教グループであると一般に理解されています。普通、彼らは秘密裏に行ないます。こうしたカルト教団のグループの多くは共同社会を作り上げて、実際に外の世界から孤立しています。自称指導者に対する献身は、無条件で排他的であるかもしれません。多くの場合そうした指導者は、自分は神から選ばれたとか、あるいは自分は神の性質を持つとさえ言ってはばかりません。」(同記事、4頁)

 

 このような『カルト』理解に基づいて、ものみの塔は、@1993年の春の記念式には、1,100万人も集まったグループで、非主流派の小さな宗教グループではないこと、A思想、良心、宗教の自由があり、マインド・コントロールを使っていないこと、B一般の人々から孤立して、共同社会に住んでいるわけではないこと、C災害が起これば、直ちに救援物資を送って人々を援助していること、D世界に類例を見ない大規模な教育計画を実施していること、E人間の指導者を崇めたり、偶像視していないことなどをあげ、エホバの証人がカルト教団ではないと釈明している。

 

 ものみの塔がこのような弁明をすることはごく自然なことである。組織内にいる人はこれで満足である。彼らはそこに何が書かれているかは重要ではない。『ものみの塔』誌で扱われていれば、それでもう問題は解決したと考えている。その弁明の妥当性など検証しようとはしない不思議な人たちである。問題は、はたしてこのような弁解がごく普通の人々を納得させか、ということにある。

 

カルトの定義次第

 『異端』という言葉は、正統的教理を否定していることに対して使われる。これに対し、『カルト』という言葉は、教理的な面より、組織体の性格に注目した表現である。確かにそれはあいまいな言葉で、その使用法には現時点では揺れがある。

 しかし例え、『カルト』という言葉をものみの塔が主張するような意味において解釈しても、ものみの塔の活動は、カルト的要素が満ちていることを否定できない。ものみの塔を『カルト集団』と呼ぶかどうかは大きな問題ではない。重要なことは、ものみの塔の組織のカルト的要素を明かにし、組織の中にいる人にも、外の人にも、できる限り公平に知らせることである。

 

 このことはむろん簡単なことではない。公平と言うのは簡単だが、宗教的問題を扱う場合、実際にそうできる人はいない。というのは、宗教の世界では客観的立場、中立の立場というものがそもそも存在しないからである。その宗教を信じているか、それとも信じていないかのどちらかである。どちらの立場に立ったとしても、公平ではありえない。結局、できる限り情報を正確に紹介し、読者に判断を委ねる以外にないのである。

 

読むものを制限する

 エホバの証人は、ものみの塔から出版される印刷物以外は、宗教的なことに関する限りではあるが、読まない。まずそれは組織から禁じられている。特にキリスト教の書物、脱会者・排斥者・背教者たちの書物は、悪魔サタンからのもので読んではいけない。それに組織、ものみの塔の組織のみがすべての解答をもっているので、他の書物には読む価値はない。集会の準備と訪問伝道に忙しい彼らにとって、他の書物を読む余裕などまったくないのである。

 

批判者はすべて悪魔に操られている

 ものみの塔の組織に入ると、組織の言うことしか信じられなくなる。自分たちに批判的な意見はすべて悪魔からのものと見なす。反対する家族や友人は悪魔ではないが、彼らは悪魔に用いられる道具だと教えられる。

 このことはエホバの証人の学びをはじめると最初に警告される。ものみの塔の学びをはじめるとサタンが家族や友人を用いて、反対や迫害をしてくるとあらかじめ警告され、家族には言わないようにと言われる。従って、かなり深入りし、選挙に行かないとか、お誕生日を祝わないとか、結婚式に出ないとか、夜の集会に出はじめるなど、その言動が目立つようになるまでは、家族には分からないケースが多い。

 

 もし、ものみの塔の集会に行くことを家族が反対するなら、研究生は、サタンが背後にいて自分の信仰に挑戦してきた、と組織の教えに従って解釈する。そう解釈するだけではなく、すべてが組織の言うとおりになることを見て、組織への信仰は絶大なものになる。どのような意図で家族が反対しようと、とにかく反対するなら、その人の信仰を強める結果になる。

 ものみの塔が言うように、彼らは物理的な力を加えて洗脳教育などしていない。その必要はないのである。はるかに巧みにしている。人の心理をこれほどまでに知って、プログラムを組んでいるグループは他にあるだろうか、と思う。それは想像以上に、マインド・コントロールの世界である。

 

自由な考えをもつことはできない

 エホバの証人は、組織に絶対服従しなければならない。組織が教えることに疑問を持ったり、反論することは許されない。確かに思想の自由、表現の自由、学問の自由が公然と否定されているわけではない。すべてはもっと巧妙になされている。組織は組織の教えるとおりにすべてを理解することができるように、一定の枠(思考のパラダイム)を与え、その方向でものを考えるような教育システムを作り上げているのである。従って、組織の答えが自分の答えだと勘違いしてしまうのである。長い間エホバの証人だった友人が、「エホバの証人時代は、自分の言葉で話していたが、自分の考えを話したことはなかった」と話してくれた。本当にその通りなのである。

 

 多くの人は自分の責任で考え、行動することは苦手なのである。誰かに判断してもらい、誰かに決断してもらいたいのである。ものみの塔はこのようなニードに応えることに完全に成功している。この成功の理由は、彼らの学びの形式にある。

 彼らの学びのテキストはすべて組織からの出版物である。それ以外は許されていない。しかもそのテキストにはあらかじめ質問が用意されており、信者はその質問に答えるという形で学びが進められる。学ぶ信者は、あらかじめ予習をして、本文から答えを言えるよう準備してくる。集会中司会者が質問をしたなら、それを発表する。もし司会者が期待するような答えが返ってこないなら、司会者はやんわり受け流し、組織が要求している答えが出てくるまで、違う人にあて続ける。このような学びの形式では、実質的に、学問の自由はないのである。

 

 もちろん組織は、個人的な質問は後からいくらでもできると弁明するであろう。しかし重要なことは、組織が問うてはいない本質的な質問、違った見方、反対の見解などが自由に発表されることである。これらはものみの塔においては許されない。個人が自立した判断をすることは『独立的な考え』であり、ほめられるべきことではない。むしろ、誇りの結果生じるもので、危険なものであり、戦って克服しなければならないと教えられている。『ものみの塔』誌は次のように述べている。

「一部の人々は、この組織がこれまで幾つかの調整を行ってきた(教理を変更してきたの意)ことを指摘し、『この点からすると、わたしたちは何を信じるべきかについて自分で決定しなければならない』と論じます。これは独立的な考えです。この考え方が非常に危険なのは、なぜですか。この考えは誇りの証拠です。・・・自分は組織よりもよく知っていると考え始める人は、こう自問してみるべきです。『自分は最初に真理をどこで学んだだろうか。組織の導きがなかったとしたら自分は真理の道を知っていただろうか。実際に神の組織の指導なくしてやってゆけるだろうか』。確かにやってゆけません!」(1983年4月15日号、27頁)

 

考えない人間を作る

 ものみの塔の学習形態は全く考えない人間を作るシステムである。その集会に行くと、何を学んでも、あらかじめ用意された質問に答える形で進められる。そこに問題がある。質問はあらかじめ質問者の意図にしたがって作られているので、どのようにでももっていけるのである。

 普通学問の世界では、新しい学説が歓迎される。それがなければ進歩はない。しかしエホバの証人の社会では考えなくてよいようになっている。新しい考え、個性的なものは拒否される。すべてが一様で、同じように考え、同じように信じ、同じように振舞うことがエホバ神の望んでいることだとされる。秩序の神という概念で割り切られる。自分で判断するのではなく、言われたとおりにする人間こそ神が喜ばれる人間なのである。

 さらに、同じことを繰り返させることによって、最初は奇妙に思えることも真理であることを錯覚させる。その書籍を見るなら、同じ聖句が何度も何度も使われる。するとその聖句が他の聖句とは違って特別重要に映るのである。

 

 この組織への服従は、外からの強制によってではなく、自分の意志によるかのようにしくまれている。信者がそのように言うとき、本当のことを言っているとしか考えられない。それは、長い間一定の情報しか手にすることができず、一定の方向でしかものを見ることが許されず、そのようにしか考えることができないように訓練がなされ続けた結果である。しかもそれらのすべてが、神の名によってなされているのである。もしその社会に身を置くなら、普通の人には、組織に服従しないことなど考えられない。

 

 このような学び方を続けて行くなら、決して考える人間にはならない。エホバの証人と話してみるとよい。誰もが同じように考え、同じように答える。それは組織の答えであるが、自分の答えだと思っている。しかもそれは聖書の答えであり、神の答えであると勘違いしている。組織の中にいたなら、それがおかしいことだとは気づかないのである。これはものみの塔の問題というより、人間性の問題で、ものみの塔はそれを悪用しているのである。

 組織はエホバの証人の生活を忙しくさせている。週に5回の集会への出席を義務づけ、その集会のために予習しておくことを求める。さらにどんなに忙しくても、訪問伝道に励ませる。自分で考える暇や余裕を与えない。

 

不足感を与える

 エホバの証人はハルマゲドンの戦いに生き延びたいと願って訪問伝道に励んでいる。しかしどれだけ訪問伝道しても、ハルマゲドンの戦いのときに生き延びることができるという保証はない。永遠の命の見込みが与えられているだけである。このことが彼らを熱心な伝道に駆り立てる。人は十分だと思いはじめると怠けはじめる。だから組織は、もう十分だという感情を持たせない。この不十分性の意識は、エホバ神から見捨てられてしまうのではないかとの恐怖感を与え、周囲にも競争心が造られている。彼らに本当の平安や喜びはない。

 研究生に質問されて答えられなくても、彼らは迷ったりはしない。今の自分たちには答えるだけの知識がないだけだと考えるようになっている。統治体は完璧な答えを持っているのであるから、もっと勉強をしなければと思うようになる。

5)生活の細かな点に至るまでの拘束する

 カルト集団は、そこに所属する人々のライフスタイルをも制限する。それによって組織のアイデンティティーを形成する。髪の毛の長さ、服装、スカートの長さ、子供のしつけにいたるまで、彼らを規制する。

 多くの人は彼らの礼儀正しさに驚くかもしれない。時間はきちんと守る。整理整頓も厳しい。普通の人がしないような生活態度である。

 しかし、信者の生活のいろいろな面における規則は、聖書の教えであるかのように言われるが、実際には、そのような教えは聖書どこにもない。これらは『神権的な条令』と言い、彼ら独自で規制をしいているのである(『エホバの証人、マインド・コントロールの実態』、70-71頁)。

 その服従は宗教的真理に限定されない。生活の全領域におよぶ。もし組織の教えることがと国家政府、会社、学校、家族が要求することとの間に矛盾が生ずるなら、組織に従うことが求められる。ものみの塔の組織は「神の民のマインドを指示する組織」(『ものみの塔』1983/3/1号、p25)であり、「あらゆる決断に影響を与えるべきである」と言われている(『ものみの塔』1969/3/15号、p172)。

 

恐怖感を与える

 組織は、ハルマゲドンの恐怖を与え続けている。ものみの塔は、世の終わりの預言を、1925年、1925年、1925年、1925年、1925年、1925年、と繰り返している。預言はいつでも外れるのだが、それでもこのように預言し続けるのは、ハルマゲドンの戦いのきっぱく感を与えることが信仰生活に重要だからである。彼らの熱心な伝道は恐怖感で脅かされているのである。

 ものみの塔では、組織から離れて行った人々がいかに不幸になったかを絶えず教えている。組織から離れたなら、家族であっても信仰の話しをすることを禁ずる。

ることに恐怖心を抱かせ、組織から抜け出ないようにしている。

 またこの組織から離れたら、自分が行くべき所はないという恐怖感がある。彼らのほとんどは、職業を捨て、家族を捨てたのである。

 

愛の共同体だと感じさせる

 エホバの証人の仲間たちは、自分たちが本当に愛し合っている仲間だと錯覚を持っている。もしあなたが研究生になったり、王国会館に行くなら大歓迎されるはずである。それまで経験したことのないような応対を受けたと多くの人が述べている。

 もし家族から反対され、迫害を受けるものなら、エホバの証人の仲間から差しのべられる兄弟姉妹としての愛は絶大なものである。彼らの多くの人が同じような経験をしている。このような仲間の取り扱いを受けると多くの人は、そこで生活するのが心地よくなる。しかしこの愛のシャワーは、バプテスマを受けるまでのことだということを知っておいた方がよいようだ。一旦組織の中に入ってしまうと組織は冷たくなる。

 

 エホバの証人は伝道のためには、自分たちの実態を隠すことさえする。先のドイオンは、巡回監督が彼女に訪問伝道の指導をしたときの経験を紹介している。それは彼女にとっては許し難いことだった。その巡回監督は、訪問した人から「あなたはエホバの証人でしょう」と聞かれたとき、「自分たちはエホバの証人ではない」と偽り、雑誌を手渡したのである。その家のドアを出てから、ドイオンは「そのような偽りの答えをするのは正しくない」と言って、その巡回監督を叱責した。すると次のような返事が返ってきたのである。

 

 「さあね、もし私があの善良な婦人に私たちが聖書研究家(エホバの証人のこと)だと認めたなら、彼女は出版物も受け取らなかっただろうし、私たちの言葉も聞かなかったでしょう。だから私は、私が切り出した時の彼女自身の関心を見て、あのように言ったまでなのですよ。私たちが多くの偏見に逆らって真理を伝えるためには、蛇のように賢くなる必要があるのです。」

「それでも、彼女が後で出版物を読んで、あなたが嘘をついたと気づいたら?」

「重要なことは、彼女が出版物を受け取ったということです。彼女が善良の人なら、あの印刷物の中に真理を認めることができるはずですよ。」

 私はもう何も答えなかった。私は次の戸口を恐れていた。私はそのことについては確信があった。この点で他の人から教えを受けるつもりはない。真理のために嘘をつくこと、それは私にはとてつもない大変なことだった。たとえ巡回監督がそう思っていようとも! 私は決してこういう方法は取らないであろう。(前掲書、254頁)

 

組織の秘密主義

 また、エホバの証人は彼らのみが分かる独特な言葉を使う。それによって外部の人とは違うのだという一種の特権意識が植えられる。他の人が知らない真理を持っているという錯覚に陷る。忠実で思慮深い奴隷、新しい事物の体制、油そそがれた者、ハルマゲドン、などなど、一般の人々には意味の分からない言葉が彼らにとっては霊的なエリート意識を持たせるのである。

 組織には、秘密主義が強い。長老は長老にしか与えられない集いや情報がある。正規開拓者、補助開拓者、皆それぞれ、特権が違うのである。誰にでも与える書物と外部の人々は与えない書物がある。筆者なども、エホバの証人を正確に知るには昨年夏に出された『エホバの証人』という書物を必要としていたが、決してもらえなかった。これは秘密主義である。

 

 例えば、筆者は長老に対し、「私たちの集いで話しをしてほしい。何を話してくださってもよい。質疑応答も無しで結構である」とお願いした。しかし、そのようなことをしていないからと断られた。もしキリスト教の牧師であるなら、時間さえ許されるなら、断る牧師はいないと思う。最もよい伝道の機会だからである。私などは、エホバの証人の集会に行って何百時間でも話してきたいと思う。

 

組織の権威付け

 しかも彼らの教えは、白か黒しかない。灰色はない。しかし、現実のものごとの多くは白でも黒でもなく、灰色である。しかし彼らは、すべてを白か黒で割り切る。かくして、すべては、神かサタンか、善か悪か、天か地か、と割り切られてしまう。

 

 エホバの証人たちはいろいろなことから組織が真理を持っているかのように錯覚させられる。『ものみの塔』誌には、自分たちがよく直面する記事があらかじめ載っていることに感心させられる。多くの人はエホバ神がよくご存じでこのような記事を書かせてくださったと信じるようになる。しかしそのからくりはこうである。

 エホバの証人は世界中で宣教活動に従事している。そして、各地の宣教において直面している情報が本部に報告される。今後それが世界の他の地域でも大きな問題になりそうな場合には、『ものみの塔』誌で取り上げる。それを読む信者たちは、自分の国で同じような問題が起こる頃には、あらかじめ神がそのことを組織に教えておられたということになる。そのようなからくりを通して、組織は神からのものとの権威づけがなされ、組織への信頼ががますます強くなるのである。

 

互いに監視しあう

 組織に逆らうことは神に反逆することである。そこでエホバの証人の仲間たちは、互いに神に背かないよう、お互いの目を意識するよう仕向けられている。仲間の間違いは組織に知らせなければならない。ある人が罪を犯しているのを知っていながらそれを組織に報告しないことは、その人もまた同じ罪を犯していることになる。従って、エホバの証人の間ではお互いがお互いを監視しあうことになる。彼らは、仲間にも本心を言わないことが多い。

 組織には、階級制度が引かれており、上の人からにらまれると上に行くことができない。下の人が上の人に胡麻をするようなことがしばしば起こる。

 

 

  第三章 対話に入る前に

 

み言葉に学びつつ

 もし私たちがエホバの証人への証詞の業をはじめるなら、それが霊的戦いであることを知らされるであろう。それは単なる聖書知識や神学論争の問題ではなく、サタンとの戦いである。対話の相手のために真剣なとりなしの祈りをささげなければならない。主イエスを受け入れることができるよう聖霊の働きを仰がねばならない。どのような考えをもっている人であれ、み言葉が光を放ってその魂を打ち砕いてくださることを経験しなければならない。背後に教会の祈りを要請しなければならない。

 

 エホバの証人に証詞しようとすると、聖書がどれほど自分のものになっているかが厳しく問われる。み言葉をしっかり学ぶ目的は、本来他人に証詞するためでないことは言うまでもない。しかしエホバの証人との対話のためには、本当に聖書に学び、聖書に生きている必要がある。聖書の弟子であり、聖書の学徒であることが求められる。

 エホバの証人は「エホバの証人の信条は聖書だけに基づいています」と公言してはばからない。そして「エホバの証人は、聖書全体が霊感を受けて記された神の言葉であることを信じており、人間の伝承に基づく信経を固執する代わりに、自分たちのすべての信条の基準として聖書に固く従います」と解説している(『聖書から論じる』、95頁)。エホバの証人の信条が聖書の真理を保持しているかどうかは別の問題として、彼らが聖書に従おうとしている真摯な態度は決して中途半端ではない。

 言うまでもなく歴史的キリスト教の信仰基準もまた聖書にある。従ってエホバの証人と歴史的キリスト教には、真理を明らかにするための対話が成立する。両者に共通の基盤があるからである。だからこそキリスト者はエホバの証人以上に聖書をしっかり学ばねばならない。礼拝や祈祷会に出席し、説教や聖書研究をとおして聖書の正しい読み方を身につけていただきたい。文脈に沿い、著者の主張点を正確に読み取る訓練を受けていなければ、エホバの証人が提供する神学体系の間違いにさえ、気づかないかもしれない。

 聖書を知的に学ぶだけでは十分ではない。日々のデボーション(朝の神様との交わりのとき)をとおして、聖書から神様の御声を聞き、聖書が自分の行動の指針、世界観、価値観になっていかねばならない。聖書をどのように読んでいるかということこそエホバの証人に対する証詞のキーである。

 

相手を知る

 エホバの証人に証詞することは、キリスト者としての忍耐、愛が要請される。彼らと対話するには、エホバの証人のことを知る努力をしなければならないからである。もし対話をはじめるなら、相手も準備をしてくる。こちらはそれに応じて、さらに勝る学びを続けなければならない。

 

 まず、キリスト教の立場からエホバの証人を明確に批判した出版物を読むことからはじめるのが良い。福音的キリスト教の立場から書かれた次のような書物は、入門書として、エホバの証人についての一般的知識を得るのに役だつ。

森山諭著『エホバの証人はキリスト教ではない』(1988年刊、ニューライフ出版社、1,100円)

平田真実著『あなたにもできる「エホバの証人」救出活動』(1992年刊、新生運動、420円)

千代崎秀雄著『「エホバの証人」はキリスト教か』(1988年、いのちのことば社、980円)後藤光三著『エホバの証人とは?』(1981年、日本教会新報社)

内藤正俊著『エホバの証人−その狂気の構造』(1987年、青村出版社、1,500円)

教会新報編集部編『異教からの回心』(1980年、日本教会新報社)

クリスチャン新聞『ドキュメント異端』(1983年、いのちのことば社)

 

 しかしこれらの書物はエホバの証人に証詞をしようとする人には簡便すぎるであろう。そのような人は、エホバの証人の問題と本格的に取り組んでいるウッド宣教師(連絡先は真理のみことば伝道協会、〒352、埼玉県新座郡郵便局私書箱26号、電話0492-53-2213)の書物をお勧めする。

『「エホバの証人」と「キリストの証人」』(1983年刊、日本純福音伝道協会、980円)

『「エホバの証人」への伝道ハンドブック』(1987年刊、いのちのことば社、1,700円)

『「エホバの証人」の教えと聖書の教え』(1988年刊、いのちのことば社、1,600円)

『エホバの証人−マインド・コントロールの実態』(1993年刊、三一書房、1,700円)

 ウッド宣教師は、エホバの証人への証詞に重荷を持ち、各地で異端セミナーを開催している。セミナーのテープなども用意されている。

 

  神戸の西舞子バプテスト教会から出版されている次のような書物は、エホバの証人との対話を試みる者にとっては必携の書物である。

『だれでもできるエホバの証人への伝道アプローチブック』のシリーズ

 No.1 『暴露された1975年ハルマゲドン説』

 No.2 『1914年揺れ動くキリストの再臨説』

『ものみの塔の予言・教理の移り変わり』(1992年、1,200円)

岡野美子著『あなたは三位一体を信ずるべきです』(1993年、650円)

さらにこのグループは、エホバの証人の動きを伝える『良いたより』(400円)を発行している。その他、エホバの証人の伝道に用いるためのパンフレット、異端セミナーのビデオなど有用な資料が数多く用意されている。連絡先は、〒655 神戸市垂水区西舞子8丁目10-11、西舞子バプテスト教会、電話は078(781)3258である。

 

  エホバの証人の組織を脱会して聖書研究を続けている人たちが北海道にいる。このグループは『新世界訳』や『事件簿』という書物を出版しているが、内部からの資料であるため、外部の者たちには知り得ない情報が紹介されている。連絡先は北海道札幌郡広島町青葉町3丁目4-1、電話は011-373-3935である。

金沢司著『事件簿』(1986年、北海道広島会衆、1200円)

金沢司著『欠陥翻訳−新世界訳』(1986年、北海道広島会衆、1200円)

 

その他、エホバの証人伝道に役立つ書物をいくつかあげておく。

『無慈悲な牧者たち』(19年)

稲垣真美著『兵役を拒否した日本人』(1972年、岩波新書)

大泉光成著『説得』(19年、)

 

 英語を読むことができれば、かつてエホバの証人であって、今はキリスト者になった人たちが書いた書物も数多く手にはいる。

 

相手の思考の枠を知る

 エホバの証人の人を導くには、キリスト教の立場から出された書物を読むだけでは足らない。それらの書物は、正統的信仰こそが当然聖書的であるとの前提に立っているので、キリスト者にとって納得いくものである。ところがエホバの証人たちは異端的教えを聖書的として独特な論理で学び続けている人たちである。その言葉使い、論理的展開の方法、彼らが信頼して用いる資料などを踏まえなければ、納得させるどころか、対話自体が成立しないであろう。

 

 従って私たちは、エホバの証人自身が学んでいる印刷物を直接手にする必要がある。相手を説得するには、自分の土俵に立って相手を攻撃するのではなく、相手の土俵で相撲をとる以外にないのである。

 もしエホバの証人との対話がはじまるなら、彼らは喜んで彼らの印刷物を渡してくれるはずである。資料として一つ一つファイルしておくとよい。エホバの証人の信仰や組織について何でも率直に質問してみるのがよい。こちらに十分に知識があって攻撃しようとしていると思われるよりは、一つづつ学んでいきたいという姿勢の方が彼らは親切に教えてくれるであろう。次のようなパンフレットは訪問してきたエホバの証人に依頼すれば、くださるはずである。

エホバの証人の組織に関する『世界中で一致して神のご意志を行なうエホバの証人』

三位一体を否定している『あなたは三位一体を信ずるべきですか』

エホバ神という神の名前を使うべきだと主張する『神のみ名は永久に存続する』

 

 さらに、エホバの証人に伝道を目ざす以上、あらかじめ何等かの方法で、ものみの塔聖書冊子協会が出している出版物を手に入れ、目をとおしておく必要がある。ただしそのおびただしい情報はエホバの証人自身にとってもとても学び切れるものではないほど多い。 十年間エホバの証人で活動したヨージー・ドイオンは「私は証人たちと行動するようになって以来、ただ、共同体の定期刊行物と書物を全部読むことだけに係わりきっていた。このおびただしい新出版物を読破することは、殆ど誰にもできなかった。一つ一つの出版物には、新しい希望と精神の糧が含まれていた。老人たちは、一体どうして常に更新の必要があるのかと、よく非難した。しかし兄弟たちは、真のキリスト教徒というものは何歳になっても全く同じで、いつも精神的に活気が必要だし、また、新しい真理を常に積極的に受け入れなければならぬと、私たちに教えていた。」(『無慈悲な牧者たち−エホバの証人十年間の報告』(あかし書房、湯川真人訳、1988年、163-64頁)。

 

 

研究生が最初に学ぶ『あなたも地上の楽園で永遠に生きられます』

キリスト者と議論するときに用いられる『聖書から論じる』

注が就いている『新世界訳』

などである。

 

 以上のような書物は、研究生になれば、司会者にお願いして手にすることができる。あるいは王国会館などに行って求めてみるとよいであろう。あるいは、これまでエホバの証人の人といっしょに学んだことのある人が身近にいれば、関連した書物がいろいろ手に入るであろう。

 

不毛な議論に陥るな

 エホバの証人と対話をはじめると、多くのキリスト者は平行線であると感じ、空しさを経験する。キリスト者が相手の土俵に立っていないので、議論が噛み合わない結果起こる現象である。これを「聖書のピンポンゲーム」と呼ぶ。

 そのゲームはどのように起こるのか。キリスト者がエホバの証人の間違いを指摘する聖句を示す。するとエホバの証人が組織の教えを指示する聖書のテキストを示し返す。するとそのような解釈を信じられないキリスト者は他の聖句を引き、反論を試みる。すると再び、エホバの証人は自分たちの考えを指示する聖書のテキストを引用する。この応酬は延延と続く。この結果、両者とも相手の無知、頑迷さを感じ、疲れを覚える。そして、異端の人と話すことは結局無駄なことだと結論づけるであろう。

 なぜこのようなゲームになってしまうのか。理由は簡単である。キリスト者がエホバの証人に対して間違った前提で議論をしたからである。「我々は聖書の権威を認めて、その聖書の上に信仰をうちたてている」というエホバの証人の宣伝をうのみにして、対話したからである。エホバの証人が聖書を使ったとしても、聖書が主張している真理をそのまま素直に受け止めているわけではない。あくまでも統治体が解釈した聖書の教理を信じているのである。

 もとエホバの証人の長老だったリードが次のような話を紹介している。二人のエホバの証人が「144,000人以外の群衆は地上に生きるはずである」とヨハネの黙示録7章を引いて主張した。そこでリードが「み座とあるではありませんか」と質問した。するとエホバの証人は「神のみ座とは地上の表現のことだ」と答えた。そこで再びリードは、黙示録19:1を引いて「群衆は天上にいるのではないか」と質問した。それでもエホバの証人の二人は「地上だ」と言い張り、「私たちには、聖書を教えていくれる人がいる。彼らが地上というのだから間違いない」と反論した。実はこの言葉にこそ、エホバの証人の信仰の本質があるのである(p28〜29)。

 

 エホバの証人に伝道したいと願う者が最初にしなければならないことは、エホバの証人が聖書研究をするときにかけるメガネを取り外させることである。聖書そのものをじかに読ませ、その前後の文脈から、聖書の主張していることと組織が教えていることとの間に矛盾があることに気づかせることである。聖書の真理を提供するなら分るはずだと考えてはならない。聖書の真理が組織の教えと矛盾することを示し、組織に対する疑いを起こさせない限り、不毛な議論に終わるのである。

 

 とするとエホバの証人伝道を試みる者は、組織という大きな課題に取り組まねばならない。全世界のエホバの証人という宗教団体は、ニューヨークのブルックリンにある本部(統治体と言われる)によって統括されている。この団体のすべての出版物の責任は彼らにあり、その権威は神からの特別なものであると見なされている。エホバの証人との対話を試みる者は、結局統治体と論争しているのである。

 エホバの証人は、「組織は神の民が王国宣教の働きを進めるために協力しているに過ぎない」と弁明するであろう。たとえどのような説明がなされようと、聖書が教えていることを明確に定めることができるのは、ブルックリンにあるものみの塔の指導者以外に存在しない。彼らに疑問をもつことは許されていない。彼らは世界中に散らばっているエホバの証人が信じる信仰の教理と生活とを絶対的に支配している。

 

目的からそれないように

 キリスト者がエホバの証人と対話をするのは、あくまでもエホバの証人に伝道するためである。決して議論に勝つためではない。もしその目的が遂行されないようであったら、適当なときに切り上げる勇気も必要である。

 エホバの証人は間違った教えの犠牲者である。彼らはハルマゲドンの戦いに生き延びるために、エホバの義を満たす生活をし、訪問伝道に励まねばならないと教えられている。その脅迫観念に絶えずさらされ、悩まされている人々である。キリストがすばらしい救いを完成し、自由を与えてくださったことを未だ知らないのである。この福音を彼らに届けるのが福音的キリスト者の使命である。

 ドイオンはエホバの証人がいかに偽善的な生活を強いられるかを告白している。「私は、家では幸福そうな外見を装っていた。それは、本当は真理に対する義務であった。各家の戸口でも、また、私はできる限り喜ばしげな顔をしていたし、集会ではペーター・ゾンダーの例に従っていた。私はいつも楽しそうに笑っていた。そして兄弟姉妹たちの間で、いろいろ企てられていた意地悪に、全く気づかぬように振舞った」(『無慈悲な牧者たち−エホバの証人十年間の報告』(あかし書房、湯川真人訳、1988年、151頁)。

 エホバの証人の聖書理解の間違いを指摘することは第一歩にすぎない。キリストの完全な救いの喜びに導くことこそ私たちの使命である。さらにそこから、福音によって解放されたすばらしい信仰生活が送れるよう大きく育てる責任がある。このような働きは、福音的なキリスト者以外にはできない。聖書に基づく信仰に立ち、救いの喜びに生き、すばらしい神との交わりをもっているキリストの証人の特権なのである。

 

どのようにはじめるのか

 では具体的にはどのようにしたら良いのか。

 まず祈りことである。神様が自分にふさわしい人を送ってくださるよう祈りはじめよう。神は祈って備えている人を用いられる。私たちの使命は議論に勝つことでも、説得することでもない。エホバの証人を聖書の信仰に戻すことは決して人間の力ではできない。いかなる人であれ、聖霊によらなければ決してイエス・キリストを信じることはできないからである(Tコリント12:3)。

 対話の相手はエホバの証人であるが、戦いの相手はサタンである。もしエホバの証人との対話がはじまったなら、本当に心低くしてその人のために真剣に祈り続けていただきたい。Uテモテ2:23〜26のみ言葉を絶えず心に止めながら。

 

 以上のような用意ができたなら、神はエホバの証人との出会いを経験させてくださるであろう。近所のエホバの証人が訪問してくるかもしれない。職場にそのような人がいるかもしれない。友人や知人からそのような問題をもっている人から相談を受けたり、紹介されたりすることもあろう。そのような機会を逃さないようにすることである。

 

対話をするときの注意

 

 エホバの証人の書物はエホバの証人の神学のフレームを頭の中にたたき込むため、きわめて巧妙に作られている。もし聖書全体の教えをよく知らないなら、テキストにある質問に答えていくと、ものみの塔の教えが完全に聖書に基づいているように思えてくるはずである。次第次第にマインドコントロールされて、一定の思考パターンでものを考える習慣が身につく。よく訓練を受けた司会者のもとだと、自分で考え、判断することなどできないと感じるものである。

 個々の教理に入る前に、彼らの神学についていくつかのことをふれておこう。

 

1)エホバの証人の信仰とは体系化された思考の枠組への信仰である

 人間は本来、この世界、歴史、すべてを説明しうる思考の枠組みを求めている。それは政治的の世界ではイデオロギーと言われ、哲学者の世界では、世界観と呼ばれるが、宗教の世界では、教義となる。

 通常キリスト教世界では、この教義は聖書から作られる。しかしエホバの証人では、聖書の一部を取り、そこから聖書全体を解釈し直している。

2)かってな推論・論理によって説明する

 エホバの証人の雑誌や書物には、「推論できます」、「違いありません」、「はずです」、「と問うのは筋の通ったことです」などと言った表現が頻繁に出てくる。しかも彼らが推論できるという場合、一つの可能性ではなく、いつのまにか事実となってしまう。推論の上にさらに推論が重ねられ、そのようにして重要な教えがつくられてしまう。

 エホバの証人の教えは一見するとそれはきわめて論理的なように見える。ところがエホバの証人の主張を指示しそうな聖句をあげ、繰り返し強調しているだけである。それと反する聖句に対しては、自分たちの主張をあくまでも動かそうとしないので、詭弁的な説明に終始する。それが詭弁であると主張しても、彼らにとっては真理を知らない人たちの言うことで、彼らがそこから学ぼうとする姿勢などほとんどないのである。

 

 まず、エホバの証人に自分が直面している問題について話してはいけない。クリスチャンであるなら、誰かから相談を受けたとき、問題を問題として聞き、その問題を解決するためにともに助け合おうとするであろう。しかし、エホバの証人と話すときには、そのようなことを期待してはいけない。

 自分に関する不利な情報を与えることは気をつけねばならない。例えば、子供のことで悩んでいるとか、自分の性格を嫌っているとか、人間関係で悩んでいるなどという弱みを見せると、伝道の突破口を与えるだけである。あなたがそれについて話す相手は決してエホバの証人ではない。彼らはこの世のことにはほとんど関心を示さない。彼らは伝道者であって、カウンセラーではない。彼らの目標は、聖書研究をする相手(研究生という)を見いだすこと一点にしぼられている。他にはない。組織は一刻も早く聖書研究に入るように指導している。

 

 エホバの証人との対話をしばらく続け、伝道を試みたいと願っても、最初からあまり大きな約束をしない方がよい。よく祈る期間が必要であるし、牧師とも相談しておいてほしい。エホバの証人は再訪問の約束を取ろうとするであろうから、2、3回ならお話してもよい、とあらかじめ予防線をはっておき、慎重に進めていただきたい。時間をとっていただいたり、来ていただいて申し訳ない、という気持ちを表してはいけない。対話は精神的に優位に立って進めねばならない。こちらが伝道するために時間をさいているのである。

 

 もし訪問者が二人以上で来た場合には、次に来るときには、一人で話したいとあらかじめ伝えることである。二人で来ると、彼らお互いは監視をしあう結果となり、決して本心を見せないものである。多くのエホバの証人は仲間が自分をどう見ているかをとても気にしている。エホバの証人は仲間に対しても警戒心を解いてはいない、と考えておいた方がよい。二人の人を対話の相手にもつことは、十人の敵を前にしているのと同じである。

 

 キリスト者は、対話の主導権を握ることである。相手のペースにならないように注意する必要がある。相手のペースにのりながら、自分のペースにもっていくこつを会得するとよい。対話の主導権を握るために最も有効な手段は、こちらが話したい話題を話すことである。何について話すかは注意深く選択しておくべきである。

 多くのキリスト者は、三位一体について対話するのが一番よいのではないかと勘違いする。確かに、三位一体こそ、歴史的キリスト教とエホバの証人の間で最も違う点である。しかしこれはエホバの証人と話すのに一番よいテーマではない。キリスト者は三位一体を信じてはいるが、それは人が理解でき、論理的に納得できることではないからである。もし三位一体について話し合いたいときには、三位一体を議論しないで、イエスが神であること、聖霊が神であることを対話した方がよい。

 エホバの証人は主知主義である。理性で説明でき、納得できなければ真理ではないと考えている。正統的神学は理性の上には成り立ってはいない。たとえ、理性的には納得いかないことであっても、聖書が主張していることはそのまま信じるのである。人間の理性によっては到底理解できない三位一体の教理をエホバの証人と論争することは愚かなことなのである。

 

研究生になる場合の注意

 研究生になるとは、エホバの証人の土俵で相撲を取るということである。従って、相手の情報を正確に知り、受け入れてもよいものと反論しなければいけないものとの区別をしなければならない。ものみの塔の主張を理解するだけでは不十分である。聖書が説くところと違っていたなら、反論する責任がある。否、そのためにあなたは研究生になったのである。

 

 研究生になったなら、相手の魂の救いのために心を込めて祈ることが大切である。人は議論に勝つことはできるが、魂を救うことはできない。聖霊が働いてくださり、み言葉の真理がその魂に照らされるのでなければ伝道にはならない。

 自分が所属する教会の牧師には、よく相談しながら進めていただきたい。牧師および教会の方々の祈りのサポートが必要である。また、時に専門的な知識、ギリシャ語やヘブル語の知識を必要とするようなことが起こるかも知れない。そのようなとき、神学を専門に学んだ牧師の助けが必要になる。

 

 エホバの証人は同じことを学び、同じように考え、同じように反応するということは事実である。しかし、人によって違うことも相当ある。は強い確信を持っている人が多いが、中にはフラフラしている人もいる。理性的な人もいれば、感情的な人もいる。組織に忠実な人もいれば、そうでない人もいる。伝道者として訪問していても、未だバプテスマを受けていない人もいる。対話を重ねているうちにその人の本当の姿が見えてくる。はじめには自信に溢れているように見えても、実際に話ていくといろいろな疑問を持っていることも分かる。

 

 通常研究生は、初めのうちは質問したり、反論したりする。しかし、そのうちめんどうになる。そして何も考えずに、テキストどおりに答えるようになる。それこそエホバの証人が目指していることである。考えることをあきらめ、組織が出す答えに従順になることがものみの塔の信仰に入る一歩なのである。ものみの塔の書物はそのような人間をつくるようにできているのである。従って、研究生になって伝道するものは、絶えず反論し続け、疑問を投げかけ続けなければならない。

 

 

 対話の相手についてはできるだけ多くのことを知っておくと話やすい。そうするならこちらの対応も変わってくるからである。エホバの証人の生活が長ければ、それだけ知識も豊かで確信も強いはずである。長老や奉仕の僕のような立場であれば、生活のすべてをそれにかけているから、簡単には信仰を放棄しない。ある長老が「自分にとってはものみの塔の信仰が真理であるかどうかはもはや問題ではない。たとえ真理でなくても、信じ続ける以外にない。自分はこのためにすべてを捨ててきたのだから」と告白している。私たちはそのような気持ちを理解する必要がある。

 

 議論をしているときには、相手の主張によく耳を傾け、相手を理解する努力をしなければならない。また相手のしぐさや感情なども敏感に読み取り、礼儀を尽くさなければならない。真理を明らかにするためには遠慮はいらない。主張すべきことははっきり主張すべきである。ジックリ相手の主張を聞き、相手が話したことから矛盾点や聖書の教えと違う点を鋭く指摘しなければならない。

 

 エホバの証人は・エホバ神を証言するために召された・と信じている。従って訪問伝道以外にはほとんど興味を示さない。礼拝の喜び、祈りの祝福、賜物による奉仕、神との交わり、罪の悔い改め、聖霊による歩み、家族や社会におけるキリスト者の責任、聖書が教えているこれらのすばらしい真理は彼らにとってほとんど意味がないのである。

 

 

 エホバの証人について十分に学び、自分の信仰に自身がなければ証詞はできない、と考える必要はない。そう考えるなら、いつまでたってもはじめることはできない。むしろ、エホバの証人との対話をとおして、真の証詞人になっていくことを期待するのがよい。エホバの証人のような異質の聖書解釈に遭遇すると、これまで当り前に思っていた正統的教理が新しい光をもって自分に迫ってくるのを感じるであろう。福音的な教会で福音の真理を知った喜びに気づくであろう。

そのすばらしさにかえって圧倒されるはずである。

 そもそも、キリスト教の神学(信仰の内容を知的に体系化したもの)は、もともと異端に直面して発展してきた。キリストの神性、三位一体、聖霊の神性、信仰義認、真の教会、聖書の無謬性など、どれ一つとっても異端的な見解との論争の中で確立された。疑問を投げかける人がいないところでの神学は、生きた神学ではない。キリスト者はこの世界に出て行って、あらゆる哲学、宗教、思想、主義、教義、倫理に真っ向から挑戦して、聖書の真理を宣証していくのである。

 

 

具体的注意のあれこれ

 

 エホバの証人と話すときには、いろいろな注意が必要である。話すといってもいろいろなレベルがあるので、一概に言えないが、思い付くままに対話するときの注意を記しておこう。

 

*初めにいっしょに祈ることは控えた方がよい。祈りは最も重要なものである。しかしそれは、彼らと会う前に、そして会った後すべきことである。エホバの証人の方も、祈る神が違うからと言って、共に祈ることは避けるはずである。

*共に学ぶという姿勢で臨むことで、高慢な態度は慎むべきである。彼らの神学は間違っており、一考する価値さえない。彼らは異端者であり悪魔の虜の中にある(それは事実かも知れないが)、そう考える人は、初めから対話をしない方がよい。相手も同じように考えるので、結局時間の浪費に終わる。そのようなときは、「平安がありますか。無くなったら来てください。」というようなお返事をした方がよい。

*彼らの言葉を使い、彼らの思考体系の中で話すよう心がける必要がある。対話においては、エホバの証人のフレームの中で聖書の真理を明らかにしなければならない。エホバの証人の思考パターンにのり、彼らの神学体系の枠の中で矛盾点を指摘するのでなければ効果はない。情報は正確でなければならないし、しかもその情報は、相手が納得する仕方で提供される必要がある。

*例えば、福音派の組織神学の教科書に出ている三位一体の聖句をエホバの証人に突き出してみても、彼らはいとも簡単に彼らなりの説明をして反論してくるであろう。確かにそれは独断的でおかしな論理かもしれない。しかし問題は、彼らがそれがへんだと気づいていないことにある。彼らがその間違いに気づき、正しい判断をするために有効な材料を提供することが私たちの務めである。

*一度に多くのことを語らないようにした方がよい。一回に一つのテーマを取り上げ、そのことについてじっくり話した方が効果的である。エホバの証人は都合が悪くなるとあちこち他の箇所を引用して自分たちの主張を正当化しようとする。聖書全体を見るなら、というのが彼らの口癖である。今話し合っている聖書のテキストにあくまでもこだわりながら、話す方がよい。話が横にそれたなら、その聖句は次の機会に話そうと言って、話し合っている聖句に戻ることである。

*議論は百パーセント正確な情報をできるだけ多く用意する必要がある。量が少ないと説得力が弱くなる。また不正確なものを提供するとそれ以降の対話は閉ざされてしまう。ただし、資料をたくさん披瀝し、ここに間違いの証拠が山ほどある、というよう話し方は効果的ではない。時間がかかっても一つ一つ提供し、一つ一つについて相手に考えさせることである。

*自分の証詞をすることはすばらしい。特に信仰の喜びや、神様が祈りに答えてくださったことなどを証詞するとよい。ただし、単なる体験談に終わらないで、み言葉に基づいた経験であることを印象づける必要がある。聖書が述べていないことは一切拒否するという姿勢を明らかにしておかないと、エホバの証人の信仰を批判する根拠を失ってしまう。

*決めつけるような言い方、教えるような言い方ではなく、質問する形が話をするのが一番よい。相手を説得しようとしてはならない。むしろ、聖書の言葉を考えていただくためにその材料を提供する、このことがあなたの役割である。答えは相手が考えて自分で出すように仕向けるのである。

*エホバの証人は、通常質問をすると喜んで答えようとする。彼らはどんな質問にも答えられると確信している。しかもその答えはパターン化されて教えられている。その答えをあらかじめ知っておき、それに対してどう答えるべきか、できる限りの準備をしておかねばならない。

*答えられないような問題が出てきても、次のときまでに調べてきますと言って、あわてないことである。いいかげんな思い付きで答えると付け込まれることが多い。問題点をよく整理しておいて牧師などによく尋ね、次回にお話すればよい。対話の目的は相手を打ち負かすことではなく、相手に考えていただく機会を提供しているに過ぎないことを銘記せよ。

*相手が間違っていると決めつけて話しはじめると会話は閉ざされてしまう。「あなたがそれほど興味を持っている信仰はどのようなものかと、私も興味があったので調べてみました。ここにあなたがお読みになったら、どのように感じられるだろうかと思わされた資料があるのですが、是非読んでくださり、感想を聞かせてもらえませんか」という姿勢が重要である。

*信仰に関する限り、エホバの証人は自分たちの信仰を批判している書物を読むことは許されていない。それに、エホバの証人は5の集会に出席し、自分たちの学びの予習・復習をすることで精いっぱいであって、他の書物を読む時間的余裕などない。そんな時間があるなら、訪問伝道に励むべきだと脅迫観念にかられるであろう。私たちは彼らの置かれている状況を理解する必要がある。

*聖書は、新改訳(または新共同訳や口語訳)を使った方がよい。エホバの証人は『新世界訳』を使うであろうから、両者の間に訳文の違いが見つかった場合には、どうしてそのようなことが起こったのかを話し合うのもよい。その背後に重大な問題が潜んでいる場合もあるし、そうでない場合もある。もし大きな違いだったら、次回までに調べ合ってくるのがよい。

*エホバの証人と歴史的キリスト教の間には、言葉遣いに違いが見られる。十字架は杭、教会は『会衆』、再臨は臨在、礼拝は崇拝、聖餐式は記念式、などなど。聖書の書名も違うものが多い。私たちは、彼らの用語を知り、彼らが理解しないといけないので、言い直してあげてもよいが、自分たちの言葉で話す方がよい。相手に合わせすぎないことも重要である。

*本格的に対話をする人は、あらかじめエホバの証人の『新世界訳』にもあたっておく必要がある。エホバの証人の神学に基づいた意図的に訳し変えなどを指摘し、相手を考えさせる土俵に引き吊り込むためである。このような相手の弱点を明らかにすることは初心者は控えた方がよい。というのは、相手も反論をしてきて、中途半端では終わらないからである。

*エホバの証人の信仰はきわめて思弁化された、精巧に造り上げられた神学体系を背景にして構築されている。その体系を支えるために利用されている聖句は、文脈から切り離されて解釈されていることが多い。最初おかしく見えるが、その体系(思考の枠組)から考え直してみると、それなりに説明がつき、説得力をもっているものである。その罠にはまらないように注意する必要がある。

*話す相手がエホバの証人の初心者のような人であってもあなどってはならない。その人の背後には、長老のような熟練した教師がいて、あなたとの会話についての報告を受け、細かな指導をしているからである。長老たちは、そのような経験をとおして、一人前の伝道者にするための訓練の機会として用いているのである。もしそのまま対話を続けるなら、危険と思えば、何時でも人を変えるか、その対話を打ち切ってくる。

*できればあなたも適切な知識を持っている人を背後にもって対話を進めるべきである。相手はベテランの教師がついている。あなたがエホバの証人の間違いを並べたてれば、その人は背後の教師から多くの資料を受け、あなたと限りない議論をしてくるであろう。あなたがいいかげんな知識で対応すると、話している相手はますます組織の教えに確信を持ち、セメントで固められるようになっていく。

*特に、書籍を用いて聖書研究をする場合には、必ず牧師の指導を良く仰ぎながら進めていただきたい。

*対話の相手は一人で来るようにしていただきたい。ベテランの教師を同席させてはならない。エホバの証人は、互いに監視しあっている組織である。仲間がいると本心を出さない。告げ口されることを恐れるからである。対話は一体一で、人間として誠実に話し合うことが大切である。一対二で討論することは10人の敵と戦っているに等しい。

 

エホバの証人は武装している

 異文化の社会で伝道する使命を託された宣教師は、その宣教地で働くために、それにふさわしい教育と訓練を受ける必要がある。このことはエホバの証人への証詞を志す者にも当てはまる。

 

 エホバの証人は、この世界のすべてがサタンの支配下にあると信じている。従って、この世は根本的に、エホバ神に対立している。その結果、彼らのライフスタイルは普通の人と全く異なるよう教育されており、厳しくチェックされている。

 エホバの証人の信者は、研究生になったその初めから、きわめて巧妙に練り上げられている一連の聖書知識を教え込まれる。それは聖書を通読しつつ、神様からの御声を聞こうとするキリスト者の聖書理解ではない。統治体が解釈し、統治体が教える聖書理解である。しかも統治体が提供する出版物によって、統治体が計画したスケジュールに従って、週に5時間の集会を中心に徹底的にたたき込まれるている。

 その集会は、質疑応答形式で進められるのが普通であるので、ほとんどの人は予習をしてくる。不熱心ではなく、模範的であろうとする空気が強いので、活発に手をあげ、討議に参加する。教えられたことが自分のものとなるためには書くことが重要だと強調されているので、皆熱心にノートをとっている。彼らがこのような環境の中で何年もの間過ごしていることを忘れてはならない。ドイオンはものみの塔の全文献が次のような方法で三回に渡り徹底的に熟読し、頭の中に叩き込まれるようになっていたことを紹介している。すなわち最初に出版物を受け取った時の通読する義務。二回目は集会で学ぶ前に、各家庭で正しく予習しておくこと。三回目は集会そのものの中での勉強である(前掲書、100頁)。

 

 エホバの証人はアメリカ社会で生まれたキリスト教の異端であるので、キリスト教に対する批判は痛烈なもので、徹底している。出版物の内容のほとんどがキリスト教世界を意識して編集されていることは明らかである。その批判は、誤った資料に基づいているとはいえ、確信をもって説かれており、学問的な裏づけが十分あるような調子で記されているので、エホバの証人たちは疑いもなく、正統的なキリスト教が間違っており、サタン的なものであると確信してしまう。これらの批判を数年も学んだ人であれば、キリスト教の牧師たちより自分の方がはるかに聖書を良く知っていると確信に満たされてしまうであろう。

 

巡回監督と彼の妻は、私を根本から訓練するため、翌日から私を奉仕に連れて行った。そこで、私は、論証の仕方について学ぶべき点が、まだ沢山あることに気づいた。彼ら両人を負かすことは容易ではなかった。彼らは聖書を全部暗記するほど知っているように思えた。

(『無慈悲な牧者たち−エホバの証人十年間の報告』(あかし書房、湯川真人訳、1988年、216頁)。

 

 従ってエホバの証人に対する伝道を簡単に考えてはならない。たとえバプテスマを受けたばかりの人であっても、10才の子供であっても、彼らは伝道のプロである。キリスト者が十分な知識を持たずに近づくなら、彼らの議論に巻き込まれ取り返しのつかないことになろう。

 十年間エホバの証人で活動したドイオンは次のように述べている。「エホバの証人は、教会が何をしているのか、また、していないのかを常に正確に知っているのだ。証人たちは教会ニュースとか他の宗教雑誌にどんなことが載っているか、正確に調べて知っている。正確に知っていれば、どうにか敵をやっつけることだけはできるのだ。その点では、共同体は聖職者よりも断固として、徹底的に行うのである。」(『無慈悲な牧者たち−エホバの証人十年間の報告』(あかし書房、湯川真人訳、1988年、139頁)。

 

  第四章 救出活動

 

 この章では、エホバの証人を実際に救出するのに必要なことを考えるために、必要なことを記しておきたいと思う。

 

救出活動に支援を

 ある人たちは、家族の依頼を受けて、エホバの証人の救出活動をしている。家族のある人がエホバの証人になった結果、悲劇的状況の中にある家庭がある。最近はそのような家族の方が教会を訪れ、相談されるようなケースも増えつつある。教会は、そのような方々の問題を受け止め、励ましを与え、聖書の真理を教え、忍耐をもって援助していく責任がある。時には家族の要望に基づき、その人をエホバの証人から脱出させるお手伝いをする必要がある。すなわち、エホバの証人の信者が、自分の信仰を正しく把握することができるよう、そのカルト集団から隔離し、客観的に正確な情報を提供する場を設けるのである。そのような働きを救出という。

 

「真理の中で」を夫婦の一方しか信じていない結婚生活は、殆ど確実に崩壊した。共同体に属している一方は、当然のことながら、宣教のために全力を尽くすという目標が、やがて目の前に一層明らかになった。他の一方は、これに反し、自分が未だに無視されていると感じた。夫婦間に争いが起こった(270頁)。

 

 『救出』(rescure)という言葉は、通常宗教の世界では使わない。しかしエホバの証人の場合はこの語を使わざるを得ない。信者たちは完全にマインドコントロールされた世界で生きている。批判的な書物を読むことは許されていないし、自分でものを考える時間や余裕などほとんどない。組織には、絶対服従である。その組織から脱会するのは大変なことである。

 組織から離れるには、手紙を書かねばならない。そしてその地域の『会衆』から選ばれた3〜4人の長老が構成する審理委員会で裁かれる。そして次の『会衆』の集会において、エホバの証人の組織から排斥されたことが告げられる。その後は、その人と路上であっても、挨拶することさえ許されない。

 別に住んでいる家族なら、いかなるコンタクトもとらないように指導されるし、同じ家に住んでいるなら、霊的な事柄で交わりをもつことは禁じられる(ものみの塔誌88年4月15日号p28)。リード氏は「私はいつでもエホバの証人の組織から離れたいと願っている何人かの男性とコンタクトをとっているが、奥さんまたは子供と離れなければならないとの恐怖からそうできないでいる人を知っている。一人の老婦人は、組織から離れたいと思っているが、このことは孫との関係を断つことを意味するので、そのことが恐ろしくて言えないでいる」と述べている。実際この団体では、エホバの証人の許可があるまでは、子供に聖書を教えることさえできない。このような状況にある人々を組織から脱出させるためには、特別な手段を考えねばならない。

 

証人カードはこれに反し、共同体が完全に小羊たちを意のままにできる道具である。証人カードは、小羊たちについて知りたいことを、すべて解明するものである。しかも共同体は、この無害と見える証人カードによって、全く何の義務を負うのものでもない。

(『無慈悲な牧者たち−エホバの証人十年間の報告』(あかし書房、湯川真人訳、1988年、228頁)。

私は、証人がこの制度から免れることが、殆ど不可能であることが判った。その証人が、ある市町村から次の市町村に移住すると、彼のカードもそちらの集会所へ彼を追って行くのだ。(229頁)

 

 このような『救出』は誰でもできるものではない。重荷を持った働き人とかつてエホバの証人の信仰をもっていた方々の協力が不可欠である。そのような働きもまた、福音的な教会は育てていく必要がある。幸いなことに、統一教会についてはそのような重荷をもって働いている教会と教職がかなりいる。エホバの証人に関しては、神戸の西舞子バプテスト教会がすすめている。

 

対応は早ければ早いほどよい

 エホバの証人に入っている人を抜け出させるには、早ければ早いほど良い、このことを忘れないでいただきたい。

 

 

集会に誘われるまで

 エホバの証人の組織は、すべての集会を公開している。従って、どの集会に行っても歓迎される。中には、いきなり王国会館に信仰を求めて訪れる人もいるが、それはまれである。大抵は次のようなステップを踏んで集会に集うようになる。

1)まず家庭訪問を受ける。

2)エホバの証人の信仰に関心を示すと、通常、数回にわたって、その人が興味をもっている話題を話し合う。

3)数回の対話の後、ものみの塔出版の書籍をとおして聖書の学びをするよう誘われる。

  時間と場所はこちらの都合に合わせてくれる。

4)上記の集会に誘われる。

  組織は、学びがはじまると、できるだけ早い時期に、上記の集会への出席を勧める良う指導している。

  これまで研究生は、聖書の教えを教理としてとらえ、知識を取り入れることに主な関心を向けてきたかもしれません。しかし、エホバ神が地上に一つの組織を持っておられ、新しい世に生き残ることを望む人はすべてその組織に集められねばならないということも認識する必要があります。人種や国籍を問わず、エホバの証人と交わる人々は最初から同じ教育を受け、同じように行動する一致した民として、ハルマゲドンを通過し新しい世に入ってゆきます。そのわけで、研究生はどうしても集会に出席する必要があるのです。(『わたしたちの王国宣教』1992年12月号、7頁)

5)特別な集会に出席するよう勧められる。

 巡回監督が訪問してくる週、年に一度の主の記念式や大会、年に二度行なわれる巡回大会などに出席するよう、熱心に誘われるはずである。

 

 集会に出席するようになれば、次は訪問伝道である。集会の多くは、この野外伝道に焦点が合わせられているので、集会に出はじめれば、伝道者として奉仕をしないと恥ずかしくなるような雰囲気がある。この伝道者になるには、長老団の証人が必要となる。

 伝道者として認められ、野外奉仕の後は、バプテスマである。エホバの証人の仲間では、バプテスマを受けてはじめて兄弟姉妹と呼ばれるようになり、仲間同志の親しい交わりを持つようになる。普通は、バプテスマを受けるまでは、内部の問題などは知らされることもない。このことはドイオンの次の言葉からも明らかである。

  私たちは、何か不利な見せかけを組織に投じるようなことは、すべて外部へは隠した。そういうすべてについて、何も知らないような人たちだけを、真理のために獲得できていることを、私たちは正確に知っていた。もう後ろを振り向くことのないほど、徹底的に共同体の教義を説得されてしまった人なら、否応なしに何でも呑み込まぬわけにはいかなかったのだ(『無慈悲な牧者たち−エホバの証人十年間の報告』(あかし書房、湯川真人訳、1988年、238頁)。

 

 

 最初の話を思い出していただきたい。鈴木さんがエホバの証人山田の訪問を受ける。興味をそそられ、関心を示す。エホバの証人は再訪問の約束をし、再び訪れる。ものみの塔聖書冊子協会から出されているパンフレットのようなもので、今日の社会問題や家庭問題についての会話がはじまった。

 山田さんが未だこのような状態のときには、エホバの証人の信仰や組織に深く係わっているわけではない。従って、それまでの判断力や批判力は健全に働き、エホバの証人の間違いに容易に気づくことができる。救出するには、一刻も早い方がよい。もしエホバの証人と接していることが分かったなら、その信仰の間違いを指摘している書物などを読ませ、絶対に離れるべきだと強く主張してほしい。

 

 数週間が経過するなら、ものみの塔より出版している書籍に基づいて聖書研究がはじまる。すると最初の数週間の間に、キリスト教の間違いは徹底的にたたき込まれる。それらを学んでからは、キリスト教の書物は悪魔のものと信じるようになり、読まなくなる。教会に行くことは困難になる。また、エホバ神に祈るように教えられるので、そのみ名を使わずに祈ることはできなくなる。さらに魂は不滅ではないと教わるので、聖書から的確に教えられない限り人間の魂の永遠性を信じることは難しくなる。

 一対一での書籍をとおしての聖書研究は次第に奥さんの思考パターンを統制しはじめる。よくでき上がったテキストと巧みな導き手の指導により、エホバの証人の教えの外郭が回を重ねるごとに頭の中にインプットされていく。質問の答えは本文の中に用意されている。はじめは抵抗しながら自分の言葉で答えようとするが、そのうちに考えることが面倒になり、本文の中から答えを探すようになる。

 司会者の巧みな誘導によってすべてがエホバの証人の言うように考えればすっきり割り切れるように見えてくる。これが繰り返されると組織の教えのみが真理であり、他には真理がないように確信され、次第に一つの見方に固まっていく。そうなるとそこから抜け出すのは時間とともに難しくなる。

 

 救出にとって一番重要なことは早くとりかかることである。時間は最も重要な要素である。一対一の聖書研究に入ることは、何としても避けさすことである。彼らのテキストを学びはじめるなら、既に汽車は彼らのレールにのって走り出している。自分一人で飛び降りることはよほど勇気のいることである。

 聖書研究の書籍の二課では、家族や友人が反対してくることをあらかじめ教えている。そのテキストによれば、反対者はすべて悪魔によって惑わされている。従って、私たちが反対すればするほど、エホバの証人の予言が当たることになり、学んでいる人の確信を深めてしまうようになっている。彼らにとっては、私たちが何をしてもそれは悪魔の使いに見えるはずである。従って、反対することは逆効果になる。どれほど驚かしても、彼らは信仰の迫害と取るので、効果はない。冷静になり、愛し続けていることを示し続けてほしい。

 一つの例えで説明しよう。ある家が火事になった。外で騒ぐ人がいて、火事だと気づけば、誰でもすぐ逃げるだろう。しかし、次のような場合はどうか。あなたがホテルに泊まっていたとする。立派なホテルのボーイがあなたの部屋をノックし、「今、狙撃兵がこのホテルの人をねらっている。彼らはまず火災報知機をならし、ドアあるいはバルコニーに人が出てきたら射撃することになっている。だから、たとえ火災報知機がなったとしても、決して外にで出ないように」とあらかじめ説明しておいたとしよう。実際火事になった。火災報知機がなった。人々があわただしく叫び声をあげた。それでもあなたは決して外へは出ないであろう。むしろ、あのボーイが言ったとおりだ、と確信し、絶対に外へ出ようとはしないであろう。これがエホバの証人に反対している人がしていることである。家族や友人が活動すればするほど、彼らは我々を悪魔の使いと見、組織の教えに確信を持つだけなのである。

 

 2,3冊の書物を学ぶと、奥さんは、バプテスマを受けるかどうか決断を迫れられる。。エホバの証人にとってはバプテスマとは組織への献身を誓う儀式である。もしバプテスマを受けるなら、その組織のルールに従って生きることは当然のことになる。

 そのような状況の中にある人には、「バプテスマを受けるという重大な決断をする前に、エホバの証人の裏側にあるものをよく見て、それから決断をしても遅くないのではないか」と勧めてみることである。組織に縛られて生きることの恐ろしさを理解させ、エホバの証人の間違いを指摘した書物を紹介することである。「あなたが神および信仰について真剣な学びを持っていることを嬉しく思います。一つの宗教団体に身をささげることはとても重要なことですから、私も調べてみました。この書物を読んで、私自身は、考えさせられることがとても多かったのです。組織はあなたにすべての情報を与えているか不安になりました。反対する人たちの書物などを読まないようにということは何かを隠しているということかもしれませんね。実際私は今まで知らなかった事柄をここに発見したのですが、あなたも重大な決意をする前に読んでいただけませんか。」と言ってみてはどうだろうか。

 

 奥さんがバプテスマを受けてしまったら、より困難な状況においやられることは間違いない。人はいったん自分で決断したものを否定することは大変な勇気がいるからである。しかしあきらめてはいけない。「人生の大半をエホバの証人にささげてから後、後悔した人々のことを話し、初めの段階でいろいろな資料に目を通し、考えた方がよいのではないか」と言ってみることである。

 通常バプテスマを受けた直後というのは、蜜月時代のようなものである。救出したくても、アプローチが難しいときである。この場合には、エホバの証人に入っているからとそれだけで家族などの交わりの輪を断たないようにすることが大切である。どんなことがあっても、愛と関心を持ち続けていることを示し、通常の会話を保ち続ける必要がある。

 

 この蜜月時代が過ぎると、エホバの証人の方も特別扱いしなくなる。そして、組織内には多くの問題があることにも気づくようになり、さまざまな矛盾を感ずるようになるのが普通である。組織の信仰に疑いが生じるときもあれば、訪問伝道などに疲れ、自分を取り戻したいと思うときがあるはずである。そうなれば、再び情報を提供するチャンスが訪れるであろう。忍耐をもってそのチャンスを待たねばならない。

 

 エホバの証人の信仰に確信を持ち、生き生きと訪問伝道しているときは、救出は困難である。対話することも容易ではない。しかしあきらめてはいけない。そのような人たちとの接点は、彼らが教えようとする姿勢を利用することである。エホバの証人は教える責任を感じるなら、その主題について論じ、あなたの質問に答えようとするはずである。

 もしあなたが、相手の信仰に反撃を加え、うち壊そうとして、「ラッセルは聖書のみでなく、エジプトのピラミッドもまた神の霊感を受けていたと信じていた」と言って、コピーした資料を見せても、読まないであろう。しかしあなたが「私は最近こんな資料を見て、迷っており、正確なところを知りたいと思っている。調べてきて、答えてくれないか」と質問してみると良い。彼はコピーを見、質問に答えようとするかもしれない。彼らがあなたを助けねばならないと感じることが重要なのである。

 

 聖書の言葉を引用する場合も、教えようとする態度を控えるべきである。コメントを求めるのがよい。例えば、ヨハネの福音書20:28を開き、キリストが神であることを証明しようとしてはならない。「この聖句についてコメントしてくださいませんか」と聞くのである。その場合、二つの目的を念頭において質問するとよい。一つは、相手が聖書の本文を文脈に沿って意味をくみ取ることができるようにということであり、もう一つは、そのテキストの意味がエホバの証人が教えている内容と違うことが分かるようにということである。

 質問をするのではなく、あなたが学んだことを話してしまうなら、相手はもう一つのパッケージを受け取るようにと強制されていると感じるだけである。そうなると彼らの防御が働く。それはあなたのパッケージであって、彼のものにはならないからである。

 答えを自分では語らないで、相手に答えを出させて教える、これは最も優れた教育方法の一つである。イエス・キリストは同じ方法をとられた。マルコ2:9でイエスは、「あなたの罪が赦された」と言われた。マルコ12:16では、税金の問題を取り上げている。ルカ14:5では安息日問題である。いずれもイエスは答えを出さないで、質問されただけである。質問をすることは最大の教育方法である。ローマ2:15が彼らの頭と心の中で起こるようにと祈りつつ話すのである。エホバの証人の人が窮地に追いやられても、決して喜んではならない。あなたの目的は議論に勝つことではないからである。

 

 ある考えがその人の頭の中に入っている場合には、新しいデータを入れるには大変多くの時間がかかるものである。特にそれまでのデータと矛盾するものを取り入れるには一度に多くのデータを提供することは効果的ではない。新しいデータを受け取った人はまずそれを理解しなければならない。分析して、自分のシステムに合わせようとするのが普通である。それが本当に合わないと理解した場合にも、違うシステムから発想ができるわけではない。その矛盾が数多くたまっても、違ったシステムに乗り移るには大変な勇気が必要である。自分の全存在をかけざるをえない状況に追い込まれるのである。

 一度に多くの資料を提供されると、人は攻撃されていると感ずるものである。すると結局、恐れをなして、カルトに安全を求めて帰ってしまうのである。そうしたら、体はそこにあっても、対話は途切れたのである。カルトと接した初期の段階であるなら、迅速に、できるだけ強力に資料を提供することが必要である。しかし、そのシステムに10年も生きた人の頭は既にある考えで固まっているのである。

 「エホバの証人が学びをする目的は自分たちが正しいことを証明するためだけである」とクイックは述べている(Pilgrimage through the WATCHTOWER p45)。彼らは組織の教えを疑うことを止めた人間である。従って、学問的に正確な情報を提供すれば、彼らの考えが変わるなどと思うのは甘い。

 エホバの証人は、数年、あるいは10数年、毎週5つの集会に出席し、少なくとも数冊の書物を徹底的にたたき込まれた信者である。彼らが2,3回のキリスト者との話し合いで確信がぐらつくなどと考えてはならない。ただ、エホバの証人の中にも、疑問や矛盾を感じているがそれを押し殺している人もいる。真理には耳傾けようという人も必ずいるはずである。また、今そうではなくても、ふと我に帰り、聖書の真理を聞こうとする時が来るかもしれない。聖霊の働きを祈り、神の哀れみを求めて準備しておく必要があるのではないだろうか。

 

 

まずしっかりとした学びを

 今はキリスト者になったもとエホバの証人のある人が、「訪問した相手がクリスチャンだと分ると、しめたと思った」と告白している。エホバの証人はクリスチャン、特にカトリックの人を最も伝道しやすい対象と考えているようである。神と聖書を信じるという共通の基盤がある上、実際には聖書をほとんど知らないからであろう。

 福音的な信仰を鮮明にしていない教会に行っている人たちもねらわれやすい。聖書や教会、そして神に対して敬虔さが乏しいからである。聖書の信仰をそのまま信じているのでないとエホバの証人たちが攻撃するその内容が多く当てはまってしまい、納得してしまうのである。

 エホバの証人に対する最大の防御は本当の信仰に生きることである。ごまかしはきかない。聖書の信仰にそのまま生きているなら、何一つ恐れることはない。キリスト者は議論で打ち負かさなくても、彼らに強力なインパクトを与えることができる。あるエホバの証人はキリスト者の家に招かれ、証詞をしたら、そのキリスト者が「今は平安があるのですね。平安が無くなったらうちの教会においでください。」と言われ、ショックを受けたと言っている。

 

今、私は、多忙な人はノルマ達成が僅かでよいとは考えていない、ノルマを達成できなかった人は、どういう事情であろうと、もっと努力しなくてはならない。そうでないと、いい加減な図表ができることとなり、その結果、集会内に不健全な精神を生ずることとなる。個人的な証人カードは体温表のようなものである。ノルマを達成しない人は誰でも、明らかに精神的には病人であり「助け」が必要である・・と(314頁)

 

 といっても、普段からエホバの証人のような異端について学び、警戒しておく必要がある。特に、信仰に入って間もない人や、未だ信仰の確信を持っていない人は、異端の教えと聖書の教えとの違いをしっかり学び、自分の信仰を確立しておいてほしい。

 最近は、キリスト者のために書かれたエホバの証人に関する書物が数多く出版されている。たくさん読む必要はないが、代表的な書物を2、3冊読んでおくようお勧めする。教会の中で、学習会などを開いて、いっしょに学ぶと効果的である。そのような講座が開かれていない教会では、牧師にお願いするとよい。きっと積極的に対応してくださるであろう。

 

対話をしよう

 学びは、ただ自分たちの信仰を異端から守るというだけでは不十分である。それではあまりに消極的すぎる。もっと積極的に、エホバの証人に証詞できるほどになっていただきたい。

 福音的なキリスト者は、地の果てにまで宣教師を送り、世界宣教の使命を果たそうとしている。しかし、自分の家にわざわざ聖書を開こうと訪問してきた人を門前払いしたり、無視してしまったのではいかにも情けないのではないか。彼らにキリストの福音を伝えることもまた、世界宣教の一貫である。

 駅やデパートの前で、ものみの塔誌などを開いて、じっと立っている人を見かけた人も多いだろう。そんなときキリスト者であるお互いは、黙って通りすぎる以外にないのだろうか。彼らに声をかけることはできないだろうか。もっと積極的に、近所の王国会館に行き、エホバの証人の人たちと直接対話することはできないのだろうか。

 それは確かに容易なことではない。しかし不可能なことではない。すぐに伝道の効果があがらないかもしれない。その時には、エホバの証人には何の効果が見えなくても、彼らも疑いに陥ることがあるし、疲れることがある。組織に不満を感じることもある。だから、あきらめないで、私たちも彼らに証詞し続ける責任がある。

 

 キリスト者はエホバの証人と対話することを恐れてはならない。彼らがある事柄について話すとき、引用する聖書の箇所は決まっており、言うことも決まっている。そのことを扱っている書物やパンフレットも限られている。もし私たちがあらかじめそのような資料に目を通しておくことができれば、彼らと対話することができるだろう。

 エホバの証人の神学体系を理解するには、時間と労力を割かねばならない。しかし、誰かがしなければならない。あなたに神は望んでおられるのではないだろうか。

 

自分を変革する機会

 キリスト者がエホバの証人と対話をしようと考え始めるなら、自己変革を迫られる。生きた信仰に立っていなければならないし、聖書を真剣に学び直さねばならない。神に対する内面の敬虔さは、外側にも表れるものでなければならない。彼ら以上の真剣さをもって宣教に従事しなければならないし、彼ら以上の生活態度において実を結ぶものでなければならない。教会生活の態度、集会に対する姿勢、、権威に対する態度、どれ一つ取っても、エホバの証人から後ろ指をさされるようであってはならない。

 特にエホバの証人の教理体系を念頭に置いて、正統的な教理を確認しておかねばならない。加えて、エホバの証人に対して効果的な議論の進め方を身につけなければならない。 さらに愛と忍耐、知恵と円熟さも求められる。従って、エホバの証人への伝道は私たちの全存在をかけていかねばできないのである。

 

教会も自己変革のとき

 エホバの証人に本当の福音を提供しようと祈りはじめるなら、彼らが教会に来ることを期待しなければならない。その場合教会は、彼らを受け止めるための準備をしておかねばならない。というのは、エホバの証人は他の求道者と同じではないからである。

 エホバの証人の人たちがたとえエホバの証人の信仰につまづいたとしても、今のキリスト教界には入って来られない。彼らの信仰は、キリスト教会に対するアンチテーゼとして成り立っている。彼らのアイデンティティーはキリスト教会に対する徹底的な批判の中にある。その批判は確かに誤った情報に基づいている。あるいは極端なケースを取り上げている。にもかかわらず、指摘される多くの点において、キリスト教界側の責任は大きい。

 次の内藤牧師の言葉はキリスト者として心しておかねばならない。「ものみの塔、すなわちエホバの証人の問題点を調べれば調べるほど、彼らを切っているつもりがなんとこちらの方も大部切られていると気づく。異端への攻撃は、正当と称する伝統教会をも切らざるを得ないのである。異端攻撃は両刃の剣なのである。残念ながら伝統プロテスタント教会はやはり聖書に根拠を置いているというより、カトリック教会と同じく伝統に権威の震源がある。それがまさに教会の罪、パン種である。これが除かれないかぎり、エホバの証人への攻撃は薮ヘビになり、中途半端で生ぬるい偽まんにならざるを得ないのである。」(『エホバの証人−その狂気の構造』、4頁)

 

  例えば、現在の教会の礼拝に出席すると、エホバの証人の人は献金につまづく。教会はお金集めの宗教だとのかつての教育が頭をもたげるからである。彼らに、献金が献身の現われとして礼拝行為の一部であると、きちんと教えない限り、献金はつまづきの岩でありつづける。

  あるいは、教会の礼拝に出席する人々の服装は彼らをつまづかせる。彼らは、高位な人とお会いするとき、卒業式や入学式のとき、ジーパン姿で行きますか。まして神を礼拝するときはどうでしょう、と教えられている。

 

使命を持った新しい教会を

 既成の教会がエホバの証人を受け入れることができるよう自己変革を遂げることは大切である。しかしそこには限界もある。エホバの証人の神学、ライフスタイル、世界観と価値観、ものの考え方と処理の仕方、それは独特である。彼らが信仰を持っていた期間は、完全に異文化の中で育てられたと考えた方がよい。それは既成の教会が少々のほころびを直す程度では間に合わないように思う。

 パウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました」と述べている(Tコリント9:20)。福音の宣教と教会形成を考えるとき、私たちは『エホバの証人にはエホバの証人のようになった』と言わねばならない。つまり、エホバの証人か出た人々、あるいは研究生だった人たちが中心になって、新しい形態の教会を作ることである。その理由として次のようなことが考えられる。

1)エホバの証人を脱退した人が、正統的な教理を確信するには、聖書と神学において特別な学びが必要である。それは通常の教会のカリキュラムでは到底間に合わない。

  エホバの証人は正統的教理を否定するときには、聖書から十分に学んでいたのである。その時問題にされていた聖句は一つ一つ丁寧に説明され、納得されねばならない。そのような学びは普通の求道者にとってはほとんど必要無い。また、普通の牧師がそれをするには多くの時間がとられすぎる。

2)エホバの証人を脱退した人は特別なリハビリをする必要がある。組織から出た空虚感、絶対的なものを見失った不安感、ハルマゲドンの恐怖などは簡単に消え去るものではない。

  彼らはかつてエホバの証人だった人たちの励ましや支えが必要である。そのような人を普通の教会で見いだすことはなかなかできない。彼らはしばらくは集まり、支えあうことが必要である。

3)既成の教会の活動には、聖書的にははっきり断言できないことも、教派的伝統として大切にしていることはいくらでもある。ただ聖書のみという思考パターンを身につけたエホバの証人にとっては、それらが異教的、サタン的に見えてしまうことは理解しなければならない。

  例えば、女性教職を認める教会に入ることは、聖書を字義どおり解釈することを身につけたエホバの証人にとっては抵抗がある。女性教職制を認めるための背景にあったさまざまの問題をすべて理解させようとしても、無駄であろう。

4)エホバの証人は徹底した聖書の学び、訪問伝道の訓練、愛に溢れた共同体の体験を持っている。普通の教会には、残念ながら、それらは少ない。中味は全く違うにしても、真の聖書の学び、宣教活動、共同体生活は拒否されるべきものではなく、継承されるべきものである。この点、エホバの証人の脱会者は既成の教会に対して良き証詞を示すことができる。

5)現にエホバの証人の中で活動をしている人たちへの宣教の拠点が必要である。既成の教会はそこまではできない。資料を整え、神学の専門家を育て、本腰を入れてエホバの証人対策に乗り出すべきである。

6)エホバの証人の問題で苦るしんでおられる家族は少なくない。そのような家族が本当に安心して相談でき、的確な対応ができるよう指導してくれる場所が必要である。既成の教会は多くのしなければならない課題が山積みとなっている。エホバの証人は宣教活動の一つに過ぎない。しかし、エホバの証人問題に取り組むなら、片手までは決してできるものではない。

7)既成の教会にエホバの証人の伝道に対して、啓蒙活動をしていただきたい。既成の教会もまた、そこに生まれてくる教会から多くのことを学び啓発されていく必要がある。

 

 このような教会は、かつてエホバの証人だった人々が中心になって作られるのが望ましい。と同時に、既成の教会が深く関わり、祈り、支えて行く必要がある。初めは、ある教会の中の一部門としてスタートするかも知れない。各県に一つぐらいづつ生まれ、どこかに全体の連絡をとりあう場所があるとよいであろう。彼らがかつて巡回大会や地域大会をしたように、それらの教会が協力して年に何回か大きな集いをすることも考えてみるのがよいのではないだろうか。

 

 幸い、エホバの証人からキリスト者になる人々が起こされつつある。そのような方々の率直なお声を聞かせていただけたらと願っている。このようなビジョンは間違いだろうか。現実性はないのだろうか。私たちができることは何か無いのだろうか。教えていただきたいと思う。何でもさせていただきたい。

 

 

おわりに

 

 私たちはエホバの証人への証詞という重要な課題と取り組んできた。この課題と取り組んで今改めて私たちに求められているのは、私たち自身のあり方だと思う。

 聖書が歴史的キリスト教の主張する正統的教理を教えていることは疑問の余地がない。しかしそのことは歴史的キリスト教のしていることを是とすることを意味しない。歴史的キリスト教もまた、真の悔い改めを示さなければならない。

 キリスト者はエホバの証人にまさる、真の生き方を身につけなければならない。正統的教理に基づき、聖霊の自由で豊かな働きに委ね、真の敬虔さをこの世に示す責任がある。イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません」と言われた(マタイ 5:20)。今日イエスは、「もしあなたがたの義が、エホバの証人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません」と言われているような気がする。

 エホバの証人は、文字どおり自分の全存在をかけて信仰に励んでいる。わずかな時間をも惜しんで奉仕活動や集会の予習に励み、エホバ神に受け入れられようとして真剣なのである。はたして我々は彼らほどの真剣さをもって聖書を学んでいるだろうか。伝道に打ち込んでいるだろうか。エホバの証人は行為義認なのだと言って、自分たちを弁明してはならない。

 

 私たちの人格や品性はいかがであろうか。愛はどうだろうか。聖霊の実を豊かに表しているだろうか。世の中の人と少しも変わらないと言われてしまわないだろうか。

 エホバの証人は神に受け入れられるために決して妥協しようとはしない。主張すべきではないことまで言っている間違いはたしかにある。しかし、神のみ心なら、一点も妥協をしないという姿勢は福音的キリスト者が失ってはいけないものである。

 

 教会の集会は活気を取り戻さなければならない。多くのキリスト者は礼拝には出席していたとしても、祈り会には出席していない。出席するために彼らほどの犠牲を払おうとしていない。教会はキリストの愛に満たされた『愛の共同体』だろうか。

 

 エホバの証人問題がこれまでの教会のあり方を大きく変えることを期待してこの小さなパンフレットを終わりたいと思う。




          
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