空海を支えた柿本紀真済僧正





柿本紀僧正真済は空海の高弟で、今日の空海を支えた人です。
文徳天皇が次期天皇に第一皇子、紀の一族の惟高親王を望みましたが,
太政大臣 藤原良房は幼少の清和天皇を強引に擁立して、
真済が擁立した惟高親王が敗れ,  
後年 「応天門の変」で大伴氏と供に紀氏は政治的に滅ぼされます。
悲劇の紀の一族です。
800年 真済 (800-860) ・京都左京の紀氏に生まれ、武内宿禰20世の孫 ・父は巡察弾正大粥 正6位上紀御園(祖父:紀田長 正5位下) ・幼年句讀を勤め世興に詳しく且、詩賦に巧みなり ・幼少から儒典を学び、空海の門に入って特に密教を学ぶ ・真言宗発例の僧正にして、高雄僧正、紀僧正、 ・今字号:柿本紀僧正と通称された  ・号:神護寺、実相寺僧正 815年 空海の弟子になる 000年「金峯山寺」修験本宗総本山      ・開基:(伝)役小角 7世紀後半       ・住所:奈良県吉野郡吉野町吉野山      ・僧呂帰伏条に空海を筆等に真雅、真済、真然、益信、聖宝、護命       良弁、善珠、勤操、円珍、増命、日蔵、良源、相応、浄蔵、源信       など27名の記載がある。            ※「金峯山寺創草記」鎌倉時代末期の成立             金峯山寺 820年 空海は大安寺の幹海と真済を携えて関東に遊び、伊豆桂谷に行き、      下野の補陀洛山に登り、四本龍寺に寓し、山名を更めて日光山と号す。      師は亦、別に寺を湖北の鉢山に建て法華山「蜜巌寺」と言う 820年7月6日 空海47歳、弟子真済、大安寺の幹空を従え東国教化巡錫、      ・旧知の友「徳一大師」の誘引により神奈川県大山寺第三世となる。      ・山頂「阿夫利神社」を石尊大権現と名付ける 823年「地福寺」真言宗「醍醐寺派」         ・本尊:薬師如来         ・嵯峨天皇の時、真済は洛西「安井村」に創立         ・1727 中興:道空和尚が現在地に移した         ・住所:上京区七本松通出水下る七番地356                         地福寺 旧:安井村(現:太秦)この地に地福寺・実相寺を建立 824年 空海から両部灌頂を受ける、伝法阿闍梨となる ・真済25歳で人々は感嘆した      ・入當護山高尾峰、不出12年 嵯峨太上天皇憫其苦行 000年「下出雲寺」下御霊神社の「神宮寺」          ・建立:出雲司成季          ・真済が此処で読経をしている  ※上京区史跡          ・応仁の乱で焼失          ・跡地:京都上京区              下出雲寺跡     824−834年 第8巻 対治疫鬼              ・藤原良房郷の家中に大疫おこる              ・大師 真済に五鈷と念珠を持たせて派遣す        826年11月3日「高雄山寺」で、空海から秘印を伝授された 830年11月15日〜832年3月 曼荼羅次第・諸法儀軌の秘要は、のちに                   「高雄口訣」としてまとめられた 832年 空海が高野山に隠棲したとき「高雄山」を付嘱された 834年11月15日 真済「宮中真言院」を監す 835年3月21日 空海入定 63歳           ・遺体は庵室から奥院に移された。実恵、真雅、真如、            真済、真紹、真然らの高弟が御輿を担いだ 835年 山城国高尾山「神護寺」の真済が勅命により関東諸国に      「一切経」を納めた     ・上野国(富岡市)については「貫前神社」宮司に適地を選定させた            835年「祝融山高尾寺」地名を高尾山として          ・真済は当地に一堂を建て一切経を収めた          ・1193「長学寺」に改めた。          ・1369 甘楽郡内の藤原氏が曹洞宗高祖道元禅師の法孫、              通海良義(了儀)を招いて開山第1世とした          ・1558-1570 小幡「宝積寺」九世儀山沅考が再興した          ・住所:群馬県富岡市上高尾の崇台山の麓           長学寺 835年 真済は空海の詩文集「遍照発揮性霊集」を編纂      ・「空海僧都伝」を撰述      ・真済の「空海僧都伝]に阿波の大瀧嶽で修念していると 虚空蔵菩薩の大剣が飛来したという不可思議な描写がある      ・冒頭に「遍照発揮性霊集序 西山禅念沙門真済撰集」とある             ※西山は山城国神護寺を指す      ・真済の序文      「弟子久しく清塵を濁って恭しく下風に到。鐘籟あい響いて、新たに       扣くこと旧ぎがごとし。年深く執事して、いまだその浅きを見ず」     翻訳:私、真済は若い時から清らかな世界にあこがれて空海上人の        お弟子に加わりましたが、師は、ちょうどつり鐘と笛とが        強弱の音色でひびき合うように、弟子に応じてさまざまに        教えて下さり、またどのような新参の弟子にも旧知の友人の        ように親しく教えて下さいました。私は師に長い年月、        おつかえしましたが、師が浅薄な言行をされたことは一度も        ありませんでした 836年7月29日 真済 遺唐使の「学問僧」として朝命で真然と共に              入随の途中で海上遭難をして果たせず。         ・8月20日台風の為に不幸にして失敗し萬死のうち一生を           得て都に帰る事が出来た。130人中、真済、真然、           船頭の三人のみ助かり帰郷して高雄に住す           ・遺唐使:・藤原常嗣(大使)                ・小野篁(副使)                ・長岑高名(判官)                ・菅原善主(判官)                ・藤原豊並(判官)          ・人数:651人          ・船数:4船(真済の第三船のみ遭難)          ・航路:南路          ・随伴者:円行・常暁・戒明・義澄          ・学問僧・留学生:円行・常暁・戒明・義澄・円仁・惟正                   真済・真然・仁好・惟暁・円載・丁雄満                   伴始満・春苑玉成・菅原梶成            「遺使聘唐 真済奉朝命 遺使渡海 途中漂蕩 船舶破裂 真済纔駕一筏   凡在海上23日 其同乗者40余人 皆悉く餓死 所活者真済と弟子真然   二人なり 真済唯仏是念 自然不餓飢 如来の冥護之所致哉 毎夜有光   恠而尋之 得著岸 皮膚腐欄 尸居不動 島人憐愍 収納而療養 遂得帰朝」                      続日本後紀第五 837年7月 嵯峨天皇の皇子源鎮「神護寺」において真済が落髪した        ・白雲と称した 839年 真済の指揮により東寺講堂諸仏の開眼供養 000年 真済は僧ですが朝臣を賜ります 839年1月7日  紀朝臣松永 従5位下 (仁明天皇時代) 839年1月11日 紀朝臣松永 従5位下 若狭守 845年まで                 ※若狭国に在住の跡はなし                ・真済僧正は官吏を兼務していた時には俗姓の紀朝臣松永を名乗る。        ・俗名が松永姓の僧も官吏を兼任している古文書がある。       ※真済=紀朝臣松永と明記された古文書はない。       ・データーの編纂を通じて同一人物と推定です。               ・真済僧正と紀朝臣松永が同一人物となす証拠は        ・ 京都「東寺」の若狭国東寺領「太良荘」からも伺える                   840年1月6日 内供奉十禅師 840年 「実相寺」 山城「葛野郡」に建立      ・紀氏の「香華院」または「香火院」として(紀家集)      ・真済僧正 實相寺買得券文包紙 東寺百合文書 な函295            ・その地は文徳天皇の施入之      ・873-3-5「広隆寺」縁起資材帳にも記載され、真済建立と            紀納言(紀長谷雄)等一類比の寺也      ・873-3-5以降 広隆寺資材交替実録帳には記載なし      ・889-898 東寺の「実相寺」して計都星形像供法を修せしむとある      ・1216-5-14 村上天皇のため御息災の仁王経を請ぜしむ      ・1222-1224 荒廃していた「実相寺」を東寺僧正行遍が再興する             真済僧正画 840年 律師真済42歳、二長者 加任初 實相寺根本(東寺私用集) 840年12月5日 真済 神護寺 別当に       ・真済僧正の鎌倉時代の絵像あり=重文        ・鎌倉時代初期、文覚が神護寺を復興した時の製作と思われる        ※「神護寺」は真言宗東寺の別格本山       ※1185年 僧文覚起請文「真済僧正等御門跡之僧徒相継居住」            神護寺            真済僧正画像 841年11月9日 東寺権律師 ニの長者初也 元内供 842年 真済「高雄口訣」を編集 843年11月27日「東大寺」伝燈大法師 846年2月29日 紀朝臣松永 従5位下 主計頭 847年2月10日まで ※主計頭:雑物(調以外の諸税)を計算し国家予算の        歳入歳出&予算、決算のことを司る         ↓ 846年4月 東寺は伝法会を開いて綜芸種智院(空海が開いた学校)を枯却して        ・丹波国「大山荘」を買得した        ・真済が担当した 847年4月23日 正律師 東寺一の長者     847年11月9日 東寺の寺務を司る(文徳上皇の徳寵による) 849年 真済 実慧から恵果の仏舎利を相承 850年1月9日 律師伝燈大法師位 僧霊鎮位記 園城寺文書 851年 真済 「神護寺」の伽藍の整備を開始 851年「国分寺薬師堂」=東根国分寺 真言宗            ・真済が中興開山「医王山薬師寺」に改称            ・1678 山形城主の松平忠弘が修復            ・所在地:山形県東根市大字東根          薬師堂            薬師如来の由来           852年2月15日 紀朝臣松永 中務省少輔  852年2月27日まで ※:中務少輔:天皇の詔勅の宣下や事務などを 中務卿がすることを補佐する   ・真済僧正は文徳天皇に寵愛されていたと古文書にある。 852年2月28日 紀朝臣松永 従5位下 丹後守  853年7月17日 真済 東寺長者律師 任少僧都 854年から857年の間 表請 高尾神護寺の五重の宝塔を建立       ・「五大虚空蔵菩薩」を安置し僧七口を置き春秋二季に        鎮護国家のために虚空蔵経十輪経転讀の大法会を設け、        虚空蔵十輪等の経を転讀し国家の鎮護せんことを永式とし、        ここに至りて年度を置けり       ・造大盧空蔵十輪塔経 鎮護国家          左から(国宝)             @金剛虚空蔵菩薩 西南黄色             A蓮華虚空蔵菩薩 西北赤色             B法界虚空蔵菩薩 中央白色             C業用虚空蔵菩薩 東北黒色             D宝光虚空蔵菩薩 東南緑青                               ※五大虚空蔵菩薩は日本美術史上に真済の名を不朽に留めている 854年1月7日 紀朝臣松永 従5位上 854年3月21日 東寺少僧都 蜜徒之始也 854年6月7日 紀真貞宿禰 外従8位上 は新田、家屋、畑地、          計5町3段余を真済に売却している 854年10月29日 東寺長者 権大僧都 権大僧都初也 856年 真済 在田郡「吉備郷」真済大徳売得田券「一所一町 、野村に在り、         四至、東は「栗栖」畠に至り、南は紀臣波白の地に 至り、西は古垣、並びに栗栖林、北は野田大溝に至る」と又「畠一町、         吉備郷「小嶋村」に至り、四至、東は於比寺地、南は神奴知嶋地に至り、         西は紀朝臣並倉地に至る、北は大河に至る」とある  000年「善福寺」真言宗 御室派   ・本尊:十一面観音        ・中興開山:真済僧正        ・弘法大師作と伝わる十一面観音の手が損失したのを、          真済が手を作り、作手の郷と改められた。          ・後年に俊重坊重源が在住したと伝えられる。        ・住所:愛知県新庄市作手清岳中ノ坊29            (旧:南設楽郡)                     善福寺     観音堂 856念10月18日 東寺長者 僧正 真言宗僧正初也 856年10月27日 文徳天皇贈る大僧正、真済辞退 857年6月7日 僧正真済 東大寺僧綱牒  857年10月17日 真済僧正は朝廷に上表して、先師空海の高徳に対する賞の            少ないことを嘆き、みずからの僧正の官を、            大師に追贈されるべく願い出た 857年10月27日 天皇は感激して、真済には元のとおりの僧正に叙し、            ・大師には大僧正の官を追贈された 858年 「影現寺」真言宗          ・本尊:十一面観音立像         ・「柿本神社」の「神宮寺」=「別当寺」として建立          ・「真済僧正坐像」影現寺に安置されている          ・旧笛吹神社蔵の大般若経600巻(現:光現寺蔵)         ・住所:奈良県北葛城郡新庄町大字柿本        影現寺      真済僧正像       不動明王 戒壇 真済僧正像 影現寺で遠忌法要の読経                 御住職青木様         仏教研究家である金子貴一様が真済僧正1150年遠忌法要を        企画され実行されました。              真済僧正の分骨された墓所         影現寺から約100メートル離れた畑の中にある        絵巻として所在が記載されている。        ※「柿本神社」柿本人麻呂の生地             ・706 石見国で亡くなった遺骸を             ・770 この地に改装葬した             ・「人麿堂」に真済が自ら刻んだという「人麻呂像」がある ・秘蔵で写真は不許可   ・住所:奈良県北葛城郡新庄町大字柿本                               柿本神社 影現寺       ・柿本朝臣安吉は平安期に大和国添上郡の郡老とあり         柿本氏が添上郡を本拠としていたことが知られる。       ・真済は一説によれば柿本人麿の再従兄弟であったと言われる             ・真済の祖父か父が人麿の後裔との婚姻関係にあったことは、        真済が元おほきみつ位の柿の本太夫の領地に柿本神社を建立し、        人麿堂に人麿像と真済の坐像を設置したことでも伺える      858年8月 文徳天皇寝病 於冷然院に侍る 薨去 真済失志隠居 858年 天皇即位をめぐり真済は惟喬親王、真雅は惟仁親王(清和天皇)の祈祷 858年10月 文徳天皇が崩御し、藤原氏の世なるに及び高雄山寺に隠遁した          ※真済 高雄山に寂す。              ※弘法大師伝にあるが確定的ではない。 859年11月1日 僧正真済 東大寺僧綱牒  859年 真済僧正は辺地済度のため奥州に叔父(紀朝臣永直 陸奥国司) を頼る?      ・856年1月12日に紀朝臣永直が陸奥国司に赴任している                 ・任期:6年      又は      ※806-809 法相宗の高僧徳一が置賜に布教した地を目指してか? 859年 「惣持寺」 山形県長岡山に          ・本尊:十一面観世音菩薩          ・真済が観音を安置して「惣持寺」を開山した          ・のち大江親広が寒河江地方に観音堂を建て祈願領として 領地を寄進した          ・1584-6 18代大江高基は最上義光に破れ、 観音堂は焼失したが、尊像だけは無事で、 最上氏が再建した。 000年「長念寺」「長岡観音」真言宗         ・寺号:長岡山         ・本尊:十一面観世音菩薩         ・大江家歴代の墓碑がある         ・1868 明治維新の神仏分離令で「惣持寺」は断絶したので             「長念寺」が「別当寺」として譲り受けた              現在ある仏様は「惣持寺」に有ったもの       ・住職:奥平暁弘         ・住所:山形県寒河江市丸内2−4−19            (寒河江城本丸跡で、現:寒河江小学校の裏手) 不動明王と戒壇       十一面観世音菩薩 釈迦如来 宝生如来 大日如来  阿閦如来  阿弥陀如来                          長念寺 当山開基真済僧正1千年遠忌        長念寺の所在地図                      大光院の所在地図 859年 松光山「大光院」 新義真言宗        ・真済は辺地済度のため奥州に逃錫し、小松の茂る山に瑞光あり         この山麓に精舎「松光山長岡寺大光院」を建立        ・真済は本堂に大師御作の地蔵大士を安置し、小石を多く集めて         一石に一字の経を書き塚を築いた        ・毎年7月16日に亡親妻子の追福の為、小卒塔婆を建てたので         これを尊び、置賜(おいため)と言うようになり郡名も         置賜と改めた。        ・真済僧正の「墓地」あり、毎年命日の2月25日に 今でも法要が行われている。 ・住職:酒井隆謙        ・住所:山形県置賜郡川西町大字上小松2948             ※埼玉県在住の金子貴一様(紀朝臣船守の後裔)のお知らせにて判明  大光院の境内      大光院本堂       門扉の柏紋       丸に片喰紋 大光院山門   真済僧正御生誕1200年記念       真済僧正入寂之寺       教授阿闇梨隆謙当山59世         松光山大光院 真済僧正入定の地(墓地と石碑)                  ・置賜公園内 藤ヶ森(原田城二の丸跡)         ・住所:西川町上小松     真済僧正入定の遺跡     紀僧正真済御萃座   ※紀夏井     紀古佐美―広浜―善峯―┌夏井 豊城の罪に連座して土佐に流刑               │   子孫 京都石清水八幡宮の祠官               │               └豊城 京都応天門の変で                   大伴氏と供に藤原良房の姦計に落ちる                 真済僧正入定の場所 860年2月25日 僧正傳燈大法位真済入寂           ・真済俗姓紀朝臣 61歳で入寂す           ・僧に姓を蒙らしめて呼びしは柿本僧正真済なり                  ※(監尻33)                    高野山 高野大師行状絵図 十巻に真済の名あり 仁和寺円堂院 本寺堂院記        ・真言祖師の像が描かれている         ・弘法大師・実恵・真雅・真然・真済・真紹・宗叡・聖宝が          上側障子で内側の腰壁に 付法の弟子:白雲御子(嵯峨天皇の皇子)、神勢、春教、澄教、開悟 著作:「照発揮性霊集」 1巻    「別行次第抄」 1巻    「胎蔵界念誦私記」 1巻    「金剛胎蔵総行五部肝心記」 1巻    「仏部仏供養法」 1巻    「契明諸本鈔集」 1巻    「大慈胎蔵曼荼羅中修一切佛母念誦法」 1巻    「金剛頂上佛眼佛母瑜珈供養次第法」 1巻    「金剛吉祥一切成就宿曜秘記」 1巻    「八字蔓殊童子大聖特念略儀」 1巻    「寶金剛菩薩瑜珈法要」 1巻    「大佛宇陀羅尼楚漢諸本鈔集」 1巻    「略出経三十七尊契明諸本鈔集」 1巻    「空海僧都傳」 1巻    「孔雀経諸本鈔集」 6巻 「参考」 孝元天皇・・・・武雄心命ー武内宿禰・・・・・・・・・・・・┐                                │  ┌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  |                 ┌興道─本道─望行─紀貫之  │                 │  |             ┌勝長─└名虎─有常─静子  │             │           ‖―――惟高親王  └紀朝臣船守―┌田長────├野永 少納言    文徳天皇         │長門守   │              │      ├御園───┌御豊 石清水八幡宮神主         └若子    │彈正大弼 │          桓武天皇女御│     ├真済 柿本紀僧正 東寺長者                └永直   │                 陸奥守  ├安宗 石清水八幡宮別當                      │                      └運真 石清水八幡宮別當   ※真済が出た家は後世、長く京都石清水八幡宮を支配した 紀氏の一系で尊卑分脈によると紀長谷雄の家とは比較的家系が近い、     彼が16歳の時に真済が入寂(860)した     紀長谷雄は深い尊敬の念を抱いていたものであろう  ※紀家集         「新義真言宗」     ・1126年に紀伊の総本山「根来寺」が建立され始め     ・1130年に高野山に大伝法院「蜜巌院」を創建したのが根来寺 (新義真言宗)の始まりと言われている為です     ・1129年 済俊 高野山「金鋼峯寺」第27代検校、 東寺にも席を置く             ・出身は紀伊在田郡(現:有田郡)             ・「松光山大光院」は総本山根来寺(紀伊)               五寺の末寺を擁する    「性霊集」    ・空海の漢詩文集。詳名「遍照発揮性霊集」遍照は空海の灌頂号の略称。    ・編纂者は空海の弟子 高雄山の真済。全10巻     ・ただし8,9、10巻は散逸し    ・これを惜しんだ仁和寺の「済暹」が     ・1079年「続遍照発揮性霊集補闕鈔」3巻を編み、追補した    ・真済の編纂年次は不明であるが、空海の晩年頃とする説が行われている。    ・序(真済)によれば「意に任せ」「手に随って」     「弟子久しく清塵を渇って恭しく下風に到。鐘籟あい響いて、新たに      扣くこと旧きがごとし、年深く執事して、いまだその浅きを見ず」    ・(原漢文)成った天成の詩文であるという。併せて百十余篇の作品が現存     ・10巻に収められている。    ・真済頗る文学的才能があり、大師御入定後に、その詩文を蒐集して     「遍照発揮性霊集」十巻となした    ・これこそ我が国に於ける個人全集編纂の最初のものであって、     大師のみならず、大師の弟子も我が文学史上に於いて時勢を二歩も三歩も     前に歩んでいたものと称す可きである    ・後、多少散逸したのを仁和寺の済暹が拾うて更に三巻となし之を補遺     三巻と名付け真済当時の如く全部で十巻とした         資料元:弘法大師弟子列傳、弘法大師弟子譜、諸宗章疏禄 「綜芸種智院」    ・空海が828年頃、藤原三守から邸宅の寄進を受けて東寺近傍に     建てた学校。または三教院とも呼ばれた。    ・教育課程は仏教、儒教、インドの諸科学等も含み、全東アジアの諸学     諸思想を総合する壮大なものであった。    ・それを僧、俗人共学の形で学ばせようとした。また、    ・民衆子弟の入学を期待していた。    ・学校が20年足らずで廃絶した原因については諸説があるが後継者の     無理解や財政難や、入学者減などが理由となっているが     いずれも推測の域を出ていない。 「四国八十八ヶ所霊場」     ・弘法大師の入定後、高弟の真済僧正が弘法大師の軌道をたどったのが      始まりともいわれる。   ※東寺文庫 星雲社 真言僧               一番左上が真済僧正           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 真済僧正以前の僧 参考 000−000年 壇道済 支那の南北朝時代(宋) ・彭城主 義康に殺された、宋の文帝に重んじられた人 587年 徳済 用命天皇の病気平癒のため590年出家  ・坂田寺を建立         ・出身 司馬達等の子         ・俗名:鞍作多須奈 600年頃 弘済 渡来僧 百済生まれ 0000年 放済 百済の帰化僧 ※日本霊異記 本朝高僧伝 608年9月11日 広済 学問僧として入随            ・遺随使 小野妹子(大使)                 吉士雄成(小使)                 鞍作福利(通事) 623年 慧済 入唐僧 帰国 参考文献 @東寺年表 淡工社  A姓氏家系辞書(大田亮編) B国史大系6 吉川弘文館  C仏教大辞典 龍谷大学編  D日本仏教人名辞典 新人物往来社  E平安時代史辞典  F弘法大師行状絵詞 下 中央公論社 G弘法大師弟子傳巻上  H人麻呂伝説 大和岩雄 白水社 I水底の歌 柿本人麿論 下 梅原猛 三秀社  J西国三十三所名所図会 K3代実録第四  L小浜市史   M若狭国史 N続日本後紀  O文徳実録   P類衆国史巻弟99  Q東京大学史料編纂所 大日本史料 R東京大学史料編纂所 平安遺文 古文書編 東京堂出版 S東京大学史料編纂所 東寺私用 21東京大学史料編纂所 東寺諸堂縁起上抄 22東京大学史料編纂所 東寺百合文書 23東京大学史料編纂所 新典礼索引叢書:僧伝史料 24古寺巡礼京都 広隆寺 淡交社 25山形県 置賜の文化財シリーズ


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