紀朝臣松永=真済僧正後裔の松永氏の研究4




松永姓

正親町天皇(1557-1586)

1570年頃 松永市左衛門  150石
       ・三重県亀山市 ※関長門守侍帳に

1573年 松永家 駿河国富士市平垣村(富士市)の豪農
        ・武田遺臣の松永氏か?
        ・東京へ向う天皇の宿舎となった
        ・8代目安兵衛正方は旗本日向氏の陣屋手代を務めた、
        ・のち、財をなした。

        ・9代目安彦は貴族院議員
        ・富士製紙第8工場の建設や国鉄富士駅の開設に尽力した 
        ・明治初年第二大区小区の区長に松永省耕
                   ・副区長に松永晴太郎


1573年〜1592年 武蔵(埼玉県)栗橋町「松永村」
        ・紀州から来た 慶長 と言う者が開発した。
        ・現在は大字松永がある
        ・1914年 星宮明神社は「松永神社」と改称、
        ・慶長が紀州から勧請したという「熊野神社」も「松永神社」に合祀された
        ・1316年 埼玉県北葛飾郡に「高柳荘」があり
                          静村(静御前=源義経の妾)も含まれる。

1576年10月5日 織田信長、松永久秀の春松(質子)を六条河原にて斬らしむ
        
1576年12月4日 北畠一族が「霧山城」にて最後を迎えた時に 
       ・北畠政成の妻:壱枚御前 久秀の親類
       ・大宮景連の妻として 水谷御前 久秀の娘が自刃した
       ・北畠家臣帳:諸城の武士 松永左衛門尉
       ・松永久秀は壱枚御前の縁故で大和から応援に来て兵はよく戦い
         わずか50騎で信雄(織田信長の子)の本陣に切り込んで
                旗本28人を討ち取り信雄にも槍を突きつけた。
         今、ひと息と言うところで佐々木四郎右衛門の一隊に阻まれた。

1577年 松永八左衛門 誕生(松永久秀の孫)福知山へ
           ・1622 土佐国へ転移する

1577年 松永久通の子 松永一丸=彦兵衛は乳母と共に筑前国(福岡県)博多に
                  逃れ民間に隠れ住んで質屋を開業

1577年 松永久秀の大和国(奈良県)「多門山城」を織田信長の命により
                  筒井順慶が破却する

1577年 松永久秀の男子 伊勢国(三重県)「度会郡」の「松永村」より
            ・愛知県葉栗郡(一宮市)木曽川町玉井へ来住する

1577年 「松永村」宮崎県日南市東郷=那珂郡(東弁分村の内)
       ・広渡り(東川)下流左岸に位置し、水利豊かな耕地が広がる
        東は鵜戸山系東岳nふもとに立地

       ・もとは東弁分村の内で飫肥藩主伊東裕久が襲封に際して
       ・弟、伊東豊主膳に分知したうちの地内「松永1000石」が独立、
       ・松永村は幕府領に

       ・「松永村」で伊東氏家臣 海野藤十郎が松永村に
         潜伏したが捕らえられて自刃する
          ・字福谷の松永溝東岸に「海野藤十郎」の墓がある

1577年 阿波国(徳島県)犬墓村の「松永城」落城
     
1577年10月1日 松永久通 奈良県天理市の「楊本城」で殺害される

1577年10月10日 松永久秀 敗戦で「信貴山城」で自爆死
            ・久秀は仏徒として門徒(本願寺)を敵とするのは堪え難いと
            ・信長に逆襲と評定が一決とある  

1577年10月10日 「達磨寺」 臨済宗南禅寺派
              ・松永久秀の首塚がある
              ・住所:奈良県葛城市片岡山
                         
1577年0月 松永熊寿(貞徳の兄)9歳 妙覚寺に入り日典に師事する
          ・日蓮宗 僧名:教行院日陽
          ・「実相寺」の住持ち 

          ・現在も正覚山「実相寺」と号する日蓮宗の寺院
          ・住所:京都市南区鳥羽鍋ヶ淵10−1
          ・住職:四方行元
          ・松永貞徳の画像・墓碑及び史料あり    
       
1578年11月12日 宮崎県児湯郡耳川「耳川合戦記」で島津氏は「松永川内」より
        起つとあり

1580年頃 三河の名族 藤原姓

    松平清康に仕える    (徳川家康に仕えて三方原合戦で討死)
    松永平右衛門――─────源蔵──────────────┐
                                 │
    ┌────────────────────────────┘
    │家康に仕える  太郎右衛門(家康の臣)
    └勝正(源蔵)──正重(源蔵)

        ・150石
        ・家紋:丸に横木瓜・蔦
        ・菩提寺:浅草本願寺の「徳本寺」
 
1582年 豊臣秀吉の「太閤検地の開始」で「荘園が消滅」して大名領国制が確立

1582〜1586年頃 香宗我部家臣 土佐国香美郡
                          ・松永吉右衛門
               ・松永甚左衛門

1582年2月18日 松永貞徳 12歳 小熊、名は熊勝、吉右衛門
             ・和歌、連歌、狂歌、俳人

              父:入江(松永)永種
              母:宇野宗清の娘 妙重
       
             ・1653-11-15 83歳没(1571-1653)
                    墓地:鳥羽の「実相寺」日蓮宗
                    戒名:逍遊軒貞徳居士

        −詳細は「松永氏の県別・地名と人名」(4)
             京都府(山城)続きに
                      
1582年6月5日 北畠家臣帳に ※伊勢国司 諸侍系図書
       ・和州(奈良県)宇多郡「松山之城主」 松永日向守(源氏細川之末葉)
       ・和州宇多郡「志貴之城主」 松永弾正少輔通久(志貴方)





後陽成天皇(1586-1611)

1587年 松永貞徳 大村由己の手引きで秀吉の祐筆になる

               詳細は「松永氏の県別」(4)
          京都府(山城国)−2に記載あり

1590〜1647年 安室宗閑アンシツソウカン 臨済宗の僧 大徳寺176世
           ・出身:和泉(大阪)松永久秀の子 
           ・1624年 山内に「端源院」を創立して宗玩を祖として
                自らは2世となった。
           ・「賢忠寺」に肖像画あり
                  ・「延命寺」曹洞宗 住職として住していた
                ・和歌山県東牟田郡那智勝浦宇久井617
                ※財政部資源課 文化財調査目録及び解題
                          168曹洞週報731号

0000年 千利休の後妻の子、「少庵」は松永久秀の実の子であるらしい

1591年 秋田県能代市「松永布」の地名(出羽国秋田郡大内田村」
                    ・機織分(ハタオリブン)

1591年 松永肥後介 正親町天皇第一皇子 桂宮の侍
          ・子孫継続

1592年 松永昌三(尺五)生誕  父:松永貞徳

1593年4月 松永又左衛門久光と国分寺の 園慶 和尚は
          ・美作国(現岡山県)勝南郡(現:津山市)に「八幡宮」を寺山に勧誘する 
          ・子孫:国分寺村の名族 
        ・明治維新まで庄屋役 大字日上

      本家:松永久光の末孫:助左衛門―四世の孫:泰輔(医業)―剛造
         ―邦平―嶺治郎―剛毅(宗家)

      分家:1717 松永助左衛門の二男―繁治郎―祥蔵・・・
     
1593年6月 内藤如安(キリシタン) 松永丹波守長頼の子
           ・小西行長に従い随員35名を連れて「明国」との和平交渉をする。

1594年 松永久蔵 呂栄からの帰途、船中で病死   
        ・松永貞徳の弟
        ・22歳歿(1572-1594)      
     
1597年 越前国敦賀郡(福井県敦賀市)松永(中)村 
         ・松島2丁目松永(中)村「永建寺」=曹洞宗
         ・氏神:弓矢八幡宮
         ・鋳物を作っていた
                ・1607年 敦賀郡「野坂郷」のうち島郷に強制移転された
         ・住所:福井県敦賀市松島9−5

1598年5月27日 松永永種 60歳歿(1538-1598)

1599年 松永尺五(貞徳の長男)従5位上昇殿
          ・父:松永貞徳
         ・母:未詳
        
         ・1592 昌三(尺五)生まれる  
         ・1637〜 講習堂
              京都の代表的な漢学塾として教育事業に当たる 
         ・1657-6-2 65歳歿(1592-1657)

         −詳細は「松永氏の県別・地名と人名」(4)
          京都府(山城)−3に記載

1600年頃 「久伊豆神社」の別当として松永久秀の子孫が山伏となって
            ・祐源法印と名乗り「三宝院峯雲寺」を建立

1603年〜 松永某 徳川家康直参の諸士
         ・愛知県安城市古井村の出

1603-1875年 福島県河沼郡 松永分(松長とも)村名
             ・会津藩領代田組に属す

1603-1867年 大隈国桑東郷郡日当山郷の霧島村松永 
                 ・鹿児島藩領直轄領
   
1603-1889年 周防国「平井庄」吉田郷「垣富保」の小名:松永           
            ・明治初期:黒川村の一部となる
      
1603-1889年 大隈国頴娃郷別府村の松永

1603-1889年 大隈国曽於郡松永村
            ・鹿児島藩領直轄領
            ・現在:大字松永

1603-1889年 松永新田の村名
           ・埼玉県北埼玉郡大利根町
           ・1596-1614 杓子木村の村民の開発
           ・古くは埼玉郡羽生領のうち「大田荘」に属していたという、幕府領

           ・1688年には松永新田村と元禄絵図に載せ、その後は村の字を削ってある。
           ・現在は大字名

1603-1889年 松長(松永)村 駿河国駿東郡、幕府領
           ・のち相模国荻野山中藩領
           ・「伴名田」に松長、松永古墳群がある。

           ・「蓮窓寺」日蓮宗 内に「松長陣屋門」あり
            ・住所:沼津市松長137

1604年 松永左衛門入道道斎(良明)
        ・「太宰府天満宮」
        ・1616 74歳歿(1542年〜1616) 

        ・「松永道斎聞書」=「東照宮御遺訓」
        ・徳川家康の遺訓を井上主計頭が拝聴し、
                  東帰して語るのを道斎が筆記した太書なり 
                               ※久能山東照宮350年記念に刊行

1607年7月 「宇土城」熊本県 城主:小西行長
          ・小西行長 X 豊臣秀吉の戦いで
           内藤如安(父:松永長頼)等が城を守った

1609年 松永尺五 豊臣秀頼に「大学」を講じた

1610年 教行院日陽(熊寿)京都鳥羽の「実相寺」住持
          ・松永貞徳の兄
          ・42歳歿(1568-1610)





後水尾天皇(1611-1629)

1611年8月 松永久光 徳島県犬墓にて没、子孫継続
          ・父:松永久通

1615年 大阪の浪人松永内記(弦)が
         ・山口県宇部市「棚井村」から四ヶ小野町に「安養寺」を移転する

1615年5月8日 阿古御局(於菊中将弁宰相大上臈)
       ・大阪落城の時、侍女と自刃する 36歳

       ・松永久秀の長女
          ‖―――於菊=阿古御局中将弁宰相大上臈
        伊勢貞景 

       ・菩提寺:「北野神社」内「青松院」
            ・青松院は曼珠院宮の下で奉仕する家
             宝成院の知行目録案に「青松院跡」と見える
       
1617年 周防国(山口県)下松市 周防国都濃郡の大藤谷村の小名:松永
       ・寺:真宗「長円寺」

1620 松永尺五「永種堂」を継ぎ、寡譜を撰す

1622年 松永八左衛門(1577年生まれ)
          ・京都府福知山市から土佐国(高知県)へ
          ・松永久秀の孫:子孫継続
             
1623年 松永尺五 加賀前田家で儒を講じ越年する

1624年 松永孫四郎入道正斎
       ・筑紫国穂波村(現天道町)に「天道宮社」を建立
       ・地内は多田満仲の陣跡と伝えられる、
       ・近世の「天道町」は「太郎丸村」の枝村である

1625年 松永太郎右衛門 二代目徳川秀忠および将軍家の納戸役
       ・家紋:木瓜

1626年 内藤如安(ジョアン)マニラにて没
        ・73歳(1553-1626)

1626-7-23 安国院日講 
          ・松永貞徳の甥で松尾姓とも 
          ・京都南新在家に生まれる   ※日講聖人略年譜

1628年 松永尺五「春秋館」を設立
         ・長男寸雲が継ぐ





明正天皇女性(1629-1643)

1633年 松永尺五 来春まで「建仁寺」に入る
         ・一切経を通覧

1636年 「松永村」宮崎県日南市東郷=那珂郡(東弁分村の内)      
       ・松永村は幕府領に
       ・松永村から松永大字に

       



後光明天皇>(1643-1654)

1645年 海東山「天祥寺」臨済宗妙心派
       ・開祖:智照真済禅師
       ・住所:埼玉県行田市埼玉5209

1653年11月15日 松永貞徳 83歳歿(1571-1653)
             墓地:京都鳥羽の「実相寺」

1654年1月12日 加賀藩十村「松永郷」11ケ村 
             ・松永村あり、内壱ケ所駅埴生





後西天皇>(1654-1663)

1655年 「松永神社」 羽柴(豊臣)秀吉の播磨平定の時期か
         ・住所:兵庫県神埼郡福崎町八千草3114

1657年6月2日 松永尺五 従5位下 65歳歿(1592-1657)

1660 「福山藩」水野氏は本庄重政を責任者として干拓に着手
      ・1661 春から本庄重政は「松永村」を経始し、
      ・最初は本庄村と称したが沼隈郡新涯奉行を命じられて永住の屋舗を構えて
      ・「松寿永年に因み村名を松永と」命じ初めて今日の松永町が生まれる
      ・1662 「松永新涯」と銘銘 78町歩
                                  
      ・1660-1958年 沼隈郡「松永町」
             ・松永湾    

      ・1667年 福山市沼隈郡「松永村」製塩業を主とする

1993年 福山市芦品郡「松永山」
              ・新市町金丸小字山形  ※アポック社




    
霊元天皇>(1663-1687)

1661年 医師松永永三 石川県「加賀藩士」 儒者 300石

       ・松永貞徳―昌三―┌昌易(兄)
                │
                └永三(弟)の子孫
           
1667年 広島県「48浜の入浜塩田」を造成「製塩業」を主とする沼隈郡「松永村 」が誕生
      ・各地方の出身からなる
      ・入江、本郷、高須、神村、田島、広島、村上、山南氏等

1673-1681年 松永太郎右衛門 
          ・徳川幕府の江戸藩家臣 武家屋敷
                 ・東京都文京区本郷小石川

1682年 豊後国(大分県)別府市鶴見村の「実相寺」は「安楽寺の末寺」

1686年 松永権右衛門 西国の松永一族の血統と伝える。
       ・検地帳に
       ・本家で代々財を蓄積、近郷きつての豪農となり名主
       ・沼田藩(群馬県沼田市)のお金ご用達を勤め
       ・苗字帯刀をゆるされる
       ・「上久屋の山王」といわれた

       ・墓地に1391年の塔あり
       ・家紋:丸に抱き茗荷
       ・一族に弘前医大ほか教授を経て東京都立駒込病院院長の
        医博士の松永藤雄
       ・元、労働政務次官の松永正雄あり





東山天皇>(1687-1709)

1688年 日向国(宮崎市)日南市「松永井堰用水路」は飫肥藩主伊東祐実が設けた

1688-1704年 伊勢国桑名郡木曾崎村「松永新田」
         ・「松永邑」

1695年 松永宗伴 375石「佐賀藩」頼母組の組士
         ・元冠の備えに九州へ赴いた千葉嫡宗家 千葉頼母常輝ニ代当主
                         ※九州近代史料叢書

1698年 東京都神田 神田松永町

1700年頃 天野屋利兵衛 赤穂浪士を助けた人
          ・摂州大阪の平野町堀角屋敷に住み、大阪三郷の総年寄りで 
          ・代々浅野家へ御用を達し、特に内匠頭の代には御懇意にしてもらって
          ・度々播州へ下り大石内蔵助とはじっこんの間柄であった。
                 ・討ち入り後、松永士斎と改名して北野神社端光院の境内に庵をこしらえた
          ・1733-8-16 没

1701年3月14日 松永小八郎 徳川幕府の江戸藩家臣 神田住
               ・浅野内匠頭長矩が田村右京太夫邸で切腹を仰せ付かった時、
                同邸へ差し遣わされた検便一行のうちの徒目付

               ・1702-12-25 義士が「泉岳寺」へ引き上げた時、石川孫右衛門
                      市野新八郎と3人で同寺へ出向き赤穂浪士一同に
                      対し、大目付仙石伯耆守邸へ出向くよう申し渡した
                        ※赤穂義士伝 大石神社蔵版

1703年 松永仁右衛門 願誉了西 歿 愛智県名古屋市
                        ※宝周寺過去帳
      
1704年 松永氏 東京都千代田区 徳川幕府江戸藩家臣





中御門天皇>(1709-1735)

1714年 埼玉県北葛飾郡栗原 新義真言宗「宝蔵院」
                     ・庚申塔に「松永神社」荒井權右衛門の名あり

1715年 松永安左衛門良弼 江戸時代の数学者
       ・「はじめ寺内平八郎」、のち松永権平、安右衛門
       ・号:東岡、竜池、探玄子
       ・久留米藩を浪人し
       ・常盤平藩主内藤政樹に仕える 40俵五人扶持
       ・1744-8-1 没 50歳を過ぎたばかり
               ・1695年生まれ? 

       ・書物 @1715 解伏題交式斜乗之諺解
           A1716 朶畳招差之新術
           B1726 断連総術
           C1729 立円率
           D1732 宿曜算法諺解
           E1739 方円算経
 
       ・師弟関係:松永良弼―山路主住―松永貞辰

1729年 荘園「恒富保」領主:平清水八幡宮領
           ・恒富村の小名:松永

1730年 松永栄泉 御番医 山口県岩国市





桜町天皇>(1735-1747)

1742年 埼玉県比企郡「松永の荒川堤防」が決壊し、しばしば水害を被る
              ・「松永沼」となる






トップへ 戻り
次へ

ご感想はこちらまで