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●長野県大町市の「山寺廃寺遺跡」では発掘調査が進められている。同遺跡からは1959(昭和34)年、林道工事中に人骨とともにつぼや写経石など中世の遺物が出土。鎌倉〜室町時代にこの地方の領主だった仁科氏ゆかりの盛蓮寺がこの地にあったとも伝えられている。(2002.9.25) |
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●8月10日、長崎県鷹島町教育委員会の調査で13世紀の元寇で元軍が用いたさく裂弾「てつはう(鉄砲)」の未使用品とみられる遺物の内部に、散弾らしい多数の鉄片が残っていることがわかった。このてつはうは1993年、同県松浦市沖の鷹島の神崎海岸で見つかったもので、直径約15センチの陶製弾の上半分で、中空部に固まっていた物質を福岡市埋蔵文化財センターでエックス線などを使って分析した。その結果、一辺2〜3センチ、厚さ約1センチの長方形や三角形の物が詰まっており、材質は鉄と判明した。てつはうは、中に詰めた火薬を敵陣で破裂させる投弾。弓矢や刀しかない時代の日本の武士を爆発音と煙火で驚かせたことが、鎌倉時代の文書に残っている。(2002.8.13) |
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●愛知県の瀬戸市岩屋、鳥原両町にまたがる古窯「鶯窯(うぐいすかま)跡」で、鎌倉時代後期〜室町時代初めの製作とみられる陶の茶臼が見つかった。見つかったのは直径約17センチの上臼部分1個と、下臼部分3個。いずれも石製の茶臼を忠実に模し、緑がかった灰釉(かいゆう)が施されていた。また調査の結果、窯体自体も、焚き口から約7.5メートル先の煙道部まで良好な状態で残っていた。(2002.4.11) |
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●長崎県北松鷹島町の教委は、1994年に元寇の激戦地となった北松鷹島町沖の海底で見つかった、元船の木製錨の保存処理を進めている。見つかったの3点のうち、最も大きい錨で、中心となる軸の長さは約2.7メートル。つめ約3.1メートル。軸は途中で折れているが、長さ7メートル以上あったと推定されている。材質はアカガシで元寇当時の木材であることが判明している。また、木製錨の近くから見つかった、同錨に装着されていたとされる錨石は中国福建省産の花崗岩で、中国南部を出港した「江南軍」の船が装備していたとする見方が強い。(2002.3.27) |
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●愛知県安城市古井町と川島町にまたがる「上橋下(かみはしか)遺跡」で、鎌倉時代の祭祀遺構が発掘された。同遺構は、鎌倉時代の川の流れから約30メートル離れた湿地と見られる場所に、木が集中的に突き刺さっていた。湿地は直径20メートルほどのだ円状。湿地内から灰釉(かいゆう)系陶器のわんや小皿が約百点と馬の頭の骨一点、「景徳元宝」など北宋銭二点も出土した。陶器のわんのうち31点の裏側には「十」や「の」などと墨書があった(2002.3.22) |
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●1月21日、滋賀県草津市の「宮前遺跡」で、鎌倉時代の集落が南北に約500メートルわたって広がっていることがわかった。これまでの同遺跡の発掘調査では、鎌倉時代の集落跡の北端が見つかっていた。今回の調査で南端が確定。調査地からは掘っ立て柱建物跡が22棟、井戸8基、さらに土抗墓2基や多数の溝などが出土した(2002.3.11) |
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●1月21日、広島県福山市鞆町の安国寺の「阿弥陀如来像」(重文)の内部から半世紀前に発見された腰刀と横笛に、「国宝級」の価値があると日本武具武装史研究会の山岸素夫会長は語った。腰刀は、刃渡り24センチ、柄は長さ14センチ。横笛は竹製で長さ40.7センチ。1949年の如来像修復の際、内部から発見された。ともに鎌倉時代の作と鑑定され重文に指定されている(2002.3.11) |
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●京都市左京区の南禅寺は開基・亀山法皇の七百年御忌記念ビデオ「利生の悲願」を制作した。1000本制作、収録時間は35分で有料。南禅寺は、鎌倉後期、亀山法皇は御所として造営した離宮を禅寺として創建された。法皇も出家して厳しい修行を行い、1305年に亡くなった。ビデオは、亀山法皇の思想や南禅寺の歴史、建築物などを詳しく紹介。普段は見ることができない専門道場の修行風景や本山の文化財、管長の墨跡御染筆(ごせんぴつ)のほか、歌舞伎役者の市川猿之助さんが石川五右衛門に扮し、三門で大見えを切る場面などが収録されている(2002.3.11) |
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●1月21日、滋賀県草津市川原町、駒井沢町の「宮前遺跡」の発掘調査結果が発表され、同遺跡で鎌倉時代の集落範囲が南北500メートルにわたることがわかった。また土地の境界を示す溝が平安時代末からの条里制に沿ったもので、現在の土地区画とも重なっていることが示された。新たに掘立柱跡建物17棟と井戸6基、土壙墓2基を発見。井戸は木製の曲物(まげもの)を筒状に3〜5段積み重ねた状態がきれいに残り、土壙墓からは木棺の一部や副葬品の土器も見つかった。同遺跡からはもともと弥生時代の集落跡が見つかっていたが、その後鎌倉時代の掘立柱跡建物約30棟や井戸2基などが見つかり、当時の農家の集落が残ることもわかった(2002.3.7) |
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●群馬県佐波・東村国定の「田部井大根谷戸(ためがいだいこんがいと)遺跡」で、鎌倉時代に整備されたと推定される幹線道路「あづま道」とみられる道路跡が見つかった。県内での発見は3例目。発見された道は西南西から東北東方向に走り、幅約3メートル、長さ約20メートルで、両側に側溝(幅約1メートル、深さ約40センチ)を持つ(2002.3.7) |
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●青森県弘前市小友の「小友館(おともだて)遺跡」の堀跡から13〜14世紀のものとみられる中国産白磁の一部が出土した。中国産白磁は、同市の中世の遺跡・堀越城跡や石川城跡でも見つかっており、中国との交易を裏付ける資料とされている。また、堀の底からは、平安時代以降のものとみられる土師器(はじき)、須恵器(すえき)が出土。同遺跡には三枝(さえぐさ)又五郎が住んでいたといわれている。また縄文時代前期の住居跡や平安時代の鍛冶遺構が発見されている(2001.12.1) |
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●9月6日、静岡県韮山町寺家の北条氏館跡から館内にあった尼寺、円成寺(えんじょうじ)の池の遺構が出土した。出土したのは池の縁石と、縁石が崩れないために積まれた石。池は幅16.8メートル、長さは不明、深さ約1メートル。池の中から素焼きの土器のほか、香炉、花瓶などが出土した。円成寺は鎌倉幕府の九代執権貞時の妻(法名・覚海円成)が、北条氏が滅んだあとに残された子女を育てるため、尼になって開いた寺といわれている。北条氏滅亡の時、後醍醐天皇が円成に、子供である十四代執権の北条高時の敷地を与えて寺を造らせたという記録があり、円成寺の池に間違いないとみている(2001.11.7) |
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●富山県井口村蛇喰(じゃばみ)地区の「井口A遺跡」の本格的な調査が9月下旬から行われることになった。同遺跡では、鎌倉から戦国時代にかけての集落跡や、柱穴などの跡が確認されている(2001.10.7) |
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●8月23日、京都市伏見区の醍醐寺から、同寺の開祖・聖宝(832〜909)を描いた鎌倉時代前期の肖像画が見つかった。肖像画は縦54センチ、横46センチ。油を塗って透けるようにした紙に、墨で像を写し取っていた。1962年に同寺関係者が編集した本にこの像の写真があり、存在は知られていたが、今回の調査で収蔵庫から見つかり、紙質や描線から13世紀前半の作と判明した(2001.10.3) |
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●8月17日、長崎県北松鷹島町教委は、「元寇」の激戦地となった同町の周辺海域で海底発掘調査を始めた。調査区域は、同町神崎港の海岸付近から沖合約100メートルにかけて。調査協力する九州・沖縄水中考古学協会のメンバーらがポンプで海底の砂などを吸い上げ、元寇に関する遺物の有無を確認する(2001.9.24) |
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●8月7日、山梨県中巨摩郡の「山宮地(さんぐうぢ)遺跡」から仏具を納めた鎌倉時代(13世紀)のものとみられる銅製の水瓶(すいびょう)が出土した。同品は15世紀後半の竪穴状遺構から出土し、容器は水瓶下半部とみらる。容器の中から小仏像の台座、錫杖(しゃくじょう)頭、水瓶の注ぎ口、容器の底部など10種類以上の銅製品が確認された。仏具が銅製容器からまとまって見つかったのは全国で初めて。同遺跡は山岳信仰の対象となった甲斐金峰山へ続く「御岳道」の出発地付近(2001.9.12) |
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●7月28日、山口県柳井市の「向田遺跡」で発掘調査の現地説明会が開かれた。同遺跡からは中世から近世の墓約200基が出土しており、中、近世の墓制を解明できると期待されている(2001.8.25) |
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●7月11日、京都府八幡市の木津川自然堤防上に残る「上津屋遺跡」で鎌倉時代後期から室町時代にかけての大規模な環濠屋敷跡が確認された。屋敷跡からは、鶴の文様を施した鎌倉時代初期の太刀の飾り金具「足金物」なども出土。すでに同遺跡の東約150メートルにある石田神社付近で鎌倉〜江戸時代の遺構が確認されており、一帯では中世から屋敷を中心とした大規模集落があったことが裏付けられた(2001.7.27) |
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●7月5日、宮城県仙台市の「中野高柳遺跡」が報道機関に公開された。同遺跡からは鎌倉、室町時代の武士階級の屋敷跡7区画が発見されている。年代に従って三期に区分され、一期、二期はいずれも室町時代のものとみられ、大きさは東西50〜60メートル、南北51メートル以上。16世紀の戦国時代とみられる三期の屋敷跡からは、井戸や複数の建物群、土橋などの遺構が見つかった。屋敷跡はいずれも、幅3メートルほどの堀で四方を囲まれていた。さらに、中国から輸入された青磁や白磁、茶葉をひくための石うすの一部なども出土している。屋敷跡は、岩切城を居城とした留守氏の家臣で、中世に現場一帯を治めていた八幡(やわた)氏と関係しているとみられている(2001.7.22) |
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●6月1日、 神奈川県鎌倉市大町の遺跡発掘現場から鎌倉時代の職人の居住街の遺構が検出され、木工製品を中心に数10種類1万点以上の遺物出土。なかには、13世紀前半の「あやつり人形」である傀儡(くぐつ)なども含まれていた(2001.7.10) |
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●広島県三原市の重要文化財に指定されている「三原住正家」の銘の入った短刀が、所有者の勝原文紀氏から市に寄贈された。この短刀は室町時代のもので、長さ約29センチ。三原住正家は、鎌倉時代末期から室町時代末期にかけて、備後南部で刀を製作した刀工の一派(2001.7.10) |
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●6月29日、京都市北区の上賀茂神社で、鎌倉時代後期の第三十三代神主、賀茂経久が書いた年代記「賀茂旧記」の原本が収蔵庫の古文書調査で見つかった。「賀茂旧記」は、鎌倉幕府成立直後の1193(建久4)年から約80年間の神社の動きを記している。1221(承久3)年の承久の乱の記述では、同神社が後鳥羽上皇の命令で争乱に参加し、敗北した経緯が書かれている。同旧記の存在自体は他の記録で知られていたが、内容は不明だった(2001.7.6) |
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●7月2日、三重県亀山市の遍照寺に修理に出されていた阿弥陀如来立像が8カ月ぶりにに戻ってきた。同像は、背丈が約90センチのヒノキの割矧(わりはぎ)造り。作風から、鎌倉時代の代表的な仏師・快慶の一番弟子、行快の作で制作時期は1230年ごろとみられている。またX線調査で、立像の胴体中に繊維状の布のようなものが詰め込まれていることも確認された(2001.7.5) |
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●5月19日、京都市の清水寺の秘仏とされていた境内東側の奥の院の厨子にある仏像が、他に例がない坐像の三面千手観音であることが判明した。観音像は高さ64.3センチ、一木割矧(わりはぎ)造り。三眼を持つ本面と左右の脇面の頭上に二十四面を載せ、腕は42本、両足は組んで台座に座っている。鎌倉時代以前の作では国内では東山区・法性寺などで3件の三面千手観音像が見つかっているが、いずれも立像で、坐像は初めてという。その作風や技法から鎌倉時代初期の作で、快慶の流れをくむとみられる(2001.7.4) |
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●6月10日、愛知県瀬戸市の「五葉(ごよう)窯跡」で、鎌倉時代後期とみられる穴窯3基と作業場跡が確認された現地説明会が開催された。3基のうち、2基は無施釉(ゆう)の山茶椀を焼いていた窯。残りの1基は「古瀬戸」と呼ばれる施釉陶器を生産していた窯と判明。同市で鎌倉後期の窯が作業場とともに複数確認されたのは初めて(2001.6.22) |
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●埼玉県川本町教委は、地元ゆかりの鎌倉武将畠山重忠の生涯をまとめた絵本「畠山重忠一代記」を発行した。A4判104頁、フルカラー。重忠の出生から源平合戦での活躍を経て、42歳で戦死するまでの生涯を、小学校高学年から大人まで楽しめるように描いた。希望者には1部500円で販売中。問い合わせは川本町出土文化財管理センター 電話::048-583-6019(2001.6.18) |
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●熊本県阿蘇郡南小国町の満願寺には「時宗ブーム」で訪れる人も増えている。同寺には、日本最古の武将肖像画とされる「北条時宗像」や「北条時定像」(ともに重文)などが残る。また同寺から200メートルほど離れた満願寺小グラウンド横には時定、その弟定宗、定宗の嫡子随時(ゆきとき)の墓が並んでいる(2001.5.22) |
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●4月29日、新潟県ビッグスワンで開催された「新潟2001年宇宙の旅」に板額御前や一族の兵に扮した一同が入場した。これは、10月に北蒲中条町で行われる板額らと鎌倉幕府との戦いから800年目の節目を記念したイベントのPRのため。歴史書『吾妻鏡』によると奮戦から800年目に当たる今年、町は板額の名を広めようとイベントを企画している(2001.5.8) |
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●愛知県安城市野寺町野寺の本證寺住職小山正氏が京都の古書店で見つけて購入した浄土真宗の開祖親鸞聖人(1173〜1262)の文は親筆と鑑定された。この文は、親鸞が1256(康元元)年に書いた宗教に関する著述の一節。この文は、京都古書組合が出した目録に写真付きで「伝蓮如上人筆」と紹介され、小山さんは「親鸞聖人の筆に違いない」と直感して購入した(2001.5.2) |
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●4月3日、群馬県南高吾妻町田ノ平名で鎌倉時代後期のものとみられる県内最大級の石塔「室篋印塔(ほうきょういんとう)」の一部が確認された。同印塔や五輪塔など鎌倉後期の大型石塔が、山岳宗教の雲仙信仰の四面宮(温泉神社)に関連した同町と南高西有家、千々石町の3カ所で見つかっており、「鎌倉幕府が、元冦に備え、国家維持を祈とうするため政治的意図で山岳宗教を利用、大型石塔が製作された」とみている(20014.16) |
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●3月23日、氷見市教委は同市脇方の「脇方谷内出(わきがたやちで)中世墓」から、鎌倉時代末から室町時代前半の多数の中世石造物が出土したと発表した。見つかったのは、板石塔婆(いたいしとうば)16基、五輪塔11基、宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基など。武士、宗教関係者といった有力者の供養塔や墓とみられる。石造物が、鎌倉末期、南北朝初期、南北朝後期、室町初期と、四段階を経て設置された過程をよくとどめている。土師器(はじき)の小皿や多数の火葬骨もあった(20014.16) |
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●「蒙古襲来絵詞」を描かせたとされる御家人・竹崎季長ゆかりの下益城郡小川町には、歴史ファンや観光客が増加している。町東部の海東地区は、季長が文永の役(1274)に一番駆けして奮戦した功を幕府に認められ、翌年、地頭職を得た地。菩提寺の塔福寺や墓などの史跡が点在している。寺は、季長が所領経営のさまざまなことを定めた置文・寄進状(重文)のほか、町文化財に指定されている蒙古襲来絵詞の模写本の巻物五巻を所有。巻物は予約すれば広げてくれる。また塔福寺から北東へ約2キロの平原公園には季長の墓がある。案内板には「1894(明治27)年発見、確認された。源頼朝の墓と同型の五輪塔」とある(2001.4.9) |
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●3月14日、群馬県太田市社会教育総合センターでバス研修会が開かれ同市と新田、尾島両町の史跡を地元の歴史愛好家らが訪れた。
新田荘は、12世紀中ごろに成立。源義国を父とする新田義重が新田郡南西部の早川・石田川流域を再開発し、現在の新田郡ほぼ全域と太田市の南西部を荘園化した。東国の典型的な豪族領主の寄進地系荘園として評価され、11.2ヘクタールの遺跡群が昨年11月、国史跡指定を受けた。
この日は36人が参加。バスで反町館と生品神社、矢太神水源、江田館跡、東照宮、長楽寺、明王院、円福寺、十二所神社の9遺跡を訪ねた(2001.3.21)関連記事 |
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●3月12日、長野県飯田市宮ノ上地区に伝わる掛け幅が、鎌倉末期から室町時代(14〜15世紀)ころにかけて制作されたとみられる「聖徳太子絵伝」であることが判明した。絵伝は五幅で、太子の誕生から物部守屋との合戦、新羅との戦いなど、生涯がほぼ年代順に描かれている(2001.3.15) |
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●長崎県松浦市は同市星鹿町の海岸線に残る古い石積みを初めて調査する。星鹿町が面する伊万里湾の出口付近は、今から700年余り前の元冦の激戦地。特に2度目の来襲となった「弘安の役」(1281年)では、元軍約14万、約4400隻が鷹島沖合に押し寄せ、暴風雨により全滅したとされている。地元住民や郷土史家が以前から「元冦防塁ではないか」と指摘している(2001.3.11) |
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●3月2日、新田義貞の鎌倉攻めにまつわる仏法寺(霊山寺)跡が発見された。仏法寺跡が確認されたのは、鎌倉市坂ノ下の県有地。地表から50〜60センチ掘り下げたところ南北約70メートル、東西約30メートルの平場に、寺の掘立柱建物跡や池の跡、墓域などが発掘された。鎌倉幕府の滅亡につながる1333年の元弘の乱では、義貞の浜伝いの徒渉伝説がある一方で、義貞勢と幕府軍との間で防衛拠点だった同寺を巡るし烈な合戦が展開されていたとの史料も残されている。『太平記』では、義貞が稲村ケ崎から太刀を海中に投げ入れると潮がひき、現れた干潟から鎌倉に攻め入ったとされている。しかし、室町時代の歴史書『梅松論』や武士が功績を書き記した軍忠状では、仏法寺をめぐる義貞勢と幕府軍のし烈な戦いを繰り広げた結果、義貞が霊山崎一帯を支配下におさめたとされている(2001.3.10) |
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●群馬県太田市などは、国史跡に指定された「新田荘遺跡」をアピールしようと、「新田荘紀行」と題した観光パンフレットを作製した。「新田荘」は新田氏の荘園で、同市の南西部と尾島、新田、薮塚本町にまたがり、新田氏ゆかりの寺社や館跡が多数点在。
新田義貞が挙兵した地といわれる生品神社や中世の代表的な平城・反町館跡、新田氏累代の墓のある円福寺など11カ所の遺跡が、国史跡となった(2001.3.8) |
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●3月3日熊本市の県立美術館本館で開幕した「蒙古襲来絵詞展」の記念シンポジウムが同市国際交流会館で開催された。「絵巻は公家文化の中で生まれたもので、武家が作るのは極めて異例。季長が制作者だとすれば、絵巻化を実現する素養をいつ身に着けたのかが最大のなぞ」などの指摘がなされた(2001.3.7) |
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●2月27日、鹿児島県伊佐郡菱刈町で鎌倉時代から同地を治めた豪族・菱刈氏関連の石塔30基余りが復元された。2年前に同氏の墓のある丘を治山工事した際、土中から、自らを供養するために生前から造る逆修塔が大量に見つかった。明治初めの廃仏棄釈などで破壊された菱刈家のものとみられたが、墓のそばにバラバラの状態で放置されていた(2001.3.7) |
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●2月27日、京都府舞鶴市泉源寺の「泉源寺遺跡」から鎌倉時代の石積みを備えた屋敷跡が出土。寺院か荘園の有力者の住まいと予測される。泉源寺は13世紀末〜16世紀の中世寺院。律宗西大寺派で、荘園「西大寺領志楽荘春日部村」に所在(2001.3.4) |
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●三嶋大社で旗揚げし鎌倉幕府を開いた源頼朝を縁に、三島市と鎌倉市が都市親善交流を図っていくことになった(2001.3.5) |
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●2月7日、源頼朝の墓がある神奈川県鎌倉市西御門の山林を、所有者の島津家32代当主、島津修久さんが鎌倉市に寄贈した。島津家初代忠久は頼朝の子との通説があり、1770年代に徳川幕府から25代の重豪が土地を譲り受けていた(2001.2.12) |
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●2月7日、大英博物館で製作・展示(既報)する青森ねぶた祭の武者人形を製作する北村隆さんと電気技師の船橋勝利さんは下絵を初めて公表した。ねぶたの題は「源義経渡海」。源義経が追っ手を逃れて青森県三厩村にたどり着き、竜馬に乗って空を飛び、海を渡ったという伝説に基づく(2001.2.12) |
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●2月6日、佐賀県北松鷹島町の沖合の海底で見つかった元船の船体の一部とみられる2つの木片は鑑定の結果、木片の年代が元冦当時とほぼ一致し「沈没した元船の可能性が極めて高くなった」。元軍約14万、艦船約4400隻が暴風雨により鷹島周辺で壊滅したとされる弘安の役(1281年)より40〜120年古く、「元船建造の時期などを考慮すると、元冦の役とほぼ一致する」としている(2001.2.11)
関連記事 |
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●神奈川県鎌倉市は、同市由比ガ浜の旧鈴木邸に「中世歴史調査研究室」を開設する。同市は世界遺産登録に向けて土木遺構の発掘調査などを進めている(2001.1.24) |
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●京都府京都市上京区の大報恩寺本堂(千本釈迦堂:国宝)で、檜皮(ひわだ)の屋根の修復作業がこのほど終了した。同堂は鎌倉時代前期の1227(安貞元)年建立。応仁の乱でも焼け残り、京都市に現存する仏堂遺構としては最古のもの(2001.1.13) |
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●広島県三原市の米山寺の、老朽化のため建て替えていた山門がこのほど完成。同寺は1153年に建てられ、1235年に小早川茂平が寺院を再建し、小早川家の氏寺となった。近くには、小早川家初代の土肥実平から十七代の小早川隆景までの墓がある(2001.1.13) |