『伊保山その歴史』
 
 この地は千三百年程前に「播磨国風土記」〜大和朝廷の命令で、各地方から提出した、国情報告のようなもの〜の【大国の里の条】に載っています。
 十四代仲哀天皇が熊襲(九州)征伐の道中、この地で亡くなられ、妻である神功皇后が、その柩を納める場所を探している時に、石作連大来(いしつくりのむらじおおく)がこの地を見つけた(見顕した)ので美保山と呼んだ、それが訛ってイホヤマとなった〜とあります。その文の続きに「そこには屋(おく)のような形の作られた石がある」と書かれていますが、それが日本三奇のひとつ兵庫県高砂市の生石(おおしこ)神社のご神体「石の宝殿」と呼ばれるものです。(他の二奇は宮城県塩竈神社のご神体「塩竈」と宮崎県高千穂ノ峰の「天の逆鉾」です)
 この「石の宝殿」は宝殿石とか竜山石とか呼ばれる地元の岩でできていて、9700万年くらい前に噴出した火成岩で、岩盤は直径50km以上にわたり、学名は「流紋岩質溶結凝灰岩」といいます。色は青、黄、赤と3つの色があり、特に黄石は古墳時代から権力者が石棺を作るのに珍重していました。この辺にも、そのような石棺が三百とも四百とも、あると言われています。ここ、伊保山霊園にも、古墳が三基あります。


『宮本武蔵出生の地か?』
 

 高砂は今、剣豪武蔵の生誕の地であるということが判明してきて、話題になっています。その場所は播州印南郡河南庄米堕邑(よねだむら)--現在の兵庫県高砂市米田町--です。その根拠は三つ程あります。
 一つは武蔵の書いた五輪書「地の巻」の冒頭に「生国播磨の武士新免武蔵守藤原玄信」と記されていること。でもこれは播磨の国というだけで、高砂とはわかりません。
 二つめは、武蔵の養子伊織が奉納した、泊神社(加古川市)の棟札に「祖先は六十二代村上天皇の第七皇子具平親王から出て赤松氏に及び高祖持貞の代に時運に恵まれず、以来播州印南郡(米堕)に代々住み田原姓と改めた。伊織はその田原家の出生であるとし、武蔵については作州に新免という者があり子が無く死亡したが、その遺言を受けて武蔵、後に宮本と称す者が跡を継ぎ、その武蔵にも子がなかったため、私〔伊織)が養子になった。」と記されています。
 三つめに、北九州小倉の宮本武蔵顕彰碑は、承応三年(1654年)伊織が巌流島を望む小倉の丘に建てたもので、この碑文に「兵法天下無双播州赤松流新免武蔵玄信二天居士碑」とあり、また本文に、「播州之英産赤松末葉新免之後裔武蔵玄信号二天」とあるのは、新免武蔵は播州の名門赤松氏の子孫で、二天と号したという意味です。他にも歴史家がいろいろと検証を進めています。


『宮本武蔵出生の地か?No.2』  平成17年12月4日の神戸新聞より抜粋

ー生誕地論争も終結へー
 姫路に武蔵の痕跡が色濃く残っているのは、その生い立ちにも深く関わっている。武蔵の生誕地については、明治以来さまざまな説があった。美作大原(岡山県美作市)、高砂・米田、揖保郡太子町などだが、吉川英治の[宮本武蔵]で、武蔵は大原生まれとされ、長らく定説となっていた。
 しかしその後、新資料の発見や研究が進み、大原説に疑問が出された。加古川出身の魚住孝至・国際武道大教授らによる最近の武蔵研究では、高砂生誕説はほぼ確定したとみていい。
根拠は 1、武蔵の養子伊織の直系筋で北九州市小倉の宮本家に残る家系図
    2、伊織が小倉に残した「小倉碑文」
    3、小倉藩小笠原家文書の「宮本玄信(武蔵)伝」
    4、加古川市の泊(とまり)神社に伊織が奉納した棟札(むねふだ)
    5、武蔵の著書「五輪書」序文 ーなどだ。
 これらの分析で、生誕地論争は終結に向かっている。