室町時代(1392〜1573年)

■2003年
2/21、徳島県藍住町の「勝瑞城館跡」近くで、15〜16世紀のものとみられる呪符木簡4点が見つかった。木簡は、長短2種類の短冊状の薄板で各2本。長い木簡のうち1点には、表面に墨書で十文字が記されていた。 徳島新聞
2003/2/21
1/30、静岡県函南町の「仁田館遺跡」で、畝堀が見つかった。同遺跡から見つかった堀は、幅4メートル、深さ3メートル、長さ約30メートルにわたって確認され、幅約60センチの仕切りが1.5〜2メートルおきにあった。畝堀は山城などでは見られるが、館跡から出土した例は県内初。同遺跡は、源頼朝の家臣仁田四郎忠常に代表される仁田家代々の館跡。平安時代末期から鎌倉時代までにできたとされ、これまでの調査で室町時代のものとみられる薄い木の板に写経した大量の「こけら経」や建物群の柱穴跡などが見つかっている。 静岡新聞
2003/1/31
■2002年
12/18、桑名市の「南浦遺跡」から、戦国時代の屋敷地群が見つかった。見つかったのは、幅約2メートル、深さ約1メートルの溝で囲まれた約36メートル四方の屋敷地2区画。この屋敷地内には100以上の柱の穴があり、複数の建物が存在していたとみられる。井戸や、四角の皿状に掘った穴も複数見つかった。下駄、漆のわん、曲物(まげもの)、小柄(こづか)、切羽(せっぱ)、古銭などをはじめ、食器・調理具類なども出土した。(2003.2.19) 中日新聞
2002/12/19
11/26、石川県加賀市の片山津町公民館で、本願寺第九世実如(1458〜1525)の署名がある「御文」(おふみ)と本願寺第十三世宣如の裏書きがある「親鸞聖人像」が見つかった(2002.12.5) 中日新聞
2002/11/27
11/25、京都市の清水寺の正門「仁王門」(重文)は、ヒノキ、カツラ、クスなど10種類に及ぶ木材で建立されていたことが判明した。当時の建築物は通常3〜4種の木材で建てられている。調査にあたっている京都府教委では、「応仁の乱後、一刻も早く再建 しようと全国から資材を寄せ集め、部材を選ばなかったのでは」としている(2002.12.5) 京都新聞
2002/11/26
11/3、大分県清川村の農林業佐保誠二氏方で戦国時代の豊後国の武将・大友宗麟の古文書が見つかった。文書は同村の宇田枝武士団に与えたもので、「雁皮紙(がんぴし)」が使われている。年代は1568(永禄11)年4月と推定される。(2002.12.22) 大分合同新聞
2002/11/3
●10月3日、大分県大分市の「中世大友府内町遺跡」で旧万寿寺の堀跡と思われる大規模な溝跡が確認された。旧万寿寺は、中世当時を描いたとされる府内古図から、同市元町に想定されている。これまで大量の瓦が出土し、寺が古図通りにあったとみられている。溝は、古図には描かれていないが、寺北側に「堀之口町」があったことから、堀の存在が想定されていた。(2002.10.10)
●9月12日、奈良県榛原町沢の「下城・馬場遺跡」で15世紀に焼失した礎石建物跡が見つかった。焼け跡の残る礎石建物の柱石は25個検出され、大きいもので縦50センチ、横30センチ。建物規模は東西約4.2メートル、南北約4.5メートルで、焼けた土壁や米などが出土したことから、米蔵であった可能性が高い。京都・醍醐寺の座主、満済が15世紀前半に記した「満済准后日記」によれば、1429(正長二年)2月24日、沢、秋山両氏が興福寺勢力に攻められて自焼、没落したとある。焼け跡は、このときのもので、捲土重来を期す意味で行った「自焼(じやけ)、没落」によるものと推定される。(2002.9.25)
●広島県竹原市の大井谷で、16世紀初めごろの製鉄場(たたら)遺跡が瀬戸内海沿岸部では初めて発見された。広島大の河瀬正利教授は「東永谷製鉄遺跡」と命名した。見つかったのは、保温や湿気を防ぐため製鉄炉直下に設けられた地下施設。長さ3.8メートル、幅1.3メートル、深さ1メートルで、ほぼ完全な形だった。 粘土を焼き締めた二枚の壁の内側に木炭や焼き土で埋めた「本床」があり、両方の壁の外側には溝状の「小舟」が築かれている。本床下部に通気孔とみられる直径数センチの横穴があり、中世たたら遺跡では珍しい構造。中国地方の中世たたら遺跡は、これまで内陸部で発見されており、広島県内の南端は東広島市の「石神製鉄遺跡」だった。(2002.8.13)
●2月24日、奈良・唐招提寺金堂(国宝)で、室町時代の「長享二年(1488年)」の銘が入った瓦が見つかった。同金堂は解体修理中で、屋根から外した約4万枚のかわらを分類中に発見された。文献などで明らかになっている金堂修理は、鴟尾(しび)瓦に年代が刻まれた1323年など鎌倉時代に2回と、元禄、明治にそれぞれ1回だった。鎌倉末〜南北朝期に至る法隆寺の記録「嘉元記」や「記録法蔵」などの文献によると、1361年6月と1396年5月に奈良で大きな地震があり、唐招提寺内の建物が被災した。また1449年に京都・奈良で起きた地震では余震が2カ月続き、山崩れや橋が落ちるなど大きな被害があったためこの時期に修理された可能はある。(2002.4.24)
●大分県大分市の「中世大友府内町遺跡」にある「大友館跡」の東側で見つかった道路は、大友宗麟時代のメインストリート「南北大路」だったことが確認された。南北大路跡は幅6メートルほど。部分的に小石や土器片などを敷き、両側に側溝が設けられていた。大路は宣教師フランシスコ・ザビエルが館を訪問した際、にぎにぎしくパレードしたとされる。(2002.4.9)
●和歌山県田辺市上三栖に那須定守を供養する宝篋印塔があり、現在も一族により守られている。宝篋印塔は、定守の居城エコン城跡の山すそで、殿壇(とのだん)と呼ばれる小高い丘にある。「大瀬の合戦」の後、建立された塔は、江戸時代元禄期に、この地に入った馬我野の那須一族である大江氏が代々守っている。 那須定守は、屋島の合戦で名を馳せた那須与一の兄の子孫といわれる。戦功で1399(応永6)年、三栖荘長野の地頭の地位を得て着任。1418(応永25)年、「大瀬の合戦」で定守とその一族は滅亡したという。現在230軒を超える那須姓のルーツとなったといわれる。(2002.4.6)
●2月14日、京都市南区の東寺(教王護国寺)旧境内で、室町時代に建てられた同寺に付属する子院の跡が見つかった。見つかったのは、東西12メートル、南北11メートルの室町時代後期の建物跡。仏間を備えた客殿風の建物と考えられるという。東隣には東西7.5メートル、南北3.5メートルの付属建物跡があり、井戸や溝、さく列も出土した。(2002.4.2)
●2月11日、大分県臼杵市目明区の山上に残る「ヤシキ」と呼ばれる遺跡の調査が行われた。「ヤシキ」は山腹の尾根をえぐるように切り広げられた約100平方メートルの平地で、石組みの建物跡などがあるが、言い伝えにも残っていない謎の遺跡。「ヤシキ」という呼び名から、中世の豪族の屋敷跡という説や黒島、水賀城山、竜王山、井村台地など戦国期の諸施設があったとされる場所が一望できることなどから、戦国期の山城ではないかなどの説がある。(2002.4.2)
●大分県大分市の「中世大友府内町遺跡」から、金箔土師器のほぼ完形品と金箔を施した金属器3点などが見つかった。土師器は直径約8.5センチで、表・裏とも漆を塗った上に金箔を張っている。長さ18センチほどの柄杓のような金属器や用途不明の金属片2点も出土。見つかった場所は、「大友館跡」東側の称名寺跡(推定)にかかわるとされる溝で、16世紀後半のものとみられる。(2002.3.27)
●大分県大分市では、中世大友府内町遺跡の発掘調査が急ピッチで進んでいる。主に館跡東側の桜町や御内町、堀ノ口町、称名寺(いずれも当時)などを調査。町の様子が次第に明らかになっている。これまでに豪商が住んだとされる桜町跡からは、建物跡や多くの輸入陶磁器が出土したほか、称名寺跡からは目玉部分に金箔が残る鬼瓦も見つかっている(2002.3.6)


■2001年

●神奈川県鎌倉市台で中世後期の「鎌倉石」の石切り場が発掘された。「生産遺跡」であるため現時点の遺物は少ないが、出土した土器の製作年代から15世紀中ごろ以前に切り出されていたと推定された(2001.10.25)
●長野県茅野市安国寺の「荒玉社周辺遺跡」で、すずりに水を注ぐ室町時代の文具「水滴(すいてき)」がほぼ完形で出土した。出土した水滴は小さなきゅうす状で、直径約4センチ、高さ約3.3センチ。全体は淡い緑色。上薬や焼きの状態から古瀬戸の陶器とみられるという。同遺跡は諏訪大社前宮近くに位置し、当時は大祝(おおほおり)諏訪氏が居宅を構え、足利氏が一国に一カ所設けた安国寺があった場所(2001.10.7)
●8月26日、愛知県名古屋市中区三の丸一で名古屋城三の丸遺跡の現地説明会が開かれた。同遺跡からは明治維新直前の江戸時代後期の井戸やかまど、庭木を移植した痕跡などや16世紀後半(戦国時代)の家臣級の屋敷と屋敷の境を示す溝などが見つかっている。一緒に出土した天目茶碗などから林通勝が那古野城主だったころの家臣の屋敷だったとみられる(2001.9.24)
●福井県鯖江市の石造考古学研究家・山本昭治氏の調べで、福井県福井市の一乗谷朝倉氏遺跡にある「一乗谷初代」朝倉孝景(1428〜1481)の墓とされてきた石塔(通称・英林塚)は、室町時代の古い石塔を転用、修復して江戸時代に建立された可能性が高いことがわかった。孝景の墓とされてきた石塔は高さ約2メートルの笏谷石(しゃくだにいし)製。基壇の上に基礎、塔身、隅飾り突起の付いたかさ、相輪、宝珠などを乗せた宝筐印塔(ほうきょういんとう)になっている。英林塚の石塔は基礎部分に法名の「英林宗雄大居士」などの文字が彫ってあり、孝景の墓と考えられている。しかし、山本氏は高さ約25センチある基礎部に継ぎ目があり、上下別の石を継ぎ足していることを発見した。室町時代など古い石塔は基礎部を四区画に分け、上の二区画は格子模様、下の二区画には格狭間(こうざま)という越前特有の文様が彫ってある。一方、英林塚の石塔は連子窓文様が継ぎ足し面で途切れ、下の部分にはなくなっていた。さらに本来、縦に一直線に並ぶはずの「英林宗雄大居士」の文字も「英」と「林」以下の文字が継ぎ目を境にずれていることも判明した(2001.9.12)
●大分県大分市元町の「大友府内町遺跡」から、16世紀後半のキリスト教の護符「メダイ」が出土した。出土したメダイはほぼ円形で、直径約2センチ。一方にキリストの顔、片方に子どものイエスを抱えるマリアを描いたとみられる浮き彫りがあった(2001.8.25)
●7月22日、青森県市浦村の「十三湊遺跡」で、宗教施設の一部とみられる柱穴跡が出土した。中世都市に不可欠とされる宗教施設は、十三湊遺跡の中心部では確認されていなかったが、往時の十三湊の様子を描いたとされる「十三絵図」(1648年作製)を手掛かりに、現在の「湊迎寺」の北側で行われていた。この結果、15世紀前半の掘っ立て柱穴跡が1.8メートル間隔で、東西約13メートルにわたり出土。すぐ東隣からは約2メートル間隔の掘っ立て柱穴跡の列が確認された(2001.8.6)
●7月18日、静岡県函南町仁田の「仁田館(にったかん)遺跡」から室町時代のものとみられる「こけら経」850枚が出土した。出土したこけら経は1枚の長さ約22センチ、幅約1.5センチ、厚さ約0.5ミリの木片が20〜40枚ずつ束となり、まとまって土中に埋まっていた。今回出土した分は1〜4巻目(約1500行)の一部にあたる。仁田館遺跡は地元の武家の屋敷とみられている(2001.7.31)
●7月9日、長崎県対馬美津島町町尾崎の「水崎遺跡」から、15世紀前後の朝鮮王朝の高官が身に着けていたとされるめのう製の装飾品「石帯(せきたい)」が出土した。石帯は長さ4.8センチ、幅3.8センチ、厚さ1センチ、重さ22グラム。研磨加工が施され、断面は山形に盛り上がっている。一緒に出土した朝鮮王朝や中国の磁器などから、年代は15世紀前後とみられるという。出土した水崎遺跡周辺は、一時期、島主の宗氏をしのぐほどの力を誇った海商の早田氏の勢力範囲とされる。同氏はもともと有力豪族として倭寇の代表的な存在だったが、15世紀に入ると、浅茅湾を中心に朝鮮王朝や琉球などと広範な交易をしていたという(2001.7.27)
●和歌山県の徳蔵地区遺跡第五次発掘調査が6月初旬から始まり、南部町内の「八丁田んぼ」から一町(109メートル)区画で整備された室町時代のあぜ道跡が発見された。このほか、近世から明治時代にかけての水路跡なども見つかっている(2001.7.6)
●5月21日、広島県原市中之町の石積み護岸の一部が、三原バイパスの建設に伴う河川工事で消滅するため市教委は現地調査する方針を明らかにした。護岸は、「水刎(みずはね)」と呼ばれ、カーブを描く川の外周側に設けて、水の流れを緩めたり方向を変えて洪水を防ぐ役割。専門家は、三原城の築城が始まった1567(永禄10)年以降に造られたものとみている(2001.6.5)
●愛知県にある栄徳高校の教諭・山口均氏は、瀬戸市の「海上(かいしょ)の森」に関する研究を小論文にまとめ、中部地名文化研究会の機関誌「地名文化」の最新号に発表した。この小論文で、愛知万博開催地として広く知られるようになった「海上」の地名について、なぜ「かいしょ」と呼ぶのかという疑問から、その由来を考察。その結果、森の中にある「物見(ものみ)山」が、戦国時代の武将・武田信玄と深いゆかりがあるとされる伝承に着目。「物見山から見た光景は念願の海が遠方に望む。まさしく海が手に取るように見えた所であっただろう」と推測した。「かいしょ」の呼び名は信玄と関係があり、「海が見える所」の意味から発生したという仮説を立てている(2001.5.2)
●2月18日、岐阜県岐阜市下土居の「鷺山仙道遺跡」の「鷺山市場遺跡」から、鷺山城の城下町の一部とみられる戦国時代の建物跡や鋳造道具、生活用器などが見つかった。鷺山城は戦国時代、土岐氏の居館があったといわれる。美濃国最後の守護大名土岐頼芸(よりのり)が1542年ごろ、鷺山城から革手府城に移り、1554年には斎藤道三が鷺山城に隠居したとされている(2001.2.20)
●島根県大田市大森町の宮ノ前地区の石見銀山遺跡に武士の屋敷と見られる建物跡があることが判明した。調査では、建物の配置や井戸などの施設の様子が明らかになったほか、鉄製品を加工したかじ屋跡が見つかった。出土品は、食事に必要なわんや皿の陶磁器、木製の椀や箸、下駄や簪、釘などの鉄製品(2001.2.16)
●2月3日、福岡県築城町の宇都宮氏のものとみられる館跡は、中世の館跡としては国内最大級とされる足利氏館跡(栃木県足利市)と大友氏館跡(大分市)に次ぐ規模(約1万8000平方メートル)と判明しているが、さらに3000平方メートルほどの関連区画が見つかった。調査で、敷地西側の入り口近くに関連区画の郭の存在が明らかになり、区画内には一棟の建物跡と火葬墓も見つかった。この墓から、15世紀代の素焼きの土器4点が出土、うち1点の底にはへらで書いた線刻の文字も確認された(2001.2.7)
●2月1日、岐阜県土岐市下石町の「下石西山窯跡」の発掘調査結果が発表された。同遺跡からは15世紀前半(室町時代中期)のころと推定される古瀬戸系窯を1基掘り起こしたほか、13世紀(鎌倉時代)のものと思われる山茶碗(わん)窯の存在を一基確認。15世紀末(室町時代後期)は、地中に築く「窖(あな)窯」から地上に築く「大窯」へ移行した時期で、今回掘り起こした窯は、焼成室の壁が左右に張り出した構造を持つなど、移行期の半世紀も前に大窯に続く特徴を備えていることが判明した。瀬戸の施釉(ゆう)陶器の技術集団が新天地を求めて全国に離散した時期で、同窯はその集団の一部が土岐市に移り住んで築いたとみられる(2001.2.5)
●岩手県胆沢町若柳の「旧穴山堰(ぜき)」で新たな穴堰が見つかった。同堰は約500年前に築造されたとされる農業用水路。全長2.7キロに及ぶ旧穴山堰は、胆沢ダムの堤体建設予定地直下の昭和穴(延長210メートル)から始まり、七左エ門−馬留浦(同307メートル)、小松−安倍浅右エ門浦(同912メートル)、菅原徳左エ門浦−湧上り(210メートル)、宮坂−宮坂湧上り(1035メートル)までの五つの穴堰で成る(2002.2.2)
●1月19日、和歌山県すさみ町見老津の通称「高浜」山頂付近で発見された熊野水軍の見張り館とみられる遺構の調査が地区民や役場関係者らによって行われた。この遺跡が発見されたのは、10年ほど前に同地区の住民が相次いで負傷し、祈祷師に相談したのがきっかけ。荒れたままの神社があると言われて区長らが平成7年に発見した。その後の調べで、100平方メートルほどの土地が、大正3年に官有地として蛭子神社の名称で登記されていることも判明した(2001.1.24)
●福井県武生市の「四町まちづくり協議会」はこのほど、”武生の七不思議”の一つとされる本町の「卍が辻」(まんじがつじ)の一角に説明看板を設置した。卍が辻は、龍門寺門前から約30メートル北にあり、旧北陸道と市道が交わる地点。道路を「卍」の形にずらして交差させているため見通しがきかず、交差点中央には長方形の空間がある。由来としては織田信長軍が一乗谷・朝倉氏への攻撃や、一向一揆の征討の際に同町にあった龍門寺城(現在の龍門寺)に着陣。四方をふさいだ辻の中に雇った足軽たちを入れ、人数を数えるための「人枡(ひとます)」として造った、とされている(2001.1.15)
●京都府の同志社大歴史資料館は、京都府和束町にある鷲峰山(じゅうぶさん)の山岳寺院・鷲峰山金胎寺の調査を終えた。調査結果から「十六世紀初めには広大な境内に伽藍配置が施され、信仰の地として繁栄していたことをうかがわせる」としている。 山頂付近では土塁跡も発見され山城の役割を果たしていた可能性もあるという(2001.1.1)


■2000年
●11月14日、広島県山県郡加計町加計の「寺尾生産遺跡」で、鉱石の精錬や硫黄分の除去をしたとみられる炉跡が20基前後見つかる。同遺跡では16世紀後半から約200年間採掘が行われていたとされる(2000.11.16)
●福岡市と「商都博多の歴史・文化を掘り起こす市民の会は、中世の商都・博多の歴史をわかりやすく伝えようと歴史パンフレット「中世はかた絵模様」を5000部を発行。市内の学校や公民館などに無料配布する(2000.11.8)
●10月30日、京都市下京区のビル建設予定地から室町時代前期の町家とみられる建物跡5棟分が出土。当時から四条通界わいが「繁華街」だったことを示す(2000.11.1)
●10月25日、小牧山のふもとで織田信長時代の武家屋敷の区画を確認。井戸なども見つかる(2000.10.30)
●大分県大分市の大友館跡の発掘調査で、これまでに庭園、土塁跡、中国磁器などが見つかっている。今年中に調査結果をまとめ、来年1月にも国指定史跡の申請をする予定(2000.10.30)
●武田信玄の直系の子孫で、信玄から17代目当主にあたる武田英信さんが今春、甲府市役所の職員となり、先祖のゆかりの地で暮らし始めた。全国にいる武田家家臣の末裔約250人でつくる「武田家旧温会」も温かく迎えた(2000.10.16)

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