ものみの塔聖書冊子協会 日本支部代表者
一年で一番寒い日々が続いておりますが、織田さん、その後、おかわりございませんか。
先日は、東京高等裁判所において、思いがけずお会いでき、大変うれしく思っております。はじめてお会いしましたが、温厚な、円熟されたお人柄のようにお見うけしました。立派な指導者であられると感じました。
裁判所では、執筆したばかりの『いつ起こりましたか、エルサレムの陥落』という書物を贈呈させていただきましたが、お受け取りいただき、ありがとうございました。
この書物は、エルサレム陥落の年代を扱っております。
エルサレム陥落は、西暦前六0七年に起こったのか、それとも西暦前五八七年だったのか。この問題は、エホバの証人の信仰にとっては、どうでもよい問題ではなく、信仰の根幹に関わる問題です。お忙しいこととは存じますが、お読みくださり、感想などお聞かせいただければ、うれしく思います。
私といたしましては、できる限り、もともとの資料にあたり、すべての文章に責任をもって書いたつもりでございます。しかし、それでも、不正確な叙述、言いすぎている箇所、間違った判断などがありはしないかと、心配しております。どんな些細な点でも結構でございます。ご指摘いただければ感謝です。コメントいただければ、誠実に対応させていただくことをお約束いたします。
さて、織田さん、このたびの高裁の判決を、織田さんはどのようにご覧になっておられるのでしょうか。この裁判を起こされた方は、現役のエホバの証人でしたから、組織の責任者として、ご心労も大きかったのではないかと、ご推察いたします。
実は、私の方には、エホバの証人、あるいは研究生本人か、そのご家族の方々から、毎日のようにご相談があります。最近は、平均しますと、一日に一件ぐらいの割合になろうかと思います。相談の中味は多岐にわたり、時には、その問題をほんとうに解決するには、ものみの塔協会の指導者の方々のご協力をいただかなければならないようなことも多々ございます。何かとご相談にのっていただければ、と願っております。よろしくお願いいたします。
そんなわけで、私も、このたびの裁判には、特別の関心をもって見守ってまいりました。しかも、連日のようにこのような相談を受ける立場に追い込まれている者として、今回の判決に対する私の個人的な感想を述べるとともに、ものみの塔協会への要望をお伝えさせていただくべきではないかと思い、再度、お手紙させていただきました。
お忙しいとは存じますが、ぜひ、織田さんからのコメントをいただきたいと心より願っております。むろん、織田さんからの直接のコメントが無理であれば、組織の声を代弁してくださる方であれば、どなたでも結構でございます。
[一]患者の自己決定権を尊重したことを評価します
今回の高裁判決は、尊厳死までをも含め、患者の自己決定権を認めたもので、画期的な判決ではないか、と評価しております。「例えばいわゆる尊厳死を選択する自由は認められるべきである」(二八頁)という文章に接し、司法の世界がここまで踏み込んで判断を示したことに、うれしさがこみ上げてきました。今後なお、議論されるところでしょうが、患者の権利が最大限に保証される時流の中で、このような判断が定着していくことを願っております。
私自身は、四十年以上、聖書を信じ、聖書の神様に信頼して歩んでいる一人のクリスチャンです。もし、病気になった場合には、自分の信仰的な価値観に基づいて治療を受けたいと常々願ってきました。医療関係者の方々には、そのような希望を実現するには、多少のお手数を煩わせることになるかも知れませんが、ご協力をいただけたらと願う次第です。
[二]医師の治療拒否によりエホバの証人が困難に陷ることを憂慮しています
今回の判決を読んで、最初の印象は、この判決によって、エホバの証人とそのご家族が大変な事態を迎えなければよいが、ということでした。というのは、高裁の判決によって、エホバの証人に対する医師の治療拒否が増えてくるのではないか、と思われるからです。なぜなら、判決は、患者側の自己決定権を尊重すると同時に、医師側にも、絶対的無輸血患者(輸血以外に救命手段がないという事態になっても、輸血をしないことを要請している患者)を治療するかどうかを決める権利を保証しているからです。
・ 「これは医師に患者による絶対的無輸血治療の申し入れその他の医療内容の注文に応ずべき義務を認めるものでないことはいうまでもない。絶対的無輸血治療に応ずるかどうかは、専ら医師の倫理観、生死観による。・・・医師はその良心に従って治療をすべきであり、患者が医師に対してその良心に反する治療方法を採ることはできない。」(二四〜五頁)
ということは、次のような事態が日常茶飯事のこととして起こることになりかねません。
もし、あるエホバの証人が手術を必要とする病気にかかったとします。当然、その証人は病院を訪ねます。その病院または医師が、絶対的無輸血のもとでは手術はできないとして、治療を拒否したとします。すると、そのエホバの証人は、絶対的無輸血で手術をしてくださる他の病院(医師)を捜さねばなりません。患者の病状は、時間の経過とともに、悪化の一途をたどるでしょう。その患者が、次の病院に回されるときには、輸血をしなければならない確率は、最初の病院を訪ねたときよりずっと高くなっているはずです(むろん、一般論ですが)。その結果、その回された病院が治療を拒否する確率は、前よりも高くなるでしょう。そのようなことを繰り返すなら、結局最後はどうなるのでしょうか。考えただけでも恐ろしいことです。
そのようなことになって、そのエホバの証人が一命を落とすような事態に陥った場合、いったい、誰に責任があるのでしょうか。患者本人なのでしょうか。医師なのでしょうか。それとも、絶対的無輸血の教義を教えている教団なのでしょうか。
さらに、今回の判決は、輸血しなければならない可能性がわずかでもあれば、医師は、絶対的無輸血を主張する患者にそのことを説明し、同意を得る必要があるとなっています。
「(担当医師団は)無輸血で手術を行なう一00%の見込みがないと判断した時点で(少なくとも術前検討会の後みさえ及び家族への説明の際には)、担当医師団の方針としてその説明をすべきであった。」(三五〜六頁)
これまで、手術を担当される医師の方々の中には、かなり多くの医師が(無輸血で手術をすると言われている医師の方々をも含めて)、緊急の事態に陥れば、医師の責任において輸血する覚悟で手術に臨まれているようです。その際、エホバの証人の立場や宗教的信条、さらにその心情をも察し、輸血の可能性(あるいは事実)を明らかにせずに、手術するケースは少なくありませんでした。
しかし、今回の判決は、医師がこのような対応をとることができなくなりました。その結果として、無輸血による手術をしてくださる病院(医師)が増えることになればよいのですが、残念ながら、その反対の可能性の方がずっと高くなるでしょう。治療を引き受けた医師たちまでもが、輸血をしなければならない可能性を理由に、エホバの証人の治療を拒むケースが増えるでしょう。
エホバの証人が絶対的無輸血を主張するなら、「輸血以外に救命手段がないという事態になっても、輸血をしない」という約束は守られなければなりません。ということは、緊急事務管理としての行為であっても、輸血をすることは法的責任を問われる、ということです。
手術を担当する医師の多くは、できる限り輸血を避けるが、必要であれば輸血ができるという安心感に立って、手術をしているケースがほとんどでしょう。しかし、手術中にいかなる事態が起こっても輸血はできない、ということになれば、医師の精神的な負担は倍増し、そういうことであれば、手術そのものに躊躇する医師が増えるのは当然のことです。
すでに、医師の権利を守るために、相対的無輸血という条件においてのみ手術をする、という方針を、病院として打ち出すことを検討しはじめた病院がある、と聞いております。私の友人である医師さえ、「今後は、絶対的無輸血を主張するエホバの証人の治療は引き受けない」と話され、私自身、少なからずショックを受けております。
高裁の裁判官は、その裁判の過程において、そのような事態になっても、それは絶対的無輸血を主張する人々の自業自得である、とまで述べられました。法律の世界では、そのように言えば済むことなのかも知れませんが、ご家族から相談を受ける立場にある者としては、そう簡単には割り切れないのが現実でございます。絶対的無輸血を主張するエホバの証人の回りには、その何倍もの相対的無輸血を願うご家族の方々がおられることをも忘れてはならないと思うのです。
[三]子供のケースと交通事故のケースにはご配慮をお願いします
今回の判決は、判断力のある成人のケースに限定しているようです。日本の医療現場から見ますと、インフォームド・コンセントの成立は、判断力のある成人に限ることは妥当だと考えております。
むろん、織田さんたちはそのようにはお考えにならないとは思いますが、エホバの証人の子供たちが犠牲者にならないように特別なご配慮をお願いする次第です。
私どものところには、最近は、二世のエホバの証人の方々が多数連絡をとってきています。彼らのほとんどは、中学あるいは高校時代までは、活発なエホバの証人の伝道者でした。しかし、大人になるにつれ、組織の教えに疑問をもち、エホバの証人をやめていくのです。もし、彼らが子供の頃、交通事故にあって輸血拒否により生命を落とすようなことがあったとしたら、・・・などと時々考えさせられます。ほんとうに、ぞっといたします。
先日、輸血を拒否して生命を落とした多数の子供たちの写真が載っている協会出版の雑誌を見ました。悲しみどころか英雄扱いされているような気がし、何とも痛ましい思いでした。子供の治療に関し、絶対的無輸血を指示することは、正常な判断力がつくまで待つよう、ものみの塔協会がそのご両親を教育してくださるよう、心からお願いいたします。今回のインフォームド・コンセントに対する判決の精神も、そのような要請を支持していると存じます。
また、今回の判決においては、交通事故の場合は、インフォームド・コンセントから除外されているようです。
・ 「また交通事故等の救急治療の必要のある場合すなわち転医すれば救命の余地のないような場合には、医師の治療方針が優先される」(二七〜二八頁)
交通事故の場合、患者は救急入院となり、医師はその患者の治療を拒否することはできません。ということは、医師側には治療を拒否する選択権は残されておりません。従って、インフォームド・コンセントの成立要件は満たされないことになります。
このことに関連して、裁判所は、エホバの証人の免責証書に記載されている「どんな損傷」という表現は、絶対的無輸血の意思表示にはならない、と判断しております。この免責証書は、エホバの証人の意思表示という意味はありますが、インフォームド・コンセントに対する約束の効力をもつものではないことが確認されました。ものみの塔協会は、免責証書の表現をお変えになることによって、対応されることになるのでしょうか。事故による痛ましいトラブルを避けるためにも、この種のものを携帯しない方向で検討していただくことはできないのでしょうか。
さらに、今回の判決は、口頭による意思表示だけでは、インフォームド・コンセントの要件を満たしていない、と判断しているようです。患者と医師の双方に対し、それぞれが、文書による意思を明示するよう求めております(十四頁)。
・ 「説明及び自己決定の具体的内容について、明確に書面化する一般的な慣行が生まれることが望ましい」(二九頁)
病院側も、さまざまな対応を検討しはじめているようですが、ものみの塔協会におかれましても、一人ひとりのエホバの証人の自己決定権が、真実な意味で実現できる方向で検討していただけますようにと切望いたします。
[四]「熟慮した上での合意」を実現させてください
一審は、「いかなる事態になっても輸血をしないとの特約を合意することは、公序良俗に反して無効である」、と判断しました。しかし、高裁は、「当事者双方が熟慮した上で右合意が成立した場合には、これを公序良俗に反して無効とする必要はない」(二一頁)と判断しています。
「公序良俗」という問題は、一審においては、医療の目的、生命の価値、医師の義務という観点から判断されていますが、二審においては、絶対的無輸血に関し、他者の権利や公共の利益・秩序を侵害しない、輸血の副作用の可能性がある、死亡例に対する刑事訴追はない、医療環境が対応されつつある、インフォームド・コンセントに対する法的環境も整備されつつある、といったことから、判断されています。一審が医師側の立場に立って、二審がインフォームド・コンセントの立場に立って、判断していることは明らかでしょう。
私自身は、輸血拒否の法律上の問題は、インフォームド・コンセントの観点から論じられることが妥当かと思っております。医療現場におけるインフォームド・コンセントの問題を解決するには、高裁の判決の方がより現実的でしょう。従いまして、もし、高裁の判決文にある「当事者双方が熟慮した上で」ということが、患者と医師側の双方においてほんとうに守られるなら、という条件付きで、高裁の判決を支持することもできると存じます。
問題は、高裁の判決が、個々のエホバの証人は、絶対的無輸血に関し、個人的な判断および選択ができる、という前提に立って、判断していることにあります。
・ 「エホバの証人患者は、その宗教的教義に基づいて輸血を拒否することが一般的であるが、前記一1認定のとおり、輸血拒否の態度に個人差があることを看過することはできない」(三十頁)
しかし、そのような認識が正しくないことは、誰よりも織田さんご自身がご存じだと思います。私の認識に間違いがなければ、ものみの塔協会は、一九六一年以降、輸血を受けたエホバの証人を「排斥処分」にしていると思います(むろん、患者であるエホバの証人が、無意識の中で、医師の判断によって輸血が行なわれ、悔い改めた場合には別ですが)。
さらに、エホバの証人には、輸血などに関する正確な情報は与えられていません(『ものみの塔』誌および『目ざめよ!』誌の記事がいかに悪意に満ちたものかは、拙著『聖書は輸血を禁じていない』において詳しく紹介しておきました)。あるいは、組織が輸血禁止に使っている聖句を自由に解釈する権限を認めていません。このことは、これらの聖句から輸血禁止を持ち出すのがものみの塔聖書冊子協会だけであることを考えるとき、重要なことでございます。
加えて、協会は、その歴史の中で、輸血禁止に関わる医療問題について、どのようなことを教えてきたのかを知らせる責任もあります。ものみの塔協会は、かつて、種痘を禁止しました。一九二三年のことです。ところが、三十年後の一九五二年には、種痘禁止を解除してしまいました。臓器移植も同じです。一九六八年に禁止し、一九八一年に解除してしまいました。しかも、種痘の場合も、臓器移植の場合も、輸血禁止に用いている聖句によって禁止したのです。輸血に関して言えば、一九四0年代の協会出版物においては、推奨されてさえいたのです。ところが、四十年代後半から問題にしはじめ、一九六一年になって、「輸血を受けると排斥処分にする」と決めるのです。今から三十五年ほど前のことです。ということは、何と、組織の歴史の三分の二は、輸血は禁止されていなかった、ということになります。
インフォームド・コンセントが実現していくためには、個々のエホバの証人患者は、このような事実のすべてを知る自由を保証されねばなりません。現在のエホバの証人は、これらの点に関し、組織以外の情報から遮断された状態にあります。従って、ほとんどのエホバの証人は、絶対的無輸血に関して自分で選択しているかのような錯覚をもたされている状態にあるのです。それでは、患者の自己決定権ではなく、組織が押し付けた決定権になってしまうのと同じです。
さらに、エホバの証人が入院しますと、大ぜいのエホバの証人たち(会衆や医療機関連絡委員会の人々)が来られ、患者の選択権に圧力をかけている光景に出くわします。そのようなことは、高裁が判断した「熟慮の上での合意」には程遠い状況といえないでしょうか。ぜひ止めていただきたいと思っております。これを機会に、この点についても、織田さんたちが善処してくださるよう、要望いたします。
織田さん、ごく最近、私は、ブルガリアのエホバの証人の組織が、ヨーロッパの人権委員会に提訴している文章を拝見しました。その中には、「組織は、エホバの証人が輸血を受けてもいかなる宗教的な制裁をも加えない」と記述されております。私は、何度も何度も読み直し、もしこれが事実なら、ほんとうによかったと考えています。
織田さん、この文章は、そのまま受けとってよろしいのでしょうか。ブルガリアだけの対応ではないでしょうね。ぜひ、ご回答ください。もし、ブルガリアだけではなく、日本でも同じことでしたら、ぜひ、その事実を日本のエホバの証人の皆さんに、ご家族の方々に、そして広く日本の社会にも公表してください。どれほど多くのエホバの証人の方々が、そして、そのご家族の方々が安堵の思いをもたれることでしょう。
私自身も、エホバの証人の方々やそのご家族を励ますのに、とても楽になります。エホバの証人のご家族から、毎日のように相談を受けている私のような立場の者にとって、この点に関する組織の対応を正確に知ることは不可欠です。ご面倒かと思いますが、ぜひ、お教えください。よろしくお願いいたします。
[五]輸血禁止を解除するため、統治体に働きかけてください
最後に、織田さんにどうしてもお願いしたいことがございます。輸血禁止という組織の戒律を一日も早く解除してくださるように、ニューヨークの本部にある統治体に働きかけていただきたい、ということです。
輸血禁止が聖書に基づいていないことは、ずっと以前にお送りしました『聖書は輸血を禁じていない』という書物をご一読いただければ、明らかかと存じます。もし、納得できない点やおかしな点がございましたら、遠慮なく、おっしゃってください。喜んでお答えいたします。共同の学習会でも、公開討論会でも、何でも協力いたします。お招きいただければ(むろん、発言の自由が保証されればという条件付きですが)、どこにでも喜んでまいります。
ものみの塔の組織の中にも、この輸血禁止の教義に疑問をもっている方々は大ぜいおられるようです。つい最近も、アメリカの医療機関連絡委員会のメンバー八人が、組織を脱退された、という記事を読みました。
また、最近のものみの塔の出版物には、自己血輸血を承認するための布石となるような文章が掲載されています。組織は輸血禁止の解除のため、徐々に準備していることは間違いないと思います。私は、一日も早く、輸血禁止が解除されることを願っております。一日遅れれば、一日遅れるだけ犠牲者は増えます。犠牲者は一人でも少なくしなければなりません。
一般の人から見れば、今回の裁判はとても理不尽なものです。精魂込めてなされた手術によって命を生きながらえさせてくださった医師団に対し、損害賠償の請求をするなど、とても常識では考えられないことなのです。どこかで、何かがおかしい、と考えるのが普通なのです。
自分の命を奪おうとする人に対し、許しを宣言することこそ、神を信じる者のとるべき態度ではないか、それなのに、輸血されたことを強姦されたに等しい、と言ったり、医師を訴えるとは何事か、というのが庶民感情なのです。インフォームド・コンセントの問題がありますので、それほど単純なことでないことはいうまでもありませんが、責任ある立場に立つ者としては、心に留めておくべき言葉ではないかと思います。
織田さん、率直に申し上げることをお許しください。輸血を拒否して死亡に至る事件が起こるとすれば、それは、ものみの塔協会の組織が教える輸血禁止の教義の犠牲者なのです。組織は、個々のエホバの証人個人の責任に転嫁しようとするでしょうが、それはエホバの証人の信仰の実態に即してはいません。組織の責任者は決して責任逸れをしてはならないと思います。
織田さんをはじめとする支部委員の皆さんの責任は大変重いと存じます。ものみの塔の輸血禁止による犠牲者は、地下鉄サリン事件の犠牲者よりはるかに大きいからです。織田さん、まさか、織田さんは、個々のエホバの証人たちが直面している輸血拒否による事故に対し、何の責任もないとはおっしゃらないでしょうね。もし、私が織田さんのお立場でしたら、私自身は、その大半の責任が自分にある、と考えます。そして、その責任を社会に公表し、ふさわしい責任を取るでしょう。
私の願いはただ一つだけです。織田さん、もうこれ以上、輸血拒否による悲劇を繰り返さないようにしてください。日本中には、二十二万人ものエホバの証人がいらっしゃいます。その方々は、皆、統治体の教えによって、翌日には、その行動を変えることができるのです。統治体が指示を変えれば、エホバの証人たちは皆、新しい光が照り輝きました、と言って、一夜にして輸血拒否を止めるのです。種痘禁止を解除したときも、臓器移植禁止を解除したときも、そうでした。統治体が、血液のある成分の使用を認めれば、翌日には、すべてのエホバの証人は、皆いっせいにその成分を認めるのです。
二十二万人のエホバの証人の背後には、百万人以上のご家族の方々がおられます。そのご家族の方々の中に、今回の判決によって、医師の治療拒否が起こるのではないかとの不安が聞かれはじめています。私は、そのようなことはない、と励ましつつも、自信がないのが実状です。医師も一人の人間である以上、そうならないと言い切れないのです。
織田さん、どうぞ、エホバの証人のためと同時に、そのご家族の方々のためにも、よろしくお願いいたします。
まだまだ、寒い日々が続いています。お体を大切になさってください。いつかゆっくりお会いし、さまざまなことをお話することができる機会が与えられますようにと、願っております。
お互いに、心から信じています聖書の神様から、豊かな祝福がありますよう、お祈りいたします。
一九九八年二月十五日
大野キリスト教会牧師
中 澤 啓 介