平安時代

■2002年
12/5、大阪府豊中市で港湾施設とみられる水路の跡を確認、博多(福岡市)から船で運んだとみられる中国製の越州窯青磁の破片など100点以上が集落跡で出土した。この遺跡は、平安から鎌倉時代に栄え、承久の乱の発端ともなった荘園「椋橋(くらはし)庄」の一部とみられる。(2002.12.13) 京都新聞
2002/12/5
12/4、和歌山県本宮町の「備崎経塚群」から青銅製の薬師如来立像が出土した。仏像の高さ4.9センチ。像の表情や着衣の曲線などに平安時代末期と鎌倉初期の特徴があり、12世紀末ごろに制作されたと見られる。(2002.12.13) 朝日新聞
2002/12/5
11/28、福岡県太宰府市の観世音寺で、8世紀初めの創建当初の金堂の基壇と みられる遺構が発見された。遺構は、現存する金堂の北側約4.5メートル付近で出土。長さ 50〜60センチ、幅と高さが約20センチの切石が直列に5つ並び、上面に平瓦を4段以上重なっている(2002.12.5) 京都新聞
2002/11/29
11/28、兵庫県香住町で、7世紀後半〜10世紀前半とみられる 大規模建造物の遺構5棟分が確認された。うち一棟では、 11.4メートル四方の四隅から直径約40センチの柱の一部が出土。この時期に地域の有力豪族が建立したと 伝えられる長見寺(ちようけんじ)の遺構の可能性が高いと思われる(2002.12.5) 神戸新聞
2002/11/29
11/11、岩手県衣川村の「長者ケ原廃寺遺跡」で県立博物館による14年度調査が開始された。同遺跡は、藤原三代秀衡を支えた金売吉次の屋敷跡との言い伝えが残るが、過去の調査では礎石の建物跡が確認されたほか、土師器など遺物が出土し、寺院跡説が有力視されている(2002.12.7) 岩手日々新聞
2002/11/12
11/6、三重県一志郡三雲町の「中林・中道遺跡」と「小津遺跡」から、平安時代後半から鎌倉・室町時代にかけての集落跡が確認された。両遺跡は、伊勢街道の東西に位置し、江戸時代以前にも伊勢信仰の参宮詣での道として栄えていたことが確認された。(2002.12.14) 伊勢新報
2002/11/7
10/16、鳥取県東伯町の「井図地頭(いずちがしら)遺跡」から、11世紀後半〜12世紀初め(平安時代末期頃)の砦跡か館跡と考えられる溝が出土した。溝は南北約50メートル、東西約30メートルのコの字形で、同時代の砦か館跡が見つかったのは同県内で初めて。(2002.12.14) 日本海新聞
2002/10/17
●10月3日、鳥取県三朝町の三徳山三仏寺に本尊としてまつられている蔵王権現立像(重文)の7体のうち1体が、平安時代後期の1030年ごろに作られ、木造の蔵王権現像としては国内で最古であることが年輪年代法による測定で明らかになった。今回の調査では、正本尊の蔵王権現立像のX線による鑑定も行われ、新たに内部から木札1枚と文書3枚が発見された。木札は修験者が修行を終えた際に納めた参籠札(さんろうふだ)と見られ、修験道における国内最古の参籠札であることもわかった。(2002.10.10)
●10月2日、愛知県小牧市の「南外山東浦遺跡」にある平安時代の遺構から、寺院や役所を造る際の建築技術を利用して作ったとみられる柱穴跡が発見された。今回確認でされた建築技術は、最初に「掘形(ほりかた)」と呼ぶ大きな穴を掘り、その中に柱を立てて周囲を埋める方法。現場からは「掘形」のある柱の跡が3基見つかった。「掘形」は約1.7メートル間隔で並び、一辺約1メートルで、深さ約30センチ。柱穴は約40センチで、一つの穴からは、建物の重みを支える石も確認された。また古墳時代初頭の遺構からは「周溝墓」とみられる溝や土器が多数見つかり、墓地か祭祀を行った場所である可能性が高まった。(2002.10.6)
●和歌山県高野町の高野山金剛峯寺が所蔵している最澄の手紙の模写とされていた書「伝教大師最澄書状案」が、最澄の自筆だったことが細貝宗広・国士館大教授の研究で判明した。同書は、812年に最澄が真言宗の開祖・空海から潅頂(かんじょう)という仏教の儀式を受けた後、次の儀式のために当時参議だった藤原冬嗣に儀式に用いる器具などの助成を要請した手紙。金剛峯寺にある書状案の解説などには「最澄の自筆を極めて忠実に写した平安時代中期の模本」と記されていた。(2002.10.6)
●8月9日、福島県棚倉町の教委は、 同町の平安時代の密教系寺院跡である「流廃寺跡(ながれはいじあと)遺跡」(福島県)から1993年に出土し、金や銀で象眼装飾された10世紀中ごろの鉄剣が、不動明王像が手に持っていた剣であることが判明したと発表した。鉄剣は全長43.4センチ、刃渡り41.9センチ。刀の表面には、炎状の模様と梵字が交互に5個ずつ並ぶ。調査した奈良大学の水野正好教授は「金や銀の象眼の装飾のある不動明王の剣が発見されたのは全国で初めて」と話している。(2002.8.13)
●福井県敦賀市相生町の晴明神社が、おりからの陰陽師ブームで観光客の人気を集めている。安倍晴明は990年から5年間、同町付近で天文学の研究や占いの修行をしていたという。同社の祭壇下には小窓があり、そこから床下をのぞくと晴明が占いに使ったという六角形の石「祈念石」が見える。大きさは直径50センチほど。現在の神社は1915年に近くから移転したものだが、そのときに祈念石も移り、ご神体として床下に眠り続けていた。しかし観光客の数が増え続けるので、2001年11月に祭壇下に小窓を新設。床下をライトアップし、祈念石をいつでも見られるようにした。(2002.6.24)
●2月21日、京都市左京区の下鴨神社の史跡「糺(ただす)の森」にある「奈良の小川」で、平安時代の祭祀場とみられる石敷き遺構と、縄文時代の石器が出土した。見つかった石敷き遺構は、幅約5メートル規模で、直径約20〜40センチの石が規則的に敷き詰められていた。(2002.4.9)
●2月19日、 京都市東山区の八坂神社所蔵の古代の打楽器「鉦鼓(しょうこ)」は、東大寺(奈良市)と手向山(たむけやま)八幡宮にある二口の鉦鼓(いずれも重文)とセットで造られていたことが判明した。八坂神社の鉦鼓は青銅製の円盤型で、直径約29センチ、厚さ約5センチ。側面には1134年を示す「長承三年」と彫られ、「四口之内四」と記されている。同打楽器は、平安末期に三口の鉦鼓には「権大僧都定海」とも彫られており、当時、東大寺の最高位の別当職にあった僧・定海が鋳造を発注したとみられる。しかし、どのような経緯で京都と奈良の社寺が別々に所蔵するようになったのかは不明。(2002.4.9)
●2月14日、和歌山県本宮町本宮、熊野本宮大社近くの備崎(そなえさき)丘陵で経塚群を7カ所で確認、うち2カ所から34基の経塚遺構が見つかった。実態が明らかになった本宮経塚は、末法の世を恐れた貴族たちが熊野詣の際、救いを求めて仏教教典を地下に埋蔵したもの。盗掘によって荒らされていたが、金メッキされた経筒のふたや青銅製の経筒、和鏡、鉄製の仏具の各破片、中国製の青磁など約300点が発見され、平安後期から鎌倉、南北朝時代の遺物とみられる。(2002.4.2)
●2月7日、京都市左京区の京都大学総合人間学部の教育棟建設工事に伴う発掘調査で、仏教の教典を納めて埋める平安末期(12世紀中ごろ)の容器「経筒」が見つかった。筒を四段に積み上げる九州型の青銅製経筒とみられ、近畿で見つかったのは初めて。(2002.3.27)
●2月1日、福井県朝日町大谷寺の裏山、通称「元越知山」頂上から見つかった複数の須恵器片が、9世紀の仏具の一部であることが判明した。仏具は須恵器製鉄鉢と水瓶(すいびょう)の一部で、鉄鉢は二片あり、いずれも長さ10センチ前後、割れる前の鉢直径は15センチ程度とみられる。縁の特徴から9世紀に制作、寺に設置されていたか拓鉢に用いられていた可能性が高いという。同山は山岳信仰の祖、泰澄大師が亡くなったとされる拠点だが、仏具が確認されたのはこれが初めて(2002.3.22)
●神奈川県平塚市で「相模国府域(こくふいき)」とみられる遺跡が発掘され、同時代のものと推定される金銅製小仏像が出土した。同遺跡からは、竪穴住居や井戸、掘立柱建物などの遺構が多数出土し、国庁を取り囲む居住域の様子が明らかになったとしている。出土した仏像は高さ約5センチの吉祥天で、銅の表面に金箔が張られていた。また同地域の「大会原遺跡」からは、古代の寺院跡である小田原市「千代廃寺跡」や横須賀市「宗元寺跡」からの出土品と同じ模様の軒瓦(のきがわら)が出土。模様が完全に残っている瓦が出土したのは初めてという(2002.3.22)
●奈良県当麻町の「三ツ塚古墳群」で、木棺の目地に詰めたとみられる粘土の破片が9世紀中ごろの火葬墓が見つかった。粘土片が見つかった火葬墓は3カ所で、直径80センチほどの穴に炭や灰が詰まっており、蔵骨器は見つかっていない。遺体の腐敗液が棺外に漏れるのを防ぐ役目があったと推定している(2002.3.13)
●京都市西京区の御霊神社の本殿すぐ裏手にある樹齢数百年のエノキの木が育ち過ぎ、根が地面を持ち上げたため、本殿の土台部や壁に亀裂が目立つようになり、本殿が倒壊する可能性がでてきた。エノキは神木のように親しまれてきたため、氏子たちは木を伐採せずに本殿を守る対応策を検討している。同神社は、橘逸勢のたたりを恐れ876年に創建された。現在の本殿はヒノキの流造で2〜300年前に建てられたとみられる(2002.3.11)


■2001年
●9月8日、岩手県水沢市佐倉河薬師堂の「伯済寺遺跡」から、女性とみられる人名が刻まれた平安時代の石製紡錘車が出土した。紡錘車は、糸を縒る機械の弾み車の役目をする部品。直径5センチの石製で、中心に直径7〜8ミリの穴が開き、片面に何かでひっかいたような文字が刻まれており、鑑定したところ「金見長(秋)女」(かなみのながあきめ)と判読され、女性の人名らしいことがわかった。同車は10世紀前後とみられる竪穴住居跡から出土した。伯済寺遺跡は胆沢城跡の南約500メートルにある平安期の遺跡で、これまで10世紀の中小建物跡などが発見されている。今回の発掘調査で新たに竪穴住居跡7棟、井戸跡1基、掘立柱建物跡2棟などが見つかっている(2001.12.1)
●青森県市浦村の「唐川城跡」の発掘調査で、昨年の調査で分かった平安時代後期の防御性高地集落の面積が5万平方メートル以上に及び、住居跡やその周辺からは精錬や小鍛冶(こかじ)に使った炉が見つかったことが明らかになった。井戸南側の住居跡や、その近くにある炉跡を調査した結果、二つの竪穴住居跡の間から、粗金属の純度を高める精錬作業を行う竪形の精錬炉と、竪穴住居から鉄製品を加工する小鍛冶炉が7カ所発見された(2001.12.1)
●9月6日、長野県更埴市八幡の「社宮司(しゃぐうじ)遺跡」で、平安末期から鎌倉初期のものとみられる木造の仏塔の一種「六角木幢(もくどう)」が出土した。出土したのは、栗の木製で高さ約1.7メートル。上部から球形の宝珠、笠、笠に付ける飾り風鐸、柱の部分の幢身(どうしん)などがほぼ完全な形で残っていた。いずれも消えかかっているが、幢身のうち一面には阿弥陀仏と見られる仏像が描かれていて、ほかの面は七段に区切られ、それぞれに3体ほど仏像が描かれ、全部で120 体以上あるという。六角木幢は平安末期の文献に登場しているが、木造のため腐って壊れてしまったり、石幢の登場で壊してしまったことなどしており、現在するものは、鎌倉時代以降の石造りの「石幢(せきどう)」だけ。木造が見つかったのは全国で初めて(2001.11.7)
●8月31日、島根県出雲市中野町の「中野美保遺跡」で、平安から鎌倉時代にかけての条里制に基づく水田のあぜ「大畦畔」が見つかった。出土したのは、ほぼ東西方向に走っている大畦畔で、長さは約10メートル。中世の条里制遺構が発見されたのは、鳥取・島根県では初めて(2001.10.25)
●8月24日、青森県東北町内蛯沢向の「内蛯沢蝦夷館」から10〜11世紀の炭焼き窯が出土した。炭焼き窯は長さ4メートル、幅3メートル、焚き口から逆三角形に造られ、奥に石組みの煙出しが2本並んでいる。同県内でドーム形とみられる平安時代の炭焼き窯の出土は初めて(2001.10.3)
●福井県鯖江市上戸口町にある寺院跡遺跡「三峯寺跡」から平安時代の須恵(すえ)器の破片が出土した。「三峯寺」の名はこれまで、室町時代の1445(文安2)年、『東寺修造料足越前国寺々奉加人数注進状』に初めて登場する。しかし、今回の発見で起源が一気に400〜500年もさかのぼることになる。また須恵器片が出土するのは鯖江市内の山中の寺では初めて(2001.9.13)
●青森県浪岡町高屋敷野尻の「野尻(4)遺跡」で、馬の刻画が施された平安時代の擦文土器とみられる遺物が見つかった。馬の描かれた擦文土器の出土は東北で初めて。擦文土器は俗にアイヌ土器とも呼ばれ、古代北海道文化を象徴するが、この時代に北海道に馬は存在しなかったとされる。同遺跡は平安時代の集落跡を主体とする遺跡(2001.9.12)
●7月26日、滋賀県大津市の東寺真言宗大本山・石山寺で、国宝に指定されている経典類「淳祐内供筆聖教」の六十巻と一帖とは別に、新たに十三巻が見つかった。このうち、梵語の一覧表「大悉曇(しったん)章」の巻は、国内で最古級とみられる。拝み方などの作法を示す「胎蔵次第」の巻の奥書には、天暦元年(九四七年)と記されている。弘法大師の手紙などの文章を書き写した「大師文章」もある。同寺は、十三巻を国宝への追加指定を求めることにしている。 「薫聖教(においのしょうぎょう)」の名は、淳祐が弘法大師に触れたところ、香気が手に移り、写経にも香気が移ったという伝承から名付けられたと伝わる(2001.8.22)
●京都市右京区花園土堂町にある仁和寺「院家」跡から平安後期(12世紀)の木製の車輪の部材2点がこのほど出土した。部材は車輪の外周を構成する「輪木(りんぎ)」といわれる部分で、井戸跡から出土した。2点は大きさの違う別の車輪のもので、それぞれ7枚で一つの車輪になる構造。内側には現代の車輪のスポークにあたる部材「輻(や)」をはめる穴が並んでいた。大きい部材は長さ65センチ、幅11センチ、厚さは5センチあった。復元すると大きな方の車輪は直径148センチ、小さな方は直径144センチになる。地面に触れる部分はすり減って小石がめりこんでいることから、実際に使われて破損し、井戸に捨てられたらしい(2001.7.22)
●岩手県平泉町長島の「竜ケ坂遺跡」で見つかった、10世紀初めとみられる水田跡に良好な状態で残った当時の人間の足跡を土ごと切り取り、保存する。残っていた人間の足跡は100カ所以上。形状から成人や履き物を着けた人など最低でも4人が水田に入っていたことがわかっている(2001.7.10)
●京都市中京区西ノ京のJR二条駅東側の発掘調査で、朱雀大路の路面の一部と側溝がこのほど、約90メートルにわたって見つかった。朱雀大路や側溝の発掘例としては過去最長の規模。路面は大部分が後世の開発で削り取られていたが、端の部分が残っており、整地のためにこぶし大の石が約50センチの厚さで敷き詰められていた。道路の西端には幅約3メートルの側溝があり、大雨で崩れた部分に石を詰めて補修した跡もあった。また側溝は時代が下るにつれ、土が堆積していた。鎌倉時代になると朱雀大路の路面の上に建物の遺構も見つかり、朱雀大路が徐々に道としての機能を失っていった様子がわかるという(2001.7.6)
●6月21日、 愛知県安城市小川町の「下懸遺跡」(しもかけいせき)で字の練習に使われたと見られる「習書木簡」が見つかった。木簡は、長さ約26センチ、幅2.5センチの大きさ。墨書で、表には「春春春秋秋尚尚書書律」、裏に判読できない部分を含め「令令文文是是人」と楷書で書かれている。「春秋」「尚書」や、当時の基本法を意味する「律令」などを構成する文字を、二、三度ずつ繰り返し書いて練習したとものと見る(2001.7.4)
●5月9日、京都市伏見区にある醍醐寺が所蔵する密教法具「独鈷杵(とっこしょ)」と「三鈷杵(さんこしょ)」が12世紀ごろ(平安時代後期)に製作された国内最古級のものと判明した。この法具は密教の修法に使うもので、古代インドの武器が原型とされ、中央に握る部分があり、両端は鋭くとがっている。銅製で金メッキが施され、ハスの装飾がある(2001.6.2)
●鹿児島県川内市中郷町の「京田(きょうでん)遺跡」で2月に出土していた木簡に、平安前期の850(嘉祥3)年に郡司名で水田の差し押さえを告知した文字が書かれていることが判明した。木簡は水田の場所を「条」「里」で特定しており、条里制や班田収授法など律令制の土地管理の浸透を示す(2001.5.8)
●4月19日、滋賀県大津市の近江国庁関連施設とみられる「青江遺跡」で、すでに見つかっている築地塀(ついじべい)に平行する新たな築地塀がみつかった。築地塀と築地塀の間は約24メートルと広く、真北にある近江国庁の中心軸上にあることから、この地と国庁を結ぶ大規模な中心道路とみられている。青江遺跡(8世紀後半〜9世紀末)は、近江国庁跡の中門から真南へ約300メートルに位置する国司館跡とされる(2001.5.7)
●4月12日、 京都市右京区花園土堂町で仁和寺に付属する貴族らの寺院「院家(いんげ)」の一つで平安後期に建立されたとみられる建物遺構が見かった。四方を石敷きの雨落ち溝で囲まれた南北約20メートル、東西約15メートルの建物跡が見つかった。建物跡の東側中央部は幅約5メートルで約2.5メートル東に張り出し、礼拝用のひさし「向拝」の跡と見られる。雨落ち溝で囲まれた内側は一段高くなっており、土壇を築いていた形跡があった。出土した瓦や土師器などから、市埋文研は平安後期から鎌倉初期の遺構とみている(2001.4.23)
●4月5日、京都市右京区西院の島津製作所五条工場跡から、平安初期の9世紀初め、雨ごいや豊作祈願のため神にささげたとみられる馬や牛の骨が見かった。また、顔を描いた人形や男性器をかたどった「陽物」も同じ場所から見つかった。さらに、「讃岐国苅田郡白(□は判読できない文字)」と書かれた木簡も出土した。同時代の文献には、豊作祈願として牛の肉と陽物を田の水路に置く、と紹介されていて、今回の出土状況と一致する(20014.16)
●3月29日、山口県防府市牟礼の阿弥陀寺境内から、12世紀後半の創建時、東大寺再建の立役者、重源上人(1121〜1206)が建てたと思われる湯屋のかまど跡と建物の礎石を出土。かまど跡は外側の直径3メートルで、現存する湯屋のかまど(直径1.2メートル)より一回り大きい。同寺が所蔵している1197年鋳造の鉄宝塔(国宝)の銘文に、「寺浴室には直径1.8メートル(六尺)の大釜があった」と記され、同じ大きさの大釜が現在、保管されている。 今回出土したかまどは、この大釜が使用できる大きさで一致したことから、同寺の創建時(1187)に建てられた重源上人ゆかりの湯屋跡と推定。重源上人は東大寺別所(寺)を岡山、大阪、兵庫など阿弥陀寺を含め全国7カ所に建てて湯屋を設けたが、その遺構が確認されたのは初めて(2001.4.15)
●3月27日、京都市中京区の二条城内で平安初期の九世紀初めから歴代の天皇に利用された離宮「冷泉院」跡とみられる池の遺構や、徳川家康が江戸初期に二条城を造営した当初の石垣などが見つかった。冷泉院の遺構は、これまで京都市内で見つかった平安宮関連の遺構の中ではもっとも初期のものの一つ。同遺構は、同城内の北東「緑の園」から見つかった。池の中に置いた庭石とみられる最大で約1.5メートルの石約20個のほか、池に水をそそぎ入れる水路跡も見つかった。 また城内の南辺中央部の調査地からは、徳川家康が江戸初期の慶長年間に同城を造営した当初の西堀の石垣が見つかった。 同城は寛永年間に現在の規模に拡張されていて、造営当初の遺構が確認されたのは今回が初めてという。 (200.4.8)
●山形県米沢市の「古志田東遺跡」から出土した木簡2点に、これまで知られていない古代の稲の品種名が記されている可能性があることが判明した。「狄帯建(えみしたらしたける)一斛(いっこく)」「□□(解読中)一石」と書かれた2点は、形や薄さから、種もみを入れた俵に挟んだ「種子札」とみられる。これまで知られていた約20種の古代稲の品種とは異なり、新たな品種と推測される(2001.4.2)
●山形県米沢市の「古志田東遺跡」から、柿渋とみられる樹液を塗った土器が多数出土していたことが判明した。遺跡から見つかった素焼きの赤焼き土器は、約2万9000点。うち29%に当たる8373点に、樹液が塗ってあった。このうち一部は漆だが、ほとんどは柿渋とみられる。同遺跡は、米沢市街地南西部にある約8300平方メートルの遺跡。7棟の建物跡と木簡61点、高麗尺とみられる物差し、がん具のこま、運搬に使う修羅など、多くの遺物が出土。中央集権の律令体制が崩壊する時期に台頭し、米沢一帯を支配した在地豪族の居館や生活内容を具体的に示す貴重な資料とされている(2001.4.1)
●3月8日、京都府京都市北区西賀茂上庄田町の「上ノ庄田瓦窯跡」から、窯跡二基と、窯たきの作業スペースや灰や焼き損じの瓦を捨てた灰原が見つかった。これまでの調査で瓦を成形した作業小屋なども見つかっており、灰原や窯からは、平安宮の主要な建物の屋根を飾ったとされる鴟尾(しび)の破片や、蓮華文や唐草文の軒丸瓦、平瓦などの破片が大量に見つかった。 当時は2、30人の工人が作業し、平安宮や社寺で使う瓦を焼いたのだろうと見られる(2001.3.12)
●3月8日、高知県香美郡野市町母代寺の「母代寺土居屋敷遺跡」で、2基の井戸と掘っ立て柱跡241個、多数の溝など平安時代後期から鎌倉時代にかけての12世紀を中心とする遺構が出土した(2001.3.12)
●2月21日、神奈川県秦野市の「東田原中丸遺跡」から、中世に同地を治めていたとされる、12世紀後半から13世紀半ばごろの波多野氏一門の武家屋敷跡と遺物が見つかった。掘立柱の建物計15棟の跡が確認され、周囲にぐるりと庇のある建物が中心で武家屋敷とみられる。出土した遺物は、水差しなど中国製陶磁器8点、甕、鉢といった国産陶器3点、かわらけなどの土器19点。(2001.2.26)
●京都市右京区西院の春日神社に伝わる霊石で所在がわからなくなっていた「疱瘡(ほうそう)石」が同神社本殿内で見つかった。職員が市内の図書館にある本に疱瘡石の所在が記述されているのに気づき、探し当てた。同神社は、平安時代初期の淳和天皇が退位して淳和院に移った際に創建された。疱瘡石は、淳和天皇の皇女崇(たか子)内親王が疱瘡を患った時に祈願をかけた石といわれ、内親王が回復した時、石に疱瘡を生じたとの伝説が残る。 同神社は節分に合わせて来月1日から3日まで本殿内で公開し、以後は毎月1日と15日に一般公開する
●1月23日、三重県鈴鹿市広瀬町の伊勢国府跡とされる「長者屋敷遺跡」で役人が政治を行った場所と思われる「政庁」の西側約77メートルの地点に、南北に掘った二筋の溝が見つかった。すでに同遺跡では南門跡や政庁の北東に掘立柱建物跡も確認されている(2001.1.25)


■2000年
●12月26日、秋田県由利町土倉の「弥勒山(みろくやま)遺跡」で発掘されていた「穴窯」は9世紀の須恵器窯であることが判明。この窯は、縦約2メートル、横幅約1メートルで甕や壷、高台付きの杯の破片などが出土。『続日本紀』に記載され、まだ確認されていない由理柵(ゆりのさく)と時代が重なる可能性が出てきた(2000.12.28)
●11月29日、小林芳規徳島文理大教授は、韓国ソウル市内の誠庵古書博物館にあった漢文の経典「瑜伽師地論」(11世紀木版印刷)などに、漢文を読み下すときの「ヲコト点」にあたる文字が書き込まれていることを明らかにした。ヲコト点はこれまで日本独自とされていたが、朝鮮半島の影響を受けてできた可能性も出てきた(2000.12.1)
●11月21日、石川県金沢市畝田東の「畝田ナベタ遺跡」から、規則的に並んだ建物20棟の遺構と海産物の荷札だった木簡などが出土。木簡には「清流女(するめ)一石余」「否益(いなます)一石一斗」などと記されている(2000.11.24)
●11月16日、奈良県奈良市高畑町の旧大乗院庭園で、水を流さないで水の流れを感じさせる「枯流(かれなが)れ」と見られる遺構が見つかった。大乗院は興福寺に属し、摂政・関白を出す京都の貴族の子弟が僧となった寺院。平安時代に創建されたが、明治に荒廃。江戸時代の絵図「大乗院四季真景図」では、約8000平方メートルの大池と、西岸に小池や大小の岬が設けられていた(2000.11.22)
●11月16日、三重県鈴鹿市国府町の「梅田遺跡」で、平安時代の国府関連集落だと考えられる集落跡と鎌倉時代の集落跡がはっきりと分かれた形で確認された。発見されたのは、平安時代初めに建てられた掘立柱建物跡7棟と、鎌倉時代に建てられた掘立柱建物跡6棟など(2000.11.21)
●11月15日、岐阜県垂井町府中の美濃国府跡で国府の中心施設「政庁」を囲んでいた北側の塀の跡が発見され、また珍しい祭祀(さいし)用の馬の人形「土馬(どば)」も出土(2000.11.22)
●10月30日、広島県府中市の金龍寺東遺跡で唐三彩の陶枕の破片が出土。唐三彩の地方での出土はまれ。同史跡が国府跡である可能性が。ちなみに唐三彩は、唐代を中心に主に副葬品として制作された陶器。白地に青、緑、褐色の鮮やかな釉薬がかかっている(2000.11.1)
●10月25日、滋賀県草津市の「柳遺跡」で平安時代末から鎌倉時代初めの水田跡と開墾者が住んでいたとみられる掘立て柱建物の遺構を発見。水田と建物が同時に見つかったため、水田の開墾された年代が確認できた(2000.10.31)
●京都市埋蔵文化財調査センターの梶川敏夫副所長は、1200年前の平安京の様子を詳細に描いたイラストを作成。10月25日のシンポジウム「平安京の都市づくり」で公開(2000.10.25)
●10月19日、小田原市の「永塚下り畑遺跡」で小砂利や陶器の破片などを約10センチの厚さに敷き詰めた平安時代の「舗装道路」が見つかり公開された(2000.10.23)
●10月11日、講談社と富士ゼロックスはインターネット上で源氏物語に関する資料を配信する「源氏大学ドット・コム」を共同で開設した。アドレスはhttp://www.genji-daigaku.com/(2000.10.13)
●10月11日、岩手県の「後山T遺跡」で上部構造がわかる平安末期(12世紀)の製鉄炉跡が出土(2000.10.13)
●鹿児島県姶良郡の宮浦神社で「延喜式内社宮浦宮」と記した標柱石が見つかった。同神社は神武天皇の東征前の宮跡とされ、延喜式に名がある(2000.10.5) 

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