「エホバの証人問題に関する一考察」

(真 田  雅 臣)


・・・・・・・目  次・・・・・・・

 序    私とエホバの証人の出会い
第一章   エホバの証人の実態
第二章   エホバの証人急成長の原因分析  
第三章   エホバの証人に対する対応の現状 
第四章   異端についての考察     
第五章   エホバの証人救出に関する考察  
まとめ                   


 序   私とエホバの証人の出会い

 はじめに、私が今回このテーマに取り組むきっかけとなった、二人のエホバの証人との出会いについて、証しさせていただきたい。
 私は、5年前の夏、和歌山県の太地町で、EHCのトラクトを勝浦教会の木森牧師と共に、一軒一軒訪問配布していた。受洗して三年目、神学校に入学して初めての夏を迎えた、そんな私がある一軒の家を訪ねたときのことである。私が「勝浦のキリスト教会から来ました。」と声をかけ、トラクトを渡そうとした時、そこにいた一人の年配の婦人が「私もクリスチャンなんです。」と言う。私はうれしくなって、少し話をしようとした。しかし、どうも様子がおかしい。というのも、彼女はエホバの証人だったのである。恥ずかしいことではあるが、その時点まで、私はエホバの証人についてほとんど知らなかったのである。しばらくその婦人と話していくうちに、三位一体についての議論になった。彼女は聖書のあちこちの聖句をすらすらと引用して、三位一体を否定しにかかった。私も、一言二言反論するものの、彼女の圧倒的な聖書知識の前になすすべもなく沈黙してしまった。私は忙しいという一言をもって、赤面の思いでその場をあとにした。苦い思い出である。これが私のエホバの証人との最初の出会いであった。
 二人目は、私が神学校の4年生の時、北海道出身の同級生からエホバの証人に関する一冊の本をいただいたことをきっかけに文通を始めた金沢司氏である。約10年ほど前に、北海道の札幌郡広島町の広島会衆から、60名ほどの証人たちが集団離脱するという事件が起こった。金沢氏はその広島会衆の長老(いわゆる牧師にあたる会衆の責任者)であったが、ものみの塔組織に疑問を持つ中で、背教者の烙印を押され、排斥処分を受けた。彼の離脱に伴って、彼を支持する証人たちが行動をともにし、同じく排斥処分にあっている。氏は現在、どこのキリスト教会にも属さず、共に離脱した仲間と共にエホバの証人の救済のための働きを行なっている。
 金沢氏と文通する中で、多くの貴重な示唆をいただいた。それまでも、神学校在学中に、少しずつエホバの証人関係の本を買い集め、自分なりにこの問題に取り組んでいたつもりであった。しかし、それらの本のほとんどが、キリスト教会の側からの視点から書かれたものであり、どこか一方的な議論に終始しているという印象をもっていた。そんな時、金沢氏と出会い、貴重な体験に基づいたご意見をうかがう中で、私はそれまでの取り組み姿勢の甘さに気づかされた次第である。
 伝道牧会の現場に出て二年目、新米牧師の慌ただしい毎日の中で、多くの熊野に生きる証人たちと出会い、また、共に聖書研究を行なった。彼らのある意味で真摯な伝道姿勢を垣間見る中で、私なりのこの問題に関する重荷がさらに増し加えられたように思う。今回、牧師就任に伴う論文提出という機会が与えられたこともあり、私なりにここ数年、取り組んできたこの問題についての現時点での一応の結論にまとめることを思い立った。これを論文と呼ぶには、あまりにも稚拙なものであり、どちらかといえば、私見に近いものである。限られた紙幅の中ではあるが、偽る事無く、あるがままを書き記していきたい、と願っている。
 ここ数年、日本のキリスト教会におけるエホバの証人問題に対する意識が、年を追うごとに高まって来ているように思われる。多くのエホバの証人に関する書籍が出版されており、異端セミナーも全国各地で開かれるようになった。また、エホバの証人の教理に対する研究も進み、またその組織や預言の解釈の問題に対するキリスト教会の側からの反論もすでにかなりのレベルまで整えられてきた、と言えよう。そんな流れの中でも、特にいくつかのキリスト教団体が、先進的な働きを進めている。たとえば、関東においては“真理のみことば伝道協会(代表:W.ウッド師)”や“エホバの証人問題対策協議会(代表:練馬凛氏)”が、関西においても西舞子バプテスト教会の“エホバの証人救済対策本部 (代表:草刈定雄師)”や“ニューライフ・ミニストリー(代表:J.ドーゲン宣教師)”が、活発な救済活動をしている。また日本バプテスト教会連合においても、大野キリスト教会が“新世界訳研究会”を発足させ、綿密な教理と組織の研究を始めており、さらにそれが“エホバの証人をキリストへ(JWTC)”という形でセミナーを主催するなど、活動の幅を広げている。
 今回、教理的な問題や細々とした聖書解釈の問題についての考察は、これら先進的な働きをしている諸団体や諸先生方、その他すぐれた研究書籍にお委ねすることにして、この小文においては極力、客観的かつ具体的な事実に基づいて、特に私が生まれ育ち、また主より再び遣わされた地である紀南地方、そして熊野という地域のコンテキストの中で、この問題をあえて考えていきたい、そして私なりのこの問題への取り組みについての現時点での結論への軟着陸を試みたい、と願っている。
 最後に、本論に入る前に一つのことを確認しておきたい。一般に「エホバの証人」と呼ばれている組織の正式名称は「ものみの塔聖書冊子協会」であるが、この「エホバの証人」という言葉はいろいろな意味に使われている。たとえば、漠然とものみの塔協会全体を指す場合もあれば、また一人一人の構成員、すなわち信徒を指す場合もあり、混乱することが多いように思う。したがって、この考察では、その混乱をあえて避けるために、私なりの理解に基づいて、便宜上次のように定義することにする。すなわち、協会全体を「エホバの証人」、統治体(十数名からなる最高指導者集団)を中心とするいわゆる指導者層を「ものみの塔協会」および「組織」、その末端の構成員一人一人を「証人〔たち〕」と呼ぶことにする。また異端に対する正統な流れのキリスト教会は、「〔正統的〕キリスト教会」と呼び、特別な指示のないかぎり、プロテスタント、カトリック、オーソドックスの各キリスト教会を含むものとする。もちろん、何をもって正統とするかの議論はあろうが、あくまで、これらはこの小文における便宜上の分類であることをご理解いただきたい。これらのことをふまえていただいた上で、さっそく本論に入っていきたいと思う。

第一章 エホバの証人の実態

 エホバの証人の実態について、正統的なキリスト教会に属するクリスチャンの多くはその正確なところを知らないと言ってよい。もちろん、この問題に重荷を持つクリスチャンは、その恐るべき実態にすでに気づいている。しかし、そのようなクリスチャンはあくまで少数派である事は間違いない。
 「彼らは、今、どんな状態にあるのか……?」この問題の考察を進める前に、まずその実態を冷静に分析する必要があろう。この章では、その教勢と影響、この二つの視点から彼らの実態を浮き彫りにしていきたい。
 
 1.教勢 <その驚異的な成長>
   世界で
 1870年に、創立者C.T.ラッセルが6名の知人と始めた聖書研究会に端を発するエホバの証人は、1992年には、299ヵ国に伝道者(バプテスマを受けたいわゆる信徒にあたる者)が約430万人、研究生(いわゆる求道者に当たる伝道者予備軍)を含めると、約1,045万人をその構成員とするまでに成長した。約120年間で1,000万人の大宗教団体に成長したわけで、確かに急激な成長であると言えよう。とは言ってもキリスト教宣教史においても、また他宗教においても、この程度の成長率はそう珍しいことではない。また、現時点において、正統的キリスト教会に対して数の上では少数派である。では、何が問題であり、何が驚異的なのか。それはその伝道者の数にある。
 伝道者とは何であろうか。ここでは、便宜上それを「訪問伝道、個人伝道ができる伝道のスペシャリスト」と定義づけてみよう。普通、カトリック、プロテスタントを問わず、キリスト教会の一般的な伝道のスタイルは、ある程度の専門教育を受けた教職者が、中心的な伝道者となり、いわゆる一般信徒は一部の例外を除けば、ほとんど伝道において補助的な働きを担うという、ある意味での分業的な体制をとっていると言えよう。それに対して、エホバの証人においては、信徒とは伝道することが義務づけられ、専門的な訓練を受けた伝道者そのものなのである。すなわち、信徒数がそのまま伝道者数であると言ってよい。それは、一つの宗教団体で約430万人の伝道のスペシャリストを持っている事に意味する。そして、それが確実に機能し、教勢を着実に伸ばしている、この事実こそが問題であり、驚異的なのである。
   日本で
 第二次大戦前にも、明石順三をリーダーとする日本支部「灯台社」の設立により、その宣教活動が活発に行なわれたが、ものみの塔組織に疑問をもった明石に対する排斥処分に伴い、戦前の宣教は幕を閉じる。本格的な日本における宣教は、1949年に派遣された12名の宣教師から始まったが、その後急速かつ堅実な成長を遂げ、1993年には伝道者だけで約178,000人、研究生を含めるとその数は40万人とも、50万人とも言われる一大宗教団体に成長した。特に、ここ十年間は年に約1万人のペースで伝道者数が増加しており、特に1993年には13,000人もの増加を見た@。 また、会衆(いわゆる地域教会)の数も3,126に、そして証人一人当たりの人口は677人となっており、まさに日本中の津々浦々にまでくまなく、「王国のよい知らせ」が宣べ伝えられているのである。
 一方、正統的なキリスト教会の教勢について見てみようA。 最新のデータによると、教会数、信徒数はプロテスタントが7,264教会580,121人(その内JEA加盟教会数1,365教会307伝道所102,631人)、カトリックが1,033教会431,633人、オーソドックスが76教会25,625人であり、合計8,373教会1,037,379人となっている。また、教職者数も見ていくとプロテスタント9,554人、カトリック、オーソドックスあわせて10,155人であり、合計19,709人となっている。
 次に、エホバの証人と正統的キリスト教会を比較分析してみよう。単純に見れば、教会数、信徒数、教職者数、どれをとっても正統的キリスト教の方が、圧倒的に勝っているように見える。しかし、問題は正統的キリスト教会の側の数字が、そのまま実際に教会に属し、その活動に加わっているいわゆる活会員の数を表していないことにある。すなわち、この数には、教会を離れたり、信仰を捨ててしまったクリスチャンも少なからず含まれているのである。特にこの傾向は、カトリックや聖公会、日本キリスト教団系の教会において著しいが、いわゆる福音派と呼ばれる各教団においても、それほどひどくはないにしても、必ずしも例外とは言えない。もちろん、何をもって活会員とするかという議論もあろう。また、その実態を詳しく調べたデータがないわけで、これはあくまで想像の域をでないのだが、実際の活会員数は、おそらく統計の数字の良くて6割、もしかすると半分近くになってしまうといっても、言い過ぎではないであろう。
 また、さらに正統的キリスト教会においては、活会員全員が伝道に携わっているはずもなく、その中でも活発に伝道活動で奉仕している者は、むしろ少数派であろうから、未信者に対する伝道力(信徒個人の伝道能力×信徒数×伝道時間)、そしてそれを土台とした総合的な影響力という点から見るならば、正統的キリスト教会がエホバの証人に対して、圧倒的優勢という図式は存在しないといってよいだろう。なにしろ彼らは信徒イコール伝道者であり、そのほとんどが伝道の第一線で活動しているのである。たしかに、正統的キリスト教会はエホバの証人と比べて、その伝道方策も多様であり、直接の御言葉の宣教以外の福祉や医療、文化や教育を含めた間接的な福音宣教も行なっているので、一概に比較はできないかもしれない。しかし、そのような点を考慮したとしても、やはり正統的キリスト教会の方が、その力関係において圧倒的優勢とは言いがたいのではないだろうか。
 たしかに、都市部などの正統的なキリスト教会の多いところでは、それほどの影響は感じないかもしれない。しかし、いわゆる地方においては、完全にその力関係が逆転しているところも少なくない、いや大多数の地方において、すでにエホバの証人がその信徒数においても、そしてその伝道力、影響力においても優勢に立っていることは事実である。もちろん、信徒数、その影響力の多寡で、正統・異端が決まるわけでもないし、それほど神経質になる必要はないという意見もあろう。しかし、冷静にこの現実を見ていくならば、ある種の危機感を感じるのは私だけであろうか。
   紀南で
 次に、紀南において彼らはどんな活動をしているのか、一つの会衆を例にとって、実態を分析していきたい。木本キリスト教会が立地する三重県熊野市と隣接する南牟婁郡の町村をその活動範囲とする「熊野会衆」の成長の大まかな足跡を紹介しよう。
 約25年前、二人のアメリカ人宣教師から、この地でのエホバの証人の宣教が始まる。当初は公民館などを拠点に活動、着実に教勢を伸ばし、その5年後には市内井戸町に王国会館を設立する。さらに地元の証人を獲得していく中で、今から8年前、熊野市に隣接する南牟婁郡御浜町大字下市木2763番地に新王国会館を建設、現在、伝道者だけで60名、研究生を入れるとゆうに100人を超す群れとなった。その証人たちの構成としては約7割が主婦層だが、最近になって青年層も急増している。また、二世の証人も多く、一家そろってエホバの証人という家庭も少なくない。「熊野会衆」の証人のほとんどは地元熊野地方の出身者であり、全国各地を巡回するいわゆる特別開拓者(後述する)などはいない。他府県出身者は長老の西口秀輝氏のみとなっており、そういう意味でも完全に地域に密着した教会形成を行なっていると言えよう。エホバの証人は普通、その群れが100名前後になると、群れを分けて、二つの会衆を作り、さらなる増殖に励む。「熊野会衆」も王国会館も手狭になってきたので、そろそろ群れを分ける計画もある、とはある証人の弁である。
 熊野市と南牟婁郡を含む三重県の紀南地方は、いわゆるキリスト教会(正統的か、福音的かという議論は別として)の範疇に入ると考えられる教会が少なくとも四つあると確認している。熊野市にある日本基督教会熊野伝道教会、南牟婁郡にあるカナン教団大里教会、同じく鵜殿教会、そして私の牧する木本キリスト教会、以上四教会である。ペンテコステ系のカナン教団の現住陪餐会員の実数が不明なので、一概に信徒数での比較は難しいが、おそらくその信徒数においては、「熊野会衆」を上回っていると予想される。しかし、これを福音的なキリスト教会と限ってみるならば、木本キリスト教会のみとなり、明らかにその信徒数、伝道力、そして未信者への影響力において、歴然とした差を感ぜざるを得ない。もちろん福音宣教に対する考え方や伝道方策の違いもあり、また一概にその力関係や影響力の度合いを数値化したり、比較したりすることが可能かどうか、という議論もあろう。しかし、厳然とした事実として、彼らがいわゆる正統的キリスト教会をはるかに上回るペースで教勢を伸ばし、また着実に地域に密着した教会形成を行なっていることは、疑いない事実である。
 先ほども言ったように、このような状況は、決して熊野、南牟婁郡だけに特有の現象ではない。日本全国津々浦々において、このような状況にあると思われる。身近な例をとっても、和歌山県新宮市には「新宮会衆」が、同じく那智勝浦町に隣接する太地町には「太地会衆」というように、日本バプテスト教会連合の紀南地区の諸教会が立地する近辺には、王国会館が設立されており、それぞれ伝道者だけでも7〜80名を超える群れに成長しているのである。
 日本の正統的なキリスト教会において、いままで都会の教会と地方の教会という色分けをして、それぞれの特徴を尊重しあっていこうという傾向がなかっただろうか。それ自体はよいことであろうが、その前提として地方の教会は過疎化と地域経済の衰退にともない、教会成長・教会形成が困難である、という固定観念があるように思う。しかし、彼らエホバの証人にとっては、そのような固定観念は存在しない。地方においても、都会と同じように、拡大し、成長し続けているのである。これを脅威と感じている地方のキリスト教会も少なくないであろう。また、都会の教会においても、地方ほどではないにしろ、彼らを無視して地域への伝道を考えていくことが、もはやできない段階に来ているのではないだろうか。
 2.影響 <その増加するトラブル>
 世界各国で、また日本各地で、エホバの証人が、着実にその教勢を伸ばして来ていることを見てきた。それが、もはや無視できる存在では無くなって来ていることは、厳然たる事実として受けとめなければなるまい。その教勢の拡大に伴って、その影響力も拡大することは、自然の流れである。次に、エホバの証人が与えているさまざまな影響について見ていくことにしよう。
   一般社会に対して 
 社会に与える影響として、代表的なものをいくつかあげてみよう。
   輸血拒否問題
 顕著に、一般の未信者の目を引いているものに、輸血拒否の問題がある。交通事故にあった川崎市の小学5年生の男の子が、輸血拒否から死亡するという事件が1985年に起こったが、この事件がマスコミに取り上げられる中で、キリスト教内外に、多くの議論を巻きおこす結果となった。エホバの証人の成長に伴い、その後も各地の医療現場でトラブルを巻きおこしている。
   家庭崩壊の問題
 証人たちは主婦層が中心であり、そのほとんどが未信者の夫を持っている。信仰生活の深化とともに、組織への依存度が高まる。その結果として、家庭内に、特に夫との関係に緊張関係が生じる場合が多い。妻の非常識な行動に対する夫の忠告も、彼女たちにはサタンの声にしか聞こえない。一致点を見いだせない夫婦関係は、夫の失望と暴力を招き、その結果として、別居、離婚に至るケースが少なくない。輸血拒否問題ほど表面には出てこないので、見過ごされがちであったが、最近は離婚訴訟という形で裁判ざたとなり、表面化する例も多い。少なく見積もっても、全国で4万件以上の家庭でこのような崩壊の危機に立っていると思われる。
 
   教育現場でのトラブル
 格闘技拒否をはじめとして、国歌斉唱の拒否、クラブ活動の禁止、未信者の交友の禁止などを学校の諸行事に支障をきたすケースが後を絶たない。また大学進学の実質的禁止による青年層への影響も、見逃すことはできない。子供も青年も、すべてを捨てて組織に献身することがすすめられているのである。単に、教育現場が混乱するということよりも、むしろこのような証人の二世、三世たちの生活と人生設計自体に、組織が決定的な影響を与えていることの方が問題であると言えよう。
   その他社会生活全般でのトラブル
 エホバの証人は、実に多くの禁止事項を持っている。そういう意味では、実に律法主義的であり、パリサイ的である。たとえば選挙を含む政治的活動への参加の禁止、徴兵への拒否、未信者や他宗教の信者との交友の禁止、などと枚挙にいとまがない。
 とにかく、彼らはこれらすべての行動が、聖書的根拠に基づいた正しい行動である、と自称し、宣伝する。これらのことがエホバの証人とキリスト教会との見分けることのできない大多数の未信者にとっては、大きなつまづきとなり、キリスト教会にも多くの悪影響を及ぼす結果となっている。次に、そのことについて見ていこう。
   キリスト教会に対して  
 前述のとおり、未信者の多くはエホバの証人とキリスト教会と同一視する。日本のように、聖書的な背景がなく、客観的な判断基準を持たない異教社会では、何が正統なキリスト教で、何が異端のキリスト教かという区別をすること自体が困難である。そこに多くの誤解とつまずきが生まれ、結果として正統的キリスト教会の宣教が少なからず阻害されていることは事実である。
   キリスト教会のイメージダウン
 頻繁な訪問伝道によって、確実に教会やクリスチャンのイメージを著しく悪化させている。しつこい、忙しいときにやってくる、炎天下や極寒の時も子供を連れ回る、ほとんどの未信者は、よいイメージを持たないであろう。また、輸血拒否や選挙拒否、といった非常識な行動も、未信者のクリスチャン像を混乱させている。とにかく、彼らの行動すべてが、結果として教会のイメージダウンにつながっているのである。
   求道者が奪われる
 「この町にはわたしの民がたくさんいる。」(使徒18:10)いつの時代でも、どんな地方においても、自ら真理を求める飢え乾いた魂が一定の割合存在する。また、さまざまな試練の中で苦しみ、解決とまことの平安を得ることを願う人々、またキリスト教に良い印象を持っており、チャンスがあれば教会にいってみたいと思っている人々も決して少なくない。本来ならばこれらの人々は教会に導かれるべき人々であり、エホバの証人の活動があまり活発でない時代においては実際、教会に導かれていたのである。しかし昨今、自分の意志で教会の門をたたく人、また、トラクトやチラシを見て集会に出席してきた人というのが、年を追うごとに減少していると感じるのは私だけだろうか。確かな客観的データがないので、真偽のほどは定かではないが、少なくとも紀南においては確実に少なくなっていると思われる。これを、本来、教会に導かれるはずの求道者、求道候補者が、エホバの証人の圧倒的な伝道力によって奪い取られている、と考えるのは早計であろうか。
   教会員ヘの悪影響を与える。
 彼らは、訪問した相手がクリスチャンだった場合、しめたと思うらしい。と言うのも、クリスチャンは当然のことながら、聖書の神を信じており、また聖書的な知識もある程度持っているので、彼らにとって伝道しやすい相手だからである。実際、信徒レベルで彼ら証人たちと議論して、その教理の間違いを指摘し、論破することはなかなか難しい。良くて平行線、悪ければ完膚なきまで言い負かされて、後味の悪い思いをしているクリスチャンが少なくない。その程度ならばまだ良いが、特に中途半端な信仰生活を送っていたり、既存の教会のあり方に不満を持っているクリスチャンが彼らの教理に共鳴して、エホバの証人に加わる例もかなりの数に上ると考えられる。実際、「熊野会衆」だけでも、2〜3名の元クリスチャンがいると聞く。全国では、いったいどれほどの数になるのか、想像がつかないほどである。
 このように求道者をまことの真理から引き離し、クリスチャンを混乱させ、教会の活動自体にゆさぶりをかけてくるエホバの証人の活動は、年を追うごとにますます強くなってくることは疑いのないことである。
 いま足早に、エホバの証人の実態を概観してきたが、その教勢、その影響、どちらの視点から見ても、彼らの驚くべき現状というものが浮き彫りにされたことと思う。このままの状況が続けば、将来、彼らのほうが、数の上においても、多数派になる日が来るのもそう遠い話ではない。すでに、その伝道という観点から見て、その方策においてバラエティーさではキリスト教会が勝るものの、その確実性と集中力という点でははるかに彼らは正統的なキリスト教会をしのいでいるのである。もはや、この問題に無関心でいることも、また無視し続けることもできない、そんな状況に来ていることは、間違いない。
 次の第二章において、なぜ彼らが成長するのか、どうして彼らにそれが可能なのか、その原因を分析していくことにする。

第二章 エホバの証人急成長の原因分析

 エホバの証人の成長は、前述のように、年に約一万人ずつの信徒数増、と目に見える形ではとらえることはできる。前年比約6〜7%というのだから、たしかに急成長中であり、その勢いはとどまることを知らないかのように見える。しかし、このエホバの証人の成長のスピードも、宗教史上、前例のない驚異的なものかと言うとそれほどでもない。単に成長率や信徒増加数だけを見れば、明治期や終戦直後のキリスト教会の急成長期の方が、彼らのペースを上回っていたであろうし、また現在においても、新興宗教のあるものの方が、彼らよりもはるかに急激な成長を遂げている。しかし、問題は第一章で見てきたように、エホバの証人の見かけの成長ではなく、その内容にあると言ってよい。彼らにとって信徒イコール伝道者であるから、すなわち年に約一万人ずつ、それもかなりのレベルで個人伝道のできる伝道者が増えている、ということにほかならない。とするならば、ある意味で、彼らの成長は実に堅実な成長であるとも評することができよう。しかし、ただ何の理由もなく、彼らが堅実かつ急激に成長するはずはない。この章では、限られたスペースで可能な限り、彼らの成長の原因分析を試みてみたいと思う。特に、重要と考えられるポイントだけを挙げて、考察していくことにする。まず教理的な面から、見てみよう。
   二つの中心的教理
 エホバの証人の教理の根幹をなす二つの中心的教理がある。この二つの教理の上に他のさまざまな教理が構築されていると言っても過言ではない。また、この二つは彼らの急速な成長を支えると共に、組織の体制維持に絶大な効果を持っている。しかし、逆に言えばこの二つの中心的教理が崩壊するならば、エホバの証人の成長も止まるばかりか、その組織自体が、崩壊することもありえるのである。
 その二つの中心的教理とは、「組織絶対の教理」と「1914年キリスト再臨の教理」である。この二つの教理について、そのアウトラインを見ていくことにする。
                                           組織絶対の教理
 彼らの主張する教理の中でも、この教理ほどエホバの証人の体質を如実に表わしている教理はない。どんなに他の教理が聖書的に矛盾だらけであったとしても、また組織のあり方が疑問に満ちていたとしても、この教理さえ十分機能さえしていれば、ものみの塔協会は安泰である。
 いくつかの彼らの出版物から、その教理の内容を見てみよう。
 「……。同様に、エホバは今日もご自分の意志を成し遂げるために一つの組織だけを用いておられます。地上の楽園で永遠の命を受けるには、その組織を見分け、その組織の一員として、神に仕えなくてはなりません。」
   (『ものみの塔』誌 1983年 5月15日号)
 「……。しかしエホバ神は、あらゆる国にいるクリスチャンが聖書を理解し、それを自分たちの生活に正しく適応するための助けとして、霊によって油そそがれた人々から成るご自分の見える組織、つまりご自分の『忠実で思慮深い奴隷』を備えてくださいました。神が用いておられるこの伝達の経路と連絡を保たなければ、どれほど多くの聖書を読むとしても、わたしたちは命に至る道を進むことはできません。」
   (『ものみの塔』誌 1982年 3月 1日号)
 この教理を一言で要約するならば、「ものみの塔協会だけが、唯一の神の組織であり、この組織を通してでなければ、誰も聖書の真理を理解することはできない。またこの組織の指導に服さない者は、永遠の命を受けることができず、滅びる。」と言うことである。 この教理を徹底的に植え付けられた証人たちは、組織が黒のものを白といってもそれを真理であると信じ、組織に命ぜられたことは、神から命じられたこととして懸命に守ろうとする。自分で聖書を読むこともなく、また自分で物事を判断するも許されないわけであるから、文字どおり組織のロボットとして伝道し、教勢を伸ばすことを至上命令として果たしていくことが、証人たちの唯一の関心事となっていく。一つの組織体にとって、これほど都合のよい教理は考えられないだろう。この教理はまさに、ものみの塔協会の生命線とも言うべき教理なのである。
   1914年キリスト再臨の教理
 この教理も、「組織絶対の教理」と並んで、徹底的に真理であるとして教え込まれる教理である。この教理を一言で要約すると、「この世は、1914年のキリストの見えない再臨以降、終わりの日にはいっており、ハルマゲドンが間近に迫っている。したがって、現在最も優先されるべき、神の業は、伝道することである。この使命をおろそかにする者は、やがて来るキリストの千年統治で実現するパラダイス、地上の楽園に入ることはできない。」B というものである。
 1914年にキリストが再臨した、という正統的キリスト教会の側から見れば、とんでもない教理が、公然と語られ信じられているわけである。なぜ、1914年なのか、また、なぜ見えない再臨なのか、ということについては、詳しくその点について論じられている書籍があるので、ここでは割愛するC 。しかし、なぜこんな正統なキリスト教会ではおおよそ容認することができない教理が同じ聖書から出てくるのか、簡略に説明するならば、それは聖書の終末の預言の恣意的な解釈に端を発した偽りの教えであり、その嘘をごまかすためにさらに嘘をつかなくてはならない、という悪循環の中から、生まれてきた産物なのである。その証拠に、彼らが「この年に来る」と予言したハルマゲドンは来ることはなかった。1914年、1918年、1925年、1941年、1975年、彼らの預言はことごとく外れたのである。それは、明らかに偽預言者のしるしであり、その教理が神からのものでないことを表すものであろうD 。また、キリストの再臨を予告することの愚は聖書的にもE 、歴史的にも証明されている。しかし、ものみの塔協会は、組織拡大の観点から、この教理を前面に押し出して、多くの証人たちを訪問伝道に駆り立てていった。そして、予言が外れても外れても、彼らは巧妙な言い逃れと事実の隠蔽によって、それを乗り越え、結果として飛躍的に教勢を伸ばしてきたのである。彼らが急激な成長を遂げた最大の秘密は、まさにこの教理にあると言っても過言ではない。
   新世界訳聖書と独自の聖書解釈原理
 「組織絶対の教理」と「1914年キリスト再臨の教理」、この二つの教理が盲信されているかぎり、組織はまったく安泰である。しかし、なぜこのようなとんでもない教理が平然と語られ、また、なぜその間違いに証人たちは気づかないだろうか。そんな素朴な疑問もわいてこよう。
 それは、彼らの使っている聖書「新世界訳聖書」と彼ら独特の恣意的な聖書解釈にその秘密がある。「新世界訳聖書」とは「古代ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語本文と照合しつつ、英文新世界訳聖書からなされた翻訳」である、とその聖書の序文に記されている。すなわち、それは重訳なのである。重訳はその性質上問題が多いので、現代においては聖書本文の原語からの直接、翻訳作業をすることが常識になっているが、彼らはあえてその問題の多い重訳を行なっているのである。それはなぜであろうか。理由はただ一つ、それは、彼らにとっては、聖書本文からの直接の翻訳では困ることがあるからである。彼らにとって信頼すべき唯一のテキストは、英訳「新世界訳聖書」であり、聖書本文ではないからである。この英訳「新世界訳聖書」こそ、彼らものみの塔の教理を弁護する唯一の聖書なのである。つまり、彼らは、自分たちの都合のよい教理を構築していく中で、それに矛盾する聖書箇所が出てくると、巧妙にまた意識的に誤訳することによって、それを正当化しようとするわけであるがF 、それが積み重なってできたのが「新世界訳聖書」なのである。
 また、聖書を解釈をするという作業においても、彼らは、まず自分が言いたい結論が先にあって、それを証拠だてる聖書箇所を見つけて、聖書解釈のルールを無視してひっぱってくる、これが彼らの聖書解釈のパターンである。これはとんでもない暴挙であり、神の御言葉への冒涜でしかない。しかし、彼らはそのようなことをまったく意に介さないかのように同じ過ちを平気で繰り返しているのである。聖書解釈、聖書翻訳のルールなど、組織が掲げる大目的のためには、無視してよいと言うことであろうか。これらのことを見ても、ものみの塔協会が神の組織とも、真理を求めている組織とも、とても言えないものであることは明らかであろう。
   徹底した信徒教育と充実した伝道プログラム
 エホバの証人は、徹底的にマニュアル化した信徒教育と伝道プログラムを持っている。この車の両輪とでも言うべき二つのプログラムこそが、エホバの証人を急激にかつ着実に組織的に成長させてきた、最大要因の一つであると言える。
   信徒教育プログラム
 証人たちは、普通、週に4〜5回の集会に可能な限り出席することが、義務づけられる。各会衆によって、日時が異なるようであるが、その内容は全国的に統一されたプログラムによってなされている。それぞれの目的を持った各集会に、彼らは熱心に集い、徹底的な信徒訓練を受けているのである。
 参考までに、「熊野会衆」の各集会とその内容を紹介してみよう。
  ・公開聖書講演会   日曜日 午前9時30分   於王国会館
    組織が準備した筋書きにしたがって、時宜的なテーマで語られる講演会である。 
  ・ものみの塔研究   日曜日 午前10時20分  於王国会館
    統治体が世界同時に教育する画一的な内容の討議集会であり、隔週発行の『ものみの塔』誌を用いて行なう。
  ・会衆の書籍研究   火曜日 午後7時30分   於王国会館およびリーダー宅
    群れ(20名前後)単位で、その他のテーマ別のものみの塔協会発行の諸書籍を研究、討議する集会である。
  ・神権宣教学校    木曜日 午後7時      於王国会館
    聖書研究とともに、実際的な話し方を訓練する伝道訓練会である。
  ・奉仕会       木曜日 午後7時50分   於王国会館
    訪問伝道に備えた、具体的な方策研究と、実際的な実演訓練を行なう。
 この他にも、証人宅での交わりを兼ねた家庭聖書研究会が、定期的に行なわれている。集会のない日も、各集会の予習や訪問伝道活動に、と証人たちは忙殺される。証人の一週間は、まさに組織漬けとなっているのである。また、証人たちは組織から絶えず、組織以外の情報、特に組織に不都合な情報はサタンからのものであるとして、徹底的に避けるべきである、と教えられる。もっともそれ以前に、証人たちは組織が次々と提供する大量の情報をこなしていくだけで精一杯であり、客観的に組織や自分の状態を判断することができなくなっている。後述するが、このプログラムそれ自体が一種のマインド・コントロールになっていることは明らかである。組織と証人たちの間には、無意識のうちに心理的な支配・被支配関係が生じ、そして証人たちの心には、知らないうちに組織に喜ばれることを第一に行なおうという行動パターンが定着していくのである。実に、巧妙な信徒訓練および信徒管理システムであると言えよう。
   伝道プログラム
 キリスト教会が、ある意味では多彩な伝道プログラムを持っているのに対して、エホバの証人の伝道プログラムは、実にシンプルである。すなわち、それは二人一組で軒並み訪問伝道を繰り返す、ご存じの方法である。まず彼らは、未信者向け伝道雑誌『目覚めよ』を配布しつつ、研究生(キリスト教会で言ういわゆる求道者)を徹底的に掘り起こす。少しでも聖書に興味を示す者、会話に関心を示す者には、聖書研究会を自宅で開かないか、と持ちかけ、初級者用テキスト『あなたは地上の楽園で、永遠に生きられます』などを用いての個人的な聖書研究が始める。そして、信頼関係が確立される中で、さらにさまざまなテーマ別のテキストによる聖書研究が積まれていき、徐々に各王国会館で行なわれる諸集会や証人の自宅で行なわれる会衆の書籍研究会に出席するように導かれていく。やがて研究生は、組織への献身を誓い、バプテスマを受けて、名実ともにエホバの証人の一員となるのである。そして、さらに前述の信徒訓練プログラムで、徹底的に訓練された彼らは新しい魂を導くために、訪問伝道に出かけていくのである。多少の個人差はあるが、これが一人前の証人になるまでの一般的なパターンである。
 このように、高度にマニュアル化された伝道プログラムと、徹底的な信徒訓練によって研究生が、強力な伝道者になるのに、そう時間はかからない。ほんの数年で、研究生を導く立派な証人が、確実に誕生していくのである。
 日本の正統的キリスト教会でも、伝道や信徒訓練をプログラム化して、力を入れている教会は多い。また、最近は弟子訓練プログラムといった、求道者からキリストの弟子へ導く一連のプログラムを導入している教会も少なくない。エホバの証人においては、それがすでに何十年も前から、それもより徹底した形で行なわれていたわけである。彼らは、仮に教理やその前提が明らかに間違っていても、その方法論が聖書的に的を射ていると成長する、というよい実例であると言える。曲がりなりにも聖書に立脚した信徒教育、イエスの弟子派遣にならった二人一組の訪問伝道、家庭集会を中心とした聖書研究と交わり重視の信徒活動、福音を恥としない伝道スピリット、など表面だけ見れば、たいへん福音主義的なキリスト教会であり、実に理想の伝道スタイルであると、言えなくもない。
 「庇を貸して母屋を盗られる」ではないが、いわゆる新興宗教と呼ばれる団体では、小グループ牧会、信徒伝道などといった、いわゆる聖書的な伝道牧会方策を徹底化して用いている。そして、全体として伸び悩んでいるキリスト教を尻目に、その教勢を著しく伸ばして来た。創価学会、立正佼成会などは、その顕著な例として、見ることができよう。とするならば、自称、聖書に忠実なキリスト教であるエホバの証人が、あのようなある意味で聖書的で、高度にプログラム化した伝道牧会スタイルを採っていることは、むしろ当然のことであり、そのことが現在の彼らの隆盛に大いに寄与していることは疑いのないことであろう。
   マインド・コントロールによる証人支配
 キリスト教三大異端の一つの統一協会は、ここ数年、日本のマスコミにも大きく取り上げられ、一般社会にも多大な影響を与えている。その元幹部であり、現在アメリカで反異端救出活動を行なっているスティーブ・ハッサン氏は、このマインドコントロール研究の権威でもある。同氏によると、「マインド・コントロール」とは「個人が自己自身の決定を行なうときの人格的統合性を切り崩そうとするシステムであり、その本質は、依存心と集団への順応を助長し、自立と個性を失わせることである。行動、思想、感情、情報をコントロールすることによって達成され、また洗脳とは異なり、あからさまな物理的虐待ともなわず、グループ内の強力な教え込み効果によって作用する」ものであると定義しているG。 洗脳が強制的であり、明らかにそれとわかる特徴があるが、マインド・コントロールは、ほとんど本人の自覚なしに行なわれることが多い。知らないうちに心がコントロールされて、自分のものではなくなっていくのである。
 元エホバの証人で組織のトップで活躍、現在はキリスト教に改宗して反異端の教育活動をしている、ランダル・ウォーターズ師によると、このマインドコントロールには、次の8つの要素があるH と言う。それは、次のようにまとめることができる。
   信徒たちを周囲とは孤立した独自の世界に閉じこめる。
   脱組織の恐怖心を植え付ける。
   指導者と同じ言動をすることを求める。
   指導者に信徒の情報をお互いに報告することを義務づける。
   組織は神聖であり、絶対であると教え込む。
   信徒の思考を停止させるような言葉を用いる。
   人よりも教理優先、組織優先の発想を求める。
   神に対する誤った教理を教え込む。
 証人たちのほとんどには、自分がマインドコントロールされているという自覚はない。ある意味では、それがマインドコントロールの特徴なのである。次に、エホバの証人のあり方がこの8つの要素に当てはまるかどうか、それがいかにマインドコントロール的か、ということについて確認していきたい。
   信徒たちを周囲とは孤立した独自の世界に閉じこめる。
 毎週4〜5回の集会に「出席しなければ不信仰である。」また「集会を3つ休むと真理を見失う。」と迫り、強制的に出席させることにより、外部との交信から遠ざけ、組織外の情報をシャットアウトする。その結果、証人たちは、社会で暮らしながら、精神的には隔離された生活を送るようになる。その結果、客観的な判断ができなくなり、組織依存型の人格が形成されていくことになる。
   脱組織の恐怖心を植え付ける。
 「脱会すると神の怒りをかい、神と悪魔の両方から攻撃される。」と徹底的に教えこむ。それによって、証人たちは、組織に反する行動をすることに非常な恐れを持つようになる。
   指導者と同じ言動をすることを求める。
 組織の円滑な運営のために、証人たちは指導者と同じ様に考え、同じように行動することが求められる。その結果、没個性的ないわゆるエホバの証人像が形作られていく。
   指導者に信徒の情報をお互いに報告することを義務づける。
 人の罪を知った場合、指導者に報告しなければ、罪であると教える。証人たちは互いの密告を恐れて、決して組織に対する本音を語ることができなくなる。
   組織は神聖であり、絶対であると教え込む。
 「父なる神は離れすぎていて、人と交わるには組織が必要」と組織の絶対性を主張する。証人たちは、組織に疑問を持つことは、神に反逆することであり、罪を持っている者が組織に疑問を持つのだ、というふうに教え込まれる。すなわち、そこはイエスマンのみが生き残れる世界であり、組織に疑問を持つ者は切り捨てられ、背教者の烙印を捺されて、除名されていく。
   信徒の思考を停止させるような言葉を用いる。
 「背教者」「神の組織」「忠実の思慮深い奴隷」などのことばを巧妙に用いて、疑問や反論を封じ込めるとともに、証人たちの自発的な思考を停止させて、組織の維持をはかっている。
   人よりも教理優先、組織優先の発想を求める。
 「組織はいつも正しく、人はいつも罪を犯す。」と教え込まれ、人よりも、その教理が優先される。証人たちには、まさに組織の一部として生きることが求められる。
   神に対する誤った教理を教え込む。
 神は人をありのままに受け入れてくださるとは教えない。神の愛は、組織に従う事を条件に与えられると教えて、証人を型にはめていく。
 このように、ものみの塔協会は、マインド・コントロールを用いて、巧みに証人個人の思考を奪い、一人一人の個性を破壊して、組織のロボット、組織の奴隷を作っている、と言えよう。いくら証人たちがそうではないと主張しようとも、その実態は、明らかにマインド・コントロールであり、決して聖書の真理とは全く相容れないものであることは言うまでもない。しかし、このマインドコントロールが巧妙に働いている限り、多くの証人たちは、無自覚のまま、組織の命令に盲従し、訪問伝道し続けていくのである。
   異なった救いの教理に基づく熱心さ
「だれにせよ、今になって、エホバの組織と奉仕に対する心からの支持をやめるならば、恥を被ることになります。現在の世界の体制は滅びの瀬戸際をよろめいているのです。わたしたちは、『良いたより』の中に立ち、『それをしっかり守っている』ことによってのみ、救われつつあります。」    (『ものみの塔』誌 1982年 3月15日号)
 すなわち、彼らによれば、究極的な意味において、「救い」は組織に対する献身と忠誠にかかっているということになる。それも組織に従っていれば、必ず救われるか、と言うとそうではなく、ただ「救われつつある。」「救われる見込みがある。」というのにすぎない。それゆえ、彼らは一生懸命になって、組織が課してくる規律を守り、組織が命ずる伝道ノルマをこなし、組織が望む証人像を演じ続けようとするのである。もし、組織に逆らい、組織の教えに疑問をはさむようなことがあれば、このあやふやな救いの見込みさえも失ってしまう、少なくとも、証人たちはそう信じているのであり、必死になって自らの救いを達成しようとするのである。彼らの伝道への異常なまでの熱心さの秘密は、まさにここにあるのであり、彼らの一見柔和な笑顔の下には、この必死の救いへの希求があるのである。
 まことのキリストの福音によれば、救いはイエス・キリストによる信仰によって与えられる恵みの業である。しかし、彼らは、本当の意味での「救い」の恵みを知らなければ、また永遠の命を与えられたという平安もない。ただ、それを切実に求めながら、今日も懸命に一軒一軒、戸をたたくのである。まさに、「私は、彼らが神に対して、熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」(ローマ10:2〜3)と御言葉にあるとおりである。
   厳しい伝道ノルマ
 「……。そうです。この体制の終わりはまさに非常に近づいています! それは私たちの活動を増大させるべき理由ではありませんか。……。家や財産を売って開拓奉仕をしてこの古い体制における自分たちの残りの日々を過ごそうとする兄弟たちのことをよく耳にしますが、確かにそれは、邪悪な世が終わる前に残された短い時間を過ごす優れた方法です。」         (『王国奉仕』 1974年 6月号 p.3)
 「そうする(伝道する)のは、だれの義務ですか。そうです。違背すれば、彼らは死刑に処されるのです。……」     (『ものみの塔』誌 1972年 8月 1日号)
 すなわち、伝道することは、証人たちにとって、自発的な行為ではなく、義務なのである。そしてそれは救いを与えられた喜びに根ざした行為ではなく、救いを勝ち取るための唯一の手段なのである。それゆえに、証人たちは、厳しい伝道ノルマを抱えることも、自分の生活そのものを犠牲にしていくことも、厭わなないのである。
 また、後述するが、組織内には一種のステイタスが存在する。長い時間伝道する者は、一般の証人よりも特別な存在としての栄誉が与えられる。たとえば、月60時間以上伝道する者を「補助開拓者」、月90時間以上伝道する者を「正規開拓者」、月120時間以上伝道する者を「特別開拓者」と呼ばれる。組織は彼らを特別視することによって、エリート意識をかきたて、さらに過激な伝道活動に邁進させるのである。一般の伝道者でさえも、月二回伝道報告の義務があり、その会衆によって異なるが、およそ10時間前後のノルマをこなす事を求められるようである。これら日本のエホバの証人が、1993年の一年間だけでも、伝道に費やした時間の総計は、8,984万時間にもなる。彼らが成長するのも、むしろ当然のことであると言えよう。
   活発な文書・出版活動
 彼らの活発な伝道活動を陰で支えているものは、何といってもその卓越した文書・出版活動であろう。1993年の最新のデータによると、信者向けの『ものみの塔』誌が、世界中で112言語1,557万部、未信者向けの『目覚めよ』誌が67言語1,324万部が、毎月発行されている。その外にも、様々なテーマ別のハードカバーの書籍が常時、印刷発行されており、高度にマニュアル化された伝道活動と信徒教育活動をバックアップしている。
 神奈川県海老名市にあるものみの塔聖書冊子協会日本支部には、翻訳スタッフと最先端の印刷施設があり、日本のみならず、アジア十数ヵ国の『ものみの塔』誌を始めとする出版物を印刷、発送している。日本だけでも、数十万部の『目覚めよ』誌が各家庭に配布され、また『ものみの塔』誌による統一した信徒教育がなされている。この実態は、彼らの伝道活動の底力の強さを物語っている。
   組織内の上下関係と特権意識の存在
 教理的には、すべての証人は平等であり、上下関係はないという建前がある。しかし、現実は、図@のようなピラミッド型のヒエラルキー構造を持っている。彼らが非難しているカトリックの組織図とある意味では酷似している事はなんと皮肉なことであろうか。
 また、そこには上意下達の構造が完成されており、組織の上の層からの指示や情報は、またたくまに末端の伝道者にまで伝達されて、一糸乱れぬ統一した行動が取れる仕組みになっている。それは、前述のとおり、上層からの命令に服従することが、エホバに従うことである、と教えられているからであり、またそれに逆らうことは、即、除名・排斥処分につながるため、下部組織は懸命にその命令に従おうとする。前述した伝道ノルマも、上から割り当てられるため、各会衆ではそれを果たすために躍起になって訪問伝道に励むのである。
 また、組織上層部は、各会衆から選りすぐられたエリート集団であり、組織の運営に関わっている。特に若く、熱心な男性証人たちは、この上層部への出世コースに乗ることを熱心にすすめられる。その結果、仕事をやめ、大学進学を蹴ってまで、組織に献身して、厳しい伝道活動にも喜んで身を挺していくわけである。
   組織内の豊かな交わり
 何名かの脱会者から、直接話を聞いたところによると、彼らエホバの証人の組織内においての証人同志の交わりは、異口同音に温かく、豊かであると言うI 。聖書講演会や書籍研究会など各集会において、事あるごとに隣人愛が説かれ、兄弟愛の実践が奨励されることもその一因であろう。また、彼らがエホバの証人以外の者との社会的な交際を事実上禁止されているという状況の中では、証人同士に深い交わりが形成されることは自然の成り行きであると言えよう。
 一方、背教者として排斥処分を受けた元証人に対する態度は、徹底的に厳しく、冷たい。それは、自分たちの組織のみが神の組織であり、それ以外のあらゆる組織はサタンの組織であるとする、という極端な二元論に立つゆえの当然の帰結である。組織に逆らう者はすべて神に逆らう者であり、サタンに従う者である、という思考パターンが定着している以上、彼らにもはや妥協も同情の余地もない。徹底的な無視と冷淡な態度で接しようとするのである。そのような排斥者に対する態度が、裏返しとなって、ある意味では過剰と思えるような熱い交わりに彼らをかき立てているとも言える。とにかく、彼らは互いに脱落することがないように必死に支えあおうとしているのである。また、厳しい伝道ノルマをこなさなければならないことも、互いに身も心も疲れ切った証人同士の交わりをさらに熱いものにしている一因であろう。これらのことは、他の異端である統一協会などとも共通している傾向と言えよう。
 教理に疑問を抱き、組織のあり方につまづいてエホバの証人組織を離脱した者でさえ、その豊かな交わりをなつかしい、と言う。熊野に生きる元証人も、口をそろえてそう告白している。もちろん、各会衆によって多少の格差もあろうが、意外なほど暖かくうるわしい交わりを彼らが持っていることは、確かである。
 (10) 現代社会のニーズ
 現代社会は、多くの矛盾と問題に満ちている。環境破壊、戦争、飢餓問題、天変地異、エイズ問題などと枚挙にいとまがない。これら悲惨で、目を覆いたくなるような出来事が、マスコミを通して、世界中からリアルタイムで入ってくる時代である。これらの事実に接する時、多くの人々は少なからず不安を抱き、またその根本的解決を切実に願わずにはいられなくなる。エホバの証人は、これら人間に不安を抱かさせる、ありとあらゆるものを聖書に記されている「世の終わりのしるし」J として読み込む。そして、前述した彼ら特有の独善的聖書解釈によって、その不安を増幅させるとともに、その解決として「地上楽園の理想」をその絶対的解決として提示するのである。それが、多くの人々、特に真面目で真理を求めており、すべての問題の根本的解決を切望している人々の心を引きつけていった、と分析できる。
 もちろん、正統的なキリスト教会においても、その歴史の中で、その時代時代の社会問題を「世の終わりのしるし」としてとらえて来た。むしろ、そのような終末論的視点というものを、教派によって違いはあれ、正統なキリスト教会は絶えず持ち続けてきたと言えよう。しかし、エホバの証人はそれを徹底的に、それも過剰なほどに強調するのである。それが前述の「1914年キリスト再臨説の教理」ともつながって、証人たちをいっそう過激な伝道に駆り立てていくのである。これも、彼らの堅実で急激な成長を支えてきた一因と言えよう。
 また、そのほかにも、多くの人々が、人間関係の悪化、学歴偏重社会、家庭崩壊などから来る不安感から、暖かい人間同士の交わりを求めていることも、現代社会の特徴と言える。そのような人々にとって、前述のエホバの証人の持つ閉鎖されたグループ内での暖かい交わりは、たいへんな魅力として映る。組織の要求が厳しければ厳しいほど、また、まわりから非難されればされるほど、家族からの迫害を受ければ受けるほど、彼らは互いの交わりを熱くしていくのである。それは、組織の堅実な成長をもたらすとともに、離脱者を抑止していく一因ともなっている。
 さらに「熊野会衆」に限って言えば、その急成長の原因の一つは、紀南地方の人口の過疎化、経済の沈滞化に伴う、将来に対する漠然とした不安感があると思われる。数名の若い証人たちの個人的な証言から判断するかぎり、特に、地方に残った青年層に共通する心理としての人生設計に対する失望感やコンプレックスも、エホバの証人の活動に明らかに追い風となった事は否めない。それら漠然とした不安感、失望感に対して、エホバの証人は、巧妙にかつ具体的にその解決策〔それらしきもの〕を提示してきたのである。このように、人生の目的が明確に与えられる中で、証人たちは生き生きと伝道に励む、というわけである。
 また、このような若い世代の証人たちの急増は、熊野に特有の現象ではない。学歴偏重社会の重圧の中で生き、明確な人生目標を持ちいえない若者にとって、エホバの証人の教理と現実に即した御言葉の適用は、魅力あるものと映っているのである。
  (11) 正統的キリスト教会への対決姿勢
 エホバの証人は、また既成の諸宗教、特にキリスト教を攻撃することによって、自己の正統性を主張し、その教勢を伸ばしてきたと言っても過言ではない。彼らは、「キリスト教会は大いなるバビロンK であり、歴史上多くの罪を犯してきた。教会の言うことはサタンの声であり、その門をくぐった者は、ハルマゲドンで滅びる。」と主張する。証人たちは、このことを伝道の最前線において、繰り返し語っているのである。
 もちろん、教会も、罪赦された罪人の集まりであり、完全ではない。過去の歴史において、多くの過ちを犯し、多くの未信者に数えきれないつまずきを与えてきたであろうし、今も与えていることも否めないであろう。しかし、その事実を厳粛に受けとめつつ、主の前に悔い改めつつ歩んでいく、それがキリスト教会の本当の姿であり、多くの地域教会は、誠実にそのように歩んでいると思う。しかし、彼らは教会が過去に犯した罪を丹念にほじくりだすとともに、ごく少数の異端的な教会が起こした過ちを教会全体の過ちとして、誇張、拡大して中傷、批判するのである。それが、キリスト教に反感を持つ者、既成のキリスト教会に対して不満を持つ者、また、いろいろな意味でつまずいている者を取り込んでいくきっかけとなるのである。
 前述したとおり、「熊野会衆」において、元クリスチャンが2〜3名いるが、全国的に見るならば、かなりの数のキリスト教からの改宗者がいると考えられる。それを、その改宗した本人に問題があったと断じることはたやすいが、逆に言えば、正統的キリスト教会における正統的教理教育の欠如、複雑な人間関係などの様々な問題にも、その原因があると思われる。彼らの急成長の一因が、日本のキリスト教会が持ち続けているマイナス要因にある、と考えるのは早計であろうか。

 このように、大まかではあるが、エホバの証人の急成長の原因について、私なりに分析して試みてみた。とにかく今、世界で、日本で、都会も地方も関係なく、それこそ津々浦々で、彼らは訪問伝道を繰り返し、聖書研究会を開いて、まことの神を求め、真理に飢え乾いている魂を確実に獲得しているのである。そして、その魂は、時を経ずして、一人前の証人に養成されて、新しい魂を求めて、家々を訪問していくのである。この恐るべき現実を無視できないところにまで来ていることは、もはや疑う余地がないことがおわかりいただけたと思う。
 この現実に対して、キリスト教会は、どのように対応していけば良いのか、また、証人たちに対して、どのような姿勢で接していけば良いのか、次の章では、そのことについて考察していきたい。

第三章 エホバの証人に対する対応の現状

 次の二つのアンケートから、日本のキリスト教会のエホバの証人に対する意識とその対応の実態を分析していきたいと思う。
 1.日本福音同盟異端問題実態アンケート(1992年10月調査)抜粋
 設問  異端グループで訪問頻度が高いのは?
    ・エホバの証人  93.5%
    ・統一協会     4.0%
    ・モルモン教    1.1%
 設問  その時のあなたの対応は?
    ・門前払い     29.5%
    ・伝道を試みる   22.5%
    ・福音文書を渡す  15.2%
    ・議論する     13.5%
    ・無視する      8.1%
    ・怒鳴る       0.2%
                       
 このアンケートの設問 の結果からは、キリスト教会が直面している最大の異端がエホバの証人であることがわかる。もちろん、統一協会やモルモン教は、宣教の戦略において必ずしも訪問伝道をその伝道活動の中心の置いているわけではないので、これほどの影響力の格差が、各異端の間であるとは一概には言えないであろう。しかし、訪問伝道といういやがおうにも顔と顔を合わせるという形で、直面せざるをえないということを考えあわせると、エホバの証人の影響力たるや他の異端を圧倒していると言えよう。
 次の設問 の結果からは、クリスチャンのエホバの証人に対する対応の戸惑いが表れているようで、たいへん興味深い。積極的にアプローチしようとする者が6割、あと4割は消極的な姿勢を保とうとしていることがわかる。積極的にアプローチしている信徒が多いとはいっても、一概に安心はできない。なぜならば、福音的な文書を渡しても、証人たちのほとんどは読むことはないし、伝道を試みると言っても、信徒レベルでは彼ら証人と聖書の知識において対等に渡り合えるクリスチャンは、ごく少数である。また、訪問をしてきた証人たちを、議論によって救いに導いた例というのはないとは言えないが、それはごく稀なケースと言えよう。
 このアンケートは、信徒レベルの調査であったが、教職者レベルでは、この問題について、どのような関心を寄せ、どのような対応をしているのだろうか。そのことについて、私が所属する日本バプテスト教会連合の牧師・宣教師の諸先生方に協力いただき、アンケートを採らせていただいた。次に、その結果を紹介する。
 2.日本バプテスト教会連合関西牧師会におけるアンケート(1994年2月調査)
 このアンケートは、無記名によるもので、エホバの証人問題に関する各設問に対して牧師、宣教師の諸先生方の率直な意見を聞いたものであり、その意見の集約に関しては、私個人の責任において行なっている。有効回答者数は、13人であり、重複回答も含む。回答の内容については、あえて分析・分類せずに、そのままの率直な意見を載せることを心がけた。
  
  設問  エホバの証人に抱いているどのような印象を持っていますか。
     @非常に危険・悪印象を持っている。  11人 
     Aよい印象を持っている。        2人
     Bあわれに思う。            1人
  
  設問  上記の印象を抱く理由は何であると考えますか。
     @危険・悪印象を持つ理由
      ・曲解した聖書解釈を行なっている。
      ・独善的で、自己矛盾に満ちた印刷物。
      ・信徒たちに悪影響を及ぼす。
      ・未信者に誤解を与え、教会のイメージを落とす。
      ・証人たちの反社会的言動。
      ・まことの福音から、人々を遠ざける。
      ・サタンの働きを感じる。
      ・聖書を悪用している異端である。
      ・教会員宅を調べて、訪問してくる。
      ・非人間的な態度。
      ・聞く耳を持たない自己中心的な態度。
     Aよい印象を持つ理由
      ・伝道する対象として考えるから。
      ・服装や伝道姿勢だけに限っていえば、見習うこともある。
  設問  エホバの証人の教理の中で、いちばん問題であると思う教理は何ですか。
      ・キリスト論 12人  
      ・救済論    9人   
      ・終末論    9人  
      ・神論     7人  
      ・聖書論    6人
      ・教会論    5人
      ・人間論    4人
      ・その他    2人
  設問  エホバの証人に対して、先生個人はどのように対応していますか。
      ・できるだけ質問するようにしている。
      ・説得するのは無駄である、と言う。
      ・個人伝道の相手と考えて、攻撃的にならないようにしている。
      ・教会に来るように説得している。
      ・彼らの出版物を極力受け取る。(少なくともその一冊は他の人の手に入らないから)
      ・相手の証しや個人的な意見を引き出すように心がける。
      ・住所を聞き、こちらから出かけていって話をする。
      ・こちらがにげていると思われないようにする。
      ・追い返す。(Uヨハネ10〜11節)
      ・聖書から、誤りを指摘する。
      ・二人組で訪問してくるので、そのうちの見習生に気持ちをこめて語る。
      ・感情論ではなく、聖書に立って議論することを心がける。
      ・話し合っても、意味がないので、断って帰ってもらう。
  設問  各教会において、この問題に関してどのように取り組まれていますか。
      ・エホバの証人に関する勉強会を行なっている。(定期的に・随時)
      ・教会員と求道者に、エホバの証人はキリスト教ではないと口コミで伝えるようにお願いしている。
      ・教会の図書に、エホバの証人関係の書籍を揃えるようにしている。
      ・教会としては、特に具体的なことはしていないが、信徒個人のレベルで取り組んでいる。
      ・教会員に、エホバの証人関係の書籍講読を勧めている。
      ・礼拝や祈祷会での講解説教を通して、教会員を御言葉によって、正しく教育訓練をしている。
      ・神戸の西舞子バプテスト教会の草刈師と連絡を持っている。
      ・説教の中でおりに触れ、エホバの証人について語っている。
      ・教会員からこの問題についての質問を受けた時は、指導している。
  設問  各教会の信徒に対して、どのような対応をするように指導していますか。
      ・訪問してきた証人の住所を信徒に聞き出してもらい、後で牧師が訪問することにしている。
      ・信徒に個人的に聖書研究会を持っている者がおり、牧師は逐一その報告を受けることにしている。
      ・教会で信徒向けのトラクト「エホバの証人の訪問を受けた時」を作って、信徒に渡し、このトラクトに従って、証人たちと接するように、またその報告を牧師にするように指導している。
      ・なるべく話をしないように、訪問を断るように指導している。
      ・牧師に連絡し、話し合うことを証人にすすめるように、指導している。
      ・特に具体的に何か指導しているわけではないが、「教会へ行っている」と告げて帰ってもらうようにしている。しかし、信徒教育の必要性を覚えている。
      ・トラクトを渡すように指導している。
      ・関係を持たないように、信徒にすすめている。Uヨハネ10〜11節を読んであげる。
      ・はっきりした聖書知識がないかぎり、なるべく証人たちと討論しないようにと、教えている。
  設問  キリスト教会はこの問題に対しどのように取り組んでいくべきでしょうか。
      ・攻撃的な態度よりも、受け身に立ちつつ対応していくほうがよいと思う。
      ・教会同志が協力して、文章やトラクトなどを作成してはどうか。
      ・消毒をしないと、雑草ははびこるばかり、統一教会問題と同じくらい問題意識を感じる。
      ・牧師が真剣に取り組み、信徒に理解を深めてもらい、証人に対応できるような教育をしていく必要がある。
      ・教会間で、この問題に関する情報交換を行なう。
      ・ケースバイケースで、伝道する場合もあり、拒否していく場合もある。
      ・福音の大胆な宣教と、正しい御言葉の講解による信徒訓練が第一である。この問題に専門に取り組んでいる人々は別として、一般のクリスチャンはこの問題に取り組むよりも、積極的に十字架と復活の福音を伝えていくことと、御言葉を正しく教えていくことが大切である。なぜならば、御言葉だけが、サタンの策略に勝利する力であるから。
      ・正しい聖書の学びを教会員に教えていくことが大切。あとは、時代が、答えを出してくれる。
      ・教会員が、エホバの証人の教理などについて正しい知識を持つように、勉強会をすることがまず大切であると思う。
      ・エホバの証人だけでなく、いろいろな異端の教えに対して、聖書からの学び会を持って、教会員を教えていくことが大事であると思う。
 このアンケートを通して、各師のこの問題に対する並々ならぬ熱意と真摯な取り組み姿勢を見せていただくことができ、私自身大いに励まされ、啓発された。しかし、これら二つのアンケートを見るかぎり、教職者レベルと信徒レベルにおいて、その姿勢と認識の度合いにおいて、かなりの差があることは否めない。また、教会によって、その対応もまちまちであることも事実であり、キリスト教会全体では、この問題に対してまだまだ発展途上であり、これからさらなる検討と改善の余地があることは明らかである。
 では、どう彼らと接し、どう彼らに対応していけばよいのか。その理想の姿勢、態度とはどんなものがあるのか。これらのことを考察していく上で、まず最初になすべきことは、聖書からの示唆を求めていくことである。とは言っても、聖書において直接エホバの証人に関する記事が記されているわけではないので、当然、もっと大枠で、すなわち異端全般に関する聖書の示唆を見ていくことが必要となってくる。次の章では、異端全般に関する考察を行なうこととする。

第四章 異端についての考察

 広辞苑によれば、異端とは「正統からはずれていること。また、その時代において正統とは認められない思想・信仰・学説など」とある。正統があっての異端となるのであり、その両者には、ひとつの共通の基盤があることは言うまでもない。たとえば、エホバの証人と正統的キリスト教の共通の土台は、言うまでもなく聖書であり、神を神として信じようとする信仰である。
 しかし、なぜ同じ聖書を用いながら、また、同じく信仰を告白していながら、どうしてあるグループは正統となり、あるグループは異端となるのであろうか。それは単に多数派、少数派の関係ではなく、共通土台である、聖書をどのように見、どのように解釈していくか、この一点が正統異端を決める分水嶺となることは、疑いないことであろう。
 この異端について、聖書的な観点からと歴史的な観点から考察していくとともに、その異端に対する態度についても聖書的な考察を行なっていきたい。ただ、限られたスペースの中での考察でもあり、詳細に述べることは本意ではないので、その概略を述べるにとどめることにする。
 1.異端の定義
  聖書的に見た異端
 「異端」と訳されているギリシア語は、 αιρεσιsは、動詞 αιρεω「選ぶ」の派生語である。他の引用では、キリスト教については「宗派」(sect)、パリサイ派については「派」(party)、 教会内における意見の相違については「分派」(division)と訳出しているとおりL 、異説を唱える別派、排斥されるべき謬説、謬説に固執して分離した群れなどの意味を、この「異端」と言う語は含んでいる。これによっても明らかなように、「異端」とは、常に正統的なものとの対比において考え得られるものであり、その発生・起源は、正統派の成立と軌を同じくしているものである。
 このことから見ても、聖書がこの「異端」に対して、明確な見解をもっていることは確かである。聖書はその多くの箇所で「異端」を実に多様な表現をもって定義し、そしてそれに対して警告している。しかし、何をもって「異端」と呼ぶか、また、どこまでを「異端」と呼び、どこまでを正統なキリスト教の一派と呼ぶか、議論が別れるところであろう。しかし、この考察では、「聖書に記されている正統的キリスト教に対して異説を唱え、悪影響を与える」と考えられているものを、広い意味での「異端」ととらえ、私なりにまとめてみることにする。
   分裂・分派的異端
   @教会内部の意見の相違からくる分派 
    党派心や真理に逆らう思いをもって教会内に分裂を起こそうとするものである。    (例)Tコリ11:19 ロマ16:17 ロマ2:8 テト3:10 など
   A肉的精神からくる分派
    御霊の思いではなく、肉の思いによって分裂を起こそうとするものである。
    (例)ガラ5:20 ロマ8:5〜 など
   教理的異端
   @反キリスト
    キリストの神性を否定するものであり、ドケティズム(キリスト仮現論)もこの    中に含まれる。
    (例)Uペテ2:1 Tテモ6:3 Uヨハ7 ユダ4 Tヨハ2:18〜23      Tヨハ4:2〜3
   Aグノーシス主義
    「むなしいだましごとの哲学」と呼ばれ、ギリシャ哲学とキリスト教の混合したものである。
    (例)コロ2:8〜 Tテモ6:20 など
   B律法主義者 
    律法を遵守するという人間の行いによって、神の報いを引き出し得ると考える者たちである。
    (例)Tテモ1:6〜7 ガラ2章 など
   Cにせ預言者・にせ使徒・偽教師
    神の教えやキリストの福音を変えてしまったり、別の福音を伝えようとするものである。
    (例)ガラ1:7 Uコリ11:4 申命13:1〜3 Uコリ11:13
      黙2:2 Uペテ2:1 テト1:10〜11 など
   Dサタン、悪霊の教えに従うもの
    真の信仰から離れ、敬虔さを装いながらも神の喜ばない生活をするものである。    (例)黙2:9 Uテモ3:1〜4 Tテモ4:1〜3 など
   E誤った終末論者
    復活はすでに起こった、また、主の日がすでに来たとするものである。
    (例)Uテモ2:18 Uテサ2:2 など
   F偶像礼拝者
    真の神以外のものを礼拝し、第一にしていくものであり、神の教えに背くものである。
    (例)エペ5:5 Tコリ6:9 など
   その他、異端的なもの
   @無知で心定まらない人々
    聖書を曲解したりして、自らに滅びを招いているものである。
    (例)Uペテ3:16 など
   A自己中心主義者
    キリストに逆らい、自らを神とするものである。
    (例)ピリ3:18〜19 など
   B不法の人・滅びの子
    サタンに乗ぜられ、操られて、自らに滅びを招くものである。
    (例)Uテサ2:3〜 ヨハ17:12 など
 この他にも、聖書は、多くの箇所で異端や異端的なものを指摘しているが、おおまかな異端の全体像は、この考察で浮き彫りにされたかと思う。すなわち、聖書における異端とは、「聖書の真理を曲解し、誤った教えを主張するものであり、最終的にキリストを否定するものである。」と定義付けることができよう。この定義から見るならば、エホバの証人は明らかに「異端」の範疇に該当するものであり、正統的キリスト教の一派とはとても言いがたいものであることは、もはや議論の余地はない。
 次に、キリスト教の約2,000年の歴史の中で、現われては消えていった異端の数々を概観していきたい。
  歴史的に見た異端
 キリスト教の歴史における異端を概観するために、いくつかの方法が考えられる。たとえば、各異端の共通点をを系統立てて分析し構成する方法や時代別にその特徴をまとめる方法などがあろう。今回の考察では、限られたスペースでもあり、個々の異端に対する詳細な分析はできないものとして、後者の方法に従って、大まかに異端の変遷について概観していきたい。
   古代
 初代教会の異端として代表的なものに、ユダヤ主義やグノーシス主義があり、パウロや使徒たちがその影響を危険視し、明確な対決姿勢を取っていたことが、新約の各書簡からも明らかである。2世紀には、マルキオン主義、モンタヌス主義がおこり、また、4世紀には、アリウス主義、アポリナリオス主義、ネストリウス主義などが台頭する中で、正統的キリスト教会は、正統を明文化していく。また、キリスト教がローマ帝国の公認宗教となり、さらに国教となっていく中で、異端者への処罰や迫害が行なわれるようになった。5世紀になって、アウグスティヌスは「異端論」を著し、88の異端について論じている。この古代において、すでに現代知られている、ほとんどの異端の類型が現われていたのである。
   中世
 中世を支配していたローマ・カトリック教会においては、その権威に従わないものを異端として処罰していた。その主なものは、12世紀のワルドー派と、カタリ派の運動である。教理的におかしいということよりも、教会の権威に逆らい、その秩序を乱すものを、異端としていたのである。宗教改革者たちも、この論理で異端者とされ、破門され、迫害を受けることになるが、この流れの中で、プロテスタント教会が形成されていった。中世には教理的異端も出現したが、いわゆる異端と呼ばれたグループの多くは、カトリック教会の霊的堕落と腐敗の中から、正統的教理が追求される中で誕生して来たプロテスタント教会へとつながっていったこともあり、正統・異端の基準が、大きく変化していった時代であると言える。
   宗教改革後
 どの時代においても、異端的なグループは存在したが、特に19世紀に起こったモルモン教とエホバの証人、第二次大戦後に起こった統一教会は、世界中にその教勢を伸ばし、いまや様々な社会問題を引き起こすとともに、正統的キリスト教会に対する大いなるチャレンジとなっている。この時代においては、異端は全世界レベルで、急成長し、過去のいかなる時代にも見出せなかったような影響力を持つものとなった、と言えよう。
 キリスト教の歴史とは、まさに絶えざる戦いの歴史である。キリスト教会は、初代教会の時代から現代に至るまで、迫害という外なる敵と異端という内なる敵と戦ってきたのである。その内なる敵と戦うその過程の中で、キリスト教会は大きな痛みを味わってきた。しかし、そこから得た益も決して少なくはなかった。むしろ、異端の存在なしに、今のキリスト教会の隆盛はなかった、と言っても過言ではない。このことについて、教会史家E.ケアンズは次のように語っている。
 「結論として、論争や誤謬の異端のもたらした結果は、必ずしも常に破壊的ではなかった、と言うことができる。教会はやむなく、権威ある聖書正経を定め、聖書の要旨を要約する信経を定めた。間違った神学に対応するためにキリスト教神学が生じた。監督の地位は異端や誤謬に対抗する立場にある役務であることが強調された。自分の権威を支持するために野心家のやった間違った教えや、聖書のどれかを強調しすぎ、そのために間違った解釈に陥ってしまったことや、少数の誤った人々に対する教会の冷酷な扱い方……、こうしたことが結局は教会を弱めるには至らず、かえってその信仰を徹底的に考えるようにし、教会組織を発達させるようにした。」M
 教会が堕落し、その聖さや輝きを失ってくると、異端は出現することは、歴史が証言している。異端は、まさに教会の病める部分から始まるのである。異端の存在理由の一つは、キリストにある教会が強められ、整えられるための神様からのご配慮である、ということもできるであろう。現代の日本においても、その隆盛をきわめている異端の働きを見る時、その中に正統的キリスト教会に対する神からの警告とご配慮を読み取ることができないだろうか。
 では、実際、どのようにして彼らに接し、対応していけばよいのだろうか。その際の行動の基範となるのももちろん聖書の御言葉である。次に、そのことについて考察していこう。
  異端に対する態度についての聖書的考察
 聖書には、前述の異端そのものの定義と共に、その異端に対する教会の対応やその姿勢についての記述も、多く記されている。この章の異端に関する考察を終えるにあたり、そのことについて、すなわち「どういう姿勢・態度で異端に接し、対応するべきか」ということについて、聖書の見解を私なりにまとめてみたい。
 聖書の示す異端に対する姿勢・態度は、次のように分類することができよう。
   対決・積極的排除
   (例)テト3:10 ユダ3 申命13:1〜5 テト1:13〜14 など
   拒絶・忌避・不干渉
   (例)Uヨハ10〜11 Tテモ6:11 Uテモ3:5 Uテサ3:6
     テト3:9 など
   注意・消極的接触
   (例)Uペテ3:17 Uテサ3:14 など
   弁明・積極的接触・善導
   (例)ヤコ5:19〜20 Tペテ3:15〜16 Uテサ3:15 ガラ6:1     Uテモ2:24〜25 など
   救霊・積極的伝道
   (例)ロマ9:1〜3 マコ19:15 マタ28:19〜20 ルカ10章 
     など
 このように、聖書は、異端に対する態度について、一見矛盾する見解を提示しているかに見える。その御言葉が語られた背景を視野に入れて、これらの見解を理解していくならば、決して、矛盾していないことがわかる。すなわち、一つ明らかに言えることは、すべての異端に対し、またあらゆる場合にあてはまる態度なり姿勢というのはないということである。誤解を恐れずに言うならば、聖書の示していることは、ケースバイケースということであろう。すなわち、異端と自分たちの間の力関係によって、当然その対応の仕方が変わってくるということは当然であろうし、また、その異端の教理や本質的なあり方がどうであるかによっても、その接し方が異なってくることは言うまでもないことであろう。 たとえば、自分たちの教会の求心力よりも、相手の異端の力が強大で、その影響力が絶大な時は、拒絶したり、不干渉に徹することが必要になってくるであろう。しかし、一方、教会側の力が安定している場合や、また、安定していなくても、ある異端の教えに多くの魂が誤導されており、なんとかして救出する必要がある場合は、積極的な姿勢で取り組まなくてはならないこともあるにちがいない。聖書は、異端に対してなんらかの形で、たとえ結果として、拒絶したり、忌避したりするにしても、意識して彼らに関わるべきであると教えている。一番問題なのは、無関心であり、現実に目をつぶって見て見ぬふりをすることであると言える。エホバの証人に対しても、決して無関心になる事無く、それぞれが置かれた地域、環境、地位、立場に応じて、聖霊の導きの中で、その時にできうる最善の対応をすべきことを、主は望んでおられるのではないだろうかか
 最後に、参考までに、J.カルヴァンが戒規の問題を考察する中で、聖餐停止を受けた者に対する態度、姿勢に対して、次のように述べているので、それを引用してこの章の考察を終わりたい。
 「そういうわけで、聖餐停止を受けたものとの、親しげな行き来や、打ちとけた交わりは、教会の戒規を守ろうとするかぎり、許されないことではあるが、しかもなお、われわれは、できるかぎりの手段をつくして、〔あるいは勧告と教えを与え、あるいは寛容と温和の限りをつくし、あるいはかれらのために神にとりなしの祈りをして〕かれらがよりよき実りを結ぶように立ち帰らせ、こうして、教会の交わりと一致のうちに受け入れるべく、努力しなければならない。」N
 異端者は、必ずしも聖餐停止を受けた者と、その定義の細部においては一致しないが 「その罰し方は、将来における断罪を、あらかじめ警告することによって救いに呼び戻す」という聖餐停止の趣旨を考えあわせるならば、異端者も同列にある者とみなすことができるのではないだろうか。神様の目は、異端にとらえられた者たちにも、等しく注がれている。憎むべきは、背後に働くサタンであって、人間ではない。その異端の教えに惑わされ、誤導されている信徒には、まだ回復のチャンスはあるのではないだろうか。頑なな心を打ち砕くためには、時には、強く拒絶することもあろう。また、あえて無視することも、時には必要である。しかし、何よりも迷える異端の徒のために祈り、正しい福音をもって弁明し、涙をもって訓戒して、彼らをまことのクリスチャンにしていくことを、主は望んでおられる、と思うのは、私だけであろうか。

第五章 証人救出に関する考察

   いままで、エホバの証人について様々な点から考察してきたが、この章においては証人たちの救出ということについて、考えてみたい。まず第一に、なぜそれは必要なのか、どうしてそれは緊急を要するのか、すなわち、証人救出の取り組みの必要性と緊急性について考察し、続いて第二として、その救出にかかる具体的な取り組みについて模索してみたい、と願っている。
 1.証人救出の必要性と緊急性について
  悩める証人たちの急増の実態
 前述したエホバの証人の年鑑(1994年版)によると、おもしろいことに気づく。すなわち、日本において、エホバの証人のバプテスマを受けた人数は13,000人、本来ならば、この数がそのまま伝道者数の純増となるはずである。しかし、実際はそうはなっていないO 。統計の誤差を考慮に入れたとしても、およそ1,200人以上の証人たちがものみの塔協会からを離れたということを意味する。もちろん、死亡者や海外転居者などもあり、そのすべてが自発的な脱会者とは言えないであろう。しかし、かなりの数の証人たちが脱会していることは疑いのない事実である。
 また、目に見える形での脱会者だけでも、おそらく千人近い数に上っているということは、潜在的な脱会予備軍はかなりの数存在する、と言うことを意味する。ここ数年、ものみの塔協会を脱会した元証人の証し集が、多く出版されるようになった。それらを見ると証人たちの多くが、過剰な伝道ノルマに苦しみ、家庭崩壊の危機にさらされ、また、組織のさまざまな矛盾を感じながらも出るに出られず、不確かな救いを求めて訪問伝道に邁進している姿が描かれている。これらの内部告発からもわかるように、悩める証人たちが、かなりのパーセンテージに達している。特に、真理を愛する真面目な証人たちの中には、組織のあり方やものみの塔の教理に対して、漠然とした疑問や不安感を抱いている者も少なくないと思われる。
 実際、元証人たちが証ししているように、それらの疑問や不安感が何かのきっかけで一気に脱会という行動に結びつくことが多い。たとえば、ある者は家族の反対、ある者は聖書の通読、ある者は献身的なクリスチャンとの出会い、などの様々なきっかけとなる出来事を通して脱会していったのである。もし、そのきっかけとなる出来事を、適切に彼らに提供できるならば、潜在的な脱会予備軍に適切なインパクトを与えることができ、そして彼らが必然的に脱会へと進むであろうことは想像するに難くない。
 しかし、ここで、一つ気になることがある。それは、離脱した証人たちの行き先である。確かなデータがないので明言することはできないが、前出の金沢氏の話によれば、エホバの証人を離脱する者は決して少なくないが、正統なキリスト教会に加わる者は、必ずしも多くない、とのことである。実際、熊野において、著者が知っている限りだけでも脱会した元証人たちを2名知っているが、どちらも教会にはつながっていない。全国的に見れば、どれほどの数になるのであろうか。その原因を前出の金沢氏は「証人には教会はバビロンであるという固定観念と恐れがあると同時に、キリスト教会側の理解と受け入れ体制が十分でないので、彼らをキリスト教会の中に導けないでいる。」と指摘している。せっかく脱会したのに、また再び暗やみの世界に戻るのならば、それも誤って植えつけられた罪の意識と裁きへの恐れを抱きつつ、この世の生活を怯えと失望の中で暮らしていくとしたら、それはなんと悲しいことであろうか。
 私たちキリスト教会は、彼ら脱会者を、そして脱会予備軍をそのままにして良いのだろうか。きちっとした形で、キリスト教会に連なり、新しい生き方を始められた者は本当に幸いである。しかし、そのような者は少数派であり、大多数の者は組織を出るにしろ、残るにしろ、今もなお不安と恐れと失望の中にいるのである。悩める彼らをいわれのない恐れから解放し、平安と希望を与えるものは、キリスト・イエスにあるまことの福音以外になく、それを持っているのは、私たち聖書信仰に立ったキリスト教会だけなのである。
  証人も救われるべきひとつの魂であるという認識
 証人たちのほとんどは、イエス・キリストにある、まことの福音を聞いたことがない。聖書的な背景がなく、聖書の理解に乏しい日本において、このように一度もまことの福音を聞くこともないうちに、また、まことの福音を正しく理解しないうちに、誤った別の福音に捉えられてしまった、そんな証人たちが大多数なのである。
 たしかに、まことの福音を知りながら、自分の欲と罪に引かれて、異端の道を選んだ者は、ある意味では仕方がない。特に、組織の指導者たちは、サタンとともに滅びることがあっても、それはむしろ当然であると言えよう。「不正を播く者は、わざわいを刈り取る」(箴言22:8)のであり、「私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるならば、その者は呪われるべき」(ガラ1:8〜9)なのである。ちなみに、ものみの塔教会の第一代会長ラッセル、第二代会長ラザフォード、第三代会長ノア、彼らは皆、ハルマゲドンが来ると予言し、外れた年のその2年以内に亡くなっている。「偽預言者は死ななくてはならない」(申命記18:20)という神の御言葉が真理であり、彼らの上に成就していることは明らかであろう。
 しかし、それにしても哀れなのは、まことの福音を知ることなく、組織に惑わされ、人生を狂わされたまま、救われる事無く死んでいく多くの証人たちである。そういう意味では、ほとんどの証人たちは被害者であり、霊的な盲人なのである。
 彼らをそのような者であると理解するならば、彼らこそ救いを必要としている滅びゆく魂である、と言えないだろうか。そして、そんな彼らに、まことの福音を宣べ伝え、組織の誤導から解放してあげることが、私たち正統なキリスト教会に託された使命の一つである、と言えよう。なぜなら、彼ら悩める証人たちのためにも、主イエスは十字架にかかってくださったからである。
  キリスト教会へのチャレンジ
 第一章で分析したとおり、彼らの成長はとどまることを知らない。もちろん、それが長い歴史の中での一時的な現象であるという指摘もあろう。しかし、前述したように、このままで行くならば、日本において将来、それもそう遠くない未来に、数の上でも伝道力や影響力の点においても、彼らとの力関係が逆転する日が来るのである。聖書信仰に立つ福音的なキリスト教会だけを見れば、彼らは力関係においてすでに優勢に立っていると言ってよい。もちろん、正統か異端かは、単にその信徒数では決まらないことは言うまでもないが、日本で「キリスト教」といえば、エホバの証人を指す、そんな時代がこのままではやってくるかもしれないのである。
 また、前述したとおり、教理が根本的に間違っていても、ある程度方法論が聖書的に的を射ている場合、その組織は成長する、彼らエホバの証人はそのよい例である。徹底した信徒訓練、すなわち日本の教会が取り組み始めた弟子訓練的なプログラムをいち早く取り入れたこと、また訪問伝道と個人レベルでの聖書研究会の開催による地道だが確実な伝道方策に徹していること、誤った終末論と救いの教理に基づいているとはいえ、情熱的な宣教スピリットを信徒一人一人が持っていること、など、ある意味では宣教的なキリスト教会の一つの理想像に近い、と言えよう。このことも、明らかに、キリスト教会、特に我ら福音的なキリスト教会に対する大いなるチャレンジである、と考えられないだろうか。それは、次の一つのことを例にあげて考えても、このことが事実であることがわかる。本来、一人一人のクリスチャンが、救われた喜びと感謝の中で他の魂に伝道していくことが、キリスト教本来の宣教の原点である。しかし、それができていない、何十年たっても一人の魂もキリストに導けない、人前で証しもできなければ、自分がクリスチャンであることすら表明できない、そのようなクリスチャンが、今のキリスト教会の中には少なくない。また、そのことを問題視しながらも、私たちがなかなか打開点を見いだし得ていないことを、彼ら証人たちと対面する時に、気づかされる。彼らは、バプテスマを受けて間もない者であっても、実に堂々と自分の信じているところのことを語り、大胆に伝道しているのである。その姿にただ、私たち正統的キリスト教会は、意気消沈し、眺め、彼らを批判することにのみに留まっていることはないだろうか。なぜ、そうなのか。なぜ多くのクリスチャンたちはうなだれているのだろうか。ここで、その原因を究明するつもりはないし、その力も私にはない。しかし、これは、現代のキリスト教会が抱えるかなり本質的な問題のような気もする。少なくとも、彼らの熱心に対して、正統的なキリスト教会がそのような引け目を感じているとするならば、これは大きな問題ではないかと思うのだが、いかがであろうかか
 異端は、キリスト教会を映す鏡、弱いところ足りないところをクローズアップして映しだす凸面鏡と言えるかもしれない。エホバの証人を見て、自らを顧み、勇気をもって自らの弱きところ、足りないところを自己改革していくならば、一人一人のクリスチャンにとっても、キリスト教会全体にとっても、大きな益を受けることは明らかである。
 以上、三つの視点から見てきたように、ものみの塔組織からの証人を救出することは、キリスト教会にとって、もはや避けることのできない急務であると言えよう。確かに御言葉には「あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。」(使徒の働き5:38)といったガマリエル発言の例もあり、また「彼ら(にせ教師)に対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Uペテロ2:3)ともあるように、神様に逆らう者に対するふさわしい裁きは、神が時にかなって行なわれるのだから、積極的には関与せず、祈りつつ静観していけばよい、というのもひとつの姿勢であろう。確かに、ものみの塔組織自体に対しては、それはふさわしい姿勢だとは思う。しかし、証人たち一人一人に対しても同じように、ただ静観して何もしないことが、神様の唯一の御心である、とは私には思えないのである。むしろ、99匹の羊を置いてまで、一匹の迷える羊を探し求めた主にならって、悩める証人たちを探し求めることが、今、キリスト教会に求められているのではないだろうか。御言葉にも「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救いだし、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブ5:19〜20)とあるとおりである。このように、証人救出の働きは、迷える魂を死と滅びより救いだすとともに、それに取り組むキリスト教会それ自体にとっても、大きな祝福をもたらすものなのであるる
 2.証人救出の具体的な取り組みについて
 前項での証人救出の必要性、緊急性をふまえた上で、次の二つの具体策について提案させていただくことにする。
  超教派の救済・研究機関の設立
 1994年において、私が知っている範囲でも、二つの大きなエホバの証人救出に関して見逃してはならない大きな動きがあった。一つは、6月の第9回JEA総会において、「エホバの証人に関する見解」が採択された、ということである。この問題に対する取り組みが、福音的なキリスト教会全体のものとして位置づけられた、歴史的にも重大な意味を持つ採択であると思う。また、もう一つは、日本バプテスト教会連合(以下連合)の大野キリスト教会が「エホバの証人をキリストへ」(以下JWTC)の働きを開始、その主催するセミナーに、多くの受講者が参加、活発な活動が続けられている、ということである。これらは、ひとえに連合の諸教会をはじめとして、多くの教団・教派が教派を超えて、積極的にこの問題に取り組みつつあることの証しであろう。
 ここで、将来的なビジョンとして、連合がリーダーシップを取って、超教派のエホバの証人専門の研究・救済機関を設立することを提案したい。それは、一時的な対策本部的なものではなく、すでに救済の働きをしている既存のミニストリーとも連携し、また、組織を脱会した元証人たちのグループとも交流を深めつつ、あらゆる方面からでエホバの証人問題を分析・研究していく専門機関であり、そしてその成果を全キリスト教会に還元して、各教会の救済活動に強力にサポートしていく、そのような超教派団体である。また、それは賛同した教会からの献金によって運営され、専門の研究および事務スタッフを置き、各神学校教師や現場の牧師、伝道師などの協力を得て、その働きが前進していくことが望ましい。設立に向けては、いろいろな障害や問題もあろうが、ぜひ連合がリーダーシップを取って、早期実現に至ることを期待する。また、そこに至る過程として、全国レベルでのエホバの証人対策会議の開催や神学校における異端についての講義の開設、また必要なものみの塔情報がすぐに手に入る情報バンクの設置なども必要となってくるであろう。さらに将来的には、救済スペシャリストを養成する機関の設立や他の異端に対する救済の働きとも連携した総合的な異端対策団体の創設も課題となってこよう。
  各個教会での信徒教育の充実
 前の が「攻め」に当たるならば、この の提案は「守り」にあたる。いくら強力な支援体制が整ったとしても、各クリスチャンがしっかりとした聖書知識と明確な救いの確信を持たないならば、救出活動は一向に進展しないであろう。各個教会が、信徒に正統的な教理を身につけさせていくために、聖書研究会や信徒修養会の開催などの一層の努力をすることが、急務である。
 また、エホバの証人に対する正確な知識を身につけ、証人に対する救霊の思いを持つことも、証人救出のために不可欠の要素である。そのためには、具体的なエホバの証人対応マニュアルを作成したり、研修会を定期的に持つ、などの地道な方策を積み上げていくしかないであろう。また教会内に、脱会した証人たちを受け入れ体制を整備していくことも急務であり、そのための準備もしていく必要がある。
 実際、ここまでやろうとしても、ほとんどの教会では、とても実現不可能のように映るであろう。だからこそ で述べた超教派の専門団体が必要であり、スペシャリスト集団によるサポート体制が不可欠なのである。この二つの提案は、車の両輪であり、どちらが欠けても救出活動は進展しない。また、ひとりでも多くのクリスチャンの祈りと捧げものなしには、とてもやりおおせないことは言うまでもない。

まとめ


 この小文は、私なりにこの問題に取り組んできた、その総まとめでもある。もちろん、これで終わりというわけではなく、むしろここからスタートしていくものであると考えている。また、この小文を執筆しながら、熊野で生き、紀南地方の宣教を委ねられている者の一人として、この問題に対する重荷と責任をあらためて痛感している者である。
 今、私の心を占めていることは、この問題に関する最終的な解決は「愛」にしかない、ということである。「愛」と言っても、それは「キリストの愛」でなくてはならないし、見返りを求めない「アガペーの愛」でなくてはならない。この愛を動機とし、原動力とし、武器とし、目標としなければ、この問題は解決しない、と思うのである。
 彼ら証人たちは「愛」を知らない。もちろん「愛」という言葉は知っているであろうし、自分はエホバに愛されている、と言い張るであろう。しかし「キリスト」も、その「十字架」も正しい形で理解していない以上、彼らは部分的にしか、神の愛というものを知ることはできないのである。彼らにとって「神」とは律法を守らないと裁く恐ろしい神なのであり、その方が愛そのものであることを、彼らには信じていない。よって、私たちが体験しているキリストの愛から流れ出るもの、すなわち、赦し、平安、喜びといったものを知る事無く、彼らは生きているのである。
 そんな彼らに届くために最も必要なもの、それは「愛」である。彼らのために祈り、その救いのためにはどんな犠牲を惜しまない、そんなキリストの愛に立った姿勢である。その愛を持ち得るかどうかによって、この問題にどれだけ本気で取り組めるかどうかが決まってくる、と思う。もちろん、自分の中にそのような愛がないことを自分がいちばんよく知っている。それはキリストのうちにしかないのであり、日々の主との交わりの中でしか与えられないことを知っている。結局は、すべての問題の解決は、キリストの中にしかないのである。今ここに、熊野の証人たちの救出に、このキリストの愛をもって取り組んでいくことを告白する。
 宗教改革者ルターが、サタンに捕らえられた者のために祈った祈りを私自身の祈りとして、主なる神様に捧げてこの小文を終わりたい。
「主なる神、天の父よ、あなたは愛したもうみ子によって、私たちに祈ることを命じ、聖なるキリスト教会の中に説教職を定め、兄弟たちがたとえ誤って軽率なことをしても暖かい心で導き、再び正しい道に引き戻すようにしなければならないとお定めになりました。そして、愛したもうみ子キリストご自身、もし彼が立ち帰らないなら、それはひとえに彼が罪人であるためだと言われました。ですから私たちは、このあなたのしもべのために祈ります。どうか彼の罪をゆるし、罪のゆるしの信仰箇条の中にもう一度とりこんでください。あなたの聖なる教会の窓の中にもう一度引き入れてください。あなたの愛したもうみ子、私たちの主イエス・キリストのゆえに。アーメン。」P

フットノート

 @ 『エホバの証人の年鑑』<1994年版> (ものみの塔聖書冊子教会,1994年) p.36
 A 『キリスト教年鑑』<1993年版> (キリスト新聞社,1993年) 資料編
 B 『聖書から論じる』 (ものみの塔聖書冊子教会,1985年) p.355〜358
 C 特に、『だれでもできるエホバの証人への伝道アプローチハンドブックbQ』(西舞子バプテスト教会,1991年)および、練馬凛『ものみの塔文書資料集』(エホバの証人問題対策協議会,1989年)などの書籍に詳しい。
 D 申命18章22節
 E マタ24章36節およびTテサ5章2節など
 F ウッド.W 『「エホバの証人」の教えと聖書の教え』 (いのちのことば社,
1988年) p.206〜210
 G ハッサン.S 『マインドコントロールの恐怖』 (恒友出版,1993年) p.109
 H 『クリスチャン新聞』1994年3月13日号 「異端への伝道者養成セミナー」より抜粋。
 I 大泉実成『説得“エホバの証人と輸血拒否事件”』(講談社文庫,1992年)に、その交わりの実態が詳しく描かれている。
 J マタイ24章およびマルコ13章ほか
 K 黙示録14章8節ほか。
 L 「宗派」については使徒28章22節、「派」については使徒26章5節、「分派」についてはガラ5章20節およびTコリ11章19節を参照。
 M ケアンズ.E 『基督教全史』 (聖書図書刊行会,1957年) p.146
 N カルヴァン.J 『基督教綱要W』 渡辺信夫訳 (新教出版社,19 年)
p.277
 O 『エホバの証人の年鑑』<1994年版>p.36のデータより算出。
13,000人《1993年被バプテスマ者数》−(177,611人《1993年平均伝道者数 》−165,823人《1992年平均伝道者数》)=1,212人
 P ルター.M 『ルター選集・1「ルターの祈り」』 (聖文舎,1976年) p.93

参 考 文 献 一 覧


T.エホバの証人問題関係

 参考書


1.平田真実 『あなたにもできる「エホバの証人」救済活動』 新生運動,1992年
2.千代崎秀雄 『エホバの証人はキリスト教か』 いのちのことば社,1986年
3.リンクル.W 『エホバの証人への実際的アプローチ』 新生運動,1991年
4.ウッド.W 『「エホバの証人」の教えと聖書の教え』 いのちのことば社,1988年5.ウッド.W 『異端の反三位一体論に答える』 いのちのことば社,1990年
6.ウッド.W 『「エホバの証人」と「キリストの証人」』 いのちのことば社,
1983年
7.ウッド.W 『「エホバの証人」伝道ハンドブック』 いのちのことば社,1987年
8.ウッド.W 『エホバの証人・マインドコントロールの実際』三一書房,1993年
9.森山諭 『エホバの証人の間違い』 新生運動,1970年
10.草刈定雄 『ものみの塔予言・教理の移り変り』 西舞子バプテスト教会,1992年
11.イエス・キリストのしもべ 『だれでもできるエホバの証人への伝道ハンドブックbP』 西舞子バプテスト教会,1989年
12.イエス・キリストのしもべ 『だれでもできるエホバの証人への伝道ハンドブックbQ』 西舞子バプテスト教会,1991年
13.『百万人の福音1991年7月号特集「エホバの証人はここがおかしい」』 いのちのことば社,1991年
14.辻川宏 『異端ポケットシリーズ1「エホバの証人」』 オリーブ社,1983年
15.辻川宏 『異端ポケットシリーズ5「異端のルーツ」』 オリーブ社,1983年
16.善山相茂 『異端ポケットシリーズ8「体験・エホバの証人」』 オリーブ社,
1990年
17.『ものみの塔の誤導からエホバの証人を解放するために』 アミティー・エソード,18.金沢司 『ものみの塔の終焉』 ニューモード出版,1988年
19.新世界訳研究会 『イエスはどのような神なのか』 大野キリスト教会,1993年
20.新世界訳研究会 『創設者C.T.ラッセルの生涯』 大野キリスト教会,1993年
21.『ドキュメント異端』 クリスチャン新聞社,1983年
22.ドイヨン.J 『無慈悲な牧者たち』 あかし書房,1988年
23.練馬凛 『聖書に基づいてエホバの証人と論じる』 エホバの証人問題対策協議会,1989年
24.大泉実成 『説得“エホバの証人と輸血拒否事件”』 講談社文庫,1992年
25.井出定治 『異端とは何か』 いのちのことば社,1975年

資料集


1.ウッド.W 『「エホバの証人」の反三位一体論に答える』 いのちのことば社,1992年
2.練馬凛 『ものみの塔文書資料集』 エホバの証人問題対策協議会,1989年

トラクト・パンフレット


1.ウッド.W 『目覚めの時T,U,V』 いのちのことば社,1989〜92年
2.ウッド.W 『エホバの証人もキリスト教の一派?』 いのちのことば社,1990年
3.『私の体験を知ってください』 ニューライフミニストリー出版部
4.『エホバの証人からキリストの証人へ』 西舞子バプテスト教会 
5.『私はエホバの証人正規開拓者であった』 西舞子バプテスト教会 
6.『エホバの証人からキリストの証人へ』 西舞子バプテスト教会 
7.『あなたはエホバに愛されていますか』 日本純福音伝道協会
8.『クリスチャン・ギリシャ語聖書−だれのために書かれたものですか』 日本純福音伝道協会
9.『ものみの塔−神の代弁者ですか』 日本純福音伝道協会

救済情報誌


1.草刈定雄 『良いたより』 西舞子バプテスト教会,1992年
2.『友達からの良い便り』 ニューライフミニストリー出版部
3.『ものみの塔を出たらどこへ行けば良いのか』 ニューライフミニストリー出版部

U.ものみの塔聖書冊子協会出版物

 参考書

1.『聖書から論じる』 ものみの塔聖書冊子協会,1985年
2.『あなたの地上の楽園で永遠に生きられます』 ものみの塔聖書冊子協会,1982年
3.『20世紀におけるエホバの証人』 ものみの塔聖書冊子協会,1979年
4.『聖書−神の言葉,それとも人間の言葉?』 ものみの塔聖書冊子協会,1989年
5.『あなたの家庭生活を幸福なものにする』 ものみの塔聖書冊子協会,1979年
6.『世界で一致して神のご意志を行なうエホバの証人』 ものみの塔聖書冊子協会,
1986年
7.『ものみの塔』各誌, ものみの塔聖書冊子協会
8.『目覚めよ!』各誌, ものみの塔聖書冊子協会
9.『エホバの証人の年鑑』<1994年版> ものみの塔聖書冊子協会,1994年

V.その他(参考書・辞典・注解書など)


1.『第三回日本伝道会議資料』 日本福音同盟,1982年
2.共立基督教研究所 『宣教ハンドブックQ&A』 いのちのことば社,1991年
3.ケアンズ.E 『基督教全史』 聖書図書刊行会,1957年
4.『新聖書注解』 いのちのことば社,1972年
5.バークレー.W 『バークレー聖書注解「ヨハネ・ユダ」』 ヨルダン社,1971年
6.『新約旧約聖書語句大辞典』 教文館,1959年
7.『キリスト教大辞典』 教文館,1963年
8.『新聖書大辞典』 キリスト新聞社,1971年
9.『新聖書辞典』 いのちのことば社,1985年
10.『新キリスト教辞典』 いのちのことば社,1991年
11.カルヴァン.J 『基督教綱要W』 渡辺信夫訳 新教出版社,19 年
12.チャルディーニ.R 『影響力の武器』 誠信書房,1991年
13.ハッサン.S 『マインドコントロールの恐怖』 恒友出版,1993年
14.Bauer.W 『A GREEK ENGLISH LEXICON OF THE N.T』 The Univercity of Chicago Press,1957年
15.ルター.M 『ルター選集・1「ルターの祈り」』 聖文舎,1976年
16.バーナード.R 『聖書解釈学概論』 聖書図書刊行会,1963年
17.ボイス.J.M 『みことばに立つ−聖書信仰の重要性−』 いのちのことば社,1990年
18.『キリスト教年鑑』<1993年版> キリスト新聞社,1993年
19.大島宏之 『宗教がわかる事典』 日本実業出版社,1984年

(以   上)




          
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