松永氏の県別、地名と人名(16)

角川日本地名大辞典、平凡社の日本歴史地名大系
世帯数は2007年版NTT電話帳による





 松永甚介長頼=内藤備前守宗勝 
      ・松永彈正久秀の弟

            ・内藤季継は足利尊氏より「桑田郡・船井郡」を授かり「八木城」を築城
         
      ・1548 丹波守護代の内藤国貞は三好方に款を通じていたが、
          丹波併呑を狙う三好長慶は政略結婚による懐柔を策し
          丹波方面軍司令官として近江口から松永長頼を召喚し、
          内藤国貞の娘に長頼をめあわせた。

          ・三好家臣として「八木城」丹波方面の軍政を担う。
 
          ・三好長慶は阿波細川家の家老

          ・守護代職を事実上継承して丹波一国に号令することになる

          ・松永長頼の支配領域は口郡から奥郡(何鹿・天田・氷上諸郡)に
           拡大し、その威令は丹後南辺にまで及んだ.   
                
      ・1549-7 三好長慶が将軍義輝を追放して入京したとき、
                   細川晴元政権が崩壊したのに伴い
           幕府料所であった「山科七郷」は三好方に没収され 
           細川氏網より「山科七郷」を松永長頼に允行ふ  
              ※醍醐理性院の巌助僧正の記録

           ・この記録によって、松永長頼は京都東方の要衝、
            山科・醍醐方面の下地支配を任され、近江に亡命中の
            将軍足利義輝方に対する司令官的地位に就いていたことが
            推定される。

        ・1549-10 長頼「天龍寺領」山城国乙訓郡「長井庄」下司職の
               請文を出している  
      
      ・1550-10 山城国小栗栖で甚介長頼・今村紀伊守慶満が違乱する

      ・1550-11-20 長頼が長慶の先鋒大将として近江へ攻め入り、
             大津に放火する 

      ・1551-1-20 細川氏網の武将松永長頼、今村慶満、
              「醍醐寺」理性院領、山城北小栗栖を押妨す  

      ・1551-2-7 三好筑前守長慶の家老松永甚介(長頼)、松永久秀とともに
            近江大津へ出陣、六角勢と戦う  

      ・1551-7-14 久秀と共に、摂津・河内・大和衆と共に細川春元の
             将三好正勝・香西元成らを京都「相国寺」に攻め破る

      ・1553-9-3 松永兄弟、大将にて丹州出陣云々、
                      ・波多野与兵衛(晴通)呼応した細川晴元残党の
            香西元成・三好政勝等が「八上城」を急襲し陥落し、
            久秀の甥の松永孫六を城将として居城させた

            
            ・内藤国貞は戦死した。  
           退却時に三好政勝らに落とされた「八木城」を長頼の
            軍略的才能が発揮され奪回して入城する

      ・丹波の守護細川勝元は「八木城」を修築し、
        守護代内藤氏(松永長頼)をして丹波の防衛を堅めさせた。        
                     
            ・松永長頼は内藤備前守の婿なりければ、
          この「八木城」に懸入、これ以後長頼が内藤氏を
          嗣ぎ「八木城主」となる

         ・甚介長頼はこれを機に「内藤備前守宗勝」と改める

      ・1555-1557頃 長頼は入道して「蓮雲宗勝」と号した

      ・1556-4 宇治橋の新造につき、長頼がこれを沙汰する

      ・1556-5 權中納言久我通興家臣竹内季治をして、御料所丹「山国庄」に
           入部に際し、松永長頼が警護のため随行する

      ・1556-5 長頼が宇津氏討伐のため丹波に入る

      ・1557-2-26 長頼、丹波「安国寺」(旧:光福寺)に禁制を掲ぐ
              
      ・1558-5-9 長頼・三好長逸らと共に足利義輝・細川晴元
               迎撃のため「吉城寺」・梅小路・七条「千乗寺」
               「六条中堂寺」に布陣する

      ・1558-5-19 長頼・三好長逸・伊勢貞幸らと一万五千の兵を
                率いて市中を打廻す

      ・1558-6-8 勝軍山を奪った足利義輝・晴元方に対抗し、
              長頼、三好長逸らと如意獄に上がる

      ・1558-6-9 長頼や摂津・丹波の兵と共に義輝・晴元の兵と
                  白川口で戦う 
                 
      ・1559-6-26 三好長慶は河内17箇所に陣していたのに合流して
             松永長頼等は中央部に進む

      ・1559-12-11 丹波「八木城」城将松永長頼、波多野次郎の
                同国「法光寺」山に於ける戦功を賞し
                所領を允行ふ

      ・1559-12-27 足利義輝、丹波「八木城」城将松永長頼の
                  犬を進むるを謝す

      ・1560-4-18 丹波松永長頼、久下左近助の帰参を賞し
                    之に本地を還付す

      ・1560-9 松永長頼 丹後「金剛心院」に禁制を掲ぐ
                ・軍勢狼藉停止なり
                          
      ・1560-10-10 「飯盛城」の後詰めに出陣した香西道印
             ・波多野右衛門・木沢慎太郎らが宇治周辺で
              放火するが、丹波から到着した長頼がこれを討つ

      ・1560-10-12 香西元成等、山城炭山に據り、河内安見直政を援く、
             松永長頼撃ちて、これを殺す

           ・1561-6-19 若狭守護代武田義統の父子争いが起こりそれに
             伴って一族、逸見昌経駿河守、粟屋勝久越中守
             らの反乱を誘発し、丹波松永長頼は逸見氏を支援
             若狭へ乱入して高浜の「砕導山城」へ立て籠もり
             攻防戦が繰り返された。

             ※武田宗勝(元光)の配下(粟屋勝久、逸見昌経、山形氏、
              松宮氏、香川氏、沼田氏、その他多数あり)

              
                                    砕導山城の麓に佐伎治神社あり
                  住所:福井県大飯市高浜町宮崎

           ・1562-4 松永長頼 山城「清涼寺」に禁制を掲ぐ 

       ・1563 上洛 

      ・1565 京都の「北野天満宮」の「松梅院」の禅興が 

          「丹州舟井郡」の代官職に松永長頼(蓮雲軒宗勝)を補任  
                                      
      ・1565-8-2 丹波「八木城」城主の松永長頼=内藤宗勝が「黒井城」に
             荻野(赤井)忠正を攻めるが逆襲に遭い戦死する
             主従700余人討ち死にという大被害を被った。
            ・松永氏の丹波支配は一挙に崩壊した。

              
                                   黒井城址            
                  住所:兵庫県氷上郡(丹波市)春日町黒井 

      ・1566-2-26 波多野晴通、丹波「八上城」を攻めて、之を復す
             是日、「八上城」守将松永孫六 摂津尼崎に移る
            ・被官となっていた難波氏も居城していたようだ。


      ※松永長頼宗勝書状
        ・1549-10-20 請負状 ※天龍寺文書
        ・1562-4 松永宗勝禁制 ※清涼寺文書

        ・室町中期-12-24 蓮雲宗勝(松永長頼) ※東寺百合文書
        ・室町後期-1-8 三好長縁・松永長頼連署状写 ※京都上京文書
              ・室町後期-3-26 ※大徳寺文書 
                   宛先:大徳寺侍者禅師御中
                   人名:三好長慶/松永久秀
                   件名:樽代/鳥目/拝領/使僧

        ・室町後期-3-28 ※大徳寺文書
                   宛先:安勝軒侍者禅師
                   件名:折紙之儀
                   人名:多羅尾左近太夫(綱知)




    ※当時の「八木城」城主内藤備前守国貞は本梅郷の戦いで討死し、
             国貞の子:千勝丸は湯浅宗貞が助けて持ちこたえていた
             松永長頼が「八木城」に引き返し奮戦の末、八木城を維持した

    八木城主 内藤備前守国貞ー千勝丸
                 ・遺児として松永長頼は後見人となる
       
    内藤備前守定房の娘(近江浅井家・細川両家へ嫁いだあと、長頼と再婚)
        ‖
        ‖   ┌内藤飛騨守忠俊=内藤ジョアン(如安) 
        ‖―――│               
        ‖   └ジュリア(妹)秀吉の北政所おねに仕えた
        ‖           ・61歳マニラにて歿
        ‖
      松永長頼
        ‖       
        ‖    ┌次男 佐馬進 1571-8-4 討死
        ‖    │
        ‖────├三男 孫四郎 1571-8-4 討死
        ‖    │
        ‖    |    女      六条河原で
        ?    |    ‖   質子 信長に処刑される
             |    ‖―男 1576-10-5 生害(12〜13才)
             |    ‖
             └長男 金吾長直 1576-5-3 相果つ(死去)

                 −金吾の若衆 松永久三郎 1571-8-4 討ち死に

            ※織田軍と本願寺が攝津天王寺で激戦
                 この時、久秀と久通は原田氏の与力として
                 参戦している。 

            ※戦国大名系譜人名辞典西国編 新人物往来社の
                    ※松永氏系図 朝倉弘作製より                

              
  内藤ジョアン=如安(キシシタン)=内藤飛騨守忠俊
           ・幼名:五郎丸
           ・父:八木城主内藤法雲宗勝=松永長頼丹波守
           ・母:内藤備前守定房の娘
              ・内藤備前守国貞の遺児千勝丸を城主にと国貞の
               兄弟(僧達)により殺害される。
            
        ・1565 京都「南蛮寺」において宣教師ルイ・フロスイより
            ジョアンの洗礼名を授かる

        ・将軍足利義昭に仕え織田信長との戦いで頭に兜に十字架と
         IHSの文字を施し2千人の将兵を率いて二条城へ出陣

        ・1593-6 小西行長に従い随員35名を連れて明国との和平交渉をする。

                ・豊臣秀吉は和戦両様だが加藤清正は侵略行動を支持のため
         キリシタンを迫害する。

        ・1600-7 熊本県「宇土城」城主小西行長
             小西行長X豊臣秀吉の戦いの時、老獪な内藤如安
             (松永長頼の子)等は城を守った

              
                                   宇土城の本丸跡の石垣
                  住所:熊本県宇土市古城町

        ・徳川家康のキリシタン弾圧で国外追放、

        ・高山右近夫妻と如安、妹のジュリアはマニラに

        ・如安はマニラで追放キリシタンのリーダーとして活躍

        ・信者達の尊敬を一身に集める。

        ・外国語の医書や教義書の翻訳に従事してつつましい信仰生活をおくる

        ・妻や妹のジュリアや子供たちと多くの現地の宣教師や修道院の
         衆人達に見守られながら、眠るが如くに安らかな生涯を終えたと

        ・1626 73歳(1553-1626)マニラで生涯を終える

        ・八木町は内藤ジョアンの眠る墓地のマニラ市と姉妹都市提携で
         種々の交流を深めている。

            
                         内藤ジョアン顕彰碑


 内藤ジュリア 
        ・父:松永長頼丹波守
               ・秀吉の北政所おねに仕えた
        ・秀吉の側室加賀殿(入信)の妹、豪姫をキリシタンに導いた 
        ・妹に続いて加賀殿も入信した
              
        ・ジュリアは日本で最初の女子修道院を京都に作る
              ※醍醐寺の謎 楠戸義昭 祥伝社
           
    
 松永久通
            ・父:松永彈正久秀
       ・母:刑部卿春子(三好義継の乳母)
              一宮成助の娘
            
        久通──┌春松 14歳 1576-10-5 六条河原にて織田信長に
            │      処刑された(久秀の子説もある)
            │
            ├久光(阿波へ)─久吉 「政所」庄屋役
            │        ・中村から犬墓村へ
            │
            |
            └ 一丸=彦兵衛(筑前博多へ乳母と共に逃れる)
               ・民間に隠れ住んで質屋を開業
               ・八代目の末裔が松永花遁宗助
                ※「筑前博多」の松永花遁宗助家に関する記録

            ・1560-10-15 久通、河内「観心寺」に禁制を掲ぐ 

                  ・1562-8-2 「多聞山城」で棟上が行われる
                 ・嫡子:松永久通を入れた

           ・1563-1-22 父と共に「多武峰」へ出陣する

           ・1563-12-1 従五位下・右衛門佐に叙任される

                          ※右衛門は別名で金吾と言う

           ・1563-12-14 久秀より家督を継ぐ

           ・1563-12-21 将軍家に対し家督相続を許された御礼
                  言上のため上洛する

           ・1565-5-19 久通・三好義継らが将軍義輝を殺害

           ・1565-5-23 久通・三好義継らが「一乗院」を破壊し放火する

           ・1565-6-5 三好義重(義継)、久通の請に依り、
                 前中納言高辻長雄、少納言東坊城盛長を
                 勅免あらせられる

           ・1566-2-24 久通が「筒井城」兵糧を入れる、
                  ・その際筒井順慶と合戦あり
                   打死少々と多くの負傷者を出す

           ・1566-2-29 久通が「筒井城」へ出陣、兵の入れ替えを行う

           ・1566-3-15 久通が「今市城」破却に出陣する

           ・1567-11-27 父と連盟で春日社山内「興福寺」へ三箇条の
                  禁制を下す

           ・1568-6-24 近江山中蔵人、三好三人衆に党し、河内三屋に
                  出陣す、久通撃ちて、之を斬る

                      ・1568-9 三好義継、久通、禁制を山城「大山崎」に掲ぐ

           ・1568-10-6 久通が筒井郷へ攻め寄せ、城際まで焼く
                  筒井順慶は堅固に籠城する

           ・1568-10-8 久通が「筒井城」を再び奪回する
                  筒井氏は夕刻に城を脱出する

           ・1568-11-9 久通が秋山衆を先手に、十市衆を大西城に
                  攻め落とす

           ・1569-4-8 久通・三好義継・畠山高政らと共に
                 「片岡城」攻めに出陣する

           ・1569-4-16 「片岡城」が落城する

           ・1569-4-18 父子で「万歳城」を攻める

           ・1569-5-10 父子で「貝吹城」を攻めるが自軍に損害を出す

           ・1569-5-16 父と共に井戸表へ陣替えする

           ・1569-5-18 父と共に御所の「一向宗道場」を破却する

           ・1570-2-24 久通・竹内秀勝が信長の在京中に出仕すべく
                  近江へ出迎えに行く

           ・1570-5-23 父と共に「春日社」に詣でる、大神楽などが
                  催される

           ・1570-6-6 父子で大和井戸に陣し「十市城」を攻めんと
                 とて果たせず、転じて「福住城」を攻める
                 郡山を侵して之を火く 
             
           ・1570-6-26 父と共に郡山から「多聞山城」に戻る

           ・1570-7-25 三好三人衆が河内に侵入とのことで
                  父と共に急遽「信貴山城」に移り、
                  河内に入る

           ・1571-5-6 久通・竹内秀勝が「多聞山城」より出陣する

           ・1571-5-12 父と共に安見右近攻撃に河内交野へ出陣する

           ・1571-5-27 父と共に河内交野より「多聞山城」へ戻る

           ・1571-5-30 父と共に信長に対して出陣する

           ・1571-7-3 「藤井寺」から「法隆寺」辺りへ兵を引く、
                 久通は「多聞山城」へ帰城する

           ・1572-4-29 久通の兵、筒井順慶の兵と、大和「大安寺」に戦う

           ・1572-3-12 久通の臣、渡辺出雲守夫妻、薙髪して高野山に
                  赴く、久通、人を遣わし、之を大和番条に捕ふ

           ・1572-4-29 久通の兵、筒井順慶の兵と大和「大安寺」に
                  戦う
           
           ・1572  「興福寺」大乗院領大和小五月郷民、松永久秀に
                懲りて、小五月銭の賦課を軽減せんと、
                「大乗院門跡」尋憲と争うに依り、久通、郷民を督責して
                之を「大乗院」に納める

           ・1572-11-19 大和「志貴山城」城主久秀、兵を大和片岡に出し
                  その付近を火く、久通も亦、兵を出して
                  同国今市を火く

                     ・1573-2-23 大和「筒井城」の筒井順慶「春日社」に
                  参詣す、順慶の兵、久通の兵と闘う

           ・1573-5-16 大和「多聞山城」の久通、筒井順慶の奈良三条口
                  を侵すを聞ききて兵を出す

           ・1573-8-1「興福寺」久通に贈遺す

           ・1573-12-26 久秀、久通父子、織田信長に降り、
                  大和「多聞山城」を致す
                  久通、岐阜に到り、信長に謁す

           ・1575-3 原田直政が大和守護となってからも、4月には
                「十市郷」の三分の一が松永氏(名目は久通)に
                                原田氏と十市の後家に分かられた。
                               
           ・1575-7-18 久通十市遠勝の娘御なへと再婚して
                 「竜王山城」(天理市)へ移る

                    ・「多聞山城」に在番して大和を管理していた
                      原田備中守直政の反対を押切り祝言をあげた
                    ※原田(塙)氏:信長の家臣
                       ・久通は原田氏の与力
                 
           ・1575-11-13 久通、十市遠長を大和「十市城」に攻める
                          
           ・1575-12-28 大和国「楊本城」=「柳本城」を落とす

            ・1576-1-8 妻の御なへと共に「楊本城」にて多門院英俊の
                 来訪を受ける
     
           ・1576-2-10「興福寺」薪猿楽を見る
                 久通、原田直政、筒井順慶とともに
                  
           ・1576-2-26 久通、大和「森屋城」を攻略す

           ・1576-3-5 久通、松永金吾長直とともに「十市平城」
                 を攻める

                                 ※松永金吾長直(松永長頼の長男)

           ・1576-3-25 久通、銀百枚を奈良五大院の被官に課す

           ・1576-5-3 織田軍と「本願寺」衆徒が攝津「天王寺」で激戦
                ・原田直政が戦死する
                    ・直政軍の中に松永久通の名もある
                    ・松永久秀も参戦している
                   ・松永金吾長直相果てる(死去)もある

           ・1577-8-17 久秀、久通父子、織田信長に背き、
                  摂津「天王寺」の砦を去りて、大和「信貴山城」へ

           ・1577-10-1 金吾 楊本衆より「楊本城」殺害される
                  ※金吾:久通金吾の可能性大なり

                                 
                                         柳本城=揚本城の城跡
                     黒塚古墳の上
                     住所:天理市柳本町

            ・1577-10-4 久通の子 12歳、14歳の織田信長の人質は
                 矢部家定、福富秀勝により近江国安土より
                 連行された、との説もある。

           ・157710-10 久通、父の久秀と「信貴山城」で自刃説もあり
                          
           ・松永久通の墓
             ・「本国寺総墓地」下京区猪熊通松原下ル西側
               ・このあたりに久秀の邸地があり死後、
                 「本国寺」に寄進したのが縁
               
               ・松永久秀 戒名:妙久寺殿祐雪大居士
               ・松永久通(長男)戒名:高岳院久通居士
               ・松永秀次(次男)戒名:法賢院宗秀居士
               
               ・松永昌易(貞徳の長男)戒名:寸雲軒昌易居士
                ・ 松永昌三(貞徳の三男)戒名:尺五堂恭倹居士
               ・松永永三(昌三の子)戒名:尺信軒永三

           ・「本国寺」境内東部に「人麿社」がある
            ・紀貫之が歌聖人麻呂を祭ったもので、
            ・「本国寺」より古い社殿が洪水で流れ
            ・藤原俊成が神殿を再興「本国寺」創立にあたって、
            ・足利尊氏が社を再造「観柳亭」と名づけた。


    ※松永久通の書状
      ・1560-5-11 礼銭請取状 ※興正寺文書
      ・1560-6-7 料足請負取状 ※興正寺文書
      ・1564頃 宛先:東寺年預 ※東寺百合文書
      ・1565-4-29 書下 ※浄福寺文書

      ・室町時代-9-29 ※斉藤献氏所蔵文書
      ・室町後期-1-6 ※石上神宮文書 
      ・室町後期2-10 喜多重政書状 松永久通あて ※大徳寺文書
      ・室町後期-2-15 東寺年預宛 ※東寺百合文書 青堂20疋
      ・室町後期5-22 足利義昭書状 松永久通右衛門佐宛 ※円満院文書
      ・室町後期12-20 ※石上神宮文書

      ・年未詳-2-16 ※木村文書
      ・年未詳-12-7 ※木村文書
      ・年未詳 ※興正寺文書
    
    ※松永与三右衛門尉某書状 ※雨森善四郎氏所蔵文書

        ※松永氏が関係する古文書
      ・年代未詳-9 上醍醐寺申状案(端裏書)「案文、下酉酉損免事」
              ※醍醐寺文書
      ・年代未詳-10-29 上醍醐寺為御見舞書状並御樽代三十疋被参候
                ※醍醐寺文書
      ・年代未詳-11-16 四手井左衛門尉書状案 上醍醐寺被申分、
               地子・年貢損免  ※醍醐寺文書
            ・1440-8-2 松永算用状進之、同過上分之事・・※醍醐寺文書

      ・明応(1492-1501)書状「三宝院殿・・・ ※醍醐寺文書
      ・年代未詳-2-19 醍醐「惣庄」申状案 醍醐百姓言上 ※醍醐寺文書
      ・1558-9-1 醍醐「惣庄」申状案 醍醐百姓言上 ※醍醐寺文書

      ・1558-9 上醍醐寺申状案 「手日記の案・・ ※醍醐寺文書
      ・1558-10 可然様松永殿へ御申奉良頼存候 ※醍醐寺文書
      ・1561 上醍醐寺申状案 ※醍醐寺文書
      ・1563-12-3 松永帰城候由申候 ※醍醐寺文書
     
      
      ・1560-2 ※金剛寺文書
      ・1560-9 ※観心寺文書
      ・1560-10-15 ※観心寺文書
      ・1561-7 大徳寺諸塔  ※大徳寺文書   


 松永金吾長直
       ・父:松永長頼の長男
       ・母:不明
      
     ・1576-3 久通、金吾とともに「十市平城」を攻撃す

     ・1576-5-3 松永金吾長直 相果てる(死去)
           ・織田軍と「石山本願寺」が摂津「天王寺」で激戦の時
            原田直政も戦死している

                            
                            大阪の四天王寺の近辺の天王寺で


     ・1576-10-5 金吾長直の一子 男(12〜13才)
            織田信長の質子となっていたが、松永久秀の子、又は 
            松永久通の子春松と一緒に六条河原で処刑された。

      
 竹内秀勝=松永秀勝   
        ・祖父:竹内季治 下総守 正3位 久我家の諸太夫
                ・竹内氏は領主でもある
                                ・「竹内城」奈良県北葛城郡当麻町竹内
                               ・松永久秀の部将
                ・1571-9-18 織田信長に近江の永原で処刑された

           後南朝 小倉宮良泰親王
                ‖――○―――越中宮惟治王(竹内惟治)
               ┌二女                                │
          竹内季治―└竹内長治 刑部卿
                ‖――――竹内秀勝
             母:松永久秀の娘
                法華信仰の関係から
  
    ・1565-10-8「多聞山城」より竹内秀勝を差し向けられる
          ・丹波の波多野・須智・柳本氏らが荻野直正方に寝返り
           山城長坂口に出陣のため

    ・1565-10-11 京から大和へ戻り、釜口に布陣する

    ・1565-10-18 帰陣するが、夜にまた京都へ向けて出陣する

    ・1570-2-24 松永久満とともに織田信長の在京中に出仕すべく近江へ
           出迎えに行く

    ・1570-5-12 松永久秀とともに大和へ戻る

    ・1570-8-22 天王寺と遠理小野の境に陣取った三好三人衆勢一万に
           対峙して松永久秀は河内高安に
          ・秀勝は大窪に陣取る

    ・1570-8-23 秀勝が引き返して筒井衆と戦う「高樋城」まで追い込む
           中坊衆に少々負傷者が出る

    ・1570-9-8 三好義継とともに「海老江城」を落とし、野田に迫る

    ・1571-2-8 秀勝が美濃から戻る

    ・1571-3-5 松永久秀の将、竹内秀勝、大和「柳本城」を攻める

    ・1571-5-6 松永久通とともに「多聞山城」より出陣する

    ・1571-6-14 松永久秀、竹内秀勝の質子を収む

    ・2571-8-4「辰市城」へ攻めかかるが大敗する、多数の討死衆を出して
         「多聞山城」へ逃れる (辰市の戦い)

    ・1571-9-18 竹内季治(秀勝の父)が織田信長に永原で処刑された

    ・1571-9-22 竹内秀勝が河内「若江城」にて没す

    ※松永秀勝書状=(竹内秀勝)
         ・室町後期-5-12 信貴在城衆秀勝書状 ※法隆寺文書
         ・室町後期-5-13 ※法隆寺文書




 三好義継 官位:左京太夫
     ・父:十河一存 讃岐の十河に居住
        養父:三好長慶 河内国「高屋庄」に居住

          ・居住:1551頃より河内国「河江庄」に

     ・乳母:一宮成助の娘=刑部卿春子
         ・松永久通の母
         ※一宮長門守成助は三好長春の臣だが、長春に背く

     ・妻:左京太夫局(将軍足利義晴の室 慶寿院の娘)
              関白太政大臣近衛尚通の孫

     十河一存─養父:三好長慶
      ‖
      ‖───義継(三好義継)
      母    ‖─────三好長元
          左京太夫局

         ・1563-8-25 三好義興(22歳)が摂津「芥川城」で病没 
          ・三好長慶は養子重存(のち義継)を家督に据える 

     ・1564-7-4 三好重存(義継)が松永久通・三好長逸はじめ広橋国光らの
           公卿を含めて4000人を従え、将軍家に対し、
           家督相続を許された御礼言上のため上洛する。 

        ・1564-7-4 三好長慶が「飯盛城」で没す 享年43歳
           重存が跡を嗣ぐ

     ・1565-5-19 三好義継・松永久通らが将軍足利義輝を殺害

     ・1565-5-23 三好義継。松永久通ら「一乗寺」を破壊し放火する

      ・1565-6-5 三好義継 松永久通の請に依り、前權中納言高辻長雅
           少納言東坊城盛長を勅免あらせらる

     ・1565-11-15 三好三人衆が義継を擁して「飯盛城」を攻略
            松永久秀と関係を絶つ

     ・1566-5-30 三好義継等、松永久秀を和泉堺に攻める、久秀出奔す

     ・1566-8-2 三好義継の党、池田勝正、松永久秀の党、伊丹親興の
           領内を火く

     ・1566-8-17 三好義継の武将安宅信康等、松永久秀の属城攝津「瀧山城」を
            攻め、之を降ろす

     ・1567-2-16 三好義継、三好三人衆と隙が生じ、和泉堺に赴き
            松永久秀に頼る

     ・1567-4-6 松永久秀、三好義継を擁して、和泉堺より、大和「信貴山城」に
           入る

     ・1567-4-11 松永久秀、三好義継を擁して大和「信貴山城」より
           「多聞山城」へ入る

     ・1567-11-27 松永久秀・久通の連名で春日社山内「興福寺」へ
            三箇条の禁制を下す
            ・三好義継からも同文書の札あり

     ・1568-9 三好義継、松永久通、禁制を山城「大山崎」に掲ぐ

     ・1568-9-28 上洛した織田信長に人質として広橋氏の娘を差し出す

     ・1569-4-8 義継・松永久通。畠山高政らとともに「片岡城」攻めに
           出陣する

     ・1570-9-8 竹内秀勝とともに「海老江城」を落とし、野田に迫る

     ・1570-9-25 三好義継、松永久秀等は大和「信貴山城」に陣し、
            三好長逸等三人衆及び「本願寺」衆徒に対す

     ・1571-7-15 松永久秀とともに義継は摂津「高槻城」を攻めんとし
            信長方の和田惟政攻めに摂津芥川へ出陣すべく画策する

     ・1571-8-4「辰市城」へ松永勢は義継勢とともに攻めるが大敗、
           多数の討死衆を出し「多聞山城」へ逃れる
           (辰市の戦い)

     ・1571-10-15 松永久秀、三好義継、山城木津を攻める
            三好康長等之に応じる

     ・1572-4-16 三好義継、松永久秀等、畠山昭高の将、安見新七郎を
            河内「交野城」に攻める、織田信長、柴田勝家、佐久間信盛等
            を遣わし「交野城」を救はしむ

     ・1573-7-20 足利義昭が河内津田を経て「若江城」の三好義継の
            もとへ身を移す

     ・1572-8 三好義継、山城「妙心寺」に禁制を掲ぐ

     ・1573-3-6 足利義昭、三好義継及び松永久秀を赦し、之と盟ふ
          

     ・1573-11-10 織田信長が河内「若江城」に佐久間信盛を差し向け
            三好義継を攻める
            ・佐久間軍記には松永久秀・筒井順慶先陣若江城を攻むとあり

     ・1573-11-16 三好義継が家老の「若江城」三人衆の裏切りに遭い
            「若江城」で妻子ともに自害
            ・義継は切腹、介錯は近習の侍、遊佐興傅
            ・三好嫡流家崩壊。

                          
                                  若江城址の碑
                 竹内秀勝も戦場の負傷で病死している
                 住所:東大阪市若江南町

               

   松永憲二氏所有文書
     年月日     文書名     人名/位置書
   @1000-12-13 造東大寺返抄案 東大寺 某  匂当威儀師(花押)
   A1000-12-13 造東大寺返抄案 東大寺 某  専当(花押)
   B1000-12-13 造東大寺返抄案 東大寺 某  少別当威儀師(花押)
   C1000-12-13 造東大寺返抄案 東大寺 雅慶 別当大僧都(花押)
   D1028-11   東大寺返抄案  東大寺 深観 別当僧都(花押)
   E1039-11-1  東大寺返抄案  東大寺 深観 別当僧都(花押)
   F1040-11   東大寺返抄案  東大寺 鴻助 別当法橋上人位(花押)
   G1043-11-5  左馬允藤原実遠解 左馬允 藤原実遠(花押)
      H1054-2-23  官宣旨     中弁 平定親朝臣(花押)
   I1054-2-23  官宣旨     大史 小槻孝信宿禰(花押)
    J1081-5-6  官宣旨     中弁 源師賢朝臣(花押)
   K1081-5-6  官宣旨     大史 小槻祐俊宿禰(花押)
   L1107-11-20 大法師某家地山畠允文  某  大法師(花押)
   M1123-12 伊賀国符丹勘 伊賀国目代 散位 中原朝臣(花押)
   N1123-12   伊賀国符証判     散位 源某(花押)
   O1123-12   伊賀国符証判     源某(花押) 
   P1123-12   伊賀国符証判     某 平朝臣
   Q1155-12-29  僧雅海家地直米請取状 雅海 僧(花押)
   R1155-12   僧雅海家売券     雅海 僧(花押)
   S1163-2-1   僧林俊家地譲状    林俊 僧(花押)
      21 1172-3-7  惟宗近綱田地売券直米請取注記 惟宗近綱(花押)
   22 1172-3-7 惟宗近綱田地売り券   売人 惟宗近綱(花押)
   23 1173-4-1 平姉子家地売券     某 僧(花押)


       
    
 
 

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