拝 啓

ものみの塔聖書冊子協会 日本支部代表者

織田正太郎殿


はじめに

−この小冊子をお読みくださる皆様に−

中澤啓介

 この小冊子は、私が、1995年の暮れから1996年の暮れまでの一年間に、ものみの塔聖書冊子協会の日本支部代表者、織田正太郎氏宛てに、差し上げたお手紙を集めたものです。それは、1995年12月29日、1996年3月31日、8月13日、9月16日、12月24日の5回にわたってお送りしたものです。
 実は、私は、お手紙を出すたびに、心低くして、「この手紙が織田さんに届きますように、読んでいただけますように、お返事をくださるように」と、お祈りしてきました。手紙を出してからも、毎日、お祈りを欠かしませんでした。しかし、ほんとうに残念なことに、織田さんからは、ただの一通のお返事もいただくことはできませんでした。
 過去4年間に、私は、およそ、300人ほどのエホバの証人(研究生を含む)と話す機会がありました。そのようなとき、もし、エホバの証人の方々に難しい質問をしますと、決まったように次のような返事が返ってきました。「今の私にはよくわかりません。でも、海老名の日本支部に問い合わせてみてください。日本支部の方々は、聖書をよく知っており、必ず、あなたの質問に答えてくれるでしょう。」
 そのようなエホバの証人たちの言葉こそ、海老名の日本支部の代表者織田正太郎氏に手紙を出すよう、私に決心させた理由でございます。一人ひとりのエホバの証人が信じているのは、聖書ではなく、ものみの塔の組織が教える教義である、聖書の真理について私が対話をしなければならないのは、個々のエホバの証人ではなく、組織そのものに対してである、と認識させられたのです。
 ところが、お手紙を出すたびに、ものみの塔聖書冊子協会から裏切られる、という経験をさせられました。一言のお返事もいただけなかったのです。なぜお返事をいただけないのか、私には、未だ、その理由が分かりません。もし、この小冊子をお読みになったエホバの証人の方で、その理由が分かる方がいましたら、ぜひお教えください。
 理由が何であれ、お返事をいただけなかったことは事実です。そして、お返事をくださらないのもまた、一つのお返事の仕方です。そう考えました私は、織田さん宛のお手紙を公開することにしました。大ぜいの方々に、ものみの塔聖書冊子協会とその出版物に関して、ほんとうの姿を知っていただきたいからです。
 実は、織田さん宛てのそれぞれのお手紙には、ここに収録した手紙の他に、ものみの塔の信仰についてまとめた小冊子を同封させていただきました。それらの小冊子を含めますと、この冊子も膨大なものになってしまいます。そこで、お手紙の中に、注を入れておきました。巻末の注の中に、織田さんに宛てた小冊子を紹介しておきます。もし、お読みになりたい方がおられましたら、ご連絡ください。お送りさせていただきます。
 私が、このような小冊子を発刊するほんとうの理由はただ一つです。エホバの証人や研究生の方々に、ものみの塔が教える(いわゆる)「正確な知識」ではなく、聖書のほんとうのメッセージを知っていただきたい、ただそれだけです。私は、キリスト教の牧師です。しかし、キリスト教世界という組織に入っていただきたいのではありません。聖書を自分の目で読んで、聖書の真理に戻っていただきたいのです。聖書は、ものみの塔が教えているような「よいたより」を教えてはいません。もともっと、その何百倍もすばらしい「よいたより」を明らかにしています。
 私は、エホバの証人や研究生の方々が「大好き」です。彼らほど、聖書の真理を知りたいと望んでおり、聖書の神に誠実に仕えていきたいと努力している人々はいないからです。その誠実な信仰心を「組織」にささげないでください。「聖書の神様」にささげてください。組織の教えをつくりだし、それを広めている「人」にだまされないでください。
 もう一度だけ言います。すべてのエホバの証人(研究生)の方々、組織の解説から離れて、聖書そのものを読んでください。
 もし、この小冊子をお読みになって、聖書が教えている「真理」について、あるいは、ものみの塔が教えている「教え」について、もっと詳しく知りたい方は、ぜひご連絡ください。聖書のメッセージを理解していただくために、喜んでお手伝いさせていただきたい、と思っております。秘密はいかなる場合にも、必ず守ります。

 聖書の神様が豊かな祝福を注いでくださいますように。

1997年1月10日

「エホバの証人をキリストへ」          

中 澤 啓 介     




<第1信>


聖書の神様から豊かな恵みが注がれますように。

 はじめまして。私は、神奈川県相模原市にあります大野キリスト教会の牧師、中沢啓介と申します。
 実は私は、二年半ほど前、ものみの塔の信仰が聖書に基づくものであるかどうか調べたく思い、相模大野会衆の村野兄弟および片岡兄弟のもとで一年以上にわたり、研究生として学ばせていただいた者でございます。お二人は、ほんとうに誠実に教えてくださり、心より感謝しております。研究を離れて一年半が経ちますが、今でも、お二人の誠実な態度が目に浮かびます。しかし、研究の方は、ものみの塔の出版物を学べば学ぶほど、多くの疑問が生じ、今のところは研究を中断している状態です。もし、お二人の時間が許されますなら、研究を再開していただこうと願っているところです。
 ところで、最近、協会が「この世代」に関して解釈の変更をしましたので、お二人に質問のお手紙を差し上げました。それから一か月半以上になりますが、未だお返事がありません。お二人からお返事をいただけませんでしたので、私なりにこのような小冊子をつくり、いろいろな方々にお送りし、疑問を投げかけさせていただいております。(注1)
 お忙しい中とは存じますが、お読みいただければと願っております。お読みくださった上で、正確な資料に基づいていない点、間違っていることや誤解していることなどございましたらご指摘ください。私の手元にある資料には、できる限り当りましたが、織田さんのように組織の中枢におられる方から見るなら、多々不十分なところがあると思います。小さな点でも、不正確なことを他の人々にお伝えすることはしたくありませんので、間違いがございましたら、必ずお返事いただきたいと思います。
 もしなければ、手紙の内容は問題がなかったものと理解させていただき、多くの方々と学び合うために用いさせていただきます。
 さて私は、仲間の牧師やクリスチャンとともに、毎週「ものみの塔の研究会」を開いております。今日は、そのためにいくつかのことでお願いしたくペンを取りました。
1)まず、私どもには、ものみの塔聖書冊子協会より出版しています古い文献がありません。エホバの証人の歴史を正確に把握することができず、学問的に不十分なところがあるのではないかと心配しております。キリスト教世界からの文献は数多く手にすることができるのですが、そのような二次的資料だけでは不正確の感を免れません。
 例え考えや信仰が違っていましても、不正確な情報を流すことは決して許されることではないと考えております。また、不正確なことを流して、ものみの塔聖書冊子協会にご迷惑をかけることになってはいけないと思います。海老名ベテルには、図書室があるとお聞きしました。私どもは部外者ですが、どのようにしたら、見せていただけますでしょうか。お教えいただければうれしく思います。英語であれば、古い文献も手に入るのですが、日本語の戦前の文献は皆無に近い状態です。よろしくお願いいたします。
 参考までに、私の手元にある資料をまとめた『参考文献』を同封いたします。(注2)協会の出版物で、ここにはない書籍をぜひ閲覧させてください。次の版を印刷するときには、付け加えていきたいと思います。
2)学びのグループのため、最近、「終末論」に関するテキストをまとめてみました。(注3)もし不十分な理解や、誤解、誤訳や不適切な質問と思われるものがございましたら、ご指摘いただけないでしょうか。
 この学び会は1月は10日からはじまります。大変お忙しい中、恐縮ですが、1月8日ぐらいまでにお返事いただければ感謝でございます。もしそれまでにお返事をいただけなければ、お返事をいただけるまで、とりあえず、この形で使わせていただきます。お時間の都合のよいときに、お返事ください。
 もし、お返事をいただけました場合は、内容的にその必要があるなら、時間的には遅れることになりますが、このテキストをお送りする方々には、そのお返事をも合わせてご紹介させていただくことをお約束いたします。
3)ところで、エホバの証人の文献を読んでおりますと、キリスト教世界に関する言及やキリスト教世界からの文献の引用などに関し、不正確なもの、意図的に読者を欺いているものが数多く目につきます。私の調べた範囲でも、一冊の本ができ上がるほどです。織田さんたちはこのようなことはご存じなのでしょうね。しかし、誠実に信仰を求めている一般のエホバの証人の方は、引用されたもともとの出典に当ることなど不可能です。引用されたものを、そのまま鵜呑みにして信じられるのは当然です。でも、不正確のまま信じてしまうとしたら、真実を愛しておられる聖書の神が喜ばれるはずはありません。
 私も、キリスト教の牧師として、そのような間違いを知った以上、何も言わないことに大きな責任を感じます。そこで、そのような箇所をお知らせし、訂正文を載せていただくのがよいかと思っております。それが、社会的に信頼される大切なルールだと思います。
 ものみの塔聖書冊子協会の出版物に見られる文献の引用法は、明らかに読者を欺くようなものが少なくありません。そのような引用法は、いかなる学術団体においても許されるようなものではありません。組織内において配布されるものにおいても同様です。私もこれまでの30年間、いくつかの学会、学術団体、組織体に身を置いてきましたが、ものみの塔聖書冊子協会のような不正確で、意図的な引用法をしている団体に出あったことはありません。私としては何も知らされていないエホバの証人の方々に正しい情報を提供する責任を感じております。そこで、そのような情報をお届けしたいと思っております。協会のどなた宛てにお送りすれば、適切に取り扱っていただけるのでしょうか。
 確かに訂正文とか、謝罪文を載せることは勇気のいることです。しかし、もしそうなさるなら、ものみの塔聖書冊子協会に対する信用は増大すると思います。
 正しい情報を伝えたいと願っておられることは、織田さんをはじめ日本支部の皆さんも同じだと信じております。聖書の神を信じる者にとっては当然のことです。日本支部の皆さん、海老名ベテルの指導的な立場にある方々は、この欺きの引用法という事実を先刻ご承知のことと思います。もしご存じないのでしたら(そのようなことは私には信じられないことですが)、おっしゃってください。数多くの資料によって、説明させていただきます。学習会を開いて、ごいっしょに学び合うことも一つの方法かと思います。
 ほんとうは、公開討論会を開くのが一番よいと思いますが、いかがでしょうか。私たちのグループでは、このような問題があると、よく公開のパネルディスカッションを開きます。双方がそれぞれの見解を述べ合い、問題点を明らかにして討論するものです。私の手元に、ラッセルやラザフォードがキリスト教の牧師とした公開討論会の全文を載せた書物があります(きっと皆さんも読まれたと思います)。そこで採用された原則に立って、公開討論をしてはいかがでしょうか。ご検討いただければ感謝です。私の方は、公正さが保証されるなら、いかなる形でも、喜んで応じます。よろしくお願いいたします。
 このお手紙は、真理を愛する一人の人間として、ものみの塔を研究したいと願っている学者として、キリスト教の一牧師として、書かせていただいております。書きましたすべてのことに対し、私が全責任を負います。誠意あるお返事をお待ちしています。
 ものみの塔の信仰に関し、伺いたいことが山ほどあります。もしお会いすることができれば、大変うれしく思います。よろしくお願いいたします。
 織田さんが、もしお忙しければ、この手紙を、このような問題を担当してくださる方にお回しくださっても結構です。私も忙しくしておりますので、お立場をよく理解しているつもりです。個人的な見解ではなく、組織としての意見を伺える方であれば、どなたでも結構ですので、お返事をいただけますよう、お取り計らいください。また、もし、そのような問題を扱う責任者の方のご住所等をお教えいただけますならば、直接私から連絡とらせていただきます。よろしくお願いいたします。
 なお、織田さんとは面識がございませんので、自己紹介をしておく責任があるかと思います。下記に記しておきますので、よろしくお願いいたします。

 今年も残すところわずかとなりました。お体にはお気をつけください。

1995年12月29日

ものみの塔聖書冊子協会

日本支部代表者 織 田 正 太 郎 様

大野キリスト教会牧師 中 沢 啓 介   



<第2信>


 聖書の神様からの豊かな祝福をお祈りいたします。

 桜の美しい季節を迎えておりますが、織田さん、その後お変わりございませんか。私は、昨年の12月29日、織田さん宛てにはじめてお手紙を送らせていただきました中澤でございます。そのときは、大変失礼いたしました。
 さて、今日は、そのはじめのお手紙を差し上げましてから、三か月が経ちましたので、二通目のお手紙を出させていただいております。お忙しい中、貴重なお時間をとっていただくことになり、申し訳けございません。
 まずはじめに、先日のお手紙に対しまして、未だ織田さんからのお返事をいただいておりませんが、どのようになっていますでしょうか。手紙は、私の手元には戻っておりませんので、織田さんのもとには届いていることと思います。しかし、もし何等かの事情で、織田さんのお手元に届いていないようでしたら、ご一報いただければと思います。早速、はじめのお手紙のコピーを送らせていただきます。
 もし届いていましても、お返事が遅れているということでしたら、お返事をお待ちいたします。先のお手紙とそれに同封しました文書を確認していただくためには、日本支部の責任ある方々との協議、あるいは、ニューヨークにある統治体からの承認等も必要なのかも知れません。私には、組織のことがよく分りませんので、多くの失礼があったり、余分なお手数をおかけすることになったのではないか、と申し訳けなく思っております。
 先のお手紙で、私は、昨年11月にものみの塔聖書冊子協会が「この世代」の解釈を変更したことに関して質問させていただきました。それは、かつて私が研究していましたときに司会をしてくださった長老に宛てたものでございます。その長老からはお返事をいただくことができませんでしたので、日本支部の方に問い合わせたものでございます。
 特に、この問題について、1970年代の終わりに統治体で討議されたことは、ものみの塔の信仰や体質に重要な意味をもていると思っております。私が手にしました情報は、当時の統治体のメンバーとして直接関わった方からのものですので、確かであることを確信しておりますが、できれば、統治体の議事録等に合致しているかどうか、確認していただきたいのでございます。お手数をかけますが、よろしくお願いいたします。
 また、先のお手紙で三つのことをお願いいたしました。
 まず、海老名ベテルの図書閲覧の件ですが、私どもものみの塔の信仰を研究している者たちは、どうしても戦前及び戦後まもなくの、ものみの塔の文献を調べる必要がございます。歴史的に不正確な研究になってしまっては、ものみの塔聖書冊子協会に対して申し訳けないばかりか、聖書の神に対して罪を犯すことになります。私たちとしましては、学問的良心から資料に正確にあたりたい、という観点からお願いしておりますので、お聞き入れいただければと切に願っております。よろしくお願いいたします。
 また、「終末論」のテキストに関しましては、1月8日、及びそれ以降もお返事をいただけませんでしたので、私たちの学習会で、そのまま使わせていただきました。お返事がないということは、まとめました資料とその資料に基づいた質問等は、ものみの塔聖書冊子協会にとっては大きな異論はない、と考えてよろしいでしょうか。ご返答いただければうれしく存じます。
 三番目の、ものみの塔のキリスト教に対する誤解や非難、あるいは文献の不正確な引用等の問題については、ぜひご回答をいただきたいと思っております。私がキリスト教の立場を離れ、一人の学問的研究者としてものみの塔聖書冊子協会の文献を読みましても、それは常軌を逸したものと言わざるを得ません。人は、他の団体や運動に関し、どのように考えようと、評価しようと、それはそれで自由でございます。しかし、ある公けの機関誌や書物が他の団体のことに言及する場合はそうではありません。微細な点においてでも、不正確であってはならず、特に一般論的な表現である団体を非難中傷することは厳に慎まなければなりません。むろんその出版物の編集者は、そのすべての発言に対し責任を求められます。これはキリスト教世界が、エホバの証人に対して言及するときも、まったく同じであることは言うまでもありません。
 特に、他の人々の書物から文章を引用する場合には、著者の発言の意図をよく汲み、正確に引用しなければなりません。私の見る限り、この点で、ものみの塔聖書冊子協会の出版物は、他にまったく類例を見ないほど、読者を欺いております。もし私が、同じような間違いを犯しますなら、私が所属するすべての団体及びそのメンバーから、一瞬にして信頼を失うことになるでしょう。織田さんをはじめ、日本支部の皆様には、このことはよくお分りになるのではないかと思います。
 私としましては、38年間クリスチャンとして聖書と神学を研究してきた者としまして、ものみの塔聖書冊子協会に、これまでの間違いを認めていただき、一つ一つに対して訂正文を載せ、その責任を表明していただきたいのでございます。これまでのものみの塔聖書冊子協会の出版物の中で、私がどのような文章を問題にしているかは、お分りいただけると思いますが、もし、ご不明でしたら、おっしゃってください。私が考えています箇所を申し上げますので、検討していただければと思っております。
 今、ほんの一例として、2年前、私が相模大野会衆の村野兄と片岡兄のお二人と研究していましたときに用意しましたものを同封いたします。(注4)この研究資料の19-24頁をご覧ください。不正確な引用の例を載せておきました。ここにあげましたものは、むろんヨハネ1章1節に関するものだけです。もし、他のテーマに関しても集めますなら、簡単に一冊の書物をつくりあげることができます。
 私もこのような例をたくさん集めておりますが、私の主張が正当なものかどうか、チェックしていただく必要があると思っております。決して一方的であってはならないと思うからでございます。先のお手紙に記しましたように、双方が安心して学び合える学習会か公開討論会などを開いて、検討しあってはいかがでしょうか。ものみの塔の組織に責任をもつ方々は、組織の方々に対してそのようなことをする誠実さが必要だと思いますが、いかがでしょうか。ご検討いただければと思います。
 さて、今回は、仲間の学習会のために用意しました「エホバの御名」に関するテキストをチェックしていただけないかと思い、お手紙をさせていただいております。(注5)
 再びお手を煩わせることになりますが、私としましては、ものみの塔の信仰に対しまして、できる限り公平な態度を保つために、どうしてもものみの塔聖書冊子協会側からの正式なコメントをいただきたいのでございます。個人的なこのようなお願いが誠に失礼なことは重々承知しておりますが、もし、私や私が関わる組織が、自分とは違う立場の方々からコメントを求められるなら、喜んで応答するであろう、と思っておりますので、勇気を出してお手紙を書いております。
 このテキストは、エホバの御名をめぐって、クリスチャンとエホバの証人が対話するという形式で書いてみました。一応、十七の対話にまとめました。ここに書きましたストーリーは、過去3年間に読みましたものみの塔の文献に基づき、現役の50人以上のエホバの証人の方々とお話した結果できあがったものでございます。対話をした方々の中には数人の長老の方も含まれております。ただ、正直申し上げますと、実際には、ここに書いたような会話にはなりませんでした。私が投げかけた質問には、ほとんどの場合、お返事がなく、沈黙されるか、または議論を他の方に逸脱させてしまわれますので、対話は成り立たなかった、ということでございます。そこで、ものみの塔聖書冊子協会の資料に基づいて、エホバの証人であればこのように答えることができるのではないかと、推測して書いております。
 私としましては、客観的な資料に基づき、公平さを最大限保って、対話を進めているつもりですが、織田さんからご覧になれば、もっとよい質問をしたり、答えを出されたりするのではないかと思います。また、テーマの選び方や、論理の運び方をもお変えになるのではないか、とも思っております。私の誤解や認識不足などもありはしないか、と心配しております。私としましては、どんなことにも正確な発言をしたいと思っておりますので、織田さんから一般的なコメントをいただき、担当者から細部にわたる問題を指摘していただけないかと願っております。今後、テキストなどに利用する場合には、コメントをお載せするか、訂正させていただいて使うことをお約束いたします。
 なお、このようなテキストは、確かな出典を明らかにする必要があると存じますので、参考資料をも用意いたしました。同封させていただきます。これらの参考資料のうち、キリスト教側の資料は、私も30年以上にわたって読み続けてきたものですので、間違いないと確信しております。ですが、ものみの塔側の資料に関しましては、不備なところ、不十分な点が多いのではないかと危惧の念をもっております。重要な資料を見落としていたり、または誤解しているようなことがございましたら、遠慮なくご指摘ください。
 私たちが開いております学習会は、エホバの証人の信仰を心から尊重し、その信仰内容を聖書と客観的に比較しながら検証しようという主旨でもたれております。学習会に出席しながら、私がいつも考えますことは、ものみの塔の信仰について学ぶには、ものみの塔の方々から直接お話をお聞きするのが一番よい、ということです。海老名ベテルの方々、地域監督や巡回監督の方々は、皆様お忙しいこととは思いますが、私たちの学習会に講師としておいでいただくことはできませんでしょうか。これもまた勝手なお願いですが、ご検討いただければと願っております。
 もし、講義をしていただけるようでしたら、テーマや時間、質問など、その範囲や内容に関しましてもおっしゃってください。喜んで考えさせていただきます。
 私たちの学習会は、いかなる団体にも所属していません。参加者の半分ぐらいはクリスチャンですが、キリスト教の立場から研究しているわけでもございません。あくまでも客観的に、正確に、ものみの塔の信仰や教理、聖書解釈を研究しようとしているグループでございます。もし協会のリーダーの方が講義してくださるなら、お話したいことをお話ししていただければと思っております。私としましては、織田さんにおいでいただければ、もっとも光栄でございます。しかし、お忙しくてとても無理なお願いかとも思いますので、この種の要望を担当してくださる部門でお決めくださる方ならどなたでもお迎えしたいと思っております。ご配慮のほど、よろしくお願いいたします。
 なお、私たちのグループは、小さな個人的なグループですので、おいでいただいた場合にも、交通費程度の謝礼しかできないことをお許しください。ただ、誰よりも、ものみの塔の信仰に関心をもっている人々の集まりということで、ご高配いただければと願っております。
 反対に、もし私が王国会館や海老名ホール、巡回大会や地域大会におきまして、お話をする機会が与えられますならば、ぜひお声をかけてください。公平ささえ保証されるなら、いつでもまいります。お声をかけてください。個人的でも、数人でも、大きな集いでも、私はかまいません。どうしても変えることのできないスケジュールも多少ございますが、できる限り時間は都合をつけます。ぜひおっしゃってください。
 また、私が書きましたものにつきまして学問的に問題がありますならば、いつでもご指摘くださるか、お問い合わせください。文書でも、必要であれば、出向いてでも説明させていただきます。聖書の真理を確認するためには、どんな犠牲をも惜しむべきではないと思っております。ともに学び合い、論じ合うことができますよう、そのような機会を設けてくださいますよう、よろしくお願いいたします。
 私は、今から38年前、両親が離婚状態の中にありました高校1年のとき、人生の意味を尋ねて、はじめてキリスト教会の門をたたきました。以来、聖書の神を信じ、聖書ひとすじに生きてまいりました。聖書の言葉はすべて神の霊感によって書かれたものだと信じ、聖書の福音に生かされてまいりました。この福音の真理を見いだしていただくためであるなら、あるいはこの福音の真理を宣べ伝えるためであるなら、さらにはこの福音の真理を弁証する必要のためなら、いかなる犠牲を払うこともいとわない者でございます。
 私がその聖書から知った福音とは、Tコリント15章1-5節に要約されています。新世界訳では次のようになっております。
  ・『さて、兄弟たち、わたしはあなた方に良いたよりを知らせます。それはわたしがあなた方に宣明したもの、またあなた方が受け入れたものであり、あなた方はまたその中に立ち、それにより、わたしがあなた方に良いたよりを宣明したそのことばをもって救われつつあります。もしあなた方がそれをしっかりと守っているなら、実際、いたずらに信者となったのでなければですが。というのは、わたしは、最初の事柄の中で、・[次の]ことをあなた方に伝えたからです。それは自分もまた受けたことなのですが、キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった、ということです。そして、葬られたこと、そうです、聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと、さらに、ケファに現われ、次いで十二人に[現われた]ことです。
 私たちが信じ、宣べ伝える福音とは、ここでパウロが説いているものと同じでなければなりません。パウロは、この福音とは別の福音を宣べ伝えるなら、天使であっても呪われなければならないとまで言っております(ガラテヤ1:8-9)。それは、プロテスタントであろうが、カトリックであろうが、エホバの証人であろうが同じことです。
 私自身は、プロテスタントのバプテストというグループに属していますが、もしパウロが宣べ伝えた福音、それはイエスが伝えたものであり、追従者たちが宣べ伝えたものですが、それとは異なった福音を宣べ伝えるようなことがいささかでもあれば、聖書の神からの呪いを受けるということです。この聖句は、福音の真理はいささかも曲げてはならないことを警告しております。
 私は、聖書や聖書の神様に対する信仰の基本的姿勢は、織田さんをはじめとするエホバの証人の方々も同じであると確信しております。この共通の基盤に立ちますなら、必ず両者の対話は成立し、相互に理解し合うことができると確信しております。残念ながら、これまでは、ものみの塔聖書冊子協会とキリスト教世界の間には、越え難い溝がありました。しかし、双方とも、相手の主張に真摯に耳を傾け、聖書が教える真理に聞くべきときが来たのではないでしょうか。
 私は、このような自覚に基づいて、3年前、エホバの証人の長老からものみの塔の聖書解釈を直接教えていただこうと決心したのでございます。それまでは、ものみの塔聖書冊子協会より出版されたいくつかの書物に目を通すという程度のことはしていましたが、それは極めて表面的なものにすぎませんでした。それまでは、直接じっくり学ぶこともしないで、間接的な接触でエホバの証人を異端であると批判してきたことを、恥じたのでございます。仲間の牧師たちの中にも、同じような気持ちをもつ人々が増えつつあります。このような面で、少しでもお役に立つことができたら、と思っております。
 いつか、近いうちに、直接お話しできましたら、と願っております。組織の代表者である織田さんは、とてもお忙しいことでしょうが、ぜひそのような機会が与えられますようにと、聖書の神様にお祈りしております。
 もし、いろいろな事情から、織田さんとお話することが難しければ、他の方でも結構でございます。組織の意見を代表しておっしゃってくださる方であれば、私の方は、喜んでお話させていただきます。
 私はエホバの証人の組織のことが判りませんので、代表者である織田さん宛てにお手紙を書いております。しかし、このようなお手紙は、組織の中では、扱うべき担当者がおられるのではないかと思います。もし、そのような方がおられるのでしたら、このお手紙と同封しました資料をその方に回していただければ感謝でございます。あるいは、その方のお名前をお教えください。あらためて、直接お手紙をさせていただきます。
 もしかしたら、組織の制度上、この手紙を最初に開封されるのは、織田さんではなく、秘書の方か、このようなお手紙を処理される担当部門の方であるかも知れません。もしそうでしたら、開封されました方は、お手数ですが、ぜひ織田さんにこのお手紙と同封の資料をお見せくださいますようにお願いいたします。
 新しい年度を迎える、お忙しい時期ではないかと思います。ご家族の皆様のご健康が支えられますように、心よりお祈りいたします。

 聖書の神様からの豊かな祝福と慰めがありますように。

1996年3月31日

 ものみの塔聖書冊子協会

日本支部代表者 織 田 正 太 郎 様

大野キリスト教会牧師 中 沢 啓 介




<第3信>


 聖書の神様からの豊かな祝福をお祈りいたします。

 大変暑い日々が続いておりますが、織田さん、その後お変わりございませんか。毎日、お忙しくしておられることと存じます。
 私は、昨年の12月29日と、今年3月31日にお手紙を出させていただきました中澤でございます。これまで二度、お手紙をさせていただきましたので、これが三通目のお手紙となります。初めのお手紙をさせていただきましてから、七ヶ月、二度目のお手紙からでも、四ヶ月が経過しました。それらのお手紙のお返事を未だいただいておりませんので、どうなっているのでしょうか。気になっております。あるいは、私の手紙の文章中に、失礼なことなどを書いてしまったか、と思い、読み直して見たりもしています。私としましては、誠意をもって、正直に書かせていただいたつもりですが、それも、もし、お気にさわるようなことがございましたら、寛大なお心で、お許しいただきたいと思っております。
 何よりも、織田さんは、大きな組織の責任者として、大変お忙しいこととは、重々承知しているつもりでございます。前のお手紙にも書かかせていただきましたように、私の手紙は、織田さん個人への手紙ではなく、組織への手紙ですので、織田さんご自身からお返事をいただけなくても(もし、ご自身からいただければ、この上ない光栄ではございますが)、どなたか、組織のご意思をお伝えいただける方から、お返事をいただければ、十分でございます。
 一信目、二信目でお尋ねしたことにお答えいただきたいことは、今の私にとっても変わっておりません。申し訳けございませんが、ぜひ、お返事をください。お待ちしております。もし、何等かの事情で、先の二通のお手紙が届いていないようでしたら、すぐにお送りいたします。ご一報ください。
 また、もし、何らかの事情で、私の手紙に返答することはできない、ということでしたら、それはそれで仕方がないことと考えます。その場合はぜひ、その旨当方にご連絡くださり、その理由をお教えください。その理由に納得しましたら、お返事をあきらめ、今後お手紙を出すことを控えるようにいたします。ぜひ、お返事をください。よろしくお願いいたします。
 さて、最近私は、ものみの塔出版協会から出版された『知識』を読ませていただきました。読み進むにつれ、たくさんのお聞きしたいことが生じてまいりました。今日は、この書物について、いくつかのことをお尋ねしたいと思い、お手紙をさせていただいております。三度、お手を煩わすことになりますが、お返事いただければ、と切に願っております。よろしくお願いいたします。
 まず、昨年暮れから、突然、これまで研究生を教えるために用いられていた『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』を廃止し、この『知識』に変更した理由はなぜか、ということです。
 実は、昨年暮れ、私が知っている数人の研究生は、「ハルマゲドンが近く、もう楽園の書物を学んでいる時間がないほどです。それで、組織は、もっとコンパクトで、内容がすばらしい研究用テキスト『知識』を備えてくださいました。今後は、『知識』を用いることにします」と、言われたそうです。
 そこで私は、次のように答えました。
 「ものみの塔の組織は、昨年11月1日号の『ものみの塔』誌において、「1914年の世代」の解釈を変更しました。『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の154頁を開いてください。そこには、1914年の世代が終わる前に、ハルマゲドンが来ると予告しています。ところが、そのタイムリミットは、満80年を経過した昨年11月だったのです。そこで、ものみの塔の組織は、従来の解釈を変更せざるを得なくなりました。その結果、古い見解を述べている『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』を研究用のテキストとして使うわけにはいかなくなったのです。そのような事態に備えるため、昨年夏の地域大会において、あらかじめ『知識』を配布しておいたのです。ですから、「1914年の世代」の教理変更がその原因だと思います。」
 私は、組織の中の人間ではありません。従いまして、私の推測が正しいかどうか、確認するすべがありません。もし間違っていましたなら、申し訳ないと思いますので、教えていただけたら、と願っております。
 あるいは、ものみの塔の組織が、最近、たくさんの教理を変更していることとも関係があるのでしょうか。
 たとえば、「羊とやぎを分ける業」(マタイ5:32-33)は、これまではエホバの証人が家から家への伝道をした結果生じることだと解釈してきました。しかし、昨年10月15日号の『ものみの塔』誌は、それは、今の世においてなされている宣べ伝える業の結果のことではなく、未来の、終末の裁きにおいて起こることだと変更しました(従来の解釈がおかしいことなど、聖書を一読すれば誰にでも分ることです)。
 あるいは、今年の5月1日号の『ものみの塔』誌が、従来認めていなかった兵役義務の代官措置をみとめたことなどをあげることができます。
 あるいは、もしかしたら、よく指摘されます『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の本に出てくる「隠し絵」のことが原因なのかな、と思わされたりもしています。この隠し絵とは、9頁、17頁、67頁、78頁、114頁、144頁、235頁、244頁などに見られるもので、織田さんもよくご存じのことだと思います(絵の専門家たちの中には、さらに多くの隠し絵を指摘する人たちもいます)。公式には悪霊やオカルト信仰を拒否しているものみの塔の出版物に、この種の疑惑に満ちた挿絵が存在すること自体、恥ずかしいことだったと思います。ですから、『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の書物を使わなくしたのでしょうか。もっとも、ものみの塔の創設者ラッセルは、ピラミッド学などに異常な興味をもつフリーメーソンであったことは証明されつつありますので(もしこの点を確かめたいということでございましたら、スピッケルマイヤーの研究書をお送りいたします)、隠し絵の存在など、エホバの証人にとっては恥ずかしいことではないのかも知れません。私には、分りません。
 もし私が、組織の中にいれば、いろいろな人にお尋ねすることもできます。しかし、今の私には、このような問題を誰にお聞きしてよいのか分りません。織田さんご自身か、担当の方からのお返事を期待しております。
 なお、『知識』を読んだ結果、「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」よりも、はるかに、キリスト教世界の教えに近づきつつあるな、という印象をもっています。光が増し加わると、大いなるバビロンの教えに近づくというのも、おかしな話ですが、そのような印象を強くもっております。そのような印象は、織田さんたちの立場から見れば、正しいことなのでしょうか。コメントいただければ、と願っております。
 この『知識』の書物について、お会いしてたくさんのことを伺いたいのですが、今日は、一つだけ、聖書を信じる者として、ぜひお聞きしたいことがあります。
 それは、参照聖句としてある聖書箇所をあげる「引用方法」に関してです。
 通常、ある聖書の言葉を参照聖句としてあげるのは、本文の中で著者が述べている内容と同じことを教えている場合に限ります。つまり、『知識』の著者の主張が、聖書の主張と同じであることを確認するために聖句が引用されるはずです。
 ところが、この『知識』の書物においては(実は、『知識』だけではなく、ものみの塔の出版物全般にについて言えることですが)、全く異なるのです。参照として挙げられている聖句を読んでみますと、聖書が言わんとしていることと、『知識』の著者が言わんとしていることとの間には、直接関係ない場合がほとんどです。もしかしますと、織田さんたちのように、ものみの塔の組織の中で長い間生活をされてますと、このような引用聖句の方法に慣れ、そのおかしさに気づかなくなってしまうかも知れませんが(きっとそんなことはなく、おかしいと思われていると思いますが、そうでしたら、お許しください)、私の印象では、半分どころか七割、あるいはそれ以上が不適切である、と思わされております。
 この『知識』において、引照聖句として挙げられているそのほとんどは、『知識』の本文の主文章の主張を確認する(保証する)ものではありません。むしろ、その文章に出てくる「ある言葉」が、たまたま記述されている聖書箇所に出てくる場合が多いのです。そのような場合、参照聖句が『知識』の著者の主張を支持していることにならないことはいうまでもありません。あるいはまた、副文章で述べていることを確証する聖句を挙げている場合も目立ちます。この場合もまた、主文章の主張を聖句によって確認することはできません。ときには、ある聖句がどうしてそこに挙げられているのか分らない場合さえあります。
 このような聖書の使い方をするなら、結局は、自分が言いたいことを聖書の言葉によって主張することができるのです。それは、「あなた方は、わたしが命じている言葉に付け加えてはならず、それから取り去ってもならない」(申命記4章2節)という神のみことばに抵触します。
 私はこれまで、聖書を説明している書物を何千冊、否、何万冊も読んできました。しかし、ものみの塔聖書冊子協会からり出版されている書物のように、聖書の文脈を無視し、自分勝手に聖書を解釈したり、適用したりしている本に出くわしたことはありません。ほんとうに文字どおり、一度もなかったと言っても過言ではありません。
 私自身は、福音的キリスト教の世界に身を置いている者です。もし、私たちの世界で、『知識』のような聖句の引用の仕方で書物を執筆するなら、誰からも信頼されなくなるでしょう。『知識』の書物(ものみの塔の出版物は、基本的に皆同じですが)の聖句の引用方法は、それほど逸脱しているということでございます。
 結局、このような引用方法で聖句を使っている『知識』という書物は、聖書が説いているメッセージを解き明かしてはいない、と断定せざるを得ません。むしろ、自分たちの主張が聖書的な主張であるかのように見せかけるため、聖書を誤用(悪用)しているにすぎない、としか思えないのです。一般の人々の聖書知識が乏しいことを利用し、組織の教えを聖書の教えであるかのようにカモフラージュするため聖句を引用している、と私にはほんとうにそう見えます。織田さん、どうぞ怒らないでください。もし間違っていたら、などという断わり書きをする必要がまったくないほどです。
 むしろ、次のパウロの言葉が私の正直な心境です。「わたしたちは恥ずべき隠れた事柄を捨て去ってしまい、こうかつに歩むことなく、また神の言葉を不純にすることもありません。かえって、真理を明らかにすることにより、神のみ前で自分をすべての人間の良心に推薦するのです。」(Uコリント4章2節)
 そこで私は、聖書を信じる者として、この『知識』の書物を学ぼうとしている研究生のために、『知識』が述べていることが、聖書の教えていることとは違うこと(あるいは、直接関係ないこと)を明らかにする責任があると思いました。そこで、私は、「聖書から『知識』を論じる」という冊子をつくってみました。(注6)全部で、200頁以上(6冊の小冊子)になってしまいましたが、私が『知識』に対してもっている見解を理解していただくため、その中の最初の部分30頁ほどを送らせていただきます。
 そこで、織田さんにお願いがございます。この小冊子をお読みくださって、この小冊子で述べています質問や批判に対し、反論(コメント)をいただけないでしょうか。私としては、織田さんご自身にお読みいただき、お返事をいただけますなら、この上ない光栄でございますが、毎日お忙しくしておられますことを察しますに、お手を煩わせるのも大変申し訳けなく思っております。もし、組織の中で、このような問題を担当してくださる方がおられましたら、その方をご紹介していただければ、と思います。その方と直接お話しさせていただきます。住所等をお教えいただければ、感謝でございます。
 なお、お送りしていますのは、はじめの部分だけですので、もし、織田さんにしても別の方にしても、お読みいただけ、コメントをしてくださるということでしたら、続きの部分をすべて送らせていただきます。送り先をご連絡いただけるでしょうか。
 ものみの塔の信仰に、ほんとうに関心をもつようになってから、私自身は、未だ、三年に過ぎません。しかも、エホバの証人の研究生だったのは、そのうち一年あまりに過ぎません。この冊子をつくるにあたり、誠心誠意をつくして、正確に記したつもりではございますが、認識不足だったり、誤解していることがあるかもしれません。聖書の神様を信じる者として、どんな小さな事にも誠実であることは重要なことだと思っております。もし、間違いや勘違い、不正確な部分など、ございましたら、ぜひ、ご指摘ください。納得がいくなら、即座に訂正いたします。また、もし、組織にご迷惑をおかけするようなことでもあれば、謝罪いたします。ぜひ、遠慮せずに、どのようなことでもおっしゃってください。
 『知識』の119頁は、次のように記しています。
 「エホバは『真理の神』であられます。(詩篇31:5)あなたは神の模範に倣い、真実を語る人として知られることを願っておられるに違いありません。正直であれば、自尊心と幸福感を抱くことができます。...エホバの崇拝者は、職場や学校や家庭のいずれにおいても、『すべてのことにおいて正直』でなければなりません。...正直であれば、多くの祝福を受けることができます。」
 私は、この『知識』の言葉に励まされて、このお手紙を書いています。織田さんには、一面識もございませんが、上記の『知識』の言葉に従って歩んでおられる方だと確信するからです。
 前二回のお手紙に対するお返事をもお待ちしております。もし先のお手紙に対するお返事に時間がかかるようでしたら、今回のお返事を先にいただいても結構かと思います。
 とにかく、私の手紙が着いているのかどうか、読んでいただけたのかどうか、それだけでもお教えいただけませんでしょうか。質問に対してお返事をいただけないのであれば、その理由だけでもお教えいただけないでしょうか。ぜひ、お返事をください。よろしくお願いいたします。
 もし、キリスト教世界のことでお知りになりたいこと、あるいは確認されたいことなどがございましたら、遠慮なくお尋ねください。私の活動も限られており、それなりの立場もございますので、ご期待に添えるかどうか分りませんが、最大限の協力をさせていただきます。

 暑さが続いております。ご健康にはくれぐれもお気をつけください。織田さんご一家の上に、聖書の神様からの豊かな祝福と慰めがありますように。

1996年8月13日

 ものみの塔聖書冊子協会

日本支部代表者 織 田 正 太 郎 様

大野キリスト教会牧師 中 沢 啓 介




<第4信>


 聖書の神様に、栄光が永遠から永遠にありますように。

 すっかり涼しくなり、収穫の秋を迎えています。織田さん、その後お変りございませんか。私の方は、この夏、体調を少々崩していましたが、もう元気になりました。秋の活動のために、徐々に体をならしているところです。
 さて、今日は、緊急のご相談があって、お手紙を書かせていただいております。まことにお忙しいときとは存じますが、大変大切なことですので、ぜひお読みくださり、お返事をください。よろしくお願いいたします。
 実は、昨日、私は、友人のA氏から、あるご相談を受けました。そのご相談とは、次のようなことです。
 A氏の奥様は、しばらく前から体調が思わしくありませんでしたので、近くの病院に行かれました。そこで、お医者さんから、「子宮筋腫」という診断がくだされました。しかし、幸いなことに、もし、手術をして取り除いてしまうなら、生命に別状はない、ということでした。
 ところが、その奥様は、エホバの証人ですので、病院からの手術の同意書に、「いかなる緊急事態が起こっても、輸血をしないでほしい」という文章を追加されました。ところが、私の友人であるA氏は、原則として輸血をしないということであれば理解してもよいが、「いかなる緊急事態が起こっても」という文章には賛成できない、と同意書へのサインを拒みました。エホバの証人ではない友人にとっては、これが自分としてできるぎりぎりの選択だ、ということです。その結果、奥様は、手術を受けることを断念されました。
 しかし、最近になり、奥様は、やはり手術を受けたい、と希望され、先の同意書にサインしてほしいと、再度、ご主人に要望されました。ご主人のAさんは、どうしてよいか迷い、思い余って、友人である私に、相談に来られたわけです。
 友人のA氏の質問は、次の三点でした。
@聖書は、ほんとうに輸血を禁じているのか。
Aものみの塔の組織は、輸血拒否を強制しているのか。
B自分は、妻の書いた文章に同意すべきなのか。
 そこで、私は、次のように答えました。
 まず一点目です。聖書が輸血を禁じているかどうかは、聖書解釈の問題である。ものみの塔が、輸血を禁止している聖句としてあげているのは、創世記9:4-6、レビ17:10-14(レビ7:26-27、あるいは、申命記12:20-25)、使徒15:20である。それらは、いずれも、動物の血を食べることを禁止している箇所である。しかし、ものみの塔は、動物の血も人間の血と変わりはない、口から食べることと医療的に血管に注入することも変わりはない、と解釈し、聖書が輸血を禁じている、と考えている。これらの聖句を輸血禁止に適用しているグループは、聖書を読んでいる人々の中で、ものみの塔だけである。
 これまで、私は、ものみの塔が出版している輸血禁止に関する文献は、ほとんど目を通してきたが、聖書および神学を研究する者としても、ものみの塔の解釈は、納得いかない。ものみの塔の聖書解釈は、聖書が教えていることを素直に聞こうとしているのではなく、はじめに結論を出しておいて、その結論にもっていくためにヘリクツをつけているにすぎない。
 しかし、エホバの証人は、このような聖句が輸血を禁止していない、と学問的に正確にお話されても、輸血を認めようとはしない。なぜなら、エホバの証人は、聖書を信じているように見えるが(エホバの証人自身は、そう思っている)、実は、そうではなく、組織を信じているのである。正確に言えば、組織が教える聖書の教理(それは聖書が教える教理とは違う)を信じている。従って、奥様と輸血に関して、聖書の教えを論じても、無駄に終わるだろう。
 最近は、ものみの塔の組織も、これまでの聖書の解釈の間違いに気づき、修正することも多い。ローマ13章1節の「上からの権威」、マタイ25章31-33節の「羊と山羊の例え」、マタイ24章34節の「1914年の世代」などが、その例である。そのうち、輸血に関する聖句の解釈も変更し、文字どおり素直に解釈して、輸血禁止の条項が解かれるかも知れない。私も、そうなることを心から願っているが、しかし、今は、何とも言えない。
 二番目の点については、次のように答えました。
 ものみの塔は、組織としてエホバの証人に輸血禁止を教えている。また、もし、輸血をするなら、組織から排斥される。従って、組織の中にいるなら、強制されている状態にある、と言ってよい。しかし、エホバの証人自身は、自分で決断した、と思っているし、組織もまた、外部の人々に対して、個人がした決断である、という印象を与えようとしている。
 三番目の質問に対しては、次のようにアドバイスいたしました。
 ご主人としては、自分の信条から納得がいかなくても、奥様の信仰を尊重し、輸血を拒否していることを受け入れてほしい。奥さんが記した但し書をも含めてすべてを了解し、病院からの同意書にサインしてあげてほしい。もし、ご主人が同意書にサインをしない結果、奥様が手術を受けられず、奥さんの命が危険にさらされるようなことになれば、ご主人の責任である。奥さんの肉体的・精神的苦しみを理解し、手術の同意書にサインすることが、ご主人の奥さんに対する愛の証詞である。
 そして、友人のA氏には、奥さんが出席している王国会館に行って、長老の方とよく相談するよう、勧めておきました。A氏には、エホバの証人は、良心に恥じない行動を取る人々であり、愛ある人々だから、たとえ、信条が違っても、必ず誠意ある対応をしてくださいます、とお話ししておきました。もし、織田さんから、その会衆の長老の方に声をかけていただけるようでしたら、大変うれしく思います。私の友人A氏の名前とその奥さんが通っています会衆の名前をお伝えします。
 さらにまた、私は、友人のA氏に、私から、ものみの塔の代表者、織田さん宛てにお手紙を書くことをお約束しました。
 以上のような経過から、私は、織田さんにこのお手紙をしたためております。そこで、いくつかのことをお尋ねしたいと思っております。
 まず、私が友人のA氏に申し上げたことは間違っていないか、ということです。このような具体的な相談を受けたことははじめてですので、私は、間違ったことを言ってはいけないと思い、できる限り正確に述べたつもりです。でも、織田さんのお立場からしますと、訂正すべきことがあるかも知れません。ございましたら、教えてください。すぐに友人に訂正しておきたいと思います。
 次に、ものみの塔が、輸血に関する教えを変えることはないだろうか、という点を伺いたいと思います。ものみの塔の輸血に関する現在の解釈については、今は、議論を避けたいと思います。別の機会にあらゆる角度から論じる機会が与えられることを願っております。今は、現在の「輸血禁止という聖書解釈」を変える可能性をお聞きしたいと思います。否、変えていただきたい、と切なる希望をお伝えしたいのです。
 と言いますのは、ものみの塔の組織は、これまで、医療の問題において、何度か、教えを変更してきました。織田さんをはじめ、エホバの証人の皆さんにとっては、これから述べることなど、先刻、十分にご存じのことと思いますが、ものみの塔の医療に対する発言のいくつかを紹介しておきます。ここに記したこと以外にもたくさんのおかしな情報がありますが、このお手紙では、簡単にしておきます。
 ものみの塔が、医療の分野に介入するようになるのは、1923年からのことです。以来、おかしなことを繰り返し、主張しています。
 例えば、パスツールのことを「詐欺師パスツール」と呼び、「狂犬病というのは、現実のものではなく、架空のものである。もし、その迷信にお金が絡んでいなければ、とっくの昔に消え去っていただろう。...パスツールは、狂犬病を治療しているのではなく、産み出しているにすぎない」と言ったかと思いますと(1936年9月23日号の『黄金時代』−英語版、814頁)、1977年出版の『生命には目的がある』の79頁では、まったく逆の「医学と手術に大きな貢献をした名声高い科学者」として評価します。
 あるいは、1971年3月1日の『ものみの塔』(英語版、134-37頁)は、肉体の心が文字どおり、実際に人間の感情を起こさせる座である、と教えたかと思いますと、1984年9月1日の『ものみの塔』(英語版、6-7頁)は、心が感情を呼び起こす座である、というのは、文字どおりの意味ではなく、純粋に象徴的な意味であると、1971年に発表した見解を撤回します。
 また、1965年11月22日の『目ざめよ!』は、「ブルース・ブッドロウという血友病のアメリカ人科学者が病状が好転したので、その原因を調べた結果、ピーナッツをたくさん食べたことにあった。このことは、他の血友病患者によって確証された」というニュースをエホバの証人にとっての朗報として伝えています。今から思えば、笑い話にもなりませんが。
 ものみの塔が一番はじめに取り上げた医療問題は、種痘に関してでした。1923年1月3日号の『黄金時代』−現在の『目ざめよ!』の前身−(英語版、211頁)は、「種痘法」という記事を掲載し、種痘に反対して、「狂犬病などというものが存在しなくなるのは、いつのことであろうか」、と述べています。1925年4月8日号の『黄金時代』(英語版、424頁)においても、種痘を非難していますが、二週間後には、「現代医学の最大の貢献の一つは、ジフテリアに対する毒素の発見と精製である」と矛盾したことを述べています(1925年4月22日号の『黄金時代』、英語版455頁)。ところが、1929年5月1日号の『黄金時代』(英語版、502頁)は、再び、種痘を非難し、「思慮深い人々は、種痘を受けるより、天然痘でいることを望むであろう。...種痘を受けることは、罪であり、不法であり、惑わしに他ならず、...それは一人の生命をも救ってはいない」と述べます。
 1931年2月4日号の『黄金時代』は、「種痘は、洪水の後に、創世記9:1-17で、神がノアと結ばれた永遠の契約を直接侵害する」と断言し(英語版、293頁)、「すべての理性的な人は、神が反対されたのは血を食べることではなく、動物の血を人間の血と関係づけることである」と述べています(294頁)。しかし、このような組織の教えは、多くの訴訟事件を起こすことになり、ものみの塔の指導者は、1952年にこの教えを撤回します。1952年12月25日の『ものみの塔』(英語版、764頁)は、読者からの質問欄で、「種痘ということについては、自分自身で決めることである。...そのことに関する熟慮の結果、私たちには、創世記9:4において結ばれた永遠の契約の侵害に当たるとも、また、それと関わりのあるレビ記17:10-14の神の命令に矛盾するとも思えない」と、述べています。驚くべきことに、20年前、述べたことと全く反対のことを教えたのです。
 臓器移植についてもまた、矛盾に満ちたことを教えました。1961年8月1日の『ものみの塔』(英語版、480頁)は、死んだ人の臓器を提供することは、「良心の問題」としていますが、1967年11月15日の『ものみの塔』(英語版、702頁)は、その考えを変更し、臓器移植を「人肉主義」と規定し、完全に禁止します。ところが、1980年3月15日の『ものみの塔』(英語版、31頁)は、臓器移植を、再び、「良心の問題」とします。私の友人は、ものみの塔が臓器移植を禁じていた13年の間に、角膜を移植するなら、視力を回復させることができたにもかかわらず、組織の指示に忠実に守った結果、盲目の状態になってしまった人のことを話してくださいました。組織が医学的な問題をもてあそんだ結果の、文字どおりの犠牲者でした。
 輸血に関しても、組織が教えていることは一貫しておりません。1925年7月29日号の『黄金時代』(英語版、683頁)は、ロンドン病院において、輸血を必要とする患者のために、45回も献血をしたB.W.ティブル氏のことを称賛しています。さらに、1940年12月25日の『慰め』は、ニューヨークの主婦が胸部の手術において緊急事態に陥ったとき、その場にいあわせた医者が自分の血を輸血のために提供し、その主婦を助けたことを報じています。その記事は、その主婦が今日も幸せに生きていると喜び、医者の行為をすばらしいこととして紹介しています。
 ところが、1951年5月22日号の『目ざめよ!』(英語版5頁)は、ラブレンツ夫妻が、赤ちゃんへの輸血を拒否した記事を掲載し、「赤ちゃんに血を与えることによって神の戒めを破るよりは、それを守ることの方が重要である。...例え、赤ちゃんは死んだとしても、新しい地球においてチャンスがある。しかし、もし私たちがエホバの法を破るなら、新しい地球へのチャンスは、私たちだけでなく、赤ちゃんさえなくなってしまう」と述べさせています。これは、輸血に対するものみの塔聖書冊子協会の立場を、一般社会に公けにするものとなり、この時から、社会問題として騒がれるようになりました。
 1958年9月15日の『ものみの塔』(英語版、575頁)は、読者からの質問欄において、血液の構成部分のあるものを認めています。「血を禁止している聖書の箇所は、いつでも、食物として取ることと関連している。従って、栄養物となるものが禁止されているのである。...抗体を創造するために、血液の血清あるいは輸血によって血液の中に抗体を注入することは、体の活動力を産み出すための栄養物として血を食すること(それが、口からであれ、輸血によってであれ)と同じではない。神は、ワクチン、血清、血液の凝固したものによって、人間の血液の流れを汚染しようなどという意図はおもちではないが、そのようにするということは、食物として血を禁じた神のご意志の中には、含まれてはいない」。ところが、1961年9月15日の『ものみの塔』(英語版、557,559頁)は、それを覆し、次のように述べています。「血液のすべてであれ、あるいは部分的であれ、自分自身の血液であれ、他人からのものであれ、輸血としてであれ、注入したのであれ、神の法は適用される。神は、人に対し、他の物質を扱うように血を扱うことを許していない。」1966年7月15日の『ものみの塔』(英語版、401頁)は、「輸血は人肉主義である」、と非難しています。
 1975年2月22日の『目ざめよ』(英語版、30頁)においても、血友病患者に血漿を使うことに関して、「真のクリスチャンは聖書が血を避けなさいと命じているのであるから、そのようなことをしない」と述べていますが、1978年6月15日の『ものみの塔』(英語版、30頁)では、血液のある部分を血友病を扱うに際し、使用するのを認めています。
 1945年7月1日の『ものみの塔』(英語版、198-203頁)において、輸血に対する非難が初めて登場しますが、そこではまだ、禁止とまでは教えていません。1958年8月1日の『ものみの塔』(英語版、478頁)は、読者からの質問欄において、「油注がれた人が自ら輸血を受けたけれど、主の記念式に与ってもよいか」という質問を扱っています。それに対して、「会衆は、自ら輸血を受けた人、あるいは他の人が受けるのを認めた人について、排斥せよとの支持を受けてはいない。血の神聖さに関する神の法を破った人に対する裁きは、エホバの至高な裁判に委ねよう。...自らの意志で輸血を受けたから、あるいは愛する者が輸血することを認めたから、ということでその人は排斥されるわけではないのだから、あなたは、その人が主の記念式に与ることを妨げる権利をもっていない」と答えています。しかし、1961年1月15日の『ものみの塔』(英語版、63-64頁)において、輸血は、排斥処分の罪となります。
 もう止めておきましょう。このようなことを紹介していましたら、きりがありません(さらに詳しい情報が必要でしたら、ご連絡ください。すぐに、お送りいたします)。私が願っていますことは、ものみの塔の統治体の成員が、聖書を正確に読み、これまで輸血禁止によって払われた犠牲に対し謝罪し、輸血禁止の呪縛を解いてくださることです。織田さんはじめ、日本支部の方々が、輸血禁止という理不尽な教義は、聖書から出ているのではなく、統治体が決定していることを確認し、統治体に働きかけていただきたいのです。
 このことは、緊急を要します。一日遅れれば、それだけ犠牲者が増えるのです。これまでの犠牲者の数は何千人になるのでしょうか。もしかしたら、世界中では、万の数になるのかも知れません。ぜひ、ぜひ、一刻も早く、そのような教理を変更していただきたいのです。今回のA氏の奥様のケースには間に合わないかも知れません。でも、同じような苦しみを、多くのご家族にあわせたくないのは、織田さんとて、同じことであると、確信します。これまで教えてきたことの誤りを認めることには勇気がいるでしょう。しかし、これ以上犠牲者を出さない責任が、(一般的社会的センスから言えば)織田さんや日本支部の皆さんにもあるのです。
 もし、このような働きかけのために、聖書解釈のためにお手伝いが必要でしたら、小さき者ですが、喜んで、お手伝いさせていただきます。私たちの世界でも、自分たちのグループとは違う方々の意見を聞きつつ、たえず、自分たちのあり方を検討するようにしております。組織に縛られない外部の人は、しばしば、内部の人ができない貢献ができるからです。
 さて、話を本題に戻して、先日、鹿児島で起こりました、輸血拒否によって死亡された妊婦の方の問題に関し、医療機関連絡委員会の長谷川達氏がなされたコメントに関し、お尋ねしたいと思っております。
 長谷川氏は、「今回の事故では、母親のおなかにいた胎児も犠牲になりましたね」という質問に対し、次のように答えておられます。(東京新聞、96年7月10日号)
 「あくまでも本人の決断ですから...。私どもがコメントすることはできません。われわれは、神に献身する時、神が命じているものを心から受け入れることを誓い、神と契約するわけです。それを守らないのは本人が一番苦しいことです。ただ、神の優しさは(輸血しても)悔い改めれば、受け入れてくれることだと思います。」
 このコメントの中で、二つの点だけを質問させていただきます。
 まず、「あくまでも本人の決断ですから」という言葉です。この文章は、輸血をするかしないかは、本人が決断することで、組織の問題ではない、と聞こえます。はたして、本当にそう言えるのでしょうか。長谷川氏は、輸血禁止を「神の命令」と述べていますが、そう判断をし、教えているのは、むろん、ものみの塔聖書冊子協会の指導者です。組織が、1940年代までは、輸血を認めていたことは、既に述べました。組織が輸血禁止を決めない限り、エホバの証人が輸血を拒否することはありえませんでした。それに、輸血をすれば、組織は、その証人を排斥処分にしますし、組織が「医療上の事前の宣言および免責証書」を発行している事実は、一般的な社会的センスでは、組織の責任がきわめて大きいと言わねばなりません。
 組織は、エホバの証人がバプテスマを受けるときに、組織への絶対の忠誠を誓わせています。バプテスマを受けるにあたっての討議のとき、もし、輸血禁止の条項に賛成しなかったなら、バプテスマを受けられないはずです。ということは、エホバの証人が、輸血を拒否するかどうかは、個人の決断であるとして、片付けられる問題ではありません。
 会社や学校などの組織体においても、ある規則によって事件が生じた場合、その規則を決めた人の責任は大きいと思います。個人の問題としてだけ片付けるわけにはいかないでしょう。また、現在、オウム事件で数多くの裁判が行なわれていますが、裁判の焦点は、マインド・コントロール下においては、個人の判断や決断の責任をどこまで問うことができるか、ということにあります。エホバの証人も、輸血禁止に関しては、同じような状況に置かれていると思います。
 10年前の、川崎で起こった大ちゃん事件のとき、テレビに出たものみの塔の広報部の方が、「輸血を拒否することは、良心の問題です」、と説明された記憶があります。その説明をお聞きしたとき、私はびっくりしました。というのは、もし、「良心の問題」であれば、エホバの証人であっても、かなりの自由が認められることだからです(Tコリント10:25をよく読んでください)。というのは、「良心の自由」に属するとは、聖書によれば、「そのことに関し、一定の基準は存在するが、その基準にまで到達していない人は、その人の良心に従って行動してよい」、ということです。それは、パウロが、ピリピ3:15-16で述べていることですし、ローマの会衆に対して、「食べ物や日を守ること」に関して述べたことでも分かります(ローマ14章)。
 この点に関し、もしかしましたら、私の記憶違いがあるかも知れません。織田さんの方では、あの時のことを確認できるでしょうか。その時のスポークスマン(確か、日本支部の藤本氏だと記憶しておりますが)が話された内容、その意味について、教えていただければ、感謝です。もし、輸血禁止が「良心の問題」であれば、こんなにうれしいことはありません。
 もう一つの点をお伺いさせてください。長谷川氏が、「悔い改めるなら、神は受け入れてくださる」、と述べていることに関してです。このような文章を読み、感謝しました。もし、このような教えがあるのなら、ずいぶん多くのエホバの証人たちが救われる、助かるはずだからです。そこで、この点に関し、二つのことを教えてください。一つは、「悔い改める」とは、具体的にどのようなことを想定しているのか、ということです。いくつかのケースをあげていただければ、感謝です。二つ目は、この「悔い改める」に関して、『ものみの塔』誌、あるいは協会出版物のどこで扱われているか、教えてください。長谷川氏があのような発言をされている以上、当然、組織の出版物に記されていると思いますが、私は見つけることができませんでしたので。むろん、私自身が調べなければいけないことですが、私の能力、時間的限界、制限された資料などの理由から、ぜひ助けていただければ、と願っております。よろしくお願いいたします。
 最後に、A氏の奥様が緊急事態に陥っても、輸血をせず、仮に最悪の事態に陥った場合に、組織のリーダーはどのような責任を取るのか、という点について、織田さんのお考えをお聞かせいただければ、と思っております。
 もし、奥さんが緊急事態に陥り、輸血をすれば助かるにもかかわらず、輸血をしなかった場合、A氏が医者と病院に責任を問えないことは言うまでもありません。むしろ、A氏は、担当のお医者さんと病院の苦悩の大きさを思うと、申し訳ない、という気持ちでいっぱいだ、とおっしゃっておられます。当然のことだと思います。
 一年ほど前のことですが、医者の友人から、「ものみの塔から輸血に関する問い合わせを受けているのですが、どのように返事をしたらよいでしょうか」、との相談を受けたことがあります。私は、「患者さんの信仰を尊重し、もし輸血を拒否されたなら、輸血をしないでください」、と申し上げました。そのとき、「生命を救うためにたてられた医者が、現代の医療を用いれば助けることができるにもかかわらず、そのことをしないために患者を救えない、という苦悩を考えたことがありますか」と、逆に問い詰められました。自分の答えが間違っていたとは思いませんが、この友人の言葉を一生忘れることはできないでしょう。
 織田さん、私ども部外者には、エホバの証人の輸血禁止条項に関し、何もできないのです。日本支部の皆さんであれば、統治体に要請できるのではないでしょうか。統治体に関わりのある文章を読みますと、世界の各地のエホバの証人から、いろいろな要望、意見が寄せられ、それらが取り上げられています。難しい問題であることは、百も承知しています。しかし、エホバの証人とそのご家族、そして善良なお医者さんたちに与えています苦悩をお考えの上、行動していただきたいのです。
 もし、織田さんから、あるいは、奥さんが集っている会衆の長老から、「輸血拒否は、組織の問題ではなく、本人の良心の問題である」、とのお返事をいただければ、すべての責任は、A氏の奥さんにあります。その場合は、奥さんの信仰ですから、組織をも、誰をも恨まないでください、とご主人に申しあげてあります。
 もし、織田さん、あるいは、長老から「本人の良心の問題である」というお返事がなければ、組織の教えに従った結果ですから、組織に責任を問うてはいかがでしょうか、と申し上げておきました。友人のA氏がどのように対応をするかは、私には、分かりません。
 とにかく、今一番重要なのは、A氏の奥様が緊急事態に陥いることなく、輸血をしなければならない状態を迎えないことです。私どもの教会では、毎朝、5時半からお祈り会をしています。そこで、A氏御一家のために、熱心にお祈りをしております。また、私が知っている大ぜいのクリスチャンの友人たちにも、お祈りを要請しました。断食をして、お祈りをしてくださっている方もおられます。
 組織の代表者である織田さん、お忙しいとは思いますが、ぜひ、お返事をください。友人A氏は、三人のお子さんをもっています。一番上は20才、二番目は19才で、いずれも大学生の男の子です。彼らは、エホバの証人ではありません。一番下のお子さんは17才で、高校生の女の子です。この五人家族の幸せのためにも、織田さんからの誠意あるお返事をお待ちしています。
 私は、このお手紙を友人A氏と相談しつつ書きました。友人のA氏もお返事をお待ちしています。恐縮ですが、この手紙を受け取り次第、お返事をいただければ、と思います。もし、組織の中で、医療的な問題を扱う方が別におられるのでしたら、この手紙をその方にお回しください。あるいは、その方のお名前と住所をすぐにお教えください。私からお手紙を差し上げます。先の長谷川達氏に出すべきか、とも思いましたが、住所が分らないこともありましたが、まず、組織の代表者である織田さんに問い合わせた方がよいのではないか、と思い、織田さんにお手紙を差し上げることにしました。
 私がお願いしましたことは、織田さんのご一存で自由になることばかりではないかと存じます。すぐにお返事がいただけないようでしたら、お返事が遅れる理由と、いつ頃いただけるか、お知らせください。そのことを友人のA氏に知らせて、待ってもらうようにいたします。よろしくお願いいたします。
 織田さんへの私からの手紙は、これが四信目となります。先の三つのお手紙に対する返事は未だ受け取っていませんが、こちらの方が、緊急を要します。先の三つのお返事は後回しで結構でございます。このお手紙に対するお返事を、先にいただけますよう願っております。苦悩の決断を迫られるている私の友人とそのご家族の心をお察しくださり、誠意あるお返事を、心よりお待ちしております。(この手紙は速達でお送りします)。
 ものみの塔の組織や、教義について、知識不足のために、失礼なことが多々あることと存じます。聖書の神が与えてくださいます寛容な心でお許しくださいますように。

 聖書の神様から、織田さん、日本支部の皆様の上に、豊かな祝福が注がれますように。

1996年 9月16日

 ものみの塔聖書冊子協会

日本支部代表者 織 田 正 太 郎 様

大野キリスト教会牧師 中 沢 啓 介




<第5信>


キリストは、神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、
仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、
死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、
すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、
父なる神がほめたたえられるためです。
                (ピリピ人への手紙2章6〜11節)
 私は今、この聖句の一つ一つの言葉に思いを寄せ、改めて、キリストがこの地上においでになられた意味を深く噛みしめております。織田さんの上にも、この聖句のすばらしさが届けられますようにと、お祈りしています。
 今年もまもなく終わろうとしています。織田さん、その後、いかがお過ごしでしょうか。今年は、織田さんにとっては、どのような年でしたでしょうか。
 私にとりましては、今年はとても大きな変化を経験した年でした。昨年5月に、長女(純子)が結婚して、大阪で生活することになったのですが、今年1月には、母を神様のみもとに送ることになりました。84才の生涯でした。
 クリスチャン・ホームに生まれた母は、厳格な祖父に育てられましたが、すばらしいクリスチャンとしての生涯を全うしました。子どもから見ましても、ほんとうに信仰の人として歩み続け、私も大きな励ましを受けてきました。私自身も、今後、母の信仰を受け継いで、神様に忠実に仕えていきたいと願わされております。
 織田さんのご両親様は、ご健在ですか。両親とも、天にお返してしまった私としては、もう少し、両親を大切にしてあげればよかった、と悔やむこともございます。私が何かを申し上げる立場にはございませんが、お仕事にお忙しいことでしょうから、健康にはくれぐれも留意され、ご家族の皆様をお大切になさってください。
 今年8月には、息子が結婚しました。現在、息子夫婦は、ロサンゼルスにある神学校(牧師を養成するための学校)で勉強中です。再来年の6月には帰ってくる予定です。聖書を、新しく、深く学んでくることと期待しています。息子から、最近の欧米における聖書研究の成果を聞くことができることをとても楽しみにしております。
 さて、織田さん、私が昨年12月末にはじめてお手紙を差し上げてから、ちょうど一年がたちました。今回で、5通目のお手紙となりました。私は、お手紙を出すたびに、きっとお返事をいただけるもの、と信じてまいりました。これまで、私は、何千通、否、何万通といろいろな方々にお手紙を書いてまいりましたが、お返事をいただけなかった、ということはありませんでした。相手がお忙しく、私の手紙を忘れてしまわれた、ということは、あるいはあったかもしれませんが、そのようなことさえ、私の記憶には、ありません。まして、差し上げました手紙を完全に無視されたということは、ほんとうにはじめての経験でございます。
 特に、9月には、輸血の問題を抱えたご家族からの相談がありましたので、何とかよい解決方法はないものかと、織田さん宛て、速達で、緊急のお手紙を差し上げました。しかし、それに対しましても、何のお返事もありませんでした。かって、私の友人が、「中澤さん、手紙なんか書いても無駄だよ。カルトの指導者は、あなたの手紙など一笑に付し、ごみ箱に投げ捨てるだけだよ」と忠告してくれました。そのとき、私は、むきになって、「エホバの証人は違うよ。彼らはカルトではない。必ず誠実に、私の手紙に応えてくれるはずだ」、と反論しました。しかし、一年たった今、残念ながら、私の友人の言葉の方が真実に近いことを認めざるをえなくなりました。
 それでもあきらめきれず、もう一度、お手紙を差し上げてみよう、と考えました。今回は、今年8月15日号の『ものみの塔』誌の研究記事についての「講義メモ」を同封いたします。40頁足らずの小さなものです。(注7)私たちは、ものみの塔の信仰について学びあっているのですが、ものみの塔側からのレスポンスを聞くことができず、ほんとうに残念に思っております。お読みくださり、感想等お聞かせいただければ、光栄でございます。
 この「イエスの到来、それともイエスの臨在−どちらですか」という研究記事もまた、私たちから見ますと、学問的に全く不誠実な、専門的な書物に接する機会をもたない一般のエホバの証人を巧妙に欺いている文書です。このような事実は、海老名ベテルの長老レベルの皆さんや、日本支部の支部委員の方々は、よくご存じのことだと思います。
 例えば、「パルーシア」に関し、バインの辞書、バウアーの辞書、TDNTの辞書などを盛んに引用していますが(参照資料付き聖書や洞察をも含めて)、その引用は、辞典編集者の意図とはまったく違っております。権威ある辞書をあげながら、その辞書を誤用することなど、私どもには、どうしても考えられないことです。日本支部の図書館にも、この程度の辞書はあるでしょう。どうぞ、ご覧になってください。もしなければ、私の手元にありますので、その頁をコピーして差し上げましょう。
 同じことは、ジョージ・ハワード教授が著した「シェブ・トムによるマタイの福音書」という書物についても言えます。ハワード教授の主張は、『ものみの塔』誌が述べていることとはまったく違います。その一部の都合よい部分だけを引用するというのは、学問の世界では、決して許されることではありません。もし、ハワード教授が、『ものみの塔』誌のような悪用を知るなら、間違いなく抗議されるるでしょう。実際、ハワード教授は、これまで何度も、ものみの塔に抗議をしています。シェブ・トムによる福音書が、マタイが書いた(と言われる)ヘブライ語の福音書そのものであった、などという『ものみの塔』誌の主張には、ただ苦笑あるのみでございます。
 シェブ・トムの聖書に「み名(ハ・シェイム)」が登場するのは、ラビたちが四文字語を「ハ・シェイム」と読んだことを考えれば、ごくごく自然なことなのです。「ビアー」は、動詞「ボー(来る)」の名詞形ですから、「臨在」ではなく「到来」と訳すべきことなど、議論する必要もないことです。
 私どもから見るなら、この研究記事は(この研究記事に限りませんが)あまりにおかしな議論を展開しています。しかし、一人よがりになってはいけません。ものみの塔側からの反論をもお聞きし、それを正確に評価する必要があると考えております。
 織田さん、どうぞ、ものみの塔の立場から、不正確だと思われる点、誤解していたり、間違っていると思われる箇所などございましたら、ぜひご指摘ください。私が書いた「講義メモ」を検討するような部門がございましたら、ぜひそちらに回してください。どのような批判にも、喜んで耳を傾けたいと願っております。
 私も、わずかながら学問をしてきた人間でございます。どんな小さな点でも、間違ったことを人に教えることは許されません。また、自分の発言には、すべて責任を取る覚悟ができております。ある人や団体を非難・誹謗するためではなく、真理を探求する学問上の問題として、ぜひ、ご検討くださり、ご批判くださいますよう、よろしくお願いいたします。
 しかし、織田さん、正直申し上げて、今回はもう、お返事を期待しておりません。そして、織田さんにお手紙を差し上げるのも、これで最後にしようと思います。私は、「例え、信ずることが違っても、人間の誠意は通じるはずだ。もし、心からの愛と謙遜さをもって手紙を書くなら、織田さんは、私の疑問には必ず答えてくださるはずだ。もし、織田さんが対応されなくても、必ず、関係者を通して答えてくださるはずだ」、今日まで、そう信じてきました。また、すべての友人にそう答えてきました。しかし、私は、ほんとうに愚か者だったようです。ものみの塔の日本支部は、人間の誠意や真理に対する真摯な態度というものが、まったく通じない社会であると、やっと分かりはじめたのです。
 織田さん、私は、ほんとうにがっかりしています。
 否、お返事がないことこそ、お返事なのだ、とやっと認識いたしました。そのようなことでは、ものみの塔が、外部の人々から「カルト教団」呼ばわりされても、弁明の余地はないでしょう。
 もし、私がエホバの証人でしたら、組織が私の手紙に対してとった対応に対し、どうするでしょうか。私は、まず、組織の責任者が一通の返事も出さなかったことに抗議するでしょう。そして、その組織を内部告発し、組織を去るでしょう。それこそが、「神から与えられた良心をもつ人間」として、最低しなければならないことだと思います。
 でも、私は、エホバの証人ではありません。そこで、私は、これまで私が織田さん宛てに書きましたお手紙をすべて公開することにします。私が書きました手紙は、織田さんへのプライベートなものではなく、ものみの塔聖書冊子協会の日本支部代表者、「公人」の織田正太郎氏に宛てたものでございます。織田さんは、私が書きました内容に対し、組織の公人として応える責任(義務)があります。むろん、お忙しい織田さんご自身がお返事を書く必要はありません。組織の関係部門に、私の手紙を回していただき、お返事いただければ、それで十分でございます(このことは、これまでも何度も申し上げてきました)。結局、ものみの塔聖書冊子協会は、私の手紙に対し、ただの一言のお返事もくださいませんでした。その理由が何であれ、私の手紙は完全に無視する、というのがものみの塔聖書冊子協会が私の手紙に対して取っている公けのスタンスである、と結論付けざるを得ませんでした。
 むろん、織田さんは、私がこれまで書きましたお手紙を公開することに、何等異論はないと思います。しかし、もし、何か異論がございましたら、私としては、それを無視する気持ちはありません。この手紙を読み次第、ご連絡ください。もし、誠意あるお返事をいただければ、喜んで対応いたします。
 「それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです」(Uコリント 8:21)。

 風邪がはやっているようです。お体には、十分に気をつけてください。
 新しい年が、聖書の神様からの恵みに溢れたすばらしい年となりますように。

1996年12月24日

ものみの塔聖書冊子協会

日本支部代表者 織 田 正 太 郎 様

大野キリスト教会牧師 中 沢 啓 介




 織田さん宛のお手紙に添付した小冊子は、以下のものです。お読みになりたい方は、新世界訳研究会に注文してください。

(注1)「敬愛する長老への手紙」(新世界訳研究会、24頁、100円)
(注2)「参考文献」(新世界訳研究会、 90頁、300円)
(注3)「1914年の世代」(新世界訳研究会、200頁、700円)
(注4)「イエスはどのような神か」(新世界訳研究会、26頁、100円)
(注5)「エホバの御名(対話シリーズ)」(新世界訳研究会、68頁、200円)
(注6)「聖書から『知識』を論じる」(No.1-6)(新世界訳研究会、各36頁、各150円)
(注7)「イエスの到来、それとも臨在」(新世界訳研究会、36頁、150円)



          
研究コーナーに戻る    ホームページに戻る