幕末維新

■2002年
1/11、関西大の陶徳民教授は、アメリカのエール大学ステルリング記念図書館古文書部で吉田松陰がペリーにあてた手紙を発見した。ペリーの通訳として来日し、晩年、エール大教授を務めたサミュエル・ウイリアムズの私文書を集めた資料の中にあった。手紙の内容は松陰の随筆「回顧録」に記されているが、現物が発見されたのは初めて。(2003.2.19) 毎日新聞
2003/1/11
12/11、島根県東出雲町で没後100年を迎えた第12代横綱陣幕久五郎の再評価が進んでいる。同横綱は、江戸末期、幕内でわずか5敗しかせず、「負けず屋」の異名をとったが故郷ではあまり評価されていなかった。ちなみに墓は尾道市にある。(2003.2.19) 中国新聞
2002/12/11
12/5、山口県萩市椿東の「郡司鋳造所跡」が、移設保存のために撤去された。郡司家は旧毛利藩の代表的な鋳物師(いもじ)。幕末期、藩の要請で大砲などの兵器鋳造にかかわったとされる。同遺跡は、当初取り壊しの予定だったが、「幕末長州科学技術史研究会」などから保存を望む声が高まり、近くの場所に移設保存されることになった。(2002.12.13) 朝日新聞
2002/12/6
11/20、山梨県甲府市のアマチュア天文家・信清由美子氏は、幕末の夜空を彩った流星雨を回想して大正時代に描かれた墨絵を見つけた 京都新聞
2002/11/24
11/10、静岡県下田市の了仙寺は、ペリー直筆の手紙を収集し来年度にも同寺宝物館で公開する。手紙は縦16センチ、横12.5センチ。医者にあてた手紙で、自分の船の乗組員を診察してくれたお礼やペリーが乗組員の妻に伝えた内容などが記されている。(2002.12.22) 静岡新聞
2002/11/10
●静岡県富士宮市教委は平成14年度から、江戸末期の旧大宮町の町役人・角田桜岳が残した日記の解読、刊行事業に当たる。角田桜岳は、本名佐野定経、通称与市。現在の富士宮市東町出身。万野原新田の開墾や、江戸期の徴用制度、助郷(すけごう)免除の嘆願など、地域振興に尽力したと伝えられている。解読する日記は1841〜1855年のもの。平成元年八月、桜岳の曾孫・小枝子氏(故人)が「郷土研究の一助に」と寄贈した。(2002.4.9)
●2月13日、長崎県長崎市上西山町の三田村智弘氏宅にある石製の祠が、幕末の唐人屋敷の乙名(おとな=管理者)の今井善左衛門を祭ったものであることが判明した。善左衛門は、江戸町奉行の鳥居燿蔵が長崎の町年寄だった砲術家の高島秋帆を失脚させるために仕組んだとされる1842(天保13)年の「秋帆事件」に関与し、引責自殺したとされる。祠の文字から、善左衛門と親交のあった三田村氏の先祖が善左衛門の霊を慰めるために祠を建立し、1857(安政4年に現在地に移したことがわかった。またこれまで明確でなかった善左衛門の自殺についての記述があった。(2002.4.2)
●栃木県足利市内の旧家から旧足利藩の藩士たちを写した写真が見つかった。写真は名刺の大きさで、総勢14人が写っている。最前列の中央には、白鉢巻きの若侍が腰を下ろし、太刀を右肩に寄せて正面を見据えている。露出時間が長かったためか、扇子を広げ、あおいでいる姿もある。2人の女性も集合写真に並ぶ。撮影時期は1871(明治4)年ごろと推測される。この写真を撮影したのは、草雲の弟子の島霞谷が撮影したものとみられる。霞谷は、既に最後の足利藩の藩医だった渡辺休徳の写真を撮っていたことがわかっている(2002.3.7)


■2001年
●9月8日、長野県南佐久郡佐久町の「茂来山(もらいさん)たたら遺跡」で、江戸時代末期につくられた「たたら」と呼ばれる製鉄所の地下遺構が見つかった。縦約10メートル、横約8メートルにわたって、高殿の遺構が特定され、まや炉を加熱するため炭などを入れる「大舟(おおぶね)」と呼ばれる遺構も、長さ5メートル、幅最大1.4メートル、深さ90センチの規模。その周囲は粘土を張り付けた石垣になっていたたたらの遺構がはっきりと確認できたのは中部地方では初めて(2001.11.7)
●8月20日、西南戦争に従事し、薩摩軍と戦って戦死した元会津藩士の佐川官兵衛ゆかりの大石が、没後124年ぶりに熊本県から故郷の会津に帰った。今後、大石は加工されて顕彰碑となり、鶴ケ城三ノ丸にある会津若松市文化福祉センター近くに建立される(2001.10.7)
●郷土史研究家・菊地卓氏は、明治維新の混乱から足利学校の古文書を守った南画家・田崎草雲(1815〜1898)をめぐる女性たちの存在を明らかにした。氏は足利市内の旧家に保管された日誌から、草雲がアトリエとして利用した「白石山房」に移り住んで以降の女性たちの存在を調べ上げた(2001.7.24)
●7月2日、新潟県岩室村の郷土史研究家5人が富山県黒部市生地山新の浄土真宗・専念寺を訪れた。岩室村は、長岡藩の支藩だった三根山藩の旧領地で、水害に苦しみ、荒れ地が多かった。専念寺を再建した住職のおい、鷲尾景量が江戸時代初期に開墾したという。鷲尾景量は目を患い盲人になったため、針灸の技術を学んで各地を転々とし、同村を訪れた際、土をなめ「この土なら立派な田んぼができる」と農民を励まし、自らくわを持って開拓したと伝えられる。鷲尾は別名・蔦都坊(つたいちぼう)と親しまれ、同村には蔦都地蔵堂や蔦都大権現御堂などが残り、長岡市の隣の与板町には蔦都という地名があり、蔦都坊の墓が残ある。戊辰戦争で長岡藩が焦土と化した明治三年、同村は藩士の生活を見るにみかね、百俵の米を贈った。長岡藩は「その日暮らしでは立ち直れない」と米を売却して国漢学校を建て、多くの人材を育てた(2001.7.17)
●6月26日、神奈川県横浜市中区山下町のマンション建設現場で幕末から明治半ばにかけた横浜の外国人居留地時代の商館「九十一番館」の塀の一部と推定される遺構が発見された。塀は、工事現場の周辺三カ所にわたり部分的に残っていた。建設地は蚕種・生糸輸出商社の創業者でイタリア人のG・H・デローロが1870(明治3)年に商館を構えた場所。当時、九十一番館と呼ばれた。商館の規模や構造は明らかではなく、関東大震災(1923)で倒壊している(2001.7.17)
●県立長崎図書館は、オランダ通詞の業務日誌として知られる「萬記帳」の1855(安政2)年分を製本・CD-ROM化した。「萬記帳」は鎖国時代に先端の外交情報に触れていた通詞の動向などを記した史料。「萬記帳」は、出島対岸にあったオランダ通詞会所が通詞の年間行事や職務、異動などを記録。会所は1年ごとにまとめたとされるが、1814(文化11)年と安政2年しか確認されていない。1855年は日米・日英・日露和親条約が締結された翌年で、長崎海軍伝習所の設立、日蘭和親条約の締結年でもあり、全国を奔走する通詞や各藩士らの動向が書かれ、同伝習所で学んだ勝海舟の名前も記されている(2001.6.5)
●長野県飯島町の桃沢匡行氏が所蔵する毛筆書簡は、明治初期に大久保利通が勝海舟にあてた手紙の真筆であることが判明した。鑑定によると、大久保利通が勝海舟にあてた手紙で、勝が銀の地金の見本を送ったことに対する返書とわかった。同町には、明治から昭和初期にかけて勝海舟に縁ある医師が在住していたこともあり、書を中心に勝の遺品が相当数所蔵されている(2001.5.25)
●愛知県名古屋市千種区の伊藤次郎左衛門家から幕末の庶民が集団で踊り狂った「ええじゃないか」の様子を克明に書きつづった資料「天降記」が見つかった。「天降記」は上中下の三巻と触状、目録など計8点からなる。筆者は「ええじゃないか」が始まった1867(慶応3)年当時、「いとう呉服店」当主だった伊藤祐昌(すけまさ)。同記に記載されていた伊藤家の降札を分析したところ、計11回の降札のうち、同家で祭礼を行ったのは7回で、残りは町内の別の者に頼んで催されていた。初めての降札の際には、祭礼を従来通り営むとする「熱田宮御祭之節同様」との記述もあった。専門家は「世直しというより、町内単位での祭礼としての側面が色濃い」ということがわかったとしている(2001.5.25)
●佐賀県武雄市図書館・歴史資料館に寄贈された武雄鍋島家の資料の中から、薩摩藩が幕末に運営していた軍事工場「集成館」の様子などを描いた「薩州鹿児島見取絵図」が見つかった。絵図は18枚あり、なかには長さ3メートルに及ぶものもある。墨の下書きの上から、緑色を基調に彩色がされている。袋には「安政五年 戊午仲春」と書かれており、1858年春ごろにまとめられたことがわかる。同歴史資料館によると、幕末は薩摩、佐賀両藩の間で大砲製造など科学技術分野での交流が盛んだった。1857年6月に藩主・鍋島直正の命で藩士の千住大之助や精煉方主任の佐野常民らが、薩摩藩の各施設を見学している(2001.4.25)
●幕末の思想家・吉田松陰が、ペリー提督の事績を記した「ペルリ提督日本遠征記」の翻訳本を書き写したとされる文書「日本紀行」が、4月12日から霊山歴史館の「木戸孝允展」で展示される。これまでの松陰は「遠征記」の翻訳本さえ見ていなかったという定説が覆るという(20014.16)
●前田家十六代の利爲(としなり)侯爵夫人菊子氏がお輿入れの際に持参し、長女で「加賀百万石のお姫さま」と呼ばれた酒井美意子氏に伝えられたひな人形が金沢に里帰りした。菊子氏と酒井氏が学長を務めたハクビ総合学院から「加賀にお返ししたい」と酒井さんと親交のあった酒造会社会長の神谷ますみ氏に贈られた。ひな飾りは、内裏びなや三人官女、道具類などが桧皮葺 (ひわだぶき)の紫宸殿に納められ、刺繍などの細工がなされている。前田家で飾られていたが戦後、菊子氏からハクビ総合学院に寄贈されたもの(2001.3.28)
●長崎県長崎市のまちづくりを目指す長崎伝習所の「歩いて楽しめる長崎まちづくり塾」は、歴史的財産を確認しながら同市の中心市街地を散策できるマップ「上野彦馬のさんぽ道」を作製。マップの名称は、中島川沿いに住んでいた日本写真術の開祖、上野彦馬にちなんで付けた。江戸時代の地図の上に彦馬と、幕末期に長崎に「亀山社中」を創設した坂本竜馬のイメージキャラクターを配置した(2001.3.15)
●1月25日、富山県の福光町役場で塩硝の道研究会の研究会が開かれ、江戸時代末期、塩硝が大坂の市場に払い下げられていたことを示す加賀藩史料を確認したと発表した。同研究会は加賀藩が五箇山地域で製造した火薬の原料・塩硝の運搬ルートを調査している(2001.1.28)


■2000年
●宮城県陸前高田市気仙町の神社が保管する過去帳の記載から、幕末の剣豪千葉周作(1794〜1855年)の縁者が、陸前高田市に住んでいたことが判明。周作の陸前高田生誕説の大きな裏付けに。同市には明治時代から「千葉周作の生家」があったなどの伝承が残り、平成6年には、市内の旧家にあった江戸末期の古文書に気仙村(現陸前高田市)の医師千葉玄養の名が見つかり、周作の父と判断された(2000.12.13)
●11月15日、北海道函館の五稜郭の発掘調査で箱館奉行の東門跡が確認された。同奉行所にはほかに南側と北側の門があったとされるが、残る二つの門も存在する可能性が強まった。箱館奉行所は五稜郭が完成した1864年に函館山ふもとから移転。187年に開拓使の札幌移転に伴い建物の大半が解体された(2000.11.17)
●11月8日、函館市五稜郭町の五稜郭跡(五稜郭公園)で、五稜郭が完成した時に植えられたと言われる赤松3本は老木化がひどいために伐採されることに。五稜郭が完成した1864(元治元)年に、江戸幕府による「五稜郭御役所廉増(かどまし)御入用調」に444本の松が植えられたと記録されている(2000.11.15)
●県立長崎図書館で展示されている「露西亜船渡来ニ付港外警備ノ図」はロシア船に対する警備状況を表しているのに船はオランダ国旗を掲げ、関係者が船の国籍について首をひねっている(2000.10.26)
●幕末〜明治初期にかけて出島の一角に写真撮影所があったとする説がでてきた。当時のオランダ人医学教師アントニウス・フランシスクス・ボードウィンが1863年、出島内の庭に箱形の独立したスタジオ(撮影所)を建設し、来客らを撮影したという(2000.10.21)
●毛利藩の鋳物師・郡司家(萩市の鋳造所跡から、幕末期の砲弾鋳型や大砲鋳造に使ったと見られる遺構が見つかった。郡司家は江戸時代初期、毛利秀就に大砲鋳造を命じられ防府から萩に移住。また同家はペリー来航の1853(嘉永六)年、藩命で銃砲鋳造所に指定されたことが文献にある(2000.10,19)

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