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●9月30日、埼玉県深谷市の「幡羅(はら)遺跡」で、奈良時代に創建された郡衙の正倉と推定される遺構が20棟確認された。正倉とみられる建物20棟の内容は、礎石建物跡4棟、掘立柱建物跡16棟。建物の向きはすべて等しく、柱筋がそろっていることから、計画的な配置といえる。またこのうちの1棟の基礎工事跡が「円丘状盛土地業(えんきゅうじょうもりどじぎょう)」といわれ、京都府恭仁宮跡に次いで全国二例目の発見になることも判明した。幡羅遺跡周辺は当時、武蔵国幡羅郡と呼ばれ、現在の深谷市東部、大里郡妻沼町全域、熊谷市北部を範囲としていた。(2002.10.6) |
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●8月29日、奈良県奈良市の興福寺境内で中金堂院回廊跡で東面回廊の中央部に階段跡が見つかった。回廊は、北側に中金堂、南側に中門をそなえ、南北約65メートル、東西約84メートル、幅10.74メートル。階段跡は、東面回廊の中央からやや南側で見つかり、幅約4.1メートル。階段の両端の耳石を支える地覆石と地覆石抜き取り穴が確認された。(2002.9.25) |
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●2月19日、埼玉県吉見町の「西吉見条里遺跡」で、奈良・平安時代の大規模な道路跡が見つかった。幅9〜12メートルあり、北北東から南南西に約70メートルにわたって一直線に延びている。丸太杭を一列に打ち込んだ土留めの間に土を盛り、厚さ30センチほど山砂利を敷き詰めた構造。外側には排水用の側溝(幅2メートル、深さ50センチ)があった。都と地方を結ぶため、国家的事業で建設された幹線道路「官道」とみられる。(2002.4.6) |
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●2月7日、 岡山県岡山市川入の「川入遺跡」で建物群跡が確認され、奈良時代に使われていたとみられる円形の硯(すずり)「円面硯(けん)」も出土した。円面硯は須恵器で、高さ5.5センチ、最大直径11.5センチ。ほぼ完全な形で出土した。建物跡は5棟を確認。コメや麦、鉄などを保管する倉庫、管理棟とみられ、円面硯は荷物の出入りなどを記録するのに使われていた可能性もあるという。(2002.3.27) |
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●2月6日、茨城県つくば市の「金田西遺跡」で、奈良・平安時代の役所施設とみられる掘っ建て柱建物跡約90棟や「子」と記された銅印が発掘された。銅印は青銅製で約2.8センチ四方に文字が刻まれていた。印の大きさに規格のある公印ではなく、当時の有力者がつくった私印と見られる。(2002.3.27) |
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●1月30日、奈良県奈良市の「興福寺中金堂須弥壇阿跡」から金や水晶、真珠などの宝玉が多数出土した。出土したのは、幅約7.6センチ、厚さ約0.1ミリの金の延べ板を巻いてたたんだもの2点と、直径約2.9センチと2.4センチの水晶玉2点、米粒大の真珠約160点、和同開珎など、計約300点。明治時代に見つかった国宝「興福寺金堂鎮壇具(ちんだんぐ)」と一連のもので、奈良時代の創建時、工事や建物の無事を祈る儀式で埋められたとみられる(2002.3.13) |
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●栃木県宇都宮市と上三川町にまたがる「上神主(かみこうぬし)・茂原遺跡」で、奈良時代にこの地域の行政をつかさどった郡衙(ぐんが)政庁とみられる建物跡が見つかった。見つかったのは、縦約10メートル、横約21メートルの「正殿」と、その両わきに縦約36メートル、横約4.5メートルの「脇(わき)殿」の柱跡。これらの建物群が、一般の村落などにはみられないほど大規模で整然と配置されていることや、国内で発見された他の古代の行政機関跡との比較などから「郡衙政庁跡である」とみられる(2002.3.7) |
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●9月6日、愛知県豊川市の「三河国分寺」跡の周辺を発掘調査で、当時としてはかなり大きな建物跡二棟が見つかった。見つかったのは掘立柱建物と竪穴住居で、5メートルほど隔てて並び、いずれも年代は9世紀。掘立柱建物は南北15メートル、東西6メートルの方形で、外周9カ所に直径1メートルの穴がある。直径30センチ級の太い柱が立っていたらしい。竪穴住居は7.5メートル四方の正方形。建物跡は、土塀の築地塀の外側に位置するが、広い範囲を別に区画した溝も発見されたことから、寺院北側に僧職らの事務所や住居など関連施設が集合した「寺院地」があったと考えられる(2001.11.7) |
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●8月29日、岐阜県垂井町府中の「美濃国府」の発掘調査の結果が発表された。これまでの調査で判明していた国府の中心施設「政庁」の東側に、区画溝や柱穴などが見つかり、政庁東側に現在の官庁街のような施設群があったのでは、としている。また、政庁のものとみられる唐草模様の「軒平(のきひら)瓦」という瓦片も見つかった(2001.10.7) |
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●群馬県佐波・東村国定の「田部井大根谷戸遺跡」で奈良時代に掘削されたとみられる大堀が見つかった。発掘された大堀は、長さ45メートルで幅4〜5メートル、底部の幅1.5〜2メートル、深さ1.5メートル。底はほぼ平たんで、水を流した痕跡もなく用途は不明だが、土師器などが見つかっている(2001.9.28) |
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●7月13日、新潟県長岡市の県立歴史博物館は、「三島和島村下ノ西遺跡」から出土した木簡に、奈良時代、禁止されていた本籍地を逃れ生活する「浪人」と呼ばれる人々を管理する官司名が、国内で初めて確認されたと発表した。木簡は1998年、同遺跡から出土した奈良時代前半のもので、古志郡(同村周辺)に常駐していた国司への送り状と考えられている。表裏に文字が記され、表には送り主で、「浪人」を管理したとみられる「今浪人司(いまろうにんのつかさ)」の名が記されている(2001.7.27) |
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●6月20日、長野県伊那市市手良沢岡の「下手良中原遺跡」から昨年出土した和同開珎を公表した。出土した和同開珎は、直径25ミリ、厚さ1.5ミリ。「珎」の文字が欠けているが、「和同開」は良くわかる。同時に出土した土師器などから、奈良時代後期とみられる住居跡の床面から見つかった。伊那谷では飯田市の銀銭に次いで二枚目の出土で、銅銭では初めて(2001.7.13) |
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●6月26日、島根県松江市大草町の「出雲国府跡」から人名と役所名が記された8世紀後半の木簡が出土した。木簡は長さ54.4センチ、幅1.7センチ、厚さ0.9センチで「東殿 出雲積大山 伊福部大」と書かれていた。専門家は勤めていた役人や守衛の兵士の勤務リストの可能性があるとしている(2001.7.5) |
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●静岡県藤枝、焼津、岡部の三市町境にある「清水遺跡」から、奈良時代後半から平安時代に雨ごいの祭りで使ったとみられる古代絵馬が1枚発見された。縦10センチ、横18センチの長方形のヒノキ板に墨で黒く描かれ、体に布を掛けた「飾り馬」を表現。集落跡に点在する五つの井戸跡の一つから出土した。当時は、絵馬を井戸にささげて祭る場合、雨ごいの時は黒い色の馬、雨がやむように願う時は白や赤で彩色して描いたという(2001.7.4) |
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●埼玉県深谷市教委は、同市東方森吉の「幡羅(はら)遺跡」の発掘調査で、奈良時代の倉庫とみられる建物跡を確認した、と発表した。規模の大きさから、当時の地方の役所である郡衙(ぐんが)で、租税として納められた稲を保管する倉庫(正倉)として使われていたものとみている。『続日本紀』によると、当時の武蔵国には21の郡があったとされるが、役所である郡衙の遺跡は、岡部町の榛沢中宿遺跡など4カ所しか見つかっていなかった(2001.6.29) |
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●4月23日、静岡県清水市三保の「宮道東遺跡」で日本最古の通貨「和同開珎」1枚が奈良時代前半の住居跡から出土した。古代の遺跡から「和同開珎」が出土したのは市内では初めて。奈良・平城京から出土した木簡には、三保から調(税の一種)として煮ガツオが運ばれたという記録があるため、調を運んだ際に「和同開珎」を持ち帰ったことも考えられる(2001.5.8) |
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●4月18日、奈良県平群町の「三ツ池遺跡」で、7世紀中ごろの朝鮮半島・新羅製の緑色のうわぐすりがかけられた緑釉(ゆう)陶器片が見つかった。同遺跡の4.4キロ西の高安山周辺は、天智天皇が築造したとされる古代の山城「高安城」の有力候補地。当時緑釉陶器は貴重で、続日本紀の712年に元明天皇が高安城に行幸したとの記事があり、同遺跡には行幸の際に立ち寄った行宮(あんぐう)のような施設があったのではないかとの見方が出ている(2001.5.2) |
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●3月21日、岡山県岡山市国府市場の「ハガ遺跡」で東西南北にぴたりと方位を合わせた方形区画遺構が出土。方形区画遺構は最大幅2.5メートル、深さ.5メートルの溝跡に囲まれ、東西約40メートル、南北は約20メートル分が出土。遺構内から、奈良三彩や羊をかたどった硯なども見つかった。備前国府跡については、ハガ遺跡の北西約800メートルに県指定史跡・備前国庁跡があるが、考古学的確証は無い上、根拠の古地名が中世以降の成立と指摘されるなど、評価が揺らいでいる(2001.4.3) |
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●3月15日、京都府亀岡市千歳町国分の「丹波国分寺跡」で築地塀が出土。内側の溝と外側の溝の間に築かれ、幅約2メートル、高さ40センチの塀が南北に61メートルにわたって残されていた。塀は、約10センチずつ土を固めて積み重ねる「版築」という手法で積み上げられた跡があった。これほど長い塀の出土は例がないとのこと(2001.3.28) |
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●3月6日、徳島県徳島市国府町の「観音寺遺跡」で、奈良時代の「天平勝宝二年」(750年)の年号が入った古代の貸付制度「出挙(すいこ)」に関する公文書(上申書)とみられる木簡が見つかった。この木簡は、表裏で一通の文書形式になっている。上端が欠けてはいるが、ほぼ完全な形で出土した。表面に「謹(つつし)んで解(げ)し申す」「判官」「公事」などの文字が、裏面には
「九拾四束」のほか、年号・年月日などが読み取れた。こうした点から、木簡は解式に従って書かれたものとみられる。奈良時代は紙に書かれた公文書が主流になる時代だが、今回の発見は、地方の国府における文書行政で、紙の文書と木簡が併用されていたことを具体的に示す国内初の出土例になった(2001.3.11) |
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●2月28日、兵庫県県朝来郡山東町の「柴遺跡」から、古代の山陰道に設置された「駅家」に関する8紀後半〜9世紀前半の木簡が見つかった。駅家で働く「駅子(えきこ、えきし)」に、駅家運営のため、稲を高い利息付きで強制的に貸し付けていた、という内容が記されていた。遺跡は「粟鹿駅家(あわがのうまや)」の付属施設とみられるまた、論語の一部が裏表に書かれたり、当時の暦「具注暦」による日付が記された木簡も出土した。(2001.3.5) |
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●2月20日、佐賀県唐津市原の「中原遺跡」から「川部」や「日下部」という氏族の姓が記された木簡が出土した。木簡は、長さ19.1センチ、幅3.8センチ、厚さ0.9センチ。続日本紀の775(宝亀6)年ごろの記述には、遣唐使船のかじ取りとして肥前国松浦郡人「川部酒麻呂」の名があり、船火事に遭いながらも無事に遣唐使を帰した功績で破格の官位「外従五位下」を受けたとされる。木簡の「川部組次」は酒麻呂の一族と考えられる。「日下部」は松浦佐用姫の子孫の姓として、肥前風土記の松浦郡の条に登場する。「大村」は延喜式に記された肥前国の十五の駅名の一つで、彼杵郡大村郷(長崎県)説もあるが、東松浦郡浜玉町の大村神社周辺との説を補強する(2001.2.23) |
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●徳島県石井町石井の阿波国分尼寺跡の発掘調査で、奈良時代の建立時に、中心施設の金堂の基壇(建物の基礎)の周囲に掘られた溝を確認した。同寺の寺域は推定一町半(158メートル)四方。寺域の中央にある金堂と南寄りの中門が回廊で結ばれ、さらに周りを築地塀が囲む構造になっていたことが判明しているが、金堂や全体の規模、他の建物の存在は確認されていない。阿波国分尼寺は平安時代に廃絶されたとされ、その後跡地は宅地や田になっていた(2001.2.6) |
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●1月18日、群馬県前橋市元総社町と群馬町塚田にまたがる「上野国分寺参道跡」の調査の結果、想定されていた場所から参道を確認できなかった。そのかわりに、奈良から平安時代にかけての遺物を伴った竪穴住居約170軒が出土。硯や白磁、銅椀の破片など、通常住居からは出土しないような当時の貴重品が見つかった(2001.1.23) |
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●12月20日、兵庫県青垣町沢野と西芦田にまたがる「沢野遺跡」で、竪穴住居跡が9棟と掘立柱建物跡が39棟におよぶ奈良時代前半の集落跡が見つかった(2000.12.25) |
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●12月14日、奈良県奈良市雑司町の東大寺の旧境内で出土した大型建物跡の下層から、掘っ立て柱の建物跡が見つかった。現場は前身寺院の金鐘寺があったとみられている丸山西遺跡の西約150メートルにあり、東大寺が8世紀中頃にできる以前の寺院の関連施設とみられる(2000.12.21) |
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●12月8日、発掘調査中の福岡県の「鴻臚館(こうろかん)」跡から遺構北側に、同じ規格で立てられたとみられる建物区画を示す塀の跡を発見した。これは古代に外交使節を迎えた同館が「筑紫館(つくしのむろつみ)」と呼ばれていた奈良時代のものとみられる(2000.12.12) |
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●12月7日、宮城県古川市東大崎地区の「名生館官衙(みょうだてかんが)」遺跡から8世紀と中世の掘っ立て柱建物跡が発掘された(2000.12.13) |
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●12月6日、宮城県利府町東部にある「大貝窯跡」の発掘調査で瓦(かわら)窯跡や炭窯跡など計12基と、多賀城V期(780−869年)で使われた瓦などが見つかった。これにより780年に伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱が起きた後、多賀城で使われた瓦がここで生産されていたことが初めてわかった(2000.12.14) |
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●12月5日、奈良県の唐招提寺の金堂では解体修理が始まり、約1200年前に造られた本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)座像(国宝)が初めて金堂の外に運び出された(2000.12.12) |
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●12月4日、兵庫県加古川市神野町石守の石守廃寺跡で、寺院の施設とをつなぐ「渡り廊」とみられる跡が見つかった。同寺院跡は発掘調査で塔や金堂跡が見つかっており、法隆寺式の伽藍配置を持った寺院と判明し、奈良時代後期の建とされている(2000.12.11) |
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●11月15日、京都府相楽郡加茂町例幣にある恭仁(くに)京の宮域跡の発掘調査で東西二地区に分かれていた内裏のうち、東地区の規模がほぼ確定された。規模が判明している西地区より大きく東地区が正殿だった可能性が高くなった。古代の宮城で内裏が東西の二つに分かれていたのは恭仁京だけ(2000.11.17) |
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●北海道のオホーツク文化の集落跡・目梨泊遺跡から出土した骨角器は、大型アザラシの腰の骨を削って作られたものと判明。同遺跡は八世紀の集落跡(2000.11.15) |
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●11月1日、広島県東広島市の「安芸国分寺跡」で奈良時代の木簡と墨書土器が発掘された。木簡4点は奈良時代後半のもの。墨書土器は「安居」「大寺」などと記した奈良時代後半と、「寺前」「講院」などと書かれた平安時代前期の2種類(2000.11.3) |
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●10月17日、富山県小杉町の「黒河尺目遺跡」で奈良から平安時代にかけての倉庫群跡、住居跡とみられる掘立柱建物群の柱穴が見つかった。同遺跡からは須恵器窯跡や製鉄炉跡が多数発見されており、須恵器や鉄の生産にかかわった住民の居住跡の可能性が高いと見られる(2000.10.20) |