紀氏の歴史の軌道 22
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後陽成天皇 1586-1611年 107代目
・封建的身分制度の形成(士農工商の身分形成)
・1603 徳川家康が将軍となる
・・・1586 左官掌: ※地下家伝
紀末貞(小野姓)→紀氏正→紀氏行→1596生まれ氏房→
1639-3-20生 亮房→氏辰→氏兼(母:御厨子所預 紀宗恒の娘)
→1695-9-4生 氏富→氏意→氏経→氏益→氏明→氏裕
・・・1586・右官掌 ※地下家伝
紀永昌(峯姓)→永吉→親盛→親昌→親縁→親賀→親賢→親常→親成→
1829生まれ 孟親
、、、1587 岐部信泰 キリシタンになる
・・・1588-1642-6-24 奪雙全珠ダツソウゼンジ 曹洞宗の僧
・諱:全珠、 道:奪雙、 号:仏照古心禅師
・出身:紀氏 薩摩(鹿児島)
・師:日鑑寿益
・薩摩福昌寺の大麟全索について得度し、
上野泉通寺の応朔に参禅ののち薩摩福昌寺の法を嗣ぐ
島津家久の帰依を受け妙円寺に住した。
・宮中に参内して禅要を説き紫衣と禅師を受ける
・1637 薩摩谷山の蔵六軒に退隠
・・・1590-1647 安室宗閑 臨済宗の僧 号:佯狂子、
・大徳寺の完玩の法を嗣ぐ、大徳寺の住持を務める
・1642 大徳寺176世
・1624 山内に端源院を創立して完玩を祖として自らは2世となった
・賢忠寺に肖像画あり
・出身:和泉
・父:松永久秀
・1647-4-14 入寂
・・・000 千利休の後妻の子、少庵は松永久秀の実の子であるらしい。
・噂話
・・・1590 於菊 中将弁宰相阿古大上臈(阿古御局)
・松永彈正の孫 青松院、
・12歳の時、豊臣秀頼に被召寄
・13歳の時、秀頼公参内に同車にて参内して公家衆より武士の娘を
参内するとはと非難あり、
・帝王後、陽成院勅定にて、小松内府重盛の子孫にて参内可能と、
則御房分に、大内に三ケ月御奉公仕、弁宰相阿古大上臈の官位を得る
・後、淀君に仕え、
・1614-5-8 大阪落城の時、女中七人がお供して煙して死ぬ 36歳歿
松永彈正久秀の娘
‖―――於菊
伊勢貞良(父:伊勢貞孝)伊勢貞景の系図にあり
・豊臣秀次(関白) 1591-1595年
・・・1591 秋田県能代市「松永布」の地名(出羽国秋田郡大内田村)
・・・1591 松永熊寿 僧名:教行院日陽 日蓮宗 京都 実相寺の住持
・弟:松永貞徳
・京都妙覚寺の日奥が対馬に遠流されると対馬に渡り
・1610 対馬にて病死
・・・000 松永貞徳 和歌、狂歌、連歌、俳諧、
・貞門俳諧の祖
・一時、豊臣秀吉の右筆を務めて秀吉文化圏に親しむ
・30代以降は政権に近づかず終生在野の歌人
・出身:京都 父:永種
・越前深江という者は内人也と
・1653-11-15 82歳歿(1571-1653)
・墓:実相寺 京都市南区上鳥羽鍋ケ淵町
松永某の妻 惺窩の高弟
下冷泉為孝─┌妙忍───松永永種──松永貞徳──松永尺五
│
└為豊───為純───藤原惺窩
※藤原惺窩(セイカ)は藤原定家の12世の孫
・・・1591 松永肥俊介 桂宮正親町天皇第一皇子の桂宮の侍にみゆ
※角川地名大辞典 京都府
・1848 子孫、代々桂宮の用人
・徳川家康 征夷大将軍 1603-1604年
徳川家康
志水宗清 ‖────尾張 徳川義直
‖――――亀=相応院殿
東竹甲清の娘
家康の側室=相応院殿は石清水八幡宮祠官 田中系の庶流
東竹甲清の娘=志水宗清の妻の娘
※石清水八幡宮祠官系図
、、、1592 照清 石清水八幡宮 新善法寺 社務
、、、1593 岐部信泰 大友義統に従って、山口、大阪に赴く
・・・1593-4 松永又左衛門久光と国分寺の園慶和尚は
・美作国(岡山県)八幡宮を寺山に勧誘する
・子孫:国分寺村の名族
・阿波国松永助左衛門久光の孫(松永久秀の系統)
・・・1595頃 ・長英(紀氏)法印權大僧都
・家隆(紀氏)法印權大僧都
・父:紀延胤 東大寺神主 式部少輔(紀古佐美の後裔)
・・・1596 亮済 刑部卿、東寺
・1618 醍醐寺光台院
・1621-6-21 醍醐寺
・1671-4-19
・・・1596-1604 埼玉県大利根町「松永新田」幕府領
・木村の村民の開発による
・古くは羽生領の「太田荘」に属していたという
・1688 元禄絵図に「松永新田村」とある、現在は大字名
・・・1597 越前国敦賀市松島二丁目「松永村」の1935「永建寺」=曹洞宗
・氏神弓矢八幡 鋳物を造っていた
・1607 敦賀郡「野坂荘」のうちの島郷に強制移転された
※角川地名大辞典 福井県
・敦賀市奥野に住む松永氏
・多くの古文書を伝領する旧家(文政年間3通、慶応の古文書)
・家紋:三星一文字、渡辺ぼし
、、、1600 岐部信泰 関ケ原の戦いで豊後に帰国、石垣原の戦いで吉良純栄らと
共に戦死した
・・・1600頃 三河(愛知県)安城市 松永名字出生の地とある
・1429「高済寺」=「弘済寺」は一向宗の道場あり
・現在寺領は「大樹寺」に引き継がれている
・・・1600-5-18 定済
・・・1601 柳耀清 石清水八幡宮 第16代検校、第36代別当 法印大僧都
・男子 明清 石清水八幡宮權別当
・娘:久我通雄の室
・・・1603頃 三河の名族 藤原姓 松永平左衛門(松平清康の家臣)→
源蔵(家康に仕う)→太郎右衛門重正(家康家臣150石)
・家紋:丸に横木瓜、蔦
・・・1603-1889 周防国吉敷郡「平井庄」吉田郷「恒富保」の小名:松永
・1203-1573「恒富荘」あり
・・・1603-1869 大隈国桑東郷郡日当山郷の霧島村松永
・姶良郡霧島村大字重久松永
・鹿児島藩領直轄領
・・・1603-1889 大隈国頴娃郷別府村「松永」
・江戸期:頴娃別府村の松永に庄屋役所あり
・・・1603-1889 大隈国曽於郡曽於郷「松永村」現在、大字松永
・鹿児島藩領直轄領 2136石〜1614石
・正八幡宮執印 行賢
・菅原神社に松永平左衛門の墓あり
・・・1604 松永左衛門入道道斉(良明) 大宰府天満宮
・徳川家康の遺訓を江戸にて松永が筆記したのも「東照宮御遺訓」
・雑史 秋月郷土館、大宰府天満宮
・1616 74歳入寂(1542-1616)
・・・1604頃 ・松永良男 愛知県 中乃坊寺
・松永亮儀 三河国額田郡 正泉寺 住職
・松永東太夫政陳 尾張国愛知郡千種郡 八幡社人
・ 松長(松永)村 駿河国駿東郡、幕府領のち相模国萩野山中藩領
・「伴名田」に松長、松永古墳群がある
・徳川秀忠 征夷大将軍 1605-1623年
・・・1605-9-3 高済 醍醐寺
・・・1607-9-21 永済「惟舟」東福寺 住持となす
・1608-10-13 南禅寺
後水尾天皇 1611-1629年 108代目
・1615 大阪夏の陣(豊臣氏が滅亡)
・1615 諸宗諸本山法度の施行=幕府が寺社奉行を設けて寺社の支配をする
・1627 僧侶の位階の制定
・・・1611 御蔵小舎人 山科(紀姓) ※地下家伝
紀亮以→亮方→亮之→以方→亮執→生民→生静→生直→生春
眞継 元新見 姓齋部元紀 武内宿禰後胤 ※地下家伝
則弘→友弘→景弘→在弘→元弘→高弘→頼弘→遠弘→兼弘→重弘→
豊弘→安弘→種弘→国弘→忠弘→有弘→久直→宗弘→康総→康利→
親賢→久忠→玄以(弘)→珍弘→矩弘→親弘→量弘→康寧→則能→能弘
・・・1612-9-29 寛済 醍醐寺 報恩院で出家
・1636-11-4 東寺 長者194世
・父:弁官 藤原=中山慶親
・1663-3-23 68歳入寂(1596-1663)
・・・1614頃 松永丹波守長頼の子
・キリシタンの内藤如安が加藤清正に迫害される
・1593-6 内藤如安 小西行長に従い随員35名を連れて明国との和平
交渉をする。
・徳川家康のキリシタン弾圧で国外追放、高山右近夫妻と如安と妹は
・マニラで亡くなる、信者達の尊敬を一身に集めた
、、、1614-5-8 大阪城落城の時、阿古御局(於菊中将弁宰相)自刃する
・菩提寺 北野神社 青松院
・若狭国「松永保内恒枝名」の領主:青松院跡
北野天満宮宝成院知行目録
・・・1615 山口県(周防)宇部市 大阪浪人 松永内記が帰依して了玄と
号して、
・棚井村から宇部市の4ケ小野に安養寺を移転
・・・1615迄 陸奥三戸郡の豪族 紀名虎の子孫、又重家、戸来家、木村氏
・南部譜代木村因幡の後裔に
・城代木邑伊勢(剃髪して了満)
・五陣軍士 紀季武、紀為清
・・・1615 松永市左衛門 伊勢国桑名郡「松永邑」関長門守侍帳 150石
・現在の木曾崎村「松永新田」
・・・1615頃 松尾重理 従5位下 月読社長官 松尾公文 大膳亮
・娘伊登子の夫:友田権兵衛の母は紀利正の妻 ※松尾社家系図
・・・1617 周防(山口県)下松市 周防国都濃郡の大藤谷の小名:松永
・寺:真宗 長円寺
・・・000 兵庫県神崎郡「松永神社」
・・・1618 鈴木(紀氏) ※地下家伝
紀長房―┌長矩→長治→長昌→淑長→長之→淑範→亮長→淑亮→淑種
└長宣→宗保→宗冬→伴寛→宗名→宗昌→宗懋→宗城
・徳川家光 征夷大将軍 1623-1651年
、、、1621-6-21 亮済 醍醐寺
・・・1624 松永孫四郎入道正斉 筑紫国 天道社を建立
・現穂波町に天道町を起こす、
・天道町は太郎村の枝村
・・・1624-1644 埼玉県栗林町(武蔵国に属した)松永
・・・000 山梨県南巨摩郡本建村(早川町)の村長 松永寅松
・家紋:丸に花菱・丸に桔梗 ※角川日本姓氏歴史人物19
・・・1625 松永太郎右衛門 2代目秀忠及び将軍家の納戸役 家紋:木瓜
・武蔵国 奉仕木権現 台徳院殿及び将軍家
、、、1627 僧呂の位階の制定
・・・1628 松永尺五(父:松永貞徳) 儒学者 従5位上 昇殿
・加賀藩に仕える
・1628 春秋館を設立、長男が継ぐ
・1637 京都に講習堂を設立、次男思斉が継ぐ
・京都所司代板倉重宗の援助で
・1637-1889 252年間 京都の代表的な漢学塾の当主として
教育事業にあたった
・1657 藤原惺窩に学び、後光明天皇の賜る尺五堂を建設
・門弟5千人、朱子学(京学)の弟子:木下順庵→新井白石
・1657 65歳歿(1592-1657)
・尺五─思斉ー尺短軒─方鳩─淵斉─研幾─済斉─昌国─信茂
明正天皇 1629-1643年 109代目 女性
・宗門改役の設置(宗教統制の完成)
・・・1629-1631 快済 東寺 權少僧都 御修法請負僧
・・・1636 日向国那珂郡「松永村」東弁分村の地内 松永1000石が独立
・領主:島津氏から伊東祐豊氏(飫肥藩主)日南市東郷
・この地は宇佐八幡宮弥勒寺領「塩見」「富高」があった。
・1689 日南市:江戸期の松永村は幕府領=天領としてある
・1889 松永村は東郷村に合併された
、、、1642-6-24 奪雙全珠 曹洞宗の僧 鹿児島 妙円寺に住す 入寂
・紀氏
後光明天皇 1643-1654年 110代目
・・・1644-6-14 尊済 醍醐寺
(柳生宗春の二男)
従5位下 長門守
従5位下 長門守 九鬼副隆
・・・1647 九鬼隆昌の娘 ‖―――――娘
‖―――――――娘 ‖
九鬼隆律 九鬼隆久
従5位下 和泉守 従5位下 大和守
(紀氏=池田光仲の三男) (柳生宗存の二男)
・・・1648-3 喜済 浪人 家光の行列に直訴、
・先年、中国に渡り竹並法師という者に銃の秘法を授けられたので
登用してほしいとのこと、
・調査の結果、全て虚言と判り死刑
・・・1648-12-2 紀氏 高橋宗垣 正六位上 9歳で家職を相続し
・御厨子所預に補される。
・若狭守高橋宗定の男
・江戸中期の御厨子所預を家職として世襲する公家の官人
・1651 雅樂頭
・1655 従五位下
・1670-9-29 従五位上 備前守
・1678-8-21 正五位下 有職故実堪能の識者として知られる
・1691-3-6 従四位下
・1706-12-24 68歳歿 (1640-11-1〜1706)
・徳川家綱 征夷大将軍 1651-1680年
、、、1651 高橋宗垣(紀氏) 雅樂頭
・・・1653-1 松永貞徳 俳人、歌人
・細川幽斉に和歌、里村紹巴に連歌を学ぶ
・晩年、俳諧をはじめ、多くの門人を生む、貞門俳諧の祖
・作品集「貞徳独吟」等
後西天皇 1654-1663年 111代目
、、、1654-1-12 加賀藩10村「松永郷」11ケ村に松永村あり
、、、1655 高橋宗垣(紀氏) 従五位下
・・・1656-3-15 平田姓中原職永 ※地下家伝 上
・母:眞継伊予守紀久忠の女
・・・1660 備後(広島県)沼隈郡松永
・1660 この村は本庄重政始めて拓築の功を起こし1663の夏に
至り塩田成る
・1661 本庄村
・1663 「松寿永年に因み村名を松永」の公称を立つ
・松永町は各地方の出身からなる
・神村氏、入江氏、本郷氏、高須氏、田島氏、広島氏、
村上氏、山南氏等
・この地はもと神村(カムラ)の地内松崎の端りければ松永と命じたり
・1667-1671 福山市に本庄重政は「松永新涯」塩田を開発
当時、福山藩水野氏の封内なりき、今村東に承天寺あり、
山丘の半腹に居る、松永今津はすべて福田荘を言う
※大日本地名辞書 吉田東吾著
・・・1661 石川県加賀藩士 医師松永永三 儒者
・1868 松永家 15家が見える
・・・1661-1672 伊勢(三重県)木曾岬村に開発
・松永新田(江戸期=長島藩領)
・松永新田(江戸期=笠松県支配所)
霊元天皇 1663-1687年 112代目
・・・1669 東京都神田松永町
、、、1670-9-29 高橋宗垣(紀氏) 従五位上 備前守
・・・1671-4-19 慶済 実報院 九州持分 和歌山県熊野那知大社
・・・1671-4-19 亮済 実報院 九州持分 和歌山県熊野那知大社
・・・1673-1744 松永太郎右衛門 武家屋敷 本郷小石川
・江戸城 徳川幕府の江戸藩家臣
・・・1678 御放生大会
・俗別当 紀勇行
・神主 紀光成 従六位 ※石清水文書
、、、1678-8-21 高橋宗垣(紀氏) 正五位下
・有職故実堪能の識者として知られる
・・・1679 ・紀左道 従七位下 ※石清水文書
・検知 紀豊親 従六位
・神子 紀益子
・徳川綱吉 征夷大将軍 1680-1709年
・・・1680-12-13 宝珠丸得度記 ・大紋 紀左京 ※石清水文書
・大紋 紀左近
・・・1681-9-15 官掌 紀永吉 従六位下 ※石清水文書
・・・1682-10-25 済深入道親王 二品 觀修寺29世
・寛俊の内に入る
・1688-2-2 東大寺 別當
・1692 一身阿闇梨
・1701-12-2 32歳入寂(1670-1701)
中御門天皇の皇子
‖―――済深入道親王
中納言典侍小倉氏の娘
・・・1682-1744 松永安右衛門良粥 江戸中期の数学者
・はじめ寺内平八郎→松永權平→安右衛門と変わる
・荒木村英に数学を学ぶ
・久留米藩を浪人して、盤城平藩主内藤政樹に仕える
40俵5人扶持
・・・1684 諸司 ・左官掌 紀氏辰 従六位下
・左官掌 紀親守 従六位下
・大筒掌 紀清永 座田
・・・1685-8-22 神主 紀光俊 ※石清水文書
東山天皇 1687-1709年 113代目
・・・1689 孝済 東寺 權律師 御修法請負僧 諸神供
・1692 東寺 權少僧都、權大僧都
・1696-1697 東寺 權大僧都 御修法請負僧 十二天供
、、、1689 日向国(宮崎県)飫肥領分知 松永・南方、天領となる
・宮崎県の歴史
、、、1691-3-6 高橋宗垣(紀氏)従4位下
・・・1691-3-14 大石蔵之助良雄(赤穂義士)の弟:専貞が男山の石清水八幡宮の
大西坊の住職となっていたので、大石の母は身をそこに寄せて没した。
※赤穂義士伝 大石神社蔵版 新人物往来社
・・・1693-5-18 紀朝臣延重 正倉院宝物御開封 清祓上司 民部少補
・・・1695 松永宗件 小笠原佐賀本藩 頼母組 375石
※小笠原藩誌
・・・1701-3-14 松永小八郎 神田住 徳川幕府の江戸藩家臣
・浅野内匠頭長矩が田村右京太夫邸で切腹を仰せ付かった時、
同邸へ差し遣わされた検便一行のうちの徒目付
・1702-12-25 義士が泉岳寺へ引き上げた時、石川孫市右衛門、市野新八郎と
3人で同寺へ出向き赤穂浪士一同に対し、大目付仙石伯耆守邸へ
出向くよう申し渡した。 ※赤穂義士伝 大石神社蔵版
・・・1702-1727 松永士斉=天野屋利兵衛 大阪米問屋
・赤穂浪士47氏を援助した人
・後、出家して松永士斉と改名して北野端光院の境内に庵をこしらえた
・摂州大阪の平野町角屋敷に住み、大阪三郷の総年寄りで
代々浅野家への御用を達し、特に内匠頭の代には御懇意に
してもらってたびたび播州へ下り大石蔵助とはじっこんの
間柄であった。
・墓:椿寺 木造も安置されている
・遺品の1600年代の銘のある算盤が保存されている
・京都市北区大将軍川端町2 ※赤穂義士伝
・子の利右衛門は放埓で身上を失う、
・現在利兵衛の甥の子孫が大阪道修町の浜に天野屋九郎と
言う人がいる。
・・・1702 紀正明=間瀬久太夫 赤穂浪士(47人の内)
・間瀬久太夫は柿本神社に仇討ち祈願をし、朝な夕な手塩にかけて育ててきた
梅の盆栽を、同神社の西隣に月照寺の本堂前に植えた。
この梅は船形の大木となり「八房梅」と名付けられ、
人々の目を楽しませるとともに、詩歌にも詠われたが、
枯れて現在、2代目が植えられている。
・1703-2-4 63歳で切腹(1641-1703)
・赤穂藩大目付 200石 家紋:巴(右三つ巴の説あり)
・生国:不詳
・屋敷:赤穂城三の丸
・仮寓:江戸新麹町四丁目
・変名:三橋淨定
・切腹場所:細川越中守網利下屋敷
・戒名:刃誉道劔信士
・赤穂浪士小野寺十内の従兄弟
・赤穂浪士中村勘助の叔父
間瀬權太夫─久太夫正明─┌孫九郎正辰(部屋住み)
└定八
・・・1703-2-4 紀正辰=間瀬孫九郎 赤穂浪士(47人の内)23歳で切腹(1681-1703)
・役柄:部屋住み
・生国:不明
・屋敷:父と同じ
・仮寓:父と同じ
・変名:三橋小一郎
・切腹場所:水野監物忠之中屋敷
・戒名:刃太及劔信士
・・・1705-4 紀定八=間瀬定八 義士一同が切腹した時は播州亀山にいたが、その罪
三族に及ぶという武家制度の根本精神により、遺族の一人として、
伊豆大島に遠島を申し付けられた。
1709の大赦を待たずに大島で22歳で没する(1682-1705)
、、、1706-12-24 高橋宗垣 68歳歿 (1640-11-1〜1706)
・・・1708-1763 牧野康済 帯刀
・出身:信濃小諸、父:大蔵 牧野康満の長男
・称源氏:牧野 本姓:田口氏 在大和国高市郡、曾我氏族
・徳川家宣 征夷大将軍 1709-1712年
中御門天皇 1709-1735年 114代目
・徳川家継 征夷大将軍 1712-1716年
・徳川吉宗 征夷大将軍 1716-1745年
・・・1718-3-3 東中務家 家紋:輪内双鶴 九曜菱 輪内菱
・東彦左衛門政満 剃髪して宗済と号す
・母:駒木氏
・・・1720-12-28 高橋宗勅 正六位下 采女正に叙任 御厨子所預に補命される
・出身:本姓橘氏、養われて紀氏を継ぐ
・1727-1-15 従五位下
・1735-2-28 従五位上
・1746-10-9 若狭守
・1763-12-19 従四位下
・1785-1-28 83歳 歿 (1708-8-26〜785)
、、、1727-1-15 高橋宗勅(本姓は橘から紀氏に) 従五位下
・・・1729-4-1 萩生道済 郡山儒臣
1735-10-17 幕府 茂郷著す所の楽律考・・
・将軍吉宗 父:茂郷の遺言度量・・
・・・1733 紀直祺(元:直温)号:岡松 正七位下 掃部寮史生 丹後介 48歳
※地下家伝 上
桜町天皇 1735-1747年 115代目
、、、1735-2-28 高橋宗勅(本姓は橘から紀氏に) 従五位上
・・・1742-6-28 松平頼幸(水戸支封)歿 弟 松平頼済嗣ぐ
・・・1743 壱岐(紀姓) ※地下家伝
・紀政則(土御門家神役人 美作紀政守男)→政恒→政由
・・・1743頃 日向国延岡藩主内藤正樹(数学者)は
・松永良弼に師事した。
・松永良弼は磐城平時代から内藤氏に仕えた
・徳川家重 征夷大将軍 1745-1760年
・・・1745-8 安川済「外台秘要方」40巻
・奉納のメンバーの一人 ※天満宮 吉川弘文館
、、、1746-10-9 高橋宗勅(本姓は橘から紀氏に) 若狭守
・・・1746-12-17 通済 長谷寺 大和
・・・000 羽前(山形県)西村山郡の豪族「羽源記」に松永右門
※日本姓氏大辞典 太田亮
桃園天皇 1747-1762年 116代目
・・・1751-1795 松永貞辰 山形県(出羽)新庄藩 最上郡新庄上谷地郷北口村
・新庄藩の代官役宅で生まれる 数学者 和算 松永塾
・父:覚左衛門直援
・・・1752-3-18 花山院兼済 左近衛権中将を権中納言と為す
・1753-1-29 従3位を正3位に叙す
・1756-6-19 権大納言
・1758-8-15 石清水八幡宮放上会へ
、、、1754 公杲 別當 実相寺
・・・1757 松永和風 水戸 一世 初名:松永忠五郎 松永派の祖
・1781-1801 長唄界の代表者
・徳川家治 征夷大将軍 1760-1786年
・・・1760頃 尊済 石山寺 蜜蔵院
・1828 醍醐寺
・父:藤原家経(藤原道長の後裔)
後桜町天皇 1762-1770年 117代目 女性
・・・1762 徳川治済
・1777-7-12 15歳
・・・1762-1-28 松木宗済(宗美)羽林家 正2位 權大納言
・母:久世通夏
・1788-10-14 48歳歿(1740-10-12〜1788-10-14)
・・・1763-2-11 中御門宗済(松木氏) 参議
・1765-10-29 従3位〜正3位に
、、、1763-12-19 高橋宗勅(本姓は橘から紀氏に) 従四位下
・・・1764 広島県福山市(備後国山形郡)松永山の加計村と奥中原村で交替で
猟銃を造っていた ※角川地名大辞典 広島県
、、、1765-10-29 中御門宗済(松木氏)従3位〜正3位に
・・・1768-8-3 元章 富嶋源氏 陣官人 下北面 ※地下家伝 上
・主税少允 紀伴廣の二男
・・・000 山口県吉敷郡佐山村内の小村、須川村に鎮座する大蔵社
・名主層5人が廻り番で神事を勤めてる
・松永家、竹重家、増重家、友清家、重富家
・・・000 高座郡浜之郷村(神奈川県茅ヶ崎市)の草分けに松永家がある
※神奈川県姓氏家系大辞典 角川書店
・・・000 武蔵国(埼玉県)比企郡川島町「松永村」あり
・「土袋荘」川島領に属した
・大利根町「松永新田」埼玉郡羽生領「太田荘」に属した
・栗橋町「松永」下総国「下川辺荘」に属した
後桃園天皇 1770-1779年 118代目
・・・1771 山口厚敷(紀姓)飛騨守 11歳
・紀朝臣を賜る
・1780 正六位上 20歳
・1789-7-22 29歳歿(1761-1-24〜1789)
・子:厚敷→行厚→厚正→定厚
・・・1772 信濃国(長野県)南佐久郡臼田町
・代々久右衛門を襲名して村役名主になった松永家がある
・・・1773 小田原藩主大久保の家臣に松永弥祖八(本国:美濃=岐阜県)
・生国:相模
・弥祖八は松国家から養子に入ったが、松永家は辻満理左衛門家の分家と言う
・親類縁者に:大橋、宮崎、小林、牧野、板倉、岡本、岡、日治などの
姓が見える ※神奈川県姓氏家系大辞典 角川書店
・・・1773 富山県射水郡小杉三ケ村(小杉町)の松長氏は家伝によると
・南朝の臣楠木正儀の裔で
・足利氏の目を逃れて越中に入り土着、
・商業→農業→幕末には300石の高を持つ豪農でもあり、
・江戸時代、加賀藩山廻り役に任命された
・初代太郎兵衛→太四郎→太郎兵衛→太四郎→吉郎右衛門→他吉郎
・藩行政に活躍した ※富山県姓氏家系大辞典 角川書店
・・・1773-10-15 并河道済(宗徳)三代致仕す
・高木流金倉指南に補す ※小浜・・
・・・1774 豪済(観国)延暦寺 天台宗の学僧
・比叡山東塔の善光院→正覚院 学頭につく
・豪済と改めて大僧正
・埼玉県 喜多院へ転出
・1774 78歳入寂(1697-1774)
・・・1777 済遍 石山寺の印可
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