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●神戸市教委などは、兵庫区西柳原町の柳原蛭子神社境内から旧西国街道・兵庫津の西玄関に当たる「柳原惣門」跡を発掘した。惣門跡は境内の北端で、一辺が約1.1メートルの土杭2基が出土。門のすぐ近くから一部が欠けているものの、「東尼崎領」と刻まれた石柱も出土。場所は、旧尼崎藩の元禄絵図を基に位置を割り出した。(2002.10.10) |
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●9月24日、京都市右京区の法蔵寺境内で出土した素焼きの茶碗の破片が接合され、江戸中期の代表的な京焼の陶工・尾形乾山(けんざん)(1663〜1743)の銘が浮かびあがった。同寺の境内には乾山が窯を築いたとされ、木立雅朗・立命館大助教授らの発掘調査団が1万点を超える陶磁器片を発見した。(2002.10.6) |
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●富山県井波町の井波八幡宮御旅所内で加賀藩二代藩主・前田利長と三代・利常のそれぞれ直筆とされる花押のある木製の制札(せいさつ)2枚が見つかった。この2枚は1609(慶長14)年9月5日、利長が「庄川の流木持ち出し禁止」を触れた幅46センチ、高さ32センチのものと、1614(同19)年8月29日、利常が「井波山(現在の八乙女山北斜面中腹)の松林伐採禁止」などを告げた幅53センチ、高さ34センチのもの。いずれも昭和初めから行方不明となっていたが、御旅所三階の木箱の中から70年ぶりに発見された。(2002.10.6) |
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●9月21日、岐阜県洞戸村中央公民館で「洞戸村高賀山信仰関連調査報告会」が開催され、新たに発見された円空自筆の和歌集や神符などを発表した。高賀山は、古くから山岳信仰の山として知られ、高賀神社は9世紀ごろ、村上天皇の勅命を受けた藤原高光が妖怪を退治した時に建てたという伝説がある。江戸時代に同寺に円空も入山したと言われている。これまで学術的な調査はほとんど行われていなかったが、本格的な調査のより円空直筆の和歌50首と神符10点が見つかった。(2002.9.25) |
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●9月13日、岐阜県土岐市の陶器焼成窯の遺構「窯ケ根窯跡」で見つかった連房式登り窯「窯ケ根四号窯」は、17世紀前半のものであることが判明した。連房式登り窯は階段状に焼成室(房)が連なり、大量生産が可能な形態。美濃には17世紀初頭に九州の唐津から伝わり、同地区にある「元屋敷窯跡」(房数14)に導入された。今回の窯ケ根四号窯は元屋敷窯跡から約100メートル北にあり、火を通すための狭間穴の形状が同じ横狭間式であることから、元屋敷窯の後継窯ではないかとみられる。(2002.9.25) |
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●8月8日、東京国立博物館で江戸時代の測量家・伊能忠敬が作製した「大日本沿海輿地(よち)全図」のうち「小図」と呼ばれる三枚そろいの地図が所蔵されていた。昌平坂学問所の資料を引き継いだ東京国立博物館の絵画用倉庫で長年保管されていたもので、博物館の目録には「日本国図」とだけ記載されていたが、資料整理の過程で伊能図であることが判明した。「小図」には江戸幕府の教育機関だった昌平坂学問所の印が押されており、同学問所に提出されたものという。幕府に正式に上呈した地図は焼失したとみられている。伊能図は全国を214枚の地図で描いた「大図」、8枚に分けた「中図」、3枚組の「小図」がある。これまで見つかっている小図は四つあったが、3枚がそろったものは英国の海事博物館に所蔵されている一つだけで、これも伊能らの作った図を江戸期に写したものという。伊能忠敬らが描いたオリジナルが確認されたのは初めて。(2002.8.13) |
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●5月21日、埼玉県大里郡妻沼町の歓喜院聖天山(鈴木英全院主)の貴惣門(きそうもん)の名前の由来が門の造りの形式だったことが判明した。貴惣門は同院聖天堂の正門にあたり、高さ約16メートルの大規模な二重の八脚門。江戸時代末期の1855(安政2)年に建造された。同門をめぐっては、名称の由来をはじめ、洪水時の利根川の堤防改修で同所を訪れ、のちに設計図を送った周防国岩国の工匠長・長谷川重右ヱ門が「使用後は設計図を火中に入れて捨てるよう」に書簡で指示したほか、その後100年間も設計図が保管され建造が実現するなど、いくつかの謎があった。同院の依頼を受けた同町教委の調査団が岩国市を訪れ、長谷川家の資料などを確認。その資料の中に、京都御所で天皇の行幸時に使われた承明門(じょうめいもん)が江戸時代中期に「貴惣門造り」で建造されたことを示す古文書があり、貴惣門が三つの屋根を持つ二重構造の門の造りの形式を示すことがわかった。(2002.6.24) |
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●石川県志賀町の民家で、丹羽郡稲木庄浅野村(現・愛知県一宮市浅野)を描いたとみられる絵図の下書きが見つかった。約60センチ四方で、村内の道路や用水、神社仏閣が色付きで細かく表現され「寛政四年」と記されている。さらに年号に交じって下部に「村内 東西何町南北何町」「人数何人」などと記されている。持ち主が古物商から屏風を購入し、補修しようと上張りをはがした際、中から折り畳んだ状態で出てきたという。(2002.4.24) |
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●埼玉県坂戸市の山田泰男氏は、「八百屋お七」の手習いの師とされる川越藩士・藤田佐助(1647〜1746)の墓石が、川越市元町の大蓮寺に現存しているのを見つけた。2001年12月、墓石の調査で大蓮寺を訪れた山田さんが、無縁墓として山積みされていた墓石の中から、「藤田佐助」の文字がある石に気づいた。藤田佐助は、古文書「武蔵三芳野名勝図絵」に「貞陸」の俳号で登場している。(2002.4.11) |
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●埼玉県騎西町の「騎西城武家屋敷跡」から江戸時代初期のものとみられる木製の荷札が出土した。同荷札は、屋敷跡に残る素掘りの古井戸跡から見つかった。長方形で上部両脇にひもを掛けるえぐり込みがあり、長さ15センチ、幅2センチ、厚さ3ミリ。表面には「安兵衛様 勘久良」、裏面には「あ王び 弐斗也 江戸より」と墨文字で記されている。(2002.4.11) |
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●徳島県佐那河内村下字の尾尻峠にある墓は、江戸時代中期の淡路の人形遣いと木偶(でこ)の墓だったことが、徳島民俗学会会員・橘禎男氏の調査で判明した。この墓は、地元では、写書した法華経を六十六カ所の霊場に納めて旅した僧「六部(ろくぶ)」の墓と伝えられてきた。墓石は三段重ね。上段には「宝暦七丁丑 十二月廾五日」「淡州三原郡市組三条村道薫坊回シ太郎松儀此所而病死仕候 以上」の銘文が刻まれ、「六部」の文字は見当たらなかった。県文化振興財団の坂本憲一事業部主幹にこの銘文を見てもらったところ「宝暦七」は1757年、「三条村」は木偶発祥の地、「道薫坊(どうくんぼう)」は淡路の人形遣いの肩書と判明した。(2002.4.9) |
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●長野県諏訪市内の旧家で、徳川家康が二代将軍秀忠の夫人にあてた訓戒状の写しとみられる巻物が見つかった。書写の日付は江戸時代後期の1824(天保13)年。訓戒状は秀忠の正室にあてた私文書。後に三代将軍になる竹千代を疎み、弟の国松を愛して嗣子に立てようとした夫人に対し、家康が長幼の序を正したのが主な内容。将来を決める幼少時の教育に対する家康の心配が、訓示となって表れている。同様な内容の書写は東京の徳川黎明会所蔵本などにもあるが、地方では珍しい。東京の同所蔵本、内閣文庫、名古屋の蓬左文庫にある家康の訓戒状の写しとほぼ同じことがわかっている。(2002.4.6) |
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●2月5日、滋賀県彦根市の滋賀大経済学部付属資料館で、江戸後期の商人屋敷「旧伴家住宅」の明治初期の間取り図が見つかった。図は約70センチ四方で、一階の井戸やかまど、広間、階段などが墨や朱で精巧に描かれている。だれが何のために作製したかはわかっていない。旧伴家住宅は木造三階建てで、商人伴庄右衛門の本宅として文政年間に建てられた。明治中期に町に譲渡され、小学校に改築。昭和20年代には図書館に利用された。採光用の天井窓や、巧みに柱を組んで耐震構造を持たせた「地震の間」などがある。(2002.3.27) |
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●2月5日、長崎県長崎市の「出島和蘭商館跡」で、19世紀半ばに日本に持ち込まれ、埋めたとみられる洋式拳銃1丁と未使用の銃弾21発などが出土した。見つかったのは、口径約1.2センチ、全長約31センチのリボルバー(回転式連発)式拳銃。フランス人のル・フォシェーが開発し、1845年からしばらくの間、ヨーロッパ各地で生産されたタイプの銃の一種類とみられるという。出土地点はかつてカピタン(商館長)部屋が建っていた場所。(2002.3.27) |
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●京都市南区の洛南高のグラウンド発掘調査で、地鎮のために埋めたと見られる江戸後期の素焼きのつぼが見つかった。東寺の子院の門と見られる遺構周辺で四カ所から出土した。つぼの中から遺物は確認されていないが、稲など五穀や五香を紙に包んで入れていたと考えられる。地鎮の祭礼は室町時代には全国に広まり、東寺の僧侶が普及に大きな役割を果たしたとされている。(2002.3.27) |
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●島根県邑智町の木積八幡宮で保管されていた26枚の神楽面は、江戸時代に制作・奉納されたものと判明した。神、鬼、翁、里人など、さまざまな表情の面は、神社隣の宮司宅を新築した際や本殿修理時に見つかった。裏には「故屋敷 常兵衛」などと奉納したらしい人物の屋号と名前も残る(2002.3.22) |
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●1月23日、和歌山県南部町芝地内の「旧安養寺」埋蔵文化財発掘調査で、石積みに囲まれていると見られる長さ約20メートルの基壇跡らしい高まりが発見された。この場所には文献や言い伝えから、安養寺が明治初期まで建っていたことがわかっているが、江戸時代以前の状況がはっきりしていない。また、周辺の状況から江戸時代後期に大がかりな改修が行われた跡があるが、基壇に関してはその時も触られた痕跡がない(2002.3.11) |
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●12月5日、奈良県奈良市高畑町の「旧大乗院庭園跡」から、江戸期の絵図に描かれた同時代の池の遺構が確認された。検出されたのは、庭園北西に位置する西小池と呼ばれる小規模な池のうち最も北の部分。池の北側からは、漆喰で固めた小池の南端と、この池からあふれ出た水を流し落とす階段状の石組みを確認。2段の石組みは幅20〜30センチほどの石を並べて作られている。また、西小池に近接した建物の排水を浄化する施設も検出された(2001.12.19) |
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●奈良県橿原市今井町で、江戸時代の南北の門跡が見つかった。南口門跡は今井町の形成の核となった称念寺の南側で見つかった。礎石を安定させる「根固め石」が残っており、東西3.6メートル、南北2.1メートル。「薬医門」と推定できる。位置は現在の道路から東側にずれており、まっすぐ町中に入れない「鍵手」の構造だったこともわかった。同町には環濠に沿って九つの門があったが、西口門と伝えられる春日神社境内の門を除いて現存していない(2001.12.19) |
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●9月7日、長野県辰野町宮木下町の「天狗坂遺跡」の石造物群の供養塔背後から、江戸時代の銅銭「寛永通宝」などを納めた石櫃(せきひつ)が出土した。供養塔の後方に北西向きに埋まっていた安山岩の石櫃は、縦55センチ、横38センチ、深さ15センチ。発見者によると、石櫃内からは10〜20枚ずつ、松脂で貼り付けるようにして積み上げた寛永通宝などの銅銭141枚が出てきたという。出土した場所は、地元では「天狗さまの森」と呼ばれていた場所(2001.11.7) |
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●東京都葛飾区金町の元文京区職員・増田善之助氏は、40年近くにわたり江戸時代の絵図や古文書を資料に、絵図を書き起こしている。現在の地図をベースに、当時の絵図を重ね合わせ、あちこちの寺などから見せてもらった古文書や、古老らから取材して得た話で当時の絵図の不正確な部分を修正、空白の部分を書き加えていく(2001.10.25) |
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●熊本県八代郡東陽村南の橋本脩成氏の自宅から、「肥後の石工」が熊本市の明八橋などを自ら手掛けたことを裏付ける文書類が、初めて見つかった。橋本氏は、八代郡東陽村の種山石工集団の代表格・橋本勘五郎のひ孫に当たる。勘五郎は1822(文政5)年、八代郡種山手永北種山村(現東陽村)に生まれた。兄・宇一が棟梁を務めた上益城郡矢部町の通潤橋工事に副棟梁として参加したほか東京の旧江戸橋、万世橋など多数の石橋架橋や護岸工事を手掛けた(2001.10.25) |
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●8月31日、富山県砺波市の千光寺・観音堂の建立時期が江戸時代後期の1819(文政2)年であることが同寺の古文書調査で判明した。千光寺は奈良時代の703(大宝3)年開山と伝えられる真言宗の古刹。加賀二代藩主・前田利長のころには藩の祈祷所となり、信仰を集めた。寺院に残る棟札や記録などから、現存する本堂は1751(宝暦元)年、山門は1797(寛政9)年の建立とわかっていたが、観音堂については諸説が混在していた(2001.10.7) |
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●長野県伊那市西町区所有の古文書の中から、1811(文化8)年に伊那市の伊那部宿へやって来た伊能忠敬の測量隊を「問屋」が迎えるため、家屋の修理許可を高遠藩に求めた「願い状」の写しが見つかった。文書は同年4月、当時の西町村(現西町区)の問屋弥治兵衛が同藩に出したB4判大の願い状の写し(2001.10.7) |
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●奈良県大和郡山市馬司町の中世の集落遺跡「馬司(まつかさ)遺跡」で、人為的に埋められた遺構の土から、約250点の唐津焼が出土していた。高価な中世の唐津焼は在地領主らの「ステータスシンボル」として珍重され、農村部での大量出土例は全国的にも珍しいという。市教委によると、1580(天正8)年の破城令以降、江戸幕府は武力の象徴である農村部の集落の環濠や溝を強制的に埋めさせ、ステータスシンボルである唐津焼を破棄させることで、中央集権的な支配体制を確立。馬司遺跡も同様の経緯で成立したとされる(2001.9.24) |
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●石川考古学研究会の出越茂和氏の調査で、石川県金沢市の野田山墓地の成立過程が明らかになった。同墓地には、前田利家(1599年没)とまつ(1617年没)のほか、利家の兄利久(1587年没)、二代藩主利長(1614年没)をはじめ、幸(1616年没)豪(1634年没)千世(1641年没)といった他家や家臣に嫁いだ夫妻の子も含まれていた。同墓地は、17世紀前半に藩祖・利家とまつの家族を葬った墓地を山頂付近に造った後、同世紀中ごろには歴代藩主と正室の墓をやや低い斜面に、有力家臣・八家の墓を中腹に築くなど整理されて成立した(2001.9.18) |
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●8月6日、京都市北区の大徳寺の「唐門」(国宝)の屋根裏から、門が伝承通りに聚楽第の遺構だったことを示す江戸時代初めと明治時代の棟札2枚が見つかった。
唐門は同寺方丈の南に建つ切り妻造り、ひわだぶきの四脚門。聚楽第の遺構とされてきたが、正確な記録はなかった。今回の調査で、初めて屋根裏の棟木の側面に2枚の棟札が張り付けてあるのを確認された。
1枚は1603(慶長8)年の日付があり、越後の村上城主だった村上頼勝が、「官門」を同寺塔頭に寄付した、と記録。もう1枚は1899(明治32)年の棟札で、「此門元在聚楽亭(中略)慶長年間移」と記されていた(2001.9.12) |
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●8月3日、広島県福山市南部の鞆港に残る江戸期の港湾施設の歴史的価値を明らかにしようと、日本大理工学部交通土木学科の伊東孝教授の研究室が現地調査を開始した。鞆港内の四つの波止については、広島県の港湾台帳の図面は歴史的遺産の調査には不十分として、メジャーや水準器を使って測量し、図面制作を試みる。うち三つは江戸時代の築造とされ、石の大きさや石組みの状態も調べて年代や特徴を分析する(2001.8.25) |
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●山口県萩市堀内の大野毛利家上屋敷跡で、江戸時代中期に流行した暦茶わんが出土した。当時大量に作られた日用雑器だが、現存するものは非常に少ない(2001.8.25) |
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●8月3日、福井県福井市のJR福井駅西側の発掘現場で行われた福井城跡発掘調査の中間発表が発表された。江戸時代初期から中期の層で福井城の南側、大野に向かう街道沿いの部分が発掘されている。砂利で舗装された街道を挟んで武家屋敷と町屋敷が並んでおり、もとは沼地だった場所を埋め立てて宅地を造成したことが確認されていた。町屋敷からは、井戸や水路などの遺構が発見されており、水路の石組みなどは、笏谷(しゃくだに)石を積み上げる高度な技術が用いられている(2001.8.23) |
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●8月2日、三重県伊勢市に伊勢神宮外宮北部周辺の古地図が寄贈され公表された。同地図は美濃紙を張り合わせた縦170センチ、横230センチで下方が北になっている。宮後の月夜見宮をほぼ中心に船江、神田久志本、勢田、宮川町まで周辺が描かれている。当時の道や町名が詳細に描かれ、道の長さが歩数による実測値で記入されている。市史編纂係は「安政年間(1854〜1859)の地図とみられる。市内の地図で詳細に実測値まで書かれたものは珍しい」としている(2001.8.23) |
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●北海道伊達市の伊達市開拓記念館の収蔵庫から伊達開拓を進めた亘理伊達家の由緒ある指小旗(さしこばた)が見つかった。指小旗は、いくさの際、武将が自分の目印として背中に差す旗で、今回見つかったのは、高さ約2.6メートル、幅約1.1メートルの絹製藍染め。さおを通すための乳(ち)と呼ばれる馬皮には、金ぱくが施されている。仙台市博物館の鑑定の結果、同博物館にある亘理伊達家の初代当主、伊達成実(1568〜1646)の自画像の中に同様の指小旗が描かれているほか、伊達家重臣の指小旗や陣旗などを描いた図録にある亘理伊達家の指小旗と、絵柄や寸法がまったく同じと判明(2001.8.23) |
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●岩手県玉山村の民家から、江戸時代、盛岡藩が盛岡城の一角に設けていた能舞台(能楽堂)の実測立面図が見つかった。見つかった図は、能舞台の正面図で「御新丸御舞台御絵図」と銘打たれている。一間を6尺5寸とする京間三間(約6メートル)の正面間口で、盛岡藩お家流の宝生流を伝える千鳥破風の御殿造り。天保6(1835)年に柵山左市兵衛が記したとある。図をかいた柵山の家は代々、盛岡藩の御作事所(土木部門)の筆頭棟梁だった。立面図の存在が明らかになったのは初めて。この民家からはほかにも、11代藩主南部利敬のひつぎの絵図や、盛岡城2階やぐら増設普請図などが見つかっている(2001.8.23) |
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●7月28日、江戸時代、高田藩家老として頚城平野に中江用水をつくるなどの功績を残した小栗美作(みまさか)の子孫が先祖の足跡をたどろうと上越市を訪れた。一行は群馬、神奈川、熊本各県在住の子孫合わせて17人で同市寺町にある美作と妻・お勘の墓を相次いで訪れ、花を手向けて菩提を弔った(2001.8.22) |
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●宮城県の坂田啓氏に米ハワイ州のイオンド大はこのほど、歴史学の名誉博士号を贈った。坂田氏は1978年、1貫文以上の旧仙台藩士の出自と、10貫文以上の藩士の系図の研究に着手。4500家を取り上げ、17年かけて『私本・仙台藩士事典』を自費出版。さらに5年かけ、原稿用紙1600枚分を書き足し、昨年5月、改訂版を出版した。こうした業績が評価され、1998年、日本家系図学会の「丹羽記念学術賞」を、さらに2000年には「宮城地域史学協議会賞」を受賞している(2001.8.22) |
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●7月27日、海上保安庁の海底調査で1640年(寛永17年)の駒ケ岳噴火で、大津波の原因となった山体崩壊の跡が確認された。同庁が昨年6月と7月に実施した音波探査などによると、痕跡はほぼ台形で、北西から南東方向に長さ約10キロ、幅約5キロで厚さは2〜4メートル。表面には、火山の泥流や山体崩壊の跡に特徴的にみられる突起状のギザギザが広がっている。江戸時代の1640年の噴火は記録に残るものでは最古。7月31日の噴火で山頂部が崩壊、大量の土砂や岩塊が噴火湾になだれ込み、津波で700人あまりの犠牲者が出た(2001.8.10) |
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●7月22日、島根県出雲市市知井宮町の多聞院所蔵の書籍から竹などをとがらせた筆記用具「角筆」で記した文献12点28冊が見つかった。角筆は、墨を使わず、筆圧で紙をへこませて書く。墨で書かれた文書の行間や空白に、覚書や注釈、読み仮名など、私的に書き込まれたものが多い。今回は江戸から明治時代にかけての経の注釈書、論語などに記されていた(2001.8.6) |
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●7月18日、京都市内の古美術店で本居宣長の直筆の手紙が見つかった。手紙は、弟子の若山東九郎にあてで、縦約15センチ、横約60センチの和紙に几帳面な文字でつづられている。公家らの招きで京都を訪れ、「源氏物語」や歌論書「詠歌之大概」などを昼夜にわたって講義したことを記している。また「京師も追々古学弘まり可申様子にて、至大慶候…」と、京でも国学が広まっていることを素直に喜んでいる。発見した京都大文学研究科の柏倉康夫教授によると、宣長没年のものとみられる(2001.8.6) |
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●愛知県名古屋市中区の古書店・東文堂書店で、1855(安政2)年、1862(文久2)年の年号ものと、1859(安政6)年ごろのものと推定される名古屋場所の相撲の番付が見つかった。興行場所は「七ツ寺」など中区大須にあった三寺院で、10月や5月の「晴天十日」などに開かれることが記されている。当時、江戸では1、2月と11月の年2回、場所が開かれ、毎年夏、関西に巡業に出ていたため、巡業の旅の途中、名古屋に寄って興行していたらしい(2001.7.31) |
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●「伊能忠敬研究会」は、米国議会図書館で伊能忠敬がつくった「大図」と呼ばれる日本地図の写し206枚を発見し、そのうちの22枚を公開した。写しは1枚が畳1枚分の大きさ。約二百年前の地名や城、集落が丁寧に書き込まれ、街道や海岸線など測量に用いた線が赤で描かれている。大図は日本列島を214に分け縮尺3万6000分の1で描かれ、近代の全国地図の基になったが、原図は火災などで焼失。写しも関東周辺の約60枚しか見つかっていなかった(2001.7.31) |
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●青森県深浦町の「尾上山遺跡」から、江戸時代の主要街道「西浜街道」と思われる街道跡が見つかった。同街道は、弘前城から鯵ケ沢〜深浦〜岩崎〜秋田県能代市に至り、江戸時代初期に津軽藩の参勤交代時に利用されていた。幅は約4.5メートルで、江戸時代の主要街道が発掘調査によって見つかったのは初めて(2001.7.27) |
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●京都市北区紫野の山田政博氏は、西本願寺の国宝・飛雲閣の、建材や内装までも再現した精巧な模型を作成している。元京都市職員の山田氏は約70年前の飛雲閣の図面の写しを取り寄せ、1997年に宗派の許可を得て製作を始めた。飛雲閣は、西本願寺境内の滴翠園に立つ三層の楼閣。豊臣秀吉の聚楽第の遺構を、江戸時代初期に移築したとされる(2001.7.27) |
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●7月15日、長野県高遠町の芝平集会所で高遠と諏訪の入会権をめぐる江戸時代の芝平山紛争の歴史を伝える古絵図が虫干しされ、1年ぶりに公開された。江戸時代中期に、諏訪地方の12カ村住民が、高遠方面に入り込んでは木を切るようになり、山紛争に発展した。古絵図は、1708(宝永5)年に江戸評定所で判決が出た際に描かれた。畳二畳半の大きさで、山の様子が克明に描かれ、裏面に芝平山は「高遠六カ村の他は入るべからず」とした判決文が記されている(2001.7.24) |
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●7月4日、長崎県長崎市に「出島麁(あら)絵図」などが、収集した郷土史家で故人の馬場誠氏の遺族によって寄贈された。同絵図は、1810年ごろ作られた出島の略地図。建物の名称まで克明に示され、これまでも出島復元整備の基礎資料となっている。ほかに、建てたのが幕府か町人かなどによって建物ごとに色分けされた地図「出嶋歩刻(ほこく)之図」などもあわせて寄贈された(2001.7.22) |
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●愛知県犬山市の尾張冨士(標高275メートル)に石を運び上げる奇祭「石上祭」(いしあげまつり)の歴史を伝えようと、地元住民が祭りのルーツを探る報告書を作成した。石上祭は8人、16人、32人などの単位で「石連」というグループを組み、重さ200キロ〜1トン近い巨石を山頂に運ぶ。祭りの由来はこれまで、尾張冨士大宮浅間神社の祭神が「隣の本宮山(標高292メートル)より山の背を高くしてほしい」とお告げをした伝説で知られていた。今回の調査では、1914(大正3)年に献上された石碑に「天保七(一八三六)年、飢饉に苦しむ農民が豊作を祈願したのが始まり」という趣旨が刻まれているのを確認した(2001.7.22) |
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●富山県新湊市博物館の調査で、加賀、富山両藩の土地を1カ所にまとめるために行われた「領地替え」の様子を示す「加賀藩、富山藩領地替え境界絵図」の大部分が見つかった。1639(寛永16)年、越中を支配していた三代藩主・前田利常は家督を長男に譲るとともに、他の子供たちには数カ所に分散した富山藩と大聖寺藩を分け与えた。しかし、統治の利便性から利常没後の1660年(万治3)年には各藩の土地を1カ所にまとめるために領地替えが行われた。絵図はその際、新川郡の神通川以東と常願寺川の間で新たにできた富山藩と加賀藩の境界線が赤い線で示され、同意した両藩代表の署名も記されている(2001.7.13) |
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●広島県福山市北本庄にある芦田川中州の「北本庄河床遺跡」から江戸時代の農業用水路とみられる「木樋(もくひ)」が見つかり、国土交通省福山工事事務所が今秋から本格的な発掘調査に取り掛かる。出土した木樋は、長さ約11メートル、幅と深さはそれぞれ約40センチ。木製のふたも一部に残っており、地下を通っていたとみられる。木樋に続く長さ約2メートル、幅約1メートル、深さ約40センチの石組みも見つかった(2001.7.10) |
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●愛知県犬山市の松本照洋氏は、数年前に仏像の内部から見つかった江戸時代中期の写経を大切に保存している。縦10センチの巻物に法華経の一部「観音経」が書かれ、巻頭には「武州江戸住人 河合恭賢」と名が記されている。日付は、徳川吉宗将軍の治世末期の「延享四(1747)年十月十三日」とある(2001.7.10) |
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●京都市東山区の泉涌寺で西に面する大門(重文)が、かつては南北に面する門だったことが、大門に書き残された墨書から明らかになった。同門は、幅約6メートル、高さ約7.6メートル、切妻造本瓦ぶきの四脚門。大門の建立や修理の経過などは明らかになっていないが、江戸中期の泉涌寺の文書には、御所の南門が寄進されたと記されている。府教委文化財保護課は、装飾用の彫刻や門の規模から、1611(慶長16)年造営の御所の遺構で、御所から寄進を受けた際に、向きを90度変えて移築されたとみている(2001.7.1) |
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●栃木県足利市にある三崎稲荷神社の大絵馬に「寛信」の署名があるのを、地元の絵馬研究家小倉喜兵衛氏が発見し、同絵馬は江戸幕府の画員だった文化年間の狩野派一派「浜町狩野」に融川寛信のものと確認された。また、同神社から発見されていた別の大絵馬にあった署名「春信」についても調べたところ、天保年間の「駿河台狩野」の中に洞益春信(よしのぶ)の名を見つけた。同神社一帯は旧古河藩の飛び地で、将軍吉宗の御殿医頭になった同地出身の丸山昌定が江戸小石川の三崎稲荷大明神を1722年に遷座したとされる(2001.6.29) |
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●5月21日、映画『郡上一揆』の神山征二郎監督らが岐阜県庁でこれまでの上映実績を発表した。同映画は、江戸中期に郡上地方で起こった農民の蜂起を描きた。4億円の製作費の回収率は、今のところ概算で3分の1程度にとどまると述べた(2001.6.11) |
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●長崎県長崎市寺町あるシーボルトの妻、楠本滝と娘イネ、弟子の二宮敬作の功績をたたえた顕彰碑の説明板が新しくされた。改修された説明板には、シーボルトのカラーの肖像画を加えたほか、イネと二宮敬作の晩年の肖像画を青年期のものに変更。研究の成果に基づき、説明文も一部手直しした(2001.6.3) |
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●オランダ・ヒルバーサン市郊外の博物館の所蔵品から、江戸時代の出島の出入り絵師・川原慶賀が長崎の年中行事「長崎くんち」などをモチーフにした2点が発見された。長崎くんちの絵は、出し物を約250人の観客が囲み、にぎわう様子を描いた。シーボルトらに依頼された絵に比べ、細部まで詳細に描かれているのが特徴。「絵の中に『文政十一年』(1830年)と年号が書かれており、シーボルトの国外追放後の作品とみて間違いない」とされている(2001.6.3) |
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●5月12日、京都市左京区の京都府立総合資料館の収蔵作品の中から江戸時代に来日した朝鮮通信使の行列風景を描いた絵が見つかった。同資料館に寄贈された吉川観方コレクションの作品。これまで名札が「琉球人年賀行列」となっていたため気づかれなかった。落款はないが、神戸市立博物館蔵の「朝鮮人来朝図」に酷似している(2001.6.2) |
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●5月18日、北海道網走管内置戸町の寺町定市氏宅にある木彫りの仏像が、江戸時代初期の僧侶・円空の作った仏像「円空仏」であることが鑑定で明らかになった。仏像は台座に座った聖観音像で、寺町氏の祖父、宮治郎氏が1917年(大正6年)、現在の岐阜市から現在の網走管内訓子府町に入植した時に持ち込み、仏壇に飾ってあった。円空は岐阜の美濃地方の生まれ。中部地方を中心に全国を行脚し、独特の荒削りなタッチの木彫りの仏像「円空仏」を12万体残したといわれる。全国で5000体、道内では道南を中心に40体ほどが確認されており、4体が道の指定文化財になっている(2001.5.29) |
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●支倉常長ら慶長遣欧使節が立ち寄ったキューバでの足跡を探ろうと、慶長遣欧使節船協会が派遣した調査団がこのほど帰国した。常長の滞在に直接関係する新史料は見つからなかったものの、調査団は結果をまとめ、今秋開かれるシンポジウムなどで発表する。ハバナ市では研究者やカトリック教会関係者らとの面談や旧市街の調査を通して、使節の宿泊先として、当時の総督邸(現フェルサ要塞、有力者だったラサ一族の邸宅、フランシスコ会の修道院、郊外の別荘地が挙げられることがわかった(2001.5.29)関連記事 |
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●5月8日、富山県富山市の「千原崎遺跡」で1995年4月に発見された出土物が江戸時代の「炭化おにぎり」だったと判明した。江戸時代の港町宿場跡である同遺跡の建物跡や穴から出土。当初は木などの炭化物とみられていた。一緒に出土した越中瀬戸焼から、江戸時代初めごろとみられる。北陸地方で炭化おにぎりが発見された例は、石川県鹿西町杉谷の「チャノバタケ遺跡」など4例ある(2001.5.28) |
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●福井県武生市中平吹町の日野神社に、江戸初期の府中城主・本多富正が日野山頂に奥の院三社を寄進したことを示す棟札が保存されていることが判明した。棟札は長さ約75センチ、幅約23センチで剣先形の松の板製。表に「三所権現鎮護国家処」の文字と祈願文、裏には「三宇建立者本多伊豆守富正公」の文字と1628(寛永5)年7月の日付が記されている。仏教的な記述があるため、明治初めの神仏分離令で山頂からふもとの神社に下ろされたらしい(2001.5.28) |
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●5月15日、三重県松阪市の小川恒太郎氏は、自らがまとめた資料集「三井文庫における勢州三井松坂店資料集成」を市へ寄贈した。氏は、松阪出身の江戸時代の豪商・三井高利について、三井家発祥の地である地元の住民がよく知らないことに気付き、東京都の三井文庫に何度も足を運び、松阪に関係のあるものを抜粋。資料のコピーは約2000枚にも上った。著作権の関係で出版できないため、集めた資料をすべて自らワープロで打ち直し、製本にこぎ着けた(2001.5.25) |
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●福井県福井市の大安禅寺所蔵「南蛮船図屏風(びょうぶ)」は、カルタのポルトガル伝来説を裏付ける関連の文献、図録として国内最古であることが江橋崇・法政大教授の研究で判明した。屏風には日本に来航した南蛮船が描かれ、甲板上にカルタ遊びに興じる5人組がいる。遊んでいるゲームはセブンブリッジのように場からカードを取って手役を作り、得点を競う類のものとみられる。またカルタは裏が金色になっているが、伝来初期のカルタは裏にも絵が描かれていたとされているが鎖国時代にキリスト教関係の図柄を隠すため、屏風自体が塗り替えられたのではないかとみている(2001.5.24) |
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●島根県松江市の民家から江戸時代に描かれた大型の蝦夷図が見つかった。この地図は1785(天明5)年のもので、横73センチ、縦1メートル50センチ。和紙に岩絵の具で描かれた。実地調査されてないため、実際の北海道と地形が大きく異なっている。松前藩で模写され、江戸や京都などの大都市を経て、松江藩に渡ったものとみられる(2001.5.22) |
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●北海道稚内市教育委員会は、昨年調査した「声問川右岸1・2遺跡」の報告書をまとめた。道北では初の発掘となった18〜19世紀(江戸時代)のアイヌ文化期の畑の畝や、本州やユーラシア大陸が起源とみられる石製キセルなどを紹介。石製キセルは、当時、本州で多く使われていた横長のものと、大陸からサハリンを経由して入ったとみられる縦長の二種類が見つかっている(2001.5.15) |
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●4月18日、新潟県新発田市に「新発田藩士久米幸太郎兄弟の仇討ち」に関する古文書が寄贈された。久米兄弟の仇討ちは、江戸時代後期に行われた。敵を捜して30年も全国各地を渡り歩き、仙台藩領内の祝田浜(現・宮城県石巻市)で宿願を果たした。41年目の成就ということもあり、菊池寛の小説「仇討三態」の題材にもなっている。寄贈したのは仇討ちに立ち会った板倉貞次重明の末流で、板倉家は代々新発田藩に仕えていた(2001.5.8) |
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●4月21日、昨年夏に立山の雄山の西側直下に広がる山崎カール(圏谷)内で見つかった大量のケヤキの建築部材は、江戸時代末期に建てられた旧雄山神社峰本社より、さらに古い社殿に使われていた木材である可能性の高いことが判明した。専門家によると、江戸時代に峰本社建て替えのため解体して出た木材は、雄山頂上から黒部川方向の東側の谷に投げ落とすのが慣例だったという(2001.5.2) |
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●4月16日、東京都豊島区は、発掘調査中の「巣鴨遺跡」にある鍛冶屋跡の地中に青銅製の観音像が埋められているのを見つけた。観音像の高さ3.8センチ、重さ10グラム目的は不明だが、仕事場を神聖視する鍛冶職人特有の習慣か、商家などにも広く行われていたか、何らかの信仰に基づく地鎮の目的がうかがえるという(2001.4.27) |
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●4月16日、山梨県中巨摩郡甲西町の民家から南巨摩郡鰍沢町の「鰍沢河岸」の姿を記録した多数の絵図や絵画などが見つかった。鰍沢河岸は、江戸時代から明治初期まで富士川舟運の船着き場の一つで、甲州の流通拠点として栄えた。見つかったのは、同河岸の中心街である白子地区の土地割を記した絵図をはじめ幕府や他藩の米蔵図など30点を超える(2001.4.25) |
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●愛知県犬山市外町の公民館で、江戸時代の外町の車山(やま)に乗っていた、からくり「七夕」で使われた「ひこ星」(牽牛)「織り姫」(織女)と思われる男女の人形が見つかった。実物なら少なくとも170年以上前の物となり、関係者は驚いている。外町は江戸時代前期の1674(延宝2)年から車山を出し、からくりは「七夕」だったとされる。江戸後期の1795(寛政7)年に描かれた「犬山祭行粧絵図」でも、後光を指したひこ星と織り姫が向き合う姿が紹介され、見つかった人形と酷似している(2001.4.24) |
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●4月5日、高知県高岡郡佐川町奥の土居の青山文庫に船磁石が寄贈された。船磁石は、今でいう羅針盤。直径10.3センチ、厚さ4センチの木製。「子、丑…」と12の方位を現在でもきちんと磁石が指し示す。江戸時代には大名や家老は自らの軍船を持っており、今回見つかった船磁石には、「文政十三年寅夏調」と書かれており、1830年の夏に作られたもの。佐川周辺を治めた山内家筆頭家老、深尾家の軍船に使われていたとみられる(20014.16) |
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●富山県高岡市木舟町の主婦・室崎寿恵子氏は数年前から、加賀前田藩にゆかりの深い富山市八幡の旧家、氷見家の足跡調べに取り組んでいる。氷見家は小杉町と下村、富山市岩瀬を結ぶ加賀藩の参勤交代往還道にあった肝煎(きもいり)と呼ばれる富農で、前田藩主の休憩所や本陣に使われた(20014.16) |
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●岐阜県上宝村は4月から、本郷村・善九郎についての映像作品づくりを始める。善九郎は、江戸後期の農民一揆「大原騒動」で地元の中心的役割を果たした農民。幕府の役人による年貢米の厳しい取り立てに反対し、集会を開いた。1774年、18歳で処刑された(2001.3.28) |
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●広島県福山市南部の鞆港で江戸中期までに円弧型の港となり、遠方から棟梁を招いて港湾機能の強化を図った
ことなどが明らかになった。日本大理工学部交通土木工学科の伊東孝教授の研究室が、2年間にわたり、 鞆の造り酒屋に伝わる「中村家日記」や、福山藩主阿部家の「阿部家文書」などを調べた結果、鞆港は1700年ごろまでに水際が円弧型の構造となり、1791年に備前の児島栄五郎、1811年に播磨の工楽松右衛門、1847年に豊後の柴田宗右衛門が波止など大規模工事に従事。その後、港の枠組みは大きく変わっていないことが判明。また船の修理場「焚場(たでば)」の位置をほぼ特定した(2001.3.21) |
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●慶長遣欧使節船協会は4月下旬、慶長遣欧使節団が立ち寄ったキューバでの足跡を探ろうとキューバに初の学術調査団を派遣する。
仙台育英学園がキューバのハバナ市に寄贈しようと制作した常長像の除幕式が4月26日に現地であることから、これに合わせてハバナに入る。スペイン・マドリードからローマまで通訳として常長らと同行したイタリア人歴史学者シピオーネ・アマチの「伊達政宗遣使録」によると、常長一行は1614年7月23日、メキシコからハバナ港に到着。8月7日に同港を出発、10月5日には南スペインのサンルーカル港に到着している。常長らのキューバ滞在は史料がほとんどなく、他の訪問地と比べ、なぞが多い。同遣使録は使節のハバナ寄港に触れたほとんど唯一の史料(2001.3.19)関連記事 |
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●画家・酒井抱一(ほういつ、1761〜1892)が、播磨を描いた掛け軸「播州室明神々事棹歌之遊女行列図」がこのほど見つかった。抱一は、酒井家初代の姫路城主・酒井忠恭の孫で、33歳で隠居後は美術など風雅の道に専心。特に、尾形光琳には影響を受け、光琳の華麗な画風を繊細な江戸風にアレンジした「江戸琳派」を完成させた(2001.3.15) |
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●3月6日、京都府京都市東山区の「中村甲刀修史館」で本多忠刻の甲冑に入っていたお守りの中を開けた。このお守りの中には、「米」と見られる文字と朱印が押された札が入っており、専門家は本多忠刻と再婚した千姫が贈った可能性が高いとしている(2001.3.11) |
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●国土交通省木曽川上流工事事務所は、「明和治水」の本格調査に乗り出した。長州義士による「明和治水」(1766(明和3)年)は投入人員が800人と推定され、工費は二十五万両。しかし、工事内容はほとんど不明。木曽三川の分流工事は「宝暦治水」が名高いが、「明和治水」はそれに次ぐ規模で行われた。「宝暦治水には『大榑川の洗堰(あらいぜき)』『油島の締め切り堤』という治水史に残る難工事があり、多数の犠牲者が出たドラマ性があるから」と指摘されている(2001.3.11) |
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●徳島県徳島市眉山町の眉山北斜面の万年山にある蜂須賀家墓所が荒れたままになっている。万年山は、十代藩主の蜂須賀重喜が1766(明和3)年に墓所として造成。藩主6人とその妻子、親族ら67人の墓がある。歴代藩主の墓や明治以降に造られた藩主らの墓は比較的保存状態がいいものの、側室や子供の墓は、墓石が倒れたり傾いたりしていて、周囲も荒れ放題。地元住民らからは、補修を求める声が上がっているが、管理している市観光課は「文化財は勝手に補修できない」としている(2001.3.11) |
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●昨年見つかった、ジョン万次郎を救助した様子などを記録した航海日誌を、自由党党首の小沢一郎さんが購入したことが判明。同氏は、ジョン万次郎財団会長でもあり、万次郎を顕彰してアメリカとの草の根交流を続けてきた関係から500万円で購入、一部を翻訳して「ジョン万次郎とその時代」(仮題)として出版することになった(2001.3.8)既報参照 |
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●3月2日、京都府京都市左京区の下鴨神社で調査中の「糺(ただす)の森」から幅約2メートルの石組遺構が見つかった。神社に伝わる江戸中期の「御蔭祭行列絵巻」には、小川のそばの仮屋で祭りを見物する武士の姿が描かれており、遺構はこの仮屋の基礎とみている(2001.3.7) |
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●3月1日、兵庫県赤穂市加里屋に残る元禄時代の町屋跡から、池泉と呼ばれる人工池の跡がみつかった。江戸中期以降、都市部の町屋では、池などのある庭園づくりが盛んだったとされているが、今回の池泉が庭園の池だったかどうかは不明。江戸中期の町人屋敷内で池泉跡が見つかるのは珍しく、「庭園に造られた観賞用か防火用水だったのではないか」としている(2001.3.7) |
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●2月26日、京都市下京区の西本願寺の御影堂(重文)で、1636(寛永13)年の再建時と1810(文化7)年の修復時に上げた門主名の棟札など四枚が見つかった。棟札によく使う「吉日」の語に代えて「如意日」と記し、「伽藍繁栄」など祈願の言葉も使わず、年月日や関係者名が書かれていた。これは加持祈祷を否定した親鸞の教えに基づいたものと思われる(2001.2.28) |
●2月1日、石川県七尾市高階公民館に「偐紫田舎源氏」全38編の江戸時代の版本が保管されているのが確認された。江戸時代初期に加賀藩主前田家重臣の長家が同地区を治めていた縁で、1924(大正13)年に当時の33代当主基連(もとつら)が、高階公民館に寄贈した200冊あまりの中国や日本の古典や図絵などの書物に含まれていた(2001.2.5)
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●1月18日、神奈川県横須賀市の宅地造成現場で、江戸幕府の走水御船奉行を務めた向井正方(1621〜1674)の遺体を収めたとみられる甕が見つかった。中からは遺髪や日本刀なども見つかっている。向井正方は将軍家光、家綱に仕えた旗本で、石高は二千石。御船奉行として水軍を指揮した(2001.1.24) |
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●1月18日、静岡県田方郡韮山町韮山の江川家住宅(重文)の敷地内で、金属を溶かした跡が見つかった。江川太郎左衛門英竜(坦庵公)は同町中に韮山反射炉の築造を計画し、反射炉を造る前に自宅邸内に小反射炉を造って実験したとされ、その遺構ではないかとみられている(2001.1.19) |
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●高知県土佐市宇佐町の漁師・浜口幸正さんは、天皇州に近い浦ノ内湾の入り口でアサリ漁をしていた際、水深五メートルほどの所から古銭が棒状に束なった固まりを見つけた。調べると大きさや字体が異なる寛永通宝が4〜5種類と判明(2001.1.17) |
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●東京・神田の古書店、小川図書がアメリカの古書店から、ジョン万次郎ら土佐の漂流民を救助した、アメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」の乗組員が書いた航海日誌を入手。同号の航海日誌は、一等航海士らが書いた公式なものがあるが、ホイットフィールド船長の子孫の家に保存され、門外不出になっている。今回の日誌はライマン・ホームズという十八歳の船員が書いたもの(2001.1.8) |
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●12月22日、京都市上京区の京都御苑内にある江戸時代の公家屋敷「柳原家」跡から、茶道や華道、香道で使われる陶磁器類が330点以上見つかったいずれも江戸中期のものとみられ、肥前や美濃、京都産の碗や皿など国産品のほか、中国・明やベトナム、タイ産の碗やつぼなど輸入品も(2000.12.27) |
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●12月19日、長崎県大村市玖島の玖島城跡から、茶椀や皿など6点分の「長与三彩」の破片が出土。長与三彩は江戸末期の記録などから、旧大村藩の窯で焼かれていたと推定されているが、生産時期や流通経路など判明しておらず「幻の焼き物」といわれている(2000.12.26) |
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●和歌山県龍神村東の個人の蔵から、江戸時代に高札(こうさつ)法度6枚が見つかった。最古のものには1682(天和2)年の年号があり、「捨馬禁止」や「生類憐れみの令」、「キリシタン禁制」に関する法令が書かれていた(2000.12.26) |
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●佐賀県東松浦郡相知町の「平松窯跡」で皿の底に釉薬(ゆうやく)を塗らない部分をつくって重ね焼きした皿が出土。唐津焼の源流とされる岸岳系古窯群の一つ(2000.12.25) |
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●熊本県阿蘇郡長陽村の湯の谷で1816(文化13)年に起きた「湯の谷大変」と呼ばれた噴火を記録した古文書と絵図が見つかった。古文書は、噴火に遭遇した長野村に住む郷士身分の長野角太という人物が経過と状況を詳細に報告した文書と、角太の知らせを受けて現地検分し絵図を付けて奉行所出張役人に報告した惣庄屋藤井孫之助の文書、寺社奉行に伝えた阿蘇大宮司らの文書など(2000.12.18) |
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●東京都中央区の「明石町遺跡」の岡藩江戸上屋敷で同藩(中川家)の藩庁日記が大量に出土。調査では上屋敷は幕末の1866(慶応2)年、大火に遭い文書類は屋敷が全焼する直前に穴蔵に隠したらしく蒸し焼き状態で炭化していた(2000.12.14) |
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●11月28日、熊本県玉名郡菊水町瀬川の隧道遺構「トンカラリン」の溝(開削路)部分から階段状の石組みが出土した。この隧道の用途は不明だが、県教委はこれらの調査結果を受け、有力視されていた江戸後期から明治ごろに造られた「近世の排水路説」を見直す方針を固めている(2000.12.1) |
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●江戸時代後期、福島県出身の力士音羽山が名大関・雷電を倒した取組の模様を伝える書簡が見つかった。この書簡は、音羽山の弟子から勝負の様子を聞いた高橋嘉内という人が親類に当てたもの。これまで取り口については知られていなかったが、右足を取った奇策だったことが判明した(2000.11.24) |
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●大分県竹田市で、岡藩の名狂歌師・松岡栗材(りつざい)(1737〜1803)が残した「覚帖(おぼえちょう)」と、狂歌の形式や極意を説いた巻物が最近見つかった(2000.11.22) |
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●11月16日、長野県小県郡東部町田中にある「八名の上(やなのうえ)遺跡」の江戸時代の水田跡から多数の人の足跡が見つかった(2000.11.22) |
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●兵庫県神崎郡香寺町の町史編集室は町内に「力石」三十七個の存在を確認した。力石の起源は、江戸時代に米俵や米俵に土を詰め、これを持ち上げる力比べから。やがて河原などから拾ってきた石を神社や村の広場に置いて競ったと伝えられている(2000.11.21) |
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●11月8日、兵庫県龍野市内の旧家で江戸時代の絵図「脇坂玄番屋敷図」が見つかった。同図は龍野藩筆頭家老の屋敷内を詳細に記したもの脇坂玄番は藩主の血縁で、代々1500石を継ぎ筆頭家老を務めた家柄(2000.11.10) |
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●11月7日、石川県能楽楽師会は県内の能楽関連資料の調査開始。能楽の盛んな石川では、能楽資料は個人が代々守り伝える例が多く、膨大な量に上るとされる。これまでにも明治時代に金沢の画師福島杏山が創作した新作能「兼六園」の原本、喜多流から宝生流へと変わる経緯が記された江戸時代末期の能楽師の家の由緒帳など個人が保管し門外不出としてきた資料の存在が明らかになっている(2000.11.9) |
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●11月7日、長崎県長崎市のシーボルト記念館は、1998年に寄贈を受けた江戸時代の「泉屋家文書」について調査結果を発表。なかには江戸中期の阿蘭陀通詞(オランダ語通訳)として知られる本木良永・正栄父子の自筆の書や、日本人が書いたもっとも早い時期のロシア語の可能性もある文書もあったと(2000.11.9) |
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●秋田県横手市で、江戸初期の横手川改修工事直後の横手城下の街並みが記された絵地図が横手市に託された。この地図は横手城の城替えが行われた1603(慶長8)年直後のものとみられる(2000.11.9) |
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●11月2日、島根県大田市の石見銀山遺跡の19世紀の地層から、灰吹き法で製錬された銀塊発見。鉱山遺跡から灰吹き銀の出土は全国初(2000.11.7) |
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●三重県松阪市の「二十一世紀に宣長をよみがえらせる電子データ制作の会」は 「本居宣長七十二歳像」の複製画を作り、宣長の命日の11月5日から販売(2000.10.31) |
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●10月24日、姫路城大手門前で江戸初期に造られた石組み溝が発見。武家屋敷地に隣接するように南北に延びトンネル状の地下排水路が整備されていた(2000.10.26) |
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●10月23日、群馬県伊勢崎市の宮柴前遺跡で泥流で埋まった畑跡から、イモの石こう型を取ることに成功。同遺跡は1783(天明3)年の浅間山の噴火で発生した泥流に埋まったもの(2000.10.25) |
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●10月22日、群馬県南牧村の大雄寺で約200年前の句額を発見。俳句の愛好家が奉納したもの(2000.10.24) |
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●江戸時代から続いた最上川の最後の渡し舟「稲沢の渡し」が10月31日で閉鎖されることが決定(2000.10.23) |
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●鳥取県立博物館はこのほど、「鳥取藩政資料」の中の「町目付日記」のなかに「松葉かに」の記述を見つけた。松葉ガニ(ズワイガニの雄)について記述した最古の文献となる(2000.10.20) |
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●福井県敦賀市の利椋(とくら)八幡神社に奉納されている絵馬のひとつが、江戸中期〜明治時代にかけ活躍した町絵師の工房「夢楽洞(むらくどう)」の2代目万司が描いた作品と判明(2000.10.5) |
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●京都・伏見稲荷大社の収蔵庫から、江戸時代初期の神職が詠んだ和歌に後陽成天皇が添削した巻物が発見された。天皇が直接臣下に手ほどきしたケースはまれとか。巻物は、10月10まで伏見稲荷大社儀式殿で開かれている「近世宮廷の雅び展」で公開中(2000.10.3) |
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●広島県西広島市で西国街道の一里塚「日向一里塚」跡を発見)(2000.10.2) |