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●8月31日、和歌山県新宮市の「『大逆事件』の犠牲者を顕彰する会」は、同市の医師・大石誠之助ら同事件で処罰された熊野の犠牲者6人を顕彰するため、名誉回復の決議を求める文面の陳情書を松本哲也市議会議長に提出。佐藤春陽市長にも陳情書を手渡した(2001.10.25) |
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●8月25日、和歌山県新宮市の市商工会議所で「『大逆事件』の犠牲者を顕彰する会」が設立された。同会は、「大逆事件」で「紀州(新宮)グループ」として捕らえられ刑に処せられた新宮市の医師・大石誠之助、僧侶・高木顕明と峯尾節堂、本宮町の商人・成石勘三郎と弟の平四郎、三重県御浜町の新聞記者・崎久保誓一らの名誉を回復することを目的している(2001.10.25) |
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●和歌山県田辺地方の地方紙の先駆け「牟婁新報」の1905(明治38)年の新聞が見つかった。見つかったのは1905年3月〜1906年2月にかけて発行された13日分。当時、旧生馬村所有山林の入会権をめぐって同村と隣接の旧朝来村が係争中で、見つかったのは「山林事件」と題した連載など事件に関する記事が掲載された新聞ばかりで、関係者が裁判記録と一緒に大切に保管していたとみられる(2001.10.25) |
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●愛知県津島市の横井氏の親族宅から、同町で発生した水害で、行方不明になった陸軍兵士の捜索に住民が協力したことに対する当時の町長を務めた横井亮氏にあてた陸軍からの礼状が見つかった。水害は1909(明治42)年1月に発生。日光川で仮堤防が決壊、作業中だった陸軍名古屋工兵第三隊員の袴田島太郎氏が濁流にのまれ行方不明になった(2001.10.7) |
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●北海道函館市の郷土史研究家・近藤正春氏は、野口雨情作詩の童謡「赤い靴」のモデルとなった少女は、里親となった「異人さん」の宣教師とともに函館の教会で生活していたことを裏付ける資料の発掘に取り組んでいる。
近藤氏は、市立函館図書館にあった「日本メソジスト函館教会五十年記念史」(1923(大正12年)発行)に、少女の里親となった米国人宣教師C・W・ヒュイット氏が1906(明治39年)〜1907年、同教会の宣教師だったとの記述を発見した。これまで、ヒュイット氏が赤い靴のモデルとなった少女の里親であることまでは知られていたが、「記念誌」からこの二人が函館で生活していたと近藤氏は推測している(2001.9.28) |
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●新潟県長岡市の城内稲荷神社の参道にある手洗鉢に、明治時代に活躍した女株券師の名前が入っていることが確認された。女性の株券の仲買人は全国で例がなかったとされる。当時長岡周辺は石油景気の株券ブームで沸いた(2001.9.21) |
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●7月25日、和歌山県新宮市で、「紀州(新宮)グループ」6人の名誉回復に向け活動する「『大逆事件』の犠牲者を顕彰する会」の設立総会が行われた。これは大逆事件首謀者として処刑された幸徳秋水に対し、高知県中村市市議会がその名誉回復を認め顕彰する決議をしたことを受けたもの(2001.8.23) |
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●岐阜県高山市の高山の縁起物「松倉絵馬」の総版元で池本屋五代・池本和雄氏宅で、「明治二十八年八月」と記され銃を背負った騎兵や軍服を身にまとった兵士などが馬にまたがる絵馬の型紙が4枚見つかった。日清戦争当時のもので、出征中の兵士の無事を祈願したものと思われる。高山の絵馬は、千両箱や米俵を背にした色とりどりの飾り馬をかいた紙絵馬が主流。もともとは江戸時代、松倉山にある松倉観音の縁日法要に馬を引き連れて牛馬の無病息災を祈願したのが始まりといわれ、次第に「開運」祈願の紙絵馬に姿を変えたとされる(2001.7.24) |
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●福井県敦賀市の敦賀半島先端にある「立石埼灯台」が今年、点灯120周年を迎える。立石埼灯台は、1881(明治14)年に日本人技術者が独自に設計・建築した最初の洋風灯台として日本海側で2番目の灯台として誕生。はじめは石油灯だったが1914(大正3)年、ガス灯に改良、1938(昭和13)年に電灯に。1961年には機器が自動化され無人となった(2001.7.22) |
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●6月10日、新潟県西蒲岩室村の農産物常設市場に「救援米『米百俵』生産の地」の看板がこのほど掛けられた。米百俵は長岡藩の支藩の三根山藩(西蒲巻町)が1870(明治3)年に贈ったもの。三根山藩は現在の巻町峰岡に陣屋を置き、領地は巻町と岩室村に広がっていた。しかし「米百俵」の故事には「岩室村」はまったく登場しないのが実情(2001.7.10) |
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●6月7日、福井県三国町の岸名惣助氏宅で「龍翔小学校」の棟札が見つかった。札には龍翔小建設に携わった豪商、森田、内田家など著名人を含め町内外約50人の名前が記されており、建設が町挙げての一大事業だったことをうかがわせる。同小学校は、1914(大正3)年に取り壊されたが、明治初期にオランダ人G・A・エッセルが設計した木造五階建て八角形の擬洋風建築(2001.7.10) |
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●6月20日、イタリアで見つかった日本の風景写真集に明治初期の京都を写した写真101枚が含まれていることが判明した。この写真集は「大日本全国名所一覧」と題され、180枚の紙の両面に、北海道から沖縄まで日本各地の写真計1268枚を張り、撮影場所を書き添えている。イタリアの第三代駐日全権公使として1877(明治10)年から同14年まで滞日したバルボラーニが持ち帰ったとみられ、日本全国を網羅した写真集としては、確認されたうちで最古という。写真集にはこのほか、甲府城の本丸櫓を写した初確認の写真も含まれていた。写真集は6月末、平凡社が復刻刊行する(2001.7.6) |
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●6月16日、和歌山県新宮市市福祉センターで「大逆事件を問い直す住民の会」による学集会が開かれ、その席で「紀州グループ」といわれる新宮市の医師大石誠之助ら6人の名誉回復に向け、今年8月下旬に「『大逆事件』犠牲者を顕彰する会」(仮称)を発足することを明らかにされた(2001.7.6) |
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●6月16日、宮沢賢治(1896〜1933)の実弟・宮沢清六(みやざわ・せいろく)氏が、老衰のため花巻市の自宅で死去した。97歳。同氏は、1933年に刊行した宮沢賢治全集の編者であり、最近まで研究者に資料提供しながら賢治の実像を語り継いできた。また蔵などに残された遺稿や資料を整理復元。記念館建設に向けて市に多額の資金を寄付したほか、これまでに詩や童話の原稿、ノートなど約3500点を寄贈した(2001.7.6) |
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●京都市中京区の雅楽器師・山田全一氏が今月初旬「京都新聞チャリティー骨董・古美術展」で競り落とした掛け軸「笙(しょう)」が、明治天皇“ご親筆”の可能性があるとして話題になっている。山田氏は笙の字にひかれ、筆者不詳の掛け軸を落札。後日、自宅の古書を調べ、そっくりな字が「明治天皇九歳の書」として写真掲載されているのを見つけた(2001.7.4) |
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●群馬県富岡市で、孤高の詩人・大手拓次(1887〜1934)の詩「待宵草」に曲を付けた楽譜が見つかった。楽譜は、富岡・甘楽地方などの作詞作曲仲間の同人誌「歌謡研究」に掲載されていた。拓次は北原白秋の門下で、前橋出身の萩原朔太郎や室生犀星らと親交があった。付曲された拓次の詩は珍しく、貴重な音楽資料(2001.6.29) |
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●5月10日、合気道の創始者、植芝盛平翁(1883〜1969)ゆかりの茨城県岩間町、北海道白滝村と田辺市の友好都市提携調印式が行われた。白滝村は、1912(明治45)年、26歳の植芝翁が開拓団を組織して切り開き、1919(大正8)年、「父危篤」の知らせで故郷田辺に帰るまでの7年間を同村で過ごした。また岩間町は、植芝翁が1942(昭和17)年、道場を息子の吉祥丸氏にあずけて移り住み、晩年を過ごした(2001.5.29) |
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●鴎外の孫に当たる森富元仙台大学長と、阿部武彦仙台大教授、渡辺善雄宮城教育大教授は、森鴎外の最初の「鴎外全集」の編集委員のリーダー的存在として、刊行に尽力した歌人与謝野鉄幹(本名・寛)の1922〜33年までの42通の書簡とはがき28通を解読した。いずれも鉄幹が、鴎外の末弟で、同じく全集の編集委員を務めた森潤三郎にあてた手紙。現在は本郷図書館に所蔵されている(2001.5.29) |
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●秋田県金浦町の地元の有志が結成した「白瀬中尉をよみがえらせる会」は、今月発行した会報「オーロラ」100号を最後に17年間の活動に終止符を打った。同会は、同町出身の日本の南極探検の先駆者白瀬矗(のぶ)中尉の功績を後世に残そうと、「白瀬南極探検隊記念館」を開館させ、白瀬カップ全国犬ぞり大会などのイベントを毎年開催してきた(2001.5.29) |
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●新潟県上越市北方の岩の原葡萄園で、ワイン貯蔵庫を低温に保つためのトンネルが発掘された。ワイン貯蔵用に1893年建造された半地下構造の石蔵の壁面から、横方向に掘られていた。地下からわき出た冷水をトンネル内に導き、そこで冷やされた空気を石蔵に送る仕組み。このトンネルは、1894(明治27)年に国産ワインの父といわれる川上善兵衛が掘ったもの(2001.5.22) |
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●三代目奥村菅次が製作し、日本最初の博覧会・内国勧業博覧会(1877)で賞を受けるなどした日本の科学技術史に残る貴重な噴水器が修復された。修復された噴水器は、明治初期の作とみられ、直径70センチ、高さ60センチ、重さ約150キロの青銅製。菅次の作品の中では最大とされる。釣り鐘を逆さにしたような器の上に、ツルやカメが生息するハス池を模した飾りの中から水が出る。3年前に草津市の料理店で発見されたのを譲り受けた大阪府の科学技術史研究家東野進氏や彫金師ら技術者8人が2年がかりで修復。奥村菅次は、江戸末期から明治中期にかけて活躍した彫金師で、数々のからくり作品でも知られる(2001.5.10) |
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●4月25日、香川県琴平町の金刀比羅宮にある琴陵容世宮司の旧宅で高橋由一(1828〜1894)が描いた肖像画が見つかった。モデルは明治時代に宮司を務めた琴陵宥常氏。高橋由一は下野国(現栃木県)佐野藩士の長男として江戸に生まれた明治初期の洋画家。写実を追究した作品を残した。1879年に資金援助を条件に絵画37点を同宮へ奉納。1880年末から約40日間琴平に滞在し、宥常氏の肖像画や琴平の風景など6点を描いたという(2001.5.9) |
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●愛知県津島市の佐織町学芸員の石田泰弘氏と、美和町歴史民俗資料館学芸員の近藤博氏は、明治中期から昭和初期にかけて、海部津島地域から渡米し財を築いた人たちが、郷里の寺社などに寄贈した鳥居や灯ろうなどの分布状況がまとまった。津島市の津島神社の大鳥居など、平和町を含め、11市町村59カ所で確認された。同県内から、約1000人が明治後期から昭和初期にかけてカリフォルニア州を中心に渡米。半数近くが海部津島地域出身者だった。中間階級が多く、現地ではビーンズやアスパラガス、タマネギなどを栽培したといわれている(2001.4.24) |
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●4月5日、愛知県豊川市西豊町の鈴木秋夫氏は、60年以上前、東栄町で撮影した写真に写っている人たちを捜し出している。氏の記憶では、写真は1940年の3月ごろ、旧本郷町(現東栄町)の小学校講堂玄関前で、日露、日清戦争などに従軍した在郷軍人が集合して撮影された。87人が写っている(2001.4.24) |
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●啄木研究家で国際啄木学会理事の遊座昭吾氏は、東京の古書店を通じて石川啄木の短歌が掲載された幻の初出誌を入手した。同誌は、1909(明治42)年3月に盛岡市で発行された雑誌「ツララ(氷柱)」第1巻第1号。ほかの新聞・雑誌には発表されていない5首を含め26首の掲載が判明した(2001.4.23) |
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●秋田県金浦町の市民グループ「白瀬中尉をよみがえらせる会」は、明治時代の白瀬南極探検隊に参加した樺太アイヌ民族で、樺太・富内村(オホーツコエ)の元村長山辺安之助氏(1867〜1923)の子孫を探している。山辺氏は、そりを引く樺太犬の担当として、白瀬中尉の探検を支えた。自叙伝「あいぬ物語」や、言語学者金田一京助氏による著作で、アイヌ民族の生活向上に尽くした人生が広く知られている。今年6月にサハリンで行う追悼行事を前に、同会では「ぜひ名乗り出てほしい」と願っている(20014.16) |
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●清水市興津清見寺町の清見寺で西園寺公望の石膏像が発見された。西園寺は偶像崇拝を嫌がり、自分の彫像を造ることはなかったが、東京・神田駿河台の本邸だけには大理石の胸像が建てられていた。しかし、この胸像も大正12年の関東大震災で本邸とともに破損。そこで本邸の再建を依頼された建築家則松幸十郎が、破片を掘り出して石膏像を復元した則松は、西園寺が興津に建てた別邸「坐漁荘」の設計者でもある(2001.3.20) |
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●3月9日、京都市上京区の日蓮宗本山・本法寺で明治時代の画家・岸竹堂(1826〜1897)が描いた襖絵がみつかった。同寺書院に使われていた襖の表と裏を合わせた十六面。倉庫にしまいこまれていたのを京都国立博物館が平成11〜12年度に調査。落款はないものの、画風などから竹堂の作と確認した(2001.3.19) |
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●青森県十和田市の新渡戸記念館で新渡戸稲造博士が、ドイツ留学時代に後の萬里子夫人(アメリカ人のメリー・P・エルキントン嬢)に贈ったとみられる日本語の入門書が見つかった。同書は1888(明治21)年、ニューヨークで出版された「ELEMENTARY
GRAMMAR OF THE JAPANESE LANGUAGE」。中表紙には「Mary.P.Elkinton Philadelphia
from Inazo Ota」の署名と一緒に「Mary Nitobe」の署名がある(2001.3.15) |
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●3月8日、宮城県仙台市青葉区の七十七銀行本店の倉庫から渋沢栄一と思想家・教育家の福沢諭吉(1834〜1901)が明治時代、仙台市内の経済・行政関係者に出した直筆の書簡が見つかった。渋沢の書簡は第一国立銀行頭取としてのもの。福沢諭吉の書簡は初代仙台区長(現在の仙台市長)の松倉恂にあてて、明治13年ごろ書かれた(2001.3.12) |
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●北海道後志管内岩内町で、明治時代に作られたオルガンが見つかった。これは個人所有のオルガンで、札幌市内のピアノ調律師が修復する過程で、明治末期に作られたヤマハ製と判明した。同町では、すでに1905(明治38年)製造で現存する最古の国産オルガンが見つかっている(2001.3.8) |
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●3月1日、高知県に維新の政治家・江藤新平が記した書など2点が寄贈された。この書は、逃亡中の江藤が、当時須崎で商家を営んでいた西内家に泊まった時に書いたものと伝えられている(2001.3.7) |
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●北海道伊達市の亘理(わたり)伊達家ゆかりのひな人形が、91年ぶりに帰郷。同人形は享保年間(1716〜1736)に制作され「享保ひな」。伊達開拓の祖とされる第十五代当主、伊達邦成が1879年から行った集団移住で伊達に。三女佑子の仙台伊達家一門への嫁入り道具として、仙台に渡った(2001.3.4) |
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●福井県織田町で、京都俳諧の流派「芭蕉堂」系列の俳人から渡されたとみられる、硯箱などを載せる文台が見つかった。同文台は明治時代のものとみられ、裏面に「馴染ある 家に匂ふや 梅の花」の俳句が刻まれている。「連梅」の俳号があることから、上坂津右衛門氏(1867〜1946)に京都の芭蕉堂系統の俳人・連梅が贈ったのではないかとみられている。(2001.3.4) |
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●2月28日、長崎県佐世保市は明治末期から昭和初期にかけて撮影された佐世保海軍工廠の写真が米国人から郵送されてきたと発表した。差出人は米国在住のジェームス・H・ハ−ヴィ−氏。「1945年に手に入れた古い写真。興味があるだろうから送る」とだけ書いてあり、入手方法などは不明。軍艦の建造や改装、解体、起工式の模様などを撮影した計44枚。内訳は、砲艦「嵯峨」の起工式や進水式など11枚。軽巡洋艦「長良」の起工式など11枚。ドイツ海軍潜水艦(Uボート)の岸壁係留や解体工事など15枚。航空母艦「加賀」の飛行甲板改良工事3枚など(2001.3.5) |
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●黒部市三日市の「三日市ふるさとを語りあう会」は、これまで発見されていなかった市内を流れていた「町川」の写真を、昨年11月に刊行された『明治の日本−宮内庁書陵部所蔵写真』(吉川弘文館刊)のなかで見つけた。見つかった写真は、明治天皇の行幸の際に写真師が撮影したもの。三日市を写した写真はこれまで、大正3年のものが最も古いとされていて、宮内庁の写真によって初めて町川の実際の姿が明らかになった(2001.2.27) |
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●榎本武揚(1836〜1908年)の自筆書簡など関係史料100点余りがこのほど、一昨年に亡くなった榎本の孫の遺品から見つかった。史料は、書簡が約60点、賞状など書類が約40点。保管しているひ孫の榎本隆充さんがこのほど専門家に書簡の解読を依頼、うち一通が、明治政府の北海道開拓政策に大きな影響を与えた1886年8月8日〜9月4日の北海道視察の際のものと判明
(2001.2.26) |
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●2月6日、三重県松坂市内で音楽団体関係者らが「長尾オルガンを探す会(仮称)」を結成。国産オルガン製造の草創期である明治中期に松阪市内で造られた長尾オルガンを探している。同オルガンは故長尾芳蔵氏が1886(明治19)年ごろから松阪市湊町で製造。約20年間にわたって十数種類、約1万台のオルガンが造られたという(2001.2.7) |
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●明治時代に青森県の教育、文化、政治、産業の振興につくした菊池九郎(1848〜1926年)らが明治初年、弘前藩に命じられて国内留学した際に撮影したとみられる写真が仙台市内で見つかった。この写真の裏には「右・間宮斉、中・菊池九郎、左・珍田捨巳伯爵 元侍従長」「明治初年、洋学研修のため静岡に留学の際」などと書かれている(2001.1.30) |
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●富山県婦中町のアマチュア劇団が明治時代に渡航し、在米邦人に初めて仏教を布教した住職・青山秀泰の生涯を演劇化しようとしている。秀泰は1875(明治8)年、旧古里村新町(現婦中町)に生まれ、1909(明治42)年ごろに米国に単身で渡る。苦労を重ねながら、在留邦人と親しく交わり、仏教を説いた。現在のロサンゼルス高野山別院の母体となる「羅府大師教会」建立に現地で成功し、初代貫主に。1922(大正11)年に帰国している(2001.1.10) |
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●洋画家の岸田劉生(1891〜1929年)の原稿とはがきが福山市に寄贈された。原稿は「陶雅堂劉生用稿箋」と印刷された専用の400字詰原稿用紙。右側には万年筆で5行にわたって雑文が書かれている。
はがきは親交があった東京日々新聞社の元学芸部記者あてのもの(2001.1.8) |